絶えることのなかった宴の声は残響すら残さずにピタリと止み、鮮やかな色彩に包まれた神社の境内とそこを陣取っていた喧騒の因子たちは、照明を落としたかのように一瞬にして闇に呑まれてしまった。ついさっきまで腰かけていた縁側も、霊夢を乗せていた石畳も、今は漆黒の一部になっている。
残ったのは、私と霊夢だけ。
「………」
まとわりつく闇を鬱陶しそうに払いのけながら、私は「黒」の中で不気味なくらい映えた紅白の身体を見据えた。霊夢は崩壊した世界に何の感慨もなくただそこに佇むだけで――
『…………!?』はっとして、私は息を呑んだ。
私の視線に気付いたわけではないのだろうが、突然霊夢がこちらを振り向いたのだ。首をこちらに巡らすもやはり何かを認めることは叶わなかったのだろう、吐息一つをこぼした。しかし遅れて身体を振り返らせた直後、霊夢は一変する。無造作に開かれた口を皮切りに、だらりと下げられた両腕と、肩幅に開かれた両足と――、
焦点の合っていないその両目は、まっすぐ私を見つめている。
『な、なに? 私が見えていなかったんじゃ……』
それはまるで仏蘭西人形めいた不気味さだった。
「………」
無意識に背後の闇へ一歩後ずさる。それでも構わず霊夢は口を開き続け、それが何かを呟いているということに、混乱しかけた頭でそれだけはなんとか理解出来た。
ポツンと一人残された世界で、霊夢は私に向かって何かを呟いていた。それは本人にすら出所が判っていないのではないかと言うくらい小さな声で、しかし私は読唇術を持っているわけでもないのに、その少女が何を言っているのか瞬時に理解してしまっていた。
「………」
段々と不安げに移ろいでいく表情は、きっと私の反応を待っているのだろう。私は動かない。動けば認めることになる。彼女の存在を、その独りぼっちな少女の存在を。
やがて、無駄だと悟ったのか、その口から言葉の奔流を止め、
それでも、
霊夢は手を伸ばした。
『ひ……』
短い悲鳴と共に身をすくませ、救いを求めるように差し出された腕を私は無慈悲に拒絶した。認めない、認めてはいけないのだ。そう自分に言い聞かせる。
頑なに拒む私に向けられたすがるような眼差し、それは境内で嫌と言うほど見せられた哀しげな瞳。
『わ、私は……、アンタとは違う。あんな風に、誰からも気付かれないなんてことないんだから……!』
代わりに、そんな言葉をぶつけていた。ついでに、視線を逸らす。その目に、少女の表情はもう映らない。
さっきまでの耳を塞ぎたくなるほどの喧騒が懐かしかった。たとえ自分がその中に組み込まれていなかったとしても、息苦しさすら感じるこの無音の闇に比べれば何倍もマシだった。
霊夢の足元をじっと見つめる。とてもじゃないが、あんな眼をずっと見つめていられるほど自分の神経は太くないつもりだ。それなのに私の視線は自分の意思とは無関係に徐々に上がっていく。いや、これは上がっているんじゃなくて……
『あ……』霊夢の身体が沈んでいく。
「………」
耳に届いた最前と同じ呟き、それは再度始まった奔流。霊夢はあくまでも無感情に壊れかけの言葉を紡ぎ続ける。固定された私の視線と、ゆっくりと降りてくる霊夢の視線が一瞬だけ交錯して、沈みきる直前のその顔に感情が浮かび上がった。
それは、眉根を下げただけの拙い感情表現。諦めにも似た表情で闇の中に溶け込んでいく自分の姿を、完全に闇と同化するその瞬間まで見つめていた。最後に向けられたたった一つの言の葉は、綻びのなくなった完全なる静寂にあってもいつまでも耳に残り続けていた。
『……て』
誰もいなくなった。
どうして? ……私が拒絶したから。
じゃあ、みんなはいなくなったのではなくて――
『いや…………いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああ!!!!!!!!』
「―――ッ!?」
布団を跳ね除けて飛び起きた。
虫の音が聞こえる。日常的な音色に、ようやく戻ってきたのだと直感的に悟った。
いつもなら縁側でお茶を啜りたくなるような心地よい響きも、ついさっきまで静寂の中に晒されていた耳には宴会の喧騒とさして変わらない。「はぁ……はぁ……はっ……」中でもよりいっそう五月蝿く聞こえる鳴き声に思わず眉をひそめたが、なんてことはない自分の荒く乱れた呼吸だった。気持ちを落ち着けるために深呼吸を二、三度繰り返しそれから額の汗を拭う。
「夢、よね……」言葉にしないと信じられなかった。
あれだけのことをされたのだ、誰かに幻覚でも見せられていたのではないかとすら思えてくる。何のために、私はあんな夢を私に見せたのだろう? 全てが終わった今でもサッパリ分からなかったし、なんとなく知りたくもなかった。
見開かれた目はしばらく本来の機能を果たしていなかったが、ようやく順応を始めた眼には薄暗く染まっただけの座敷はむしろ明るすぎた。さっきの闇に比べれば、この程度――
「あ、霊夢……」思わず声に出し、はっとしてすぐに口をつぐんだ。
言ってから自分に嫌気が差す。答える者はとうの昔に消え去り、消したのは他ならぬ自分だというのに。冷えた外気が責め立てるように通り過ぎ、寝汗で冷えた身体には余計に寒々しく感じた。夢の中では初夏の季節だったが、現実ではもう秋も中頃に入ったところだ、これのせいで風邪でもひかなければいいが。
一度ブルッと身を震わせ、それに合わせて軽くかぶりを振った。
多分、もう自分の名前を呼ぶこともないだろう。ここでの「霊夢」は私以外に存在しないのだから。
「はぁ、なんだかとっても疲れた……」
布団の上で足を崩して座りなおした。明らかに睡眠時間を上回った永さで夢を見せられていた気がする。今日は久方ぶりに早く寝ることが出来たというのに、変な夢でこんな真夜中に起こされて……、休むどころか疲れてどうする。
壁掛け時計に目を注ぎ、今の時刻を確認した。夜明けまではあと6時間ほどか。と、未だ時計の短針は日をまたいですらいなかったことに気付く。規則的に揺れる振り子が、「早く寝ろ」と急かすようにそのリズムを一瞬崩した気がしたが、もちろん気のせいだ。どうやらまだ寝ぼけているらしい。
「はいはい、寝ればいいんでしょ、寝れば」
言われなくても眠るつもりだったし、律動的な振り子の往復は見ているだけでうとうとしてくる。ちょうどいいのでこれを入眠剤がわりにして時間を早く進めてしまおうと考えた。
明日もきっと忙しい。境内の掃除をするフリをしたり、一分に一度「暇ねぇ」と呟いてみたり、縁側でお茶を味わったり……。ああそうだ、この前いいお茶菓子が手に入ったのだった。これはもう明日が待ち遠し――いや、首が回らなくなるくらい忙しくなるだろう。だから私は早く寝なくてはならないのだ。
手繰り寄せた布団に包まるようにして目を閉じる。まさか、また同じ夢を見るなんてことはないだろうか。ふと、ほんの寸瞬だけつまらないことに懸念したが、そんな不安はもう微塵も感じていない。……別に何が怖いってわけじゃないけど。
「おやすみ」誰に言うでもなく呟いた。
「ええ、おやすみ」
だから言われなくても分かっていると――
「…………?」
掛け布団から頭だけを覗かせた。今、答える声がしなかったか?
「こんばんわ、ご機嫌麗しゅう」
「ゆ、紫……!?」
再び空を舞う布団。枕元に立って亡霊の真似事でもしたかったのだろうか、確実に不審者然としたその風体に私は思わず声を張り上げていた。
妖しくて怪しいものを「妖怪」と言うのならば、目の前のそれは間違いなく妖怪だ。そのすきまな妖怪は相変わらずのフリフリな衣装を身にまとい、ここにいるのがさも当然と言った感じで胡散臭い笑みを貼り付けてそこに佇んでいる。というか、こんな真夜中に日傘を差すな。
「あら、新しい冗談かしら?」
「は?」
私の訝しげな視線にさえ微塵も気にした様子を見せていなかった紫は、何が可笑しいのか突然私の足元あたりを見ながら優雅に口元を押さえて、笑いを堪えるような仕草をして見せた。その不可解な行動を更に怪訝に思った私は不審者へと簡潔に訊き返したが、その妖は「ほほほ」とわざとらしく声に出すだけで説明一つ付け加えようとはしなかった。
一度自分の身体を見回すも、もちろん意味不明な笑みをこぼし続ける妖怪よりも不審なところなどどこにもない。
「なんだ、気付いていなかったのね。残念」そうガックリと肩を落とす。
……本当にわけが分からない。
紫は時たま変なことを口走る。それはきっと人間と妖怪の思考回路の違いなんだろうと、普段からそれほど深く考えてはいないのだが、訳も分からずに笑われるとなんだかとても癇に障る。
「それで、アンタ、いつからそこに?」
このまま相手のペースに合わせていたら、そのうち夜が明けてしまうだろう。それは人間である私にとっては非常に迷惑なことなので、ぶつけてやりたい憤りを理性で押さえ込み、脱線気味の会話の方向を修正すべくこちらから話題を振ってやった。さっさと用件を済ませてお帰り願いたいものだ。
「ついさっきよ、ここではお客様に対して何のお持て成しもないのね」
「…………」
何があっても会話を脱線させたいらしい。
突っ込みどころが多すぎて反応に困るが、だいたい、こんな遅くに不法侵入をしておきながら、どの口がそんなことを言うのか。
「ついさっきってねぇ……」
用件を一向に伝えようとしないこの妖怪の口をどうやって割らせようかといろいろ思考を巡らせる。起きぬけの呆けた頭ではあるが、入り込む冷え冷えとした外気のおかげでよく頭が働く――……ん? 外気?
そう言えば、寝る前にはきちんと戸締りをしているはずの雨戸が全開になっている。どうりでさっきから風が入り込んでくるわけだ。
犯人は言うまでもないが、紫の能力があれば座敷に直接上がり込むことも出来るだろうに、律儀に縁側から侵入してきたのか? 侵入の時点で律儀とは言えないが、まあ、十中八九嫌がらせに違いない。
「私が起きたときにはもう雨戸が開いていたわ。で、いつからいたの?」
「まあまあ、それに気付かず開けっ放しのまま二度寝しようとしていたじゃない。瑣末事よ」
「認めたわね……」つき止めたところで何の感慨も浮かばないのは何故だろう。
そこまで知っていると言うことは、つまり私が寝ているうちに堂々と侵入してきて、無防備な私の寝顔や起きたときの独り言を聞いていたことになるのだが、夢見の時はまだしも目を覚ましたときの私はかなりの緊張状態にあったはずだ。ねずみ一匹入り込もうものなら気配だけでそれを察知していたと思うのだが……
「それにしても楽しそうだったわね、この間の宴会の夢かしら?」
「……何でそれを知っているのよ」
いつまでも用件を言おうとしなかったり、急な話題転換で文脈を無視したり、挙句の果てには火に油を注ぐようなことを言って人の怒りを煽るような真似までして。
せっかく忘れかけていた夢を蒸し返されたことと、その中身を許可なく覗いたことの二重に腹立たしかった。驚きはしないが、むしろ納得がいく。こいつならそれくらいのことは苦もなくやってのけるだろう。まして気配を感じ取らせずにその場に佇むことなど、すきま妖怪にとっては茶飯事と同等かそれ以下か。
侮蔑を込めたつもりで睨み据えてやったが、紫はどこ吹く風でしゃあしゃあと質問に答えた。
「あら、そのくらい『夢』と『現』の境界をいじれば造作もないことだわ」
「覗き見なんて趣味悪いわね」
毎回こんなことされているなんて思うとおちおち寝てなどいられない。無論、そんなことは人間である私には不可能だが。
「ってことは何? 私の夢は全部アンタに筒抜けだったってわけ?」
「妖聞きが悪いわね、まるで覗き見でもしたような言い方じゃない」
「……アンタ、人の話聞いてる?」
「もちろん、話を聞かなきゃ会話は成立しないわ」
「その会話が成立してないから言ってるのよ……」
こんな不毛なやり取りをさせるためにわざわざやってきたのか。来て欲しいときにいないくせに、いざ来るとこんなことしかやっていかない。しかもこんな時間に。もしかして、わざとやっている?
……それこそ不毛な考えだった。なぜなら、絶対わざとやっているからだ。
まるでどこぞのお嬢様のような掴みどころのない態度は、その彼女との永い付き合いのせいで呆けが感染してしまったに違いない。
「いい加減本題に入ってくれない? 人の睡眠を邪魔してまでやって来たんだから、それなりの用件はあるんでしょうね?」
「あら、それは悪いことをしたわ。楽しそうな夢だったものね、早く続きが見たいのね?」
「いや、全然楽しくなかったし、見たくもないし……」
あんな意味不明な夢、二度とごめんだ。頼まれたって見てやるつもりはない。
……お賽銭を入れてくれたら少し考えるかもしれないが。
「そうかしら? とても楽しそうだったわ、宴会が」
「……アンタはあの時来てなかったわね」
式神二人は確か参加していたような気がするから、大方こいつは人知れぬ場所で眠りこけていたのだろう。花より団子とはよく言うが、それよりも睡眠欲をとるとは一日十二時間睡眠は伊達じゃない。
「ええ、だって呼ばれていないもの。あまりにも愉快そうだったから、腹いせに『楽しさ』と『怖さ』の境界もいじっておいてあげたわ」
「あれはアンタのせいだったのか……、まったく余計なことを」
だから前触れもなく変なことが起こったり止んだりを繰り返していたのか。その嬉しそうな笑みを半眼で睨み据える。おかげでひどい目に遭ったというのに……
こいつはこいつで、あやふやにした境界の狭間でうなされる私を見ながら愉しんでいたのだろう。夢を覗いたことと言い、どうしてこう妖怪は悪趣味なことが好きなのか。
「どういたしまして」
「感謝なんてしてない」
夢ならではの支離滅裂さと納得しても別に良かったが、原因がすぐ目の前にいるという事実に気が変わった。どうにも詫びを入れさせないと気が済まない。
しかし、あの胡散臭い微笑みを悲愴の顔に歪ませて詫びを入れる姿なんて想像がつかなかった。
(――まあ、いいか)
何より面倒だった。
「でも、藍たちの話を聞いてからは足を運んでいたわ、ちゃんとお酒も持参していったしね、吟醸酒とか」
「知ってる。というか、その吟醸酒はもともと私のなんだけど?」
「そうだったかしら、記憶にございませんわ」
「まあ都合のいい頭ですこと、って何度言わせれば気が済むの。本題はッ!?」
さっきからちっとも話が進んでいない。
力任せに枕を叩きつけるが、間抜けな音しか洩れずにいまひとつ迫力に欠ける。
「あんまりイライラすると身体に毒よ。掃除をサボるとカルシウム不足になるっていうのはどこの国の言葉だったかしら」
そんな国はない。
「そう言うマイペースなアンタは寝すぎで脳が溶けかけてるんじゃないの?」
「失礼ね。まあいいわ、あまり時間もないことだし、そろそろ本題に入りましょう」
だったら始めから用件だけ話せばいいものを……
と、普段から遠くばかり見つめているようなその瞳が急に真剣みを帯びたような気がした。硬質な視線は大気そのものを凍らせてしまうような不気味さを兼ね備えている。
ようやく閉じられた大きめの日傘、それだけで狭苦しかった座敷を遮蔽物のない夢幻の空間へとすげ替えてしまったように錯覚させるが、そのことに関して水を差すのは憚られた。また話が脱線するといろいろ厄介だからというのもあるし、なにより紫の眼は油断すれば何をするか判らないとそう語っている。
まっすぐ見つめてくる視線にこっちも真面目に返してやった。
「用件と言うのは他でもない、」
その瞳が一段と妖しく光り、
「――――――ッ!!??」
「お月見をしにきたのよ」
「……なんだって?」
「だから、お月見」
頭の中で三回くらいその言葉の意味を噛み締めてから、紫の言った「お月見」が自分の知っている「お月見」と符合した。そうか、もうそんな季節か。いや、そうじゃなくて。
要するに、この目の前に突っ立っている妖怪は、深夜に遠慮なく押しかけてきて、そのうえ人の夢を覗き見して、挙句の果てには苦労して聞き出した用件の内容がお月見をさせろというたったそれだけの……
「おやすみ……」
「ええ、おやすみ」
「止める気はないのね」
「あら、止めて欲しかった?」
「…………」憮然と口を尖らせる。
さっきからこいつには調子を狂わされっぱなしだ。
そのせいで目はすっかり覚めてしまっている、これじゃあ普段の半分も睡眠に時間を割くことは叶わないだろう。
「まあまあ、いいから見てみなさいな、今夜はとても月が綺麗よ」
そんな私の苦悩も意に介さず、一足先に縁側へと歩み出た紫がこちらに向かってそう促してくる。
布団から出るのは非常に億劫だったが、かと言ってこのまま眠らせてくれるわけもない。なにより、そこまで言われて気にならないわけがないし、ここからではその月の様子が判らないので仕様がなしに縁側まで這いずるように出張った。
「綺麗って言ったってそんなこと私には関係な――」
綺麗だろうが何だろうがこれから寝る自分には関係ないことだったので、チラッと見たらあとは適当に聞き流して勝手にさせるつもりだった。だが、私はその月を見て思わず絶句してしまっていた。
まず始めに前言を撤回せざるを得ないと思う。さっき私は普段の半分も眠れないと言った。しかしそれは間違いで、たぶん今夜はこれ以上寝ることを許してはくれないだろう。
果たしてそれを月と呼んでいいものか、ほんの少し欠けた月は言われて気づくような微々たる歪みだった。しかし、それでいて圧倒的な存在感を持ったそれは、濃灰色の空を我が物顔で切り取っている。こんな一目で見て取れる異常に、どうして今まで気付かなかったのだろうと、思わず歯噛みしていた。
「ね、とても綺麗でしょう?」
「馬鹿なこと言うんじゃないわよ、あんなのを放置しといていい訳ないでしょ」
「だから教えに来てあげたのに」
「そ、ありがとね。じゃあ私はあれがなんなのか調べにいって来るから、アンタはここでお月見でも何でもしてなさい」
支度をするために立ち上がった。本当に無駄な時間を使っていたのだと再認識させられる。あれは一分一秒でも早く解決してしまわないと取り返しがつかなくなるような類の異変だ。
「あら、一人で行く気?」
「当然でしょ? 今までだってそうだったんだから」
「お勧めできないわね、あれは貴女一人でどうにか出来るものじゃなくてよ」
「そんなの、判ってるわよ……。でもアンタにだって同じことが言えるわ」
己の力量を推し量れないほど自分のことを愚かだとは思っていないが、だからと言ってあれをあのまま放っておくわけにもいかないだろう。それに、紫がいくら強力な妖力の持ち主だとしても、あの月の異常に比べればやはり荷が勝ちすぎている。
「ええ、そうでしょうね。だから貴女のところにこうやって足を運んだのよ。この意味、まだ解らない?」
「つまり、アンタと手を組めってこと?」
「ご名答」
話が早いとばかりに紫は目を細めて薄く笑うが、私には到底そんな気分になれない。
「冗談、なんでアンタなんかと……」
「だったら、他の誰かにでも力を借りるつもり?」
「どうしてそうなるのよ。誰の力も要らないわ、私一人で何とかしてみせる」
確かにこれだけの異変に気付かないほどこの幻想郷に住む者たちは鈍くない。もしかしたら、他のところでも思い思いに解決しようと動き回っている人間や妖怪達がいるかもしれないが、だから手を組むと言うことにはならないだろう。
「まだ解っていないみたいね。そんなことだから、あんな夢を見てしまうのよ?」
「夢? なんで今その話が出てくるわけ?」
紫の遠まわしな言動にいい加減やきもきしてくる。
こんなことをしている場合ではないと言うのに……
「時間のことだったら気にしなくていいわ、私の力である程度までなら抑えられるから。それよりも、やっぱり気付いていなかったのね」
「アンタは……」
夢を覗くだけでは飽きたらず、人の心までも見透かす気かこの妖は。
「いいわ、そこまで言うなら聞いてあげる。私が何に気付いていないって言うの?」
どかっと腰を据えるようにして胡坐を掻き直した。
私にだって少なからず巫女としての尊厳はある。こと直感に関しては他の誰にも引けをとらない自信があるというのに、その私が気付いていなくて、尚且つ普段寝てばかりの妖怪が気付くことなんてあるとは思えなかった。強いて言えば、あの月をどうにかしている犯人くらいのものだが、そんなことは今のところ犯人以外の誰も知らないことだろう。
なのに紫は臆すことなく口を開く。ただその表情は相手を諭すような優しさが滲み出ていて、私は紫がこんな顔をするのを初めて見た気がした。
「それはね、他ならぬ貴女自身のことよ。そもそも何故あんな夢を見てしまったのか、本当に解らないのかしら」
「だからそんなの知らないって。しつこいわね、だいたいあれはアンタが能力を使って見せたものでしょう」
「私は境界をいじっただけ、だからあれはあくまで貴女自身が見せた夢。怖く演出したのは私だけど、あんな風に寂しい夢にしたのは貴女ってことよ」
「? まだよく解らないわね、結局何が言いたいわけ?」
「暗いところに一人残された気分はどうだったかしら、叫び声もかなり真に迫っていたわ」
「……そう、『気付いた』わ。アンタ、私に喧嘩を売ってるのね?」
やはり、さっき感じた優しさは私の見間違いだったようだ。ここのところ平和な日々が続いていたから、それに合わせて勘や腕どころか目まで鈍ってしまっていたみたいだが、ちょうどいい。少し道草を食うことになるが、準備運動がてらにその全てを取り戻してやる。
即座に立ち上がり距離をとった。格好は寝間着のままだが、何とかなるだろう。常に忍ばせて置いている札を懐から取り出して、挑戦的な妖怪を睨み据える。
「待ちなさい、貴女はいつからそう好戦的になったのかしら。人の話はよく聞くものよ?」
「アンタに言われたくないわ」
「そうやって貴女はまた独りになろうとするのね」
「知った口を、アンタに何が分かるって言うの?」
解るわけがない、己を理解できるのは自分だけだ。
「もしかしたら貴女よりも分かっているかもしれないわ。夢の中の貴女は必死に助けを求めていたわよ。それなのに貴女はそれを認めず拒絶した」
「当然でしょ、あんなの認められる訳ないじゃない。それに何? さっきから独り独りって、まるで私が可哀相な人みたいに」
夢の中でもそうだった。みんなして私のことを除け者にして、自分達だけ愉しそうに……
「貴女のその無意識に人を惹き付ける力、とても魅力的よ。貴女が同時に誰も彼もを拒み続けているのに独りにならないのはその力のおかげ。でも貴女にとっては煩わしい力よね、遠ざかろうとしているのにあっちから寄って来るなんて」
「べ、別にそんなこと思ってないわよっ。来たいんだったら勝手にさせとけばいいじゃない」
拒んでなんか――、私は必死に呼びかけた。霊夢は懸命に己の存在を主張していた。ほら、拒んでなんか――
「本当にそう思ってる? 貴女は今、私がこんな時間にやって来たことに多少なりとも腹を立てている、そうでしょう?」
「アンタねぇ、そんなの一部の妖怪を除けば誰だってそうでしょ」
「貴女は今、あの月の異変を一人で解決しに行こうとした」
「だからそれは……、私一人でなんとか……なればいいかなって……」
「貴女は今、ここにいて欲しいと思う人間または妖怪が一人でもいる?」
「…………っ」
「貴女の引き寄せる力と避けようとする心はとても矛盾しているわ。このままでいれば、貴女にとってきっと良くない。現に心はすでに悲鳴を上げ始めている、あの夢は警告だと思いなさい」
「わ、私は……」
紫の問いかけに答えることが出来ない。いて欲しいなんて……、私の周りには気が付けばいつも誰かがいた。神社には毎日のように人間や妖怪が集まってくる。だから私は独りじゃないと思っていた。
けれど、ならどうしてこんなにも身体が凍えるように寒いのだろう。こんな薄着で外に出ているから?
違う、それだけじゃない。心が、寒い……
「思い出してごらんなさい。貴女と特に親しい人は、何かがおかしいと気にしていたのを、貴女も目にしたでしょう?」
「……うん」
「皆は貴女を見なくなったんじゃない。自分から姿を消していた少女のことが見えなくなっていただけ。そんな夢を見るって事は、貴女はちゃんとそれを理解している。ただ気付いてはいなかった」
私の存在がどうでもよくなった訳ではなくて、私が自分から遠ざかることで認知させないようにしていただけ。
私の夢は、たったそれだけのことで構成されていたのだと、紫はそう言った。
私のいつもの望みが、「孤立」という無意識下の願いが結局のところ私自身を苛んでいた。
そんな中で、確かに魔理沙やレミリアはおぼろげながらも私の存在を訝しんでくれていた。あれは私がそう望んだから?
そうなのだろう、私の夢は私が創ったものだ。私が望まないものが形になって表れるわけがない。
その大半を「否定」で創られた夢に僅かだけ混ぜられた「肯定」が魔理沙でありレミリアであるということか。
――みんなは私のことを除け者になんかしていなかった。
「そう、かもしれないわ」
「貴女はもっと、誰かを求めることをした方がいい。そうしないと、貴女は貴女自身の力にいつか潰されてしまう」
「でも……どうすれば……」
「そうよね、貴女は自ら求めることをしなくてもいつも相手の方からやって来てくれていた。普通、人と言うものは自分から歩み寄らないとどんどん孤立していってしまう者。なのに貴女はその力ゆえ他人とは違う生き方が出来た。そんな貴女は誰かを求めると言う方法が判らない」
そうだ、誰かを求めることなんて私は今までしたことがない。そんなことにすら今の今まで気付かなかった。
だから、私にはその方法が判らない。確かに、私は独りだった……
「けど、心配しなくていいわ」
「え?」
「そうね、取りあえずは……あれでいいんじゃないかしら」
疑問符を頭に乗せる私に、紫は空を指し示した。つられて顔を上げると、濃灰色の空に張り付いているは偽りの月。私は瞬時にその意味を理解した。
しかし、私にそれを言う資格があるのだろうか? 今まで無意識とは言え自分から拒絶し、孤立しようとしてきた私に。
紫はだいぶ前から気付いていたのだろう、そしてそれを何とかしてやりたいと今こうやって私に大切なことを気付かせてくれた。それはとても嬉しいことであったが、同時に申し訳なく思った。
紫には特に態度でも不快感をあらわにして接していたから。一番近くまで寄り添ってきてくれていたのに、一番きつく突き放してしまっていた。
それなのに、虫のいい話だ。私が、紫に……
『……て』
「――ッ!?」
反射的に気持ち伏せていた顔を勢いよく上げていた。訝しむ紫にも構わず、私はその声の主を捜す。今、確かに声が。
暗い闇を思い出した。あのとき最後まで耳に残っていた呟きが、再び鼓膜を震わせ木霊する。
諦めの表情で消えていった少女の顔が浮かび、すぐに消えた。これでいいのか? 自分自身にまで失望されて、このままで本当にいいのだろうか。
いや、駄目に決まっている。私にいいように操られ孤独な世界を走り回っていた霊夢のためにも、大切なことを教えてくれた紫のためにも、私は言わなくてはならない。
「…………」
覚悟を決めて、それを言わねばならぬ相手へと向き直った。紫が微かに頷く。それだけで少し心が軽くなった気がした。
気持ちだけでも居住まいを正し、目の前の妖怪、いやここでは一応恩人と言っておこうか、その目をまっすぐ見つめ返して、微笑む彼女に私は恐る恐る口を開く。
「……助けて」
「ん?」
違う、もっとハッキリと自分の意思を伝えなくては。
「……ううん、紫、お願い力を貸して」
思えば、一度でも心からのお願いなんてしたことがあっただろうか?
そして、紫がこんな顔で笑うのも、見たことがあっただろうか……?
「ええ、こちらこそ喜んで」
こうして見ると、やはり紫は面倒見良いですね。霊夢に個人的興味を持っているのかもしれませんが。
細かい文体も素晴らしいと感じます。十二分に伝わってきました。
特殊な書き方は私もそうなんですがw
滅多に見れないタイプを見せてもらって大変結構でございました。
夢であるのに現実のよう。や、こうしてみると自分はなんか中途半端なものを書いているなぁと実感しました。
何度も口にしてますがいいもの読ませていただきました。
永夜事変と繋げるのには多少展開に無理があった気がしますが、
それを差し引いても上手いと感じました。