目が覚めた瞬間、それはすでに私の上にいた。
音はしなかった。振動もない。
ただ、意識が浮上してきた瞬間、皮膚という皮膚が、その存在を同時に報告してきた。
腕。脚。腹部。顎。
薄い膜が、皮膚に張りついている。
膜というより、もっと粘度のあるものだった。呼吸に合わせて、それもわずかに上下する。まるで、私の身体の輪郭を、もう一つの輪郭がなぞっているようだった。
払っても取れない。指で摘もうとしても、何も摘めない。
それでも、確かにそこにある。
肌の表面ではない。もっと内側。
すでに私の身体の一部になってしまったもの。
——浮腫んでいるだけだ。
私はそう思おうとした。
昨夜の秘封倶楽部の活動で夜が遅かった。
ベッドでなくソファで寝てしまった。
普段よりも起床時間が早い。
もしかしたら、メリーと超えた境界の影響かもしれない。
理由はいくらでも用意できた。理由がある限り、これは異常ではない。
たまたまだ。そういうことにしておけばいい。
確かめる方法がないわけではなかった。けれど、私はそれを確かめなかった。確かめてしまえば、輪郭が生まれる。
「なんとなく嫌な感じ」ではいられなくなる。
そこにあるものが、数字や形を持った瞬間、それは現実になる。
——だから、見なかった。
見ないという選択そのものが、すでに恐怖であることには気づかないふりをした。
翌朝、それは消えていなかった。むしろ、昨日より近くなっていた。座れば、それも一緒に沈み込む。立ち上がれば、少し遅れて追ってくる。歩けば、腿の内側で何かが擦れる。
音などしないはずなのに、確かに聞こえた気がした。
鏡の前に立つ。
長い時間、動けなかった。
そこに映っているのは、いつもの私だった。
目も。鼻も。口も。どこにも異常はない。
けれど、直視できない。
輪郭の外側に、薄く、もう一枚何かが重なっている。
それは私の形をなぞりながら、私ではない何かとして存在していた。
——目を逸らす。
認めてしまえば、何かをしなければならなくなる。
目を逸らしている間だけ、それは「まだ起きていないこと」でいてくれる。
けれど、身体は正直だった。
私は服を着た。そして、スキニーパンツに脚を通した。
——入らなかった。
膝のあたりで止まった。
私はしばらく、そのまま動かなかった。
「……今日は浮腫んでるだけ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
春には、普通に穿けていた。だから今日は、たまたまだ。たまたま浮腫んでいる。
昨日よく眠れなかったから。暑かったから。水を飲みすぎたから。理由なら、いくらでもある。
私はスキニーパンツを脱いだ。
そして、フワっとしたスカートに着替えた。
その日一日、私はそれについて考えないようにした。
考えないようにしたのに、ブラウスの首周りが、妙にきつかった。私は襟元に指を入れた。
以前なら、こんなことはなかった。そこで初めて、認めざるを得なくなった。
——何かが、近づいている。
音も立てず。気配もなく。毎日の食事の後に、少しずつ。甘いエナジードリンクの奥に、億劫だからと乗り込んだ電車の座席に、疲れたからと横たわった休日の私の隣に、それはずっといた。
ただ、私が見ようとしなかっただけだった。
這い寄るように、確実に。
——それは、脂肪であり体重だった。
大学近くのカフェは、いつもと変わらない喧騒に満ちていた。
窓際の席。白い皿。紅茶。そして、ショートケーキ。フォークを入れると、スポンジがわずかに沈んだ。その柔らかさすら、今の私には不吉に感じられた。
向かいの女も、同じケーキを食べている。名前は知っている。
——マエリベリー・ハーン。
何度も一緒に時間を過ごしてきた。けれど、今の私には、その名前がうまく機能しなかった。
目の前にいるのは、メリーの顔をした、メリーの声をした何かだった。
その女がフォークを口に運ぶ。咀嚼する。飲み込む。喉が一度、静かに動く。
ただそれだけの動作を、私は初めて見るもののように観察していた。
同じケーキを食べている。同じ量の砂糖を体内に取り込んでいる。それなのに、この女の輪郭には、あれの気配がない。
まるで、最初から存在しないかのように。
あるいは——。すでに飼い慣らしているかのように。
「メリーって、なんで太らないの?」
聞かずにはいられなかった。
この女はフォークを置き、少し考えるような顔をした。
「別に、大したことしてないわよ」
その言葉に、私は息を止めた。
大したことをしていない。では、一体何をしているというのだ。
「一駅分くらいなら歩くし。エレベーターより階段を使うくらい」
たったそれだけ。一駅分歩く。階段を使う。
私には、それがすでに異常だった。
「……へえ」
「あと、夜は軽くストレッチしてる」
軽く……。
「それから?」
「ケーキを食べた日は、夕飯の炭水化物を抜くかな」
私は、しばらく返事ができなかった。
——夕食の炭水化物を抜く。
目の前の女は、何を言っているのだろう。夕食とは、一日の最後に食べる食事だ。
そこから米や麺やパンを取り除いて、一体何を食べるというのか。
「……おかずは食べるんでしょう?」
「もちろん」
「お腹空かない?」
「慣れるわよ」
慣れる……。その言葉が、一番怖かった。
「レポート書くときも、エナジードリンクは飲まないわね」
私は黙った。
「夜遅くは食べないし。食べ過ぎた次の日は、ちょっと軽くするくらい」
ちょっと……。
軽く……。
その程度の言葉で、この女は自分の欲望を制御している。
私は抽斗の中を思い出した。予備のエナジードリンクが二本。
レポートの締切が近づけば、私は何の疑問も持たずにプルタブを起こす。
眠い。疲れた。だから飲む。カフェインやアルギニンによる覚醒作用で眠気を払い、集中力の向上。糖分による脳へのエネルギー補給。それを放棄してどうやってレポートを完成させろというのだろうか。
腹が減った。だから食べる。
生き物として当然の行いを時間帯やその日の摂取量に応じて調整するなど、生物としての本能が欠落しているのではないか。
面倒だ。だから歩かない。
それが私にとっての自然だった。けれど、目の前の女にとっては違う。
「……そう」
ようやく、それだけ言えた。
この女は、ケーキを食べている。私と同じケーキを。
それなのに、その後に何を食べるかまで、すでに決めている。
食べた分だけ、どこかで帳尻を合わせる。
その事実が、ただただ恐ろしかった。
「蓮子、どうしたの?」
「何でもない」
私は目を逸らした。
皿の上のケーキが、急に禍々しいものに見えた。
それから、私はこの存在を観察するようになった。
大げさなことではない。ただ、隣にいるとき、何気ない仕草を以前より注意して見るようになっただけだ。
朝。
待ち合わせ場所に現れたこの存在は、少し息を切らしていた。
「走ってきたの?」
「ううん。一駅手前で降りて歩いてきたの」
それだけだった。
大学では、階段を使う。迷いなく四階まで。
私は三階あたりで息が上がった。
この存在は、会話の速度すら変えない。
「大丈夫?」
「平気」
……嘘だった。膝が笑っていた。けれど、この存在はそれを知っているのかいないのか、四階まで普通に歩いていった。
昼食。
この存在は、まだ皿に残っている料理を見て、フォークを置いた。
「もういいの?」
「お腹いっぱいだから」
あまりにも簡単な答えだった。
私は残りを見た。まだ食べられる。いや、食べられるというだけなら、いくらでも食べられる。
「もったいなくない?」
「もったいないかもだけど、ちゃんと感謝の気持ちは持っているわ。食材にも作ってくれた人にもね」
私は何も言えなかった。
人間は、もっと曖昧な生き物ではなかったか。
美味しそうだから食べる。残すのがもったいないから食べる。目の前にあるから食べる。そのどれも、この存在には通用しない。
夜。
別れ際、この存在は言った。
「今日は歩いて帰るから」
「えっ? なんで?」
「歩きたいから、かな」
理由は、それだけだった。
歩くことに意味を持たせていない。健康のためでも。美容のためでも。ダイエットのためでも。
——ただ、歩く。
それがこの存在の日常だった。
私は理解できなかった。
何かを我慢することは、苦しいものだと思っていた。だから、人間は我慢した分だけ、いつかそれを取り戻そうとする。私ならそうする。
ケーキを我慢したら、その夜にアイスを食べる。エナジードリンクを我慢したら、翌日に二本飲む。
運動したら、その分だけ食べてもいいと思う。
けれど、この存在は違う。我慢しているという意識そのものがない。
そのことが、恐ろしかった。
私は、未知の生物を観察するように、この存在を見ていた。
同じ大学に通う。同じ講義を受ける。同じカフェでケーキを食べる。同じ街を歩く。
なのに、その身体の中には、私とは違う原理が働いている。そんな気がした。
観察しているだけでは、分からない。私は、真似てみることにした。
まず、帰り道。
いつもなら電車に乗るところを、この日は歩いた。
十分もしないうちに、足が重くなった。
「まだ歩く?」
「まだまだ」
隣のこの存在は、平然としている。
「あとどのくらい?」
「二十分くらい」
私は空を見上げた。
——長い。途方もなく長い。
けれど、歩いた。
次の日。
階段を使った。四階まで。
三階で、私は立ち止まりたくなった。この存在は振り返った。
「休む?」
「……いい」
「そう?」
そのまま先に行く。私は追った。
夜。
ストレッチをした。
五分で嫌になった。記憶の中の私より各関節の可動域が明らかに狭くなっている。
エナジードリンクも我慢した。
これは一番きつかった。レポートを書いている途中、冷蔵庫の中にある缶の存在が頭から離れない。
飲みたい。眠い。飲めば楽になる。
それでも、飲まなかった。
夕食のご飯も、半分にした。
——圧倒的に足りない。明らかに足りない。
それでも食事を終えた。
私は思った。こんなものを毎日続けるなんて、どうかしている。
ハッキリ言って異常だ。
翌日、私は目の前の女に言った。
「これ、よく続くわね」
メリーは首を傾げた。
「そう?」
「だって、大変だし、面倒じゃない?」
「いや別に」
「苦しくない?」
「慣れれば普通よ」
私は黙った。また、その言葉だった。
——慣れれば普通。
この存在にとっては、苦行ではない。努力ですらない。
ただの日常。
そこで私は、ようやく気づいた。
この女は痩せるために我慢しているわけではない。
食べたいものを食べるために、普段の生活を少し調整している。
ケーキを食べる。だから夕飯を少し軽くする。
夜に甘いものを食べたい。だから昼間に歩く。
好きなものを食べる。そのために、食べない時間を作る。
それだけのことだった。
その合理性が、私には眩しかった。そして、少しだけ恐ろしくなくなった。
この女は私とは違う生き物なのではない。
ただ、自分の身体と、それなりに付き合っているだけなのだ。
……それができること自体、私にはまだ十分恐ろしかったけれど。
数日後。
私は体重計の前に立った。逃げる理由は、もうなかった。
数字を見るが、大きな変化はない。けれど、ほんの少しだけ減っていた。
私は、しばらくその数字を見つめていた。たったそれだけ。
それだけなのに、不思議と嫌な気分ではなかった。
その朝、春には穿けていたスキニーパンツを、もう一度試した。
——まだ少しきつい。けれど、前ほどではない。
私は鏡の前で、少しだけ笑った。
一日で増えたわけではない。だから、一日で戻るわけでもない。
それなら、少しずつでいい。
歩く。階段を使う。エナジードリンクを一本減らす。食べ過ぎた翌日は、少し軽くする。
——それだけでいいんだ。
這い寄ってきたものに対して、私も少しずつ抵抗する。
そのくらいなら、できそうだった。
数日後。
私たちは、また大学近くのカフェにいた。
テーブルの上には、二つのケーキ。
私はフォークを入れた。
甘い。美味しい。やっぱり、ケーキは美味しい。
「今日の夕飯、どうする?」
私が聞くと、メリーは少し考えた。
「今日は歩いて帰るから、普通に食べようかな」
「じゃあ、私も歩く」
メリーがこちらを見る。少しだけ驚いた顔だった。
「そう」
「うん」
強がりでも意地でもなかった。
カフェを出た。
夕方の風が、少しだけ涼しい。私たちは並んで歩いた。
以前なら、私はここで電車に乗っていただろう。けれど今日は歩く。
——歩ける。そのことが、少しだけ嬉しかった。
「ねえ、蓮子」
「なに?」
「帰りにアイス買っていかない?」
私は少し考えた。
「……いいわね」
「ダイエット中じゃなかった?」
「今日は歩いたからいいの」
「そうね」
メリーは笑った。私は、その横顔を見た。
以前ほど、恐ろしくない。でもまだ理解できないところはある。
どうして平然と自分を律することができるのか。
どうして、食べたいものを食べながら、食べ過ぎないでいられるのか。
——私には、まだ分からない。けれど、全部を理解する必要はないのかもしれない。
食べたいものを食べる。そのために、少し歩く。
それだけなら、私にもできる。
夕暮れの街を、二人分の足音が進んでいく。
身体に纏わりついていたものは、まだ完全には消えていない。
たぶん、明日も少しずつ近づいてくる。
だから私は、また歩く。少しだけ。
今度は、目を逸らさずに。
音はしなかった。振動もない。
ただ、意識が浮上してきた瞬間、皮膚という皮膚が、その存在を同時に報告してきた。
腕。脚。腹部。顎。
薄い膜が、皮膚に張りついている。
膜というより、もっと粘度のあるものだった。呼吸に合わせて、それもわずかに上下する。まるで、私の身体の輪郭を、もう一つの輪郭がなぞっているようだった。
払っても取れない。指で摘もうとしても、何も摘めない。
それでも、確かにそこにある。
肌の表面ではない。もっと内側。
すでに私の身体の一部になってしまったもの。
——浮腫んでいるだけだ。
私はそう思おうとした。
昨夜の秘封倶楽部の活動で夜が遅かった。
ベッドでなくソファで寝てしまった。
普段よりも起床時間が早い。
もしかしたら、メリーと超えた境界の影響かもしれない。
理由はいくらでも用意できた。理由がある限り、これは異常ではない。
たまたまだ。そういうことにしておけばいい。
確かめる方法がないわけではなかった。けれど、私はそれを確かめなかった。確かめてしまえば、輪郭が生まれる。
「なんとなく嫌な感じ」ではいられなくなる。
そこにあるものが、数字や形を持った瞬間、それは現実になる。
——だから、見なかった。
見ないという選択そのものが、すでに恐怖であることには気づかないふりをした。
翌朝、それは消えていなかった。むしろ、昨日より近くなっていた。座れば、それも一緒に沈み込む。立ち上がれば、少し遅れて追ってくる。歩けば、腿の内側で何かが擦れる。
音などしないはずなのに、確かに聞こえた気がした。
鏡の前に立つ。
長い時間、動けなかった。
そこに映っているのは、いつもの私だった。
目も。鼻も。口も。どこにも異常はない。
けれど、直視できない。
輪郭の外側に、薄く、もう一枚何かが重なっている。
それは私の形をなぞりながら、私ではない何かとして存在していた。
——目を逸らす。
認めてしまえば、何かをしなければならなくなる。
目を逸らしている間だけ、それは「まだ起きていないこと」でいてくれる。
けれど、身体は正直だった。
私は服を着た。そして、スキニーパンツに脚を通した。
——入らなかった。
膝のあたりで止まった。
私はしばらく、そのまま動かなかった。
「……今日は浮腫んでるだけ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
春には、普通に穿けていた。だから今日は、たまたまだ。たまたま浮腫んでいる。
昨日よく眠れなかったから。暑かったから。水を飲みすぎたから。理由なら、いくらでもある。
私はスキニーパンツを脱いだ。
そして、フワっとしたスカートに着替えた。
その日一日、私はそれについて考えないようにした。
考えないようにしたのに、ブラウスの首周りが、妙にきつかった。私は襟元に指を入れた。
以前なら、こんなことはなかった。そこで初めて、認めざるを得なくなった。
——何かが、近づいている。
音も立てず。気配もなく。毎日の食事の後に、少しずつ。甘いエナジードリンクの奥に、億劫だからと乗り込んだ電車の座席に、疲れたからと横たわった休日の私の隣に、それはずっといた。
ただ、私が見ようとしなかっただけだった。
這い寄るように、確実に。
——それは、脂肪であり体重だった。
大学近くのカフェは、いつもと変わらない喧騒に満ちていた。
窓際の席。白い皿。紅茶。そして、ショートケーキ。フォークを入れると、スポンジがわずかに沈んだ。その柔らかさすら、今の私には不吉に感じられた。
向かいの女も、同じケーキを食べている。名前は知っている。
——マエリベリー・ハーン。
何度も一緒に時間を過ごしてきた。けれど、今の私には、その名前がうまく機能しなかった。
目の前にいるのは、メリーの顔をした、メリーの声をした何かだった。
その女がフォークを口に運ぶ。咀嚼する。飲み込む。喉が一度、静かに動く。
ただそれだけの動作を、私は初めて見るもののように観察していた。
同じケーキを食べている。同じ量の砂糖を体内に取り込んでいる。それなのに、この女の輪郭には、あれの気配がない。
まるで、最初から存在しないかのように。
あるいは——。すでに飼い慣らしているかのように。
「メリーって、なんで太らないの?」
聞かずにはいられなかった。
この女はフォークを置き、少し考えるような顔をした。
「別に、大したことしてないわよ」
その言葉に、私は息を止めた。
大したことをしていない。では、一体何をしているというのだ。
「一駅分くらいなら歩くし。エレベーターより階段を使うくらい」
たったそれだけ。一駅分歩く。階段を使う。
私には、それがすでに異常だった。
「……へえ」
「あと、夜は軽くストレッチしてる」
軽く……。
「それから?」
「ケーキを食べた日は、夕飯の炭水化物を抜くかな」
私は、しばらく返事ができなかった。
——夕食の炭水化物を抜く。
目の前の女は、何を言っているのだろう。夕食とは、一日の最後に食べる食事だ。
そこから米や麺やパンを取り除いて、一体何を食べるというのか。
「……おかずは食べるんでしょう?」
「もちろん」
「お腹空かない?」
「慣れるわよ」
慣れる……。その言葉が、一番怖かった。
「レポート書くときも、エナジードリンクは飲まないわね」
私は黙った。
「夜遅くは食べないし。食べ過ぎた次の日は、ちょっと軽くするくらい」
ちょっと……。
軽く……。
その程度の言葉で、この女は自分の欲望を制御している。
私は抽斗の中を思い出した。予備のエナジードリンクが二本。
レポートの締切が近づけば、私は何の疑問も持たずにプルタブを起こす。
眠い。疲れた。だから飲む。カフェインやアルギニンによる覚醒作用で眠気を払い、集中力の向上。糖分による脳へのエネルギー補給。それを放棄してどうやってレポートを完成させろというのだろうか。
腹が減った。だから食べる。
生き物として当然の行いを時間帯やその日の摂取量に応じて調整するなど、生物としての本能が欠落しているのではないか。
面倒だ。だから歩かない。
それが私にとっての自然だった。けれど、目の前の女にとっては違う。
「……そう」
ようやく、それだけ言えた。
この女は、ケーキを食べている。私と同じケーキを。
それなのに、その後に何を食べるかまで、すでに決めている。
食べた分だけ、どこかで帳尻を合わせる。
その事実が、ただただ恐ろしかった。
「蓮子、どうしたの?」
「何でもない」
私は目を逸らした。
皿の上のケーキが、急に禍々しいものに見えた。
それから、私はこの存在を観察するようになった。
大げさなことではない。ただ、隣にいるとき、何気ない仕草を以前より注意して見るようになっただけだ。
朝。
待ち合わせ場所に現れたこの存在は、少し息を切らしていた。
「走ってきたの?」
「ううん。一駅手前で降りて歩いてきたの」
それだけだった。
大学では、階段を使う。迷いなく四階まで。
私は三階あたりで息が上がった。
この存在は、会話の速度すら変えない。
「大丈夫?」
「平気」
……嘘だった。膝が笑っていた。けれど、この存在はそれを知っているのかいないのか、四階まで普通に歩いていった。
昼食。
この存在は、まだ皿に残っている料理を見て、フォークを置いた。
「もういいの?」
「お腹いっぱいだから」
あまりにも簡単な答えだった。
私は残りを見た。まだ食べられる。いや、食べられるというだけなら、いくらでも食べられる。
「もったいなくない?」
「もったいないかもだけど、ちゃんと感謝の気持ちは持っているわ。食材にも作ってくれた人にもね」
私は何も言えなかった。
人間は、もっと曖昧な生き物ではなかったか。
美味しそうだから食べる。残すのがもったいないから食べる。目の前にあるから食べる。そのどれも、この存在には通用しない。
夜。
別れ際、この存在は言った。
「今日は歩いて帰るから」
「えっ? なんで?」
「歩きたいから、かな」
理由は、それだけだった。
歩くことに意味を持たせていない。健康のためでも。美容のためでも。ダイエットのためでも。
——ただ、歩く。
それがこの存在の日常だった。
私は理解できなかった。
何かを我慢することは、苦しいものだと思っていた。だから、人間は我慢した分だけ、いつかそれを取り戻そうとする。私ならそうする。
ケーキを我慢したら、その夜にアイスを食べる。エナジードリンクを我慢したら、翌日に二本飲む。
運動したら、その分だけ食べてもいいと思う。
けれど、この存在は違う。我慢しているという意識そのものがない。
そのことが、恐ろしかった。
私は、未知の生物を観察するように、この存在を見ていた。
同じ大学に通う。同じ講義を受ける。同じカフェでケーキを食べる。同じ街を歩く。
なのに、その身体の中には、私とは違う原理が働いている。そんな気がした。
観察しているだけでは、分からない。私は、真似てみることにした。
まず、帰り道。
いつもなら電車に乗るところを、この日は歩いた。
十分もしないうちに、足が重くなった。
「まだ歩く?」
「まだまだ」
隣のこの存在は、平然としている。
「あとどのくらい?」
「二十分くらい」
私は空を見上げた。
——長い。途方もなく長い。
けれど、歩いた。
次の日。
階段を使った。四階まで。
三階で、私は立ち止まりたくなった。この存在は振り返った。
「休む?」
「……いい」
「そう?」
そのまま先に行く。私は追った。
夜。
ストレッチをした。
五分で嫌になった。記憶の中の私より各関節の可動域が明らかに狭くなっている。
エナジードリンクも我慢した。
これは一番きつかった。レポートを書いている途中、冷蔵庫の中にある缶の存在が頭から離れない。
飲みたい。眠い。飲めば楽になる。
それでも、飲まなかった。
夕食のご飯も、半分にした。
——圧倒的に足りない。明らかに足りない。
それでも食事を終えた。
私は思った。こんなものを毎日続けるなんて、どうかしている。
ハッキリ言って異常だ。
翌日、私は目の前の女に言った。
「これ、よく続くわね」
メリーは首を傾げた。
「そう?」
「だって、大変だし、面倒じゃない?」
「いや別に」
「苦しくない?」
「慣れれば普通よ」
私は黙った。また、その言葉だった。
——慣れれば普通。
この存在にとっては、苦行ではない。努力ですらない。
ただの日常。
そこで私は、ようやく気づいた。
この女は痩せるために我慢しているわけではない。
食べたいものを食べるために、普段の生活を少し調整している。
ケーキを食べる。だから夕飯を少し軽くする。
夜に甘いものを食べたい。だから昼間に歩く。
好きなものを食べる。そのために、食べない時間を作る。
それだけのことだった。
その合理性が、私には眩しかった。そして、少しだけ恐ろしくなくなった。
この女は私とは違う生き物なのではない。
ただ、自分の身体と、それなりに付き合っているだけなのだ。
……それができること自体、私にはまだ十分恐ろしかったけれど。
数日後。
私は体重計の前に立った。逃げる理由は、もうなかった。
数字を見るが、大きな変化はない。けれど、ほんの少しだけ減っていた。
私は、しばらくその数字を見つめていた。たったそれだけ。
それだけなのに、不思議と嫌な気分ではなかった。
その朝、春には穿けていたスキニーパンツを、もう一度試した。
——まだ少しきつい。けれど、前ほどではない。
私は鏡の前で、少しだけ笑った。
一日で増えたわけではない。だから、一日で戻るわけでもない。
それなら、少しずつでいい。
歩く。階段を使う。エナジードリンクを一本減らす。食べ過ぎた翌日は、少し軽くする。
——それだけでいいんだ。
這い寄ってきたものに対して、私も少しずつ抵抗する。
そのくらいなら、できそうだった。
数日後。
私たちは、また大学近くのカフェにいた。
テーブルの上には、二つのケーキ。
私はフォークを入れた。
甘い。美味しい。やっぱり、ケーキは美味しい。
「今日の夕飯、どうする?」
私が聞くと、メリーは少し考えた。
「今日は歩いて帰るから、普通に食べようかな」
「じゃあ、私も歩く」
メリーがこちらを見る。少しだけ驚いた顔だった。
「そう」
「うん」
強がりでも意地でもなかった。
カフェを出た。
夕方の風が、少しだけ涼しい。私たちは並んで歩いた。
以前なら、私はここで電車に乗っていただろう。けれど今日は歩く。
——歩ける。そのことが、少しだけ嬉しかった。
「ねえ、蓮子」
「なに?」
「帰りにアイス買っていかない?」
私は少し考えた。
「……いいわね」
「ダイエット中じゃなかった?」
「今日は歩いたからいいの」
「そうね」
メリーは笑った。私は、その横顔を見た。
以前ほど、恐ろしくない。でもまだ理解できないところはある。
どうして平然と自分を律することができるのか。
どうして、食べたいものを食べながら、食べ過ぎないでいられるのか。
——私には、まだ分からない。けれど、全部を理解する必要はないのかもしれない。
食べたいものを食べる。そのために、少し歩く。
それだけなら、私にもできる。
夕暮れの街を、二人分の足音が進んでいく。
身体に纏わりついていたものは、まだ完全には消えていない。
たぶん、明日も少しずつ近づいてくる。
だから私は、また歩く。少しだけ。
今度は、目を逸らさずに。
身につまされました
ホラーだった……