紅茶の香りが溶けて、部屋全体に薄まっていく。そう、いつものダージリン。
私はテーブルの上にバスケットを置いた。本当はピクニック用に作ったものね。けれど一度も、その用途で使ったことはない。なんてかわいそうなバスケット。
中身はベーコンエピ、焼き具合もばっちり。若い狐の尻尾みたいな色。
……いや、この表現はもう使わないようにしよう。だって美味しくなさそうだもの。
テーブルの上には、他にも花瓶がそれとなく置かれている。
その一輪挿しの紫陽花を見ながら、彼女がそろそろ来てもおかしくない頃合いだと思った。
「……魔理沙」
私はその奇妙な三文字を呟いて、そしてまた、テーブルに腰掛け、窓の外の様子を伺うことにした。夏の木々は秋のように色鮮やかではないのに、その癖太陽の光を青葉が反射するから、晴れ晴れしく瞳に入り込む。
「……のどかね」
外の空は澄み渡るような青空で、雲はわたあめのようにゆらゆらと浮かんでいる。何も考えずに、その浮かぶこと自体が目的のようで、どこか羨ましかった。
「……あ」
しかし、雲はずっとこの窓のフレームの中には収まってくれず、どこか遠くへ、ここではないどこかへと消え去ってしまった。
そう、ここではないどこかへ。
「……」
私はただ、秒針が動く音を耳から脳へ運んでいた。
革職人が淡々と、靴の縁を糸で縫い進めるように。
何度窓を見つめたって、あの白黒魔法使いが箒から降りてくる姿は映し出されなかった。どれだけ思い描いても、その光景は頭の中だけで繰り広げられるばかりで、壊れた映写機を前に、ただかつてのフィルムを夢想し続けているようだった。
「そっか」
今日は、きっと、来ないのだろう。
私はベーコンエピを一つ手に取って、試しに齧ってみることにした。随分と冷めてしまっていて、しなしなね。塩っけの強い味、その、魔理沙好みの味付け。
「……明日は、来るかしら」
もう紅茶の香りはしない。
心臓がきゅっと締め付けられる。
薄暗くなった外の景色と、そこから差し込む夕方色の光、それと私。
時の流れはただ、私にじわりじわりと過ぎ去っていく感覚を与えるだけ与えて、後は知らんぷりなのだ。ひどい人。
私は後片付けを始めて、不要になった紅茶を流して、ベーコンエピを全て捨てた。
次の日も、私はパンを焼いた。
今度はフランスパン、ガーリックトースト。バターの量がコツだ。
いつものようにバスケットに入れて、テーブルの上に置く。紅茶だって、いつも通りの香り。 紫陽花だって、ご多分に漏れず。
それから、待つ。ダイニングチェアに腰掛けて、時計の音に身を任せた。
雲が影を落とす位置が移り変わり、部屋の中の影と光のバランスは、何度も移ろいでいく。何か、温度計を注意深く確かめて、適切な温度へと調整しようとしている感じに。
やがて滲むような色合いが、テーブルの上のガラス瓶に反射した。紫陽花だけが、藍色の花弁を見せびらかして、負けじと自分の姿を主張している。
「……来ないのね」
それは昨日と同じような色合い。茜色。
だから私は、紅茶とパンを捨てた。
それから次の日も、そのまた次の日も、同じような一日だった。
何も変わらない。世界が終わる時もこんななのかと思った。
私はパンと紅茶を捨てる手際が良くなった。久しぶりに得意なことが増えたのだ。それを上海に自慢すると、彼女は小首を傾げて見つめてきた。
そしてさらに、その次の日のこと。
この日、私はパンではなくチョコクッキーを焼いた。ココア風味で、中がしっとりとしたやつ。少し工夫を凝らして、真ん中にはほんの少しだけラム酒を垂らしたチョコチップを入れたやつ。魔理沙が「ちょっと大人の味だな」って笑ってくれそうな、そんな味。
飲み物もいつもの紅茶ではない。レモンミルクティー。レモンの爽やかさとミルクのまろやかさが混ざり合って、どこか懐かしいような、不思議と安心する味になった。魔理沙は、彼女は、いつも忙しなく動き回って、きっと疲れるだろうからと、少し前から何度か試していたレシピだ。
ポットに入れて、いつものように待つ。
じっと、座って、待った。
幾分強い風が吹いて、家が軋む。私はすこしだけ肩を震わせた。外では名も知らない鳥が、何かとてつもなく重大なことでも発表しているかのように、やたらと煩く騒いでいた。
しかし、それでも、魔理沙は来なかった。やっぱり、来なかった。
「……」
ずっと同じ姿勢だったからか、背中に重さが沈んでいる。鳥の声は、いつの間にか別のものに変わっていた。
「……はぁ」
あの、いつもの色合いが部屋を包み込む。全てを捨てようと立ち上がった、その時。窓から音がした。
「!」
コンコン、と。ノックの音。私はすぐにその方向へ顔を向ける。そこには、魔理沙がいた。
「よっ、開けてくれ、アリス」
「魔理沙!」
私はすぐに駆け寄って、窓を開けて、彼女を迎え入れた。この魔法使いは、どういう訳か絶対に玄関からは家に入らないのだ。
彼女は家に入るや否や、奥ゆかしそうに笑いながら帽子を脱いだ。込み上げてくる感情を抑えて、私は平坦な声で言う。
「魔理沙……何しに来たのよ」
「暇なんだぜ」
「もう……」
「お、クッキー、食うぜ」
「ちょっと、勝手に食べないでよ」
思わず声色が上がってしまうのを必死に堪える。魔理沙はクッキーを口に運び、咀嚼しながら椅子を引いて腰掛けた。
私はどんな言葉が出てくるだろうかと、手持ち無沙汰になった両手を組んだり解いたりして、その様子を克明に見つめていた。
「んむ、こりゃうまいぜ」
「……そ、そう……よかったわ」
難関魔法学校への入学試験を終えた直後みたいな心持ち。
「ほんとに美味いぜ、もっと食べていいか?」
彼女は私の返答も待たずに、もう次のクッキーに手を伸ばしていた。
「ふふ、構わないわよ」
懸命に頬張る彼女を見て、そして、少し見つめすぎていることに気が付いて、目線を逸らして、けれどまた、いつの間にか彼女のことを見ていて、だから、逸らした。
「アリスの家って、不思議と落ち着くんだよ」
「そ、そう?」
「お菓子もパンも美味いし」
「……ありがとう」
「きっと良いお嫁さんになるぜ」
「ばっ……馬鹿なこと、言わないで頂戴」
私は彼女に背を向けて、適当にその辺の本棚でも見ることにした。今顔を見られるのはまずいのだから。
「なぁ、クッキーこれだけ作ったんなら、きっと余るぜ。いくつか持って帰っていいか?」
「も、もう……あなたの為に作ったんじゃないのよ?」
「ごめんごめん」
「……し、仕方ないわね、良いわよ、持って行って」
「ありがとう、アリス!」
彼女は胸を締め付けるような笑顔をする。可愛らしい、太陽がそのまま降りてきたような、屈託のない笑顔。なのにそれを見る度に、やっぱり、苦しくなる。
「じゃ、そろそろ行くぜ、アリス」
「え、あ……も、もう行くの?」
魔理沙は椅子から立ち上がった。
「ちょっと野暮用があって」
「……霊夢の、とこ?」
「なんだか最近妙な妖怪が出るらしい。頭の上に足がついてるって」
「そう……」
「霊夢が退治するらしいから、見物にいくんだ」
「……分かったわ。気をつけてね」
「おう、じゃ、またな、アリス!」
彼女は手を振って、嵐のように出ていってしまった。いくつかのクッキーと、私を残して。
「……魔理沙」
私は残りのクッキーを一枚取って、齧ってみた。やっぱり、魔理沙好みの甘い味付け。あまり好みではない。
残りを捨てて、そしてようやく気づく。
「……あ、レモンミルク、飲んでくれなかった」
ミルクは全て流した。シンクの底へと、その液体は流れ込んでいく。誰の身体の中にも入らずに、その役目を果たすことなく、忘れ去られる。
それを私はじっと見ていた。
「……」
茜色の光、いつもの時間。この時間は嫌いだ。大抵は、独りだから。
「……魔理沙、明日は、来てくれるかしら」
「やめようかしら」
次の日の朝、ぽつりと、誰に言うでもなくその音を放った。音は誰かに届くこともなく、部屋の中で散っていく。いつか見た雲のように。
パンを焼いて、クッキーを作って、紅茶を入れて。彼女の好きなものを用意して、期待して、勝手に傷ついて、馬鹿みたい。
嫌気がさしたのだ。今までどこかで分かっていたこと。けれど、どうしてか止められなかったこと。何故だか分からないが、今日は……いや、今日からは、きっぱりとやめられる気がする。
「……作らない」
今日は何も作らない。
「作るもんですか」
私は握りこぶしを作って、居やしない誰かに向かって宣言してやった。いや、一応観客は一人だけいた。上海が小首を傾げて、私のことを不思議そうに見ている。
「……よし」
固く決心した。靴紐をいつもより時間をかけてきゅっと結んだみたいに。
ダイニングに向かい、花瓶の水の交換を行う。それから、普段なら、パンやお菓子を作る時間。
しかし私は厨房には向かわず、そのまま作業部屋へと足を運んだ。それはとてつもなく久しぶりだった。
扉を開けると、向こう側には作りかけの人形たちがいた。関節部分の制作から、きっぱり、この子たちは放置されていたのだ。
「待たせちゃって、ごめんなさい」
私は作業台の前に座った。この椅子は、ずっと座っているとちょっとお尻が痛くなる。だけどその痛みも、なんだか今の私には少しばかり愉しいものに思えた。
木を削って、やすりをかけて、それから絹の服の採寸を行う。
そろそろお昼過ぎ。それでもやめるものですか。
「……いい感じ」
集中していると時間の流れはあっという間だ。いつものように、一秒一秒を噛み締める必要なんてないのだから。
少し高い位置にあるこの部屋の窓から、いつもの気味悪い色が差し込む。ここら一帯のグラデーションが変わった。
ああ、もうこんな時間、そう思った矢先。
ガラスを叩く音がした。
「……え?」
心臓が、大きく跳ねる。そのまま飛び出して、私のことを突き破ってしまうんじゃないかと。
まさか、だって、二日連続で来るなんてこと、今まではなかったのだ。
私は慌てて部屋を飛び出し、ダイニングへ向かった。窓の外には、彼女がいた。箒にまたがったまま、にこにこと笑っている。
「魔理沙……!」
「よっ、アリス。今日も来たぜ」
急いで窓を開けると、彼女はひらりと、箒に乗ったまま飛び込んできた。
「昨日のクッキーの礼を言いに来たんだ。美味かったぜ、霊夢も絶賛してた」
「……そう、それは、よかったわ」
「今日はなんか美味いもんあるか? 腹減ったぜ」
「あ……ごめんなさい。今日は、何も用意していないの」
私の言葉に、彼女はきょとんと目を丸くして部屋を見渡した。忘れ物を探しに戻ってきたばかりの人みたいに、あるいは、私の言葉の意味が分からない異国人が、とりあえず同じ発音を心の中で繰り返しているみたいに。
「え? そりゃ、珍しいな。アリスが客人の為に何も用意してないだなんて」
「客人……」
魔理沙は、彼女は、疑問符を浮かべている様子だった。
「……今日は、人形作りに集中していたの。だから、時間がなくて」
「へぇ、そうだったのか。邪魔したな」
魔理沙は口を尖らせて、少し残念そうな顔を見せた。
「ちぇっ、アリスのパンでも食べられると思ったんだけどなぁ……また来るぜ」
「え……」
「じゃっ! アリス!」
「あ」
彼女は出ていった。呼び止める暇もなく、風のように。箒から降りて、家の中に足をつけることなく。
「……」
空っぽで、何もないダイニングが残された。
暫く立ち尽くしていて……ああ、窓を閉めないと……そう思って、ようやく身体が動く。
「……」
魔理沙はすぐにどこかへ行ってしまう。あの日の雲のように。
そんな彼女を、唯一、少しだけ繋ぎ止めておけるもの。それが、私の作る料理やお菓子だった。それはか細いというにはあまりにも曖昧だし、ほとんどの場合、役に立たず、何か利益を残すこともなく消えていく。だけど、それでも、私にとっては唯一彼女と繋がっていられる、蜘蛛の糸だったのだ。
「……馬鹿みたい」
私は、戸棚から小麦粉とバターを取り出した。砂糖と卵に、棚の奥から、とっておきの林檎も。
「ほんとに馬鹿……」
やったことも、今やってることも、そしてこれからやろうとしていることも。何もかもが馬鹿だった。
「……魔理沙」
不思議な三文字を呟いた。
明日は、彼女の好きなアップルパイを焼こう。シナモンをたっぷりと効かせた、甘いやつ。魔理沙好みの、しっとりとしたやつ。そうしたら、きっと、もっと長くいてくれるはずだから。今日よりは少しだけ、長くいてくれるはずだから。
私は明日の準備を始めた。茜色が完全に消えても、私はパイ生地をこね続けた。不確かだけれど、ありえるかもしれない明日の為に。
夜が明ける頃、私の厨房は甘い香りに満ちていた。焦がしバターと、じっくり煮詰めた林檎、そして鼻腔をくすぐるシナモンの香り。
昨日、ほとんど徹夜で焼き上げたアップルパイは、我ながら完璧な出来栄えだった。艶やかに光る格子模様のパイ生地の下で、黄金色のフィリングが顔を覗かせている。
それをダイニングテーブルの真ん中に、まるで祭壇に供物を捧げるかのように、静かに置いた。紅茶も、彼女が一番好きなセイロンのブレンドを。
ーーもう待たない。
そう心に決めていたはずなのに、気づけば私は、前と同じ椅子に座り、前と同じように窓の外を眺めていた。ただ、以前までと違うのは、胸のうちに宿る、確かな手応えと、焦がれるような期待。
だって、これだけのものを用意したのだから。
だって、これほどまでにあなたのことを考えているのだから。
だって、これ以上ないくらいあなたのことが……。
だって、だって、だって……。
……きっと、今日は来てくれる。
そして、昨日みたいに、すぐには帰らないはず。
時計の針が午後を指し、ゆっくりと時を刻む。心臓の音が、やけに大きく聞こえた。けれど――
来なかった。
その日は、いつもよりも、ずっと、ずっと、待った。茜色が消えて、月の灯りが差し込み始めても、それでも、待った。
でも、来なかった。
「……」
鈴虫の声が耳に入り込む。ひどく、腹が立つ。
「……諦めるもんか」
その言葉は消えてなくなった。だからもう一度言った。
「諦めるものですか」
何度も何度も言った、繰り返した、口を動かした。
勿論、誰にも届かない。私自身の心にも届いていないのかもしれない。それくらい、オートマティックでファンダメンタルに行われたからだ。
けれど、でも、何度も繰り返し言っているうちに、私はなんだか強くなった気がした。
上海は相変わらず、小首を傾げている。
その日からも毎日、私は同じパイを作り続けた。
きっと、これを食べてくれたら、魔理沙はもっと来てくれるようになる……そう思った。
次の日、来なかった。
その次の日、来なかった。
さらに、その次の日も。
けれど、それからまたさらに三日経った日。
ようやく、その瞬間が訪れた。空が茜色に染まるよりも、少しだけ早い時間。あの音がした。
ーーコンコン。
「アリス、いるかー?」
「魔理沙……!」
窓を開ける。
今日の彼女は箒から直ぐに降りた。テーブルの上にあるアップルパイが目に入ったようだった。
「すっげえ……! なんだこれ、めちゃくちゃ美味そうだぜ!」
キラキラと、子供のように瞳を輝かせる魔理沙。その表情を見ただけで、私の心は報われたような気がした。
「さ、座って。あなたの分よ」
「え、私のために作ってくれたのか!?」
「あ、えっと……その、た、たまたま、貴女が今日来るような気がして……そ、そう、たまたま、たまたまなのよ!」
「よく分からないけど、とにかくラッキーってことか! いただくぜ!」
彼女はパイを一口頬張るなり、感嘆の声を上げた。
「んまい! なんだこれ、今まで食ったどんなパイより美味いぜ! アリス、お前は天才だな!」
「……お口に合ったのなら、よかったわ」
私は自分の分の紅茶を、ただ指で温めながら、夢中でパイを頬張る彼女の姿を眺めていた。子供みたいに頬を丸めるその様子が、とても愛らしかった。
魔理沙は、 最近の魔法の研究のことや、人里で見つけた面白い道具のことなどを、楽しそうに話してくれた。その言葉の一つ一つが、私の中へと入り込んでいく。ウイルスのように悪さをする訳ではないが、しかし、場合によってはそれ以上にタチが悪いのかもしれないなんて、そんな馬鹿みたいなことを考えて。
ああ、彼女が、ここにいる。私の作ったものを、「美味い」と言って、食べてくれている。それだけで、よかった。
「いやー、食った食った。ごちそうさま、アリス。本当に最高だったぜ」
満足そうにお腹をさすって、魔理沙が笑う。
「ふふ……ありがとう、魔理沙」
けれど、その直後。
「さて、と。そろそろ行かないとな」
「あ……」
灯ったばかりの光が、急速に揺らぎ始めた。
「も、もう行くの? パイならまだたくさん……お腹いっぱいなら、そうね……えっと、あ、新しい魔法の本、手に入れたのよ……。だから、その話とか、しましょうよ」
「そうしたいとこなんだけど」
魔理沙は頭をかきながら、申し訳なさそうに言った。
「昨日、霊夢と約束しちまったんだ。新しい結界の実験、手伝うってな。アイツ遅れるとうるさいからなぁ」
……霊夢。
また、その言葉。また、その名前。
どれだけ心を尽くしても、どれだけ完璧なパイを焼いても、結局、私は彼女の一番にはなれない。彼女の足は、当たり前のように、別の場所へ向かうのだ。一度放たれた魔法が、もう術者の元へは戻らないのと同じくらい、当たり前に。
「……そう」
絞り出した声は、自分でも驚くほど、か細く震えていた。私は、この時ばかりは不出来なフルート奏者だった。
「おう! じゃあな、アリス! パイ、本当に美味かったぜ!」
彼女は手を振って、今にも去ろうとしている。ダイニングテーブルの上には、余ったアップルパイと、二つのティーカップが残されている。一つは空で、もう一つは、すっかり冷めてしまっていた。
彼女は来てくれた。そして、いつもより長く滞在してくれた。私の努力は、確かに実を結んだのだ。
けれど、だけれど、だがしかし。
「……そっか」
私は、理解した。彼女をここに繋ぎとめる為には、常に「最高」のもので歓待し続けなければならないのだ。今日、これだけのパイを焼いたのなら、次は、これ以上の何かを用意しなくては。さもなければ、きっと、ああ、彼女は私の元から離れてしまう。
「魔理沙! 待って!」
「ん?」
飛び立とうとする彼女を、私は既の所で呼び止めた。
そしてそれは、初めてのことだった。
「あ、あの……明日! ……いや、きっと準備とかも必要だし、献立もじっくり考えないとだから……ら、来週! 今からちょうど一週間後に、また、来てくれる?」
「ん、来週? 良いけど、何するんだ?」
「さ、最高の料理を用意してっ、待ってるからっ!」
「!」
変なことを言っていないだろうか。
いや、きっと変なことを言っている。
声は震えていないだろうか。
いや、きっとビブラートを効かせて震えている。
可笑しな声で上擦っていないだろうか。
いや、きっと馬鹿みたいに上擦っている。
「へへっ、それは嬉しいぜ。楽しみだ」
「あ……」
どうだっていい、彼女はグーサインを掲げて、ウインクをしてくれたのだから。
「じゃ、楽しみにしてるぜ!」
そしてその言葉を最後に、飛び立った。
「……ッ!」
やっぱり、後に残されたのは私と余り物だけ。夕日の色合いで、部屋が歪んだ。
「ふふ……ふふふ」
今の顔は、誰にも見せられない。きっと、酷い顔だ。
アップルパイの甘い香りが消え去った厨房で、私は夜明けの光を浴びながら、新たな献立を考えていた。
あれからずっと、眠らずにその事を考えている。あれだけのパイでも、彼女を引き留められたのは、ほんの僅かな時間。霊夢という存在が、あまりにも大きく、色濃く、彼女の世界の中心に居座っている。
「……このままじゃ、勝てない」
正攻法では、きっと、一生。ならば、どうする?
もっと衝撃的な、もっと鮮烈な何かで、彼女の記憶を上書きするしかない。彼女が博麗神社へ向かう足さえも、忘れさせてしまうほどの何かを。
「……アフタヌーンティー」
英国風の、三段重ねのティースタンド。
タンドリーチキンのサンドイッチ、スコーンにはクロテッドクリームと自家製の苺ジャムを添えて。上段には、ヴィクトリアスポンジケーキと、色とりどりのプティフールを。
……いや、まだ足りない。もっと、もっとだ。考えただけで眩暈がするほどの作業量。けれど、その完璧で華やかな光景を思い浮かべると、私の心は奇妙な高揚感に包まれた。
その日から、私の生活は一変した。
人形作りは完全に止まり、すべての時間を厨房で過ごした。
まるで精密な機械の部品を組み立てるように、レシピの工程を一つ一つ確認し、試作を繰り返す。私の魔法は、今や人形に命を吹き込むためではなく、クリームを完璧な固さに泡立て、スポンジを寸分の狂いもなく焼き上げるためだけに使われた。
「違うっ、泡立てが足りないわ!」
「そのジャムの糖度は0.5度高いっ!」
手伝わせる上海たちに、私はヒステリックな声を飛ばした。指先が震え、眠れない夜が続いた。目の下には隈ができ、思考は常に「魔理沙をどう驚かせるか」という一点に収束していく。
けれど、その時間は、楽しくて幸せで、かけがえのない時間だった。一秒一秒を噛み締めて感じる時間ではなくって、来るべきその、約束された日を感じると、胸が熱く、とろけてしまいそうだった。ちょうど、今熱したバターのように。
「魔理沙……魔理沙……」
上海は……小首を傾げることもなく、今はクリームの泡立てに集中している。
そして、約束の日の午後。
ダイニングテーブルの上には、私のすべてを注ぎ込んだ芸術品が鎮座していた。三段のティースタンドは、まるでおとぎ話の絵本から抜け出してきたかのように完璧だ。
下段には、黄金色に輝くタンドリーチキンと燻製パプリカのサンドイッチ。隠し味のマンゴーチャツネが、噛むたびに異国の香りを運んでくる。中段には、焼きたてのスコーンが湯気を立てて並び、その隣には、艶やかなルビー色の苺ジャムと、月光のように淡いクロテッドクリーム。どちらも、厳密に温度管理された銀の容器に収められていた。
そして上段には、ヴィクトリアスポンジの断面が芸術的に輝き、周囲を囲むのは、まるで宝石のようなプティフールたちだ。ラズベリーのムース、ピスタチオのマカロン、ブルーベリーのタルト。ひとつひとつに金箔があしらわれている。その頂点、皿の中央に鎮座するのは、ローズとベルガモットで香りづけした紅茶ゼリーの塔。ゼリーの中には花弁と金粉が舞い、テーブルに差す陽光を受けて、夢のように煌めいていた。
私は疲労困憊の体を引きずるように椅子に座り、その光景を眺める。
やりきった。
これ以上のものは、今の私には作れない。これを見れば、きっと、魔理沙は……。
ーードバッターンッ!
「え?」
いつもと違う音。
窓のノックではない、それどころか音の発生場所も違う。
それは玄関から聞こえた。いつもよりも、早い時間。
完成が間に合ったことに対する安堵と同時に、何か形容しがたい不安を覚えた。
「アリス! 大変だぜ!」
彼女の声が、玄関の方から聞こえる。
「うっ……こっちからだと箒乗ったままじゃ入れないな……。アリスー来てくれー!」
どういうことだろう。訳も分からず、私はダイニングを出て玄関へと向かった。
「……魔理沙?」
「アリス!……って、なんか、顔色悪いぜ? 大丈夫か?」
「別に……なんともないわよ」
「そうか? ならいいんだけど。ああ、そうそう! とんでもないことになったんだ! 今幻想郷中の妖精たちが一斉に暴れ出してるみたいで、原因も不明ときた!」
「そ、そうなの?」
「霊夢の奴、カンカンに怒っててさ。これはもう異変だな! 解決しに行くしかないぜ!」
彼女は矢継ぎ早にそう言うと、私の返事も待たずに、直ぐに外へと飛び出そうとしている。その目は、もう私を見てはいなかった。遠く、これから始まる胸躍る冒険の先だけを見つめていた。
「じゃ、そういう訳だから! すまん、飯の約束今日は無理そうだ! 霊夢と合流して、ちゃっちゃと解決してくるぜ!」
「ま、魔理沙、待って」
思わず、引き留めてしまう。彼女は「ん?」とだけ、こちらを振り返る。
「そ、その……こ、紅茶だけでも、どう?」
私の問いに、彼女は心底面倒くさそうに、そして悪気なく笑った。
「ばっかだな、アリス! こんな一大事に、のんびりお茶なんか飲んでる場合じゃないだろ!」
「あ……」
彼女は手を振って、出ていった。何か他にも言っていたような気がするが、耳に入らなかった。
私は一人、戻ってダイニングテーブルの前に座った。見られることすらなく、役目も終えられなくなったモノ達が、そこに鎮座している。
そしてその横には、紫陽花の花瓶。花はとっくに枯れていた。
「……」
その日は何も捨てなかった。
ただ、夜が明けるまで、作ったものを眺めていた。そして運の良いことに、いつもは感じた一秒一秒の重みも感じなかった。
不確かだけれど、ありえるかもしれない明日というのは、もしかしたら、全くもってありえないのかもしれない。
上海は、やっぱり小首を傾げている。
私はテーブルの上にバスケットを置いた。本当はピクニック用に作ったものね。けれど一度も、その用途で使ったことはない。なんてかわいそうなバスケット。
中身はベーコンエピ、焼き具合もばっちり。若い狐の尻尾みたいな色。
……いや、この表現はもう使わないようにしよう。だって美味しくなさそうだもの。
テーブルの上には、他にも花瓶がそれとなく置かれている。
その一輪挿しの紫陽花を見ながら、彼女がそろそろ来てもおかしくない頃合いだと思った。
「……魔理沙」
私はその奇妙な三文字を呟いて、そしてまた、テーブルに腰掛け、窓の外の様子を伺うことにした。夏の木々は秋のように色鮮やかではないのに、その癖太陽の光を青葉が反射するから、晴れ晴れしく瞳に入り込む。
「……のどかね」
外の空は澄み渡るような青空で、雲はわたあめのようにゆらゆらと浮かんでいる。何も考えずに、その浮かぶこと自体が目的のようで、どこか羨ましかった。
「……あ」
しかし、雲はずっとこの窓のフレームの中には収まってくれず、どこか遠くへ、ここではないどこかへと消え去ってしまった。
そう、ここではないどこかへ。
「……」
私はただ、秒針が動く音を耳から脳へ運んでいた。
革職人が淡々と、靴の縁を糸で縫い進めるように。
何度窓を見つめたって、あの白黒魔法使いが箒から降りてくる姿は映し出されなかった。どれだけ思い描いても、その光景は頭の中だけで繰り広げられるばかりで、壊れた映写機を前に、ただかつてのフィルムを夢想し続けているようだった。
「そっか」
今日は、きっと、来ないのだろう。
私はベーコンエピを一つ手に取って、試しに齧ってみることにした。随分と冷めてしまっていて、しなしなね。塩っけの強い味、その、魔理沙好みの味付け。
「……明日は、来るかしら」
もう紅茶の香りはしない。
心臓がきゅっと締め付けられる。
薄暗くなった外の景色と、そこから差し込む夕方色の光、それと私。
時の流れはただ、私にじわりじわりと過ぎ去っていく感覚を与えるだけ与えて、後は知らんぷりなのだ。ひどい人。
私は後片付けを始めて、不要になった紅茶を流して、ベーコンエピを全て捨てた。
次の日も、私はパンを焼いた。
今度はフランスパン、ガーリックトースト。バターの量がコツだ。
いつものようにバスケットに入れて、テーブルの上に置く。紅茶だって、いつも通りの香り。 紫陽花だって、ご多分に漏れず。
それから、待つ。ダイニングチェアに腰掛けて、時計の音に身を任せた。
雲が影を落とす位置が移り変わり、部屋の中の影と光のバランスは、何度も移ろいでいく。何か、温度計を注意深く確かめて、適切な温度へと調整しようとしている感じに。
やがて滲むような色合いが、テーブルの上のガラス瓶に反射した。紫陽花だけが、藍色の花弁を見せびらかして、負けじと自分の姿を主張している。
「……来ないのね」
それは昨日と同じような色合い。茜色。
だから私は、紅茶とパンを捨てた。
それから次の日も、そのまた次の日も、同じような一日だった。
何も変わらない。世界が終わる時もこんななのかと思った。
私はパンと紅茶を捨てる手際が良くなった。久しぶりに得意なことが増えたのだ。それを上海に自慢すると、彼女は小首を傾げて見つめてきた。
そしてさらに、その次の日のこと。
この日、私はパンではなくチョコクッキーを焼いた。ココア風味で、中がしっとりとしたやつ。少し工夫を凝らして、真ん中にはほんの少しだけラム酒を垂らしたチョコチップを入れたやつ。魔理沙が「ちょっと大人の味だな」って笑ってくれそうな、そんな味。
飲み物もいつもの紅茶ではない。レモンミルクティー。レモンの爽やかさとミルクのまろやかさが混ざり合って、どこか懐かしいような、不思議と安心する味になった。魔理沙は、彼女は、いつも忙しなく動き回って、きっと疲れるだろうからと、少し前から何度か試していたレシピだ。
ポットに入れて、いつものように待つ。
じっと、座って、待った。
幾分強い風が吹いて、家が軋む。私はすこしだけ肩を震わせた。外では名も知らない鳥が、何かとてつもなく重大なことでも発表しているかのように、やたらと煩く騒いでいた。
しかし、それでも、魔理沙は来なかった。やっぱり、来なかった。
「……」
ずっと同じ姿勢だったからか、背中に重さが沈んでいる。鳥の声は、いつの間にか別のものに変わっていた。
「……はぁ」
あの、いつもの色合いが部屋を包み込む。全てを捨てようと立ち上がった、その時。窓から音がした。
「!」
コンコン、と。ノックの音。私はすぐにその方向へ顔を向ける。そこには、魔理沙がいた。
「よっ、開けてくれ、アリス」
「魔理沙!」
私はすぐに駆け寄って、窓を開けて、彼女を迎え入れた。この魔法使いは、どういう訳か絶対に玄関からは家に入らないのだ。
彼女は家に入るや否や、奥ゆかしそうに笑いながら帽子を脱いだ。込み上げてくる感情を抑えて、私は平坦な声で言う。
「魔理沙……何しに来たのよ」
「暇なんだぜ」
「もう……」
「お、クッキー、食うぜ」
「ちょっと、勝手に食べないでよ」
思わず声色が上がってしまうのを必死に堪える。魔理沙はクッキーを口に運び、咀嚼しながら椅子を引いて腰掛けた。
私はどんな言葉が出てくるだろうかと、手持ち無沙汰になった両手を組んだり解いたりして、その様子を克明に見つめていた。
「んむ、こりゃうまいぜ」
「……そ、そう……よかったわ」
難関魔法学校への入学試験を終えた直後みたいな心持ち。
「ほんとに美味いぜ、もっと食べていいか?」
彼女は私の返答も待たずに、もう次のクッキーに手を伸ばしていた。
「ふふ、構わないわよ」
懸命に頬張る彼女を見て、そして、少し見つめすぎていることに気が付いて、目線を逸らして、けれどまた、いつの間にか彼女のことを見ていて、だから、逸らした。
「アリスの家って、不思議と落ち着くんだよ」
「そ、そう?」
「お菓子もパンも美味いし」
「……ありがとう」
「きっと良いお嫁さんになるぜ」
「ばっ……馬鹿なこと、言わないで頂戴」
私は彼女に背を向けて、適当にその辺の本棚でも見ることにした。今顔を見られるのはまずいのだから。
「なぁ、クッキーこれだけ作ったんなら、きっと余るぜ。いくつか持って帰っていいか?」
「も、もう……あなたの為に作ったんじゃないのよ?」
「ごめんごめん」
「……し、仕方ないわね、良いわよ、持って行って」
「ありがとう、アリス!」
彼女は胸を締め付けるような笑顔をする。可愛らしい、太陽がそのまま降りてきたような、屈託のない笑顔。なのにそれを見る度に、やっぱり、苦しくなる。
「じゃ、そろそろ行くぜ、アリス」
「え、あ……も、もう行くの?」
魔理沙は椅子から立ち上がった。
「ちょっと野暮用があって」
「……霊夢の、とこ?」
「なんだか最近妙な妖怪が出るらしい。頭の上に足がついてるって」
「そう……」
「霊夢が退治するらしいから、見物にいくんだ」
「……分かったわ。気をつけてね」
「おう、じゃ、またな、アリス!」
彼女は手を振って、嵐のように出ていってしまった。いくつかのクッキーと、私を残して。
「……魔理沙」
私は残りのクッキーを一枚取って、齧ってみた。やっぱり、魔理沙好みの甘い味付け。あまり好みではない。
残りを捨てて、そしてようやく気づく。
「……あ、レモンミルク、飲んでくれなかった」
ミルクは全て流した。シンクの底へと、その液体は流れ込んでいく。誰の身体の中にも入らずに、その役目を果たすことなく、忘れ去られる。
それを私はじっと見ていた。
「……」
茜色の光、いつもの時間。この時間は嫌いだ。大抵は、独りだから。
「……魔理沙、明日は、来てくれるかしら」
「やめようかしら」
次の日の朝、ぽつりと、誰に言うでもなくその音を放った。音は誰かに届くこともなく、部屋の中で散っていく。いつか見た雲のように。
パンを焼いて、クッキーを作って、紅茶を入れて。彼女の好きなものを用意して、期待して、勝手に傷ついて、馬鹿みたい。
嫌気がさしたのだ。今までどこかで分かっていたこと。けれど、どうしてか止められなかったこと。何故だか分からないが、今日は……いや、今日からは、きっぱりとやめられる気がする。
「……作らない」
今日は何も作らない。
「作るもんですか」
私は握りこぶしを作って、居やしない誰かに向かって宣言してやった。いや、一応観客は一人だけいた。上海が小首を傾げて、私のことを不思議そうに見ている。
「……よし」
固く決心した。靴紐をいつもより時間をかけてきゅっと結んだみたいに。
ダイニングに向かい、花瓶の水の交換を行う。それから、普段なら、パンやお菓子を作る時間。
しかし私は厨房には向かわず、そのまま作業部屋へと足を運んだ。それはとてつもなく久しぶりだった。
扉を開けると、向こう側には作りかけの人形たちがいた。関節部分の制作から、きっぱり、この子たちは放置されていたのだ。
「待たせちゃって、ごめんなさい」
私は作業台の前に座った。この椅子は、ずっと座っているとちょっとお尻が痛くなる。だけどその痛みも、なんだか今の私には少しばかり愉しいものに思えた。
木を削って、やすりをかけて、それから絹の服の採寸を行う。
そろそろお昼過ぎ。それでもやめるものですか。
「……いい感じ」
集中していると時間の流れはあっという間だ。いつものように、一秒一秒を噛み締める必要なんてないのだから。
少し高い位置にあるこの部屋の窓から、いつもの気味悪い色が差し込む。ここら一帯のグラデーションが変わった。
ああ、もうこんな時間、そう思った矢先。
ガラスを叩く音がした。
「……え?」
心臓が、大きく跳ねる。そのまま飛び出して、私のことを突き破ってしまうんじゃないかと。
まさか、だって、二日連続で来るなんてこと、今まではなかったのだ。
私は慌てて部屋を飛び出し、ダイニングへ向かった。窓の外には、彼女がいた。箒にまたがったまま、にこにこと笑っている。
「魔理沙……!」
「よっ、アリス。今日も来たぜ」
急いで窓を開けると、彼女はひらりと、箒に乗ったまま飛び込んできた。
「昨日のクッキーの礼を言いに来たんだ。美味かったぜ、霊夢も絶賛してた」
「……そう、それは、よかったわ」
「今日はなんか美味いもんあるか? 腹減ったぜ」
「あ……ごめんなさい。今日は、何も用意していないの」
私の言葉に、彼女はきょとんと目を丸くして部屋を見渡した。忘れ物を探しに戻ってきたばかりの人みたいに、あるいは、私の言葉の意味が分からない異国人が、とりあえず同じ発音を心の中で繰り返しているみたいに。
「え? そりゃ、珍しいな。アリスが客人の為に何も用意してないだなんて」
「客人……」
魔理沙は、彼女は、疑問符を浮かべている様子だった。
「……今日は、人形作りに集中していたの。だから、時間がなくて」
「へぇ、そうだったのか。邪魔したな」
魔理沙は口を尖らせて、少し残念そうな顔を見せた。
「ちぇっ、アリスのパンでも食べられると思ったんだけどなぁ……また来るぜ」
「え……」
「じゃっ! アリス!」
「あ」
彼女は出ていった。呼び止める暇もなく、風のように。箒から降りて、家の中に足をつけることなく。
「……」
空っぽで、何もないダイニングが残された。
暫く立ち尽くしていて……ああ、窓を閉めないと……そう思って、ようやく身体が動く。
「……」
魔理沙はすぐにどこかへ行ってしまう。あの日の雲のように。
そんな彼女を、唯一、少しだけ繋ぎ止めておけるもの。それが、私の作る料理やお菓子だった。それはか細いというにはあまりにも曖昧だし、ほとんどの場合、役に立たず、何か利益を残すこともなく消えていく。だけど、それでも、私にとっては唯一彼女と繋がっていられる、蜘蛛の糸だったのだ。
「……馬鹿みたい」
私は、戸棚から小麦粉とバターを取り出した。砂糖と卵に、棚の奥から、とっておきの林檎も。
「ほんとに馬鹿……」
やったことも、今やってることも、そしてこれからやろうとしていることも。何もかもが馬鹿だった。
「……魔理沙」
不思議な三文字を呟いた。
明日は、彼女の好きなアップルパイを焼こう。シナモンをたっぷりと効かせた、甘いやつ。魔理沙好みの、しっとりとしたやつ。そうしたら、きっと、もっと長くいてくれるはずだから。今日よりは少しだけ、長くいてくれるはずだから。
私は明日の準備を始めた。茜色が完全に消えても、私はパイ生地をこね続けた。不確かだけれど、ありえるかもしれない明日の為に。
夜が明ける頃、私の厨房は甘い香りに満ちていた。焦がしバターと、じっくり煮詰めた林檎、そして鼻腔をくすぐるシナモンの香り。
昨日、ほとんど徹夜で焼き上げたアップルパイは、我ながら完璧な出来栄えだった。艶やかに光る格子模様のパイ生地の下で、黄金色のフィリングが顔を覗かせている。
それをダイニングテーブルの真ん中に、まるで祭壇に供物を捧げるかのように、静かに置いた。紅茶も、彼女が一番好きなセイロンのブレンドを。
ーーもう待たない。
そう心に決めていたはずなのに、気づけば私は、前と同じ椅子に座り、前と同じように窓の外を眺めていた。ただ、以前までと違うのは、胸のうちに宿る、確かな手応えと、焦がれるような期待。
だって、これだけのものを用意したのだから。
だって、これほどまでにあなたのことを考えているのだから。
だって、これ以上ないくらいあなたのことが……。
だって、だって、だって……。
……きっと、今日は来てくれる。
そして、昨日みたいに、すぐには帰らないはず。
時計の針が午後を指し、ゆっくりと時を刻む。心臓の音が、やけに大きく聞こえた。けれど――
来なかった。
その日は、いつもよりも、ずっと、ずっと、待った。茜色が消えて、月の灯りが差し込み始めても、それでも、待った。
でも、来なかった。
「……」
鈴虫の声が耳に入り込む。ひどく、腹が立つ。
「……諦めるもんか」
その言葉は消えてなくなった。だからもう一度言った。
「諦めるものですか」
何度も何度も言った、繰り返した、口を動かした。
勿論、誰にも届かない。私自身の心にも届いていないのかもしれない。それくらい、オートマティックでファンダメンタルに行われたからだ。
けれど、でも、何度も繰り返し言っているうちに、私はなんだか強くなった気がした。
上海は相変わらず、小首を傾げている。
その日からも毎日、私は同じパイを作り続けた。
きっと、これを食べてくれたら、魔理沙はもっと来てくれるようになる……そう思った。
次の日、来なかった。
その次の日、来なかった。
さらに、その次の日も。
けれど、それからまたさらに三日経った日。
ようやく、その瞬間が訪れた。空が茜色に染まるよりも、少しだけ早い時間。あの音がした。
ーーコンコン。
「アリス、いるかー?」
「魔理沙……!」
窓を開ける。
今日の彼女は箒から直ぐに降りた。テーブルの上にあるアップルパイが目に入ったようだった。
「すっげえ……! なんだこれ、めちゃくちゃ美味そうだぜ!」
キラキラと、子供のように瞳を輝かせる魔理沙。その表情を見ただけで、私の心は報われたような気がした。
「さ、座って。あなたの分よ」
「え、私のために作ってくれたのか!?」
「あ、えっと……その、た、たまたま、貴女が今日来るような気がして……そ、そう、たまたま、たまたまなのよ!」
「よく分からないけど、とにかくラッキーってことか! いただくぜ!」
彼女はパイを一口頬張るなり、感嘆の声を上げた。
「んまい! なんだこれ、今まで食ったどんなパイより美味いぜ! アリス、お前は天才だな!」
「……お口に合ったのなら、よかったわ」
私は自分の分の紅茶を、ただ指で温めながら、夢中でパイを頬張る彼女の姿を眺めていた。子供みたいに頬を丸めるその様子が、とても愛らしかった。
魔理沙は、 最近の魔法の研究のことや、人里で見つけた面白い道具のことなどを、楽しそうに話してくれた。その言葉の一つ一つが、私の中へと入り込んでいく。ウイルスのように悪さをする訳ではないが、しかし、場合によってはそれ以上にタチが悪いのかもしれないなんて、そんな馬鹿みたいなことを考えて。
ああ、彼女が、ここにいる。私の作ったものを、「美味い」と言って、食べてくれている。それだけで、よかった。
「いやー、食った食った。ごちそうさま、アリス。本当に最高だったぜ」
満足そうにお腹をさすって、魔理沙が笑う。
「ふふ……ありがとう、魔理沙」
けれど、その直後。
「さて、と。そろそろ行かないとな」
「あ……」
灯ったばかりの光が、急速に揺らぎ始めた。
「も、もう行くの? パイならまだたくさん……お腹いっぱいなら、そうね……えっと、あ、新しい魔法の本、手に入れたのよ……。だから、その話とか、しましょうよ」
「そうしたいとこなんだけど」
魔理沙は頭をかきながら、申し訳なさそうに言った。
「昨日、霊夢と約束しちまったんだ。新しい結界の実験、手伝うってな。アイツ遅れるとうるさいからなぁ」
……霊夢。
また、その言葉。また、その名前。
どれだけ心を尽くしても、どれだけ完璧なパイを焼いても、結局、私は彼女の一番にはなれない。彼女の足は、当たり前のように、別の場所へ向かうのだ。一度放たれた魔法が、もう術者の元へは戻らないのと同じくらい、当たり前に。
「……そう」
絞り出した声は、自分でも驚くほど、か細く震えていた。私は、この時ばかりは不出来なフルート奏者だった。
「おう! じゃあな、アリス! パイ、本当に美味かったぜ!」
彼女は手を振って、今にも去ろうとしている。ダイニングテーブルの上には、余ったアップルパイと、二つのティーカップが残されている。一つは空で、もう一つは、すっかり冷めてしまっていた。
彼女は来てくれた。そして、いつもより長く滞在してくれた。私の努力は、確かに実を結んだのだ。
けれど、だけれど、だがしかし。
「……そっか」
私は、理解した。彼女をここに繋ぎとめる為には、常に「最高」のもので歓待し続けなければならないのだ。今日、これだけのパイを焼いたのなら、次は、これ以上の何かを用意しなくては。さもなければ、きっと、ああ、彼女は私の元から離れてしまう。
「魔理沙! 待って!」
「ん?」
飛び立とうとする彼女を、私は既の所で呼び止めた。
そしてそれは、初めてのことだった。
「あ、あの……明日! ……いや、きっと準備とかも必要だし、献立もじっくり考えないとだから……ら、来週! 今からちょうど一週間後に、また、来てくれる?」
「ん、来週? 良いけど、何するんだ?」
「さ、最高の料理を用意してっ、待ってるからっ!」
「!」
変なことを言っていないだろうか。
いや、きっと変なことを言っている。
声は震えていないだろうか。
いや、きっとビブラートを効かせて震えている。
可笑しな声で上擦っていないだろうか。
いや、きっと馬鹿みたいに上擦っている。
「へへっ、それは嬉しいぜ。楽しみだ」
「あ……」
どうだっていい、彼女はグーサインを掲げて、ウインクをしてくれたのだから。
「じゃ、楽しみにしてるぜ!」
そしてその言葉を最後に、飛び立った。
「……ッ!」
やっぱり、後に残されたのは私と余り物だけ。夕日の色合いで、部屋が歪んだ。
「ふふ……ふふふ」
今の顔は、誰にも見せられない。きっと、酷い顔だ。
アップルパイの甘い香りが消え去った厨房で、私は夜明けの光を浴びながら、新たな献立を考えていた。
あれからずっと、眠らずにその事を考えている。あれだけのパイでも、彼女を引き留められたのは、ほんの僅かな時間。霊夢という存在が、あまりにも大きく、色濃く、彼女の世界の中心に居座っている。
「……このままじゃ、勝てない」
正攻法では、きっと、一生。ならば、どうする?
もっと衝撃的な、もっと鮮烈な何かで、彼女の記憶を上書きするしかない。彼女が博麗神社へ向かう足さえも、忘れさせてしまうほどの何かを。
「……アフタヌーンティー」
英国風の、三段重ねのティースタンド。
タンドリーチキンのサンドイッチ、スコーンにはクロテッドクリームと自家製の苺ジャムを添えて。上段には、ヴィクトリアスポンジケーキと、色とりどりのプティフールを。
……いや、まだ足りない。もっと、もっとだ。考えただけで眩暈がするほどの作業量。けれど、その完璧で華やかな光景を思い浮かべると、私の心は奇妙な高揚感に包まれた。
その日から、私の生活は一変した。
人形作りは完全に止まり、すべての時間を厨房で過ごした。
まるで精密な機械の部品を組み立てるように、レシピの工程を一つ一つ確認し、試作を繰り返す。私の魔法は、今や人形に命を吹き込むためではなく、クリームを完璧な固さに泡立て、スポンジを寸分の狂いもなく焼き上げるためだけに使われた。
「違うっ、泡立てが足りないわ!」
「そのジャムの糖度は0.5度高いっ!」
手伝わせる上海たちに、私はヒステリックな声を飛ばした。指先が震え、眠れない夜が続いた。目の下には隈ができ、思考は常に「魔理沙をどう驚かせるか」という一点に収束していく。
けれど、その時間は、楽しくて幸せで、かけがえのない時間だった。一秒一秒を噛み締めて感じる時間ではなくって、来るべきその、約束された日を感じると、胸が熱く、とろけてしまいそうだった。ちょうど、今熱したバターのように。
「魔理沙……魔理沙……」
上海は……小首を傾げることもなく、今はクリームの泡立てに集中している。
そして、約束の日の午後。
ダイニングテーブルの上には、私のすべてを注ぎ込んだ芸術品が鎮座していた。三段のティースタンドは、まるでおとぎ話の絵本から抜け出してきたかのように完璧だ。
下段には、黄金色に輝くタンドリーチキンと燻製パプリカのサンドイッチ。隠し味のマンゴーチャツネが、噛むたびに異国の香りを運んでくる。中段には、焼きたてのスコーンが湯気を立てて並び、その隣には、艶やかなルビー色の苺ジャムと、月光のように淡いクロテッドクリーム。どちらも、厳密に温度管理された銀の容器に収められていた。
そして上段には、ヴィクトリアスポンジの断面が芸術的に輝き、周囲を囲むのは、まるで宝石のようなプティフールたちだ。ラズベリーのムース、ピスタチオのマカロン、ブルーベリーのタルト。ひとつひとつに金箔があしらわれている。その頂点、皿の中央に鎮座するのは、ローズとベルガモットで香りづけした紅茶ゼリーの塔。ゼリーの中には花弁と金粉が舞い、テーブルに差す陽光を受けて、夢のように煌めいていた。
私は疲労困憊の体を引きずるように椅子に座り、その光景を眺める。
やりきった。
これ以上のものは、今の私には作れない。これを見れば、きっと、魔理沙は……。
ーードバッターンッ!
「え?」
いつもと違う音。
窓のノックではない、それどころか音の発生場所も違う。
それは玄関から聞こえた。いつもよりも、早い時間。
完成が間に合ったことに対する安堵と同時に、何か形容しがたい不安を覚えた。
「アリス! 大変だぜ!」
彼女の声が、玄関の方から聞こえる。
「うっ……こっちからだと箒乗ったままじゃ入れないな……。アリスー来てくれー!」
どういうことだろう。訳も分からず、私はダイニングを出て玄関へと向かった。
「……魔理沙?」
「アリス!……って、なんか、顔色悪いぜ? 大丈夫か?」
「別に……なんともないわよ」
「そうか? ならいいんだけど。ああ、そうそう! とんでもないことになったんだ! 今幻想郷中の妖精たちが一斉に暴れ出してるみたいで、原因も不明ときた!」
「そ、そうなの?」
「霊夢の奴、カンカンに怒っててさ。これはもう異変だな! 解決しに行くしかないぜ!」
彼女は矢継ぎ早にそう言うと、私の返事も待たずに、直ぐに外へと飛び出そうとしている。その目は、もう私を見てはいなかった。遠く、これから始まる胸躍る冒険の先だけを見つめていた。
「じゃ、そういう訳だから! すまん、飯の約束今日は無理そうだ! 霊夢と合流して、ちゃっちゃと解決してくるぜ!」
「ま、魔理沙、待って」
思わず、引き留めてしまう。彼女は「ん?」とだけ、こちらを振り返る。
「そ、その……こ、紅茶だけでも、どう?」
私の問いに、彼女は心底面倒くさそうに、そして悪気なく笑った。
「ばっかだな、アリス! こんな一大事に、のんびりお茶なんか飲んでる場合じゃないだろ!」
「あ……」
彼女は手を振って、出ていった。何か他にも言っていたような気がするが、耳に入らなかった。
私は一人、戻ってダイニングテーブルの前に座った。見られることすらなく、役目も終えられなくなったモノ達が、そこに鎮座している。
そしてその横には、紫陽花の花瓶。花はとっくに枯れていた。
「……」
その日は何も捨てなかった。
ただ、夜が明けるまで、作ったものを眺めていた。そして運の良いことに、いつもは感じた一秒一秒の重みも感じなかった。
不確かだけれど、ありえるかもしれない明日というのは、もしかしたら、全くもってありえないのかもしれない。
上海は、やっぱり小首を傾げている。