光が私を追い越せない。背後を振り返ると、そこには最初から何もなかったみたいに、暗闇が置き去りにされていた。
暗闇に後ろ髪を引かれて光から出れば、浮遊感。空を見上げれば、群青色の空が波打っていて、白く輝く魚が尾びれをひらりと振って、落ちていく途中だった。水しぶきが顔にかかった。
足をつく度に、音もなく、芽から白い花が弾ける。私は体に火がついてしまうと思って、慌てて川に飛び込んだ。霧が立ち上り、やがてそれは白い花びらとなって風に流された。気づくと、靴底が叩く音が乾いた石畳のものになっていた。
目の前にはお菓子の家があった。私はポケットから、いつもの鍵を取り出し、キャラメルでできた鍵穴に差し込んだ。カチャリ、と軽い金属音がして、重たい扉が開くのだった。
いつも通りに靴を脱いで、手を洗うために台所に向かう。ふと、違和感がある。窓がない。部屋に一つもない。
世界はもっと華やかでなかっただろうか?
自分の部屋に入ると、誰かが居た。綺麗な黒髪がぼさぼさだ。目の下には隈まである。その人はすぐさま駆け寄ってきて、私を抱きしめた。
その人が私から離れる。まだ手は繋いでいる。
その人は声を荒げている気がするのに、世界の膜がその人の声を妨げる。水の中みたいに声がくぐもって聞こえない。
彼女は私に座ってほしいみたい。なぜかはわからないけれど、私はその言葉に従ってあげたくなった。
手首を握られている。指で圧迫されて、自分の鼓動が、私の血管を押し返すのがわかった。
彼女はそのまま、自身の胸に私を押し付けた。私はされるがまま、ただ彼女に従った。ひどく安心する感じがした。
とくん、とくん。
しゅー、しゅー。
とくん、とくん。
これは私の鼓動なのか、あなたの鼓動なのか。目を開けたら、まだあなたがそこに居た。再び目を閉じた。
とくん、とくん。
とくん、とくん。
この世界には、きっと私たち2人だけだと理解した。
とくん、とくん。
なんとなく意識がはっきりしていくような気がする。冷たい理性が育っていく。
今の私たちは、どこまであなたで、どこまでが私なのだろう。たしか、かつてロヴェッリは、系の状態が、別の系との関係においてのみ定まると、量子力学を定式化した。主観と主観の間の関係でしか状態は定められない。いつか絶対的な客観はないって、あなたを揶揄したっけ。だから、私とあなたを区別するのは観測だけだ。
あれ?
とくん、とくん。
私の心配が私に伝わる。どうして、いったい何が怖かったんだっけ。
私が何かを探していた。ここ数日は眠気をエナジードリンクでごまかしていた。もう、飲みすぎは駄目だって私は言ったのに。ふらりと現れた私を追いかけたけれど、霧みたいに消えてしまった。現れるたびに、その手を掴んできっかり3秒で認識できなくなった。再現性だけはばっちりね。だから私は私を、こちら側の座標にとどめておきたかったのだ。私は愛おしくなった。私との重なりがまた増えた。
私は、私がいればどこだっていいわ。緯度も経度もいらないの。
輪郭が一つになったみたいだった。
私の安心が私に伝播した。まずい。何が?
閉じた系では、もつれはデコヒーレンスしない。永久凍土に閉じ込められた花みたいに、状態は安定する。環境に触れて、凍った私をとかさなくては。環境とは何だろう。心のそとにあるもの。体。体はまだふたつある。体をいためれば、きっと
きっと、なんだっけ。
でも私はこれでじゅうぶんだった。じゅうぶんをわたしにみちていた。
待ち合わせにだれもおくれない。誰をまたない。目がさめるたびに私のいないあさを、もうこない。
わたしをわたしにこおっていた。
あんしんしていた。あんしんされていた。あんしんのなかに、ひとつだけ、さみしさをあった。
さみしい。寂しいのに、誰がいないのかわからない。
あんしんと寂しさを同時に感じていた。いまなら思うだけで、瞬時にわかりあえる。それはなんてすばらしいことだった。
けれど。
ここにいたら、触れ合うこともできない。待ち合わせで待つことも、紅茶の好みで喧嘩をすることも、おかえりを言うことも、名前を呼ぶこともない。そうかもしれない。論文に夢中で放置されることもね。ごめんって。あなたの気持ちの悪い目を見ることもなくなるわね。言い過ぎ。
そう。あなたと見つめ合うことも、あなたの体温を感じることも、ヘタレなあなたの姿を見ることもない。
あなたのぬくもりを感じた。あなたの鼓動を感じた。
目を開けなくては。目を開けて、体を動かさなくては。
視覚から世界の情報が入ってくる。そうしてだんだんと心が離れていく。少しの寂しさと共に。
手のひらに力を込め、思い切り蓮子の頬を抓る。
「「痛い!」」
声が重なった。お互いに、相手の肉体を強くつねっていた。
「そんなに強くやることないじゃない、メリー」
私の口が言った。
「……腕を抓ったのは私よ」
あれ?
目の前の私、蓮子が眉をしかめてほおを撫でている。私はメリー、私はメリー。
胸の奥で、まだ蓮子の鼓動が聞こえている気がした。
「相変わらず気持ち悪い目ね」
「もう! 最初の一言がそれ?」
掴まれていた手が、蓮子に強く握り直された。
まだ世界が変な気がする。ここが私の家であることは間違い無いのだが、やはり窓はない。
「もっと世界は華やかじゃなかったかしら」
「……まだはっきりしていないみたいね」
もう片方の手も蓮子と繋いだ。強く握った。私たちを繋ぎ止めるテザーになるように。放り出されないように。
とくん、とくん。
鼓動が聞こえる。これはどちらのものだろう。
見つめ合う。ずっと見ていたいって思うのは、私たちが2人だからなんだろう。
「今度はちゃんと、その気持ち悪い目で観測してね」
「もちろん。そのために来たんだから」
外からクジラの鳴き声が聞こえる。
実は夢が本物で、現実なんてないんじゃないかって思った。
けれど、目の前にあなたがいるだけで、どうでも良くなった。
暗闇に後ろ髪を引かれて光から出れば、浮遊感。空を見上げれば、群青色の空が波打っていて、白く輝く魚が尾びれをひらりと振って、落ちていく途中だった。水しぶきが顔にかかった。
足をつく度に、音もなく、芽から白い花が弾ける。私は体に火がついてしまうと思って、慌てて川に飛び込んだ。霧が立ち上り、やがてそれは白い花びらとなって風に流された。気づくと、靴底が叩く音が乾いた石畳のものになっていた。
目の前にはお菓子の家があった。私はポケットから、いつもの鍵を取り出し、キャラメルでできた鍵穴に差し込んだ。カチャリ、と軽い金属音がして、重たい扉が開くのだった。
いつも通りに靴を脱いで、手を洗うために台所に向かう。ふと、違和感がある。窓がない。部屋に一つもない。
世界はもっと華やかでなかっただろうか?
自分の部屋に入ると、誰かが居た。綺麗な黒髪がぼさぼさだ。目の下には隈まである。その人はすぐさま駆け寄ってきて、私を抱きしめた。
その人が私から離れる。まだ手は繋いでいる。
その人は声を荒げている気がするのに、世界の膜がその人の声を妨げる。水の中みたいに声がくぐもって聞こえない。
彼女は私に座ってほしいみたい。なぜかはわからないけれど、私はその言葉に従ってあげたくなった。
手首を握られている。指で圧迫されて、自分の鼓動が、私の血管を押し返すのがわかった。
彼女はそのまま、自身の胸に私を押し付けた。私はされるがまま、ただ彼女に従った。ひどく安心する感じがした。
とくん、とくん。
しゅー、しゅー。
とくん、とくん。
これは私の鼓動なのか、あなたの鼓動なのか。目を開けたら、まだあなたがそこに居た。再び目を閉じた。
とくん、とくん。
とくん、とくん。
この世界には、きっと私たち2人だけだと理解した。
とくん、とくん。
なんとなく意識がはっきりしていくような気がする。冷たい理性が育っていく。
今の私たちは、どこまであなたで、どこまでが私なのだろう。たしか、かつてロヴェッリは、系の状態が、別の系との関係においてのみ定まると、量子力学を定式化した。主観と主観の間の関係でしか状態は定められない。いつか絶対的な客観はないって、あなたを揶揄したっけ。だから、私とあなたを区別するのは観測だけだ。
あれ?
とくん、とくん。
私の心配が私に伝わる。どうして、いったい何が怖かったんだっけ。
私が何かを探していた。ここ数日は眠気をエナジードリンクでごまかしていた。もう、飲みすぎは駄目だって私は言ったのに。ふらりと現れた私を追いかけたけれど、霧みたいに消えてしまった。現れるたびに、その手を掴んできっかり3秒で認識できなくなった。再現性だけはばっちりね。だから私は私を、こちら側の座標にとどめておきたかったのだ。私は愛おしくなった。私との重なりがまた増えた。
私は、私がいればどこだっていいわ。緯度も経度もいらないの。
輪郭が一つになったみたいだった。
私の安心が私に伝播した。まずい。何が?
閉じた系では、もつれはデコヒーレンスしない。永久凍土に閉じ込められた花みたいに、状態は安定する。環境に触れて、凍った私をとかさなくては。環境とは何だろう。心のそとにあるもの。体。体はまだふたつある。体をいためれば、きっと
きっと、なんだっけ。
でも私はこれでじゅうぶんだった。じゅうぶんをわたしにみちていた。
待ち合わせにだれもおくれない。誰をまたない。目がさめるたびに私のいないあさを、もうこない。
わたしをわたしにこおっていた。
あんしんしていた。あんしんされていた。あんしんのなかに、ひとつだけ、さみしさをあった。
さみしい。寂しいのに、誰がいないのかわからない。
あんしんと寂しさを同時に感じていた。いまなら思うだけで、瞬時にわかりあえる。それはなんてすばらしいことだった。
けれど。
ここにいたら、触れ合うこともできない。待ち合わせで待つことも、紅茶の好みで喧嘩をすることも、おかえりを言うことも、名前を呼ぶこともない。そうかもしれない。論文に夢中で放置されることもね。ごめんって。あなたの気持ちの悪い目を見ることもなくなるわね。言い過ぎ。
そう。あなたと見つめ合うことも、あなたの体温を感じることも、ヘタレなあなたの姿を見ることもない。
あなたのぬくもりを感じた。あなたの鼓動を感じた。
目を開けなくては。目を開けて、体を動かさなくては。
視覚から世界の情報が入ってくる。そうしてだんだんと心が離れていく。少しの寂しさと共に。
手のひらに力を込め、思い切り蓮子の頬を抓る。
「「痛い!」」
声が重なった。お互いに、相手の肉体を強くつねっていた。
「そんなに強くやることないじゃない、メリー」
私の口が言った。
「……腕を抓ったのは私よ」
あれ?
目の前の私、蓮子が眉をしかめてほおを撫でている。私はメリー、私はメリー。
胸の奥で、まだ蓮子の鼓動が聞こえている気がした。
「相変わらず気持ち悪い目ね」
「もう! 最初の一言がそれ?」
掴まれていた手が、蓮子に強く握り直された。
まだ世界が変な気がする。ここが私の家であることは間違い無いのだが、やはり窓はない。
「もっと世界は華やかじゃなかったかしら」
「……まだはっきりしていないみたいね」
もう片方の手も蓮子と繋いだ。強く握った。私たちを繋ぎ止めるテザーになるように。放り出されないように。
とくん、とくん。
鼓動が聞こえる。これはどちらのものだろう。
見つめ合う。ずっと見ていたいって思うのは、私たちが2人だからなんだろう。
「今度はちゃんと、その気持ち悪い目で観測してね」
「もちろん。そのために来たんだから」
外からクジラの鳴き声が聞こえる。
実は夢が本物で、現実なんてないんじゃないかって思った。
けれど、目の前にあなたがいるだけで、どうでも良くなった。