第1話 主任・宇佐見蓮子
京都のオフィス街の中心部、誰もが名前を知っている企業が軒を連ねる一角に、そのビルはあった。
業界内でも売上高で上位に数えられる、大手コンサルティング会社。宇佐見蓮子は、その調査部に所属していた。企業の信用調査、財務デューデリジェンス、不正会計の兆候分析――表向きは、堅実そのものの業務内容が並ぶ部署だ。
蓮子は大学では物理学を専攻していた。研究者としての将来を、周囲からも、蓮子自身も、当然のように思い描いていた時期がある。だが、学生時代に没頭していた秘封倶楽部としての活動――非科学的な現象への深入りは、指導教官の心証を大きく損ね、推薦を得られないまま、大学院への道は静かに閉ざされた。
大好きだった物理学から離れたことを、しばらくは引きずった。他人に弱音を吐くことはなかったが、当時のメリーや両親は、蓮子が思っていた以上に、その様子を気にかけていたらしい。
それでも、蓮子の切り替えは早かった。就職活動に舵を切り、あっさりと大手商社の総合職で内定を得た。だが、入ってみると、決められた枠組みの中で、決められた手順をこなすだけの毎日が、どうにも肌に合わなかった。違和感の正体を確かめる前に、体が先に音を上げるように、一年ほどで退職した。
行き場を探していた蓮子を拾ったのが、今のコンサルティング会社だった。「数字と資料から、誰も気づかない違和感を見つけ出す」という仕事は、蓮子にとって、研究とはまるで別物のはずだった。だが、いざ働き始めてみると、意外なほど、自分の性分に馴染んだ。仮説を立て、証拠を集め、検証する。やっていることの構造は、研究とそう変わらない。対象が、論文にはならない、生々しい人間の事情だというだけだ。
午前九時、宇佐見蓮子のデスクにはすでに三つの案件のファイルが積まれていた。
うち一つは、彼女が今朝までに片付けてしまったものだ。
「宇佐見主任、それ昨日お願いしたばかりですよね」
高橋美咲が、隣のデスクから半ば呆れた声を上げた。入社三年目、蓮子より四つ年下の後輩は、まだ自分の案件のファイルを開いてすらいない。
「昨日のうちに、財務諸表と登記簿は一通り読んだから。今日は現地の商業登記所に照会をかけるだけよ」
「一通りって……あれ、百二十ページありましたよね」
「数字が合わない場所だけ拾えば、そんなに時間はかからないの」
蓮子はキーボードを叩きながら答えた。目は画面に向いたままで、美咲の方を見てすらいない。
調査部のフロアは、朝からすでに静かな緊張感に包まれている。電話の音、キーボードの音、資料をめくる音。その中で、蓮子の作業速度だけが明らかに周囲から浮いていた。
「宇佐見の手伝いか? やめとけやめとけ」
通りかかった片桐恒一が、美咲の視線に気づいて声をかけた。調査部の課長は、四十を過ぎたばかりの、額に深い皺の目立つ男だった。
「こいつには勤務時間なんて概念がないから、下手に付き合うと身体壊すぞ」
「別に手伝ってもらおうなんて思ってませんよ」
蓮子が振り向かずに言い返す。
「思ってなくても、隣にいるだけで感化されるんだよ、若いのは」
「わたしもまだ『若いの』なんですけどね」
「こういうのに下手な反論すると宇佐見はうるさいからな。俺の失言だ、お前も若いよ」
片桐はそう言いながら、蓮子のデスクに置かれたファイルの山をちらりと見た。
「それより宇佐見、例の地方銀行の件、話は聞いてるか」
その言葉で、蓮子はようやくキーボードから手を離した。
「産廃会社の融資調査、ですよね。メールは読みました」
「今日の午後、先方の担当者が来る。融資部の部長だ。お前が担当になる」
「金額、大きいんですか」
「山間部に新施設を建てるらしい。銀行としても無視できない金額だ」
片桐は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「言っておくが、今回は最初から結論ありきの調査になる可能性がある。銀行側は、たぶん『問題ありません』って報告書が欲しいんだ」
「それで問題があったら?」
「あったら、あった通りに書け。お前はそういうやつだ。俺が止めても聞かないだろう」
諦めたような、それでいてどこか信頼を滲ませたような言い方だった。片桐は、蓮子の調査能力を誰よりも高く評価している。同時に、彼女を管理職に据えることだけは絶対にすまい、とも考えていた。組織というものが、蓮子の働き方にはまるで向いていないからだ。
「田所、お前も同席してくれ。宇佐見一人だと、先方が委縮する」
「はい」
少し離れた席から、田所が短く応じた。三十五歳、堅実を絵に描いたような男で、定時になれば必ず席を立つ。蓮子とは正反対のタイプだったが、仕事上の信頼は厚い。
年齢は離れているが蓮子と同期入社だった。
「宇佐見主任がいると、みんな緊張しますもんね」
美咲が小声で言うと、田所は苦笑した。
「緊張っていうか……次に何を言われるか分からない、が近いかな」田所が苦笑いを浮かべる。
その日の午後、蓮子と田所は応接室で融資部部長を迎えた。
部長は資料を広げながら、慣れた調子で説明を始めた。
「山間部に処理施設を新設する計画です。事業者は地元の産業廃棄物処理会社。財務は健全、実績も十分ある会社です」
「融資額は?」
「かなり大きい額になります。ですので、念のため外部の目で見ておきたいと」
蓮子は差し出された資料に目を通しながら、静かに聞いた。
「同じ土地に、他の話も来ているんですか」
部長の表情が、一瞬だけ止まった。
「よくお分かりで」
「諸々の経緯を見れば、察しはつくかなと。近隣の土地が複数件、都市部の企業に買われています。どこかの大企業が土地取得に動いたタイミングで高値で売りつけるのでしょう。仮にその土地が取得範囲外だとしても開発される何かに便乗できますし」
部長は小さく息をついてから、少し声を落とした。
「いやはや、恐れ入りました。実は、京都の企業が同じ土地にリゾート開発を持ち込んでいましてね。大手銀行の融資もついている」
「それで、御行の意向としては?」
「正直、うちとしては面白くないんですよ。都市部の資本に、地元の土地を持っていかれるのは」
部長は苦笑いを浮かべた。
「地元の岡村さんを、なんとか応援したいんです。あの会社は、我々の地域では数少ない、まともに事業を続けている企業ですから」
蓮子は資料をめくる手を止めなかったが、頭の中では別の思考が動き始めていた。
地方銀行が地元企業を応援したい、という気持ちは理解できる。しかし、それは調査の中立性とは別の話だ。この依頼は、最初から「問題がないことの確認」を期待されている。
そして、期待というのは、都合の悪い事実を見えなくする力を持っている。
「分かりました。財務状況、事業実績、土地取得の経緯、順番に見ていきます」
蓮子は資料を閉じながら言った。
「ただし、一つだけお約束できないことがあります」
「なんでしょう」
「結論は、調べてみないと分かりません。それでよろしければ」
部長は少し困ったような顔をしたが、結局は頷いた。
「……それで結構です。もちろん」
応接室を出た後、田所が小さく肩をすくめた。
「相変わらず、容赦ないな」
「容赦する意味が分からないの」
蓮子はエレベーターのボタンを押しながら答えた。
「向こうが聞きたい答えを用意するために調べるんだったら、調査なんて要らないでしょう」
「まあ、そうなんだけどさ」
田所はそう言って、それ以上は何も言わなかった。彼は蓮子のやり方に口を挟むことはない。ただ、その先に何が待っているかを、少しだけ心配することはある。
自分のデスクに戻った蓮子は、渡された資料の束を、いつものように端から読み始めた。
財務状況。過去の事業実績。土地取得の経緯。
数字の羅列の中に、何か引っかかるものがある。まだそれが何なのか、蓮子自身にも分かっていない。
ただ、長年の勘が、静かに囁いていた。
この案件は、思っていたより厄介なものになる。
窓の外はすでに日が傾き始めていたが、蓮子のデスクの照明が消える気配はなかった。
第2話 内閣府国家公安委員会地域文化・伝承調査室 マエリベリー・ハーン
内閣府の庁舎の中でも、マエリベリー・ハーンの所属する部署は、フロアの奥まった一角にひっそりと存在していた。
表向きの名称は「国家公安委員会地域文化・伝承調査室」。
名刺に刷られたその肩書きを見せると、たいていの人間は、郷土資料館の学芸員のようなものを想像する。実際、メリーの机の上には、各地の民話集や郷土史の写しが積まれていて、傍から見ればその想像は正しい。
ただし、正しいのは半分だけだった。
この部屋に机を並べる十数名は、全員がその半分の先を知っている。「地域文化・伝承調査室」という名は、内閣府の中でもごく一部の人間しか実態を知らない看板であり、実際にここで扱っているのは、公にはできない境界事案――伝承や信仰の形で語り継がれてきた、説明のつかない現象の調査と管理だった。
隣の島では、若手職員が古い水害の記録と、その土地に伝わる「河童が人を引いた」という言い伝えを突き合わせている。奥の窓際では、ベテランの女性職員が、ある離島の祭礼が中断された経緯について、地元の役場と静かに電話でやり取りをしていた。誰もが、自分の担当する案件が「ただの伝承」では済まないことを知った上で、粛々と仕事をこなしている。
その意味で、メリーの部署は特別な職員の集まりというより、特別な対象を扱う専門部署だった。人間離れした力を持つ者が机を並べているわけではない。境界という、行政の枠組みでは扱いにくい領域を、それでも扱わなければならないから存在する部署――それだけのことだ。
ただし、課長の水野だけが知っていることが一つあった。
メリーが、他の職員とは根本的に違う目で、その領域を見ているということだ。
人事部からの情報では過去に数回の境界破りの経験があり、その全てが彼女の特殊な力を使っているとのことだった。
どこから見ても普通の人間で、水野自身、その違いを正確に言葉にできたことはない。報告書の書きぶりが違う、というだけでは説明がつかない。同じ現地調査の記録を渡しても、メリーだけが、他の誰も気づかない一点に指を置く。そこに何があるのかを聞いても、彼女自身、うまく説明できないことが多かった。
水野はそれを、部内の誰にも話していない。話したところで、誰も本当には理解できないだろうと思っていたし、何より、下手に共有すれば、メリーの扱いが変わってしまう。特別視されることを、彼女自身が望んでいないことも、水野は分かっていた。
だから水野は、難しい案件が来るたびに、さりげなくメリーの机にそれを置く。他の職員から見れば、単なる案件の割り振りにしか映らない。
「ハーンさん、例の件」
水野が、書類を片手に近づいてきた。四十五歳、調整担当という肩書きの通り、政治家や各省庁、地方自治体との折衝を一手に引き受けている男だ。
「例の件、というと?」
「山間部の伝承調査。上から正式に降りてきた」
水野が差し出した書類には、地名と、簡単な事案概要が記されていた。
メリーはそれを一読して、小さく眉を寄せた。
「……大食い鬼の五郎」
「知ってる話か?」
「いえ。初めて聞きます」
メリーは書類をめくった。文書の体裁は、他の民間伝承調査の依頼書と何ら変わらない。しかし、その末尾に添えられた注記だけが、この案件が「ただの伝承調査」ではないことを示していた。
――現地における物体消失事案、複数件確認。原因不明。境界性の疑いあり。
「境界、ですか」
「ああ。だから君に回ってきた」
水野は椅子に浅く腰掛けながら続けた。
「表向きは地方史の調査ということにしてある。実際、その山には昔から言い伝えがあるらしい。山に物を置いて一晩過ごすと、朝には消えている、というやつだ」
「五郎という鬼が食べる、と?」メリーは表情を崩さずに返す。
「そういうことになっている」
メリーの部署が扱う案件のほとんどは、こうして「昔話」の皮を被ってやってくる。表向きは民間伝承の研究、実態は境界にまつわる異常現象の調査と管理。国家公安委員会の管轄下にありながら、その存在自体がほとんど知られていない部署だった。
「現代でも消失は確認されているんですか」
「報告はある。詳しいことは分からんが、この十年ほどで、少なくとも数件。直近だと半年ほど前だ」
水野は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「正直に言うと、俺は現場に出ても、何が起きているのかを自分の目で確かめられたためしがない。調整と根回しはできても、境界そのものを見る勘は持ち合わせてない。だからこそ、こういう案件は現場に強い人間に任せる」
「私は好きですよ」
「知ってる。だから回した」
水野は苦笑いを浮かべたが、その目はすぐに真剣なものに戻った。
「ただし、一つ言っておく。この地域には、地元選出の議員が絡んでいる」
「議員、ですか?」
「環境副大臣の黒田だ。あの山を含む一帯を、やたらと気にかけている。理由は分からん。純粋な地元愛かもしれないし、そうでないかもしれない」
「政治的な配慮が必要、ということですね」
「その通り。伝承調査という名目を、絶対に崩すな。境界だの怪異だのという言葉はヒアリングの場でも絶対に出すな」
メリーは書類を閉じながら、小さく頷いた。
周囲の同僚たちが、この会話に注意を払っている様子はなかった。水野が難しい案件をメリーに回すのは、いつものことだからだ。「ハーンさんはああいうのが得意だから」――その程度の認識で、皆それぞれの仕事に戻っていく。誰も、その「得意」の中身を深くは詮索しない。
「分かりました」
「あと、もう一つ」
水野は立ち上がりかけた体を、再びメリーの方へ向けた。
「古い記録が必要なら、久世さんに当たってみるといい」
「久世さん?」
「官僚OBだ。この手の境界性案件に、妙に詳しい人でな。もう現役ではないが、話を聞くくらいは付き合ってくれるはずだ」
水野はそう言い残して、自分のデスクへと戻っていった。
メリーは一人になったフロアの片隅で、改めて書類に目を落とした。
大食い鬼の五郎。
山に物を置いて一晩過ごすと、朝には消えている。
その響きには、どこか懐かしいものがあった。学生時代、秘封倶楽部として蓮子と共に追いかけていた、無数の怪異譚と同じ手触りだ。
違うのは、あの頃は面白がっていればよかった、ということだ。
今は、これが仕事になっている。
境界性の疑いあり、という一文が、メリーの中で静かな熱を持ち始めていた。
単なる昔話ではない。
現代でも、何かが消え続けている。
メリーは書類を鞄にしまうと、次に会うべき人間の名前を、頭の中で反芻した。
久世。
まずはそこから始めよう。
第3話 公安委員会OB
久世の自宅は、京都の中心部から電車を乗り継いで一時間ほどの、古い住宅地の一角にあった。
庭付きの平屋。玄関先には、手入れの行き届いた盆栽がいくつか並んでいる。表札には「久世」とだけ、簡素な字で書かれていた。
インターホンを押すと、しばらくして、思ったより張りのある声が返ってきた。
「はいはい、どちら様で」
「内閣府の者です。水野からご連絡が行っているかと思います」
「ああ、ああ。少々お待ちを」
現れた久世は、七十前後にしては姿勢の良い、痩せた老人だった。灰色の髪をきっちりと撫でつけ、着古してはいるが清潔なシャツを着ている。目つきだけが、年齢に似合わず鋭かった。
「まあ、お上がりなさい。茶ぐらいは出せますから」
通された居間には、古い書物や資料の束が、几帳面に積み上げられていた。長年の習慣なのか、どれもラベルが貼られ、整理されている。
「ハーンさん、と呼べばいいですかな。水野くんから、そう聞いていますが」
「マエリベリー・ハーンです。ハーンで結構です」
「帰化なされたのかな? 珍しいお名前だ」
久世は茶を淹れながら、それ以上は名前について触れなかった。
「今日は、古い案件について確認したいことがあると聞きましたが」
「はい。甲信越地方の山間部の伝承について、以前に何か扱われたことがあると伺いました」
メリーがそう切り出そうとすると、久世が湯呑みを置きながら、ふと思い出したように口を開いた。
「その前に――水野君は元気ですか?」
「はい」
「彼が新卒で入ってきた時、教育担当を任されましてね。愛想が良くて、人当たりも良い。ただ妙にリアリストで、我々が追うような不可思議な出来事について、『こんなのマユツバですよ!』なんて怒り出す困った子でした」
久世は懐かしそうに目を細めた。その笑みには、社交辞令以上の、実感のこもった温かさがあった。
「今も、あまり変わっていないと思います」
「そうでしょうな。ああいう性分は、そう簡単には変わらない」
「彼が今、あなたのような方を部下に持っているというのは、面白いものです」
「たぶん、うまくやっていると思います。彼なりのやり方で」
「それは何より」
久世はそう言って、湯呑みを一口すすった。それから、改めてメリーの方に向き直った。
「それで、山間部の伝承について、でしたな」
メリーは、資料を鞄から取り出しながら切り出した。
「『大食い鬼の五郎』という話をご存知でしょうか?」
久世の手が、茶托を置く動作の途中で、一瞬だけ止まった。
ほとんど気づかれないほどの、わずかな滞りだった。だが、メリーはその一瞬を見逃さなかった。
「……ああ。知っていますよ。昔、担当したことがありましてね」
「担当、というのは?」
「歳は取りたくないですな。思い出すのに時間がかかるし、記憶も曖昧です。当時の資料も、とっくに処分されているはずです」
久世はそう言って、湯呑みをメリーの前に置いた。にこやかな表情には、拒絶するような険はない。だが、それ以上の情報を渡す気配もなかった。
「その山について、何か記録は残されていますか」
「職務規定で退職と共に全て置いてきています。昔話としてなら、いくらでも。罪人を捨てた、飢饉のときに年寄りを捨てた、陶器の失敗作を捨てた――地方には、似たような話がいくらでもありますよ。物を捨てる場所には、必ずそれらしい怪異譚がつきまとうものです」
「今回のものは、現代でも消失が確認されています」
「ほう」
久世は、興味深そうに眉を上げた。だが、その反応もどこか演技じみて見えた。
「それは、興味深いですな。私が担当していた頃には、そこまで具体的な報告はありませんでしたが」
「当時は、どういった経緯で担当されたんですか」
久世は湯呑みを口に運び、しばらく黙っていた。話すかどうかを、天秤にかけているような間だった。
「……ある企業の社長が、失踪した事件がありましてね」
「失踪」
「所謂ご当地企業の社長です。ある晩、姿を消して、二度と見つからなかった。当時は、ただの失踪事件として処理されました。ですが」
「ですが。それだけではなかったと?」
「その地域には、昔からあの伝承がある。物や人が消える。もし境界性の事件だとしたら、警察の捜索では到底手に負えない。それで、裏で我々が動いたんです」
久世は、湯呑みの縁を指でなぞった。
「あの山には、熊も猪もいません。あれだけの森があって、獣の一匹もいない。おかしいと思いませんか。野生動物ですら、あの山には近寄らない。何かを恐れているのかもしれない――当時、私はそう考えていました」
メリーは、その言葉を書き留める手を止めた。
「それで、調査の結果は?」
「これからだ、という時に、打ち切りになりました」
「誰の判断で?」
久世は、ゆっくりと首を横に振った。
「それについては、お答えできません」
「なぜですか?」
久世は、初めてまっすぐにメリーの目を見た。年齢を感じさせない、鋭い視線だった。
「余り老人を虐めないでもらいたいですな。あなたは、他の人間とは少し違う目で、そういうものを見ていらっしゃる。そうでしょう」
メリーは、その言葉に一瞬だけ息を止めた。
人事部の上席以外誰も口にしたことのない指摘だった。
「……何をおっしゃりたいんでしょうか」
「いや、何も。ただの年寄りの勘です」
久世はそう言って、また穏やかな表情に戻った。だが、その目の奥にある鋭さは消えていなかった。
「これ以上は、私の口からは申し上げられません。公安委員会OBといえど、迂闊に口外すれば規定違反になりかねない。それに」
久世は、湯呑みを静かに置いた。
「未来のある方に、規定違反を強要させたなんて汚点を残すわけにはいきませんから」
それが、親切心から出た言葉なのか、それとも体よく話を切り上げるための口実なのか、メリーには判断がつかなかった。ただ、その言葉を最後に、久世が二度と本題に触れなかったことだけは確かだった。
それ以上、何を尋ねても、久世は同じように柔らかく話をかわし続けた。
結局、それ以上の具体的な情報は得られないまま、メリーは久世の家を後にすることになった。
最寄り駅への道を歩きながら、メリーは今しがたの会話を反芻していた。
社長の失踪。熊も猪もいない山。これからだという時の、調査の打ち切り。
そして、あの一瞬の滞り――「大食い鬼の五郎」という名を聞いた瞬間の、わずかな間。
あれは、単なる懐かしさではなかった。
久世は、明らかに核心の近くにいる。だが、それを話す気はない――話せない事情があるのか、話さない選択をしているのか、そこまでは分からなかった。
メリーは、駅のホームで水野に短い報告のメッセージを打った。
久世は何かを知っている。だが、それを話す気はない。
それだけを伝えると、メリーは携帯をしまい、次に向かうべき場所――五郎の伝承が残る村について、頭の中で計画を組み立て始めた。
第4話 宇佐見蓮子の視察①
産業廃棄物処理会社「岡村興産」の本社は、市街地から車で三十分ほど離れた、工業団地の一角にあった。
最寄り駅からは在来線もバスも本数が乏しく、蓮子は駅前からタクシーを使った。狭い山道を縫うように進む車内で、対向車とすれ違うたびに徐行を強いられる場面が何度もあった。
敷地に足を踏み入れると、蓮子の予想よりも整然とした光景が広がっていた。搬入口には清掃の行き届いたトラックが並び、案内板も新しい。少なくとも、外見上は「粗雑な業者」という印象はどこにもない。
「宇佐見さん、でしたね。わざわざお越しいただいて」
応接室に現れたのは、恰幅の良い、日焼けした顔の男だった。歳は五十を少し過ぎたあたりだろう。声が大きく、握手の力も強い。
「岡村です。今日はよろしくお願いします」
「宇佐見です。お時間をいただき、ありがとうございます」
岡村は蓮子を応接用のソファへ案内しながら、人懐こい調子で切り出した。
「いやいや、京都からこんな山奥まで、大変だったでしょう。今日は新幹線で?」
「はい。そこから在来線を乗り継いで参りました」
「そうでしょう、そうでしょう。この辺りは、都会の方からすると不便で仕方ないと思いますが」
岡村は快活に笑いながら、茶を勧めた。
「もしお時間があれば、帰りに駅前の陶器市を覗いていくといいですよ。この辺りは昔、焼き物の里でしてね。今はだいぶ寂れちまいましたが、掘り出し物もまだあります」
「陶器市、ですか」
「あとは、蕎麦。この辺りの蕎麦は、水がいいから美味いんです。駅前に一軒、いい店がありますから」
「機会があれば、伺わせていただきます」
蓮子は当たり障りなく応じながら、内心では、この手の世間話が長引くほど、本題に入るまでの時間が削られることを冷静に計算していた。
「そうそう、これ、つまらないものですが」
岡村は、応接室の脇に置かれていた紙袋を、蓮子の方へ差し出した。中には、地元の菓子折りらしきものが入っている。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。ですが、こちらはお断りさせていただきます」
「いやいや、ほんの気持ちですから。堅いこと言わずに」
「調査を担当する立場として、調査対象の方から金品をお受け取りするわけにはいきません。会社の規定でも、明確に禁じられておりますので」
蓮子は、丁寧だが、揺るぎのない口調で言い切った。
岡村は一瞬、意外そうな顔をしたが、すぐにまたいつもの笑みに戻った。
「なるほど、しっかりしてらっしゃる。いや、失礼しました」
「お気持ちだけ、ありがたく頂戴します」
岡村は紙袋を脇へ戻すと、それを機に、ようやく本題の資料を広げ始めた。
「銀行さんから話は聞いてます。しっかり見ていただきたい」
「新施設の建設予定地は、山間部と伺っていますが」
「そうです。今の施設じゃ、もう手狭でしてね」
岡村は資料のページをめくりながら、身振りを交えて説明を始めた。
「これからの時代、廃棄物処理業も変わらなきゃいけない。ただ処理するだけじゃなく、自然環境と共存する。うちはそれを本気で目指してるんです」
彼が指し示したページには、緑に囲まれた近未来的な施設の完成予想図が描かれていた。太陽光パネル、緑化された屋根、自然エネルギーを利用した処理システム。理念としては、聞こえの良い言葉が並んでいる。
「『自然環境と共存する次世代型処理施設』、ですか」
「その通り。地元の山を守りながら、地域に必要なインフラも維持する。この土地に生まれ育った人間として、恩返しのつもりでやってるんです」
岡村の語り口には、淀みがなかった。何度も繰り返してきた説明なのだろう、言葉の一つ一つに迷いがない。豪快な笑い方も、握手の強さも、初対面の相手に安心感を与えるためのものとして、よくできていた。
だが、蓮子の目は、彼の言葉ではなく、資料の数字を追っていた。
「処理能力について伺いたいのですが」
「はい、なんでも聞いてください」
「事前にいただいた資料によると、現在の施設の稼働率は七割程度となっています。それでも新施設が必要になる、という根拠を伺えますか」
岡村の表情に、一瞬だけ、わずかな硬さが差した。
「……それは、将来的な需要を見越してのことです。この地域だけじゃなく、近隣の自治体からの受け入れも視野に入れていますから」
「近隣自治体との受け入れ契約は、すでに締結されているんですか?」
「いや、それはこれからの話で。ただ、需要はあるはずなんです。今後、この手の施設はどんどん必要になってくる」
「予測値ということですね」
「まあ、そうですね」
岡村は笑顔を崩さなかったが、その笑顔の質が、わずかに変わったのを蓮子は感じ取った。愛想の良さの裏に、何かをはぐらかそうとする気配がある。
「土地の取得についても伺いたいのですが」
「ああ、あの土地ですか」
「もともとは、どういった経緯で取得されたんでしょう」
「……先代から、うちが管理してきた土地でしてね。詳しい経緯は、正直、私もそこまで把握してないんですよ」
岡村は、初めて視線をわずかに逸らした。ほんの一瞬だったが、それまでの淀みない語り口とは明らかに違う反応だった。
「先代というのは、お父様のことですか」
「……ええ。もう、大分前に亡くなりましたが」
岡村の声のトーンが、わずかに低くなった。
「その頃から、うちが持ってた土地なんです。だから、詳しい取得の経緯というのは、正直、書類を見ないと私にも分からない部分がありまして」
「承知しました。後ほど、関連書類を拝見できますか」
「もちろん、もちろん。用意させます」
岡村は、すぐにいつもの調子を取り戻したように、大きな声で笑った。
「宇佐見さんは、なかなか厳しい質問をされる方だ。銀行さんの調査って、こんなに細かいものなんですか」
「案件によります」
「そうですか。まあ、こっちはやましいことは何もないんで、遠慮なく聞いてください」
その言葉と裏腹に、蓮子は先ほどの一瞬の反応を、頭の中に丁寧に書き留めていた。
施設の必要性についての、根拠の薄い説明。
土地取得の経緯について、社長自身が把握していないという不自然さ。
そして、父親の話題が出た瞬間の、わずかな動揺。
どれも単体では、決定的な材料にはならない。だが、蓮子の経験則が、それらを一つの線として繋げ始めていた。
パンフレットの説明が一通り終わったところで、蓮子は資料を閉じ、改めて切り出した。
「理念については、よく分かりました。それとは別に、新施設の実際の設計図面と、建設予定地の地質調査の資料を拝見できますか」
岡村の表情に、わずかな間が生まれた。
「設計図面……ああ、ありますよ。ちょっと待っててください」
岡村は席を立ち、隣室にいる社員に何やら声をかけた。少し長めの間があってから、若い社員が図面のファイルを抱えて戻ってきた。
「お待たせしました。こちらが現在の設計図です」
テーブルに広げられた図面は、パンフレットの完成予想図とは違い、無機質な線と数字だけで構成された、実務的なものだった。処理棟の配置、搬入経路、地質調査のボーリング地点。蓮子はそれを一枚ずつ、丁寧に目で追っていく。
そして、敷地の最も奥まった一角に、蓮子は目を留めた。
処理施設全体の設計の中で、その区画だけが、不自然なほど広く、丁寧に確保されている。しかも、周辺の造成計画からも明確に切り離された形で描かれていた。
「これは、何の区画ですか?」
「ああ、それは……地元の、小さな祠でしてね。昔からある、山の神様を祀ったものだそうで。施設を作るにあたって、そのまま残すことにしたんです」
「祠、ですか」
「地元の人間というか、僕たちの親世代からすると、大事なものらしいので。うちとしても、無下にはできませんから」
岡村はまた、いつもの快活な笑みを浮かべた。だが、蓮子の目には、その祠の区画――処理施設全体の設計の中で、明らかに不釣り合いなほど大きく、丁寧に確保された、最奥の一角――が、強く焼き付いていた。
なぜ、廃棄物処理施設の設計図の中に、これほど丁寧に祠のための区画が残されているのか。
単なる地元への配慮、というだけでは、説明のつかない何かがあるように思えた。
「この図面は、コピーをいただけますか」
「ええ、構いませんよ」
岡村は、あっさりと頷いた。隠す気配はない――むしろ、隠す必要のあるものは、この図面には描かれていない、という余裕すら感じさせる態度だった。
蓮子は図面の中の、搬入経路を示す線に目を留めた。
「搬入経路についても伺いたいのですが。契約先は都市部の企業が中心になる、と資料にありました。この山間部まで、廃棄物をどう運搬する計画なんでしょうか」
「ああ、それは……」
岡村は、初めて言葉を選ぶような間を置いた。
「駅からここまで、タクシーでいらっしゃいましたよね。道、狭かったでしょう」
「ええ、かなり」
「あの道じゃ、大型の搬入車両はとても通せません。ですので、別のルートを整備する計画になってます」
「別のルート、というのは」
「昔、途中まで作って止まってた道があるんですよ。山間部を突っ切って、都市部と直結させる計画だったんですが、財政の都合で頓挫していましてね。あれを、うちの費用で延長・再整備する形にするんです」
「頓挫した道路を、利用する、と」
「そうです。ゼロから道を作るより、既存の計画を活かした方が、コストも工期も抑えられますから」
蓮子は、その説明に相槌を打ちながらも、頭の中では別の疑問が動き始めていた。
都市部から直結する専用道路。山間部を突っ切るルート。
村を経由しない、あるいは村へは降りられない構造の道――もしそうだとしたら、それは「地域のためのインフラ」という説明と、微妙に食い違う。
「その道路は、村の集落も通るんでしょうか」
「いや……村へは、直接は繋がらない設計だったはずです。もともとの計画自体が、都市部と資源地を最短で結ぶ、という目的だったので」
「承知しました。後ほど、その道路計画の資料も拝見できればと思います」
「分かりました。用意させます」
岡村は、また快活な調子に戻って頷いた。だが、蓮子はその返答の中に、もう一つの引っかかりを見つけていた。
村のためのインフラだと言いながら、村には繋がらない道。
これもまた、単体では決定的な材料にはならない。だが、蓮子の中で、いくつもの小さな違和感が、少しずつ一つの輪郭を結び始めていた。
岡村興産本社を後にした蓮子は、車に乗り込みながら、片桐へ短いメッセージを送った。
――違和感あり。詳細は追って報告します。
窓の外を流れていく工業団地の景色を眺めながら、蓮子は、これから調べるべきことのリストを、頭の中で静かに組み立て始めていた。
第6話 宇佐見蓮子の視察②
既存の処理施設は、岡村興産の本社から、さらに車で十五分ほど山側に入った場所にあった。
本社を出る際、現場責任者を名乗る中年の男が、社用車で施設まで送ると申し出た。蓮子はそれに乗り、山側へ向かう道を進んだ。岡村本人は、別件があるとのことで同行していない。
「こちらが、焼却処理棟になります。稼働は問題なく、法定の点検も毎年きちんと通しています」
男は淡々とした口調で、蓮子を施設の中へ案内した。
設備は、蓮子の目にも古びた印象はなかった。焼却炉は定期的にメンテナンスされている様子で、排ガス処理装置も比較的新しいもののように見える。作業員の動きにも、無駄がない。
「稼働率は、資料通り七割程度、ということでよろしいですか」
「はい。繁忙期でも八割を超えることは、ほとんどありません」
「新施設の建設が必要になるほど、今後、受け入れ量が増える見込みがあるということですか」
「そこは、私からは何とも……。経営判断の部分になりますので」
現場責任者は、質問がその領域に触れると、決まって言葉を濁した。悪意があるようには見えなかった。ただ、単純に、経営の意図をこの男自身が把握していないのだろう、と蓮子は感じた。
「では、廃棄物の種類について伺いたいのですが。現在、主にどういったものを受け入れていますか」
「建設系の廃材が中心です。あとは、一般の産業廃棄物ですね」
「新施設では、受け入れる廃棄物の種類は変わるんでしょうか」
「そこも、詳しいことは……。まだ計画段階なので、私の方には具体的な話は下りてきていません」
蓮子は、施設内を一通り見て回りながら、頭の中で数字を組み立て直していた。
既存施設の稼働率は七割前後。繁忙期でも八割に届かない。受け入れる廃棄物の種類も、これといって特殊なものはない。近隣自治体との受け入れ契約も、まだ締結されていない。
この状況で、なぜ、採算の見込みが不透明な山奥に、新たな巨大施設を建てる必要があるのか。「将来的な需要」という説明だけでは、数字が動かない。
「差し支えなければ、稼働記録のデータを、過去数年分いただくことは可能でしょうか」
「それは、本社の方に確認していただければすぐに用意できると思います」
「承知しました」
施設を一通り見終えた後、蓮子は外に出て、敷地全体を見渡した。
整然と管理された既存施設。その先に広がる、緑の濃い山並み。
この施設だけを見れば、岡村興産は堅実な、地に足のついた事業者に見える。だからこそ、新施設計画の不自然さが、余計に際立って見えた。
まるで、既存の事業とは別の理屈で、新施設という計画だけが独立して動いているような。
蓮子は、社用車が停められた場所へ戻りながら、この会社、本当に廃棄物処理をしたいのだろうか、という疑問を、改めて頭の中で反芻した。
もしそうでないとしたら、目的は何なのか。
巨額の融資を引き出し、山奥に施設を建てる。その先に、本当の目的が別にあるとしたら――。
まだ、答えには程遠い。だが、調べれば調べるほど、この案件が「融資審査のための企業調査」という枠に収まらないものになっていく予感を、蓮子は拭えずにいた。
現場責任者が運転する社用車で、蓮子は最寄り駅まで送ってもらうことになった。車が山道を下り始めたところで、蓮子は片桐へ短いメッセージを打った。
――既存施設に大きな問題はなし。ただし、新施設の必要性を裏付ける材料が見当たらない。もう少し掘ります。
メッセージを送り終えると、蓮子はしばらくの間、助手席の窓越しに山並みを眺めていた。
あの山のどこかに、まだ見ていない何かがある。そんな確信めいた予感が、静かに胸の奥で育ち始めていた。
第7話 マエリベリー・ハーンの調査①
村へ向かう電車は、一日に数本しかなかった。
終着駅から先は、村役場が出している乗り合いバスに乗り換える。車内には、メリーの他に数人の高齢者が乗っているだけだった。
バスの窓から見える景色は、山の緑と、ところどころに残る田畑、そして、閉じたままのシャッターが目立つ商店の並びだった。かつて賑わっていたであろう気配だけが、建物の輪郭に残っている。
村役場で簡単な挨拶を済ませたメリーは、地方史の調査という名目で、地元の郷土資料館を訪ねた。
資料館といっても、実態は公民館の一室を間借りしたような、こぢんまりとした施設だった。館長を兼ねているという老人が、快く迎え入れてくれる。
「五郎の話でしたら、うちの婆さんに聞くのが一番でしょうな。あの人は、この村で一番の物知りですから」
紹介された老婆――竹田タキという名の女性は、資料館の隣にある小さな家で一人暮らしをしていた。
「五郎かい。懐かしい名前だねぇ」
タキは、お茶を淹れながら、ゆっくりとした口調で語り始めた。
「私が子供の頃は、悪さをすると、五郎に食われるよって、よく脅かされたもんですよ。山に置いていかれるぞ、って」
「昔から、そういう言い伝えがあったんですね」
「そうそう。罪を犯した人間の手足を縛って、山に置き去りにしたなんて昔話も聞くしね。あとは、飢饉の時分に、歩けなくなった年寄りを、山に置いていったとか」
タキは、遠い記憶をたどるように、視線を宙に漂わせた。
「あんまり、良い話じゃないですよ。捨てられる方からすれば」
「他には、どんな話がありますか?」
「陶器の話も、有名ですね。この辺りは、昔は焼き物の里でしてね」
タキの声に、少しだけ張りが戻った。
「失敗した器やら、割れた器やらを、山に持っていって捨てる習わしがあったんです。五郎が食べてくれるから、蔵が綺麗になるって。今でいうリサイクル、なんてものじゃないですけどね」
「その陶芸は、今も続いているんですか」
メリーの問いに、タキは小さくため息をついた。
「今じゃ、窯を動かしてる家は、片手で数えるほどですよ。昔は、村中どこの家からも、煙が上がってたもんですけどねぇ」
タキは、窓の外に目をやった。
「みんな、麓の街に出て行っちまってね。若い人は、そもそも村には残らない。この村が、あと何年もつか」
その一言には、単なる懐古の情ではない、静かな諦めのようなものが滲んでいた。
「不安、ですか」
「不安っていうか……もう、覚悟はしてるんですよ。この村がなくなること自体は、仕方がないのかもしれない、って」
タキは湯呑みを両手で包みながら、続けた。
「ただね、どうせなら、みんなでまとまって、何か一つのことをやって、それで食べていけるようになれば、それが一番いいと思ってるんです。リゾートだろうが、なんだろうが」
「リゾート、というのは?」
「ああ、京都の方の会社が、なんか計画を持ってきてるって話、聞いたことないかい。山を切り開いて、ホテルだか温泉だか作るとかって」
「初耳です」
「まあ、噂程度の話ですけどね。産廃屋さんの新しい施設の話もあるし。どっちが来ても、私はどうでもいいですよ。この村がもう少し長く続くなら、それで」
タキの言葉には、感傷も、期待も、どちらもさほど強くはなかった。ただ、目の前の現実を、淡々と受け入れているだけの口調だった。
メリーは、その温度感を静かに受け止めながら、次の質問に移った。
「五郎の伝承について、他に何かご存知のことはありますか。例えば、山そのものに関する話とか」
「山そのもの……」
タキは、少し考え込んでから、声を落とした。
「これは、あまり大きな声じゃ言えない話なんだけどね」
「はい」
「昔――もっとずっと昔の話ですよ――あの山には、生まれつき体の弱い赤ん坊を、置いていったこともあったって、私が子供の頃、祖母から聞いたことがあります」
メリーは、その言葉に、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「本当かどうかは分かりませんよ。ただの言い伝えかもしれない。でも、そういう話が残ってるってことは……あの山は、昔から、村にとって『捨てる場所』だったんでしょうねぇ」
「物だけじゃなく」
「ええ。人も」
タキは、湯呑みを置いた。
「五郎が食べてくれるから――なんて言い方をするとね、聞こえはいいんですよ。でも、要するに、村では処理できないものを、全部あの山に押し付けてきた、ってことなんじゃないかと、私は思いますけどね」
メリーは、資料館で借りた古い地誌の写しに目を落とした。江戸期の記録らしき断片には、「山に納める」「山へ返す」といった言葉が、繰り返し現れている。
物を捨てる場所、というだけでは説明のつかない、もっと根の深い何か。
この山は、村が長い年月をかけて、目を背けたいものを押し込んできた場所なのだ。
そして――現代になっても、その「消える」という現象そのものは、変わらず続いている。
メリーは、タキに丁寧に礼を述べ、資料館を後にした。
電車の時間まで少し余裕があったため、メリーは役場に立ち寄り、地方史調査の追加資料はないかと総務課の窓口を訪ねた。
「五郎の話ですか。ああ、懐かしいな。年寄りから聞いたことがありますよ」
応対した職員は、まだ三十代半ばだろうか、人の好さそうな顔で笑った。
「私が知ってるのは、もっと最近の話なんですけどね」
「最近の話、ですか?」
「近所の叔父さんが、まだ若い頃、親に内緒でバイクを買ったことがあったらしいんです。当時は親が厳しくて言えなかったって」
職員は、書類の整理をしながら、思い出話のように続けた。
「それで、置き場所に困って、ひとまず山の入り口に隠しておいたそうなんです。一晩だけ、誰にも見つからないように」
「それで、どうなったんですか」
「翌朝行ったら、なくなってたそうです。最初は盗まれたと思って、青くなったらしいんですけど――でも、考えてみたら、おかしいんですよ。あの山、村の人間以外はまず入りませんし、盗んだバイクを隠す場所なんて、この辺りにはどこにもない。すぐに噂になるはずなんです」
「見つからなかった?」
「ええ。結局、今でも見つかっていません。叔父さん本人は、五郎に食われちまったんだ、って笑って話してましたけどね」
職員は、少し声のトーンを落とした。
「似たような話は、他にもぽつぽつ聞きますよ。農具を置き忘れたら消えてた、とか、漁の道具を山際に置いておいたら朝にはなかった、とか」
「最近のものだと、どういった話がありますか?」
「一番新しいのは……そうですね、半年くらい前だったかな。配信をやってる若い子が、村に来たことがあったんです」
「配信、というのは」
「動画配信です。五郎の噂を聞きつけて、面白半分で、ぬいぐるみを山に置いて、一晩様子を見る、みたいな企画をやったらしくて」
「それで?」
「翌朝、本当に消えてたそうです。本人は本気で驚いて、そのまま配信で報告したらしいんですが……当然、誰も信じませんよね。ヤラセだ、仕込みだって、随分叩かれたと聞きました」
職員は、少し困ったように笑った。
「本人は、それきり村には来てないみたいですけどね。気の毒な話です」
メリーは、その話に静かに耳を傾けながら、内心では別のことを考えていた。
水野が渡した資料の中に記されていた「境界性の疑いあり」という一文――その発端は、この配信者の一件だったのかもしれない。世間からは誹謗中傷を浴びて終わった出来事の裏で、公安だけが、その現象の異質さに気づいていた。
「他にも、何か……大きな出来事のようなものは、ありましたか」
メリーが尋ねると、職員はふと表情を曇らせた。
「大きな出来事というと……岡村さんとこの、先代の社長さんの話かな」
「岡村さん?」
「この地域の産廃屋さんですよ。今の社長さんのお父さんが、昔、山菜を採りに山へ入って、それきり帰ってこなかったことが。もうずいぶん前の話ですけど」
メリーは、内心で小さく息を呑んだ。
久世が語っていた「ある企業の社長の失踪事件」――あれは、この話のことだったのだ。裏で公安が動いていた、これからだという時に打ち切りになった、と久世は言っていた。目の前の職員が語るのは、その事件の、村側から見た顔だった。
「捜索は?」
「もちろん、大がかりにやりましたよ。警察も消防も出て。ただ、結局、何も見つからなかった。遭難したのか、事故に遭ったのか……正式には、そういうことになってます」
職員は、少し声を落とした。
「ただ、村の年寄りたちの間じゃ、違う言い方をする人もいますね。あの人は、山に呼ばれたんだ、って」
「呼ばれた、というのは?」
「さあ。私も、それ以上のことは分かりません。ただの言い伝えでしょう、たぶん」
職員はそう言って、話を切り上げるように書類へ視線を戻した。
メリーの中で、久世の言葉が改めて重みを増していた。熊も猪もいない山。これからだという時の、調査の打ち切り。あの時は輪郭のつかめなかった話が、村という具体的な土地と、具体的な一人の人間の不在に結びついた瞬間だった。
誰が、なぜ、あの調査を止めさせたのか。久世は、それについては答えられないと言った。だが、この村に来て、こうして同じ事件の別の面を聞くことになるとは、メリー自身も予想していなかった。
メリーは礼を述べて役場を後にしながら、頭の中でいくつもの証言を並べ直していた。
バイク。農具。漁具。ぬいぐるみ。そして、人間。
物から人へ、規模も時代も異なる出来事が、すべて同じ山の同じ現象へと収束していく。
駅へ向かう道すがら、空き家になった窯元の前を通り過ぎる。崩れかけた煙突と、雑草に覆われた作業場が、かつての活気を静かに物語っていた。
メリーは、山の稜線を遠くに見ながら、これから自分が向き合うことになるものの輪郭を、少しずつ思い描き始めていた。
第8話 マエリベリー・ハーンの調査②
村からの帰りの電車の中で、メリーはノートパソコンを開いた。
情報を時系列順に整理する前に、報告書の冒頭には、事務的な一文を書き加えておく必要があった。
――山林所有者(岡村興産)に対し、現地立ち入りの許可を打診したが、「地質調査が継続中のため、関係者以外の立ち入りを禁止している」との回答があり、許可は得られなかった。
正規の手続きを踏んで申請したにもかかわらず、あっさりと断られた。理由自体は、事業者の対応として、特段不自然というわけではない。地質調査中の立ち入り制限は、どこの現場でも珍しいことではないからだ。
だが、メリーの中には、小さな引っかかりが残っていた。
地元の民間伝承を調べたいという、あくまで穏当な申し出に対して、一切の交渉の余地を残さない、きっぱりとした拒絶だった。まるで、理由を並べる必要すら感じていないかのような対応だった。
その一文を書き終えると、メリーは改めて、これまでに集めた情報を時系列順に整理し始めた。
窓の外を流れる夕暮れの山並みを横目に、指先がキーボードの上を静かに動く。
まず、最も古い記録。江戸期の地誌に残る、「山に納める」「山へ返す」という表現。当時、この一帯では、罪を犯した者を山へ置き去りにする慣習があったとされている。処刑ではなく、放逐。その先に何が待っているかについては、記録は多くを語らない。
次に、飢饉の時代。歩けなくなった高齢者を、家族が山へ連れていったという話。これも、直接的な表現は避けられているが、竹田タキの語った内容と一致する。
さらに、生まれつき体の弱い赤ん坊を山へ置いていったという伝聞。これは記録としては残っていない。あくまで、口伝えに伝わってきた話だ。それだけに、当時の村にとって、どれほど触れにくい記憶であったかが窺える。
時代が下ると、伝承の性質が変わる。
陶芸が村の主産業になって以降、山は「失敗作を捨てる場所」として利用されるようになった。人を捨てる場所から、物を捨てる場所へ。表向きの意味合いは変化しているが、根底にある構造――村にとって処理しきれないものを、あの山へ押し付ける、という構造そのものは、変わっていない。
そして現代。
メリーは、役場の職員から聞いた証言をリストアップしていく。
バイクの一件。農具、漁具の消失。半年前の配信者の事案。そして、岡村興産の先代社長の失踪。
時代も規模もばらばらな出来事だが、共通する条件が一つだけある。
「山に置いて、一晩を過ごすと、消えている」
この一点においてだけ、すべての証言が揃っている。
メリーは、キーボードを打つ手を止めて、画面に映る箇条書きのリストを見つめた。
もう一つ、確認しておかなければならないことがある。
消えたものは、戻ってくるのか。
メリーは、これまでに集めた証言を、改めて一つずつ確認し直した。
竹田タキの語った、赤ん坊の伝承。
役場職員の語った、バイクの話、先代社長の失踪。
配信者が置いたぬいぐるみ。
どの証言にも、共通する一点があった。
一度消えたものが、後になって見つかった、戻ってきた、という話は、一件も存在しない。
メリーは、その事実を、報告書の草案に、一文だけ書き加えた。
――消失した対象が再出現した事例は、現時点で一件も確認されていない。
この一文の重みを、メリーは十分に理解していた。
もしこれが、単なる保管場所の移動や、一時的な異空間への転移のようなものであれば、いずれ何かが戻ってくる可能性がある。だが、そうした事例が皆無であるということは、この現象が、単なる「移動」ではないことを示唆している。
消える、という言葉の意味を、この山では、もっと重く受け止めなければならない。
メリーは、電車の窓に映る自分の顔を、ぼんやりと見つめた。
学生時代、蓮子と共に追いかけていた怪異の多くは、突き詰めれば「説明できる余地」を残していた。境界の揺らぎ、異空間との接触、時間のずれ――それらは、理解の枠組みを広げれば、いずれ説明のつく現象として扱うことができた。
だが、この五郎という現象には、そうした余地が、今のところ見当たらない。
消えたものが、二度と戻らない。
それは、単なる「不思議な現象」というより、もっと根源的な、何かの意思を感じさせる出来事だった。
村の人々が、長い年月をかけて、この現象に「大食い鬼の五郎」という名前と人格を与えてきたのも、無理はないのかもしれない。説明のつかないものに、せめて名前だけでも与えることで、人はそれを少しだけ理解可能なものに変えようとする。
鬼という形を与えられた、名前のない何か。
それが、この山に確かに存在している。
メリーは、報告書の続きを書きながら、同時に、もう一つの疑問を頭の奥に留めていた。
なぜ、地元選出の議員――黒田は、この山を、これほどまでに気にかけているのか。
伝承を守りたいだけの、単純な地元愛なのか。それとも、もっと別の理由があるのか。
電車が、都市部へ向けて速度を上げていく。
窓の外の山並みが、少しずつ夜の闇に沈んでいくのを、メリーは静かに見送った。
第9話 環境副大臣ヒアリング
村から戻って数日、メリーは黒田副大臣への面会調整に追われていた。
国会が会期中であることもあり、副大臣本人のスケジュールを押さえるだけでも一苦労だった。水野が各方面に頭を下げ、ようやく取り付けたのは、議員会館の一室での、二十分間という短い面談だった。
「先生、お忙しいところ恐れ入ります」
佐伯という秘書に案内され、メリーが応接室に通されると、程なくして黒田が姿を現した。
五十代前半、恰幅のいい、いかにも地方選出の政治家然とした男だった。その表情には、あからさまな不機嫌さが滲んでいた。
「会期中だぞ、こちらは。よっぽどな用事なんだろうな!」
「お時間をいただき、感謝しております」
「まったく、こういうのは大抵、後回しにされるものなんだがね」
黒田はソファに深く腰を下ろすと、腕を組んだ。
「それで、何の用件だ」
「先生の地元、あの一帯の自然環境保護に関しまして、意見を伺いたく参りました。貴重な自然環境と、それと共存する地域社会のあり方について、環境副大臣としてのお考えをお聞かせいただければと」
その名目に、黒田はわずかに眉を上げたが、露骨な反発は見せなかった。行政上、筋の通った要件である以上、頭ごなしに断るわけにはいかない。
「まあ、それなら分からんでもない。あの地域の自然は、私も誇りに思っているからね」
「先生。あの、五郎伝説というのは先生が小さい頃にもあったのですか?」
黒田の表情が、一瞬だけ止まった。
「……五郎?」
「はい。地元に伝わる、山にまつわる民間伝承だと伺っております」
黒田は、小さく鼻で笑った。
「年寄りたちのくだらない言い伝えだよ。私達の親世代までは信じていたのかもしれないがね」
その口調には、余裕を装おうとする響きがあった。だが、メリーの目には、笑みの下にわずかな硬さが見えた。
「今でも、地元の方々の間では語り継がれているようですが」
「さあ、どうだろう。私は、もうそんな話には興味がない」
「先生ご自身は、子供の頃、あの山に立ち入られたことは?」
「――内閣府の職員からヒアリングがあると聞いたから何かと思えば、こんな下らない質問がくるのであれば帰らせていただくよ!」
黒田が、急に声を荒らげた。佐伯が、わずかに肩を強張らせるのが見えた。
メリーは、表情を変えずに、静かに言葉を継いだ。
「失礼いたしました。環境保全に、地域の民間信仰や伝承が含まれているのかと思いまして。純粋にあの地域に稀有な生物や生態系があるのでしょうか?」
その言い方に、黒田の態度がわずかに軟化した。伝承そのものへの興味ではなく、行政的な文脈での質問だと示したことで、彼の中の警戒が少しだけ緩んだように見えた。
「ま、まあ、そうだな。確かにそういう伝承も保護すべき対象だとは考えているが、あの地域の自然は素晴らしいものだよ」
黒田は、咳払いを一つしてから、また調子を取り戻した。
「最近の若い官僚は、ヒアリングだけで済まそうとする。君も、実際に足を運んで、あの地域の自然を体感してみると良い」
「先生のおっしゃる通りかと存じます。会期が終わりましたら、ぜひ現地に伺わせていただきます」
メリーは、静かにそう返した。
黒田は、一瞬、その言葉の意味を測りかねるような顔をした。純粋な同意なのか、それとも別の含みがあるのか――判断がつかない、という表情だった。
「……そうか。それならいい」
黒田は短く言うと、腕時計に目をやった。
「もう時間だ。これで終いにしてもらえるかな」
「お時間をいただき、ありがとうございました」
メリーは丁寧に頭を下げ、応接室を後にした。
五郎という名前を出した瞬間の、あの一瞬の停止。
「くだらない言い伝え」と切り捨てながらも、質問が具体的になるにつれて、明らかに苛立ちを強めていった態度。地元愛というだけで説明するには、少し反応が過敏すぎる。
とはいえ、それが即座に何かを意味するとまでは、まだ言い切れない。地元選出の政治家が、自分の選挙区の伝承について不用意な発言をしたくない、という単純な自己防衛の反応である可能性も、十分にある。
メリーは、今日のところは、それ以上の判断を保留することにした。
ただ一つ、確かなことがある。
黒田は、少なくとも、あの山について、誰かに深入りしてほしくないと思っている。
その一点だけは、間違いなかった。
面談を終えたメリーを、議員会館の玄関先まで見送ったのは、秘書の佐伯だった。
三十代半ば、黒田の公設秘書としては長く、地元との折衝や省庁とのやり取りを一手に引き受けている人物だと、水野から事前に聞かされていた。
「本日は、お時間をいただきありがとうございました」
メリーが頭を下げると、佐伯は少し困ったような笑みを浮かべた。
「いえ……先生が、失礼な態度を取ってしまって、申し訳ありません」
「いえ、お気になさらず」
「先生は、あの地域のことになると、少し感情的になるところがありまして」
佐伯は、エレベーターまでの短い廊下を歩きながら、そう付け加えた。世間話のつもりだったのか、それとも、何かを取り繕うつもりだったのか、メリーには判断がつかなかった。
「先生は、地元への思い入れが、特に強い方なんですか」
「そうですね。あの地域の出身であることを、ずっと誇りにされている方ですから。特に、あの山については……」
佐伯は、そこで一瞬、言葉を止めた。
「あの山については?」
「いえ。何と言いますか、少し過敏なところがあるな、と感じることは、正直、時々あります」
佐伯は、慎重に言葉を選びながら続けた。
「地元の陳情や、開発の話が絡む案件では、大抵、先生は現実的な判断をされる方なんです。多少の妥協も、必要であれば受け入れる。ですが、あの山に関する話になると……妥協という選択肢自体が、最初からないように見えることがあります」
「具体的には?」
「例えば、以前、別の企業から、あの一帯の開発について打診があった時も、先生は取り合おうともされませんでした。普段なら、話だけでも聞く方なんですが」
佐伯は、そこまで言ってから、我に返ったように口をつぐんだ。
「……すみません。あまり、こういう話をするべきではありませんね」
「いえ、参考になります」
「先生の名誉のために申し上げておきますと、あの地域を大切にしていること自体は、本物だと思います。ただ、その大切にし方が……少し、普通ではない、というだけで」
佐伯の声には、皮肉というより、戸惑いに近い響きがあった。長年、間近で仕えてきた人物の、理解しきれない一面に対する、率直な困惑。
エレベーターの前まで来たところで、メリーはふと、思いついたように尋ねた。
「先生は、『五郎』という名前を聞いて、特に反応を示されました。何か、ご存知でしょうか」
佐伯の表情が、わずかに硬くなった。
「五郎……ああ、その名前は、私も一度だけ、聞いたことがあります」
「どういった場面でですか」
「随分前、地元の会合の後、先生が誰かと電話で話しているのを、偶然、耳にしたことがあって。その時に、その名前が出ていたんです」
「お相手は」
「分かりません。ただ、いつもの先生とは、明らかに違う声でした。何と言うか……怯えているような」
佐伯は、そこまで言ってから、慌てたように付け加えた。
「いえ、これは、あくまで私の印象です。聞き間違いかもしれませんし、大した話ではないのかもしれません」
「その電話の相手について、心当たりは」
「ありません。ただ……」
佐伯は、少し声を落とした。
「先生と同郷の、産廃会社の社長さんとは、昔からのお付き合いがあるようです。もしかしたら、その方かもしれません。あくまで、想像ですが」
エレベーターの扉が開いた。佐伯は、それを機に、話を切り上げるように表情を戻した。
「今日のところは、これで失礼いたします。何かありましたら、いつでもご連絡ください」
「ありがとうございました」
メリーはエレベーターに乗り込みながら、佐伯の最後の表情を、記憶に留めた。
彼はおそらく、本当に、断片的な違和感を積み重ねているだけなのだろう。だが、その断片は、メリー自身がすでに持っている情報と、静かに重なり合い始めていた。
五郎という名前への異常な反応。同郷の産廃会社社長。
扉が閉まる直前、佐伯が小さく一礼するのが見えた。
その姿には、忠実な秘書としての礼儀正しさと、拭いきれない不安の色が、同時ににじんでいた。
第10話 怖い話
建設予定地の視察から数日、蓮子は会社のデスクで、集めた資料を一つの時系列表にまとめ直す作業を続けていた。
「宇佐見主任、まだそれ、やってるんですか」
高橋美咲が、通りすがりに声をかけた。デスクの上には、登記簿の写しや、議事録の抜粋、地価公示のデータが、几帳面に並べられている。
「気になることがあってね」
「気になることって?」
「岡村社長と、黒田副大臣の関係」
蓮子は、画面に表示された相関図を、美咲の方に向けた。
「二人とも、あの村の出身なの。年齢もほぼ同じ。学校の卒業アルバムまでは追えなかったけど、地元の商工会の古い名簿に、二人揃って名前が載っている年がある」
「同郷なだけなら、別に不思議じゃないですよね」
「それだけなら、そうね」
蓮子は、別のファイルを開いた。
「問題は、こっち」
画面に表示されたのは、あの一帯の土地の、過去二十年分の登記情報と、地価の推移だった。
「この土地、名義が何度か変わってる。表向きは、地元の不動産管理会社を経由した、ごく普通の取引に見える。でも、その管理会社の役員名簿を辿ると――」
「黒田議員の、遠縁の人間が名を連ねている」
「そう。しかも、一度や二度じゃない。この二十年間、名義変更や用途区分の見直しのたびに、必ずと言っていいほど、黒田副大臣に近い人間が関わっている」
美咲は、画面を覗き込みながら、小さく息をのんだ。
「これ、結構前からってことですよね」
「国会議員になる前から」
蓮子は、資料の一枚を指し示した。
「黒田議員が国政に出たのは十五年前。でも、この土地の名義や用途区分をめぐる不自然な動きは、それより前から始まってる。最初は地味な手口だった。用途区分の運用を、少しずつ有利な方向に変えていくような」
「じゃあ、副大臣になってからは」
「派手になった」
蓮子は、直近数年分の環境アセスメント関連の文書を並べた。
「環境副大臣に就任してから、この土地を含む一帯が、複数回にわたって『保護区域候補』としての調査対象に挙がっている。表向きは、自然環境の保護という、誰も文句のつけようがない理由。でも、その調査対象の選定に、黒田副大臣本人の意向が強く反映されている形跡がある」
「権限が大きくなった分、堂々とやれるようになった、ってことですか」
「そういうこと。若い頃は目立たない範囲でこそこそやっていたことが、今は、もっと正当な手段で、もっと大規模にできるようになった」
蓮子は、椅子の背もたれに体を預けながら、小さく息を吐いた。
「一貫してるのよ、この人。何年もかけて、ずっと同じ土地に執着し続けてる」
「なんでですかね、そんなに」
「それが分からないから、調べてるの」
蓮子は、さらに別のファイルを開いた。今度は、京都の大手デベロッパーによるリゾート開発計画に関する報道記事と、地元自治体への申請書類の写しだった。
「もう一つ、気になる時系列がある」
「リゾート開発の話ですか」
「そう。この計画が地元に持ち込まれたのが、およそ一年前。そして、産廃会社の新施設計画が急に具体化し始めたのが、その直後」
「対抗して、急いだ、ってことですかね」
「可能性としては、十分にある」
蓮子は、二つの時系列を並べた画面を、じっと見つめた。
「もし、この土地に、何か表に出せない事情があるなら――他人の資本が入ってきて、地質調査だの造成だのが始まることは、その事情にとって、都合が悪いはずよ」
「それで、慌てて自分たちで押さえにかかった」
「今のところは、推測にすぎないけどね」
蓮子は、画面を閉じながら、小さく呟いた。
「でも、この土地に、これだけの執着を持ち続ける理由が、単なる地元愛や、事業上の合理性だけだとは、もう思えない」
「あの……これって、犯罪なんですか?」
美咲が、思い切ったように尋ねた。
「土地の名義がどうとか、環境アセスがどうとか、聞いてると、なんだかすごく悪いことをしてるように聞こえるんですけど」
「実際のところ、って聞かれると、難しいところね」
蓮子は、椅子に座り直しながら、指を折るように整理し始めた。
「議員の身内が不動産関連の会社に関わってること自体は、違法じゃない。用途区分の運用を、多少有利な方向に働きかけること自体も、グレーではあっても、それだけで立件できるようなものじゃない」
「じゃあ、セーフなんですか」
「問題は、行政権限を、私的な目的のために意図的に歪めて使っていた場合。環境アセスの対象選定に、議員個人の利害が反映されていたことが、はっきり証明できれば、職権濫用とか、背任に近い話になってくる。銀行への融資審査で、虚偽の事業計画を使っていたことが分かれば、それは詐欺よ」
「証明できれば、ってことは」
「今持ってる材料だけだと、まだ状況証拠の域を出ない。土地の動き、時系列、関係者の重なり――どれも、偶然や、単なる地元の結びつきだと言い張られたら、それまでのものばかり」
蓮子は、画面に表示された相関図を、もう一度見つめた。
「でも」
「でも?」
「これだけの偶然が、二十年近く積み重なることは、普通、ない。何かを隠すために、意図的に積み上げられたものだと、私は思ってる」
「思ってる、だけじゃ、証拠にはならないですよね」
「ならない。だから、調べてる」
蓮子は、静かに、しかしはっきりとそう言い切った。
美咲は、しばらく黙って画面を見つめていたが、やがて、ぽつりと言った。
「なんか、怖い話になってきましたね」
その日の夕方、蓮子は片桐に、これまでの調査結果をまとめた報告書の草案を提出した。
黒田議員と岡村社長の同郷関係。長年にわたる、一貫した地価・土地利用への関与。そして、リゾート開発計画の浮上と、産廃施設計画の急な具体化という、不自然な時系列の一致。
片桐は、報告書に目を通しながら、眉間に深い皺を刻んだ。
「宇佐見、これは……」
「まだ、確定的なことは何も言えません。でも、この線は、追う価値があると思います」
「分かってる。だが、この先は、下手に動くと、厄介なところに触れることになるぞ」
片桐の言葉には、いつもの忠告とは違う、静かな重みがあった。
蓮子は、その重みを受け止めながらも、答えは変えなかった。
「調べます」
窓の外は、すでに日が暮れかけていた。
蓮子のデスクの照明だけが、その日もまた、消える気配を見せなかった。
第11話 圧力
報告書の草案を片桐に提出してから、三日後のことだった。
「宇佐見、ちょっと来てくれ」
片桐に呼ばれ、蓮子は会議室に向かった。すでに片桐の表情は、いつもの飄々とした様子とは違う、硬いものになっていた。
「地方銀行から、連絡があった」
「融資の件ですか」
「今回の調査、この辺りで一旦区切りにしてほしい、と」
片桐は、テーブルに一枚のメモを置いた。銀行側からの正式な連絡内容を、簡潔にまとめたものだった。
「融資部長からの話だと、『事業性の評価としては、これまでの調査で十分な材料が揃っている』ということらしい」
「十分、というのは、誰の基準ですか」
「銀行の基準だ」
片桐は、短くそう答えた。
「向こうの言い分としては、既存事業の堅実性、担保となる資産、これまでの取引実績――そういった数字の面では、融資判断に足る材料は揃っている、と」
「土地取得の経緯や、専用道路計画の不自然さについては」
「触れていない」
蓮子は、その返答に、静かな違和感を覚えた。
最初にヒアリングをした時、あの融資部長は、明らかに岡村興産を応援したいという気持ちを隠していなかった。だが同時に、蓮子の「結論は調べてみないと分からない」という言葉にも、渋々ながら頷いていた。
それが今になって、都合の悪い部分にだけ蓋をするような形で、調査を打ち切ろうとしている。
「圧力があった、ということですか」
「断定はできない。だが、タイミングを考えれば、そう疑うのが自然だろうな」
片桐は、腕を組んだ。
「お前が黒田議員との繋がりを報告書に書いた、その直後にこれだ」
「会社にも、何か言われましたか」
「上からは、まだ具体的な指示は下りていない。だが、担当役員のところに、環境省……というか黒田副大臣から何かしらのアクションがあったと部長が血相を変えていたよ」
片桐の口調には、いつもの軽さがなかった。
「宇佐見、正直に言う。この先、深入りすればするほど、お前だけの問題じゃなくなる。会社全体が、面倒な立場に立たされる可能性がある」
「分かっています」
「分かってるなら、少し大人しくしてろ」
「それとこれとは、別です」
蓮子は、はっきりとそう答えた。
「調査の依頼を受けた以上、正確な報告をするのが、私たちの仕事です。都合の悪い事実を見なかったことにするのは、コンサル企業としての存在意義に関わります」
そこまで言ってから、蓮子は、ふと口の端を上げた。
「それに――謎は、解き明かすためにあるものです。誰かが人為的に隠そうとしているものがあるなら、なおさら」
「……今、なんか、変なスイッチ入らなかったか」
片桐が、怪訝そうな顔をした。
「気のせいです」
蓮子は、すぐに表情を戻したが、片桐は、その一瞬の光を見逃さなかった。長年、この部下を見てきた者だけが気づく、危うい輝きだった。
「その顔、前にもどこかで見たな。どっかの企業の不正会計の——」
「気のせいです」
蓮子は、もう一度、同じ言葉を繰り返した。だが、その口調には、隠しきれない張りがあった。
「まあいい。我が社の存在義務という点ではその通りだ。だが、それを言うだけの覚悟が、お前にあるのか、って話をしてる」
片桐は、まっすぐに蓮子を見た。
「相手は現職の環境副大臣だぞ。しかも、地方銀行まで巻き込んでる。お前一人の正義感で押し通せる相手じゃない」
蓮子は、その言葉を、しばらく黙って受け止めた。
片桐の忠告に、悪意はない。むしろ、蓮子のことを本気で案じているからこその言葉だということは、蓮子自身、よく分かっていた。
「課長は、今回の案件、私に降りろとおっしゃりたいんですか」
「そこまでは言ってない」
片桐は、深いため息をついた。
「ただ、これ以上進めるなら、お前一人の判断じゃなく、会社としての判断も絡めて動く必要がある、ということだ。単独で突っ走るな、という話だ」
「承知しました」
蓮子は、素直にそう答えた。だが、その目には、引き下がる気配は微塵もなかった。
「調査自体は、続けます。ただし、報告のタイミングや、社内での取り扱いについては、課長の判断に従います」
「……お前がそう言うと、なんだか逆に不安になるな」
片桐は、苦笑いを浮かべた。
会議室を出た後、蓮子は自分のデスクに戻り、これまでの資料を、改めて見直し始めた。
恐らく黒田副大臣が調査を打ち切りたがっている。
その事実自体が、蓮子にとっては、一つの重要な情報だった。
やましいことが本当に何もないのなら、調査を続けさせても、困ることはないはずだ。それでも打ち切りを求めてくるということは、これ以上調べられては困る何かが、確かに存在する。
蓮子は、キーボードに指を置いた。
黒田副大臣が守ろうとしているものが何なのか。それを突き止めることもまた、この調査の一部だ。
「っしゃあ、やってやりますか」
蓮子は、小さく、しかしはっきりと呟いた。
「主任、らしくないですね」
いつの間にか隣に来ていた美咲が、くすりと笑いながら言った。
「聞こえてた?」
「バッチリです。なんか、テンション上がってません?」
「気のせいよ」
蓮子は、素っ気なくそう返しながら、画面に向き直った。だが、その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
窓の外では、夕方の空が、薄い橙色に染まり始めていた。
蓮子のデスクの照明は、その日もまた、消える気配を見せなかった。
第12話 公安委員会への圧力
黒田副大臣へのヒアリングから一週間ほど経った頃、水野がメリーのデスクにやってきた。
その表情には、いつもの飄々とした調子がなかった。
「ハーンさん、少し話がある」
メリーが席を立つと、水野は人目を避けるように、フロアの隅にある小会議室へ向かった。
「例の件、上から待ったがかかった」
「五郎の調査、ですか」
「ああ」
水野は、椅子に腰を下ろしながら、疲れたように息を吐いた。
「議員会館経由で、内閣府の上層部に苦情が入った。『地方伝承の調査という名目で、特定の政治家の政治活動を妨害している』と」
「妨害、というのは」
「先方の言い分としては、環境副大臣としての公務に支障をきたすほど、しつこくヒアリングを申し込んでいる、ということらしい」
「一度、二十分ほどお話を伺っただけですが」
「分かってる。だが、向こうがそう主張してる以上、こちらとしても、無視はできない」
水野は、テーブルに置いた書類を、メリーの方へ滑らせた。
「今回の案件、一旦、調査を終了しろという指示だ」
メリーは、その書類に目を通した。事務的な文言で、これまでの調査結果を簡潔にまとめ、案件をクローズするよう求める内容だった。
「境界性の疑いがある、という当初の判断は、どうなるんですか」
「現時点では、確定的な証拠に乏しい、という扱いになる。伝承の域を出ない、という結論で処理しろ、ということだ」
「消失事案そのものは、確認されています」
「ああ。だが、それが境界性のものなのか、単なる人為的な事象なのか、断定できていない。上は、その曖昧さを理由にしている」
水野は、そこで一度言葉を切り、メリーの目をまっすぐ見た。
「正直に言う。俺は、この指示に納得してない」
「でしたら——」
「だが、俺一人の判断で、この指示を無視するわけにもいかない。組織として、上からの指示には、それなりの重みがある」
メリーは、書類を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「一つ、伺ってもいいですか」
「なんだ」
「この指示は、本当に、公安委員会上層部の判断ですか。それとも、もっと別の場所から来たものですか」
水野は、その質問に、わずかに眉をひそめた。
「……分からん。少なくとも、俺のところまで降りてくる過程で、いくつかの部署を経由している」
「黒田副大臣本人の意向、ということも」
「いや」
水野は、首を横に振った。
「一人の副大臣に、公安委員会の内部判断にまで口を出すだけの権限があるとは、俺には思えない。もっと上、あるいは、もっと別のところから、話が来ている気がする」
「別のところ、というのは」
「分からん。正直、俺の見えるところより、もう一段上だ」
水野は、そこで一度言葉を切り、メリーの目をまっすぐ見た。
「ただ、はっきり言っておく。上には、ちゃんと『調査は打ち切らせた』と報告を上げておく」
「それは」
「その上で、だ」
水野は、声を落とした。
「ハーンさんは、このまま調査を進めてくれ」
「……いいんですか」
「良くはない。だが、お前の肌感だと、五郎の正体は人間じゃないんだろう?」
メリーは、その問いに、小さく頷いた。
「それに対処するのが、俺たちの仕事だ。政治の都合で、境界の事案そのものにまで蓋をされるのは、俺は違うと思ってる」
水野は、腕を組んだ。
「ただし、派手に動くなよ。表向きは、あくまで案件終了だ。誰の目にも留まらないように、静かに進めろ」
「分かりました」
「それと」
水野は、少し声のトーンを和らげた。
「気をつけろよ。相手が人間じゃないにしても、その人間じゃないものを利用しようとしている人間が、確実にいる」
メリーは、その言葉を、静かに受け止めた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。俺は、表向きの仕事をこなしただけだ」
水野は、そう言って、椅子から立ち上がった。
「小会議室を出たら、俺たちは、この話をしなかったことになる。いいな」
「分かりました」
小会議室を出た後、メリーは自分のデスクに戻り、正式な報告書に「調査終了」の一文を書き加えた。
だが、その一方で、私物のノートには、これまでに集めた証言と資料の写しを、丁寧に書き写していく作業を続けた。
組織としての調査は、ここで一旦、幕を下ろす。
だが、五郎という現象そのものへの疑問は、まだ何一つ解けていない。
そして、あの山を異常なまでに気にかける黒田副大臣の存在も、まだ、その理由が明らかになっていない。
メリーは、ノートを閉じながら、静かに考えた。
仕事としての調査は、終わる。
だが、それは、この件から手を引く、ということとは、少し違う。
窓の外を見ると、夕暮れの空に、うっすらと星が見え始めていた。
メリーは、携帯を取り出し、短いメッセージを打った。
――今度、時間ある?
送り先は、蓮子だった。
第13話 おとな秘封倶楽部
待ち合わせに指定したのは、二人が学生時代からよく使っていた、小さな居酒屋だった。
カウンター席の奥、店の喧騒から少し離れた場所に、蓮子はすでに座っていた。
「早いのね」
「公務員ですから」
メリーは、澄まし顔でそう答えた。
メリーが隣に腰を下ろすと、店員が水とお通しを運んできた。二人は、慣れた様子で、いつもの品を適当に注文する。
「久しぶり」
「先月も会ったでしょ」
「そうだっけ。もう半年くらい会ってない感覚だったけど」
「仕事に精が出てる証拠よ」
蓮子は、そう言って肩をすくめた。
二人は、しばらく、当たり障りのない世間話を続けた。会社の愚痴、共通の知人の近況、最近見た映画の話。学生時代から変わらない、気の置けない空気だった。
だが、その合間に、どちらからともなく、仕事の話が滲み出てくる。
「最近、ちょっと厄介な案件を抱えててね」
メリーが、グラスを見つめながら、そう切り出した。
「厄介、というと」
「言っとくけど、私からはネタを提供できないからね?」
「わかってるわよ。親友に情報漏洩なんてさせるもんですか」
蓮子は、澄まし顔でそう答えた。
「あら意外。面白さ最優先だからお構いなしかと思ってた」
「それ位の分別はつくようになったのよ」
メリーは少し驚いたように眉を上げてから、小さく笑った。
「大人になったわね」
「お互い様でしょう」
蓮子も、同じように笑い返した。
だが、その笑みの奥で、二人はすでに、互いの言葉の端々から、何かを探り始めていた。
「その厄介な案件、山が絡んでる?」
メリーが、何気ない調子で尋ねた。
「……なんで分かるのよ」
「顔に書いてある、って言いたいところだけど」
メリーは、少し悪戯っぽく笑うと、視線をすっと蓮子の足元へ落とした。
「その靴、踵のところに土が付いてる。しかも、その辺の公園とかの土じゃなくて、赤みの強い、山の土っぽい色。最近、山にでも行った?」
「……観察されすぎでしょう、それ」
「長い付き合いだもの」
「そっちは? 最近、山とか、興味ある?」
「奇遇ね。私も今、山関係の仕事をしてる」
メリーは、グラスの縁を指でなぞりながら答えた。
「どこの山、とは聞かないけど」
「聞かれても、答えられない」
「分かってる」
二人は、それ以上、具体的な地名や案件の内容には、決して踏み込まなかった。守秘義務という一線は、社会人になった二人にとって、もはや暗黙の了解として、はっきりと引かれている。
だが、会話の温度そのものが、二人に共通する何かを示していた。
蓮子は、グラスを傾けながら、ふと、メリーの顔をまじまじと見つめた。
「メリー、目尻の皺、増えた?」
「……急に何よ、失礼な」
「いや、悪い意味じゃなくて。眉間じゃなくて、目尻。作り笑いを、いつもより長くキープしてる時にできる皺よ。誰か、気を遣わなきゃいけない相手と、長時間、笑顔で話した?」
メリーは、思わず自分の目元に手をやった。
「……官僚だから、その手の相手には、日常的に会うけど」
「大臣とか副大臣とか?」
蓮子が、さりげなく畳みかけた。
「さあ、どうかしら」
メリーは、はぐらかすように微笑んだ。だが、その微笑みは、肯定とほとんど変わらないものだった。
「蓮子の方こそ、環境関連の話だったりする?」
「守秘義務」
「私も」
二人は、同時にそう言って、小さく吹き出した。
「これ、もしかして」
「同じ山かもね」
メリーが、ぽつりと呟いた。
「だとしたら、面白いことになりそう」
蓮子は、グラスを軽く掲げた。
「守秘義務を守りながら、同じ場所に近づいていく――なんだか、変な感じね」
「学生の頃は、こんな遠回り、しなかったのに」
「あの頃は、遠慮する理由がなかったから」
蓮子は、少し懐かしそうに、店の天井を見上げた。
「今は、それぞれ、守らなきゃいけないものがある。仕事の話は、仕事の話。個人としての付き合いは、別のもの」
「それでも」
メリーは、グラスを傾けながら、静かに続けた。
「気になることは、気になる」
「でしょうね」
蓮子は、そう言って、片方の口角を上げた。
社会人としての二人は、それぞれ、別々の世界に生きている。企業の内情を追う調査員と、境界の異常を追う官僚。互いの職務は、決して重なることのない、別々の領域にあるはずだった。
だが、こうして向かい合って座ると、結局は、学生時代と同じ空気が、二人の間に流れ始める。
情報は交換できない。だが、好奇心までは、隠しきれない。
「ねえ」
メリーが、ふと真面目な声で言った。
「もし、私たちが今追いかけているものが、本当に同じ場所に繋がっているとしたら」
「そうだとしたら?」
蓮子は、グラスを置きながら、まっすぐにメリーを見た。
「私たちは、また、同じ答えに辿り着くことになる」
「それぞれ、別の道から」
「表と裏から」
二人は、同時に、小さく笑った。
その笑みには、不安よりも、むしろ、どこか懐かしい高揚感が滲んでいた。
社会人になった秘封倶楽部が、それぞれの持ち場で、同じ怪異へと近づいていく。
仕事では、別々の人間。
だが、こうして向かい合えば、結局は、昔と同じ二人に戻ってしまう。
「今日は、これ以上、仕事の話はなし」
蓮子が、グラスを掲げながら言った。
「賛成」
メリーも、グラスを合わせた。
二人は、それから、他愛のない話に戻った。だが、その夜、店を出て別れる間際、どちらからともなく、こう言い合った。
「気をつけてね」
「そっちこそ」
第14話 秘密
その日のことを、岡村と黒田は、何十年経っても忘れられずにいる。
まだ二人が二十代の初め、村にリゾート開発の話が持ち上がった頃のことだった。
都市部の資本が、村の一帯を丸ごと買い上げ、温泉とホテルを中心とした観光地に変える計画を持ちかけてきた。村は、当時すでに人口の流出が進み、産業も先細りになりつつあった。若い黒田と岡村は、この計画に、村の未来を賭けようとしていた。
「このままじゃ、村は死ぬ。誰かが決断しないといけない」
黒田は、繰り返しそう言っていた。岡村もまた、同じ危機感を共有していた。
だが、計画には一つ、大きな障害があった。
開発予定地の中心に、岡村の父――先代社長が、個人として所有する山があったのだ。
先代は、リゾート誘致の話が持ち上がったのを機に、それまで共有地に近い扱いだったその山を、自らの名義で買い取っていた。
「この山だけは、手放さない」
先代は、そう繰り返した。
「自然を残すって、それのどこが悪い。金に換えれば、それで終わりだ。この村の暮らしは、それで本当に良くなるのか」
「親父、時代が違うんだ。このままじゃ、若いもんはみんな出て行っちまう」
岡村は、何度も父を説得しようとした。だが、先代は、頑として首を縦に振らなかった。
「久世さんも、言ってた。あの山は、貴重な土地だから、手放さない方がいいって」
「久世さん、って誰だよ」
「お前が知らなくていい」
先代は、それ以上、詳しくは語らなかった。ただ、その名前を口にするとき、先代の声には、単なる思い出話以上の、ある種の重みがあった。
説得は、何度も繰り返され、そのたびに決裂した。
そして、ある夜——事は起きた。
岡村と黒田は、最後の説得のつもりで、先代の家を訪れていた。話し合いは、いつものように平行線をたどり、次第に声が荒くなっていった。
「いい加減にしてくれ! このままじゃ、村ごと終わるんだぞ!」
岡村が、感情のままに父の胸ぐらを掴んだ。
「離せ!」
先代が、その手を振り払おうと、強く体を捻った。
二人はもみ合いになった。黒田が、慌てて間に割って入る。
「やめろ、二人とも——!」
黒田が、間に体を割り込ませた、その瞬間だった。
先代の体が、大きく傾いだ。踏み台にしていた縁側の段差に足を取られ、そのまま後ろへ倒れ込む。
鈍い音が、静かな夜の中に響いた。
先代は、動かなくなっていた。
岡村と黒田は、しばらくの間、その場から動くことができなかった。
やがて、岡村が、震える声で言った。
「親父……親父っ」
応答はなかった。
黒田は、青ざめた顔で、先代の様子を確かめた。
「……息が、ない」
「そんな、そんなはずない!」
「岡村、落ち着け」
黒田の声も、震えていた。
「警察に届けたら、俺たちは終わりだ。もみ合いの末に、こうなった。過失だとしても、俺たちは——」
二人は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく言葉を失っていた。
やがて、黒田が、掠れた声で言った。
「五郎だ」
「……なに」
「五郎の山だ。あそこに置けば、消えるんだろう」
「本気で言ってるのか」
「他に、方法があるか」
その時、部屋の隅で、電話が鳴った。
二人は、揃って体を強張らせた。夜のこんな時間にかかってくる電話など、ろくなものではない。だが、鳴り続ける呼び出し音が、静まり返った部屋の中で、いやに大きく響いた。
「……出るのか」
「出なきゃ、余計おかしいだろ」
岡村は、震える手で受話器を取った。
「……はい、岡村です」
『夜分に申し訳ない。久世です。お父上は、いらっしゃいますか』
岡村は、その名前に、息を呑んだ。ついさっき、父の口から聞いたばかりの名前だった。
「……久世、さん」
『少し、確認したいことがありましてね。もし、お手すきでしたら』
電話の向こうの声は、穏やかだった。だが、その穏やかさが、今の岡村には、かえって不気味に響いた。
「親父は……今、席を外してます」
岡村は、咄嗟にそう答えた。声が、自分でも分かるほど、震えていた。
電話の向こうで、久世が、一瞬、沈黙した。
『……そうですか。それよりも随分と、お疲れのようですね』
「……なんで、それを」
『声で分かりますよ。長年、色々な方の声を聞いてきましたから』
久世は、それ以上、深くは踏み込まなかった。
『何かあったのなら、無理に話さなくても結構です。ただ、一つだけ』
「……なんですか」
『あの山について、何か思うところがあるなら――五郎の正体は、鬼なんかじゃありませんよ。少なくとも、私はそう思っています』
岡村は、受話器を握りしめたまま、何も言えなかった。
『理由も、意思も分からない。ですが、あれは確かに、何かを消す。君も、いずれ分かるでしょう。使ってみれば、その利便性が』
「……利便性、って」
『言葉のあやですよ』
久世の声は、どこまでも落ち着いていた。
『今夜は、もう休まれた方がいい。何かあれば、また連絡をください』
それだけ言うと、久世は電話を切った。
岡村は、しばらくの間、切れた電話を握りしめたまま、動けなかった。
黒田が、掠れた声で尋ねた。
「……なんだったんだ、今の」
「分からない。でも……」
岡村は、受話器を置きながら、父の体に視線を落とした。
「あの人、何か知ってる。全部、お見通しみたいだった」
利便性、という言葉が、二人の頭の中で、いつまでも反響していた。
その夜のうちに、二人は先代の遺体を、あの山へ運んだ。
罪の意識よりも、恐怖と、久世の言葉に背中を押されるような感覚が、二人を突き動かしていた。
誰にも見られていないことを、何度も確かめながら、二人は山の奥――幼い頃から聞かされてきた、あの場所へと向かった。
遺体を置き、二人はその場を離れた。
その夜、岡村と黒田は、それぞれの家で、一睡もできなかった。
翌朝、岡村と黒田は、それぞれ別々に、山の入り口へ向かった。
互いに、何かを確かめたいという以上に、確かめずにはいられない衝動に、突き動かされていた。
翌朝、岡村と黒田は、それぞれ別々の道を辿って、山の入り口で落ち合った。
どちらも、まともに眠れていないことは、顔を見れば分かった。目の下には濃い隈があり、口数も少なかった。
「行くぞ」
黒田が、短く言った。岡村は、無言で頷いた。
二人は、獣道にも満たないような、木々の間の細い筋を辿って、山の奥へと分け入っていった。子供の頃から何度となく通ってきた道のはずなのに、今日ばかりは、その一歩一歩が、やけに重く感じられた。
やがて、二人は、昨夜、遺体を置いた場所へとたどり着いた。
そこには、何もなかった。
岡村は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
「……ない」
「ああ」
「本当に、ないのか。ここで、間違いないのか」
岡村は、辺りを見回しながら、震える声で確認を繰り返した。だが、周囲の地形にも、木々の並びにも、見覚えがあった。昨夜、遺体を置いた場所は、間違いなくここだった。
地面には、何かを引きずったような跡すらなかった。血の痕も、衣服の繊維も、何一つ残っていない。
まるで、最初から、そこに何もなかったかのように。
「動物に、運ばれたんじゃないか」
黒田が、掠れた声で言った。
「この山に、そんな大きな獣がいるか? 熊も、猪もいないってのは俺達が良く知ってる」
「じゃあ、誰かが……」
「誰が、こんな山奥に、夜中のうちに来て、しかも痕跡一つ残さずに、運び出せるって言うんだ」
岡村は、答えられなかった。
二人は、その場に、長い間立ち尽くしていた。
恐怖と、ある種の畏怖が、同時に二人の中で膨れ上がっていた。
「本当に……いるのか」
岡村が、消え入るような声で呟いた。
「五郎が」
黒田は、何も答えなかった。答える必要もなかった。目の前の光景そのものが、答えだった。
子供の頃、大人たちから聞かされてきた昔話。悪さをすると、五郎に食われる。物を捨てれば、五郎が食べてくれる。
単なる脅し文句だと、二人はずっと思っていた。
だが、今、目の前にある事実は、その昔話が、決して比喩ではなかったことを示していた。
「久世さんは、知ってたんだな」
岡村が、ぽつりと呟いた。
「あの人、全部、分かってた。俺たちが、何をしたか」
「言わなかっただろう。何も、聞かれなかった」
「聞かれなくても、分かる話だろう。あの声は……」
岡村は、両手で顔を覆った。
「利便性、なんて言葉、普通、使うか? あの人は、俺たちが何をしたか、察した上で、あえてそう言ったんだ」
黒田は、それに対して、何も言い返さなかった。同じことを、彼自身も考えていたからだ。
久世という人物は、いったい何者なのか。なぜ、あの山について、あれほど詳しいのか。そして、なぜ、あの夜、あのタイミングで、電話をかけてきたのか。
考えれば考えるほど、疑問は深くなっていく。だが、今の二人には、それを追及するだけの余裕は残っていなかった。
「これで、終わったのか」
岡村が、力なく尋ねた。
「終わったわけじゃない」
黒田は、静かに、しかしはっきりと言った。
「俺たちは、これから、この事実を、一生、隠し通さなきゃいけない。お前の親父さんが失踪した、それだけの話にしなきゃいけない」
「できるのか、そんなこと」
「やるしかない」
黒田は、山の奥――遺体があったはずの場所を、もう一度、見つめた。
「この山は、俺たちにとって、これから先も、特別な場所になる。誰にも、触れさせちゃいけない」
その言葉には、単なる恐怖以上の、ある種の決意めいたものが滲んでいた。
自分たちの罪を隠すために、この山を、これから先、ずっと守り続けなければならない。
その日を境に、岡村と黒田にとって、あの山は、単なる故郷の風景ではなく、自分たちの人生そのものを縛る、重い枷となった。
数日後、先代の失踪は、正式に警察へ届け出られた。
山菜採りに出かけたまま、帰ってこなかった――そう説明された。
大規模な捜索が行われたが、何の手がかりも見つからなかった。
やがて、事件は、未解決のまま、時間の中に埋もれていった。
だが、岡村と黒田の中で、あの夜の記憶が薄れることは、一度もなかった。
第15話 現在の計画
あの夜から、長い年月が流れた。
岡村は父の跡を継ぎ、産業廃棄物処理会社の社長となった。黒田は、地元の県議会議員から国政へと進み、やがて環境副大臣という要職に就いた。
二人の歩んだ道は違えど、その根底には、常に同じものがあった。
あの山を、誰にも触れさせてはならない。
黒田は、若い頃から、地道に、しかし着実に、その土地に関する影響力を積み上げてきた。名義変更の際には、遠縁の人間を介して土地の動きを把握し、用途区分の見直しが議論されるたびに、目立たない範囲で、その方向性に手を加えた。
それは、まだ一県議会議員に過ぎなかった頃の、限られた権限の中でできる、精一杯の防衛策だった。
だが、環境副大臣という職を得てから、状況は大きく変わった。
環境アセスメント、保護区域の指定、開発許可の審査——かつては遠回しに働きかけるしかなかったことが、今では、正当な行政手続きの中で、堂々と行えるようになった。
「自然環境の保護」という、誰も表立って反対できない理由の下で、黒田は、あの山とその周辺一帯を、開発から遠ざけ続けてきた。
岡村もまた、企業の力を使って、土地の管理を固めてきた。表向きは、廃棄物処理事業の拡張という名目で、周辺の土地を少しずつ買い足し、あるいは、長期の管理契約を結んでいった。
二人にとって、それは、罪の証拠を守るための、終わりのない防衛戦だった。
そして、一年前。
その均衡を崩す出来事が起きた。
京都の大手デベロッパーが、あの一帯にリゾート開発計画を持ち込んできたのだ。
温泉、ホテル、レジャー施設——大手銀行の融資を背景にした、大規模な計画だった。村の一部からは、歓迎の声も上がった。過疎に苦しむ村にとって、それは、久しぶりに訪れた、明確な希望の種に見えた。
だが、黒田と岡村にとって、それは、これまでとは比較にならないほどの脅威だった。
リゾート開発が実現すれば、造成工事や地質調査のために、あの山に、大勢の人間の手が入ることになる。
もし、掘削の過程で、何かが——例えば、三十年前に消えたはずの、何かの痕跡が見つかってしまったら。
いや、五郎の存在を考えれば、痕跡そのものが残っている可能性は低い。だが、それでも、あの山を他人の手に委ねること自体が、二人にとっては、耐え難い恐怖だった。
「環境アセスで、止められないか」
岡村が、そう持ちかけたこともあった。
「やってはいる。だが、限界がある」
黒田は、苦い顔で答えた。
「保護区域の指定だけでは、いずれ突破される。向こうは、大手銀行の融資も付いている。単純な行政指導だけじゃ、いつまでも止めておけない」
二人は、何度も話し合いを重ねた。そして、たどり着いた結論が、産業廃棄物処理施設の新設という計画だった。
「うちが、先にあの土地を、事業用地として押さえる」
岡村が言った。
「産廃施設なら、環境アセスの審査基準も、リゾート開発とは違う。お前の権限で、うちの計画は通しやすくなるはずだ」
「銀行からの融資が必要になる」
「地元の銀行なら、うちを応援したいはずだ。京都の企業に、この土地を持っていかれるのは、向こうも面白くないだろう」
二人の思惑は、驚くほど滑らかに噛み合った。
「自然環境と共存する次世代型処理施設」――その理念は、対外的には、環境への配慮を掲げる、聞こえの良い言葉として機能した。だが、その本当の目的は、まったく別のところにあった。
——施設の最奥に、五郎の社を残すこと。
その一角にだけは、決して誰の手も入れさせないこと。
そして、いずれ五郎が本当に何でも消すのだとしたらこの施設そのものを、自分たちの過去を完全に消し去るための、最後の仕掛けとして、利用すること。
「これで、山は守れる」
黒田は、そう自分に言い聞かせるように呟いた。
「今度こそ、終わらせる」
だが、その言葉とは裏腹に、二人の間には、拭いきれない不安が、静かに横たわっていた。
地方銀行の融資審査に、コンサルティング会社の調査が入ることになった、という報告を受けた時。
そして、その調査員が、宇佐見蓮子という、驚くほど鋭い観察眼を持つ女性だと知った時。
黒田の中で、三十年前のあの夜と同じ、冷たい予感が、静かに首をもたげ始めていた。
間話 常務・北白河ちゆり
銀行への最終報告書を、蓮子が書き上げつつある頃、片桐は、本社の役員フロアに、一人で呼び出されていた。
調査部門全体を統括する、常務執行役員の部屋だった。片桐のような一課長が、直接呼びつけられることなど、滅多にない。
(また、上から何か言われるのか)
片桐は、廊下を歩きながら、覚悟を決めていた。
産廃会社の案件について、銀行からさらに強い打ち切り要請が来たのかもしれない。あるいは黒田副大臣から直接何か言われたのかもしれない。
いずれにせよ、ろくな話ではないだろう、と片桐は踏んでいた。
「失礼します」
部屋に入ると、北白河はデスクの向こうで、書類に目を通していた。片桐が見覚えのある書類——蓮子がまとめた、あの第二次報告書だ。
「呼びつけて悪いね、早速だけど座って」
促されるまま、片桐は、来客用のソファに腰を下ろした。
「宇佐見君の第二次報告書、読ませてもらったよ」
北白河常務は、書類を、軽く指先で叩きながら、言った。
「なかなか、力の入った内容だと思うよ」
「はい。彼女らしい、徹底した調査です」
「相手は、現職の環境副大臣だそうじゃないか」
「……はい」
片桐は、体を、わずかに強張らせた。
これから告げられるであろう言葉を、片桐は、半ば予測していた。この案件から手を引け。宇佐見を、他の案件に回せ。会社として、これ以上のリスクは負えない――そういった、当たり障りのない、しかし決定的な指示。
「実はね、片桐君」
北白河は、思いがけず、そう切り出した。
「先日、代表と二人で、料亭に呼びつけられた」
「……呼びつけられた、とは?」
「黒田先生ご本人にだ。この案件について釘を刺された」
北白河は、その時の様子を、思い出すように、少し目を細めた。
「『環境破壊に繋がるリゾート開発と、環境との共存を謳う地元企業の計画。どちらが良いか、君にも分かるだろう』とね。『環境副大臣としては、もちろん後者だ』と、まず、御立派な建前を並べた上で——その上で『君のところの会社は、どう思っているんだ』と。『自分たちが金儲けできれば、地方の自然環境なんて、お構いなしなのか』とまで、言われたよ」
北白河は、そこで、小さく鼻を鳴らした。
「正直な感想を言えば——いけすかない男だったよ」
「北白河さん……」
「愛想笑いの下に、はっきりと、こちらを値踏みしてくる目があった。ああいう手合いは、何度も見てきたから、分かる」
北白河は、椅子に体を預けながら、続けた。
「あの場では、形の上では、頭を下げた。『社内でよく検討させていただきます』とね。代表の顔もある。角を立てるわけにはいかなかった」
「では?」
「後日、うちに正式な抗議文が届いた。先方の顧問弁護士の名前で」
北白河は、デスクの引き出しから、一枚の文書を取り出し、片桐の前に置いた。
「読んでみるといい。腹が立つから」
片桐は、その文書に、素早く目を通した。慇懃な文言で埋め尽くされてはいるものの、その内容は、要するに、調査の即時中止と、報告書の破棄を求める、強い圧力そのものだった。
「これを読んで、私は、考えを改めた」
北白河は、静かに言った。
「間違いなく、私利私欲のために動いている。彼は」
「……北白河さんも、そう思われますか」
「思うね。あそこまで、なりふり構わず圧力をかけてくる人間が、本当に地元のため、国民のためだけを考えて動いているとは、とても思えない」
北白河は、書類を、指先で軽く弾いた。
「そんな人間を、国会議員として、このまま置いておいていいものか。私は、大いに疑問だ」
「北白河さん……」
「白日の下に晒してやろうじゃないか」
北白河は、口の端に、はっきりとした笑みを浮かべた。
「片桐君」
「はい」
「一つ、聞きたいんだけど」
北白河は、片桐の目を、まっすぐに見た。
「この資料、リークするなら、どこがいいと思う?」
片桐は、一瞬、何を言われたのか、理解できなかった。
「……はい?」
「新聞なら、経済部より、社会部の方が食いつきがいいだろうね。それとも、いっそ、国会議員の誰かに直接持ち込むか。野党の環境系の委員あたりなら、喜んで飛びつくだろう」
北白河は、そう言って、片桐の反応を面白がるように、口の端を上げた。
「あの、北白河さん?」
「冗談だよ、そこまでは。うちの立場もある」
北白河は、そう言うと、書類を、デスクの上に置いた。
「だが、半分は、本気だ」
「……と、言いますと」
「宇佐見君の調査を、止めろとは言わない。個人的には徹底的にやってもらいたいところだけど」
北白河は、椅子に深くもたれかかった。
「うちは、コンサルティング会社だ。だが、うちを支えているのは、結局、調査部だ。数字の裏側にある真実を、誰よりも正確に、誰よりも早く掴む――それが、うちの看板であり、うちの存在価値だ」
片桐は、言葉を失ったまま、北白河の話を聞いていた。
「その看板を、目先の取引関係だとか、政治家からの圧力だとかで、簡単に曲げるようなら、うちは、もう、コンサルティング会社を名乗る資格がない」
北白河は、静かに、しかし、はっきりとした口調で続けた。
「向こうが、副大臣だろうが、なんだろうが構わないね、圧をかけてくるというなら、受けて立つのが、私のやり方だ」
「……北白河さん」
片桐は、しばらくの間、声が出なかった。
「宇佐見君には、心配せず調査を続けさせろ。何かあれば、私のところまで、直接、話を上げてくれて構わない」
「ありがとうございます」
片桐は、深く頭を下げた。
「礼はいい」
北白河は、軽く手を振った。
「ただし、片桐君」
「はい」
「宇佐見君の暴走を止めるのは、君の仕事だ。うちが会社として彼女を守る、というのと、彼女が無茶をしていい、というのは、別の話だからな」
「肝に銘じます」
片桐は、そう答えながら、内心、小さく苦笑していた。
(それが一番、難しいんですけどね)
役員フロアを出た後、片桐は、しばらくの間、廊下の窓から、外の景色を眺めていた。
これまで、宇佐見の暴走を止める側に回っていたのは、自分一人だと思っていた。だが、実際には、その先に、もっと大きな覚悟を持った人間が、控えていた。
片桐は、携帯を取り出し、蓮子に短いメッセージを送った。
——報告書の件、上も了承済みだ。心配せず、調査を続けろ。
メッセージを送り終えると、片桐は、小さく息を吐いた。
「宇佐見、お前は、本当に、良い会社に拾われたな」
その独り言は、誰に届くこともなく、静かに、片桐の中だけに留まった。
第16話 宇佐見蓮子の反撃
片桐からのメールを受けてから蓮子は、他の業務を周囲に任せてこれまでに集めた資料を、ひたすら机の上で突き合わせる作業に専念した。
融資申請書。事業計画書。土地の登記情報。過去二十年分の用途区分の変遷。環境アセスメントの審査記録。専用道路計画の資料。既存施設の稼働データ。
その一つ一つを、蓮子は、何度も何度も、繋ぎ合わせては、崩し、また繋ぎ合わせた。
「宇佐見さん、そろそろ最終報告書上がりそう?」
定時に片付けを終えた田所が、帰り際に声をかけた。
「もう少し」
「もう少しって、先週からずっと同じ台詞、聞いてる気がするけど」
田所は、苦笑しながらも、コートを羽織る手を止めた。
「何か、見えてきた?」
「輪郭は、見えてきた。あとは、それを裏付ける数字が、揃うかどうか」
蓮子は、画面から目を離さずに答えた。
「この施設、廃棄物処理施設としては、明らかに過剰投資よ。処理能力に対して、建設コストが釣り合わない。専用道路の整備費用も、輸送コストの削減効果に対して、明らかに割に合わない」
「事業として、成立してない、ってこと?」
「成立してるように、見せているだけ」
蓮子は、そう言い切った。
「数字の帳尻は、合わせてある。融資審査を通すためだけの、体裁を整えた数字。でも、実態としての事業計画には、まるで魂がこもってない」
「魂って」
「本当にこの事業をやりたい人間が作った計画じゃない、ってこと。目的が、別のところにある人間が、そのために必要な体裁として、この計画を作ってる」
田所は、しばらく黙って、蓮子の画面を覗き込んだ。
「じゃあ、本当の目的は?」
「それは、まだ分からない」
蓮子は、正直にそう答えた。
「でも、少なくとも、この土地そのものに、事業とは別の価値が置かれていることだけは、確かよ」
それから数日、蓮子は、集めたすべての資料を、一本の報告書としてまとめ上げる作業に取りかかった。
財務状況の分析。既存施設の稼働実態と、新施設計画の必要性の乖離。土地取得の経緯と、その不自然な価格形成。専用道路計画の費用対効果の欠如。そして、黒田副大臣と岡村社長の長年にわたる関係性、および、土地の用途区分をめぐる、一貫した働きかけの痕跡。
どれも、単体では、決定的な証拠にはならない。だが、それらを時系列に沿って並べた時、そこに浮かび上がるのは、一つの明確な結論だった。
この事業計画は、廃棄物処理という本来の目的のためではなく、別の目的――おそらくは、この土地そのものを確保し続けることを目的として、作られたものである。
蓮子は、その結論を、慎重に、しかし明確な言葉で報告書に記した。
完成した報告書を手に、蓮子は片桐のもとを訪れた。
「できました」
片桐は、無言で報告書を受け取ると、時間をかけて、丁寧に目を通した。
「……これを、そのまま銀行に出すのか」
「はい」
「向こうが望んでる結論とは、正反対だぞ。というか、銀行のバックに黒田副大臣がついているんだ。ただじゃあ済まないかもしれん」
「望んでる結論を出すために、調査をしたわけじじゃありません」
片桐は、しばらくの間、報告書と蓮子の顔を、交互に見比べていた。
「分かった」
やがて、片桐は、静かに頷いた。
「俺としても、会社としてもこれを止める理由はない。正式なルートで、銀行に提出する」
「ありがとうございます」
「礼はいい。お前の仕事だ」
片桐は、報告書を閉じながら、小さく息を吐いた。
「ただし、覚悟はしておけ。この報告書が出た後、向こうがどう出るか、分からない」
「分かっています」
数日後、報告書は、正式なルートを通じて、地方銀行へと提出された。
融資部長は、その内容に目を通した後、しばらくの間、何も言わなかったという。
だが、それから間もなく、銀行内部で、融資審査の見直しが始まったという情報が、蓮子のもとに届いた。
完全に融資が止まったわけではない。だが、少なくとも、当初のような、なし崩し的な承認の流れは、明確に止まった。
蓮子は、その報告を受けながら、静かに一つの確信を強めていた。
この調査は、まだ終わっていない。
むしろ、ここからが、本当の始まりなのかもしれない。
窓の外を見ると、いつの間にか、季節が変わりつつあることに、蓮子は気づいた。
あの山を最初に訪れてから、もう随分と、時間が経っていた。
第17話 休日出勤
正式な調査終了の指示が下ってから、メリーは、休日を使って、一人であの村を再訪していた。
表向きの立場は、もう存在しない。名刺も、正式な調査権限も持たない、一人の人間として、メリーは山を目指した。
山林所有者への立ち入り申請は、以前と同じく、正規のルートでは拒まれたままだった。だが、メリーが向かったのは、その管理された区域そのものではなく、山の外縁、村の生活道と、山林との境界にあたる場所だった。
地元の古い地誌によれば、五郎にまつわる現象は、必ずしも施設予定地の内部だけで起きてきたわけではない。もっと広く、この山塊全体に、その性質が及んでいる可能性があった。
村はずれの道を歩き、木々の間に分け入っていく。管理された区域の境界を示す杭や柵は、この辺りにはまだない。
しばらく進んだところで、メリーは足を止めた。
何か、はっきりと言葉にはできない違和感が、その場所を境に漂っていた。
空気の密度が、わずかに変わったように感じられる。音の響き方も、どこか不自然だった。鳥の声も、風に揺れる葉音も、この一線を境に、少しだけ、聞こえ方が変わっている。
メリーは、その場にしゃがみ込み、ごく普通の石ころを、地面の上に置いた。時刻は、まだ日の高い、午後の早い時間帯だった。
目印として、周囲の木の幹に、小さな傷をつける。
そして、その場を離れた。
翌朝、同じ場所を訪れると、石は、跡形もなく消えていた。
メリーは、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動かなかった。
実際に、自分の目で確かめたことで、これまで証言として集めてきた情報が、確かな実感を伴って、体の中に落ちてきた。
この現象は、本当に存在する。
メリーは、周辺の環境を、丁寧に観察し始めた。地面の状態、植生の分布、空気の流れ。境界と呼ぶべき場所は、地図上に明確な線として引けるものではなく、もっと曖昧で、揺らぎのある領域として存在していた。
その揺らぎの中心に近づくほど、空気の違和感は強くなる。だが、その先に何があるのか、メリーの目で直接確認することはできなかった。
境界というものの性質上、それは当然のことだった。
ただの物理的な空間ではない。その先を覗き込もうとする者を、静かに拒む何かが、確かにそこにあった。
メリーは、これまでの調査で集めてきたすべての情報を、頭の中で改めて整理した。
罪人を捨てた記録。飢饉の際の高齢者。障害を持つ赤ん坊。陶器の失敗作。バイク。農具。漁具。配信者のぬいぐるみ。そして、岡村興産の先代社長。
時代も、規模も、まるで違う出来事が、すべて同じ場所へと収束していく。
この現象に、「五郎」という名前と人格を与えたのは、人間だった。だが、その名前を与えられた何かが、実際に、この場所に存在していることだけは、疑いようがなかった。
鬼なのか。それとも、まったく別の何かなのか。
メリーは、その問いに、答えを出すことができなかった。
いや、正確には、答えを出すこと自体が、この現象の本質から外れているのかもしれない、とメリーは感じ始めていた。
人間は、説明のつかないものに出会うと、それに名前を与え、性質を定義し、理解可能な枠組みに押し込めようとする。だが、この現象は、そうした人間の理解の枠組みそのものを、静かに拒んでいるように思えた。
消えたものは、二度と戻らない。
その事実だけが、確かな輪郭を持って、そこにあった。
メリーは、境界の揺らぎから、ゆっくりと後退した。
これ以上、深入りすることは、今の自分には難しい。だが、少なくとも、この現象が、単なる伝承や、人為的な事件の隠蔽工作の産物ではないことは、はっきりと確認できた。
境界性の疑いあり、という当初の判断は、正しかった。
メリーは、山を下りながら、私用の携帯を取り出した。
正式な報告書には、この日の調査結果を書くことはできない。だが、水野にだけは、伝えておく必要があった。業務用のシステムを介さない、個人の端末宛のメッセージとして。
——現地で境界の揺らぎを確認。伝承は、実際の現象を反映していると考えられます。石を置いた時間から逆算すると、活性化するのは夜間、おそらく日没から夜明けにかけての時間帯だと思われます。ただし、揺らぎの及ぶ範囲までは特定できていません。迂闊に近づいて、そのまま呑み込まれるようなことがあれば、目も当てられません。今のところ、これ以上の接近は控えるつもりです。
メッセージを送り終えると、メリーは、遠ざかっていく山の稜線を、もう一度振り返った。
あの山の奥に、何が待っているのか。
間話 国家公安委員長・岡崎夢美レク
メリーへの調査終了指示が下ってから、水野は、ひそかに、自分なりの調べ物を進めていた。
表向きは、ごく普通の業務の一環だった。指示がどの経路を辿って自分のところまで降りてきたのか、その履歴を、事務手続きの範囲内で、丁寧に遡っていく。
最初は、単なる念のための確認のつもりだった。
だが、履歴を追えば追うほど、その流れの不自然さが、際立っていった。
議員会館からの苦情。内閣府上層部での検討。担当部署への指示。それぞれの段階は、書類の上では、何ら問題のない、正規の手続きに見えた。だが、その決裁のスピードが、明らかに速すぎた。
通常であれば、複数の部署間での調整に、一週間はかかるはずの案件が、わずか二日で、トントン拍子に処理されている。
誰かが、裏で手を回している。
水野は、その「誰か」の正体を探るうち、ある名前に行き着いた。
自身の教育担当でもあった男、久世。
公安委員会OBとして、長年、この種の境界事案に関わってきた人物。現役を退いた今も、いくつかの部署に、隠然とした影響力を残しているという噂は、水野も、以前から耳にしていた。
だが、その影響力が、まさか国家公安委員会の運営そのものにまで及んでいるとは、水野も、正直、想像していなかった。
水野は、集めた材料を、一つの報告書としてまとめ上げた。証拠と呼べるほど確固たるものではない。あくまで、状況証拠の積み重ねに過ぎない。だが、放置しておける話でもなかった。
数日後、水野は、思いがけない形で、その機会を得ることになった。
国家公安委員長への定例レクの場に、急遽、陪席するよう命じられたのだ。本来であれば、水野のような課長クラスの職員が、直接、委員長に発言する機会など、まずない。あくまで、資料説明の補助として、末席に控えるだけの役回りのはずだった。
だが、レクが一通り終わりかけた頃、委員長の岡崎が、ふと、水野の方に視線を向けた。
「そういえば、地方伝承の調査案件、あれはどうなったのかしら? 妨害だとかいう苦情があったそうだけど」
その一言で、場の視線が一斉に水野に向けて集まった。
水野の心臓が、大きく跳ねた。
これは、想定していない展開だった。答えを用意していない。だが、答えないという選択肢もなかった。
(……ここで、言うのか。俺が)
課長クラスの人間が、こんな場で、公安委員長に対して、疑義を呈するような発言をする。それがどれほど出過ぎた真似か、水野は、痛いほど分かっていた。下手をすれば、自分自身のキャリアに、取り返しのつかない傷がつく。
だが、頭の片隅に、部下の顔が浮かんだ。
休日を潰し、正式な調査権限も失ったまま、それでも一人で、あの山へ向かい続けている部下の姿。
水野は、覚悟を決めた。
「岡崎委員長、僭越ながら、一点、申し上げたいことがございます」
水野は、震えそうになる声を、必死に抑えながら、続けた。
隣に座っていた上級幹部が、驚いたように水野の方を振り向いた。
「水野くん……わかっていると思うが、事実のみ、不明確、不確かなことはお伝えしないように」
小声で、制止するような声が飛んだ。だが、水野は、それを聞こえないふりでやり過ごした。
「今回の調査終了の指示について、その決裁の経緯を確認したところ、通常のルートとは異なる速さで、処理が進められていた形跡が見受けられました」
「ふむ。異なる速さ、とは?」
「複数の部署間での調整を要するはずの案件が、極めて短期間で決裁されております。その背景に、特定の個人——公安OBによる、非公式な働きかけがあった可能性を、否定できません」
部屋の空気が、明らかに変わった。同席していた幹部たちの間に、緊張が走るのが分かった。
「水野くん! 不確かな事は慎みなさい!」
水野の直属の上司にあたる審議官が、青ざめた顔で割って入ろうとした。
「委員長のお時間を、こんな確認の取れていない話に使わせるわけにはいかない。後日、改めて——」
「やめないか、水野くん!」また別の審議官が止めに入った。審議官の声は、もはや叱責に近かった。
水野は、それでも、言葉を止めなかった。
「やめられません」
水野は、審議官の方を見ずに、まっすぐ岡崎を見据えたまま、言い切った。
「体を張って、調査に当たっている部下がいるんです。組織として、正式な調査権限を取り上げておきながら、その圧力の出所すら明らかにしないままでいいとは、私には、到底思えません」
審議官が、大きく息を呑む音が、水野の耳にも届いた。
「委員長、大変失礼いたしました。この者の発言は——」
審議官が、慌てて委員長に向き直り、頭を下げようとした。それでも水野は止まらなかった。
「我々の組織は、公安委員長を頂点とした、国民のための国体を守る組織であるはずです。その意思決定の過程に、退職したOBが、然るべき手続きを経ずに介入するようなことがあれば、それは、組織の根幹に関わる問題だと、私は考えます」
水野は、審議官の謝罪を遮るように、最後まで言い切った。
言い終えた後、水野は、内心、生きた心地がしなかった。
(終わったかもしれない、いや、終わった俺のキャリア)
審議官は、もはや平静を装うこともできず、委員長に向かって、深々と頭を下げていた。
「委員長、申し訳ございません。この者には、後ほど、厳重に注意を——」
「いや」
委員長は、片手を軽く上げて、審議官を制した。
部屋の空気が、一瞬、凍りついた。
委員長は、しばらくの間、水野の顔を、まじまじと見つめていた。値踏みするような、それでいて、どこか興味深そうな視線だった。
「部下思いの、良い課長じゃないか。私は好きだよ」
委員長は、そう言うと、小さく笑みを浮かべた。
「こういう人間が、まだ、この組織に残っていたとはね」
「委員長……」
審議官が、戸惑ったように、その顔を見た。
「その件については、追って、正式な形で報告するように。あ、いや。私に上がってくる迄に誰かしらの思惑が介入する危険性があるのか。調査チームを立ち上げた方が良さそうだね。人選については追って通達を出します」
委員長は、そう言って、話を締めくくった。だが、部屋を出る間際、もう一度だけ、水野の方を振り返った。
「水野くんと言ったか。良い部下を持ったね。環境省の事は気にせずに調査を続けてくれ。必要があれば環境大臣に話をつけておくよ」
それだけを残し、委員長は退室していった。
部屋を出た後、水野は、しばらくの間、廊下の壁に手をついて、動けなかった。
全身から、じっとりと、冷たい汗が噴き出していた。
だが同時に、どこか、清々しい気持ちも、確かにあった。
自分にできることは、これくらいしかない。だが、これくらいのことでも、やらなければ、部下に顔向けができない。
水野は、携帯を取り出し、私用のメッセージアプリを開いた。宛先は、メリーだった。
——調査、とことんやって良いと許可が取れた。思いっきりやってくれ。
メッセージを送信すると、水野は、大きく息を吐き出した。
窓の外には、いつも通りの、変わらない官庁街の風景が広がっていた。
だが、水野の中では、何かが、確かに一つ、動き始めていた。
第18話 裏切り
蓮子の報告書が銀行内部で波紋を広げ、内閣府への苦情も、思うような効果を上げていない。そうした状況が明らかになるにつれ、黒田と岡村は、次第に追い詰められていった。
融資は完全には止まっていないものの、審査は明らかに慎重になっている。公安委員会の調査もある日を境に動きが再開した気配があった。
二人は、久しぶりに顔を合わせていた。場所は、以前から密談に使ってきた、人目につかない小料理屋の奥座敷だった。
「このままじゃ、まずい」
岡村が、酒に手をつけないまま、そう切り出した。
「コンサル会社の調査員、あの女、只者じゃない」
「分かってる。うちの親戚にまで声をかけていやがった」
黒田も、疲れた表情で頷いた。
「内閣府の方も思ったより手強い。久世さんに頼み込んで動きが止まったと思ったが、ある日を境にまた動き出した。まだ何か嗅ぎ回ってる気配がある」
二人は、しばらくの間、押し黙ったまま、酒を口にした。
「改めて久世さんに、相談しよう」
岡村が、ぽつりと言った。
「あの人なら、何か妙案が浮かぶはずだ。三十年前も、あの人の言葉で、俺たちは動いた」
黒田は、しばらく考え込んだ後、小さく頷いた。
その夜のうちに、二人は久世の自宅を訪ねた。
「これは、これは。お二人お揃いで、珍しい」
久世は、いつもと変わらぬ、穏やかな笑みで二人を迎え入れた。
「久世さん、助けてください」
岡村が、居間に通されるなり、切り出した。
「銀行の調査も、内閣府の調査も、このままじゃ、全部、明るみに出てしまう」
「明るみに出る、というのは?」
久世は、静かに茶を淹れながら、そう尋ねた。
「土地のことも、融資のことも、全部です。このままじゃ、俺たちは終わりだ」
「先生! 先生が言うから俺もこいつも動いたんですよ!」
岡村が、声を荒らげた。
「あの夜、電話で、俺たちに言ったじゃないですか。使ってみれば、その利便性が分かるって!」
久世は、湯呑みを置く手を、ほんの一瞬だけ止めた。だが、その表情には、動揺らしきものは、ほとんど浮かばなかった。
「さて。何のことでしょうか」
「覚えがないだなんて! ふざけんなよ!」
岡村が、テーブルを叩いた。黒田が、その肩を掴んで制する。
「岡村、落ち着け」
「落ち着いてられるか! 俺たちがここまでやってこれたのは、全部、この人の言葉があったからだろう!」
久世は、二人のやり取りを、静かに見つめていた。その視線には、憐れみとも、失望とも取れる、複雑な色が浮かんでいた。
「お二人が、何をどう覚えていらっしゃるかは、私には分かりません」
久世は、ゆっくりと、言葉を選びながら続けた。
「ただ、一つだけ、申し上げておきましょう。私は、あの夜、誰かに何かを『しろ』と指示した覚えはありません。ただ、事実を、ありのままにお伝えしただけです」
「事実だと?」
「五郎は、確かに存在する。それだけの、事実です」
久世の声は、どこまでも冷静だった。
「その事実を、お二人がどう使うかは、お二人自身の判断だったはずです。私に、その責任を求められても、困ります」
「そんな……」
岡村は、言葉を失った。
「久世さん、あなたは……」
黒田が、震える声で言った。
「あなたは、俺たちを、利用しただけなのか」
「利用、とは、心外ですな」
久世は、静かに首を振った。
「私は、ただ、あの山に潜む何かを見守りたかった。それ以上でも、それ以下でもありません。融資の話なんて私にはまるで価値がない」
「見守りたかっただと……? だったら、なぜ、あの夜、あんなことを言った」
「若いお二人が、あまりにも思い詰めた声をしていたので、少しばかり、お節介を焼いただけですよ」
久世は、湯呑みを、静かに口に運んだ。
「今回のことについても、私にできることは、もう多くはありません。お二人が、これまで積み重ねてきたことの結果は、お二人自身で、受け止めていただくしかない」
「見捨てるのか」
黒田の声には、怒りと、絶望が入り混じっていた。
「見捨てる、というのは、少し違います」
久世は、静かに立ち上がった。
「私は、最初から、お二人の味方だったことは、一度もありません。ただ、あの山の行く末を、見届けていただけです。可能であれば五郎をそのままにしておきたかった。その点ではお二人と利害が一致した。だから助け舟を出した。それだけです」
「ならば、俺たちを助けてくれよ。そうすれば五郎も守られる!」
「そうしたいのもやまやまですが、どうやら今の公安委員長はただのお飾りじゃないようでして……」
久世は、静かに続けた。
「下手に動いて私が動きにくくなってしまっては困ります。五郎の他にもこの国にはいくらでも似たような物が存在している」
「どういう意味だ」
「言葉のままですよ」
久世は、窓の外――夜の闇に沈んだ庭先に、視線を向けた。
「あの山は、八重に重なる雲のように、見通しがきかない。誰が覗き込んでも、見える範囲は、ごくわずかです」
「なんの話だ」
「ただの、年寄りの繰り言ですよ」
久世は、ゆっくりと、二人の方へ向き直った。
「ただ、見える人間には、見えるのかもしれませんね。赤や、紫の、その外側にある色までも」
黒田も岡村も、その言葉の意味を、正確に理解することはできなかった。だが、その響きには、二人の理解の及ばない、もっと深い何かが横たわっているという予感だけが、確かに伝わってきた。
「今日のところは、お引き取りください。夜も遅い」
久世は、それだけ言うと、二人を見送ることもなく、静かに奥の部屋へと下がっていった。
残された黒田と岡村は、しばらくの間、その場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
自分たちが、三十年もの間、後ろ盾のように思ってきた存在が、実際には、最初から、自分たちの味方などではなかった。
その事実が、じわじわと、二人の中に染み込んでいった。
久世が、本当は何者なのか。誰の指示で、あの山を「見守って」いるのか。三十年前、なぜ、あのタイミングで電話をかけてきたのか。
どれだけ考えても、答えは出なかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
二人は、これから先、完全に一人で、この状況に立ち向かわなければならない。
久世宅を出た夜道を、二人は、言葉少なに歩いた。
頭上には、いつもと変わらない夜空が広がっていたが、その星の光すら、今の二人には、どこか遠く、冷たいものに感じられた。
第19話 決着
蓮子の報告書が地方銀行の融資審査を止めてから、事態は、思いのほか速く動き始めた。
融資部門が慎重姿勢に転じたことを受け、銀行の監査部門が、独自に岡村興産の財務状況を再調査することになった。その過程で、蓮子が指摘した数々の不自然な点――土地取得の経緯、専用道路計画の費用対効果、施設の必要性を裏付ける根拠の欠如、黒田副大臣からの不当な圧力が、改めて精査されることになった。
同時に、公安委員会内部で調査チームが組まれ、意思決定の一部に外部関係者の介入が認められた。
同時に報道機関に黒田議員が、副大臣就任前から、あの一帯の土地に対して、一貫して不自然な影響力を行使し続けてきたこと、環境副大臣就任後は、その影響力が、行政権限を通じて、より大規模かつ組織的なものへと変化していたことが、どこからかリークされワイドショーを賑わせた。
報道が一つ出ると、それを追う形で、別の報道機関も、独自の取材を進め始めた。国会でも、野党議員がこの問題を取り上げ、黒田への追及が始まった。
黒田は、当初、「あくまで正当な行政手続きの範囲内である」と主張し続けた。だが、蓮子の報告書に基づく銀行側の内部資料が、何らかの経路で報道機関に渡ったことをきっかけに、状況は一気に悪化した。
融資をめぐる虚偽の説明。環境評価の恣意的な運用。政治家による銀行、企業への不当な圧力。土地取引を利用した、事実上の利益誘導。
これらの疑惑が、次々と明るみに出るにつれ、黒田は、環境副大臣の職を辞任せざるを得ない状況に追い込まれていった。
岡村もまた、無関係ではいられなかった。産廃事業に関する詐欺的な計画の存在が指摘され、岡村興産は、銀行からの信用を完全に失った。融資は正式に打ち切られ、新施設の建設計画は、白紙撤回されることになった。
一連の報道を、蓮子は、自分のデスクで、静かに見守っていた。
「宇佐見主任の報告書が、きっかけだったんですよね」
高橋美咲が、ニュース記事を表示した画面を見ながら、そう言った。
「きっかけの一つ、ではあるでしょうね」
蓮子は、それ以上の感慨を、あまり表に出さなかった。
「でも、これで、全部が終わったわけじゃない」
「終わってない、というのは」
「数字の上での不正は、これで明るみに出た。でも」
蓮子は、画面を見つめたまま、小さく息をついた。
「あの土地に、二人があれほど執着していた、本当の理由は、まだ分かっていない」
その言葉通り、報道によって明らかになったのは、あくまで、融資や行政をめぐる不正の構造だけだった。
岡村興産の先代社長の失踪については、この一連の騒動の中でも、ほとんど注目されることはなかった。三十年近く前の、未解決の事件。今さら掘り返す材料もなく、報道機関の関心も、そこまでは及ばなかった。
黒田と岡村が、なぜあれほどまでに、あの土地に固執していたのか。その本当の理由は、表社会の中では、決して語られることのないまま、事件は、一定の決着を見た。
融資をめぐる不正、現職の環境副大臣による環境評価の偽造と圧力。それらの罪によって、黒田と岡村は、社会的な処分を受けた。
だが、三十年前のあの夜、山へ運ばれた一つの命については、誰も、その真相にたどり着くことはなかった。
証明する術が、そもそも、この世に残っていなかったからだ。
第20話 禁止されたらそりゃ行くでしょう?
事件の報道が一段落した頃、内閣府の中では、ひっそりと、もう一つの手続きが進んでいた。
メリーの調査結果——境界の揺らぎの確認、活性化の時間帯に関する推測、そして、長年にわたる消失事案の記録は、水野を通じて、正式な経路で、関係部署へと報告された。
その結果、公安委員会は、五郎の山一帯について、活発な境界が存在すると判断した。
正式な措置として、山は、関係機関との連携のもと、入山禁止となった。
ただし、この措置が対外的に公表される際の理由は、「有毒ガスの発生が確認されたため」とされた。
もともと産業廃棄物処理施設の建設計画があった土地であることから、この理由は、周囲から見ても、特段不自然には映らなかった。
事件の全貌を知らない者たちは、この説明を、そのまま受け止めた。
国家という組織もまた、説明できないものを、もっともらしい理由で覆い隠す。
人間の事件には、一定の決着がついた。だが、五郎という現象そのものについては、公的な説明が与えられることは、最後までなかった。
村の人々の間では、それでも、昔ながらの言い方が、静かに語り継がれ続けていた。
あの山には、五郎がいる。
その言葉だけが、変わらず、村の暮らしの中に残っていった。
事件が一区切りついてから、二週間ほど経った、ある休日のことだった。
蓮子とメリーは、駅前で待ち合わせ、電車を乗り継いで、あの村へと向かっていた。
どちらも、仕事の道具は持っていない。蓮子の鞄には、調査資料の代わりに、簡単な軽食と、水筒が入っているだけだった。メリーも同様に、公務としての体裁は、どこにも見当たらなかった。
「なんだか、変な感じね」
電車の窓から、流れていく景色を眺めながら、蓮子が呟いた。
「何が?」
「同じ場所に、何度も通ってるはずなのに、今日だけ、まるで違う目的地に向かってる気がする」
「仕事じゃないから」
メリーが、簡潔に答えた。
「それだけの違いで、こんなに感覚が変わるものかしらね」
「変わるものよ」
メリーは、車窓に映る自分たちの姿を、ぼんやりと見つめた。
「私たち、結局学生の頃と変わってないわね」
「禁止されたら、そりゃ行くでしょう」
「そうよね」
二人は、それきり、しばらく無言のまま、電車に揺られた。
最寄り駅に着くと、二人は、以前と同じように、乗り合いバスに乗り換えた。車内には、今日も、数人の高齢者が乗っているだけだった。
村に着いてからは、商店街の小さな喫茶店で時間を潰し、日が暮れると二人は、まっすぐに、山の入り口を目指した。
「入山禁止の看板、本当に出てるのね」
山の入り口に立てられた看板を見て、蓮子が言った。
「有毒ガスの発生確認、か。よくできた理由ね」
「よくできてる、というより」
メリーは、看板を見つめながら、静かに言った。
「本当のことを言えないから、それらしい理由をつけただけ」
「それは、あなたの部署の仕事?」
「たぶんね」
メリーは、それ以上、詳しくは語らなかった。守秘義務は、二人の間にとって、今でも、はっきりとした一線として存在していた。
「でも、私たちは、今日、ここに来てる」
「入山禁止なのに」
「入山禁止だから、こそ」
メリーは、小さく笑った。
「そうね。危ないから来るな、って言われたら、余計に行きたくなる」
「悪い癖よ」
「今さらでしょう」
二人は、看板の脇をすり抜けるようにして、規制線代わりに張られた簡易的なロープの内側へと足を踏み入れた。
木々の間を進むにつれ、周囲の空気が、少しずつ変わっていくのを、二人とも、それぞれの感覚で感じ取っていた。
蓮子にとっては、それは、説明のつかない、しかし確かな違和感として。
メリーにとっては、これまで何度も見てきた境界特有の感触として。
「近いわね、あそこ」
メリーが、足を止めて少し先を指差した。
木々の間から、小さな社が見えていた。
施設の建設計画そのものは白紙になったが、この一帯だけは、以前と変わらない姿のまま、静かに残されていた。
二人は、顔を見合わせた。
仕事としての調査は、すでに終わっている。銀行への報告も、公安への報告も、それぞれの立場で、すでに完了していた。
今、この場所に立っているのは、調査員でも、官僚でもない。
学生時代より少し大人になった秘封倶楽部の二人だった。
「行きましょうか」
蓮子が、そう言って、一歩、前に踏み出した。
「秘封倶楽部として」
メリーは、その言葉と共に一歩踏み出した。
社の手前で、二人は足を止めた。
「私が見てみる」
メリーが、静かに言った。
「大丈夫なの?」
「たぶん。見るだけなら」
蓮子は、それ以上、止めなかった。ここから先は、メリーの領分だということを、二人とも、言葉にせずとも分かっていた。
メリーは、社の方角へ視線を向けたまま、しばらくの間、目を閉じた。
そして、静かに、目を開いた。
揺らぎの向こう側に、何か明確な意思や、姿形があるわけではなかった。
ただの、境界の揺らぎ。もともとは、それだけのものだったのだろう、とメリーは感じた。
人が、そこに何かを捨て続けた。
人が、そこに名前をつけた。五郎、という名前を。
人が、そこに役割を与えた。何かを消してくれる、鬼という役割を。
揺らぎは、その一つ一つを吸い込みながら、少しずつ、輪郭を持つようになっていったのかもしれない。
鬼として振る舞うようになったのは、鬼として扱われ続けたからだ。存在そのものが、人間の側から、形作られていった。
——要するに、村では処理できないものを、全部あの山に押し付けてきた、ってことなんじゃないかと、私は思いますけどね。
村で聞いた、竹田タキの言葉が、ふと、メリーの頭をよぎった。
あの時は、ただの昔語りの一つだと思って聞いていた。だが、今、目の前にあるものを前にすると、タキの言葉は、想像以上に、核心を突いていたのかもしれない、とメリーは思った。
メリーは、それ以上、深く踏み込むことはしなかった。
これ以上は、関わらない方がいい。直感的に、そう判断した。
「どうだった」
蓮子が、静かに尋ねた。
「思ってた通り、よく分からなかった」
メリーは、小さく苦笑した。
「ただ、一つだけ」
「一つだけ?」
「たぶん、これは、村と一緒に生きてる」
メリーは、社の方角を見つめたまま、続けた。
「人が捨てなくなれば、名前を呼ばなくなれば、いずれ、力を失っていく。村が廃れていくのと、同じ速さで」
「消える、ってこと」
「消えるというより……ただの境界に戻るという言い方が近いかもしれない」
メリーは、それ以上、確信を持って言い切ることはしなかった。あくまで、感じ取った印象の域を出ない話だった。
「なんだか、寂しい話ね」
蓮子が、ぽつりと言った。
「そうかもね」
二人は、それ以上、社に近づくことはしなかった。
答え合わせのようなものは、これで十分だった。五郎が何であるかを、完全に解明することが、今日の目的ではなかった。
「帰りましょうか」
「そうね」
二人は、来た道を、ゆっくりと引き返し始めた。
エピローグ おとな秘封倶楽部は続く
事件から、さらに数週間が過ぎた。
黒田副大臣と岡村興産をめぐる一連の不正は、社会的な決着を見た。それぞれの容疑について、司法の場での手続きが進められている。
山は、開発を免れた。
村の未来がどうなるのかは、まだ、誰にも分からない。
蓮子とメリーは、それぞれの日常へと戻っていった。蓮子の会社では、次の案件が、すでに動き始めていた。メリーの部署にも、また別の調査依頼が、静かに舞い込んでいた。
ある夜、二人は、あの居酒屋で、久しぶりに顔を合わせていた。
「ねえ、メリー。来週から、東京に半月くらい出張なんだけど」
蓮子が、枝豆をつまみながら、切り出した。
「お土産、何がいい?」
「あら」
メリーは、少し驚いたように顔を上げた。
「私も、しばらく旧首都圏に用があって、京都を離れる予定だったの」
「え、噓」
「本当よ」
「すごい偶然」
「ほんと」
二人は、顔を見合わせて、小さく笑った。
「メリーは、何の用事なの」
「言えないわよ、そんなの」
「またそれ」と、笑い合う。
「境界巡りかぁ。いいな」
「良くないわよ」
メリーは、苦笑したが否定はしなかった。
「仕事で訪れたって、楽しくないでしょう」
「まあね」
蓮子は、グラスを傾けながら、肩をすくめた。
「私も、資料と数字とにらめっこするだけだもの。東京の景色なんて、見てる暇、なさそう」
「お互い様ね」
「お互い様」
二人は、それぞれのグラスを軽く合わせた。
仕事では、これからも、別々の場所で、別々のものを追いかけていく。
それでも、こうして向かい合えば、結局、いつもと変わらない、二人の時間が流れていく。
次にどこで、何が待っているのかは、まだ、誰にも分からない。
それでも、二人は、また、それぞれの持ち場へと戻っていく。
仕事では、別々の人間。
オフでは、変わらず、秘封倶楽部。
その日常は、これからも、静かに続いていく。
京都のオフィス街の中心部、誰もが名前を知っている企業が軒を連ねる一角に、そのビルはあった。
業界内でも売上高で上位に数えられる、大手コンサルティング会社。宇佐見蓮子は、その調査部に所属していた。企業の信用調査、財務デューデリジェンス、不正会計の兆候分析――表向きは、堅実そのものの業務内容が並ぶ部署だ。
蓮子は大学では物理学を専攻していた。研究者としての将来を、周囲からも、蓮子自身も、当然のように思い描いていた時期がある。だが、学生時代に没頭していた秘封倶楽部としての活動――非科学的な現象への深入りは、指導教官の心証を大きく損ね、推薦を得られないまま、大学院への道は静かに閉ざされた。
大好きだった物理学から離れたことを、しばらくは引きずった。他人に弱音を吐くことはなかったが、当時のメリーや両親は、蓮子が思っていた以上に、その様子を気にかけていたらしい。
それでも、蓮子の切り替えは早かった。就職活動に舵を切り、あっさりと大手商社の総合職で内定を得た。だが、入ってみると、決められた枠組みの中で、決められた手順をこなすだけの毎日が、どうにも肌に合わなかった。違和感の正体を確かめる前に、体が先に音を上げるように、一年ほどで退職した。
行き場を探していた蓮子を拾ったのが、今のコンサルティング会社だった。「数字と資料から、誰も気づかない違和感を見つけ出す」という仕事は、蓮子にとって、研究とはまるで別物のはずだった。だが、いざ働き始めてみると、意外なほど、自分の性分に馴染んだ。仮説を立て、証拠を集め、検証する。やっていることの構造は、研究とそう変わらない。対象が、論文にはならない、生々しい人間の事情だというだけだ。
午前九時、宇佐見蓮子のデスクにはすでに三つの案件のファイルが積まれていた。
うち一つは、彼女が今朝までに片付けてしまったものだ。
「宇佐見主任、それ昨日お願いしたばかりですよね」
高橋美咲が、隣のデスクから半ば呆れた声を上げた。入社三年目、蓮子より四つ年下の後輩は、まだ自分の案件のファイルを開いてすらいない。
「昨日のうちに、財務諸表と登記簿は一通り読んだから。今日は現地の商業登記所に照会をかけるだけよ」
「一通りって……あれ、百二十ページありましたよね」
「数字が合わない場所だけ拾えば、そんなに時間はかからないの」
蓮子はキーボードを叩きながら答えた。目は画面に向いたままで、美咲の方を見てすらいない。
調査部のフロアは、朝からすでに静かな緊張感に包まれている。電話の音、キーボードの音、資料をめくる音。その中で、蓮子の作業速度だけが明らかに周囲から浮いていた。
「宇佐見の手伝いか? やめとけやめとけ」
通りかかった片桐恒一が、美咲の視線に気づいて声をかけた。調査部の課長は、四十を過ぎたばかりの、額に深い皺の目立つ男だった。
「こいつには勤務時間なんて概念がないから、下手に付き合うと身体壊すぞ」
「別に手伝ってもらおうなんて思ってませんよ」
蓮子が振り向かずに言い返す。
「思ってなくても、隣にいるだけで感化されるんだよ、若いのは」
「わたしもまだ『若いの』なんですけどね」
「こういうのに下手な反論すると宇佐見はうるさいからな。俺の失言だ、お前も若いよ」
片桐はそう言いながら、蓮子のデスクに置かれたファイルの山をちらりと見た。
「それより宇佐見、例の地方銀行の件、話は聞いてるか」
その言葉で、蓮子はようやくキーボードから手を離した。
「産廃会社の融資調査、ですよね。メールは読みました」
「今日の午後、先方の担当者が来る。融資部の部長だ。お前が担当になる」
「金額、大きいんですか」
「山間部に新施設を建てるらしい。銀行としても無視できない金額だ」
片桐は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「言っておくが、今回は最初から結論ありきの調査になる可能性がある。銀行側は、たぶん『問題ありません』って報告書が欲しいんだ」
「それで問題があったら?」
「あったら、あった通りに書け。お前はそういうやつだ。俺が止めても聞かないだろう」
諦めたような、それでいてどこか信頼を滲ませたような言い方だった。片桐は、蓮子の調査能力を誰よりも高く評価している。同時に、彼女を管理職に据えることだけは絶対にすまい、とも考えていた。組織というものが、蓮子の働き方にはまるで向いていないからだ。
「田所、お前も同席してくれ。宇佐見一人だと、先方が委縮する」
「はい」
少し離れた席から、田所が短く応じた。三十五歳、堅実を絵に描いたような男で、定時になれば必ず席を立つ。蓮子とは正反対のタイプだったが、仕事上の信頼は厚い。
年齢は離れているが蓮子と同期入社だった。
「宇佐見主任がいると、みんな緊張しますもんね」
美咲が小声で言うと、田所は苦笑した。
「緊張っていうか……次に何を言われるか分からない、が近いかな」田所が苦笑いを浮かべる。
その日の午後、蓮子と田所は応接室で融資部部長を迎えた。
部長は資料を広げながら、慣れた調子で説明を始めた。
「山間部に処理施設を新設する計画です。事業者は地元の産業廃棄物処理会社。財務は健全、実績も十分ある会社です」
「融資額は?」
「かなり大きい額になります。ですので、念のため外部の目で見ておきたいと」
蓮子は差し出された資料に目を通しながら、静かに聞いた。
「同じ土地に、他の話も来ているんですか」
部長の表情が、一瞬だけ止まった。
「よくお分かりで」
「諸々の経緯を見れば、察しはつくかなと。近隣の土地が複数件、都市部の企業に買われています。どこかの大企業が土地取得に動いたタイミングで高値で売りつけるのでしょう。仮にその土地が取得範囲外だとしても開発される何かに便乗できますし」
部長は小さく息をついてから、少し声を落とした。
「いやはや、恐れ入りました。実は、京都の企業が同じ土地にリゾート開発を持ち込んでいましてね。大手銀行の融資もついている」
「それで、御行の意向としては?」
「正直、うちとしては面白くないんですよ。都市部の資本に、地元の土地を持っていかれるのは」
部長は苦笑いを浮かべた。
「地元の岡村さんを、なんとか応援したいんです。あの会社は、我々の地域では数少ない、まともに事業を続けている企業ですから」
蓮子は資料をめくる手を止めなかったが、頭の中では別の思考が動き始めていた。
地方銀行が地元企業を応援したい、という気持ちは理解できる。しかし、それは調査の中立性とは別の話だ。この依頼は、最初から「問題がないことの確認」を期待されている。
そして、期待というのは、都合の悪い事実を見えなくする力を持っている。
「分かりました。財務状況、事業実績、土地取得の経緯、順番に見ていきます」
蓮子は資料を閉じながら言った。
「ただし、一つだけお約束できないことがあります」
「なんでしょう」
「結論は、調べてみないと分かりません。それでよろしければ」
部長は少し困ったような顔をしたが、結局は頷いた。
「……それで結構です。もちろん」
応接室を出た後、田所が小さく肩をすくめた。
「相変わらず、容赦ないな」
「容赦する意味が分からないの」
蓮子はエレベーターのボタンを押しながら答えた。
「向こうが聞きたい答えを用意するために調べるんだったら、調査なんて要らないでしょう」
「まあ、そうなんだけどさ」
田所はそう言って、それ以上は何も言わなかった。彼は蓮子のやり方に口を挟むことはない。ただ、その先に何が待っているかを、少しだけ心配することはある。
自分のデスクに戻った蓮子は、渡された資料の束を、いつものように端から読み始めた。
財務状況。過去の事業実績。土地取得の経緯。
数字の羅列の中に、何か引っかかるものがある。まだそれが何なのか、蓮子自身にも分かっていない。
ただ、長年の勘が、静かに囁いていた。
この案件は、思っていたより厄介なものになる。
窓の外はすでに日が傾き始めていたが、蓮子のデスクの照明が消える気配はなかった。
第2話 内閣府国家公安委員会地域文化・伝承調査室 マエリベリー・ハーン
内閣府の庁舎の中でも、マエリベリー・ハーンの所属する部署は、フロアの奥まった一角にひっそりと存在していた。
表向きの名称は「国家公安委員会地域文化・伝承調査室」。
名刺に刷られたその肩書きを見せると、たいていの人間は、郷土資料館の学芸員のようなものを想像する。実際、メリーの机の上には、各地の民話集や郷土史の写しが積まれていて、傍から見ればその想像は正しい。
ただし、正しいのは半分だけだった。
この部屋に机を並べる十数名は、全員がその半分の先を知っている。「地域文化・伝承調査室」という名は、内閣府の中でもごく一部の人間しか実態を知らない看板であり、実際にここで扱っているのは、公にはできない境界事案――伝承や信仰の形で語り継がれてきた、説明のつかない現象の調査と管理だった。
隣の島では、若手職員が古い水害の記録と、その土地に伝わる「河童が人を引いた」という言い伝えを突き合わせている。奥の窓際では、ベテランの女性職員が、ある離島の祭礼が中断された経緯について、地元の役場と静かに電話でやり取りをしていた。誰もが、自分の担当する案件が「ただの伝承」では済まないことを知った上で、粛々と仕事をこなしている。
その意味で、メリーの部署は特別な職員の集まりというより、特別な対象を扱う専門部署だった。人間離れした力を持つ者が机を並べているわけではない。境界という、行政の枠組みでは扱いにくい領域を、それでも扱わなければならないから存在する部署――それだけのことだ。
ただし、課長の水野だけが知っていることが一つあった。
メリーが、他の職員とは根本的に違う目で、その領域を見ているということだ。
人事部からの情報では過去に数回の境界破りの経験があり、その全てが彼女の特殊な力を使っているとのことだった。
どこから見ても普通の人間で、水野自身、その違いを正確に言葉にできたことはない。報告書の書きぶりが違う、というだけでは説明がつかない。同じ現地調査の記録を渡しても、メリーだけが、他の誰も気づかない一点に指を置く。そこに何があるのかを聞いても、彼女自身、うまく説明できないことが多かった。
水野はそれを、部内の誰にも話していない。話したところで、誰も本当には理解できないだろうと思っていたし、何より、下手に共有すれば、メリーの扱いが変わってしまう。特別視されることを、彼女自身が望んでいないことも、水野は分かっていた。
だから水野は、難しい案件が来るたびに、さりげなくメリーの机にそれを置く。他の職員から見れば、単なる案件の割り振りにしか映らない。
「ハーンさん、例の件」
水野が、書類を片手に近づいてきた。四十五歳、調整担当という肩書きの通り、政治家や各省庁、地方自治体との折衝を一手に引き受けている男だ。
「例の件、というと?」
「山間部の伝承調査。上から正式に降りてきた」
水野が差し出した書類には、地名と、簡単な事案概要が記されていた。
メリーはそれを一読して、小さく眉を寄せた。
「……大食い鬼の五郎」
「知ってる話か?」
「いえ。初めて聞きます」
メリーは書類をめくった。文書の体裁は、他の民間伝承調査の依頼書と何ら変わらない。しかし、その末尾に添えられた注記だけが、この案件が「ただの伝承調査」ではないことを示していた。
――現地における物体消失事案、複数件確認。原因不明。境界性の疑いあり。
「境界、ですか」
「ああ。だから君に回ってきた」
水野は椅子に浅く腰掛けながら続けた。
「表向きは地方史の調査ということにしてある。実際、その山には昔から言い伝えがあるらしい。山に物を置いて一晩過ごすと、朝には消えている、というやつだ」
「五郎という鬼が食べる、と?」メリーは表情を崩さずに返す。
「そういうことになっている」
メリーの部署が扱う案件のほとんどは、こうして「昔話」の皮を被ってやってくる。表向きは民間伝承の研究、実態は境界にまつわる異常現象の調査と管理。国家公安委員会の管轄下にありながら、その存在自体がほとんど知られていない部署だった。
「現代でも消失は確認されているんですか」
「報告はある。詳しいことは分からんが、この十年ほどで、少なくとも数件。直近だと半年ほど前だ」
水野は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「正直に言うと、俺は現場に出ても、何が起きているのかを自分の目で確かめられたためしがない。調整と根回しはできても、境界そのものを見る勘は持ち合わせてない。だからこそ、こういう案件は現場に強い人間に任せる」
「私は好きですよ」
「知ってる。だから回した」
水野は苦笑いを浮かべたが、その目はすぐに真剣なものに戻った。
「ただし、一つ言っておく。この地域には、地元選出の議員が絡んでいる」
「議員、ですか?」
「環境副大臣の黒田だ。あの山を含む一帯を、やたらと気にかけている。理由は分からん。純粋な地元愛かもしれないし、そうでないかもしれない」
「政治的な配慮が必要、ということですね」
「その通り。伝承調査という名目を、絶対に崩すな。境界だの怪異だのという言葉はヒアリングの場でも絶対に出すな」
メリーは書類を閉じながら、小さく頷いた。
周囲の同僚たちが、この会話に注意を払っている様子はなかった。水野が難しい案件をメリーに回すのは、いつものことだからだ。「ハーンさんはああいうのが得意だから」――その程度の認識で、皆それぞれの仕事に戻っていく。誰も、その「得意」の中身を深くは詮索しない。
「分かりました」
「あと、もう一つ」
水野は立ち上がりかけた体を、再びメリーの方へ向けた。
「古い記録が必要なら、久世さんに当たってみるといい」
「久世さん?」
「官僚OBだ。この手の境界性案件に、妙に詳しい人でな。もう現役ではないが、話を聞くくらいは付き合ってくれるはずだ」
水野はそう言い残して、自分のデスクへと戻っていった。
メリーは一人になったフロアの片隅で、改めて書類に目を落とした。
大食い鬼の五郎。
山に物を置いて一晩過ごすと、朝には消えている。
その響きには、どこか懐かしいものがあった。学生時代、秘封倶楽部として蓮子と共に追いかけていた、無数の怪異譚と同じ手触りだ。
違うのは、あの頃は面白がっていればよかった、ということだ。
今は、これが仕事になっている。
境界性の疑いあり、という一文が、メリーの中で静かな熱を持ち始めていた。
単なる昔話ではない。
現代でも、何かが消え続けている。
メリーは書類を鞄にしまうと、次に会うべき人間の名前を、頭の中で反芻した。
久世。
まずはそこから始めよう。
第3話 公安委員会OB
久世の自宅は、京都の中心部から電車を乗り継いで一時間ほどの、古い住宅地の一角にあった。
庭付きの平屋。玄関先には、手入れの行き届いた盆栽がいくつか並んでいる。表札には「久世」とだけ、簡素な字で書かれていた。
インターホンを押すと、しばらくして、思ったより張りのある声が返ってきた。
「はいはい、どちら様で」
「内閣府の者です。水野からご連絡が行っているかと思います」
「ああ、ああ。少々お待ちを」
現れた久世は、七十前後にしては姿勢の良い、痩せた老人だった。灰色の髪をきっちりと撫でつけ、着古してはいるが清潔なシャツを着ている。目つきだけが、年齢に似合わず鋭かった。
「まあ、お上がりなさい。茶ぐらいは出せますから」
通された居間には、古い書物や資料の束が、几帳面に積み上げられていた。長年の習慣なのか、どれもラベルが貼られ、整理されている。
「ハーンさん、と呼べばいいですかな。水野くんから、そう聞いていますが」
「マエリベリー・ハーンです。ハーンで結構です」
「帰化なされたのかな? 珍しいお名前だ」
久世は茶を淹れながら、それ以上は名前について触れなかった。
「今日は、古い案件について確認したいことがあると聞きましたが」
「はい。甲信越地方の山間部の伝承について、以前に何か扱われたことがあると伺いました」
メリーがそう切り出そうとすると、久世が湯呑みを置きながら、ふと思い出したように口を開いた。
「その前に――水野君は元気ですか?」
「はい」
「彼が新卒で入ってきた時、教育担当を任されましてね。愛想が良くて、人当たりも良い。ただ妙にリアリストで、我々が追うような不可思議な出来事について、『こんなのマユツバですよ!』なんて怒り出す困った子でした」
久世は懐かしそうに目を細めた。その笑みには、社交辞令以上の、実感のこもった温かさがあった。
「今も、あまり変わっていないと思います」
「そうでしょうな。ああいう性分は、そう簡単には変わらない」
「彼が今、あなたのような方を部下に持っているというのは、面白いものです」
「たぶん、うまくやっていると思います。彼なりのやり方で」
「それは何より」
久世はそう言って、湯呑みを一口すすった。それから、改めてメリーの方に向き直った。
「それで、山間部の伝承について、でしたな」
メリーは、資料を鞄から取り出しながら切り出した。
「『大食い鬼の五郎』という話をご存知でしょうか?」
久世の手が、茶托を置く動作の途中で、一瞬だけ止まった。
ほとんど気づかれないほどの、わずかな滞りだった。だが、メリーはその一瞬を見逃さなかった。
「……ああ。知っていますよ。昔、担当したことがありましてね」
「担当、というのは?」
「歳は取りたくないですな。思い出すのに時間がかかるし、記憶も曖昧です。当時の資料も、とっくに処分されているはずです」
久世はそう言って、湯呑みをメリーの前に置いた。にこやかな表情には、拒絶するような険はない。だが、それ以上の情報を渡す気配もなかった。
「その山について、何か記録は残されていますか」
「職務規定で退職と共に全て置いてきています。昔話としてなら、いくらでも。罪人を捨てた、飢饉のときに年寄りを捨てた、陶器の失敗作を捨てた――地方には、似たような話がいくらでもありますよ。物を捨てる場所には、必ずそれらしい怪異譚がつきまとうものです」
「今回のものは、現代でも消失が確認されています」
「ほう」
久世は、興味深そうに眉を上げた。だが、その反応もどこか演技じみて見えた。
「それは、興味深いですな。私が担当していた頃には、そこまで具体的な報告はありませんでしたが」
「当時は、どういった経緯で担当されたんですか」
久世は湯呑みを口に運び、しばらく黙っていた。話すかどうかを、天秤にかけているような間だった。
「……ある企業の社長が、失踪した事件がありましてね」
「失踪」
「所謂ご当地企業の社長です。ある晩、姿を消して、二度と見つからなかった。当時は、ただの失踪事件として処理されました。ですが」
「ですが。それだけではなかったと?」
「その地域には、昔からあの伝承がある。物や人が消える。もし境界性の事件だとしたら、警察の捜索では到底手に負えない。それで、裏で我々が動いたんです」
久世は、湯呑みの縁を指でなぞった。
「あの山には、熊も猪もいません。あれだけの森があって、獣の一匹もいない。おかしいと思いませんか。野生動物ですら、あの山には近寄らない。何かを恐れているのかもしれない――当時、私はそう考えていました」
メリーは、その言葉を書き留める手を止めた。
「それで、調査の結果は?」
「これからだ、という時に、打ち切りになりました」
「誰の判断で?」
久世は、ゆっくりと首を横に振った。
「それについては、お答えできません」
「なぜですか?」
久世は、初めてまっすぐにメリーの目を見た。年齢を感じさせない、鋭い視線だった。
「余り老人を虐めないでもらいたいですな。あなたは、他の人間とは少し違う目で、そういうものを見ていらっしゃる。そうでしょう」
メリーは、その言葉に一瞬だけ息を止めた。
人事部の上席以外誰も口にしたことのない指摘だった。
「……何をおっしゃりたいんでしょうか」
「いや、何も。ただの年寄りの勘です」
久世はそう言って、また穏やかな表情に戻った。だが、その目の奥にある鋭さは消えていなかった。
「これ以上は、私の口からは申し上げられません。公安委員会OBといえど、迂闊に口外すれば規定違反になりかねない。それに」
久世は、湯呑みを静かに置いた。
「未来のある方に、規定違反を強要させたなんて汚点を残すわけにはいきませんから」
それが、親切心から出た言葉なのか、それとも体よく話を切り上げるための口実なのか、メリーには判断がつかなかった。ただ、その言葉を最後に、久世が二度と本題に触れなかったことだけは確かだった。
それ以上、何を尋ねても、久世は同じように柔らかく話をかわし続けた。
結局、それ以上の具体的な情報は得られないまま、メリーは久世の家を後にすることになった。
最寄り駅への道を歩きながら、メリーは今しがたの会話を反芻していた。
社長の失踪。熊も猪もいない山。これからだという時の、調査の打ち切り。
そして、あの一瞬の滞り――「大食い鬼の五郎」という名を聞いた瞬間の、わずかな間。
あれは、単なる懐かしさではなかった。
久世は、明らかに核心の近くにいる。だが、それを話す気はない――話せない事情があるのか、話さない選択をしているのか、そこまでは分からなかった。
メリーは、駅のホームで水野に短い報告のメッセージを打った。
久世は何かを知っている。だが、それを話す気はない。
それだけを伝えると、メリーは携帯をしまい、次に向かうべき場所――五郎の伝承が残る村について、頭の中で計画を組み立て始めた。
第4話 宇佐見蓮子の視察①
産業廃棄物処理会社「岡村興産」の本社は、市街地から車で三十分ほど離れた、工業団地の一角にあった。
最寄り駅からは在来線もバスも本数が乏しく、蓮子は駅前からタクシーを使った。狭い山道を縫うように進む車内で、対向車とすれ違うたびに徐行を強いられる場面が何度もあった。
敷地に足を踏み入れると、蓮子の予想よりも整然とした光景が広がっていた。搬入口には清掃の行き届いたトラックが並び、案内板も新しい。少なくとも、外見上は「粗雑な業者」という印象はどこにもない。
「宇佐見さん、でしたね。わざわざお越しいただいて」
応接室に現れたのは、恰幅の良い、日焼けした顔の男だった。歳は五十を少し過ぎたあたりだろう。声が大きく、握手の力も強い。
「岡村です。今日はよろしくお願いします」
「宇佐見です。お時間をいただき、ありがとうございます」
岡村は蓮子を応接用のソファへ案内しながら、人懐こい調子で切り出した。
「いやいや、京都からこんな山奥まで、大変だったでしょう。今日は新幹線で?」
「はい。そこから在来線を乗り継いで参りました」
「そうでしょう、そうでしょう。この辺りは、都会の方からすると不便で仕方ないと思いますが」
岡村は快活に笑いながら、茶を勧めた。
「もしお時間があれば、帰りに駅前の陶器市を覗いていくといいですよ。この辺りは昔、焼き物の里でしてね。今はだいぶ寂れちまいましたが、掘り出し物もまだあります」
「陶器市、ですか」
「あとは、蕎麦。この辺りの蕎麦は、水がいいから美味いんです。駅前に一軒、いい店がありますから」
「機会があれば、伺わせていただきます」
蓮子は当たり障りなく応じながら、内心では、この手の世間話が長引くほど、本題に入るまでの時間が削られることを冷静に計算していた。
「そうそう、これ、つまらないものですが」
岡村は、応接室の脇に置かれていた紙袋を、蓮子の方へ差し出した。中には、地元の菓子折りらしきものが入っている。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。ですが、こちらはお断りさせていただきます」
「いやいや、ほんの気持ちですから。堅いこと言わずに」
「調査を担当する立場として、調査対象の方から金品をお受け取りするわけにはいきません。会社の規定でも、明確に禁じられておりますので」
蓮子は、丁寧だが、揺るぎのない口調で言い切った。
岡村は一瞬、意外そうな顔をしたが、すぐにまたいつもの笑みに戻った。
「なるほど、しっかりしてらっしゃる。いや、失礼しました」
「お気持ちだけ、ありがたく頂戴します」
岡村は紙袋を脇へ戻すと、それを機に、ようやく本題の資料を広げ始めた。
「銀行さんから話は聞いてます。しっかり見ていただきたい」
「新施設の建設予定地は、山間部と伺っていますが」
「そうです。今の施設じゃ、もう手狭でしてね」
岡村は資料のページをめくりながら、身振りを交えて説明を始めた。
「これからの時代、廃棄物処理業も変わらなきゃいけない。ただ処理するだけじゃなく、自然環境と共存する。うちはそれを本気で目指してるんです」
彼が指し示したページには、緑に囲まれた近未来的な施設の完成予想図が描かれていた。太陽光パネル、緑化された屋根、自然エネルギーを利用した処理システム。理念としては、聞こえの良い言葉が並んでいる。
「『自然環境と共存する次世代型処理施設』、ですか」
「その通り。地元の山を守りながら、地域に必要なインフラも維持する。この土地に生まれ育った人間として、恩返しのつもりでやってるんです」
岡村の語り口には、淀みがなかった。何度も繰り返してきた説明なのだろう、言葉の一つ一つに迷いがない。豪快な笑い方も、握手の強さも、初対面の相手に安心感を与えるためのものとして、よくできていた。
だが、蓮子の目は、彼の言葉ではなく、資料の数字を追っていた。
「処理能力について伺いたいのですが」
「はい、なんでも聞いてください」
「事前にいただいた資料によると、現在の施設の稼働率は七割程度となっています。それでも新施設が必要になる、という根拠を伺えますか」
岡村の表情に、一瞬だけ、わずかな硬さが差した。
「……それは、将来的な需要を見越してのことです。この地域だけじゃなく、近隣の自治体からの受け入れも視野に入れていますから」
「近隣自治体との受け入れ契約は、すでに締結されているんですか?」
「いや、それはこれからの話で。ただ、需要はあるはずなんです。今後、この手の施設はどんどん必要になってくる」
「予測値ということですね」
「まあ、そうですね」
岡村は笑顔を崩さなかったが、その笑顔の質が、わずかに変わったのを蓮子は感じ取った。愛想の良さの裏に、何かをはぐらかそうとする気配がある。
「土地の取得についても伺いたいのですが」
「ああ、あの土地ですか」
「もともとは、どういった経緯で取得されたんでしょう」
「……先代から、うちが管理してきた土地でしてね。詳しい経緯は、正直、私もそこまで把握してないんですよ」
岡村は、初めて視線をわずかに逸らした。ほんの一瞬だったが、それまでの淀みない語り口とは明らかに違う反応だった。
「先代というのは、お父様のことですか」
「……ええ。もう、大分前に亡くなりましたが」
岡村の声のトーンが、わずかに低くなった。
「その頃から、うちが持ってた土地なんです。だから、詳しい取得の経緯というのは、正直、書類を見ないと私にも分からない部分がありまして」
「承知しました。後ほど、関連書類を拝見できますか」
「もちろん、もちろん。用意させます」
岡村は、すぐにいつもの調子を取り戻したように、大きな声で笑った。
「宇佐見さんは、なかなか厳しい質問をされる方だ。銀行さんの調査って、こんなに細かいものなんですか」
「案件によります」
「そうですか。まあ、こっちはやましいことは何もないんで、遠慮なく聞いてください」
その言葉と裏腹に、蓮子は先ほどの一瞬の反応を、頭の中に丁寧に書き留めていた。
施設の必要性についての、根拠の薄い説明。
土地取得の経緯について、社長自身が把握していないという不自然さ。
そして、父親の話題が出た瞬間の、わずかな動揺。
どれも単体では、決定的な材料にはならない。だが、蓮子の経験則が、それらを一つの線として繋げ始めていた。
パンフレットの説明が一通り終わったところで、蓮子は資料を閉じ、改めて切り出した。
「理念については、よく分かりました。それとは別に、新施設の実際の設計図面と、建設予定地の地質調査の資料を拝見できますか」
岡村の表情に、わずかな間が生まれた。
「設計図面……ああ、ありますよ。ちょっと待っててください」
岡村は席を立ち、隣室にいる社員に何やら声をかけた。少し長めの間があってから、若い社員が図面のファイルを抱えて戻ってきた。
「お待たせしました。こちらが現在の設計図です」
テーブルに広げられた図面は、パンフレットの完成予想図とは違い、無機質な線と数字だけで構成された、実務的なものだった。処理棟の配置、搬入経路、地質調査のボーリング地点。蓮子はそれを一枚ずつ、丁寧に目で追っていく。
そして、敷地の最も奥まった一角に、蓮子は目を留めた。
処理施設全体の設計の中で、その区画だけが、不自然なほど広く、丁寧に確保されている。しかも、周辺の造成計画からも明確に切り離された形で描かれていた。
「これは、何の区画ですか?」
「ああ、それは……地元の、小さな祠でしてね。昔からある、山の神様を祀ったものだそうで。施設を作るにあたって、そのまま残すことにしたんです」
「祠、ですか」
「地元の人間というか、僕たちの親世代からすると、大事なものらしいので。うちとしても、無下にはできませんから」
岡村はまた、いつもの快活な笑みを浮かべた。だが、蓮子の目には、その祠の区画――処理施設全体の設計の中で、明らかに不釣り合いなほど大きく、丁寧に確保された、最奥の一角――が、強く焼き付いていた。
なぜ、廃棄物処理施設の設計図の中に、これほど丁寧に祠のための区画が残されているのか。
単なる地元への配慮、というだけでは、説明のつかない何かがあるように思えた。
「この図面は、コピーをいただけますか」
「ええ、構いませんよ」
岡村は、あっさりと頷いた。隠す気配はない――むしろ、隠す必要のあるものは、この図面には描かれていない、という余裕すら感じさせる態度だった。
蓮子は図面の中の、搬入経路を示す線に目を留めた。
「搬入経路についても伺いたいのですが。契約先は都市部の企業が中心になる、と資料にありました。この山間部まで、廃棄物をどう運搬する計画なんでしょうか」
「ああ、それは……」
岡村は、初めて言葉を選ぶような間を置いた。
「駅からここまで、タクシーでいらっしゃいましたよね。道、狭かったでしょう」
「ええ、かなり」
「あの道じゃ、大型の搬入車両はとても通せません。ですので、別のルートを整備する計画になってます」
「別のルート、というのは」
「昔、途中まで作って止まってた道があるんですよ。山間部を突っ切って、都市部と直結させる計画だったんですが、財政の都合で頓挫していましてね。あれを、うちの費用で延長・再整備する形にするんです」
「頓挫した道路を、利用する、と」
「そうです。ゼロから道を作るより、既存の計画を活かした方が、コストも工期も抑えられますから」
蓮子は、その説明に相槌を打ちながらも、頭の中では別の疑問が動き始めていた。
都市部から直結する専用道路。山間部を突っ切るルート。
村を経由しない、あるいは村へは降りられない構造の道――もしそうだとしたら、それは「地域のためのインフラ」という説明と、微妙に食い違う。
「その道路は、村の集落も通るんでしょうか」
「いや……村へは、直接は繋がらない設計だったはずです。もともとの計画自体が、都市部と資源地を最短で結ぶ、という目的だったので」
「承知しました。後ほど、その道路計画の資料も拝見できればと思います」
「分かりました。用意させます」
岡村は、また快活な調子に戻って頷いた。だが、蓮子はその返答の中に、もう一つの引っかかりを見つけていた。
村のためのインフラだと言いながら、村には繋がらない道。
これもまた、単体では決定的な材料にはならない。だが、蓮子の中で、いくつもの小さな違和感が、少しずつ一つの輪郭を結び始めていた。
岡村興産本社を後にした蓮子は、車に乗り込みながら、片桐へ短いメッセージを送った。
――違和感あり。詳細は追って報告します。
窓の外を流れていく工業団地の景色を眺めながら、蓮子は、これから調べるべきことのリストを、頭の中で静かに組み立て始めていた。
第6話 宇佐見蓮子の視察②
既存の処理施設は、岡村興産の本社から、さらに車で十五分ほど山側に入った場所にあった。
本社を出る際、現場責任者を名乗る中年の男が、社用車で施設まで送ると申し出た。蓮子はそれに乗り、山側へ向かう道を進んだ。岡村本人は、別件があるとのことで同行していない。
「こちらが、焼却処理棟になります。稼働は問題なく、法定の点検も毎年きちんと通しています」
男は淡々とした口調で、蓮子を施設の中へ案内した。
設備は、蓮子の目にも古びた印象はなかった。焼却炉は定期的にメンテナンスされている様子で、排ガス処理装置も比較的新しいもののように見える。作業員の動きにも、無駄がない。
「稼働率は、資料通り七割程度、ということでよろしいですか」
「はい。繁忙期でも八割を超えることは、ほとんどありません」
「新施設の建設が必要になるほど、今後、受け入れ量が増える見込みがあるということですか」
「そこは、私からは何とも……。経営判断の部分になりますので」
現場責任者は、質問がその領域に触れると、決まって言葉を濁した。悪意があるようには見えなかった。ただ、単純に、経営の意図をこの男自身が把握していないのだろう、と蓮子は感じた。
「では、廃棄物の種類について伺いたいのですが。現在、主にどういったものを受け入れていますか」
「建設系の廃材が中心です。あとは、一般の産業廃棄物ですね」
「新施設では、受け入れる廃棄物の種類は変わるんでしょうか」
「そこも、詳しいことは……。まだ計画段階なので、私の方には具体的な話は下りてきていません」
蓮子は、施設内を一通り見て回りながら、頭の中で数字を組み立て直していた。
既存施設の稼働率は七割前後。繁忙期でも八割に届かない。受け入れる廃棄物の種類も、これといって特殊なものはない。近隣自治体との受け入れ契約も、まだ締結されていない。
この状況で、なぜ、採算の見込みが不透明な山奥に、新たな巨大施設を建てる必要があるのか。「将来的な需要」という説明だけでは、数字が動かない。
「差し支えなければ、稼働記録のデータを、過去数年分いただくことは可能でしょうか」
「それは、本社の方に確認していただければすぐに用意できると思います」
「承知しました」
施設を一通り見終えた後、蓮子は外に出て、敷地全体を見渡した。
整然と管理された既存施設。その先に広がる、緑の濃い山並み。
この施設だけを見れば、岡村興産は堅実な、地に足のついた事業者に見える。だからこそ、新施設計画の不自然さが、余計に際立って見えた。
まるで、既存の事業とは別の理屈で、新施設という計画だけが独立して動いているような。
蓮子は、社用車が停められた場所へ戻りながら、この会社、本当に廃棄物処理をしたいのだろうか、という疑問を、改めて頭の中で反芻した。
もしそうでないとしたら、目的は何なのか。
巨額の融資を引き出し、山奥に施設を建てる。その先に、本当の目的が別にあるとしたら――。
まだ、答えには程遠い。だが、調べれば調べるほど、この案件が「融資審査のための企業調査」という枠に収まらないものになっていく予感を、蓮子は拭えずにいた。
現場責任者が運転する社用車で、蓮子は最寄り駅まで送ってもらうことになった。車が山道を下り始めたところで、蓮子は片桐へ短いメッセージを打った。
――既存施設に大きな問題はなし。ただし、新施設の必要性を裏付ける材料が見当たらない。もう少し掘ります。
メッセージを送り終えると、蓮子はしばらくの間、助手席の窓越しに山並みを眺めていた。
あの山のどこかに、まだ見ていない何かがある。そんな確信めいた予感が、静かに胸の奥で育ち始めていた。
第7話 マエリベリー・ハーンの調査①
村へ向かう電車は、一日に数本しかなかった。
終着駅から先は、村役場が出している乗り合いバスに乗り換える。車内には、メリーの他に数人の高齢者が乗っているだけだった。
バスの窓から見える景色は、山の緑と、ところどころに残る田畑、そして、閉じたままのシャッターが目立つ商店の並びだった。かつて賑わっていたであろう気配だけが、建物の輪郭に残っている。
村役場で簡単な挨拶を済ませたメリーは、地方史の調査という名目で、地元の郷土資料館を訪ねた。
資料館といっても、実態は公民館の一室を間借りしたような、こぢんまりとした施設だった。館長を兼ねているという老人が、快く迎え入れてくれる。
「五郎の話でしたら、うちの婆さんに聞くのが一番でしょうな。あの人は、この村で一番の物知りですから」
紹介された老婆――竹田タキという名の女性は、資料館の隣にある小さな家で一人暮らしをしていた。
「五郎かい。懐かしい名前だねぇ」
タキは、お茶を淹れながら、ゆっくりとした口調で語り始めた。
「私が子供の頃は、悪さをすると、五郎に食われるよって、よく脅かされたもんですよ。山に置いていかれるぞ、って」
「昔から、そういう言い伝えがあったんですね」
「そうそう。罪を犯した人間の手足を縛って、山に置き去りにしたなんて昔話も聞くしね。あとは、飢饉の時分に、歩けなくなった年寄りを、山に置いていったとか」
タキは、遠い記憶をたどるように、視線を宙に漂わせた。
「あんまり、良い話じゃないですよ。捨てられる方からすれば」
「他には、どんな話がありますか?」
「陶器の話も、有名ですね。この辺りは、昔は焼き物の里でしてね」
タキの声に、少しだけ張りが戻った。
「失敗した器やら、割れた器やらを、山に持っていって捨てる習わしがあったんです。五郎が食べてくれるから、蔵が綺麗になるって。今でいうリサイクル、なんてものじゃないですけどね」
「その陶芸は、今も続いているんですか」
メリーの問いに、タキは小さくため息をついた。
「今じゃ、窯を動かしてる家は、片手で数えるほどですよ。昔は、村中どこの家からも、煙が上がってたもんですけどねぇ」
タキは、窓の外に目をやった。
「みんな、麓の街に出て行っちまってね。若い人は、そもそも村には残らない。この村が、あと何年もつか」
その一言には、単なる懐古の情ではない、静かな諦めのようなものが滲んでいた。
「不安、ですか」
「不安っていうか……もう、覚悟はしてるんですよ。この村がなくなること自体は、仕方がないのかもしれない、って」
タキは湯呑みを両手で包みながら、続けた。
「ただね、どうせなら、みんなでまとまって、何か一つのことをやって、それで食べていけるようになれば、それが一番いいと思ってるんです。リゾートだろうが、なんだろうが」
「リゾート、というのは?」
「ああ、京都の方の会社が、なんか計画を持ってきてるって話、聞いたことないかい。山を切り開いて、ホテルだか温泉だか作るとかって」
「初耳です」
「まあ、噂程度の話ですけどね。産廃屋さんの新しい施設の話もあるし。どっちが来ても、私はどうでもいいですよ。この村がもう少し長く続くなら、それで」
タキの言葉には、感傷も、期待も、どちらもさほど強くはなかった。ただ、目の前の現実を、淡々と受け入れているだけの口調だった。
メリーは、その温度感を静かに受け止めながら、次の質問に移った。
「五郎の伝承について、他に何かご存知のことはありますか。例えば、山そのものに関する話とか」
「山そのもの……」
タキは、少し考え込んでから、声を落とした。
「これは、あまり大きな声じゃ言えない話なんだけどね」
「はい」
「昔――もっとずっと昔の話ですよ――あの山には、生まれつき体の弱い赤ん坊を、置いていったこともあったって、私が子供の頃、祖母から聞いたことがあります」
メリーは、その言葉に、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「本当かどうかは分かりませんよ。ただの言い伝えかもしれない。でも、そういう話が残ってるってことは……あの山は、昔から、村にとって『捨てる場所』だったんでしょうねぇ」
「物だけじゃなく」
「ええ。人も」
タキは、湯呑みを置いた。
「五郎が食べてくれるから――なんて言い方をするとね、聞こえはいいんですよ。でも、要するに、村では処理できないものを、全部あの山に押し付けてきた、ってことなんじゃないかと、私は思いますけどね」
メリーは、資料館で借りた古い地誌の写しに目を落とした。江戸期の記録らしき断片には、「山に納める」「山へ返す」といった言葉が、繰り返し現れている。
物を捨てる場所、というだけでは説明のつかない、もっと根の深い何か。
この山は、村が長い年月をかけて、目を背けたいものを押し込んできた場所なのだ。
そして――現代になっても、その「消える」という現象そのものは、変わらず続いている。
メリーは、タキに丁寧に礼を述べ、資料館を後にした。
電車の時間まで少し余裕があったため、メリーは役場に立ち寄り、地方史調査の追加資料はないかと総務課の窓口を訪ねた。
「五郎の話ですか。ああ、懐かしいな。年寄りから聞いたことがありますよ」
応対した職員は、まだ三十代半ばだろうか、人の好さそうな顔で笑った。
「私が知ってるのは、もっと最近の話なんですけどね」
「最近の話、ですか?」
「近所の叔父さんが、まだ若い頃、親に内緒でバイクを買ったことがあったらしいんです。当時は親が厳しくて言えなかったって」
職員は、書類の整理をしながら、思い出話のように続けた。
「それで、置き場所に困って、ひとまず山の入り口に隠しておいたそうなんです。一晩だけ、誰にも見つからないように」
「それで、どうなったんですか」
「翌朝行ったら、なくなってたそうです。最初は盗まれたと思って、青くなったらしいんですけど――でも、考えてみたら、おかしいんですよ。あの山、村の人間以外はまず入りませんし、盗んだバイクを隠す場所なんて、この辺りにはどこにもない。すぐに噂になるはずなんです」
「見つからなかった?」
「ええ。結局、今でも見つかっていません。叔父さん本人は、五郎に食われちまったんだ、って笑って話してましたけどね」
職員は、少し声のトーンを落とした。
「似たような話は、他にもぽつぽつ聞きますよ。農具を置き忘れたら消えてた、とか、漁の道具を山際に置いておいたら朝にはなかった、とか」
「最近のものだと、どういった話がありますか?」
「一番新しいのは……そうですね、半年くらい前だったかな。配信をやってる若い子が、村に来たことがあったんです」
「配信、というのは」
「動画配信です。五郎の噂を聞きつけて、面白半分で、ぬいぐるみを山に置いて、一晩様子を見る、みたいな企画をやったらしくて」
「それで?」
「翌朝、本当に消えてたそうです。本人は本気で驚いて、そのまま配信で報告したらしいんですが……当然、誰も信じませんよね。ヤラセだ、仕込みだって、随分叩かれたと聞きました」
職員は、少し困ったように笑った。
「本人は、それきり村には来てないみたいですけどね。気の毒な話です」
メリーは、その話に静かに耳を傾けながら、内心では別のことを考えていた。
水野が渡した資料の中に記されていた「境界性の疑いあり」という一文――その発端は、この配信者の一件だったのかもしれない。世間からは誹謗中傷を浴びて終わった出来事の裏で、公安だけが、その現象の異質さに気づいていた。
「他にも、何か……大きな出来事のようなものは、ありましたか」
メリーが尋ねると、職員はふと表情を曇らせた。
「大きな出来事というと……岡村さんとこの、先代の社長さんの話かな」
「岡村さん?」
「この地域の産廃屋さんですよ。今の社長さんのお父さんが、昔、山菜を採りに山へ入って、それきり帰ってこなかったことが。もうずいぶん前の話ですけど」
メリーは、内心で小さく息を呑んだ。
久世が語っていた「ある企業の社長の失踪事件」――あれは、この話のことだったのだ。裏で公安が動いていた、これからだという時に打ち切りになった、と久世は言っていた。目の前の職員が語るのは、その事件の、村側から見た顔だった。
「捜索は?」
「もちろん、大がかりにやりましたよ。警察も消防も出て。ただ、結局、何も見つからなかった。遭難したのか、事故に遭ったのか……正式には、そういうことになってます」
職員は、少し声を落とした。
「ただ、村の年寄りたちの間じゃ、違う言い方をする人もいますね。あの人は、山に呼ばれたんだ、って」
「呼ばれた、というのは?」
「さあ。私も、それ以上のことは分かりません。ただの言い伝えでしょう、たぶん」
職員はそう言って、話を切り上げるように書類へ視線を戻した。
メリーの中で、久世の言葉が改めて重みを増していた。熊も猪もいない山。これからだという時の、調査の打ち切り。あの時は輪郭のつかめなかった話が、村という具体的な土地と、具体的な一人の人間の不在に結びついた瞬間だった。
誰が、なぜ、あの調査を止めさせたのか。久世は、それについては答えられないと言った。だが、この村に来て、こうして同じ事件の別の面を聞くことになるとは、メリー自身も予想していなかった。
メリーは礼を述べて役場を後にしながら、頭の中でいくつもの証言を並べ直していた。
バイク。農具。漁具。ぬいぐるみ。そして、人間。
物から人へ、規模も時代も異なる出来事が、すべて同じ山の同じ現象へと収束していく。
駅へ向かう道すがら、空き家になった窯元の前を通り過ぎる。崩れかけた煙突と、雑草に覆われた作業場が、かつての活気を静かに物語っていた。
メリーは、山の稜線を遠くに見ながら、これから自分が向き合うことになるものの輪郭を、少しずつ思い描き始めていた。
第8話 マエリベリー・ハーンの調査②
村からの帰りの電車の中で、メリーはノートパソコンを開いた。
情報を時系列順に整理する前に、報告書の冒頭には、事務的な一文を書き加えておく必要があった。
――山林所有者(岡村興産)に対し、現地立ち入りの許可を打診したが、「地質調査が継続中のため、関係者以外の立ち入りを禁止している」との回答があり、許可は得られなかった。
正規の手続きを踏んで申請したにもかかわらず、あっさりと断られた。理由自体は、事業者の対応として、特段不自然というわけではない。地質調査中の立ち入り制限は、どこの現場でも珍しいことではないからだ。
だが、メリーの中には、小さな引っかかりが残っていた。
地元の民間伝承を調べたいという、あくまで穏当な申し出に対して、一切の交渉の余地を残さない、きっぱりとした拒絶だった。まるで、理由を並べる必要すら感じていないかのような対応だった。
その一文を書き終えると、メリーは改めて、これまでに集めた情報を時系列順に整理し始めた。
窓の外を流れる夕暮れの山並みを横目に、指先がキーボードの上を静かに動く。
まず、最も古い記録。江戸期の地誌に残る、「山に納める」「山へ返す」という表現。当時、この一帯では、罪を犯した者を山へ置き去りにする慣習があったとされている。処刑ではなく、放逐。その先に何が待っているかについては、記録は多くを語らない。
次に、飢饉の時代。歩けなくなった高齢者を、家族が山へ連れていったという話。これも、直接的な表現は避けられているが、竹田タキの語った内容と一致する。
さらに、生まれつき体の弱い赤ん坊を山へ置いていったという伝聞。これは記録としては残っていない。あくまで、口伝えに伝わってきた話だ。それだけに、当時の村にとって、どれほど触れにくい記憶であったかが窺える。
時代が下ると、伝承の性質が変わる。
陶芸が村の主産業になって以降、山は「失敗作を捨てる場所」として利用されるようになった。人を捨てる場所から、物を捨てる場所へ。表向きの意味合いは変化しているが、根底にある構造――村にとって処理しきれないものを、あの山へ押し付ける、という構造そのものは、変わっていない。
そして現代。
メリーは、役場の職員から聞いた証言をリストアップしていく。
バイクの一件。農具、漁具の消失。半年前の配信者の事案。そして、岡村興産の先代社長の失踪。
時代も規模もばらばらな出来事だが、共通する条件が一つだけある。
「山に置いて、一晩を過ごすと、消えている」
この一点においてだけ、すべての証言が揃っている。
メリーは、キーボードを打つ手を止めて、画面に映る箇条書きのリストを見つめた。
もう一つ、確認しておかなければならないことがある。
消えたものは、戻ってくるのか。
メリーは、これまでに集めた証言を、改めて一つずつ確認し直した。
竹田タキの語った、赤ん坊の伝承。
役場職員の語った、バイクの話、先代社長の失踪。
配信者が置いたぬいぐるみ。
どの証言にも、共通する一点があった。
一度消えたものが、後になって見つかった、戻ってきた、という話は、一件も存在しない。
メリーは、その事実を、報告書の草案に、一文だけ書き加えた。
――消失した対象が再出現した事例は、現時点で一件も確認されていない。
この一文の重みを、メリーは十分に理解していた。
もしこれが、単なる保管場所の移動や、一時的な異空間への転移のようなものであれば、いずれ何かが戻ってくる可能性がある。だが、そうした事例が皆無であるということは、この現象が、単なる「移動」ではないことを示唆している。
消える、という言葉の意味を、この山では、もっと重く受け止めなければならない。
メリーは、電車の窓に映る自分の顔を、ぼんやりと見つめた。
学生時代、蓮子と共に追いかけていた怪異の多くは、突き詰めれば「説明できる余地」を残していた。境界の揺らぎ、異空間との接触、時間のずれ――それらは、理解の枠組みを広げれば、いずれ説明のつく現象として扱うことができた。
だが、この五郎という現象には、そうした余地が、今のところ見当たらない。
消えたものが、二度と戻らない。
それは、単なる「不思議な現象」というより、もっと根源的な、何かの意思を感じさせる出来事だった。
村の人々が、長い年月をかけて、この現象に「大食い鬼の五郎」という名前と人格を与えてきたのも、無理はないのかもしれない。説明のつかないものに、せめて名前だけでも与えることで、人はそれを少しだけ理解可能なものに変えようとする。
鬼という形を与えられた、名前のない何か。
それが、この山に確かに存在している。
メリーは、報告書の続きを書きながら、同時に、もう一つの疑問を頭の奥に留めていた。
なぜ、地元選出の議員――黒田は、この山を、これほどまでに気にかけているのか。
伝承を守りたいだけの、単純な地元愛なのか。それとも、もっと別の理由があるのか。
電車が、都市部へ向けて速度を上げていく。
窓の外の山並みが、少しずつ夜の闇に沈んでいくのを、メリーは静かに見送った。
第9話 環境副大臣ヒアリング
村から戻って数日、メリーは黒田副大臣への面会調整に追われていた。
国会が会期中であることもあり、副大臣本人のスケジュールを押さえるだけでも一苦労だった。水野が各方面に頭を下げ、ようやく取り付けたのは、議員会館の一室での、二十分間という短い面談だった。
「先生、お忙しいところ恐れ入ります」
佐伯という秘書に案内され、メリーが応接室に通されると、程なくして黒田が姿を現した。
五十代前半、恰幅のいい、いかにも地方選出の政治家然とした男だった。その表情には、あからさまな不機嫌さが滲んでいた。
「会期中だぞ、こちらは。よっぽどな用事なんだろうな!」
「お時間をいただき、感謝しております」
「まったく、こういうのは大抵、後回しにされるものなんだがね」
黒田はソファに深く腰を下ろすと、腕を組んだ。
「それで、何の用件だ」
「先生の地元、あの一帯の自然環境保護に関しまして、意見を伺いたく参りました。貴重な自然環境と、それと共存する地域社会のあり方について、環境副大臣としてのお考えをお聞かせいただければと」
その名目に、黒田はわずかに眉を上げたが、露骨な反発は見せなかった。行政上、筋の通った要件である以上、頭ごなしに断るわけにはいかない。
「まあ、それなら分からんでもない。あの地域の自然は、私も誇りに思っているからね」
「先生。あの、五郎伝説というのは先生が小さい頃にもあったのですか?」
黒田の表情が、一瞬だけ止まった。
「……五郎?」
「はい。地元に伝わる、山にまつわる民間伝承だと伺っております」
黒田は、小さく鼻で笑った。
「年寄りたちのくだらない言い伝えだよ。私達の親世代までは信じていたのかもしれないがね」
その口調には、余裕を装おうとする響きがあった。だが、メリーの目には、笑みの下にわずかな硬さが見えた。
「今でも、地元の方々の間では語り継がれているようですが」
「さあ、どうだろう。私は、もうそんな話には興味がない」
「先生ご自身は、子供の頃、あの山に立ち入られたことは?」
「――内閣府の職員からヒアリングがあると聞いたから何かと思えば、こんな下らない質問がくるのであれば帰らせていただくよ!」
黒田が、急に声を荒らげた。佐伯が、わずかに肩を強張らせるのが見えた。
メリーは、表情を変えずに、静かに言葉を継いだ。
「失礼いたしました。環境保全に、地域の民間信仰や伝承が含まれているのかと思いまして。純粋にあの地域に稀有な生物や生態系があるのでしょうか?」
その言い方に、黒田の態度がわずかに軟化した。伝承そのものへの興味ではなく、行政的な文脈での質問だと示したことで、彼の中の警戒が少しだけ緩んだように見えた。
「ま、まあ、そうだな。確かにそういう伝承も保護すべき対象だとは考えているが、あの地域の自然は素晴らしいものだよ」
黒田は、咳払いを一つしてから、また調子を取り戻した。
「最近の若い官僚は、ヒアリングだけで済まそうとする。君も、実際に足を運んで、あの地域の自然を体感してみると良い」
「先生のおっしゃる通りかと存じます。会期が終わりましたら、ぜひ現地に伺わせていただきます」
メリーは、静かにそう返した。
黒田は、一瞬、その言葉の意味を測りかねるような顔をした。純粋な同意なのか、それとも別の含みがあるのか――判断がつかない、という表情だった。
「……そうか。それならいい」
黒田は短く言うと、腕時計に目をやった。
「もう時間だ。これで終いにしてもらえるかな」
「お時間をいただき、ありがとうございました」
メリーは丁寧に頭を下げ、応接室を後にした。
五郎という名前を出した瞬間の、あの一瞬の停止。
「くだらない言い伝え」と切り捨てながらも、質問が具体的になるにつれて、明らかに苛立ちを強めていった態度。地元愛というだけで説明するには、少し反応が過敏すぎる。
とはいえ、それが即座に何かを意味するとまでは、まだ言い切れない。地元選出の政治家が、自分の選挙区の伝承について不用意な発言をしたくない、という単純な自己防衛の反応である可能性も、十分にある。
メリーは、今日のところは、それ以上の判断を保留することにした。
ただ一つ、確かなことがある。
黒田は、少なくとも、あの山について、誰かに深入りしてほしくないと思っている。
その一点だけは、間違いなかった。
面談を終えたメリーを、議員会館の玄関先まで見送ったのは、秘書の佐伯だった。
三十代半ば、黒田の公設秘書としては長く、地元との折衝や省庁とのやり取りを一手に引き受けている人物だと、水野から事前に聞かされていた。
「本日は、お時間をいただきありがとうございました」
メリーが頭を下げると、佐伯は少し困ったような笑みを浮かべた。
「いえ……先生が、失礼な態度を取ってしまって、申し訳ありません」
「いえ、お気になさらず」
「先生は、あの地域のことになると、少し感情的になるところがありまして」
佐伯は、エレベーターまでの短い廊下を歩きながら、そう付け加えた。世間話のつもりだったのか、それとも、何かを取り繕うつもりだったのか、メリーには判断がつかなかった。
「先生は、地元への思い入れが、特に強い方なんですか」
「そうですね。あの地域の出身であることを、ずっと誇りにされている方ですから。特に、あの山については……」
佐伯は、そこで一瞬、言葉を止めた。
「あの山については?」
「いえ。何と言いますか、少し過敏なところがあるな、と感じることは、正直、時々あります」
佐伯は、慎重に言葉を選びながら続けた。
「地元の陳情や、開発の話が絡む案件では、大抵、先生は現実的な判断をされる方なんです。多少の妥協も、必要であれば受け入れる。ですが、あの山に関する話になると……妥協という選択肢自体が、最初からないように見えることがあります」
「具体的には?」
「例えば、以前、別の企業から、あの一帯の開発について打診があった時も、先生は取り合おうともされませんでした。普段なら、話だけでも聞く方なんですが」
佐伯は、そこまで言ってから、我に返ったように口をつぐんだ。
「……すみません。あまり、こういう話をするべきではありませんね」
「いえ、参考になります」
「先生の名誉のために申し上げておきますと、あの地域を大切にしていること自体は、本物だと思います。ただ、その大切にし方が……少し、普通ではない、というだけで」
佐伯の声には、皮肉というより、戸惑いに近い響きがあった。長年、間近で仕えてきた人物の、理解しきれない一面に対する、率直な困惑。
エレベーターの前まで来たところで、メリーはふと、思いついたように尋ねた。
「先生は、『五郎』という名前を聞いて、特に反応を示されました。何か、ご存知でしょうか」
佐伯の表情が、わずかに硬くなった。
「五郎……ああ、その名前は、私も一度だけ、聞いたことがあります」
「どういった場面でですか」
「随分前、地元の会合の後、先生が誰かと電話で話しているのを、偶然、耳にしたことがあって。その時に、その名前が出ていたんです」
「お相手は」
「分かりません。ただ、いつもの先生とは、明らかに違う声でした。何と言うか……怯えているような」
佐伯は、そこまで言ってから、慌てたように付け加えた。
「いえ、これは、あくまで私の印象です。聞き間違いかもしれませんし、大した話ではないのかもしれません」
「その電話の相手について、心当たりは」
「ありません。ただ……」
佐伯は、少し声を落とした。
「先生と同郷の、産廃会社の社長さんとは、昔からのお付き合いがあるようです。もしかしたら、その方かもしれません。あくまで、想像ですが」
エレベーターの扉が開いた。佐伯は、それを機に、話を切り上げるように表情を戻した。
「今日のところは、これで失礼いたします。何かありましたら、いつでもご連絡ください」
「ありがとうございました」
メリーはエレベーターに乗り込みながら、佐伯の最後の表情を、記憶に留めた。
彼はおそらく、本当に、断片的な違和感を積み重ねているだけなのだろう。だが、その断片は、メリー自身がすでに持っている情報と、静かに重なり合い始めていた。
五郎という名前への異常な反応。同郷の産廃会社社長。
扉が閉まる直前、佐伯が小さく一礼するのが見えた。
その姿には、忠実な秘書としての礼儀正しさと、拭いきれない不安の色が、同時ににじんでいた。
第10話 怖い話
建設予定地の視察から数日、蓮子は会社のデスクで、集めた資料を一つの時系列表にまとめ直す作業を続けていた。
「宇佐見主任、まだそれ、やってるんですか」
高橋美咲が、通りすがりに声をかけた。デスクの上には、登記簿の写しや、議事録の抜粋、地価公示のデータが、几帳面に並べられている。
「気になることがあってね」
「気になることって?」
「岡村社長と、黒田副大臣の関係」
蓮子は、画面に表示された相関図を、美咲の方に向けた。
「二人とも、あの村の出身なの。年齢もほぼ同じ。学校の卒業アルバムまでは追えなかったけど、地元の商工会の古い名簿に、二人揃って名前が載っている年がある」
「同郷なだけなら、別に不思議じゃないですよね」
「それだけなら、そうね」
蓮子は、別のファイルを開いた。
「問題は、こっち」
画面に表示されたのは、あの一帯の土地の、過去二十年分の登記情報と、地価の推移だった。
「この土地、名義が何度か変わってる。表向きは、地元の不動産管理会社を経由した、ごく普通の取引に見える。でも、その管理会社の役員名簿を辿ると――」
「黒田議員の、遠縁の人間が名を連ねている」
「そう。しかも、一度や二度じゃない。この二十年間、名義変更や用途区分の見直しのたびに、必ずと言っていいほど、黒田副大臣に近い人間が関わっている」
美咲は、画面を覗き込みながら、小さく息をのんだ。
「これ、結構前からってことですよね」
「国会議員になる前から」
蓮子は、資料の一枚を指し示した。
「黒田議員が国政に出たのは十五年前。でも、この土地の名義や用途区分をめぐる不自然な動きは、それより前から始まってる。最初は地味な手口だった。用途区分の運用を、少しずつ有利な方向に変えていくような」
「じゃあ、副大臣になってからは」
「派手になった」
蓮子は、直近数年分の環境アセスメント関連の文書を並べた。
「環境副大臣に就任してから、この土地を含む一帯が、複数回にわたって『保護区域候補』としての調査対象に挙がっている。表向きは、自然環境の保護という、誰も文句のつけようがない理由。でも、その調査対象の選定に、黒田副大臣本人の意向が強く反映されている形跡がある」
「権限が大きくなった分、堂々とやれるようになった、ってことですか」
「そういうこと。若い頃は目立たない範囲でこそこそやっていたことが、今は、もっと正当な手段で、もっと大規模にできるようになった」
蓮子は、椅子の背もたれに体を預けながら、小さく息を吐いた。
「一貫してるのよ、この人。何年もかけて、ずっと同じ土地に執着し続けてる」
「なんでですかね、そんなに」
「それが分からないから、調べてるの」
蓮子は、さらに別のファイルを開いた。今度は、京都の大手デベロッパーによるリゾート開発計画に関する報道記事と、地元自治体への申請書類の写しだった。
「もう一つ、気になる時系列がある」
「リゾート開発の話ですか」
「そう。この計画が地元に持ち込まれたのが、およそ一年前。そして、産廃会社の新施設計画が急に具体化し始めたのが、その直後」
「対抗して、急いだ、ってことですかね」
「可能性としては、十分にある」
蓮子は、二つの時系列を並べた画面を、じっと見つめた。
「もし、この土地に、何か表に出せない事情があるなら――他人の資本が入ってきて、地質調査だの造成だのが始まることは、その事情にとって、都合が悪いはずよ」
「それで、慌てて自分たちで押さえにかかった」
「今のところは、推測にすぎないけどね」
蓮子は、画面を閉じながら、小さく呟いた。
「でも、この土地に、これだけの執着を持ち続ける理由が、単なる地元愛や、事業上の合理性だけだとは、もう思えない」
「あの……これって、犯罪なんですか?」
美咲が、思い切ったように尋ねた。
「土地の名義がどうとか、環境アセスがどうとか、聞いてると、なんだかすごく悪いことをしてるように聞こえるんですけど」
「実際のところ、って聞かれると、難しいところね」
蓮子は、椅子に座り直しながら、指を折るように整理し始めた。
「議員の身内が不動産関連の会社に関わってること自体は、違法じゃない。用途区分の運用を、多少有利な方向に働きかけること自体も、グレーではあっても、それだけで立件できるようなものじゃない」
「じゃあ、セーフなんですか」
「問題は、行政権限を、私的な目的のために意図的に歪めて使っていた場合。環境アセスの対象選定に、議員個人の利害が反映されていたことが、はっきり証明できれば、職権濫用とか、背任に近い話になってくる。銀行への融資審査で、虚偽の事業計画を使っていたことが分かれば、それは詐欺よ」
「証明できれば、ってことは」
「今持ってる材料だけだと、まだ状況証拠の域を出ない。土地の動き、時系列、関係者の重なり――どれも、偶然や、単なる地元の結びつきだと言い張られたら、それまでのものばかり」
蓮子は、画面に表示された相関図を、もう一度見つめた。
「でも」
「でも?」
「これだけの偶然が、二十年近く積み重なることは、普通、ない。何かを隠すために、意図的に積み上げられたものだと、私は思ってる」
「思ってる、だけじゃ、証拠にはならないですよね」
「ならない。だから、調べてる」
蓮子は、静かに、しかしはっきりとそう言い切った。
美咲は、しばらく黙って画面を見つめていたが、やがて、ぽつりと言った。
「なんか、怖い話になってきましたね」
その日の夕方、蓮子は片桐に、これまでの調査結果をまとめた報告書の草案を提出した。
黒田議員と岡村社長の同郷関係。長年にわたる、一貫した地価・土地利用への関与。そして、リゾート開発計画の浮上と、産廃施設計画の急な具体化という、不自然な時系列の一致。
片桐は、報告書に目を通しながら、眉間に深い皺を刻んだ。
「宇佐見、これは……」
「まだ、確定的なことは何も言えません。でも、この線は、追う価値があると思います」
「分かってる。だが、この先は、下手に動くと、厄介なところに触れることになるぞ」
片桐の言葉には、いつもの忠告とは違う、静かな重みがあった。
蓮子は、その重みを受け止めながらも、答えは変えなかった。
「調べます」
窓の外は、すでに日が暮れかけていた。
蓮子のデスクの照明だけが、その日もまた、消える気配を見せなかった。
第11話 圧力
報告書の草案を片桐に提出してから、三日後のことだった。
「宇佐見、ちょっと来てくれ」
片桐に呼ばれ、蓮子は会議室に向かった。すでに片桐の表情は、いつもの飄々とした様子とは違う、硬いものになっていた。
「地方銀行から、連絡があった」
「融資の件ですか」
「今回の調査、この辺りで一旦区切りにしてほしい、と」
片桐は、テーブルに一枚のメモを置いた。銀行側からの正式な連絡内容を、簡潔にまとめたものだった。
「融資部長からの話だと、『事業性の評価としては、これまでの調査で十分な材料が揃っている』ということらしい」
「十分、というのは、誰の基準ですか」
「銀行の基準だ」
片桐は、短くそう答えた。
「向こうの言い分としては、既存事業の堅実性、担保となる資産、これまでの取引実績――そういった数字の面では、融資判断に足る材料は揃っている、と」
「土地取得の経緯や、専用道路計画の不自然さについては」
「触れていない」
蓮子は、その返答に、静かな違和感を覚えた。
最初にヒアリングをした時、あの融資部長は、明らかに岡村興産を応援したいという気持ちを隠していなかった。だが同時に、蓮子の「結論は調べてみないと分からない」という言葉にも、渋々ながら頷いていた。
それが今になって、都合の悪い部分にだけ蓋をするような形で、調査を打ち切ろうとしている。
「圧力があった、ということですか」
「断定はできない。だが、タイミングを考えれば、そう疑うのが自然だろうな」
片桐は、腕を組んだ。
「お前が黒田議員との繋がりを報告書に書いた、その直後にこれだ」
「会社にも、何か言われましたか」
「上からは、まだ具体的な指示は下りていない。だが、担当役員のところに、環境省……というか黒田副大臣から何かしらのアクションがあったと部長が血相を変えていたよ」
片桐の口調には、いつもの軽さがなかった。
「宇佐見、正直に言う。この先、深入りすればするほど、お前だけの問題じゃなくなる。会社全体が、面倒な立場に立たされる可能性がある」
「分かっています」
「分かってるなら、少し大人しくしてろ」
「それとこれとは、別です」
蓮子は、はっきりとそう答えた。
「調査の依頼を受けた以上、正確な報告をするのが、私たちの仕事です。都合の悪い事実を見なかったことにするのは、コンサル企業としての存在意義に関わります」
そこまで言ってから、蓮子は、ふと口の端を上げた。
「それに――謎は、解き明かすためにあるものです。誰かが人為的に隠そうとしているものがあるなら、なおさら」
「……今、なんか、変なスイッチ入らなかったか」
片桐が、怪訝そうな顔をした。
「気のせいです」
蓮子は、すぐに表情を戻したが、片桐は、その一瞬の光を見逃さなかった。長年、この部下を見てきた者だけが気づく、危うい輝きだった。
「その顔、前にもどこかで見たな。どっかの企業の不正会計の——」
「気のせいです」
蓮子は、もう一度、同じ言葉を繰り返した。だが、その口調には、隠しきれない張りがあった。
「まあいい。我が社の存在義務という点ではその通りだ。だが、それを言うだけの覚悟が、お前にあるのか、って話をしてる」
片桐は、まっすぐに蓮子を見た。
「相手は現職の環境副大臣だぞ。しかも、地方銀行まで巻き込んでる。お前一人の正義感で押し通せる相手じゃない」
蓮子は、その言葉を、しばらく黙って受け止めた。
片桐の忠告に、悪意はない。むしろ、蓮子のことを本気で案じているからこその言葉だということは、蓮子自身、よく分かっていた。
「課長は、今回の案件、私に降りろとおっしゃりたいんですか」
「そこまでは言ってない」
片桐は、深いため息をついた。
「ただ、これ以上進めるなら、お前一人の判断じゃなく、会社としての判断も絡めて動く必要がある、ということだ。単独で突っ走るな、という話だ」
「承知しました」
蓮子は、素直にそう答えた。だが、その目には、引き下がる気配は微塵もなかった。
「調査自体は、続けます。ただし、報告のタイミングや、社内での取り扱いについては、課長の判断に従います」
「……お前がそう言うと、なんだか逆に不安になるな」
片桐は、苦笑いを浮かべた。
会議室を出た後、蓮子は自分のデスクに戻り、これまでの資料を、改めて見直し始めた。
恐らく黒田副大臣が調査を打ち切りたがっている。
その事実自体が、蓮子にとっては、一つの重要な情報だった。
やましいことが本当に何もないのなら、調査を続けさせても、困ることはないはずだ。それでも打ち切りを求めてくるということは、これ以上調べられては困る何かが、確かに存在する。
蓮子は、キーボードに指を置いた。
黒田副大臣が守ろうとしているものが何なのか。それを突き止めることもまた、この調査の一部だ。
「っしゃあ、やってやりますか」
蓮子は、小さく、しかしはっきりと呟いた。
「主任、らしくないですね」
いつの間にか隣に来ていた美咲が、くすりと笑いながら言った。
「聞こえてた?」
「バッチリです。なんか、テンション上がってません?」
「気のせいよ」
蓮子は、素っ気なくそう返しながら、画面に向き直った。だが、その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
窓の外では、夕方の空が、薄い橙色に染まり始めていた。
蓮子のデスクの照明は、その日もまた、消える気配を見せなかった。
第12話 公安委員会への圧力
黒田副大臣へのヒアリングから一週間ほど経った頃、水野がメリーのデスクにやってきた。
その表情には、いつもの飄々とした調子がなかった。
「ハーンさん、少し話がある」
メリーが席を立つと、水野は人目を避けるように、フロアの隅にある小会議室へ向かった。
「例の件、上から待ったがかかった」
「五郎の調査、ですか」
「ああ」
水野は、椅子に腰を下ろしながら、疲れたように息を吐いた。
「議員会館経由で、内閣府の上層部に苦情が入った。『地方伝承の調査という名目で、特定の政治家の政治活動を妨害している』と」
「妨害、というのは」
「先方の言い分としては、環境副大臣としての公務に支障をきたすほど、しつこくヒアリングを申し込んでいる、ということらしい」
「一度、二十分ほどお話を伺っただけですが」
「分かってる。だが、向こうがそう主張してる以上、こちらとしても、無視はできない」
水野は、テーブルに置いた書類を、メリーの方へ滑らせた。
「今回の案件、一旦、調査を終了しろという指示だ」
メリーは、その書類に目を通した。事務的な文言で、これまでの調査結果を簡潔にまとめ、案件をクローズするよう求める内容だった。
「境界性の疑いがある、という当初の判断は、どうなるんですか」
「現時点では、確定的な証拠に乏しい、という扱いになる。伝承の域を出ない、という結論で処理しろ、ということだ」
「消失事案そのものは、確認されています」
「ああ。だが、それが境界性のものなのか、単なる人為的な事象なのか、断定できていない。上は、その曖昧さを理由にしている」
水野は、そこで一度言葉を切り、メリーの目をまっすぐ見た。
「正直に言う。俺は、この指示に納得してない」
「でしたら——」
「だが、俺一人の判断で、この指示を無視するわけにもいかない。組織として、上からの指示には、それなりの重みがある」
メリーは、書類を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「一つ、伺ってもいいですか」
「なんだ」
「この指示は、本当に、公安委員会上層部の判断ですか。それとも、もっと別の場所から来たものですか」
水野は、その質問に、わずかに眉をひそめた。
「……分からん。少なくとも、俺のところまで降りてくる過程で、いくつかの部署を経由している」
「黒田副大臣本人の意向、ということも」
「いや」
水野は、首を横に振った。
「一人の副大臣に、公安委員会の内部判断にまで口を出すだけの権限があるとは、俺には思えない。もっと上、あるいは、もっと別のところから、話が来ている気がする」
「別のところ、というのは」
「分からん。正直、俺の見えるところより、もう一段上だ」
水野は、そこで一度言葉を切り、メリーの目をまっすぐ見た。
「ただ、はっきり言っておく。上には、ちゃんと『調査は打ち切らせた』と報告を上げておく」
「それは」
「その上で、だ」
水野は、声を落とした。
「ハーンさんは、このまま調査を進めてくれ」
「……いいんですか」
「良くはない。だが、お前の肌感だと、五郎の正体は人間じゃないんだろう?」
メリーは、その問いに、小さく頷いた。
「それに対処するのが、俺たちの仕事だ。政治の都合で、境界の事案そのものにまで蓋をされるのは、俺は違うと思ってる」
水野は、腕を組んだ。
「ただし、派手に動くなよ。表向きは、あくまで案件終了だ。誰の目にも留まらないように、静かに進めろ」
「分かりました」
「それと」
水野は、少し声のトーンを和らげた。
「気をつけろよ。相手が人間じゃないにしても、その人間じゃないものを利用しようとしている人間が、確実にいる」
メリーは、その言葉を、静かに受け止めた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。俺は、表向きの仕事をこなしただけだ」
水野は、そう言って、椅子から立ち上がった。
「小会議室を出たら、俺たちは、この話をしなかったことになる。いいな」
「分かりました」
小会議室を出た後、メリーは自分のデスクに戻り、正式な報告書に「調査終了」の一文を書き加えた。
だが、その一方で、私物のノートには、これまでに集めた証言と資料の写しを、丁寧に書き写していく作業を続けた。
組織としての調査は、ここで一旦、幕を下ろす。
だが、五郎という現象そのものへの疑問は、まだ何一つ解けていない。
そして、あの山を異常なまでに気にかける黒田副大臣の存在も、まだ、その理由が明らかになっていない。
メリーは、ノートを閉じながら、静かに考えた。
仕事としての調査は、終わる。
だが、それは、この件から手を引く、ということとは、少し違う。
窓の外を見ると、夕暮れの空に、うっすらと星が見え始めていた。
メリーは、携帯を取り出し、短いメッセージを打った。
――今度、時間ある?
送り先は、蓮子だった。
第13話 おとな秘封倶楽部
待ち合わせに指定したのは、二人が学生時代からよく使っていた、小さな居酒屋だった。
カウンター席の奥、店の喧騒から少し離れた場所に、蓮子はすでに座っていた。
「早いのね」
「公務員ですから」
メリーは、澄まし顔でそう答えた。
メリーが隣に腰を下ろすと、店員が水とお通しを運んできた。二人は、慣れた様子で、いつもの品を適当に注文する。
「久しぶり」
「先月も会ったでしょ」
「そうだっけ。もう半年くらい会ってない感覚だったけど」
「仕事に精が出てる証拠よ」
蓮子は、そう言って肩をすくめた。
二人は、しばらく、当たり障りのない世間話を続けた。会社の愚痴、共通の知人の近況、最近見た映画の話。学生時代から変わらない、気の置けない空気だった。
だが、その合間に、どちらからともなく、仕事の話が滲み出てくる。
「最近、ちょっと厄介な案件を抱えててね」
メリーが、グラスを見つめながら、そう切り出した。
「厄介、というと」
「言っとくけど、私からはネタを提供できないからね?」
「わかってるわよ。親友に情報漏洩なんてさせるもんですか」
蓮子は、澄まし顔でそう答えた。
「あら意外。面白さ最優先だからお構いなしかと思ってた」
「それ位の分別はつくようになったのよ」
メリーは少し驚いたように眉を上げてから、小さく笑った。
「大人になったわね」
「お互い様でしょう」
蓮子も、同じように笑い返した。
だが、その笑みの奥で、二人はすでに、互いの言葉の端々から、何かを探り始めていた。
「その厄介な案件、山が絡んでる?」
メリーが、何気ない調子で尋ねた。
「……なんで分かるのよ」
「顔に書いてある、って言いたいところだけど」
メリーは、少し悪戯っぽく笑うと、視線をすっと蓮子の足元へ落とした。
「その靴、踵のところに土が付いてる。しかも、その辺の公園とかの土じゃなくて、赤みの強い、山の土っぽい色。最近、山にでも行った?」
「……観察されすぎでしょう、それ」
「長い付き合いだもの」
「そっちは? 最近、山とか、興味ある?」
「奇遇ね。私も今、山関係の仕事をしてる」
メリーは、グラスの縁を指でなぞりながら答えた。
「どこの山、とは聞かないけど」
「聞かれても、答えられない」
「分かってる」
二人は、それ以上、具体的な地名や案件の内容には、決して踏み込まなかった。守秘義務という一線は、社会人になった二人にとって、もはや暗黙の了解として、はっきりと引かれている。
だが、会話の温度そのものが、二人に共通する何かを示していた。
蓮子は、グラスを傾けながら、ふと、メリーの顔をまじまじと見つめた。
「メリー、目尻の皺、増えた?」
「……急に何よ、失礼な」
「いや、悪い意味じゃなくて。眉間じゃなくて、目尻。作り笑いを、いつもより長くキープしてる時にできる皺よ。誰か、気を遣わなきゃいけない相手と、長時間、笑顔で話した?」
メリーは、思わず自分の目元に手をやった。
「……官僚だから、その手の相手には、日常的に会うけど」
「大臣とか副大臣とか?」
蓮子が、さりげなく畳みかけた。
「さあ、どうかしら」
メリーは、はぐらかすように微笑んだ。だが、その微笑みは、肯定とほとんど変わらないものだった。
「蓮子の方こそ、環境関連の話だったりする?」
「守秘義務」
「私も」
二人は、同時にそう言って、小さく吹き出した。
「これ、もしかして」
「同じ山かもね」
メリーが、ぽつりと呟いた。
「だとしたら、面白いことになりそう」
蓮子は、グラスを軽く掲げた。
「守秘義務を守りながら、同じ場所に近づいていく――なんだか、変な感じね」
「学生の頃は、こんな遠回り、しなかったのに」
「あの頃は、遠慮する理由がなかったから」
蓮子は、少し懐かしそうに、店の天井を見上げた。
「今は、それぞれ、守らなきゃいけないものがある。仕事の話は、仕事の話。個人としての付き合いは、別のもの」
「それでも」
メリーは、グラスを傾けながら、静かに続けた。
「気になることは、気になる」
「でしょうね」
蓮子は、そう言って、片方の口角を上げた。
社会人としての二人は、それぞれ、別々の世界に生きている。企業の内情を追う調査員と、境界の異常を追う官僚。互いの職務は、決して重なることのない、別々の領域にあるはずだった。
だが、こうして向かい合って座ると、結局は、学生時代と同じ空気が、二人の間に流れ始める。
情報は交換できない。だが、好奇心までは、隠しきれない。
「ねえ」
メリーが、ふと真面目な声で言った。
「もし、私たちが今追いかけているものが、本当に同じ場所に繋がっているとしたら」
「そうだとしたら?」
蓮子は、グラスを置きながら、まっすぐにメリーを見た。
「私たちは、また、同じ答えに辿り着くことになる」
「それぞれ、別の道から」
「表と裏から」
二人は、同時に、小さく笑った。
その笑みには、不安よりも、むしろ、どこか懐かしい高揚感が滲んでいた。
社会人になった秘封倶楽部が、それぞれの持ち場で、同じ怪異へと近づいていく。
仕事では、別々の人間。
だが、こうして向かい合えば、結局は、昔と同じ二人に戻ってしまう。
「今日は、これ以上、仕事の話はなし」
蓮子が、グラスを掲げながら言った。
「賛成」
メリーも、グラスを合わせた。
二人は、それから、他愛のない話に戻った。だが、その夜、店を出て別れる間際、どちらからともなく、こう言い合った。
「気をつけてね」
「そっちこそ」
第14話 秘密
その日のことを、岡村と黒田は、何十年経っても忘れられずにいる。
まだ二人が二十代の初め、村にリゾート開発の話が持ち上がった頃のことだった。
都市部の資本が、村の一帯を丸ごと買い上げ、温泉とホテルを中心とした観光地に変える計画を持ちかけてきた。村は、当時すでに人口の流出が進み、産業も先細りになりつつあった。若い黒田と岡村は、この計画に、村の未来を賭けようとしていた。
「このままじゃ、村は死ぬ。誰かが決断しないといけない」
黒田は、繰り返しそう言っていた。岡村もまた、同じ危機感を共有していた。
だが、計画には一つ、大きな障害があった。
開発予定地の中心に、岡村の父――先代社長が、個人として所有する山があったのだ。
先代は、リゾート誘致の話が持ち上がったのを機に、それまで共有地に近い扱いだったその山を、自らの名義で買い取っていた。
「この山だけは、手放さない」
先代は、そう繰り返した。
「自然を残すって、それのどこが悪い。金に換えれば、それで終わりだ。この村の暮らしは、それで本当に良くなるのか」
「親父、時代が違うんだ。このままじゃ、若いもんはみんな出て行っちまう」
岡村は、何度も父を説得しようとした。だが、先代は、頑として首を縦に振らなかった。
「久世さんも、言ってた。あの山は、貴重な土地だから、手放さない方がいいって」
「久世さん、って誰だよ」
「お前が知らなくていい」
先代は、それ以上、詳しくは語らなかった。ただ、その名前を口にするとき、先代の声には、単なる思い出話以上の、ある種の重みがあった。
説得は、何度も繰り返され、そのたびに決裂した。
そして、ある夜——事は起きた。
岡村と黒田は、最後の説得のつもりで、先代の家を訪れていた。話し合いは、いつものように平行線をたどり、次第に声が荒くなっていった。
「いい加減にしてくれ! このままじゃ、村ごと終わるんだぞ!」
岡村が、感情のままに父の胸ぐらを掴んだ。
「離せ!」
先代が、その手を振り払おうと、強く体を捻った。
二人はもみ合いになった。黒田が、慌てて間に割って入る。
「やめろ、二人とも——!」
黒田が、間に体を割り込ませた、その瞬間だった。
先代の体が、大きく傾いだ。踏み台にしていた縁側の段差に足を取られ、そのまま後ろへ倒れ込む。
鈍い音が、静かな夜の中に響いた。
先代は、動かなくなっていた。
岡村と黒田は、しばらくの間、その場から動くことができなかった。
やがて、岡村が、震える声で言った。
「親父……親父っ」
応答はなかった。
黒田は、青ざめた顔で、先代の様子を確かめた。
「……息が、ない」
「そんな、そんなはずない!」
「岡村、落ち着け」
黒田の声も、震えていた。
「警察に届けたら、俺たちは終わりだ。もみ合いの末に、こうなった。過失だとしても、俺たちは——」
二人は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく言葉を失っていた。
やがて、黒田が、掠れた声で言った。
「五郎だ」
「……なに」
「五郎の山だ。あそこに置けば、消えるんだろう」
「本気で言ってるのか」
「他に、方法があるか」
その時、部屋の隅で、電話が鳴った。
二人は、揃って体を強張らせた。夜のこんな時間にかかってくる電話など、ろくなものではない。だが、鳴り続ける呼び出し音が、静まり返った部屋の中で、いやに大きく響いた。
「……出るのか」
「出なきゃ、余計おかしいだろ」
岡村は、震える手で受話器を取った。
「……はい、岡村です」
『夜分に申し訳ない。久世です。お父上は、いらっしゃいますか』
岡村は、その名前に、息を呑んだ。ついさっき、父の口から聞いたばかりの名前だった。
「……久世、さん」
『少し、確認したいことがありましてね。もし、お手すきでしたら』
電話の向こうの声は、穏やかだった。だが、その穏やかさが、今の岡村には、かえって不気味に響いた。
「親父は……今、席を外してます」
岡村は、咄嗟にそう答えた。声が、自分でも分かるほど、震えていた。
電話の向こうで、久世が、一瞬、沈黙した。
『……そうですか。それよりも随分と、お疲れのようですね』
「……なんで、それを」
『声で分かりますよ。長年、色々な方の声を聞いてきましたから』
久世は、それ以上、深くは踏み込まなかった。
『何かあったのなら、無理に話さなくても結構です。ただ、一つだけ』
「……なんですか」
『あの山について、何か思うところがあるなら――五郎の正体は、鬼なんかじゃありませんよ。少なくとも、私はそう思っています』
岡村は、受話器を握りしめたまま、何も言えなかった。
『理由も、意思も分からない。ですが、あれは確かに、何かを消す。君も、いずれ分かるでしょう。使ってみれば、その利便性が』
「……利便性、って」
『言葉のあやですよ』
久世の声は、どこまでも落ち着いていた。
『今夜は、もう休まれた方がいい。何かあれば、また連絡をください』
それだけ言うと、久世は電話を切った。
岡村は、しばらくの間、切れた電話を握りしめたまま、動けなかった。
黒田が、掠れた声で尋ねた。
「……なんだったんだ、今の」
「分からない。でも……」
岡村は、受話器を置きながら、父の体に視線を落とした。
「あの人、何か知ってる。全部、お見通しみたいだった」
利便性、という言葉が、二人の頭の中で、いつまでも反響していた。
その夜のうちに、二人は先代の遺体を、あの山へ運んだ。
罪の意識よりも、恐怖と、久世の言葉に背中を押されるような感覚が、二人を突き動かしていた。
誰にも見られていないことを、何度も確かめながら、二人は山の奥――幼い頃から聞かされてきた、あの場所へと向かった。
遺体を置き、二人はその場を離れた。
その夜、岡村と黒田は、それぞれの家で、一睡もできなかった。
翌朝、岡村と黒田は、それぞれ別々に、山の入り口へ向かった。
互いに、何かを確かめたいという以上に、確かめずにはいられない衝動に、突き動かされていた。
翌朝、岡村と黒田は、それぞれ別々の道を辿って、山の入り口で落ち合った。
どちらも、まともに眠れていないことは、顔を見れば分かった。目の下には濃い隈があり、口数も少なかった。
「行くぞ」
黒田が、短く言った。岡村は、無言で頷いた。
二人は、獣道にも満たないような、木々の間の細い筋を辿って、山の奥へと分け入っていった。子供の頃から何度となく通ってきた道のはずなのに、今日ばかりは、その一歩一歩が、やけに重く感じられた。
やがて、二人は、昨夜、遺体を置いた場所へとたどり着いた。
そこには、何もなかった。
岡村は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
「……ない」
「ああ」
「本当に、ないのか。ここで、間違いないのか」
岡村は、辺りを見回しながら、震える声で確認を繰り返した。だが、周囲の地形にも、木々の並びにも、見覚えがあった。昨夜、遺体を置いた場所は、間違いなくここだった。
地面には、何かを引きずったような跡すらなかった。血の痕も、衣服の繊維も、何一つ残っていない。
まるで、最初から、そこに何もなかったかのように。
「動物に、運ばれたんじゃないか」
黒田が、掠れた声で言った。
「この山に、そんな大きな獣がいるか? 熊も、猪もいないってのは俺達が良く知ってる」
「じゃあ、誰かが……」
「誰が、こんな山奥に、夜中のうちに来て、しかも痕跡一つ残さずに、運び出せるって言うんだ」
岡村は、答えられなかった。
二人は、その場に、長い間立ち尽くしていた。
恐怖と、ある種の畏怖が、同時に二人の中で膨れ上がっていた。
「本当に……いるのか」
岡村が、消え入るような声で呟いた。
「五郎が」
黒田は、何も答えなかった。答える必要もなかった。目の前の光景そのものが、答えだった。
子供の頃、大人たちから聞かされてきた昔話。悪さをすると、五郎に食われる。物を捨てれば、五郎が食べてくれる。
単なる脅し文句だと、二人はずっと思っていた。
だが、今、目の前にある事実は、その昔話が、決して比喩ではなかったことを示していた。
「久世さんは、知ってたんだな」
岡村が、ぽつりと呟いた。
「あの人、全部、分かってた。俺たちが、何をしたか」
「言わなかっただろう。何も、聞かれなかった」
「聞かれなくても、分かる話だろう。あの声は……」
岡村は、両手で顔を覆った。
「利便性、なんて言葉、普通、使うか? あの人は、俺たちが何をしたか、察した上で、あえてそう言ったんだ」
黒田は、それに対して、何も言い返さなかった。同じことを、彼自身も考えていたからだ。
久世という人物は、いったい何者なのか。なぜ、あの山について、あれほど詳しいのか。そして、なぜ、あの夜、あのタイミングで、電話をかけてきたのか。
考えれば考えるほど、疑問は深くなっていく。だが、今の二人には、それを追及するだけの余裕は残っていなかった。
「これで、終わったのか」
岡村が、力なく尋ねた。
「終わったわけじゃない」
黒田は、静かに、しかしはっきりと言った。
「俺たちは、これから、この事実を、一生、隠し通さなきゃいけない。お前の親父さんが失踪した、それだけの話にしなきゃいけない」
「できるのか、そんなこと」
「やるしかない」
黒田は、山の奥――遺体があったはずの場所を、もう一度、見つめた。
「この山は、俺たちにとって、これから先も、特別な場所になる。誰にも、触れさせちゃいけない」
その言葉には、単なる恐怖以上の、ある種の決意めいたものが滲んでいた。
自分たちの罪を隠すために、この山を、これから先、ずっと守り続けなければならない。
その日を境に、岡村と黒田にとって、あの山は、単なる故郷の風景ではなく、自分たちの人生そのものを縛る、重い枷となった。
数日後、先代の失踪は、正式に警察へ届け出られた。
山菜採りに出かけたまま、帰ってこなかった――そう説明された。
大規模な捜索が行われたが、何の手がかりも見つからなかった。
やがて、事件は、未解決のまま、時間の中に埋もれていった。
だが、岡村と黒田の中で、あの夜の記憶が薄れることは、一度もなかった。
第15話 現在の計画
あの夜から、長い年月が流れた。
岡村は父の跡を継ぎ、産業廃棄物処理会社の社長となった。黒田は、地元の県議会議員から国政へと進み、やがて環境副大臣という要職に就いた。
二人の歩んだ道は違えど、その根底には、常に同じものがあった。
あの山を、誰にも触れさせてはならない。
黒田は、若い頃から、地道に、しかし着実に、その土地に関する影響力を積み上げてきた。名義変更の際には、遠縁の人間を介して土地の動きを把握し、用途区分の見直しが議論されるたびに、目立たない範囲で、その方向性に手を加えた。
それは、まだ一県議会議員に過ぎなかった頃の、限られた権限の中でできる、精一杯の防衛策だった。
だが、環境副大臣という職を得てから、状況は大きく変わった。
環境アセスメント、保護区域の指定、開発許可の審査——かつては遠回しに働きかけるしかなかったことが、今では、正当な行政手続きの中で、堂々と行えるようになった。
「自然環境の保護」という、誰も表立って反対できない理由の下で、黒田は、あの山とその周辺一帯を、開発から遠ざけ続けてきた。
岡村もまた、企業の力を使って、土地の管理を固めてきた。表向きは、廃棄物処理事業の拡張という名目で、周辺の土地を少しずつ買い足し、あるいは、長期の管理契約を結んでいった。
二人にとって、それは、罪の証拠を守るための、終わりのない防衛戦だった。
そして、一年前。
その均衡を崩す出来事が起きた。
京都の大手デベロッパーが、あの一帯にリゾート開発計画を持ち込んできたのだ。
温泉、ホテル、レジャー施設——大手銀行の融資を背景にした、大規模な計画だった。村の一部からは、歓迎の声も上がった。過疎に苦しむ村にとって、それは、久しぶりに訪れた、明確な希望の種に見えた。
だが、黒田と岡村にとって、それは、これまでとは比較にならないほどの脅威だった。
リゾート開発が実現すれば、造成工事や地質調査のために、あの山に、大勢の人間の手が入ることになる。
もし、掘削の過程で、何かが——例えば、三十年前に消えたはずの、何かの痕跡が見つかってしまったら。
いや、五郎の存在を考えれば、痕跡そのものが残っている可能性は低い。だが、それでも、あの山を他人の手に委ねること自体が、二人にとっては、耐え難い恐怖だった。
「環境アセスで、止められないか」
岡村が、そう持ちかけたこともあった。
「やってはいる。だが、限界がある」
黒田は、苦い顔で答えた。
「保護区域の指定だけでは、いずれ突破される。向こうは、大手銀行の融資も付いている。単純な行政指導だけじゃ、いつまでも止めておけない」
二人は、何度も話し合いを重ねた。そして、たどり着いた結論が、産業廃棄物処理施設の新設という計画だった。
「うちが、先にあの土地を、事業用地として押さえる」
岡村が言った。
「産廃施設なら、環境アセスの審査基準も、リゾート開発とは違う。お前の権限で、うちの計画は通しやすくなるはずだ」
「銀行からの融資が必要になる」
「地元の銀行なら、うちを応援したいはずだ。京都の企業に、この土地を持っていかれるのは、向こうも面白くないだろう」
二人の思惑は、驚くほど滑らかに噛み合った。
「自然環境と共存する次世代型処理施設」――その理念は、対外的には、環境への配慮を掲げる、聞こえの良い言葉として機能した。だが、その本当の目的は、まったく別のところにあった。
——施設の最奥に、五郎の社を残すこと。
その一角にだけは、決して誰の手も入れさせないこと。
そして、いずれ五郎が本当に何でも消すのだとしたらこの施設そのものを、自分たちの過去を完全に消し去るための、最後の仕掛けとして、利用すること。
「これで、山は守れる」
黒田は、そう自分に言い聞かせるように呟いた。
「今度こそ、終わらせる」
だが、その言葉とは裏腹に、二人の間には、拭いきれない不安が、静かに横たわっていた。
地方銀行の融資審査に、コンサルティング会社の調査が入ることになった、という報告を受けた時。
そして、その調査員が、宇佐見蓮子という、驚くほど鋭い観察眼を持つ女性だと知った時。
黒田の中で、三十年前のあの夜と同じ、冷たい予感が、静かに首をもたげ始めていた。
間話 常務・北白河ちゆり
銀行への最終報告書を、蓮子が書き上げつつある頃、片桐は、本社の役員フロアに、一人で呼び出されていた。
調査部門全体を統括する、常務執行役員の部屋だった。片桐のような一課長が、直接呼びつけられることなど、滅多にない。
(また、上から何か言われるのか)
片桐は、廊下を歩きながら、覚悟を決めていた。
産廃会社の案件について、銀行からさらに強い打ち切り要請が来たのかもしれない。あるいは黒田副大臣から直接何か言われたのかもしれない。
いずれにせよ、ろくな話ではないだろう、と片桐は踏んでいた。
「失礼します」
部屋に入ると、北白河はデスクの向こうで、書類に目を通していた。片桐が見覚えのある書類——蓮子がまとめた、あの第二次報告書だ。
「呼びつけて悪いね、早速だけど座って」
促されるまま、片桐は、来客用のソファに腰を下ろした。
「宇佐見君の第二次報告書、読ませてもらったよ」
北白河常務は、書類を、軽く指先で叩きながら、言った。
「なかなか、力の入った内容だと思うよ」
「はい。彼女らしい、徹底した調査です」
「相手は、現職の環境副大臣だそうじゃないか」
「……はい」
片桐は、体を、わずかに強張らせた。
これから告げられるであろう言葉を、片桐は、半ば予測していた。この案件から手を引け。宇佐見を、他の案件に回せ。会社として、これ以上のリスクは負えない――そういった、当たり障りのない、しかし決定的な指示。
「実はね、片桐君」
北白河は、思いがけず、そう切り出した。
「先日、代表と二人で、料亭に呼びつけられた」
「……呼びつけられた、とは?」
「黒田先生ご本人にだ。この案件について釘を刺された」
北白河は、その時の様子を、思い出すように、少し目を細めた。
「『環境破壊に繋がるリゾート開発と、環境との共存を謳う地元企業の計画。どちらが良いか、君にも分かるだろう』とね。『環境副大臣としては、もちろん後者だ』と、まず、御立派な建前を並べた上で——その上で『君のところの会社は、どう思っているんだ』と。『自分たちが金儲けできれば、地方の自然環境なんて、お構いなしなのか』とまで、言われたよ」
北白河は、そこで、小さく鼻を鳴らした。
「正直な感想を言えば——いけすかない男だったよ」
「北白河さん……」
「愛想笑いの下に、はっきりと、こちらを値踏みしてくる目があった。ああいう手合いは、何度も見てきたから、分かる」
北白河は、椅子に体を預けながら、続けた。
「あの場では、形の上では、頭を下げた。『社内でよく検討させていただきます』とね。代表の顔もある。角を立てるわけにはいかなかった」
「では?」
「後日、うちに正式な抗議文が届いた。先方の顧問弁護士の名前で」
北白河は、デスクの引き出しから、一枚の文書を取り出し、片桐の前に置いた。
「読んでみるといい。腹が立つから」
片桐は、その文書に、素早く目を通した。慇懃な文言で埋め尽くされてはいるものの、その内容は、要するに、調査の即時中止と、報告書の破棄を求める、強い圧力そのものだった。
「これを読んで、私は、考えを改めた」
北白河は、静かに言った。
「間違いなく、私利私欲のために動いている。彼は」
「……北白河さんも、そう思われますか」
「思うね。あそこまで、なりふり構わず圧力をかけてくる人間が、本当に地元のため、国民のためだけを考えて動いているとは、とても思えない」
北白河は、書類を、指先で軽く弾いた。
「そんな人間を、国会議員として、このまま置いておいていいものか。私は、大いに疑問だ」
「北白河さん……」
「白日の下に晒してやろうじゃないか」
北白河は、口の端に、はっきりとした笑みを浮かべた。
「片桐君」
「はい」
「一つ、聞きたいんだけど」
北白河は、片桐の目を、まっすぐに見た。
「この資料、リークするなら、どこがいいと思う?」
片桐は、一瞬、何を言われたのか、理解できなかった。
「……はい?」
「新聞なら、経済部より、社会部の方が食いつきがいいだろうね。それとも、いっそ、国会議員の誰かに直接持ち込むか。野党の環境系の委員あたりなら、喜んで飛びつくだろう」
北白河は、そう言って、片桐の反応を面白がるように、口の端を上げた。
「あの、北白河さん?」
「冗談だよ、そこまでは。うちの立場もある」
北白河は、そう言うと、書類を、デスクの上に置いた。
「だが、半分は、本気だ」
「……と、言いますと」
「宇佐見君の調査を、止めろとは言わない。個人的には徹底的にやってもらいたいところだけど」
北白河は、椅子に深くもたれかかった。
「うちは、コンサルティング会社だ。だが、うちを支えているのは、結局、調査部だ。数字の裏側にある真実を、誰よりも正確に、誰よりも早く掴む――それが、うちの看板であり、うちの存在価値だ」
片桐は、言葉を失ったまま、北白河の話を聞いていた。
「その看板を、目先の取引関係だとか、政治家からの圧力だとかで、簡単に曲げるようなら、うちは、もう、コンサルティング会社を名乗る資格がない」
北白河は、静かに、しかし、はっきりとした口調で続けた。
「向こうが、副大臣だろうが、なんだろうが構わないね、圧をかけてくるというなら、受けて立つのが、私のやり方だ」
「……北白河さん」
片桐は、しばらくの間、声が出なかった。
「宇佐見君には、心配せず調査を続けさせろ。何かあれば、私のところまで、直接、話を上げてくれて構わない」
「ありがとうございます」
片桐は、深く頭を下げた。
「礼はいい」
北白河は、軽く手を振った。
「ただし、片桐君」
「はい」
「宇佐見君の暴走を止めるのは、君の仕事だ。うちが会社として彼女を守る、というのと、彼女が無茶をしていい、というのは、別の話だからな」
「肝に銘じます」
片桐は、そう答えながら、内心、小さく苦笑していた。
(それが一番、難しいんですけどね)
役員フロアを出た後、片桐は、しばらくの間、廊下の窓から、外の景色を眺めていた。
これまで、宇佐見の暴走を止める側に回っていたのは、自分一人だと思っていた。だが、実際には、その先に、もっと大きな覚悟を持った人間が、控えていた。
片桐は、携帯を取り出し、蓮子に短いメッセージを送った。
——報告書の件、上も了承済みだ。心配せず、調査を続けろ。
メッセージを送り終えると、片桐は、小さく息を吐いた。
「宇佐見、お前は、本当に、良い会社に拾われたな」
その独り言は、誰に届くこともなく、静かに、片桐の中だけに留まった。
第16話 宇佐見蓮子の反撃
片桐からのメールを受けてから蓮子は、他の業務を周囲に任せてこれまでに集めた資料を、ひたすら机の上で突き合わせる作業に専念した。
融資申請書。事業計画書。土地の登記情報。過去二十年分の用途区分の変遷。環境アセスメントの審査記録。専用道路計画の資料。既存施設の稼働データ。
その一つ一つを、蓮子は、何度も何度も、繋ぎ合わせては、崩し、また繋ぎ合わせた。
「宇佐見さん、そろそろ最終報告書上がりそう?」
定時に片付けを終えた田所が、帰り際に声をかけた。
「もう少し」
「もう少しって、先週からずっと同じ台詞、聞いてる気がするけど」
田所は、苦笑しながらも、コートを羽織る手を止めた。
「何か、見えてきた?」
「輪郭は、見えてきた。あとは、それを裏付ける数字が、揃うかどうか」
蓮子は、画面から目を離さずに答えた。
「この施設、廃棄物処理施設としては、明らかに過剰投資よ。処理能力に対して、建設コストが釣り合わない。専用道路の整備費用も、輸送コストの削減効果に対して、明らかに割に合わない」
「事業として、成立してない、ってこと?」
「成立してるように、見せているだけ」
蓮子は、そう言い切った。
「数字の帳尻は、合わせてある。融資審査を通すためだけの、体裁を整えた数字。でも、実態としての事業計画には、まるで魂がこもってない」
「魂って」
「本当にこの事業をやりたい人間が作った計画じゃない、ってこと。目的が、別のところにある人間が、そのために必要な体裁として、この計画を作ってる」
田所は、しばらく黙って、蓮子の画面を覗き込んだ。
「じゃあ、本当の目的は?」
「それは、まだ分からない」
蓮子は、正直にそう答えた。
「でも、少なくとも、この土地そのものに、事業とは別の価値が置かれていることだけは、確かよ」
それから数日、蓮子は、集めたすべての資料を、一本の報告書としてまとめ上げる作業に取りかかった。
財務状況の分析。既存施設の稼働実態と、新施設計画の必要性の乖離。土地取得の経緯と、その不自然な価格形成。専用道路計画の費用対効果の欠如。そして、黒田副大臣と岡村社長の長年にわたる関係性、および、土地の用途区分をめぐる、一貫した働きかけの痕跡。
どれも、単体では、決定的な証拠にはならない。だが、それらを時系列に沿って並べた時、そこに浮かび上がるのは、一つの明確な結論だった。
この事業計画は、廃棄物処理という本来の目的のためではなく、別の目的――おそらくは、この土地そのものを確保し続けることを目的として、作られたものである。
蓮子は、その結論を、慎重に、しかし明確な言葉で報告書に記した。
完成した報告書を手に、蓮子は片桐のもとを訪れた。
「できました」
片桐は、無言で報告書を受け取ると、時間をかけて、丁寧に目を通した。
「……これを、そのまま銀行に出すのか」
「はい」
「向こうが望んでる結論とは、正反対だぞ。というか、銀行のバックに黒田副大臣がついているんだ。ただじゃあ済まないかもしれん」
「望んでる結論を出すために、調査をしたわけじじゃありません」
片桐は、しばらくの間、報告書と蓮子の顔を、交互に見比べていた。
「分かった」
やがて、片桐は、静かに頷いた。
「俺としても、会社としてもこれを止める理由はない。正式なルートで、銀行に提出する」
「ありがとうございます」
「礼はいい。お前の仕事だ」
片桐は、報告書を閉じながら、小さく息を吐いた。
「ただし、覚悟はしておけ。この報告書が出た後、向こうがどう出るか、分からない」
「分かっています」
数日後、報告書は、正式なルートを通じて、地方銀行へと提出された。
融資部長は、その内容に目を通した後、しばらくの間、何も言わなかったという。
だが、それから間もなく、銀行内部で、融資審査の見直しが始まったという情報が、蓮子のもとに届いた。
完全に融資が止まったわけではない。だが、少なくとも、当初のような、なし崩し的な承認の流れは、明確に止まった。
蓮子は、その報告を受けながら、静かに一つの確信を強めていた。
この調査は、まだ終わっていない。
むしろ、ここからが、本当の始まりなのかもしれない。
窓の外を見ると、いつの間にか、季節が変わりつつあることに、蓮子は気づいた。
あの山を最初に訪れてから、もう随分と、時間が経っていた。
第17話 休日出勤
正式な調査終了の指示が下ってから、メリーは、休日を使って、一人であの村を再訪していた。
表向きの立場は、もう存在しない。名刺も、正式な調査権限も持たない、一人の人間として、メリーは山を目指した。
山林所有者への立ち入り申請は、以前と同じく、正規のルートでは拒まれたままだった。だが、メリーが向かったのは、その管理された区域そのものではなく、山の外縁、村の生活道と、山林との境界にあたる場所だった。
地元の古い地誌によれば、五郎にまつわる現象は、必ずしも施設予定地の内部だけで起きてきたわけではない。もっと広く、この山塊全体に、その性質が及んでいる可能性があった。
村はずれの道を歩き、木々の間に分け入っていく。管理された区域の境界を示す杭や柵は、この辺りにはまだない。
しばらく進んだところで、メリーは足を止めた。
何か、はっきりと言葉にはできない違和感が、その場所を境に漂っていた。
空気の密度が、わずかに変わったように感じられる。音の響き方も、どこか不自然だった。鳥の声も、風に揺れる葉音も、この一線を境に、少しだけ、聞こえ方が変わっている。
メリーは、その場にしゃがみ込み、ごく普通の石ころを、地面の上に置いた。時刻は、まだ日の高い、午後の早い時間帯だった。
目印として、周囲の木の幹に、小さな傷をつける。
そして、その場を離れた。
翌朝、同じ場所を訪れると、石は、跡形もなく消えていた。
メリーは、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動かなかった。
実際に、自分の目で確かめたことで、これまで証言として集めてきた情報が、確かな実感を伴って、体の中に落ちてきた。
この現象は、本当に存在する。
メリーは、周辺の環境を、丁寧に観察し始めた。地面の状態、植生の分布、空気の流れ。境界と呼ぶべき場所は、地図上に明確な線として引けるものではなく、もっと曖昧で、揺らぎのある領域として存在していた。
その揺らぎの中心に近づくほど、空気の違和感は強くなる。だが、その先に何があるのか、メリーの目で直接確認することはできなかった。
境界というものの性質上、それは当然のことだった。
ただの物理的な空間ではない。その先を覗き込もうとする者を、静かに拒む何かが、確かにそこにあった。
メリーは、これまでの調査で集めてきたすべての情報を、頭の中で改めて整理した。
罪人を捨てた記録。飢饉の際の高齢者。障害を持つ赤ん坊。陶器の失敗作。バイク。農具。漁具。配信者のぬいぐるみ。そして、岡村興産の先代社長。
時代も、規模も、まるで違う出来事が、すべて同じ場所へと収束していく。
この現象に、「五郎」という名前と人格を与えたのは、人間だった。だが、その名前を与えられた何かが、実際に、この場所に存在していることだけは、疑いようがなかった。
鬼なのか。それとも、まったく別の何かなのか。
メリーは、その問いに、答えを出すことができなかった。
いや、正確には、答えを出すこと自体が、この現象の本質から外れているのかもしれない、とメリーは感じ始めていた。
人間は、説明のつかないものに出会うと、それに名前を与え、性質を定義し、理解可能な枠組みに押し込めようとする。だが、この現象は、そうした人間の理解の枠組みそのものを、静かに拒んでいるように思えた。
消えたものは、二度と戻らない。
その事実だけが、確かな輪郭を持って、そこにあった。
メリーは、境界の揺らぎから、ゆっくりと後退した。
これ以上、深入りすることは、今の自分には難しい。だが、少なくとも、この現象が、単なる伝承や、人為的な事件の隠蔽工作の産物ではないことは、はっきりと確認できた。
境界性の疑いあり、という当初の判断は、正しかった。
メリーは、山を下りながら、私用の携帯を取り出した。
正式な報告書には、この日の調査結果を書くことはできない。だが、水野にだけは、伝えておく必要があった。業務用のシステムを介さない、個人の端末宛のメッセージとして。
——現地で境界の揺らぎを確認。伝承は、実際の現象を反映していると考えられます。石を置いた時間から逆算すると、活性化するのは夜間、おそらく日没から夜明けにかけての時間帯だと思われます。ただし、揺らぎの及ぶ範囲までは特定できていません。迂闊に近づいて、そのまま呑み込まれるようなことがあれば、目も当てられません。今のところ、これ以上の接近は控えるつもりです。
メッセージを送り終えると、メリーは、遠ざかっていく山の稜線を、もう一度振り返った。
あの山の奥に、何が待っているのか。
間話 国家公安委員長・岡崎夢美レク
メリーへの調査終了指示が下ってから、水野は、ひそかに、自分なりの調べ物を進めていた。
表向きは、ごく普通の業務の一環だった。指示がどの経路を辿って自分のところまで降りてきたのか、その履歴を、事務手続きの範囲内で、丁寧に遡っていく。
最初は、単なる念のための確認のつもりだった。
だが、履歴を追えば追うほど、その流れの不自然さが、際立っていった。
議員会館からの苦情。内閣府上層部での検討。担当部署への指示。それぞれの段階は、書類の上では、何ら問題のない、正規の手続きに見えた。だが、その決裁のスピードが、明らかに速すぎた。
通常であれば、複数の部署間での調整に、一週間はかかるはずの案件が、わずか二日で、トントン拍子に処理されている。
誰かが、裏で手を回している。
水野は、その「誰か」の正体を探るうち、ある名前に行き着いた。
自身の教育担当でもあった男、久世。
公安委員会OBとして、長年、この種の境界事案に関わってきた人物。現役を退いた今も、いくつかの部署に、隠然とした影響力を残しているという噂は、水野も、以前から耳にしていた。
だが、その影響力が、まさか国家公安委員会の運営そのものにまで及んでいるとは、水野も、正直、想像していなかった。
水野は、集めた材料を、一つの報告書としてまとめ上げた。証拠と呼べるほど確固たるものではない。あくまで、状況証拠の積み重ねに過ぎない。だが、放置しておける話でもなかった。
数日後、水野は、思いがけない形で、その機会を得ることになった。
国家公安委員長への定例レクの場に、急遽、陪席するよう命じられたのだ。本来であれば、水野のような課長クラスの職員が、直接、委員長に発言する機会など、まずない。あくまで、資料説明の補助として、末席に控えるだけの役回りのはずだった。
だが、レクが一通り終わりかけた頃、委員長の岡崎が、ふと、水野の方に視線を向けた。
「そういえば、地方伝承の調査案件、あれはどうなったのかしら? 妨害だとかいう苦情があったそうだけど」
その一言で、場の視線が一斉に水野に向けて集まった。
水野の心臓が、大きく跳ねた。
これは、想定していない展開だった。答えを用意していない。だが、答えないという選択肢もなかった。
(……ここで、言うのか。俺が)
課長クラスの人間が、こんな場で、公安委員長に対して、疑義を呈するような発言をする。それがどれほど出過ぎた真似か、水野は、痛いほど分かっていた。下手をすれば、自分自身のキャリアに、取り返しのつかない傷がつく。
だが、頭の片隅に、部下の顔が浮かんだ。
休日を潰し、正式な調査権限も失ったまま、それでも一人で、あの山へ向かい続けている部下の姿。
水野は、覚悟を決めた。
「岡崎委員長、僭越ながら、一点、申し上げたいことがございます」
水野は、震えそうになる声を、必死に抑えながら、続けた。
隣に座っていた上級幹部が、驚いたように水野の方を振り向いた。
「水野くん……わかっていると思うが、事実のみ、不明確、不確かなことはお伝えしないように」
小声で、制止するような声が飛んだ。だが、水野は、それを聞こえないふりでやり過ごした。
「今回の調査終了の指示について、その決裁の経緯を確認したところ、通常のルートとは異なる速さで、処理が進められていた形跡が見受けられました」
「ふむ。異なる速さ、とは?」
「複数の部署間での調整を要するはずの案件が、極めて短期間で決裁されております。その背景に、特定の個人——公安OBによる、非公式な働きかけがあった可能性を、否定できません」
部屋の空気が、明らかに変わった。同席していた幹部たちの間に、緊張が走るのが分かった。
「水野くん! 不確かな事は慎みなさい!」
水野の直属の上司にあたる審議官が、青ざめた顔で割って入ろうとした。
「委員長のお時間を、こんな確認の取れていない話に使わせるわけにはいかない。後日、改めて——」
「やめないか、水野くん!」また別の審議官が止めに入った。審議官の声は、もはや叱責に近かった。
水野は、それでも、言葉を止めなかった。
「やめられません」
水野は、審議官の方を見ずに、まっすぐ岡崎を見据えたまま、言い切った。
「体を張って、調査に当たっている部下がいるんです。組織として、正式な調査権限を取り上げておきながら、その圧力の出所すら明らかにしないままでいいとは、私には、到底思えません」
審議官が、大きく息を呑む音が、水野の耳にも届いた。
「委員長、大変失礼いたしました。この者の発言は——」
審議官が、慌てて委員長に向き直り、頭を下げようとした。それでも水野は止まらなかった。
「我々の組織は、公安委員長を頂点とした、国民のための国体を守る組織であるはずです。その意思決定の過程に、退職したOBが、然るべき手続きを経ずに介入するようなことがあれば、それは、組織の根幹に関わる問題だと、私は考えます」
水野は、審議官の謝罪を遮るように、最後まで言い切った。
言い終えた後、水野は、内心、生きた心地がしなかった。
(終わったかもしれない、いや、終わった俺のキャリア)
審議官は、もはや平静を装うこともできず、委員長に向かって、深々と頭を下げていた。
「委員長、申し訳ございません。この者には、後ほど、厳重に注意を——」
「いや」
委員長は、片手を軽く上げて、審議官を制した。
部屋の空気が、一瞬、凍りついた。
委員長は、しばらくの間、水野の顔を、まじまじと見つめていた。値踏みするような、それでいて、どこか興味深そうな視線だった。
「部下思いの、良い課長じゃないか。私は好きだよ」
委員長は、そう言うと、小さく笑みを浮かべた。
「こういう人間が、まだ、この組織に残っていたとはね」
「委員長……」
審議官が、戸惑ったように、その顔を見た。
「その件については、追って、正式な形で報告するように。あ、いや。私に上がってくる迄に誰かしらの思惑が介入する危険性があるのか。調査チームを立ち上げた方が良さそうだね。人選については追って通達を出します」
委員長は、そう言って、話を締めくくった。だが、部屋を出る間際、もう一度だけ、水野の方を振り返った。
「水野くんと言ったか。良い部下を持ったね。環境省の事は気にせずに調査を続けてくれ。必要があれば環境大臣に話をつけておくよ」
それだけを残し、委員長は退室していった。
部屋を出た後、水野は、しばらくの間、廊下の壁に手をついて、動けなかった。
全身から、じっとりと、冷たい汗が噴き出していた。
だが同時に、どこか、清々しい気持ちも、確かにあった。
自分にできることは、これくらいしかない。だが、これくらいのことでも、やらなければ、部下に顔向けができない。
水野は、携帯を取り出し、私用のメッセージアプリを開いた。宛先は、メリーだった。
——調査、とことんやって良いと許可が取れた。思いっきりやってくれ。
メッセージを送信すると、水野は、大きく息を吐き出した。
窓の外には、いつも通りの、変わらない官庁街の風景が広がっていた。
だが、水野の中では、何かが、確かに一つ、動き始めていた。
第18話 裏切り
蓮子の報告書が銀行内部で波紋を広げ、内閣府への苦情も、思うような効果を上げていない。そうした状況が明らかになるにつれ、黒田と岡村は、次第に追い詰められていった。
融資は完全には止まっていないものの、審査は明らかに慎重になっている。公安委員会の調査もある日を境に動きが再開した気配があった。
二人は、久しぶりに顔を合わせていた。場所は、以前から密談に使ってきた、人目につかない小料理屋の奥座敷だった。
「このままじゃ、まずい」
岡村が、酒に手をつけないまま、そう切り出した。
「コンサル会社の調査員、あの女、只者じゃない」
「分かってる。うちの親戚にまで声をかけていやがった」
黒田も、疲れた表情で頷いた。
「内閣府の方も思ったより手強い。久世さんに頼み込んで動きが止まったと思ったが、ある日を境にまた動き出した。まだ何か嗅ぎ回ってる気配がある」
二人は、しばらくの間、押し黙ったまま、酒を口にした。
「改めて久世さんに、相談しよう」
岡村が、ぽつりと言った。
「あの人なら、何か妙案が浮かぶはずだ。三十年前も、あの人の言葉で、俺たちは動いた」
黒田は、しばらく考え込んだ後、小さく頷いた。
その夜のうちに、二人は久世の自宅を訪ねた。
「これは、これは。お二人お揃いで、珍しい」
久世は、いつもと変わらぬ、穏やかな笑みで二人を迎え入れた。
「久世さん、助けてください」
岡村が、居間に通されるなり、切り出した。
「銀行の調査も、内閣府の調査も、このままじゃ、全部、明るみに出てしまう」
「明るみに出る、というのは?」
久世は、静かに茶を淹れながら、そう尋ねた。
「土地のことも、融資のことも、全部です。このままじゃ、俺たちは終わりだ」
「先生! 先生が言うから俺もこいつも動いたんですよ!」
岡村が、声を荒らげた。
「あの夜、電話で、俺たちに言ったじゃないですか。使ってみれば、その利便性が分かるって!」
久世は、湯呑みを置く手を、ほんの一瞬だけ止めた。だが、その表情には、動揺らしきものは、ほとんど浮かばなかった。
「さて。何のことでしょうか」
「覚えがないだなんて! ふざけんなよ!」
岡村が、テーブルを叩いた。黒田が、その肩を掴んで制する。
「岡村、落ち着け」
「落ち着いてられるか! 俺たちがここまでやってこれたのは、全部、この人の言葉があったからだろう!」
久世は、二人のやり取りを、静かに見つめていた。その視線には、憐れみとも、失望とも取れる、複雑な色が浮かんでいた。
「お二人が、何をどう覚えていらっしゃるかは、私には分かりません」
久世は、ゆっくりと、言葉を選びながら続けた。
「ただ、一つだけ、申し上げておきましょう。私は、あの夜、誰かに何かを『しろ』と指示した覚えはありません。ただ、事実を、ありのままにお伝えしただけです」
「事実だと?」
「五郎は、確かに存在する。それだけの、事実です」
久世の声は、どこまでも冷静だった。
「その事実を、お二人がどう使うかは、お二人自身の判断だったはずです。私に、その責任を求められても、困ります」
「そんな……」
岡村は、言葉を失った。
「久世さん、あなたは……」
黒田が、震える声で言った。
「あなたは、俺たちを、利用しただけなのか」
「利用、とは、心外ですな」
久世は、静かに首を振った。
「私は、ただ、あの山に潜む何かを見守りたかった。それ以上でも、それ以下でもありません。融資の話なんて私にはまるで価値がない」
「見守りたかっただと……? だったら、なぜ、あの夜、あんなことを言った」
「若いお二人が、あまりにも思い詰めた声をしていたので、少しばかり、お節介を焼いただけですよ」
久世は、湯呑みを、静かに口に運んだ。
「今回のことについても、私にできることは、もう多くはありません。お二人が、これまで積み重ねてきたことの結果は、お二人自身で、受け止めていただくしかない」
「見捨てるのか」
黒田の声には、怒りと、絶望が入り混じっていた。
「見捨てる、というのは、少し違います」
久世は、静かに立ち上がった。
「私は、最初から、お二人の味方だったことは、一度もありません。ただ、あの山の行く末を、見届けていただけです。可能であれば五郎をそのままにしておきたかった。その点ではお二人と利害が一致した。だから助け舟を出した。それだけです」
「ならば、俺たちを助けてくれよ。そうすれば五郎も守られる!」
「そうしたいのもやまやまですが、どうやら今の公安委員長はただのお飾りじゃないようでして……」
久世は、静かに続けた。
「下手に動いて私が動きにくくなってしまっては困ります。五郎の他にもこの国にはいくらでも似たような物が存在している」
「どういう意味だ」
「言葉のままですよ」
久世は、窓の外――夜の闇に沈んだ庭先に、視線を向けた。
「あの山は、八重に重なる雲のように、見通しがきかない。誰が覗き込んでも、見える範囲は、ごくわずかです」
「なんの話だ」
「ただの、年寄りの繰り言ですよ」
久世は、ゆっくりと、二人の方へ向き直った。
「ただ、見える人間には、見えるのかもしれませんね。赤や、紫の、その外側にある色までも」
黒田も岡村も、その言葉の意味を、正確に理解することはできなかった。だが、その響きには、二人の理解の及ばない、もっと深い何かが横たわっているという予感だけが、確かに伝わってきた。
「今日のところは、お引き取りください。夜も遅い」
久世は、それだけ言うと、二人を見送ることもなく、静かに奥の部屋へと下がっていった。
残された黒田と岡村は、しばらくの間、その場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
自分たちが、三十年もの間、後ろ盾のように思ってきた存在が、実際には、最初から、自分たちの味方などではなかった。
その事実が、じわじわと、二人の中に染み込んでいった。
久世が、本当は何者なのか。誰の指示で、あの山を「見守って」いるのか。三十年前、なぜ、あのタイミングで電話をかけてきたのか。
どれだけ考えても、答えは出なかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
二人は、これから先、完全に一人で、この状況に立ち向かわなければならない。
久世宅を出た夜道を、二人は、言葉少なに歩いた。
頭上には、いつもと変わらない夜空が広がっていたが、その星の光すら、今の二人には、どこか遠く、冷たいものに感じられた。
第19話 決着
蓮子の報告書が地方銀行の融資審査を止めてから、事態は、思いのほか速く動き始めた。
融資部門が慎重姿勢に転じたことを受け、銀行の監査部門が、独自に岡村興産の財務状況を再調査することになった。その過程で、蓮子が指摘した数々の不自然な点――土地取得の経緯、専用道路計画の費用対効果、施設の必要性を裏付ける根拠の欠如、黒田副大臣からの不当な圧力が、改めて精査されることになった。
同時に、公安委員会内部で調査チームが組まれ、意思決定の一部に外部関係者の介入が認められた。
同時に報道機関に黒田議員が、副大臣就任前から、あの一帯の土地に対して、一貫して不自然な影響力を行使し続けてきたこと、環境副大臣就任後は、その影響力が、行政権限を通じて、より大規模かつ組織的なものへと変化していたことが、どこからかリークされワイドショーを賑わせた。
報道が一つ出ると、それを追う形で、別の報道機関も、独自の取材を進め始めた。国会でも、野党議員がこの問題を取り上げ、黒田への追及が始まった。
黒田は、当初、「あくまで正当な行政手続きの範囲内である」と主張し続けた。だが、蓮子の報告書に基づく銀行側の内部資料が、何らかの経路で報道機関に渡ったことをきっかけに、状況は一気に悪化した。
融資をめぐる虚偽の説明。環境評価の恣意的な運用。政治家による銀行、企業への不当な圧力。土地取引を利用した、事実上の利益誘導。
これらの疑惑が、次々と明るみに出るにつれ、黒田は、環境副大臣の職を辞任せざるを得ない状況に追い込まれていった。
岡村もまた、無関係ではいられなかった。産廃事業に関する詐欺的な計画の存在が指摘され、岡村興産は、銀行からの信用を完全に失った。融資は正式に打ち切られ、新施設の建設計画は、白紙撤回されることになった。
一連の報道を、蓮子は、自分のデスクで、静かに見守っていた。
「宇佐見主任の報告書が、きっかけだったんですよね」
高橋美咲が、ニュース記事を表示した画面を見ながら、そう言った。
「きっかけの一つ、ではあるでしょうね」
蓮子は、それ以上の感慨を、あまり表に出さなかった。
「でも、これで、全部が終わったわけじゃない」
「終わってない、というのは」
「数字の上での不正は、これで明るみに出た。でも」
蓮子は、画面を見つめたまま、小さく息をついた。
「あの土地に、二人があれほど執着していた、本当の理由は、まだ分かっていない」
その言葉通り、報道によって明らかになったのは、あくまで、融資や行政をめぐる不正の構造だけだった。
岡村興産の先代社長の失踪については、この一連の騒動の中でも、ほとんど注目されることはなかった。三十年近く前の、未解決の事件。今さら掘り返す材料もなく、報道機関の関心も、そこまでは及ばなかった。
黒田と岡村が、なぜあれほどまでに、あの土地に固執していたのか。その本当の理由は、表社会の中では、決して語られることのないまま、事件は、一定の決着を見た。
融資をめぐる不正、現職の環境副大臣による環境評価の偽造と圧力。それらの罪によって、黒田と岡村は、社会的な処分を受けた。
だが、三十年前のあの夜、山へ運ばれた一つの命については、誰も、その真相にたどり着くことはなかった。
証明する術が、そもそも、この世に残っていなかったからだ。
第20話 禁止されたらそりゃ行くでしょう?
事件の報道が一段落した頃、内閣府の中では、ひっそりと、もう一つの手続きが進んでいた。
メリーの調査結果——境界の揺らぎの確認、活性化の時間帯に関する推測、そして、長年にわたる消失事案の記録は、水野を通じて、正式な経路で、関係部署へと報告された。
その結果、公安委員会は、五郎の山一帯について、活発な境界が存在すると判断した。
正式な措置として、山は、関係機関との連携のもと、入山禁止となった。
ただし、この措置が対外的に公表される際の理由は、「有毒ガスの発生が確認されたため」とされた。
もともと産業廃棄物処理施設の建設計画があった土地であることから、この理由は、周囲から見ても、特段不自然には映らなかった。
事件の全貌を知らない者たちは、この説明を、そのまま受け止めた。
国家という組織もまた、説明できないものを、もっともらしい理由で覆い隠す。
人間の事件には、一定の決着がついた。だが、五郎という現象そのものについては、公的な説明が与えられることは、最後までなかった。
村の人々の間では、それでも、昔ながらの言い方が、静かに語り継がれ続けていた。
あの山には、五郎がいる。
その言葉だけが、変わらず、村の暮らしの中に残っていった。
事件が一区切りついてから、二週間ほど経った、ある休日のことだった。
蓮子とメリーは、駅前で待ち合わせ、電車を乗り継いで、あの村へと向かっていた。
どちらも、仕事の道具は持っていない。蓮子の鞄には、調査資料の代わりに、簡単な軽食と、水筒が入っているだけだった。メリーも同様に、公務としての体裁は、どこにも見当たらなかった。
「なんだか、変な感じね」
電車の窓から、流れていく景色を眺めながら、蓮子が呟いた。
「何が?」
「同じ場所に、何度も通ってるはずなのに、今日だけ、まるで違う目的地に向かってる気がする」
「仕事じゃないから」
メリーが、簡潔に答えた。
「それだけの違いで、こんなに感覚が変わるものかしらね」
「変わるものよ」
メリーは、車窓に映る自分たちの姿を、ぼんやりと見つめた。
「私たち、結局学生の頃と変わってないわね」
「禁止されたら、そりゃ行くでしょう」
「そうよね」
二人は、それきり、しばらく無言のまま、電車に揺られた。
最寄り駅に着くと、二人は、以前と同じように、乗り合いバスに乗り換えた。車内には、今日も、数人の高齢者が乗っているだけだった。
村に着いてからは、商店街の小さな喫茶店で時間を潰し、日が暮れると二人は、まっすぐに、山の入り口を目指した。
「入山禁止の看板、本当に出てるのね」
山の入り口に立てられた看板を見て、蓮子が言った。
「有毒ガスの発生確認、か。よくできた理由ね」
「よくできてる、というより」
メリーは、看板を見つめながら、静かに言った。
「本当のことを言えないから、それらしい理由をつけただけ」
「それは、あなたの部署の仕事?」
「たぶんね」
メリーは、それ以上、詳しくは語らなかった。守秘義務は、二人の間にとって、今でも、はっきりとした一線として存在していた。
「でも、私たちは、今日、ここに来てる」
「入山禁止なのに」
「入山禁止だから、こそ」
メリーは、小さく笑った。
「そうね。危ないから来るな、って言われたら、余計に行きたくなる」
「悪い癖よ」
「今さらでしょう」
二人は、看板の脇をすり抜けるようにして、規制線代わりに張られた簡易的なロープの内側へと足を踏み入れた。
木々の間を進むにつれ、周囲の空気が、少しずつ変わっていくのを、二人とも、それぞれの感覚で感じ取っていた。
蓮子にとっては、それは、説明のつかない、しかし確かな違和感として。
メリーにとっては、これまで何度も見てきた境界特有の感触として。
「近いわね、あそこ」
メリーが、足を止めて少し先を指差した。
木々の間から、小さな社が見えていた。
施設の建設計画そのものは白紙になったが、この一帯だけは、以前と変わらない姿のまま、静かに残されていた。
二人は、顔を見合わせた。
仕事としての調査は、すでに終わっている。銀行への報告も、公安への報告も、それぞれの立場で、すでに完了していた。
今、この場所に立っているのは、調査員でも、官僚でもない。
学生時代より少し大人になった秘封倶楽部の二人だった。
「行きましょうか」
蓮子が、そう言って、一歩、前に踏み出した。
「秘封倶楽部として」
メリーは、その言葉と共に一歩踏み出した。
社の手前で、二人は足を止めた。
「私が見てみる」
メリーが、静かに言った。
「大丈夫なの?」
「たぶん。見るだけなら」
蓮子は、それ以上、止めなかった。ここから先は、メリーの領分だということを、二人とも、言葉にせずとも分かっていた。
メリーは、社の方角へ視線を向けたまま、しばらくの間、目を閉じた。
そして、静かに、目を開いた。
揺らぎの向こう側に、何か明確な意思や、姿形があるわけではなかった。
ただの、境界の揺らぎ。もともとは、それだけのものだったのだろう、とメリーは感じた。
人が、そこに何かを捨て続けた。
人が、そこに名前をつけた。五郎、という名前を。
人が、そこに役割を与えた。何かを消してくれる、鬼という役割を。
揺らぎは、その一つ一つを吸い込みながら、少しずつ、輪郭を持つようになっていったのかもしれない。
鬼として振る舞うようになったのは、鬼として扱われ続けたからだ。存在そのものが、人間の側から、形作られていった。
——要するに、村では処理できないものを、全部あの山に押し付けてきた、ってことなんじゃないかと、私は思いますけどね。
村で聞いた、竹田タキの言葉が、ふと、メリーの頭をよぎった。
あの時は、ただの昔語りの一つだと思って聞いていた。だが、今、目の前にあるものを前にすると、タキの言葉は、想像以上に、核心を突いていたのかもしれない、とメリーは思った。
メリーは、それ以上、深く踏み込むことはしなかった。
これ以上は、関わらない方がいい。直感的に、そう判断した。
「どうだった」
蓮子が、静かに尋ねた。
「思ってた通り、よく分からなかった」
メリーは、小さく苦笑した。
「ただ、一つだけ」
「一つだけ?」
「たぶん、これは、村と一緒に生きてる」
メリーは、社の方角を見つめたまま、続けた。
「人が捨てなくなれば、名前を呼ばなくなれば、いずれ、力を失っていく。村が廃れていくのと、同じ速さで」
「消える、ってこと」
「消えるというより……ただの境界に戻るという言い方が近いかもしれない」
メリーは、それ以上、確信を持って言い切ることはしなかった。あくまで、感じ取った印象の域を出ない話だった。
「なんだか、寂しい話ね」
蓮子が、ぽつりと言った。
「そうかもね」
二人は、それ以上、社に近づくことはしなかった。
答え合わせのようなものは、これで十分だった。五郎が何であるかを、完全に解明することが、今日の目的ではなかった。
「帰りましょうか」
「そうね」
二人は、来た道を、ゆっくりと引き返し始めた。
エピローグ おとな秘封倶楽部は続く
事件から、さらに数週間が過ぎた。
黒田副大臣と岡村興産をめぐる一連の不正は、社会的な決着を見た。それぞれの容疑について、司法の場での手続きが進められている。
山は、開発を免れた。
村の未来がどうなるのかは、まだ、誰にも分からない。
蓮子とメリーは、それぞれの日常へと戻っていった。蓮子の会社では、次の案件が、すでに動き始めていた。メリーの部署にも、また別の調査依頼が、静かに舞い込んでいた。
ある夜、二人は、あの居酒屋で、久しぶりに顔を合わせていた。
「ねえ、メリー。来週から、東京に半月くらい出張なんだけど」
蓮子が、枝豆をつまみながら、切り出した。
「お土産、何がいい?」
「あら」
メリーは、少し驚いたように顔を上げた。
「私も、しばらく旧首都圏に用があって、京都を離れる予定だったの」
「え、噓」
「本当よ」
「すごい偶然」
「ほんと」
二人は、顔を見合わせて、小さく笑った。
「メリーは、何の用事なの」
「言えないわよ、そんなの」
「またそれ」と、笑い合う。
「境界巡りかぁ。いいな」
「良くないわよ」
メリーは、苦笑したが否定はしなかった。
「仕事で訪れたって、楽しくないでしょう」
「まあね」
蓮子は、グラスを傾けながら、肩をすくめた。
「私も、資料と数字とにらめっこするだけだもの。東京の景色なんて、見てる暇、なさそう」
「お互い様ね」
「お互い様」
二人は、それぞれのグラスを軽く合わせた。
仕事では、これからも、別々の場所で、別々のものを追いかけていく。
それでも、こうして向かい合えば、結局、いつもと変わらない、二人の時間が流れていく。
次にどこで、何が待っているのかは、まだ、誰にも分からない。
それでも、二人は、また、それぞれの持ち場へと戻っていく。
仕事では、別々の人間。
オフでは、変わらず、秘封倶楽部。
その日常は、これからも、静かに続いていく。