それは数年前の話。
この幻想郷にて一人生きていた私が、レミリアお嬢様に拾われて屋敷に雇われた頃の話だ。
紅美鈴は、その頃すでに門番として紅魔館に暮らしていた。
「紹介するわ。この子がこないだ拾った人間よ」
そういってお嬢様は笑みを浮かべる。
私は目の前に立つ幼く、おそらくは私よりも年下であろう人物へ、心が全くこもってない、最低限の礼儀として一礼をする。
目の前に立っている人物、美鈴は、何も言わず、どこを見ているかもわからない眸で私を一瞥し、お嬢様へと視線を移した。
「いい? いくら人間だからといって、この子はもう私のものなのだから、傷をつけたらただではすまさないわ?」
冗談めいた本気の忠告を、美鈴はただ一度頷くだけで肯定する。
こちらをたった一度しか見なかった女の子。背の高さは私のほうが高い。けれど、髪の長さは彼女の方が長かった。そのことが、なんだか無性に悔しかったのを覚えている。
はっきりいって、第一印象はつまらない子というものだ。ぴくりとも動かない表情。喜怒哀楽を感じることがあるのかわからない。まるで人形のような、という表現がぴたりと嵌る。
結局彼女は喋らず、お嬢様は小さな溜息混じりに、続いて美鈴へ手を差し向ける。
「この子がこの館の門番よ。能力云々よりも、この子の家系は代々この館の守人だから。先代が先月亡くなり、晴れて彼女が門番の役割を勤めることになったわ」
私は黙ってお嬢様がする、彼女の紹介を聞いている。
彼女は何も言わず、無感情な眸で、私を見た。
「一番年が近いのはあなただから。良かったら面倒を見てやって頂戴。……あぁ、そうそう。この子が無愛想なのは気にしなくてもいいわ。私はこの子が生まれたときから知ってるけれど、そんな私でさえただの一度も、笑ったところも、泣いたところも見たことがないのだから」
私はお嬢様の言葉に頷く。あなたの言う通りに思います。そういう意味を込めて。
それが伝わったのか、お嬢様は満足そうに笑みを浮かべ、「それじゃあ、次は館の中を案内するわね。あなたは私付きのメイドなのだから、しっかりと把握してもらうわよ」と、彼女にはそれ以上構うことなく、つかつかと歩き出す。
美鈴は、そんなお嬢様の背中に深々と頭を下げる。私には一度も下げなかった癖に、だ。しっかりと主従関係は理解しているということだろう。
そういう態度が、私は嫌になった。彼女がお嬢様の関係者でなければ、きっと私は即座にナイフを持ってして、その身体を十二分に切り刻んでいる。
「……どうしたの? 早くついて来なさい」
私がその場で立ったままでいるのに気づいたのだろう。お嬢様が振り返った。
「ただいま参ります」
一声かけ、そのまま駆け足でお嬢様に追いつく。
「全く。呆としていたら駄目よ。これからが大変なのだから。えぇ、そう。大変よ。きっと呆としている暇なんてないくらいに」
「はい」
「私はあなたには期待しているの。人間にしてはそこそこの能力を持っているしね。だから、期待通りの働きを見せて頂戴」
「はい」
道すがら、そんな話をする。
しばらく歩き、ふと思い立って、ちらりと背後を伺った。もしかしたら彼女がついて来ている、だなんて思ったのかもしれない。
けれど彼女は一歩たりとも動いていなかった。
頭を下げたまま、ぴくりともせずそこにいる。
ひょっとしたら、姿が見えなくなるまでそうしているのかもしれない。
……本当に、私は彼女が嫌いだと思った。
それからの数ヶ月は、本当に目が回るような日々だった。
見るもの聞くものの全てが新鮮で、覚えることやることの全てが沢山あり、自分の限界を超える作業を毎日こなし、そうしているうちに少しずつ限界値が伸びていき、仕事を覚え始め、効率を考えれるようになり、一人前とは言えなくても、半人前程度の仕事をこなせるようにはなったと思う。
私がそうして数ヶ月の間、メイドとしての指導を受けていたとき、美鈴は何をしていたかというと、別段何もしていなかった。
彼女は門番だ。入るものを拒み、出るものを阻む。ただそれだけが彼女の仕事であり、それだけしか彼女は出来ない。
お嬢様を毎夕何時に起こし、曜日によって着る服を選び、日によって食べる食事を考え、体調を管理する。無駄にだだっ広い館内を清掃し、管理する。お嬢様の我が儘に付き合うのもメイドの仕事である。
考えるだけでやることは多い。覚えることも多い。
けれど、美鈴はそんなことを考える必要も、覚える必要もない。
彼女は門番であり、ただそこにいればいいのだから。
……この数ヶ月、誰かがこの館に訪れたことはなかった。
それは門番としての彼女が優秀なのではなく、ただ単に、この館を恐れ誰も、あの何も考えず陽気で本能のままに過ごす妖精でさえ、近づくことがなかったのだ。(むしろ、本能で生きているがため、この館には近寄らないのだと思う)門番の仕事といえば、精々迷い込んできた野生の獣を始末すること。それは人ではない彼女からしてみたら、児戯に等しいことだろう。(とはいえ、人である私も、ナイフを使わせてもらえるのであればそんなものである。これは人が優れているというわけではなく、ナイフが優れているというわけでもなく、単に私が人ならざる能力を所持しているためである)
何度か仕事で門の付近へ向かったことがある。
そこで見た彼女の姿は、ただ門の前に立ち、何もない中空を眺めていただけだった。
いつ見てもそうだったのだから、きっと、いつだってそうしているのだろう。
誰もいない門で、誰も尋ねて来ない門で、彼女は一人、ただ立っているのである。
喋る相手はいない。笑いかける相手もいない。ということは、私が町で暮らしていた頃のように、誰かに殺されることもなく、誰かを殺すこともなく、ただ一人でいるということだ。
私は彼女ではないから、彼女がどんな気持ちでそこに立っているのかは知らない。
けれど、想像することはでき、その上で出した結論は、ただ立っているのだろう、という何とも言えないものだった。
ある日のことだ。
時間に余裕が出来、かつ門の付近にいた私は、その日、ほんの気まぐれで彼女に声をかけた。
「何をしているの?」
彼女は答えない。いつものように、中空を眺めているだけだ。
聞こえていないのか、それとも無視しているだけなのか。
私はなんだか腹が立ち、がすんと、近くの壁を蹴った。
彼女は緩慢な動作(それでよく門番が務まると思った)で振り返り、そうしてようやっと、私がいることに気づいたのか、小さく一礼する。
「……何してるの?」
自分でも憮然とした声だったと思う。きっと、酷く緩慢な彼女の動作に、苛立った気持ちは治まることなく、より激しいものへと変化したらしい。
私の言葉に、彼女は何も言わず、小さく首を傾げるだけだった。
「何してるのって聞いたのよ」
その時点で、私は苛立ちを隠すことなく、怒気の篭もった声を出していた。
彼女は、視線を私から一瞬逸らし、そしてもう一度私を見つめ、蚊の鳴くような小さな声で、
「門番」
と答えた。
その声は想像していたよりも凛としていたのをよく覚えてる。けれど、感情が込められていないためか、響かず平坦な音だった。
そして同時に、私はなんて当たり前のことを聞いたのだろうと自覚し酷く嫌になった。
いくら話題探しのための会話だとはいえ、見てわかることを聞いてなんだというのだろう。彼女が返答に戸惑うのも無理はない。けれど、どうして私がそんなことを尋ねたのかといえば、彼女が決して門番をしているように見えなかったからであるのも事実。つまるところ、私が悪いわけではない。
「……それだけ?」
私はくだらない質問をした自分にも、そもそも彼女に話しかけてしまったという事実にも苛立ちながら、重ねて尋ねる。
美鈴は、相変わらずぴくりともしない無表情のまま、私を見つめるだけで何も答えない。
肯定なのか否定なのか、というよりも、私を馬鹿にしているのか。
何も答えず、苛立ったまま私が口を開こうとしたとき、ようやく彼女が動きを見せた。
「……空」
「え?」
一瞬何のことだかわからなかった。
「……空を見ていた」
そこまで言われて、先程の解答ということに気づく。この子は、なんて一つ一つの動作がこんなにも遅いのだろうか。正直頭が痛くなってきた。
彼女は私の質問には全て答えたと思ったのだろう。何も言わず、私が何か言うのを待っていた。
私としては、早くも声をかけたこと自体に後悔していた。
初めて会ったとき、私はこの子が嫌だと思った。今話してみて、嫌だというよりも、苛立たせるんだと思った。こんな場所にいても良いことは何一つない。今すぐ館に戻り、お嬢様のためにお茶を淹れたほうが、どれだけ有意義なことだろうか。
「特に用はないわ。それじゃあ……」
さっさと切り上げて帰ろう。
そう思い、館へ向かおうと振り向いた私を、
「待って」
と、呼び止めた。
美鈴が自分から私に話しかけたのは、これが初めてのことだ。
少々驚きながら、私は彼女へ顔を向け、「なに?」と不機嫌な表情を見せる。
彼女はそんな私の表情から何も読みとれないのか、何も変わらない平坦なつまらない声で、
「名前。聞いてない」
「…………」
それだけを聞くために、私を呼び止めたのか。
というよりも、この子は私がここに来てから数ヶ月、私の名前を聞くことがなかったということか?
ただ黙っているのも何だと思ったので、私は素直に名前を教える。
「……十六夜よ。十六夜咲夜」
その名前は、お嬢様からもらったものだ。私が幻想郷へ、お嬢様につれられてここに来るまで持っていた名前は捨てた。そんなものに意味もなければ未練もない。そんなものよりも、私は今、お嬢様からもらったこの名前を一番気に入っている。
「……そう」
美鈴は一度だけ頷く。覚えたということだろうか。
「……あなたは?」
すでにお嬢様から名前を聞いて(館に暮らす者達全ての名前を把握済み)いるので、改めて尋ねる必要性はないのだが、ここで私が何も言わないというのは、いささか礼儀に欠けた行動ではないかと思ったのだ。(私はこう見えても、モラルは守る人間である。例えば、人を殺したら、ごめんなさい、と言うのは常識だ)
「美鈴。紅美鈴」
綺麗な名前だと改めて思った。
これで感情豊かで、可愛げがあれば、素直に良い名前ね。なんて言えるのに。
「…………紅美鈴」
私が何も言わないからわかってないと思っているのだろうか。
メイドなめんな。
「わかってるわ。何度言わなくてもわかってる」
「…………」
私の言葉に美鈴は口を紡ぎ、私は溜息をつく。彼女の相手は無意味に疲れるということを学んだ一瞬だ。
「私は仕事があるからこれで失礼するわ。それじゃあ……」
さっさと切り上げてしまえ。
とはいえ、仕事があるのは事実であり、彼女があんまりにも緩慢とした動作ばかりなため、時間的にも割とぎりぎりになりそうだった。
私は彼女に背を向けると館へ向けて駆けだす。(基本的に私は、時間を止めて優雅に歩いていけばいいのだが、新人メイドとは走るのも仕事なのだ)
なんとなく、初めて会ったときのことを思い出し、一瞬だけ振り返る。
「…………やっぱり嫌いだわ」
彼女は深々と私の背中へ頭を下げていた。
彼女の名前。私には覚える気なんてないのにね。
季節は巡り、春から夏へ。幻想郷の夏は、熱帯夜が続くほど暑くもなく、それでいて春のようにぽかぽかとした陽気とは言えず、つまるところ、普通の夏である。
たまに見かける美鈴は、空を眺めるのに飽きたのか、今度は自分の握りしめた手を見つめていた。
はっきりいって気味が悪い。握った手の間から何かが湧き出てくるとでもいうのだろうか。タネもなくそんなものが沸いてきたら驚きを通り越して恐怖だ。
流石に一週間もそんな光景が続いたので、私はまたもや思わず声をかけてしまった。前回二度と声なんてかけるものかと思ったのに、だ。
「なにしてるのよ」
今度は、すぐ彼女は顔をあげた。振り返り、そして握った右手を差し出す。斬って欲しいのだろうか?
「…………」
「…………」
無言が続く。
美鈴は真剣な表情で握った右手を見つめているし、私はといえば、一体何がしたいんだろうと呆れながら見ていたのだ。(今思えば、そんな自分自身に呆れてしまう)それにしてもぴくりとも動かない。
「…………なに?」
溜息混じりに、肩でもすくめて聞いてみる。
美鈴はほんの微かに(無表情が少しでも変化すれば、それに気づくものである。ましてや、じっと彼女の顔を観察しているのだから)眉をひそめた。勿論、私はおや? と思う。この子にも感情はあるのかも。そんなことを思ったのだ。
「…………花が咲く」
「…………手を開いて」
呆れて私がそう言うと、美鈴は素直に握った右手を開く。落ちてくるものはなく、つまり彼女は何も握っていないということである。
深い溜息を吐く。
「出るわけないわ」
「でも、出た」
「誰がやって?」
「…………」
ぴっと無言のまま私を指さす。
なるほど。と私は思う。
この子は、いつだったか私がなんとなく余興でやってみせた手品を見ていたのだろう。そして、自分もそれをやろうとしていた。なるほど。私は納得する。
「何もないところから何かが生まれるわけがないわ。零に何を掛けても零のまま。当たり前のことよ」
「…………でも、氷とか出る人もいる」
「氷の妖精のことを言っているの? そいつは自分の中に一があるからどうにでもできるのよ。でも、一は一。二にはならないから、火が出てくるわけでもない」
「???」
美鈴はわけのわかってない表情になる。
私は溜息を吐く。全く、今日だけで何度溜息をついているんだろう。
「いい? 私がやったのは手品というものなの。手品はタネがあって初めて成立するの。例えば花を咲かせたいのなら、それなりのものを準備してやりなさい」
「……でも、あなたは何も持ってなかった」
はぁ、正直説明するのも面倒なのだが、私がやってみせた手品には、一応はタネもある。何も持っていないのなら、持ってくればいい。つまりは、時間をとめて、その間に花を持ってきて時間を動かせばあら不思議。周りには何もないところに花が突如現れたように見えるというわけ。タネは簡単、時間を止めること。常人には無理だけどね。
「それはね、私が特別だからよ」
「…………私には無理?」
「無理。言ったでしょう。零は零で一は一なの。掛ける数字が変われば変化もあるだろうけれど、例えるなら、氷に火をあてたら水になるようなものかしら。ともあれ、あなたの数字じゃ不可能よ」
不可能、という言葉に、美鈴は微かに反応を見せ、どことなく寂しそうな表情になった。一見すると、変化は見えないのだけど、これも観察の賜物と言えるのだろうか。
その滅多に見せない表情が気になったのか、私はまたも余計なことをしてしまう。
「…………わかったわ。私が手伝ってやってみせてあげる。その変わり、一度きり。今回だけよ」
溜息混じりにそう言うと、美鈴はこくりと大きく頷く。嬉しそうに見えたのは気のせいということにしよう。
「それじゃあ手を握って。そう、で、目を瞑って三秒数える」
1、2.
ぱちん。と、いつもするように時間を止める。そして、その辺りに生えていた白詰草を、握った手にそっと差し入れる。
、3。
はっ、としたように、美鈴が自分の手の中をまじまじと見つめる。そして、あの何処を見てるかわからない表情で私を見た。
そうね。普段から彼女の表情を観察していた私に言わせると、今の表情は驚愕と言ったところかしら。
なんだか、私はおかしくなって、くすくすと忍び笑う。
「どう? これで満足よね」
未だ驚きを隠せないのか、声も出さず、惚けたような視線を、私と自分が握っている白詰草、交互に見る。私は多分笑ってた。
「貸し一つね。今度何かして頂戴。その花言葉に誓って」
私はそれだけ言うと、くるりと背を向けて歩き出す。
二度あることは三度ある。こっそり振り返ってみると、美鈴は頭を下げてはおらず、ただ、黙って握っている花を見つめていた。
何故か拍子抜け。肩をすくめて館に戻った。
翌日、野暮用で彼女が暮らす小さな家に立ち寄った。(門の所にそれがある)
窓辺に置かれた小さな花瓶には、水と、昨日の白詰草が一本。
家の主はどうやら出かけている様子。門にもいなかったのだから、これはさぼりと見ていいのだろうか。それにしても、彼女がさぼるだなんて、私がここに来てから初めてのことじゃないだろうか。まぁ、どうでもいいか。どうせこんな辺鄙な館には誰も来ないだろうし。
パチュリー様から預かった本を、古ぼけた木のテーブルに置いておくと、私は家を後にする。
小さな暖炉と、小さな木のテーブルと、たった二つの椅子と、たった一つのベッドと、窓辺に置かれた白詰草。それが彼女の家の全て。充分だ。少なくとも、帰る場所があるということは、それだけで幸せなのだから。
けれどそうだわ。次に来たときは、花壇に生えている花でも持ち寄ろう。
花瓶に一本の白詰草だけでは、ちょっと寂しいものね。
その一週間後、忙しさにかまけて美鈴との一件を忘れていたとき、小悪魔の手に寄って包みが一つ、届けられた。
中に入っていたのは紙袋。その中身はハーブティの茶葉。
「…………アカシアね」
微かに届く匂い。ふふん。と私は鼻を鳴らす。
「これで貸し借り零ね」
白詰草の花言葉は約束。
だから、ちゃんとこうしてハーブティを届けに来たのだろう。
となると、先日家にいなかったのはこれを探しに行っていたのだろうか?
なんにせよ、なかなか可愛らしいところもあるものだ。
近いうち、ティーセットでも持って家に寄って見るのもいいと考える。
だってそうでしょう?
アカシアの花言葉は、友情、なのだから。
それから、私は暇を見つけては美鈴の家でお茶をする。
そこでの会話は決して多くはない。
美鈴は無口だし、私もよく喋るタイプではないからだ。
けれど初めて彼女と会ったときのように、嫌悪感はない。
まるで、新しいペットが自分に懐いたような、そんな気分だ。
その日、美鈴の家を訪れると、彼女は珍しく本を読んでいた。
彼女は、門で番人をやっているか、どこかへおつかいへ行ってるか、という生活だったのに。
「図書館で借りたの?」
私の言葉に、こくりと美鈴は頷く。
今日のハーブティはミント。花言葉は美徳。沈黙は美徳なのだ。
私が音を立てずに彼女の目の前にカップを差し出すと、本を閉じて、顔を上げた。
「…………」
「…………」
それから、二人無言でお茶を飲む。
目を閉じてお茶の香りと味を楽しんでいたのだが、ふと薄目で彼女の様子を見れば、どうやら本の続きが気になっているようで、ちらちらと、本を盗み見ていた。
「…………それは何の本なの?」
くすり。と一つだけ笑って尋ねてみる。
美鈴はえ? と、顔を上げて、あぁ。と微かに頷く。
「ん」
差し出された本の表題は「ペットの飼い方」というもの。
はて。この館にペットなどいただろうか。地下にいるのは流石にペットじゃないし。パチュリー様なら、あの図書室に何か隠してそうだが、それはペットというより実験動物のような気もする。
「ペットが欲しいのかしら?」
こくり。
「どうしてまた」
なんて、聞く必要もなかったかもしれない。
「…………なんとなく」
ぽつりと漏らした言葉はそんなものだったが、それはきっと違うと私は思った。
そう、彼女はこの家に一人で暮らしているのである。
いくら私が訪れるとはいえ、それは一週間に一度二度程度。毎日行くわけでもなければ、行けるわけもなく、また、四六時中一緒にいるわけでもない。
だとしたら、彼女は寂しいんじゃないだろうか。だから、ペットが欲しいと思ったのではないだろうか。
私は一言、「そう」と呟くと、静かにお茶を飲んだ。
美鈴は何か言おうとしていたが、結局口を開くことなく、私に倣ってお茶を飲む。
正直言って、私には寂しいという感覚がわからなかった。
一人で生きてきたからだと思う。ここに来るまで、私以外の人間は全て敵だったのだ。日々生きることで一生懸命で、そんなことまで頭は回らなかった。
けれど彼女は違うのだろう。そういえば、お嬢様は行っていた。初めてあったとき、彼女の父親が死んだということを。二つある椅子。この家の住人は、二人いたのだ。
今まであったものがなくなった喪失感。それによる寂しさ。
それを埋めるものを、彼女は求めていた。
私のこともまた、その穴を埋めるための欠片。
その事自体に嫌悪感はない。そんなところだろうと思っていたし、犬かなにかのように懐く彼女に、私は好意すら抱いているのだから。(それは決して彼女を動物として扱っているのではなく、懐かれるということが、なんだかくすぐったく同時に嬉しかったのだ)
だからか、私はついつい口を滑らせる。
「今度、お嬢様に聞いておくわ。飼っても良いか」
「…………」
その言葉に、彼女は、ばっと顔をあげる。
「…………ほんと?」
なんていうか、今の彼女には勢いがあった。思わず気圧された。
「え、えぇ。尋ねるだけならね」
まさかここまで反応されるとは思ってもみなかった。いつものように、「………そう」とか、そういう素っ気ない返事だろうと思っていたのに。
だからというわけじゃないが、戻り次第早速聞いて、明日にでも解答を届けてやろう。なんて気持ちにさせられる。
そのことを美鈴に伝えると、彼女は本当に微かだけれど、確かに微笑んで、
「ありがとう」
なんて言ってきた。
思わず頬が熱くなる。なんでだろう? いや、単に美鈴が笑っただけだ。それなのに、どうして私がどき。なんてしなければならないんだ。
とりあえず、その日は意外な収穫(美鈴の笑顔だ)がありつつ、その場を後にした。
館に戻り、お嬢様に会うなり、早速その話を持ちかけると、お嬢様曰く、
「ペット? それってつまり小動物ってことよね。狼とか熊とかじゃなくて。え? 犬とか? あー、それじゃあ駄目よ。だって、私、小動物を見ると無性に殺したくなるんだもの」
つまり、結果は駄目だということである。
私は陰鬱とした気分になる。
明日、私はこれを美鈴に伝えなければならないのだ。
今日の笑顔。
彼女はペットが飼えるかも知れないという事実に心から喜び、そして微笑んだ。
明日の憂鬱。
ペットが飼えないという事実に、彼女はどんな反応を見せるだろう。
きっと、それこそ黙ったまま、「そう」と一人沈んだ表情を浮かべるのだろう。
その顔を見るのは、なぜだか嫌だと思った。
久しぶりに私は溜息を吐く。重い溜息だ。
「…………どうしようかしら」
誰も答えはくれなくて、私も答えは出せなかった。
その翌日、私はしっかり約束を守り、彼女の元へ向かった。
私が到着するなり、昨日よりもはっきりと、誰が見てもそれと解る笑顔を浮かべて、彼女は私のことを出迎えてくれた。
どうだった? だなんて、今か今かと、普段の様子からは決して想像出来ないはしゃぎっぷりを見せてくれる。
私は曖昧に笑いながら、彼女の家へお邪魔する。
いつもの席に座れば、彼女はすでに準備していたのだろう、ティーセットを持って、そっと一つ、カップを私に差し出した。
それでも彼女の期待に添えるような答えを持ってきたわけでもない。
表面は笑顔を浮かべていても、心の中ではどれだけ溜息を吐いているんだろう。
とりあえず一口だけと、カップを傾ける。
ふわりと薫るさわやかな匂い。すぅっと喉を通っていく。
美鈴は向かい側の席に座ったまま、私が口を開くのをただじっと待っていた。
結論から言えば、私は本当のことを言えなかった。
どこまでも期待に満ちた眸で、私のことを見つめている彼女を見ていると、私には本当のことなんて言えなかったのだ。
完璧を目指す私にはあるまじき行為。
お嬢様に忠誠を誓った私からしてみれば、裏切りにも近い行為。
そんな汚点ともいえる行動を、彼女の為に、とってしまったのである。
それが良いことか悪いことか、私にはわからない。
ただこのとき、残酷な現実を突きつけるよりも、優しい嘘を語ったほうがいいのではないか。そんなことを思ったのだ。
勿論、今の私なら、その頃の私に対して「なんて馬鹿なことをしているの」と、説教するだろう。けれど、そのときの私にとって、彼女は……そう、友達。ずっと一人で生きてきた私にとって、きっと最初で最後の友人なのだ。
だから、私は嘘を語る。
どちらにしても、心に傷がつくのは彼女に違いないというのに。
「――――ペットの件だけど」
美鈴はぐっと表情を固くする。
期待をしていると同時に、無理かも知れないという諦めがそこにある。
「お嬢様は許可してくれたわ。そのかわり、この家だけで飼うこと。決して館には近づけちゃ行けないわよ」
私の言葉に、美鈴はぱぁと、まるでこの季節にぴったりと当てはまる向日葵のような笑顔を浮かべた。
そんな顔、初めて見た。
「…………っ」
その笑顔は、本当に、本当に綺麗で、可愛らしくて、私が言うのもおかしいが、年相応というか、そんな笑顔。純粋無垢で、私のように汚れてない笑顔。
この子にも、こんな顔が出来るのか。そう思うと同時に、なんて素直に笑えるんだろうと羨ましくなったのを覚えてる。
「本当っ?」
弾んだ声で私を見る。
私は初めて見た彼女の笑顔に、少しだけ気後れしながらも、一度、二度と肯く。
「でも、ちゃんと約束は守ってよね。この家だけよ。決して館には近づけてはいけないわ」
そう、これは私の独断だ。
だから、館で暮らすお嬢様がそのことに気づいたら、まず間違いなくそのペットは殺されるだろう。下手をすれば、美鈴の目の前で。
誰かが死ぬところは見飽きたけれど、それが大切な人だったら悲しいと思う。
ましてや、美鈴にとって、まだ見ぬその子は、家族になるんだから。
美鈴はそんな私の考えなど、爪の先程も気づかず、ただ嬉しそうに何度も肯いた。大丈夫。約束は守る。そう言いながら。
果たして私がしたことが正しかったのか、そんなことはわからない。今となって言えるのは、そのときは間違ってはいなかった。けれど、間違いには違いない。ただそれだけ。
その日私は、一杯のハーブティを頂いて、仕事もないのにそそくさと館へ戻った。
美鈴から「咲夜さんはどんな動物が好き?」「私は咲夜さんの好きな動物を飼いたい」「名前、一緒に考えてね」なんて、普段からは決して想像もつかないほどよく喋り、よく笑う彼女に、嘘をついてしまったという、何とも言えない罪悪感に襲われている私は、いつものように返事をすることが出来なかったからだ。
神様が、もしも本当にいるとしたら。何度もそんなのを否定してきた私で、いざ会ったときは殺してやろうと思って豪語していた私だけれど、一つだけ叶えて欲しいことがある。
願わくば、どうかこのことがお嬢様には伝わりませんように、と。
勿論、私のついた嘘じゃない。美鈴が飼うペットのことだ。私のことはこの際自業自得である。解雇されたら解雇されたで、また一人で生きていくだけだ。元の鞘に戻るだけ。幸せな未来なんて、最初から期待していなかった。
けれど、美鈴は違う。新しく与えられた楽しいこと。幸せな未来。彼女にはそれが必要で、今それが手に入ったと思っているのだから。
三日後。どこから連れてきたのか、彼女の家には一匹の子犬が増えていた。
美鈴にとって新しい家族。
真っ白な毛並みをして、その白さはまるで、美鈴の心のように見えたんだ。
-続-