「助けて」
誰かが呟いた。
まとわりつく闇を鬱陶しそうに払いのけながら、私は「黒」の中で不気味なくらい映えた紅白の身体を見下ろした。私は崩壊した世界に何の感慨もなくただそこに佇むだけで――
「…………!?」はっとして、私は振り返った。
何かがそこにいるような気がした。私が振り返るのと同時に息を呑む音も聞こえた気がした。けど当然そこには何もいない。
安堵とも落胆とも言えるような吐息をしてから遅れて振り返らせた自分の身体は、だらりと下げられた両腕と、肩幅に開かれた両足と、
焦点の合っていないその両目は、まっすぐ何かを見つめている。
「助けて」
また誰かが呟いた。
何かが背後の闇へ一歩後ずさる。それに構わず呟きは止むことなく続いている。どれも気のせい、勘違い。
ポツンと一人残された世界で、いるはずもない何かと、どこからか聞こえる声を私は夢想する。それはどこから聞こえているのか判らないくらい小さな声で、しかし私は漠然とその言葉が私か、もしくは私の目が見つめている何かに向かって囁かれているのだと瞬時に理解してしまっていた。
「助けて」
呟きは止むことを知らない。
段々と不安げに移ろいでいく表情は、きっと耳に届くこの呟きのせいだろう。私は動かない。動けば目の前にいる何かが、大型の肉食獣めいた獰猛さで今にも襲い掛かってきそうな気がして……
やがて、言葉の奔流と化していた呟きは止まる。動けない、何かがこちらを見ている。
しかし、目の前にはただ闇が広がるだけ。動かない。うごかない。
それでも、
私は手を伸ばした。
投げ出された腕は虚空すらも掴むことはない。次の瞬間には、何故この手を伸ばしたのだろうと理由すらも定かではなくなっていた。いや、もともと理由なんてない。何かがいたから手を差し出した、それは反射と同義だった。
目の前の空間が揺らぐ、その何かは襲ってなどこなかった。むしろ怖がっているような気がする。同時に私の身体へと流れ込んできた、畏怖、嫌悪、そういった負の感情がそれを教えてくれたのだ。だから、この伸ばした腕が単純に拒絶されたのだろうことにも簡単に思い至った。そしてその事実をごく自然に受け入れる。
さっきまでの耳を塞ぎたくなるほどの喧騒が懐かしかった。たとえ自分がその中に組み込まれていなかったとしても、息苦しさすら感じるこの無音の闇に比べれば何倍もマシだった。
自分の足元をじっと見つめる。いつの間にか沈み始めていた私の身体、闇と一体化していく己の姿に何の感慨も浮かばない。私は否定されたものだから。
「助けて」
耳に届いた最前と同じ呟き、それは再度始まった奔流。そこで私は気が付いた、その壊れかけの言葉を紡ぎ続けていたのはいったい誰なのかを。
私の足元あたり(今はもう腰まで沈んでしまっているが)に固定された何かの視線と、ゆっくりと降りていく私の視線が一瞬だけ交錯して、沈みきる直前の私の顔に初めて感情が浮かび上がった。
それは、眉根を下げただけの拙い感情表現。諦めにも似た表情で闇の中に溶け込んでいく私は、最後に一つだけ考える。
目の前には何もいないのに、なのに呟きが聞こえるのは何故?
決まってる、呟いていたのは――
『…………』
唐突に視界が開ける。
単に目を開けただけのような気もするが、それだけでは説明も出来ないくらい最前までの闇には一片の光も感じられなかった。
『さっきのは、なんだったのかしら……?』
首を数回鳴らしながら、打って変わって今度は眩しいくらいに差し込む光に顔をしかめた。あんなところにいたせいか、まだ順応しきっていない目は残効で余計その明るさを訴えてくる。
まるで、底から一気に海面へと引き上げられてしまったような感覚。言ってから、私はその身体が中空を漂っていることに気付き、蒼く広がったそれが水に浮かんでいるのと似ていて自分の表現に言い得て妙だと勝手に感心した。眩しいのは太陽により近い位置にいるということもあるのかもしれない。
それはともかくとして、いつの間に私はこんなところまで来てしまっていたのだろう。確か今日は珍しくやることもなくて、老人並みの早さで床に就いたと記憶していたが……。目前に広がる景色は明らかに昼のものだ。
サッパリと状況が飲み込めず、ここはどこなんだと、あくびを噛み殺しながら軽く辺りを見回した。
地理的には神社がかろうじて望めるくらいの距離で、目印めいたものと言えば眼下に広がっている湖くらいか。見慣れた風景に安心半分呆れ半分、その二つをない交ぜに私は心の中で吐息した。
さっきの変な出来事はとてもじゃないが現実のものとは思えないので夢であることは確かなのだが、そうなると私は今まで眠っていたことになる。寝間着に着替えた記憶もあるし、布団にもぐりこんだ記憶もあるから、多分それは間違いではないだろう。
けれど問題はそこじゃなくて、じゃあ何でその私が今巫女服を着込んで布団の欠片も見当たらない真っ昼間の空を漂っているのか。そもそも、空を飛びながら眠りこけるなんて芸当を出来るほど、私は自分のことを器用だとは思っていなかった。
これだけの物的証拠で事件を解決するとなると、夜、ぐっすりと眠りについていた私は、何を思ったか突然目を覚まして起き上がり、寝ぼけ眼のままのろのろと巫女服に着替え始め、フラフラと目的もなく空へ飛び出し、そのまま昼まで二度寝をした。
とまあ、こんなことくらいしか思いつかない。
『……自分では夢遊病の気はないと思ってたんだけど』
あまりの馬鹿らしさに思わず顔に手が伸びた。というか、こんな陳腐な推理など認められるはずもない。だが、過程はどうであれ結果的に私はここにいる。
この辺には散歩がてらに来ることもあるし、つい最近までは異変を解決するためによく足を運んでいたものだ。しかし自分でも気付かないうちに「ここまで飛んで来てました」なんてことは、それほど長くない人生の中でもさすがに二度とないだろう。まあ、あんな風に涎を垂らしてはしたない寝姿をさらしていれば、寝相が悪いからで片付けられてもつい納得してしまいそうだが。
『ホント、あれが私だなんて信じがたいわ』
自分の目も当てられない格好に知らず嘆息していた。
そこまで客観的に見られるのは私があそこにいるからで……、『はて……?』何かおかしな事態にふと首を傾げる。
どうして私がそこで昼寝などしているのか、なら私はいったい誰なのかと次から次へと疑問が頭の中を飛び交う。自分ではない方の「私」は、波間にたゆたう人形のように揺れながら未だ眠り続けている。それだけならまだ許せるが、まったくもって意味不明な状況に陥っているこのタイミングで一向に目を覚ます気配も見せないのと、はだけさせた巫女服をひらひらと危なげにはためかせている事に関しては、出来ることなら誰かに見られる前に叩き起こしてやりたい気分だ。
そんな落ち着かない頭で、幽体離脱やドッペルゲンガー説といった馬鹿な考えまで至ってから(幽体離脱については、冥界への行き過ぎで魂が抜けかけているのではと本気で危惧したが)、私は無難なところでこれは夢だと自覚した。
さっきのも夢だったが、これも夢。まあ、それほどおかしいことではないと思う。自分夢遊病患者説に比べればよほど信憑性がある。
それに、冷静に状況を飲み込んでみれば、飛んでいるはずなのに風が微塵も感じられない。ついでに声もちゃんと出ていないようだし、身体を動かすこともなんとなく憚られる。まるで水の中で活動するような、自分の意思が思うように反映されずにもどかしく感じるそれに近かった。
なので、最前のようにもう一人の私に干渉することも許してはくれないらしい。悔しいことに。
夢から覚めてまた夢なんて冗談もいいとこだし、しかもそのどれもがろくな夢じゃない。夢とは深層意識の表れと言われたりもするらしいが、私は普段いったい何を考えて生活しているのだと自分で自分が疑わしくなる。
その真意を確かめるため、目の前に寝転がる同じ姿の少女に視線で問いかけてみた。決して、物理的な攻撃が出来ない代わりに眼力で射殺そうなんてことを考えているわけではない。
……とまあ従って、間違ってもこんなところで暢気に昼寝などにかまけている「私」は私ではないのだ。(そもそも、この私がだらけた生活を送るはずがない)
私ではない「霊夢」がいる世界がここであって、私はさしずめ映画か何かの観客といったところか。こんな巫女の少女が寝ながら空を漂っているだけという何の面白みも感じられない映画を観るやつがいるとは思えないが。あ、私か……。
そうしたつまらない想像を巡らしながら過ごすこと二時間、ただ睨みつけるだけの行為にもようやく飽きが来た。時間を湯水のように使う私も私だが今の今まで一度も目を覚ますことのなかった霊夢も霊夢である。まったくどれだけ図太い神経をしているのだ……って、自分に突っ込んでどうする。
こんなことに時間を費やしているくらいなら境内の掃除でもしているほうが有意義な気もするが、やっぱり何もしないで良いならそれに越したことは無いと考え直した。それに、どういうわけか私自身が目を覚まそうとしないのである。
『これって夢よね? でも、それにしては何か変……』
そう、これは確かに夢のはずなのだ。夢だと自分が認識しているにもかかわらず、いい加減目を覚まそうと思っているのに起きられないのは一体どういうことか。
私だって二時間ずっと動かない少女を見ていられるほど耄碌しているわけではない。飽きる飽きないと言うのはただの大義に過ぎなくて、つまりはそれしか出来なかっただけなのだ。
『夢だと解っているのに目を覚まさないのは、覚ませないのか覚ましたくないのか……』
顎に手をやりふとそんなことを考えた、が。
まあ、そんなことはどっちでもいい。
だいたい、不可解な事態を考察しようとするなんてとても私らしくない。覚ませないんだったら覚めるまで待つ、それでいいじゃないか。
『ま、あれこれ考えたって仕様がないしね。これが夢だろうとそうでなかろうと、結局なるようにしかならないわ』
次の瞬間には、自分に言い聞かせるような一言で、頭の中のスイッチを一気に切り替えた。我ながら便利な性格をしていると鼻を鳴らし、肩をすくめた己の姿を想像するが、若干自虐的なこの仕草も、実は霊夢に向けたものだと考えればただの皮肉に早代わりだ。
『さてと、考え事はこれくらいにして、これからどうしようかしら?』
覚めるまで待つとは言ったが、ただ待つというのもつまらない。そこで、自分の今の状態くらいは把握しようと、私は自身を見下ろした。(動けないのでつもりだけだが)
ここまでハッキリと自覚して見られる夢もなかなか興味深い。試しにもう一度右手を目の前の虚空へ差し出そうとしてみる。けれどやっぱり動いていると言う感じはしない。
意識はあるのに動きを制御できないこの矛盾、普段とは違う「異常」に緊張感の欠片もない可笑しさが込み上げてくる。今この場に鏡があったなら、私はきっと笑っている自分を見つけられるだろう。
状況的にはさっきの夢と大して変わらないのだが、それに比べると今回は余裕に溢れているし、この状況を楽しもうとさえしている。もしかしたら自分以外の誰か――「私」がいることに安心しているのかもしれない。
そうして、ここでの自分は「そういうもの」なんだと充分に認識したところで、それを待っていたかのように放置していた霊夢がちょうどよく目を覚ました。
「う……ん……、あれ?」
身じろぎ一つして目を眩しそうに細めながら(もうほとんど夕日になりかけているのに)起き上がった霊夢はキョロキョロと辺りを見回し、
「ん~、いい天気ねぇ……」とんでもなくずれた感想を洩らした。
『……ま、いい天気じゃなかったらこんなところまで寝ぼけて来ないでしょうね』
いい天気でもどうかと思うが。
「でも、なんでこんなところにいるのかしら?」
霊夢は衣服を正しながら疑問を口にし、
『アンタの考え事ってやつがそもそもの始まりでしょ』
目元をぐしぐしと擦りつつ、
「ちょっと考え事をしていたはずだったんだけど……」
逆の手で涎を拭いて、
『そう言って結局いつもサボってばかりじゃない、忘れたの?』
数秒虚空を見つめて考えた後、
「あー。そうそう、思い出したわ」
その両手をポンと打ち付けた。
『境内の掃除もしないで、なにをやってるのよ』
……あまりの暢気さに頭が痛い。
「こんなことしてる場合じゃなかった」
その割には全然慌てた様子はない。
『こんなことしてるから、もう時間になっちゃったわね』
時期的には夏なのでまだ明るいが、すでに夕刻だ。
「うーん、どうしようかしら。時間になっちゃったわ」
博麗神社の方を見ながら、むぅと唸る。
『どうする? 戻るの、それとも逃げるの?』
問うまでもないだろう、どうせ……
「まあいっか、戻ろう」
そう言うと思った。
『そうね、アンタが神社に居なきゃみんなが来たときに困るし』
そのぶん私が困ることになるのだが。
「さーて、今日も忙しくなりそうね」
そんなこと言っていられるのも今のうちだ。
『…………』
…………あれ?
つい反射的に口を挟んでしまっていたが、今の流れは非常におかしい。何がおかしいって、会話が成り立ってしまっている。会話と言うよりは、私が霊夢の言葉を先読みしていたのか?
ここは私の夢の中で、霊夢の世界でもあって、私はただの観客に過ぎないから鑑賞は出来ても干渉できるはずはないのに……?
む意識に考えてしまっている。頭が痛い。誰かがやめろと警告する。『止めろ』
それでも私は考えてしまう。ただ事実だけを受け止めていればいい。『やめろ』
うるさい、誰かって誰だ。気付けばこの世界は先へと進んでしまう。『ヤメロ』
『あ……ぅ……』
夢の中で頭痛なんてそんな馬鹿な話、ある訳がなかった。頭を抱えて必死に痛みを抑えようとする。
じゃあどうしてこんなにくるしいの? ……その答えは出てこない。
霊夢は急ぎもせず一定のペースで帰路を飛んでいる。その普段どおりの自分の姿、当然のことなのに五体満足の身体を見て少しだけ頭痛が治まったように思えた。
だが、眼下に広がる湖面を俯瞰しながら、『湖ってこんなに広かったっけ?』自分では大した疑問だとは思っていなかったのに、ただそう口にしただけで内側から響くような頭痛がぶり返してくる。
訳が分からない。霊夢は随分ゆっくりと飛んでいる。早くなる心臓の音に唇を噛み締めた。そこまでして帰りたくないのか。額には大量の汗が滲む。ならどこかで時間を潰せばいいものを。頭痛はまだ止まない。湖がまるで海のように広く感じる。
日が暮れない。飛ぶと言うよりは風に乗っていると言ったほうが近い少女の背中を朱く照らしながら、まだらな雲に見え隠れしている。
……頭痛は治まっていた。
「それにしてもちょっと冷えるわね」
両肩を抱いて微かに震えながら、霊夢がぼそりと独白した。
『そりゃそうよ、夏って言ってももう夕刻だもの』
またしても期せずして出る言葉……。しかも今、私は「夏」って言った。考えてみればさっきも似たようなこと言っている。もしかして、私は「ここ」を知っているのだろうか。
『ね、ねえ……』
「…………」少女は振り返ることもなく延々と続く湖の上を飛び続ける。
『今日って……、神社で何かあった?』
「…………」半刻ほど待つが、相変わらず霊夢からの反応は見られない。
やはり私の声は霊夢に届いていないらしい。理由もなく胸を撫で下ろす、何故だろう、今にもその首をぐるりと巡らせてこっちを見てくるような気がして……。
その不安を振り払うべく首を振る。頭が痛い。かかる前髪を指で跳ね除け、見えない何かを弾き飛ばすように視線で虚空を威圧した。たとえそれがイメージの中だけの挙動であっても。
『ああもう、なんだって言うの。さっきから変な考えしか浮かばない……』
今考えるべきことはこんなことじゃないはずだ。
脱線気味だった思考を修正して、もう一度最初から考え直す。頭は痛くない。
私の声は霊夢に届いていなかった。しかし、私は霊夢が何を言うのか事前に知っていた。それは何故か?
知っていたのは以前にもこれと同じことを経験していたから――
『いつ……?』
呟き顎に手を当てる。もはや行動と想像が混ぜこぜになって、私は当たり前のようにこの世界で「動き」を確立してしまっていた。もはや、しかめる眉の動きにも何の疑問も感じていない。
「今日」は――、
霊夢は考え事をしていて、なのについ眠ってしまっていて、
無意識に空を飛んでいて、起きたら夕方になりかけていて、
霊夢は何かに迷っていた、戻るのか、それとも逃げるのか、
でも結局戻ることにして、戻らないとみんな困るからって、
今日も忙しくなりそうって言葉に、私は皮肉交じりに呟き、
霊夢が寒そうにしていたのだって、夏と言ってももう夕刻だから――、夏?
やはりその単語に引っ掛かりを覚えた私は、何気なしに湖を見下ろした。未だ岸に着くことはなく無限の広がりを見せている湖上。
だが、ところどころ島のように土砂の積もった中州で健気に生きる、待宵草、がま、睡蓮といった植物達は確かに夏のものだ。水辺にはいなかったはずのアヤメが生息しているのも、これが夢ならではの曖昧さゆえだからだろうか。
まあ、そんなことはどうでもいい。ここに来てからそういうところには目も向けていなかったが、どうやら今の季節は夏らしい。夏に起こった忙しくなるほどの出来事なんてあっただろうか? 限界まで首を傾げて想起してみるが、今年の話だとしても、あの頃は気が付けば酒ばかり飲んでいただけで特に異変と言うものは、……なんだって?
組んでいた腕を解き、『酒ばかり飲んでいた?』もう一度噛み締めるように繰り返す。その意味を頭の中で「今日」という日と照らし合わせてみると、
『……そうか』答えは導かれるようにして弾き出された。
さっきから夏と言っていたからいま一つピンと来なかったが、暦の上ではすでに「夏」となっている遅すぎた春、狂い咲き満開の体を見せていた桜もようやく落ち着きを取り戻して散っていった。だが、そんな初夏の季節に今度は幻想郷では三日に一度のハイペースで宴会が行われていた。
「今日」はその宴会当日であり、昼餉を済ませた私は纏わす気配を陽気から妖気に一変させた博麗神社で一人境内の掃除をしていたのだが、そんな中で困った問題が起こってしまう。
確かに宴会は愉しい。しかし、騒ぐだけ騒いだあとに待ち受ける片付けは、それはもう徹夜必至の手間がかかる。「これさえなければ」と、私は酷く肩を落としたのだった。
そんなこんなで一気にやる気をなくしてしまった私は、掃除用具から杖へと早変わりしてしまった箒に身体を預け、どうにかならないものかと四方八方に思考を展開しながら打開策を考えていると……、閃いたのだ。
『そっか! 片付けが嫌なら宴会に参加しないで逃げちゃえばいいんじゃない』
……今考えてみるとろくでもないことを思いついたものだ。このときの私はしたり顔もいいとこでそれはもうニヤニヤとほくそ笑んでいたに違いないが、そんなことをしたって何かが変わるわけでもあるまいに。
とにかく、一度思いついてしまったが最後、掃除なんかやっている場合ではなく(どっちにしろそろそろ休憩に入っていたと思うが)宴会に参加しようか、それともどこかへとんずらを決め込むか、本気で葛藤を繰り広げていながら、脳の疲労に耐えられなかった私はそのまま寝入ってしまっていた。
まあ、自分のうなり声が羊を数える言葉に聞こえ始めた頃から、何となく怪しいとは思っていたのだ。それをどうしようとは思わなかったが。
記憶の片隅に残る自分の最後の姿は、箒の上で重ねた両手に顎を乗せて眠りに就くという奇異な格好をしたそれだった。そのあとどうなったかは知らないが、たぶん箒を持っていたのがいけなかったのだと思う。どこぞの黒い魔法少女のように空を飛ぶ夢でも見ていたのだろう、目覚めたら空に居た、と。
結局のところ、どうやって自分がここまで飛んで来たのかは分からず仕舞いだが、寝て起きたことで頭がスッキリしたのか、そんな葛藤もどうでも良くなって目先の酒につられて帰ることにした。ついでに冷えてきたから酒をかっくらって暖をとろうなんて思っていたかもしれないのが、今私の真下を飛んでいるの少女ということになる。
――それが事の顛末だった。
……なんだか一気に拍子抜けする。厳密に言えばここは夢なんかじゃなくて、私の記憶を少し遡ったものということなのだ。それなら私が霊夢と言葉を合わせられたことにも合点がいく。まるで、不思議で仕様がなかったマジックの種が、ひょんなことから解けてしまったときのような呆気のなさ。それに合わせ、寝ぼけて空を飛んでいたこと(あんな目も当てられない格好をしていたかは別として)が夢だけの出来事ではなく、現実ですでに起こっていたという事実に割とショックを隠せないでいる。
気の持ちよう一つで雰囲気も千変万化するもので、内心傷ついた私の周りも徐々に緩和しきった空気で包まれ始めていた。余裕が出てきた頭もよく回転し、「今日」という日の事柄が最前まではあり得なかった鮮明さでどんどんと蘇ってきた。
あの時の私、つまり今ここにいる霊夢はこれから始まる宴会に一見うんざりとしていながらも、実のところ楽しみで仕様がないという微妙な顔をしていたと思う。
と、次の瞬間、私の記憶に呼応したかのように視点が切り替わっていた。斜め下から見上げるようにして望んだ霊夢の横顔は、思ったとおり、その口元に嬉しそうな気持ちを隠しきれていない。
これから酒を飲んで大騒ぎするのは結構だが、後片付けのことを考えるとやはりどうしても気が滅入ってしまう。まあ、私としてはもう終わったことなので気にする必要もないが、今まさに戦地へと赴く霊夢にはそれが効かない。せいぜい騒ぐだけ騒いだらそれと同じ分だけ頑張ってもらいたいものだ。私もここにいられる限りはその可哀相な姿を見守ってやろうと、そんな決意を苦笑交じりで心に刻み込む。
過去の自分に軽く同情しながら、再び戻った視線から後を追うように少女の後ろ姿を眺めていた。感じるはずのない風が私の髪を揺らした気がして顔を上げる。
『風が、冷たい……?』
気のせいだ。「ここ」の記憶を鮮明に思い出してしまっているから、その時感じていた感触まで思い出しているに違いない。
けど、それならそれでいいと思った。たとえこれが嘘の感覚だろうと、確かに風は霊夢の髪と巫女服をはためかせている。そうやって認識を共に出来ている今この瞬間は、紛れもなくとても大切なものなんだと断言できた。
だって、「私」は笑っているのだから…………
ようやく湖の終わりが見えてきた。気付けば暮れかけだった夕日もすっかり沈んでしまっている。長かったようで短かった時間、博麗神社まではもうそれほど距離も残されていない。こうやって耳を澄ませば、萃まりかけている幻想郷の住人達の騒ぎ声が聞こえてくる気さえした。
そんな夢想に胸を躍らせ、私は私にとって最も馴染みの深い場所へと舞い戻ってくるのだった。