吐いた息が白くほどけ、朝露をまとった草木の葉は、触れれば指先を刺すような冷たさを帯びている。
今朝の空はよく晴れていたが、陽の光にはもう夏のような力強さがなく、広い庭を覆う木々も色を失いつつある。
冬の足音が、白玉楼の庭にも聞こえ始めていた。
長い夏の陽を浴びてすくすくと伸びた枝を落とし、形を整え、風通しを良くしてやる。冬を越すために欠かせない重要な庭仕事だ。
白玉楼の庭は広い。
数日にわたり行ってきた剪定作業は佳境に入っていた。
脚立に上り、剪定ばさみを握って、少し離れたところから樹形を眺める。右を一枝。左を半枝。ほんの少しの違いで全体の印象が変わるから、こういう作業は案外神経を使う。
そんな折だった。
「妖夢ー」
背後から、間延びした声。
嫌な予感がした。
「……はい」
振り返ると、幽々子様がこちらへ向かって来るのが見えた。朝の冷気など何のその、いつものように穏やかな笑みを浮かべている。
「ちょっと妖夢に話があるの」
「何でしょう」
「あなた、ちょっと休暇を取りなさい」
「はい?」
剪定ばさみを持ったまま、私は固まった。
「だから休暇。しばらくお休み」
「いえ、しかし庭がまだ途中で」
「大丈夫よ」
「大丈夫ではありません。冬に入る前に済ませておかなければ――」
「へそくりしてた春があるからなんとかなるわ」
「なんてことしてるんですか」
「まあいいじゃない。とりあえず人里に行って、一泊旅行でもしてきなさい」
「一泊……」
「そう。こんぱくいっぱく。ってね」
「面白くありません」
私は空を見上げた。
これはきっと悪い夢だ。そうあってくれ。
こちらの都合など考えもせず、にこにこと微笑みながら、それじゃあと言ってむんずと手渡してきたのは大きな風呂敷。
「はい、じゃあいってらっしゃい」
私は本当に追い出されるようにして、白玉楼を後にした。
私は人里の道を歩きながら、何度目になるか分からない溜息を吐いた。
背には勝手にまとめられた風呂敷。懐には開けてびっくりな過剰な小遣い。手には幽々子様が書いたという宿までの地図。
開いた地図は、それはそれはひどいものだった。
「川」とか「木」という文字から伸びる意味の分からない矢印や、「この辺」という、あまりにも大雑把な丸印。
道らしい道はほとんど描かれていない。宿の名前すら書いてない。
これを地図と呼んでいいのかどうかすら怪しい。
とはいえ、人里で宿があるのは温泉の湧く宿街だけに限られる。
そこを目指して、私はとりあえず道を進んでいた。
今いるこの通りは、普段買い出しのために通る道だ。道の両脇には日用品や食品を扱う店がずらりと並び、各々から活気のある呼び込みの声が響いている。
「おう、妖夢ちゃんじゃないか」
顔馴染みの八百屋の店主がこちらへ声をかけてきた。
「こんにちは」
「見てくれよ。今日は大根が安いんだ。立派だろう?」
白く太った大根だ。ひげ根の並びも良くて、葉も青々としている。値段も破格だ。
「一本どうだい? 今夜あたり、煮物にでもすればうまいぞ」
頭の中に、白玉楼の台所が浮かんだ。
出汁を取り、切った大根を鍋に入れて……。一緒に炊くのは鶏がいいかな。いや、こんにゃくも捨てがたい。
葉は刻んで塩揉みして、白いごはんに混ぜ込んで……。
自然と手が財布へ伸びていた。
しかし、覗き込んだ財布の中に、普段では考えられないような額の現金があるのを見て、はっとする。
休暇。という言葉が脳裏に蘇った。
「いえ。今日は。大丈夫です」
「そうかい?」
「はい」
断腸の思いだ。私は大根から目を逸らした。
危なかった。
庭師が大根背負って泊まりに来ました、なんて、いい笑い種だ。
店を離れてから、私は胸を押さえた。
そしてその後も、似たようなことが続いた。
乾物屋では味噌を勧められ、魚屋では今日入ったばかりの魚を見せられ、鶏卵店では新鮮なたまごを勧められた。
私はそのたびにそれを丁寧に断った。
たまごは、宿に温泉があるなら買って行ってもいいかなと、少しだけ迷った。
「何が休暇なんでしょう」
ぼやきながら、普段の買い物よりも疲れ果てている自分に気付く。
白玉楼で庭仕事をしていた朝方より日も高くなり、気温もずいぶん上がっているはずなのに、今の方がよっぽど身も心も冷めきっている。
そんな私の目に、ひらひらと風に揺れる旗が入った。
甘味処。
普段、通り過ぎるだけの店だった。
いや、本当は通るたびに気にはなっていた。
しかし、普段の自分には買い物以外の予定も山ほどある。寄り道をすれば帰りが遅くなるし、それに無駄遣いをするわけにもいかない。
私は足を止めた。そして、少し考えた。
今なら。今なら寄ってもいいのではないか。
なぜなら。
「私は今、休暇中なのですから」
口に出してみると、不思議なほど胸が軽くなった。
店の暖簾をくぐると、店内には甘い香りが漂っていた。
どうやら小麦粉を練った生地で甘い餡を挟んで焼いた、丸い焼き菓子が売りらしい。
素朴で目新しさは無いが、どら焼きとも最中とも違う、知らない焼き菓子だった。
「この菓子、名前はなんというのですか?」
「名前は無いんです」
「名前は、無い?」
「ええ。名前を付けると、どれが正式な名前かで揉めるもので」
人里というのは、時々よく分からない。
深くは聞かず、中の餡を選べるというので壁のお品書きに視線を移す。
こしあんに粒あん。白あん。季節の栗あん。
そして、その中に見慣れない文字を見つける。
カスタード。
私はしばらく、その文字を見つめた。
何だろう、聞いたことがない。
こういった見慣れないものについ惹かれてしまうのは、人の性なのだろうか、それとも霊の性なのだろうか。
「この、かすたーどというものをひとつ」
「かしこまりました」
注文すると、店員が専用の鉄板で手際よく焼き始めた。
店先の椅子に腰掛けて待っていると、すぐに焼きたての菓子が手渡された。
冷え切っていた指先に、焼きたての熱がじんわりと染み込んできて、それだけでこの名もなき菓子がとても愛おしいものに思えた。
食べてしまうのが名残惜しい。しかし、食べるために買ったのだ。
ちょっとした罪悪感を抱きながら、ゆっくりと菓子を二つに割る。とろりとした淡い黄色の餡が姿を現し、白い湯気が立ち込めた。それと同時に鼻をくすぐったのは、今まで嗅いだことのない甘い香り。
柔らかく、温かく、どこか濃厚で、初めて嗅ぐのに不思議と心を落ち着かせる香りだった。
私はそれがまだ熱いと分かっていながら、堪らずにかぶりついた。
「おいしい」
思わず声が漏れた。
更にもう一口。何度も口に放り込んでは、その味を堪能した。
あっという間に半分。
そこまで食べ進めたあたりで、私はいつしかその味の正体を探っていた。
この味を再現できれば幽々子様にも……。
一体何でできているんだろう。このコクは牛乳。香りと色は、たまごだろうか。
黄色い餡を観察していると、中に小さな黒い粒があるのが見えた。
「……胡椒?」
甘い餡に胡椒。人里の菓子職人というのは、とんでもないことを考えるものだ。
ああ、こんなにも手の込んだ菓子の再現など、私の手に負えるものではないだろう。
私は感心しながら、最後の一口を食べた。
胡椒の辛さは全く感じなかった。
口の中の余韻に浸りながら、私は店を出た。
店を出た後、私は先ほどの甘味処と同じように、普段なら素通りしてしまう店に立ち寄った。
雑貨屋では小さな櫛を眺め、服屋では冬物の生地を手に取った。
見ているだけでも楽しかった。
せっかく幽々子様からお小遣いを頂いたのだから、思い切って色んなものを買っても良いのかもしれない。
でも、実際に購入したものは小さなものを数点だけ。
我慢している訳ではない。これくらいが身の丈に合っていて心地良かった。
そうして寄り道を重ねながら、私はようやく宿街に着いた。
「さて」
改めて地図を広げても、やはり目的の宿がどこにあるのか分からない。
今いる通りには宿がずらり。その隣の通りも、そのまた隣の通りも宿、宿、宿。
こんな地図を元に自力で宿を探し当てるのは至難の業だ。
私は恥を忍んで、道行く人に聞いて回った。
聞くたびに、その内容を地図に書き足していく。すると、はじめは人に見せるのもはばかられるような醜い有り様だった地図が、段々とそれらしい地図になっていった。
まるで宝の地図の謎を解き明かしているかのようで、私はいつの間にかそれを楽しんでいた。
そうやってようやく一つの宿に的を絞ることができた頃には、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。
宿の前には古びた暖簾が一枚。明かりはほとんど見えない。
本当に営業しているのだろうか。少し不安になった。
恐る恐る扉を開くと、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
古い家屋独特の、乾いた木材や土壁の匂いがする。
目の前には太く立派な柱が立っていて、柱に沿って視線を上へ向けると、その柱に遜色のない立派な梁が複雑に組み上げられている。
白玉楼とはまったく違う造りだ。
白玉楼は広く、開放的で、どこか現世から浮いているような造りだ。
まあ、事実そういう場所なのだけれど。
それに比べ、この宿の造りは狭い空間を無駄なく使い、一本一本の柱にまで丁寧に気を配っているように見える。
大工仕事に詳しくはないが、かなり良い造りなのは間違いなさそうだ。
「いらっしゃいませ」
「わっ!」
すぐそばから声がした。
突然のことで、その場から飛び退きそうになった。
見ると、そこには私より頭一つほど背の低そうな年老いた仲居さんが深々と頭を下げている。
「ご予約の方でしょうか」
「ぁ、はい。たぶん……」
ゆっくりとした仲居さんの言葉に、私は少し慌てて答えた。
「あの、白玉楼の者です」
「白玉楼の……」
仲居さんは顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「はいはい、承っておりますよ」
その言葉を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。
案内された受付で宿泊の記帳を済ませ、食事の時間や風呂の場所など簡単な説明を受ける。
その後、部屋へ案内されることになった。
「お荷物をお持ちしますね」
「あ、いえ」
反射的に手を引いた。
「荷物は自分で持ちますから」
そこまで言って、仲居さんが驚いたような、そしてどこか寂しそうな顔をしているのに気付く。
私はそこで、はっとした。
自分は物心ついた頃から人に仕えてきた。自分の荷物はもちろん、主の荷物も持って歩くのが当たり前だし、それが自然なことだった。それゆえ、誰かに世話をされるということに抵抗を覚えてしまう。
でも、だからこそ、この場面で自分が仲居さんの立場だったら、と考える。
「……あの」
私は荷物を持ったまま、少しうつむいた。
「やっぱり、お願いします」
「はい、お任せください」
仲居さんの顔がぱっと晴れたのを見て、私は胸を撫で下ろす。
ごめんなさい。
心の中でそう付け足した。
案内された部屋は、古さを感じさせながらも整然としていて、清潔感のある部屋だった。
畳はよく手入れされ、窓の障子には柔らかな夕方の光が滲んでいる。
「夕食の準備ができましたらお声がけします」
扉を閉めながらお辞儀する仲居さんを見送る。
振り返ると、自分だけに用意された部屋が後に残った。
とても静かだった。
白玉楼も静かな場所だ。でも、その静けさとは少し違う、どこか暖かみのある静けさだ。
夕日に染まった障子をすっと開けると、そこには専用の坪庭があった。
思わず息を飲んだ。
植栽の配置が素晴らしく、樹木の姿も良い。
枝の伸び方、幹の傾き、石の置き方。全体的にとても静かな景色になっていながら、どこか威風堂々としている。
私には分かる。この限られた空間で、それを表現するのがどれだけ大変な事か。
私はしばらく、そこから目を離せなかった。
そしてすぐに、白玉楼の庭が頭をよぎった。
まだ整えていない枝。立てたままの脚立。汚れたままの剪定ばさみ。
「……」
私は目を閉じた。
今は忘れよう。せっかくの休暇なのだ。そう思ってから、私は少しだけ笑った。
窓辺に座り、じっくりと庭を眺めてみる。
夕方の光が少しずつ薄くなり、庭石の影が長く伸びている。
時おり穏やかな風が吹き、枝や葉を揺らす。風が止むと、草木が息を潜めているように見えた。
時計の針が刻む時間とは別の時間が、そこに流れているようだった。
私は、気の赴くまま、その時間に身をゆだねることにした。
そうやってどれくらい経っただろうか。
日が沈んですっかり暗くなった部屋に、こちらへ近づく足音が微かに響き始める。
「夕食のご用意ができました」
扉の向こうから仲居さんの声がして、私は小走りで部屋を出た。
案内された食事処には、既に先付けや小鉢、旬のものなどが用意され、手元にはこれから出てくる料理がずらりと並んだお品書きが置かれていた。
そのお品書きに目を通すだけで、胃の奥が小さく鳴った。
そういえば、今日はあのカスタードを食べただけで、昼食らしい昼食を取っていなかった。
「いただきます」
思わず迷い箸をしてしまいそうなほど色とりどりに用意された小鉢をつつきながら、その一つ一つをじっくりと味わう。
どれも味付けはあっさりとしていて、出汁の豊かな香りと共に、食材の個性の良いところがうまく引き出されている。理想的な味付けだ。
小鉢の一つに、大根の煮物があるのを見つける。
八百屋での出来事を思い出し、思わず笑ってしまった。
焼き物には、皮目が香ばしく焼かれた川魚。
幽々子様はあまり魚が好きではないので、普段お出しする機会はかなり少ない。
そうなると自ずと、私が魚を口にする機会も少なくなる。
箸を入れるとほろりと崩れる柔らかい身を口に運び、久々の味に思わず歓喜する。
その後も様々な料理が運ばれてきて、私は一つ一つの料理を堪能した。
それにしても、こうして誰かに用意してもらったものを食べるというのは、何と幸せなことだろう。
それに、普段なら食事をしつつ、頭の中では仕事のことばかりを考えている。
明日は庭のどこを剪定しようか。買い出しは何が必要か。幽々子様が何を食べたいと言っていたか。
そういったことを考えているうちに、いつの間にか食事が終わっている。
でも今日は違う。
魚の身がほぐれる感触や、煮物の柔らかな歯触り、温かさ。
そういうものを一つずつ感じながら食べる。食事とは、本来こういうものなのかもしれない。
幽々子様がいつも食べすぎてしまう理由が、少しだけ分かった気がした。
食事を終えると、先ほどの仲居さんが静かに膳を下げていった。
「ごちそうさまでした」
「ごゆっくりお休みくださいませ」
ごゆっくり。
その言葉が妙に嬉しかった。
食事処を後にした私は、部屋へは戻らず、すぐに温泉へ向かった。
赤い暖簾をくぐった先にある脱衣所もまた、古い造りながらとても清潔だ。
服を脱ぎながら感じる、木の床の感触が素足に心地よい。
脱衣所の外はすぐに露天風呂になっていた。
大きすぎない木製の浴槽から、白い湯気が寒空へ向かってもうもうと立ち昇っている。
私ははやる気持ちを抑えて身体を洗い、そして湯船へ足を入れた。
じんと伝わるお湯の熱に体を強張らせながらも、一気に肩まで身を沈める。
「……はぁ」
思わず声が出た。
ぐっと強張っていた肩の力が抜け、やがて全身の力が抜けていく。
湯気の向こうで、風呂場の光景がぼんやりと霞んで見えた。
何もしなくていい。
誰かに呼ばれることもない。
時間を気にする必要もないし、庭のことも今は考えなくてもいい。
ただ湯に浸かっていればいい。
そんな時間が、こんなにも心地よく感じられるとは思わなかった。
私は湯船の中で、手をゆっくり開いたり閉じたりした。
湯が指の間を抜けていく感覚が、不思議なくらい心地よかった。
しばらくそうして、身体が十分に温まったところで、ようやく湯から上がった。
外の冷気が少しだけ肌を撫でて、それが今は気持ちよかった。
部屋へ戻ると布団が敷かれていた。
今日は布団すら自分で敷く必要がない。
何だか妙な気分だった。
今日一日、自分はほとんど何もしていない。
仕事らしい仕事といえば、やりかけの庭仕事くらいだ。
それなのに、とても満ち足りている。
布団の上にドサッと身を投げ出す。普段はしないことだ。
何だか楽しい。
窓の外には、昼間とは違う静けさをまとった坪庭。
庭を眺めながら、今日のことを思い返す。
今日は、とても長い一日だった。
そして、とても良い一日だった。
柔らかな布団に背中を預け、天井を眺める。
白玉楼の天井とは違う。
当然だ。
それなのに、妙に安心した。
「休暇、か」
今までそんなものは必要ないと思っていた。
ふと目を閉じると、幽々子様の顔が思い浮かぶ。
食事はちゃんととっただろうか。重い布団を自分で敷けただろうか。
心配ではあったけれど、私の心は不思議とざわつかなかった。
窓から聞こえる、さらさらという風に揺れる枝の音を聞いているうちに、意識が少しずつ遠のいていった。
翌朝。
目を覚ますと、窓の向こうから淡い光が差し込んでいた。
そしてふと、視界の端に何かが見えた。
「……半霊?」
そこに、私の半霊が浮かんでいた。
白く、ぼんやりとした身体。
いつものように、私の傍らにいる。
いつものように?
「そうだ」
私は胸の奥で、小さく呟いた。
半霊を見たのは、久しぶりな気がする。
最近忙しかったこともあって、気に留める暇が無かったのだろうか。
いや、もしかすると、気付かぬうちに私の中から、何かが薄れていたのではないか。
私は半霊へ手を伸ばした。
ふわりと、半霊が手のひらに寄り添う。
温度はないはずなのに、不思議とぬくもりを感じる。
「ありがとうございます、幽々子様。でも、ちょっと不器用すぎる気もしますけど」
布団から体を起こしながら、私は小さく笑った。
お互い様。
半霊にそう言われたような気がした。
寝ている間にはだけた浴衣を直し、食事処へ向かう。
しっかりとした量でありながら、朝の胃に優しい品目の朝食をゆっくりと済ませ、また温泉に浸かる。
肌に手を滑らせると、昨日よりも体が軽くなったように感じた。
「お世話になりました」
「またお越しくださいませ」
昨日と同じ仲居さんに見送られながら、宿を後にした。
また。きっと私は、また、この宿を訪れるだろう。
白玉楼を目指し、昨日来た道を歩く。
普段買い物でよく通る道は、どこか懐かしく、きらきらと輝いているように感じた。
ふと目に、ひらひらと風に揺れる旗が入った。
甘味処。
普段、通り過ぎるだけの店だった。
あのカスタードが食べられる店だった。
「このカスタードというのを二つ。いや三つほど」
包んでもらったカスタードを大事に抱え、また帰路に着く。
帰ればまた、いつもの忙しい日々が待っている。
けれど、不思議とそれが楽しみだった。
半霊が、いつものように隣を浮かんでいる。
私はその姿を眺め、手を伸ばす。
「早く帰りましょうか」
昨日より少しだけ冬に近づいた風が、静かに頬を撫でていった。
今朝の空はよく晴れていたが、陽の光にはもう夏のような力強さがなく、広い庭を覆う木々も色を失いつつある。
冬の足音が、白玉楼の庭にも聞こえ始めていた。
長い夏の陽を浴びてすくすくと伸びた枝を落とし、形を整え、風通しを良くしてやる。冬を越すために欠かせない重要な庭仕事だ。
白玉楼の庭は広い。
数日にわたり行ってきた剪定作業は佳境に入っていた。
脚立に上り、剪定ばさみを握って、少し離れたところから樹形を眺める。右を一枝。左を半枝。ほんの少しの違いで全体の印象が変わるから、こういう作業は案外神経を使う。
そんな折だった。
「妖夢ー」
背後から、間延びした声。
嫌な予感がした。
「……はい」
振り返ると、幽々子様がこちらへ向かって来るのが見えた。朝の冷気など何のその、いつものように穏やかな笑みを浮かべている。
「ちょっと妖夢に話があるの」
「何でしょう」
「あなた、ちょっと休暇を取りなさい」
「はい?」
剪定ばさみを持ったまま、私は固まった。
「だから休暇。しばらくお休み」
「いえ、しかし庭がまだ途中で」
「大丈夫よ」
「大丈夫ではありません。冬に入る前に済ませておかなければ――」
「へそくりしてた春があるからなんとかなるわ」
「なんてことしてるんですか」
「まあいいじゃない。とりあえず人里に行って、一泊旅行でもしてきなさい」
「一泊……」
「そう。こんぱくいっぱく。ってね」
「面白くありません」
私は空を見上げた。
これはきっと悪い夢だ。そうあってくれ。
こちらの都合など考えもせず、にこにこと微笑みながら、それじゃあと言ってむんずと手渡してきたのは大きな風呂敷。
「はい、じゃあいってらっしゃい」
私は本当に追い出されるようにして、白玉楼を後にした。
私は人里の道を歩きながら、何度目になるか分からない溜息を吐いた。
背には勝手にまとめられた風呂敷。懐には開けてびっくりな過剰な小遣い。手には幽々子様が書いたという宿までの地図。
開いた地図は、それはそれはひどいものだった。
「川」とか「木」という文字から伸びる意味の分からない矢印や、「この辺」という、あまりにも大雑把な丸印。
道らしい道はほとんど描かれていない。宿の名前すら書いてない。
これを地図と呼んでいいのかどうかすら怪しい。
とはいえ、人里で宿があるのは温泉の湧く宿街だけに限られる。
そこを目指して、私はとりあえず道を進んでいた。
今いるこの通りは、普段買い出しのために通る道だ。道の両脇には日用品や食品を扱う店がずらりと並び、各々から活気のある呼び込みの声が響いている。
「おう、妖夢ちゃんじゃないか」
顔馴染みの八百屋の店主がこちらへ声をかけてきた。
「こんにちは」
「見てくれよ。今日は大根が安いんだ。立派だろう?」
白く太った大根だ。ひげ根の並びも良くて、葉も青々としている。値段も破格だ。
「一本どうだい? 今夜あたり、煮物にでもすればうまいぞ」
頭の中に、白玉楼の台所が浮かんだ。
出汁を取り、切った大根を鍋に入れて……。一緒に炊くのは鶏がいいかな。いや、こんにゃくも捨てがたい。
葉は刻んで塩揉みして、白いごはんに混ぜ込んで……。
自然と手が財布へ伸びていた。
しかし、覗き込んだ財布の中に、普段では考えられないような額の現金があるのを見て、はっとする。
休暇。という言葉が脳裏に蘇った。
「いえ。今日は。大丈夫です」
「そうかい?」
「はい」
断腸の思いだ。私は大根から目を逸らした。
危なかった。
庭師が大根背負って泊まりに来ました、なんて、いい笑い種だ。
店を離れてから、私は胸を押さえた。
そしてその後も、似たようなことが続いた。
乾物屋では味噌を勧められ、魚屋では今日入ったばかりの魚を見せられ、鶏卵店では新鮮なたまごを勧められた。
私はそのたびにそれを丁寧に断った。
たまごは、宿に温泉があるなら買って行ってもいいかなと、少しだけ迷った。
「何が休暇なんでしょう」
ぼやきながら、普段の買い物よりも疲れ果てている自分に気付く。
白玉楼で庭仕事をしていた朝方より日も高くなり、気温もずいぶん上がっているはずなのに、今の方がよっぽど身も心も冷めきっている。
そんな私の目に、ひらひらと風に揺れる旗が入った。
甘味処。
普段、通り過ぎるだけの店だった。
いや、本当は通るたびに気にはなっていた。
しかし、普段の自分には買い物以外の予定も山ほどある。寄り道をすれば帰りが遅くなるし、それに無駄遣いをするわけにもいかない。
私は足を止めた。そして、少し考えた。
今なら。今なら寄ってもいいのではないか。
なぜなら。
「私は今、休暇中なのですから」
口に出してみると、不思議なほど胸が軽くなった。
店の暖簾をくぐると、店内には甘い香りが漂っていた。
どうやら小麦粉を練った生地で甘い餡を挟んで焼いた、丸い焼き菓子が売りらしい。
素朴で目新しさは無いが、どら焼きとも最中とも違う、知らない焼き菓子だった。
「この菓子、名前はなんというのですか?」
「名前は無いんです」
「名前は、無い?」
「ええ。名前を付けると、どれが正式な名前かで揉めるもので」
人里というのは、時々よく分からない。
深くは聞かず、中の餡を選べるというので壁のお品書きに視線を移す。
こしあんに粒あん。白あん。季節の栗あん。
そして、その中に見慣れない文字を見つける。
カスタード。
私はしばらく、その文字を見つめた。
何だろう、聞いたことがない。
こういった見慣れないものについ惹かれてしまうのは、人の性なのだろうか、それとも霊の性なのだろうか。
「この、かすたーどというものをひとつ」
「かしこまりました」
注文すると、店員が専用の鉄板で手際よく焼き始めた。
店先の椅子に腰掛けて待っていると、すぐに焼きたての菓子が手渡された。
冷え切っていた指先に、焼きたての熱がじんわりと染み込んできて、それだけでこの名もなき菓子がとても愛おしいものに思えた。
食べてしまうのが名残惜しい。しかし、食べるために買ったのだ。
ちょっとした罪悪感を抱きながら、ゆっくりと菓子を二つに割る。とろりとした淡い黄色の餡が姿を現し、白い湯気が立ち込めた。それと同時に鼻をくすぐったのは、今まで嗅いだことのない甘い香り。
柔らかく、温かく、どこか濃厚で、初めて嗅ぐのに不思議と心を落ち着かせる香りだった。
私はそれがまだ熱いと分かっていながら、堪らずにかぶりついた。
「おいしい」
思わず声が漏れた。
更にもう一口。何度も口に放り込んでは、その味を堪能した。
あっという間に半分。
そこまで食べ進めたあたりで、私はいつしかその味の正体を探っていた。
この味を再現できれば幽々子様にも……。
一体何でできているんだろう。このコクは牛乳。香りと色は、たまごだろうか。
黄色い餡を観察していると、中に小さな黒い粒があるのが見えた。
「……胡椒?」
甘い餡に胡椒。人里の菓子職人というのは、とんでもないことを考えるものだ。
ああ、こんなにも手の込んだ菓子の再現など、私の手に負えるものではないだろう。
私は感心しながら、最後の一口を食べた。
胡椒の辛さは全く感じなかった。
口の中の余韻に浸りながら、私は店を出た。
店を出た後、私は先ほどの甘味処と同じように、普段なら素通りしてしまう店に立ち寄った。
雑貨屋では小さな櫛を眺め、服屋では冬物の生地を手に取った。
見ているだけでも楽しかった。
せっかく幽々子様からお小遣いを頂いたのだから、思い切って色んなものを買っても良いのかもしれない。
でも、実際に購入したものは小さなものを数点だけ。
我慢している訳ではない。これくらいが身の丈に合っていて心地良かった。
そうして寄り道を重ねながら、私はようやく宿街に着いた。
「さて」
改めて地図を広げても、やはり目的の宿がどこにあるのか分からない。
今いる通りには宿がずらり。その隣の通りも、そのまた隣の通りも宿、宿、宿。
こんな地図を元に自力で宿を探し当てるのは至難の業だ。
私は恥を忍んで、道行く人に聞いて回った。
聞くたびに、その内容を地図に書き足していく。すると、はじめは人に見せるのもはばかられるような醜い有り様だった地図が、段々とそれらしい地図になっていった。
まるで宝の地図の謎を解き明かしているかのようで、私はいつの間にかそれを楽しんでいた。
そうやってようやく一つの宿に的を絞ることができた頃には、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。
宿の前には古びた暖簾が一枚。明かりはほとんど見えない。
本当に営業しているのだろうか。少し不安になった。
恐る恐る扉を開くと、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
古い家屋独特の、乾いた木材や土壁の匂いがする。
目の前には太く立派な柱が立っていて、柱に沿って視線を上へ向けると、その柱に遜色のない立派な梁が複雑に組み上げられている。
白玉楼とはまったく違う造りだ。
白玉楼は広く、開放的で、どこか現世から浮いているような造りだ。
まあ、事実そういう場所なのだけれど。
それに比べ、この宿の造りは狭い空間を無駄なく使い、一本一本の柱にまで丁寧に気を配っているように見える。
大工仕事に詳しくはないが、かなり良い造りなのは間違いなさそうだ。
「いらっしゃいませ」
「わっ!」
すぐそばから声がした。
突然のことで、その場から飛び退きそうになった。
見ると、そこには私より頭一つほど背の低そうな年老いた仲居さんが深々と頭を下げている。
「ご予約の方でしょうか」
「ぁ、はい。たぶん……」
ゆっくりとした仲居さんの言葉に、私は少し慌てて答えた。
「あの、白玉楼の者です」
「白玉楼の……」
仲居さんは顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「はいはい、承っておりますよ」
その言葉を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。
案内された受付で宿泊の記帳を済ませ、食事の時間や風呂の場所など簡単な説明を受ける。
その後、部屋へ案内されることになった。
「お荷物をお持ちしますね」
「あ、いえ」
反射的に手を引いた。
「荷物は自分で持ちますから」
そこまで言って、仲居さんが驚いたような、そしてどこか寂しそうな顔をしているのに気付く。
私はそこで、はっとした。
自分は物心ついた頃から人に仕えてきた。自分の荷物はもちろん、主の荷物も持って歩くのが当たり前だし、それが自然なことだった。それゆえ、誰かに世話をされるということに抵抗を覚えてしまう。
でも、だからこそ、この場面で自分が仲居さんの立場だったら、と考える。
「……あの」
私は荷物を持ったまま、少しうつむいた。
「やっぱり、お願いします」
「はい、お任せください」
仲居さんの顔がぱっと晴れたのを見て、私は胸を撫で下ろす。
ごめんなさい。
心の中でそう付け足した。
案内された部屋は、古さを感じさせながらも整然としていて、清潔感のある部屋だった。
畳はよく手入れされ、窓の障子には柔らかな夕方の光が滲んでいる。
「夕食の準備ができましたらお声がけします」
扉を閉めながらお辞儀する仲居さんを見送る。
振り返ると、自分だけに用意された部屋が後に残った。
とても静かだった。
白玉楼も静かな場所だ。でも、その静けさとは少し違う、どこか暖かみのある静けさだ。
夕日に染まった障子をすっと開けると、そこには専用の坪庭があった。
思わず息を飲んだ。
植栽の配置が素晴らしく、樹木の姿も良い。
枝の伸び方、幹の傾き、石の置き方。全体的にとても静かな景色になっていながら、どこか威風堂々としている。
私には分かる。この限られた空間で、それを表現するのがどれだけ大変な事か。
私はしばらく、そこから目を離せなかった。
そしてすぐに、白玉楼の庭が頭をよぎった。
まだ整えていない枝。立てたままの脚立。汚れたままの剪定ばさみ。
「……」
私は目を閉じた。
今は忘れよう。せっかくの休暇なのだ。そう思ってから、私は少しだけ笑った。
窓辺に座り、じっくりと庭を眺めてみる。
夕方の光が少しずつ薄くなり、庭石の影が長く伸びている。
時おり穏やかな風が吹き、枝や葉を揺らす。風が止むと、草木が息を潜めているように見えた。
時計の針が刻む時間とは別の時間が、そこに流れているようだった。
私は、気の赴くまま、その時間に身をゆだねることにした。
そうやってどれくらい経っただろうか。
日が沈んですっかり暗くなった部屋に、こちらへ近づく足音が微かに響き始める。
「夕食のご用意ができました」
扉の向こうから仲居さんの声がして、私は小走りで部屋を出た。
案内された食事処には、既に先付けや小鉢、旬のものなどが用意され、手元にはこれから出てくる料理がずらりと並んだお品書きが置かれていた。
そのお品書きに目を通すだけで、胃の奥が小さく鳴った。
そういえば、今日はあのカスタードを食べただけで、昼食らしい昼食を取っていなかった。
「いただきます」
思わず迷い箸をしてしまいそうなほど色とりどりに用意された小鉢をつつきながら、その一つ一つをじっくりと味わう。
どれも味付けはあっさりとしていて、出汁の豊かな香りと共に、食材の個性の良いところがうまく引き出されている。理想的な味付けだ。
小鉢の一つに、大根の煮物があるのを見つける。
八百屋での出来事を思い出し、思わず笑ってしまった。
焼き物には、皮目が香ばしく焼かれた川魚。
幽々子様はあまり魚が好きではないので、普段お出しする機会はかなり少ない。
そうなると自ずと、私が魚を口にする機会も少なくなる。
箸を入れるとほろりと崩れる柔らかい身を口に運び、久々の味に思わず歓喜する。
その後も様々な料理が運ばれてきて、私は一つ一つの料理を堪能した。
それにしても、こうして誰かに用意してもらったものを食べるというのは、何と幸せなことだろう。
それに、普段なら食事をしつつ、頭の中では仕事のことばかりを考えている。
明日は庭のどこを剪定しようか。買い出しは何が必要か。幽々子様が何を食べたいと言っていたか。
そういったことを考えているうちに、いつの間にか食事が終わっている。
でも今日は違う。
魚の身がほぐれる感触や、煮物の柔らかな歯触り、温かさ。
そういうものを一つずつ感じながら食べる。食事とは、本来こういうものなのかもしれない。
幽々子様がいつも食べすぎてしまう理由が、少しだけ分かった気がした。
食事を終えると、先ほどの仲居さんが静かに膳を下げていった。
「ごちそうさまでした」
「ごゆっくりお休みくださいませ」
ごゆっくり。
その言葉が妙に嬉しかった。
食事処を後にした私は、部屋へは戻らず、すぐに温泉へ向かった。
赤い暖簾をくぐった先にある脱衣所もまた、古い造りながらとても清潔だ。
服を脱ぎながら感じる、木の床の感触が素足に心地よい。
脱衣所の外はすぐに露天風呂になっていた。
大きすぎない木製の浴槽から、白い湯気が寒空へ向かってもうもうと立ち昇っている。
私ははやる気持ちを抑えて身体を洗い、そして湯船へ足を入れた。
じんと伝わるお湯の熱に体を強張らせながらも、一気に肩まで身を沈める。
「……はぁ」
思わず声が出た。
ぐっと強張っていた肩の力が抜け、やがて全身の力が抜けていく。
湯気の向こうで、風呂場の光景がぼんやりと霞んで見えた。
何もしなくていい。
誰かに呼ばれることもない。
時間を気にする必要もないし、庭のことも今は考えなくてもいい。
ただ湯に浸かっていればいい。
そんな時間が、こんなにも心地よく感じられるとは思わなかった。
私は湯船の中で、手をゆっくり開いたり閉じたりした。
湯が指の間を抜けていく感覚が、不思議なくらい心地よかった。
しばらくそうして、身体が十分に温まったところで、ようやく湯から上がった。
外の冷気が少しだけ肌を撫でて、それが今は気持ちよかった。
部屋へ戻ると布団が敷かれていた。
今日は布団すら自分で敷く必要がない。
何だか妙な気分だった。
今日一日、自分はほとんど何もしていない。
仕事らしい仕事といえば、やりかけの庭仕事くらいだ。
それなのに、とても満ち足りている。
布団の上にドサッと身を投げ出す。普段はしないことだ。
何だか楽しい。
窓の外には、昼間とは違う静けさをまとった坪庭。
庭を眺めながら、今日のことを思い返す。
今日は、とても長い一日だった。
そして、とても良い一日だった。
柔らかな布団に背中を預け、天井を眺める。
白玉楼の天井とは違う。
当然だ。
それなのに、妙に安心した。
「休暇、か」
今までそんなものは必要ないと思っていた。
ふと目を閉じると、幽々子様の顔が思い浮かぶ。
食事はちゃんととっただろうか。重い布団を自分で敷けただろうか。
心配ではあったけれど、私の心は不思議とざわつかなかった。
窓から聞こえる、さらさらという風に揺れる枝の音を聞いているうちに、意識が少しずつ遠のいていった。
翌朝。
目を覚ますと、窓の向こうから淡い光が差し込んでいた。
そしてふと、視界の端に何かが見えた。
「……半霊?」
そこに、私の半霊が浮かんでいた。
白く、ぼんやりとした身体。
いつものように、私の傍らにいる。
いつものように?
「そうだ」
私は胸の奥で、小さく呟いた。
半霊を見たのは、久しぶりな気がする。
最近忙しかったこともあって、気に留める暇が無かったのだろうか。
いや、もしかすると、気付かぬうちに私の中から、何かが薄れていたのではないか。
私は半霊へ手を伸ばした。
ふわりと、半霊が手のひらに寄り添う。
温度はないはずなのに、不思議とぬくもりを感じる。
「ありがとうございます、幽々子様。でも、ちょっと不器用すぎる気もしますけど」
布団から体を起こしながら、私は小さく笑った。
お互い様。
半霊にそう言われたような気がした。
寝ている間にはだけた浴衣を直し、食事処へ向かう。
しっかりとした量でありながら、朝の胃に優しい品目の朝食をゆっくりと済ませ、また温泉に浸かる。
肌に手を滑らせると、昨日よりも体が軽くなったように感じた。
「お世話になりました」
「またお越しくださいませ」
昨日と同じ仲居さんに見送られながら、宿を後にした。
また。きっと私は、また、この宿を訪れるだろう。
白玉楼を目指し、昨日来た道を歩く。
普段買い物でよく通る道は、どこか懐かしく、きらきらと輝いているように感じた。
ふと目に、ひらひらと風に揺れる旗が入った。
甘味処。
普段、通り過ぎるだけの店だった。
あのカスタードが食べられる店だった。
「このカスタードというのを二つ。いや三つほど」
包んでもらったカスタードを大事に抱え、また帰路に着く。
帰ればまた、いつもの忙しい日々が待っている。
けれど、不思議とそれが楽しみだった。
半霊が、いつものように隣を浮かんでいる。
私はその姿を眺め、手を伸ばす。
「早く帰りましょうか」
昨日より少しだけ冬に近づいた風が、静かに頬を撫でていった。
急な休暇でしたがちゃんと満喫できたようでよかったです