幻想を繋ぐ大結界を抜けると雪国であった。
黎明の輝きが一層白くなった。信号所に汽車が止まった。
ごう、と巨大な黒鉄が揺れる音がして、間を置かず。
一帯に硝煙と氷の冷気が流れ込んだ。
「終点、終点──無何有(むかう)の郷」
未だ薄暗い寒空に、淡い白煙が垂れ込めている。
が、じきに純白のヴェールも掻き消えて、やがてそこから、漆黒と風化した錆色に身を包んだ蒸気機関車が現れた。
「無何有の、郷──」
終点を告げる鈴の音色が、雪原の静寂に添えられる。
静かな子守唄の温かな優しさが、座席で微睡む少女の胸中をわずかに震わせた。
鳶色の髪に縁起よい紅白のワンピースが可憐な少女であった。けれどもそれ以上に目を惹くのは_小さな帽子では隠しようもない猫耳と、黒くしなやかな二つの長尾だ。
幻想郷の創設者たる、八雲紫の忠実な式神──八雲橙(やくもちぇん)であった。
否、この"旅"を無事に終えた時に、八雲の姓を冠する予定である。
それよりも_
幻想郷に鉄道が通り始めてまだ間もない。
濃霧から巨大な黒鉄が顔を出す様はひどく鮮烈で、言い知れぬほどに圧巻で、壮観で。目が離せなくて。
橙は少し名残惜しげに、機関車に背を向けた。
「旅のお供にお一つ、如何でしょう」
広大な駅構内では、白狼天狗が愛想よくお弁当を売り込んでいる。
この駅も鉄道も元を辿れば、守矢の神々を筆頭に、山の河童や天狗たちが技術と叡智を結集させて造ったものだ。
「あらこれは、八雲の式神さま。良ければお一ついかがですか?九天の滝を模したお弁当なのですよ、当店の一番人気でして」
天狗の淑やかな微笑みに、橙も微笑みで返した。すぐさま値札に目を遣ると、書かれた数字は何とも可愛げがない。
値札をあえて神妙な面持ちで見つめてみると、天狗は笑顔を貼り付けたまま、ゆっくりと弁当の中身を開いた。
「よければ試食だけでも。きっとお口に合いますよ」
中身はさながら壮麗な一枚絵であった。
緑と紅葉が咲き誇る妖怪の山を、芳醇な茸や筍などで象った大胆な盛り付けは、客人の五感を余すことなく愉しませてくれる。
見るも味わうも美しい。これが楽しい旅行の最中であれば、橙は迷わず持ち帰っている。
時間は金で買えずとも、金は時間を豊かにしてくれる。
「ありがとう、帰りに一つ...いえ、三つほど頂こうかしら。まあ、ディナーは"謎解き"の後でも遅くはないと思うから」
「あら、ここへはてっきりプライベートでいらしているのかと思ったのですが、お仕事でしたか」
「えぇまぁ、少し探し物にね。ま、半分は遊びみたいなものだけれど」
橙はお辞儀をしてその場を後にした。一方の天狗も、去る客にしつこく営業を仕掛けるでもない。
この幻想郷で生きとし生ける者はみな、心豊かながらも多忙な日々を過ごしているのだ。
しんしんと雪が降る道を、街灯が心許なく照らしている。静謐な空気を湛えた無何有の郷の一画に、人の姿は見当たらない。
けれどもこの気品に満ちた凍土の先に、橙がずっと追い求めていたものが_
あるのだろうか?
橙は些かの疑問を抱きつつ、生まれて初めての一人旅をして、今まさに、その第一歩を踏み出した。
自分にとって未踏の地を往き、紫様から命じられた物を手に入れる。
目的地となる場所も経路も未だ不明瞭で。すなわち_自分の裁量一つで全てを決められる、なんとも自由な旅である。
橙は八雲の式神となって以来、ただ命令を受け入れ続けるだけの日々を過ごした。
しかしこの度は、己の意思で見る景色の数々を、この目でしかと捉えに行くのだ。
単純に業務を遂行するだけに非ず。自分一人での旅立ちを通し、紫様や藍様に引けを取らぬ程の、立派な道士になってみせる。
そして、この愛しい幻想郷を守る一人として世界に在りたいのだ。
八雲とは、私にすれば単なる姓の一つではない。
己の武勲を証明する、この上ない王冠なのだ。
...
「はぁ、春を集めてる...か。お嬢さん、焦らんでもええ。雪解けもまだ見てないんに、花見するにゃ些か寒いと思わんかね」
郷の集落の片隅で、好々爺が橙を宥めている。
辺りに広がる質素で奥ゆかしき景色には目もくれず、橙は聞き込みに徹していた。
「どうも美しい物には目がなくて。それも、独り占めにしたいくらい」
「カカカ!まさかお前さん、さては春を集めて誰かに売りつける算段じゃあるめぇな?」
「__当たらずとも遠からず、ですかね」
八雲紫の勅命を受け、橙は"春"を探していた。紫が告げた代物は目に見える物体ではないようで、ひどく曖昧で婉曲的であった。
紫様は立春の宴でも開くつもりなのだろうか。何かの比喩かと辞書を引けども答えは見当たらず、であれば先人の知恵袋に肖るのが賢明だろうと聞き込んでいる。
「ええと、間違ってたらすまんが...春をひさぐ、ちゅう訳でもねぇよな?」
「まさか。いえ、それで済むなら、いっそ簡単だったのでしょうね」
「すまん、悪ぃ事聞いたな」爺は頭を下げたが、橙が気にする素振りはない。
むしろそれ以上に問題なのは、集落を周れども春の手掛かりなど一向に集まらない事であった。
やがて郷を照らす陽光が、いつしか茜色へと沈んでゆく。
何の収穫も得られないまま、空の色が逢魔が時を克明に告げる。
"悪魔に逢う"から逢魔が時。凶兆の黒猫たる自分には相応しいだろうか。
などと呑気に、橙は考えていたのである。
...
「...春、か。紫様も酷な事を仰る」
街灯が寂しい夜の雪道を、橙が独り言ちて歩き続ける。
肌を刺す冷気が吐息を白く散らす寒空の下、人の姿は見当たらない。
愛しい主人たる八雲藍が丁寧に編んでくれたマフラーを、ぎゅっと口元に寄せて。鼻腔を突き抜ける木々と霜の香りが、どこかほのかに爽やかであった。
さて春とは何たるかと、改めて橙は思考していた。順当に考えれば、春とは冬の次に世界を彩る季節である。
何かしらの現象を境に冬が終わる時_雪解けや草木の萌芽がそれであろうか。春とはやはり、生命の芽吹く頃合いである。
取り留めもなく、冬に焦点を当ててみる。時に雪の結晶は六花と喩えられる。結晶化した雪はしばしば六角形の形を取る事から、そう呼ばれる。
であれば_六花の眠る暁に、賢者が求めてやまない"春"があるのだろうか。事はそう簡単ではないだろうと、橙は深く溜め息をついた。
『あなたが集めた春を以て、幻想郷に均衡をもたらすの。本来なら私か藍が出張る所だけど、近頃は結界の管理で忙しくてね...橙。貴女なら、きっと問題ないはずだから』
紫様が自分を送り出した時の事を、橙は何気なく想起した。
幻想郷の"均衡"。世界の有り様と、単なる四季の一角が直結するとは考え辛い。
賢者たる紫様であれど、まだ良く分かっていない事くらいあるのだろう。
夜の帳が降りた無何有の郷はどこまでも閑寂で、雪を踏む靴の音だけが橙の鼓膜を震わせる。
自身の他に生命の気配はまるで無く、闇を愉しむ虫や子鳥は不思議なほどに見当たらない。
夜更けと言えどあまりに静かだ。静か過ぎる。葬儀場に来たつもりはない。
深い沈黙に包まれた銀盤は美しいと同時に、何かが覆い隠されているようにも思えた。
ふと、風向きが変わった。
冷たい風が頬を濡らし、両耳の毛先が強く揺れる。
瞬間、橙は妙な違和感を覚えた。
雪原の端に、黒い影が落ちている。
影は細く、鋭く、さながら雪を斬り裂いたように真っ直ぐであった。
橙は近づき、しゃがみ込んだ。
片手に八雲の御札を添えながら、もう片方の指先で痕跡にそっと触れる。
冷たい。
けれど、その冷たさの奥に、言い知れぬ気配があった。
「斬られた跡......?」
妖気を探る調伏の札が、微かに揺れた。
それ即ち___
白銀に刻まれた黒線は、自然のものに非ず。
刃物の跡──それも、ただの斬撃ではない。
妖怪の力が入り混じった、鋭く禍々しい残滓が残っている。
けれどもそれ以上に不可解なのは__
凶刃の犠牲者も、白を汚す血痕も。まるで見当たらないことだった。
最初から、そこに"命など無かったかのように。"
橙は堪らず周囲を見渡した。
雪はしんしんと降り続け、街灯の光は頼りなく揺れている。
人影はなく、音もない。
ただ不気味な静けさだけが、世界を満たしている。
身の毛もよだつ一幕に、橙は足早に先を急ぐ。
目的地などない。とにかくここに居ては危ないと、式神の本能が警鐘を鳴らした。
当て所なく歩く。風が少しずつ強まっているのは、恐怖から来る錯覚なのか。何でもいい、今はただ、この恐ろしい夜を抜けて____
__直後。
駆け足で氷を踏み鳴らす橙の背後を、"女の声"が木霊した。橙はびくりと身体を震わせた。
......ただ何とも美しい声であった。切なく、儚く、どこか色香を漂わせる響きに思わず後ろ髪を引かれ、不思議と橙の胸を締め付ける。
誰の物とも分からぬ呼び声は、いっそ蠱惑的でさえあった。
だからこそ、恐ろしい。
妖しい魔力に満ちた声に導かれぬよう、ただ前だけを見据えて、命からがら夜を抜けて____
...
「って事が、あったワケですよぉ」
朝日が顔を出す刻。
人々が活動を始めるこの時間から、それも場末の飲み屋で。
カウンター席の隅っこで、橙が闇雲に酒を呷っていた。
「...なるほど。"その辻斬り、幻影につき"...なんてどうだろう。本にすれば売れるかと」
「私の旅は見世物じゃないっつーの...」
橙の話を聞いて、店主はどこか楽しげだ。こちらの気も知らないで、と思う。
とはいえただの人間に、妖怪である私の気持ちを理解されてたまるかという気もしたので、黙って梅水晶を口にした。
「お嬢さん、見た所あなたは猫──それも、式神の類か何かだろう。そんな方でも夜の妖怪に怯えるなんて、不思議でね」
店主はお伽噺を読むかの如く、どこか非現実的に語っている。
橙は微かな苛つきを抑えながら、がま口の小銭入れを開けた。
ずいぶん飲みすぎたようだ。では一仕事しなくては__と、店主から貰った新聞を広げる。
この手の場所では良質な情報が見つかると、橙は主人からよく聞かされていた。
ビンゴだ。
流石は大手の文々。新聞とだけあって、求人の数は枚挙に暇がない。何とも優れた情報媒体なのだろう_鬱陶しい見出しに目を瞑れば、の話だが。
「ねぇ見て、マスター。これとか面白そうじゃない?」
一つの求人が橙の目に止まる。【晩カラ深夜マデ護衛求ム 報酬金ハ弾みマス】
危機の香りに満ちた文言を、嬉々として店主に見せつける。
「...何とも挑戦的な依頼だ。好奇心は猫をも殺すとは言いますが」
「猫の手も借りたいのでしょう」橙は得意げに一杯呷った。「それも式神たる猫の、ね」
「やれやれ」店主は肩をすくめてにこりと笑った。「良い土産話が聞けそうだ」
「じゃ、ツケにしてくださる?」
「それはなりませんね。......ですが」
橙が「ちぇー」と異議を唱えると、店主は戸棚の奥から古めかしい一升瓶を取り出した。
「良い肴があるならば、相応しい主役が居なくては。お仕事のお話、楽しみに待っていますから」
やがて酔いも醒めた辺りで、橙は代金を支払った。
申し訳程度に添えた心付けは、数奇な縁へのささやかな祝福だ。
...
人々が忙しなく行き交う雑踏を、やっとの思いで潜り抜ける。
橙が幾度も汽車を乗り継いで向かった先は、幻想郷きっての大都会──通称、"都"であった。
垢抜けた煉瓦造りの建物が一挙に立ち並び、路面電車が優雅に道を行く。街行く人々を洒脱に彩る近代的な光景は、橙の視線を釘付けにした。
芳醇な香りを漂わせる洋菓子屋に、華やかな衣服を取り揃えたブティックの数々_いずれも、今の持ち合わせでは手が届かない。
人の多さと煌びやかな街の光景に圧倒されて、雪の静けさが恋しくなった。
"天空の花の都"の異名を持つこの街は、見物するだけでも目と意識とを奪われる。
けれども橙の足取りは、迷いなく目的地へと向かっていた。遠路はるばるやってきた田舎者が迷わなかった理由は、ただ一つ。
見上げると、そこには巨大なコンサートホールが聳えていた。
紅いレンガや褐色の意匠がふんだんにあしらわれた建造物。この場に収まる_即ち、大勢の観客を集められる存在が、果たして幻想郷に居ただろうか。
橙は少し考えて、やがてその問いは無粋であったと合点がいった。
「初めまして、お会い出来て光栄だわ_八雲の式神さま」
清楚な黒衣と黄金色の髪が美しい、凛とした女性であった。
のみならず。片手で楽器を__否、彼女にとっての半身を収めたケースを、大切そうに持ち歩いている。
「わたくしは、プリズムリバー幻楽団が一人──長女のルナサ・プリズムリバーと申します」
幽霊楽団こと、プリズムリバー三姉妹。
彼女らが奏でる音楽は文々。新聞をして、止めどない歓喜と狂気で身魂を震わせるとも形容される。
世に名を馳せてやまない演奏家は、他でもない橙の依頼主であった。
...
がらんとした大聖堂の中を、薄暗い照明がささやかに照らしている。観客の見えない舞台にあって、この場に居るのは橙を除けば三姉妹に限られる。
舞台に立つのは幽霊楽団が一角_ルナサの妹であるリリカとメルランだ。
紅いベストと栗色の髪が可愛らしいリリカと、薄桃色のシャツが嫋やかなメルランが、思い思いに楽器を弾いている。
片や巨大な鍵盤に、片や豪奢なトランペット。突発的で断片的な音色から察するに、本番前の調整中なのだろう。
静けさと情熱とが溶け合った舞台裏の光景を、橙は客席から不思議な気分で見つめていた。
「いい眺めでしょう?」
隣に座るルナサからそっと声を掛けられて、橙は我に返った。
「え、ええ、そうね。アマチュアが気安く見て良いものなのかしら」
「言ったでしょ。"報酬"は弾みますって」
自分たちの練習の風景さえも価値があると誇示するルナサだ。時折耳に入るメロディの滑らかさは、会場の音響が優れている証か、卓越した技術の成せる業か。
いずれにせよ、橙は微かに夢見心地であった。天にも昇る気分...と言うには、いささか大袈裟であるが。
「あの子たち、普段はうるさいんだけど。ここにいる時だけは、誰よりも真剣で、冷静で、真っ直ぐなの」
ルナサが大切な物を見つめるように遠くを眺める。彼女の穏やかながらも饒舌な語り口は、不思議と橙の興味を惹いた。
「いいわよね、音楽って...種族も性別も価値観も超えて、みな誰しもが音色に心を奪われて、一つになる...その瞬間がたまらなく愛おしくて。分かるかしら、この感じ」
「要するに、同志たちと繋がりたいと」橙は適当に返した。音楽に関してはとんと素人であった。「魂を震わせる音楽とか何とかで」
「雑なまとめ方ね」ルナサはくすりと笑った。「まあ、概ね正解よ」
暫しの間、二人に心地良い沈黙が降りた。メルランとリリカの音色が耳を撫でる。
気分華やぐ昂揚の音と、言葉に表しがたい幻想的な音。ではルナサが持つヴァイオリンは、どのような響きをもたらしてくれるのだろうか。
二人の調律に聞き惚れていると、ふと冷たい風が橙の耳元にまとわりついた。
突然の感覚は不思議と愉快だった。後ろを振り返ると、半透明な何かがふよふよと空中に漂っている。
「あら、いらっしゃい。コンサートなら数日後だけれど、前夜祭をご所望かしら」
ルナサが優雅に微笑みを向ける相手は、仄暗い蒼光を湛えた人魂──幽霊であった。
幽霊はしきりに身体を震わせて、メルランやリリカにゆっくりと向かって行き、やがてぐるぐると回遊し始めた。
それを見た二人はぴたりと演奏を止め、元気の良いお客様へにこやかに手を振っている。粋なファンサービスであった。
「......幽霊も観客の内というわけね。どういう理屈なのか、分からないけど......」
半ば理解を放棄して溜め息をつく橙に対して、
「わたくし達のパフォーマンスは生者も死者も喜ばせる。音楽を慈しむことは、誰しもに与えられた歓び_ただ、それだけの話ですわ」
客席を賑わす演奏は、博愛精神の賜物であろうか。橙は音楽に関して無学であれど、興味を惹かれた。
「ねえ、ルナサさん。演者になってからどれくらい経つの?貴方たち、所作も雰囲気も凄く洗練されてるから、何だか」
「幽霊として生まれて以来、ずっとかしら」ルナサは照れくさそうにはにかんだ。「幽霊が生まれるってのも、変な話ね」
三姉妹は揃って幽霊であった。脚の先はうっすらと半透明で、よくよく見ると地に足が付いていない。
霊にして肉体を持っている。何とも矛盾めいた光景だが、幻想郷ではさして特異な光景でもない。
それどころか、霊気を帯びた独特の儚さが、かえって彼女たちを幻想的に描いているとさえ感じられる。
二人の間に僅かな沈黙が降りる。
直後、聴き覚えのある"声"がコンサート上に木霊した。
妖艶な悲哀を孕んだ響き。それはプリズムリバー楽団の演奏に淀みなく溶け込んで、例の"女の声"に感づいたのは橙ただ一人であった。
何だか胸の内側が不安で締め付けられたが、今はそれに気を取られている場合ではない。何しろ聞きたい事が山積みである。
さて__
「こうもお喋りに花を咲かせると、いざ仕事するって時に憂鬱でイヤね」
橙は上客の機嫌を損ねないよう、飽くまで丁重に接した。
「だからそろそろ本題に入らせてもらうわ。貴女がたの護衛というのは、演奏中の話かしら。厄介な御客様(ファン)がいらっしゃる、とかね」
橙が声を潜めて耳打ちする。
雑談は程々に、仕事は遂行しなければならない。
「そうね...厄介過ぎて、近い内に、わたくしたちがあの世に厄介になるかもしれなくて」ルナサの朗らかな表情に、深く暗い影が落ちる。
「このライブが終わったら、殺されるかもしれない」
橙は思わず目をひん剥いた。耳を疑った。この子は何を言っているのか、と。
が_ルナサの悲痛に張り詰めた瞳を目にして、一体どうして冗談だと思えよう。
「__どういうこと?」
「本当につい最近から...夜道を歩いてると、急に、刃物を振るうような嫌な音が聴こえてくるの...」
_刃物。"あの時"を否応なしに想起させる単語が、橙の背筋を冷たく撫でた。
無何有の郷では誰も何も分からず仕舞いであった怪談も、もしかすると、彼女なら_
「その場所に、変な痕跡とか見かけた?例えば、雪の上に黒い跡があって、そこから妖しい瘴気が漂ってて_とか」
橙が懸命に訊ねると、ルナサは恐る恐る頷いた。「それと、命を拒むような、凄く冷たい風が吹いていたわ...」
「犯人らしき人物の特徴とか、何か知らない?」
「同じ事が三回くらいあったのだけど、まるで見えなかったわ_動きが速すぎて、でも...わたくしが狙われなかったのは、どうしてかしら...」
被害者曰く、犯人は捉えがたいほどに速いという。
刃物で速い。朧げな仮定を立てさえすれば、いくらか"対象"は絞られる。しかしながら、行動の意図だけは全く想像に及ばない。
ルナサは短い期間で三回ほど被害に遭った。誰がしかの恨みが由来なのか。
ならばどうして彼女は無傷で、妹たちも無事なのだろう。
橙にすれば雲を掴むような想いであった。
意図も犯人も不明のさなか、依頼者を護る以外に道はない。けれど_
「ルナサさん。貴女、報酬は弾むと言ったわね」
「え、ええ_それがどうかしましたか?」
橙は立ち上がって、八雲の札をルナサに見せつけた。
「八雲の名に懸けて、貴女は必ず護って見せる。だから何も憂う事なく、ありったけのショーを見せて頂ける?」
目の前の女性が素晴らしい音楽家であると同時に、私にも八雲の式神としての矜持がある。
この紋所が目に入らぬか。橙は札をルナサの額にまで近づけた。
「_ふふ、なるほど。そこまで言われたら、わたくしもプロとして、最高の報酬を約束しないとね」
ルナサは顔を綻ばせて、橙に深い謝意を示した。
霊の肉体を持たぬ護衛と、霊として生きている依頼主。
握手の叶わぬ種族上の隔たりなど意にも介さずに、かくして二人の間に堅牢な契りが交わされる。
虚勢を張って突き進む。
それ以外の術など、今の橙には何も無かった。
...
漆黒に満ちた空の彼方に、星の輝きは一つとして見られない。
時刻は既に逢魔が時を過去にして、今では無明の闇夜が幻想郷全体を冷徹に見下ろしている。
橙が三姉妹の前に立って、不吉な帰路を先導していた。都の中心から外れた森は息が詰まるほど鬱蒼として、身を潜める手段には困らない。
犯人からすればさぞや好都合な現場であろう。それがため、そよ風に揺れる木々と草木が嫌でも神経を逆撫でる。
_数日後には盛大な演奏会が控えている。ここで客人に死なれては、報酬が全て水の泡だ。
「やっぱり、もっと都心の方に住むべきだったのかもねぇ...。家賃をケチった代償(ツケ)が来たって感じよね、ルナ姉さん」
闇の中でも冗談を交えるリリカに対し、寡黙な長女は目もくれず。ルナサは依然として、張り詰めた眼差しで夜の森を警戒している。
メルランに至っては顔から生気が失われ、橙は思わず手を握ってやりたくなった。とはいえ霊の肉体と橙の肉体とでは、指先を合わせる程度が関の山だ。
「待ってください」
後ろからルナサに声を掛けられて、橙はぴたりと足を止めた。
ふと、視界の端に、白く濁った靄が映る。
_なんだこれは。
これほど深い靄は、生涯でも見たことがない。
ましてや先ほどまで、気配など欠片も無かったというのに。
「...わたくしが狙われたのは、いつだってこの靄が掛かった夜の事でした」
ルナサの瞳孔が緊張に歪む。同時に橙も尻尾の毛が針金のように逆立った。
否応なしに心拍が上がる。ちらりと横を見遣る。か細い声で呻くメルランと、次女を優しく慰めているリリカの二人は_
有り体に言って、格好の獲物であった。
胸元のポケットから八雲の札を素早く取って、虱潰しに妖気を探る。
反応は_一定であった。
ひどく、一定であった。
だから、気づいてしまう。
「しまっ...!」
既に視界を覆い尽くしているこの濃霧は_自然現象の類ではない。
妖気と瘴気に満ちたそれは、四人を閉じ込める不可視の監獄であった。
「陣形を組んで!背中は見せないで!」
橙が声を張り上げて指揮を取る。
ぴりりとした静電気が、橙の肌を忌まわしく駆け巡る。
「ルナサ姉さん、どこにいるの!?こんな時に冗談じゃないってば!」
霧中に轟くリリカの叫びも空しく、白の闇に吸い込まれた。
誰も彼もが互いの手を繋ごうと足掻く。
けれどいつしか四人は分断されて、橙の視界にはルナサだけが残った。
二人は互いに顔を合わせ、藁にも縋る思いで背を預ける。
直後。
「_____ッ、____」
声にもならない声が、断末魔が上がった。身を凍てつかせる死の叫びが二人の耳を劈いて。
脚が竦み、頭が眼前の光景を拒絶する。けれども状況が分からねば何も出来ぬと、橙はそっと足を進めるしかない。
「なに...これ...」
濃霧を手で払いのけると、地面には透き通った液体_さながら水色の血痕が、びっしりと広がっていた。
犠牲の痕は赤に非ず。生者であればあり得ない色合いも相まって、死の気配で満ちている。あたかも最初から、そこに"命など無かったかのように。"
ややあって、ルナサが声を震わせた。
「斬られてる...幽霊が...」
そんなはずが、と思った。
物理的な干渉をある程度無視する幽霊を、木っ端微塵に切り裂くなど。
霊に干渉するならば、同じく霊の身でなければならない。霊を殺せる霊など、それこそ幻想にも劣る絵空事である。
...ただ、一人を除いては。
ただ、一人。
霊の身体を持ち、刃物を扱い、そして捉えがたく疾い。
この全てに合致する"彼女"だけは、あるいは_
「まさか...!」
橙の中での疑惑が、信じがたい確信へと変じた刹那、
心胆を寒からしめる異様な気配と___
命を断ち切る一太刀が、静かに虚空を切り裂いた。
やがて不可視のヴェールが掻き消えて、かの者が現れる。
触れれば散ってしまいそうな儚い白と銀の髪に、翡翠の輝きを湛えた瞳。
半人前の謂れなど今は昔──幽世の剣鬼こと、魂魄妖夢が、そこに居た。
「邪魔をしないで頂きたい_例え、八雲の式神であろうとも」
重く響く少女の声色は、明確に警告の意を滲ませている。
橙もルナサも言葉を失って、驚愕と動揺で上手く口が開けない。やっとの思いで、橙が腹の中を絞り出す。
「...何を、しているの」
「ご覧の通り、幽霊を斬っているのです。それが終わったら___その元凶たる、貴方も」
妖夢が背から長刀を抜いて、ルナサに容赦なく突き付ける。
霧が晴れ、殺意と刀身とが露わになった。新月に照らされた刀の鈍い輝きは、戦慄するほどに美しい。
同時に、リリカとメルランが濃霧から現れる。
長女の顔面が蒼白に染まった。橙は思わず目を背けた。
二人とも地べたに座り込み、気を失って昏睡している。頑丈な縄で縛り付けられている有様は、紛う事なく人質であった。
「元凶って、あなたどういう__一体何のおつもりですか___わたくしが、わたくし達が...何をしたと...?」
恐怖に取り乱して尚、ルナサが謂れのない誹りに肩を震わせる。
まるで理解の及ばぬ橙とルナサを、片や妖夢は毅然とした態度で見据えている。しばし重い沈黙が続き、やがて剣鬼は地面の血痕に目を遣った。
「霊に最も強く干渉出来るのは、霊に他ならない。だからこそ、貴方達の演奏は幽霊たちをひどく狂わせる」
「...狂わせるとは人聞きの悪い」ルナサが目を側める。「わたくし達のパフォーマンスは生者も死者も喜ばせる。だって音楽を慈しむことは、誰しもに与えられた_」
「それが迷惑だと言っている」容赦の無い言葉が反論を遮った。
「お前達の音を聴いた霊達は、まるで仮初めの命を得たが如く荒ぶっている。それが、どれほどの影響を与えるか」
「わたくし達の音楽には、そういった類の魔術が練り込まれていますから。魂の底から喜んで欲しいもの」
妖夢の物言いに一歩も引かないルナサであった。己の生業や誇りに対する非難など、プロには幾度となく通ってきた道だ。
「どこかで生が満ちるなら、それを埋め合わせるようにどこかで生が喪われる。世界の均衡とはそういうもの」やがて妖夢の眼光が、一層鋭くなった。「冥界(われわれ)から春(いのち)を奪ってのコンサートは、さぞや盛大なのだろうな」
妖夢は一つ吐き捨てて、再び近くの霊を両断した。
命を持たぬ観客が一人、また一人と塵と消えゆく。
「春(いのち)を____返してもらおう」
ルナサは愕然とした。橙は思考が固まった。
妖夢が訥々と語る。留めがたい怒りが淀みなく紡がれて、二人が異議を唱える隙はまるで無い。
「____ルナサさん。いえ、プリズムリバー幻楽団様。冥界に従事する者として、単刀直入に申し上げる」
...
「金輪際、演奏をやめて頂きたい」瞬間、妖夢の表情に悲哀が差した。「危篤なんだ。私の__愛しい幽々子様が」
多くの死者をも悦ばせる狂宴が、一人の亡霊を蝕んでいる。冥桜の亡姫──西行寺幽々子の無き生を蝕んでいる。
プリズムリバー幻楽団の音楽は死者の魂を大勢呼び寄せる。
歌の影響を受けて暴走した霊魂、こと仮初めの命は各所に散らばって、春(いのち)が咲く中心にいる幽々子は幾度も命を剥ぎ取られ、もはや余命幾ばくもない。
己の生業が、時に業の深い所業であると理解した時、ルナサは深く項垂れた。
橙は掛けるべき言葉を失った。詳細な経緯など聞ける空気では到底無かった。けれど瞬時に理解してしまった。
紫様が、あれほど自分に春を探させている理由を_____
「......妖夢様が、最愛の主人を譲れないように」ルナサが震える声で、儚く夢を語る。「妹たちと心と音を重ねる瞬間は、何にも勝る至宝なのです」
冷たく剣呑な風が一帯を吹き抜ける。誰も微動だにせず互いに見合って、次に沈黙を破ったのは妖夢であった。
「最後に聞いておきます。橙、あなたがそちら側につく理由は?」
「金とマタタビを積まれてね。それと"春"を集めて来いと、紫様からの通達があって」
橙は努めて軽妙に振る舞った。でなければ、周囲を取り巻く重圧に耐えられそうにない。
「成る程」妖夢は刀を一度鞘に納め、構えを取った。「式神様からは良い春が採れそうだ」
「下がって」橙も札を片手に携える。無論、茫然自失の依頼主を遠ざけて。「私とて、雪解けの前に眠るつもりは無くってよ」
風が止んだ。
嵐の前の、束の間の静寂。
「妖怪が鍛えたこの楼観剣に、斬れぬ物など_____有りはしない」
剣が抜かれる。続けざまにこちらも札を構える。互いに無音だった。
神速の剣士は鞘鳴りの音さえも置き去りにして。式神の懐の、紙一重の所まで一気に肉薄する。
「...速い...!」
一糸乱れぬ剣戟の嵐。橙は成す術もなく、札を構えての防戦を強いられた。八雲の妖力を結界として展開し、物理的な衝撃を必死に弾く。
ぱきりと、不吉な音が鳴った。紫紺に輝く障壁も、今や亀裂にまみれて軋んでいる。瓦解は時間の問題であった。
「【鬼神──飛翔毘沙門天】」
橙がすかさず反撃の術式(スペル)を口ずさむ。
自身の妖力はすぐさま詠唱に応え、七色に輝く光弾へと形を変じた。それらは橙の意思に基づいて、高密度な弾幕となって敵目掛けて向かってゆく。
が_苦し紛れの反撃をまともに受ける相手ではない。
光弾が、光をも断つ太刀筋を前に、無力に斬り伏せられる。
橙は再び結界を張り巡らせて、束の間の時間稼ぎに徹した。
現状維持ではまるで敵わないという実感。それは、展開されて間もなく無情に砕け散る結界の数々が、雄弁に語ってくれる。
割れた結界は次々と破片を撒き散らし、橙の身体を容赦なく突き刺した。魔力と体力の消耗が、視界から少しずつ、しかし確実に光を奪ってゆく。
嫌な冷たさと血の温さが、橙の全身にまとわりついた。
絶望的な窮地の中で、けれども橙は一縷の希望を見出した。
妖気を放つ白い靄が、妖気の主──妖夢に追従している様子を捉えた。
この靄をどうにか対処出来れば、あるいは_
捉えがたい連撃を捌きながら、必死に思考を張り巡らせる。
故に、その瞬間を見逃してしまう。
「なっ....!」
赤黒い光が瞬いた後、妖夢の姿は一瞬にして掻き消えた。
瞬間移動の類なのか。それにしてはあまりにも速すぎる。
まるで次元を丸ごと移動したかの如き神速は、神隠しと言っても過言ではない。
神隠しと言えば、八雲紫様に類する力ではないか。幻想郷の創設者、引いては神にも等しい能力を、
あの半人前はいつの間に____
奮戦のさなか、その姿だけは確かに見えていたはずなのに。一体何が____
身の毛もよだつ風が吹き、橙の周りに瘴気が渦巻いた。
奴はこちらの死角を突いて、意識の外から奇襲する腹積りか。橙の鼓動が早鐘を鳴らし、焦燥と恐怖に身体が竦む。
「『獄界剣──』」
虚空から、妖夢が諳んじた詠唱が響く。力強い言葉(スペル)に呼応して、昂ぶった妖気と魔力が大気を震わせて。
それはついに巨大な漆黒の魔法陣と形を成し、闇夜に堂々と浮かび上がる。
一筋の光明さえも呑み込まんとする黒円は、さながら黄泉へと繋がる門にも思えよう。
妖夢は奇襲など端から考えていないらしい。
隠す気など微塵も感じられない大きさの陣円は、真っ向から一撃で仕留めようとする意思の表れか。
不意打ちであれ、正面勝負であれ、橙にすればどの道勝算など薄い。勝ち筋が見えない。ならばいっそ、賭けてみる価値はある___
「【急急如律令──】」
橙は両手に札を構え、有らん限りの魔力を込めた。
左腕には藍色の、右腕には紫色の魔法陣が浮かび、意思が、闘志が、八雲の力が、言いようもなく全身を駆け巡る。
しなやかな二つの長尾が力強く天を衝く。言い知れぬ全能感が、橙の五臓六腑を飲み込んだ。
妖気を支配する調伏の神器は、今、この時の為に。
「『一閃___二百由旬』」
妖夢の雄叫びと一閃が炸裂し、全てを斬り伏せる太刀筋が魔法陣をこじ開ける。
黄泉の門が開かれて、剣鬼が式神へと鬼気迫る。相対する式神。片や一人は直進し、片や一人は__微動だにせず立ち尽くす。
逃げる意思なとかなぐり捨てて、剣先を限界まで引きつける。剣先が、命を断つ凶刃が銀光を放ち、己の眼前まで差し迫った。
死への恐怖。生への渇望。橙はこの"瞬間"を待っていた。
「【式神──】」
主人二人の妖力を自身に憑依させた後、橙はすんでの所で身を翻し、間一髪の剣撃を躱してみせた。
右頬を刀剣の金属が掠める。死に満ちる夜に、生者の赤がひらりと舞い散った、刹那。
「【八雲橙】」
たった一つの言葉(スペル)を以て、術の詠唱を締め括る。
やがて橙の双眸が、叡智と紫紺の輝きで満たされた。
恐怖、昂揚、臨場感。それらが精神を最高潮にまで押し上げて、式神として覚醒を果たした時___妖夢は全てを理解した。
目の前の、猫にも思しき小娘の___八雲たる者の真骨頂を。
「馬鹿なっ...!」
剣鬼を取り巻く妖力の源__白き靄は瞬く間に橙の掌へと吸い込まれていく。
妖夢の展開した妖気は、八雲の調伏の札を以て、所有者を書き換えられたのだ。
橙が両手を構える。視界には半透明に輝く障壁が広がり、今度は確かな厚みと大きさとなって術者を堅牢に守ってみせる。
妖夢の、渾身の一振りが放たれる。
対して障壁は、内と外とを隔絶する境界となって、沈黙で答えた。妖力によって異次元の斬れ味を誇っていた刃は、もう簡単には通らない。
...しかし。
「『獄神剣──』」
妖夢の詠唱の後に、瞬間、凄まじい突風と雷が周囲に迸る。橙と妖夢を取り巻く戦場に、大地に、赤黒い魔法陣が刻み込まれた。
「な、んで...っ」
橙は激しい目眩に襲われた。
妖力を剥ぎ取られたはずの妖怪は、まるで力を失っているように思えない。甚だ計算外であった。
橙は焦燥と死への実感に心を押し潰されそうになって、しかし相手がそれを悠長に見守るはずが無かった。
再び赤黒い閃光が走る。妖夢はまたしても、一瞬にして姿を消した。
辺りを満たす雷は一様に赤黒く、禍々しい瘴気で満ちている。自然のそれとは程遠い色合いは、地獄から召喚した雷そのものであった。
激しく渦巻く業風は、橙が奪ったはずの白い靄を蹂躙し、橙は上手く妖力が集められないでいる。
時間がない。
もうこれ以上は、互いに持たないだろう。
橙は根拠の無い確信を持って、一つ呼吸を整えた。
祈りを込めて、再び調伏の札を両手に構える。
「【式神──八雲橙】」
自身の五感が限りなく研ぎ澄まされた感覚が、肌を縫って全身を伝う。藍と紫の二人が見守ってくれている。
その確かな実感に、橙の心に凪が訪れた。
明鏡止水の境地。まるで天命を受け入れるが如く、ただその瞬間を、静かに待ち続けた。
「『辺獄──二百由旬』」
洗練された一太刀が、今度は黄泉の門を完全に切り開いた。来る。鬼気迫る勢いと共に、一直線に向かってくる。
不可視の神速は式神の目をも掻い潜り、時空を超えるように。
式神を守る防壁は、全身全霊の楼観剣を前に穿たれた。
矛と盾とが衝突して、一面に熾烈な火花が咲き誇る。
有無を言わさぬ鍔迫り合いに、二人が交える言葉は無い。
壁に亀裂が入る。音を立て、ぐらぐらとか弱く震えている。三枚、二枚、一枚と、堅牢な守りは次々と剣撃に散らされて、もはや橙を守る物など何も無い。
けれども妖夢の太刀筋も、少しずつ勢いを失いつつある。柄を握る手は震え、翡翠の瞳は激情に血走り、脚は両者共にがくがくと小刻みに揺れる。
終わりは近い。
藍様、紫様。
私はここで死闘の末に、命潰えるのだろうか。
背中が冷たい。息が重い。身体が痛い。苦しい。
誰か________
幼き少女の祈りなど、天へと届くはずもなく。
たった一つの願いは森の闇に吸い込まれて、やがて戦場に、深い沈黙が舞い降りる。
「がっ...」
静寂を破る慟哭は、果たして式神のものであったか。
否____それは、死力を尽くした剣鬼の、敗北を決定付ける叫びであった。
橙はハッとして目を開ける。すると自身の胸の中で、妖夢が力無く項垂れていた。
渾身の突撃もあと一歩叶わず、橙の喉笛を裂くには至らなかったのだ。防壁は木っ端微塵に破壊され、二人を隔てるものなど何も無い。
妖夢から時折聞こえる喘鳴は、既に力を使い果たしてか。息も絶え絶えな様子からは、攻勢に転じる余力は見られない。
とは言え橙も同様であった。身体の節々から血は流れ、鉄錆の臭いと戦いの後の脱力感が意識を朦朧とさせる。自分が何故生きているのかさえ、分からないでいる。
「間に合って、良かった」
橙のすぐ後ろには、本来居るはずのない、ルナサ・プリズムリバーが居て。
両手に構えたヴァイオリンで、美しい音色を奏でていて_____
「護ってくれてありがとう。だから今度は、わたくしの番(ターン)ですね」
橙の戸惑いなど露知らず、ルナサが静かに演奏を続ける。
耳に届く音色は、さながら死者へ捧げる夜想曲(ノクターン)だ。夜を讃えるに相応しい静謐な調律は、ともすれば鬱屈な気分へと沈んでしまう。
戦火を交えていた聴衆を、瞬く間に鎮静させる魔術。そこまで聞き入って、橙はようやく感づいた。
「...妖夢も、この音色に当てられて?」
「御明察の通りです」ルナサが静かに頷く。「わたくしの音色は躁と鬱のうち、鬱に当てはまる。とはいえ、妖夢様がここまで消耗していなければ、きっと彼女の心まで届くはずがありませんから_」
橙が脱力していると、胸の辺りが少し疼いた。
もぞもぞと蠢いたのち、妖夢が力無くこちらを見上げる。瞳から翡翠の輝きは失われて久しく、代わりに一筋の涙が流れている。
「返して、ください___幽々子様の、春を、返して、」
哀れに懇願する妖夢の姿に、幽世の剣鬼たる威容は無い。
ややあって、橙とルナサは顔を見合わせた。これで終わりではないと。
「ねぇ、妖夢。私ね」
橙の言葉は端的であった。
「物語を締め括るなら、ハッピーエンドでこそだと思うの」
満身創痍の式神が、不敵で素敵な笑みを浮かべてみせる。ルナサも迷いなく頷いて、妖夢は思わず瞠目した。
橙には使命がある。春を集めて然るべき所へ届けるために。
そしてルナサは決意する。自身の演奏がこの世の春を乱している以上、必ず元に戻さねばならないと。
...
冥府へと続く石造りの階段が、どこまでも長く続いている。辺りは幽冥の通り薄暗く、ぼんやりとした提灯が一様に浮かぶばかりで、人の気配は無い。
妖夢に案内されて、プリズムリバー幻楽団とその護衛は石の回廊を行く。妖夢と三姉妹は既に和解して、今度は音楽に関しての歓談に興じている。
如何にして春を元通りにするか、という全員の共通課題については、早くも打ち合わせを終えたばかりだ。
尤も、全く新しい試み──呪われた楽器──を取り入れた手法であるだけに、成功の望みは薄い。最後はやはり祈る他ない、というのが実情であった。
「悪夢の歌劇を招いたとされる、曰く付きの楽器だが___今では我々が保管している。私のような素人では到底手に負えないが、ひょっとすると、あなたがたなら」
妖夢が懸命に言葉を紡ぐ。悪夢の歌劇、と只ならぬ言葉を聞いて、プリズムリバー三姉妹は三者三様の反応を示した。
「悪夢の歌劇、か。そんなものが幻想入りするなんて、外の世界で何が起こったのかねえ。ああそれとも、戦争に明け暮れて音楽なんて不要になった、とか?」
リリカが懐疑的に捲し立てる。一方のメルランは、『曰く付きだからこそ、弾いてみたいじゃない』と楽しげだ。
どういう楽器でどういう音色なのかという現実的な部分を問うのは、長女であるルナサの役割である。
「...大勢の人を死に追いやった楽器なんて、不吉なものですね。わたくしとしては、あまり気分が乗らないのだけれど」
ルナサが珍しく不満気であったが、無理もない。自分の演奏でどうして大切な客人を葬るのか、加えてどんな目的で造られたのか。
生死を問わない博愛の演奏家は、生を否定する死の楽器をひどく嫌悪した。
薄紫色が滲んだ闇の帳の中を、ひたすら歩き続ける。
永遠と錯覚するほどの石階段に、空に浮かんでいる無数の提灯。相変わらず同じ景色が続くばかりで退屈だ。ウンザリだ。
___だからこそ、到着した先の光景に、橙は思わず感嘆の声を漏らした。
白玉楼。
冥府の中心に佇む楼閣は、正しくこの世の果てにある桃源郷であった。
古風で豪奢な屋敷に加え、侘び寂びの情緒に満ちた枯山水とそれらを彩る桜木の数々は、見る者の心を容易に奪う。
木々と石の純朴な香りが鼻腔をくすぐる。かくも美しき現し世の様相に、橙は現を抜かしていた。
「気持ちは分かるけど。見惚れてる場合じゃないと思うよ?」
リリカの茶々で我に返る橙であった。
三姉妹は裏庭の空き場所にて各々楽器を構え、コンサートの段取りをてきぱきと行っている。
「橙。どうぞこちらへ」
「ああ、ごめん、妖夢。つい、よそ見してたわ」
「いえ、気にせず。私も毎日飽きるほど見ているはずだが、この景色は不朽だ...いつ見てもいい」
どこか誇らしげな妖夢に手を引かれ、橙は慌てて白玉楼の中に入った。そうして長い廊下を歩き続けた末に、広い寝室に案内された。
廊下を歩いている途中、またしても例の"女の声"が聴こえたが_誰のものかは既知の所である。
一人の女が布団の中で咳込んで、しきりに汗をかいている。
冥桜の亡姫にして、白玉楼の主人──西行寺幽々子であった。
桜を彷彿とさせる桃色の髪は昔よりひどく褪せて、薄水色の着物も着崩れしている。
亡霊としての身体は儚いほどに消えかけていて、既にどれほど命が喪われつつあるか_想像するに余り有る。
かつて橙が聴いたあの声は、助けを望む命懸けの叫びであったに違いない。
「......紫様はね。私に"春"を集めて来てと、それだけ仰ったの。今ではその意味がやっと分かってね」
「成る程。紫様も藍様も、近頃はご多忙だと伺っている」妖夢は腑に落ちた様子で、幽々子の側に座り込んだ。「あなたに白羽の矢が立ったのも頷ける。何だかんだ言って、主人から信頼されているのだな」
八雲紫は幽々子と旧知の仲である。幽々子が亡霊になる前の、生身の人間である頃からの友人である。橙はふと考えた。
幻想郷の創設者であれど、さしもの紫様も友人の危篤に際しては大いに気を病んだ事だろう。
けれども部下である自分に対して、弱音を吐く様子などまるで見たことがない。紫様も藍様も、いつだって辣腕を振るう管理者として振る舞っていた。
『春を集めよ』と命じる際に、幽々子の様態も併せて報せれば良かったものを。
あるいは不器用な紫様なりの、何らかの気遣いなのだろうか。春を無事に集め終えたら、ゆっくりと話を聞くことにしよう。
「妖夢ちゃん」幽々子が目を覚まして、おもむろに身体を起こした。「今日は、お友達をお呼びなのね。私のことは、大丈夫だから」
「えぇ、大丈夫です」妖夢は飽くまで平然を装った体で、幽々子の手をそっと握った。「きっと、大丈夫ですから......」
妖夢の空元気を見届けて、幽々子は再び眠りに就いた。
それは単純な睡眠ではない。少しでも生き長らえんとする延命措置に近しい。
幽々子の病態を実際に見て、橙はいささか面食らった。事は思ったよりも深刻であるらしい。
やがて寝室に、整然な音色が聴こえてきた。胸元から札を出してみる。触ってみると微かにぴりりと電気を放ち、妖力はまだ残っている。
コンサートが無事に終われば、春を探す旅も終わる...。橙は不思議と名残惜しい気持ちであった。
...
広大な白玉楼の一角に、とりわけ大きく壮麗な桜の木があるという。幹の太さや枝の多さ、果ては枝先に生えた桜の美しささえも、他の木々とは一線を画す大木である。
その近くで、三姉妹は盛大な演奏会の準備を終えていた。
空には一片の欠けもない満月が見え、冥界の夜を粛然と照らしている。
やがて周囲を囲う宵闇が一段と暗くなり、どこからか数多の幽霊がわらわらと集まって来る。
客席は演奏直前になって、すぐさま熱狂的な死者の魂で満たされた。今宵開かれる公演は、夜を一層永くするのだろう。
ルナサがヴァイオリンの弦を引いた。
気高き音調が夜空に響き、静粛な宴の始まりを告げる。続いてメルランのトランペットが、大胆不敵で勇猛な音を紡ぐ。
鬱の音と躁の音。そこにリリカの鍵盤による幻想的な音色が躁鬱の響きに絡み合い、客席が歓喜と昂揚で色めき立った。
「『騒霊符──ソウルビブラート』」
上気した白玉楼を更に焚きつけて、三姉妹が力強くスペルを唱える。
魔力と妖気は速やかに術者の元へと集まって、夜空に大小様々な、色とりどりの魔法陣が浮かび上がる。
やがて陣円が開かれて、♪(音符)の紋様が空を舞った。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
七色の音が見るも鮮やかな調律と輝きを誇り、あまねく夜空に虹を架けた。
月下に広がる宵闇が、魔術の瞬きを一層美しく彩りながら。
筆舌に尽くしがたい絶景は、あえて喩えるならば__プリズムリバー(虹の川)の名に相応しい。
橙は思わず息を呑んだ。自身の役割を忘れかけるほど、魂の底から震えてやまない。
三姉妹による卓越した技術力と、視界に広がる白玉楼が織り成す錯覚なのか。
幽霊たちは狂気と歓喜に晒されて、我を忘れて激しく飛び回っている。
辺りは仮初めの生命と活気で漲り、場を支配する連鎖的な熱狂が、今にも臨界点に達しようかという刹那___三姉妹はぴたりと演奏を止めた。
やがてリーダーであるルナサから、ぽつりと言葉が零れ落ちる。
「《還霊──ミラメノスアギカ》」
呪われし楽器に秘められた、禁忌の魔術。スペルカードの詠唱を以て、今宵、悪夢の歌劇は蘇らん。
やがて演奏は再開する。ルナサのヴァイオリン、メルランのトランペット、リリカの鍵盤が動き出し、暫くして、聴衆はしんと静まり返った。
月影が、白玉楼の中心に落ちる。
盛大な公演というにはあまりに静かであった。
男性の厳しい響きと女性の透き通る声がコーラスとなって、荒ぶる生気を鎮めるが如き静けさと厳かさが一帯に満ちている。
ともすれば静謐な気品で満ちた公演に、霊魂たちは釘付けになって固まった。そして、この場にいる全ての者が理解した。
これは死者に捧ぐ鎮魂歌(レクイエム)である、と。
そしてこの楽器は決して、生者を葬る忌まわしい呪物などではない。
未だ成仏出来ずにいる魂を、正しく、そして安らかな眠りへと導く__神聖な楽器である、と。
魂に響く音に魅了される前に、橙は我に返った。私は今、この"瞬間"の為にいるのだから。
力強く息を吸い込んで、長き詠唱を紡がせる。
「八雲の名において命ずる__有らん限りの妖気を以て、我が調伏の神器に最後の力を与え給へ__そして、死者の魂を有るべき場所へ帰すこと、ここに宣言する」
八雲の札を両腕に構える。詠唱が進む度に輝きを増していく両腕の魔法陣が、眩い光を放った時_
「【鬼神憑装──八雲橙】」
いつしか八雲姓を賜るその日を心から願い、己の名前を叫んでみせる。
刹那___霊魂たちは凍り付いて、微動だにしなくなった。霊魂はやがて引き合うように集まって、奇しくも六角形を描き出した。
凍り付いた六角形。冬を象る立花と言うには些か仄暗く、これが春の前兆というには忍びない。
橙の強力な霊力によって、彼らは自らの意思で動くことなどもう叶わない。行く末は決定付けられた。
橙とて多少の心苦しさが、無いわけではなかった。
それでも、直接手を下す"彼女"に比べれば、些細な物であろう。
「『焉符──現世斬』」
曖昧な生死もろとも、迷いを断ち切る楼観剣。その一振りが、凍て付く立花を切り裂き、彷徨える魂を無へと導く。
妖怪が鍛えた大業物に、斬れぬ物など有りはしない___
かつて咲き誇っていた仮初めの命と華は、半人半霊の剣士によって断ち切られた。
そして最後の霊魂が空へと霧散した、その時。
白玉楼の一角に根ざす、とりわけ大きく壮麗な桜──西行妖の花びらに、絢爛な桃色の輝きが咲き乱れた。
命が元ある場所へと帰るように、春の光は淀みなく西行妖へと流れ着いて。そうして___
「やっぱり花見と花見酒は、皆が揃ってこそよね____そう思わない?」
白玉楼からひょっこりと顔を出したのは、西行寺幽々子であった。
本来の生気と艶やかさを瞬く間に取り戻し、その天真爛漫な微笑みは、春の陽気に勝るとも劣らない。
「そうですね、幽々子様__急いで春宴の準備をしなくては、なりませんね」
妖夢は声を震わせて、止めどなく涙を流し続けた。鎮魂歌も丁度良い頃合いに終幕を迎え、しばらく沈黙が続いた。
温かな沈黙だった。誰しもが言葉も交わさずに、冬の終わりを心から受け入れている。プリズムリバー幻楽団の公演は、今ここにいる全員の心を一つにした。
やがて夜闇に光が差して、麗らかな太陽が朝日を連れてくる。
妖々(ようよう)白くなりゆく冥界に、命の萌芽と黎明の輝きが満ち満ちた。
かくして六花の眠る暁に、盛大な春が舞い降りる。
...
「やぁ、いらっしゃい。......おや、もしや、貴方は」
無何有の郷の一角にある、場末の飲み屋。
閑古鳥が鳴きそうな店内の静けさは、いっそ画になる程であろう。それを破るお客様の御成だ。店主は慌てて身を乗り出した。
ふと、そこに女性二人が店に入る。が、良くも悪くも場にそぐわない服装に、店主は少し驚いた。
背丈の高い女性を見る。
白のフリルがふんだんにあしらわれた服装の上に、陰陽玉が描かれた紫色の前掛けが掛かっている。
もう片方の女性は、白のフリルと青の前掛けに、狐さながらの耳と九尾がよく目立つ。
両者ともさながら創作に出てきそうな道士然として、雰囲気から察するに人ならざる者達であるようだ。
「この前は、あの子がお世話になったわね」
紫服の女性が礼儀よく辞儀をして、ゆっくりとカウンター席に腰を下ろした。
続けて、狐の女性から要望が入る。
「そこの一升瓶に相応しい土産話を持ってきたよ、マスター。すまないが、今夜ばかりは少し語らせて頂きたい」
狐の女性が冷静に言う。けれども顔はやや綻んでいるのを、店主は決して見逃さない。
店主はしばらく黙り込んで、もう一つの一升瓶を追加した。
「あら、良いのかしら」
紫服の女性──八雲紫は、店側の厚意に微笑みで返した。隣にいる狐の女性──八雲藍も同様だ。
謝礼を無碍にする無粋な呑兵衛は、この場にはいない。
「良い肴があるならば、相応しい主役が居なくては。そちらのお話に相応しい肴をご用意いたします。如何いたしましょう」
「そうね。では、私の可愛い部下の橙の__」八雲紫と藍のお猪口に、滑らかな純米酒が注がれる。「いえ......八雲橙のお話を、いたしますわ。マスターも一杯いかが?」
とある式神の英雄譚は、郷の片隅の飲み屋にて紡がれるのである。
からんと軽妙な音が鳴った。かくも静かな乾杯は、胸と喉とをどこまでも熱くさせるだろう。
___Fin.
黎明の輝きが一層白くなった。信号所に汽車が止まった。
ごう、と巨大な黒鉄が揺れる音がして、間を置かず。
一帯に硝煙と氷の冷気が流れ込んだ。
「終点、終点──無何有(むかう)の郷」
未だ薄暗い寒空に、淡い白煙が垂れ込めている。
が、じきに純白のヴェールも掻き消えて、やがてそこから、漆黒と風化した錆色に身を包んだ蒸気機関車が現れた。
「無何有の、郷──」
終点を告げる鈴の音色が、雪原の静寂に添えられる。
静かな子守唄の温かな優しさが、座席で微睡む少女の胸中をわずかに震わせた。
鳶色の髪に縁起よい紅白のワンピースが可憐な少女であった。けれどもそれ以上に目を惹くのは_小さな帽子では隠しようもない猫耳と、黒くしなやかな二つの長尾だ。
幻想郷の創設者たる、八雲紫の忠実な式神──八雲橙(やくもちぇん)であった。
否、この"旅"を無事に終えた時に、八雲の姓を冠する予定である。
それよりも_
幻想郷に鉄道が通り始めてまだ間もない。
濃霧から巨大な黒鉄が顔を出す様はひどく鮮烈で、言い知れぬほどに圧巻で、壮観で。目が離せなくて。
橙は少し名残惜しげに、機関車に背を向けた。
「旅のお供にお一つ、如何でしょう」
広大な駅構内では、白狼天狗が愛想よくお弁当を売り込んでいる。
この駅も鉄道も元を辿れば、守矢の神々を筆頭に、山の河童や天狗たちが技術と叡智を結集させて造ったものだ。
「あらこれは、八雲の式神さま。良ければお一ついかがですか?九天の滝を模したお弁当なのですよ、当店の一番人気でして」
天狗の淑やかな微笑みに、橙も微笑みで返した。すぐさま値札に目を遣ると、書かれた数字は何とも可愛げがない。
値札をあえて神妙な面持ちで見つめてみると、天狗は笑顔を貼り付けたまま、ゆっくりと弁当の中身を開いた。
「よければ試食だけでも。きっとお口に合いますよ」
中身はさながら壮麗な一枚絵であった。
緑と紅葉が咲き誇る妖怪の山を、芳醇な茸や筍などで象った大胆な盛り付けは、客人の五感を余すことなく愉しませてくれる。
見るも味わうも美しい。これが楽しい旅行の最中であれば、橙は迷わず持ち帰っている。
時間は金で買えずとも、金は時間を豊かにしてくれる。
「ありがとう、帰りに一つ...いえ、三つほど頂こうかしら。まあ、ディナーは"謎解き"の後でも遅くはないと思うから」
「あら、ここへはてっきりプライベートでいらしているのかと思ったのですが、お仕事でしたか」
「えぇまぁ、少し探し物にね。ま、半分は遊びみたいなものだけれど」
橙はお辞儀をしてその場を後にした。一方の天狗も、去る客にしつこく営業を仕掛けるでもない。
この幻想郷で生きとし生ける者はみな、心豊かながらも多忙な日々を過ごしているのだ。
しんしんと雪が降る道を、街灯が心許なく照らしている。静謐な空気を湛えた無何有の郷の一画に、人の姿は見当たらない。
けれどもこの気品に満ちた凍土の先に、橙がずっと追い求めていたものが_
あるのだろうか?
橙は些かの疑問を抱きつつ、生まれて初めての一人旅をして、今まさに、その第一歩を踏み出した。
自分にとって未踏の地を往き、紫様から命じられた物を手に入れる。
目的地となる場所も経路も未だ不明瞭で。すなわち_自分の裁量一つで全てを決められる、なんとも自由な旅である。
橙は八雲の式神となって以来、ただ命令を受け入れ続けるだけの日々を過ごした。
しかしこの度は、己の意思で見る景色の数々を、この目でしかと捉えに行くのだ。
単純に業務を遂行するだけに非ず。自分一人での旅立ちを通し、紫様や藍様に引けを取らぬ程の、立派な道士になってみせる。
そして、この愛しい幻想郷を守る一人として世界に在りたいのだ。
八雲とは、私にすれば単なる姓の一つではない。
己の武勲を証明する、この上ない王冠なのだ。
...
「はぁ、春を集めてる...か。お嬢さん、焦らんでもええ。雪解けもまだ見てないんに、花見するにゃ些か寒いと思わんかね」
郷の集落の片隅で、好々爺が橙を宥めている。
辺りに広がる質素で奥ゆかしき景色には目もくれず、橙は聞き込みに徹していた。
「どうも美しい物には目がなくて。それも、独り占めにしたいくらい」
「カカカ!まさかお前さん、さては春を集めて誰かに売りつける算段じゃあるめぇな?」
「__当たらずとも遠からず、ですかね」
八雲紫の勅命を受け、橙は"春"を探していた。紫が告げた代物は目に見える物体ではないようで、ひどく曖昧で婉曲的であった。
紫様は立春の宴でも開くつもりなのだろうか。何かの比喩かと辞書を引けども答えは見当たらず、であれば先人の知恵袋に肖るのが賢明だろうと聞き込んでいる。
「ええと、間違ってたらすまんが...春をひさぐ、ちゅう訳でもねぇよな?」
「まさか。いえ、それで済むなら、いっそ簡単だったのでしょうね」
「すまん、悪ぃ事聞いたな」爺は頭を下げたが、橙が気にする素振りはない。
むしろそれ以上に問題なのは、集落を周れども春の手掛かりなど一向に集まらない事であった。
やがて郷を照らす陽光が、いつしか茜色へと沈んでゆく。
何の収穫も得られないまま、空の色が逢魔が時を克明に告げる。
"悪魔に逢う"から逢魔が時。凶兆の黒猫たる自分には相応しいだろうか。
などと呑気に、橙は考えていたのである。
...
「...春、か。紫様も酷な事を仰る」
街灯が寂しい夜の雪道を、橙が独り言ちて歩き続ける。
肌を刺す冷気が吐息を白く散らす寒空の下、人の姿は見当たらない。
愛しい主人たる八雲藍が丁寧に編んでくれたマフラーを、ぎゅっと口元に寄せて。鼻腔を突き抜ける木々と霜の香りが、どこかほのかに爽やかであった。
さて春とは何たるかと、改めて橙は思考していた。順当に考えれば、春とは冬の次に世界を彩る季節である。
何かしらの現象を境に冬が終わる時_雪解けや草木の萌芽がそれであろうか。春とはやはり、生命の芽吹く頃合いである。
取り留めもなく、冬に焦点を当ててみる。時に雪の結晶は六花と喩えられる。結晶化した雪はしばしば六角形の形を取る事から、そう呼ばれる。
であれば_六花の眠る暁に、賢者が求めてやまない"春"があるのだろうか。事はそう簡単ではないだろうと、橙は深く溜め息をついた。
『あなたが集めた春を以て、幻想郷に均衡をもたらすの。本来なら私か藍が出張る所だけど、近頃は結界の管理で忙しくてね...橙。貴女なら、きっと問題ないはずだから』
紫様が自分を送り出した時の事を、橙は何気なく想起した。
幻想郷の"均衡"。世界の有り様と、単なる四季の一角が直結するとは考え辛い。
賢者たる紫様であれど、まだ良く分かっていない事くらいあるのだろう。
夜の帳が降りた無何有の郷はどこまでも閑寂で、雪を踏む靴の音だけが橙の鼓膜を震わせる。
自身の他に生命の気配はまるで無く、闇を愉しむ虫や子鳥は不思議なほどに見当たらない。
夜更けと言えどあまりに静かだ。静か過ぎる。葬儀場に来たつもりはない。
深い沈黙に包まれた銀盤は美しいと同時に、何かが覆い隠されているようにも思えた。
ふと、風向きが変わった。
冷たい風が頬を濡らし、両耳の毛先が強く揺れる。
瞬間、橙は妙な違和感を覚えた。
雪原の端に、黒い影が落ちている。
影は細く、鋭く、さながら雪を斬り裂いたように真っ直ぐであった。
橙は近づき、しゃがみ込んだ。
片手に八雲の御札を添えながら、もう片方の指先で痕跡にそっと触れる。
冷たい。
けれど、その冷たさの奥に、言い知れぬ気配があった。
「斬られた跡......?」
妖気を探る調伏の札が、微かに揺れた。
それ即ち___
白銀に刻まれた黒線は、自然のものに非ず。
刃物の跡──それも、ただの斬撃ではない。
妖怪の力が入り混じった、鋭く禍々しい残滓が残っている。
けれどもそれ以上に不可解なのは__
凶刃の犠牲者も、白を汚す血痕も。まるで見当たらないことだった。
最初から、そこに"命など無かったかのように。"
橙は堪らず周囲を見渡した。
雪はしんしんと降り続け、街灯の光は頼りなく揺れている。
人影はなく、音もない。
ただ不気味な静けさだけが、世界を満たしている。
身の毛もよだつ一幕に、橙は足早に先を急ぐ。
目的地などない。とにかくここに居ては危ないと、式神の本能が警鐘を鳴らした。
当て所なく歩く。風が少しずつ強まっているのは、恐怖から来る錯覚なのか。何でもいい、今はただ、この恐ろしい夜を抜けて____
__直後。
駆け足で氷を踏み鳴らす橙の背後を、"女の声"が木霊した。橙はびくりと身体を震わせた。
......ただ何とも美しい声であった。切なく、儚く、どこか色香を漂わせる響きに思わず後ろ髪を引かれ、不思議と橙の胸を締め付ける。
誰の物とも分からぬ呼び声は、いっそ蠱惑的でさえあった。
だからこそ、恐ろしい。
妖しい魔力に満ちた声に導かれぬよう、ただ前だけを見据えて、命からがら夜を抜けて____
...
「って事が、あったワケですよぉ」
朝日が顔を出す刻。
人々が活動を始めるこの時間から、それも場末の飲み屋で。
カウンター席の隅っこで、橙が闇雲に酒を呷っていた。
「...なるほど。"その辻斬り、幻影につき"...なんてどうだろう。本にすれば売れるかと」
「私の旅は見世物じゃないっつーの...」
橙の話を聞いて、店主はどこか楽しげだ。こちらの気も知らないで、と思う。
とはいえただの人間に、妖怪である私の気持ちを理解されてたまるかという気もしたので、黙って梅水晶を口にした。
「お嬢さん、見た所あなたは猫──それも、式神の類か何かだろう。そんな方でも夜の妖怪に怯えるなんて、不思議でね」
店主はお伽噺を読むかの如く、どこか非現実的に語っている。
橙は微かな苛つきを抑えながら、がま口の小銭入れを開けた。
ずいぶん飲みすぎたようだ。では一仕事しなくては__と、店主から貰った新聞を広げる。
この手の場所では良質な情報が見つかると、橙は主人からよく聞かされていた。
ビンゴだ。
流石は大手の文々。新聞とだけあって、求人の数は枚挙に暇がない。何とも優れた情報媒体なのだろう_鬱陶しい見出しに目を瞑れば、の話だが。
「ねぇ見て、マスター。これとか面白そうじゃない?」
一つの求人が橙の目に止まる。【晩カラ深夜マデ護衛求ム 報酬金ハ弾みマス】
危機の香りに満ちた文言を、嬉々として店主に見せつける。
「...何とも挑戦的な依頼だ。好奇心は猫をも殺すとは言いますが」
「猫の手も借りたいのでしょう」橙は得意げに一杯呷った。「それも式神たる猫の、ね」
「やれやれ」店主は肩をすくめてにこりと笑った。「良い土産話が聞けそうだ」
「じゃ、ツケにしてくださる?」
「それはなりませんね。......ですが」
橙が「ちぇー」と異議を唱えると、店主は戸棚の奥から古めかしい一升瓶を取り出した。
「良い肴があるならば、相応しい主役が居なくては。お仕事のお話、楽しみに待っていますから」
やがて酔いも醒めた辺りで、橙は代金を支払った。
申し訳程度に添えた心付けは、数奇な縁へのささやかな祝福だ。
...
人々が忙しなく行き交う雑踏を、やっとの思いで潜り抜ける。
橙が幾度も汽車を乗り継いで向かった先は、幻想郷きっての大都会──通称、"都"であった。
垢抜けた煉瓦造りの建物が一挙に立ち並び、路面電車が優雅に道を行く。街行く人々を洒脱に彩る近代的な光景は、橙の視線を釘付けにした。
芳醇な香りを漂わせる洋菓子屋に、華やかな衣服を取り揃えたブティックの数々_いずれも、今の持ち合わせでは手が届かない。
人の多さと煌びやかな街の光景に圧倒されて、雪の静けさが恋しくなった。
"天空の花の都"の異名を持つこの街は、見物するだけでも目と意識とを奪われる。
けれども橙の足取りは、迷いなく目的地へと向かっていた。遠路はるばるやってきた田舎者が迷わなかった理由は、ただ一つ。
見上げると、そこには巨大なコンサートホールが聳えていた。
紅いレンガや褐色の意匠がふんだんにあしらわれた建造物。この場に収まる_即ち、大勢の観客を集められる存在が、果たして幻想郷に居ただろうか。
橙は少し考えて、やがてその問いは無粋であったと合点がいった。
「初めまして、お会い出来て光栄だわ_八雲の式神さま」
清楚な黒衣と黄金色の髪が美しい、凛とした女性であった。
のみならず。片手で楽器を__否、彼女にとっての半身を収めたケースを、大切そうに持ち歩いている。
「わたくしは、プリズムリバー幻楽団が一人──長女のルナサ・プリズムリバーと申します」
幽霊楽団こと、プリズムリバー三姉妹。
彼女らが奏でる音楽は文々。新聞をして、止めどない歓喜と狂気で身魂を震わせるとも形容される。
世に名を馳せてやまない演奏家は、他でもない橙の依頼主であった。
...
がらんとした大聖堂の中を、薄暗い照明がささやかに照らしている。観客の見えない舞台にあって、この場に居るのは橙を除けば三姉妹に限られる。
舞台に立つのは幽霊楽団が一角_ルナサの妹であるリリカとメルランだ。
紅いベストと栗色の髪が可愛らしいリリカと、薄桃色のシャツが嫋やかなメルランが、思い思いに楽器を弾いている。
片や巨大な鍵盤に、片や豪奢なトランペット。突発的で断片的な音色から察するに、本番前の調整中なのだろう。
静けさと情熱とが溶け合った舞台裏の光景を、橙は客席から不思議な気分で見つめていた。
「いい眺めでしょう?」
隣に座るルナサからそっと声を掛けられて、橙は我に返った。
「え、ええ、そうね。アマチュアが気安く見て良いものなのかしら」
「言ったでしょ。"報酬"は弾みますって」
自分たちの練習の風景さえも価値があると誇示するルナサだ。時折耳に入るメロディの滑らかさは、会場の音響が優れている証か、卓越した技術の成せる業か。
いずれにせよ、橙は微かに夢見心地であった。天にも昇る気分...と言うには、いささか大袈裟であるが。
「あの子たち、普段はうるさいんだけど。ここにいる時だけは、誰よりも真剣で、冷静で、真っ直ぐなの」
ルナサが大切な物を見つめるように遠くを眺める。彼女の穏やかながらも饒舌な語り口は、不思議と橙の興味を惹いた。
「いいわよね、音楽って...種族も性別も価値観も超えて、みな誰しもが音色に心を奪われて、一つになる...その瞬間がたまらなく愛おしくて。分かるかしら、この感じ」
「要するに、同志たちと繋がりたいと」橙は適当に返した。音楽に関してはとんと素人であった。「魂を震わせる音楽とか何とかで」
「雑なまとめ方ね」ルナサはくすりと笑った。「まあ、概ね正解よ」
暫しの間、二人に心地良い沈黙が降りた。メルランとリリカの音色が耳を撫でる。
気分華やぐ昂揚の音と、言葉に表しがたい幻想的な音。ではルナサが持つヴァイオリンは、どのような響きをもたらしてくれるのだろうか。
二人の調律に聞き惚れていると、ふと冷たい風が橙の耳元にまとわりついた。
突然の感覚は不思議と愉快だった。後ろを振り返ると、半透明な何かがふよふよと空中に漂っている。
「あら、いらっしゃい。コンサートなら数日後だけれど、前夜祭をご所望かしら」
ルナサが優雅に微笑みを向ける相手は、仄暗い蒼光を湛えた人魂──幽霊であった。
幽霊はしきりに身体を震わせて、メルランやリリカにゆっくりと向かって行き、やがてぐるぐると回遊し始めた。
それを見た二人はぴたりと演奏を止め、元気の良いお客様へにこやかに手を振っている。粋なファンサービスであった。
「......幽霊も観客の内というわけね。どういう理屈なのか、分からないけど......」
半ば理解を放棄して溜め息をつく橙に対して、
「わたくし達のパフォーマンスは生者も死者も喜ばせる。音楽を慈しむことは、誰しもに与えられた歓び_ただ、それだけの話ですわ」
客席を賑わす演奏は、博愛精神の賜物であろうか。橙は音楽に関して無学であれど、興味を惹かれた。
「ねえ、ルナサさん。演者になってからどれくらい経つの?貴方たち、所作も雰囲気も凄く洗練されてるから、何だか」
「幽霊として生まれて以来、ずっとかしら」ルナサは照れくさそうにはにかんだ。「幽霊が生まれるってのも、変な話ね」
三姉妹は揃って幽霊であった。脚の先はうっすらと半透明で、よくよく見ると地に足が付いていない。
霊にして肉体を持っている。何とも矛盾めいた光景だが、幻想郷ではさして特異な光景でもない。
それどころか、霊気を帯びた独特の儚さが、かえって彼女たちを幻想的に描いているとさえ感じられる。
二人の間に僅かな沈黙が降りる。
直後、聴き覚えのある"声"がコンサート上に木霊した。
妖艶な悲哀を孕んだ響き。それはプリズムリバー楽団の演奏に淀みなく溶け込んで、例の"女の声"に感づいたのは橙ただ一人であった。
何だか胸の内側が不安で締め付けられたが、今はそれに気を取られている場合ではない。何しろ聞きたい事が山積みである。
さて__
「こうもお喋りに花を咲かせると、いざ仕事するって時に憂鬱でイヤね」
橙は上客の機嫌を損ねないよう、飽くまで丁重に接した。
「だからそろそろ本題に入らせてもらうわ。貴女がたの護衛というのは、演奏中の話かしら。厄介な御客様(ファン)がいらっしゃる、とかね」
橙が声を潜めて耳打ちする。
雑談は程々に、仕事は遂行しなければならない。
「そうね...厄介過ぎて、近い内に、わたくしたちがあの世に厄介になるかもしれなくて」ルナサの朗らかな表情に、深く暗い影が落ちる。
「このライブが終わったら、殺されるかもしれない」
橙は思わず目をひん剥いた。耳を疑った。この子は何を言っているのか、と。
が_ルナサの悲痛に張り詰めた瞳を目にして、一体どうして冗談だと思えよう。
「__どういうこと?」
「本当につい最近から...夜道を歩いてると、急に、刃物を振るうような嫌な音が聴こえてくるの...」
_刃物。"あの時"を否応なしに想起させる単語が、橙の背筋を冷たく撫でた。
無何有の郷では誰も何も分からず仕舞いであった怪談も、もしかすると、彼女なら_
「その場所に、変な痕跡とか見かけた?例えば、雪の上に黒い跡があって、そこから妖しい瘴気が漂ってて_とか」
橙が懸命に訊ねると、ルナサは恐る恐る頷いた。「それと、命を拒むような、凄く冷たい風が吹いていたわ...」
「犯人らしき人物の特徴とか、何か知らない?」
「同じ事が三回くらいあったのだけど、まるで見えなかったわ_動きが速すぎて、でも...わたくしが狙われなかったのは、どうしてかしら...」
被害者曰く、犯人は捉えがたいほどに速いという。
刃物で速い。朧げな仮定を立てさえすれば、いくらか"対象"は絞られる。しかしながら、行動の意図だけは全く想像に及ばない。
ルナサは短い期間で三回ほど被害に遭った。誰がしかの恨みが由来なのか。
ならばどうして彼女は無傷で、妹たちも無事なのだろう。
橙にすれば雲を掴むような想いであった。
意図も犯人も不明のさなか、依頼者を護る以外に道はない。けれど_
「ルナサさん。貴女、報酬は弾むと言ったわね」
「え、ええ_それがどうかしましたか?」
橙は立ち上がって、八雲の札をルナサに見せつけた。
「八雲の名に懸けて、貴女は必ず護って見せる。だから何も憂う事なく、ありったけのショーを見せて頂ける?」
目の前の女性が素晴らしい音楽家であると同時に、私にも八雲の式神としての矜持がある。
この紋所が目に入らぬか。橙は札をルナサの額にまで近づけた。
「_ふふ、なるほど。そこまで言われたら、わたくしもプロとして、最高の報酬を約束しないとね」
ルナサは顔を綻ばせて、橙に深い謝意を示した。
霊の肉体を持たぬ護衛と、霊として生きている依頼主。
握手の叶わぬ種族上の隔たりなど意にも介さずに、かくして二人の間に堅牢な契りが交わされる。
虚勢を張って突き進む。
それ以外の術など、今の橙には何も無かった。
...
漆黒に満ちた空の彼方に、星の輝きは一つとして見られない。
時刻は既に逢魔が時を過去にして、今では無明の闇夜が幻想郷全体を冷徹に見下ろしている。
橙が三姉妹の前に立って、不吉な帰路を先導していた。都の中心から外れた森は息が詰まるほど鬱蒼として、身を潜める手段には困らない。
犯人からすればさぞや好都合な現場であろう。それがため、そよ風に揺れる木々と草木が嫌でも神経を逆撫でる。
_数日後には盛大な演奏会が控えている。ここで客人に死なれては、報酬が全て水の泡だ。
「やっぱり、もっと都心の方に住むべきだったのかもねぇ...。家賃をケチった代償(ツケ)が来たって感じよね、ルナ姉さん」
闇の中でも冗談を交えるリリカに対し、寡黙な長女は目もくれず。ルナサは依然として、張り詰めた眼差しで夜の森を警戒している。
メルランに至っては顔から生気が失われ、橙は思わず手を握ってやりたくなった。とはいえ霊の肉体と橙の肉体とでは、指先を合わせる程度が関の山だ。
「待ってください」
後ろからルナサに声を掛けられて、橙はぴたりと足を止めた。
ふと、視界の端に、白く濁った靄が映る。
_なんだこれは。
これほど深い靄は、生涯でも見たことがない。
ましてや先ほどまで、気配など欠片も無かったというのに。
「...わたくしが狙われたのは、いつだってこの靄が掛かった夜の事でした」
ルナサの瞳孔が緊張に歪む。同時に橙も尻尾の毛が針金のように逆立った。
否応なしに心拍が上がる。ちらりと横を見遣る。か細い声で呻くメルランと、次女を優しく慰めているリリカの二人は_
有り体に言って、格好の獲物であった。
胸元のポケットから八雲の札を素早く取って、虱潰しに妖気を探る。
反応は_一定であった。
ひどく、一定であった。
だから、気づいてしまう。
「しまっ...!」
既に視界を覆い尽くしているこの濃霧は_自然現象の類ではない。
妖気と瘴気に満ちたそれは、四人を閉じ込める不可視の監獄であった。
「陣形を組んで!背中は見せないで!」
橙が声を張り上げて指揮を取る。
ぴりりとした静電気が、橙の肌を忌まわしく駆け巡る。
「ルナサ姉さん、どこにいるの!?こんな時に冗談じゃないってば!」
霧中に轟くリリカの叫びも空しく、白の闇に吸い込まれた。
誰も彼もが互いの手を繋ごうと足掻く。
けれどいつしか四人は分断されて、橙の視界にはルナサだけが残った。
二人は互いに顔を合わせ、藁にも縋る思いで背を預ける。
直後。
「_____ッ、____」
声にもならない声が、断末魔が上がった。身を凍てつかせる死の叫びが二人の耳を劈いて。
脚が竦み、頭が眼前の光景を拒絶する。けれども状況が分からねば何も出来ぬと、橙はそっと足を進めるしかない。
「なに...これ...」
濃霧を手で払いのけると、地面には透き通った液体_さながら水色の血痕が、びっしりと広がっていた。
犠牲の痕は赤に非ず。生者であればあり得ない色合いも相まって、死の気配で満ちている。あたかも最初から、そこに"命など無かったかのように。"
ややあって、ルナサが声を震わせた。
「斬られてる...幽霊が...」
そんなはずが、と思った。
物理的な干渉をある程度無視する幽霊を、木っ端微塵に切り裂くなど。
霊に干渉するならば、同じく霊の身でなければならない。霊を殺せる霊など、それこそ幻想にも劣る絵空事である。
...ただ、一人を除いては。
ただ、一人。
霊の身体を持ち、刃物を扱い、そして捉えがたく疾い。
この全てに合致する"彼女"だけは、あるいは_
「まさか...!」
橙の中での疑惑が、信じがたい確信へと変じた刹那、
心胆を寒からしめる異様な気配と___
命を断ち切る一太刀が、静かに虚空を切り裂いた。
やがて不可視のヴェールが掻き消えて、かの者が現れる。
触れれば散ってしまいそうな儚い白と銀の髪に、翡翠の輝きを湛えた瞳。
半人前の謂れなど今は昔──幽世の剣鬼こと、魂魄妖夢が、そこに居た。
「邪魔をしないで頂きたい_例え、八雲の式神であろうとも」
重く響く少女の声色は、明確に警告の意を滲ませている。
橙もルナサも言葉を失って、驚愕と動揺で上手く口が開けない。やっとの思いで、橙が腹の中を絞り出す。
「...何を、しているの」
「ご覧の通り、幽霊を斬っているのです。それが終わったら___その元凶たる、貴方も」
妖夢が背から長刀を抜いて、ルナサに容赦なく突き付ける。
霧が晴れ、殺意と刀身とが露わになった。新月に照らされた刀の鈍い輝きは、戦慄するほどに美しい。
同時に、リリカとメルランが濃霧から現れる。
長女の顔面が蒼白に染まった。橙は思わず目を背けた。
二人とも地べたに座り込み、気を失って昏睡している。頑丈な縄で縛り付けられている有様は、紛う事なく人質であった。
「元凶って、あなたどういう__一体何のおつもりですか___わたくしが、わたくし達が...何をしたと...?」
恐怖に取り乱して尚、ルナサが謂れのない誹りに肩を震わせる。
まるで理解の及ばぬ橙とルナサを、片や妖夢は毅然とした態度で見据えている。しばし重い沈黙が続き、やがて剣鬼は地面の血痕に目を遣った。
「霊に最も強く干渉出来るのは、霊に他ならない。だからこそ、貴方達の演奏は幽霊たちをひどく狂わせる」
「...狂わせるとは人聞きの悪い」ルナサが目を側める。「わたくし達のパフォーマンスは生者も死者も喜ばせる。だって音楽を慈しむことは、誰しもに与えられた_」
「それが迷惑だと言っている」容赦の無い言葉が反論を遮った。
「お前達の音を聴いた霊達は、まるで仮初めの命を得たが如く荒ぶっている。それが、どれほどの影響を与えるか」
「わたくし達の音楽には、そういった類の魔術が練り込まれていますから。魂の底から喜んで欲しいもの」
妖夢の物言いに一歩も引かないルナサであった。己の生業や誇りに対する非難など、プロには幾度となく通ってきた道だ。
「どこかで生が満ちるなら、それを埋め合わせるようにどこかで生が喪われる。世界の均衡とはそういうもの」やがて妖夢の眼光が、一層鋭くなった。「冥界(われわれ)から春(いのち)を奪ってのコンサートは、さぞや盛大なのだろうな」
妖夢は一つ吐き捨てて、再び近くの霊を両断した。
命を持たぬ観客が一人、また一人と塵と消えゆく。
「春(いのち)を____返してもらおう」
ルナサは愕然とした。橙は思考が固まった。
妖夢が訥々と語る。留めがたい怒りが淀みなく紡がれて、二人が異議を唱える隙はまるで無い。
「____ルナサさん。いえ、プリズムリバー幻楽団様。冥界に従事する者として、単刀直入に申し上げる」
...
「金輪際、演奏をやめて頂きたい」瞬間、妖夢の表情に悲哀が差した。「危篤なんだ。私の__愛しい幽々子様が」
多くの死者をも悦ばせる狂宴が、一人の亡霊を蝕んでいる。冥桜の亡姫──西行寺幽々子の無き生を蝕んでいる。
プリズムリバー幻楽団の音楽は死者の魂を大勢呼び寄せる。
歌の影響を受けて暴走した霊魂、こと仮初めの命は各所に散らばって、春(いのち)が咲く中心にいる幽々子は幾度も命を剥ぎ取られ、もはや余命幾ばくもない。
己の生業が、時に業の深い所業であると理解した時、ルナサは深く項垂れた。
橙は掛けるべき言葉を失った。詳細な経緯など聞ける空気では到底無かった。けれど瞬時に理解してしまった。
紫様が、あれほど自分に春を探させている理由を_____
「......妖夢様が、最愛の主人を譲れないように」ルナサが震える声で、儚く夢を語る。「妹たちと心と音を重ねる瞬間は、何にも勝る至宝なのです」
冷たく剣呑な風が一帯を吹き抜ける。誰も微動だにせず互いに見合って、次に沈黙を破ったのは妖夢であった。
「最後に聞いておきます。橙、あなたがそちら側につく理由は?」
「金とマタタビを積まれてね。それと"春"を集めて来いと、紫様からの通達があって」
橙は努めて軽妙に振る舞った。でなければ、周囲を取り巻く重圧に耐えられそうにない。
「成る程」妖夢は刀を一度鞘に納め、構えを取った。「式神様からは良い春が採れそうだ」
「下がって」橙も札を片手に携える。無論、茫然自失の依頼主を遠ざけて。「私とて、雪解けの前に眠るつもりは無くってよ」
風が止んだ。
嵐の前の、束の間の静寂。
「妖怪が鍛えたこの楼観剣に、斬れぬ物など_____有りはしない」
剣が抜かれる。続けざまにこちらも札を構える。互いに無音だった。
神速の剣士は鞘鳴りの音さえも置き去りにして。式神の懐の、紙一重の所まで一気に肉薄する。
「...速い...!」
一糸乱れぬ剣戟の嵐。橙は成す術もなく、札を構えての防戦を強いられた。八雲の妖力を結界として展開し、物理的な衝撃を必死に弾く。
ぱきりと、不吉な音が鳴った。紫紺に輝く障壁も、今や亀裂にまみれて軋んでいる。瓦解は時間の問題であった。
「【鬼神──飛翔毘沙門天】」
橙がすかさず反撃の術式(スペル)を口ずさむ。
自身の妖力はすぐさま詠唱に応え、七色に輝く光弾へと形を変じた。それらは橙の意思に基づいて、高密度な弾幕となって敵目掛けて向かってゆく。
が_苦し紛れの反撃をまともに受ける相手ではない。
光弾が、光をも断つ太刀筋を前に、無力に斬り伏せられる。
橙は再び結界を張り巡らせて、束の間の時間稼ぎに徹した。
現状維持ではまるで敵わないという実感。それは、展開されて間もなく無情に砕け散る結界の数々が、雄弁に語ってくれる。
割れた結界は次々と破片を撒き散らし、橙の身体を容赦なく突き刺した。魔力と体力の消耗が、視界から少しずつ、しかし確実に光を奪ってゆく。
嫌な冷たさと血の温さが、橙の全身にまとわりついた。
絶望的な窮地の中で、けれども橙は一縷の希望を見出した。
妖気を放つ白い靄が、妖気の主──妖夢に追従している様子を捉えた。
この靄をどうにか対処出来れば、あるいは_
捉えがたい連撃を捌きながら、必死に思考を張り巡らせる。
故に、その瞬間を見逃してしまう。
「なっ....!」
赤黒い光が瞬いた後、妖夢の姿は一瞬にして掻き消えた。
瞬間移動の類なのか。それにしてはあまりにも速すぎる。
まるで次元を丸ごと移動したかの如き神速は、神隠しと言っても過言ではない。
神隠しと言えば、八雲紫様に類する力ではないか。幻想郷の創設者、引いては神にも等しい能力を、
あの半人前はいつの間に____
奮戦のさなか、その姿だけは確かに見えていたはずなのに。一体何が____
身の毛もよだつ風が吹き、橙の周りに瘴気が渦巻いた。
奴はこちらの死角を突いて、意識の外から奇襲する腹積りか。橙の鼓動が早鐘を鳴らし、焦燥と恐怖に身体が竦む。
「『獄界剣──』」
虚空から、妖夢が諳んじた詠唱が響く。力強い言葉(スペル)に呼応して、昂ぶった妖気と魔力が大気を震わせて。
それはついに巨大な漆黒の魔法陣と形を成し、闇夜に堂々と浮かび上がる。
一筋の光明さえも呑み込まんとする黒円は、さながら黄泉へと繋がる門にも思えよう。
妖夢は奇襲など端から考えていないらしい。
隠す気など微塵も感じられない大きさの陣円は、真っ向から一撃で仕留めようとする意思の表れか。
不意打ちであれ、正面勝負であれ、橙にすればどの道勝算など薄い。勝ち筋が見えない。ならばいっそ、賭けてみる価値はある___
「【急急如律令──】」
橙は両手に札を構え、有らん限りの魔力を込めた。
左腕には藍色の、右腕には紫色の魔法陣が浮かび、意思が、闘志が、八雲の力が、言いようもなく全身を駆け巡る。
しなやかな二つの長尾が力強く天を衝く。言い知れぬ全能感が、橙の五臓六腑を飲み込んだ。
妖気を支配する調伏の神器は、今、この時の為に。
「『一閃___二百由旬』」
妖夢の雄叫びと一閃が炸裂し、全てを斬り伏せる太刀筋が魔法陣をこじ開ける。
黄泉の門が開かれて、剣鬼が式神へと鬼気迫る。相対する式神。片や一人は直進し、片や一人は__微動だにせず立ち尽くす。
逃げる意思なとかなぐり捨てて、剣先を限界まで引きつける。剣先が、命を断つ凶刃が銀光を放ち、己の眼前まで差し迫った。
死への恐怖。生への渇望。橙はこの"瞬間"を待っていた。
「【式神──】」
主人二人の妖力を自身に憑依させた後、橙はすんでの所で身を翻し、間一髪の剣撃を躱してみせた。
右頬を刀剣の金属が掠める。死に満ちる夜に、生者の赤がひらりと舞い散った、刹那。
「【八雲橙】」
たった一つの言葉(スペル)を以て、術の詠唱を締め括る。
やがて橙の双眸が、叡智と紫紺の輝きで満たされた。
恐怖、昂揚、臨場感。それらが精神を最高潮にまで押し上げて、式神として覚醒を果たした時___妖夢は全てを理解した。
目の前の、猫にも思しき小娘の___八雲たる者の真骨頂を。
「馬鹿なっ...!」
剣鬼を取り巻く妖力の源__白き靄は瞬く間に橙の掌へと吸い込まれていく。
妖夢の展開した妖気は、八雲の調伏の札を以て、所有者を書き換えられたのだ。
橙が両手を構える。視界には半透明に輝く障壁が広がり、今度は確かな厚みと大きさとなって術者を堅牢に守ってみせる。
妖夢の、渾身の一振りが放たれる。
対して障壁は、内と外とを隔絶する境界となって、沈黙で答えた。妖力によって異次元の斬れ味を誇っていた刃は、もう簡単には通らない。
...しかし。
「『獄神剣──』」
妖夢の詠唱の後に、瞬間、凄まじい突風と雷が周囲に迸る。橙と妖夢を取り巻く戦場に、大地に、赤黒い魔法陣が刻み込まれた。
「な、んで...っ」
橙は激しい目眩に襲われた。
妖力を剥ぎ取られたはずの妖怪は、まるで力を失っているように思えない。甚だ計算外であった。
橙は焦燥と死への実感に心を押し潰されそうになって、しかし相手がそれを悠長に見守るはずが無かった。
再び赤黒い閃光が走る。妖夢はまたしても、一瞬にして姿を消した。
辺りを満たす雷は一様に赤黒く、禍々しい瘴気で満ちている。自然のそれとは程遠い色合いは、地獄から召喚した雷そのものであった。
激しく渦巻く業風は、橙が奪ったはずの白い靄を蹂躙し、橙は上手く妖力が集められないでいる。
時間がない。
もうこれ以上は、互いに持たないだろう。
橙は根拠の無い確信を持って、一つ呼吸を整えた。
祈りを込めて、再び調伏の札を両手に構える。
「【式神──八雲橙】」
自身の五感が限りなく研ぎ澄まされた感覚が、肌を縫って全身を伝う。藍と紫の二人が見守ってくれている。
その確かな実感に、橙の心に凪が訪れた。
明鏡止水の境地。まるで天命を受け入れるが如く、ただその瞬間を、静かに待ち続けた。
「『辺獄──二百由旬』」
洗練された一太刀が、今度は黄泉の門を完全に切り開いた。来る。鬼気迫る勢いと共に、一直線に向かってくる。
不可視の神速は式神の目をも掻い潜り、時空を超えるように。
式神を守る防壁は、全身全霊の楼観剣を前に穿たれた。
矛と盾とが衝突して、一面に熾烈な火花が咲き誇る。
有無を言わさぬ鍔迫り合いに、二人が交える言葉は無い。
壁に亀裂が入る。音を立て、ぐらぐらとか弱く震えている。三枚、二枚、一枚と、堅牢な守りは次々と剣撃に散らされて、もはや橙を守る物など何も無い。
けれども妖夢の太刀筋も、少しずつ勢いを失いつつある。柄を握る手は震え、翡翠の瞳は激情に血走り、脚は両者共にがくがくと小刻みに揺れる。
終わりは近い。
藍様、紫様。
私はここで死闘の末に、命潰えるのだろうか。
背中が冷たい。息が重い。身体が痛い。苦しい。
誰か________
幼き少女の祈りなど、天へと届くはずもなく。
たった一つの願いは森の闇に吸い込まれて、やがて戦場に、深い沈黙が舞い降りる。
「がっ...」
静寂を破る慟哭は、果たして式神のものであったか。
否____それは、死力を尽くした剣鬼の、敗北を決定付ける叫びであった。
橙はハッとして目を開ける。すると自身の胸の中で、妖夢が力無く項垂れていた。
渾身の突撃もあと一歩叶わず、橙の喉笛を裂くには至らなかったのだ。防壁は木っ端微塵に破壊され、二人を隔てるものなど何も無い。
妖夢から時折聞こえる喘鳴は、既に力を使い果たしてか。息も絶え絶えな様子からは、攻勢に転じる余力は見られない。
とは言え橙も同様であった。身体の節々から血は流れ、鉄錆の臭いと戦いの後の脱力感が意識を朦朧とさせる。自分が何故生きているのかさえ、分からないでいる。
「間に合って、良かった」
橙のすぐ後ろには、本来居るはずのない、ルナサ・プリズムリバーが居て。
両手に構えたヴァイオリンで、美しい音色を奏でていて_____
「護ってくれてありがとう。だから今度は、わたくしの番(ターン)ですね」
橙の戸惑いなど露知らず、ルナサが静かに演奏を続ける。
耳に届く音色は、さながら死者へ捧げる夜想曲(ノクターン)だ。夜を讃えるに相応しい静謐な調律は、ともすれば鬱屈な気分へと沈んでしまう。
戦火を交えていた聴衆を、瞬く間に鎮静させる魔術。そこまで聞き入って、橙はようやく感づいた。
「...妖夢も、この音色に当てられて?」
「御明察の通りです」ルナサが静かに頷く。「わたくしの音色は躁と鬱のうち、鬱に当てはまる。とはいえ、妖夢様がここまで消耗していなければ、きっと彼女の心まで届くはずがありませんから_」
橙が脱力していると、胸の辺りが少し疼いた。
もぞもぞと蠢いたのち、妖夢が力無くこちらを見上げる。瞳から翡翠の輝きは失われて久しく、代わりに一筋の涙が流れている。
「返して、ください___幽々子様の、春を、返して、」
哀れに懇願する妖夢の姿に、幽世の剣鬼たる威容は無い。
ややあって、橙とルナサは顔を見合わせた。これで終わりではないと。
「ねぇ、妖夢。私ね」
橙の言葉は端的であった。
「物語を締め括るなら、ハッピーエンドでこそだと思うの」
満身創痍の式神が、不敵で素敵な笑みを浮かべてみせる。ルナサも迷いなく頷いて、妖夢は思わず瞠目した。
橙には使命がある。春を集めて然るべき所へ届けるために。
そしてルナサは決意する。自身の演奏がこの世の春を乱している以上、必ず元に戻さねばならないと。
...
冥府へと続く石造りの階段が、どこまでも長く続いている。辺りは幽冥の通り薄暗く、ぼんやりとした提灯が一様に浮かぶばかりで、人の気配は無い。
妖夢に案内されて、プリズムリバー幻楽団とその護衛は石の回廊を行く。妖夢と三姉妹は既に和解して、今度は音楽に関しての歓談に興じている。
如何にして春を元通りにするか、という全員の共通課題については、早くも打ち合わせを終えたばかりだ。
尤も、全く新しい試み──呪われた楽器──を取り入れた手法であるだけに、成功の望みは薄い。最後はやはり祈る他ない、というのが実情であった。
「悪夢の歌劇を招いたとされる、曰く付きの楽器だが___今では我々が保管している。私のような素人では到底手に負えないが、ひょっとすると、あなたがたなら」
妖夢が懸命に言葉を紡ぐ。悪夢の歌劇、と只ならぬ言葉を聞いて、プリズムリバー三姉妹は三者三様の反応を示した。
「悪夢の歌劇、か。そんなものが幻想入りするなんて、外の世界で何が起こったのかねえ。ああそれとも、戦争に明け暮れて音楽なんて不要になった、とか?」
リリカが懐疑的に捲し立てる。一方のメルランは、『曰く付きだからこそ、弾いてみたいじゃない』と楽しげだ。
どういう楽器でどういう音色なのかという現実的な部分を問うのは、長女であるルナサの役割である。
「...大勢の人を死に追いやった楽器なんて、不吉なものですね。わたくしとしては、あまり気分が乗らないのだけれど」
ルナサが珍しく不満気であったが、無理もない。自分の演奏でどうして大切な客人を葬るのか、加えてどんな目的で造られたのか。
生死を問わない博愛の演奏家は、生を否定する死の楽器をひどく嫌悪した。
薄紫色が滲んだ闇の帳の中を、ひたすら歩き続ける。
永遠と錯覚するほどの石階段に、空に浮かんでいる無数の提灯。相変わらず同じ景色が続くばかりで退屈だ。ウンザリだ。
___だからこそ、到着した先の光景に、橙は思わず感嘆の声を漏らした。
白玉楼。
冥府の中心に佇む楼閣は、正しくこの世の果てにある桃源郷であった。
古風で豪奢な屋敷に加え、侘び寂びの情緒に満ちた枯山水とそれらを彩る桜木の数々は、見る者の心を容易に奪う。
木々と石の純朴な香りが鼻腔をくすぐる。かくも美しき現し世の様相に、橙は現を抜かしていた。
「気持ちは分かるけど。見惚れてる場合じゃないと思うよ?」
リリカの茶々で我に返る橙であった。
三姉妹は裏庭の空き場所にて各々楽器を構え、コンサートの段取りをてきぱきと行っている。
「橙。どうぞこちらへ」
「ああ、ごめん、妖夢。つい、よそ見してたわ」
「いえ、気にせず。私も毎日飽きるほど見ているはずだが、この景色は不朽だ...いつ見てもいい」
どこか誇らしげな妖夢に手を引かれ、橙は慌てて白玉楼の中に入った。そうして長い廊下を歩き続けた末に、広い寝室に案内された。
廊下を歩いている途中、またしても例の"女の声"が聴こえたが_誰のものかは既知の所である。
一人の女が布団の中で咳込んで、しきりに汗をかいている。
冥桜の亡姫にして、白玉楼の主人──西行寺幽々子であった。
桜を彷彿とさせる桃色の髪は昔よりひどく褪せて、薄水色の着物も着崩れしている。
亡霊としての身体は儚いほどに消えかけていて、既にどれほど命が喪われつつあるか_想像するに余り有る。
かつて橙が聴いたあの声は、助けを望む命懸けの叫びであったに違いない。
「......紫様はね。私に"春"を集めて来てと、それだけ仰ったの。今ではその意味がやっと分かってね」
「成る程。紫様も藍様も、近頃はご多忙だと伺っている」妖夢は腑に落ちた様子で、幽々子の側に座り込んだ。「あなたに白羽の矢が立ったのも頷ける。何だかんだ言って、主人から信頼されているのだな」
八雲紫は幽々子と旧知の仲である。幽々子が亡霊になる前の、生身の人間である頃からの友人である。橙はふと考えた。
幻想郷の創設者であれど、さしもの紫様も友人の危篤に際しては大いに気を病んだ事だろう。
けれども部下である自分に対して、弱音を吐く様子などまるで見たことがない。紫様も藍様も、いつだって辣腕を振るう管理者として振る舞っていた。
『春を集めよ』と命じる際に、幽々子の様態も併せて報せれば良かったものを。
あるいは不器用な紫様なりの、何らかの気遣いなのだろうか。春を無事に集め終えたら、ゆっくりと話を聞くことにしよう。
「妖夢ちゃん」幽々子が目を覚まして、おもむろに身体を起こした。「今日は、お友達をお呼びなのね。私のことは、大丈夫だから」
「えぇ、大丈夫です」妖夢は飽くまで平然を装った体で、幽々子の手をそっと握った。「きっと、大丈夫ですから......」
妖夢の空元気を見届けて、幽々子は再び眠りに就いた。
それは単純な睡眠ではない。少しでも生き長らえんとする延命措置に近しい。
幽々子の病態を実際に見て、橙はいささか面食らった。事は思ったよりも深刻であるらしい。
やがて寝室に、整然な音色が聴こえてきた。胸元から札を出してみる。触ってみると微かにぴりりと電気を放ち、妖力はまだ残っている。
コンサートが無事に終われば、春を探す旅も終わる...。橙は不思議と名残惜しい気持ちであった。
...
広大な白玉楼の一角に、とりわけ大きく壮麗な桜の木があるという。幹の太さや枝の多さ、果ては枝先に生えた桜の美しささえも、他の木々とは一線を画す大木である。
その近くで、三姉妹は盛大な演奏会の準備を終えていた。
空には一片の欠けもない満月が見え、冥界の夜を粛然と照らしている。
やがて周囲を囲う宵闇が一段と暗くなり、どこからか数多の幽霊がわらわらと集まって来る。
客席は演奏直前になって、すぐさま熱狂的な死者の魂で満たされた。今宵開かれる公演は、夜を一層永くするのだろう。
ルナサがヴァイオリンの弦を引いた。
気高き音調が夜空に響き、静粛な宴の始まりを告げる。続いてメルランのトランペットが、大胆不敵で勇猛な音を紡ぐ。
鬱の音と躁の音。そこにリリカの鍵盤による幻想的な音色が躁鬱の響きに絡み合い、客席が歓喜と昂揚で色めき立った。
「『騒霊符──ソウルビブラート』」
上気した白玉楼を更に焚きつけて、三姉妹が力強くスペルを唱える。
魔力と妖気は速やかに術者の元へと集まって、夜空に大小様々な、色とりどりの魔法陣が浮かび上がる。
やがて陣円が開かれて、♪(音符)の紋様が空を舞った。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
七色の音が見るも鮮やかな調律と輝きを誇り、あまねく夜空に虹を架けた。
月下に広がる宵闇が、魔術の瞬きを一層美しく彩りながら。
筆舌に尽くしがたい絶景は、あえて喩えるならば__プリズムリバー(虹の川)の名に相応しい。
橙は思わず息を呑んだ。自身の役割を忘れかけるほど、魂の底から震えてやまない。
三姉妹による卓越した技術力と、視界に広がる白玉楼が織り成す錯覚なのか。
幽霊たちは狂気と歓喜に晒されて、我を忘れて激しく飛び回っている。
辺りは仮初めの生命と活気で漲り、場を支配する連鎖的な熱狂が、今にも臨界点に達しようかという刹那___三姉妹はぴたりと演奏を止めた。
やがてリーダーであるルナサから、ぽつりと言葉が零れ落ちる。
「《還霊──ミラメノスアギカ》」
呪われし楽器に秘められた、禁忌の魔術。スペルカードの詠唱を以て、今宵、悪夢の歌劇は蘇らん。
やがて演奏は再開する。ルナサのヴァイオリン、メルランのトランペット、リリカの鍵盤が動き出し、暫くして、聴衆はしんと静まり返った。
月影が、白玉楼の中心に落ちる。
盛大な公演というにはあまりに静かであった。
男性の厳しい響きと女性の透き通る声がコーラスとなって、荒ぶる生気を鎮めるが如き静けさと厳かさが一帯に満ちている。
ともすれば静謐な気品で満ちた公演に、霊魂たちは釘付けになって固まった。そして、この場にいる全ての者が理解した。
これは死者に捧ぐ鎮魂歌(レクイエム)である、と。
そしてこの楽器は決して、生者を葬る忌まわしい呪物などではない。
未だ成仏出来ずにいる魂を、正しく、そして安らかな眠りへと導く__神聖な楽器である、と。
魂に響く音に魅了される前に、橙は我に返った。私は今、この"瞬間"の為にいるのだから。
力強く息を吸い込んで、長き詠唱を紡がせる。
「八雲の名において命ずる__有らん限りの妖気を以て、我が調伏の神器に最後の力を与え給へ__そして、死者の魂を有るべき場所へ帰すこと、ここに宣言する」
八雲の札を両腕に構える。詠唱が進む度に輝きを増していく両腕の魔法陣が、眩い光を放った時_
「【鬼神憑装──八雲橙】」
いつしか八雲姓を賜るその日を心から願い、己の名前を叫んでみせる。
刹那___霊魂たちは凍り付いて、微動だにしなくなった。霊魂はやがて引き合うように集まって、奇しくも六角形を描き出した。
凍り付いた六角形。冬を象る立花と言うには些か仄暗く、これが春の前兆というには忍びない。
橙の強力な霊力によって、彼らは自らの意思で動くことなどもう叶わない。行く末は決定付けられた。
橙とて多少の心苦しさが、無いわけではなかった。
それでも、直接手を下す"彼女"に比べれば、些細な物であろう。
「『焉符──現世斬』」
曖昧な生死もろとも、迷いを断ち切る楼観剣。その一振りが、凍て付く立花を切り裂き、彷徨える魂を無へと導く。
妖怪が鍛えた大業物に、斬れぬ物など有りはしない___
かつて咲き誇っていた仮初めの命と華は、半人半霊の剣士によって断ち切られた。
そして最後の霊魂が空へと霧散した、その時。
白玉楼の一角に根ざす、とりわけ大きく壮麗な桜──西行妖の花びらに、絢爛な桃色の輝きが咲き乱れた。
命が元ある場所へと帰るように、春の光は淀みなく西行妖へと流れ着いて。そうして___
「やっぱり花見と花見酒は、皆が揃ってこそよね____そう思わない?」
白玉楼からひょっこりと顔を出したのは、西行寺幽々子であった。
本来の生気と艶やかさを瞬く間に取り戻し、その天真爛漫な微笑みは、春の陽気に勝るとも劣らない。
「そうですね、幽々子様__急いで春宴の準備をしなくては、なりませんね」
妖夢は声を震わせて、止めどなく涙を流し続けた。鎮魂歌も丁度良い頃合いに終幕を迎え、しばらく沈黙が続いた。
温かな沈黙だった。誰しもが言葉も交わさずに、冬の終わりを心から受け入れている。プリズムリバー幻楽団の公演は、今ここにいる全員の心を一つにした。
やがて夜闇に光が差して、麗らかな太陽が朝日を連れてくる。
妖々(ようよう)白くなりゆく冥界に、命の萌芽と黎明の輝きが満ち満ちた。
かくして六花の眠る暁に、盛大な春が舞い降りる。
...
「やぁ、いらっしゃい。......おや、もしや、貴方は」
無何有の郷の一角にある、場末の飲み屋。
閑古鳥が鳴きそうな店内の静けさは、いっそ画になる程であろう。それを破るお客様の御成だ。店主は慌てて身を乗り出した。
ふと、そこに女性二人が店に入る。が、良くも悪くも場にそぐわない服装に、店主は少し驚いた。
背丈の高い女性を見る。
白のフリルがふんだんにあしらわれた服装の上に、陰陽玉が描かれた紫色の前掛けが掛かっている。
もう片方の女性は、白のフリルと青の前掛けに、狐さながらの耳と九尾がよく目立つ。
両者ともさながら創作に出てきそうな道士然として、雰囲気から察するに人ならざる者達であるようだ。
「この前は、あの子がお世話になったわね」
紫服の女性が礼儀よく辞儀をして、ゆっくりとカウンター席に腰を下ろした。
続けて、狐の女性から要望が入る。
「そこの一升瓶に相応しい土産話を持ってきたよ、マスター。すまないが、今夜ばかりは少し語らせて頂きたい」
狐の女性が冷静に言う。けれども顔はやや綻んでいるのを、店主は決して見逃さない。
店主はしばらく黙り込んで、もう一つの一升瓶を追加した。
「あら、良いのかしら」
紫服の女性──八雲紫は、店側の厚意に微笑みで返した。隣にいる狐の女性──八雲藍も同様だ。
謝礼を無碍にする無粋な呑兵衛は、この場にはいない。
「良い肴があるならば、相応しい主役が居なくては。そちらのお話に相応しい肴をご用意いたします。如何いたしましょう」
「そうね。では、私の可愛い部下の橙の__」八雲紫と藍のお猪口に、滑らかな純米酒が注がれる。「いえ......八雲橙のお話を、いたしますわ。マスターも一杯いかが?」
とある式神の英雄譚は、郷の片隅の飲み屋にて紡がれるのである。
からんと軽妙な音が鳴った。かくも静かな乾杯は、胸と喉とをどこまでも熱くさせるだろう。
___Fin.