山の端に沈みかけた陽が、木々の葉を赤や橙に染めている。
けれど、その色は長くは続かない。
あれよという間に山は墨を刷いたように黒く染まり、その輪郭だけが空に浮かび始める。
薄い朱色が、青になり、紫になり、やがて黒へ溶けていく。
私は、そんな陰とも陽ともつかない情景を繰り返す、この秋という季節が好きだ。
「たそがれってやつだねぇ」
誰に言うわけでもなくつぶやいてから、炭を熾していた火鉢をひょいと持ち上げ、自慢のあばら家の中に運び込む。
火鉢を適当な場所に置き、灰をならすと、火の粉が細く跳ね回って、すぐに消えた。
鬼灯のように赤く染まった炭がゆっくりと息をして、ジリジリと私の頬を触っている。
「さてさて」
炭が頃合いならば、肴を用意するのが礼儀というものだ。
部屋の奥に積み上がった桐の箱のうちの一つから取り出したのは、ずっしりと丸々とした松茸。
烏天狗どもがせっせと持ってくる上納品のおかげで、私は松茸にはちっとも困らない。
いくつか取り出したうちの一つを適当に割いて、網を乗せた火鉢の上に置いてやる。
すると、とたんに土の匂いとも、木の匂いともとれる、あの独特の匂いが立ち始める。
少し湿っていた表面が乾き、ざわざわと波打つ様は、やがて来る木枯らしに揺れる秋の山そのもののようだ。
「よしよし」
もう少し眺めていたいところだが、炭の上の肴は気が早い。
じゅうと音を立て始めた松茸を裏返してすぐ口に頬張り、待ちきれずに無意識に注いでいた酒できゅっと流し込む。
気の早さは酒飲みも負けてはいないのだ。
さて、口が飽きる前に二品目の準備といこう。
松茸の第二陣を炭に乗せて、足早に向かったのは、あばら家のすぐ裏を流れる沢。
山の冷たい水からすくい上げたのは、青々としてピンと棘の立ったきゅうり。
踵を返して、再び火鉢の側へ。
座り直すが早いか、ぱきりと瑞々しい音がして、口に水気が滲み、鼻先に青い香りが届く。
「こいつはありがたいねえ」
松茸の季節にきゅうりとは、季節外れもいいところだ。
けれど、河童の連中は妙なところで大した技術を持っている。
河童の技術は奇抜なものが多くてあまり好きにはなれないが、秋の山で夏の名残をかじる。
なかなかどうして。
「悪くないね」
二口目は塩をちょいとつけてやる。
これがまた酒の進むこと。
そして、もう一品。
これは昼間に自前で釣った鮎。
炙れば香ばしく、酒にもよく合う。
何よりこの時期の鮎。
落ち鮎は卵を抱えていて、それがまたたまらなくうまいのだ。
頃合いの松茸を裏返し、空いた場所へ鮎を乗せる。
さっと味をつけてやれば、それで三品。
私は、それ以上用意しない。
肴というものは、数が多ければ良いというものじゃない。
熱いものは熱いうちに。
冷たいものは冷たいうちに。
一番うまいところを、一番うまいうちに食う。
それが私の流儀だ。
「よし、完璧」
火鉢の赤。
松茸の香り。
きゅうりの青臭さ。
焼いた魚から立つ煙。
そして酒。
外では、秋の虫が鳴いている。
ちびちびやっている間に焼けた鮎を一口。
歯を入れると、ふわりと香りが広がり、続けて酒を煽る。
熱の残った身を舌の上で転がし、その香りが酒と一緒に喉へ落ちていく。
「……うまい」
思わず声が出た。
こういう時、私は幸せだと思う。
誰にも邪魔されない、ただただ肴と酒に向き合うこの瞬間。
食って、飲んで、酔って、眠たくなれば寝ればいい。
酒がうまければ、それでいい。
「ちょいと塩をもう一振っと」
塩気が欲しくなるのは酒が回ってきた証拠だ。
ならば望むがまま、味を足してやればいい。
鮎の身に降ったばかりの、塩のじゃりという感触と旨みを噛み締めると、ふと記憶が甦る。
遠い昔、気の合った巫女と飲んだ時に、体に悪いからどうとか言って強く止められるなんてことがあった。
その時はお互いよく飲んでたのもあって、意地になって言い合ってるうちに塩を投げつけ合う喧嘩に発展して、翌朝にはなんて馬鹿だったんだと笑い合ったんだっけな。
「懐かしい」
そういえば、昔は大勢でどんちゃん騒ぎするのが好きだった。
むしろ、それが当たり前で、賑やかになればなるほど良いものだと思っていた。
あの巫女と知り合ったのもあの頃だったはずだ。
昔の私は、もっと景気が良かった気がする。
酒があれば騒ぎ、他人を巻き込み、面白そうなことがあれば首を突っ込む。
鬼らしく、細かいことなど気にせず豪快に。
今は、どうだ?
「あっ」
手を滑らせて鮎を落としてしまった。
楽しみに取っていた卵の部分が、無惨に床に散らばっている。
気づけば網の上の松茸だって、食べ頃をとうに逃してしまっていた。
「ああ、何をやってんだか」
今日はもうよそう。
火鉢の網を外し、落とした鮎と松茸を炭へ放り込む。
汚れた手は、服の端でてきとうに拭った。
不快な焦げた匂いが立ち込める中、何となく撫でたツノは手の熱を奪い、中を伝って頭に響く音は無機質だ。
「また、やってしまった」
最近、こういうことが増えた気がする。
そして決まって、私の脳裏に浮かぶのは、山の向こうに沈んでいく夕日の情景。
昼間はあんなに明るかった山が、墨に染まり、空も少しずつ、少しずつ色を失っていく。
まるで、何かが終わっていくような。
でも、終わるからこそ綺麗なのだろう。
私はそういう景色だって肴にして酒を飲むのだから、この気分だって酒の肴にしてしまえばいいのに。
「……いや、水だ。水」
こういう時は、酒より水だ。
頭を冷やせ。
そう決めると、裏の沢へと足を進める。
暗い山の中をさらさらと降りてきた水に、手を入れた。
指の間を水が流れ、掬い上げれば、形を留めず手のひらからこぼれていく。
今日という日もそうなのだろうか。
夕暮れも。
季節も。
今こうしている私も。
残そうとすればするほど、指の間から逃げて流れていく。
ああ、また余計なことを考えてしまう。
一人でいるのは好きだ。
自由なのも好きだ。
好きな時に酒を飲み、好きな時に笑い、好きな時にどこへでも行く。
それなのに。
たまに、昔みたいに。
いや、大勢じゃなくていい。
誰かと火鉢を囲んでいたら、こんな気持ちにならずに済むんではないか。
そんなことを考える自分が、少しおかしく感じる。
「やっぱり酒だ」
こういう時は、やっぱり水より酒だ。
それにほら、水を飲みに来たというのに、酒の入った瓢箪を身に付けているじゃないか。
自分の無意識な行動に、自分で笑う。
沢の水音が、笑い声を流していった。
戻り際、とうに真っ暗になっているものだと思っていた空に、名残惜しそうな灯りを見つけた。
あの灯りも、あと少しで消えてしまう。
それでいいんだろう。
「そうだ、明日は……」
誰にも聞こえないような声で呟く。
あの淡い光に向かって、瓢箪をかかげる。
酒をぐいっと、飲み干した。