Coolier - 新生・東方創想話

古代人何食べる?

2026/08/28 01:22:32
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 事件がない。
 射命丸文は、机の上に頬杖をついていた。
 正確に言えば、事件そのものが存在しないわけではない。妖怪同士の威嚇合戦なら日々どこかで起きているし、人里では酔っ払いが人家の前に積んである桶に突っ込み、妖怪の山では河童が妙な機械を爆発させる。そして、博麗神社には相変わらず賽銭がない。
 しかし新聞にするほどの出来事はない。
「どうして事件というものは、こちらが暇なときに限って起きないんでしょうねえ」
 文は誰にともなく呟く。
 もちろん、大事件ばかりを待つ新聞記者というのもよろしくない。大きな異変が起きれば記事には困らないが、幻想郷そのものが危なくなる。そうでなくとも被害者が出る可能性もある。新聞の売上のために異変を待ち望むようになったと見られるのは社会信用に関わる。なお、今現在の信用は別勘定とする。
 彼女は流石に自分がそこまでの目線で見られているわけではないと信じている。
 せいぜい、
「突如雲間から太陽とは別の正体不明な巨大な光が出現し、妖怪の山からも人里からも見えて、しかも人的被害がなく、翌日の昼頃には原因まで判明してくれるくらいの事件があればちょうどいいんですが」
 と思う程度である。願望としてかなり意味不明かつ具体的であった。
 卓上には、次号の候補を書き散らした紙が何枚か転がっている。
 ──妖怪の山、秋の茸事情。
 内輪すぎるので没。
 ──河童の新製品特集。
 内輪な上に広告と記事の境界が怪しくなるので没。
 ──博麗神社、今月の賽銭額。
 知っていることがばれた時点で本人にカチコミされそうなので没。
 ──霧の湖における妖精の生態。
 氷精とその友人ぐらいしか対象がいなくて目新しさがないので没。
 ──紅魔館の食事。
 原料の関係で没。そもそも当主をモケーレ・ムベンベとして取材した方が純粋に面白い。
 文は羽根ペンの尻で机を叩いた。
「日常的で、しかし少しだけ非日常。誰でもわかって、写真映えして、話を広げようと思えばいくらでも広げられる……」
 大事件ほど読者を選ばない。そして変に学術的すぎてもいけない。妖怪史の古文書比較や幻想郷の建築様式の今昔などを一面に持ってくれば喜ぶ者は喜ぶだろうが、八百屋の主人が客を待ちながら読む記事かと言われると微妙である。
 日常の延長にありながら、少しだけ自分の知らない世界が見える、そういうものがいい。ふと先ほどの没案の一つが頭によぎった。
「紅魔館の食事……食べ物?」
 羽根ペンが止まった。
「食べ物、ですか」
 悪くない。いや、むしろ良いのではないか。
 人妖ともに食事をする者は多い。好き嫌いはあっても「食」にまったく興味がない者は少ない。料理そのものを紹介するだけなら料理屋の献立表だが、そこに人物を絡めれば記事になる。
 文は新しい紙を引き寄せ、さらさらと書いた。
 ――幻想郷の有名人が知っている、美味しい料理。
「これですね」
 言葉にしてみると妙に座りがいい。有名人が普段何を食べているかでもよい。昔食べた忘れられないものでもよい。故郷の料理でも、変わった食べ方でもよい。実物を調理したならば写真も撮れる。記事を元に読者が真似できる可能性もある。
 何より、一度で終わらせる必要がない。第一回、第二回、第三回と、取材相手を変えるだけで続けられる。
「素晴らしい。事件が起こらなくても紙面が埋まります」
 紙面を埋められることを喜ぶのは新聞記者として正しいかどうかはともかく、文は上機嫌になった。
 問題は第一回の対象を誰にするかである。連載というものは初回が肝心だ。最初で読み手を掴めなければ二回目などの意味がかなり薄れる。
 ペンを動かし候補を整理していく。
「妖怪の山……」
 却下。読者から「身内記事か」と言われる。そもそも山の食事情を取り上げたところで、山の者以外が再現できる保証はない。確かにこっそり入ってくる人間の事例はあるが、死者の出る事故などが起きれば大事である。
「守矢神社」
 却下。外の世界の知識もあるなど、確かに魅力的だ。しかし確実に宣伝として乗っ取られる。
「博麗神社」
「……食文化?」
 確かに宴会のときは幻想郷のみならず、隣接する領域も含めて様々な食が集まるが……
 ……次。
「命蓮寺」
 これは間違いなく有力だろう。寺の食事は地味ではあるが、洗練された文化としてまとまっている。精進料理をはじめ、保存食、山菜、豆類の扱いなど、掘れば掘るほど出てくるだろう。村紗や一輪あたりに聞けば、寺に入る前の食の記憶もあるかもしれない。
 問題は、
「絵面が素朴すぎますかね」
 初回としてのインパクトが弱い。だが企画そのものが好評なら二回目以降には非常に良い。文は「第二候補」と丸で囲んだ。
「永遠亭」
 書いた瞬間に、永琳の顔が浮かんだ。記事を出す頃には料理紹介ではなく健康指導欄になっている可能性が高い。企画として軌道に乗った後ならともかく、最初に持ってくると企画そのものが健康特集として浸食されかねない。
 残った候補を眺めているうち、文の目が一つの名に留まった。
「神霊廟」
 羽根ペンの先が、紙を二度叩く。
 聖徳道士、豊聡耳神子。
 古代の人物。
 蘇我屠自古。
 物部布都。
 いずれも、今となっては伝承や記録の向こうにいるはずだった者たちである。文は椅子から少し身を起こした。
「昔の料理ですか……」
 これはいい。ただ美味しいものを紹介するのだけではない。失われた味。歴史の向こうに消えた料理。古代の人間が実際に口にしていたもの。そう銘打てば読者の食いつきも違う。
 文化的ではあるが、料理という入口があるから堅苦しくなりすぎない。
 そして何より、本人に聞けるという前提。これが強い。幻想郷ならではである。外の世界では、考古学者が土器の外面についた焦げ跡や底にこびりついたシミを分析して推測するところを、幻想郷では本人に直接取材できるのだ。
 これはもう神霊廟で決まりだろう。
 文は紙の上に大きく丸を書いた。



 神霊廟を訪れた文を豊聡耳神子は存外あっさりと迎え入れた。
「食事の取材?」
「はい」
 文は手帳を開き、笑顔を作った。
「新企画です。幻想郷の著名人に、美味しい料理、忘れられない味、ちょっと変わった食べ方などを伺おうかと。日常の話題ですから誰でも読めますし、その人の意外な一面も見える。評判がよければ連載化も考えています」
「なるほど」
 神子は感心したように頷いた。
「君にしては穏当な企画だ」
「どういう意味です?」
「文字通りだよ」
「それはそれで引っかかりますね」
「まあ座ってくれ」
 二人は共に腰を下ろし、文はメモの準備を整える。
 神子の前には茶。文の前にも茶。
 取材環境としては申し分ない。
「それで、私に昔の食事について聞きたいわけだ」
「さすが、お話が早い」
「君は『失われた古代の美食! 復活した太子が語る千四百年前の味』くらいの見出しを考えているのかな」
「……そこまで煽りませんよ」
「『幻の古代料理』」
「それくらいなら」
「『現代人が唸る古の味』」
「いいですね」
 文は思わず手帳に書き留めた。
 神子が笑った。
「協力はするが、一つ問題がある」
「問題?」
「今の食べ物の方が大体何でも美味しい」
「はい?」
 文の筆が止まった。
 神子は茶を一口飲んだ。
「当時と比較すればね」
「……ええと」
「大体何でも美味しいよ」
 二度も言われた。文は瞬きをした。
「いや、そういう話ではなくですね。昔だからこそ美味しかったもの、とか。今では失われた食文化とか」
「もちろん、そういうものもある。しかし君の企画の前提として、昔の食事をどこか特別に美味しいものとして想像しているなら、まずそれを捨てた方がいい」
「…………」
「米からして違う」
 神子は平然と話し始めた。
「今の米は美味しい。白米にしても玄米にしても、比較にならないほどだ」
「そんなにですか?確かに昔よりは美味しくなったなあとは思いますが……」
「そんなにだよ」
 神子は即答した。
「君たちは毎日食べているからありがたみを忘れている。粒が揃っている。収量も多い。炊けば柔らかくなる。香りもいい。品種ごとの違いまで選べる」
 文は手帳にメモをしながら尋ねた。
「しかし昔にも白米はあったでしょう?」
「あったとも。だからこそ大変だった」
 神子は手を組み、少し前のめりになる。
「今のように脱穀機や水車などに頼るというわけにはいかなかった。そんな便利な道具なんかなかったからね。そもそも、米をつくことそのものが重労働だ。宮廷ともなれば、そうした仕事を担う人々まで必要になった。実際にそれを氏族単位で担い集団の象徴とする者たちまでいたほどだ。」
「米つきが重労働なのは分かりますが、そこまでのものだったんですねえ」
「『昔の白米』という言葉に特別な響きや優雅なものを感じるかもしれないが、白くするまでに誰かが延々と杵を振っている。そしてそこまでしても素材の味は覆せない。」
 文の頭の中にあった、第一面を飾る予定だった優雅な古代食像が杵の音とともに少しずつ崩れていく。
「野菜も今の方がいい」
「それも?」
「種類が多い。品種改良も進んでいる。苦みや筋が少なく、大きく、柔らかく、甘いものまである」
「では、肉は」
「畜産物などなおさらだ」
 神子は肩を竦めた。
「君の想像する意味での畜産が、当時どれほど一般的だったと思う?」
「……あまり」
「そういうことだ。集落の中を走り回る鶏などはいた。だがそれだけだ。今は卵も乳も、ある程度の品質のものが手に入る。幻想郷は外と比べれば流通に限界があるとはいえ、それでも私の時代からすれば贅沢なものだよ」
 文の筆が少し遅くなった。
「調味料も」
「豊富だ」
「香辛料も」
「手に入る時点で比べ物にならない」
「調理技術」
「格段に上がっている」
「…………」
「火の入れ方一つ取っても違う」
 神子は楽しそうだった。文は楽しくなかった。
「確かに竈などはあった。だが冶金技術が比べ物にならない。金属製の調理器具の質の違いは言うまでもないだろう。火加減を調節する技術も違う。今の人間は『弱火でじっくり』などと簡単に言うが、その弱火を一定に保つこと自体、環境と道具に左右される。食材に刃を入れる技術もそうだ。刃物の質から違う上に、職人技という概念も薄かった。聞くところによれば、私たちの時代の200年以上後に発達してきたものらしいね」
「太子様」
「なんだい?」
「企画の骨が折れました」
「おめでとう」
「おめでたくありません。私は何を書けばいいんですか?」
「それを考えるのが君の仕事だろう?」
「……」
 文は手帳を閉じかけた。だが、閉じない。
 ここまで来て帰るわけにはいかない。
 書くべき事件がないのである。つまり、次号の一面がないのである。
 これは記者として非常に切実な事情だった。
「しかしですよ」
 文は仕切り直した。
「質が今の方が高いからといって、昔ならではの味がなかったわけではないでしょう」
「それはもちろん」
「では、それを教えてください」
「だが再現は難しい」
「そこをなんとか」
「食材が違う」
「承知の上です」
「酒も違う。米も違う。水も違う。塩も違う」
「『当時の味を完全再現するものではありません』と但し書きを入れます」
「随分食い下がるな」
「新聞記者ですので」
「紙面に載せられる事件がないんだね」
 文は黙った。神子は微笑む。
「だから企画をなんとか考えた」
「そこは記事に不要です」
「では、いくつか挙げよう」
 文の筆が瞬時に構えられた。
「お願いします!」
「まずは──粕漬けなどはどうだろう」
「粕漬け?」
 文は少し拍子抜けした。
「それなら今でもありますね」
「あるね。だからこそ再現もしやすい。ただし、同じものではない」
 神子は指を一本立てた。
「今の酒粕と当時のそれとでは風味が違う。酒そのものが違うから当然だ。酒の副産物としてできる酒粕に違いが出るのは当然だ。」
「なるほど」
「だから、昔風にもあったということで今の野菜や魚を今の酒粕で漬けても、当時の風味には近づかない」
「では、どうやったら近づけられるんですか?」
「今あるものから当時の酒粕に近いものを再現するんだよ。当時の酒は、おおよそ今でいうところのどぶろくや濁り酒に近いものだった。」
「つまり?」
「どぶろくを粗く濾して出てきたものを使う。もちろん、圧搾技術や濃し布の品質なんかは今の方が当然上だ。さらに、酒に使われる米そのものも全然違う。だが雰囲気を味わうだけなら、出てきたものを少量、調理の半刻ほど前に満遍なく食材にすり込む。それで十分だろう」
「それなら記事としては良さそうですね。読者も試せますし」
「そうだね。もっとも、酒粕を使う以上酒気は残るから、子供に食べさせるときなどは一応気をつけた方がいい。よく焼くことをお勧めするよ」
 文は筆を止めた。
「そこまで言います?」
「言う」
「永遠亭を避けてきたのに」
「何の話だ」
「いえ、こちらの話です」
 文は手帳に「※酒粕の扱いに注意」と書き添えた。
 悪くない。地味ではあるが、古代と現代の違いも説明できる。
「次は?」
「飛鳥鍋」
「飛鳥鍋」
 粕漬けよりも、それらしい名前が出てきて文は心の中で小さくガッツポーズをした。
「簡単に言えば乳で鶏を煮る料理だね。由来は飛鳥時代にまで遡ると伝わっているよ」
 神子が、そこで妙にきっちりと言葉を区切った。
「伝わる?」
「私自身が食べたわけではない」
「え?」
「私より後の話だよ」
 神子は茶を飲む。
「私たちの時代より少し後。カルの代だったかな」
「カル……」
「後に言うところの孝徳天皇の代」
「……?」
「大化の代のスメラミコト」
「ああ、そういうことでしたか」
 文は頷いた。しかし、これから続く話はおそらくよく分からないものだ。そう予感した。
「唐の使いから伝わった、乳を飲用とする概念から発展して成立したと伝わっている郷土料理だ。宮中で乳牛を飼うようになったことが発端だと言うがね」
「太子様が召し上がった料理、ではないんですね」
「違う」
「うーん」
 文としては、多少惜しい。
 本人が食べた料理という方が見出しとして強い。
「ただ、話としては聞いたことがある」
「どんな?」
「乳に鶏肉を入れて煮る」
「見た目は……」
「癖がありそうだね」
「正直に言えば……」
「ところが案外すんなり食べられて、体も温まるそうだ」
「へえ」
「ただし伝聞だ」
 神子は再び念を押した。
「本当にそうなのかは保証しない」
「そんなに但し書きを増やさなくても」
「千年以上も経ってから『太子が絶賛した』などと書かれるのは困る」
「書きませんよ」
「君は書かなくても、君の記事を見た誰かがそう言うかもしれない」
「……よくわかってますね」
「人の話がどう変わっていくかは、嫌というほど知っているからね」
 一瞬だけ、神子の笑みが別の意味を帯びた気がした。
 文はそこを追わなかった。
「そもそも……『伝聞』と強調するのは君のためでもある」
「……と言いますと?」
「この料理にまつわる伝承は奇妙な部分があるんだ。カル……孝徳天皇は即位して半年と経たずしてミヤコを飛鳥から難波に移している。そこから治世を終えるまで難波をミヤコとしていたんだよ。それなのに飛鳥の郷土料理の飛鳥鍋なんだ」
「即位から都を移すまでの期間に伝わった、あるいは天皇の御在所とは別に飛鳥も都として扱われていた可能性は?」
「それがね、国の正史の『日本書紀』には孝徳の治世に唐の使いが来た記述がないんだよ。一番近いのは孝徳の治世が終わって10年以上経ってから。当時は隋や唐からの外交使が来るというのは一大事件だったからね。それそのものをあえて書かないというのも考えづらい。あるとしたら外交の内容を詳しく書かないという方向だね。事実、『海外国記』と『日本書紀』との間での記述の差異はそう言うものが見える。」
「それに君は『ミヤコ』の意味を少し別の意味合いで考えているかもしれない。意味をそのまま漢字に当てはめると「宮処」になる。つまり、スメラミコトの在所だ。これを踏まえると、そのときの飛鳥を『ミヤコ』として扱うのは難しい議論の対象になってしまう。」
 文は半分の内容を理解しているが、もう半分は理解できていないような表情で聞いていた。だが、かろうじて神子が伝承の内容を切り分けているということだけは理解できた。
「……ひょっとしたら伝承を破壊しかねない話をしていません?企画の骨を折られたばっかりなのですが……」
「だから『伝承』と『伝聞』を使えと言っている。『伝承』を本当に破壊するのは無粋だ。『伝聞』ならば情報の正確性や責任論よりも内容を主役にできる。そして君のためだと言っている。難しい話をしたのも知識をひけらかすためじゃないよ。面倒くさい読者が突っ込んできたときに切り返すための材料を渡しただけだからね。君がちゃんとメモを取っていたかは別だけど」
「なるほど」
 内容の理解はともかく、言葉のメモを取っていたのは幸いだった。少なくとも文はそう思った。しかし、今日の取材は料理である。クレーマーの対処も大切だが、今はとにかくネタ探しである。
「しかし飛鳥鍋ですか。記事向きですね。冬なら写真もよさそうです。再特集記事も組めそうな気がします。それで……ほかには?」
「欲が尽きないねえ」
「記者として捨ててはいけない欲だと思っているので」
 文は少し得意げな笑みを浮かべた。
「ふふっ、そうだね。なら、三つ目は……」
 神子は少し考えて言った。
「蘇」
 文の表情が変わった。
「ああ」
「知っているか」
「それはまあ」
 文は懐かしそうに目を細める。
「私だって千年以上は生きていますからね。ずっと山に閉じこもっていたわけでもありませんし」
「そうだったね」
「蘇がまだあったころも知っていますよ」
 牛乳を煮詰め、煮詰め、さらに煮詰める。今の菓子のようでもあり、乳製品の保存食のようでもある。
 どこまでを蘇と呼んだか、時代や場所によって話は複雑になるが、少なくとも文にとっては歴史書の中だけの単語ではない。
「懐かしいですねえ」
 彼女の記憶では食べたことがあるかどうかについてすらあやふやだ。だが、思い出そうとすると同時に駆け巡る。駆け出しだった頃の日々。今よりも未知に怯えていた人間たちの社会。そしてどこまでも広がる空。
「なら、これで一つ記事が書けるのではないか?」
「書けますけど」
 文は現実に戻った。
「これ、結局乳ですよね」
「乳だね」
「飛鳥鍋と同じ問題があります」
「ああ、言われてみればそうだね。必ずしも材料を調達できるのかというところで躓く可能性がある、と」
「一般家庭向け企画なのに、材料の段階でつまずいてどうするんです」
「君はいつから料理新聞になったんだい?それに粕漬けがまだあるだろう」
「読者が『やってみよう』と思えることは大事なんですよ。候補が狭まるのは嬉しくはありません」
「なるほど。商売人だ。それも市場まで見ている」
「新聞記者です」
 文が訂正した、そのときだった。
「神子様!」
 奥から声がした。ほどなくして、物部布都が姿を現す。
「客人か?」
「射命丸文だよ。昔の美味しい料理を知りたいらしい」
「ほう!」
 布都の目が輝いた。
「古の味を!」
「ええ、まあ」
 文は軽く頭を下げる。
「何かおすすめが?」
「あるぞ!」
 布都は即答した。
「鹿の醢などよい!」
「ししびしお」
 文は筆を構えた。しかしその文字列と言葉触りに何とも言えぬ不安を覚えた。名前だけなら肉醤のようにも聞こえる。それならば悪くないかもしれないが……
「鹿肉を調理したものですか?」
「うむ!」
 布都は嬉しそうに大きく頷いた。
「鹿の肉や臓腑に塩を揉み込み、壺に詰めて置く」
 文の筆が止まった。
「……置く?」
「うむ」
「何日ほど?」
「日数で見てはならんぞ!」
「どうなるんです?」
「うまくなる」
 答えになっていない。
「ええと、その後火を入れたり?」
「違うぞ。どちらかといえば――」
 布都は少し考えた。
「今でいう塩辛に近いかの」
 文の顔が引きつった。
「鹿の?」
「うむ」
「肉と」
「うむ」
「臓物の」
「うむ!」
 なぜそんなに嬉しそうなのか。
「塩辛」
「そのようなものよ」
 布都は身振りを交えて説明し始めた。
「肉も臓腑も刻んでよいし、部位によっては大きくてもよい。塩をよく揉み込んで壺へ入れる。そこへ酒を加えることもある」
「酒」
「粟を入れてもよい」
「粟」
「山椒などを入れる者もおったな。まあよい。それから適当な布やらで蓋をしての」
「はい」
「放っておく」
「……はい」
「待つ」
「…………」
「待てばできる」
「料理の説明として途中が怖すぎません?」
「なにがだ?なぜだ?」
「なぜでしょうね」
 文は自分の手帳を見た。
 鹿肉。内臓。塩。酒。粟。布。放置。
 この並びを新聞に掲載したとき、読者が「美味しそう」と思う確率を計算しようとしてやめた。
「それは……発酵食品なんでしょうか」
「発酵……?」
「ええと、保存食という意味では合理的ですね」
「もちろんだ!」
 そこまではいい。理屈はわかる。
 食肉を塩とともに保存し、微生物の作用によって味を変化させる食品は世界中にある。
 文も長く生きている。そんなことは十も承知している。
 だが、
「内臓も」
「当然入れるな」
「鹿の」
「もちろんじゃ!」
「なるほど」
 写真は無理だなと文は思った。しかし布都は続ける。
「そしてな、汁もよいぞ」
「汁?」
「鹿からにじみ出て壺の底に溜まる」
 文の筆が、完全に止まった。
「……どんな?」
「白く濁っていることもある」
「はい」
「黒っぽいこともある」
「はい」
「実によい」
「何がです?」
「わからんのか?」
「実食したことがないもので……」
 文は取材用の笑顔を保った。長年鍛えた記者の技である。その笑顔の裏側で、第一面候補が猛烈な速度で後退していく。
「これを飯に少し」
 布都が指で何かを垂らす仕草をした。
「こう」
「やめてください」
「なぜだ」
「今、私の頭の中で映像になりました」
「さらに良く扱うならば」
「まだあるんですか」
「熟れたら壺をきちんと閉じねばならぬ」
「それはそうでしょうけど」
「蓋をした上から埴土で覆う」
「埴土……粘土ですか」
「うむ。それで地に埋める」
「埋める」
「雨が直接かからぬところがよい。覆い屋の下などにな」
「なぜ急に鹿を埋葬するんですか?」
 文は馬鹿ではない。むしろ頭が回る方だ。地中に埋めるのも温度の大きな変化を避けるためだろうとすぐに理解した。だが、肉や臓物を壺に入れられ埋められる鹿という構図はどうしても埋葬にしか見えなかった。
「言い得て妙じゃな!確かに我らの時代の埋葬では棺やかわらけの甕などに人を入れ、埴土で穴を塞いでから埋めるということをしておったぞ!よく分かっておるではないか!」
 最悪なところで共鳴してしまったと文は気付いたが遅かった。布都はますます上機嫌になる。後悔した文は藁にも縋る思いで神子を見た。
 しかし神子は茶を飲んでいた。止める気はないらしい。
「……太子様」
「なんだい?」
「これは新聞に載せても大丈夫な知識なんでしょうか」
「何が?」
「読者が真似して」
「それを判断するのが君の仕事じゃないのかな」
 即答だった。
「布都」
「なんじゃ?」
「少なくとも今、昔の作り方でやるのは駄目かな」
「む」
「温度管理も衛生状態も違う。我々が平気でも、それをつまみ食いする者が現れた場合に腹を壊さないで済むかはまた別だからね」
「なるほど」
 布都は素直に頷いた。
「では、おぬしはよく知る者の監督のもとで作るがよい」
「そういう問題ですかね……」
 文は手帳に大きく、「家庭で真似しないこと」と書いた。そして思った。これでは料理紹介ではなく危険物取扱注意である。
「布都さん」
「なんじゃ?」
「もう少しこう……発酵させたり、壺に詰めて長期間放置したりしないものはありません?」
「ふむ」
 布都は腕を組み、首を傾げた。
「すぐ食べられるものか」
「そうです。それです」
「ならば、なますはどうじゃ」
「なます?」
 文の目に、わずかな希望が戻った。
「なますなら今でもありますよ。お正月の紅白なますとか」
「ほう」
「大根と人参を細く切って、酢で和える。あれの原型のようなものですか?」
「原型かどうかは知らぬが、遠い親戚ではあるかもしれぬな」
「おお」
 文は前のめりになった。
 ようやく来た。
 現代人にも馴染みがあり、歴史的な違いも語れる料理。まさに求めていたものではないか。
「ではぜひ、そのなますについて」
「よかろう!」
 布都は少し得意げに胸を張った。
「まずなますの字を見よ」
 文は手帳に書く。
 膾。
「はい」
「左に月があるじゃろう」
「ありますね」
「これは肉月でな」
 文の筆が止まった。
「…………」
「膾というものは本来――」
「ちょっと待ってください」
「なんじゃ?」
「今、嫌な予感がしました」
「気のせいではないか?」
「たぶん違います」
「膾は本来、肉を細く切ったものよ」
「やっぱり!」
「獣臭さが前提だと儒家の書物にも書いておったぞ」
 文は天を仰いだ。
「なぜです!なぜ一度持ち上げてから落とすんです!」
「我は何もしておらぬぞ!」
「紅白なますを返してください!」
「知らぬわ!」
 布都は心外そうだった。
「嫌なら魚肉でもよいぞ」
「幻想郷だと生の淡水魚になるので改善されてません!」
「作るにはな、新鮮な肉や魚を細く切る」
「はい」
「……」
「……?」
布都は首を急に傾げた。少なくとも文にはそう見えた。
「それから……?」
「なんじゃ。なますの説明は終わったぞ」
「……は?」
 文は再び上を仰ぎ見た。神霊廟の天井は壮麗な文様が刻まれていた。
「……酢などは?」
「和えても美味いじゃろうな。辛味のあるものや生姜などを添えてもよいかもしれぬ」
「薬味ということでしょうか」
「獣臭い肉にはよく合う」
「獣の生肉から離れてください!」
「なぜじゃ!」
「私の記事の読者層を考えてください!」
「古の美味を知りたいのであろう!」
「知りたいですけど、食欲を失わせたいわけじゃありません!」
「ならば美味そうに書けばよいではないか!」
「記者の技量に無茶を要求しないでください!」
「鹿の肉をうまく熟れさせるよりはよほど容易ぞ!」
「比較対象がおかしいんですよ!」
 文と布都の声が神霊廟に響いた。そのあいだも神子は茶を飲んでいた。
「太子様も何か言ってください!」
 とうとう文が声に出して助けを求めた。
「そうだね」
 神子は湯呑みを置いた。
「膾なら鹿に限らず鴨でもいい」
「そういう援護はいりません!」
「それから、現代の人間が安易に生肉を食べるのは勧めない」
「それは当然ですよ!」
「寄生虫や食中毒があるからね」
「他のところを避けてきた意味が本当になくなってきました……」
 文は頭を抱えた。企画開始前の彼女の脳裏には、もっと美しい紙面があった。
 薄明の古代、失われた王朝、石造りの廟、復活した聖人が静かに語る、千四百年前の味。形を取り戻した湯気の立つ料理。そこへ添えられる、現代では失われた物語。
 実際に出てきたものは……
 酒粕、牛乳、さらに牛乳。鹿肉と臓物を塩漬けにして壺ごと埋めた何か。その底に溜まった白かったり黒かったりする汁。そして生肉。
「……古代」
 文は呟いた。
「うん?」
 神子が聞き返す。
「私、古代というものに少し期待しすぎていたのかもしれません」
「どんな期待を?」
「もう少しこう、雅で」
「うん」
「素朴で」
「うん」
「自然の味を活かした」
「うん」
「身体に優しいものを」
「その幻想はどこから来たんだろうね」
「今、私も疑問に思っています」
「昔の人間だって人間だよ」
 神子は笑う。
「食べられるものを食べ、美味しくしようと工夫し、保存できるものは保存し、貴重なものはありがたがる。そして、ときには現代人から見れば奇妙なものも食べる」
「わかってはいるんですけどねえ」
 文はため息をついた。
「記事にしたときの画面というものがあります」
「歴史は新聞の紙面を気遣ってはくれない」
「そこを何とかするのが記者なんですよ」
「なら、腕の見せ所じゃないか」
 言われて、文はむっとした。だが反論できない。記者は素材が悪いからといって嘆く職業ではない。悪い素材からでも面白い記事を作る。いや、そもそも本当に悪いかどうかさえ、まだわからない。
 文は手帳をめくった。
 粕漬け、飛鳥鍋、蘇、鹿の醢、膾。
 並べてみれば、思ったよりなかなか面白い。
 少なくとも「昔は質素で健康的な自然食ばかりだった」という単純に想像できる内容より、はるかに生々しく解像度が高い。
「……まあ、記事にはできます」
「そうか」
「鹿の醢は削ります」
「なぜじゃ!」
 布都が抗議した。
「読者が朝食中に読む可能性があるからです!」
「飯に合うというのに!」
「だからこそです!」
「汁だけでも!」
「載せません!」
 文はきっぱり言い切った。それに対して布都は露骨に不満そうな顔をした。
「では膾」
「それも大幅に表現を穏当化します」
「記憶を捻じ曲げるつもりか!」
「『現代のなますとはかなり異なる肉料理もなますと呼ばれていました』くらいです!」
「肉月についても書け」
「余白があったら」
「鹿がよいぞ」
「魚にします」
「なぜじゃ!」
「絵面です!」
「魚も生ではないか!」
「鹿よりは読者が耐えます!」
 ひとしきり言い争った末、文は手帳を閉じた。
「ともあれ、ありがとうございました」
「もういいのかい?」
「これ以上続けると、本当に朝刊で扱えない話が出てきそうです」
「まだあるぞ」
 布都が言った。
「聞きません」
「鹿の」
「聞きません」
「腹に」
「絶対に聞きません!」
 文は立ち上がった。鞄へ手帳をしまい、写真機を肩へかける。
「粕漬けと飛鳥鍋を中心にします。蘇も囲み記事には使えるでしょう。『古代の食事は現代より美味しかったのか?』という切り口も悪くありません」
「結論は?」
「『少なくとも太子様は現代の方が美味しいと主張』」
「正しい」
「夢がないんですよ」
「事実に夢を要求するな」
「新聞記事には少しくらい必要です」
「君の新聞には多すぎるほど入っているだろう」
「褒め言葉として受け取ります」
「そうしておくといい」
 文は笑い、廟の出口へ向かう。そして、その途中で振り返る。
「ああ、最後に一つ」
「なんだい?」
「太子様ご自身が、今一番美味しいと思うものは?」
 神子は少し考えた。古の料理でもなく、珍味でもなく、しばらくして言った。
「炊きたての白い米かな」
「……普通ですねえ」
「だから言っただろう。今の食べ物は美味しいんだ」
「記事の締めには使えそうです」
 文は手帳を再び取り出し、その一言だけ書きつけた。
「では、また何か面白いものがありましたら」
「こちらから売り込んでも?」
「内容によります」
「守矢には言わない方がよさそうだね」
「そこまで聞こえてました?」
「君の欲はわかりやすい」
「耳が良い人はこれだから」
 文は苦笑した。
「それでは」
 次の瞬間には風が起こり、彼女の姿は廟の外へ消えていた。
 しばらくして、遠くで羽ばたきの音さえ聞こえなくなる。静寂が戻った。



 物部布都は、出口の方を見たまま立っていた。
「……神子様」
「うん」
 声の調子が変わっていた。
 先ほどまでの、どこかあどけなく、勢い任せにも聞こえる調子ではない。
 平坦で、静かで、よく整った声だった。
「申し訳ございません。戯れが過ぎました」
 布都は頭を下げた。しかし神子はあえて答えなかった。
 彼女は続ける。
「鹿の醢の汁の色まで持ち出す必要はなかったかと」
「いや」
 神子は湯呑みを持ち上げた。
「あれでいい」
 布都が顔を上げる。
「よろしいので?」
「よろしいとも」
「射命丸は、おそらく記事にはほとんど使いませぬが」
「それもいい」
「左様で」
 神子は湯呑みの中を眺めた。茶の表面に、廟の灯りが薄く映っている。
「人は昔を美しくする」
 穏やかな声だった。
「遠ければ遠いほどね」
 布都は黙って聞いていた。
「失われた都、失われた制度、失われた礼、失われた信仰、失われた食事。すべて、触れられなくなった瞬間から美しくなり始める」
「それ自体は我らにとって利のあることですが──ということでしょうか」
「ああ」
 目を瞑りつつ神子は即答した。
「信仰という点では非常に都合がいい」
 伝説は整っている方がよい。人々が憧れる余地があった方がよい。現実の人間には欠点があるが、歴史の中の人物は磨くことができる。語られるたび余計なものが削られ、わかりやすい形になっていく。
 ある者は聖人となる。
 ある者は悪人となる。
 ある時代は黄金の時代となる。
 ある時代は暗黒の時代となる。
「古いものに価値を見出してもらうこと自体は悪くない。むしろ、私たちには有利だ。事実、それにより復活することができたという側面もあるからな」
 神子は言った。
「だが、それが進みすぎると困る」
「実在した吾らとの差が広がり、信仰の傀儡となる」
「そういうことだ」
 神子は笑った。
「彼女は『古代の美味』を求めてきた」
「はい」
「もちろん美味しいものはあった。工夫もあった。今では失われた技法も価値観もある」
「されど、それだけではなかった」
 布都は静かに視線を横に流しながら言った。
「血もあれば臓腑もある。腐敗との境も曖昧な保存食があり、飢えもあり、硬い穀物もあり、今の者が眉を顰める食べ方もある」
「そうだ」
「それらを隠し、美しい部分のみを示せば──」
「人々が憧れる『古代』は、ますます私たちが知っている時代から離れていく」
 神子はそこで少し間を置いた。
「やがて彼らが信じる私たちと、ここにいる私たちは別物になる」
 布都の目が細くなる。
「信仰を得るだけならば、それでも構わぬでしょう。しかしそうとは言えない。」
「殊に幻想郷ではね」
「ええ、承知しております」
 神子は周囲を見回した。
 神霊廟。
 死者が眠り、伝説が立ち上がり、歴史の向こうに押し込められたものが現に歩き回る場所。
「外の世界では都合のいい歴史を作っても、死人は墓から起きてこない」
 神子は微笑んだ。
「少なくとも普通は」
「ここでは起きますな」
「起きるとも」
「当事者が口を挟む」
「そうだ」
「文書が失われていても、書いた者が残っていることさえある。或いは歴史の中で散逸した書物が現れるかもしれない。」
 幻想郷には、古い妖怪がいる。神がいる。亡霊がいる。何百年も前の出来事を直接見ていた者が、その辺で茶を飲んでいる。外の世界ならば史料同士を比較し、推測し、議論するほかないことについて、
 ──いや、そんなことはなかったと、当時を知る何者かが口を挟む可能性がある。
「だから」
 神子は言った。
「綺麗事だけを並べるのは、長期的には得策ではない」
「いずれ検証される」
「検証されなくとも、疑う者は出る」
「疑われれば」
「美しい嘘を守るために、さらに嘘が必要になる」
 布都は少し目尻を低くして言った。
「割に合いませぬな」
「ああ、割に合わない」
 神子はかすかに微笑みながら続けた。
「さあらば、はじめより清濁をともに見せておけばよい」
「いにしへにも珍事はあった」
「ありふれた日常もあった」
「雅なものもあった」
「泥臭いものもあった」
「睿知もあり」
「愚挙もあり」
「霽れも」
「褻も」
 二人の言葉が交互に続く。それは言にて義を論ずというより、既に共有している知を照会し合っているようだった。
「さすれば」
 布都が言った。
「吾などを好む者が我らの偶像を好むことを妨げうる」
「完全には妨げ得まい」
「然而、隔たりは縮めうる」
「然り」
 神子は頷いた。
「寡人は聖人たるを否定するつもりはない」
 少し楽しそうに言う。
「使える肩書きを捨てるほど潔白でもない」
 布都の口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。
「存じてあげております」
「尤も、聖人の巻子装に自ら収まりきるつもりもない」
「吾などは画や文でなきゆえに」
「然り。現に生けるからには」
 その一言だけは、ほんの少し重かった。長い眠りの後に蘇った者の言葉だった。
「……かの者は彼まで思ひ得ましょうか」
「難きことなり」
 神子は即答した。
「ただ今日の言のみなれば」
「然らば、かのししの醢は無駄となりぬべきか」
 布都はすこし意地悪げな笑みを浮かべる。
「否」
 神子は笑った。
「かの天狗、覚え帰れり」
「詳らかに記さずといへども?」
「然り、時に念ずるは記すに越ゆ」
 布都は考えた。確かに、射命丸文は鹿の醢を記事にはしないだろう。だが忘れもしないだろう。
 古代の料理について次に誰かと話すとき、彼女の頭の片隅に置かれた壺の中から鹿が顔を出すだろう。そして、白かったり黒かったりする汁が滴っている。
「うべ」
 布都は言った。
「さは十全にあらう」
「然らば、次なる取材が参り入らば」
「加減あるべし」
「無論承知」
 布都は笑みを浮かべたまま頷く。その後静寂が訪れた。時計の示す刻はそれほど長くはなかっただろう。だが、それ以上の時間がここでは流れた。そして布都はどこを見ているのか、目線を宙に浮かべて口を開いた。
「吾、思ひ出だしたり。物部、蘇我、大伴、佐伯、中臣、巨勢、葛城、秦、東漢、黄書、和珥等、或いは記されぬ者。皆生きれり。然れども、人として共に生き、また現に彼の者らを人として覚えたるは何人残り得るか。」
 神子は口を開かない。ただ布都と視線を交差させている。
「皆、まさに生きれり。書にあらず。人にありけり。」
 ここにきて意地悪げに微笑みながら神子は口を開いた。
「然而、汝、膾事云へり……何ぞ晋張翰たらむや?」
 布都ほほゑみ応へて言く。
「宍波宇乎爾異奈利登麻乎須」
神霊廟から15年経ってるので、どこまでがどの時代の言葉か曖昧になってそうだなあと思いました。
あと生肉はおいしいですね。鹿は焼きますが。
凡海
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