秋の風は、いよいよ冷たさを増して乾いた空気を運ぶ。
絶え間なく響いていた虫の声も、気付けばもう聞こえない。
碧天に囀る鳥たちも、今は栖で朝を待つ。
静寂の中、つんざくような獣の叫びが時折遠くで木霊する。
空際に木々の朧げな輪郭が浮かぶ闇の先、山の神社の一室に明かりが灯る。
文机の上の蝋燭の火が、部屋の主の奇妙な影を長く伸ばす。
彼女の目前の白いままの頁が、揺らめく橙色に照らされている。
傍らには石の仮面が、ひととき役目から離れたようにそっと在る。
石の女神──磐永阿梨夜は、その夜も日誌を記そうとしていた。
──今日は、何を書き留めておくべきか。
そんな思案が、聞きなれた足音によってふと途切れる。
床板を叩く軽やかな音が瞬く間に迫り、視界の端でがらりと引き戸が開く。
「──阿梨夜!」
押しかけてきたのは案の定、彼女の同居人──ユイマンだった。
「軟膏?」
「ええ。煮出した獣の脂に、薬草なんかを混ぜて作るの」
いつもであれば、机に向かう阿梨夜のそばで何をするでもなく寝転げているユイマンだが、
今はその両手で包みこむように土器製の小鉢を抱えている。
ささやかな縄目の文様で飾られたその器は、麓の民たちが日々の暮らしに使っているものだ。
「故郷では、狩人たちがこれをよく古傷に塗っていてね」
ユイマンの視線が、小鉢に落ちる。
「阿梨夜にも使ってもらえるかな、って思って」
古傷と聞いて、阿梨夜は思わず自らの左目のそばに手を添える。
普段は石の仮面で覆われたその場所には、古い火傷の痕が広がっていた。
「この傷のことなら、もう痛みはないと──」
「それでも、この季節はどうしたってひきつれるでしょう?」
「……」
阿梨夜は口を閉ざし、わずかに視線を逸らす。
図星を突かれた時の彼女は、いつもこうだ。
その様子を確かめたユイマンは、くすりと笑って彼女の隣に腰を下ろす。
木で作られた簡素な蓋を開け、肩を寄せるようにふたり、小鉢の中身を覗き込む。
蝋のように白く固まった脂には、ほんのりと草の青みが滲んでいた。
この土地の植物は、ユイマンにとっては見知らぬものばかりだったが──
麓の民たちからも知恵を借りて、どうにか似たような効能の薬草を揃えることが出来た。
「少し、変わった香りがするわね」
「そう?」
阿梨夜の言葉に、ユイマンは軟膏の香りを確かめるように深く息を吸う。
「美味しそうではあるかもね」
ユイマンは悪戯っぽく微笑む。
狩人の国で育った彼女にとっては、これもさして珍しいものではない。
小鉢からふわりと立ち上る、獣の匂いと薬草の匂いが混じった独特の香り。
しかし、それは不思議と阿梨夜を嫌な気分にはさせなかった。
「……ありがとう、ユイマン」
ユイマンの笑みに向き合うと、阿梨夜もまた口元を緩ませる。
「大切に、使わせてもらうわ」
そう言って、阿梨夜はユイマンの手にある小鉢を受け取ろうとする。
「……ねぇっ」
不意に、ユイマンの声が弾んだ。
小鉢を持つ手を、さっと身体の横へと引っ込める。
虚を突かれたようにまばたく阿梨夜を、にやっと笑って見上げる。
「これ、私が塗ってあげようか?」
「えっ──」
阿梨夜の声が、わずかに強張る。
「大丈夫よ。それくらい、自分で出来るわ」
「えー。でもその火傷、背中の方まであるでしょ?」
言い終わらぬうちにユイマンは体を傾け、あちこちから骨のようなものの突き出た阿梨夜の背を伺う。
翼や尾などの形をとりながらも奇妙な位置から生えるそれらは、彼女自身の骨ではない。
石の女神の御体に、それらもまた石と化して封じられた──太古の生命の記憶そのものだ。
ひとしきりその背の観察を終えたユイマンは、勢いよく身を起こすと阿梨夜の顔へと視線を戻す。
「絶対塗りづらいじゃん」
あまりにも素朴な感想だった。
「……そうね」
再び視線を泳がせながらも、阿梨夜は観念したように相槌を打つ。
「じゃあ、お願いしようかしら」
ぱぁっと、ユイマンの顔が明るくなった。
「やった! ……じゃないや。うん! 任せて!」
「──ふっ」
──本当に、変わった娘だな。
こんな傷に薬を塗るだけのこと、別に楽しいものでもないだろうに。
そんなことを思いながらも、阿梨夜は自分でも気付かぬ内に小さく鼻を鳴らしていた。
小鉢の中の脂をいくらか匙で削り、掌で挟むように閉じ込める。
徐々に柔らかくなってきたそれを指先で掬うと、彼女の目尻に手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、阿梨夜の瞼がぴくりと動いた。
秋空の下で冷ました軟膏を温めるには、もう少し時間が必要だったのかもしれない。
「ごめんね、まだ冷たかった?」
「……そうじゃないわ」
「そっか」
阿梨夜の返事を聞いて、その目尻に置いた軟膏をゆっくりと塗り広げ始める。
半ば固まったままだった獣の脂が、ふたりの熱を受けてじんわりと溶けだしていく。
(……こうやって触るのって、そう言えば初めてだな)
彼女が素顔を見せてくれるようになって、どれくらいになるだろうか。
人前では決して外すことのない、石の仮面の向こう側。
今は蝋燭が横から照らすその場所に、丁寧に指を滑らせながら、ユイマンは不思議な充足を感じていた。
(貴方は、今──どんな気持ちなのかな)
この時間が、貴方にとっても安らかなものであってくれたなら──
そう、願わずにはいられない。
ふと視線を動かせば、彼女の赤い瞳もこちらを見つめていた。
仄かに暗い、血のような赤に私が映る。
残りの軟膏を塗る間、気付けばふたりはじっと見交わし続けていた。
途中でもう一度小鉢から軟膏を継ぎ足して、ようやく額の方まで塗り終わる。
肩を引いて彼女の顔を見れば、蝋燭の光が静かに傷痕から照り返す。
……少し多めに塗ってしまったような気もするが、今の乾燥した季節だ。これくらいあってもいいだろう。
「はい! 次は身体ね」
「……背中だけでいいからね?」
阿梨夜が胸元の釦を外していくと、そこからも火傷が広がっているのが見えた。
ユイマンが咄嗟に視線を逸らす間にも、彼女は器用に背中の留め具も外していく。
「……どうしたの?」
全ての留め具を外し顔を上げた阿梨夜は、ユイマンが見慣れぬ反応をしていることに気付いた。
「いや、なんでもない!」
「そう……?」
つい、声を張り上げてしまった。
彼女の身体を見るのは、これが初めてのことではない。
時々なら、水浴びだって共にした。
何をそんなに気まずく思うのか、ユイマン自身にも説明は付かなかった。
怪訝な顔をしながらも、阿梨夜は腕に重心を預けて身体の向きを変える。
未だ胸が早鐘を打ち続けるユイマンにすっかり背を向けると、阿梨夜は上体をゆっくりとはだけていく。
無防備にさらけ出した背中には、皮膚から突き出た石骨の間を走るように火傷が広がっている。
火の色に照らしだされたその傷痕は、記憶にあるよりずっと痛々しいものに見えた。
「……」
気付けば、軟膏を取ることもせぬまま、ユイマンはそっと阿梨夜の背に触れていた。
「……ユイマン?」
先ほどまでとは違う質感を背に、阿梨夜は前を向いたままその名を呼ぶ。
「あ……」
我に返ったユイマンが、わずかに手を引く。
「ごめん、なんでもないの」
「ただ──」
「痛かっただろうな、って」
いつかの彼女が、聞かせてくれた。
──この傷は、高天原から来た男に焼かれたものだと。
阿梨夜の力を羨む天の神々の誘いを拒絶した結果、逆上した使者に火を放たれたのだと。
「……」
「もう、大丈夫よ」
傷痕の話になると、彼女はいつもこう言う。
もう、痛くない。もう、大丈夫。
けど、私は──
「私は……」
今度は、確かな意思で彼女に触れる。
未だ赤く色づく、肌を波のように歪める残痕に。
「貴方が、こんな目に合ったことが……悲しい」
「……」
「どうして……」
その先にどんな言葉を続けたかったのかは、阿梨夜にも分からなかった。
阿梨夜にとってはずっと、この傷痕はただ自分だけが背負うものだった。
天に逆らい身を焼かれ、報復のように神を地に堕とした彼女を親兄弟ですら腫れ物として扱う。
誰かがこの傷を悼むことも、悲しむことも──有りうることとすら考えてこなかった。
「ごめん──薬、続き塗るねっ」
束の間の沈黙を破るように、ユイマンは明るく切り出す。
「ずっと裸じゃ、阿梨夜だって寒いもんね」
「……」
再び小鉢へと手を伸ばすその気配を、阿梨夜は黙って受け止めていた。
胸の内に生じた戸惑いを、うまく飲み込めないままで。
四季の巡りも意味をなさない、深く、深くの暗い場所──
地下に広がる伽藍洞に、忘れられたように佇む神社の最奥。
何重にも注連縄の張り巡らされた部屋の中央に、磐永阿梨夜は鎮座する。
その後ろ手は、網目も分からぬほどに緻密に組まれた不可思議な紐で縛られている。
本来であれば石の女神を祀るための神聖な部屋は、今は主を捕らえる牢と化していた。
「妙な匂いがすると思ったら……」
扇でゆらりと口元を隠してそれを見下ろすのは、「管理者」を名乗る高天原の女だ。
管理者は一足踏み込み、殊さら慇懃に虜囚へと尋ねる。
「阿梨夜様、お身体に何かお塗りになっていますか?」
「……」
拘束されたままの阿梨夜は目を閉じる。
答えるつもりはない、と言わんばかりに。
鼻息をひとつ吹くと、女は扇を閉じる。
身をかがめて顔を覗き込めば、左目に被さる火傷の痕が何やら艶めいていることに気付く。
小さな手巾を取り出し傷をそっと拭うと、阿梨夜は避けるように顔を背ける。
白い布地に残った染みを見て、女は思わず眉をひそめた。
それは、神の身体からは決して滲むはずのないもの──
「脂、ですか」
それも恐らくは、獣の死骸から切り出したものだろう。
その汚れに触れてしまわぬよう、慎重な手つきで手巾をたたみ直す。
足元の阿梨夜の様子を伺えば、彼女は未だ固く目を閉ざして顔を背けたままだ。
──恒久不変の、石の女神。
「穢れ」の影響を受けないことは知っていたが、だからと言ってこんなものを──
「薬のつもりでしたら、私がまともな──」
「いらない」
よく通る声が、短く女の言葉を遮る。
「高天原からは、何も受け取るつもりはない」
顔を背けたまま、阿梨夜は女を見上げる。
その眼差しは、今にも女を射殺さんばかりのものだった。
「……はぁ」
──ずっとこの調子だ。
女は溜息と共に、目を伏せる。
彼女の石の力は、都の安寧に必要なものだと高官たちは言うが──
「不変」の神を、いったい誰が動かせるというのだろう。
出口の見えない思考に、女は小さくかぶりを振って区切りを付ける。
そして阿梨夜の視線を振り切るように、後ろに控えていた兎たちへと向き直る。
「貴方たち」
やわらかな声で、女は言う。
「このお方を洗って差し上げてね」
柔和な笑みと共にそれだけを言い残すと、兎のひとりに脂の付いた手巾を押し付け、女はその場を後にした。
「……」
「ええっと……」
後に残されたのは、拘束されたままの石の女神と、袖の余る軍服に身を包んだふたりの兎だけ。
玉兎と呼ばれる、穢れなき月の獣。
どうやら今は、高天原の連中にいいように使われているらしい。
──そういえばあいつら、都を月に移す計画だとか言っていたっけ。
「洗うって言ったって……どうする?」
「たしか、裏手に泉があったような……」
ちらりと、ふたりは石の女神の様子を伺う。
手足を縛られたまま、背筋を伸ばして腰を据え、全てを拒絶するように両目を閉ざした彼女。
泉まで来て欲しいと言ったって、大人しく立ち上がってくれるとは思えない。
「そもそも、この紐って解いていいのかな……?」
「……駄目じゃない?」
微動だにしない阿梨夜の周りを、ふたりはぐるぐると歩き回る。
「……」「……」
歩き回ったところで、何も状況は変わらないのだけれども。
「……こっちまで、水を汲んでくるしかないかな」
「うーん……」
兎のひとりが、すんすんと鼻を鳴らす。
「顔だけじゃないよね、きっと」
「……いっぱい、汲んでこないとだめかなぁ」
どこか幼さの残る兎たちの会話を、阿梨夜は目を閉じたまま聞き流す。
慣れたはずの軟膏の香りが、今はやけに鮮明に感じられる。
──いつかの屈託ない笑顔が、気付けばその瞼の裏に浮かんでいた。
絶え間なく響いていた虫の声も、気付けばもう聞こえない。
碧天に囀る鳥たちも、今は栖で朝を待つ。
静寂の中、つんざくような獣の叫びが時折遠くで木霊する。
空際に木々の朧げな輪郭が浮かぶ闇の先、山の神社の一室に明かりが灯る。
文机の上の蝋燭の火が、部屋の主の奇妙な影を長く伸ばす。
彼女の目前の白いままの頁が、揺らめく橙色に照らされている。
傍らには石の仮面が、ひととき役目から離れたようにそっと在る。
石の女神──磐永阿梨夜は、その夜も日誌を記そうとしていた。
──今日は、何を書き留めておくべきか。
そんな思案が、聞きなれた足音によってふと途切れる。
床板を叩く軽やかな音が瞬く間に迫り、視界の端でがらりと引き戸が開く。
「──阿梨夜!」
押しかけてきたのは案の定、彼女の同居人──ユイマンだった。
「軟膏?」
「ええ。煮出した獣の脂に、薬草なんかを混ぜて作るの」
いつもであれば、机に向かう阿梨夜のそばで何をするでもなく寝転げているユイマンだが、
今はその両手で包みこむように土器製の小鉢を抱えている。
ささやかな縄目の文様で飾られたその器は、麓の民たちが日々の暮らしに使っているものだ。
「故郷では、狩人たちがこれをよく古傷に塗っていてね」
ユイマンの視線が、小鉢に落ちる。
「阿梨夜にも使ってもらえるかな、って思って」
古傷と聞いて、阿梨夜は思わず自らの左目のそばに手を添える。
普段は石の仮面で覆われたその場所には、古い火傷の痕が広がっていた。
「この傷のことなら、もう痛みはないと──」
「それでも、この季節はどうしたってひきつれるでしょう?」
「……」
阿梨夜は口を閉ざし、わずかに視線を逸らす。
図星を突かれた時の彼女は、いつもこうだ。
その様子を確かめたユイマンは、くすりと笑って彼女の隣に腰を下ろす。
木で作られた簡素な蓋を開け、肩を寄せるようにふたり、小鉢の中身を覗き込む。
蝋のように白く固まった脂には、ほんのりと草の青みが滲んでいた。
この土地の植物は、ユイマンにとっては見知らぬものばかりだったが──
麓の民たちからも知恵を借りて、どうにか似たような効能の薬草を揃えることが出来た。
「少し、変わった香りがするわね」
「そう?」
阿梨夜の言葉に、ユイマンは軟膏の香りを確かめるように深く息を吸う。
「美味しそうではあるかもね」
ユイマンは悪戯っぽく微笑む。
狩人の国で育った彼女にとっては、これもさして珍しいものではない。
小鉢からふわりと立ち上る、獣の匂いと薬草の匂いが混じった独特の香り。
しかし、それは不思議と阿梨夜を嫌な気分にはさせなかった。
「……ありがとう、ユイマン」
ユイマンの笑みに向き合うと、阿梨夜もまた口元を緩ませる。
「大切に、使わせてもらうわ」
そう言って、阿梨夜はユイマンの手にある小鉢を受け取ろうとする。
「……ねぇっ」
不意に、ユイマンの声が弾んだ。
小鉢を持つ手を、さっと身体の横へと引っ込める。
虚を突かれたようにまばたく阿梨夜を、にやっと笑って見上げる。
「これ、私が塗ってあげようか?」
「えっ──」
阿梨夜の声が、わずかに強張る。
「大丈夫よ。それくらい、自分で出来るわ」
「えー。でもその火傷、背中の方まであるでしょ?」
言い終わらぬうちにユイマンは体を傾け、あちこちから骨のようなものの突き出た阿梨夜の背を伺う。
翼や尾などの形をとりながらも奇妙な位置から生えるそれらは、彼女自身の骨ではない。
石の女神の御体に、それらもまた石と化して封じられた──太古の生命の記憶そのものだ。
ひとしきりその背の観察を終えたユイマンは、勢いよく身を起こすと阿梨夜の顔へと視線を戻す。
「絶対塗りづらいじゃん」
あまりにも素朴な感想だった。
「……そうね」
再び視線を泳がせながらも、阿梨夜は観念したように相槌を打つ。
「じゃあ、お願いしようかしら」
ぱぁっと、ユイマンの顔が明るくなった。
「やった! ……じゃないや。うん! 任せて!」
「──ふっ」
──本当に、変わった娘だな。
こんな傷に薬を塗るだけのこと、別に楽しいものでもないだろうに。
そんなことを思いながらも、阿梨夜は自分でも気付かぬ内に小さく鼻を鳴らしていた。
小鉢の中の脂をいくらか匙で削り、掌で挟むように閉じ込める。
徐々に柔らかくなってきたそれを指先で掬うと、彼女の目尻に手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、阿梨夜の瞼がぴくりと動いた。
秋空の下で冷ました軟膏を温めるには、もう少し時間が必要だったのかもしれない。
「ごめんね、まだ冷たかった?」
「……そうじゃないわ」
「そっか」
阿梨夜の返事を聞いて、その目尻に置いた軟膏をゆっくりと塗り広げ始める。
半ば固まったままだった獣の脂が、ふたりの熱を受けてじんわりと溶けだしていく。
(……こうやって触るのって、そう言えば初めてだな)
彼女が素顔を見せてくれるようになって、どれくらいになるだろうか。
人前では決して外すことのない、石の仮面の向こう側。
今は蝋燭が横から照らすその場所に、丁寧に指を滑らせながら、ユイマンは不思議な充足を感じていた。
(貴方は、今──どんな気持ちなのかな)
この時間が、貴方にとっても安らかなものであってくれたなら──
そう、願わずにはいられない。
ふと視線を動かせば、彼女の赤い瞳もこちらを見つめていた。
仄かに暗い、血のような赤に私が映る。
残りの軟膏を塗る間、気付けばふたりはじっと見交わし続けていた。
途中でもう一度小鉢から軟膏を継ぎ足して、ようやく額の方まで塗り終わる。
肩を引いて彼女の顔を見れば、蝋燭の光が静かに傷痕から照り返す。
……少し多めに塗ってしまったような気もするが、今の乾燥した季節だ。これくらいあってもいいだろう。
「はい! 次は身体ね」
「……背中だけでいいからね?」
阿梨夜が胸元の釦を外していくと、そこからも火傷が広がっているのが見えた。
ユイマンが咄嗟に視線を逸らす間にも、彼女は器用に背中の留め具も外していく。
「……どうしたの?」
全ての留め具を外し顔を上げた阿梨夜は、ユイマンが見慣れぬ反応をしていることに気付いた。
「いや、なんでもない!」
「そう……?」
つい、声を張り上げてしまった。
彼女の身体を見るのは、これが初めてのことではない。
時々なら、水浴びだって共にした。
何をそんなに気まずく思うのか、ユイマン自身にも説明は付かなかった。
怪訝な顔をしながらも、阿梨夜は腕に重心を預けて身体の向きを変える。
未だ胸が早鐘を打ち続けるユイマンにすっかり背を向けると、阿梨夜は上体をゆっくりとはだけていく。
無防備にさらけ出した背中には、皮膚から突き出た石骨の間を走るように火傷が広がっている。
火の色に照らしだされたその傷痕は、記憶にあるよりずっと痛々しいものに見えた。
「……」
気付けば、軟膏を取ることもせぬまま、ユイマンはそっと阿梨夜の背に触れていた。
「……ユイマン?」
先ほどまでとは違う質感を背に、阿梨夜は前を向いたままその名を呼ぶ。
「あ……」
我に返ったユイマンが、わずかに手を引く。
「ごめん、なんでもないの」
「ただ──」
「痛かっただろうな、って」
いつかの彼女が、聞かせてくれた。
──この傷は、高天原から来た男に焼かれたものだと。
阿梨夜の力を羨む天の神々の誘いを拒絶した結果、逆上した使者に火を放たれたのだと。
「……」
「もう、大丈夫よ」
傷痕の話になると、彼女はいつもこう言う。
もう、痛くない。もう、大丈夫。
けど、私は──
「私は……」
今度は、確かな意思で彼女に触れる。
未だ赤く色づく、肌を波のように歪める残痕に。
「貴方が、こんな目に合ったことが……悲しい」
「……」
「どうして……」
その先にどんな言葉を続けたかったのかは、阿梨夜にも分からなかった。
阿梨夜にとってはずっと、この傷痕はただ自分だけが背負うものだった。
天に逆らい身を焼かれ、報復のように神を地に堕とした彼女を親兄弟ですら腫れ物として扱う。
誰かがこの傷を悼むことも、悲しむことも──有りうることとすら考えてこなかった。
「ごめん──薬、続き塗るねっ」
束の間の沈黙を破るように、ユイマンは明るく切り出す。
「ずっと裸じゃ、阿梨夜だって寒いもんね」
「……」
再び小鉢へと手を伸ばすその気配を、阿梨夜は黙って受け止めていた。
胸の内に生じた戸惑いを、うまく飲み込めないままで。
四季の巡りも意味をなさない、深く、深くの暗い場所──
地下に広がる伽藍洞に、忘れられたように佇む神社の最奥。
何重にも注連縄の張り巡らされた部屋の中央に、磐永阿梨夜は鎮座する。
その後ろ手は、網目も分からぬほどに緻密に組まれた不可思議な紐で縛られている。
本来であれば石の女神を祀るための神聖な部屋は、今は主を捕らえる牢と化していた。
「妙な匂いがすると思ったら……」
扇でゆらりと口元を隠してそれを見下ろすのは、「管理者」を名乗る高天原の女だ。
管理者は一足踏み込み、殊さら慇懃に虜囚へと尋ねる。
「阿梨夜様、お身体に何かお塗りになっていますか?」
「……」
拘束されたままの阿梨夜は目を閉じる。
答えるつもりはない、と言わんばかりに。
鼻息をひとつ吹くと、女は扇を閉じる。
身をかがめて顔を覗き込めば、左目に被さる火傷の痕が何やら艶めいていることに気付く。
小さな手巾を取り出し傷をそっと拭うと、阿梨夜は避けるように顔を背ける。
白い布地に残った染みを見て、女は思わず眉をひそめた。
それは、神の身体からは決して滲むはずのないもの──
「脂、ですか」
それも恐らくは、獣の死骸から切り出したものだろう。
その汚れに触れてしまわぬよう、慎重な手つきで手巾をたたみ直す。
足元の阿梨夜の様子を伺えば、彼女は未だ固く目を閉ざして顔を背けたままだ。
──恒久不変の、石の女神。
「穢れ」の影響を受けないことは知っていたが、だからと言ってこんなものを──
「薬のつもりでしたら、私がまともな──」
「いらない」
よく通る声が、短く女の言葉を遮る。
「高天原からは、何も受け取るつもりはない」
顔を背けたまま、阿梨夜は女を見上げる。
その眼差しは、今にも女を射殺さんばかりのものだった。
「……はぁ」
──ずっとこの調子だ。
女は溜息と共に、目を伏せる。
彼女の石の力は、都の安寧に必要なものだと高官たちは言うが──
「不変」の神を、いったい誰が動かせるというのだろう。
出口の見えない思考に、女は小さくかぶりを振って区切りを付ける。
そして阿梨夜の視線を振り切るように、後ろに控えていた兎たちへと向き直る。
「貴方たち」
やわらかな声で、女は言う。
「このお方を洗って差し上げてね」
柔和な笑みと共にそれだけを言い残すと、兎のひとりに脂の付いた手巾を押し付け、女はその場を後にした。
「……」
「ええっと……」
後に残されたのは、拘束されたままの石の女神と、袖の余る軍服に身を包んだふたりの兎だけ。
玉兎と呼ばれる、穢れなき月の獣。
どうやら今は、高天原の連中にいいように使われているらしい。
──そういえばあいつら、都を月に移す計画だとか言っていたっけ。
「洗うって言ったって……どうする?」
「たしか、裏手に泉があったような……」
ちらりと、ふたりは石の女神の様子を伺う。
手足を縛られたまま、背筋を伸ばして腰を据え、全てを拒絶するように両目を閉ざした彼女。
泉まで来て欲しいと言ったって、大人しく立ち上がってくれるとは思えない。
「そもそも、この紐って解いていいのかな……?」
「……駄目じゃない?」
微動だにしない阿梨夜の周りを、ふたりはぐるぐると歩き回る。
「……」「……」
歩き回ったところで、何も状況は変わらないのだけれども。
「……こっちまで、水を汲んでくるしかないかな」
「うーん……」
兎のひとりが、すんすんと鼻を鳴らす。
「顔だけじゃないよね、きっと」
「……いっぱい、汲んでこないとだめかなぁ」
どこか幼さの残る兎たちの会話を、阿梨夜は目を閉じたまま聞き流す。
慣れたはずの軟膏の香りが、今はやけに鮮明に感じられる。
──いつかの屈託ない笑顔が、気付けばその瞼の裏に浮かんでいた。