「幽々子さま」
「ん~?」
いかにも眠たそうな、甘ったるい幽々子さまの返事。
「そろそろ、脚がしびれて来たのですが……」
「かたい事言わないの~」
「言います」
「脚はこんなにやわらかいのに~」
そう言って、幽々子さまは私の膝の上で頭をごろごろし出した。くすぐったい。
そう、今私は、幽々子さまに膝枕をして差し上げている真っ最中なのだ。
何故このような事になっているかと言っても、さしたる理由はなく、幽々子さまが「今日は妖夢の膝枕でお昼寝する~」とか子供みたいな事を言い出しただけの事に過ぎない。
まあ、幽々子さまのお言葉に脈絡も突拍子も節操もないのはいつもの事だから、さして驚きはしない。理不尽な頼み事でないだけ、私にとってはよっぽどマシと言える。
「ねえ妖夢」
「なんでしょうか?」
「そろそろおやつの時間ね」
「分かりました、では持って来ますので頭を起こして下さい」
「私はこのままがいいわ~」
前言撤回。
やはりこのお方は理不尽な事を平気で言い放ってくれる。
我がままというか、何も考えてないというか。ああ、どっちもか。
「どうやっておやつを持って来るですか。このままじゃ私動けませんよ」
「そうねぇ、例えば妖夢がここからみょ~~~んって厨房まで腕を伸ばして取ってくるとか」
寝っころがったまま、幽々子さまが腕を伸ばす。その腕は、見事におやつのある厨房の方向へ向けられていた。
もしかしたら、調理台の上に置かれているはずのお団子の方向をも、寸分違わず指し示しているのかも知れない。このお方ならあり得るというのが怖い。
いつか、月の異常を調べに出かけた時もそうだ。
枝の倒れた方向に進んだら見事、美味しそうな(もちろん、幽々子さまにとって)夜雀と遭遇した。小骨が多いから嫌いとかおっしゃっていたが、幽々子さまに食べ物の好き嫌いなど皆無だ。こうして長年一緒に暮らしているのだから間違いはない。
幽々子さまの食べ物に対する鋭い感覚は、もはや執着や執念などという言葉をも超えてさながら怨念のようだ。食べ物に取り憑く怨霊――。亡霊という肩書きは伊達じゃない。
……思考がそれた。
「腕を伸ばすって、私は一体どこの妖怪ですか。それにみょ~んとか言わないで下さいよ。別に口癖じゃないです」
「あら、別に他意は無いわよ。みょ~んって音しそうじゃない。妖夢が腕を伸ばしたら」
むう、いささか藪蛇だったかも知れない。
私は、おモチのように自在に腕を伸ばす自分自身を想像してみた。
部屋の障子を開け放ち、長い廊下を過ぎ、厨房の戸を引き、そしてお団子の皿へと伸びる私の腕。どこまでもどこまでも、つきたてほやほやのおモチを引き伸ばすみたいに、まさにみょ~~~んと。
――ハッ。
「ちょっ、何てものを想像させるんですか幽々子さま!」
「ウフフフフ、妖夢ったら面白ーい」
私の膝の上で、幽々子さまがころころと笑う。くすぐったい。
はぁ、また私はからかわれている。そうと分かっていても、引っかかってしまう自分が悲しい。
ああ、お師匠様、私は本当にまだまだ未熟です。面目ありません。
「……まあそんな事はどうでもいいです。で、私はこのままじゃおやつを持って来られませんよ」
「あら、ならその子に持って来て貰えばいいじゃない」
そう言って、幽々子さまは私の後ろの方を指差した。
そこには、いつものように私の片割れ、半幽霊が控えていた。
何をするでもなく、ただふわふわとそこに在るだけ。けれどこの幽霊もまぎれもなく私自身なのだ。
「幽々子さまもご存知でしょう。この子は私から離れて複雑な命令をこなせないというのは」
普段はこうしてそばに寄り添っているので問題はないのだけれど、この子は、人間側の私と離れてしまうと何も出来なくなってしまう。
自分の事を「この子」と言うのは我ながら違和感があるけれど、他に言いようがないので仕方がない。意識をもまるまる共有している訳でもないので、「自分」と言い切ってしまうのも、それはそれでどこか座りが悪い。
自分だけれども自分ではない――こう言うとまるで、本当の自己を探し求めて日々葛藤を繰り返す思春期の若者のようだ。私はそれとは全く違うのだが。
「ですから、起きて下さいよ。私が取りに行きますから」
「そうね、じゃあ代わりにその子を枕にしてるわね」
そこまで起き上がりたくないのかこのぐーたら亡霊は。と言うかどっちみち、私、魂魄妖夢は枕なのか。そうなのか。
それにしても、幽々子さまは寝っころがったままおやつを召し上がるつもりなのだろうか。一応はお嬢様というご身分なのだから行儀の悪い事はやめて欲しい。もっとも、普段の行儀や作法、言葉遣いなどはそれなりにお嬢様然としているのでそれはないと思うが。
まあ、多少食い意地が張っている事とか、よく惚けている事とか、なにより、こうして従者に膝枕して貰ってごろにゃ~んと寝そべって締まりやら威厳やらというものがカケラも見当たらない姿とかは……見なかったことにしたい。
「どーぞ、幽々子さま」
投げやりな物言いになってしまうのは目をつぶって頂きたいところ。いやいろんな意味で目をつぶりたいのは私だが。
私は半身を呼び寄せて、自分の膝の代わりに幽々子さまの頭の下に入ってもらう。畳の上に寝そべるような形で控える半幽霊の上に、幽々子さまが、ぽふ、と頭を乗せた。その加重の分だけ、半幽霊の体が落ちくぼむ。
「あら……柔らかくていいわね、この子も」
柔らかくても枕じゃありませんからね。
どうあれ、私はようやく膝枕から解放された。脚のしびれも大した事はない。
「では持って来ますね」
「ん~」
半幽霊の枕がそれほど気持ち良いのか。生返事とは正に、こういう気のない返事の事を言うのだろう。まあ、主が心地良いのであれば、従者としては何も言う事はない。
立ち上がって庭に面した廊下に出ると、ひんやりと冷えた外気が肌に触れて思わず身震いがした。今は本格的な冬の真っ只中で、冷え込みは相変わらず厳しい。
けれど今日は、風は凪いでいる。空を見上げてみれば、控えめながらも陽の光が降り注いで、幾ばくかの暖かさをここ白玉楼に提供してくれていた。
今日は冬将軍はお休みのようである。
ほどよい寒さが身を引き締めてくれるためか、不思議と清々しい気分だった。
まあ、こういう陽気の事を、絶好の仕事日和とも言うのだけれど。
庭を見回してみれば、一面に降り積もった真っ白な新雪。綺麗な光景と言えばそれはもちろんそうなのだが、要するにこの雪は屋根の上にも同じだけ降り積もっているという事だ。私はその雪下ろしをしなければならない。
桜が花びらを散らせる時期や、木々が冬の準備に葉を落とす晩秋の時期は、庭掃除が忙しくなる。そしてこの真冬の季節は、雪下ろしが私の主な仕事なのだった。
幽々子さまにおやつをお持ちしたら、すぐに雪下ろしにかからなければならない。
私は少し早足で、厨房に向かった。
今日のおやつは、みたらしとあんこのお団子。幽々子さまの好物のひとつだ。
おやつであれば何だって好物に該当してしまう気もしたが、まあそこはそれ。美味しく召し上がって下さるのだから、作った側としてはその甲斐があるというもの。
今手元にあるこのお団子も上手に作れたから、美味しいと言って下さる事だろう。
ちょっとだけ嬉しくなりながら、私は部屋の障子を開けた。
「…………」
私は、目の前の光景に思わず障子を閉め直してしまいたくなった。どうにか思いとどまったが。
幽々子さまが私の半身を枕にして横になっている。まあそれはいい。分かっている事だ。
問題はと言うと。
半幽霊の胴体(と言っていいものかどうか)の部分が抱き枕みたいに抱かれていて、さらには尾っぽの部分が幽々子さまの脚に絡み付いている。もとい、幽々子さまの脚が半幽霊に絡み付いていると言うべきか。おかげで幽々子さまの白くてもち肌なおみ足が着物からはだけていてみっともないと言うよりはむしろどこか艶かしいと言うか扇情的と言うかもにょもにょ。落ち着け自分。
そしてなにより、幽々子さまのこの表情。
どれほど気持ち良いのか、なんというか、それこそみょ~んと緩み切っている。天にも昇る心地良さと言ったところか。まあここはある意味で天なんだけど。
「幽々子さま、おやつのお団子をお持ちしましたよ」
「ん~~」
また生返事。せっかく作ったおやつに目もくれない。
表情は変わらず、私が膝枕をしていた時には見られなかった、夢見心地なもの。半幽霊の身体にすりすりと頬を寄せてさえいる。
そこまで半幽霊の枕が気持ちいいのだろうか。私の膝枕よりも。
そう思うと、何だか凄い敗北感が込み上げて来る。やけに悔しい。
「ねぇ妖夢~」
「なんですか?」
不機嫌さがあからさまに声に出てしまった。
「今日からこの子と一緒に寝ていい?」
「ダメですっ!」
私の怒声が、白玉楼中に響き渡った。
ザッ、ザッ
「まったく、幽々子さまは自分勝手なことばかり言うんだから」
私はブツブツ文句を言いながら、屋根の雪下ろしに勤しんでいた。
結局、幽々子さまはあのまま本当に寝入ってしまわれた。自ら欲しいとおっしゃったおやつを後回しにするくらいだから、相当な気持ち良さのまま眠りに就いたのだろう。
ザッ、ザッ、ザッ
先ほどの、半幽霊を抱いたまま眠る幽々子さまの表情をあらためて思い返す。あの綻んだ表情は、幽々子さまが本当に美味しいものを召し上がっている時のものに匹敵する。それほどの安らぎが、半幽霊の枕によってもたらされているのだろう。
私が膝枕をしている時は、そんな表情を見せて下さらなかったのに。
私だって、幽々子さまが心地良くなるように精一杯の思いだったのに。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ
先ほど感じた敗北感が胸の中で再燃する。鋤を握る手に思わず力が篭った。
そのうえ、「この子と一緒に寝ていい?」と来たものだ。何を考えているのだ。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ
そこまで考えて、私ははたと気が付いた。
私は、半幽霊に幽々子さまを取られて嫉妬しているのだろうか――と。
否否否! 頭をぶんぶん振って、全力でそれを否定する。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ
何で私が、幽々子さまを誰かに取られたからってやきもち妬かないといけないのだ。なにこの、お母さんを下の子に取られて嫉妬してるお姉さんみたいな感情。
というかそもそも、半幽霊は弟や妹なんかじゃなくて私自身ではないか。何で自分に嫉妬しなければならないのだ。
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
余計な雑念ごと払い落とすように、私はよりいっそうの力を込めて雪を掻き、
「あーっ!」
声を上げた。
気が付いてみれば、私の背丈ほどある雪の山が傍らにそびえていた。どうやら、地面に落とすべき雪を延々と横に放っていたらしい。
屋根から屋根へ雪を放る私の姿は、傍から見たらたいそう滑稽な姿だった事だろう。誰にも見られていない事が幸いだった。
とはいえ結局のところ、雪下ろしは全く進んでいない事になる訳で。
で、当然、雑念も払われる事なく、私の頭の中では幽々子さまと半幽霊が仲良しこよしをしていた。
「どう見ても嫉妬です。本当にありがとうございました」
鋤の柄で自らの頭をごんと叩いた。痛い。何を言ってるのだ私は。
駄目だ。やはり私には修行が足りない。
そうだ、修行しよう。
雪なんて、どうせまた降り積もってしまうんだ。なら別に、1日くらい雪下ろしをサボっても構わないだろう。
身もフタもない事を言っている気もしたが、考えない事にした。
半幽霊に向けて、スペルカードを発動させる。するとみるみるうちに、その姿が人型へと変化していった。もうひとりの人型の私の完成である。
一人で型の稽古や素振りをする事も大事だが、誰かと剣を交えた方が、より実戦的な修行になる。そこで最近思いついたのがこの方法。スペルカードを用いてもう一人の人型の「私」を作り出し、その私と実戦形式で剣を戦わせるのだ。
……決して、嫉妬から半幽霊に当り散らしたくてやっているとかそういう事ではありませんよ。ええ。
ちなみに得物は、いつもそうしているように互いに竹刀。竹刀ったってなめてはいけない。当たるとこれが本当に痛いのだ。まあ、幽々子さまから「子どものチャンバラごっこみたいねー」などと適切過ぎるコメントを頂いてへこんだ事は良い思い出という事にしておこう。
それぞれ竹刀を構え、降り積もった雪の上で対峙する。相手は自分自身。他の誰かと戦うのとはまた違った緊張感が沸き起こってくる。
なにせこの相手に負けてしまったら、文字通り「自分自身に負ける」ことを意味する。
けれど、この緊張感は嫌いではない。勝利を手にした時に、より大きな達成感を得る事が出来るからだ。
互いに相手を睨み付ける。
竹刀を握る手により力が篭る。
つま先に神経を集中させ、
踏み込みを始めようとした正にその時、
「よほむ~頑張れ~」
互いにずっこけた。
横から飛んで来たのは、底抜けに緊張感が欠落した幽々子さま声だった。せっかく引き締まっていた気持ちが台無しだ。
というか団子を頬張ったまま叫ばないで下さい。はしたないです。
というか私達はどちらも妖夢です。どっちを応援してるんですか。
ああもう何で幽々子さまはこうも突っ込みどころ満載なのだいつも。
そんな私の脳内突っ込みなど露知らず、幽々子さまは縁側に腰掛けてのほほんとお茶を啜ったりしている。私と目が合うと、応援のつもりか、お団子の刺さった串を笑顔でぶんぶんと振った。いかにも楽しそうである。
こっちは真面目に修行しようとしてるのに、いい気なものだ。
どうにかして気を持ち直し、構える。しかし先ほどまでの緊張感はどこかへと抜け落ちてしまっていた。
お前もそうだろう? という目で相手――というか自分だが――を見てみる。
するとどうだろう。相手は既に真剣さを取り戻した眼でこちらを睨み返して来た。
……む、そっちがその気ならこっちだって負けはしない。
すぐさま気持ちを引き締める。今度は余計な合いの手が入る間を与えずに、私は一気に間合いを詰めて相手に斬りかかった。
真正面からの上段斬り。相手の姿を捉えた斬撃は、しかし手応え無く空を切った。
――右!
視界の端で相手の動きを捉える。迫り来る刀。私を横薙ぎに斬り払おうとしていた。
身体を捻り、刀で受け止める。
爆ぜる音。手の痺れ。
力は完全に互角。視線が一瞬交差した。
「ッ!」
気合だけで相手を押し飛ばし、間髪入れずに斬りかかる。
今度はかわす事が出来ずに刀で受けて来た。だが私の手は止まらない。
袈裟懸けに斬り、横薙ぎに払い、斬り上げ、突き、また払う。
相手も然るもの。続けざまに繰り出される私の連撃を全て刀で受け、防いでいた。
「はぁっ!」
掛け声と共に、それまでより大きな動作で振りかぶり――斬る!
反射的に後退していれば避けられたであろう斬撃。しかし相手はそれをかわす事無く馬鹿正直に刀で受けた。一際大きな衝撃音が周囲に弾ける。
再度の膠着状態。鍔迫り合い。
私はわざと力を抜き、押し返されるかたちで後退。刀の切っ先同士が届かない距離まで間合いを取り、私は緊張を解かぬまま息を整えた。
私と半幽霊との試合は、私が六割強の勝率で勝ち越している。
身体能力が同一である以上、どちらかが大きく勝ち越す事は通常では有り得ない。実際、半幽霊との試合を始めたばかり頃は、勝ち負けは拮抗していた。
しかし、何度か試合を行なう中で分かった事がある。半幽霊は攻撃の殆どが素直で単純なのだ。
すなわちその攻撃は、猪が突進するが如く、勢いに任せて斬りかかって来るのみ。フェイントや奇手の類は一切ない。
半幽霊が私を映す鏡であるならば、私の攻めもそのようにひねりのない物だったのだろう。こうして自分自身と相対してみて初めて分かった事だった。
そこで、私も不得意ながら考えを重ね、相手の意表をついた攻撃を繰り出していくようになった。
私の勝率が半幽霊のそれから水を開けるようになったのは、私がそうして作戦を考えるようになってからの事である。
ならば今回も、奇策に打って――
――来る!
袈裟懸けの太刀筋を刀で打ち払う。
一旦身を引こうとするも、相手は確実に私に追尾する。私が横に跳ねれば相手も飛び付き、後退すれば同じだけ距離を詰める。私の足捌きに根強く食らい付く。それと同時に縦横に振るわれる刀。間合いを外させてくれない。
私が雪上での動きに慣れていないのは確かだが、それは相手も同じ事。
こちらが守勢でいるためか、心理的に不利な立場に置かれている気がする。
――私に考えるいとまを与えさせないつもり?
恐らくそうなのだろう、と思う。
私が今まで奇手によって何度も勝ちを得ていたのならば、相手は当然、それを防ぎにかかるだろう。作戦を練る余裕をなくさせるほどに激しく攻め立てればそれは不可能ではない。
私達はもともと、奇手という手札は所持しておらず、戦いの中でそれを考え、見い出すしかない。
けれど、こうして間断なく攻めを加えられていたら、私はそれを受けるので精一杯で、頭の中で策を練る事が出来ない。半幽霊がそれを意識して猛攻を加えているのならば、単純な対策ではあってもそれは正しかった。
実際、鬼気迫る表情で斬りかかって来る半幽霊に、今の私は防戦を余儀なくされていた。
――でも。
でも、それとは別にして、今日の半幽霊は今までとはどこか違っているように感じられる。試合であっても、いつもはここまで攻撃的ではない。むしろ、どこか必死になっているような気さえした。
「ねえ、どうしたの?」
気になる気持ちを抑えられず、半幽霊の猛攻を何とか捌きつつ語り掛けてみる。
「いつもは、こんなじゃないよね?」
私の言葉に、半幽霊の猛攻の手が緩む。内面での動揺を隠せずに表に出してしまうのは私と同じだった。
心理面での弱さを利用した事に少しばかりの申し訳なさを覚えつつ、私は後退して間合いを外した。
互いに肩で呼吸をしている。吐き出される息はどちらも白く煙っていた。
「いつもはこんなに激しい動きはしてなかったのに、今日はどうしたの?」
あらためて、半幽霊に問い掛けてみる。
彼女はやや気まずそうに俯いてから、視線を横に逸らした。
その視線の向かう先を追いかけて行くと、縁側に腰掛ける幽々子さまに辿り着いた。
幽々子さまは、お団子は既に食べ終わっているようで、両の手は膝の上に置かれている。竹刀を手に差し向かう私達の事を、凝視するでもなく、無関心でいるでもなく、まるで流れる雲の行き先を見守るかのような面持ちで、ただ眺めていた。
半幽霊が、視線を私の方へと戻し、そしておもむろに口を開いた。
「あなたは、幽々子さまの事、好き?」
「え?」
思考が数瞬停止する。問いの意味を認識するのに数秒の時間を要した。
――あなたは、幽々子さまの事、好き?
確かに、彼女はそう言った。
半幽霊がどんな事を思っていたか全く想像出来ていなかったのは確かだけれども、まさかそんな言葉が飛び出して来るとは。
「私は、幽々子さまの事が好き」
私の返事を待たずに、彼女は言う。小さくて控えめな声だったが、そこには確かな意思が込められていた。
彼女はなおも続ける。
「でも、私は普段はあなたに付き従う事しか出来ないし、幽々子さまもあなたの事ばかり見ている。ふたりを見てていつもうらやましく思ってた。あなたたちが、楽しそうに笑い合ったりふざけ合ったりするのを見ていて……。
けど私はこうして人型にして貰わないと喋る事もままならないから、仕方ないかな、っていつも諦めてた」
「…………」
「でも、幽々子さまはさっき、私の事を触れたり抱き締めたりしてくれた。私の事もちゃんと認めて下さっているのが分かって、嬉しかった。だから……」
「だから?」
「だから、私ももっともっと頑張れば、幽々子さまももっと私の事を気にかけてくれる、って思ったの」
どこか寂しそうな、拗ねたような表情だった。
「それで、今日はこんなに張り切ってるのね?」
コクリ、と彼女は無言で頷いた。
「そう……だったんだ」
半幽霊の思わぬ告白だった。彼女がそんな事を思っていたなんて、想像だにしていなかった。
確かに、普段幽々子さまと話したり出来るのは人間側の私だけだから、彼女がそんな思いを抱くのは無理からぬ事かも知れない。
けれどその一方で、これではまるで、親に構って欲しい子供みたいではないか、とも思う。
その半幽霊の思いに対して、私自身はどうすれば良いのか、それが分からなかった。
半幽霊がおもむろに竹刀を構え、こちらを鋭く見つめる。
「だから今日は、頑張って勝ちます」
今が試合の真っ最中である事をすっかり失念していた。私もあわてて竹刀を握り直す。彼女の思いがどうあろうと、私は眼前の相手に勝つ事だけを考えれば良いのだ。
頭ではそう考えつつ、けれど、私の心は迷いが晴れていない。彼女の思わぬ告白に戸惑っている。
思い悩んでいる場合ではないのは分かっている。分かっている――
「はぁっ!」
瞬速。
刹那の間に距離を詰められて一閃。ギリギリの所で刀が間に合い、防ぐ。足が雪にめり込む。こころもち重い一撃だった。
鍔迫り合いで一拍の間を置き、半幽霊の攻撃は更に続く。
右、左、右、上、左――文字通り縦横無尽に攻める彼女に、またしても私は防戦一方だった。太刀筋も、彼女の――もしくは私の――性格をそのまま映し出したようにどれも真っ直ぐ。
先ほどの告白で迷いが晴れたのか、一つ一つの斬撃に鋭さが増している。私とは対照的だ。
否。私とてこのまま引き下がる訳には行かない。引き下がりたくはない。今日負けたら、その負け分は一生取り戻せない気がする。
否否。負けなど想定していてはそれこそ“自分に”負けてしまう。
私は勝つ。そう、それだけを考えれば良いのだ。
あらためて気を張る。心身ともにようやく戦闘状態に入る事が出来た。
あとは相手を討ち取る。それだけだ。
しかしどうあれ、ただ相手の攻撃を防いでいるだけの現状は打破しなければ、戦況は好転しない。
私は半幽霊の攻め一つ一つに注視し、防から攻へと転ずる機会を伺う。
左斜め下からの逆袈裟斬りを後方へ跳躍してかわし、
私を追尾し返す刀での袈裟斬りにこちらも刀で応じ、
鳩尾を狙った強烈な突きは体を捻ってやり過ごし、
薙ぎの太刀筋は下方へ叩き落とす――
そこで間が生じた。
半幽霊の竹刀の切っ先が深く雪中に突き刺さり、次の動作が遅れたのだ。
私はその隙を逃さない。
「だッッ!」
袈裟懸けに刀を振り下ろす。これで勝敗は決する。
こちらをにらみ付ける半幽霊。私と目が合った。
――その眼にはまだ、戦う者の炎が宿っていた。
「はぁぁぁっ!!」
「!」
半幽霊は勝負を諦めていなかった。突如竹刀から手を離し、私の懐目掛けて前傾姿勢で倒れ込むように突進して来たのだ。
思わぬ行動に振り下ろしの動作が淀み、遅れてしまう。対象を失った刀はむなしく空を斬った。
その代わり私は、刀を振るった反作用を利用して身体を強引に横にひねり、半幽霊の決死の体当たりはどうにかかわす事が出来た。
後は、もはや徒手となり、雪の上に倒れ込んでいるはずの半幽霊に刀を突きつければ私の勝利だ。
よろけそうになる自身の体勢を立て直そうとしたその時、何かが足に当たる。それを知覚した次の瞬間、
「――え?」
天地が反転していた。
真っ青な冬空が突然視界いっぱいに広がり、何が起きたのかを理解するのに数瞬の時間を要した。
足払い!
しかしそれを悟った時には、私の身は既に宙を舞っていた。
不安定な浮遊感。身体の自由が利かない。青空、木々の梢、幹。体が回転するままに、流れるように視界に映る光景が推移する。
雪の上とは言え、変な体勢で地面に叩き付けられるのは避けたい。
身体を捻り、手を着こうとどうにかして身体の前面を下に向けた。
――眼前に半幽霊の顔があった。
あ、という声が二人同時に出た。
自由落下を余儀なくされている私は、避ける事など出来るはずがない。そして半幽霊も、無理な体勢のまま私に足払いを掛けたのか、今まさに身体を起こそうとしている最中だった。
咄嗟に手を出して正面衝突を防ごうとしたが。
頭の中で、轟音がした。と同時に、目の前で突然閃光を焚かれた、ような気がした。
ああ、おでこ同士を思い切りぶつけたな、と、頭のどこかで冷静に事を認識したが、それも刹那の思考。
次の瞬間には、頭部全体に地響きのような激痛が駆け巡り、私は地に落ちていくように意識を失った。
まるで、ふわふわの白い雲の上に寝かされているかのようだった。
揺りかごに揺られているみたいに、心地良い。
目を閉じていても、感覚だけで分かる。私は今、幽々子さまに膝枕をしてもらっている。
そう確信出来るのは、ずっと昔にもこうして膝枕をしてもらった事があるからだ。
その頃の、幽々子さまの柔らかい腿の感触をどこかで憶えてるからなのだろう。
身体には、毛布がきちんと掛けられているみたいだった。暖かい。
「今日の試合は引き分けね。もしくは、両成敗」
幽々子さまの声がすぐそばから聞こえる。半ば呆れた物言いだった。
先ほどの出来事を思い出してみる。
私は半幽霊の足払いに見事にかかって転んでしまい、半幽霊とおでこ同士をしたたかに打ち付けてしまったのだった。
その場面が目の前で明滅して蘇り、額に痛みが走る。
けれど、今は冷たいものが額に触れていて、痛みは思ったほどではなかった。
これは、幽々子さまの手だ。
時折、いたわるようにぶつけた所を撫でてくれて、まるで魔法がかけられているみたいに痛みが引いていく。ひんやりとした手が気持ちよかった。
いつまでもこうしていたいけれど、そろそろ夕餉の支度をしなければならない。私がどのくらいの間、気を失っていたのかは分からないけれど、もう日が暮れていてもいい時間帯のはずだ。
ゆっくりと目を開けると、思った通り、目の前に幽々子さまの顔があった。
「あら、目が覚めたの?」
「はい……」
膝枕をしてもらったまま、返事をする。
「もう、痛みは大丈夫?」
「はい、おかげさまで」
「そう」
幽々子さまが私の額から手を離す。もっと触れていて欲しかったからちょっと残念だった。
けれど今度は、幽々子さまの手が私の髪に触れる。何も言わずに、その指で髪を梳いてくれた。
愛でるように髪に触れてくるその手が気持ち良かった。昔はよくこうして、私の髪を梳かしてくれていた。私は幽々子さまに髪を梳かしてもらうのが好きだった。今だってそうだ。
幽々子さまは、普段は私をからかう事が多いのだけれども、こうして、とても優しくして下さる時もある。半幽霊が私たちを見てうらやむのも、今なら頷ける。というか私だって、幽々子さまが半幽霊を抱き締めている光景を目の当たりにして思いっきり嫉妬していたじゃないか。どっちもどっちだな、と思った。
「……そう言えば、私の半幽霊はどこに」
「どこって、あなたのすぐ頭の上にいるじゃない」
「え?」
私は幽々子さまの膝に頭を乗せたまま、あごを持ち上げる。白くて丸い物体が視界上部に現れた。それは、既にスペルカードの効果が切れて幽霊型へと姿を戻した半幽霊だった。
要するに今、私と半幽霊は互いに、幽々子さまの両の膝に膝枕をして貰っているという訳なのだった。
「…………」
それを知って、私は何だか安心した。
幽々子さまは別に、人間側の“私”だけを気にかけている訳ではない。幽々子さまが「妖夢」と呼べば、それはきっと、人間側の“妖夢”と幽霊側の“妖夢”の両方を差しているんだ。
試合の直前、幽々子さまは「妖夢頑張れ」とおっしゃっていた。あれは、どちらかを応援していたのではなくて、私と半幽霊の両方に投げ掛けていた言葉なのだろう。
ちょっと考えてみればとても単純で当たり前の事なのに、私は全然分かっていなかった。きっと、半幽霊も同じく分かっていなかったと思う。
幽々子さまの言う通り、今日はまさに両成敗。もしくは、幽々子さまのひとり勝ちだ。
「ところで妖夢」
「何でしょうか」
「そろそろお腹空いてきたんだけどぉ」
「あっ」
さっき気が付いていたはずなのに、すっかり忘れていた。
がばっ、と起き上がる。頭がじーんと痛んだ。
「そんなに慌てなくてもいいのに」
「あ、いえ、大丈夫です。今すぐお作りいたします」
「そう、じゃ、よろしくね~」
にこやかな表情で幽々子さまが言った。
私は、同じく慌てて身を起こした半幽霊と連れ立って部屋を出て行く。
「今日も美味しいご飯をよろしくね、妖夢」
「任せてください」
私は胸を張って答えた。傍らでは、半幽霊もコクコクと頷いていた。
そんな私達を見て、幽々子さまはいつものほんのり柔らかな表情で、ふふ、と微笑むのだった。
ひざまくら。
柔らかいのはゆゆ様の脚だと思いますね。だって、ゆゆ様の(以下略
すなわち宇宙の真理。ふにふにとすべすべの境界。 ……ということです。
しかしそれ以上にふにふにですべすべなのがゆゆ様のおみ足。
でも悲しいかな、ゆゆ様もそれほどのものを持ちながら
自分で自分に膝枕をする事は永遠に叶わない夢。
とそこばかり見てしまいがちですが、
物理的に自分と戦える妖夢というのは中々便利な奴だと思い直しました。
難しいです……自分との戦いは。
自分自身への葛藤、嫉妬、羨望、そして……大切な人への想い。
ある意味、それを具現化して刃を交える事が出来る妖夢は幸せなのかもしれ
ません。普通の人は、自分の中のモヤモヤが何なのかすら自覚する事は出来
ませんから。
つーか、ゆゆ様の膝枕あーんど抱き枕にされたW妖夢は間違いなく幸せです。
ちょっと代われ、コンチクショウ。