Coolier - 新生・東方創想話

霧雨魔理沙は捨てられない

2026/08/13 11:11:26
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 足の裏にカチリと硬い感触。
 踏んだのは……先週拾ってきた謎の金属片。用途不明。危険度不明。だが痛さだけは確定情報。
「いてっ!」
 声が盛大に裏返った。ベッドの上で片足を抱えてジタバタする魔法使いの図というのは、絵面としてどうなんだ。誰も見ていないのが救いだ。多分。
 
 改めて床を見下ろす。……床、ないな。
 昨日の実験で使った試薬瓶。開きっぱなしの魔導書。干し損ねて若干しなびてきたキノコ。何の部品か思い出せないギア三点。片方だけの靴下(もう片方はきっと異空間に消えた)。あと、いつのか分からないパンの袋。中身が入っていないことを切に祈る。

「……散らかってんな」
 人ごとみたいに呟いてみる。他人事にしたら少し罪悪感が薄れる気がしたが、薄れなかった。
 言い訳なら山ほどある。実験の後は記録が先。記録の後は寝るのが先。理論上、片付けの優先順位は常に最下位に沈む。これは怠惰ではなく合理性の産物だ。多分。

 ふと、昨日クッキーを届けにやって来たアリスの顔が浮かんだ。
『少しは片付けたら? そのうち何か踏んで怪我するわよ』
 腕を組んで、予言者みたいな顔で言ってきた奴。しかも今しがた見事に的中させやがった。忌々しい。人形遣いのくせに、なぜこう妙なところで先読みが上手いのか。
 余計なお世話だっつーの。私の部屋なんだから私の自由だ。
 自由なんだが、悔しいことに足の裏はまだジンジンしている。自由には代償が伴うらしい。今知った。
 試しに反対の足を下ろす。今度は柔らかい何かを踏んだ。生き物か、水分を含んだ何かか。究明する勇気はない。永遠に謎のままでいい。世の中には知らない方が幸せなことがある。

 ベッドの上で膝を抱え、改めて部屋を睥睨する。これはもう「散らかっている」の範疇を超えて、地形と呼んだ方が正確だ。試薬瓶の山脈。魔導書の平野。奥に聳える素材箱の連峰。頂上付近には見覚えのない布切れが旗みたいに刺さっている。誰だ、あれを立てたのは。私だ。
 窓から朝日が差し込んで、埃がキラキラ舞っている。綺麗といえば綺麗だが、これは「掃除しなかった年月」が可視化された結果でしかない。感動している場合ではない。
 このまま寝直すという選択肢、正直かなり真剣に検討した。三秒くらい。

 だが足の裏の痛みは雄弁だった。あの金属片、まだちょっと刺さってる気がする。このまま生活を続けたら、いつか本当に大怪我をして、こともあろうに自分の部屋で自滅する魔法使いとして歴史に名を残しかねない。それはさすがに嫌だ。伝説にするならもっとカッコいい死因がいい。
「……ちっ。ちょっとだけ動かすか」
 誰にともなく宣言する。
 断じて片付けではない。片付けなんて殊勝なものじゃない。これはあくまで安全確保のための緊急『移動』作業。床の物を、床じゃない場所へ動かすだけ。実にシンプルな作業のはずだった。

 この時の私は、この「ちょっとした移動」が、机の下の香霖堂の紙袋や、本棚奥で眠る借りっぱなしの本や、実家から持ってきたきりのドライバーセットにまで飛び火することになるとは、まだ知らない。
 朝の光の中、足の踏み場を探しながら、地形攻略という名の一日が始まった。

-----

 まずは近場から片付けるのが鉄則だ。何事も基本が大事。
 試薬瓶を拾い上げる。中身はもう蒸発したのか、空っぽに近い。とりあえず机の端に避難させる。
 次に魔導書。開いたページには昨日書き殴った実験メモ。字が汚すぎて自分でも半分読めない。「爆速でも溶けない氷」とか書いてある。何の実験だったか思い出せないが、多分ロクなことじゃない。本棚……は後回しにするとして、ひとまず机の反対の端へ。

 こうして一つずつ拾っては、脳内で分類会議が始まる。
 一軍:すぐ使う道具。帽子、箒、八卦路、基本の触媒。これは問答無用で定位置へ。

 二軍:たまに使う道具。特殊な触媒とか、季節ものの実験器具とか。棚の奥でもいいから、とにかく手の届く範囲に。

 保留:壊れてるけど部品は使えそうなやつ。もしくは、明らかに危険だが爆発実験に使えそうなやつ。これは「今すぐの私」じゃなく「未来の私」が判断すべき案件だ。だから保留。今の私に権限はない。

 香霖堂行き:正体不明の品。……いや待て、正体不明ということは、つまりまだ調べていないということだ。まだ調べていないということは、調べる価値があるかもしれないということだ。ならばこれは「不要品」ではなく「未調査の可能性」である。したがって、これも保留。

「……あれ?」
 ふと手を止める。
 保留の箱が、明らかに他のどの箱より膨れ上がっている。対する「捨てる箱」は、さっき用意したはずなのに、まだ空だ。堂々の空。潔いくらい空。
 いや、おかしい。理論上は物が減っているはずだ。分類して、然るべき場所に配置しているのだから。なのになぜ床面積は一向に回復しない。

 試しに部屋の端から端まで見渡してみる。
 ……なるほど、分かった。物が消えていない。ただ横に移動しているだけだ。床にあったものが、箱の中に移動して、その箱がまた床に置かれている。座標がずれただけで、総量保存の法則は厳格に守られている。物理学の勝利、片付けの敗北。

「いや、でも」
 と、私は己を弁護する。
 箱に入っているということは、少なくとも「積まれている」状態から「収納されている」状態への進化ではある。これは進歩だ。断じて後退ではない。むしろ胸を張っていい変化だ。

 試薬瓶の隣にあった謎の石を拾う。丸くて、青くて、妙に艶がある。どこで拾ったか記憶にないが、なんとなく強そうな気配がする。これは保留一択。というか一軍に入れてもいいくらいだ。
 ドライバーが一本、床の隙間から発掘される。柄が擦り切れて、持ち手の色がほとんど剥げている。……これは、と手を止めかけたが、今はまだ深追いしない。これは後の幕の話だ。とりあえず「保留」の箱の底に、そっと沈める。

 気づけば一時間が経過していた。
 汗を拭いながら部屋を眺める。
 箱が四つ。一軍の棚が心なしか整った。二軍の棚もまあまあ。保留箱はもはや箱と呼べる形状を保っていない。もっこりと山になっている。香霖堂行きの箱は……あれ、これ保留箱と統合されてないか? まあいい、細かいことは気にしない。
「よし。かなり整頓されてきたな!」
 声に出して自己評価する。誇らしい気分だった。
 実際のところ、床面積はさっきより五パーセントくらいしか回復していないのだが、そんな数字はどうでもいい。大事なのは気分だ。片付けは気分。気分が乗っていれば、それはもう片付いたも同然。……多分。

-----

 保留箱の底が抜けそうになったので、一度中身を出して詰め直すことにした。
 これが失敗だった。
 箱をひっくり返した瞬間、記憶の底に眠っていたガラクタたちが雪崩を打って床に散らばる。半年前、いや一年前かもしれない発掘品が、まとめて日の目を見た。

 まず出てきたのは、歪んだ金属の塊。かつては何かの装置だったはずだが、今となっては原型を留めていない。……ああ、これは覚えている。飛行速度を上げようとして作った試作品だ。三日かけて組み上げて、起動した瞬間に爆発四散した。あの時は本当に死ぬかと思った。灰まみれで戻ってきた私を見て、アリスが「何をどうしたらそうなるの」と真顔で聞いてきたのを覚えている。
 答えられなかった。今も答えられる気がしない。

 次に出てきたのは、綺麗な石。さっきも一つ拾ったが、これはまた別の石だ。赤くて、艶があって、心なしか温かい。どこで拾ったのか記憶は曖昧だが、なんとなく強い魔力を秘めていそうな気配がする。今のところ何に使えるか分からないが、それがどうした。分からないなら分かるまで持っていればいい。

 香霖堂で買った変なガラクタも次々出てくる。用途を聞いても香霖はいつも曖昧に笑うだけだった。それでも買ってしまうのは、その曖昧さが逆に魅力的だからだ。何にでもなれるものは、何者でもない。可能性の塊というやつだ。

 ふと、手が止まる。
 積み重なったガラクタの山を、今更ながらまじまじと見つめる。
 傍から見れば、ただのゴミの山だろう。実際、アリスに見せたら三秒で「捨てなさい」と言われる自信がある。
 でも、と思う。
 今、価値がないということと、価値がないということは、全然違う。
 この歪んだ金属の塊だって、いつか原理を解明できれば、とんでもない発明の欠片になるかもしれない。この石だって、いつか私の魔力と噛み合う瞬間が来るかもしれない。可能性というのは、そういうものだ。今すぐ使い道が見えなくたって、それを手放した瞬間に、そこで終わる。
 可能性を捨てたら、魔法使いはおしまいだろ。
 そう思いながら、私はまた一つ、正体不明の欠片を拾い上げる。
 ……とはいえ、この理屈がどこまでも通用することは、自分でも薄々分かっている。この理屈を無限に適用すれば、この部屋のものは何一つ捨てられないことになる。それはそれで、生活として色々と破綻している気がする。
 まあ、いい。今日のところは考えないことにする。
 拾い上げたガラクタたちを、丁寧に、けれど結局はまた同じ箱に戻していく。整理という名の温存作業。

 窓の外で日が少し傾いた気がした。時間の流れが妙に速い。片付けをしているはずなのに、時間だけがどんどん消費されて、部屋はそこまで変わっていない。不思議な現象だ。物理法則が歪んでいるとしか思えない。多分そのうち解明する。

 保留箱を、今度こそ底が抜けないようにしっかり詰め直して、棚の隅に押し込んだ。
 これでよし。少なくとも今日のところは、これでよしとする。

-----

 いよいよ本棚に手をつける時が来た。
 正直、一番後回しにしたかった場所だ。本棚は他の場所と違って、油断すると気づいたら三十分読書していた、なんてことが平気で起こる危険地帯である。今日はそういう日じゃない。今日は片付けの日だ。多分。

 棚の下段から順に、背表紙を確認していく。
「私の」「私の」「私の」……
 自分の本を確認するたび、無意識に呟いていた。持ち主の再確認、みたいな儀式。これは私が買った本。これも私が買った本。これも……。
 その調子で機械的に手を動かしていたら、ふと指先が見覚えのない装丁に触れた。
 深緑の表紙。金の箔押し。明らかに私の趣味じゃない、上品すぎる本。
 ……ああ、これは。
 パチュリーから借りた本だ。いつ借りたんだったか。とにかく随分前。埃が薄く積もっているのを見るに、相当長い間、本棚の奥で静かに眠っていたらしい。
 軽く埃を払おうとした瞬間、パチッと小さな音がした。
 指先に軽い静電気みたいな刺激。いや、静電気にしては明らかに悪意がある痛み方だ。
「……っ、てぇ!」
 思わず声が出る。
 なるほど、これはトラップだ。しかも本を返さなかった場合を見越して仕込んである類のやつ。パチュリーめ、絶対確信犯だ。魔理沙のことだから、どうせ返しに来ないでしょう。みたいな顔で本にこっそり術式を刻んでいる様が容易に想像できて、なんだか無性に腹が立ってくる。
 いや、腹が立つ資格が私にあるのか、これは。返さなかったのは事実なわけで。
 その本を、そっと「返却」専用のスペースに置いた。

 棚の奥をさらに探ると、今度は見覚えのある紙のしおりが挟まった本が出てきた。鈴奈庵の――小鈴のところで借りた本だ。しおりを引き抜くと、小さく几帳面な字で日付が書いてある。
 その日付を見て、私は固まった。
 ……一ヶ月前。
 貸出期限は、その日付から数えて確か二週間だったはずだ。つまり、単純計算で二週間はとうに過ぎている。
 小鈴の顔が脳裏に浮かぶ。あの、にこにこと柔らかい笑顔。でも返却が遅れた常連客に向けるその笑顔には、なぜか背筋が寒くなるような圧がある。「魔理沙さん、ずいぶんゆっくり読まれてるんですね」なんて言われた日には、平静を装いつつ内心冷や汗が止まらない自信がある。
 その本も、無言で「返却」スペースへ。

 さらに奥。今度は阿求から借りた本だった。表紙を見た瞬間、既視感より先に、遠い記憶が呼び起こされる。
 ……これ、何年前だ。
 指折り数えようとして、途中でやめた。数えたら負けな気がする。永夜異変の後だったか、その前だったか。もはや時系列が怪しい。歴史を記録する仕事をしている当人から借りた本を、こんなに長く手元に置いているというのは、なかなかシュールな話だ。「歴史の彼方から」なんて言葉が頭に浮かんで、それはさすがに大げさかと自分でツッコミを入れる。
 その本も、そっと返却スペースへ。

 気づけば、本棚の脇に積み上がった「返却用」の山が、もはや無視できない大きさになっていた。
 これは、まずい。まずいというか、なんというか。
 自分の本棚だと思っていた場所の、思いのほか広い面積が、実は「私の」ものじゃなかった。他人から預かっているだけの、仮住まいのスペースだった。
「……げ」
 声にならない声が漏れる。
 棚を見渡しながら、私はしばらく動けずにいた。

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 本棚の一番奥。手を伸ばすのも一苦労な、棚と壁の隙間。
 そこに、明らかに毛色の違う道具が押し込まれていた。
 魔法の道具じゃあない。触媒でも魔導書でもない。柄の擦り切れたドライバーセット。錆の浮いた金槌。目盛りの読みにくくなった古い定規。……人間の、それも普通の道具だ。
 手に取った瞬間、指先がその感触を覚えていることに気づく。

 これは、実家から持ってきたやつだ。
 魔法使いになると決めて家を出た日。荷物なんてほとんど持たずに飛び出したはずなのに、なぜかこの工具箱だけは律儀に抱えてきた。当時の私は大真面目にこう思っていた気がする。「これさえあれば何でもできる」と。
 今考えると、何を作る気だったのか自分でも分からない。多分、何かを作る前に、何かを作れる自分でいたかっただけなんだと思う。
 ドライバーを一本つまみ上げてみる。
 今の私には、これよりずっと立派な魔法道具が山ほどある。箒も帽子も八卦路も一級品だし、触媒だって選び放題。正直、この錆びついたドライバーがなくても、生活はまるっきり困らない。
 困らないんだが。
 ……捨てられない。

 しばらくその工具箱を見つめて、私は自分の心境を分析してみる。分析というか、言い訳の材料探しに近いかもしれないが。
 多分これを捨てたら、当時の生意気な自分まで一緒に捨てる気がするんだよな。家を飛び出す時、変な自信満々の顔してたであろう自分。「これさえあれば」とか思ってた頃の、身の程知らずな威勢のよさ。あれはあれで、今の私を作った材料の一つだったりする。
 ……なんて、柄にもなく真面目なことを考えてしまった自分に、思わず真顔になる。
「……いや、待て。何しみじみしてんだ私」
 声に出して自分にツッコむ。
 工具箱ひとつでセンチメンタルになるとか、柄じゃない。魔法使いは物思いに耽る前に手を動かすものだ。多分そういう格言がどこかにあった気がする。なかったら今作った。

 とはいえ、捨てるという選択肢は依然としてしっくりこない。かといって、このまま棚の隙間に押し込み続けるのも、なんだか据わりが悪い。
 ……返しに行くか。
 その考えが浮かんだ瞬間、我ながら意外に思う。捨てるでも保留でもなく、「返す」という発想が自然に出てきたことに。
 実家。親父の顔を思い浮かべる。あの、無口で頑固な顔。
「……会いたくねぇけどな」
 思わず本音がこぼれる。
 気まずいのなんの。何年顔を出していないか、正直に数えると恐ろしいことになりそうなので数えない。数えたら負けなシリーズ、本日二回目。

 でも、この工具箱をずっと棚の隙間に隠しておくのも、なんだかカッコ悪い。持って出たなら、けじめとして持って帰る。それくらいの筋は通したい。魔法使いにも意地というものがある。
 工具箱を、そっと「返却」の山の隅に置いた。

 パチュリーの本、小鈴の本、阿求の本。そして今、実家の工具箱。
 ……あれ、この箱、思ったより中身が濃いな。
 気づかなかったふりをして、私は次の作業に移ることにした。

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 部屋の中央に、いつの間にか一つの箱ができあがっていた。
 中身は、パチュリーの本。小鈴の本。阿求の本。そして実家の工具箱。
 名付けるなら「返却箱」。ネーミングセンスのかけらもないが、他に呼びようがない。
 改めてその箱を見下ろす。
 ……これ、思ったよりデカいな。
 物理的な大きさの話じゃない。中身の重みの話だ。パチュリーの分厚い魔導書、小鈴の丁寧なしおり付きの本、阿求の記録の本、そして実家の工具箱。バラバラの持ち主、バラバラの経緯。でも並べてみると、なんとなく共通点が見えてくる。
 全部、誰かが私に「貸してくれた」ものだ。
 しかも、それなりに長い間。
 ふと、部屋全体を見渡す。本棚の半分近くが他人の本で埋まっていたことに、さっき気づいたばかりだ。工具箱だって、元を辿れば実家という「借り物の過去」から持ち出したようなものだ。
 そう考えると、この部屋そのものが、割と他人からの預かり物でできている。自分の部屋のつもりでいたが、実際は借り物のコレクションを並べた展示室みたいなものかもしれない。

 ……なんだかそれ、ちょっと格好悪くないか。
 自立してるつもりの魔法使いが、実は方々から借りたもので生活を回しているという構図。改めて言葉にすると、なかなか間抜けな絵面だ。
 でも、と思い直す。
 考えようによっては、悪い話でもない。
 パチュリーが本を貸してくれるのは、返さないと分かっていてもなお貸してくれるということだ(トラップは仕込むが)。小鈴が本を貸してくれるのは、私が本屋の常連として、それなりに信用されているということだ(圧のある笑顔付きだが)。阿求が本を貸してくれるのは……まあ、あれは何年も前の話だから、そろそろ信用がどうこう言えるレベルじゃない気もするが。

 とにかく。
 これだけ色んな奴から色んなものを借りられるということは、それだけ「貸しても大丈夫だと思われている」ということだ。多分。
「まあ、これだけ借りられるってことは、それだけ信用されてるってことだろ」
 声に出してみると、ちょっと都合のいい解釈だという自覚はある。返却期限を大幅に破っている常習犯が言えたセリフじゃない。
 でも、悪い気はしなかった。
 感傷に浸るのは性に合わない。しんみりするくらいなら、多少強引にでもポジティブに変換しておいた方が私らしい。
 返却箱を軽く小突いて、中身を整える。パチュリーの本が一番上、小鈴の本がその下、阿求の本、そして一番底に工具箱。
 よし。これで「返す」準備は整った。
 あとは、これを実際に運んで、それぞれの場所に届けるだけだ。……その「あとは」が一番面倒なんだが、それは明日の私に丸投げすることにする。今日の私の仕事は、ここまで。

 返却箱の横に、「明日:これ届ける」と書いた紙切れを一応貼っておいた。
 貼った瞬間、なんとなく嫌な予感がした。

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 気づけば、窓の外はすっかり夕方の色になっていた。
 オレンジ色の光が部屋に差し込んで、埃をキラキラさせている。……この埃も、まだそれなりに舞っているあたり、片付けの成果を素直に喜んでいいのか若干怪しいところではある。
 だが、まあ、見てほしい。
 床が見える。机の表面も見える。本棚だって、半分近くは背表紙がちゃんと並んでいる。今朝の「地形」を知っている身からすると、これは相当な進歩だ。試薬瓶の山脈は消え、魔導書の平野は片付き、素材箱の連峰も一応、棚という名の適切な標高に収まった。

 部屋の中央には、綺麗に一本の通路ができている。
 ドアから机まで、机からベッドまで。歩けと言われれば歩ける。跨いだり避けたりせずに、まっすぐ進める。これがどれだけ画期的なことか、今朝の私に教えてやりたい。多分信じないだろうが。
「……やればできるじゃないか」
 思わず声が出た。誇らしさで胸が膨らむ。今すぐアリスを呼んできて見せびらかしたい気分だ。多分呼んだらまた別の粗を見つけられて小言を追加されるので、やめておくが。

 ただし。
 視線を部屋の隅にずらすと、そこには依然として、巨大な山がそびえ立っている。
 保留箱、香霖堂行き箱、そして統合されたんだかされてないんだかよく分からない謎の複合ゾーン。「いつか使うもの」たちの、堂々たる集合体だ。むしろ今朝より若干体積が増えている気すらする。物理法則、また敗北している。
 その山を、正面から見つめる。
 見つめて、そっと目を逸らす。
 いや、あれはあれで、ちゃんと分類はしてある。分類してあるということは、無秩序な散らかりとは違う。「秩序ある保留」だ。片付けというのは、何もかもを見える化することじゃない。見えなくていいものを、然るべき場所に静かに眠らせておくことも、また片付けの一部と言える。多分。
 この理屈、我ながらよくできている気がする。今度誰かに披露しよう。多分誰も納得しないだろうが。
「今日はこれくらいにしてやろう」
 誰に向けたものでもない宣言をして、私は伸びをした。
 背骨がボキボキと小気味よく鳴る。座りっぱなしとしゃがみっぱなしを繰り返した一日の代償が、今頃になって全身に主張してくる。

 部屋を見渡す。床が見える範囲、通路、片付いた本棚の半分。そして見なかったことにした山。
 完璧には程遠い。程遠いんだが、朝の惨状を思えば、これは十分すぎる成果だ。少なくとも今夜は、足の踏み場を探して痛い思いをせずにベッドまで辿り着ける。
 それだけで、今日は上出来ということにしておく。

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 通路が開通したのをいいことに、部屋の真ん中にどかっと座り込む。

 達成感で気が緩んだのか、それとも単純に足が疲れたのか。多分両方だ。

 座った拍子に、足元に転がっていた一冊の本に目がいった。
 拾い上げてみる。表紙には見覚えがある。……ああ、これは自分で買った本だ。しかも、買った覚えはあるのに、読んだ覚えがない。買ってそのまま積んで、いつの間にか部屋の地層の一部と化していたやつだ。

 ぱらぱらとページをめくる。
 最初の数行に目を通しただけで、思ったより面白そうだということに気づいてしまった。これはよくない兆候だ。片付けの途中で本を開くというのは、大抵の場合、片付けの終わりを意味する。経験上そうだ。統計を取ったことはないが、体感的な的中率は限りなく百パーセントに近い。
 ……いや、まあ。今日はもう十分やった。
 通路もできたし、返却箱もできたし、保留の山だって一応秩序立てて存在している。ここまでやったんだから、少しくらいの寄り道は許されるだろう。多分。誰も咎めない。誰も見ていない。
 そう自分に言い訳しながら、私は床に座ったまま、その本を読み始めた。

 窓から差し込む夕日が、ページの上を橙色に染めていく。埃はまだ少し舞っているけれど、さっきまでのそれとは違って、なんだか穏やかに見える。片付いた部屋の空気というのは、こんなにも違うものなのか。……いや、半分しか片付いていないんだが。
 それでも。
 朝、足の裏を刺されて目が覚めた時のことを思い出す。あの地形と化した部屋、あの絶望的な床面積。それに比べれば、今のこの状態は圧倒的な進歩だ。完璧じゃない。全然完璧じゃない。でも、朝よりはずっといい。
 それで十分だと思う。多分、片付けというのはそういうものだ。完璧を目指した瞬間に、多分もう続かない。
 ページをめくる手が止まらなくなってくる。物語の続きが気になって仕方がない。

 ふと、部屋の隅の返却箱が視界に入る。パチュリーの本、小鈴の本、阿求の本、実家の工具箱。「明日:これ届ける」と書いた紙切れが、夕日を受けてオレンジ色に染まっている。
 ……よし。明日こそ、あれを返しに行こう。
 真剣にそう決意する。今度こそ本当に。
 まぁ、この本を読み終わってからだけどな。
酉河つくねです。
本棚の整理をすると時間が溶ける現象なんなんでしょうかね?
昔のアルバムとか、古い同人誌とか、旅行のガイドブックとか、レシピ本とか作業を止めにくる禁書なんじゃないかと思います。
酉河つくね
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです