Coolier - 新生・東方創想話

メリーちゃん

2026/08/26 21:19:15
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 液晶画面をスクロールする指先が、微かな摩擦音を立てる。爪の先がガラス面をなぞるたび、かさ、かさ、と乾いた音が耳の奥に残った。
 古いオカルト掲示板の過去ログ、まとめサイトのアーカイブ、地方紙の怪談コラム。手当たり次第に漁ってはみるものの、目新しい記事には一向に行き当たらない。同じような文体、同じような結末、どこかで読んだ既視感だけが積み重なっていく。
「最近の都市伝説って、どこかで聞いたことあるものばっかりね」

 窓から差し込む斜陽が、誰もいない教卓に長い影を落としていた。埃を含んだ光の筋が、机の並びを斜めに切り取っている。空調の低い稼働音だけが、使われていない教室に満ちていた。時折、遠くの部活動の掛け声が、ガラス窓越しに滲むように届いては消えていく。
「じゃあ今日は活動なし?」
 向かいの席で、メリーが欠伸交じりに言った。椅子の背もたれに体を預け、両手を頭の後ろで組んだまま天井を見上げている。緩んだブラウスの襟元から覗く鎖骨のあたりに、夕陽の色が薄く滲んでいた。
「それはそれで悔しいじゃない」
「いつものことでしょ」
 メリーがまた欠伸をして、伸びをした。結んでいた髪がふわりと揺れる。ラベンダーのような、それでいてどこか埃っぽい、古い書庫の奥に隠された羊皮紙に似た香りが漂った。この子はいつも、記憶の底にあるような匂いをまとっている。指先で頬にかかった髪を払う仕草すら、どこか古めかしい優雅さを帯びていた。

 そのとき、机の上に置かれたメリーの携帯が、ブブ、と無機質な振動音を立てた。木製の机の上で、端末が小さく震えながら滑る。
「あ、電話」
 メリーが画面を見る。登録されていない番号らしい。少し眉をひそめながら、ボタンをスライドさせた。
「はい?」
 相手の声は私には聞こえない。ただ、メリーの表情と不規則な相槌だけが、見えない会話の輪郭を描いていく。彼女の人差し指が、机の縁を、こつ、こつ、と一定のリズムで叩き始めた。爪先が木肌に触れるたび、乾いた小さな音が空調の唸りに紛れて消える。
「……え?」
 声のトーンが変わる。眉間の皺が一段と深くなった。頬にかかっていた後れ毛を、無意識にかき上げる仕草。
「私がメリーだけど?」
 指の動きがぴたりと止まる。教室の空気が、ほんの少し重くなったような気がした。
「……悪戯?」
 静寂。メリーの視線が、窓の外の泳ぐ雲へと向かう。夕焼けに縁取られた雲の輪郭が、ゆっくりと形を変えていくのが見えた。
「京都駅?」
 私は画面から目を離し、頬づえをついてその様子を眺めた。メリーは怪訝そうな顔のまま二言三言を交わすと、一方的に通話を切った。手の中で暗転する画面。液晶の光が消えると同時に、彼女の顔にも一瞬、影が差したように見えた。
「誰?」
「知らない人」
「ゼミの友達?」
「違うわね」
「何だったのよ」
「よく分からない」
 
 メリーは携帯を画面伏せにして机に放り投げ、それきり興味を失ったように窓の外を見つめ直した。カタン、と軽い音を立てて端末が机に落ち着く。
 私はそこで、数分前に読んでいたまとめ記事のタイトルを唐突に思い出した。着信、位置情報の宣告、徐々に近づいてくる足音。頭の中で、パズルのピースが一つ、かちりと嵌る感覚があった。
「……ねえメリー。それ、もしかして『メリーさん』?」
「は?」
 メリーがあからさまに嫌そうな顔をした。唇を少し尖らせる、本気で不快なときの表情だ。眉間に寄った皺が、いつもより深い。
「知らないわよ、そんなの」
「電話の相手、名乗らなかった?」
「私がメリーだから、相手も困ってたのよ!」
「ちょっと待って、なんて?」
「だから! 『私、メリーさん』って言うから『私がメリーだけど』って返したら、向こうが絶句して『あなたが……メリーさん……?』って聞いてくるのよ!」
 私は耐えきれず、机に突っ伏して吹き出した。頬が机の冷たさに触れて、笑いがさらに止まらなくなる。
「笑わないでよ!」
「だって、メリーがメリーさんに『私がメリーだけど?』って返して、メリーさんがメリーに『あなたがメリーさん?』って惑わされてるんでしょ? 主語が完全に大渋滞を起こしてるじゃない!」
「ややこしいのよ!」

 メリーは顔を真っ赤にして私を睨みつけたけれど、その視線すら今の私には最高のネタだった。言葉が主語を失い、怪異の輪郭がこちらの名前に侵食されて曖昧になっていく。都市伝説の恐怖が、ただの滑稽な噛み合わなさへとかき消されていくのが愉快だった。窓の外では、夕陽がさらに角度を落とし、教室の壁を橙色に染め上げていた。

 だが、その不毛な電話は、その後も正確なインターバルを置いてかかってきた。
 二度目の着信。「大学の最寄り駅にいるの」。メリーの声から、先ほどまでの余裕が少しずつ削られていくのが分かった。
 三度目の着信。「今、大学の正門前」。窓の外を思わず振り返る仕草。誰もいない校庭に、夕闇がじわりと滲み始めている。
 一歩ずつ、着実に「メリーさん」は近づいていた。笑い転げていた私も、三度目の電話が切れる頃には、喉の奥が少し乾くのを感じていた。空調の音が、やけに大きく聞こえる。
 テンプレート通りすぎる。悪戯にしては距離の詰め方が律儀だし、何よりメリーの反応が冗談ではなくなってきていた。指先で机を叩くリズムも、いつしか不規則に乱れていた。
「もう、ふざけてるなら切るわよ」
 四度目の着信で、メリーは相手が話す前に言い放ち、ボタンをタップした。端末を握る指先が、微かに震えている。通話を切った後も、彼女はしばらく画面を睨みつけていた。
「順調に近づいてるわね」
「……笑えないわよ」
 窓の外の光は、いつの間にか朱色から群青色へと溶け込んでいた。校庭の遊具の影が、長く伸びて闇に溶けていく。空調の音だけが響く教室で、私たちはそれ以上言葉を重ねなかった。その日は結局、怪異が扉を叩くこともなく、ただ夜が静かに訪れた。窓ガラスに映る自分たちの姿が、いつの間にか外の暗さと同じ濃さになっていた。

 大学を出たとき、メリーがぽつりと言った。夜風が二人の間を通り抜け、街灯の明かりが濡れたアスファルトに滲んでいた。
「……今日、うちに寄っていく?」
「メリーさんが来るから?」
 睨まれた。これは『黙りなさい』という意味だという解説は不要だった。視線を戻しオーケーのハンドサインをひらひらさせてそのまま歩みを進めた。夜の街の喧騒が、少しずつ二人を包み込んでいく。

 メリーの部屋は、1LDKの狭い間取りの割に物が詰まっている。背の高い本棚には読めない外国語の古書が隙間なく並び、窓辺には影の薄い観葉植物がポツンと置かれている。玄関で靴を脱ぐと、古い紙とほんのりとした香の匂いが鼻先をかすめた。
 メリーがキッチンに立ち、夕食の片付けを始めた。蛇口から流れる水の音、陶器と陶器が触れ合う澄んだ音。私はソファに腰掛け、ノートを眺めながらその音に耳を澄ませていた。柔らかな照明の下、水音だけが規則正しいリズムを刻んでいる。
 テーブルの上で、メリーの携帯が短く鳴った。液晶には『お母さん』の文字が浮かんでいた。
「メリー、お母さんから」
「ママン何かしら? 今手が離せないわ。代わりに出て」
「いいの? 一応スピーカーにするね」
 通話ボタンをタップする。画面の光がテーブルの木目をぼんやりと照らした。
「はい、マエリベリーさんの代わりに出ました」
『あら、蓮子ちゃん? いつもマエリベリーがお世話になってます』
 スピーカー越しに届いたのは、拍子抜けするほど朗らかで、温かな女性の声だった。夜の部屋の冷えた空気が、その声ひとつで和らぐ気がした。
「いえ、こちらこそ。いつもお邪魔しちゃって」
『あの子、ちゃんと生活できてる?』
「バッチリですよ。まあ、たまに怪奇現象に絡まれてますけど」
「蓮子、余計なこと言わないの」
 水音の向こうから、メリーの抑えた声が飛ぶ。母親の小さな笑い声が聞こえた。
『ふふ、相変わらずね、マエリベリー』
 母親の口から出る「マエリベリー」という響きを聴くたび、私は少しだけ不思議な感覚に捉われる。「メリー」という二文字は、私とこの子だけの境界線を引くための特別な暗号のような気がしていたから。
『そうそう、電話したのはね、ちょっと片付けをしてて』
「何?」
 メリーが手を止めずに尋ねる。蛇口の水音がまだ続いていた。
『マエリベリーが小さい頃に、ずっと大事にしてた人形、覚えてる?』
 ぴたりと、水の音が止んだ。
 蛇口から落ちる水滴が、シンクの底で跳ねる音だけが響く。ぽつ、ぽつ、と規則正しく。
『今日押し入れの奥を掃除してたら出てきたんだけど、すっかり傷んでてね。プラスチックの部品は劣化してひび割れてて、脚や腕の縫い目が解けちゃってたの』
 メリーは濡れた湯呑みを握ったまま、動かない。彼女の背中が、まるで夜の闇と同化してしまったかのように静まり返っていた。台所の灯りだけが、その輪郭をぼんやりと縁取っている。
「……人形?」
『あら、忘れちゃった? よく抱っこして寝てたじゃない』
「……覚えて、ないわ」
 メリーの声は、静かすぎた。怒ってもいない、怯えてもいない。ただ、自分の記憶の底にあるはずの「何か」に手が届かない歯痒さと、底知れぬ違和感に、ただ呆然と立ち尽くしているような声。
 湯呑みの底から、小さな水滴が床へ落ちた。ぽとん、と。その音だけが、やけに大きく部屋に響いた。
『名前も忘れちゃったかしら。あんなに可愛がってたのに』
 長い沈黙が流れた。冷蔵庫の低いモーター音が、やけに耳につく。私は息を潜めるようにして、ソファの上でその静寂を見守っていた。
 メリーはゆっくりと窓の外へ視線を向けた。夜のガラスに映る、自分の茫洋とした影を見つめながら、掠れた声で呟く。
「……メリー」
『そうそう、メリーちゃん。思い出してくれた?』
 胸の奥で、カチリと硬いギアが噛み合う音がした。
 思わず、ソファの布地を強く指先で掴む。手のひらに、布の織り目の感触がざらりと伝わった。
 昼間、メリーの携帯を鳴らし続けた「メリーさん」。
 あれは――追いかけてきたのではない。
 忘れ去られようとしていた「彼女」が、ただ自分の存在を呼びかけていただけだったのか。
『もうボロボロだし、処分しちゃってもいいかしら?』
 母親の声は、どこまでも穏やかな日常のままだ。
 メリーは湿った湯呑みをゆっくりと水切りかごに置くと、深く、長呼吸をひとつ吐いた。肩が一度、大きく上下する。
「……だめ」
『え?』
「送って。あ、やっぱり実家に置いといて……今度帰ったとき、ちゃんと供養するから」
『あらそう? じゃあ忘れないようにベッドの上におくわね。たまには顔を見せに帰りなさいよ』
「……うん。分かった」
 通話が切れ、リビングに再び静寂が戻ってきた。冷蔵庫のモーター音だけが、変わらず低く響き続けている。

「……どんな人形だったの?」
 私が尋ねると、メリーは布巾で静かに手を拭きながら歩み寄り、私の隣に深く腰掛けた。ソファが軋む小さな音がした。
「言ったでしょ、覚えてないわ」
「名前は即答したじゃない」
「……向こうが、ずっと私を呼んでた気がしたのよ。だから、名前だけが頭に残ってたの」
 メリーは膝の上で細い指を組んだ。その横顔にかかる髪から、あの古い書庫の匂いがふわりと漂う。けれどそれは、もう怖ろしいものでも、不気味なものでもなかった。ただ、置き去りにされた時間の匂いだった。窓の外では、遠くの信号機が赤から青へと切り替わる音が、微かに届いていた。
「そう言えば……」
 メリーはテーブルの上の端末に手を伸ばした。
「着信履歴の電話番号」
 メリーが怪訝そうに画面を覗き込む。青白い光が、彼女の頬を下から照らしていた。
 一番上には「お母さん」。
 そしてその下に並ぶ、昼間何度もかかってきた、あの「メリーさん」からの正体不明の番号。
 液晶の青白い光が、メリーの瞳を揺らしていた。彼女の指が画面をスクロールし、数字の羅列をなぞる。指先が画面をなぞるたび、微かな摩擦音が静かな部屋に響いた。
「……嘘でしょ」
「何?」
「この番号……私たち家族が引っ越す前に住んでた、古い実家の固定電話の番号だわ」
 その回線は、十数年以上も前に解約され、撤去されたはずのものだった。
 私はいまや誰も使っていないその数字の並びを見つめた。メリーも、それ以上は何も言わなかった。
 遠くで車が夜の闇を切り裂いて走り去る音が、かすかに聞こえた。タイヤが濡れた路面を擦る音が、余韻を引いて消えていく。
 メリーは静かに画面を伏せた。テーブルの上に置かれた端末は、冷たい黒い塊となってそこに転がっている。部屋の中に、また静けさが戻ってきた。観葉植物の葉が、エアコンの微風に揺れて微かに音を立てた。

 翌日以降、「メリーさん」から電話がかかってくることは二度となかった。
 壊れたから諦めたのか。自分の名前を思い出してもらえて満足したのか。それとも、あの古い電話回線のあわいに、最初から存在などしていなかったのか。
 週末、メリーは「実家に帰る」と言って、小さな鞄ひとつで京都駅に向かった。改札を抜けていく後ろ姿を、私はホームの端からしばらく見送っていた。
 秘封倶楽部の活動記録ノートは、白いページのままだ。
 結局、私たちはあの電話の真相を何も暴けなかった。
 ただ、メリーが京都駅へ向かう背中を見送りながら、私はふと思った。
 あの電話は、最後までメリーを追いかけていたのではなかったのかもしれない。
 ずっと、帰ってきてほしかっただけなのかもしれない。
酉河つくねです。
ホラーかと思いきやしんみり良い話を書きたくて。
酉河つくね
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