その人の名は稗田阿礼。
一介の舎人が、時のみかどに、これちょっとやっといて的に直々に仕事を頼まれていたのだから、後々を考えるとずいぶんとまあ気安い時代であったというほかない。
(帝紀と本辞の整理か)と、その人は思った。ちょうど同時期、上古の諸事の編纂が官僚主導で企画されていたので、当初はそれに関連した事業なのだろうというふうに考えてもいたのだが、やがてそちらへの合流はしなくても良いと告げられた。
(じゃあ、いったい、どういうわけでこの仕事を?)
その人は首を傾げながら、みかどやその家族たちが整理しつつも体系化していなかった語りや文献を、すっかり記憶してしまったが、これがたいへんに変な作業だった。周りで動いているのは事務官僚ではなくみかどの血縁や類縁的な子女たちで、公的な事業とはとても言いがたく、どちらかといえば家庭内のあれこれを引き継ぐ作業に近かった。また気になったのは、それをなるべく上古のことばで残して欲しいとの要望があった事だ。
だからこそ、記憶力抜群で鳴らしているものの、当時の公用文書に使われる言語――要するに漢語――には昏いという種類の人間に、この任を充てたのだとも教えられた。
(変な理屈ね)
と思うと同時に、ひそかに不満もあった。幼い頃から、記憶力の良い事は家族と郷里の内では有名で、その評判がやがて中央への紹介に繋がって宮仕えを果たしたその人だが、そうした当初は「漢語については今のところほとんど馴染み無しですが、すぐに覚えてしまいますよ」といった売り込みを方々にかけていた。官僚志望だったのだ。
それが、仕えてみると、漢語はなるべく覚えるなと指示され、ただしよくわからない昔語りばかり、頭の中に流し込まれてしまった。
(まあ、それはそれだ)
稗田の家はけして大きくないし、神祇にかかわる家職も、今後どうなっていくかわからない。家を背負っているという気負いはなかったが、手に職をつける事は悪くない。時折手元に流れてくる行政文書にひそかに目を通して、漢語もあっという間に習得してしまったその人だった。
このささやかな“反逆”に、時のみかどはすぐに気がついて苦笑いしていたが、まあその記憶の良さなら遅かれ早かれ仕方のない事よなと笑って許し、その上で、昔語りの方は絶対に忘れるなよと釘を刺すだけで叱責は終わった。
飛鳥浄御原天皇、またの名を大海人――漢風諡号は天武天皇――が崩御し、執政は皇后鸕野讚良が行う事になる。
彼女はその人よりひとまわり年上の女性で、その人の仕事とはあまり関わりない人だった。公務や公的事業の方にかかりきりで、これは亡夫がやりかけの状態で残した実務を引き継いで完遂しなければならなかった事情もある。ひょっとすると、昔語りの収集作業の事など、ころっと忘れてしまっていたかもしれず、その人の存在は、凝り性で博物好きでもあった異母妹の阿閇皇女あたりにあてがわれた、ちょうどいい遊び相手くらいに思っていたふしがある。本当は阿閇よりもひとまわりほども齢が長けているのだが、妙に幼く見られているその人だった。
この時期のその人は、阿閇をはじめとした皇室の子女たちに、言葉伝えで、昔語りを聞かせる事を仕事らしきものにしていた。そうした行為を繰り返す中で、ちょっとだけ言葉の表現を変えたり、語順を組み替えたりして、語り物として少しずつ彫琢してもいる。
話を聞かされた子らは、その人の語りを楽しんでくれた。好評だったのは、単純に筋が面白いのもある。この世界がなんであるかを説明する話、氏族の由来の話、おそろしい話、英雄譚、恋、いささかしょうもない話、歌物語、陰謀も、悲劇もある。自分たちの祖先と豊葦原中津国が、いかに芳醇で興味深く、良いも悪いもすべてを抱えこんでいたのか。彼らはそうした事を知った。
(この感じだと、なんとなく宮中にいる、おはなし好きの怪人物になっている気がするが、不思議と悪い気はしない)
その人はのんきに思った。
しかし世間はのんきとも言えない。鸕野讚良が亡夫の仕事を引き継ぐ事になった時、彼女はすばらしい精神力と義務遂行能力でもって、夫婦の間に残されたもの――皇位継承者でもある息子の草壁皇子――の立場を強固にするために、競争相手になりえた甥っ子を処断していた。
(まあ、それはそれだよね)
その人は、人が謀殺された事などはあまり気にしておらず、たとえば自分がこの一連の流れを語りに組み込むならば、どう潤色すべきだろうという事だけを考えている。ただ、色々覚えている事を組み合わせて考えてみると、この謀殺にはどうも阿閇も関わっていたような気もする。彼女は草壁皇子のもとに正妻として嫁いでいた。
鸕野讚良が親類に死を賜ってまで守ろうとした、皇太子草壁への皇位継承は、彼の急死によって叶っていない。緊急の措置として鸕野讚良――漢風諡号は持統天皇――が即位。
また、この女帝は外交関係にも頭を悩ませている。
白村江の敗戦で、朝鮮半島への直接的な影響力を失陥して以降の数十年。大唐帝国の軍事侵略の気配は――たとえ帝国の国力として、まったく収支が釣り合わないような不可能事だったとしても――常に懸念として存在していた。
数十年。その間に壬申の乱という大乱があって政権の転覆などあったものの、結局立ち向かわなければならない課題は変わらず存在していて、そうした中で一人の男が帰還してきた。白村江の敗戦の後、捕虜の身で帝国の軍事行動の可能性を伝え聞いたその男は、我が身を売って奴隷の身分に墜ちながらも、それで得た金を資金として仲間たちを本国に帰還させた、そういう男だった。結局のところ大唐帝国の進攻は無かったにもかかわらず、女帝はその男個人に対して異例の勅語を送り、そこに愛国の言葉を添えた。
ともかくそうした時代だ。
(いささか大袈裟の感はあるけれど、国か)
とその人は思った。
(どうやらここは我々の国というものらしい)
そうした意識すらなく、なんとなく宮仕えをしていたその人にとって、この出来事は印象的だった。その人にも家族だとか一族だとかはあるし、我々の地域という意識はあったし、海の向こうの帝国の存在と、その帝国と我々とはどうやら違うものらしい、という事も知ってはいたが、ここでようやく、なにかはっきりとした境界を定められた気がした。
(でも、わたくしはどこに所属しているのかはわかったけれど、わたくしは何者なのか、それははっきりせんのだよな)と、少しぶっすりとした。
なにか宙ぶらりんな気分がある。
皇位継承の憂いがなくなった後、鸕野讚良は草壁皇子と皇太妃阿閇との間の子である、若い珂瑠皇子――漢風諡号は文武天皇――に生前譲位。太上天皇として執政を行う。
珂瑠にはふたりの姉妹がいて、特に姉の氷高は、親子以上の齢の違いなのに、その人と仲が良かった。
昔語りを気に入られたからだろうが、語りをもっともっととせがんでくるような、お話として楽しむような気に入り方ではなかった。そういう楽しみ方で昔語りを聞く子女らは多かったが、氷高はもっと構造的なものを、この語りにおぼえたらしい。その人の語りが内容こそ同じであるものの時々変わっていく事もしっかりと覚えていて、この部分の言葉遣いを改めたのはなぜか、語形変化によって語りにどういった効果を試しているのか、といった事まで切り込んでくるような少女だったのだ。
(頭が切れる上に、顔も良い)
頭の良さはきっと母の阿閇譲りだっただろうが、氷高はとびきりの美人で、これほど御顔きらきらしい方は小治田の女帝――漢風諡号は推古天皇――以来と囁かれるほどだった。しかし当人はそうした顔面の評価などどこ吹く風で、その人の昔語りの編集作業を手伝っている。
……弟の珂瑠に世継ぎさえできれば、なんの憂いもなくなる。そうなれば、こうした博物の作業を行うだけの、変わり者の皇女で構わない、ともこぼしていた。
(みかどのお世継ぎか)
その人も、後嗣の関係で色々の思惑が飛び交っている事は知っていた。なんせ珂瑠には皇后が置かれず、ただ後宮内に各氏族から出された女性たちの中で、とある氏族の女性が、なんとなく夫人として別格扱いになっているだけ、という状態だったのだから。
それが藤原宮子。藤原不比等の娘。
その人は後宮の権力闘争になど興味がないので(まあなんか色々あっての事だろうけど、宮子ちゃんも大変ねえ)程度のあわれみで女性を見ているにすぎなかった。
そんな宮子が、めでたく珂瑠の子を懐妊したという年の正月。その人は、とある巷間の噂を帰省先で聞いた。さほど遠い場所でもないので、時々は郷里の稗田に戻る事があるのだ。
聞いたのは、讃岐造麻呂という翁が、ある女の子を拾ってきたのち、急激に富んだという話だ。稗田家の人々は、こういう話に対しては総じて極めてのんきな態度であり、他人の成功にねたみもそねみもせず、んまあ羨ましい事だわねくらいの調子で話が進んでいったが、その人はある事に引っかかっていた。
(金塊?)
女の子を拾ってからというもの、翁はしばしば金塊を手に入れるようになったらしい、というのだ。そういう事もあるのねえくらいの温度感で家族間では話が進んでいる。
(しかし、この国で金は見つかってないんだぞ?)
その人の困惑をよそに、讃岐造麻呂は正直な老人らしく、この金塊をすっかりそのまま、お上に献上してしまった――竹の中から見つかったもの、として。
同時期、対馬の鉱山からも金の産出が報告され、元号を大宝と改める事になったが、どうやら、対馬の産金は虚偽の報告だったらしい。あるいは、讃岐造麻呂による大量の金塊の献上という行為が、この国の経済にもたらしていく衝撃を、少しでも薄めるための陰謀だったようなふしもある。少なくとも、その人はそう考えている。
やがて宮子は珂瑠との子を出産するも、発狂。
いずれにせよ、無造作に大量の金塊が献上されたという出来事が、経済の混乱を呼ぶ事は必至だった。しかもそれが、ただの正直者らしい一老人の手からやられてしまっては、これはもう国家としては異常事態というほかない。
大蔵省をはじめとする政府機関中枢は、翁に事の経緯を説明するよう下問し、その回答は常軌を逸した内容であったものの、お話としては後世に至るまでよく知られている。
翁は、もともと竹を取って細工する事を職能としていた。そんなある日、竹の中に節が光るものを発見して、それを切ってみると中に三寸ばかりの美しい女の子がいた。これは子がいない自分と媼の夫婦への、天からの授かり物であろうと考えて、家に持ち帰って養育するほどに、彼女はすくすくと成長した。
異様なのは、その後も仕事場の竹林で、光る竹を何度も見かけて、それを切ってみたところ中に金塊が含まれていた、という事だった。
(ふうん。そんな事も、あるのかもねえ)
その人は風聞に耳を傾けつつ、結局は自分の家族たちと同じような、のんき極まりない感想に至った。話の突飛さはともかく、言い分それ自体はまったく破綻していない。
(大蔵省の官僚たちは恐れおののいているが、ともあれ国家の財産に納められていっているのだから、それでいいだろう)
しかしその人の考えはやや甘かった。それほどの金塊を献上してくれた以上、翁に対しては国家としての返礼――相応の官位や職――を与えねばならないのではないかという議論が発動したのだ。この時は名誉職的な立場と官位とを、賞典として与えるにとどまったが、それでも国内における富豪としての讃岐造麻呂の存在感は、にわかに強まった。
(さて、それでは讃岐造麻呂とは何者か)
その人がそれとなく調べてみると、どうやら忌部氏に深くかかわる、木工や竹工などに携わる職能民だったらしい。姫の名付けをした者の名前が、忌部氏の人物だった事から、これはまず外れがないようだ。
(忌部といえば、中臣と並ぶ神祇の一族だろ)
と、次にそこが気になった。忌部の民が政権中枢にまで食い込むほどの影響力を得かねない事は予想できる。既に、大伴や阿倍といった政治的大族らが、讃岐造麻呂の周囲にかかわりを持とうとしている雰囲気もあった。
しかし、その人がそうした政治的な噂話を入手して、面白がって氷高に持ち込んだところで、当人は、ふうんそのお姫様けっこうもてるのね、といった反応だった。
ただ、名付けの話が出てきた時、相手の名前だけは少し気にかかったらしい。そのお姫様の名前は、なに? と尋ねられた。
その人は答える。
「かぐや姫――なよたけのかぐや姫」
ひとまず名前だけはいい名前だと思っていたが、その感想は氷高も一緒だったらしい。ニヤッと笑った。
珂瑠が若くして崩御する。しかしその遺児でもある皇位継承者への即位に直結させるにはまだ幼すぎた。もう老齢といっていい生母の阿閇――漢風諡号は元明天皇――が、政務の経験も豊富だった事から、孫から皇位を預かる形で即位。
だが、それは不安定な形式で長くは続けられない皇位だろう。
他ならぬ氷高が、母の即位をそのように読みを見せていた。事によっては、甥っ子を実質の後嗣としつつ、母と、娘の自分、二代にわたって中継ぎをする必要があるかもしれない、と。
その人はそんな彼女の告白を聞いた。
氷高も、既に女としては盛りを過ぎている年頃だ。弟帝に遠慮をする形で、むやみに恋も嫁ぎもしなかった――そうした色っぽい話は、はなからあまり興味薄な彼女ではあったが。
だが、そうしたあきらめこそが彼女をむしろ色っぽくしているのだと、その人は思った。彼女はたしかに美人だったが、美人を最大限効果的に使う事をあきらめていて、つまりもはや誰の手にも届かない美人である。そういう美人こそ、美人の中でも最上のものだろう、と。乱暴だがこういう理屈である。
そうした日々の中で、ある時、阿閇はその人を呼び出して、太安萬侶と名乗る官僚を引き合わせた。公的な仕事があるのだという。
(やっぱり、今までわたしがやっていたのは、あまり公的なものではなかったのだな)
宮中におれば飯は食わせてくれるし、歴々のみかどから、多少の小遣いも直々に出してもらっていたが、言われてみれば公的に給金などをもらったおぼえは一切なかった。
それはともかく、公務の内容。
――稗田阿礼がよめる勅語の旧辞をえらびしるして、たてまつれ。
(今になって?)
と、阿閇にはいたずらっぽく目くばせをしてやると、似たような反応が返ってくる。
今になって、らしい。
阿閇がのたまうに、近頃、諸氏族が自分たちの由来や由緒などを勝手にしすぎていて、ひとつ混乱が起きている。史書や風土記の編纂も別口で行っているが、それだけだとどうもおぼつかない事になりそうだと、そういう説明だった。
「なるほどなるほど」その人は表情を薄くして、しらっと言いきった。「かぐや姫に対抗するため、ですね」
阿閇はニヤッと笑った――こういうところ、氷高に似ているのが母娘だ。
その人は言った。
「あの姫様、生まれてあっという間に少女のなりになって以降の十数年、まったく老いていないという話も聞き及んでおりますし、どうやらまともな人間でないのは間違いありませんが、ここ数年はいっそうその存在が厄介になっている。周囲に諸族の大物が群がりすぎています。それはなぜか。あのお姫様は大量の金塊の供給源というだけでなく、この国の構造そのものを脅かしかねないものだからでしょう」
阿閇は目を細めていて、隣にいる太安萬侶は、その人の弁に困惑しきっていた。
「……もともと、諸氏族の由来や由緒の混乱というもの、常に起こりうる危惧はあります。なぜなら、彼らだって自分たちがなんであるかを少しくらいはっきりさせたいし、なにかに所属していたい。どうせ所属するのなら、しっかりとした、強固な由来でありたい……。そういう思惑があるのは仕方のないことだと思います。当たり前でしょう。わたくしだって一介の舎人にすぎず、稗田というのは生地の名前というだけで、稗田んところの阿礼ちゃんでしかありません。本来、豊葦原中津国の住人というのはそういうものばかりだった。そこに、わたくし達があなたの存在を認めるので、我々の一員となりましょうと手を引いてくれた方々がいる」
その人は少し考えて、続けた。
「歴代のみかど達が心を砕き続けてきた事とは、極言してしまえばそれだけなのです。この、豊葦原中津国に生えている青人草でしかないお前たちが、何者であるか、どこから来たのか、どうして自分たちは我々という集団である事ができるのか……。わたくし達は、諍いや衝突などあって――きっと失敗や破綻もあったに違いありません――それでも自分たちは我々であるという意識を、なぜか保証され続けてきたのです。誰が保証したのか? まさか無から湧き出てきたわけではありますまい。この国の旧辞をすべて覚えているわたくしが断言します。あなたがたみかどが、そうした疑念を折々に保証して払拭してきたのです。とはいえ、この国家にも不満は渦巻いております。迫害と弾圧で追いやられたもの、反主流のものたちだって当然いる……ですが、みかどという存在は、そうした不平不満の層の保証さえも巧妙に行ってきた。もちろん、そのために内輪揉めも内乱も起きました。しかし、それらの悲劇すらひっくるめても、我々は我々なのだという理屈を、今までは立てる事ができていたのです。あのお姫様の出現までは」
阿閇の笑顔はもはや歪んだくらいになっていた。
「彼女は――かぐや姫はもはや一人だけで帝国の進攻と同義です。彼女は我々と違っていて、違っていながらにしてただ一人でこのなんともわからない土地に立つことができて、しかも経済的にもひっじょーに豊かときた。彼女がその気になれば、今まで何十代ものみかどたちがせっせと保証してきた諸族の由緒や系譜など、ぐちゃぐちゃにしてしまうのは当然思いのまま。なればこれは国家的危機です」
稗田阿礼はそこまで言いきってから少し考え込み、ぼそりと付け加えた。
「よござんす。わたくしがこの国を救ってやりましょう。非常に地味なやり方で、ですがね」
皇太子はまだ幼いが、阿閇はその後見に専念するため、氷高――漢風諡号は元正天皇――へと中継ぎの皇位が手渡される。
上古の言葉をなるべく残した結果、これは異常な文体で、ひどく苦労させられたと太安萬侶などはぶつくさ愚痴を言って、上表文にまでその愚痴を載せていたが、そりゃあ漢語に馴染みのある官僚からすれば、そう見えるだろうなという代物ではある。
その人の計画は、単純といえば単純だった――かぐや姫の来歴が脅威になりえるのなら、彼女を自分たちの神話や古代に組み込んで、呑んでしまえばいい。さいわいこちらもそうしたものを整える必要はあったのだし、そのどさくさ紛れに、こちらがさっさと彼女の身元を保証してしまえばいいのだ。
また、これを行うには自分の旧辞だけでは心許ない事にも気がついていたので、阿閇にも協力してもらい、編纂中の史書や風土記、歌の記録などにも、そうした痕跡を含ませておいた。引き換えに、乙巳の変において火中から救われて焼け残った国記などは、整合性を保てるのかという不安から、逸したという扱いにしてもらった。
(……なによりこちらが助かったのは、かぐや姫自身にはあまりそういう、この国をぐちゃぐちゃにしてやろう、という心がなかった事だろうな。ただ、かなりわがままな姫君ではあるらしいが)
なにを考えているかわからないが、とにかく当人に変な思惑はなかっただろう、というのが察せられるのは、事こうなるまでに何人もの大物政治家が姫に求婚し、ことごとく袖にされた事からもうかがえる。
(阿閇は、臣たちも彼らなりにこの国を慮った上での、姫への接近だったのだろう、とかばっていたが、どうだろう。――いや。諸族に色々の思惑があっての事だとして、欲得ずくばかりでもなかったというのも、きっと嘘ではないのだろう。なぜなら我々はこの国の人間だから)
そういう事にしておいて、さしたる破綻も何も起きていない事の方がおそろしいのかもしれない。あなたたちは結局我々である、だから許されているという方向に、すべてが呑みこまれていっている。特に、老政治家藤原不比等の年甲斐にもない求婚などは、非常に政治的なものだったようだ。こうした醜聞でほとんど隠遁したのも、ある程度は政治的計画の内だったらしく、自分が退いた後の欠員補充と称して、太政官に何人もの子息が送り込まれていた。
(目下、神祇官の立場を巡って、中臣と忌部の両氏が鞘当てしまくっているからな。藤原は分家して一家を立てたとはいえ、中臣に連なる一族だ。政治の藤原・神祇の中臣という両輪を今のところは崩したくないのだろう)
諸氏の動向はくらげなすただよへるように曖昧だったが、明らかにかぐや姫についている存在が忌部氏だった。
(だが、旧辞に姫の存在を組みこんでしまった以上、彼らも身動きは取れなくなる。動けば動くほどに、こちらから神話を保証してやればいいだけなんだから)
ただひとつ、結果的にすまない事をした、と思った相手が一人だけいる。
(氷高――)
今上天皇氷高、かぐや姫に恋をする。
なんで私がそんな事せにゃならんのだよ、とこぼしつつも、男装の氷高は馬上で笑っていた。美しい彼女はもう初老で、髪にも白いものがだいぶ混じっている――数年前に改元した時の名分も、養老の美泉に浸かれば肌がなめらかになり痛むところも消え、白髪も黒髪に戻った、というきっかけだった――が、元のつくりがいいらしく、これはこれで色っぽい男装の麗人ぶりだった。
「あの女を我々の神話に組み込むには、あの女だけでは足りんと思いましてね」
その人は、老いた従者として氷高に付き従いながら弁明した。
「本人からもっと身の上話を聞きたいが、それならあの女に興味があるていで行った方がいいでしょう。やるなら、門前払いされにくいお方がいいに決まっている。この国でそれをできるのは誰か? みかどだけでしょう」
悔しいが筋は通っているんだよな。と、飛ぶ鳥を眺めながら氷高はぼやいた。
「やるのは身の上話だけでいいです。求婚や、その先の事などはせぬように」
冗談のように言うと、女同士で? という顔を氷高はした。不可能ではないと説明すると、やった事あるの? と更に尋ねられて「突き出たところがなくて、穴っぽこちゃん同士でも、やりようによれば――」と、そこから会話の品位がきわめて落ちてきたので、略す。
以前にも、氷高は内侍の女性を姫への使いにやって、この人はつれなく帰されてしまったものの、すでにくすぐりは入れてある。翁の屋敷でも、さるやんごとなき人のお忍びのおでましは無碍にはできなかった。
一応、翁に対してはカウブリもちらつかせてはみたのだがね……と、現地の屋敷に到着して、取り次ぎを待ちながら氷高は言った。カウブリというのは冠――すなわち昇殿が可能な正五位以上の官位の隠語であり、律令官制の中では異例の措置だったが、多少の融通はきくのだろう。翁に対して金塊の献上に報いる形で与えた官位は、正六位上までだった。
氷高のみが内に招かれて、相変わらず一介の舎人にすぎないその人は、門前で馬とともに待つだけの身となった。
(どうもよくない)
と、待つだけで疲れ始めている自分の身が老いている事を、率直に思った。ふたまわり以上年下の、美貌の氷高が老けてきているのだから、当然ではあるのだが、こちらの体にもがたがきはじめている。
(とりあえず残せるものは残したが、こっちもこの通りだ。先が見えているほどではないが、けして長くはないだろう。あのふることふみを、のちのちの連中が上手く扱えるか――ま、そのあたりはなるようになれ、か)
おのれが没した後がどうなるかなんて、そうとしか言いようがあるまい。少なくとも、あんなに色々起こっている一家のそばに、飼われるよう仕えていれば、そういう気分にもなる。
また、阿閇に対して「この国を救ってやりましょう」と大向こうを張った事について、今更ながら恥ずかしくなってきて、ひそかに赤面した。
(わたくしは、国のためというよりは、母娘二代にわたる友人を助けただけだよ)
そう物思いに耽っていると、なんだかんだと会見を済ませたのか、氷高が翁に丁重に礼を尽くされつつ、出てきた。
ぼんやりとしている、馬上に揺られて御所に戻る間も無言だ、なんとなれば、世界が急に全自動で動き始めて自分たちの生命を処理し始めても、そのままのぼんやりだろう。
そうした雰囲気がその人にも伝わってきて、これはよくないなと思ったので声をかけたが、氷高の――みかどの反応はどこか褪せている。目の前の老人が、幼い頃からの、齢の離れた友人というのはわかっているのだが、同時にこの世界の青人草の、その他大勢にもなっている。
(惚れたのはしょうがないけど、顔に出すぎだ)
その人は呆れた。
かぐや姫、育ての親の翁と媼に、月の住人であるという自らの出自を明かし、月の使者に迎えられて帰還。
(……月だったかぁ)
氷高とかぐや姫の、三年にもおよぶ文通を、太安萬侶ら知己の官僚とも協力しながら分析して、彼女が地上人ではないと断定してはいたものの、月人というのは意外だった。
(かぐや姫が折々夜空を眺めていたという噂は聞いていたが、そこをちゃんと読みきれなかった自分も甘いな)と反省しつつ(しかし、月人がわたくしたちの神話に組み込まれてしまったのは、痛快な事ではあるな)とも、自分の仕事の成功から得られる快感は、ちゃんと受け止めておいた。
もっとも、大きな懸念はある。
(最終的に、あのお姫様は直接的な記述を避けつつも、かなりのところまで踏み込んでいた。当然、こちらの思惑を読みきった上での情報の開示だろう。……どうにも思惑が読めないのが難しいところだ。流罪人だったらしいから、ただの腹いせかもしれない。本国側の意図がまぎれているかもしれない。どっちもあるのかも)
地上の神話が月人を呑みこんでしまうという事は、月人側も地上の神話を随意に利用してくる可能性はある。
その懸念については、その人も重々承知していたが、その程度の危険、今までだっていくらでもあったのだ。現に今だって、大陸から伝来した仏教の取り扱いに、この土地の既存の秩序は心を砕いている。かぐや姫の存在は国家の大事ではあったが、同時に常にあり続けた事の一つでもあった。
(こうなった以上、連中がこちらを利用したいなら、するに任せておけばいい。すればするほどに我々の神話と強固に結びついていってしまうのだから。その末には、連中すらも我々の構成要素の一つになってしまう。これにて日本神話の完成)
その後。
その人とその一族は、忌部氏に接近していく。この氏族は地上におけるかぐや姫の後ろ盾となっており、その権力の源泉となるはずの姫を失った末、神祇官の鞘当てで対立していた中臣氏に蹴落とされて凋落しつつあったが、その人はもともと政治的勝者などに興味はなかったし、なによりそうして落ちぶれていく彼らもまた、我々の一員だったからだ。
(だいたい、こいつらのそばにいた方が、かぐや姫――ひいては月人の消息も、多少なりわかるだろうからな)
これは氷高がその人に命じた措置でもあった。彼女はものすごい自制とあきらめでもってかぐや姫への執着を断ったらしく、やはりあきらめの美しさを持つ人だったが、それでも少しの未練を引きずっているらしい。
(……しかし、もう、後の事は後にまかせてもいいだろう)
結局、最後まで一介の舎人にすぎなかったらしい稗田阿礼の没年は、わかっていない。
死んだ身の諸々の手続きを行う、死者の世界の政庁が唐風なのは、非常に気になる事だったが、いわゆる国際標準といったものなのだろう。そうしたきらびやかな様式に目を通しつつも、気圧されないようにはしておく。
とんでもない事を聞かされた。
「――かぐや姫は月に帰還してない?」
不用意な発言をたしなめられたが、その人はびっくりしただけだ。そりゃ大変な事ですねえと思いながらも、だいぶ他人事ではあった。
実際、他人事だ。
だが、大変な事ですねえと思った後で、なにがそんなに大変なのだろうか、とも考えさせられる。
(ただの流罪人がまたしてもどこかに流れていっただけの事だ)
――かぐや姫はただの流罪人ではなくなっている。
と、心の内を見透かされように、担当官に言われた。
――彼ら……月人は、太古の地上人と祖を同じうするかもしれないが、もはや地上とはほとんど縁が切れていた存在だった。だが、それをあなたたちは神話へと組み込み、自分たちのものにした。
と、両手の一本指を離して立てると、意味ありげに、双方なんらかの力学が発生しているように動かす。
――かぐや姫の当地への潜伏は、本庁の試算では数百から数千年は続くと見られていて、危急存亡の状況とは言えません……しかし、厄介な状態が起きている事は確かです。あなたがふることふみを残したのは立派な行為ですが、これだけで制御しきれるものでもないでしょう……もう一つの物語が発生する動きも出ていますが、私たちにはこれを止める理由がありません。もやい綱は一本よりは二本あった方がいい。
(もう一つの物語?)
――竹取物語、と部局内では通称されています。
結局、姫の潜伏先は、土地のおおまかなところはわかっているが、それ以上は人間世界への過剰な干渉であるとして確かな調査はできていない。誰か人間の魂が転生して、その土地に降下する必要がありそうだった。
(……で、わたくしか)
――我々も、一代きりの調査でどうにかなるとは思っていません。しかも転生のたびの記憶は引き継げないわけですし、気を長くしてやっていくしかないでしょう。……ですが、その土地に転生を続けて、生き続けていれば、きっとなにかを掴む事はできる。
その人はため息をついた。人間が始めた事の始末は人間が行わなければならないらしい。
稗田阿礼は是非曲直庁に留め置かれ、嘱託職員として雇われながら転生を待っている。当時はこの省庁の公用文書に使われる言語も漢語だったので、昔々に習得しておいてよかったと、そこだけは思った。
一介の舎人が、時のみかどに、これちょっとやっといて的に直々に仕事を頼まれていたのだから、後々を考えるとずいぶんとまあ気安い時代であったというほかない。
(帝紀と本辞の整理か)と、その人は思った。ちょうど同時期、上古の諸事の編纂が官僚主導で企画されていたので、当初はそれに関連した事業なのだろうというふうに考えてもいたのだが、やがてそちらへの合流はしなくても良いと告げられた。
(じゃあ、いったい、どういうわけでこの仕事を?)
その人は首を傾げながら、みかどやその家族たちが整理しつつも体系化していなかった語りや文献を、すっかり記憶してしまったが、これがたいへんに変な作業だった。周りで動いているのは事務官僚ではなくみかどの血縁や類縁的な子女たちで、公的な事業とはとても言いがたく、どちらかといえば家庭内のあれこれを引き継ぐ作業に近かった。また気になったのは、それをなるべく上古のことばで残して欲しいとの要望があった事だ。
だからこそ、記憶力抜群で鳴らしているものの、当時の公用文書に使われる言語――要するに漢語――には昏いという種類の人間に、この任を充てたのだとも教えられた。
(変な理屈ね)
と思うと同時に、ひそかに不満もあった。幼い頃から、記憶力の良い事は家族と郷里の内では有名で、その評判がやがて中央への紹介に繋がって宮仕えを果たしたその人だが、そうした当初は「漢語については今のところほとんど馴染み無しですが、すぐに覚えてしまいますよ」といった売り込みを方々にかけていた。官僚志望だったのだ。
それが、仕えてみると、漢語はなるべく覚えるなと指示され、ただしよくわからない昔語りばかり、頭の中に流し込まれてしまった。
(まあ、それはそれだ)
稗田の家はけして大きくないし、神祇にかかわる家職も、今後どうなっていくかわからない。家を背負っているという気負いはなかったが、手に職をつける事は悪くない。時折手元に流れてくる行政文書にひそかに目を通して、漢語もあっという間に習得してしまったその人だった。
このささやかな“反逆”に、時のみかどはすぐに気がついて苦笑いしていたが、まあその記憶の良さなら遅かれ早かれ仕方のない事よなと笑って許し、その上で、昔語りの方は絶対に忘れるなよと釘を刺すだけで叱責は終わった。
飛鳥浄御原天皇、またの名を大海人――漢風諡号は天武天皇――が崩御し、執政は皇后鸕野讚良が行う事になる。
彼女はその人よりひとまわり年上の女性で、その人の仕事とはあまり関わりない人だった。公務や公的事業の方にかかりきりで、これは亡夫がやりかけの状態で残した実務を引き継いで完遂しなければならなかった事情もある。ひょっとすると、昔語りの収集作業の事など、ころっと忘れてしまっていたかもしれず、その人の存在は、凝り性で博物好きでもあった異母妹の阿閇皇女あたりにあてがわれた、ちょうどいい遊び相手くらいに思っていたふしがある。本当は阿閇よりもひとまわりほども齢が長けているのだが、妙に幼く見られているその人だった。
この時期のその人は、阿閇をはじめとした皇室の子女たちに、言葉伝えで、昔語りを聞かせる事を仕事らしきものにしていた。そうした行為を繰り返す中で、ちょっとだけ言葉の表現を変えたり、語順を組み替えたりして、語り物として少しずつ彫琢してもいる。
話を聞かされた子らは、その人の語りを楽しんでくれた。好評だったのは、単純に筋が面白いのもある。この世界がなんであるかを説明する話、氏族の由来の話、おそろしい話、英雄譚、恋、いささかしょうもない話、歌物語、陰謀も、悲劇もある。自分たちの祖先と豊葦原中津国が、いかに芳醇で興味深く、良いも悪いもすべてを抱えこんでいたのか。彼らはそうした事を知った。
(この感じだと、なんとなく宮中にいる、おはなし好きの怪人物になっている気がするが、不思議と悪い気はしない)
その人はのんきに思った。
しかし世間はのんきとも言えない。鸕野讚良が亡夫の仕事を引き継ぐ事になった時、彼女はすばらしい精神力と義務遂行能力でもって、夫婦の間に残されたもの――皇位継承者でもある息子の草壁皇子――の立場を強固にするために、競争相手になりえた甥っ子を処断していた。
(まあ、それはそれだよね)
その人は、人が謀殺された事などはあまり気にしておらず、たとえば自分がこの一連の流れを語りに組み込むならば、どう潤色すべきだろうという事だけを考えている。ただ、色々覚えている事を組み合わせて考えてみると、この謀殺にはどうも阿閇も関わっていたような気もする。彼女は草壁皇子のもとに正妻として嫁いでいた。
鸕野讚良が親類に死を賜ってまで守ろうとした、皇太子草壁への皇位継承は、彼の急死によって叶っていない。緊急の措置として鸕野讚良――漢風諡号は持統天皇――が即位。
また、この女帝は外交関係にも頭を悩ませている。
白村江の敗戦で、朝鮮半島への直接的な影響力を失陥して以降の数十年。大唐帝国の軍事侵略の気配は――たとえ帝国の国力として、まったく収支が釣り合わないような不可能事だったとしても――常に懸念として存在していた。
数十年。その間に壬申の乱という大乱があって政権の転覆などあったものの、結局立ち向かわなければならない課題は変わらず存在していて、そうした中で一人の男が帰還してきた。白村江の敗戦の後、捕虜の身で帝国の軍事行動の可能性を伝え聞いたその男は、我が身を売って奴隷の身分に墜ちながらも、それで得た金を資金として仲間たちを本国に帰還させた、そういう男だった。結局のところ大唐帝国の進攻は無かったにもかかわらず、女帝はその男個人に対して異例の勅語を送り、そこに愛国の言葉を添えた。
ともかくそうした時代だ。
(いささか大袈裟の感はあるけれど、国か)
とその人は思った。
(どうやらここは我々の国というものらしい)
そうした意識すらなく、なんとなく宮仕えをしていたその人にとって、この出来事は印象的だった。その人にも家族だとか一族だとかはあるし、我々の地域という意識はあったし、海の向こうの帝国の存在と、その帝国と我々とはどうやら違うものらしい、という事も知ってはいたが、ここでようやく、なにかはっきりとした境界を定められた気がした。
(でも、わたくしはどこに所属しているのかはわかったけれど、わたくしは何者なのか、それははっきりせんのだよな)と、少しぶっすりとした。
なにか宙ぶらりんな気分がある。
皇位継承の憂いがなくなった後、鸕野讚良は草壁皇子と皇太妃阿閇との間の子である、若い珂瑠皇子――漢風諡号は文武天皇――に生前譲位。太上天皇として執政を行う。
珂瑠にはふたりの姉妹がいて、特に姉の氷高は、親子以上の齢の違いなのに、その人と仲が良かった。
昔語りを気に入られたからだろうが、語りをもっともっととせがんでくるような、お話として楽しむような気に入り方ではなかった。そういう楽しみ方で昔語りを聞く子女らは多かったが、氷高はもっと構造的なものを、この語りにおぼえたらしい。その人の語りが内容こそ同じであるものの時々変わっていく事もしっかりと覚えていて、この部分の言葉遣いを改めたのはなぜか、語形変化によって語りにどういった効果を試しているのか、といった事まで切り込んでくるような少女だったのだ。
(頭が切れる上に、顔も良い)
頭の良さはきっと母の阿閇譲りだっただろうが、氷高はとびきりの美人で、これほど御顔きらきらしい方は小治田の女帝――漢風諡号は推古天皇――以来と囁かれるほどだった。しかし当人はそうした顔面の評価などどこ吹く風で、その人の昔語りの編集作業を手伝っている。
……弟の珂瑠に世継ぎさえできれば、なんの憂いもなくなる。そうなれば、こうした博物の作業を行うだけの、変わり者の皇女で構わない、ともこぼしていた。
(みかどのお世継ぎか)
その人も、後嗣の関係で色々の思惑が飛び交っている事は知っていた。なんせ珂瑠には皇后が置かれず、ただ後宮内に各氏族から出された女性たちの中で、とある氏族の女性が、なんとなく夫人として別格扱いになっているだけ、という状態だったのだから。
それが藤原宮子。藤原不比等の娘。
その人は後宮の権力闘争になど興味がないので(まあなんか色々あっての事だろうけど、宮子ちゃんも大変ねえ)程度のあわれみで女性を見ているにすぎなかった。
そんな宮子が、めでたく珂瑠の子を懐妊したという年の正月。その人は、とある巷間の噂を帰省先で聞いた。さほど遠い場所でもないので、時々は郷里の稗田に戻る事があるのだ。
聞いたのは、讃岐造麻呂という翁が、ある女の子を拾ってきたのち、急激に富んだという話だ。稗田家の人々は、こういう話に対しては総じて極めてのんきな態度であり、他人の成功にねたみもそねみもせず、んまあ羨ましい事だわねくらいの調子で話が進んでいったが、その人はある事に引っかかっていた。
(金塊?)
女の子を拾ってからというもの、翁はしばしば金塊を手に入れるようになったらしい、というのだ。そういう事もあるのねえくらいの温度感で家族間では話が進んでいる。
(しかし、この国で金は見つかってないんだぞ?)
その人の困惑をよそに、讃岐造麻呂は正直な老人らしく、この金塊をすっかりそのまま、お上に献上してしまった――竹の中から見つかったもの、として。
同時期、対馬の鉱山からも金の産出が報告され、元号を大宝と改める事になったが、どうやら、対馬の産金は虚偽の報告だったらしい。あるいは、讃岐造麻呂による大量の金塊の献上という行為が、この国の経済にもたらしていく衝撃を、少しでも薄めるための陰謀だったようなふしもある。少なくとも、その人はそう考えている。
やがて宮子は珂瑠との子を出産するも、発狂。
いずれにせよ、無造作に大量の金塊が献上されたという出来事が、経済の混乱を呼ぶ事は必至だった。しかもそれが、ただの正直者らしい一老人の手からやられてしまっては、これはもう国家としては異常事態というほかない。
大蔵省をはじめとする政府機関中枢は、翁に事の経緯を説明するよう下問し、その回答は常軌を逸した内容であったものの、お話としては後世に至るまでよく知られている。
翁は、もともと竹を取って細工する事を職能としていた。そんなある日、竹の中に節が光るものを発見して、それを切ってみると中に三寸ばかりの美しい女の子がいた。これは子がいない自分と媼の夫婦への、天からの授かり物であろうと考えて、家に持ち帰って養育するほどに、彼女はすくすくと成長した。
異様なのは、その後も仕事場の竹林で、光る竹を何度も見かけて、それを切ってみたところ中に金塊が含まれていた、という事だった。
(ふうん。そんな事も、あるのかもねえ)
その人は風聞に耳を傾けつつ、結局は自分の家族たちと同じような、のんき極まりない感想に至った。話の突飛さはともかく、言い分それ自体はまったく破綻していない。
(大蔵省の官僚たちは恐れおののいているが、ともあれ国家の財産に納められていっているのだから、それでいいだろう)
しかしその人の考えはやや甘かった。それほどの金塊を献上してくれた以上、翁に対しては国家としての返礼――相応の官位や職――を与えねばならないのではないかという議論が発動したのだ。この時は名誉職的な立場と官位とを、賞典として与えるにとどまったが、それでも国内における富豪としての讃岐造麻呂の存在感は、にわかに強まった。
(さて、それでは讃岐造麻呂とは何者か)
その人がそれとなく調べてみると、どうやら忌部氏に深くかかわる、木工や竹工などに携わる職能民だったらしい。姫の名付けをした者の名前が、忌部氏の人物だった事から、これはまず外れがないようだ。
(忌部といえば、中臣と並ぶ神祇の一族だろ)
と、次にそこが気になった。忌部の民が政権中枢にまで食い込むほどの影響力を得かねない事は予想できる。既に、大伴や阿倍といった政治的大族らが、讃岐造麻呂の周囲にかかわりを持とうとしている雰囲気もあった。
しかし、その人がそうした政治的な噂話を入手して、面白がって氷高に持ち込んだところで、当人は、ふうんそのお姫様けっこうもてるのね、といった反応だった。
ただ、名付けの話が出てきた時、相手の名前だけは少し気にかかったらしい。そのお姫様の名前は、なに? と尋ねられた。
その人は答える。
「かぐや姫――なよたけのかぐや姫」
ひとまず名前だけはいい名前だと思っていたが、その感想は氷高も一緒だったらしい。ニヤッと笑った。
珂瑠が若くして崩御する。しかしその遺児でもある皇位継承者への即位に直結させるにはまだ幼すぎた。もう老齢といっていい生母の阿閇――漢風諡号は元明天皇――が、政務の経験も豊富だった事から、孫から皇位を預かる形で即位。
だが、それは不安定な形式で長くは続けられない皇位だろう。
他ならぬ氷高が、母の即位をそのように読みを見せていた。事によっては、甥っ子を実質の後嗣としつつ、母と、娘の自分、二代にわたって中継ぎをする必要があるかもしれない、と。
その人はそんな彼女の告白を聞いた。
氷高も、既に女としては盛りを過ぎている年頃だ。弟帝に遠慮をする形で、むやみに恋も嫁ぎもしなかった――そうした色っぽい話は、はなからあまり興味薄な彼女ではあったが。
だが、そうしたあきらめこそが彼女をむしろ色っぽくしているのだと、その人は思った。彼女はたしかに美人だったが、美人を最大限効果的に使う事をあきらめていて、つまりもはや誰の手にも届かない美人である。そういう美人こそ、美人の中でも最上のものだろう、と。乱暴だがこういう理屈である。
そうした日々の中で、ある時、阿閇はその人を呼び出して、太安萬侶と名乗る官僚を引き合わせた。公的な仕事があるのだという。
(やっぱり、今までわたしがやっていたのは、あまり公的なものではなかったのだな)
宮中におれば飯は食わせてくれるし、歴々のみかどから、多少の小遣いも直々に出してもらっていたが、言われてみれば公的に給金などをもらったおぼえは一切なかった。
それはともかく、公務の内容。
――稗田阿礼がよめる勅語の旧辞をえらびしるして、たてまつれ。
(今になって?)
と、阿閇にはいたずらっぽく目くばせをしてやると、似たような反応が返ってくる。
今になって、らしい。
阿閇がのたまうに、近頃、諸氏族が自分たちの由来や由緒などを勝手にしすぎていて、ひとつ混乱が起きている。史書や風土記の編纂も別口で行っているが、それだけだとどうもおぼつかない事になりそうだと、そういう説明だった。
「なるほどなるほど」その人は表情を薄くして、しらっと言いきった。「かぐや姫に対抗するため、ですね」
阿閇はニヤッと笑った――こういうところ、氷高に似ているのが母娘だ。
その人は言った。
「あの姫様、生まれてあっという間に少女のなりになって以降の十数年、まったく老いていないという話も聞き及んでおりますし、どうやらまともな人間でないのは間違いありませんが、ここ数年はいっそうその存在が厄介になっている。周囲に諸族の大物が群がりすぎています。それはなぜか。あのお姫様は大量の金塊の供給源というだけでなく、この国の構造そのものを脅かしかねないものだからでしょう」
阿閇は目を細めていて、隣にいる太安萬侶は、その人の弁に困惑しきっていた。
「……もともと、諸氏族の由来や由緒の混乱というもの、常に起こりうる危惧はあります。なぜなら、彼らだって自分たちがなんであるかを少しくらいはっきりさせたいし、なにかに所属していたい。どうせ所属するのなら、しっかりとした、強固な由来でありたい……。そういう思惑があるのは仕方のないことだと思います。当たり前でしょう。わたくしだって一介の舎人にすぎず、稗田というのは生地の名前というだけで、稗田んところの阿礼ちゃんでしかありません。本来、豊葦原中津国の住人というのはそういうものばかりだった。そこに、わたくし達があなたの存在を認めるので、我々の一員となりましょうと手を引いてくれた方々がいる」
その人は少し考えて、続けた。
「歴代のみかど達が心を砕き続けてきた事とは、極言してしまえばそれだけなのです。この、豊葦原中津国に生えている青人草でしかないお前たちが、何者であるか、どこから来たのか、どうして自分たちは我々という集団である事ができるのか……。わたくし達は、諍いや衝突などあって――きっと失敗や破綻もあったに違いありません――それでも自分たちは我々であるという意識を、なぜか保証され続けてきたのです。誰が保証したのか? まさか無から湧き出てきたわけではありますまい。この国の旧辞をすべて覚えているわたくしが断言します。あなたがたみかどが、そうした疑念を折々に保証して払拭してきたのです。とはいえ、この国家にも不満は渦巻いております。迫害と弾圧で追いやられたもの、反主流のものたちだって当然いる……ですが、みかどという存在は、そうした不平不満の層の保証さえも巧妙に行ってきた。もちろん、そのために内輪揉めも内乱も起きました。しかし、それらの悲劇すらひっくるめても、我々は我々なのだという理屈を、今までは立てる事ができていたのです。あのお姫様の出現までは」
阿閇の笑顔はもはや歪んだくらいになっていた。
「彼女は――かぐや姫はもはや一人だけで帝国の進攻と同義です。彼女は我々と違っていて、違っていながらにしてただ一人でこのなんともわからない土地に立つことができて、しかも経済的にもひっじょーに豊かときた。彼女がその気になれば、今まで何十代ものみかどたちがせっせと保証してきた諸族の由緒や系譜など、ぐちゃぐちゃにしてしまうのは当然思いのまま。なればこれは国家的危機です」
稗田阿礼はそこまで言いきってから少し考え込み、ぼそりと付け加えた。
「よござんす。わたくしがこの国を救ってやりましょう。非常に地味なやり方で、ですがね」
皇太子はまだ幼いが、阿閇はその後見に専念するため、氷高――漢風諡号は元正天皇――へと中継ぎの皇位が手渡される。
上古の言葉をなるべく残した結果、これは異常な文体で、ひどく苦労させられたと太安萬侶などはぶつくさ愚痴を言って、上表文にまでその愚痴を載せていたが、そりゃあ漢語に馴染みのある官僚からすれば、そう見えるだろうなという代物ではある。
その人の計画は、単純といえば単純だった――かぐや姫の来歴が脅威になりえるのなら、彼女を自分たちの神話や古代に組み込んで、呑んでしまえばいい。さいわいこちらもそうしたものを整える必要はあったのだし、そのどさくさ紛れに、こちらがさっさと彼女の身元を保証してしまえばいいのだ。
また、これを行うには自分の旧辞だけでは心許ない事にも気がついていたので、阿閇にも協力してもらい、編纂中の史書や風土記、歌の記録などにも、そうした痕跡を含ませておいた。引き換えに、乙巳の変において火中から救われて焼け残った国記などは、整合性を保てるのかという不安から、逸したという扱いにしてもらった。
(……なによりこちらが助かったのは、かぐや姫自身にはあまりそういう、この国をぐちゃぐちゃにしてやろう、という心がなかった事だろうな。ただ、かなりわがままな姫君ではあるらしいが)
なにを考えているかわからないが、とにかく当人に変な思惑はなかっただろう、というのが察せられるのは、事こうなるまでに何人もの大物政治家が姫に求婚し、ことごとく袖にされた事からもうかがえる。
(阿閇は、臣たちも彼らなりにこの国を慮った上での、姫への接近だったのだろう、とかばっていたが、どうだろう。――いや。諸族に色々の思惑があっての事だとして、欲得ずくばかりでもなかったというのも、きっと嘘ではないのだろう。なぜなら我々はこの国の人間だから)
そういう事にしておいて、さしたる破綻も何も起きていない事の方がおそろしいのかもしれない。あなたたちは結局我々である、だから許されているという方向に、すべてが呑みこまれていっている。特に、老政治家藤原不比等の年甲斐にもない求婚などは、非常に政治的なものだったようだ。こうした醜聞でほとんど隠遁したのも、ある程度は政治的計画の内だったらしく、自分が退いた後の欠員補充と称して、太政官に何人もの子息が送り込まれていた。
(目下、神祇官の立場を巡って、中臣と忌部の両氏が鞘当てしまくっているからな。藤原は分家して一家を立てたとはいえ、中臣に連なる一族だ。政治の藤原・神祇の中臣という両輪を今のところは崩したくないのだろう)
諸氏の動向はくらげなすただよへるように曖昧だったが、明らかにかぐや姫についている存在が忌部氏だった。
(だが、旧辞に姫の存在を組みこんでしまった以上、彼らも身動きは取れなくなる。動けば動くほどに、こちらから神話を保証してやればいいだけなんだから)
ただひとつ、結果的にすまない事をした、と思った相手が一人だけいる。
(氷高――)
今上天皇氷高、かぐや姫に恋をする。
なんで私がそんな事せにゃならんのだよ、とこぼしつつも、男装の氷高は馬上で笑っていた。美しい彼女はもう初老で、髪にも白いものがだいぶ混じっている――数年前に改元した時の名分も、養老の美泉に浸かれば肌がなめらかになり痛むところも消え、白髪も黒髪に戻った、というきっかけだった――が、元のつくりがいいらしく、これはこれで色っぽい男装の麗人ぶりだった。
「あの女を我々の神話に組み込むには、あの女だけでは足りんと思いましてね」
その人は、老いた従者として氷高に付き従いながら弁明した。
「本人からもっと身の上話を聞きたいが、それならあの女に興味があるていで行った方がいいでしょう。やるなら、門前払いされにくいお方がいいに決まっている。この国でそれをできるのは誰か? みかどだけでしょう」
悔しいが筋は通っているんだよな。と、飛ぶ鳥を眺めながら氷高はぼやいた。
「やるのは身の上話だけでいいです。求婚や、その先の事などはせぬように」
冗談のように言うと、女同士で? という顔を氷高はした。不可能ではないと説明すると、やった事あるの? と更に尋ねられて「突き出たところがなくて、穴っぽこちゃん同士でも、やりようによれば――」と、そこから会話の品位がきわめて落ちてきたので、略す。
以前にも、氷高は内侍の女性を姫への使いにやって、この人はつれなく帰されてしまったものの、すでにくすぐりは入れてある。翁の屋敷でも、さるやんごとなき人のお忍びのおでましは無碍にはできなかった。
一応、翁に対してはカウブリもちらつかせてはみたのだがね……と、現地の屋敷に到着して、取り次ぎを待ちながら氷高は言った。カウブリというのは冠――すなわち昇殿が可能な正五位以上の官位の隠語であり、律令官制の中では異例の措置だったが、多少の融通はきくのだろう。翁に対して金塊の献上に報いる形で与えた官位は、正六位上までだった。
氷高のみが内に招かれて、相変わらず一介の舎人にすぎないその人は、門前で馬とともに待つだけの身となった。
(どうもよくない)
と、待つだけで疲れ始めている自分の身が老いている事を、率直に思った。ふたまわり以上年下の、美貌の氷高が老けてきているのだから、当然ではあるのだが、こちらの体にもがたがきはじめている。
(とりあえず残せるものは残したが、こっちもこの通りだ。先が見えているほどではないが、けして長くはないだろう。あのふることふみを、のちのちの連中が上手く扱えるか――ま、そのあたりはなるようになれ、か)
おのれが没した後がどうなるかなんて、そうとしか言いようがあるまい。少なくとも、あんなに色々起こっている一家のそばに、飼われるよう仕えていれば、そういう気分にもなる。
また、阿閇に対して「この国を救ってやりましょう」と大向こうを張った事について、今更ながら恥ずかしくなってきて、ひそかに赤面した。
(わたくしは、国のためというよりは、母娘二代にわたる友人を助けただけだよ)
そう物思いに耽っていると、なんだかんだと会見を済ませたのか、氷高が翁に丁重に礼を尽くされつつ、出てきた。
ぼんやりとしている、馬上に揺られて御所に戻る間も無言だ、なんとなれば、世界が急に全自動で動き始めて自分たちの生命を処理し始めても、そのままのぼんやりだろう。
そうした雰囲気がその人にも伝わってきて、これはよくないなと思ったので声をかけたが、氷高の――みかどの反応はどこか褪せている。目の前の老人が、幼い頃からの、齢の離れた友人というのはわかっているのだが、同時にこの世界の青人草の、その他大勢にもなっている。
(惚れたのはしょうがないけど、顔に出すぎだ)
その人は呆れた。
かぐや姫、育ての親の翁と媼に、月の住人であるという自らの出自を明かし、月の使者に迎えられて帰還。
(……月だったかぁ)
氷高とかぐや姫の、三年にもおよぶ文通を、太安萬侶ら知己の官僚とも協力しながら分析して、彼女が地上人ではないと断定してはいたものの、月人というのは意外だった。
(かぐや姫が折々夜空を眺めていたという噂は聞いていたが、そこをちゃんと読みきれなかった自分も甘いな)と反省しつつ(しかし、月人がわたくしたちの神話に組み込まれてしまったのは、痛快な事ではあるな)とも、自分の仕事の成功から得られる快感は、ちゃんと受け止めておいた。
もっとも、大きな懸念はある。
(最終的に、あのお姫様は直接的な記述を避けつつも、かなりのところまで踏み込んでいた。当然、こちらの思惑を読みきった上での情報の開示だろう。……どうにも思惑が読めないのが難しいところだ。流罪人だったらしいから、ただの腹いせかもしれない。本国側の意図がまぎれているかもしれない。どっちもあるのかも)
地上の神話が月人を呑みこんでしまうという事は、月人側も地上の神話を随意に利用してくる可能性はある。
その懸念については、その人も重々承知していたが、その程度の危険、今までだっていくらでもあったのだ。現に今だって、大陸から伝来した仏教の取り扱いに、この土地の既存の秩序は心を砕いている。かぐや姫の存在は国家の大事ではあったが、同時に常にあり続けた事の一つでもあった。
(こうなった以上、連中がこちらを利用したいなら、するに任せておけばいい。すればするほどに我々の神話と強固に結びついていってしまうのだから。その末には、連中すらも我々の構成要素の一つになってしまう。これにて日本神話の完成)
その後。
その人とその一族は、忌部氏に接近していく。この氏族は地上におけるかぐや姫の後ろ盾となっており、その権力の源泉となるはずの姫を失った末、神祇官の鞘当てで対立していた中臣氏に蹴落とされて凋落しつつあったが、その人はもともと政治的勝者などに興味はなかったし、なによりそうして落ちぶれていく彼らもまた、我々の一員だったからだ。
(だいたい、こいつらのそばにいた方が、かぐや姫――ひいては月人の消息も、多少なりわかるだろうからな)
これは氷高がその人に命じた措置でもあった。彼女はものすごい自制とあきらめでもってかぐや姫への執着を断ったらしく、やはりあきらめの美しさを持つ人だったが、それでも少しの未練を引きずっているらしい。
(……しかし、もう、後の事は後にまかせてもいいだろう)
結局、最後まで一介の舎人にすぎなかったらしい稗田阿礼の没年は、わかっていない。
死んだ身の諸々の手続きを行う、死者の世界の政庁が唐風なのは、非常に気になる事だったが、いわゆる国際標準といったものなのだろう。そうしたきらびやかな様式に目を通しつつも、気圧されないようにはしておく。
とんでもない事を聞かされた。
「――かぐや姫は月に帰還してない?」
不用意な発言をたしなめられたが、その人はびっくりしただけだ。そりゃ大変な事ですねえと思いながらも、だいぶ他人事ではあった。
実際、他人事だ。
だが、大変な事ですねえと思った後で、なにがそんなに大変なのだろうか、とも考えさせられる。
(ただの流罪人がまたしてもどこかに流れていっただけの事だ)
――かぐや姫はただの流罪人ではなくなっている。
と、心の内を見透かされように、担当官に言われた。
――彼ら……月人は、太古の地上人と祖を同じうするかもしれないが、もはや地上とはほとんど縁が切れていた存在だった。だが、それをあなたたちは神話へと組み込み、自分たちのものにした。
と、両手の一本指を離して立てると、意味ありげに、双方なんらかの力学が発生しているように動かす。
――かぐや姫の当地への潜伏は、本庁の試算では数百から数千年は続くと見られていて、危急存亡の状況とは言えません……しかし、厄介な状態が起きている事は確かです。あなたがふることふみを残したのは立派な行為ですが、これだけで制御しきれるものでもないでしょう……もう一つの物語が発生する動きも出ていますが、私たちにはこれを止める理由がありません。もやい綱は一本よりは二本あった方がいい。
(もう一つの物語?)
――竹取物語、と部局内では通称されています。
結局、姫の潜伏先は、土地のおおまかなところはわかっているが、それ以上は人間世界への過剰な干渉であるとして確かな調査はできていない。誰か人間の魂が転生して、その土地に降下する必要がありそうだった。
(……で、わたくしか)
――我々も、一代きりの調査でどうにかなるとは思っていません。しかも転生のたびの記憶は引き継げないわけですし、気を長くしてやっていくしかないでしょう。……ですが、その土地に転生を続けて、生き続けていれば、きっとなにかを掴む事はできる。
その人はため息をついた。人間が始めた事の始末は人間が行わなければならないらしい。
稗田阿礼は是非曲直庁に留め置かれ、嘱託職員として雇われながら転生を待っている。当時はこの省庁の公用文書に使われる言語も漢語だったので、昔々に習得しておいてよかったと、そこだけは思った。