" />すべてを残す事はできない 作者: かはつるみ
Coolier - 新生・東方創想話

すべてを残す事はできない

2026/10/28 04:58:36
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 その人の名は稗田阿弥。

 稗田阿弥は年丗で死ぬ。

 博麗大結界はいまだ成立していない。
(が、どうでもいいわ)
 妖怪どもは相変わらず結界がどうこうという計画でぐちゃぐちゃとやっているらしいが、もう知らん。勝手にやっとけ。
 そう思いながら、自分から籠った土蔵の中で、阿片の効果が抜けていくとともに自分自身の体力もごっそりと奪われていく苦痛だけを生の実感にして、そこで果てかけている。(本当のところ、これは自殺だ)とそれだけは妙にはっきりと思った。
 しかし、死ぬ頃合いだけは彼らのいいように合わせてやらなければならない。どうやら自分の死去と共に博麗大結界は公布される段取りとなっているらしく、それをきっかけとして妖怪たちは人里を呑みこみ、もって妖怪の天下を示す、というシナリオ、らしい。
(馬鹿言ってんじゃないよ)と思う。(お前らにそんな事ができたためし無いだろ)
 だいたい、妖怪自身だって自分たちの指導者層の欺瞞に、付き合っていられなくなってきているようで、更なる大結界の公布が彼らに夢を与えられるような代物かどうかは、はなはだ疑問だ。
 よって、どこまでが新結界の範囲内で、どこからが範囲外なのか、自分たちがどう存在するべきかといった決定は各勢力の諸族に委ねられており、既に幻想郷という共同体の枠組みから離脱した妖怪たちも多い(それを選択した彼らの末路はわからない。結界外の人間に混じって生き延びたか、滅びたか)。そうした離脱を少しでも食い止めるため、結界を主導する向きは更に絶対的な妖怪優位の状況を仮想せざるを得なくなり、しかもその仮想を現実にも当て嵌めようとする。
(馬鹿の堂々巡りでしかないのだが、妖怪たちにも力はある。これ以上無理をやられると人間だって破滅するよ)
 そうした状況があるので、その人は死ぬ事にした。さすがに八度目ともなると、まあそれの成り行きはそれでいいかという気持ちが漂っている事も否めない。しかし首括って死ぬのもそれではなんだか妖怪に負けたようで悔しく、産後から患ってしまった持病の治療を拒否してみても、それらが変に先例になってしまっては後代に申し訳ないので、とりあえず結婚前の悪癖だった阿片に久々溺れてみて、どんどん深みにはまっていっている。阿弥と阿片はお友達。少なくとも死ぬまで縁が切れないし、死んだ後はさっさと離れる縁。
 しかし、悪い事ばかりでもなかったというか、基本的には悪い事でしかないのだが、この厄介な友人が脳を破壊して変質させていく変性意識の幻覚の中で、その人は色々なものを見た。
(稗田阿七はなにかを見出したらしい)
(稗田阿夢は私ではなかった)
(稗田阿悟は結局自分の役目に懐疑的だった)
(稗田阿余は家を残すためにその他すべてを残せなかった)
(稗田阿未は自分自身ではなにもしていない)
(稗田阿爾はごろつきと徒党を組んでこの郷を獲ったやくざ者だ)
(稗田阿一はなにか役目があってこの郷にやってきたらしい)
(稗田阿礼はその役目がなんであるかを知っている)
 知らなかった事もたくさん。
(そして、これらから考えられる事は――)
 そう考えかけた時、不思議にすうと軽くなった。それまで行けなかった場所にも行ける気がした。
(思考の帝国だ)
 その人は、その状態を、とっさに、そういうふうに定義した。だいたい、自分はこうなるのが遅すぎたのだとも思える。天才的な記憶力を有していながらも、今までは、ごくごく肉体的な、お家の、自分の身の周りの状態を維持する事ばかりに、汲々としていた。それらのくびきから解かれるまでに八代かかった。薬物の破滅的作用もあるとはいえ、どんな天才でもそんなものなのだろう。
 その軽い体で、土蔵からするりと脱け出す。
 月の夜だった。その月明かりの下、土の上にけんけんぱの丸を描きながら考えた。
(けん・けん・ぱ、けん・けん・ぱ、けん・けん・ぱ――これで九人だ)
 と思考のためのモデルを築く。モデルは世界を把握するために必要だ。それはあくまで仮想のための世界模型であって、正しさは必ずしも求められていない。もちろん正しいに越したことはない話だが、誤謬は役立たずで正しさだけが役に立つ、などと考えるようになる事こそが危険なのだ――なにより、その人は正しくないモデルにも一定の敬意を払うべきだと思っていた。たとえばケプラーの太陽系モデルはピタゴラス主義的な幾何学への信奉から脱する事ができなかった誤謬の塊だが、あれはあれでよくできたモデルだったのだ。
(このけんけんぱに仮想の九代を当て嵌める。最後の「ぱ」は自分でいいだろう。あくまで仮のモデルなのだし、こういう自分勝手さが許されるのも、この方法のいいところだから)
 けん・けん・ぱ(阿礼・阿一・阿爾)。
 けん・けん・ぱ(阿未・阿余・阿悟)。
 けん・けん・ぱ(阿夢・阿七、阿弥――)。
 月明かりの下で、その人は軽やかに遊んだ。

 稗田阿弥は年丗で死ぬ。

 もちろん、このモデルの欠陥はわかりきっている。だいたい、多くの世界解釈というもの、理屈の通っているところより、無理のある欠陥や瑕疵の方が魅力的だ。それをさも筋道通っているかのように隠蔽していくほどに、魅力はそのまま俗悪に変じていくのだが。
(とりあえず自分を最後の一歩に仮定してみたが、私たちの家祖は長い間、御阿礼ではなく阿一とされてきた。本来もう一代後ろにずらすべきだろうな)
 と、実のところは自分がけんけんぱの真ん中で、ただの助走にすぎないのではないかとも考えている。その場合、九代目の人は、一代後ろにけんけんぱの拍子をずらさなければならないだろう。だが、それだけの事とも言える。
(九代目か)
 その人は次代について思いをはせようとしたものの、意味の無い事だと思い直して、やめた。
(ま、なんか、がんばれ)
 激励ともつかない言葉を与えるうちに、けんけんぱの穴は黒々とした陥穽になっていて、その人はそこに落ち込んだ。

 稗田阿弥は年丗で死ぬ。

(別に三・三・三の構造にこだわる必要もない。おそらく九代目の人は私と同じような事を考えた時、一・二・三・四の配列からなるピラミッド型の構造に着目するだろう)
 すなわち。
 頂点に阿礼を戴き、
 その下部の第二層に阿一・阿爾を置く。
 第三層に阿未・阿余・阿悟の三人の配置。
 第四層の阿夢・阿七・阿弥と続いた後の末席に、ちょこんと自分を置く。
 また、その人はダンテの『神曲』を知らなかったが、ピラミッドを逆さにしたるつぼのような構造というのもいいな、と思った。
 第一層に阿礼・阿一・阿爾・阿未。
 第二層に阿余・阿悟・阿夢。
 第三層に阿七・阿弥。
 底に九人目の人。
 こういうのはなんでもいい。別にどうとでも遊べばいい。いずれにせよ、層構造というのはいい、とその人は思ったわけだ。
(ピラミッド型なら奥行きも作れる。きっと阿礼の頃は薄っぺらだったろうに)
 落とし穴はウサギ穴だと思われるが、まだまだ落ち込んでいって、どれだけ長い落下かと思わされた。穴の深さはわからない。Go Ask Alice.
 ウサギ穴の底は、自分がぶっ倒れてそのまま動かなくなっている土蔵だった。まあ、身も心も軽い気分なのは、そういう事なのだろうなと思う。
 食事を持ってきた家人が慌てて人を集めて、彼らが嘆きながらも女主人を土蔵から連れ出し、せめて最期だけはと、ちょうどいいぬるめのお風呂に湯浴みをさせて身を清めてあげるのを見下ろしながら、むちゃくちゃして迷惑をかけまくっていた割には、案外愛されていたよな私、と少しはしんみりするものの、それはともかく。
(そう、薄っぺらだ。稗田阿礼は薄っぺらの、ゼロだ)
 その人はそう思いながら、自分の肉体には未練がないと言わんばかりに、ふらりと稗田屋敷を出た。そのまま往来を駆けて(ここだけ、なにか不思議と肉体的感覚が戻る。道を駆ける中で景色が後ろに流れていく感覚が好きだったからだ)、人里を飛び出した。

 稗田阿弥は年丗で死ぬ。

 以前――前世を終えた後のおつとめに登庁した是非曲直庁の編集部で、面白いものを見せてもらった事がある。無限に薄っぺらい紙からなる、無限に薄っぺらい経典だ。それは無限に薄っぺらい無限ページの各紙から成り立っているために厚みがまったくなく、書庫の棚に立てかける事すらあたわず、是非曲直庁編集部の作業机の上に置きっぱなしになっている。各ページは四十行、各行は約八十の黒い活字からなるが、それぞれのページが無限に薄く透明なため、重なり合った文字が真っ黒な四十行としてただの細長い短冊を形成しているようにしか見えない。だが、その場をつまんでページをめくってみると、たしかにその場の無限に薄いページがめくれて、透けた世界の中に字だけが浮かんでいるのが見えた。無限に薄いくせに、読めば無限の厚みがあるテキストだったのだ。
(この土地の稗田家にとって、長らく家祖は阿一であるという認識で、阿礼は文字通りゼロ、それ以前の無の人にすぎなかった。それを再発見したのが阿七。忘れ去られていたどころのものじゃない、阿礼は単なる無だった)
 だが、その無であるはずの稗田阿礼が残したものは、おそろしく芳醇であった。
(だから古事記を残して以来、私たちの一族はなにか残す事に呪われてしまったらしい)
 是非曲直庁では、わざわざ稗田の魂が転生までする目的がなんであるかまでは、教えてもらえなかった。人生の目的は自分で見つけろという事らしい。
(ええ。それぞれ、好き勝手に人生の目的を見つけた事ですわ)
 阿一はこの土地に降下して、積極的に野人と交わった。それらの中に、こんにちでは妖怪などと分類されているたぐいの血族も、いないわけではなかったのだろうが、その人は気にもしなかっただろう。
 阿爾の代に稗田の家は一時衰微していたが、この人が再興した。再興の方法はかなり荒っぽいものだっただろうし、それを遂行するにあたってなんらかの迫害や弾圧もあったと思われるが、それでもその人はこの土地を安定させた。
 阿未は……その人自身は病弱で、おそろしく無力だった。あまりに無力なために、周囲には妖怪たちが集まり、その人も別に構わんという感じで侍り散らかして、いいように利用されていたが、それこそがその人の徳であった。
 阿余の評価は、家に係累の混乱を呼び込んだという一点だけでも難しい。しかしながら何代にもわたる完全な家の維持というものがどだい無理な話なのであって、あの時代にそれが起きた事自体は、その人たちのありようを見直す期間だったのだろう。
 阿悟が己の人生をなんだと感じていたのか――稗田の家の転生の子としての自分とどう折り合いをつけられたのかは、わからない。ただ、妖怪たちがこの世界に幻と実体の境界を公布した後、その人は死ぬまで人間世界の維持に腐心し続けた。
 阿夢は……正式な御阿礼の子とされている人は、実は転生の子ではない。転生したその人は産後すぐ死んでしまい、数年後に産まれた無関係の子が、時代の要請によって御阿礼の子とされた――想定できなかった話ではないし、御阿礼の子が絶える事がなかった事実の方が重要だ。
 阿七は、なにもかもを整えなければならなかった。人里のありようと領域を整え、御阿礼の子の転生をより確実な形式にするため御阿礼神事の形を整え、博麗神社を現代に繋がる形に整え、なによりその人の本来の家祖を発見した。
(稗田阿礼)
 里のはずれで、くるくると踊りながら死人は思った。まったくでたらめな舞いで、流すように右腕を振ったその先に自分の唇がきて、つんのめった体の残像を思い出すように腰をくねらせる。別に舞踊のたぐいに明るいわけではなかったが、やってみると楽しかった。天宇受売の血でも引いていたのだろうか?
(それで、あんたはなにをした? 稗田阿礼)
 時のみかどの命によって、古事記を残す作業をしました。以上。
(それだけのわけがないのよ。こっちが知りたいのは方法だ。いつでもそうだったが、これからの時代は特にそうよ。我々とは何ぞやの主題そのものは千年前から既に出揃っている事、主題に方法が優越するという事が、いよいよはっきりしてくるだろう。そうならなければいよいよおしまいだね)
 明治維新の直後にあった神祇官の設置と復興の事を思い出しながら、その人は心の内で吐き捨てた。
(ありゃ、はなから方法がなっていないんだよね。……とはいえ、神祇官を復興する事それ自体はいい。御一新といえども温故知新New Classicが行われるべきなのはそうだし、それが近代官制に当て込まれていく事自体は、時代の要請もあるだろう。だが、あれでは、ただ昔のままを新しい型に無理に嵌め込もうとしただけだ。主題ばかり見て、方法をおろそかにして、これっぽちも考えようとしないからそうなる。ああいう事を続けるなら、私たちはなにも残せなくなっていくだろうよ)
 といって、自分にしたところでそこまでなにかを残せたという実感は、いまいち無いのだが。
(だがねえ、私と私の魂は、千年残る語りを残す事ができたんだよ。お前らに千年残す事ができるか?)
 そこだけはひそかな誇りとしているその人であったし、そのために稗田阿礼をひどく尊敬もしているその人だった。
(でも、古事記とて世界模型の一つでしかない。事実関係として正しいかそうではないかではなく、一つの語り物として、この世界がなんであるかの結構なモデルになっている。神の系譜、人の系譜、氏族の系譜。それらすべては言ってしまえば単なるモデルにすぎないが、だからこそここまで残ってきたという話でもある。ややこしいものは残りにくいし、残しすぎてもそれはそれで差し障りがある。かといって残らなければ、やはりそれはそれで困る。シンプルなモデルとして、一本調子の血統を紡いだ方が、私たちにとって都合がいい事もある)
 というわけで、御阿礼の子は一本の流れとして成立している……あくまで、形式上はそういう事になっている。
(そういう事でいいんじゃないでしょうか)
 当人の認識としては、だいぶ柔軟でいいかげんだ。

 稗田阿弥は年丗で死ぬ。

 いくら踊ったところで誰か日を照らすように出てきてくれるものでもないので、ふと我に返ると、よく知らぬ竹林の中にいた。
(竹林か)
 生前、あまり近寄らなかった場所である。どうもその人の記憶力が通用しないというか、勝手が違うのだ。勝手が違うという点では単に森など呼ばれている地帯(ここが魔法の森と呼ばれるのはもっと後の事、ある魔法使いの家出少女が、そこに棲み付き始めてからだ)もそうだったが、あそこの場合は瘴気による幻覚が大きいと考えられる。
 しかしその人は、怖気づくこともなく、その中に足を踏み入れた。
(月の光すらろくに届かない場所なのだな)
 と、仰ぎ見てそのてっぺんのとても暗い事、それでもわずかな陰影が揺れていて、葉が重なり合って覆っているだけだという事が知れる。
(ここは真っ暗で、記憶が頼りにならず、しかも広大らしい)
 しかし無限に広いわけでもないようだった。無限に広ければ、それはそれで無限の記憶力によって対応できるからだ。この竹林は有限だろうが、変転きわまりないためにただの静止した無限を越える拡張性を有している。
(しかし、それと同時に、ここは凍りついているわ)
 心を軽くしていないと、歩けぬような心持ちだった。それでも糖蜜の海を泳ぐようで、その人の阿片の夢がついに解けかけているのか、あるいはそういう場なのか。
 足元を白ウサギたちが軽々駆け抜けていった。真っ暗な竹林の中で、白いお尻をふりふりしながら。
(待ってよ)
 突然現れて駆けていっただけの、気まぐれな魂のように白い彼らだったが、置いてけぼりになった気分だ。
 その人は相変わらず暗闇をさまよっている。
(また置いてかれちゃった)
 といっても、嘆くふうではない。誰かを置いていく者は必ずいるし、いずれは自分も誰かを置いていく者になっていく。当たり前のことだしそれが自然だ。
(うらみごとはないよ。私は色々なものを残してもらった人間でもあるから)
 ちょっと、さすがにしんみりとする。それくらいの事は許されてもいい境遇だった。
 が、それについて細かい事は書かない。これは、稗田阿弥の感情の物語ではなく、御阿礼の子と彼らが残したもの、あるいは残せなかったものの物語だからである。

 稗田阿弥は年丗で死ぬ。

 竹林の中をさまよっているうちに、軽やかだった足取りは重くなり、いつしか顎は垂れて背中を曲げて歩くようになっている。残された時間は、もう無いらしい。
(ま、ここまでか)
 とも思った。後の事は後の事なりに、どうとでもなる。なにもかも自分でやる必要はない。ちょうどよい腰かけ石のようなものがあったから、そこに腰を下ろして、むらむらと生えている太い竹を背もたれにして、力尽きる準備をその人はした。
 闇に目が慣れてきたのか、竹一本一本の輪郭がぼんやりと見える。無用な動作を増やす事を恐れているのか、微動だにせずざわめきだけは続けている竹林。
(もう、あとはしょうがないな。しかしわからないのは――)
 と、意識は発光と音に向けられた。数ある竹の中の一節が、ぼんやり灯ったのだ。それに同期したのは、その人のどんな記憶にも無いような新奇な音、しいて言えばオルガンに近いが、もっと軽やかな正弦波の音波。その人は身を縮めた。寒くなってきたのもある。阿片の禁断症状というもの、たとえ肉を捨てたところで凍えるように寒くなるものだ。
 膝を折って、腰かけ椅子の上に抱え込むように小さくなるその間も、竹林は方々の節を明滅させて、光るとともに音を鳴らした。
 何度か聞かされれば、明確な音階がある事くらいはわかる。D、E、C、オクターブ下ってのC、G。竹の明滅はみるみる激しくなってきた。やがて異様にびりびりと低い倍音までが生じて、地面すら揺さぶった。かさかさと軽い彼女の命は、それだけで動揺してしまう。
 ついに五種類のトーンは団子になった持続音と化して、それに同期して、竹林の発光も強烈なものになっていく。
 自分を包み込む発光の中で、その人は悲鳴を上げた。

 死にゆく主人がいまだに生のわずかな突端にすがりついて、ただ呻くように苦悶するだけになるのを家人たちは嘆いていたが、同時に、どこかの心で、これはあの出産の時のような騒ぎだなと感じる向きが――特に女たちの中に――あった。
 その人には娘がいる。難産だった。ほとんど死ぬに近い悶えの中で産み、産褥もあまりよろしくなく、そのために持病も患った。その子――それに対して、その人はそれなりの愛情を注いだものの、やはりどこかで突き放したような扱いをしていた事が、何度かある。
(あれは残したもののうちには入らない、残ってしまったものだよ)
 誰にも言わなかった事だが、ひそかにそう思ってすらいる。
(……というより、そういう扱いをしていた方がいいんだよね)という言い訳がついてくる突き放しだったが。(変に大層な存在に持ち上げるわけにはいかない)
 その人の娘は、御阿礼の子ではないというだけで、どれほど優秀であったにせよ、幻想郷の歴史から除外される存在だった。実際に名前すら残っていない。せいぜい“稗田阿弥の娘”として存在を置くほかないが、彼女は博麗大結界以降の稗田家を、安定した状態で維持し続けた。たとえ求聞持の能力を持っていなかったとしても。
 もっとも死にゆく母の気持ちとしては(……ま、なんか、がんばれ)くらいなのだが。

 なので、その人の死の瞬間には、娘も顔を出している。
 人が死ぬ場面にしては、妙に穏やかだった。その人の乾いた唇が力なく動き、娘はそれを聞いた。狂死に近いかたちで死んだ母の最期の言葉を、娘はどう解釈したものか。最期の言葉は息を引き取る直前の空気の流れにすぎず、遺言の内容はおそらく聞き間違いだっただろう。法的な遺言は既に処理を済ませていて、その一言はごくごく私的なものだった。どう聞いても構わないものだった。残ってしまった身としては、いくらでも聞き間違いをしておけばいい。
 娘は、自分は母に愛されていたと思った。

 稗田阿弥の、今わの際の幻覚の中でよぎったにすぎないとある発想は、のちに残す事はできなかった。その人はただ思うだけで、すべてを残す事はできなかった。
(古事記は千年残ったが、千年残った語りはもう一つある)
 竹取物語。

 稗田阿弥は年丗で死ぬ。
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