境内の石畳の上に降り立ち、すでに始められていた宴会の様子を一瞥する。
宴会自体は嫌いじゃないし、むしろどんちゃん騒ぎは望むところだ。だが、管理人というか会場の提供元に断りもなくこうやって愉しそうにしているのは随分といい度胸をしていると思う。
立ち込めたアルコールの匂いに溶け込むようにして流れる、三姉妹の奏でるアップテンポなバックミュージックを肴に皆思い思いの仲間達と酒を酌み交わしているようだ。早くも地面に突っ伏している闇妖怪もいれば、酒瓶を扇代わりにして踊り狂っている冥界のお嬢様もいる。
……なんというか、早くも酒池肉林の体を見せ始めていた。
霊夢も同じことを考えているのか(昔の私なのだから当たり前だが)私の代わりに肩を落として深く吐息してから、思い出したように右手を庇にした格好で首を巡らせた。漂うアルコール臭につられているだけのように見えなくもないが確か違う。このときは誰かを捜していたような気が――
いつの間にか夢中になって霊夢の動作一つ一つを追っている自分に気付き、思わず笑みをこぼした。こんな神社の光景も私の記憶どおりなんだなぁと回想にしみじみと気持ちを和ます。
「うわー、ひどい有様ね。まったく、立つ鳥後を濁さずって言葉を知らないのかしら……?」
そんな驚愕に満ちた声が私の耳に届く。悪態をついた霊夢は一足早く数時間後の変わり果てた神社の姿でも幻視したのか、何かに助けを求めるように空を仰いでいた。……と、「あ、いたいた。魔理沙ー」ようやく視界に収めた捜し人に、次の瞬間にはパッと表情を明るくして声をかけた方へと手を振り走り寄っている。
そんな仰々しい態度と、コロコロと変わっていく表情に苦笑しつつ『私ってこんな顔してたっけ?』自問自答してみた。
さっきから笑ってばかりだ。あぁ、顎が痛い。言いながらまた頬を吊り上げる。
もちろん、この場面も覚えている。アリスと話しながら酒を飲んでいた魔理沙の背中に向かって「私」はこう言うのだ。
「早速飲んでるわねぇ、私に挨拶の一つもなし?」
『早速飲んでるわねぇ、私に挨拶の一つもなし?』
「…………」見事に揃った声。
それに対して、まるで今気付いたかのようにわざとらしく振り返った魔理沙は、つまみに手を伸ばしながら一言挨拶を返し、更に私はその切り返しとして『もう、飲みすぎよ? 魔理沙』と、あれ……?
「……うん?」
魔理沙の予定外の反応に、霊夢も同じように首を傾げて不思議そうな顔をしている。聞こえなかったのか? いや、まさかそんなはずはあるまい、この近距離で。いくら酔っているからって……、そうか――
「なによもう、無視なんか決め込んじゃって。なになに? 新手の冗談?」
やはり同じ結論に達したらしい。思考回路が一緒なので当然と言えば当然だが。
まあ、それはいいとして、まだ疑問は残されている。私の記憶にこんなことは起こっていなかったということ。
『どうして? こんなの私の記憶にはないわ。……違う、これはあの日のことじゃない。じゃあいったい、いつの?』
「もう、飲みすぎよ? 魔理沙」
思考を遮り届いた声は霊夢のものでも、もちろん私の声でもなかった。考え事を中断して顔を上げると、その言葉を発したのはもう一人の魔術師、アリス・マーガトロイドだった。
『え? それって私のセリフじゃ……?』
「そんなことないぜ、まだ十本も空けてない」
霊夢の言葉を二回も無視したにもわらず、その簒奪されたセリフには気が置けない口調で即答する魔理沙。
「それが呑み過ぎだって言うのよ……」
決して酔いが原因ではないだろう頭痛に、頭を押さえてアリスは溜息を吐き出した。そんな、私にお構いなく交わされる会話。二人の前では、霊夢の存在も私同様に空気のような希薄さを見せていた。
私の記憶の中では、最後のアリスの言葉も私が紡いだものだったはず。魔理沙のセリフも、私に向けられて……
『私の存在だけが抜き取られている?』
言ってから、自分の言葉にとてつもない嫌悪感が遅れてついてきた。
なんてことを考えているんだ私は。そんなことあるわけないし、そもそも何の意味があると言うのだ。私がいない世界なんてあるはずがない。現に私はこうやってここにいる。霊夢だって……
「…………」『……?』
霊夢は震えていた。ただその震え方は私のように不安に苛まれた恐怖の震えではなくて、純粋な憤りからその身体をわなわなと震わせていた。鋭い視線は、酒とよう気に当てられた二人の魔術師へと向けられている。
無視をされたことがよほど業腹だったのか、もはや記憶の外を一人歩きしている霊夢は、私の思考とは正反対の行動をし始めていた。
「もうなんだって言うのよ、二人して! いい加減にしないと私だって怒るわよ!!」
「それにしても愉快なもんだな、こんな美味い酒が飲めるのも久しぶりだぜ」
「ふん、そうね。ま、私はそんなにお酒は好きじゃないけど……」
「―――ッ!!」
胡坐をかいて豪快に瓶ごと呷る魔理沙と、ほんのり頬が染まるくらいに押さえて杯からちびちびと味わうアリスの二人は、やはり霊夢に対してだけは無視を決め込んでいた。これが演技ならたいしたものだ、アリスはともかくとして魔理沙が得意なのは嘘だけじゃなかったのか。
普段から人を小馬鹿にしたような意地の悪い性格だとは思っていたが、冗談にしたって今回のは度が過ぎている。ここはハッキリと言ってやらねばならないだろう。
霊夢もこれだけは同じ気持ちなのか、魔理沙をこちらに振り向かせようとしてその意外と華奢な肩に手を伸ばし、しかしそれは叶わなかった。
「あら?」
前のめりになりながら間抜けな声を洩らす霊夢。その腕は魔理沙の身体をやすやすとすり抜け、勢いそのままにペタンと地面へ倒れ込んでしまった。
「……え? えぇ!?」『え?』
想定外の出来事に目を丸くするだけで、私も霊夢も暫くそのままの格好で固まっていた。脇腹辺りから腕を生やした黒衣の魔術師はその奇怪な光景を意に介した様子もなく、七色の人形師と魔導書がどうしたという話に花を咲かせている。
本当は私もその会話に参加していたはずだったが、今は会話どころか言葉一つ発することが出来ていない。ようやく出てきた感想は、
「なによ、これ……」
引っこ抜いた自分の手をしげしげと見下ろす霊夢のそれだった。
「ちょっと、魔理……」そろりとその腕を伸ばす。
再度、酒を飲み続ける黒い体躯を掴もうとするが――
「……ぅ!?」
ずぶりと音がしそうな勢いで飲み込まれていくその様子に霊夢は息を呑んだ。
「あー?」
「どうしたの? 魔理沙」
「いや、さっきからなんか変なものが纏わりついている気がするんだが。アリスは何か感じないか?」
「さあ? 何も感じないけど。姿を隠さなきゃ近づけないような低級妖怪が入り込めるわけもないし……。やっぱり、ちょっとお酒が入りすぎてるんじゃない?」
「んー、そうかぁ? これでも足りないくらいなんだが……いやまあ、それなら別にいいんだけどな」
「魔理沙、私よ。お願い気付いてっ!」
必死に呼びかける霊夢には微塵も気付く様を見せずに続けられる杯と言葉のやりとり。焦れた心で一度引っ込めた腕を三度差し出そうとして、さっきの怖気が走るような気持ち悪さを思い出しているのだろう。見えない糸で吊るされたかのように腕を中空に固定させた姿は、動かないという点だけで言えばアリスの肩に乗っている人形とあまり大差なかった。
「どうして……?」
まるで私に向けてかけられたような問いだったが、私に答えられるわけがない。私だって訳が分からないのだ、こんな仕打ちをする意味も目的も。辺りはこんなに騒がしいのに、霊夢の周りだけ静寂で塗り固められてしまったような閑散とした空気に包まれている。
それでも私は何もしてやれない。霊夢以上に意味を成さない私の手は針の先ほども動かすことが出来ず、うずめるどころか、その光景から目を塞ぐことも、差し伸べてやることも叶わない。
音楽はいつの間にかスローテンポで落ち着いた曲調に変わっていた。三姉妹達の気分で変わるそれは、酔いで昂揚した頭には少し物足りないかもしれないが、それでも動かない大図書館の異名を持つ魔術師などを筆頭に、好んで耳を傾けている者も僅かだがいる。
けれど私にとっては、と間違いそうなその荘重さに余計気が滅入るだけだった。もしかしたら、霊体みたいになってしまっている私達を成仏させたいのかと、そんな被害妄想めいた考えまで浮かんでくる。
「どうして……ッ!?」
そんな中、搾り出すように最前と同じ言葉を吐き出した霊夢は、傍らに転がっていた酒瓶のうち一本をひったくるように拾い上げると――
『あっ!!!?』黒衣の少女に向かってそれを思い切り投げつけた。
がしゃんという、空間そのものを引き裂いてしまうかのような甲高い音と、それでもなお止むことのない宴。粉々になった一升瓶と瓶の底に僅かに残されていたアルコールの匂いが、周りに漂って充満したそれよりも一段と強烈な存在感を醸し出して、今の私にはそれがとても羨ましい。
結論から言えば、酒瓶は魔理沙に当たることはなかった。霊夢の腕と同じように容易くすり抜け、敷き詰められた石畳の上にその破片を散らかしただけ。
霊夢の手に触れられるまでは確かにこの世界のものだったのに、割れた酒瓶はすでに輪廻の輪から外されたようにこの世界の人間に知覚されることはなくなっていた。こんなところは都合よく出来ているのに、どうして私達の身体はこんなことになっているのだろう? ここは私の夢、過去の記憶の話ではなかったのか。
「はぁー、はぁー、はぁ……くっ、くぅ……」
肩で息をしながらその声には微かに嗚咽が入り混じる。顔を隠すようにしてきびすを返した霊夢はそれ以上魔術師達の集会(と言っても二人だけだが)に関与しようとはしなかった。
酒を一滴も口にしていないくせに、千鳥足とさほど変わらないようなフラフラとした足取りでその場から離れていく。その危なっかしい様子を目だけで追いかけていくと、目的もなく運んでいたように思われた足は、幼児の描く直線のような軌跡で賽銭箱の近くに据え置かれた石灯籠へと向かっていた。宴会の喧騒から少し離れたその空間に音もなく腰かけると、巫女の少女はうな垂れたまま動かなくなってしまった。
まるで精巧な蝋人形めいたその姿は、迷子の子供のように儚げで、それでいて神聖な儀式の真っ最中であるかのような荘厳さで。どちらにしろ、たとえ姿が見えていたとしても、場違いで近寄りがたいそれに誰も手を差し伸べることは多分ないだろう。
宴会は続く。空をくるくると飛びまわっている二匹の式神と、自分の主を捜してオロオロと呼びまわっている名もなき紅魔館の司書も、この大規模な宴の一部として組み込まれ、未だその勢いを弱めようとはしていない。
そんな幻想郷中から萃まってきた参加者の前から、たった一人の少女がいなくなろうとそれはさして大きな問題ではなかった。満開に咲く桜から花弁が一枚散ろうとも、誰がそれに目を留めるだろうか? ましてや今は酒の席、たとえここに満開の桜が咲き誇っていようと、それに目を向けて愉しもうとする者はごく僅か。幻想郷とはそういうところなのだ。
宴会は、何の滞りもなく進んでいる。
『私がいなくても機能する世界か……』ふとそう呟いていた。
さっきも同じようなことを呟いて気分を悪くしたばかりなのに、今回はそれほど大した感情も浮かばなかった。実際に口に出せるわけではないので、頭の中にそう響かせただけ。誰にも聞かれないし誰も聞いてくれない。それが今言った言葉の何よりの証拠だった。
もし自分にも実体があれば、きっとあそこで力なくうな垂れる少女のようになっていただろう。この世界で私に出来ることと言えば、決して改変されることのない不条理な話を無力に見守るくらいなのだ。
『…………』
嫌な考えを振り払うべく頭を振った。霊夢の姿に当てられたのか、知らないうちに私自身も自暴自棄になってしまっている。自嘲めいた笑みを貼り付ける口元を手で覆い、せめて気持ちで負けないようにと懸命に表情を取り繕った。あくまでも夢の話、目が覚めればいつもと変わらない日常が待っているのだから、今だけ耐えれば良いだけのこと。
そう自分自身を正当化して誤魔化して、私は決してこれだけは考えないようにしていた。
……私は、この世界では独りぼっちなんだ。
『違う、違う違う違うちがうちがうチガウ……!!』
己が愚考を振り払うべく、耳に否応なしに入り込もうとする陽気な音楽を消し去るべく、この世界を視界から弾き飛ばすべく、ねじ切れてしまうくらい強く頭を振った。頭が痛い。乱れた黒髪も荒い呼吸も整えようとはせず、爪が掌に食い込むのも構わずにきつく握り締める。
まだ私には「私」がいる。だから独りじゃない。
頭が痛い。イタイ、いたい……
私は、私の他にもう一人この世界に影響を与えることの出来なくなってしまった少女を捜す。石灯籠に佇む唯一の共感者を求めて、頭痛でしかめた顔を上げる。
――少女はどこにもいなかった。
『嘘…………』
呟きだけが喧騒の中に溶け込んでいく。
「ねえ咲夜、私はこんな辛いものではなくてワイン、それも飛び切り強いやつが飲みたいわ。屋敷に戻って取って来てくれないかしら?」
「は、かしこまりました、お嬢様。急いでお持ちして参ります」
「ええ、早くしてちょうだい。喉が渇いて仕様がないわ」
「すみません、前回は持ち込んできた者がいたものですから失念しておりました……。えーと、そこの貴女?」
「え? あ、はい、私のことですか? あの、名前は――」
「誰もそんなこと聞いてないわ。貴女、話は聞いていたわね。そういうことだから、ちょっと屋敷まで戻って持てる分だけ運んできてちょうだい。お嬢様は日本酒が飲めないの」
「はぁ……、分かりました……うぅ~」
「早急にね、あんまりもたもたしていると……」
「は、はいぃぃっ!!」
「お嬢様、しばしお待ちを。すぐに届くと思います」
「ええ、分かったわ。それより咲夜」
「はい、なんでしょう?」
「今日は、何かが足りないと思わない?」
「いえ、特にこれと言ったものは……、ワインのことではないのですか?」
「違うわ。けれど、きっと私の思い違いね。こんな辛味が強いだけの水で酔うなんて私も衰えたものだわ。ただの戯言だから、今のは忘れてちょうだい」
「? はあ、お嬢様がそうおっしゃるのでしたら……」
忽然といなくなってしまった少女を捜し境内を練り歩いていると『いた……!』お目当ての人物は割とすぐに見つけることが出来た。と言っても、「今日」の自分の行動と照らし合わせてみただけなのだが、その流れそのままに霊夢は当時の私と同じ行動をとっていた。
考えてみると、石灯籠にもたれかかって黙ってうな垂れていたのも単に時間を調整していただけなのかもしれない。実際はもっと魔理沙たちと話していた気がするし。
次に私が訪れたのは吸血鬼のお嬢様、レミリア・スカーレットのところだった。何を話したかはそれほど記憶にないが、無理矢理日本酒を飲ませて潰れさせたのだけはハッキリと覚えている。普段から葡萄酒しか口にしていないから、それほど耐性がついていなかったのだろう。その頃には私もレミリアもすっかりと出来上がっていて、咲夜だけが少し離れたところから従者然とした面持ちでその光景を傍観していた。
そんな記憶を頼りに、ようやく見つけた霊夢の後ろ姿。その手には葡萄酒の入ったボトルが握られている。前回の宴会のときにたまたま社務所に置いてあったやつ(もともと自分が飲むつもりで前日に紅魔館からかっぱらってきた物だったのだが)を用意したところ、あのお嬢様が諸手を挙げて喜んでいたものだから、つい気まぐれでもう一本ストックしておいたのだった。話によると、年代物だとかなんとかでかなり価値のあるものだったらしいが、もとは自分達のだったものを返しただけなのだからそこまで喜ばれても反応に困るというのが「今日」から数えて「三日前」の記憶。
ちなみに「今日」の記憶は、再び掠め取ってきた葡萄酒を数日間にわたる常温保存で駄目にしてしまい、そのことについて咲夜からしつこいくらい説教されたのがこれから起こる出来事のはずだった。
それが叶わなかったことは、少し離れたところで落胆している霊夢を見れば一目瞭然である。
「レミリア、どうして気付いてくれないの!? ほら、アンタこれ飲みたがっていたじゃない。アンタの為にとって――」
「咲夜さーん!!!」霊夢の言葉を遮る声。
それは、石段を勢いよく登る音と共に飛んできた。
咲夜とレミリアがそちらに顔を向けるのに数秒遅れ、私と霊夢も後ろを振り返る。その目に飛び込んできたのは、葡萄酒のボトルを両の指に持てる分だけ挟み込んだカラフルな何かだった。疾風のように駆けてきたそれは霊夢の身体を容易にすり抜けメイド長の前で急ブレーキを掛けた。
「さ、咲夜さん……、持って、きました……」
どれだけ急いできたのか酸欠気味なその顔は息をするのも辛そうだ。
「あら、早かったわね。ご苦労様」
そんな疲弊しきった使いっ走りを意に介した様子も見せず、労いの言葉もそこそこに咲夜は差し出された葡萄酒のボトルを一本受け取った。逆の手をひらめかせ現れたナイフを逆手に持ち替え、器用にコルクをひっこ抜く。
才能の無駄遣いとはこういうことを言うのだろうか。職業メイドの従者はそれが当たり前のようにナイフをどこかへ仕舞い、瀟洒な微笑みでボトルを主に向かって捧げ持つ。
「さ、お嬢様。お待たせしました」
「ええ、待ちくたびれたわ」
グラスに注がれる赤い液体に恍惚とした笑みを浮かべる吸血鬼のお嬢様は伝説そのまま姿で、調和が取れているとでも言うのか実によく似合っている。それにしても、500年も生きているくせにたった数分間の時を待ちくたびれたなどとはよく言ったものだ。
レミリアは優雅に傾けたグラスの中身を一口味わうように含み、
「う……」と空いた手で口元を押さえた。
「いかがなさいましたか、お嬢様?」
すぐ異変に気付いた咲夜が蒼白になっている主人に歩み寄り、少し離れたところではカラフルな何かもどうしたことかと右往左往している。
霊夢はと言うと、驚きこそしているが従者に倣って近づくような真似はせず、ただ何も持っていないほうの掌を幾度も開閉させながら悔しそうに見つめているだけだった。
三者三様に先行きを見守る中で、相変わらず気分の悪そうだったレミリアがおもむろにその幼い顔を上げ、心配そうに気遣う従者に「これ……何?」とついさっき口をつけたグラスを押し付けた。
「は? 何と仰いましても……」
レミリアの差し出したグラスを、そこから真意を探るように丸くした目で見つめていたが、それも僅かな時間だけですぐに居住まいを正すと元の慇懃な表情でグラスを受け取る。そして、失礼しますと一言置いてからグラスを傾けた咲夜もまた、同じように顔を渋面に歪めて押し黙ってしまった。
厳しい表情で振り返り、
「貴女、これをどこから?」未だ状況を飲み込めていない小娘に向けて訊ねる。
「え、えーっと……。早急にと言われたので、ワインセラーの入り口付近にあったものを」
おずおずと出された回答に、咲夜は眉間に皺を寄せて僅かに首を傾いだ。
「入り口付近? それって地下じゃないわね、どうしてそんなところに……」
『あ、それ私だ……』ふとそんなことを思い出した。
酒を求めて再び紅魔の屋敷へと忍び込んだ時、前回と同じように葡萄酒がたくさん貯蔵されたところからどうせなら自分も愉しめるくらい拝借していこうと両手一杯に持って帰ろうと思ったのだが、すぐさま面倒になって必要最低限(つまり一本だけ)を残してあとは全部そこを出るときに置いてきたのだった。
大方そこのカラフルは急ぎのあまり私が置いていったやつを適当に掴んできたのだろうが、それらは本来霊夢が渡すはずだった葡萄酒と同じ運命――適度な温度と湿度で保存されていなかった――を辿ったものばかり。いくらレミリアが運命を操る程度の能力を持っていようとも、自身の飲む酒にまでは目が行き届かなかったようだ。と言うことは……
「これは、もう駄目ね」
「ええ、そのようです。さて貴女、どうしてこんなものを持ってきたりしたのかしら?」
残念そうに呟く主の言葉に恭しく受け答えた咲夜だが、振り返った瞬間にその眼光は一段と鋭いものに様変わりする。
「え? あの、その……」
「貴女はお嬢様に仕えているくせに、ワインの取り扱い方一つ知らないの?」
「すみません……」
段々と小さくなっていく無能な部下に構わずくどくどと説教を続ける姿は、被害者こそ違うが過去の記憶そのままの光景だった。(私はあそこまで萎縮も反省もしていなかったが)
やはりここでも私という存在は何かに置き換えられ、何の滞りもなく夢は進行し続けている。
『記憶の通りに時間は流れているのに……』
「なんなのよ、これは」
ただ黙るだけで葡萄酒のボトルを勧めたきり何も言うことのなかった霊夢が、私にも聞こえるかどうかの声量で口を開いた。今更誰に聞かせるつもりもないのか反応を待たずしてきびすを返した紅白の少女は、それきり紅魔館の面々の宴には興味をなくしたように足早にその場から離れていく。
私はそこにデジャヴを見た気がして一瞬我を忘れかけたが、
『あ、霊夢』聞こえるはずもないのに、引きとめようとして声を洩らす。
当然立ち止まることもなく、また捜すのも面倒なので去っていく霊夢の後を追って私も歩きだした。
自分の名前を呼ぶことに、不思議と違和感はない。
「貴女は本当に駄目ね、どうしてこんな――」
「もういいわ、咲夜」
「え? ですが、お嬢様……」
「いいって言っているのよ。ないものは仕様がないもの、これで我慢するわ」
「お嬢様、それは日本酒です。無理して飲まれても美味しくはないと思われますが……」
「平気よ。それに、どうしても飲まなければいけないような気がするの」
「お嬢様? 最後の方がよく聞き取れなかったのですが、何か仰いましたか?」
「なんでもないわ」
そんなやり取りを背中で聞きながら、孤独な少女の後に続く。
「…………」
『…………』
縁側に腰掛け、ようやく落ち着きを取り戻してきた神社を頬杖ついた霊夢と一緒になって眺めていた。
あれから、天衣無縫な冥界のお嬢様とその庭師、他にも少し頭の弱そうな妖精たちや、飽きもせず演奏に夢中になっている姉妹達、一度接触を試みた二色と七色の魔術師たちも含めて、ここに萃まった全ての人間、妖怪、幽霊に声をかけて回ったが、その誰もが霊夢の姿に気付くことはなかった。
声を張り上げて名前を呼んだり、その身体に触れようとして魔理沙のときのように腕を埋め込むことになったり、ただ誰かに振り向いて欲しいと言う願いだけのために、霊夢はめげずに境内を走り回った。けれど……
「違う……、こんなの間違ってるわ。なんで私が無視されなくちゃいけないわけ?」
呟きは徐々に憤りをあらわにして、それに伴い声量も上がってくる。
「だいたい、ここを管理しているのは私なのよ。その私が存在しないんだったら、誰に許可をもらって宴会なんかしてるっていうの!?」
握り締めた拳、何度も空を掴んできた手を見つめ吐き出した不満は間もなく溜め息へと変わり、それも寸瞬と残らず気だるい空気の中に溶け込んでいく。
透き通るような肌はその透度を本当のものにして、今では際限のない孤独感を与え続けるだけだった。
「誰か何とか言いなさいよー!!」
霊夢はその拳を力任せに縁側へと振り下ろす。音はしない、無駄だと悟った本人が直前で手を止めたからである。
そうして頬杖をつき直すともう一度吐息した。
「……はぁ~……」
神社は相変わらずの喧騒、それでも幾分かは治まってきたその中にやはり溶け込むように佇んでいた霊夢を、酒の匂いをはらんだ風が撫ぜていった。自分と同じ姿の少女を介してでしか感じることの出来ない風が髪と服をはためかせ、優しく吹き抜けていくそれに後押しされるように霊夢はゆっくりと立ち上がった。
そして、次に何をしたかというと――
「あーもう、こうなったら自棄酒よ!!」
今までずっと手放そうとはしなかった葡萄酒を、威勢のいい掛け声と共に一気に煽った。
『ちょっ……霊夢!?』
突然の行動に瞠目した私は、縁側から腰を上げかけた中途半端な格好で固まっていた。ものの数秒で空にしてしまったボトルを振り払う姿はまるで血のついた刀を納める剣士のようでもあったが、その豪快な立ち振る舞いをやってのけた少女は私自身でもあるのでどうも釈然としない。いや、確かに一本開けたくらいで潰れるほど自分はそんなにやわじゃないが……
平然と一息つく霊夢に絶句したまま目を奪われていると、ふと転がってきた何かが視界に入り込んできた。見下ろすと、足元には無造作に開け棄てられたコルク栓。そんなどうでもいいものに興味を示していたのも一瞬で、すぐ顔を上げて無茶な行動をとった己自身に視線を戻すが、ほろ酔い少女はいつの間にか境内の真ん中辺りにまで歩を進めていた。
「いいわよいいわよ、アンタたちがそんな態度をとるんだったらねぇ……、私だって別に、構って欲しくてここにいる訳じゃないんだからね」
意地悪な黒い魔法使いと意地っ張りな金髪の人形師を見据える。
「アンタたちが、散らかしてばっかりで、ろくに片付けもしていかないから、私が、仕様がなくその役目を、果たして、あげてるんじゃない」
恐怖の化身とも言える紅い悪魔と、その狗に向かって鼻を鳴らす。
「感謝されこそすれ、こうやって無視される謂れは、ないはずなんだけどっ」
死に誘うだけで何も生み出せない亡霊の姫君と庭師に唇を歪ませる。
「まあいいわ、私は宴会に参加してないし、これで私が掃除しなきゃいけない理由なんてないんだからね、せいせいするってもんよ、ははっ……あははは、あーはっはっは……!」
そして自分自身に嘲笑した。
『霊夢……』今まで夢の中の自分としか認識していなかった霊夢、
私はこのとき初めて、彼女を一人の少女として心の底から気の毒だと思った。
「くっくっく、あっはっは! あはははは……ははっ……は……」
博麗神社全域に響き渡っているのではと思うくらい腹の底から声を絞り出し、
「どう、して……」
一転して呟き。空気が振動する。まるで、ないているかのように。
「どうしてなのよぉぉぉぉぉおおおおおおお!!!!」
『―――っ!?』
霊夢の叫びを引き金に、世界は崩壊した。