たぶん、旅をしていたんだと思う。
月の都を逃げ出して私は、月の兎だった私は、籠の中の兎だった私は、初めて星空を見ていた。地上はどこまでも続く砂の世界で、天上は黒く黒い世界で。この砂山の砂の数とあの星空の星の数、いったいどっちがどれくらい多いのかもわからない。
「まさか初めて? 貴族様のお城の中でも宇宙を見る機会くらいあったはず」
そう、でも、あれはただの美しいものだった。宝石箱の中の宝石。籠の中の兎。窓の中の星々。
「それとも今目の前にあるものは違う?」
私は頷く。黒い髪の兎が微笑む。たぶん、旅をしていたんだと思う。この人は……ずっとずっと。そして帰り道を忘れてしまった。いや、行き先を失ってしまったのかな。
失礼な妄想を巡らせている自覚はある。私は嫌な兎だ。だから? 自由は心の中にある。頭の中にある。この脳みその中に。一匹の黒兎が微笑んでいる。地獄は私たちの中にある。そしてたぶん――この頭上の宇宙、あそこには無い。
「お腹すいたでしょ。無理しないでいいよ」
「大丈夫です」
「先は長い。さあ座って。夕飯にしよう」
「ずっと夜じゃないですか」
私の不平を無視してその兎は既に砂上に座り込んでいる。彼女は黒糖と名乗っていた。それが「この世界」での名前なのか、やっぱり月の都から逃げだす前から持っていた名前なのか――そもそも彼女が私と同じ境遇だって保証もないけど――私は聞かなかった。興味がなかったからだ。遠慮していたわけじゃない。遠慮なんてしない。こいつは逃亡兵だ、私と同じ、きっと。
「どれくらい経ちましたか」
「まだ半日も経ってない。疲れた?」
「べつに……」
「あなたは運が良い」
顔を上げた先で黒糖は銀色の水筒を開き、少し口に含んでから残りを差し出した。
「明日はコーヒーを淹れてあげるけど、今日はこれで」
「はあ、どうも」
水は生ぬるかった。
それから銀色のパック。こいつは軍のレーションじゃないか。驚いた顔がバレたみたいで、黒糖がにやりとする。
「もともと私も軍にいたんだ」
「……どうやって?」
「それは、どうやって手に入れたのかって意味? あなたこそどうやって? どうやって私にたどり着いたの? どうやってこの通路にたどり着いたわけ?」
「ああ、うん、ああ。内通者ですか。軍の内通者が手引きしてる……」
「ご想像にお任せします」
銀色のパックの封を切る。まるでたった今調理されたばかりかのような料理。フォークや箸が無くても食べやすく考慮された品目。しかもあたたかい。
どうやって? 詳しいことは知らない。知る必要もない。地上の人間達のレーションはこんなに立派じゃないと聞く。だからって月の都が好きになることはない。帰りたいとも思わない。
「それでええっと、あー、なんだっけ? あなた、名前」
「レイセン」
「どんな字を書くの?」
「さあ……ご主人様が呼んでいただけだし」
「その前の名前は?」
「さあ」
「はあ。覚えてないわけ?」
「名前なんてどうでもいいじゃないですか。何なんですか? 食えと言ったり、話しかけてきたり」
「ふーん……」
「な、なんですか」
「警戒してるんだ?」
「まあ、そりゃ……」
「もう少し利口な子かと思ってたけどねえ」
「別に……」
「私の気分を損ねても良い事は無い。月から地上へ続くこの通路、通路と言っても見ての通り忘れられた砂漠の地。水先案内無しで永遠に彷徨う事になる、かも」
「そうはなりません」
「どうして」
「お金、払ってます」
「えー……」
そりゃ言いたいことはわかるさ。でも……ここからは教える気は無いけれど……私は相手の波長が読める。特に同じ玉兎のやつはお手の物だ。
彼女に私を見捨てる気はない。彼女の言葉に嘘はない。私を気遣っている。私の面倒を見るつもりでいる。それはお金を払ったからじゃない。単に――彼女はお人好しなのだと思う。
「あとどれくらいかかるんですか」
「さあね。嵐が来なけりゃ明日にでも着くよ」
「嵐……」
「さっさと食べなよ」
今度は、黒糖の言う通りにした。実際、すごくお腹が空いていた。嵐って何のことだろう。私はどうしてこんな所にいるんだろう。ご主人様達は何をしてるだろう。
久々に食べる軍用レーションは相変わらず美味しくて、代わり映えのない味がした。
●
逃げようと思った。
どうしてかはよく覚えてない。というか、よくわからない。
ただ逃げようと思った。逃げなきゃと思った。
たぶん、限界だったんだと思う。
何に?
わからない。つい昨日までのことが遠く遠く霞んでる。
もちろん……ご主人様は優しかったし、ご飯は美味しくて、お屋敷はきっと月で一番広くて綺麗で……それで、それで?
何より驚いたのは、それがあまりにトントン拍子に進んだこと。つまり、私の月からの逃亡が。
軍属の玉兎で知らない者はいないだろう。「脱兎屋」のうわさ。もちろん反逆罪と敵前逃亡罪は共に重罪だ。それでも脱走を試みる奴はいるわけで、もちろんそういう奴の九割は捕まって(主に内部告発による。ちくりとも呼ばれる)折檻されて連れ戻されるわけだけど。それでもそれでも残る一割のさらに一割は首尾よく逃げおおせる奴がいる……らしい。
それが「脱兎屋」の仕業なんだという。軍から逃がしてくれるプロフェショナル。月から逃がしてくれるプロフェショナル。月から逃げる……どこへ? わからない。でも、どこかへ逃がしてくれる。
正直、信じていなかった。ただの噂だ。ただの……じゃあ、それが事実だったとしたら?
「行き先は月ですか? 地球ですか?」
脱兎屋は実在した。
私は檻の中の兎ではあったけど、幸か不幸か飼い主は月でも有数の権力者だったから。
私は調べ、危険を冒し、それは功を奏し、そこに辿り着いた。脱兎屋の末端、そいつは月の都の警備を担当してるただの玉兎に見えた。実際、ただの玉兎だったと思う。裏路地の、暗がりの中で、私の心臓は張り裂けそうだった。その玉兎は少しだけ路地の入口の方を気にしながら言葉を足した。
「おすすめは地球です。月の上に居る限り、大抵はバレます」
「あ、そうなの」
何だか妙な感じだった。兵舎の売店で今日のおすすめを教えてもらってるみたいな感覚がした。
おすすめはガムかゴムですよ、ガムなら吐き出すまで楽しめる。ゴムなら吐き出しても安心だ。
もちろんそうじゃないこともわかっていた。
「まあ、あなたが是非とも職場から消えて欲しいくらい無能な兎なら別ですが」
「地球でいい」
「そうですか。因みに誤解なきようお伝えしておくと、我々は慈善事業ではありませんからね。わかりますか」
「お金がいるとは聞いてる」
「仰るとおりです」
「もし足りなかったら?」
「そうなるとビジネスは成立しませんね」
「別に私がそうしようってんじゃないけど……例えば、あなた達の存在を上にチクるって脅す奴もいそうだけどね。ほら、兎はみな貧乏だし」
これは私の悪い癖だった。特に立てる必要もない波風を立ててしまう。
その玉兎は少しだけ面食らって黙りこくっていたが、すぐにっこりと笑い返してきた。
「私は末端で、端末なんです。仮に私を脅せたとしても、一匹の兎を地球まで運ぶにはかなりの数の関係者がいる。その全部が協力しなきゃ意味がない。そして仮に私を密告したとして、その先は生き残るからやっぱり意味がない。もちろん密告者も逃亡を企てた罪で碌な目には合わないでしょう」
「なるほどね。思ってたよりしっかりしてるんだ」
「命を預ける上で慎重になる気持ちは理解しますよ」
本当は、どうして末端で端末の役をやってるのか、それは例えば功績を積んだら更に上に行けるようなシステムなのか? なんて色々と聞いてみたかったけど、これ以上は警戒の波長が強くなるのがわかった。
私が大人しく金子を取り出すと、玉兎の目の色が少しだけ変わった。
「……そうだ。あなたを見かけたことがありますよ。どんな玉兎でも羨まずにはいられない方々に飼われているでしょう」
「これで足りるの? 足りないの?」
「どうして私がこんな損で危険な役回りをしてるか気になるって顔をしてますね」
図星だった。私は黙って金子を押し付け、そいつは受け取った。交渉成立。少なくともそいつに騙そうとする波長は無い。
「金のためですよ」
それは。
たぶん、考えうる限り一番つまらなくてありふれた理由だ。
そこからはあれよあれよ。
私は別の玉兎に会い、また別の玉兎に会って、次は月人に会った。最初は驚いたけど、今にしてみればどうして思いつかなかったんだって話だ。所詮、玉兎は玉兎。それを月から逃がすのに――しかも地球行きの通路を使うのに――玉兎だけで叶うはずがないんだ。
月人の波長は読み難い。でも、その月人はマシだった。たぶん、まだ、欲を捨てきれていないんだろう。どうでもよかった。少なくとも欲で動く相手は信頼できる。「哀れな玉兎を助けるために」なんて言葉が出てこなくて本当に良かった。
それで。
まあ、それで私は月の兎を辞めた。
私は運が良かったのか?
首尾よく脱兎屋に出会えたのは、私の(ご主人様の)権限で都勤務の玉兎を一覧できたからだ。
彼らに渡すお金を持っていたのは、定期的にご主人様から「お小遣い」を与えられていたからだ。(もっとも欲しい物は言えば何でも与えられた。自由以外は。そんな状況で「お小遣い」なんて何の意味も無かったのだけど)
そういう判断を適切に下せたのは、私がご主人様から教育と能力の訓練を受けていたからだ。
そして私がご主人様に拾われたのは、私の運が良かったからだ。
私は運が良かったのか。でも、運が良かったらどうしてこんな事になる?
どうして……与えられたものに満足できないわけ?
「あなたがお姫様の檻から飛び出してきた兎?」
そして、私は。
「黒糖。地球までの水先案内人を努めてる。まあ、よろしく」
たぶん、旅に出たかったんだと思う。
生きている実感が欲しかったんだと思う。
ただ、それだけだったんだと思う。
たぶんね。
●
「おはよう、レイセン」
夢を見ていた。長いような短いような夢。
目を覚ましたら私はお屋敷のベッドの中に居た。
「顔が真っ青」
ご主人様が私のことを覗き込んでいる。私は曖昧に首肯く。ベッドから身を起こす。でも、それは夢。
「大丈夫、レイセン?」
天蓋は星空。黒い瞳と黒い毛並みの兎。たしか黒糖と言ったっけ。
それで一瞬、どちらが夢なのかわからなくなった。でも確かにここは現実で、消え去ったベッドの温もり、ご主人様の微笑みこそが夢で。
未練? 私は未練を抱いてるのか? 黒糖が差し出す水筒の中身は生ぬるい。それでも水分を得た体がみるみる活力にあふれていくのがわかる。自分が生きているのがわかる。これが現実なのだとわかる。
「私は大丈夫」
「ホームシックはよくある事だから。恥ずかしがらなくていいよ」
「ちがう」
「涙を拭ってから言ったら?」
「……あんたはクソデリカシーの無い田舎兎だ」
「そうじゃない。残念だけど嵐が来る。さっさと立ち直っとかないと、きつい」
「……嵐って?」
もちろん言葉の上ではそれがどんなものか知っている。でも、実際に見た事は無かった。だって月の都に嵐なんて来ない。年がら年中いつだっていちばん快適で穢れ無き天候が維持されている。
それに、見上げる星空の様子は相変わらずだった。嵐っていうのはつまり雨とか風とか、そういうのが滅茶苦茶に押し寄せてくる現象じゃないのか?
今はそよ風一つ無い。この空間に来てから今までずっと風なんて感じたことがない。
私たちはまた砂の地平線の果てを目指して歩き出す。ちょっとした砂山や窪地に足を取られないようにして。
黒糖は続ける。
「わかってるだろうけど、ここは形而下空間じゃない。ずっと昔に開かれた月と地球を繋ぐワームホールの残骸。地球や月の物理法則はここでは通用しない」
「そういうのって初めに説明してくれるものじゃないの?」
「最初の挨拶も返さずにむくれていたのは誰だっけ」
「こんなに長々と歩かされるなんて思ってなかった!」
「はぁ。過ぎたことを言っても仕方ない。あなた、超空間廻廊を通った経験は?」
「第四槐安通路なら、訓練で……」
「第三、第二、第一が何か知ってる?」
「え……第三は邯鄲経路、第二は……胡蝶廻廊だっけ? 軍学校で習った。それで第一は……第一……ねえ、これ何の意味が?」
「第一の通路に名前はない。他と違ってそれは月の民が作ったものじゃないから」
「はあ」
「それは……ここはね、初めの初めからあった場所。夢と現、未来と過去、あらゆる可能性が交錯する空間。第二胡蝶廻廊、第三邯鄲経路、第四槐安通路、それらは全て模倣品に過ぎないってわけさ」
「ねえ、何を言ってんのさっきから?」
「ずっとずっとずっと昔。たぶん何億年って単位で昔の話。月の民はこの場所を見つけ、そして、支配しようとした。入り混じった可能性の嵐を治め、統治しようとした。私も目で見たわけじゃない。でも、それはまさに戦争だったと聞いている。この遥か果てまで続く砂漠はその結果。彼らはただ地球と月を結ぶ"筒"が欲しかっただけ。その中身は不要だった。だから燃やしつくそうとした。でも、そういう傲慢さは大抵ひどいしっぺ返しを喰らうものみたいね」
「……」
「ねえ、どうして脱兎屋なんて巫山戯た商売が成り立っていると思う?」
「え? さ、さあ……一部の月の民が手を回してるから、じゃないの……?」
「馬鹿だね。そんなのとっくにバレてるでしょ」
驚きはなかった。玉兎は基本的に頭が悪い。というのはそもそも教育の機会を剥奪されているから。私みたいに一部の(物好きな)権力者に飼われでもしない限り、玉兎に複雑な商売は無理だ。
もちろん脱兎屋のバックには月人がついている。でも、月の世界じゃ欲の"ある"奴は出世できない。それは穢れだから。もちろん大っぴらに排除される事は無い。そういう扱いはまた別の穢れを産むから、らしい(たぶん恨みとか妬みとかそういうものだろう)。
驚きはなかったけど、答えもまた無かった。私は流されるままだった。今はただ流されるままで居たかった。あるいは……いや。
黒糖は少しだけ熱を帯びた黒い瞳を向けている。
寝起きの気怠さはすっかりどこかへ消え失せていた。
「この第一通路は月の民でも制御できなかった負の遺産。けれど奴らは諦めてるわけでもない。わかる?」
「はぁ」
「わからないかな。私たちは、自ら望んで実験に志願してくれてるお利口で愚かな兎なんだよ」
ああ、なるほど。
地球と月を結ぶ名前のない第一通路。それは負の遺産であると同時、月の都にとっては更なる可能性を秘めた坑道でもあるわけだ。ただしそこから宝を引き上げられる可能性は、きっと紙のように薄い。たぶんその計画を発案しただけでその者の立場が悪くなる程に(玉兎は確かに奴隷扱いされてるけど、大っぴらに使い捨てて良いわけじゃない……はず)。
でも……それが?
私の反応が悪かったのが黒糖には面白くなかったらしい。彼女の波長がこれまでで一番乱れるのがわかる。ところで嵐ってのはいつ頃来るんだろう?
「……月の連中はクソだ」
「そんなの誰でも知ってるよ。それが理由なの? あなたが、こんな危険な場所の仕事を買って出てる理由」
「私の事は聞くな! それより、少しでも距離を稼ごう」
私は大人しく口を閉ざした。黒糖の波長は完全に拒絶のそれに変わっている。もしここがクソな砂の海じゃなきゃ根掘り葉掘り聞いたんだろうけど、本当に置いてけぼりにされるのは困る。
「ひりつくな。思ったより近い」
私には何も感じられない。相変わらず風は無く、星々は超然とこちらを見下ろしたまま動かない。
砂を踏みしめる音が二人分。
それと息遣い。
吸って、吐く。吸って、吐く。吸って――
●
「おはよう、レイセン」
ベッドの中だった。柔らかで、いい匂い。ご主人様の好きだった香の匂い。
そう、月の都じゃ香を焚くのは珍しい。においは穢れでもあるから。ある、と、ない。それが不可逆的に転移する。つまり――においはこびりつく。それは穢れだと見做す勢力が一般的らしかった。
馬鹿だと思う。月人っていうのは馬鹿なんだと思う。
でも、ご主人様は香が好きだった。もちろんそれは、ご主人様が後ろ指を指されないくらい絶対的な権力を持っていたから出来た事だけど。
「顔が真っ青」
「これは夢ですか?」
「おやまあ」
これは夢「じゃない」。理由のない確信が全身を貫く。これは夢なんかじゃない。現実だ。現実の感触。
うすら寒気が背中を駆け下りていく。
私は……たった今の今まで私は、あのクソ何も無い砂漠をしたり顔の案内人と歩いていた、はず。
夢だったとしてもおかしい。夢は眠る時に見るもの、そうでしょう? 私がいつ眠った? 唐突に気の触れた黒糖が私にチョークスリーパーでも決めたっての?
「本当におかしなレイセン。どんな夢を見ていたの?」
「……ご主人様、私に何かしましたか?」
「レイセン……?」
珍しいものを見た。本当にご主人様が困っている。しかし困ってるのは私も同じだ。いったい何がどうなってる? 私は連れ戻されたのか? でもご主人様の反応はそういう風でもない。
「ご主人様私は、私はっ――」
今、いったい私は何を言おうとしたんだろう。頭が心に追いつくより早く、横殴りの浮遊感に襲われた。見開かれたご主人様の瞳が、表情が、香のにおいが、ベッドの温もりが、何もかもが消える。そして現れる。
私は月の大地に立っている。
「私は……」
何かがおかしかった。何かがおかしくなっていた。
そこは月の大地で、背中に感じる重さには覚えがある。
後ろから何匹かの玉兎が息を切らして走ってきては、私を追い抜いていく。その背中にはぶくぶくと太った背嚢が見える。
「おい貴様! 何をボーッと突っ立っている! 気合を入れて欲しいのか!」
反射的に私は走り出していた。聞き覚えのある声だ。というか嫌でも忘れられない声だ。
胃の中から酸っぱいものが込み上げてくるのは、さっきの奇妙な浮遊感のせいだけじゃない。くそ。忘れるもんか。訓練時代、私たち新兵はこうして何十時間も月の荒野を走らされていた。それでも月の重力なら余裕だろうって? とんでもない!
私たちの背中には特別に誂えられた背嚢が乗っかっている。そいつには有難い事に地球の重力を擬似的に体験できるだけの重量が詰まっていた。
「どうした蛆虫共! そんなノロマな足では地球人の良い的だぞ!!」
理解はできる。もし血に飢えた地球人と戦争になれば、地球上で戦火を交える可能性もあるだろう。だが地球の重力は月面の六倍。そのための適応訓練――と言えば聞こえは良いが、ホントのところは誰の目にも明らかだった。
これは「しごき」だと。ていうか「いじめ」なんだと。
「さあ走れ走れ! ビリの兎は晩飯抜きだぞ! 地球人の晩飯になりたくなきゃもっと速く走れ!」
クソだ。六倍の質量を背負わされて走れるわけあるか!
それでも走る以外に選択肢は無いんだ。晩飯抜きは最悪だ。散々走らされてそれは――込み上げてくるものを必死で抑える――前にビリだった奴に夕飯をお裾分けした事もあった。結局はバレて、翌日は揃って背嚢の重さを倍にされた。
「そんな調子で月の都を守れるのか!? 月の皆様方のために死ぬ覚悟があるのか!」
あるもんかちくしょう。全部ちくしょうだ。ちくしょうちくしょう、とにかくそれ以外考えない事。少しでも余計な事を考えれば足を取られる。足を取られれば起き上がるのだって六倍の重さなんだ。
だから――ええと、それで――どうして私はまたこの地獄に舞い戻ってるんだっけ?
「あっ」
ほれ見たことか。言わんこっちゃない。余計な考えで足がもつれた。いつもの六倍の速さで近づいてくる地面。思わず目をつむる。くそ、今夜は晩飯抜き――
「あっははは! 引っかかった引っかかった!」
奇妙な青色に見下されていた。それで――
「おぇっ」
それで、なに、この臭い……? 鼻につく、兎の吐瀉物を混ぜ合わせたよりも不快な臭い!
「おええええええっ」
「は!? ちょ、うどんげ!? あんた大丈夫!?」
自分のゲロの臭いの方がまだマシだった。これは――そうだこれは、訓練で一度だけ嗅がされた事がある。これは地球の臭いじゃないか!
「うえっ、くそっ、ちきしょう……」
「……あの、優曇華院さん?」
「……あ?」
「ひっ」
立ち上がる。頭を整理する。できる限り口から息を吸う。それでもかなり酷い。
そう、これは地球の臭い。穢れの臭いだ。
いや臭いだけじゃない。全身が重い。さっきまでの背嚢の重さを全身に感じる。周囲の緑色をした構造体の向こうには無数の微細な存在の蠢く波長。何より、この薄気味悪い青色の空!
いや……って事は私、地球に着いたの? あの砂漠を抜けて?
いや……。それも違う気がした。直感だけど、私はまだ何か厄介な状況のただ中にいる。例えばあの、怯えた目で私を見つめてる生物は?
「おまえ……敵か?」
「ど、どうしちゃったのさ……本気で怒ったの……?」
私を知ってる? でも私はこいつを知らない。いや、よく見ると玉兎のようにも見える。けれどもやっぱり玉兎の波長じゃない。じゃあやっぱり敵? だけど敵意の波長も感じない。訳がわからない。
「うぅ、打ちどころが悪かったのかなぁ! ちょっとびっくりさせようとしただけで……ねぇー、うどんげぇ……」
「ウドンゲ……」
優曇華? 何だったか、釈迦が産まれたときに咲いたとか言う花の名前……だった気がする。でもそれが?
咄嗟に銃を探す。いつもの場所には、けれど、妙な喇叭みたいな銃がさげてあった。トリガーがあるから一応銃には違いないのだろうけど。
「……本当にどうしちゃったの?」
銃を、構える。そいつは曖昧に口元を引きつらせながらホールドアップした。
撃つべきだろうか?
誰かに向けて引き金を引いたことはまだ、無い。
「……ごめんね」
それは私の言葉だったのか、それともそいつの言葉だったのか。
何かがおかしい。何かがおかしくなっている。あれから――そう、黒糖は嵐が来ると言っていた。
嵐。これが嵐なのか? 黒糖はどこ? なぜ私は銃を構えているの? なぜ目の前の兎は逃げないの?
いったい……何なの?
「隊長! レイセン隊長ッ!」
まただ。また瞬き一つの間に全てが変わっている。穢れた臭いが消えている。六倍の重力が消えている。
ということはここは……月?
「ご無事でしたか隊長! はぁ、向こうの部隊は全滅です。ちくしょうっ、地球の糞尿袋共!」
「ああ……ええと……」
ようやく状況を理解し始めると同時、またしても頭が追いついてない。
まずは、ひとつ。
これは嵐だ。
もちろん私の知る「嵐」という気候現象とは違う。たぶん黒糖が、或いはその関係者が(ひょっとしたらもっと古い時代の誰かが)そう呼んでいる現象。あの名前のない第一通路に生じる嵐。かつて月の民が制御しきれず匙を投げたくそったれな災害。
そう言えば黒糖は言っていた。夢と現、未来と過去、あらゆる可能性が交錯する空間。そんなような事。
さっき私は私の過去を見た。
そして今、見に覚えのない「いつか」を見ている。単純な推論。過去ではなく、今でもないのなら、きっとこれは未来なのだろう。
そんな事があり得るのか。
わからない。でも、他に説明のしようがない。
そしてもう一つわからない事。そしてもっときっと重要な事。
ここが私の未来だとして、いったいどういう状況なんだ?
「隊長?」
目の前に居るのは、玉兎だ。武装しているし、負傷もしている。私は周囲に目をやる。どこかのトーチカなのか? 辺りには同様に負傷した玉兎が呻き声を上げて伏せっている。全身の包帯が赤く滲んでいる奴、耳を片方吹き飛ばされた奴、腰から下が無い奴……。
瞬間、ぎょっとして自分の身体を確かめた。無事だった。両手足共にまだ繋がっている。それからまた目の前の玉兎を見た。よく見ればそいつは片腕が無い。
「……状況を報告して」
「はっ!」
ここは未来なのか? 本当に? 玉兎の説明は実に気の滅入るものだった。「最悪のシナリオ」として教科書に載っていそうな内容だった。
地球人の侵攻、ばらまかれた自律兵器(ドローン)、撃破される玉兎部隊、たくさんの死者、死者、死者。
「……月人達は何をしてるの?」
それは当然の疑問のはずだった。確かに玉兎は月の正規軍ではある。でも、本当の武力は月の民の神通力だってことはどんな新兵も知っている。玉兎がここまでやられているのに、月の民は動いていないのか?
「隊長、それはその、状況を再度報告せよという事でしょうか?」
「え?」
「つまり、ええと、月人の方々は……ですからその、陥落した都を奪還するために我々が奮闘しているわけですよね?」
「……」
わからない。目の前の新兵らしき兎の言葉は耳には届いているけれど、頭の芯が理解を拒んでいる。
ありえない。月の都が陥落した? それは「空が逆さまに降って来た」と言うようなものだ。しかし波長は、こいつの波長は確かに真実を口にしている。いや、いや、私の力は別に万能じゃない。嘘を吐いてる自覚がなくとも嘘は吐ける。例えば虚偽と知らずに虚偽を掴んでいる場合、私の能力は「見誤る」。
けど、もし本当だったら?
そもそも……これは現実の出来事なの?
「嵐」が引き起こすものが単なる「未来視」なのか、私は知らない。実際あの黒糖はこうも言っていた。夢と現。じゃあ、これは単なる夢なのかも。
夢なら、いつか醒める。
そうだよね?
「っ! 隊長危ない!」
その時、トーチカの射撃孔から細長い影がしゅるりと滑り込んできた。
蛇?
何か判断を下す前に私は突き飛ばされていた。
蛇が飛び上がって新兵に絡みつく。
閃光、そして衝撃。
視界が吹っ飛ぶ。トーチカの壁に叩きつけられる。頭ん中シェイクシェイクで、肺の空気が蹴り出されて。
耳鳴り。
吐き気。
顔を上げる。さっきまで玉兎だったものが、腰から下半分だけになって突っ立っている。それを眺める傷病兵達の生気のない瞳が、ゆっくりと私の方を向く。
ああ、そうか。私はこの場の指揮官なんだ。
今の兎の死は、私を見上げる兎達の痛みは、傷は、たぶん、私の指揮の結果なんだ。
でもそれは。それは、そりゃあ、そんなのは身に覚えのない咎だ。だってこれは未来の出来事で、それはいつかの出来事で。
でもそれはやっぱり私のせいなのか?
いつか……いつか私はこうなるのか?
「や、やめて」
ちがう。黒糖は言った。これは夢だって。いや、そうは言ってなかったかもしれないけど。
「見ないで! 私をそんな目で見ないで! 見るな!」
ちがうちがう、やっぱり夢だ。
だって、月の貴族方が地球の猿に負けるなんてあり得ないから。
だって、だってそれは、それはつまり、ご主人様も破れたって事だもの。
そんな事ありえない。ありえないんだ。ありえるとしたら、それが、夢だから。
「そうだ夢だ! お前達は夢の産物だ! 幻だ! 痛みなんて感じてないくせに! 生者みたいな顔をするなっ!」
兎達は何も言わない。言えるはずないんだ。こいつらは幻だから。幻がものを言えるはずがないから。
だから、連中の諦めたような目つき……だから……くそっ。なんなの? なんでそんな顔をするの。なんでそんな顔ができるの? 夢の中の幻が、どうして生きる希望を失ったような顔を。
「嵐は過ぎ去る……」
そうだ、嵐は過ぎ去る。この夢もきっと醒める。夢なんだから。夢なら、醒めなきゃダメなんだ。
「だからもう目醒めてよ……」
頬をつねる。頭を叩く。トーチカの壁に打ち付ける。
痛い。本物の痛み。本物の感触……なんでなの? 髪の隙間から垂れ落ちる液体の温度。これは夢なんじゃないの? 夢なら醒めるんじゃないの?
それとも。
「違う……」
胸の底に湧いた恐ろしい考えを強引に追い出す。込み上げてくる胃液を必死に飲み下す。
ちょうどその時だった。
もはや誰も覗く者のなくなったあのくそったれ射撃孔から、またぞろにょろにょろ蛇型自律兵器が這い出して来たのは。それも今度は……三匹同時に。
「あ、隊長……」
まるでその一言こそ自分らの義務であるかのように、傷病兵の誰かが力無い声をあげた。クソだ。瞳の合計が奇数止まりの連中が私より早くそれを見つけたとでも思ったのか。
だから。
とにかく。
ちくしょう。
どうする?
まるで脳みそが粗悪なタービンになったみたいに思考の回転音だけが甲高く耳奥で響いてる。でもそれだけだ。明らかに蛇共の動きは私が逃げるよりも速くて、それを助けようとする者は誰もいなくて。
いやむしろ「すぐにあんたもこうなりますよ」と腕や足や下半身や上半身のない連中が笑っている気がした。
それでふと、今までちらりとも過らなかった(過るわけなかった)考えが浮かぶ。
もし、このまま死んだらどうなるの?
「違う……違うっ違うっ!!」
嵐。過去。現。未来。夢。生。それから死。
わからない。私には何もわからない。わからないけど嫌だ。死ぬのは嫌だった。たとえこれが夢でも、未来でも、何でもいい。とにかく死ぬのは嫌だ。嫌な気がした。
それで……皮肉だけどそれが、自分の中で閉じていた何かをこじ開けたらしい。
「え」
自分でも信じられない力が出た。そう、自分でも信じられないような力で私は、すぐ近くで臥せっていた兎達を投げ飛ばしていた。もちろんあのクソ蛇爆弾の方を狙って。
ポン。
何かあっけない音がして命の無い機械と兎の命が相殺された。
まだ二匹残ってる。
「隊長、やめてください、レイセン隊長」
私は運が良かった。
というのはつまり、私は選ばれる側じゃなくて選ぶ側だった。
そいつもまた運が良かった。私の目を見て、私の名前を呼ぶ事ができた。だから私はそいつを避けて、隣にいた兎を蛇の餌として放った。実際、運の悪いそいつは口元を包帯で覆っていたから私の名を呼ぶ事なんてできなかったのだけど。
今度は二匹がそいつに絡みつき、爆ぜた。思ってたより利口じゃあない。それで……それで?
「逃げなきゃ」
私はトーチカを飛び出していた。
確かにそこは月だった。
ずっと遠くの暗黒の闇の地平線に、黒煙を吐き出す月の都が見えた。
どうやらこのトーチカは丘の上の戦略的要衝に建築されたものらしい。
眼下には逃げ惑う兎の小隊が見えた。そこに無数の羽の生えた蛇が群がって、あっと言う間に消し炭になった。
とにかくそれで理解したのは、戦場というのは地獄より碌でもない世界で、そして戦争というのはその戦場が鮨詰めにされたもんだって事。
ブウウーーーーーーンン……。
胸を悪くする重低音に顔をあげる。
黒煙の向こうから死の天使を気取った蛇の群れが飛来して来ていた。奴らの高速振動する羽が重低音の正体だった。
今度は、哀れな兎を全部丸ごと差し出しても助かりそうにない。
誰かの笑い声がする。
どうもそれは私の笑い声みたいだった。
●
「おはよう、レイセン」
私は自分の心臓の音を聞く。目を覚ます。吸うと吐くが一対一の荒れた呼吸。全身にまとわりつく寝汗、髪、服、疲労と恐怖。
そこはまだあの星の見える砂漠だった。名前のない第一通路。少し先で黒糖がコーヒーを淹れていた。いつの間にかかけられた毛布を除ける。たぶんそれも黒糖のものだろう。返そうとすると、彼女は首を横に振った。確かに脂汗でぐっしょり、もう使い物にならない。
「……夢?」
「嵐だよ」
そう、嵐。そして私は眠りから目醒めた。嵐から。けれどあの光景は、あの世界は、記憶は、夢のそれとは似ても似つかわぬ生々しさで未だ脳裏にこびりついている。
「なぜ何の説明もしてくれなかったの」
「説明?」
「嵐が何なのか。どんなものなのか!」
「無駄だから」
「殺されたいの!?」
「ちょっとさ。あなたの目的は地球に降りる事でしょう。ここで私を殺しても何にもならない。それに嵐を生き延びたあなたなら、わかるはず。あれは備えようがないって」
悔しいけどその通りだった。全ては私の意思とは関係なく起こったし、過去の出来事は変えられなくて、未来の出来事なんてわかりようもない。
「あんたも嵐の中にいたの……」
「まあね」
「何度もここに来てるんでしょ。私みたいな逃亡兵を連れて。その度にあんたは……ねえ、あれは本当に私の未来なの? 未来は変えられないの? もしあそこで死んだらこの私はどうなっていたの!?」
黒糖は手を止め、黒い液体の波波になった銀のカップを差し出した。湯気の立つそれを渋々受け取る。苦いものは嫌いだ。でも、いい香りだった。
「結論を言えば、わからない。思い出して。この名前のない通路には月の民すら手を焼いている。奴らの奴隷でしかない我々に何がわかるのさ」
「……でも、あなたには経験がある」
何がおかしかったのやら、黒糖は吹き出し、白いミニケトルのお湯がだぼだぼと砂に零れ落ちていく。黒糖はこっちを振り返りもせず、また口を開く。
「私は自殺する」
「……はぁ?」
「私はそう遠くない内に自殺するつもりでいる。そして、嵐の中で私はいつも自分を殺そうとしてる」
「……はぁ。だから?」
「嵐の中で死んだ事もある。でも、それは単に目が醒めるだけ」
「じゃあやっぱりただの夢なんじゃない」
「嵐から戻って来れなかった兎もいる。たくさん」
「え……」
「むしろ、その方が多いんだよ」
「……」
「だからまあ、一つ言えるとすれば、死は原因にはならないって事かな。嵐の中で死を体感する事は必ずしも帰還不可能を意味しない。じゃあ何がトリガーなのか? それはわからない。だって帰って来れなかった奴から話は聞けないもの。でも、あなたが『死』を嫌なものだと思ったなら、それはきっと意味があるんじゃないかな。私は早く死にたいと思ってるから。私にとって死は待ち遠しいものでしかないから。たぶん、そういうのを見てるんじゃないかな」
「見てるって、嵐が?」
「嵐は、まあ嵐なんて我々が勝手に呼んでるだけでさ。それはもっと意志や意思のある現象かもしれないし……ほら、第四通路だって夢の管理者が管理してるだろ。いやこれは月の温室育ちじゃ知らないか」
最後のはともかく、黒糖の話は煮え切らなかった。でもそれも仕方ないんだろう。彼女の言う通り、ここはどうしようもない場所なんだ。身をもって体験したからこそわかる。それに私は研究者じゃない。
「それで? 地球まであとどれくらいなの?」
「もう目と鼻の先」
「なんだ。ならちゃっちゃと出発しましょ」
「コーヒーを飲み終えたらね」
口につけたそれはやっぱり苦くって、私はほとんど砂に捨ててしまった。でも黒糖はたっぷり愛おしむみたいにそれを啜っている。
そう、丁度そういう時だった。つまり私は手持ち無沙汰で、黒糖は警戒心を解いていた。
そう、それで。砂でできた丘の上で何かがきらりと光った気がしたんだ。
カン、と乾いた音が一つ鳴った。
たぶん黒糖のカップに当たった音なんだと思う。何が?
「レイセン」
黒糖が私の名を呼ぶ。その一瞬、たぶん私たち二人にとって途方も無く価値のある一瞬を、彼女がどうしてそんな無意味な事に費やしたのかは知らない。
それから彼女が、彼女の体がゆっくり前のめりに倒れていく。それを抱き留めて、咄嗟に二人で砂の上に転がった。
ちん、ちゅん。
続け様、剣呑な音が砂と共に跳ねる。さっきまで私たちの座っていた場所で。
……咄嗟にケトルの中身を携帯コンロにぶちまけた。白い湯気がたちのぼる。気休め程度にそいつを頼って走りきり、なんとか窪んだ地形に滑り込んだ。ここなら傾斜が盾になって狙撃できないはず。
そう、狙撃。
「……良い腕してる」
冷えている。自分でも驚くほど頭の中が冷静だ。嵐の中、クソみたいな戦場に放り込まれたせいかもしれない。それとも単にこれまでの厳しい訓練の成果だったのかも知れない。まあ、後者は無いな。
「黒糖生きてる?」
返事は無かった。
でも、腕の中の彼女はまだ息をしてる。胸をやられたらしい。これが訓練時代ならあのクソを溜めこんだ背嚢にメディキットも山ほど入っていたのだけど。いや違う。黒糖のザックを持ってくれば良かった。用意周到なこの水先案内人ならそういう備えもしていたろうに。
とにかく後の祭りだ。私の上着だのシャツだのをぐるぐるにして簡易的に止血を施す。その側から真っ赤に滲んでいく。銃槍になってるんだ。たぶん背中から撃たれて、貫通した弾が手元のカップに当たったんだろう。何の役にも立たない分析だ!
「黒糖、黒糖! しっかりして! ねえ!」
ダメだ、呼吸が弱まってる。ちくしょう。
「レイセン……」
「喋るな! くそ、あんたの荷物を取ってくる。強心剤の一本でもあれば……」
「いい……ごぼっ……無駄だから……」
「案内人のあんたが居ないと私が困る! 勝手に死ぬなよ!」
「大丈夫……もう位置に来ている……向こう側の兎が……時間が来たら……門が……」
「黒糖!」
「あぁ……白檀……やっと私、あなたの所に……」
「ちいっ……心臓マッサージを……」
「私は……私なりに……頑張って……」
「……っ」
何なんだ、これは?
まだ私は嵐の中にいるのか?
心臓マッサージをしようにもこの狭く浅い窪地じゃそんな呑気、狙ってくれと的になるようなものだ。
いやそれ以前に……無駄だから。黒糖は死んだ。呆気なく。いや、誰だって死ぬ時はきっと呆気ない。問題は。
そう、問題は。
「ふざけんな」
嵐は過ぎ去った。今、私達を見下ろす星空は凪いでいる。
つまりだ。
この状況は月の民も匙を投げるような超時空間的現象じゃ無く、誰かのくだらない悪意と敵意の産物だってこと。
狙撃手は明確に私達を狙っていた。それが黒糖なのか私なのか、あるいは両方なのかはわからないけど。とにかくそいつは首尾良く地の利を抑え、黒糖の命を奪った。
もちろん彼女とは何でもない。ただのビジネス上の関係。出会ってからまだ二日と経ってない。なんなら彼女が嵐について説明しなかったせいでこっちは、いらん困惑まで被った。
印象は良くない。
でもそれとこれは、それとこれとは別だろ。くそやろう。
「報いを受けさせてやる」
まあ、あるいは単に苛ついていたのかもしれない。
私は私のために誰かの命を利用した。嵐の中。夢の中。でもそれは私の未来でもある。なにより、それをしたのはこの私だから。
もしそうしていなかったら?
あるいは私は死に、嵐に呑まれ、二度とここに帰って来れなかったかもしれない。
ふと気がつき、黒糖の瞼を降ろしてやる。
それはそれで、これはこれだ。
いや。
それもこれで、これもそれだから、どうしようもなく苛ついている。
……さてと。私はもう覚悟を決めた。敵の正体は未だ不明だが、やり口からして単独犯だろう。
一対一。
私は武器を持って来ていなかったけど(ここにくる途中で全部引き剥がされた)、黒糖のポシェットを漁ると一振りのサバイバルナイフがあった。
ありがたく使わせてもらうこととする。
それで、敵はどう動くだろう? 向こうからすれば地の利を捨てたくはない筈。
でも、こんな果ての地まで我々を殺すために来た相手なんだ。迷惑な話だがそこには並ではない殺意がある。
そして奴は仕損じた。結果的に黒糖は死んだけれど、向こうにそれを確認する手立てはない。
半々といった所だろうか。まあ希望的観測もある。でも、敵がその仕事の成果を確認するために(あるいはその仕事を完遂するために)ここまで降りてくる……そう分の悪い賭けじゃない。
まあそうなったらなったで、おそらく武装したそいつとナイフ一本で戦わなきゃならないんだが。
それもまあ、空飛ぶ無数の蛇型爆弾よりマシだ。
「……来いよ、クソやろう」
後はただ待つだけだった。
右手のナイフの冷たさだけが心の頼り。
心拍数は過去最高潮をマークし続けている。
それでも……なぜだろう。悪い気がしないのは。
私は生きてる。
生きるために、ここにいる。
たぶん、旅をしていたんだと思う。今まで。
けれど今、ここにいる私は旅人でもなければ夢を見る胡蝶でもない。
私は私だ。
殺してやる。
さあ、来いよ。来い!
「……来い、と思っている」
心臓が跳ね上がる。
頭の上から響く声。落ち着け、私は窪地にいるわけだから頭の上から声がするのはおかしくない。
しかし、くそ、近いな。思ったよりずっと。
「私には、あなたの波長がよくわかる」
息を殺す。敵は銃を持っている。大丈夫。近づけば必ず足音がする。チャンスは一度しかない。蟻地獄のように息を鎮めろ。
「興奮している。緊張、怒り、恐怖、憎悪、でもそこに悲しみはない。あなたは酷い兎だ。さっきまでコーヒーを飲み合っていた相手が死んでも、涙一つ流さない」
挑発してるのか。コーヒーを飲んでいたとなぜ……いや、狙撃銃のスコープで見ていたんだろう。挑発して、私が姿を現すのを待っている。そうに決まってる。
「ふぅーっ……。骨が折れる。ようやくここまで来たのに。でも、気持ちはわかる」
わかるもんか。
「いや、わかる」
……。
「だって私はあなただから」
……なに?
「レイセン。もういいから。出て来て、レイセン。もう私は疲れた。それはつまり、いつかあなたが同じ苦労を背負い込むということなのだから」
……何か、妙だった。奴は何を言ってるんだろう? てっきり私は、奴の事を「脱兎屋」の関係者かその裏切り者だろうと想像していた。それ以外に思いつかなかった。この名前のない通路を知っていて、黒糖と私を殺そうとする理由がある。
あるいは黒糖の個人的な関係者、という線もあったけど、少ない言葉を交わした限りそういう敵を作るタイプにも思えない。
だから、ええと。
「大丈夫。苦しませたりしない。一発で頭を撃ち抜く。約束する」
ふざけんなだ。ふと閃いてナイフの刃を背後に向ける。これでクソやろうの顔を拝んでやる。
「私の顔を見たいの、レイセン」
頼りない星明かりの波長を増幅させる。
見えた。
息が止まった。
「私の顔を見たの、レイセン」
「……」
「レイセン。そこには何が映ってる? そこには誰が映っている? ねえ、レイセン」
それは、兎だった。それはわかっていた。薄っすらとだが奴の波長を感じる。玉兎の波長だった。
それで……その兎はひどくやつれていて、おまけに左肩から先がなかった。
耳はしわくちゃでひどいもんだった。
残った右肩には大仰なライフル銃をかけている。
それで。
それで……。
「それで、私はどんな顔をしていた?」
……やっぱりこれは、夢の中なのか? あの忌々しい嵐の続きなんじゃないのか?
「あなたの考えている事はわかる。そして、残念だけれど、これは夢でも嵐の出来事でもない。これは、現実」
ありえない。
「それが、ありえる」
ありえない!
だって、だってそいつは、その兎は、そいつの顔は!
それは私の顔じゃないか!
「そう。私はレイセン。鈴仙・優曇華院・因幡。もっともあなたはまだその名前を知らないだろうけど」
奴の像が震える。違う、ナイフを持つ私の手が震えてるんだ。
ダメだ、落ち着け、これは何かの間違い……いや、策略、幻術だ。顔を変えるなんてチャチな技だ。そうに決まってる。それを否定する方法なんてない。ありえない!
「矛盾、否定、欺瞞……あなたの波長が聞こえる。嫌な波長。自分の波長を聞くのって、こんなにも苛々するんだ」
ありえない、ありえない、ありえない……!
「はあ……ありえないなんてことはありえない。忘れたの? ここはそういう場所。月の民すら遺棄した第壱夢冥深路。夢と現、過去と未来、あらゆる可能性が交錯する地。黒糖から聞かなかった?」
聞いてはいた。聞いてはいたけど、それは……でもそれは……。
「それは『嵐』の話だけかと思った? たかだかその程度で月の民が手を引くと思っていた?」
でも……じゃあ……じゃあ、なんで……?
「なんで。なんで私がそこにいるの? ええ、そう。交換条件にしましょう、レイセン。私はもう疲れてる。もちろんあなたがその気ならこのまま何億時間もこうしていてもいい。でもそれはお互いに損。だからこうしましょう。私は全てを話す。だから、あなたは私に殺される」
黒糖のナイフを握り込む。切先を指先に押し付ける。痛み。そして赤色。いっそ耳を塞ぎたい。でも同時に、奴の言葉を一つだって聞き逃したくないと思っている私がいる。
「……レイセン。あなたも見たよね? 嵐の中、いつか自分の身に降りかかる出来事。それは夢だけど、夢なんかじゃない。きっとあなたの身に起きる。そしてきっとあなたの心を滅茶苦茶にする。覚えているでしょう? 兎達を効率的に殺すために進化した自律兵器達。私の左肩から先も奴らに喰われた。つまり、あなたの左肩が」
「…………」
「私は私の命を守ろうとして、何百という兎を殺した。つまり、あなたはこれからたった一つの自分の命を守るために、何百という兎を自分から地獄に差し出すことになる」
「…………」
「あなたの心は壊れる。あなたは戦場から逃げ出す。まだ若い頃、訳もわからず檻の中から逃げ出した時のように」
「…………」
「けれど今度は逃げられない。一度戦争にレイプされた心はどこまで逃げても癒える事はない。むしろ逃げれば逃げるだけ、その傷口は腐った血と膿を垂れ流し続ける」
「…………」
「そしてあなたは思う。こんな生は終わりにしたいと」
「…………」
「でもね、考えてみて、レイセン。いつだって目の前の苦しみから目を背け、耳を塞ぎ、逃げ出す事しかしてこなかった私たち。それがどうして自分を殺すなんて恐ろしい事ができるのかな」
「…………」
「私もそう。私は私を殺せない。でも、あなたなら殺せる。そういう事。長くなってごめんね。けれど要点はとてもシンプルなの。私はあなたを殺す。この過去と未来と今とがないまぜになった地で、最初に檻から逃げ出そうとした馬鹿な私を殺す。そうすればきっと全部終わりになる。毎夜毎夜戦場の夢を見なくてよくなる。燃え盛るトーチカの中でのたうつ兎達の夢を。自分の手で同胞をドローンの餌に捧げる夢を。助けようとした兎が腕の中で死んだ行く夢を。背負った彼女の脳みそが私の口の中に入り込む夢を。もう見なくてよくなるの。だって過去の私が死ねば、今の私もいなくなるものね」
……無茶苦茶だ。無茶苦茶だけど、どこか理解できてしまう自分もいた。
だって他ならぬ私自身の事。そう、このクソみたいな演説をぶちまけているのは間違いなく私だ。何となく、そんな確信がある。
だって私はきっと私の事を殺せないから。あいつが言うような悲劇、嵐の中で見たような悲劇が私の心をぐしゃぐしゃに叩き壊してしまっても、夜眠るごとにその傷が全身を苛んでも、それでもやっぱり、私は私を殺せないと思う。
怖いから。
黒糖とは違って私は、絶対に自分で自分を殺したりできないと思うから。
だからあの兎はきっと私なんだろう。どうしようもなく臆病で、情けなくて、それでいて行動力だけはある。檻を飛び出して月から地球に降りようとするくらい。時を飛び超えて未来から過去の自分を殺しにくるくらい。
「……わかった」
「ありがとう、私」
近づいてくる、足音。わかってる。わかってるって事はわかってる。相手は私だ。それも、クソみたいな戦争を何年か何十年か(下手したらもっと?)経験した私。
でも結局これしか策はないと思う。ナイフと銃じゃ、距離を詰めるしかない。向こうから詰めてもらうしかない。
足音が止まる。
「さあ、出て来て。これ以上行くとこっちが危ない」
まあそりゃそうか。
「武器なんて持ってない。あなたも私なら知ってるでしょ! ここに来る時、武器は取り上げられた!」
「……だから?」
「銃の前に身を晒すなんて怖くてできない! 私の見えないように撃ってよ! わかるでしょ! 私なんだから!」
かなりギリギリの事を言ってる自覚はある。けど他にどうしろと?
「……これ以上近づく気はない。それだけの敵意の波長、私が気が付かないと思ってる?」
やっぱり。でもよかった。これでうかうか近づいてくるんなら、そんなのは大間抜けだ。他の誰かならともかく、自分がそんな醜態晒すとこなんて見たくない。
まあ、でも……どちらかと言えば、私は結構間抜けな方だと思う。
「ありがとう、私」
これは賭けだった。確かに私が私を警戒するのは避けられない。敵意の波長は隠したりできるものじゃないから。
それでもあの私は踏み込みすぎた。確かに丸腰の相手なら十分な距離がまだ、ある。
でも。
「……っ!」
その時多分、私の一生分の集中力と幸運を使ったと思う。瞬間身を乗り出して投げたナイフは「私」の右腕を掠めて赤い線を引いた。それで十分だった。向こうは片腕。あの大仰なライフルの構えが逸れる。遅れて発射された弾丸は私の頬を掠めて消えた。
「あああああああっ!」
「嘘つきっ!」
「うるさいっ! この自分殺しっ!」
後はそう、取っ組み合い。体格差は少し向こうのほうが有利らしい。でも、腕一本分のアドバンテージは大きかった。
強引に組み伏せ、ライフルを弾き飛ばす。それからまだ足元に転がっていた黒糖のナイフを拾い上げ、自分の首元に突きつけた。つまり、未来の自分の爛れた首元に。
「……ああ、ちくしょう」
「本当に私だ」
「だから、そう言ってる」
それで。
それで、ええと。
まず私の勝算について話そう。
勝算は合った。まあ黒糖のおかげとも言えた。
未来の私の虚を突いたナイフは、あいつが黒糖を殺したせいで私の手元に渡ったものだ。問題は、未来の私がその事を知ってるのかどうかだった。これは見かけ以上に厄介な問題だ。
タイムパラドクス。
今、未来の私は(向こうから見て)過去の私を殺そうとした。その結果、黒糖は巻き込まれて殺された。
裏を返せば、もし未来の私がこなければ黒糖も死ぬ事はなかった。結果として私があのナイフを手にすることもなかった。
問題は「未来の私」の過去(ややこしい)で黒糖はどうなっていたのかだ。
もし未来の私の過去でも同じように黒糖が死んでいたなら、奴はナイフの存在も知っているはずだ。しかしそうなると、奴は未来の自分にかつて襲撃された事があり、それでいて生き延びている事になる。そんな経験がありながらなお過去の自分を殺そうとするだろうか(絶対に失敗するとわかっているのに)。
或いは、未来の私の過去では黒糖は死んでいないのかもしれない。だから黒糖のナイフについても知らず、ただ「脱兎屋」に丸腰にされた記憶だけがある。
当然、過去の私(この私のこと)も丸腰だと思っている。
結果としてはおそらく後者(未来の私の過去では黒糖は死んでいないし、たぶん更なる未来の自分の襲撃も経験してない)だったらしい。
まあそういう事。それで私は油断した。まあ私だからな。肝心な所の注意力が足りてないと訓練兵時代もよく言われた。
それで。
それで……その結果として、私は私を組み敷いている。火傷痕のある首筋にサバイバルナイフの切先を突きつけている。
私はどうしたらいい?
「……あのさ」
「……」
「仮にあんたを殺した場合、未来の私もやっぱり私に殺されちゃうのかな」
「……さあ」
「あんたの言うみたいに、私の心はバラバラになって、眠るたびに戦場の悪夢を見て、やっぱり私を殺しにいく」
「……」
「あ、でもその時は私、黒糖のナイフのことを知ってるわ。あんたと違って騙されないでしょうね」
「……じゃあ、あなたなら私を殺せる」
「あー、まあ……そういう事になるか」
「きっとそうなる」
「そうなのかな。そもそもさ、そもそも私を殺せばあんたも消えるって、それ本当なの?」
「本当よ」
「どうしてそう言えるの」
「……そうじゃなきゃ……そうじゃなきゃ私は、他にどうしたらいいわけ?」
それはその通りだった。
今、私が生殺与奪権を握っているのは悲しいくらい私に違いなかった。
基本的に私はそういう奴なんだ。こいつが言ってた通りだ。いつだって目の前の苦しみから目を背け、耳を塞ぎ、逃げ出す事しかしてこなかった私。それが私だ。
「……ねえ」
「早く殺してしまえば。元々私はそれが欲しい」
「うるさい! ねえ、私も見たよ。嵐の中で見た! あんたの心をぐちゃぐちゃにレイプしたものを見た!」
「……ふん」
「でも……今まで忘れてたんだけど……他に妙なものも見た」
その時。
その一瞬、確かに私の瞳に違う色が宿った。違う波長を感じた。それは、それは例えるなら、小さな子供が大切にしている宝箱を親に見つかってしまったみたいな……そんな、怯えと苛立ち……それと少しだけ、愉悦感……?
「あれは地上でしょ? 私はこれから地球に降りる。そこでの生活なんでしょ? まあ地上の穢れた臭いと六倍の重力は最低だったけど……それでも……あれは何なの? あいつは誰なの? 私は何をしていたの? ねえ、あの兎は……」
「期待しない方がいい」
「え?」
「期待しない方がいい、と言ったの」
「それは……聞こえたけど」
「玉兎は長く生きる。でも、永遠の前ではそれも一瞬の明滅に過ぎない。私たちの時間は折り合わない。楽しい夢はすぐに醒める。後には辛い現実だけが待ってる」
「待ってよ。それ、何の話をしてるの。あの兎の話? それとも地上の話!?」
「全てよ」
「全てって?!」
「未来は変わらない」
「嘘! 嘘だ! あんたが証明して見せたんでしょ!? あんたは黒糖を殺した! 変な奴だったけど、殺される理由はなかった! あいつは言ってた。嵐の中ではいつも自殺する夢を見るって。あいつは勇気のある兎だった。でも、あんたに殺された! 未来が変わったんじゃないか!」
「……そう。あいつ、そんな夢を見てたんだ」
「……聞いてなかったの?」
「私の時は、嵐は来なかった」
そうか。
それでようやく合点が入った。
私は黒糖を殺せない。
例えこの心がどんなに壊れても、魂が堕落しきってしまっても、それでもあんな寂しげな顔で自分の死を語る兎をどうして殺せたりするもんか!
でも……この私は知らないんだ。「運良く」嵐に見舞われず、結果として黒糖の心の傷を見ることもなかった。
もちろんあいつに何があったのかは知らない。でも、その傷の有無を知ってるかどうかは大違いだと思う。
「……ねえ。わかってんでしょ。私も私の事は殺せないよ」
「そう」
「でも、あんたの事は許せない」
「ああそう」
「私はどうしたらいいのよ……」
「……さあ」
「……責任取れよ……私より大人なんだろ……」
「……」
それで、まあ。
最悪の気分だった事は間違いない。
●
たぶん、旅をしていくんだと思う。
結局どうなったのか?
現実はシンプルだ。私は私を殺せなかった。お互いに。ただし許すこともできなかったし、信頼関係を築くこともついにできなかった。同じ自分なのに。
それで仕方なく、私は私の首筋にナイフを突きつけ続けていた。何時間か、何十時間か、多分実際のとこそんなにはかかってないと思う。黒糖の言った通りだった。
「門」が開いた。あの名前のない通路の地球側の出口。外見について言えば、まあ門と呼ぶのはかなり無理のある印象を受けたけど、あの最低な悪夢体験を「嵐」とか呼ぶような連中なのでさもありなんだろう。
「……あんたはどうするの。まさか一緒に地球に来るなんて言わないよね」
「それは杞憂」
「どういう意味」
「過去と未来が交わるのはこの第壱夢冥深路の中だけだから。例え二人揃って門を潜ったとしても、私は私の、あなたはあなたの時間に戻るだけ」
「あ、そう……」
「そしてこの交錯も、気の遠くなるような複雑な計算を経てようやく導き出した侵入点から入った結果。この私と、このあなた、再び交錯する確率は絶無。ちょうどこの砂漠の砂粒すべてからランダムに二つ目印をつけて、それが偶然隣り合っている可能性と同じくらい」
そういうものらしかった。嘘の波長は無かった。明らかにあいつは毒気を抜かれていた、私に。でもそれは……もちろん、あの私の傷が癒えたとかそういうんじゃ無いだろう。
ただ諦めただけ。それだけ。
これが他人ならざまあみろだった。黒糖を殺した奴だ。一生苦しんでればいいんだ。
けれど私でもある。つまり、あいつとそっくり同じ体験をしたらたぶん、そっくり同じ行動をしでかした自信がある。
だからまあ、このややこしい顛末だけでも私は絶対に過去の自分を殺してみようなんて思わなくなった。そういう事はしない方がいい、できれば。
「あ、ねえ……ところで一つ。あの地上の兎とはどうやったら会えるかな」
「なに?」
「いや、ほら、私は未来を全部変える気でいるから。あんたみたいになりたくないし。でもさ、そうするとあの兎と会う未来も変わっちゃうかもでしょ。それは嫌なの」
「なぜ? 会ってもいないのに何がわかるんだか」
「えー、だってさぁ……うーん……言っちゃうと、あいつの話を出した時のあんたからすごく幸せな波長を感じたから……」
それはやっぱり言わない方が良かったかな?
そんな事を言って私が素直に教えるとは思えないし。でも、言わなきゃ言わないで教えないだろうし。ああもうめんどくさい奴……でも私なんだよな……。
「幻想郷」
「え?」
「そういう場所がある。そこを探したらいい。まあどうせ、いやでも流れつくだろうけど」
「あ……うん。ありがとう」
それが私たちの交わした最後の言葉だった。
そのまま私は黒糖の亡骸と共に門を潜った。彼女をこの寂しい場所に置いていくなんてできなかったから。
もっともそのおかげで大変な目に遭うことになったんだけど(考えてみて欲しい。地球側の担当者からすれば、月からの逃亡者が案内人の死体を抱えて現れた状態だ)。まあ、後悔はしていない。この時点で既にあいつとは違う旅だ。何かが変わるかもしれないし、何も変わらないかもしれない。
先は長い。
月の都を逃げ出して私は、月の兎だった私は、籠の中の兎だった私は、初めて星空を見ていた。地上はどこまでも続く砂の世界で、天上は黒く黒い世界で。この砂山の砂の数とあの星空の星の数、いったいどっちがどれくらい多いのかもわからない。
「まさか初めて? 貴族様のお城の中でも宇宙を見る機会くらいあったはず」
そう、でも、あれはただの美しいものだった。宝石箱の中の宝石。籠の中の兎。窓の中の星々。
「それとも今目の前にあるものは違う?」
私は頷く。黒い髪の兎が微笑む。たぶん、旅をしていたんだと思う。この人は……ずっとずっと。そして帰り道を忘れてしまった。いや、行き先を失ってしまったのかな。
失礼な妄想を巡らせている自覚はある。私は嫌な兎だ。だから? 自由は心の中にある。頭の中にある。この脳みその中に。一匹の黒兎が微笑んでいる。地獄は私たちの中にある。そしてたぶん――この頭上の宇宙、あそこには無い。
「お腹すいたでしょ。無理しないでいいよ」
「大丈夫です」
「先は長い。さあ座って。夕飯にしよう」
「ずっと夜じゃないですか」
私の不平を無視してその兎は既に砂上に座り込んでいる。彼女は黒糖と名乗っていた。それが「この世界」での名前なのか、やっぱり月の都から逃げだす前から持っていた名前なのか――そもそも彼女が私と同じ境遇だって保証もないけど――私は聞かなかった。興味がなかったからだ。遠慮していたわけじゃない。遠慮なんてしない。こいつは逃亡兵だ、私と同じ、きっと。
「どれくらい経ちましたか」
「まだ半日も経ってない。疲れた?」
「べつに……」
「あなたは運が良い」
顔を上げた先で黒糖は銀色の水筒を開き、少し口に含んでから残りを差し出した。
「明日はコーヒーを淹れてあげるけど、今日はこれで」
「はあ、どうも」
水は生ぬるかった。
それから銀色のパック。こいつは軍のレーションじゃないか。驚いた顔がバレたみたいで、黒糖がにやりとする。
「もともと私も軍にいたんだ」
「……どうやって?」
「それは、どうやって手に入れたのかって意味? あなたこそどうやって? どうやって私にたどり着いたの? どうやってこの通路にたどり着いたわけ?」
「ああ、うん、ああ。内通者ですか。軍の内通者が手引きしてる……」
「ご想像にお任せします」
銀色のパックの封を切る。まるでたった今調理されたばかりかのような料理。フォークや箸が無くても食べやすく考慮された品目。しかもあたたかい。
どうやって? 詳しいことは知らない。知る必要もない。地上の人間達のレーションはこんなに立派じゃないと聞く。だからって月の都が好きになることはない。帰りたいとも思わない。
「それでええっと、あー、なんだっけ? あなた、名前」
「レイセン」
「どんな字を書くの?」
「さあ……ご主人様が呼んでいただけだし」
「その前の名前は?」
「さあ」
「はあ。覚えてないわけ?」
「名前なんてどうでもいいじゃないですか。何なんですか? 食えと言ったり、話しかけてきたり」
「ふーん……」
「な、なんですか」
「警戒してるんだ?」
「まあ、そりゃ……」
「もう少し利口な子かと思ってたけどねえ」
「別に……」
「私の気分を損ねても良い事は無い。月から地上へ続くこの通路、通路と言っても見ての通り忘れられた砂漠の地。水先案内無しで永遠に彷徨う事になる、かも」
「そうはなりません」
「どうして」
「お金、払ってます」
「えー……」
そりゃ言いたいことはわかるさ。でも……ここからは教える気は無いけれど……私は相手の波長が読める。特に同じ玉兎のやつはお手の物だ。
彼女に私を見捨てる気はない。彼女の言葉に嘘はない。私を気遣っている。私の面倒を見るつもりでいる。それはお金を払ったからじゃない。単に――彼女はお人好しなのだと思う。
「あとどれくらいかかるんですか」
「さあね。嵐が来なけりゃ明日にでも着くよ」
「嵐……」
「さっさと食べなよ」
今度は、黒糖の言う通りにした。実際、すごくお腹が空いていた。嵐って何のことだろう。私はどうしてこんな所にいるんだろう。ご主人様達は何をしてるだろう。
久々に食べる軍用レーションは相変わらず美味しくて、代わり映えのない味がした。
●
逃げようと思った。
どうしてかはよく覚えてない。というか、よくわからない。
ただ逃げようと思った。逃げなきゃと思った。
たぶん、限界だったんだと思う。
何に?
わからない。つい昨日までのことが遠く遠く霞んでる。
もちろん……ご主人様は優しかったし、ご飯は美味しくて、お屋敷はきっと月で一番広くて綺麗で……それで、それで?
何より驚いたのは、それがあまりにトントン拍子に進んだこと。つまり、私の月からの逃亡が。
軍属の玉兎で知らない者はいないだろう。「脱兎屋」のうわさ。もちろん反逆罪と敵前逃亡罪は共に重罪だ。それでも脱走を試みる奴はいるわけで、もちろんそういう奴の九割は捕まって(主に内部告発による。ちくりとも呼ばれる)折檻されて連れ戻されるわけだけど。それでもそれでも残る一割のさらに一割は首尾よく逃げおおせる奴がいる……らしい。
それが「脱兎屋」の仕業なんだという。軍から逃がしてくれるプロフェショナル。月から逃がしてくれるプロフェショナル。月から逃げる……どこへ? わからない。でも、どこかへ逃がしてくれる。
正直、信じていなかった。ただの噂だ。ただの……じゃあ、それが事実だったとしたら?
「行き先は月ですか? 地球ですか?」
脱兎屋は実在した。
私は檻の中の兎ではあったけど、幸か不幸か飼い主は月でも有数の権力者だったから。
私は調べ、危険を冒し、それは功を奏し、そこに辿り着いた。脱兎屋の末端、そいつは月の都の警備を担当してるただの玉兎に見えた。実際、ただの玉兎だったと思う。裏路地の、暗がりの中で、私の心臓は張り裂けそうだった。その玉兎は少しだけ路地の入口の方を気にしながら言葉を足した。
「おすすめは地球です。月の上に居る限り、大抵はバレます」
「あ、そうなの」
何だか妙な感じだった。兵舎の売店で今日のおすすめを教えてもらってるみたいな感覚がした。
おすすめはガムかゴムですよ、ガムなら吐き出すまで楽しめる。ゴムなら吐き出しても安心だ。
もちろんそうじゃないこともわかっていた。
「まあ、あなたが是非とも職場から消えて欲しいくらい無能な兎なら別ですが」
「地球でいい」
「そうですか。因みに誤解なきようお伝えしておくと、我々は慈善事業ではありませんからね。わかりますか」
「お金がいるとは聞いてる」
「仰るとおりです」
「もし足りなかったら?」
「そうなるとビジネスは成立しませんね」
「別に私がそうしようってんじゃないけど……例えば、あなた達の存在を上にチクるって脅す奴もいそうだけどね。ほら、兎はみな貧乏だし」
これは私の悪い癖だった。特に立てる必要もない波風を立ててしまう。
その玉兎は少しだけ面食らって黙りこくっていたが、すぐにっこりと笑い返してきた。
「私は末端で、端末なんです。仮に私を脅せたとしても、一匹の兎を地球まで運ぶにはかなりの数の関係者がいる。その全部が協力しなきゃ意味がない。そして仮に私を密告したとして、その先は生き残るからやっぱり意味がない。もちろん密告者も逃亡を企てた罪で碌な目には合わないでしょう」
「なるほどね。思ってたよりしっかりしてるんだ」
「命を預ける上で慎重になる気持ちは理解しますよ」
本当は、どうして末端で端末の役をやってるのか、それは例えば功績を積んだら更に上に行けるようなシステムなのか? なんて色々と聞いてみたかったけど、これ以上は警戒の波長が強くなるのがわかった。
私が大人しく金子を取り出すと、玉兎の目の色が少しだけ変わった。
「……そうだ。あなたを見かけたことがありますよ。どんな玉兎でも羨まずにはいられない方々に飼われているでしょう」
「これで足りるの? 足りないの?」
「どうして私がこんな損で危険な役回りをしてるか気になるって顔をしてますね」
図星だった。私は黙って金子を押し付け、そいつは受け取った。交渉成立。少なくともそいつに騙そうとする波長は無い。
「金のためですよ」
それは。
たぶん、考えうる限り一番つまらなくてありふれた理由だ。
そこからはあれよあれよ。
私は別の玉兎に会い、また別の玉兎に会って、次は月人に会った。最初は驚いたけど、今にしてみればどうして思いつかなかったんだって話だ。所詮、玉兎は玉兎。それを月から逃がすのに――しかも地球行きの通路を使うのに――玉兎だけで叶うはずがないんだ。
月人の波長は読み難い。でも、その月人はマシだった。たぶん、まだ、欲を捨てきれていないんだろう。どうでもよかった。少なくとも欲で動く相手は信頼できる。「哀れな玉兎を助けるために」なんて言葉が出てこなくて本当に良かった。
それで。
まあ、それで私は月の兎を辞めた。
私は運が良かったのか?
首尾よく脱兎屋に出会えたのは、私の(ご主人様の)権限で都勤務の玉兎を一覧できたからだ。
彼らに渡すお金を持っていたのは、定期的にご主人様から「お小遣い」を与えられていたからだ。(もっとも欲しい物は言えば何でも与えられた。自由以外は。そんな状況で「お小遣い」なんて何の意味も無かったのだけど)
そういう判断を適切に下せたのは、私がご主人様から教育と能力の訓練を受けていたからだ。
そして私がご主人様に拾われたのは、私の運が良かったからだ。
私は運が良かったのか。でも、運が良かったらどうしてこんな事になる?
どうして……与えられたものに満足できないわけ?
「あなたがお姫様の檻から飛び出してきた兎?」
そして、私は。
「黒糖。地球までの水先案内人を努めてる。まあ、よろしく」
たぶん、旅に出たかったんだと思う。
生きている実感が欲しかったんだと思う。
ただ、それだけだったんだと思う。
たぶんね。
●
「おはよう、レイセン」
夢を見ていた。長いような短いような夢。
目を覚ましたら私はお屋敷のベッドの中に居た。
「顔が真っ青」
ご主人様が私のことを覗き込んでいる。私は曖昧に首肯く。ベッドから身を起こす。でも、それは夢。
「大丈夫、レイセン?」
天蓋は星空。黒い瞳と黒い毛並みの兎。たしか黒糖と言ったっけ。
それで一瞬、どちらが夢なのかわからなくなった。でも確かにここは現実で、消え去ったベッドの温もり、ご主人様の微笑みこそが夢で。
未練? 私は未練を抱いてるのか? 黒糖が差し出す水筒の中身は生ぬるい。それでも水分を得た体がみるみる活力にあふれていくのがわかる。自分が生きているのがわかる。これが現実なのだとわかる。
「私は大丈夫」
「ホームシックはよくある事だから。恥ずかしがらなくていいよ」
「ちがう」
「涙を拭ってから言ったら?」
「……あんたはクソデリカシーの無い田舎兎だ」
「そうじゃない。残念だけど嵐が来る。さっさと立ち直っとかないと、きつい」
「……嵐って?」
もちろん言葉の上ではそれがどんなものか知っている。でも、実際に見た事は無かった。だって月の都に嵐なんて来ない。年がら年中いつだっていちばん快適で穢れ無き天候が維持されている。
それに、見上げる星空の様子は相変わらずだった。嵐っていうのはつまり雨とか風とか、そういうのが滅茶苦茶に押し寄せてくる現象じゃないのか?
今はそよ風一つ無い。この空間に来てから今までずっと風なんて感じたことがない。
私たちはまた砂の地平線の果てを目指して歩き出す。ちょっとした砂山や窪地に足を取られないようにして。
黒糖は続ける。
「わかってるだろうけど、ここは形而下空間じゃない。ずっと昔に開かれた月と地球を繋ぐワームホールの残骸。地球や月の物理法則はここでは通用しない」
「そういうのって初めに説明してくれるものじゃないの?」
「最初の挨拶も返さずにむくれていたのは誰だっけ」
「こんなに長々と歩かされるなんて思ってなかった!」
「はぁ。過ぎたことを言っても仕方ない。あなた、超空間廻廊を通った経験は?」
「第四槐安通路なら、訓練で……」
「第三、第二、第一が何か知ってる?」
「え……第三は邯鄲経路、第二は……胡蝶廻廊だっけ? 軍学校で習った。それで第一は……第一……ねえ、これ何の意味が?」
「第一の通路に名前はない。他と違ってそれは月の民が作ったものじゃないから」
「はあ」
「それは……ここはね、初めの初めからあった場所。夢と現、未来と過去、あらゆる可能性が交錯する空間。第二胡蝶廻廊、第三邯鄲経路、第四槐安通路、それらは全て模倣品に過ぎないってわけさ」
「ねえ、何を言ってんのさっきから?」
「ずっとずっとずっと昔。たぶん何億年って単位で昔の話。月の民はこの場所を見つけ、そして、支配しようとした。入り混じった可能性の嵐を治め、統治しようとした。私も目で見たわけじゃない。でも、それはまさに戦争だったと聞いている。この遥か果てまで続く砂漠はその結果。彼らはただ地球と月を結ぶ"筒"が欲しかっただけ。その中身は不要だった。だから燃やしつくそうとした。でも、そういう傲慢さは大抵ひどいしっぺ返しを喰らうものみたいね」
「……」
「ねえ、どうして脱兎屋なんて巫山戯た商売が成り立っていると思う?」
「え? さ、さあ……一部の月の民が手を回してるから、じゃないの……?」
「馬鹿だね。そんなのとっくにバレてるでしょ」
驚きはなかった。玉兎は基本的に頭が悪い。というのはそもそも教育の機会を剥奪されているから。私みたいに一部の(物好きな)権力者に飼われでもしない限り、玉兎に複雑な商売は無理だ。
もちろん脱兎屋のバックには月人がついている。でも、月の世界じゃ欲の"ある"奴は出世できない。それは穢れだから。もちろん大っぴらに排除される事は無い。そういう扱いはまた別の穢れを産むから、らしい(たぶん恨みとか妬みとかそういうものだろう)。
驚きはなかったけど、答えもまた無かった。私は流されるままだった。今はただ流されるままで居たかった。あるいは……いや。
黒糖は少しだけ熱を帯びた黒い瞳を向けている。
寝起きの気怠さはすっかりどこかへ消え失せていた。
「この第一通路は月の民でも制御できなかった負の遺産。けれど奴らは諦めてるわけでもない。わかる?」
「はぁ」
「わからないかな。私たちは、自ら望んで実験に志願してくれてるお利口で愚かな兎なんだよ」
ああ、なるほど。
地球と月を結ぶ名前のない第一通路。それは負の遺産であると同時、月の都にとっては更なる可能性を秘めた坑道でもあるわけだ。ただしそこから宝を引き上げられる可能性は、きっと紙のように薄い。たぶんその計画を発案しただけでその者の立場が悪くなる程に(玉兎は確かに奴隷扱いされてるけど、大っぴらに使い捨てて良いわけじゃない……はず)。
でも……それが?
私の反応が悪かったのが黒糖には面白くなかったらしい。彼女の波長がこれまでで一番乱れるのがわかる。ところで嵐ってのはいつ頃来るんだろう?
「……月の連中はクソだ」
「そんなの誰でも知ってるよ。それが理由なの? あなたが、こんな危険な場所の仕事を買って出てる理由」
「私の事は聞くな! それより、少しでも距離を稼ごう」
私は大人しく口を閉ざした。黒糖の波長は完全に拒絶のそれに変わっている。もしここがクソな砂の海じゃなきゃ根掘り葉掘り聞いたんだろうけど、本当に置いてけぼりにされるのは困る。
「ひりつくな。思ったより近い」
私には何も感じられない。相変わらず風は無く、星々は超然とこちらを見下ろしたまま動かない。
砂を踏みしめる音が二人分。
それと息遣い。
吸って、吐く。吸って、吐く。吸って――
●
「おはよう、レイセン」
ベッドの中だった。柔らかで、いい匂い。ご主人様の好きだった香の匂い。
そう、月の都じゃ香を焚くのは珍しい。においは穢れでもあるから。ある、と、ない。それが不可逆的に転移する。つまり――においはこびりつく。それは穢れだと見做す勢力が一般的らしかった。
馬鹿だと思う。月人っていうのは馬鹿なんだと思う。
でも、ご主人様は香が好きだった。もちろんそれは、ご主人様が後ろ指を指されないくらい絶対的な権力を持っていたから出来た事だけど。
「顔が真っ青」
「これは夢ですか?」
「おやまあ」
これは夢「じゃない」。理由のない確信が全身を貫く。これは夢なんかじゃない。現実だ。現実の感触。
うすら寒気が背中を駆け下りていく。
私は……たった今の今まで私は、あのクソ何も無い砂漠をしたり顔の案内人と歩いていた、はず。
夢だったとしてもおかしい。夢は眠る時に見るもの、そうでしょう? 私がいつ眠った? 唐突に気の触れた黒糖が私にチョークスリーパーでも決めたっての?
「本当におかしなレイセン。どんな夢を見ていたの?」
「……ご主人様、私に何かしましたか?」
「レイセン……?」
珍しいものを見た。本当にご主人様が困っている。しかし困ってるのは私も同じだ。いったい何がどうなってる? 私は連れ戻されたのか? でもご主人様の反応はそういう風でもない。
「ご主人様私は、私はっ――」
今、いったい私は何を言おうとしたんだろう。頭が心に追いつくより早く、横殴りの浮遊感に襲われた。見開かれたご主人様の瞳が、表情が、香のにおいが、ベッドの温もりが、何もかもが消える。そして現れる。
私は月の大地に立っている。
「私は……」
何かがおかしかった。何かがおかしくなっていた。
そこは月の大地で、背中に感じる重さには覚えがある。
後ろから何匹かの玉兎が息を切らして走ってきては、私を追い抜いていく。その背中にはぶくぶくと太った背嚢が見える。
「おい貴様! 何をボーッと突っ立っている! 気合を入れて欲しいのか!」
反射的に私は走り出していた。聞き覚えのある声だ。というか嫌でも忘れられない声だ。
胃の中から酸っぱいものが込み上げてくるのは、さっきの奇妙な浮遊感のせいだけじゃない。くそ。忘れるもんか。訓練時代、私たち新兵はこうして何十時間も月の荒野を走らされていた。それでも月の重力なら余裕だろうって? とんでもない!
私たちの背中には特別に誂えられた背嚢が乗っかっている。そいつには有難い事に地球の重力を擬似的に体験できるだけの重量が詰まっていた。
「どうした蛆虫共! そんなノロマな足では地球人の良い的だぞ!!」
理解はできる。もし血に飢えた地球人と戦争になれば、地球上で戦火を交える可能性もあるだろう。だが地球の重力は月面の六倍。そのための適応訓練――と言えば聞こえは良いが、ホントのところは誰の目にも明らかだった。
これは「しごき」だと。ていうか「いじめ」なんだと。
「さあ走れ走れ! ビリの兎は晩飯抜きだぞ! 地球人の晩飯になりたくなきゃもっと速く走れ!」
クソだ。六倍の質量を背負わされて走れるわけあるか!
それでも走る以外に選択肢は無いんだ。晩飯抜きは最悪だ。散々走らされてそれは――込み上げてくるものを必死で抑える――前にビリだった奴に夕飯をお裾分けした事もあった。結局はバレて、翌日は揃って背嚢の重さを倍にされた。
「そんな調子で月の都を守れるのか!? 月の皆様方のために死ぬ覚悟があるのか!」
あるもんかちくしょう。全部ちくしょうだ。ちくしょうちくしょう、とにかくそれ以外考えない事。少しでも余計な事を考えれば足を取られる。足を取られれば起き上がるのだって六倍の重さなんだ。
だから――ええと、それで――どうして私はまたこの地獄に舞い戻ってるんだっけ?
「あっ」
ほれ見たことか。言わんこっちゃない。余計な考えで足がもつれた。いつもの六倍の速さで近づいてくる地面。思わず目をつむる。くそ、今夜は晩飯抜き――
「あっははは! 引っかかった引っかかった!」
奇妙な青色に見下されていた。それで――
「おぇっ」
それで、なに、この臭い……? 鼻につく、兎の吐瀉物を混ぜ合わせたよりも不快な臭い!
「おええええええっ」
「は!? ちょ、うどんげ!? あんた大丈夫!?」
自分のゲロの臭いの方がまだマシだった。これは――そうだこれは、訓練で一度だけ嗅がされた事がある。これは地球の臭いじゃないか!
「うえっ、くそっ、ちきしょう……」
「……あの、優曇華院さん?」
「……あ?」
「ひっ」
立ち上がる。頭を整理する。できる限り口から息を吸う。それでもかなり酷い。
そう、これは地球の臭い。穢れの臭いだ。
いや臭いだけじゃない。全身が重い。さっきまでの背嚢の重さを全身に感じる。周囲の緑色をした構造体の向こうには無数の微細な存在の蠢く波長。何より、この薄気味悪い青色の空!
いや……って事は私、地球に着いたの? あの砂漠を抜けて?
いや……。それも違う気がした。直感だけど、私はまだ何か厄介な状況のただ中にいる。例えばあの、怯えた目で私を見つめてる生物は?
「おまえ……敵か?」
「ど、どうしちゃったのさ……本気で怒ったの……?」
私を知ってる? でも私はこいつを知らない。いや、よく見ると玉兎のようにも見える。けれどもやっぱり玉兎の波長じゃない。じゃあやっぱり敵? だけど敵意の波長も感じない。訳がわからない。
「うぅ、打ちどころが悪かったのかなぁ! ちょっとびっくりさせようとしただけで……ねぇー、うどんげぇ……」
「ウドンゲ……」
優曇華? 何だったか、釈迦が産まれたときに咲いたとか言う花の名前……だった気がする。でもそれが?
咄嗟に銃を探す。いつもの場所には、けれど、妙な喇叭みたいな銃がさげてあった。トリガーがあるから一応銃には違いないのだろうけど。
「……本当にどうしちゃったの?」
銃を、構える。そいつは曖昧に口元を引きつらせながらホールドアップした。
撃つべきだろうか?
誰かに向けて引き金を引いたことはまだ、無い。
「……ごめんね」
それは私の言葉だったのか、それともそいつの言葉だったのか。
何かがおかしい。何かがおかしくなっている。あれから――そう、黒糖は嵐が来ると言っていた。
嵐。これが嵐なのか? 黒糖はどこ? なぜ私は銃を構えているの? なぜ目の前の兎は逃げないの?
いったい……何なの?
「隊長! レイセン隊長ッ!」
まただ。また瞬き一つの間に全てが変わっている。穢れた臭いが消えている。六倍の重力が消えている。
ということはここは……月?
「ご無事でしたか隊長! はぁ、向こうの部隊は全滅です。ちくしょうっ、地球の糞尿袋共!」
「ああ……ええと……」
ようやく状況を理解し始めると同時、またしても頭が追いついてない。
まずは、ひとつ。
これは嵐だ。
もちろん私の知る「嵐」という気候現象とは違う。たぶん黒糖が、或いはその関係者が(ひょっとしたらもっと古い時代の誰かが)そう呼んでいる現象。あの名前のない第一通路に生じる嵐。かつて月の民が制御しきれず匙を投げたくそったれな災害。
そう言えば黒糖は言っていた。夢と現、未来と過去、あらゆる可能性が交錯する空間。そんなような事。
さっき私は私の過去を見た。
そして今、見に覚えのない「いつか」を見ている。単純な推論。過去ではなく、今でもないのなら、きっとこれは未来なのだろう。
そんな事があり得るのか。
わからない。でも、他に説明のしようがない。
そしてもう一つわからない事。そしてもっときっと重要な事。
ここが私の未来だとして、いったいどういう状況なんだ?
「隊長?」
目の前に居るのは、玉兎だ。武装しているし、負傷もしている。私は周囲に目をやる。どこかのトーチカなのか? 辺りには同様に負傷した玉兎が呻き声を上げて伏せっている。全身の包帯が赤く滲んでいる奴、耳を片方吹き飛ばされた奴、腰から下が無い奴……。
瞬間、ぎょっとして自分の身体を確かめた。無事だった。両手足共にまだ繋がっている。それからまた目の前の玉兎を見た。よく見ればそいつは片腕が無い。
「……状況を報告して」
「はっ!」
ここは未来なのか? 本当に? 玉兎の説明は実に気の滅入るものだった。「最悪のシナリオ」として教科書に載っていそうな内容だった。
地球人の侵攻、ばらまかれた自律兵器(ドローン)、撃破される玉兎部隊、たくさんの死者、死者、死者。
「……月人達は何をしてるの?」
それは当然の疑問のはずだった。確かに玉兎は月の正規軍ではある。でも、本当の武力は月の民の神通力だってことはどんな新兵も知っている。玉兎がここまでやられているのに、月の民は動いていないのか?
「隊長、それはその、状況を再度報告せよという事でしょうか?」
「え?」
「つまり、ええと、月人の方々は……ですからその、陥落した都を奪還するために我々が奮闘しているわけですよね?」
「……」
わからない。目の前の新兵らしき兎の言葉は耳には届いているけれど、頭の芯が理解を拒んでいる。
ありえない。月の都が陥落した? それは「空が逆さまに降って来た」と言うようなものだ。しかし波長は、こいつの波長は確かに真実を口にしている。いや、いや、私の力は別に万能じゃない。嘘を吐いてる自覚がなくとも嘘は吐ける。例えば虚偽と知らずに虚偽を掴んでいる場合、私の能力は「見誤る」。
けど、もし本当だったら?
そもそも……これは現実の出来事なの?
「嵐」が引き起こすものが単なる「未来視」なのか、私は知らない。実際あの黒糖はこうも言っていた。夢と現。じゃあ、これは単なる夢なのかも。
夢なら、いつか醒める。
そうだよね?
「っ! 隊長危ない!」
その時、トーチカの射撃孔から細長い影がしゅるりと滑り込んできた。
蛇?
何か判断を下す前に私は突き飛ばされていた。
蛇が飛び上がって新兵に絡みつく。
閃光、そして衝撃。
視界が吹っ飛ぶ。トーチカの壁に叩きつけられる。頭ん中シェイクシェイクで、肺の空気が蹴り出されて。
耳鳴り。
吐き気。
顔を上げる。さっきまで玉兎だったものが、腰から下半分だけになって突っ立っている。それを眺める傷病兵達の生気のない瞳が、ゆっくりと私の方を向く。
ああ、そうか。私はこの場の指揮官なんだ。
今の兎の死は、私を見上げる兎達の痛みは、傷は、たぶん、私の指揮の結果なんだ。
でもそれは。それは、そりゃあ、そんなのは身に覚えのない咎だ。だってこれは未来の出来事で、それはいつかの出来事で。
でもそれはやっぱり私のせいなのか?
いつか……いつか私はこうなるのか?
「や、やめて」
ちがう。黒糖は言った。これは夢だって。いや、そうは言ってなかったかもしれないけど。
「見ないで! 私をそんな目で見ないで! 見るな!」
ちがうちがう、やっぱり夢だ。
だって、月の貴族方が地球の猿に負けるなんてあり得ないから。
だって、だってそれは、それはつまり、ご主人様も破れたって事だもの。
そんな事ありえない。ありえないんだ。ありえるとしたら、それが、夢だから。
「そうだ夢だ! お前達は夢の産物だ! 幻だ! 痛みなんて感じてないくせに! 生者みたいな顔をするなっ!」
兎達は何も言わない。言えるはずないんだ。こいつらは幻だから。幻がものを言えるはずがないから。
だから、連中の諦めたような目つき……だから……くそっ。なんなの? なんでそんな顔をするの。なんでそんな顔ができるの? 夢の中の幻が、どうして生きる希望を失ったような顔を。
「嵐は過ぎ去る……」
そうだ、嵐は過ぎ去る。この夢もきっと醒める。夢なんだから。夢なら、醒めなきゃダメなんだ。
「だからもう目醒めてよ……」
頬をつねる。頭を叩く。トーチカの壁に打ち付ける。
痛い。本物の痛み。本物の感触……なんでなの? 髪の隙間から垂れ落ちる液体の温度。これは夢なんじゃないの? 夢なら醒めるんじゃないの?
それとも。
「違う……」
胸の底に湧いた恐ろしい考えを強引に追い出す。込み上げてくる胃液を必死に飲み下す。
ちょうどその時だった。
もはや誰も覗く者のなくなったあのくそったれ射撃孔から、またぞろにょろにょろ蛇型自律兵器が這い出して来たのは。それも今度は……三匹同時に。
「あ、隊長……」
まるでその一言こそ自分らの義務であるかのように、傷病兵の誰かが力無い声をあげた。クソだ。瞳の合計が奇数止まりの連中が私より早くそれを見つけたとでも思ったのか。
だから。
とにかく。
ちくしょう。
どうする?
まるで脳みそが粗悪なタービンになったみたいに思考の回転音だけが甲高く耳奥で響いてる。でもそれだけだ。明らかに蛇共の動きは私が逃げるよりも速くて、それを助けようとする者は誰もいなくて。
いやむしろ「すぐにあんたもこうなりますよ」と腕や足や下半身や上半身のない連中が笑っている気がした。
それでふと、今までちらりとも過らなかった(過るわけなかった)考えが浮かぶ。
もし、このまま死んだらどうなるの?
「違う……違うっ違うっ!!」
嵐。過去。現。未来。夢。生。それから死。
わからない。私には何もわからない。わからないけど嫌だ。死ぬのは嫌だった。たとえこれが夢でも、未来でも、何でもいい。とにかく死ぬのは嫌だ。嫌な気がした。
それで……皮肉だけどそれが、自分の中で閉じていた何かをこじ開けたらしい。
「え」
自分でも信じられない力が出た。そう、自分でも信じられないような力で私は、すぐ近くで臥せっていた兎達を投げ飛ばしていた。もちろんあのクソ蛇爆弾の方を狙って。
ポン。
何かあっけない音がして命の無い機械と兎の命が相殺された。
まだ二匹残ってる。
「隊長、やめてください、レイセン隊長」
私は運が良かった。
というのはつまり、私は選ばれる側じゃなくて選ぶ側だった。
そいつもまた運が良かった。私の目を見て、私の名前を呼ぶ事ができた。だから私はそいつを避けて、隣にいた兎を蛇の餌として放った。実際、運の悪いそいつは口元を包帯で覆っていたから私の名を呼ぶ事なんてできなかったのだけど。
今度は二匹がそいつに絡みつき、爆ぜた。思ってたより利口じゃあない。それで……それで?
「逃げなきゃ」
私はトーチカを飛び出していた。
確かにそこは月だった。
ずっと遠くの暗黒の闇の地平線に、黒煙を吐き出す月の都が見えた。
どうやらこのトーチカは丘の上の戦略的要衝に建築されたものらしい。
眼下には逃げ惑う兎の小隊が見えた。そこに無数の羽の生えた蛇が群がって、あっと言う間に消し炭になった。
とにかくそれで理解したのは、戦場というのは地獄より碌でもない世界で、そして戦争というのはその戦場が鮨詰めにされたもんだって事。
ブウウーーーーーーンン……。
胸を悪くする重低音に顔をあげる。
黒煙の向こうから死の天使を気取った蛇の群れが飛来して来ていた。奴らの高速振動する羽が重低音の正体だった。
今度は、哀れな兎を全部丸ごと差し出しても助かりそうにない。
誰かの笑い声がする。
どうもそれは私の笑い声みたいだった。
●
「おはよう、レイセン」
私は自分の心臓の音を聞く。目を覚ます。吸うと吐くが一対一の荒れた呼吸。全身にまとわりつく寝汗、髪、服、疲労と恐怖。
そこはまだあの星の見える砂漠だった。名前のない第一通路。少し先で黒糖がコーヒーを淹れていた。いつの間にかかけられた毛布を除ける。たぶんそれも黒糖のものだろう。返そうとすると、彼女は首を横に振った。確かに脂汗でぐっしょり、もう使い物にならない。
「……夢?」
「嵐だよ」
そう、嵐。そして私は眠りから目醒めた。嵐から。けれどあの光景は、あの世界は、記憶は、夢のそれとは似ても似つかわぬ生々しさで未だ脳裏にこびりついている。
「なぜ何の説明もしてくれなかったの」
「説明?」
「嵐が何なのか。どんなものなのか!」
「無駄だから」
「殺されたいの!?」
「ちょっとさ。あなたの目的は地球に降りる事でしょう。ここで私を殺しても何にもならない。それに嵐を生き延びたあなたなら、わかるはず。あれは備えようがないって」
悔しいけどその通りだった。全ては私の意思とは関係なく起こったし、過去の出来事は変えられなくて、未来の出来事なんてわかりようもない。
「あんたも嵐の中にいたの……」
「まあね」
「何度もここに来てるんでしょ。私みたいな逃亡兵を連れて。その度にあんたは……ねえ、あれは本当に私の未来なの? 未来は変えられないの? もしあそこで死んだらこの私はどうなっていたの!?」
黒糖は手を止め、黒い液体の波波になった銀のカップを差し出した。湯気の立つそれを渋々受け取る。苦いものは嫌いだ。でも、いい香りだった。
「結論を言えば、わからない。思い出して。この名前のない通路には月の民すら手を焼いている。奴らの奴隷でしかない我々に何がわかるのさ」
「……でも、あなたには経験がある」
何がおかしかったのやら、黒糖は吹き出し、白いミニケトルのお湯がだぼだぼと砂に零れ落ちていく。黒糖はこっちを振り返りもせず、また口を開く。
「私は自殺する」
「……はぁ?」
「私はそう遠くない内に自殺するつもりでいる。そして、嵐の中で私はいつも自分を殺そうとしてる」
「……はぁ。だから?」
「嵐の中で死んだ事もある。でも、それは単に目が醒めるだけ」
「じゃあやっぱりただの夢なんじゃない」
「嵐から戻って来れなかった兎もいる。たくさん」
「え……」
「むしろ、その方が多いんだよ」
「……」
「だからまあ、一つ言えるとすれば、死は原因にはならないって事かな。嵐の中で死を体感する事は必ずしも帰還不可能を意味しない。じゃあ何がトリガーなのか? それはわからない。だって帰って来れなかった奴から話は聞けないもの。でも、あなたが『死』を嫌なものだと思ったなら、それはきっと意味があるんじゃないかな。私は早く死にたいと思ってるから。私にとって死は待ち遠しいものでしかないから。たぶん、そういうのを見てるんじゃないかな」
「見てるって、嵐が?」
「嵐は、まあ嵐なんて我々が勝手に呼んでるだけでさ。それはもっと意志や意思のある現象かもしれないし……ほら、第四通路だって夢の管理者が管理してるだろ。いやこれは月の温室育ちじゃ知らないか」
最後のはともかく、黒糖の話は煮え切らなかった。でもそれも仕方ないんだろう。彼女の言う通り、ここはどうしようもない場所なんだ。身をもって体験したからこそわかる。それに私は研究者じゃない。
「それで? 地球まであとどれくらいなの?」
「もう目と鼻の先」
「なんだ。ならちゃっちゃと出発しましょ」
「コーヒーを飲み終えたらね」
口につけたそれはやっぱり苦くって、私はほとんど砂に捨ててしまった。でも黒糖はたっぷり愛おしむみたいにそれを啜っている。
そう、丁度そういう時だった。つまり私は手持ち無沙汰で、黒糖は警戒心を解いていた。
そう、それで。砂でできた丘の上で何かがきらりと光った気がしたんだ。
カン、と乾いた音が一つ鳴った。
たぶん黒糖のカップに当たった音なんだと思う。何が?
「レイセン」
黒糖が私の名を呼ぶ。その一瞬、たぶん私たち二人にとって途方も無く価値のある一瞬を、彼女がどうしてそんな無意味な事に費やしたのかは知らない。
それから彼女が、彼女の体がゆっくり前のめりに倒れていく。それを抱き留めて、咄嗟に二人で砂の上に転がった。
ちん、ちゅん。
続け様、剣呑な音が砂と共に跳ねる。さっきまで私たちの座っていた場所で。
……咄嗟にケトルの中身を携帯コンロにぶちまけた。白い湯気がたちのぼる。気休め程度にそいつを頼って走りきり、なんとか窪んだ地形に滑り込んだ。ここなら傾斜が盾になって狙撃できないはず。
そう、狙撃。
「……良い腕してる」
冷えている。自分でも驚くほど頭の中が冷静だ。嵐の中、クソみたいな戦場に放り込まれたせいかもしれない。それとも単にこれまでの厳しい訓練の成果だったのかも知れない。まあ、後者は無いな。
「黒糖生きてる?」
返事は無かった。
でも、腕の中の彼女はまだ息をしてる。胸をやられたらしい。これが訓練時代ならあのクソを溜めこんだ背嚢にメディキットも山ほど入っていたのだけど。いや違う。黒糖のザックを持ってくれば良かった。用意周到なこの水先案内人ならそういう備えもしていたろうに。
とにかく後の祭りだ。私の上着だのシャツだのをぐるぐるにして簡易的に止血を施す。その側から真っ赤に滲んでいく。銃槍になってるんだ。たぶん背中から撃たれて、貫通した弾が手元のカップに当たったんだろう。何の役にも立たない分析だ!
「黒糖、黒糖! しっかりして! ねえ!」
ダメだ、呼吸が弱まってる。ちくしょう。
「レイセン……」
「喋るな! くそ、あんたの荷物を取ってくる。強心剤の一本でもあれば……」
「いい……ごぼっ……無駄だから……」
「案内人のあんたが居ないと私が困る! 勝手に死ぬなよ!」
「大丈夫……もう位置に来ている……向こう側の兎が……時間が来たら……門が……」
「黒糖!」
「あぁ……白檀……やっと私、あなたの所に……」
「ちいっ……心臓マッサージを……」
「私は……私なりに……頑張って……」
「……っ」
何なんだ、これは?
まだ私は嵐の中にいるのか?
心臓マッサージをしようにもこの狭く浅い窪地じゃそんな呑気、狙ってくれと的になるようなものだ。
いやそれ以前に……無駄だから。黒糖は死んだ。呆気なく。いや、誰だって死ぬ時はきっと呆気ない。問題は。
そう、問題は。
「ふざけんな」
嵐は過ぎ去った。今、私達を見下ろす星空は凪いでいる。
つまりだ。
この状況は月の民も匙を投げるような超時空間的現象じゃ無く、誰かのくだらない悪意と敵意の産物だってこと。
狙撃手は明確に私達を狙っていた。それが黒糖なのか私なのか、あるいは両方なのかはわからないけど。とにかくそいつは首尾良く地の利を抑え、黒糖の命を奪った。
もちろん彼女とは何でもない。ただのビジネス上の関係。出会ってからまだ二日と経ってない。なんなら彼女が嵐について説明しなかったせいでこっちは、いらん困惑まで被った。
印象は良くない。
でもそれとこれは、それとこれとは別だろ。くそやろう。
「報いを受けさせてやる」
まあ、あるいは単に苛ついていたのかもしれない。
私は私のために誰かの命を利用した。嵐の中。夢の中。でもそれは私の未来でもある。なにより、それをしたのはこの私だから。
もしそうしていなかったら?
あるいは私は死に、嵐に呑まれ、二度とここに帰って来れなかったかもしれない。
ふと気がつき、黒糖の瞼を降ろしてやる。
それはそれで、これはこれだ。
いや。
それもこれで、これもそれだから、どうしようもなく苛ついている。
……さてと。私はもう覚悟を決めた。敵の正体は未だ不明だが、やり口からして単独犯だろう。
一対一。
私は武器を持って来ていなかったけど(ここにくる途中で全部引き剥がされた)、黒糖のポシェットを漁ると一振りのサバイバルナイフがあった。
ありがたく使わせてもらうこととする。
それで、敵はどう動くだろう? 向こうからすれば地の利を捨てたくはない筈。
でも、こんな果ての地まで我々を殺すために来た相手なんだ。迷惑な話だがそこには並ではない殺意がある。
そして奴は仕損じた。結果的に黒糖は死んだけれど、向こうにそれを確認する手立てはない。
半々といった所だろうか。まあ希望的観測もある。でも、敵がその仕事の成果を確認するために(あるいはその仕事を完遂するために)ここまで降りてくる……そう分の悪い賭けじゃない。
まあそうなったらなったで、おそらく武装したそいつとナイフ一本で戦わなきゃならないんだが。
それもまあ、空飛ぶ無数の蛇型爆弾よりマシだ。
「……来いよ、クソやろう」
後はただ待つだけだった。
右手のナイフの冷たさだけが心の頼り。
心拍数は過去最高潮をマークし続けている。
それでも……なぜだろう。悪い気がしないのは。
私は生きてる。
生きるために、ここにいる。
たぶん、旅をしていたんだと思う。今まで。
けれど今、ここにいる私は旅人でもなければ夢を見る胡蝶でもない。
私は私だ。
殺してやる。
さあ、来いよ。来い!
「……来い、と思っている」
心臓が跳ね上がる。
頭の上から響く声。落ち着け、私は窪地にいるわけだから頭の上から声がするのはおかしくない。
しかし、くそ、近いな。思ったよりずっと。
「私には、あなたの波長がよくわかる」
息を殺す。敵は銃を持っている。大丈夫。近づけば必ず足音がする。チャンスは一度しかない。蟻地獄のように息を鎮めろ。
「興奮している。緊張、怒り、恐怖、憎悪、でもそこに悲しみはない。あなたは酷い兎だ。さっきまでコーヒーを飲み合っていた相手が死んでも、涙一つ流さない」
挑発してるのか。コーヒーを飲んでいたとなぜ……いや、狙撃銃のスコープで見ていたんだろう。挑発して、私が姿を現すのを待っている。そうに決まってる。
「ふぅーっ……。骨が折れる。ようやくここまで来たのに。でも、気持ちはわかる」
わかるもんか。
「いや、わかる」
……。
「だって私はあなただから」
……なに?
「レイセン。もういいから。出て来て、レイセン。もう私は疲れた。それはつまり、いつかあなたが同じ苦労を背負い込むということなのだから」
……何か、妙だった。奴は何を言ってるんだろう? てっきり私は、奴の事を「脱兎屋」の関係者かその裏切り者だろうと想像していた。それ以外に思いつかなかった。この名前のない通路を知っていて、黒糖と私を殺そうとする理由がある。
あるいは黒糖の個人的な関係者、という線もあったけど、少ない言葉を交わした限りそういう敵を作るタイプにも思えない。
だから、ええと。
「大丈夫。苦しませたりしない。一発で頭を撃ち抜く。約束する」
ふざけんなだ。ふと閃いてナイフの刃を背後に向ける。これでクソやろうの顔を拝んでやる。
「私の顔を見たいの、レイセン」
頼りない星明かりの波長を増幅させる。
見えた。
息が止まった。
「私の顔を見たの、レイセン」
「……」
「レイセン。そこには何が映ってる? そこには誰が映っている? ねえ、レイセン」
それは、兎だった。それはわかっていた。薄っすらとだが奴の波長を感じる。玉兎の波長だった。
それで……その兎はひどくやつれていて、おまけに左肩から先がなかった。
耳はしわくちゃでひどいもんだった。
残った右肩には大仰なライフル銃をかけている。
それで。
それで……。
「それで、私はどんな顔をしていた?」
……やっぱりこれは、夢の中なのか? あの忌々しい嵐の続きなんじゃないのか?
「あなたの考えている事はわかる。そして、残念だけれど、これは夢でも嵐の出来事でもない。これは、現実」
ありえない。
「それが、ありえる」
ありえない!
だって、だってそいつは、その兎は、そいつの顔は!
それは私の顔じゃないか!
「そう。私はレイセン。鈴仙・優曇華院・因幡。もっともあなたはまだその名前を知らないだろうけど」
奴の像が震える。違う、ナイフを持つ私の手が震えてるんだ。
ダメだ、落ち着け、これは何かの間違い……いや、策略、幻術だ。顔を変えるなんてチャチな技だ。そうに決まってる。それを否定する方法なんてない。ありえない!
「矛盾、否定、欺瞞……あなたの波長が聞こえる。嫌な波長。自分の波長を聞くのって、こんなにも苛々するんだ」
ありえない、ありえない、ありえない……!
「はあ……ありえないなんてことはありえない。忘れたの? ここはそういう場所。月の民すら遺棄した第壱夢冥深路。夢と現、過去と未来、あらゆる可能性が交錯する地。黒糖から聞かなかった?」
聞いてはいた。聞いてはいたけど、それは……でもそれは……。
「それは『嵐』の話だけかと思った? たかだかその程度で月の民が手を引くと思っていた?」
でも……じゃあ……じゃあ、なんで……?
「なんで。なんで私がそこにいるの? ええ、そう。交換条件にしましょう、レイセン。私はもう疲れてる。もちろんあなたがその気ならこのまま何億時間もこうしていてもいい。でもそれはお互いに損。だからこうしましょう。私は全てを話す。だから、あなたは私に殺される」
黒糖のナイフを握り込む。切先を指先に押し付ける。痛み。そして赤色。いっそ耳を塞ぎたい。でも同時に、奴の言葉を一つだって聞き逃したくないと思っている私がいる。
「……レイセン。あなたも見たよね? 嵐の中、いつか自分の身に降りかかる出来事。それは夢だけど、夢なんかじゃない。きっとあなたの身に起きる。そしてきっとあなたの心を滅茶苦茶にする。覚えているでしょう? 兎達を効率的に殺すために進化した自律兵器達。私の左肩から先も奴らに喰われた。つまり、あなたの左肩が」
「…………」
「私は私の命を守ろうとして、何百という兎を殺した。つまり、あなたはこれからたった一つの自分の命を守るために、何百という兎を自分から地獄に差し出すことになる」
「…………」
「あなたの心は壊れる。あなたは戦場から逃げ出す。まだ若い頃、訳もわからず檻の中から逃げ出した時のように」
「…………」
「けれど今度は逃げられない。一度戦争にレイプされた心はどこまで逃げても癒える事はない。むしろ逃げれば逃げるだけ、その傷口は腐った血と膿を垂れ流し続ける」
「…………」
「そしてあなたは思う。こんな生は終わりにしたいと」
「…………」
「でもね、考えてみて、レイセン。いつだって目の前の苦しみから目を背け、耳を塞ぎ、逃げ出す事しかしてこなかった私たち。それがどうして自分を殺すなんて恐ろしい事ができるのかな」
「…………」
「私もそう。私は私を殺せない。でも、あなたなら殺せる。そういう事。長くなってごめんね。けれど要点はとてもシンプルなの。私はあなたを殺す。この過去と未来と今とがないまぜになった地で、最初に檻から逃げ出そうとした馬鹿な私を殺す。そうすればきっと全部終わりになる。毎夜毎夜戦場の夢を見なくてよくなる。燃え盛るトーチカの中でのたうつ兎達の夢を。自分の手で同胞をドローンの餌に捧げる夢を。助けようとした兎が腕の中で死んだ行く夢を。背負った彼女の脳みそが私の口の中に入り込む夢を。もう見なくてよくなるの。だって過去の私が死ねば、今の私もいなくなるものね」
……無茶苦茶だ。無茶苦茶だけど、どこか理解できてしまう自分もいた。
だって他ならぬ私自身の事。そう、このクソみたいな演説をぶちまけているのは間違いなく私だ。何となく、そんな確信がある。
だって私はきっと私の事を殺せないから。あいつが言うような悲劇、嵐の中で見たような悲劇が私の心をぐしゃぐしゃに叩き壊してしまっても、夜眠るごとにその傷が全身を苛んでも、それでもやっぱり、私は私を殺せないと思う。
怖いから。
黒糖とは違って私は、絶対に自分で自分を殺したりできないと思うから。
だからあの兎はきっと私なんだろう。どうしようもなく臆病で、情けなくて、それでいて行動力だけはある。檻を飛び出して月から地球に降りようとするくらい。時を飛び超えて未来から過去の自分を殺しにくるくらい。
「……わかった」
「ありがとう、私」
近づいてくる、足音。わかってる。わかってるって事はわかってる。相手は私だ。それも、クソみたいな戦争を何年か何十年か(下手したらもっと?)経験した私。
でも結局これしか策はないと思う。ナイフと銃じゃ、距離を詰めるしかない。向こうから詰めてもらうしかない。
足音が止まる。
「さあ、出て来て。これ以上行くとこっちが危ない」
まあそりゃそうか。
「武器なんて持ってない。あなたも私なら知ってるでしょ! ここに来る時、武器は取り上げられた!」
「……だから?」
「銃の前に身を晒すなんて怖くてできない! 私の見えないように撃ってよ! わかるでしょ! 私なんだから!」
かなりギリギリの事を言ってる自覚はある。けど他にどうしろと?
「……これ以上近づく気はない。それだけの敵意の波長、私が気が付かないと思ってる?」
やっぱり。でもよかった。これでうかうか近づいてくるんなら、そんなのは大間抜けだ。他の誰かならともかく、自分がそんな醜態晒すとこなんて見たくない。
まあ、でも……どちらかと言えば、私は結構間抜けな方だと思う。
「ありがとう、私」
これは賭けだった。確かに私が私を警戒するのは避けられない。敵意の波長は隠したりできるものじゃないから。
それでもあの私は踏み込みすぎた。確かに丸腰の相手なら十分な距離がまだ、ある。
でも。
「……っ!」
その時多分、私の一生分の集中力と幸運を使ったと思う。瞬間身を乗り出して投げたナイフは「私」の右腕を掠めて赤い線を引いた。それで十分だった。向こうは片腕。あの大仰なライフルの構えが逸れる。遅れて発射された弾丸は私の頬を掠めて消えた。
「あああああああっ!」
「嘘つきっ!」
「うるさいっ! この自分殺しっ!」
後はそう、取っ組み合い。体格差は少し向こうのほうが有利らしい。でも、腕一本分のアドバンテージは大きかった。
強引に組み伏せ、ライフルを弾き飛ばす。それからまだ足元に転がっていた黒糖のナイフを拾い上げ、自分の首元に突きつけた。つまり、未来の自分の爛れた首元に。
「……ああ、ちくしょう」
「本当に私だ」
「だから、そう言ってる」
それで。
それで、ええと。
まず私の勝算について話そう。
勝算は合った。まあ黒糖のおかげとも言えた。
未来の私の虚を突いたナイフは、あいつが黒糖を殺したせいで私の手元に渡ったものだ。問題は、未来の私がその事を知ってるのかどうかだった。これは見かけ以上に厄介な問題だ。
タイムパラドクス。
今、未来の私は(向こうから見て)過去の私を殺そうとした。その結果、黒糖は巻き込まれて殺された。
裏を返せば、もし未来の私がこなければ黒糖も死ぬ事はなかった。結果として私があのナイフを手にすることもなかった。
問題は「未来の私」の過去(ややこしい)で黒糖はどうなっていたのかだ。
もし未来の私の過去でも同じように黒糖が死んでいたなら、奴はナイフの存在も知っているはずだ。しかしそうなると、奴は未来の自分にかつて襲撃された事があり、それでいて生き延びている事になる。そんな経験がありながらなお過去の自分を殺そうとするだろうか(絶対に失敗するとわかっているのに)。
或いは、未来の私の過去では黒糖は死んでいないのかもしれない。だから黒糖のナイフについても知らず、ただ「脱兎屋」に丸腰にされた記憶だけがある。
当然、過去の私(この私のこと)も丸腰だと思っている。
結果としてはおそらく後者(未来の私の過去では黒糖は死んでいないし、たぶん更なる未来の自分の襲撃も経験してない)だったらしい。
まあそういう事。それで私は油断した。まあ私だからな。肝心な所の注意力が足りてないと訓練兵時代もよく言われた。
それで。
それで……その結果として、私は私を組み敷いている。火傷痕のある首筋にサバイバルナイフの切先を突きつけている。
私はどうしたらいい?
「……あのさ」
「……」
「仮にあんたを殺した場合、未来の私もやっぱり私に殺されちゃうのかな」
「……さあ」
「あんたの言うみたいに、私の心はバラバラになって、眠るたびに戦場の悪夢を見て、やっぱり私を殺しにいく」
「……」
「あ、でもその時は私、黒糖のナイフのことを知ってるわ。あんたと違って騙されないでしょうね」
「……じゃあ、あなたなら私を殺せる」
「あー、まあ……そういう事になるか」
「きっとそうなる」
「そうなのかな。そもそもさ、そもそも私を殺せばあんたも消えるって、それ本当なの?」
「本当よ」
「どうしてそう言えるの」
「……そうじゃなきゃ……そうじゃなきゃ私は、他にどうしたらいいわけ?」
それはその通りだった。
今、私が生殺与奪権を握っているのは悲しいくらい私に違いなかった。
基本的に私はそういう奴なんだ。こいつが言ってた通りだ。いつだって目の前の苦しみから目を背け、耳を塞ぎ、逃げ出す事しかしてこなかった私。それが私だ。
「……ねえ」
「早く殺してしまえば。元々私はそれが欲しい」
「うるさい! ねえ、私も見たよ。嵐の中で見た! あんたの心をぐちゃぐちゃにレイプしたものを見た!」
「……ふん」
「でも……今まで忘れてたんだけど……他に妙なものも見た」
その時。
その一瞬、確かに私の瞳に違う色が宿った。違う波長を感じた。それは、それは例えるなら、小さな子供が大切にしている宝箱を親に見つかってしまったみたいな……そんな、怯えと苛立ち……それと少しだけ、愉悦感……?
「あれは地上でしょ? 私はこれから地球に降りる。そこでの生活なんでしょ? まあ地上の穢れた臭いと六倍の重力は最低だったけど……それでも……あれは何なの? あいつは誰なの? 私は何をしていたの? ねえ、あの兎は……」
「期待しない方がいい」
「え?」
「期待しない方がいい、と言ったの」
「それは……聞こえたけど」
「玉兎は長く生きる。でも、永遠の前ではそれも一瞬の明滅に過ぎない。私たちの時間は折り合わない。楽しい夢はすぐに醒める。後には辛い現実だけが待ってる」
「待ってよ。それ、何の話をしてるの。あの兎の話? それとも地上の話!?」
「全てよ」
「全てって?!」
「未来は変わらない」
「嘘! 嘘だ! あんたが証明して見せたんでしょ!? あんたは黒糖を殺した! 変な奴だったけど、殺される理由はなかった! あいつは言ってた。嵐の中ではいつも自殺する夢を見るって。あいつは勇気のある兎だった。でも、あんたに殺された! 未来が変わったんじゃないか!」
「……そう。あいつ、そんな夢を見てたんだ」
「……聞いてなかったの?」
「私の時は、嵐は来なかった」
そうか。
それでようやく合点が入った。
私は黒糖を殺せない。
例えこの心がどんなに壊れても、魂が堕落しきってしまっても、それでもあんな寂しげな顔で自分の死を語る兎をどうして殺せたりするもんか!
でも……この私は知らないんだ。「運良く」嵐に見舞われず、結果として黒糖の心の傷を見ることもなかった。
もちろんあいつに何があったのかは知らない。でも、その傷の有無を知ってるかどうかは大違いだと思う。
「……ねえ。わかってんでしょ。私も私の事は殺せないよ」
「そう」
「でも、あんたの事は許せない」
「ああそう」
「私はどうしたらいいのよ……」
「……さあ」
「……責任取れよ……私より大人なんだろ……」
「……」
それで、まあ。
最悪の気分だった事は間違いない。
●
たぶん、旅をしていくんだと思う。
結局どうなったのか?
現実はシンプルだ。私は私を殺せなかった。お互いに。ただし許すこともできなかったし、信頼関係を築くこともついにできなかった。同じ自分なのに。
それで仕方なく、私は私の首筋にナイフを突きつけ続けていた。何時間か、何十時間か、多分実際のとこそんなにはかかってないと思う。黒糖の言った通りだった。
「門」が開いた。あの名前のない通路の地球側の出口。外見について言えば、まあ門と呼ぶのはかなり無理のある印象を受けたけど、あの最低な悪夢体験を「嵐」とか呼ぶような連中なのでさもありなんだろう。
「……あんたはどうするの。まさか一緒に地球に来るなんて言わないよね」
「それは杞憂」
「どういう意味」
「過去と未来が交わるのはこの第壱夢冥深路の中だけだから。例え二人揃って門を潜ったとしても、私は私の、あなたはあなたの時間に戻るだけ」
「あ、そう……」
「そしてこの交錯も、気の遠くなるような複雑な計算を経てようやく導き出した侵入点から入った結果。この私と、このあなた、再び交錯する確率は絶無。ちょうどこの砂漠の砂粒すべてからランダムに二つ目印をつけて、それが偶然隣り合っている可能性と同じくらい」
そういうものらしかった。嘘の波長は無かった。明らかにあいつは毒気を抜かれていた、私に。でもそれは……もちろん、あの私の傷が癒えたとかそういうんじゃ無いだろう。
ただ諦めただけ。それだけ。
これが他人ならざまあみろだった。黒糖を殺した奴だ。一生苦しんでればいいんだ。
けれど私でもある。つまり、あいつとそっくり同じ体験をしたらたぶん、そっくり同じ行動をしでかした自信がある。
だからまあ、このややこしい顛末だけでも私は絶対に過去の自分を殺してみようなんて思わなくなった。そういう事はしない方がいい、できれば。
「あ、ねえ……ところで一つ。あの地上の兎とはどうやったら会えるかな」
「なに?」
「いや、ほら、私は未来を全部変える気でいるから。あんたみたいになりたくないし。でもさ、そうするとあの兎と会う未来も変わっちゃうかもでしょ。それは嫌なの」
「なぜ? 会ってもいないのに何がわかるんだか」
「えー、だってさぁ……うーん……言っちゃうと、あいつの話を出した時のあんたからすごく幸せな波長を感じたから……」
それはやっぱり言わない方が良かったかな?
そんな事を言って私が素直に教えるとは思えないし。でも、言わなきゃ言わないで教えないだろうし。ああもうめんどくさい奴……でも私なんだよな……。
「幻想郷」
「え?」
「そういう場所がある。そこを探したらいい。まあどうせ、いやでも流れつくだろうけど」
「あ……うん。ありがとう」
それが私たちの交わした最後の言葉だった。
そのまま私は黒糖の亡骸と共に門を潜った。彼女をこの寂しい場所に置いていくなんてできなかったから。
もっともそのおかげで大変な目に遭うことになったんだけど(考えてみて欲しい。地球側の担当者からすれば、月からの逃亡者が案内人の死体を抱えて現れた状態だ)。まあ、後悔はしていない。この時点で既にあいつとは違う旅だ。何かが変わるかもしれないし、何も変わらないかもしれない。
先は長い。
そう考えると怖くなってきた