Coolier - 新生・東方創想話

人間生き残りゲーム (前)

2006/02/21 11:37:29
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※※注意!※※
※・グロいです。ちょっとでも苦手だと駄目やも知れません。
※・幻想郷分が異常に少ないっていうか皆無に等しいです。
※・誰てめぇ警報。














=======================







 咲夜は覚えていた。

例えば埃を一面に敷いたような道。歩くたびに埃が舞って、鬱陶しいことこの上なかったこと。
道沿いには浮浪者や汚物や、それから少量の血液が時々散っていたこと。
寄り道しか無い大通り。血管みたいで気持ち悪かったこと。

得体の知れない肉を使ったミートパイを売る店――それが妙に美味かったこと。
必要以上の臭気を振り撒くゴミ捨て場。街全体がゴミ捨て場みたいなものだったが、そこは輪をかけて酷かったこと。

夜になると、街がこの世全ての闇をかき集めて影で覆ったように暗くなったこと。

袋小路。時々ボロ雑巾のような奴が転がっていたこと。
割れたガラス窓。
しつこく染み込むランプの光。
移り変わる幾多の表情。

硝子の眼。
どうしたって前に進めない錯覚。異常に軽い足元の感覚。

面白いくらいに噴き出た血。

ごちゃ混ぜになったくじ引きだらけの街を、嫌になるほど咲夜は覚えていた。



○――――――――



「昔のことを――」

夜。中天高く輝く月は円い。

「思い出してしまいました」

「珍しいのね」

照明と言えば窓から差し込むその月光のみ。
夜が広げる寂寞の淵に、ぽっかり浮かぶ二つの影があった。
互いの声が、常よりよく通る。
「困りますわ」
己の頬に手を当て、十六夜咲夜はいかにも困ったといった顔を作る。
実際、困る。仕事中になどは、妙な気分になって手元が鈍るのだ。時折ある、こういうことが。
「いいじゃないの。咲夜のそういう顔も見られるし」
横目で咲夜を流し見つつ、レミリア=スカーレットは対照的に薄く笑う。
咲夜もまた微笑むが、彼女のそれは当然快くはない。
「お嬢様は意地悪です。私の過去など愉快なものではないということは、おわかりになっている筈」
「ふふ、そうね。少なくとも笑い話には出来ないわね。けれど捨ててはいけないもの。そうでしょう?」
「……仰るとおりです」
恭しく、咲夜は頭を垂れる。
そう、大切なものであることは間違いない。過去を通ってきたからこそ、今の自分があるのだから。
紅い館で、レミリア=スカーレットという存在に仕えていられるのだから。
「過去はね、咲夜」
カップを傾け、紅茶を一啜りし、レミリア。
「あの月に似ているわ。まったく姿を潜めることもあれば、眩しいほど己を主張することもある。
 そういえばそう、今宵は満月だったわね。あなたが久しぶりに昔を思い出したのもその所為かしら」
「そう――でしょうか」
応対に、いつも通りの冴えは無い。己を鈍らせる記憶を月の光に例えるレミリアの言葉を受け、窓から夜空を仰ぐ咲夜。
しかしすぐに頭の中で否定した。迷路と血糊で彩られた記憶と同じにするには、あの月光は美しすぎる。
「そう。それでいて過去は、時として運命以上に心をがんじがらめにするもの。でも普遍の真理ではない」
謡うように続けるレミリア。或いは独り言のようでもある言葉が、淡い光と闇の境界に溶けて消える。
「何故そんな顔になってしまうのか、わかる?」
不意に咲夜の目をじっと見た。眼球の裏側を覗き込まれるような視線に、咲夜は畏れを覚える。

「あなたが人間だからよ」



○――――――――



 はて、果たしてどこから壊れてしまったのか?
この世に生れ落ちて(少なくとも自分はそう認識して)初めて知覚したものは、満月である。
その時すでに、満月の狂気に中てられていたのかも知れない。
狂気と共に誕生したかと思うとそれなりに洒落ているが、好ましいものであるわけがない。
親らしきものはどこにも見えなかった。捨てられたのか、死んだか。最初からいなかったか。何にせよ今の彼女の周囲に
あるものはゴミと闇くらいなものだった。
そんな自分に、月は静かな光を浴びせていた。銀の髪がきらりと輝く。

かくしてゴミ溜めの街の片隅に、名の無い人間存在が生まれた。満ちた月の夜のこと。


――あの娘は本当によく働く子。
といった評判が立つのにそう時間は要さなかった。
少女自身が意識して働き回ったわけではない。彼女の頭の中には空白が余りに多すぎて、その隙間を埋める為には与え
られた仕事をするのが好都合だったからだ。
幸い彼女は要領がよく、手先も器用だった。
呼ばれればすぐ出てきて、家事全般をそつなくこなし、細かな気遣いも忘れない。理想的と言ってもいい。
汚れ切った貧困層の比較的まともな生き場所――娼館に拾われた彼女は、住み込みの小間使いとして、実によく働いた。

てきぱき働く一方で、少女は己を探していた。

自分以外の誰も、彼女のような鋭い銀の髪を持ってはいない。
身近にあるもので最も近いものは、食器棚にある果物ナイフ。
灯を反射するナイフの銀光に似たものを感じ、長い長い間見つめている内に、やがてその光に魅入られてしまったことが
ある。
もっと近くで見たくなり、己の眼にその刃先を近づけ――
それが見つかってこっぴどく叱られたことがある。
二度としないと誓ったが、時折ナイフの光をこっそり静かに眺めるようになった。
また、自分以外の誰も、自己を象徴する名を持っている。
少女自身に名は無かった。この娘、あの娘、おちび、居候。それだけで十分事足りたから。
特別な不満は無く、さりとて納得の心はどこにも生ぜず、ただ心の奥底に沈殿する違和感のみがあった。
髪のことも名前のこともそうだが、何より。
何より、自分以外の誰も彼もが、みな奇妙に優しい瞳を持っていたから。
寄り添う者達の温かみか。動物の持つ温もりか。
いずれにせよ、それらを全て否定するように、鏡の向こうの少女自身の目は冷たかった。人間のものと言うよりは、人形
のそれとひどく似通っていたのだ。

自分が皆と違うことには何か意味があるのだろうか。
自分は皆と同じものとして数えていいのだろうか。
そればかりを考えていて――やがて日々が過ぎた。

居心地は良かった。仕事さえ済ませば考える時間はいくらでもあるし、必要以上に他者に干渉されることもない。
心地よいぬるま湯のようなそれが自己を包む感触が、少女は好きだった。

そのぬるま湯にどす黒い赤が混ざり始めた時のことは、鮮明に覚えている。



 ●



 一人、殺されたらしい。
その殺された娼婦は少しふっくらした中年の女性で、酒ばかり飲んでいた。
別の誰かから、あいつはアル中だから近づくなと注意されたのを覚えている。
それが死んだ。
遺体は酷いものであったそうだ。
下腹部を二度も切り裂かれた痕跡があり、同様に喉も掻き切られていた。
血がよく出て、しかも即死しない場所だ。相当苦しんだだろう。現場を見た警官も目を背けずにはいられなかったという。
自殺でこんな真似ができるわけはなし、事故も同様。どう考えたって殺しだ、と警察の捜査が始まった。
少女はその時、どんな感情より先に不思議な違和感を覚えた。
盗み聞いた警官の報告は、まるで破損した物品について言っているようだったから。
街角で聞いた噂話は、なにか薄気味悪い怪談のオプションについて語っているようだったから。
つまり、件の犠牲者には、既に人間という定義づけがされていないように思えたからだ。
あるとき、少女は比較的馴染みのある娼婦に尋ねてみたことがある。
――あのひとはどうして殺されたのですか?
娼婦はさして悩む風もなく、簡潔にわかりやすく説明した。
あたしたちは人と繋がって金を貰っている。その繋がりの中で何かの恨みを買ったって、仕方が無いってものさ。
人間誰しもが優しいわけじゃない。なあに、面倒ごとは巡査さん達が片付けてくれるよ。と。
少女はそれ以上の追及はしなかった。

――生きたくて始めたことなのにね。大した皮肉だよ。

話の終わり際、初めて感情を露呈させたように吐き捨てられた言葉。
それが妙に少女の頭に残った。


 ●


一週間と少しで、また一人殺された。
人体を著しく傷付ける手口。その女もまた、娼婦として生きている一人であった。
同一犯の仕業だろうとは疑う余地も無い。
いつからか、姿の見えぬ殺人鬼は、『切り裂きジャック』と呼ばれるようになった。
少女はずっと耳を澄ましていた。警官の話に。噂話に。事件に関するありとあらゆる言葉に。
それら全てに、違和感があった。一週間とちょっと前に感じたものと同種の違和感だ。
人としての話はすべて過去。ズタズタに裂かれて路地に転がり、地下に埋められた現在の犠牲者を、人として話す者など
いなかったのである。
死んでしまった人間は、人間として認められないのか?
いつしか少女は、殺害された『もの』達と、他の人間達とは姿の違う自分を重ねていた。
人とそれ以外の境界はどこにあるのだろう? こんな姿の自分は、どちらに属するのだろうか?

ずっとそればかりを考えていた。


 ●


三人目と四人目は同じ晩。
一方は喉を裂かれたのみと比較的まともな死に様であったそうだが、もう一方は酷い有様だったらしい。
犯人はやはり『切り裂きジャック』だと思われるらしい、と。
早朝その話を耳に挟んだ途端、少女は駆け出していた。
確かめたいことがあったから。気になることがあったから。

向かう先は小さな公園――『酷い方』の事件現場である。

まだ片付けもろくに終わってない状況の現場を、少女は遠目から見た。
慌しく動く警察らしき人々の隙間に見えたそれらを。まばたきもせず、血の海に沈んだ哀れなる犠牲者を見つめた。
最初に抱いた感想は――ああ、同じ人間が、こうなってしまうんだなあといったもの。
飛び散った赤の密度が濃くなっていき、その中心にあったそれは、何か前衛芸術のオブジェを彷彿とさせるものだった。

下腹から首元まで一気に切り裂かれた体。
幼い少女には余りにも残酷すぎる筈の光景を、少女は微動だにせず観察する。
全ての血の根源となる腹部の裂け目からは、やけに黄色い脂肪組織と飛び出した臓物が外気に晒されていた。
肋骨は竜骨のように、灰に淀んだ天を掴むように大きく広がっている。
もっとも少女は解剖学などに詳しくないため、何が何だかよくわからなかったが。
ただ下腹部の上の腸だけは、こんなものが今まで腹の中に収まっていたのかと不思議に思うほどこんもり積もっていて、
彼女の印象に残った。昨夜食べた粗末なミートソースのスパゲティを思い出したのだ。

それら全てが今にも蠢きだしそうな、有機的な一種の艶を放っていたにも関わらず、少女はそれが決して起こらぬことを
もはや確信していた。

何故なら、そこにあるのは生命の抜け落ちた物体だからだ。
物体には今まで見てきた様々な人間たちの瞳のような温もりは一切感じられなかったからだ。

これは少女に特別な能力があったからわかったというわけではない。ただ結局のところ、犠牲となった女は単純な物体に
成り果ててしまった、それだけのことなのだろう。
ともあれ彼女が見たのは確かに、『人間』などではなく、『肉と血が集まった物』であった。
ショックはない。不快感もない。心にあるのは、ただ納得と更なる疑問のみ。

人は死んだら物になることは確認した。
ならばどこから物になる? 呼吸が止まってからか? 目から光が消えてからか?
それとも、あそこまで破壊して初めて、人と物の境界を越えるのか?
自分もああなったら、他の人達と一緒くたに物体として処理されるのか?


 ●


それから一ヶ月余りが経過しても、少女はまだ考えていた。
人と物の関係についてだ。それらの疑問の根底には自分の存在がある。
結局自分が何者かを知りたいのだ、と初めて認識したとき、彼女はもともと表情に乏しい己の顔を苦笑の形に歪めた。
鏡の向こうにはいつかと変わらぬ冷たい瞳がある。

ところで、少女には比較的親しい女がいた。
中年の多い娼婦の中では若く、酒が入ると暴れる癖はあるが、いやに面倒見の良い女性だった。
親しいといっても女の方がよく少女を目にかけただけであって、友人関係のように仲がいいわけではないが。
痩せた少女にしきりに脂っこいものを勧めるのが、有難くも迷惑であったことを覚えている。

ジャックの最後の犠牲者は彼女となった。

肌寒くなってきた頃の夜のこと。
その娼婦は館で男の相手をしていて、終わる頃にはすっかり深夜だった。
勿論館に泊り込むのも手だが、自宅の安アパートは家賃をもう六ヶ月も滞納している。うっかり家を開けると、翌朝辺り
部屋の中の荷物ごと追い出されかねない。
そろそろ払うための金も溜まってきたのに、そんな展開は勘弁願いたい――と、彼女は悩んだ。
切り裂きジャックの噂は、今だ街を駆け抜けている。ここ一ヶ月と少しはなりを潜めているようだが、今にも新たな獲物
を探して夜の街に飛び出してくるかも知れない。
そう思うと体が冷えた。出る気を無くしてしまう。が、家を捨てるわけにもいかない。
そんな彼女が目を付けたのは、遅くまで掃除をしている少女だった。
小娘一人増えたところで何が変わるわけでもないということは百も承知だが、帰路の心細さを紛らわすには充分だった。
少女はその時いつものように考え事に頭の大半を使っていたため、特に深く考えず送ることを承知した。

その選択が少女にとって良かったのか悪かったのかは、少女自身が成長した今となって考えてもわからない。


風は身を刺し、闇は黒々と横たわる、夜の道を二人で歩く。
僅かな月明かりと手元のランプだけが頼りだった。
灯に乏しい道だ。随所に蹲る闇は今にも獰猛な唸りを上げ、二人に飛び掛ってきそうだった。或いは、吐き気を催すほど
嫌らしい笑みを浮かべ、這い寄ってくるか。
それらの空想は確かに恐怖であったが、更なる恐怖から逃れるための手段であったこともまた確かだ。
襲ってくるのは闇そのものなどといった子供だましのような怪物でなく、現実に存在する怪物、即ち切り裂きジャックで
あるかもしれないからである。
そいつは闇夜に尚映える銀色のナイフをその手に携えて、音も無く近寄ってくるかも知れない。
振り返れば立っているのかも知れない。角を曲がればいるのかも知れない。横の細道から飛び出してくるかも知れない。
それらの仮定を振り払うため、娼婦は空想の怪物を頭の中で構築しながら歩いた。
一方少女は、歩きながらずっと考えていた。
横にいるこの女性も、殺されたら物になるのか。
自分も同様なのか。
そればかりをずっと。

果たして彼女らは、何に襲われることもなく目的地の安アパートにたどり着いた。
少女はもう着いてしまったのかと少し驚いていた。ぼんやり考え事をしていたから、距離を実感しなかったのだ。
ともあれここまで来ればもう安心だろう、と胸を撫で下ろしかけた娼婦だが、同時に大事なことに気付いた。
少女は館まで一人で歩いて帰らなければならないではないか。そんなのは、危険だ。
だから娼婦は夜道を一人で帰るのは危険だから、今晩は泊まりなさいと少女に言った。彼女特有の余計なお節介とい
うか面倒見の良さに、少女は少しばかり悩んだ。
断る理由は無い。館の皆はもしかしたら心配するかも知れないが、翌朝誰より早く起きて帰ればいいだけの話だ。
早起きには慣れている。
だから少女は結局、その厚意に甘えることにした。

階段を上がり、部屋の扉を開けて、何故か部屋の中から二人の間へ夜風が駆ける。
割れた窓と、床に散らばっている破片を二人は認めた。

男が一人、部屋にいることも。

顔はよく見えない。
だが少女は確信した。

――切り裂きジャックだ。

直後、意識が飛んだ。側頭部をぶん殴られたが故ということを、彼女は知る由も無い。
幸運だったのかも知れない。
生きたままナイフで解体される娼婦の、この世のものとも思えぬ断末魔を、聞かずに済んだのだから。


目が覚めた彼女が最初に見たのは赤の色だった。
もはや見慣れたそれを未だぼやける視界で捉えたとき、ああ、やっぱりと思った。
次いで鼻を衝く形容しがたい悪臭。
静かに上体を起こし、部屋にあるベッドに目を向ける――臭いの発生源はそこにあった。
そこにはもはや全身を切り刻まれた娼婦の姿。いや彼女流の表現を使うのなら、かつて娼婦であった物体だろう。
どうしよう、と思った。
どうにも体がだるく、まともに動ける気がしない。かといってこの血と肉と臓腑でどろどろになったスープのようなものと
夜を明かすのは流石に嫌だった。
少女の感覚は麻痺していた。
連日の思案と一ヶ月前に見た死体、それから今目の前にある死体。自覚こそ無いが、それらの要素は彼女の心を徐々に
痺れさせていき、恐怖という感情をも覆い隠してしまったのだ。
故に今この部屋で広がっているものに現実感を見出すことが出来ず、少女の心はいつも繰り返してきた日常へ逃避する。
今は何時だろう、早く帰らなければ叱られる。食器を洗おう。廊下の掃除がまだだった。洗濯物を干さなければ――
ふらふらと力無く立ち上がる少女。
と、部屋の隅に何かがあるのを認識する。影にしては濃すぎる。もの言わぬ物体が蠢く筈も無い。
いつの間にかだいぶ傾いていた月光が割れた窓から差し込み、その何かの手にある銀色のナイフを光らせた。

麻痺した感覚で思った。
私も物にされるのかな、と。

抵抗する気は起きなかった。それは感覚がおかしくなっているからこそだが、彼女にそれがわかろう筈もない。
男が近付いてくる。ゆっくり歩を進めつつ右手を高く掲げた様は、一種の荘厳さを想起させる。
やがて半歩も無い距離まで接近する。
男は反撃を警戒している風ではなかった。油断していたわけではない。ただそれでも良かったのだろう。
反撃しようがしまいが関係無かったのだ。その切り裂き魔には。

月光が男の顔を照らす。
少女は見た。
その眼を。

塞き止められていた恐怖が瀑布となって少女の心に襲来する。

濁った血と澱んだ精神を練り固め、空虚で極限まで希薄化させたおぞましい硝子の眼球が、あった。
黒でも白でもなく生きても死んでもいないただ虚の色がどこまでもどこまでも続いている男のその眼は、人と物について
考えすぎていた少女の理論を叩き壊すには充分すぎる狂気の結晶として鈍く光る。

――こいつは、人間じゃない!

動く死体か地獄の怪物か、はたまたからくりの人形か。しかしそのどれも当てはまらなかった。
少女の断定に反し、男は人間でしかなかったのだ。
歪みすぎて生命の輝きを無くし、替わりにありったけの狂気を押し込んだ――それだけの人間でしかなかったのだ。

絶叫に近い悲鳴を少女は上げた。
頭頂から脊椎を下に、幾千幾万の蟲の如き恐怖が這い落ちる。恐怖だった。彼女の並べ立てた考えを全否定する男が。
人というには冷たすぎて、物というには動きすぎる、その男が。
そして何よりも、その狂気の塊に飲み込まれてしまうということが恐ろしかった。

弾かれたように少女は駆け出す。

階段を転がるように駆け降り、扉を弾き飛ばし、寒風走る闇の街へ飛び出した。
光が恋しい。皆に会いたい。異常に寒い。目が渇く。もう何も話せない。無性に何か飲みたい。恐い。恐い。恐い!
生まれて始めて感じた本物の恐怖は少女の全身に絡みつき、足をもつれさせ、視界を狭める。
もはや男の眼光に中てられた少女にとって慣れた筈の道は道ではなく、曖昧な蜃気楼で構成された足場でしかなかった。

不意に足場の手応えが消える。
何のことは無い、転がっていた空き瓶を蹴飛ばしてバランスを失っただけなのだが、少女はついに逃げ場をすべて失って
しまったという錯覚まで覚えた。
地面に投げ出され、強かに体を打つ少女。それでも痛みは無かった。恐怖と強迫観念が何もかもを押し流しているのだ。
逃げなくては、逃げなくては、どこかに隠れなければ、殺される。

殺される。

そう、殺されて、動かぬ物体に変えられるのだ。他の誰でもない、あの殺人鬼に!
立ち上がれぬまま必死の思いで後方を振り返る。

男はいた。追ってきたのだ。走ってくる。走っているのに走っているように見えないのは少女が混乱しているせいか。
奴は走る真似事を滑稽に演じつつ、それでいて恐ろしい速度で迫り来るように、少女には見えた。
男の背後に輝く月を、振りかざされたナイフを、彼女は瞬きもせずに見る。

――死にたくない。
殺されたくない。物になんかなりたくない。だが殺される。小さな刃物は少女の命を切り刻む。

ナイフが閃き、少女の喉元に襲い掛かる。
殺されるのだ。死にたくないのに、殺されてしまうのだ。
もはや瞳が点になってしまっている目を、ぎゅっと固く瞑る。

私は――人間でありたいのに。


ぴしり。


亀裂が生じた音を、少女は耳の奥で確かに聞いた。
ナイフが喉に喰い込むべき一瞬は既に経過しているのに、彼女の体のどこにも痛みは無い。
恐る恐る目を開けると、目の前には停止したナイフの刃先がある。
死ぬというのはこういうことなのかと最初は思った。だが、どうやら違うらしいと知る。
抜けた腰にどうにか力を入れ、男の横に回り込み、ナイフの脅威を回避出来たからだ。

少女は直感する。この世界は、動くことを放棄している、と。

もはや恐怖もどこかへと消えていた。静止した世界のどこかに置き忘れてきてしまったらしい。或いは、先程繰り広げら
れた束の間の逃走劇の際に吐き出し尽くしてしまったか。
驚きは不思議と小さかった。或いは、遥か前から予感していたのかもしれない。生まれて初めて満月を見た夜から。
崩壊感覚と共に、目覚めるべきものが目覚めたのだと、頭の片隅で少女は思った。
一瞬の空白となった心に、今度は重く澄んだ悲しみが沸く。

静止した世界は、ただ、悲しかった。

すぅと頬を液体が伝う。今の今まで流すことを忘れていた涙は、恐怖ではなく悲しみの意味で現れた。
人も物もない世界に飛び込んでしまった自分が哀れでならなかった。

――ああ、とうとう壊れてしまった。
――私は――私の世界は、壊れてしまった。

蹲って泣きじゃくりたい衝動に駆られる。だが、それは出来ない。
目の前にかの切り裂きジャックがいるのだ。
悲しみに満たされた全身を、奇妙な使命感が突き動かす。こいつは殺さなければ。
人でも物でもないこいつは、存在してはならない。

緩慢な動作で男の手からナイフを剥ぎ取り、振り下ろす。男の右肩肉が裂けた。
血は出ない。世界が血を出すよう動かないからだと少女は理解する。
二度目を振り下ろす。右腕の肉が削げ剥離するが、落ちることなく空中で静止する。
三度目を振り下ろす。先端が首に突き刺さった。ぶつんとした手応え。太い血管を断ったのだろう。
四度目を振り下ろす。鎖骨から胸にかけて大きな裂け目が生まれる。

そこが限界だった。世界の時は動き出す。

血が愉快なほどに噴き出た。男はその目を見開いている。
未だ流れる涙をそのままに、少女は男の反応を見極めようと思った。驚愕するか、痛みに絶叫するか。

違った。男は大声で笑い出した。

調子外れの不協和音にも似た笑い声が夜の街にこだまする。聞くものは少女以外誰もいない。遮るものは何も無い。
男は何がおかしいのか己の血を見ながら笑い転げる。仰向けに倒れたその顔には恍惚の色が浮かんでいる。
少女は戦慄した。尽きたと思った恐怖が蘇った。ただし今度は、死を恐れる動物的本能の混ざったものではない。
純粋に得体の知れぬものを見たときに心の奥底からじわりと滲み出る、腐った硝子球の如き恐怖だ。
――やめろ。
少女は口の中で我知らず呟く。男が笑う声を否定したかった。否定せずにはいられなかった。
その声を聞いていると、彼女の心までが狂気に侵食されそうだったから。
少女は五度目のナイフを振り下ろす。舞う血。しかし男の哄笑は一層その勢いを増すばかり。
六度目を振り下ろす。男は尚も声高に笑い続ける。
――やめろ。
哄笑。
――やめろ。
哄笑。
――やめろ!
哄笑。哄笑。哄笑。哄笑。
――やめろ! 私をそこに引きずり込むな!
男に跨り、言葉と心で否定しながら、その度に少女はナイフを突き刺し続ける。
肉に喰い込む音は徐々に湿っていき、最後は泥水を踏みつけるような音に変わった。美しかった銀髪を赤黒い血と何かが
染め上げる。眼に入った血の一滴は飛び上がるほど熱かった。
少女が肩で息をしながら立ち上がる頃には、男は事切れていた。血で彩られた笑みをその顔に貼り付けたまま。


少女は男の死体をゴミ捨て場に放った。重かったが、肉と内臓を分けて持ち運べばそう苦労はしなかった。
いつの間にか涙は枯れていた。恐怖も今度こそ尽きていた。
生ゴミが溢れるだけ溢れて回収されることのない、もはや使われることのないであろうゴミ捨て場に突っ込まれた肉塊を
見て、返り血にまみれた少女は息をつく。
その息が安堵によるものか、嘆きによるものか、諦観によるものかは自分自身よくわからなかった。


人と物の境界に虚ろに存在した男は――切り裂きジャックはこうして死んだ。表向きには消えたことになっている。
倫敦の貧困層を震撼させた殺人鬼は、消えた後に残った神秘性と猟奇性から長い間語り続けられ、100年以上経った
今までその名を刻むことになるのだが、余談。



そして。

少女の心の荒野に残るのは、つい先日まで持っていた疑問と好奇心のみ。
崩壊感覚と共に止まったあの世界について。そして自身について。


『私は人間なのか?』


たった一つの疑問は、闇夜に浮かぶ誘蛾灯のように、ぽつんと不気味な光を放っていた。



ジャックは単純にものすげーイカレポンチだったんですよ説。
続きますよ。
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コメント



0.890簡易評価
8.無評価翔菜削除
うーん、この『人間』と『物』。
この考え方が何だかしっくり来る。
そして切り裂きジャックは消えた、か……。
もしかすると、本当にそうなのかも。

後半、楽しみにしていますー。