その人の名は稗田阿夢。
その人には弟がいる。双子だ。こちらが後から這い出てきたので兄という事になり、先に出てきた方が弟という事になった。この土地の不思議な慣習によれば、双子の先に出てきた方が弟なのだという。感覚的にはさかしまな感じがあるが、少なくともここまでは理屈だ。
ここから先は理屈が通用しなくなってくる。
この時代、稗田の家はこの郷の人々をまとめる大族の地位を保っていた(初代阿一から数えて数百年、それだけでも幸甚というべきだった)ので、彼らの生誕にあたって、様々な方面から祝辞がやってきた。当時は結界――幻と実体の境界――も比較的ゆるく作られていて、内から外からそうしたお祝いがやってきたが、もちろん訪れてきた相手は人間だけではない。
兄弟が誕生してからのお七夜の晩、屋敷内がなんとなくほの暗くなると、灯の勢いが静かになって、その明滅が稗田屋敷の回廊を移動するように、嬰児たちの眠る座敷までやってきた。ちょうど、彼らの名付けの儀式と今後の相談を家人たちが行おうとしていたところへ。
場は少しざわついたが、家人たちは目を伏しがちにして、出現した女から顔をそむけつつ、その訪れを静かに受け容れた。こういう存在は、真正面から受容しても良い事はないが、かといって拒絶しすぎるのも良くない――ちょっと見には曖昧な対応に映るかもしれないが、この曖昧さを突きつける事こそ人妖の境界をはっきりさせる事になる。
妖怪はそうした対応に気を悪くはせず、子が無事に産まれた事の祝辞を稗田の家人たちに述べた。
問題はその後である。
「……この百数十年、私たちの勢力は山の中だけでは抱き込めないほどに膨れ上がり、その一部は人里のある平地へさえ進出しました」
妖怪は祝辞だけで引き下がろうとはせず、ひとりごとのように述べ立て始めた。
「率直に申し上げて、お互いにとってよくない事も多い百年でした。誤解も衝突もあった――こちらの内部で行われるべき利害調整がうまくゆかず、そのしわ寄せがあなたたち平地の人々の負担になる事も多かった。その混乱を、この家はよく収拾してきた」
特に稗田阿悟には――と、妖女は、稗田家の伝説的な人物の名前を持ち出した。
「その人には、あなたがた人間と私たち妖怪お互いの付き合い方について、よくよく教えられ考えさせられました――あなたがた一族には伝説があると伝え聞いております。天才の転生という伝説。彼らが代々、この家に指針を与え、そして導いてきた。しかし」妖怪は、なにか示唆をにおわせるようにそこで一旦言葉を切った。「稗田の子の魂はぐるぐると転生していて、百年に一度、役目を持って生まれる。だとしても、その伝説がほんとうであったとして、天才がほんとうに転生していたとして、その天才がきっとその人であろうと、いったい誰がなにをもって保証するのでしょうか。いったい、誰が」
女はにっかりと笑ったが、誰もその笑顔を見る事はできなかった。
「今回はわたくしが保証してやる役となります……こういうことは、別に誰が言ってもかまわないし、先に言ったもの勝ちなのですよ。ええ、この子らのどちらかが、稗田の天才の転生でございます。……どちらか、どちらか片方だけです。こうなってしまうと、難しい。残すべきものを残しそこねて、残してはならぬものを残してしまう事もあるでしょう。どちらかを縊り殺すつもりがあるのなら、間違えない方がいい。その行為自体が間違いかもしれませんが」
しんとした座はなにも返す言葉がなかった。
「……正しい方を選び、間違った方を捨てよと言いたいわけではありません。それは、なにか明確な選択肢を与えているように見せかけつつ、脅迫に近いかたちで選択を強要しているだけです。選択肢などはなから存在しませんし……時には判断を保留してみるのもいいかもしれない」
妖怪のひとりごとを蹴とばすように、別の女が乱入してきた。その巫女は、弁柄の赤と貝殻を砕いた白の顔料とで、古代人の魔除け文様を顔面に化粧している。そのまま妖怪に一撃を食らわせて、それが綿入れを殴ったように手ごたえが無いのに気がついて、舌打ちした。
「次はしくじらない方が良いと思われますわ」
そんな捨て台詞を残して、笑顔の妖女は屋敷内のすべての戸を開け放したまま消えてしまった。
妖怪を追い払った後でひとつため息をつくと、巫女は、稗田の家人たちをぐるりと見まわした。人々は目を伏しがちにして、出現した巫女から顔をそむけつつ、その訪れを静かに受け容れているのみだ。
巫女は鼻で笑ったが、嘲弄というより、あわれみの感情の方が強い。
次はしくじるなよと、妖怪と同じ言葉を稗田家の人々に吐き捨てて帰っていく。
人々は恐縮した。
実を言うと、稗田阿夢は長じた後も“あの人”の転生という自覚が一切ない。あの人とはすなわち阿の人、阿の一、幻想郷に根を張った稗田氏すべての家祖、稗田阿一。その代々の転生。だが、その人にはそうした意識が皆無だった。
(たぶんなんかの間違いなんじゃねえのかな)と内心で思いながら、それなりに優秀を装うくらいの知恵を持って育ってきている。つまりは普通に優秀な子であった。
(まあ、なんだか俺らが産まれた時に双子でどっちがどっちとごたごたとあったみたいだからな。判断がごちゃついて、弟と間違えてしまったんだろう)
弟との仲は良かったが、それでもよくわからないやつだった。奴はとにかくもの覚えがよく、折々の法事の作法や、手紙や文書といったものの様式をやたらに覚えていて、時々兄に耳打ちして、誤りを指摘してくれる。
(だから、きっと、あいつの方が優秀なんだよ)
と、別にうらやみやそねみもなく、素直に受け入れている。相手も分をわきまえて、稗田の家人として、自分を支えてくれるつもりらしい。
(しかし、こうなってみるといいかげんなもんだよな、例の伝説とやらも)と、一人おもしろくなってしまう面もあった。(こんな言い伝え、もう何百年続いているんだっけ? 阿一からざっと数えて……そんなものによく付き合ってきたな、この家は……と、ばかばかしいとは言いたかないが、呆れる気持ちはあるもの)
自分もそのばかばかしい伝説に付き合っている一族の一味として、転生の伝説を装わなければならない。
役目として、幻想郷縁起を残さなければならない。特にここ百年の動向――幻と実体の境界が設置された後の一連の動き……いわゆる妖怪拡張計画がもたらした影響――は、この新世界における人妖のあり方の、千年先までの模範になるだろう、と考えている。
その話を巫女から聴取してまとめるために、しばしば博麗神社に通っている。弟も一緒についてきていたが、これもいつもの事。神社の周りには神人がたむろしていて、宮の出入りを固めている。博麗の社がこうした犬を引き連れているのは昔からだが、近頃は更に人が集まり始めていて、神社の周りは門前町の様相が整いつつあった。
(なんせ巫女様ときたら、この土地の調停者を任じているんだものな)
その人は町の賑わいの盛んな事を肌で感じている。
百年以上前にさかのぼる稗田阿悟の代、いわゆる妖怪拡張計画にともなう結界がほぼ固まってしまった頃、やがて幻想郷と呼びならわされていくこの領域は混乱に陥ったが、それは人妖の対立といった形で表出したものではない。にわかに流入してきた新参の妖怪たちが、もとより山にいた古参の妖怪たちの手に余る行動を起こし始めた、という妖怪側の統制不足から始まっていて、人間側は良くも悪くも蚊帳の外に置かれていた。
それはそれとして混乱は混乱だ。外界から隔離された妖怪社会は急激な変化の中でのたうち回るかもしれず、第三者である人里の人間たちだって、それに巻き込まれる可能性はある。
稗田阿悟もそのあたりの懸念はよくわかっていたし、自分たちの立場がどのように盤面に利するのか理解していたのだろう。妖怪たちは調停者を必要としていて、そうなるにはどちらの勢力の色も持たない存在が望ましい。要するに第三者たる人間がそういう存在を創出すれば、妖怪側も(少なくとも一定の勢力は)その存在を追認するだろう。
ただ、事はそれだけですんなりと通る話でもない。調停者の存在が認められた後も、それを無視する事はできる。なにか……無視しきれない存在……この土地に昔から存在している名前……あまりに都合が良すぎる立ち位置にいる者……が必要だった。
それが、あまりに都合よくいた。
博麗の巫女が幻想郷の調停者を任じ、この世界すべてのゲームを支配し始めたのは、この時代からであった。
稗田阿悟は、自分の代の縁起を編纂する中で、稗田家にわずかに残っているこの土地の故事を引き前世を掘り起こし、博麗の巫女を権威化する作業に短い晩年を捧げたという。
(俺はなにもかも知らぬ話だがな)
と、転生の子という自認を持てないその人は、巫女から話を聞きながら思った。
(しかし聞くと面白い。こういう事は、自分たちが勝手に言い張るだけでは成立しないはずだし、誰かの要求に応えてやるという形式がなければ、なにも起こせなかった)
要求した誰かとは、人間たちではなく妖怪たちだった。
(もちろん里の人間も、新参の妖怪たちに迷惑していただろうがな。それ以上に困っていたらしいのは、古参の妖怪の方々、特に賢者と呼ばれる連中らしかった)
当代の巫女はかなりの武闘派で、近年も妖怪をしばき倒して退治していた。この妖怪たちの多くは、妖怪拡張計画後に海外からやってきて、そのまま馴染まず平地で暴れていたような連中で、巫女は彼らに新しく和名を授けてやったが、もちろんこれには元々の名と力を奪う目的があった(この和名は多くが伝わっていない。時代が下って明治維新の御一新が起こった時期、彼らの多くは、今度は逆に洋名を押しつけられ、ふたたび名を奪われてしまったからだ)。ありようを歪められてしまった当の妖怪たちの反発はもちろんあったものの、そうした事が起きても、なお大多数がこれを承認するという状況が成立してしまっていた。
こうした事の繰り返しによって野の妖怪たちは力を弱められて、現在ではややおとなしくなっている。
(世界の要求に応える、という形式に則った結果だ)
ついでに、当代の巫女はそれをやる器量のある女だった。
(ある種の女傑というか、英雄ではあるのだろうな)
と、その人は対面している巫女の話を聞き書きしながら――なにもかもを完璧に覚えていられるたちではない――そう思った。
(少なくとも人間たちにとっては、これは博麗の平和と呼ぶべきものなのかもね)
またある時、巫女はその人の事を実は“生まれ直し”なのだとも説明した。本来の転生の子は、その人より数年前に産まれるはずだったのだが、運悪く死産してしまったのだという。
「それは――」と、その人は少し困惑しながら言った。「我々は聞いた事のなかった話ですね」そう言って弟へかぶりを振った。なんでこっち見るの? といった弟の表情は、自分の鏡映しのよう。
巫女は苦笑いして、稗田家も自分たちの一族の異常な立場に戸惑っているからと、小さな事実を知らされなかった事への理解を述べた。たしかに言わなくてもいい話だが、知っておいてもいいだろう、と。
(運命を強いられているのはなにも転生の子だけではないからな。本当に数百年も妖怪と対抗してきたのなら、よく続けて来られたものだ)
と、凡なその人は思うのだった――実際には、一族がこの土地に流入し続ける妖怪に悩まされて対策を本格化させていったのは、妖怪拡張計画、すなわち阿悟の代以降の事で、せいぜい百年ほどの事だったのだが。
(とはいっても百年だって長い時間だし、博麗の巫女を調停者として箔付けするなら、阿悟以前の、もっともっと昔からそういう存在であったとした方が、話がわかりやすいからな。そうする事が妖怪たちにとっても都合が良ければ、よりいっそう、そういう話にするのはたやすい)
そうした事に気がついているくらいなので、幻想郷縁起を残すという自分の仕事も、理解して割り切ってはいた。
(正確さよりは単純さが好まれるだろう)
夕暮れ時に巫女の元から辞去して、神社の境内を下りながらその人は考えた。
(そこはしょうがない。すべてを残す事なんてできっこないから)
門前町を出ると、人里まではすべてがぼんやりとしている暗さだ。自分たち以外にも供回りはいるが、なんとなく心細くて、必然的に口数が多くなる。
聞き役は弟だった。いつもそうだ。
「とにかく、ああいう巫女がいるから、この郷はひらたく保たれているんだ――俺が書く縁起の骨子は、そういう話になると思う」それともう一つ、いわゆる妖怪拡張計画は、人間たちにとっても得のある事だったという言及は必要だろう、とも言った。「世間は戦でおおいに乱れているからな。結果的にそうなっただけとはいえ、戦乱から逃れられた我々も、分け隔てられた事による恩恵を受けているわけだ」
慎重な作為が必要だが、そういう示唆を残す事もできる。
弟はなにも言わず、肯定のほほえみをしている。いつもそうだ。
(人妖間の対立を煽る必要はない)と、その人は思った。(俺らにとって妖怪たちはちょっと様子の違う隣人で、利害や意見が相違して行き違う事もある。だが、それだけだ。別に憎悪する対象ではないし、利害調整は可能だ。そのために調停者たる博麗の巫女がいる)
あるいは、ここでひとつの画期が達成されてもよかったのではないか。この巫女の代で、幻想郷は早くもひとつのハイライト、人妖の再定義と和合の時代を――のちの博麗霊夢の時代に数百年も先駆けて――迎えてもよかったのかもしれない。
そうはならなかったが。
また、そうした時代が早くに訪れたところで、それがこの幻想郷という土地を精神的に豊かにし得たのかというと、また難しい部分がある。ほぼ同時代に起こっていた他方――日白残無――の末路は示唆的だ。受け容れ吸収し和合したところで、それは必ずしもまったき状態ではない。
この時代、幻想郷は歴史的な戦乱からは幸運にも隔離されていたが、それでも時代の精神は衝突を要求していた。
やがて博麗神社は、幻想郷の平地のみならず、妖怪の山の山麓に広がる土地を故地・旧領地として請求した。
神社が請求の根拠としたのは、他ならぬ稗田阿悟が遺した幻想郷縁起だ。彼は、博麗の巫女という存在を立派な調停者に仕立て上げるため、縁起の中で幻想郷の事実上の支配者と位置付け、故事を引いてその根拠を補強している。ならびに神社に残っていた古文書等も引かれて、山麓にあった故地の土地権利は、律令制度が形骸化した後も実は失効していないという宙ぶらりんな状態で維持されている事が判明し、これが法的根拠とされた。
神社周りの門前町には、妖怪退治を生業にする博麗の私兵や雇われの傭兵のような者どもが既に集結していた。そうした戦力は平野を占領し、妖怪の山の山麓にまで押し寄せた。
(なんでそんな事を)とその人は戸惑いながらも、事変が始まったその日のうちに、博麗の巫女に会見を求めた。もちろん停戦への働きかけだったが、本人が足を運ぶわけではなく、弟を使者に遣った。
その人自身は人里内の治安対応にかかりきりで、稗田屋敷に身を置いて人に指図を与えながら、情報の収集にあたらねばならなかったが、家人を外に遣いやると、あとはもう待つしかない。なにかのっぴきならない異変が起きているというのに、身の周りだけはじれったくなるほどゆっくりとしている。
と、家の中で風が抜けるような軋みが鳴って、女が忽然と現れた。
「止められる流れではありませんわ」
その人が身構えていると、女は言った。
「少なくとも、あなたたちでは止められない。この暴走は百年の歴史の中で、何らかの形でいずれは起こる事態だったでしょう。博麗の巫女による支配の根拠は提示されているが、原則的な承認にすぎないという点で、実効能力としてはまだまだ頼りないところがあった。旧領を奪還する形で実力を誇示する流れが起こるのは時間の問題でしょう。なにより当代の巫女は出来物です。多少の無茶も遂行する事ができるし、それはあなたがたが煽った流れでもある」
(果たしてそうだろうか)
と心の中で反駁していると、妖怪女は相手の感情を態度で読み取ったのか、困った笑顔になった。
「でも、あなたは御阿礼の子ですから」そうでなくてもそうあれと、彼女は静かに迫るようだった。「そうでなければ、他に誰がそうなのですか?」
「……別に頼まれてそうなったわけではないよ」
「いいえ。私たちが要求しました。あなたにはそうした立場になっていただきたいと。稗田家に代々伝わる、伝説の子になってもらいたいと。本当のところなんかどうでもよくて、そういう事にして欲しい、と。それが世界の要請でした」
「なぜ」
「博麗の巫女を止める根拠を持つ者が他に存在しない。彼女の根拠は歴史的なものです……この郷の、けっして一筋縄ではいかぬ歴史のね。だからこそ歴史と神話をつかさどる一族だけがこれを制止する力になり得る。当代こそ、稗田家には転生の子が存在してもらう必要があった」
反語的に、現状そういう存在がいない、と彼女は言いたげだった。
(どういう意味だ)
自分が一瞬で冷たくなって、用なしになったようにその人は感じたが、同時に表の門がやけに騒がしい。弟の帰還らしいが、まるで身内に危機が迫っているような切実さで戻ってきたらしい。
「もう行かなければなりません」女は消え去る前に言った。「やがて、巫女はあなたがたの一族にかなり強引な手を突っ込むでしょう。突っ込んで、めちゃくちゃにかき混ぜて、暴力的に屈服させる。それを強引に行う名分も存在している。なぜなら、稗田家には代々多くのもののけが潜り込んでいて、人里の安全のためにはそれだけでも脅威と化しているから。本来産まれるはずだった六代目の子を死なせてしまったのも、そうした連中の力だと、巫女はそう信じているでしょう――別に信じていなくても信じているように振る舞う事はできます。しかし六代目の死はただ自然の悲劇です。そんな事を行う必要も、利益も、私たちにはなかった」
この時、稗田家に仕えていた家人は半数以上が妖怪側に引き揚げたとされている。
一方で、妖怪側から人間に与する勢力もあった。博麗神社勢力は手際よく樹海の手前まで浸透したが、それは玄武の沢水系の河童たちのような小勢力(彼らが今でも人間を「盟友」扱いする所以の一つでもある)や、分断が進んでいた天狗勢力(そもそも博麗の巫女が積極的に分断を推し進めていた。それまで下層階級の木っ端天狗としか扱われていなかった彼らに白狼天狗という名と新たな自認を植え付けたのは彼女だったから)の協力なしには成し得なかった。実情としては人妖入り乱れて、各勢力の思惑が複雑に絡み合った事変だったのだ。
人里にこっそり紛れて暮らしていた妖怪たちの(自主的であったり強制的であったりした)退去や、直後に起きた迫害こそ、人妖の対立として決定的な出来事だった。
人里は戒厳状態に入った。里内では自警団による見回りが行われて、その指揮指導には博麗神社から派遣された犬神人どもがあたっている。治安維持のためという名分はあるが、人里までが博麗神社による事実上の占領下に置かれたという事だ。
「本来の稗田の子なら止められた流れだったのかな」
人の少なくなった屋敷の中で、その人は弟に問いかけた。弟はというと、さばけている。ちょっと考えるように首をかしげた後で、いやあ、難しかったんじゃないの、とだけ答えた。
そもそも、自分の兄が転生の子ではないのかもしれない事は、はなから気がついていたし、自分自身そんな存在なわけがあるまいという事で、消去法的に最も多くの判断材料を与えられていた弟だ。それとて兄を立てるために黙っていたし、もの覚えも少しは良い方なので、兄の影として支えていればそれでいいじゃんねと自分の立ち位置を決定していた。それはこれからもそうだ。
(やっぱり変なやつだなこいつ)
と兄は思った。
弟がそれ以上にびっくりしていたのは、稗田家が数百年のうちに、もののけやあやかしの類いを大量に抱えこんでいたという事実だった。それを博麗の巫女に伝えられたからこそ、交渉の仲介など放り出して、兄の無事のために屋敷に駆け戻ったのだから。
「早く気がついていればな」と、兄もそこだけはちょっぴり反省している。「この家がそういう立ち位置だというのなら、もっと別の考え方や、やり方もあったかもしれない。自分たちが妖怪を抱えこんでいる家だと自覚していれば、それなりの立ち回りもできたのかも」
(ひょっとすると、稗田の伝説の子たちは、ずうっとそれに気がついていたが、見過ごしてやる事で生き延びていたのかもな)
自分たちは気がついてやれなかった。
「いずれにせよ」と、その人は言った。「博麗の巫女が調停者でなくなった以上、協議や交渉を行う窓口として、稗田の家はあるべきだ。たとえ自分たちがその人でなかったとしても、できる事はやらなきゃいけない」
(たぶん、そのために生かされているんだよな。少なくとも妖怪たちからは。……問題は博麗の巫女だが)
……でもさ、と弟が不安そうに言いかけるのを制して、その人は言った。
「あの女が、そもそも妖怪どもを根絶やしにするつもりで、協議や交渉を蹴っ飛ばすようなお人柄だったら、だろ?」
兄弟は顔を見合わせた。
「……さすがにそうはならないと信じたいんだがな」
結局、この事態は当代の巫女が寿命で身罷り、その次代の巫女が稗田家を始めとした人里から不信任を受けて追放されるまで、実に十数年間も継続した抗争が繰り広げられた。
その混乱を収拾しようとする努力の中で兄弟は消耗していったが、その中でも“稗田家中に潜んでいた妖怪が、本来の六代目の子を生誕後すぐに害した”という不穏な言説に関しては、公式見解としてかたくなに否定し続けた。別にあの時の妖怪女の言を信じたわけではない。信じる信じないという話ではなく、それを認めてしまえば稗田家は完全に博麗神社勢力に呑みこまれて、人妖間に決定的な決裂が発生してしまうという、ひどく現実的な理由からだ。
また、その人は、自身が本来の六代目の子の“生まれ直し”である事を積極的に認めるようにもなった。単に言い張っているだけの話だが、その主張だけは巫女も否定できる立場にはなかった。
そのため稗田阿夢は正式な六人目の転生の子と位置づけられているが、彼の弟についてはひたすら兄の影のようで、ほとんど伝わっているものがない。ただ、あくまで個人攻撃や中傷という負の形である事を考慮する必要があるが、あるいは妖怪だったのではないかという話が残っているのみだ。
その人には弟がいる。双子だ。こちらが後から這い出てきたので兄という事になり、先に出てきた方が弟という事になった。この土地の不思議な慣習によれば、双子の先に出てきた方が弟なのだという。感覚的にはさかしまな感じがあるが、少なくともここまでは理屈だ。
ここから先は理屈が通用しなくなってくる。
この時代、稗田の家はこの郷の人々をまとめる大族の地位を保っていた(初代阿一から数えて数百年、それだけでも幸甚というべきだった)ので、彼らの生誕にあたって、様々な方面から祝辞がやってきた。当時は結界――幻と実体の境界――も比較的ゆるく作られていて、内から外からそうしたお祝いがやってきたが、もちろん訪れてきた相手は人間だけではない。
兄弟が誕生してからのお七夜の晩、屋敷内がなんとなくほの暗くなると、灯の勢いが静かになって、その明滅が稗田屋敷の回廊を移動するように、嬰児たちの眠る座敷までやってきた。ちょうど、彼らの名付けの儀式と今後の相談を家人たちが行おうとしていたところへ。
場は少しざわついたが、家人たちは目を伏しがちにして、出現した女から顔をそむけつつ、その訪れを静かに受け容れた。こういう存在は、真正面から受容しても良い事はないが、かといって拒絶しすぎるのも良くない――ちょっと見には曖昧な対応に映るかもしれないが、この曖昧さを突きつける事こそ人妖の境界をはっきりさせる事になる。
妖怪はそうした対応に気を悪くはせず、子が無事に産まれた事の祝辞を稗田の家人たちに述べた。
問題はその後である。
「……この百数十年、私たちの勢力は山の中だけでは抱き込めないほどに膨れ上がり、その一部は人里のある平地へさえ進出しました」
妖怪は祝辞だけで引き下がろうとはせず、ひとりごとのように述べ立て始めた。
「率直に申し上げて、お互いにとってよくない事も多い百年でした。誤解も衝突もあった――こちらの内部で行われるべき利害調整がうまくゆかず、そのしわ寄せがあなたたち平地の人々の負担になる事も多かった。その混乱を、この家はよく収拾してきた」
特に稗田阿悟には――と、妖女は、稗田家の伝説的な人物の名前を持ち出した。
「その人には、あなたがた人間と私たち妖怪お互いの付き合い方について、よくよく教えられ考えさせられました――あなたがた一族には伝説があると伝え聞いております。天才の転生という伝説。彼らが代々、この家に指針を与え、そして導いてきた。しかし」妖怪は、なにか示唆をにおわせるようにそこで一旦言葉を切った。「稗田の子の魂はぐるぐると転生していて、百年に一度、役目を持って生まれる。だとしても、その伝説がほんとうであったとして、天才がほんとうに転生していたとして、その天才がきっとその人であろうと、いったい誰がなにをもって保証するのでしょうか。いったい、誰が」
女はにっかりと笑ったが、誰もその笑顔を見る事はできなかった。
「今回はわたくしが保証してやる役となります……こういうことは、別に誰が言ってもかまわないし、先に言ったもの勝ちなのですよ。ええ、この子らのどちらかが、稗田の天才の転生でございます。……どちらか、どちらか片方だけです。こうなってしまうと、難しい。残すべきものを残しそこねて、残してはならぬものを残してしまう事もあるでしょう。どちらかを縊り殺すつもりがあるのなら、間違えない方がいい。その行為自体が間違いかもしれませんが」
しんとした座はなにも返す言葉がなかった。
「……正しい方を選び、間違った方を捨てよと言いたいわけではありません。それは、なにか明確な選択肢を与えているように見せかけつつ、脅迫に近いかたちで選択を強要しているだけです。選択肢などはなから存在しませんし……時には判断を保留してみるのもいいかもしれない」
妖怪のひとりごとを蹴とばすように、別の女が乱入してきた。その巫女は、弁柄の赤と貝殻を砕いた白の顔料とで、古代人の魔除け文様を顔面に化粧している。そのまま妖怪に一撃を食らわせて、それが綿入れを殴ったように手ごたえが無いのに気がついて、舌打ちした。
「次はしくじらない方が良いと思われますわ」
そんな捨て台詞を残して、笑顔の妖女は屋敷内のすべての戸を開け放したまま消えてしまった。
妖怪を追い払った後でひとつため息をつくと、巫女は、稗田の家人たちをぐるりと見まわした。人々は目を伏しがちにして、出現した巫女から顔をそむけつつ、その訪れを静かに受け容れているのみだ。
巫女は鼻で笑ったが、嘲弄というより、あわれみの感情の方が強い。
次はしくじるなよと、妖怪と同じ言葉を稗田家の人々に吐き捨てて帰っていく。
人々は恐縮した。
実を言うと、稗田阿夢は長じた後も“あの人”の転生という自覚が一切ない。あの人とはすなわち阿の人、阿の一、幻想郷に根を張った稗田氏すべての家祖、稗田阿一。その代々の転生。だが、その人にはそうした意識が皆無だった。
(たぶんなんかの間違いなんじゃねえのかな)と内心で思いながら、それなりに優秀を装うくらいの知恵を持って育ってきている。つまりは普通に優秀な子であった。
(まあ、なんだか俺らが産まれた時に双子でどっちがどっちとごたごたとあったみたいだからな。判断がごちゃついて、弟と間違えてしまったんだろう)
弟との仲は良かったが、それでもよくわからないやつだった。奴はとにかくもの覚えがよく、折々の法事の作法や、手紙や文書といったものの様式をやたらに覚えていて、時々兄に耳打ちして、誤りを指摘してくれる。
(だから、きっと、あいつの方が優秀なんだよ)
と、別にうらやみやそねみもなく、素直に受け入れている。相手も分をわきまえて、稗田の家人として、自分を支えてくれるつもりらしい。
(しかし、こうなってみるといいかげんなもんだよな、例の伝説とやらも)と、一人おもしろくなってしまう面もあった。(こんな言い伝え、もう何百年続いているんだっけ? 阿一からざっと数えて……そんなものによく付き合ってきたな、この家は……と、ばかばかしいとは言いたかないが、呆れる気持ちはあるもの)
自分もそのばかばかしい伝説に付き合っている一族の一味として、転生の伝説を装わなければならない。
役目として、幻想郷縁起を残さなければならない。特にここ百年の動向――幻と実体の境界が設置された後の一連の動き……いわゆる妖怪拡張計画がもたらした影響――は、この新世界における人妖のあり方の、千年先までの模範になるだろう、と考えている。
その話を巫女から聴取してまとめるために、しばしば博麗神社に通っている。弟も一緒についてきていたが、これもいつもの事。神社の周りには神人がたむろしていて、宮の出入りを固めている。博麗の社がこうした犬を引き連れているのは昔からだが、近頃は更に人が集まり始めていて、神社の周りは門前町の様相が整いつつあった。
(なんせ巫女様ときたら、この土地の調停者を任じているんだものな)
その人は町の賑わいの盛んな事を肌で感じている。
百年以上前にさかのぼる稗田阿悟の代、いわゆる妖怪拡張計画にともなう結界がほぼ固まってしまった頃、やがて幻想郷と呼びならわされていくこの領域は混乱に陥ったが、それは人妖の対立といった形で表出したものではない。にわかに流入してきた新参の妖怪たちが、もとより山にいた古参の妖怪たちの手に余る行動を起こし始めた、という妖怪側の統制不足から始まっていて、人間側は良くも悪くも蚊帳の外に置かれていた。
それはそれとして混乱は混乱だ。外界から隔離された妖怪社会は急激な変化の中でのたうち回るかもしれず、第三者である人里の人間たちだって、それに巻き込まれる可能性はある。
稗田阿悟もそのあたりの懸念はよくわかっていたし、自分たちの立場がどのように盤面に利するのか理解していたのだろう。妖怪たちは調停者を必要としていて、そうなるにはどちらの勢力の色も持たない存在が望ましい。要するに第三者たる人間がそういう存在を創出すれば、妖怪側も(少なくとも一定の勢力は)その存在を追認するだろう。
ただ、事はそれだけですんなりと通る話でもない。調停者の存在が認められた後も、それを無視する事はできる。なにか……無視しきれない存在……この土地に昔から存在している名前……あまりに都合が良すぎる立ち位置にいる者……が必要だった。
それが、あまりに都合よくいた。
博麗の巫女が幻想郷の調停者を任じ、この世界すべてのゲームを支配し始めたのは、この時代からであった。
稗田阿悟は、自分の代の縁起を編纂する中で、稗田家にわずかに残っているこの土地の故事を引き前世を掘り起こし、博麗の巫女を権威化する作業に短い晩年を捧げたという。
(俺はなにもかも知らぬ話だがな)
と、転生の子という自認を持てないその人は、巫女から話を聞きながら思った。
(しかし聞くと面白い。こういう事は、自分たちが勝手に言い張るだけでは成立しないはずだし、誰かの要求に応えてやるという形式がなければ、なにも起こせなかった)
要求した誰かとは、人間たちではなく妖怪たちだった。
(もちろん里の人間も、新参の妖怪たちに迷惑していただろうがな。それ以上に困っていたらしいのは、古参の妖怪の方々、特に賢者と呼ばれる連中らしかった)
当代の巫女はかなりの武闘派で、近年も妖怪をしばき倒して退治していた。この妖怪たちの多くは、妖怪拡張計画後に海外からやってきて、そのまま馴染まず平地で暴れていたような連中で、巫女は彼らに新しく和名を授けてやったが、もちろんこれには元々の名と力を奪う目的があった(この和名は多くが伝わっていない。時代が下って明治維新の御一新が起こった時期、彼らの多くは、今度は逆に洋名を押しつけられ、ふたたび名を奪われてしまったからだ)。ありようを歪められてしまった当の妖怪たちの反発はもちろんあったものの、そうした事が起きても、なお大多数がこれを承認するという状況が成立してしまっていた。
こうした事の繰り返しによって野の妖怪たちは力を弱められて、現在ではややおとなしくなっている。
(世界の要求に応える、という形式に則った結果だ)
ついでに、当代の巫女はそれをやる器量のある女だった。
(ある種の女傑というか、英雄ではあるのだろうな)
と、その人は対面している巫女の話を聞き書きしながら――なにもかもを完璧に覚えていられるたちではない――そう思った。
(少なくとも人間たちにとっては、これは博麗の平和と呼ぶべきものなのかもね)
またある時、巫女はその人の事を実は“生まれ直し”なのだとも説明した。本来の転生の子は、その人より数年前に産まれるはずだったのだが、運悪く死産してしまったのだという。
「それは――」と、その人は少し困惑しながら言った。「我々は聞いた事のなかった話ですね」そう言って弟へかぶりを振った。なんでこっち見るの? といった弟の表情は、自分の鏡映しのよう。
巫女は苦笑いして、稗田家も自分たちの一族の異常な立場に戸惑っているからと、小さな事実を知らされなかった事への理解を述べた。たしかに言わなくてもいい話だが、知っておいてもいいだろう、と。
(運命を強いられているのはなにも転生の子だけではないからな。本当に数百年も妖怪と対抗してきたのなら、よく続けて来られたものだ)
と、凡なその人は思うのだった――実際には、一族がこの土地に流入し続ける妖怪に悩まされて対策を本格化させていったのは、妖怪拡張計画、すなわち阿悟の代以降の事で、せいぜい百年ほどの事だったのだが。
(とはいっても百年だって長い時間だし、博麗の巫女を調停者として箔付けするなら、阿悟以前の、もっともっと昔からそういう存在であったとした方が、話がわかりやすいからな。そうする事が妖怪たちにとっても都合が良ければ、よりいっそう、そういう話にするのはたやすい)
そうした事に気がついているくらいなので、幻想郷縁起を残すという自分の仕事も、理解して割り切ってはいた。
(正確さよりは単純さが好まれるだろう)
夕暮れ時に巫女の元から辞去して、神社の境内を下りながらその人は考えた。
(そこはしょうがない。すべてを残す事なんてできっこないから)
門前町を出ると、人里まではすべてがぼんやりとしている暗さだ。自分たち以外にも供回りはいるが、なんとなく心細くて、必然的に口数が多くなる。
聞き役は弟だった。いつもそうだ。
「とにかく、ああいう巫女がいるから、この郷はひらたく保たれているんだ――俺が書く縁起の骨子は、そういう話になると思う」それともう一つ、いわゆる妖怪拡張計画は、人間たちにとっても得のある事だったという言及は必要だろう、とも言った。「世間は戦でおおいに乱れているからな。結果的にそうなっただけとはいえ、戦乱から逃れられた我々も、分け隔てられた事による恩恵を受けているわけだ」
慎重な作為が必要だが、そういう示唆を残す事もできる。
弟はなにも言わず、肯定のほほえみをしている。いつもそうだ。
(人妖間の対立を煽る必要はない)と、その人は思った。(俺らにとって妖怪たちはちょっと様子の違う隣人で、利害や意見が相違して行き違う事もある。だが、それだけだ。別に憎悪する対象ではないし、利害調整は可能だ。そのために調停者たる博麗の巫女がいる)
あるいは、ここでひとつの画期が達成されてもよかったのではないか。この巫女の代で、幻想郷は早くもひとつのハイライト、人妖の再定義と和合の時代を――のちの博麗霊夢の時代に数百年も先駆けて――迎えてもよかったのかもしれない。
そうはならなかったが。
また、そうした時代が早くに訪れたところで、それがこの幻想郷という土地を精神的に豊かにし得たのかというと、また難しい部分がある。ほぼ同時代に起こっていた他方――日白残無――の末路は示唆的だ。受け容れ吸収し和合したところで、それは必ずしもまったき状態ではない。
この時代、幻想郷は歴史的な戦乱からは幸運にも隔離されていたが、それでも時代の精神は衝突を要求していた。
やがて博麗神社は、幻想郷の平地のみならず、妖怪の山の山麓に広がる土地を故地・旧領地として請求した。
神社が請求の根拠としたのは、他ならぬ稗田阿悟が遺した幻想郷縁起だ。彼は、博麗の巫女という存在を立派な調停者に仕立て上げるため、縁起の中で幻想郷の事実上の支配者と位置付け、故事を引いてその根拠を補強している。ならびに神社に残っていた古文書等も引かれて、山麓にあった故地の土地権利は、律令制度が形骸化した後も実は失効していないという宙ぶらりんな状態で維持されている事が判明し、これが法的根拠とされた。
神社周りの門前町には、妖怪退治を生業にする博麗の私兵や雇われの傭兵のような者どもが既に集結していた。そうした戦力は平野を占領し、妖怪の山の山麓にまで押し寄せた。
(なんでそんな事を)とその人は戸惑いながらも、事変が始まったその日のうちに、博麗の巫女に会見を求めた。もちろん停戦への働きかけだったが、本人が足を運ぶわけではなく、弟を使者に遣った。
その人自身は人里内の治安対応にかかりきりで、稗田屋敷に身を置いて人に指図を与えながら、情報の収集にあたらねばならなかったが、家人を外に遣いやると、あとはもう待つしかない。なにかのっぴきならない異変が起きているというのに、身の周りだけはじれったくなるほどゆっくりとしている。
と、家の中で風が抜けるような軋みが鳴って、女が忽然と現れた。
「止められる流れではありませんわ」
その人が身構えていると、女は言った。
「少なくとも、あなたたちでは止められない。この暴走は百年の歴史の中で、何らかの形でいずれは起こる事態だったでしょう。博麗の巫女による支配の根拠は提示されているが、原則的な承認にすぎないという点で、実効能力としてはまだまだ頼りないところがあった。旧領を奪還する形で実力を誇示する流れが起こるのは時間の問題でしょう。なにより当代の巫女は出来物です。多少の無茶も遂行する事ができるし、それはあなたがたが煽った流れでもある」
(果たしてそうだろうか)
と心の中で反駁していると、妖怪女は相手の感情を態度で読み取ったのか、困った笑顔になった。
「でも、あなたは御阿礼の子ですから」そうでなくてもそうあれと、彼女は静かに迫るようだった。「そうでなければ、他に誰がそうなのですか?」
「……別に頼まれてそうなったわけではないよ」
「いいえ。私たちが要求しました。あなたにはそうした立場になっていただきたいと。稗田家に代々伝わる、伝説の子になってもらいたいと。本当のところなんかどうでもよくて、そういう事にして欲しい、と。それが世界の要請でした」
「なぜ」
「博麗の巫女を止める根拠を持つ者が他に存在しない。彼女の根拠は歴史的なものです……この郷の、けっして一筋縄ではいかぬ歴史のね。だからこそ歴史と神話をつかさどる一族だけがこれを制止する力になり得る。当代こそ、稗田家には転生の子が存在してもらう必要があった」
反語的に、現状そういう存在がいない、と彼女は言いたげだった。
(どういう意味だ)
自分が一瞬で冷たくなって、用なしになったようにその人は感じたが、同時に表の門がやけに騒がしい。弟の帰還らしいが、まるで身内に危機が迫っているような切実さで戻ってきたらしい。
「もう行かなければなりません」女は消え去る前に言った。「やがて、巫女はあなたがたの一族にかなり強引な手を突っ込むでしょう。突っ込んで、めちゃくちゃにかき混ぜて、暴力的に屈服させる。それを強引に行う名分も存在している。なぜなら、稗田家には代々多くのもののけが潜り込んでいて、人里の安全のためにはそれだけでも脅威と化しているから。本来産まれるはずだった六代目の子を死なせてしまったのも、そうした連中の力だと、巫女はそう信じているでしょう――別に信じていなくても信じているように振る舞う事はできます。しかし六代目の死はただ自然の悲劇です。そんな事を行う必要も、利益も、私たちにはなかった」
この時、稗田家に仕えていた家人は半数以上が妖怪側に引き揚げたとされている。
一方で、妖怪側から人間に与する勢力もあった。博麗神社勢力は手際よく樹海の手前まで浸透したが、それは玄武の沢水系の河童たちのような小勢力(彼らが今でも人間を「盟友」扱いする所以の一つでもある)や、分断が進んでいた天狗勢力(そもそも博麗の巫女が積極的に分断を推し進めていた。それまで下層階級の木っ端天狗としか扱われていなかった彼らに白狼天狗という名と新たな自認を植え付けたのは彼女だったから)の協力なしには成し得なかった。実情としては人妖入り乱れて、各勢力の思惑が複雑に絡み合った事変だったのだ。
人里にこっそり紛れて暮らしていた妖怪たちの(自主的であったり強制的であったりした)退去や、直後に起きた迫害こそ、人妖の対立として決定的な出来事だった。
人里は戒厳状態に入った。里内では自警団による見回りが行われて、その指揮指導には博麗神社から派遣された犬神人どもがあたっている。治安維持のためという名分はあるが、人里までが博麗神社による事実上の占領下に置かれたという事だ。
「本来の稗田の子なら止められた流れだったのかな」
人の少なくなった屋敷の中で、その人は弟に問いかけた。弟はというと、さばけている。ちょっと考えるように首をかしげた後で、いやあ、難しかったんじゃないの、とだけ答えた。
そもそも、自分の兄が転生の子ではないのかもしれない事は、はなから気がついていたし、自分自身そんな存在なわけがあるまいという事で、消去法的に最も多くの判断材料を与えられていた弟だ。それとて兄を立てるために黙っていたし、もの覚えも少しは良い方なので、兄の影として支えていればそれでいいじゃんねと自分の立ち位置を決定していた。それはこれからもそうだ。
(やっぱり変なやつだなこいつ)
と兄は思った。
弟がそれ以上にびっくりしていたのは、稗田家が数百年のうちに、もののけやあやかしの類いを大量に抱えこんでいたという事実だった。それを博麗の巫女に伝えられたからこそ、交渉の仲介など放り出して、兄の無事のために屋敷に駆け戻ったのだから。
「早く気がついていればな」と、兄もそこだけはちょっぴり反省している。「この家がそういう立ち位置だというのなら、もっと別の考え方や、やり方もあったかもしれない。自分たちが妖怪を抱えこんでいる家だと自覚していれば、それなりの立ち回りもできたのかも」
(ひょっとすると、稗田の伝説の子たちは、ずうっとそれに気がついていたが、見過ごしてやる事で生き延びていたのかもな)
自分たちは気がついてやれなかった。
「いずれにせよ」と、その人は言った。「博麗の巫女が調停者でなくなった以上、協議や交渉を行う窓口として、稗田の家はあるべきだ。たとえ自分たちがその人でなかったとしても、できる事はやらなきゃいけない」
(たぶん、そのために生かされているんだよな。少なくとも妖怪たちからは。……問題は博麗の巫女だが)
……でもさ、と弟が不安そうに言いかけるのを制して、その人は言った。
「あの女が、そもそも妖怪どもを根絶やしにするつもりで、協議や交渉を蹴っ飛ばすようなお人柄だったら、だろ?」
兄弟は顔を見合わせた。
「……さすがにそうはならないと信じたいんだがな」
結局、この事態は当代の巫女が寿命で身罷り、その次代の巫女が稗田家を始めとした人里から不信任を受けて追放されるまで、実に十数年間も継続した抗争が繰り広げられた。
その混乱を収拾しようとする努力の中で兄弟は消耗していったが、その中でも“稗田家中に潜んでいた妖怪が、本来の六代目の子を生誕後すぐに害した”という不穏な言説に関しては、公式見解としてかたくなに否定し続けた。別にあの時の妖怪女の言を信じたわけではない。信じる信じないという話ではなく、それを認めてしまえば稗田家は完全に博麗神社勢力に呑みこまれて、人妖間に決定的な決裂が発生してしまうという、ひどく現実的な理由からだ。
また、その人は、自身が本来の六代目の子の“生まれ直し”である事を積極的に認めるようにもなった。単に言い張っているだけの話だが、その主張だけは巫女も否定できる立場にはなかった。
そのため稗田阿夢は正式な六人目の転生の子と位置づけられているが、彼の弟についてはひたすら兄の影のようで、ほとんど伝わっているものがない。ただ、あくまで個人攻撃や中傷という負の形である事を考慮する必要があるが、あるいは妖怪だったのではないかという話が残っているのみだ。
いろいろと根本的なところに疑いを持ち始めていますが、それでも現在の幻想郷の原型が出てきていて、約束されている結末に近づいてきているのを感じました