※ガチバトルあり
※相も変わらず幻想郷分が不足気味
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誰にでも平等なものは三つある。天から降り注ぐ光と、流れる時間と、運命だ。
月は血にまみれていた。
人から物になった誰かの上に座り込み、少女は漆黒の天に光を求める。
人間と自分がわからなかった。
サンプルを捕まえて、解体して調べてみればわかるかも知れないと思ったからそうした。
生命の糸が切れるのを見切るのは、そう難しいことではない。
ただ心のしこりが取れたことは今まで一度も無かった。
答えを探していたが、そんなものは無いのかも知れないとも、薄々思っていた。
少女は、己の内に潜む正体不明のものと闘い続けている。
月は血にまみれていた。
指先で血を弄び、牙に絡めながら、人外の少女は物憂げに溜息を吐く。
己を畏怖するもの、己を倒そうとするもの、それら全てのパターンを把握してしまい、何もかもに飽きてしまったのだ。
心底から関心を注げるものを求めるが、そんなものはもう無くなってしまったのだろうかと、薄々思っていた。
レミリア=スカーレットは、退屈している。
●
暗闇の中で眼を瞑ると、いつか見た狂気の双眸が蘇る。
今や探究心のみで動くようになってしまった少女は、唯一それにのみ怯えていた。
切り裂きジャックという狂人に殺されかけ、逆にそれを殺し、自分自身に対する疑問が更に濃くなったあの日から、既に
一ヶ月余りが経過している。
今まで最も残忍な方法で最後の犠牲者を葬り、切り裂きジャックは行方不明。
その事実と死体の余りのショッキングさの影に隠れていたが、少女もまた行方不明ということになっていた。
ただ現場のアパートから少し離れた路上に飛び散った夥しい血痕が、人々に少女の末路を想像させた。
ところがその哀れな少女は健在。謎を残して消えた切り裂きジャックは肉塊となって生ゴミと眠る。
事実を知っているのは自分だけだ。
それを思うと滑稽ですらある。笑えないが。
少女はとうとう娼館には戻らなかった。
戻って何になる。返り血で真っ赤になった服を着て帰ったところで混乱させるだけだ。
(ちなみにその服は捨てて、例の死んだ娼婦のアパートから何着か失敬した。サイズは大きいが無いよりマシだ)
質問攻めに遭うのは勘弁願いたいし、警官が押しかけてくるとますます迷惑がかかる。
何より、今の彼女を動かしているのは探究心である。世話になった者達を実験材料にするには、忍びない。
そこまで考えて、自分が人間を人間として見ていないことに気付く。
今の彼女が他者を見る目は、研究者がモルモットか何かを見るのと同様のそれだったのだ。
自覚して怖気が走った。そしてまたあの男の眼を思い出す。
私はあれと、同類になっちゃいないだろうか。
狂気の瀬に立っている自身を思う。
男の眼が恐ろしくて、その瀬から退けも進めもしない自分がいる。
自嘲の笑みは、心を深く鋭く抉った。
この時期、確実に切り裂きジャックの被害者となってしまった人物の数は五人だったが、一説では十人以上だとか百人
にも昇るとすら言われている。
それだけ当時の貧困層で刃物における殺人が多かったということだが、その内の何割かは少女によるものだった。
●
「この世界のあらゆる全てを知ってしまったら、余生はどう楽しめばいいのかしらね?」
友人が不意に放った言葉に、パチュリー=ノーレッジは少なからぬ驚きを覚えた。
「……熱でもあるの、レミィ?」
「例え話よ。流石にそこまで高慢になっちゃいないわ」
その日の夜空は、重く厚い雲が蓋をしていた。
窓からつまらなそうにそれを眺めるは、吸血鬼の少女、レミリア=スカーレットである。
「ただ、ねえ、退屈なのよ。単調な毎日。たまーに来る人間は判で押したみたいに同じタイプばかり。
あなたはこの世から本が消えない限りは平気でしょうけど」
皮肉っぽく続けるレミリアを、パチュリーはじとりと見た。
間違ってはいないが。
「その為に暇潰しがあるんでしょ」
「あなたから与えられたなぞなぞも、数式も、知恵の輪も、あらかた解いてしまったわ。
退屈しのぎも底を突いたかしら? 運命は私に干からびて死ねと?」
芝居がかった大袈裟な動きで、哀れっぽくレミリア。
パチュリーは嘆息した。こいつは重症だ。面白いものを見つけるまで止まらないだろう。
「問題が欲しいのよ。考えても考えても、それこそ運命を読んでも終わらないような大きな問題。
何か無いかしら、そういうものが」
ほら来た。
パチュリーに、レミリアはしばしば知恵や問題を求めた。大抵が退屈しのぎの材料についてだ。
そしてその目にはいつだって期待の光がある。
溜息をつきつつそれに応えてやるのが、パチュリーの役目の一つである。
「人間」
「人間?」
レミリアは小首を傾げる。餌のどこに面白味を見出せばいいというのか。屠殺場の牛を愉快と笑う者がいるか?
何のことは無いというように続けるパチュリー。
「人間というのは複雑よ。長いこと魔女をやっていても、まだ完全に把握しきれないわ。侮らないこと」
ふうむ、と唸る声。レミリアは納得しかねているようだ。
しかしこれ以外の回答をでっち上げることも面倒なので、パチュリーは最後の一押しとするべき言葉を重ねる。
「何もあなたから逃げたり立ち向かったりする類の者ばかりではないのよ。たまには人間観察に出かけてみたらどう?」
それを受け、ぽんと手を叩くレミリア。
どうやら彼女の中で決定したようだ。
「なるほどねえ。それもいいかも知れないわ」
再び雲を見るレミリア。
いや正確には――雲を突き抜けたその向こうで変わらず輝いている筈の、月か。
●
要するに全てを拒絶すれば良い。それがキーとなり、崩壊感覚と亀裂音は訪れる。
そして眼前に広がる世界は音も跡形も無く消滅し、束の間、彼女が絶対者となる静止の世界と挿げ替えられるのだ。
一月もする頃にはもはやその能力を十分に使いこなせるようになっていた。
簡単なことだ。
道行く誰かを見繕って、人通りのない場で世界を止め、その間に近付き、致命的なところを断ち切って絶命させるだけ。
命乞いをしたり痛みを感じる時間など、文字通り、与えない。
最初のうちはなかなか上手くやれず最初の殺人のように何度も突き刺す必要があったが、やっているうちに慣れてきた。
もともと要領の良い頭を持っている。
どこを殺せば効率よく命を奪えるか、死する瞬間の動向はいつも見逃さなかったので、いつしか把握出来ていた。
生きたまま痛みを伴う解体はしない。手間がかかるし、徐々に人間のものから豚のそれになっていく断末魔の叫びはいつ
まで経っても慣れない。
あの男とは、違う。
そんなところにアイデンティティを見出している己の愚かさも、知らないわけではなかったが。
解体作業に、あの男から奪った一本だけのナイフは重宝した。
幾度となく肉を切ってきた筈なのに不思議とその刃に劣化は見られず、磨けばいつまでも美しい銀色の光を放った。
狂人の遺産であるにも関わらず愛着を抱いたのは、その光が彼女自身の銀髪の輝きに限りなく近いものであったためだろう。
血と脂が付着する度に丹念に拭いた。
いつしかナイフが必要以上に汚れない切り方も覚えた。それは即ち、必要以上にサンプルを傷付けないための切り方でも
ある。
内臓の位置を把握しその合間を縫って個々の繋がりを切断、素早く的確に腑分けする。
中身は誰でも同じだと言うことに気付き、ならば位置を覚えれば早いと悟った。
今や彼女の小さな頭には、人体の内部構造がほぼ完璧な形で入っている。
だがそれでも人と物の境界がどこからなのかわからず、故に足りぬと殺し続けた。
少女は意図せずして、殺人者としての牙を磨いていった。
人間らしい感覚を、研ぎ石にして。
不思議なものだ。
道行く者達は紛うことなき人間だというのに、その内部を見すぎた少女には、彼らが単なる器にしか見えなくなってくる。
そうかと思えば、自分の中で物だと定義した筈の臓腑の塊が今にも動き出しそうな錯覚に囚われるようになってくる。
両方とも、同じ目で見すぎたのだろう。
知るつもりで始めた殺人は、そのせいで少女に境界線をますます曖昧に見せていた。
ふとひび割れたガラス窓に自らの姿を映して見たことがある。
切り揃えることなく無造作に伸びたその髪は、しかし鋭く美しい光を忘れてはいなかった。
幾多の死を見てきた目は、いつか以上に冷え切って見えた。
そして自分がいつか以上に物に近づいたように見えて、それがたまらなく不快だった。
少女は路上に転がっている浮浪者と同じように座り込み、歩いて過ぎてゆくもの達を眺める。
物、人、物、物、人、物、人、人、人、物、人、物? 人? ひと?
いよいよ、わからない。区別がつかない。
血と肉の塊が服を着て歩いているようにも見えれば、そうでないようにも見えてくる。
頭が痛んだ。
自分はその境界を知りたかった筈なのだ。だからその度に人間を捕まえ、解体し、内部を調べていた筈なのだ。
だが逆に、ますますわからなくなっている。
少女は、それが自分が人を殺しすぎたからだと思った。
人を殺しすぎて、ついに自分が人間というカテゴリから外されたのだと思った。
あの男に近付いているのだと思った。
深く厚い孤独感が少女を覆う。
音など生じる筈も無い孤独の深淵へ沈み続けている自分がいた。
それが、少女の世界だった。
それが、時の停止した世界だった。
もはや少女に逃げ場は無い。
右手にはナイフがある。その銀光が指し示す道は、どこまでも血で紅い。
これは運命なのだと少女は断じた。だから、この道を進むのが最も正しいことなのだ。
そう思うほか、少女の精神が崩壊するのを防ぐ術は無かった。
夜闇をふらふら歩く少女の目は、どこか硝子の球に似ていた。
●
夜闇を固めた漆黒の翼が、空を渡る。
レミリアは全身に月を浴びて飛んでいた。
さて、面白い人間とは本当にいるのか?
案を受け飛び出してみたが、未だレミリアは半信半疑だった。
今まで餌としてしか見ていなかった人間だ。戦いを挑んでくる者もいたにはいたが、彼女にとってそれらは余りに遅く、
余りに脆すぎた。
故に、人間などに価値を見出すのは馬鹿馬鹿しいとすら思っていた。
同時に友人であるパチュリーの言を大きく信頼もしている。彼女が言うからには、間違いは無いのだろう。
しかしレミリア自身が人間に抱くイメージとそれは相反するものだった。
だから、半分信じて半分疑う。
後は自身の目で見て判断しよう――そう思い、上空から人間の吹き溜まりとでも言うべきスラムの街を眺めている。
レミリアは首を捻った。どいつもこいつも同じに見える。
歩く者、走る者、道端に座り込んでいる者、寝転がっている者、泥酔している者。それらすべての人間は、レミリアの
目にはただの血袋にしか見えなかった。
すべての有象無象に価値が無い。その脈動に異質は無く、凝縮された退屈と汚濁があった。
「やれやれ。外れよ、パチェ」
肩を竦め、その場にいない友人に告げるレミリア。
あらゆるすべての運命をこの目で読み取り、この手で弄れるからこそ、見切れた退屈か。
とっとと帰って本棚でも漁ろう。本の虫の仲間入りは勘弁願いたいが、暇に殺されるよりはマシだ。
そう思って翼を動かしかけたレミリアの目が、視界の隅に紅い泉を見た。
そこは周囲を建物に囲まれた空間で、歩く者の視点から見ればまさしく死角の場所。
空から見たからこそ気付けたのだろう。
その紅は見慣れた血の紅で――血の主は原型を留めていなかった。
長く時を生きるレミリアの目にも新鮮なほど、死体はその中身をぶちまけている。
いや、こうまでくれば、死体というよりは――『もの』か。
明らかに不自然。
例えば怨恨によるものであったとしても、こうまで臓腑が綺麗に切り離されていたりはしない。
別のどのような理由であってもこのように解体する必要は無いはずだ。
入念に、合理的に、調べるように。
それでいてそこに何かしらの意思は介在せず、ただ綺麗に腑分けされているだけのその死体。
レミリアはそのようなことをする人間にちょっとした興味を惹かれた。
このような汚らしい場所に広がっている血を舐めて確かめる気はしないが、どうやら見る限りでは新しいもののようだ。
とすれば、まだ近くに犯人はいる筈だ。人間の移動するペースは遅い。
ちょいと見てみようと思って上昇し、周辺に視線を飛ばす。
見た。
今まさに路地裏から出て、群集に混ざろうとしている、その人間を。
最初に見た感想は、黒い、である。
実際レミリアの目にはそう見えた。十数人だか数十人だかの血を浴びて浴び続け、それら全てが何者に奪われることも
流れ去ることもなく体に馴染みきってしまったらこうなるのだろうか。
それでいて今にも消えそうなほど儚い姿。まるで人間達の生きる空間に適応しきっていないようで。
そして彼女の『運命』が向かう先は、今まで見たどんな人間にも当てはまらなかった。
平凡な人生でも、くだらぬ死でも、堕落でも、ささやかな幸福でもない。
少女の運命の到達点は、澄み切っていてなお底の見えない、狂気の泉。
レミリアは狂喜した。
一目惚れに近かった。
●
「人間を見つけたわ、パチェ」
「履いて捨てるほどいたでしょう」
「違うの。面白い人間よ」
「面白い人間?」
「見えているのに見えにくい。そしてその髪は、美しい銀の筈なのに、どす黒く汚れていたわ」
「あなたの例えはわけがわからない」
「乾いた血と湿った血と、古い血と新しい血と、綺麗なもの汚いもの、すべて混ざると黒いのね。
何人分の血を重ねたのかしら? あの目は死を見たのかしら? こんな愉快な気分は久しぶりよ」
「……どうやら、退屈は払拭できたようね」
「ふふ、そうね。言う通りにして良かった」
「それで、どうするの?」
「明日は満月」
「そうね」
「だから明日、あの人間に会いにいくわ。この翼を見て、あれはどんな顔をするのかしらね?」
●
月が真の姿を取り戻した夜は、驚くほど静かだった。
月光を受けた、さながら光の川の如き道には、少女以外の誰もいない。
これはどうしたことだろう。不審に思いながら、少女は大通りを歩く。
広い場所に人が少なくとも、路地裏などを見れば必ず誰かいるような街だ。
ところがどこを覗いても、今夜は誰も見つけることが出来ない。
路地裏にも、ゴミ捨て場にも、看板の裏にも、廃屋にも。
どこにも誰もいないのだ。
一人分の足音だけが染み渡るように響いていく。
この世界は少女のものでなく、通常の世界の筈だ。なのに、誰もいない。静寂が耳を突き刺す。
まるで己の世界と同化してしまったようで、少女は気味が悪かった。
何が――何があったのだろう。置いてけぼりを喰らったかのようだ。
獲物を探す狩猟者のつもりだったのに、檻の中に閉じ込められたようだった。
底冷えする気分で、少女は道を歩き続ける。
己の飛ぶ道も、月の光も、遮るものは何もない――蝙蝠の翼を存分に広げ、夜の王が飛翔する。
あの人間はいるのだろうか? 否。いる。誰にも邪魔をされない空間で、レミリアは人間と邂逅を果たす。
そういう運命だからだ。
あの人間は私と出会い、弄ばれ、或いは呆気なく死ぬ。
ああ。
レミリアは陶然と息を吐いた。なんて美しき月光。なんて芳しき血。なんて残酷な運命。
幾多の人間が生きて死んだその街は、紅い吸血鬼の遊技場と化す。すべてが現実味を無くしたチープな玩具となる。
そしてレミリアは、街の一番広い通りの中に、銀色の輝きを見た。
体の向きを変え、その大通り目掛けて、真っ逆さまに降下。
――ほうら。
想い人をようやく見つけたかのような、笑顔。
ふと、今まで通ってきた広い道を振り返る少女。
寒気。
瞬間、突風。
驚愕する間もなかった。何がなんだかわからなかった。
だから少女はただ本能的なものに従い、世界を停止させる。
少女は目を見開いた。
女の子がいたのだ。
蒼を含んだ銀の髪。背には異形の翼が一対。それらを持った女の子が一人。
それがその瞬間、ちょうど吊るし上げられた罪人の如く、逆さまになって今まさに地面に頭から激突しようとしている。
わけがわからなかったが――直後に少女は、考える暇も無いことを知る。
目が合っている。
そいつはこちらを見ていた。時の止まった世界でなお少女を射抜くその眼は、紅く紅くどこまでも紅い。
つまり、最初から、こちらを。
一体何なのか自分がどうするべきかも思考の地平へ吹き飛び、気付けば弾かれるように横に跳んで退避していた。
そこで能力の限界が訪れる。
一息でも遅れれば死んでいた。
突風が再び静寂の道を吹き抜け、少女は半ば吹き飛ばされるようにして道脇の建物の壁にぶつかる。
そいつは地面に激突する寸前まったく直角に軌道修正し、一瞬前まで少女のいた空間をその小さな体で貫いた。
頬がそいつの突撃に僅かに掠り、ぱっくりと切れる。
そこから流れ出る自らの血が紅いことを、少女は意外な気持ちで見た。
「へえ。よく避けられたわね――」
凛と夜に響き渡るその声は、驚くほど可愛らしかった。
「なんだかズルして、私のすることを先読みしたみたい」
一定の距離を丸ごと貫通する勢いで駆け抜けたそいつは、再び中空へ飛び上がって、少女を見つめる。
射竦められたような感覚を覚える。
「何なんだって顔をしているわね。ああ、そういえば挨拶もなしには無礼だったわ。自己紹介をしましょう」
地面に降り立ち、きちんと一礼する女の子。
その様はパーティーに出席したいいところのお嬢様みたいに堂に入っていて、薄汚れた街とは余りに不釣合いだった。
「私はレミリア。レミリア=スカーレット。吸血鬼よ」
「――」
「あなたにとってはファンタジーの世界だったかしら。でも残念、いるのよね」
花のような笑顔が、吸血鬼――レミリアの顔に咲く。少女は目を見開く。
紅い目。漆黒の翼。尋常ではない動き。
そして何より。
人の死とその中身を見てきた少女だからこそわかったことだ。
こいつの内側は違う、と。
確信した瞬間驚きが淡雪のように溶けた。
もとより恐怖などあの夜にすべて吐き出している。
だから少女は、恐るべき怪物に向けて、ありったけの探究心を向けることが出来る。
今夜は一人の血も吸っていない、右手のナイフが疼いた。
疼きを感じ、決意する少女。
『こいつ』を見よう。そうすれば、きっと新しい何かがわかる。
もしかしたら、私の中の正体不明に決着をつけることの出来る鍵が、見つかるのかもしれない――と。
少女は右手に吸い付くように存在するナイフとそれが切り開く紅に全幅の信頼を寄せていた。
これが真実だ。
真実は屍山血河の先にこそあって、その道を築くのは他でもない自分自身とこのナイフだ。
根拠の無い、言わば妄信だった。だが、眼前の『人間以外』に挑む理由としては十分すぎた。
頬の血を拭う。ナイフを握り直す。真っ向から吸血鬼を睨み返す。
レミリアは少女の瞳に、殺意を見た。
そうこなくては――歓喜を覚える。
幾多の同族をその手にかけてきたであろう者が、あの程度のことで腰を抜かしては興醒めだ。
だからレミリアは先程の可憐な笑みとは違う、少女の手の中のナイフのように鋭く笑う。
それが本性。
「最初に言っておく」
先に口を開いたのは、少女。
「何かしら?」
「私は手強い」
「そう」
互いの声が影に溶けて消えると同時、翼が唸り空気が金切り声を上げた。
人間には到底不可能な速度でもってレミリアは少女目掛けて一気に降下。
半呼吸とせずその短い腕が届くレンジまで飛び込み、恐ろしい速度と美しい曲線で右手の爪を繰り出す。
同時に、強制的に瞬きを挿入される感覚。
その爪が掻き切る先に少女が既にいないと悟り、背後に気配を察知、察知した瞬間には爪を振り抜く勢いをそのままに、
体を横に180度回転させ真後ろの空を薙ぎ払う。
金属音と共に手応え。爪は振り下ろされたナイフを受けていた。
一体いつの間に背後に回りこんだのか? と頭が疑問を発した頃には、少女の姿は眼前から忽然と消えた。
「なるほど確かに、手強いのかも知れないわね」
少女は今は物陰にでもいるのか、レミリアからは影も見えない。
まったくいつの間にか。
そしてどうやら、得物はたった一本の銀のナイフ。
とすれば。
「ダンスの時間かしら」
地面より数センチの高さまで下がり、つま先を、ついと路上につける。
そして。
銀の光が来襲した。
レミリアは両の爪を駆使し、それを受けて弾きいなす。
爪とナイフが激突する度に瞬き一つ挿入され、それ以上の一切の間隔を置かず、前後左右あらゆる角度から少女の放つ
斬撃刺突が閃く。
それらをかわすレミリアの体は、それこそ早送りのダンスのように超高速でスピンした。
『見えている』。
――♪
「Here comes a candle to light you to bed, (ほうら来るぞ ベッドを照らす蝋燭が)
Here comes a chopper to chop off your head. (ほうら来るぞ お前を殺す首斬り人が)」
目にも留まらぬ攻防に合わせるように口ずさむ歌は、かつてパチュリーから教えて貰った童謡の一つである。
一言口から出るたびに、ナイフ。
それを受け、また一言。
甲高い金属音を合間に入れる童謡は、この場にはひどく不釣合いなリズムで互いの交錯を彩った。
少女の身体能力は人間のそれだった。出だしが遅れても、一瞬読めさえすれば防ぐのにそう苦労はしない。
――ただし。
ただし気になる点は。
その一瞬が見える直前と直後、レミリアが『見』る少女の運命の軌道が、一切ふっつり途切れるところだ。
再び、金属音。
先程の自分の突撃を回避されたのと同等の手段か、と判断するレミリア。
催眠術だとか、超スピードだとか、そのようなものでは断じてない。
人間にしては大した芸だ。
金属音。
『いつの間にか』現れた少女を捉え、『いつの間にか』振り下ろされているナイフを受けたと思ったら、『いつの間にか』
姿を消し、また『いつの間にか』――
互いの刃がインパクトするとき以外の、一切の時間差も無しに。
「時間差か」
一際大きく金属音が高鳴り、そして次の瞬きをしたとき、少女の攻撃は止んでいた。
一切の時間差も無しに――時間差。『時間』。
「……何ということ。時を止める、なんて」
光の川に少女の姿を追うが、また身を潜めているようだ。
人間にしては、大した能力。
少女は焦燥していた。
人間なら何度となく死んでいる筈の奇襲、そのすべてを防がれている。脅威だった。
これが人外の力というものか。
だからこそ強い興味がある。人外の者の中身はどのようになっているのか。
もはやそれだけが、彼女が動き、戦う理由だった。ナイフを握る手から力は失われていない。
物陰に潜み、レミリアの動向を探る。
来たとしてもまた世界を止めればいい。
止まった世界は絶対空間。自分以外の誰も動けない。反撃のチャンスはいくらでもある。
再びナイフを強く握りなおし、物陰から躍り出る少女。
それに気付きレミリアは一直線に少女に向かう。恐ろしく、速い。
「ならば、こっちも少し」
レミリアは呟く。
「ズルするわよ」
発動。
レミリアの目が、紅い線を見る。
道に、壁に、窓ガラスに、転がる石に、塵芥に、風に、少女に。
それら全てを血管のように通る線こそ、それらが辿るべき軌道。脈動する運命。
――運命を操る程度の能力。
誰も知るまい。
あの石はやがてチリになり、風に乗って向こうの街まで行くことに。
あの風は空へと昇り、拡散され消えてなくなることに。
あの建物は近いうち空き家になり、浮浪者の巣窟になることに。
運命は血の色の軌道線となり、それらが辿る運命をレミリアに曝け出す。
そして眼前の少女の軌道が、ある一点からぷっつり途絶えているのを見つける。
流れる時が無ければ紡ぐことの出来ぬ運命――ならば、その断絶点こそが。
「そう。そこで止めるのね」
間髪いれず己の爪を少女の紅い線に突っ込む。
このタイミングは今から1秒と少しばかり先のこと、ならば。
レミリアの爪が、線の途切れるポイントをぐいと伸ばした。長さにして数センチ、その程度のこと。
「……!?」
身構えた少女の目が驚愕に見開かれる。
少女にしてみれば、今まさに時を止めた筈なのだ。なのに、世界は未だ動き、レミリアは未だ動いている。
「おまえが時を止めるべき『運命』を、ほんの数秒ばかり伸ばした。
……けどまあ、このままだといずれにせよ止まる。私がしたのはほんの一瞬の引き伸ばし――」
少女の体がくの字に曲がり後方に吹き飛ぶ。
レミリアの放った蹴りは、呆然とした少女の腹に確かに命中した。
「――十分なのよ、一瞬は」
そして己の蹴りにより時が止まるという運命が変わったことに、レミリアは満足を覚える。
「……か、はッ! うぐぅうッ……!」
地面に転がった少女は、これまで味わったことのない激痛に悶える。
細い足から放たれる信じられない重みの蹴りは、彼女の腹部でインパクトし、内臓を揺さぶった。
「がふッ……はぁ、はぁ……!」
吐き出した胃液に血が混ざっている。
引き裂かれるような痛み。どこかの骨が折れているのか、それともどこかの臓器が破裂してでもいるのか。
何にせよその激痛は彼女を動けなくするには十分すぎるものだった。
「あら、少し強くしすぎた?」
余裕たっぷりに近付いて来るレミリアを睨みつける少女。
「……化け物め……!」
「化け物、ねえ。言われ飽きたわね」
言葉を受け、薄く微笑むレミリア。
その目はまるきり、玩具を弄ぶ子供のものだ。
「それにしてもおまえ、大した異能ね。そっちこそ化け物なんじゃないの?」
――。
少女の眼に、波紋が生じる。
「黙れ」
「そういえばその眼もおかしいと思ってたわ。硝子の球でも嵌め込んでるのかしら?」
「黙れ……!」
痛みを押さえつけ、立ち上がる少女。ナイフを握り締めるその手は怒りに震えている。
レミリアは薄く笑う。
人間とは存外、面白いものだ。
○
――♪
There was a lady all skin and bone, (骨と皮の女がいた)
Sure such a lady was never known, (見たことないほど痩せっぽち)
It happened upon a certain day, (ある日 たまたま思いつき)
This lady went to church to pray. (祈りを捧げに教会行った)
満月の倫敦に、童謡がぽつりと生まれる。
韻を踏んだリズミカルな言葉の羅列。
レミリアは己の口ずさむそれに合わせ、舞うように少女の攻撃を受ける。
絶え間なく繰り出されるナイフの刃。無駄だというのに。
そして受け止める瞬間、少女がよろけるほど強くナイフを弾き返す。
On looking up, on looking down, (きょろきょろ見回し 女は気付く)
She saw a dead man on the ground, (床に置かれた男の死体)
And from his nose unto his chin, (鼻から顎に蛆虫が)
The worms crawled out, the worms crawled in. (蠢き回り 這いずり回る)
ほら、隙が出来た。運命の線に触れる。
Then she unto the person said, (牧師に向かって女は訊いた)
Shall I be so whenn I am dead? (私も死んだらこうなるの?)
O Yes! O Yes, the person said, (牧師はいった そうですよ)
「――『You will be so when you are dead(おまえも死んだらこうなるよ)!』」
運命干渉――時間停止のタイミングをずらし、少女に拳を叩き込む。
こいつはクリーンヒットだ。
喉の奥から血を吐き出し、吹き飛ばされて壁に激突する少女。ナイフは手から離れ、音を立てて道の上に転がった。
常人ならば耐え切れない筈のダメージを受けて尚意識を失っていないのは、発露させた怒りによるものか。
「つまらないわ。同じ攻撃よ? さっきみたいな切れもない。
――何を迷っているの?」
とうに見抜いていた。
少女は迷っている、と。
レミリアは言った。そっちこそ化け物なのか、と。
人間と物の境を見るべき位置に立っていたつもりの少女の足場が、大きく揺さぶられたような気がした。
今まで調べてきた行動が唐突に現実味を失う。
『人間が人間を知るための解体』ではなく、『化け物が人間を狩る』という、ファンタジーじみたものになってしまう。
そこに何の意味があるというのか。
――私は、何だ。一体どうしたいんだ。
荒く息をつく。
「己の立つべき位置に確固としたものを見ることが出来ない、か」
「……うる、さい……!」
レミリアの眼が、すぅっと細まる。
「そして脆い点を衝けばたちまち目的を見失い、濃い霧の中に置き去りにされたように迷い出す――」
空気が裂ける。
一際速く少女に接近したレミリアは、殆どキスの距離までその顔を近付け、囁くように言った。
「おまえの狂気はその程度か、人間もどき」
至近距離でもう一撃蹴りを叩き込まれ、少女の体がまた吹き飛び地面で跳ねる。
「ッぐ…………!」
――ふざけるな。私はもどきではない。化け物ではない。あの男などでは、ない。
少女は思い出した。
あの男に殺される間際の、あの、切なる願いを。
人間でありたいという、願いを。
「私は……人間だ……!!」
自分が人間でないのなら、下らないしがらみは早々に捨ててしまえばいいと思ったことがある。
切り裂きジャックと完全に同種になってしまえば楽になれるのかも知れないと思ったことがある。
だがそれは出来なかった。
眼がちらつくのだ。世話になった娼婦たちの眼で、道を行く人々の眼で、自分が殺し続けてきた者達の眼が。
あの温かい眼が。あのかわいそうな眼が。
ともすれば狂気の泉に沈んでいきそうになる少女の心は、それを思い出すたびに必死で足掻いた。
――私は人間だ。
幾多の命を切り刻み、夥しい血の滝を浴びていながら。
少女の心は純粋に、愚かしいまでに、『人間』に憧れていた。
ただその憧憬こそが――彼女が動き続けた、真の理由。
ナイフが動いた。
誰も触れずに、奇術のように宙に浮き、飛び出す。
「……あら?」
背後からのナイフに眉を上げ、回避行動をとるレミリア。そこに一瞬の隙が出来た。
世界の時が、停止する。
まだだ。
圧倒的な拒絶が要る。人外の侵略を押し返す、圧倒的な拒絶の力が。
この世界は私のものだ。私という人間のものだ。吸血鬼などに弄ばれて、たまるものか。
己の右手に舞い戻ったナイフを握り締め、倒れ伏した体を起こす少女。足が震える。視界も覚束ない。
結局、これなのだ。
伝説を屠る杭でも、神なるものの加護を受けたロザリオでもない。
結局この手にあるのは、何かを傷付けるためだけの凶器だ。狂気だ。
上等だ。
このナイフで倒してやる。今までと同じく切り裂いてやる。あの男がしたように、この私がしたように。
この世界を操り切ってやる。絶対者として、少女自身の世界の、何もかも。
びしり。
亀裂音は大きいものだった。
時間が発狂した。
ナイフの姿は三つにぶれる。現在。一秒前。一秒後。
先程無意識でやったのであろう、独りでに動き出したナイフの感覚を思い出すのだ。
動き出した空間と、それに伴い動いたナイフの感覚を。
少女は空間をも把握した。
そしてナイフ周りの空間を集束し固める。
これにより単なる残像であった秒差のナイフの姿は固定化し、『個』のものとなる。
それを繰り返す。
繰り返す。
繰り返す。
繰り返す。
繰り返す。
残像、固定化、残像、固定化、残像、固定化、残像、固定化。
刃が刃を生み、それぞれが光を放ち、また生じた刃が新たに刃を生み出し――ついには。
「私は」
少女の周囲に、数多の銀光が浮かぶ。
美しい銀髪が月光を受け、無数のナイフと共に、きらりと閃いた。
「私は人間だ――お前なんかと同じにするな、化け物……!」
そして世界は元に戻る。
「!」
次の瞬間レミリアが見たものは、雲のようなナイフの群れだった。
ナイフはその紅い線を、レミリアという小さなゴールただ一点に定めている。
あとは同時に軌道をなぞるのみ。そういう、運命。
驚きに眉を目一杯上げ、くつくつと愉快そうに笑うレミリア。
「どこからそんな量を――野暮ね。ああ、面白いわおまえ。来て良かった」
ナイフにも劣らぬ鋭さの視線を少女から感じたのも束の間。
「――私の世界から」
少女の背後のナイフ達が動き。
「消えて、なくなれッ!!」
刃が風を切る音が、数十も数百も重なる。
歓喜に身を震わせるレミリアに、圧倒的量、まさしく弾幕と言うに相応しいナイフの雪崩が殺到した。
レミリアには見える。ナイフの運命が。量に反して余りに小さすぎる的目掛け襲い掛かり、レミリアの体を見る影も無い
ほど突き刺し切り裂きバラバラにすることが。
――このままだと、だが。
レミリアの体の周囲から赤の霧が生ずる。
運命の軌道線と同色である、それは血の紅。同時に炎の朱。華麗で苛烈で禍々しき悪魔の赫き。
これこそが、レミリア=スカーレットが吸血鬼である証の力。
「眼を逸らさないことね。
このレミリア=スカーレットが、今からおまえに見せてやるのだから。
運命を歪める力を――吸血鬼というものを」
幾多のナイフが走る音と、ひとりの悪魔が駆ける音。
双方が激突する刹那。
赫きが、弾けた。
赤はレミリアの体に集中し、その中心で爆ぜて眩き光となる。
その光は十字を描き、その赤で荒れた街をきつく照らした。
神ではない。
悪魔が放つ、赤き力のロザリオだ。
圧倒的物量と圧倒的エネルギーが真っ向からぶつかり、刃の銀と悪魔の赤が花火のように弾け合う。
そうしてすべてのナイフが弾け、叩き折れ、或いは通過し――いずれにせよ完全に動きを止めた時。
レミリアの姿は少女の眼前から消えていた。
「な――」
周囲に視線を飛ばす少女。だが、その姿はどこにもない。
少女に見えるものはだだっ広い道と、月の光と、夜空でたゆたう僅かな雲――
――雲?
違う。
雲ではない。
少女がそれに気付いたのとほぼ同時に、雲に見えた黒い霞は動き出した。
無数の、蝙蝠だった。
呆然とする少女に向かい、その目の前で蝙蝠は集まって一つの体となる。
レミリアがそこにいた。
「チェック」
未だ残る光の残滓を背に、レミリアは勝利を宣言し――少女の首を掴んで壁に叩き付けた。
○
少女は荒い息を吐く。体中が痛い。呼吸が苦しい。
目の前には吸血鬼がいる。倒せなかった。
その手にもはやナイフは、戦う力は、無い。
「なかなか楽しめたわ。このまま縊り殺した方がいい? それとも血を吸った方が?」
くいとレミリアの指に力が入る。少しばかり動かせば少女の細首など容易く折れるということなのだろう。
少女は何も言わなかった。
何も言わず、レミリアを真っ向から睨み付けていた。
少なくともその眼に恐怖は無い。
それを感じ、レミリアがくすりと笑う。
「ねえ。おまえは人間なの?」
少女の眼が険しさを増す。
無言で告げている――愚問だ、と。
「そう。ならば命乞いをしなさい。今まで何人もの人間が、私にしたように。
そうして命を拾うか、それとも私に殺されるか。さてどっちがいいかしら?」
試すつもりで、二択を渡す。
レミリアは知りたかった。
目の前のこの人間はどちらを選ぶのか。
少女自身が固執した人間というポジションに甘んじて吸血鬼に命乞いをするか。
それとも、そんな惨めな真似は御免だとばかりに、潔い死を選ぶか。
さて、どちらか。
「最後に言っておく」
少女は呟くようにして告げ、初めて微笑んだ。
不敵にして不屈、獰猛にして凄絶な笑み。
「お前の思い通りには、絶対なってやらない」
かたりと音を立て、道の真ん中に転がった一本のナイフが動き出す。
まだ足掻くか、と振り返ったレミリアは、ナイフの向かう先を読んで気付いた。
切っ先は、少女自身の心臓へ。
狂気に溺れかけたこの身。
ならば、狂気と共に死するも良し。
ひゅん、と細く鋭い風切り音が通る。
●
少女は目を覚ます。
体を起こそうとするが、起こせなかった。少しでも動かそうとすると激痛が体中を走る。
よく動けたものだ。
そう考えたところで大きな違和感に気付く。激痛など感じるはずが無いのだ。そもそも起きる筈が無いのだ。
――自らの心臓を、貫いたのではなかったのか。
「丸一日よ。よっぽど長く寝てたわね、あなた」
ふと聞き覚えの無い声を耳が捉える。
その方向まで苦労して首を曲げると、そこには紫色の妙ちくりんな格好をした女がいた。膝に本を抱えている。
見る限りの年齢は、自分とそう変わらぬ程度か。
「レミィもかなり強めにやったそうね。スッキリした顔で帰ってきたわよ。あなたを引っ張ってね」
「……」
「レミィというのはレミリアよ。あなたとやり合った吸血鬼」
「……!」
体が反応する。尚も体を起こそうとするが、また激痛に押さえつけられた。
その胸にナイフが刺さった形跡は無い。
「大した反応をしてくれるものね」
窓から声が届く。
そこにレミリアはいた。窓枠に腰掛け、ほんの少しだけ欠けた月を眺めている。
少女はそれを睨み、恨みを込めた声を絞り出した。
「何故邪魔をしたの。私はあそこで死ぬつもりだった」
「ふん、そうね、おまえの言い方を借りるなら……『お前の思い通りには、絶対なってやらない』ってことかしら?
それにあそこで死んで良かったの? せっかく自分のやりたいことを見出したというのに」
――やりたいこと。
はっとなる少女。
それはとりもなおさず、少女が人間として生きてゆくことだった。
いついかなる時でも考え続け、幾多の死体を踏み越えておきながら得た答えが、そんな単純なこと。
「……けれど、私は」
「化け物じみた異能を持つ、と?
まったく人間というのは面倒くさい生き物ね。己の種族に疑問を持つなんて人間くらいなものよ」
レミリアは肩をすくめる。
そしてそれをパチュリーが続ける。タイミングのいいことに、今読んでいる本は人間科学書だった。
「けれど、だからこそ、とも言える。唯一、自分自身に関心を向けることの出来る種族だから。
そういう意味であなたは最も人間らしいと言えるわね。――ま、ちょっと回り道が過ぎたみたいだけど。
ちなみに私は人間じゃないわよ」
「――」
少女は二人の言うことを黙って聞いていた。
人間らしい、と。
二人の人外の保証には、奇妙な確かさがあった。
けれど。
「けれどしかし、それで『私は人間だやったバンザーイ』では完結しないのよね」
まるで少女の心の内を読んだように、レミリアが言葉を紡いだ。
「その上でまだまだ生きていく必要があるのよ、おまえは。人間だという意識を持ったままね。
長い道程よ、けれどそういう運命。人間でいたいのよね?」
「愚問よ」
「そう、ならば――」
レミリアは笑う。いい遊びを見つけた子供の笑みで。
「一つ賭けをしない? おまえの中の『人間』が、果たしてどこまで保つのか」
それは一時の気慰みか。
人間一生分の時間の暇を潰す遊びなのかも知れない。
だが。
少女にとっては、望むところだ。
己の人間を、己の中の正体不明に突き付けてやる、絶好のチャンスだ。
ふん、と少女は笑った。
例えばポーカーで最強の手を生んだ時のような、勝利を確信した、それは不敵な笑み。
「――死ぬまで」
「そう、それじゃあ私はその逆、いずれどこかで壊れてしまう方に賭けようかしら。
この館に置いて監視してやるわ。おまえがどこまでやれるのか――をね」
窓の向こうには、十六夜の月が輝いていた。
○――――――――
月光差し込む広い部屋。
その中で咲夜とレミリアは、静かに見詰め合っていた。
「そう、咲夜、あなたは人間。過去の中に没入し、迷いを見出す人間。状況はどう?」
「――。まあまあ、ですわ」
「それは良かった。忘れちゃいけないよ、ゲームはまだ続いている」
「はい」
「私は見ている。あなたの――おまえの中の、人間の姿を」
くるんと指先を回すレミリア。
それすらも運命を見れば読めるのだろうかと咲夜は思った。どちらにせよ自分ではわからない。
レミリアは大きく伸びをした。
「久しぶりに昔のことを話したら、眠くなっちゃったわ」
「お休みになりますか?」
「早めに寝るのもいいかも知れないわね。月の光を抱いて寝る。割とロマンチックかも」
「わかりました。寝床の準備を致します」
次の瞬間、咲夜の体はドアの前にあった。
レミリアの方に体を向け、後ろ手でドアのノブを捻る。
「……楽しみね、咲夜。ほら、あの月は満月」
レミリアの言葉を受け、ふと窓の向こうの月を仰ぐ咲夜。
「なのにあなたの月は欠けたまま。人にしてその異能、しかし心は怪物に堕さず。とても面白いバランスよ。
あなたの猶予(いざよい)は一体どちらへ転ぶのか。
その月が昨夜の十五夜のように満ちるときを、賭けの行方を、とても楽しみにしているわ」
十六夜咲夜。人間としての少女の名前。
この名を捨てるときが、レミリアと咲夜の賭け――ゲームが、終わるとき。
「――お言葉ですが、お嬢様」
その賭けにどちらが勝つかは、まだわからない。
「何かしら?」
「『私は手強い』」
それは不敵にして、瀟洒な笑み。
愛着を抱いたのは、でしょうか?
しっかりと楽しませて貰いました。
館に置く理由とか、好きです。
読了後、再度前編を読る事で完成する物語。
月のざわめく夜にまた読み直してみたい所です。
最後の咲夜さんの言った言葉。
「『私は手強い』」
かっこいい!
ありがとうございましたー
すっげー咲夜さんすっげーパッドとか言えn(スロゥナイブズ
緊迫した戦いと咲夜さんの抱えているものを最後まで楽しく読ませていただきました。