< 序章 >
―紅魔館、執務室。
窓がない豪奢な部屋には複数の燭台が設置され、揺れる火がわずかに室内を照らしていた。
その薄闇の中、レミリア・スカーレットは書類が山積みの執務机に向かって、ちょこんと座っていた。
応接ソファーには、本を読んでいるパチュリー・ノーレッジが腰掛けていた。
部屋には頁を捲る乾いた音と、レミリアが書類にペンを走らせる音だけが、静かに響いていた。
「―という名前の、新興の妖怪から手を組もうと申し出があったわ。手駒は多い方がいいと思うけど、どうかしら」
「別にいいんじゃない?」
パチュリーが本に視線を落としたまま返事をする。声には、微塵の抑揚もなかった。
「ふむ。じゃあ使者にはそう伝えるわ。次。妖怪の山から書簡が来ているわ。共同で市場を開こう、といった内容。
場所やマージンはこれから調整。うちには以前開いたノウハウがあるし、条件次第ではいいんじゃないかしら」
「悪くないと思うわ」
頁を捲る。やはり意識は本に向かったままだ。
「じゃあ咲夜に調整させるわね。次―」
レミリアは政治的な議題を次々と挙げてはパチュリーに尋ねていた。
パチュリーは本に視線を落としたまま、都度曖昧な生返事をする。
まるで壁に向かって話しかけているかのような、噛み合わない時間だけが過ぎていった。
レミリアは目を細めて親友をじっと見つめた。
「ねぇ、パチェ。本当にちゃんと聞いてるの?」
「えぇ」
軽く鼻を鳴らす。試すような口調で、レミリアは続けた。
「―今日の夕食の献立は、蜘蛛の丸焼きと蛆虫のスープにしようと思うんだけど…」
「美味しそうね」
―痛いほどの沈黙。
遂にレミリアが執務机を叩いて勢いよく立ち上がった。乾いた音が、静かな部屋に響き渡る。
「全然聞いてないじゃない!」
その剣幕に、さすがのパチュリーも本を降ろしてレミリアを見つめた。
「あぁ…ごめんなさい。本に集中してたわ」
悪びれもせず、あっさりとした謝罪だった。それがかえってレミリアの神経を逆撫でする。
レミリアは疲れの色が滲んだため息をついた。
「貴方…私の友人だからって、当たり前のように何もせず本ばかり読んで毎日過ごしてるけど…。
もう少し居候としての自覚を持ったらどうなの?」
「居候としての自覚…?」
聞き慣れない言葉であるかのように、首を傾げる。
「そうね―試しに、これまで貴方が紅魔館に対して貢献した事柄を挙げてみなさい」
急に言われて、パチュリーは宙に視線をやり、記憶の頁を手繰る。
「…紅魔館を幻想郷に転送させた」
「随分前の話ね。他には?」
「…貴方の我儘に応えて月へ行くロケットを作った」
「あれは助かったけど、それも昔の話ね。他には?」
「他には…」
記憶をさらに掘り返す。頭の奥底から、幾つか浮かび上がってくる。
―紅霧異変に協力して、レミリアの霧を幻想郷中に拡散させた。
―箱庭型の霊界を作ってプレゼントした。
―紅魔館の地下に海(という名のプール)を作った。
―地霊殿の異変にいち早く気付き、紫に相談し、魔理沙とともに解決にあたった。
―他にも、いくつかの異変について解決に向けて動いた。
だが、これらは胸を張って言うには小粒に思えた。そもそも異変周りは紅魔館への貢献とは言い難い。
並べてみればみるほど、説得力が失われていくのが自分でも分かった。
「…」
何も言えなかった。口を開きかけては、閉じる。それを二度、三度と繰り返す。
「どう?直近で貴方が何か働いたことって何もないでしょ」
「―私は、貴方の参謀として常日頃から助言を…」
「さっきの相談も、生返事ばかりで全く聞いてくれてなかったじゃない。まともな助言を受けた記憶がないんだけど?」
「…」
―痛いほどの沈黙が流れた。
「パチェ!」
それを破るかのように、レミリアの声が響く。そしてびしっと指をパチュリーに向かって突き出す。
「紅魔館の主として宣言するわ!もう、貴方の振る舞いはこれ以上看過できない!」
すうっと息を吸い、よく響く高い声で宣言した。
「よって、貴方を追放する!!」
まるで雷に打たれたかのような衝撃が走った。
パチュリーが、ぽかんとした表情でレミリアを見やる。
「つい…ほう…?」
「ええ。もう貴方をここには置いておけない。外へ出て、自分の力で暮らしなさい」
再び訪れる沈黙。時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「―冗談よね?」
縋るような響きが、声に混じる。だがレミリアは真剣な表情で首を横に振った。
「明日の早朝まで猶予をあげるわ。それまでに出ていく準備しなさい。
それと、これまで支給した研究費も全部置いていくこと。一銭たりとも持ち出すのは許さない」
「…」
パチュリーは、ただただ呆然としていた。積み上げてきた書架が、一瞬で崩れ落ちるような感覚だった。
やがて、思考が巡ってくる。凍りついていた頭が少しずつ動き出し、回転し始めた。
「…いいでしょう。出て行けと言うなら出ていってやるわ」
じっとレミリアを睨む。瞳の奥には、悔しさとも意地とも取れる光が灯っていた。
「けど、図書館は誰も出入りできないように封印させてもらう」
パチュリーが宣言する。それは有無を言わさぬ口調だった。
「何を言ってるの?図書館は紅魔館の財産の一部よ。勝手な真似は―」
「私とこあが居なくなれば、図書館は無防備になる。
出ていく身とはいえ、白黒のネズミに好き勝手に荒らされるのは耐えられないわ。
…心配しないで。百年後には自動的に封印は解けるようにしておくから」
レミリアは考え込む。その頃には、人間は寿命を迎えている。
「長命種の貴方にとって百年など大して長くはないでしょう。それに、元々私以外大して利用してなかったんだし」
「…わかったわ。好きにしなさい」
レミリアはまるで犬を追い払うようにしっし、と手を振り、ドアの方へ顎をしゃくった。
執務室からさっさと出ていけ、というのだろう。その仕草の乱暴さとは裏腹に、目はどこか揺れていた。
パチュリーは無言で退室した。ドアを閉める際に力が入り、バタンという音が廊下に響いた。
◆
荷物をまとめたパチュリーと小悪魔がエントランスホールで十六夜咲夜の見送りを受けていた。
大きな旅行鞄が足元に置かれている。
長年住み慣れた館の玄関が、今日はやけに広く感じられた。
「パチュリー様。まさか、こんな事態になろうとは…」
咲夜は恐縮しきりだった。表情には隠しきれない動揺が浮かんでいた。
「―私も、あまりにも急で…驚きました」
小悪魔も困惑している。抱えた荷物の重みを確かめるように、腕にぐっと力を込めた。
「…レミィは、見送りにもこないのね」
パチュリーが目を細めて呟く。
声には、失望とも意地とも取れない、乾いた響きがあった。
「パチュリー様、こあ。きっと、お嬢様のいつもの気まぐれかと思います。
気が変わるまでのしばらくの間、大変申し訳ないですが―」
「貴方が気を使うことないわよ。じゃ、元気でね」
パチュリーはそう言うと、さっさと門へと向かう。振り返ることはしなかった。
「咲夜さん…それでは、失礼します」
小悪魔も頭を下げてあわてて主人についていく。
咲夜はそれを見送り、ふぅ、とため息をついた。開け放たれた門の先に、二人の後ろ姿が小さくなっていった。
夜明けの淡い光が、その輪郭を寂しげに染めていた。
<追放一日目>
―魔法の森、アリスの家。
木々の隙間から漏れる光が、地面に細かな斑模様を描いていた。
アリス・マーガトロイドは訪問客の二人の顔を見ると、驚いた。
事情を聞き、得心したように頷く。
「なるほどね…まぁ、とりあえず今晩は泊めてもいいけど…ずっと三人も寝泊まりできるほど広い家じゃないからね」
アリスが釘を差す。そこには、既に一抹の予感めいた警戒があった。
「ふぅん…まあしょうがないわね」
「あ、ありがとうございます!」
パチュリーの素っ気ない返事を上書きするように、小悪魔が慌てて礼を言って頭を下げた。
◆
パチュリーと小悪魔は応接ソファーに腰を下ろした。
簡素だが、アリスらしい小洒落た内装だった。そこにアリスが紅茶を持ってくる。
湯気とともに、ほのかな花の香りが漂った。
「貴方の書庫を見せてもらってもいいかしら」
紅茶を口に運びつつ、パチュリーが尋ねる。
「いいけど…大した量はないわよ」
「大丈夫よ。期待してないから」
その言いようにアリスは顔をしかめた。
◆
アリスに案内され、書庫に足を踏み入れる。
そこにはこじんまりとした部屋に本棚が壁沿いに並んでいた。
紅魔館の大図書館の壮大さとは比べるべくもない、質素な書庫だった。
「どうぞ、ご自由に」
アリスが短く言い、退室する。
パチュリーは適当な一冊を手に取った。
指先で頁の紙質を確かめるように、静かに開いた。
◆
―日が落ち、夕日が森の木々を赤く染め上げる頃。
パチュリーは自室にいるアリスを訪ねた。
部屋には人形作りの道具が几帳面に並べられ、作業机の上には出来かけの人形が座らされていた。
「もう全部読み終えたんだけど。他にはないの?」
「あの量をたった数時間で!?」
アリスが人形を縫っていた手を止め、驚きの声を上げる。
そこには信じられない、といった表情が浮かんでいた。
「もうないけど…」
「はぁ…貴方、魔法使いのくせに…蔵書量少ないわね」
パチュリーの呆れるような言葉に、アリスの表情が固くなる。眉間に、微かな皺が寄った。
「だから最初に言ったでしょ、大した量はないって。うちは貴方の図書館じゃないのよ」
「ま、何冊かは読む価値のある本があったから、それは褒めてあげるわ」
その上から目線の物言いに、流石のアリスも我慢の限界を突破した。
「人の家に泊めてもらおうとしておきながら…あんた、何様なの?そんなに文句言うならもう出ていきなさい!」
冷静な普段と違い、かなりの剣幕で言い放つアリスに、無理やり家から追い出された。
不満顔で鼻を鳴らすパチュリーを尻目に、小悪魔はしきりに頭を下げてアリスに謝った。
◆
―既に日が暮れ、闇の帷が覆い始める頃。
森の梢の隙間から、星がぽつぽつと瞬き始めていた。
二人は霧雨魔法店を訪ねていた。
看板の文字が、月明かりにぼんやりと浮かび上がっている。
「へぇ…レミリアがお前を追い出すなんてな…」
霧雨魔理沙がそう言いつつ、目が一瞬キラリと光ったのをパチュリーは見逃さなかった。
「けど、悪いけど泊まらせることはできないぜ」
「なによ。散々うちから本を盗んでおいて、頼ったら断るつもり?」
パチュリーは不満顔で詰る。
「いや、そうじゃなくてだな…まあ、中を見たら分かる」
魔理沙はドアを開けて、二人に内部の様子を見せた。
「こ、これは…」
パチュリーと小悪魔は驚いた。
家の中はあらゆるガラクタが散乱し、足の踏み場もなかった。
壊れた魔法道具、読みかけの本、埃を被った瓶が、まるで発掘現場のように積み重なっている。
「この通りだ。とてもじゃないが客を泊めるようなスペースがないんでな」
魔理沙が若干気恥ずかしそうに、ぽり、と頭をかく。
「はぁ…よくこんなゴミ溜めたいなところで毎日寝られるわね。人間ってよっぽど鈍感なのかしら」
口元を抑えてパチュリーが言い放った。
その言葉に魔理沙は表情をこわばらせた。握った拳に、力が入る。
「あ?喧嘩売ってんのか?
そりゃお前は紅魔館で恵まれた生活を送ってたからそう思えるかもしれんけどな。
多くの奴らは限られた環境の中で折り合いつけて生活してんだよ」
その反論に、小悪魔は心の中に疑問が浮かんだ。
―正論だけど、それと家がゴミだらけなのは関係ないんじゃ…
だが、空気を読んで押し黙る。二人の間に走る緊張を、ただ黙って見守るしかできなかった。
「ほら、さっさと出てけよ」
魔理沙に外に押し出され、ばたんと強くドアが閉められた。
冷えた夜風が、二人の頬を撫でた。
◆
―墨汁を落としたような空には、月が淡く光っていた。
パチュリーは同じ魔法使いの誼を頼りに、命蓮寺の聖白蓮を訪ねていた。
山門をくぐると、線香の残り香がふわりと鼻先を掠めた。
物音一つなく、揺れる燭火だけが本堂を照らしていた。
「ふむ…それは構いませんが、あくまでここは禅寺。旅館じゃありません。
貴方達には明日早朝から修行を受けてもらいますよ」
聖白蓮が優しげな笑みを浮かべつつ、そう告げる。
柔らかな声音とは裏腹に、その言葉には有無を言わさぬ力強さが込められていた。
パチュリーと小悪魔は顔を見合わせる。もう夜も更けているし、他に選択肢はなかった。
「…ええ、分かったわ」
パチュリーは頷いた。
白蓮がにこりと笑う。一瞬、目が鋭く光った気がした。
<追放二日目>
―命蓮寺の一室。まだ空が白み始めた早朝。
畳張りの部屋で、パチュリーと小悪魔が坐禅を組んで目を瞑っていた。
その後ろを、警策と呼ばれる長い木の板を持った白蓮がゆっくりと歩いている。
パチュリーは既に足が痺れ、我慢の限界に達していた。
血の巡りが悪くなり、足先がじんじんと痛む感覚だけが、やけに鮮明に意識に上ってくる。
―そもそも、西洋の魔女である私がなんで仏寺で修行なんか…。
そんな雑念が脳裏をよぎる。
まるでそれを見抜いたかのように、白蓮が容赦なく警策で肩を叩く。
パン、と乾いた音が部屋に響いた。
「むきゅ…」
思わず声が漏れる。
―なんでこんな目に遭わなくてはいけないのか。
沸々と怒りが湧いてくる。
それにしても、と隣の小悪魔をちら、と見る。
相変わらず澄まし顔で座っているようだが、眉間には微かな皺が寄っていた。
「煩悩が漏れていますよ」
白蓮が小悪魔の肩を叩く。
「あいたっ」
情けない悲鳴が上がった。
さっきから、小悪魔が叩かれる回数が尋常ではなかった。
おおよそパチュリーの五倍に達していただろう。
―あの子、どれだけ煩悩を抱えてるのよ…。
「そこ、迷いがありますよ」
パチュリーがまたも白蓮に叩かれる。今度は先ほどより強めの一撃だった。
「…っ」
庭に雀が降り立ち、小さく囀る。
まだ一日は始まったばかりだった。
◆
「ささささ寒いいいいい…」
―山奥の滝。
木々の切れ間から差し込む朝日が、飛び散る水しぶきを幾筋もの光の帯に変えていた。
パチュリーと小悪魔は白装束に着替え、滝行をさせられていた。
勢いよく叩きつけられる冷たい山の水。
舞い散る飛沫に息すらままならず、あまりの寒さに歯の根が合わない。
「滝の水とともに、雑念を捨て去るのですよ~」
白蓮が仏のような笑顔で、滝の音に負けないよう大きな、だがどこかのんびりした声で叫ぶ。
「ここここんなのやってられないいいい…」
雑念を捨てるどころか、怒りやら後悔やら苦痛やらの負の雑念で胸が一杯になっていた。
「もっと精神集中してください~」
白蓮の目をよく見ると、仏の笑顔をたたえつつも目は笑っていなかった。
「死しししぬぬぬうううう…」
強烈な水圧を貧弱な身体で受け続けるのはまさに拷問だった。
ちら、と隣の小悪魔を見る。微動だにしていない。
―大したものね…。
少し感心するも、よく見ると白目をむいていた。どうやら気絶しているようだった。
このままじゃ精神集中どころか精神が崩壊する。
せめて、何か、気を紛らわせることを…そうだ、素数を心の中で呟いていこう。
2, 3, 5, 7, 11, 13, 17, 19…
「まだまだ邪念が残っていますよ~」
その声に、集中がぷつりと途切れる。それでも歯を食いしばり、続きを紡いだ。
23, 29, 31, 37, 41, 43, 47, 53, 59…
「そんなんじゃいつまでも終わりませんよ~」
まるで心の中を覗き見られているかのような的確な茶々に、苛立ちが募る。
61, 67, 71, 73, 79…
「御仏の教えを胸に身を委ね…」
「あーーーー!やってられないわよ!!」
遂にパチュリーは堪忍袋の緒が切れた。
浮遊魔法で滝から飛び出して地面に転がる。濡れた身体が土の上を滑り、小石が肌に食い込んだ。
「はぁ、はぁ…」
大きく深呼吸し、酸素を肺に供給する。
塗れた白装束が肌に張り付き、輪郭をあらわにしていた。
寒さのあまりガクガクと体が震えていた。唇は既に紫色に変わりつつある。
「あらあら…けど、貴方にしてはここまで耐えたのは上出来ですね」
白蓮が上品に口元に手を当て笑った。
◆
―命蓮寺の一室。
囲炉裏の炭が、ぱちりと小さく爆ぜる音がした。
冷え切った身体に、温もりがじんわりと染み込んでくる。
「お疲れさまでした。精進料理をどうぞ」
目の前には御膳に載った質素な和食が置かれていた。湯気を立てる汁物、煮しめた野菜、艶やかな白米。
彩りは決して派手ではないが、丁寧に調理されているのが一目で分かった。
箸に手を伸ばし、食事を口に運ぶ。
「…味がしない」
それはわがままというより、素直な感想だった。
洋食の味付けに慣れているパチュリーにとって、精進料理は味が薄すぎたのだ。
隣を見ると、小悪魔はがつがつと箸を動かしている。
滝行の疲労が、味の好みを凌駕しているようだった。
二人は黙々と食事を摂った。外では、既に日が高くなっていた。
◆
食事の後、パチュリーは白蓮に書庫へと案内してもらった。
そこには経典が山のように積まれていた。
天井近くまで届く書棚には、隙間なく巻物や綴じ本が並んでいる。
「経典の他には、命蓮寺に纏わる記録や書付け、歴史書などがあります。貴方が気に入りそうな本はないと思いますが…」
「いえ、十分よ」
白蓮の言葉に、パチュリーが頷いて答える。
紐で括られた本を一冊手に取り、視線を落とす。
滝行の疲労も、痺れた足の痛みも、この瞬間だけは頭の隅に追いやられていた。
白蓮は邪魔せぬよう、そっと退室した。
その夜は、書庫から明かりが消えることはなかった。
<追放三日目>
「出ていかれるのですか?そうですか…残念です」
パチュリーから告げられ、白蓮は小さく目を伏せた。
その表情には、社交辞令とは思えない、微かな寂しさが浮かんでいた。
―あんな修行、毎日受けてたら死んじゃうわよ…。
パチュリーはそう思ったが、口には出さなかった。
「短い間だけど、世話になったわね」
「どうもありがとうございました」
小悪魔が頭を下げた。
山門を出るとき、朝靄が薄く境内を包んでいた。
振り返ると、白蓮が静かに手を合わせているのが見えた。
◆
「次はどこへ行きましょうか。もう行く宛が…」
小悪魔が声をかける。街道を歩く二人の足取りは、決して軽くはなかった。
パチュリーは交友関係が広い方ではない。頼れそうな相手はもういなかった。
「例えば、妖怪の山や永遠亭といった別勢力を頼るというのはどうでしょうか」
小悪魔の提案に、パチュリーは少し考え込んだ。歩みを緩め、視線を宙に彷徨わせる。
「ええ、そうね。この私という極めて優秀な頭脳と、幻想郷屈指の魔法使いが手に入るんだから、
どの勢力だろうと受け入れてくれるでしょうね」
「…」
その極めて高い自己評価について、小悪魔は敢えて何も触れなかった。
「けどね。そうなった場合、『外から見た』ら、どう映るかしら」
「―というと?」
小悪魔が首を傾げる。
「命蓮寺は、まだ『妖怪の駆け込み寺』という側面があるから政治色は薄かった。けど、他はそうはいかない。
『紅魔館の内紛の挙句、出奔し他勢力に下った』としか見えない。
…そして、そういった認識が広まってしまったら最後。それは真実となるのよ。本人の意図に関係なく、ね」
淡々と、まるで講義するように見解を述べる。
そこでようやく小悪魔は得心がいった。
―レミリア様によって追い出されてしまったが、その最後の一線は越えられない。
パチュリー様は、そう思っているんだ、と。
「…人里に行きましょう」
「え、人里ですか?」
小悪魔は驚いた。おおよそ、最も似合わない、望まない場所だと思っていたからだ。
「ええ。最低限の生活インフラが整っていて、政治的にも中立。潜伏するには向いてるでしょう」
少なくとも、野原や山奥で野宿するよりは百倍ましだ、とパチュリーは思った。
◆
パチュリーは茂みの中で、木にもたれて本を読んでいた。
がさり、と草を踏む音がして視線を移すと、そこには小悪魔が頬を上気させ、息を弾ませていた。
「お待たせしました。呉服屋で買ってきた服です」
そう言って、大きな袋を差し出す。
「…ここまでする必要あるのかしら」
パチュリーが袋の中を覗き見つつ、疑問を呈する。
「勿論ですよ。私達の洋装は人里では目立ちますし、何よりパチュリー様は幻想郷縁起に挿絵付きで載ってますからね」
―幻想郷縁起。
稗田阿求が著した、幻想郷の妖怪を記した書物。
確かに、あの挿絵は中々特徴を捉えて上手く描けていた。
あれを読んだ者であれば、ひと目見てパチュリーが魔女だと気づくだろう。
「さ、着替えましょう。私が着付けをお手伝いしますよ」
パチュリーは一つため息をついて、詠唱した。
周囲の空間が陽炎のように歪み、やがてパチュリー達の姿が見えなくなる。錯視の魔法だった。
小悪魔はパチュリーを手慣れた手つきで着付けていった。
「―どうかしら?」
鏡がなく自分の姿が見られないため、小悪魔に尋ねる。
小悪魔はなぜか鼻を押さえ、頭を上に向けながらも何度も頷いた。
「~~っ…!最高です、パチュリー様!和装スタイルもお似合いですよ!」
「…」
何となく不安だったので、ぼそりと魔法を詠唱する。虚空に文様が走り、一枚の金属板が現れ、姿を映す。
明治時代の女学生が着るような、薄紫色の袴姿だった。
頭のナイトキャップはなく、三日月のアクセサリのみ髪飾りとして着用している。髪は後ろで紐で束ねていた。
「ふむ…まあ悪くないわね」
一人頷いた。口元には、わずかながら満足げな笑みが浮かんでいた。
小悪魔も自分で手早く着替える。こちらも同じ様な袴姿だが、黒と赤を基調とした色合いだった。
パチュリーが軽く詠唱すると、小悪魔の頭と背中の羽がじわりと消えていった。
「さ、では人里へ参りましょう。諸々の準備は終えていますので」
そう言って歩き出す小悪魔の背中を、パチュリーはしばし見つめた。
その後ろ姿は、普段と違って頼もしく感じられた。
◆
「パチュリー様、こちらです」
「なにこれ。ウサギ小屋?」
―人里。
陽光が、傾いた瓦屋根の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。
そこは日稼ぎ労働者御用達のボロ長屋だった。
板壁は所々剥がれ落ち、軒先には蜘蛛の巣が幾重にも張り巡らされている。
「ウサ…いえ、一応これでも人間の住居です。今の持ち合わせだと、ここが精一杯でした」
「…嘘でしょ。こんなの人が生活できる家じゃないわよ。なんかすえた匂いもするし」
そう言いながら、口元を抑えて中に入る。
極めて狭い四畳半だった。
畳は所々擦り切れ、天井の梁は煤で黒く染まっていた。
「パチュリー様…これでも賃貸契約を結ぶのにだいぶ苦労したんですよ。
紅魔館と闇取引している商人に仲介金を払って、身請け人になってもらったんです」
小悪魔が少し口を尖らせて言った。
「闇取引の商人…」
そういえば以前、紅魔館が仕入れた外来品の卸先である商人が、
用心棒と共にレミリアに表敬訪問しているのを見かけたことがあった。
確か、越後屋だか何だかとかいう、如何にも悪徳そうな名前だった気がする。
「私たちの追放が周知されて無くて助かりましたよ。身請け人なしじゃ、住居なんて絶対借りられないですから。
というわけで、申し訳ありませんがしばらくご辛抱ください。それと、こちらをどうぞ」
小悪魔は紙切れを差し出した。
「これは?」
「偽造した住民台帳の写しです。身分証明みたいなものですね。
人里で、自治の範囲で帳簿管理してるんですよ。何しろ、これがないと職探しもできないので…」
パチュリーは意外に思った。
幻想郷には国や政府、自治体といった概念がない。よって、戸籍のような制度もないものと思っていた。
だが、互助による身分証明の仕組み自体は存在していたのだ。
人間に扮する妖怪が紛れないよう、身分を明確にする側面もあるのかもしれない、と考えた。
「パチュリー様は『八里知子』、私は『七詩ここあ』です。以後、外ではこの名を名乗ってください」
じっと紙切れを見つめた。
「こんなの、どうやって手に入れたの?」
「フフ…蛇の道は蛇、ですよ。一つ言えるのは、紅魔館のネームバリューは人里にも行き渡っている、ということです」
小悪魔が妖しげな笑みを浮かべる。
パチュリーはぽかんとしていた。妖怪が人里で生きていくのに、ここまで色んな根回しが必要だったとは―
「生活用水は、外の共同井戸から汲んでください。トイレは長屋の共同厠を使います。
お風呂は備え付けがないので、銭湯を利用します。お金に余裕がないのでよくて二、三日に一回ってところですね。
生ゴミはある程度溜まったら農家の人に引き取ってもらうので、この桶に入れといてください」
小悪魔は次々と注意事項を口にする。まるで生徒を指導する先生のようだった。
パチュリーはただただ聞いているだけしか出来なかった。
これまで、水を汲むことも、湯を沸かすことも、誰かが当たり前のように整えてくれていたのだと、今になって思い知らされる。
「それと、くれぐれも目立たぬよう、出入りをあまり人に見られないようにしてください。
仮に訪問客が来ても出ずにガン無視でお願いします。何しろ、この長屋周辺はあまり治安が良くないので…。
若い女性二人が住んでいる、と知られたら、いらぬトラブルの元ですから」
小悪魔が淡々と述べる。
「では、私は仕事に行ってきます」
「仕事?」
「ええ。この長屋の頭金と呉服代、仲介金と偽造手数料、加えて最低限の日用品で私のへそくりはなくなりましたから…。
収入がなければ、生活していけませんので」
小悪魔は財布を手に持ち、口を下にして揺すってみせた。硬貨一枚も落ちてこなかった。
「大通りの茶店で求人があったので、今日からそこで働くことになりました。では、遅れそうなので失礼しますね」
そう言うと小悪魔は慌てて駆けていった。引き戸を閉める音が、狭い部屋に乾いた音を立てて響いた。
一人残されたパチュリーは呆然として立ちすくんでいた。
◆
狭い長屋に居ると気が滅入るだけなので、パチュリーは人里を散策することにした。
日中の商店街は、通行人と店先で足を止める客達で賑やかだった。
心なしか、通行人にちらちらと見られている気配がする。
―ま、私の容姿なら当然ね。
自惚れではなくごく自然に、そう思った。
暫く歩くと、大きな屋敷が見えてきた。
立派な門構え。表札には稗田、とあった。
庭木の手入れも行き届き、この界隈では明らかに一線を画す佇まいだった。
「そうだわ、ここなら…!」
◆
―稗田邸。
案内された畳の部屋で待っていると、稗田阿求が部屋に姿を現した。
着物をきっちりと着付け、立ち居振る舞いも良家の令嬢、といった雰囲気だった。
が、目の下にはくっきりと隈が出来ていた。心なしか、疲れが表情に現れている。
「貴方と直接お会いするのは、幻想郷縁起の取材以来ですね。
それにしても、私の小説の登場人物の名前を名乗るなんて…中々大胆ですね」
稗田阿求の言葉に、パチュリーは首を傾げた。
『八里知子』という名前は、小悪魔が決めたものだ。まさか、小説から拝借していたとは。
自身の当て字のような名前に、小説の中でどういう描写がされているのか、一瞬興味が湧いた。
「―で、紅魔館の魔女が何の御用でしょうか」
阿求が訝しげに問いかける。その視線には、来訪者への警戒と、わずかな好奇心が同居していた。
「貴方の屋敷には沢山の蔵書があると聞いたわ。それを拝見したくてね」
「うちの蔵書を…?」
阿求が首を傾げる。
「確かに、歴史書関連の書籍はありますが…紅魔館の大図書館を持つ貴方が、わざわざ?」
「うちにはない幻想郷にまつわる歴史書も多くあるはずだから、一度読んでみたくてね」
「本来は一般公開などしてないのですが…まあ、貴方なら信用できそうですし、特別に許可しましょう」
◆
書庫に案内されると、書棚に整然と整理された書籍が並んでいた。
乾いた紙と墨の匂いが、部屋いっぱいに満ちている。
「へぇ…中々じゃない」
パチュリーが目を輝かせると、早速一冊手に取った。
「東アジアの正史から野史、歴史以外にも薬学、地理などジャンル問わず概ね揃っています」
それを聞いてパチュリーは思考を巡らし、試すように呟いた。
「…春秋左氏伝」
「ありますよ」
「吾妻鏡」
「それもあります」
「風土記」
「もちろんあります」
「山海経」
「ばっちりです」
パチュリーのやるじゃない、といった風の眼差しを受け、阿求はにこっと笑い親指を上向きに立てた。
―それは、まさに知識人同士の無言の絆が結ばれた瞬間だった。
ぱらり、ぱらりと頁を捲る。
「貴方は西洋の妖怪ですが、漢文の方は…?」
「私は五行魔法の使い手。当然、読めるわよ」
既にパチュリーの視線は本に落とされている。常人ではありえない早さで読み進めていた。
「―では、私はこれで失礼します。用が済みましたらお声掛けください。ああ、そうだ。もしよければ…」
阿求が一瞬そこで言葉を区切る。
「お返しと言っては何ですが、今度貴方の図書館を見せていただければ助かります」
「ええ…貴方なら別に―」
構わないわよ、と言いかけて、喉元まで出かかった言葉が止まった。
レミリアに紅魔館から追い出された身だ。口約束は出来なかった。
「…レミィに聞いてみるわ」
これなら嘘にはならない。
阿求は一瞬首を傾げた。レミリアに許可が必要なのか?と疑問に思ったのだ。
「お願いしますね。では―」
阿求は退室した。障子が静かに閉まる音が、書庫の静寂な空間に微かに響いた。
◆
筆を走らせていた阿求は、ふと外を見た。すっかり暗くなっていた。
庭木の影が、月明かりに長く伸びている。
「―そういえば、あの魔女は…?」
書庫に行くと、そこではパチュリーがまだ本を読んでいた。
百冊を超える本が机に雑然と積まれている。
行灯の灯りに照らされたその姿は、まるで書物の海に沈んでいるかのようだった。
―これを全部読んだというの…?
阿求は内心驚いた。
「ノーレッジさん」
声をかける。パチュリーがはっと視線を上げた。
「あぁ。何かしら」
「もうすっかり日が落ちていますが…」
暗に早く帰れ、と促す言葉だった。
「あら、もうそんな時間なのね。じゃあ続きは明日にするわ」
阿求がぽかんとした表情になった。
「明日…?」
「世話になったわね。それじゃあ失礼するわ」
パチュリーは出した本を片付けることもせず、そのまま書庫から退室した。
阿求は机の上に無造作に放置された本を、じっと見つめていた。
◆
―ボロ長屋の一室。
畳の上には、粗末な御膳が据えられていた。。
「―これは?」
「雑穀米に、小松菜のおみそ汁。それにイワナの塩焼きにお新香です」
小悪魔の顔にはわずかな疲労の色が見られたが、それを隠すように微笑んでいた。
「茶店のお婆さんに、無理を言ってお給料を日払いにしてもらったんです。
…パチュリー様のお口には合わないかもしれませんが…」
「いえ、そうじゃなくて。私たち、食事をしなくても生きていけるでしょう」
魔女は魔力を消費して生きるためのエネルギーとし、使い魔も契約者から魔力を得ていた。
「ええ、確かにそうです。けど…どんなあばら家であっても、私たち二人だけになっても。
いつもの、食卓を囲んだ団らんは…必要かなって思ったんです」
その声には、わずかな照れと、それ以上に確かな想いが込められていた。
ふとパチュリーの脳裏に、紅魔館での豪華な料理を囲んだ食卓が浮かんだ。
レミリアは食事が不要であるパチュリーと小悪魔にも、必ず食事を用意して招いてくれた。
レミリアとフランドールだけでなく、咲夜、美鈴も席につく。
そこには、主君も従者もない。朗らかな団らんがあった。
「ふ…そうね。ありがとう、こあ」
湯気の立つ味噌汁を、そっと口に運んだ。粗末な椀の中に、確かな温もりがあった。
◆
食事を終え、小悪魔は手慣れた手つきで後片付けをしていた。
「ふと思ったんですが…。
パチュリー様の知識やスキル、魔法を駆使すれば、幾らでもお金を稼ぐことは可能ではないでしょうか?」
小悪魔は素朴な疑問を口にした。
「確かに、その気になれば簡単に億万長者になれるでしょうね。けど…」
そこで言葉を区切る。
「一つ。私はね、そんな日銭を稼ぐという俗な目的のために魔法を探求しているんじゃないわ。
二つ。経済バランスの観点からも、人里という文化水準から逸脱した技術を用いること自体、忌避されるべきものよ。
鷹は飢えても穂を摘まず…というでしょ」
「…さすがパチュリー様。そんな高尚なお考えがあったとは…申し訳ありません、私が浅はかでした」
小悪魔が頭を下げつつ、目を輝かせて尊敬の眼差しを向ける。パチュリーはそれを受け、コホンと咳払いをした。
「最後に。…目立つことすると、博麗の巫女に潜伏してるのがバレるでしょ」
「あぁ…」
小悪魔は苦笑を浮かべつつ、得心したように頷いた。
◆
狭い四畳半の空間に、隙間がないほどきっちりと薄っぺらい布団が二組、並んで敷かれていた。
行灯の灯りが、二組の布団をぼんやりと照らしている。
「…」
パチュリーが黙ってそれを見つめていた。
「あ、あの…パチュリー様。これは決して、他意があるわけではなくて。
この狭さですから、どうしても隣同士になってしまうのであって」
小悪魔が若干慌てつつも、頬を淡く染めて言い訳をする。
「何を慌ててるのよ。別に私は何も言ってないじゃない」
パチュリーは全く意に介さないようだ。その素っ気なさが、かえって小悪魔の狼狽を助長した。
「あ、そうですよね。あはは…」
小悪魔が乾いた笑いを浮かべる。
―しばしの沈黙。行灯の芯が、ぱちりと小さな音を立てた。
「じゃ、じゃあ…そろそろ寝ますか」
小悪魔がちらちらとパチュリーを見ながら、布団に潜り込む。
「私はちょっと外で本でも読んでくるわ。魔女だから寝る必要もないし」
「えっ」
そう言うと分厚い本を手に、がらがらと引き戸を開けてさっさと出ていった。
夜の冷えた空気が、一瞬だけ部屋の中に流れ込んだ。
一人残された小悪魔は、布団の中に頭をうずめた。
◆
パチュリーは夜の通りを歩いていた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。軒先の提灯が、点々と道を照らしていた。
やがて、川岸の縁台に腰を下ろす。水の流れる音が、涼やかに耳に届いた。
空を見上げると、満月が淡く地面を照らしていた。
ふと、紅魔館を思い浮かべる。
書架に囲まれたあの薄暗い書斎の匂いが、蘇った気がした。
「…」
軽く首を振って、その想像を頭の中から追い払った。
「―おやおや、これは」
その声に顔を上げる。
「溢れ出る膨大な魔力、おぬし…紅魔館の魔女か?」
緑色の着物を着た、丸眼鏡を掛けた癖っ毛のある髪の女がにやりと笑った。
その佇まいには、只者ではない気配が感じられた。
「―!!」
パチュリーは飛び上がるように立ち上がり、口の中で詠唱する。
「待て待て、こんな人里で魔法なぞ使うな。それに、わしは敵ではない」
女は慌てたように両手を軽く上げ、敵意がないと示す。
「貴方、何者?」
パチュリーはそれでもなお警戒を解かず、尋ねる。
「わしは二ッ岩マミゾウ。以後お見知りおきを」
そう言って頭を下げる。
「マミゾウ…!あの大妖怪の…」
その名を耳にした瞬間、パチュリーの背筋に緊張が走った。
「おや、知っておったか。光栄じゃの」
愉快そうに笑う。
「―ところで。なぜ普段滅多に外に出ないお主が、人間のふりをして夜の人里に居るんじゃ?」
余裕ぶった口調だが、底には冷たい警戒心が含まれていた。
「お転婆吸血鬼が、何か善からぬことを企んでおる…といったことはないよな?」
目を細める。鋭い視線が、丸眼鏡越しにパチュリーに刺さる。
「ふん…レミィは何の関係もない。少なくとも、貴方の想像しているような理由じゃないから安心しなさい」
ぶっきらぼうに答える。声には、若干の苦みが込められていた。
マミゾウは少し考えて、呟いた。
「ふむ…ま、深くは探らんでおこう。お主は人里で無茶をするような阿呆ではないことは確かじゃからの」
カラカラと笑う。緊張した空気が、少しだけ緩んだ。
「貴方こそ人里で、しかもこんな夜に何してるのよ」
お返しとばかりに詰ると、マミゾウは肩をすくめた。
「別に大したことではない。今から呑みにでも行こうと思ってな。
…そうじゃ、せっかくじゃしお主も一緒に来るか?鯢呑亭といってな、美味い料理と酒を出す、良い店じゃよ」
パチュリーは一瞬ぽかん、としたが、ふっと笑った。誘いの唐突さに、毒気を抜かれたような気分だった。
「―遠慮しておくわ。そういう気分じゃないし、使い魔を置いて私一人酒を楽しむ気にもなれない」
「そうか、残念じゃのう…ま、気が向いたらいつでも来てくれ」
そう言って、マミゾウは繁華街へ続く通りへと去っていく。後ろ姿が数歩進んだところで、不意に足を止めた。
「そうじゃ。普段滅多に外に出ないお主に、一つ忠告じゃ」
振り返る。月明かりが、丸眼鏡に反射していた。
「我々は姿形が人間に似てようが、妖怪であることに変わりはない。―それをゆめゆめ忘れぬようにな」
「…は?そんな事、言われなくても分かってるわよ」
反射的に言い返す。だが、その言葉の重みが、思いのほか胸に残った。
「そうか、それならいいんじゃ」
そして、今度は振り返らずに去っていった。
パチュリーはわずかに首を傾げた。そして月を見上げる。
それは、人里を淡く照らしていた。
<追放四日目>
「阿求様から、お通しするなと申し付けられております。お引き取りください」
―稗田邸の門前。
朝の澄んだ空気の中、門衛からにべもない言葉を受け、パチュリーは一瞬言葉を失った。
昨日とは明らかに違う、硬く閉ざされた態度だった。
「…どうして?昨日は普通に通してもらえたのに」
「さあ…詳しいことは存じ上げません。ですが、当主の言いつけですので…」
門衛の言葉は柔らかいが、一歩も退かぬという意思を感じさせた。
―単に本を読んでいただけなのに。何が気に触ったのだろうか?
まさか、無理やり押し通るわけにもいかない。仕方なく門前を後にした。
さて、どうするか。
パチュリーは宛もなく人里を彷徨った。朝の商店街では、既に人々の営みが始まっていた。
他に本が読めるような場所があっただろうか。
―そういえば。
レミリアは本居小鈴という人間の少女と文通をしていた。
何でも、貸本屋の娘で、どんな文字でも読めるという特殊な能力を持っているとのことだった。
「パチェ、貴方と相性がいいんじゃない?」
とレミリアがからかい混じりに言っていたのを思い出したのだ。
丁度いい。本を読みに行こう。それに―
パチュリーはにやりと笑った。
◆
「いらっしゃいませ~。ごゆっくり見ていってくださいね」
―鈴奈庵。
明るい赤みがかった髪の少女が笑顔で声をかける。
木造りの本棚が整然と並び、朝の光が格子窓から柔らかく差し込んでいた。
紙とインクの匂いが、店内にほのかに漂っている。
「私はパチュリー・ノーレッジ。レミィから貴方のことは聞いているわ」
それを聞くと、小鈴はぱぁっと顔が明るくなった。
「貴方が、大図書館の魔女ですね…!一度お会いしてみたいと思っていたんです」
「私と…?」
言いながら、書棚から一冊の本を手に取った。
「はい!私、本が大好きで…妖魔本や妖怪といった類のものにも興味があるんです。
沢山の本を読まれているパチュリーさんと、話してみたくて」
「へぇ…」
視線は本に落とし、さっと読んでは頁を捲る。
―その後。
「図書館の蔵書数ってどのくらいあるんですか?」
「いつから魔法の研究をされてるんですか?」
「西洋にはどんな妖怪がいるんですか?」
小鈴は様々な質問をパチュリーに投げかけ、短く返事を返す、という応酬がしばらく続いた。
小鈴の瞳には、憧れにも似た輝きが宿っていた。
「レミリアさんから聞いているかもしれませんが、私にはどんな文字も読めるという力があります。
もしかしたら、パチュリーさんの研究のお役に立てるかもしれませんよ」
パチュリーはそこで本から視線を上げ、小鈴をまっすぐ見つめた。
少し考え込む。先程までと違い、瞳には真剣な光があった。
「…いや、遠慮しとくわ。ただの人間が魔導書を読むなんて危険すぎるし、万一何かあったら霊夢に…」
調伏されてしまう、という言葉は飲み込んだ。
「けど、安全だと分かっている本だけなら大丈夫じゃないですか?」
小鈴は食い下がる。きっと、図書館に来訪したいという思惑もあるのだろう。
その粘り強さに、パチュリーはわずかな苦笑を浮かべ、本をパタンと閉じた。
「そうね。確かに、貴方の能力で読解すれば飛躍的に研究は進むでしょうね」
「だったら…!」
期待に満ちた声が上がる。だが、パチュリーの表情は変わらなかった。
「…私は、魔法に限らず学究とは、結果だけでなく過程も重要だと考えているわ。
貴方は、この国で初めて翻訳された西洋科学書が何か、知ってるかしら?」
小鈴は首を傾げる。突然の問いかけに、戸惑いの色が浮かんだ。
「えっと…確か、解体新書だったかな。オランダ語で書かれた人体の解剖学書ですよね」
「正解よ。杉田玄白らが中心となって、何の情報も無い中翻訳に取り組み、四年も掛けて自力で完成させた。
その結果、オランダ語の理解が深まり、蘭学者のサロンが生まれ、後の近代科学への発展の礎となった」
小鈴がハッとしたように目を見張る。
「…私はね。知識というものは、探求する過程に意味があると思っている。
読解し、考察し、検証し、理解することで、初めて『知識を身に付ける』と言える。
―『Knowledge』を名乗る以上、私は真理へ至る道を、自分の足で辿りたいのよ」
わずかな沈黙が、二人の間に落ちた。
埃の粒が、格子窓から差し込む光の中でゆっくりと舞っていた。
やがて、小鈴は深く納得したように頷き、微笑んだ。
「―ご立派なお考えだと思います。やっぱり、貴方は私が思った通りの人ですね」
輝く瞳は深い尊敬の色に満ちていた。
◆
―それから数時間後。
パチュリーは延々と本を読んでいた。いや―よく見ると、足が宙に浮いている。
長時間立ち続けるのは疲れるので、気づかれない程度に魔法で身体を浮かせているのだった。
「ん、んんっ」
小鈴が傍まで来て、わざとらしく喉を鳴らす。
だがパチュリーは知らん顔だ。視線は本から逸れなかった。
小鈴ははたきで本棚を叩き始めた。ふわ、と埃が宙に舞う。
「…ちょっと。私は喘息なのよ」
抗議の声を無視して、はたきでぽんぽんとパチュリーの立つ本棚を集中的に叩く。
小鈴の目には、先程の尊敬の色はどこへやら、
今では虫けらを見るような―迷惑な客に対する蔑み一色になっていた。
パチュリーは仕方なく端っこへ避難して本を再び読み始める。
小鈴はそんなパチュリーをじっと睨みつけ、遂に口を開いた。
「えっと、パチュリーさん。うちは貸本屋なんですよ」
「ええ、そうね。だからこうして『借りずに立ち読み』してるんだけど」
小鈴の額に青筋が浮かぶ。こめかみのあたりが、痙攣していた。
「そんなに読みたいなら、お金を払って貸し出して読んでください」
「悪いけど手持ちがないのよ」
小鈴はぽかんとした顔になった。表情に、困惑の色が広がっていく。
「…紅魔館って、すごく豪華で羽振りもいいって聞いてましたけど。
それにパチュリーさんって、レミリアさんの親友ですよね。沢山お小遣い貰ってるんじゃないですか?」
パチュリーはしばし沈黙する。
「以前は研究費として毎月百円貰ってたんだけど。今はちょっと、ね」
「ひゃくえん…!?」
そのあまりに巨大な額に小鈴は仰天した。それは鈴奈庵の数ヶ月分の売上と同等だった。
そして、パチュリーの置かれた状況を何となく察した。
そもそも、自前の図書館でなく人里の小さな書店で読み続ける、という行為自体がおかしいのだ。
「―お金がないなら、出ていってください!」
小鈴の剣幕に流石のパチュリーもいたたまれなくなり、半ば追い出されるように鈴奈庵を後にした。
◆
―紅魔館の執務室。
レミリアが机に向かって書類を捌いている。
ペン先が紙を滑る音だけが、静かな部屋に規則正しく響く。その脇では咲夜が控えていた。
「―聞いたわよ、パチュリーを追い出したんだってね?」
その声とともに姿を現したのは、フランドールだった。
「あんなにお姉様のお気に入りだったのに…ま、無理もないけどね」
面白がるように言いつつ、肩をすくめた。
「フラン、どういう意味よ」
レミリアが若干むっとして尋ねる。ペンを持つ手が止まった。
「そりゃあ…何の役にも立たないくせに態度だけは大きかったからね。むしろよく今まで我慢してたわね」
フランドールは『何の役にも立たない』という箇所をことさら強調して言い放ち、からかうように笑う。
姉の反応を試すような悪戯心が透けて見えた。
「…フラン」
レミリアが目を細めて立ち上がった。椅子が軋む音が、いつもより硬く聞こえた。
「その辺にしておきなさい。人をそう悪く言うもんじゃないわ」
フランドールは軽い足取りでレミリアの執務机に近づく。
そしてレミリアの後ろに回り込み、吐息が触れるほどの距離で、耳元で囁いた。
「へぇ~、パチュリーを擁護するんだ?」
「…」
「お姉様自身が追い出したというのに?おかしいわねぇ」
「…」
フランドールが妖しい笑みを浮かべる。
「あれだけ大好きだったのに、さぞ追放するときは辛かった―」
「―っ…ええ、そうよ。何十年も連れ添った友人なのよ。当然じゃない!」
遂にレミリアは根負けしたかのように叫んだ。そして、はぁと息をついた。
声には、隠しきれない本音が滲み出ていた。
「けどね、これもパチェを思ってのこと…そのためには心を鬼にするわ」
フランドールは、してやったりの顔で笑った。目的を達成した猫のような満足げな表情だった。
「あははッ!やっぱりお姉様は素直な方が似合ってるわよ。…ま、程々にしてあげてね。
あのもやし、下手したらその辺で行き倒れになるかもしれないから」
フランドールはクスクスと笑いながら去っていった。
後ろに控えていた咲夜が声を掛ける。
「お嬢様…やはり、あの追放劇は…」
「咲夜」
レミリアはじっと咲夜を見つめた。
「私が本気でパチェを追い出すわけないでしょ?」
「…では」
「私は、パチェに少し自覚してほしかったのよ。
自分の環境がまるで当たり前のように振る舞っているけど…それが特別であり、恵まれたものである、とね」
ふっと笑う。燭台で揺れる炎が、横顔を柔らかく照らしていた。
「何日か外で過ごしたら、自然と理解できるようになるでしょう」
「お嬢様…」
咲夜がほっとした笑顔を見せる。張り詰めていた肩の力が、抜けたようだった。
「それに…」
レミリアはちら、と執務机の上に置かれている、やたらとカラフルで見慣れない表紙の本に視線をやった。
「いや、何でも無いわ」
咲夜は首を傾げた。主が何を思い浮かべたのか、計りかねているようだった。
「ですが、パチュリー様がいないと何かと困るのではないですか?
やはり幻想郷屈指の知識人ですし、相談事でご助言をいただけないとなると…」
「いや、今のところ特に困ってないけれど…」
レミリアの率直な答えに、咲夜はなんと返せばよいか分からず、沈黙した。
レミリア自身も、言った後にはっとして手を口に当てた。
―少し気まずい空気が流れた。
「ま、まあ…パチェならどこでもやっていけるわよ。こあもついてるし」
「そ、そうですね」
二人は空気を変えるかのように努めて明るく振る舞った。
だがその笑い声は、どこかぎこちなかった。
◆
「まったく…どこかのネズミと違って持ち出すわけでもないのに。
阿求といい小鈴といい、人間は随分狭量ね」
鈴奈庵から追い出されたパチュリーはそう嘯きつつ、ボロ長屋へと向かっていた。
その帰り道。
大通りの茶店で健気に働く小悪魔の姿を見つけた。
慌てて隠れ、物陰からこっそり観察する。
小悪魔は割烹着を付け、客相手に愛想を振る舞い、笑顔で働いていた。
慌ただしく盆を運び、頭を下げ、また笑う。その一連の動きには、既に馴染みつつある手際の良さがあった。
「こあちゃん、働き者だねぇ」
店主らしき老婆が、感心したように声をかける。しわがれた声には、素朴な温かみがあった。
その呼び名を聞いてパチュリーは驚いた。小悪魔も動揺したようだ。
「お、お婆さん。私の名前は『七詩ここあ』ですよ」
小悪魔が少し困ったように訂正する。慌てて周囲を見回す仕草に、パチュリーは思わず息を潜めた。
「ご主人様に少しでも楽をしていただきたくて…」
その言葉が、物陰にいるパチュリーの耳に、やけにはっきりと届いた。
「へえぇ、その歳で偉いねぇ」
小悪魔の少し気恥ずかしそうな様子に、老婆が皺くちゃの顔で笑いかける。
二人の間に流れる、何気ない温もりのある空気。
その光景を目の当たりにし、パチュリーはなにかが胸にチクリと刺さった気がした。
小悪魔に気づかれないように元来た道を引き返し、路地に入り、立ちすくむ。
冷えた壁に背をもたれ、しばらく動くことができなかった。
心の中で、申し訳ないと思った。
せめて夕食を用意しようと思ったが、そもそも手元にお金もないので、食材を買うことも出来ない。
「私は…昨日、今日と一体何をしていたのかしら」
阿求と小鈴の元でただ単に本を読んでいるだけだった。
その間、小悪魔が必死に働き、なけなしのお金で食事を用意してくれた。
自分は、それを当たり前のように食べているだけだった。
「…」
やがて、一つの決意を胸に秘めた。
夕闇が、路地の奥にゆっくりと降りてきていた。
<追放五日目>
「…いらっしゃいませ」
―人里の繁華街にある牛鍋屋。
割り下の香ばしい匂いが、暖簾の外まで漂っていた。
そこに、三角巾を頭につけ、可愛らしいフリルのついた割烹着を着たパチュリーの姿があった。
慣れない衣装のせいか、どこかぎこちなさが感じられた。
無表情かつ仏頂面で、客に応対している。
「―店長、あの子、どうですか?」
遅番の店員が恰幅の良い年配の男性に話しかける。
「ああ、八里知子さんね。うん…」
少し考える。
「まあ、中々独特だね。接客はお世辞にも良いとは言えない。笑顔はないし、声も小さい。
それに動きも遅い。ただ、あの通り器量は抜群だ。微笑まなくても、華がある。極めつけは…」
そこで言葉を区切った。
「とんでもなく記憶力がいいんだ。どんな仕事でも、一度教えると絶対に忘れることがない。
それに、客の多数の注文を次々と受けても、メモも取らずに全て覚えている。面白い子だよ」
「へぇ…」
店員は改めてパチュリーを見やる。視線の先で、パチュリーは黙々と鍋を運んでいた。
「はぁ、はぁ…」
仕事を始めて既に数時間が経とうとしていた。
パチュリーはへとへとに疲れていた。決して重労働ではないのだが、常に立ちっぱなしであっちへこっちへと忙しい。
鍋を運ぶ際も非力ゆえ手が震える。額に自然と汗が浮かんだ。
―いや、こあだって働いてるのよ。あの子だけに押し付けるわけにはいかない。
そう心の中で決意を固め、棒のようになった脚を動かす。一歩一歩が、鉛のように重かった。
様々な客が思い思いに牛鍋をつついている。
家族連れ、一人客、老夫婦など。湯気の立つ座敷には、雑多な笑い声と話し声が絶えず満ちていた。
自然と、会話内容もパチュリーの耳に入ってくる。
「大通りの茶店に可愛らしい店員さんが…」
「今年の稲は実りが良い…」
「ちゃんと寺子屋の宿題はやったの?…」
そんな中、引っかかる話題があった。声のトーンが、他の会話よりも低く沈んでいた。
「行方不明者が出たらしい。妖怪の仕業かもしれない…」
―人里の人間に手を出す妖怪などいるのだろうか、と疑問が浮かぶ。
頭の片隅に、その言葉が引っかかりとして残った。
がらりと引き戸が開く。
「いらっしゃいませ」
パチュリーはにこりとも笑わずに声を掛ける。
客はガラの悪そうな男二人組だった。着流しをだらしなく着込み、一人は口に煙管を加えている。
パチュリーは、少し首を傾げた。どこかで見た顔だと思ったからだ。
そして、思い出す。そうだ、あの二人は―
二人は座敷の席にドカリと座り込んだ。
「ご注文は」
パチュリーが必要最低限の文言で尋ねると、男は「牛鍋二人前だ!早く持ってこい!」と大声を上げた。
他の客はじろりと非難めいた視線を送るが、二人に睨まれるとすぐに視線を外した。店内に、一瞬の緊張が走る。
「はい、ただいま」
そう返事すると奥へ行き、注文を厨房に告げる。その時、座敷から小さな悲鳴が聞こえた。
店員の若い女性が、男に腕を掴まれていた。恐怖に強張った表情が、パチュリーの視界の端に飛び込んでくる。
「なかなか可愛いじゃないか。隣りに座って酌をしてくれよ」
「お客様。こ、困ります…」
パチュリーはそれを冷たい目で睨みつけた。そのまま歩み寄る。足取りに迷いはなかった。
「お客様。当店はそういったサービスは行っておりません」
二人が睨みつける。粘つくような視線が、全身に纏わりついた。
「あ?客は神様だろ?客に口答え…」
そこで言葉が途切れる。
「いや、あんたの方が別嬪だな。おい、こっちこいよ」
「こんな上玉がいるなんてな」
下卑た笑いを上げる。パチュリーは、呆れとも侮蔑とも取れるため息をついた。
「…お客様。当店では、お客様自身にも最低限の品性と礼節を求めております」
すうっと息を吸う。
「―貴方達はそれを満たしていない。さっさと出ていきなさい」
先程までと違った、よく通る声だった。店内の喧騒が、一瞬にして静まり返った。
それは抑揚のない、淡々とした言い方だったが、強烈な威圧感を伴っていた。
魔女としての威厳、矜持が、表れていた。
一瞬気圧された男達は、それを振り払うかのように声を上げた。
「なんだぁ?客に向かってその言い草は!?」
パチュリーの腕を乱暴に掴む。骨が軋むような、痛みを伴う力だった。
パチュリーは口の中でぼそり、と詠唱を紡ごうとし―思いとどまった。
「あっ…」
無理やり男に引き寄せられ、身体を密着させられる。
酒と煙草のすえた臭いが、鼻先を掠める。
―嫌悪感がぞわりと背筋を走る。同時に、怒りがじわじわと広がった。
「お、お客様!」
店長がすっ飛んできた。
「店員の教育の不行き届きから、不快な思いをさせてしまい申し訳ありません!
その者にはきつく言い聞かせますから、どうか…!」
深く頭を下げる。額には、冷や汗が滲んでいた。
「ごめんで済んだら博麗の巫女はいらねぇんだよ!」
男が勢いづく。周囲の客たちは、固唾を飲んで成り行きを見守っていた。
―その時。パチュリーは男の耳元に口を近づけ、ぼそりと呟いた。
「貴方、越後商店の旦那の用心棒でしょ?」
男は硬直した。掴んでいた腕の力が、自然と緩んだ。
「―何で知ってんだ?」
「あそこの旦那…紅魔館の妖怪と外来品を闇取引してるわよね?」
今度は明確に男達に衝撃が走った。互いに顔を見合わせ、表情から余裕が消えていく。
「別にそれ自体は違法でもなんでもないわ。けど、そんな噂が人里中を駆け巡ったら…どうなるかしらね?」
妖しく笑みを浮かべる。そこには、静かな凄みがあった。
男はパチュリーを突き飛ばした。
「くそ、帰るぞ!」
乱暴に引き戸を開けて帰っていった。荒々しい足音が、遠ざかっていく。
「あ、ありがとう!八里さん!」
男に迫られていた女性店員がパチュリーの手を握り、感謝の意を表す。
その手の温もりに、パチュリーは少し戸惑った。
「君、一体どうやって…あの男達を…」
店長が訝しげに尋ねる。
パチュリーは目をじっと見た。やがて、わずかに俯き、首を横に振った。
思考が頭の中を巡る。
―迂闊だった。無礼な客を追い払うのに、普通では知り得ない知識を使ってしまった。
そして、一つの結論を出した。
「すみません、私にはこの仕事は合わないようです。辞めさせて頂きます」
呆気にとられる店長達を尻目に、パチュリーは三角巾と割烹着を脱ぎ、丁寧に畳んで座敷に置き、店を出た。
◆
「ま、待ってくれ!」
店長が追いかけて走ってくる。
―何だろう。まさか、さっきの件を問いただされるのだろうか。
だとしたら面倒になる。足を止め、身構えるように振り返った。
はぁ、はぁと膝に手をついて息切れしている。
相当太ってるので、少し走るだけで辛そうだ。額には玉のような汗が浮かんでいた。
「…何かしら」
「君を庇えなくて、さっきはすまなかった。それと、これを受け取ってくれ。今日の分の給金だ」
巾着袋が差し出される。
パチュリーは少し目を丸くした。予期せぬ言葉に、身構えていた肩の力が抜けた。
「―いいの?」
「いいも何も、働いたら報酬を払うのは当たり前だよ。
それに、あの男達を追い払ってくれたしね。少し色を付けさせてもらった」
汗を拭きながら、気持ちいい笑顔で応える。
「―ありが…とう」
両手で巾着袋を受け取る。思いのほかしっかりとした重みが、掌に伝わった。
「なにか事情があるのかもしれないが―私は、君を応援しているよ。それじゃ」
そう言うと、店長は人の良さそうな笑顔を残して店に戻っていった。
「…」
巾着袋を見つめる。
得も言えぬ感情がじわりと広がった。
口を開けて、中身を見る。十銭銅貨が五枚入っていた。
―五十銭。
かつてレミリアから毎月支給されていた百円。
それに比べると、あまりにも小さな額だった。数字だけを見れば、笑ってしまうほどの差だった。
―だが、それでも。
パチュリーはぎゅっと握りしめた。
今は、この巾着袋がどんな大金よりも重く感じられた。
◆
―長屋の一室。
夕暮れの光が、橙色に染まって差し込んでいた。
「こ、これは…?」
パチュリーが差し出した菓子折りを見て、小悪魔が目を丸くする。
「…おみやげのカステラ。その…牛鍋屋で働いたお給金で、買ったのよ。貴方には苦労をかけてるし、感謝の気持ち」
パチュリーが照れくさそうに目をそらしながら言った。
「―え?」
小悪魔は言葉の意味が頭に浸透するのに時間がかかった。
「パチュリー様、働かれたのですか?そ、その初任給で、私のために…??」
パチュリーが無言で頷く。頬には、赤みが残っていた。
―沈黙がその場に落ちた。やがて、小悪魔の身体が堪えきれないように小刻みに震えた。
「ぱ、パチュリーさまぁあぁあ~~!!」
小悪魔は急に叫び、号泣し始めた。堰を切ったように、涙が次から次へと溢れ出す。
「うわ~~ん、嬉しいですぅぅ~~!!」
思わずパチュリーに抱きつく。あまりに激しい反応に、パチュリーは若干引いていた。
「ちょ、こあ…大げさよ」
「だってだって…こんなのって…うわあああ~~ん!!」
言葉にならない嗚咽が、部屋いっぱいに響いた。
パチュリーはどうすればいいか分からなかったが、とりあえず小悪魔の背中をぽんぽん、と軽くさすってやった。
その手つきは、ぎこちなくもどこか優しかった。
―しばらく経ってようやく落ち着いた頃。
ひび割れた二つの皿の上に、二等分に切ったカステラが乗っている。
「さあ、いただきましょう」
パチュリーが優しく微笑む。
「うぅ…このカステラ、コーティングして一生大事にしますぅ」
「いや、食べなさいよ」
まだ潤んだ目の小悪魔にパチュリーが即座に突っ込む。
二人で甘いカステラを味わいつつ、パチュリーが口を開く。
「…ねえ、こあ。これからは、私も働いて生活費の足しにする。それと、お料理は交代制にしましょう」
その申し出に、カステラを口に運びかけた小悪魔の手が止まった。
「ぱ、パチュリーさまぁあぁあ~~!!」
感激のあまりまたも号泣する。
「ありがとうございますぅ~~!パチュリー様の手料理、コーティングして永久ほぞ―」
「いや、だから食べなさいよ」
最後まで言う前にパチュリーが突っ込んだ。
―隙間風が吹く狭いあばら家が、この日は暖かく感じた。
夕暮れの光が、二人の皿の上でゆっくりと色を変えていった。
<追放六日目>
パチュリーは人里の商店通りを歩いていた。朝の光が石畳に長く伸びる影を作っている。
一つ一つの店を覗き込んでは、求人がないかを探す。だが、そう都合よく見つかるものではなかった。
大して広くもない人里だ。ほどなく、商店通りの端まで到達する。
―どうするか。
職業斡旋所みたいな施設でもあればいいのだが、この幻想郷に在るはずもない。
空を仰ぎ、小さくため息をついた。
その時、親子連れが目の前を仲睦まじく歩いていった。
母親に手を引かれた子供が、何やら得意げに話している。
それを見たパチュリーは、頭の中で閃いた。
「そうか、あそこなら…」
◆
「まさか紅魔館の魔女が、寺子屋の教職を求めるとは、な…」
―寺子屋の一室。
障子越しの光が、質素な文机を照らしていた。
上白沢慧音が顎に手を当て、考え込んでいる。その表情には、驚きと戸惑いが半分ずつ浮かんでいた。
パチュリーは寺子屋を訪れ、正体を明かした上で職を求めている旨を伝えたのだ。
「ええ。生活するためにどうしても働きたいのよ。教師ならば私の知識を自然と活かすことも出来るわ」
パチュリーは真剣な目で慧音を見つめた。そこには、確かな熱意が宿っていた。
「質問させてほしい。貴方は紅魔館で何不自由無く暮らしていると聞いている。なぜ職を探す必要がある?」
慧音の目には若干の疑いの色があった。
長年、歴史を記録する者として培われた、事実を見極めようとする視線だった。
パチュリーは経緯を説明した。
追放の理由も、これまでの数日間の出来事も、包み隠さずにすべてを打ち明けた。
「ふむ…だから正体を偽って人里で暮らしているのか…。にわかに信じがたいが…かといって嘘をつく理由もない」
「他に頼るところもないのよ。お願い出来ないかしら」
慧音は、このプライドの高そうな魔女が頭を下げる様子を見て、信じても良いかもしれない、と思い始めた。
「―まあ、理知的な貴方ならば妙なトラブルも起こさないだろうし、いいでしょう」
それは知識人同士、という信頼もあったのかもしれない。
慧音の言葉に、パチュリーはほっと息をつき、改めて頭を下げた。
「…ありがとう」
「霊夢にも黙っておこう。ただ、くれぐれも気をつけてくれ。何かの拍子で正体がバレるとも限らない」
パチュリーは素直に頷いた。
◆
「まずはどういった科目を、どの程度の内容を扱っているか教えてほしいのだけれど」
「教師は二人。私と阿求だ。主に私は歴史、阿求は国語を担当している。他にも、臨時講師として何人か在籍している」
文机の上に広げられた資料を指先で示しながら、慧音はざっと内容を説明した。
「なるほどね。では私は何の教科を教えればいいかしら」
「何だって構わない。子どもたちの学びに繋がるのなら、な。あぁ、『魔法』の教科は勘弁してくれよ」
そう言って、一人笑う。パチュリーは一瞬キョトンとしてから、ふふ、と笑みを浮かべた。
「…そうね。じゃあ理科にするわ。魔法といえど、原理は科学法則の上で成り立っている…私に合っていると思うわ」
「そうか、じゃあよろしく頼む。―そうだ、だったらこの本を貴方に譲ろう。子ども達に教える際の参考にしてくれ」
慧音は机の引き出しから一冊の本を取り出した。題字には「やさしい理科入門」とあった。
表紙は既に幾度となく開かれた形跡があり、端が少し擦り切れていた。
「ありがとう」
パチュリーは本をばらばらと何度もめくり、目を左右に小刻みに動かして速読していく。
五、六回ほどそれを繰り返し、一人頷いた。その速さに慧音は目を丸くしたが、何も言わなかった。
「初回の授業は私も立ち会おう。なに、口出しはしないから安心してくれ。様子を見たいだけだから」
◆
―寺子屋の教室は子ども達の話し声でがやがやと騒がしかった。
畳が擦れる音、笑い声、紙をめくる音が入り混じっている。
そこに、慧音とパチュリーが教壇に立った。
見慣れぬパチュリーを見て、子ども達はしん…と静まり返る。
無数の視線が、一斉に新しい教師へと注がれた。そんな教室を見回して、慧音が口を開いた。
「皆、聞いてくれ。今日から新しい先生が加わった。―では、どうぞ」
パチュリーは黒板に丁寧な字で名前を書き込む。チョークの擦れる音が、静かな教室に響いた。
こほん、と咳払いする。
「…八里知子。よろしく」
あまりにも簡素な自己紹介に、慧音を含めその場の皆が一瞬呆気にとられた。
教室に、微かなざわめきが広がる。
「あ、あー。八里先生は理科の教科を教えてくれる。しっかり先生の言う事を聞くんだぞ。
―では、よろしくお願いします」
慧音は頭を下げて教室の端に移動する。
「じゃあまずは出席を取るわ。赤井しおり」
最前列の大人しそうなおさげの少女がはい、と返事をする。
「石川虎太郎」
先程の少女の隣りに座る、短髪でいかにもわんぱくそうな少年がはーい、と元気に返事をする。
―やがて、出席を取り終わる。
「―さて」
パチュリーの一挙手一投足に生徒達が注目する。
「今日は初回だから、まずはこの世の中を構成する、物体の性質について教えるわ」
そう言うと、黒板に『固体』『液体』『気体』とふりがな付きで記入した。
「あらゆる物質は、この三つのいずれかの状態で存在し、変化するわ。これらを『物質の三態』と呼ぶ」
黒板に『物質の三態』と書き、丸印で囲む。
「固体は決まった形と体積を持つ。液体は決まった体積を持つが、形は流動的。気体は一定の形も体積も持たない…」
説明しながら、黒板の三つの単語に説明文を追記していく。生徒たちは真剣な表情で耳を傾けていた。
「―例えば、水。水は氷、水、水蒸気と、温度や圧力によって状態変化し―」
パチュリーは延々と解説しつつ、黒板に神経質そうな文字を音を立てて書き込んでいく。
それを子ども達はじっと見つめ、あるいは板書していた。
「―物質や条件によっては、固体から気体、逆に気体から固体へ変化する事象も存在する。これを昇華と呼び…」
黒板の『固体』と『気体』の文字を矢印で結び、その上に『昇華』と書き加える。
「より詳しく説明すると、多くの固体では、粒子が規則正しく並び振動運動を行うのだけれど、液体は粒子同士が互いに移動でき…」
やがて、生徒たちの手が止まり始める。鉛筆を握ったまま、動かなくなる子が一人、また一人と増えていった。
「これらの状態変化は、分子間に働く引力と、熱運動のエネルギーの釣り合いによって決定されるわ。
温度の上昇に伴って分子の平均運動エネルギーが増加し、分子間ポテンシャルを上回ることで、液体や気体への相転移が誘発され…」
皆、ぽかんとした表情で、半ば口を開けて聞いていた。
◆
授業が始まってしばらく経った頃。黒板は文字の羅列でぎっちりと埋められていた。
余白という余白が、数式と専門用語で塗り潰されている。
「…したがって、気液平衡はクラウジウス・クラペイロンの式によって近似することができ…」
パチュリーは黒板のわずかな空きスペースにややこしそうな数式を書き込み始めた。
「―コホン。パ…八里先生。ちょっと、よろしいかな?」
慧音が顔を引きつらせて咳払いしつつ、歩み寄って声を掛ける。
パチュリーは手を止め、訝しげな視線を向けた。
「何よ。口は出さないんじゃなかったの?」
慧音は無言で、生徒たちの方を見るよう、顔と目の動きで促した。
そこには、机に突っ伏して寝ている者、呆けたような顔をしている者、鉛筆を転がして遊んでいる者、教科書に落書きしている者など、
ともかく殆どの生徒が授業をまともに聞いていなかった。
―だが、よく見ると一人だけ、最前列の席に熱心に黒板を見て板書する少女がいた。
「授業内容が難し過ぎて、理解出来ず退屈してるんだ。最後の方は、もはや大学レベルの講義になっている。
もっと平易かつ解りやすくしてくれ…」
慧音がぼそりと小声で耳打ちする。
「私がこの子達くらいの歳には、相対性理論と量子論を理解していたけれど。
それに、これでも最大限に解りやすく解説しているつもりよ」
そこには自慢の色はなかった。純粋な疑問と困惑があった。
「貴方ではなく、生徒たちの物差しで考えてやってくれないか」
慧音の言葉が、静かに胸の奥へと浸透する。
「先生ー、もう休み時間に入ってます」
生徒の一人が挙手して告げる。
「あ、あぁ。理科の授業はここまでだ。お疲れさま。皆、休憩していいぞ」
慧音が努めて明るく言うと、生徒たちは黄色い声を上げて一斉に外へ出ていった。
慧音は深いため息をついた。
「…次はもう少し、生徒目線の授業を心掛けてみてくれ。頼んだぞ」
退室する慧音の後ろ姿を見ながら、パチュリーは言われたことを反芻していた。
「…あの、先生」
呼びかけられて振り向く。先程板書をしていた少女だった。
頬を紅潮させ、緊張した面持ちで立っている。
「貴方は―赤井しおりね」
少女は驚いた。
「初日なのに、もう顔と名前を覚えたんですか?」
「教師なら当然でしょう。それより、何かしら」
「さっきの授業内容について、質問してもいいでしょうか?」
若干緊張気味に問いかける。指先が、教科書の端をきゅっと握りしめていた。
「ええ、いいわよ」
「どうして『昇華』は固体から気体へ一足飛びに変化するんでしょうか」
パチュリーはほう、と感心した。
―こんな風に興味を持って疑問をぶつけてくるなんて…この子は見込みがありそうね。
「物質がどの状態で存在できるかは、温度だけでなく気圧にも左右されるの。
圧力が十分低い条件では液体の状態が安定せず、固体から直接気体へ変化することがある。それが昇華よ」
「気圧…?」
「気圧というのはね…」
パチュリーはその少女の疑問に、次々と答えていった。
先程までの難解な講義とは違い、咀嚼しつつ、平易な表現を心がける。
「なるほど…よく分かりました。どうもありがとうございます」
ふと、しおりはパチュリーが手に持っている本に目をやった。
「その本…」
パチュリーがそれに気づき、本の表紙をしおりに見せる。
慧音から譲ってもらった「やさしい理科入門」だった。
「ああ、これは理科の入門書よ」
しおりがじっと本を見つめているのを見て、パチュリーはふっと笑った。
「―これ、貴方に貸すわ」
「えっ?いいんですか?」
「ええ。ざっと読んで内容は把握したしね。貴方ならきっと役立てるはず」
そう言って本を差し出す。しおりは両手で受け取ってぱあっと明るい笑顔になる。
先程までの緊張が嘘のように晴れやかだった。
「先生、ありがとうございます!肌身離さず持って大切にします!」
しおりは顔を明るくして笑い、礼をして去っていった。
パチュリーはその「先生」という言葉が、不思議と胸の奥に残るのを感じていた。
◆
パチュリーは人里の通りを歩きながら、もっと「学んでもらえる」ための授業をするにはどうすればいいか、
という課題について思考を巡らせていた。
視線は宙を彷徨い、幾つもの案が浮かんでは消えていく。
「…まてよ」
ふと思い出した。そういえば今日は自分が食事当番だった。足を止め、記憶を辿る。
昨夜の約束を、すっかり頭の隅に追いやっていたことに気づく。
食料品を扱う商店が並んだ通りへと足を運ぶ。
店先には威勢のいい掛け声が飛び交っていた。
野菜や果物、魚に肉。様々な食料品が並び、店員達が元気に声をかけてくる。
紅魔館では、食材の調達は全て咲夜や他の者の仕事だった。
だが、頭の中には新鮮な野菜の見分け方、それぞれの食材の旬といった知識は蓄えられている。
ざっと商店を見て回り、すべての店の一つ一つの食材の品質と状態、値段を記憶し、相場を掴む。
「大根は通りの端の八百屋、川魚は突き当たりの魚屋、雑穀米は十字路角の米問屋…」
そして最適解を導き出し、最もコストパフォーマンスの良い食材を、それぞれの店を回って購入していった。
「フ…私にかかればこんなものね」
両手に提げた包みの重みに、わずかな満足感を覚えながら、パチュリーは長屋への道を歩いた。
まさに完璧といえた。
―そう、買い物に関しては。
◆
―長屋の一室。
食卓の粗末な御膳には、ベッチャベチャの雑穀米、黒焦げになった焼き魚、形が不揃いな大根の味噌汁が置かれていた。
「…」
「…」
沈黙が、場を満たす。なんとも言えない、気まずい空気が漂う。
行灯の灯りが、珍妙な御膳を無情にも照らし出していた。
やがて、意を決したように小悪魔が手を合わせた。
「―いただきます」
最もまともそうな味噌汁に口をつける。その瞬間、ぶふぉっ、と思わず吹き出しそうになり、寸前で止める。
「―いいのよ。正直に言ってくれて」
パチュリーの言葉に、小悪魔は脳裏で「パチュリー様が作ってくれた食事なら何でも美味しいですよ!」といったようなお世辞が浮かんだ。
だが―少し考え、味噌汁の椀をそっと御膳に戻す。
無言で雑穀米、焼き魚と箸をつけ、黙々と咀嚼する。そして、箸を置いた。
「…雑穀米は水が多すぎです。しかも、恐らく炊きあがった後に混ぜてない。混ぜ込むことで空気を含んでふっくらとします」
次に焼き魚に視線を向ける。真っ黒に炭化したそれは、もはや原形を留めていなかった。
「魚は見ての通り、火を通しすぎです。これは、魔法を使って強火で焼きましたよね?
中火でじっくり焼くことでふっくらとした仕上がりになります」
最後に、味噌汁の椀を手に持つ。
「お味噌汁は出汁が入っていません。単にお湯に味噌を溶かしただけになっています。
これでは味噌の味が立ってしまい、美味しくありません。川魚の煮干しや干し椎茸で出汁をとらないと」
パチュリーは意外だった。まさかここまではっきりと言われるとは思っていなかったからだ。
使い魔からの痛烈なダメ出しを受けても、怒りが湧くようなことはなかった。
ただ申し訳ない、と思った。
膨大な知識を蓄えたはずの頭が、こんな基本的なことすら実践できなかったという事実が、胸に重くのしかかった。
自然と目を伏せ、俯いた。
「でも、パチュリー様のお気持ちは痛いほど伝わりました」
そう言って、小悪魔がパチュリーの手を取る。
「そのお気持ちが、私にとっては何よりも嬉しいのです。明日は、一緒に作りましょう。一からお教えしますから」
パチュリーは顔を上げた。小悪魔が優しく微笑む。
「―ええ。よろしくお願いするわ」
パチュリーは、ようやく柔らかく微笑んだ。
「でも、せっかくですし、せめてお味噌汁は今からでも出汁をとりましょうか。私の買った煮干しが少し残ってるので」
小悪魔はそう言うと、鍋にパチュリーの椀の味噌汁を戻し、煮干しを加えて魔法で火にかけた。
「沸騰させるとお味噌の風味がとんじゃいますが、少量の味噌を溶くことである程度は復活出来るんです」
やがて味噌汁が沸騰して湯気が立つ。
小悪魔は魔法の火を弱火にし、味噌を少しだけ箸で取り、溶かし入れた。
―沸騰し、気化し、水蒸気となる。
今日の授業そのものだった。
その時、パチュリーに電流が走った。目を見開き、湯気の行方をじっと見つめる。
「そうだ、実際に見せてやればいいのよ」
<追放七日目>
―寺子屋の教室。
パチュリーは出席を取った後、教室を見回した。
生徒たちはジト目でパチュリーを見つめている。
恐らく、前回の授業が複雑怪奇でつまらなかったことで警戒心を抱かれているのだろう。
教室の端には慧音が立っていた。
初回のみの立ち会いとのことだったが、昨日の有様を見て不安だったのだろう、
心配だから付き添う、との申し出だった。
「…まずは先生から一言。前回は貴方たちに沿わない、先生の独りよがりの授業だった。ごめんなさい」
そう言って頭を下げた。教室がざわつく。慧音も驚いた様子だった。
「―そこで、再挑戦させてほしいの。今日こそ皆に『物質の三態』について分かりやすく教えるわ」
そこでパチュリーがにやりと笑い、手をパンと叩いた。乾いた音が、教室の空気を切り替えた。
「さあ、今から理科の実験よ。厨房に移動しましょう」
◆
―厨房の机にはいくつかの調理器具が用意されていた。
「皆、見える位置に適当に立って頂戴。
さて、前回は『固体』『液体』『気体』の性質と状態変化について話したわね。
今日はそれを実際にお見せしましょう」
そう言うとパチュリーは金属製の容器を取り出し、蓋を開けた。辺りに冷気が漂う。
ブロック状の小さい氷が大量に入っていた。それを見て生徒たちから声が上がる。
幻想郷では冷蔵技術が発達しておらず、氷は貴重品であった。
せいぜい、縁日で氷精が売るかき氷くらいしか見られる機会はなかった。
子ども達の目が、氷の欠片に釘付けになっている。
パチュリーは氷を半分ほど鍋に入れて火にかけた。氷が溶けて水になり、沸騰すると水蒸気となる。
それらを見せながら、『固体』『液体』『気体』を説明していく。
生徒たちは、今度こそ食い入るように鍋の中の変化を見つめていた。
「…と、まあこれが水を使った説明になるわ」
鍋の火を消し、パチュリーが壁にかかっている時計をチラと見る。午後三時だった。
「けど、これだけじゃあまり面白くないわね。そこで…いい時間だし、実験を兼ねておやつを作りましょう」
おやつ、という言葉を聞いて子ども達が嬉しそうに騒ぎ出す。
「まずは『融解』の実例ね」
パチュリーはそう言うと茶色い固形物を取り出した。
「これはチョコレート。カカオ豆を使ったお菓子よ」
子ども達からわあ、と声が上がる。
それを見た慧音は仰天した。慌てて歩み寄り、こそこそ耳打ちする。
「チョコレートなんて、一体どうやって…!?幻想郷ではこんなモノ、手に入らないだろう」
「これは越後商店の外来品の闇市で手に入れたのよ。随分高かったわ、一円もしたから」
「い、いち…!?随分、剛毅だな…」
慧音の驚きように、パチュリーは一瞬首を傾げた。
「まあ、『牛鍋屋で世話になった誼』でツケにしてもらってるけれど」
慧音は意味がわからず、頭の中に疑問符が浮かんだ。
パチュリーは、先ほど氷を溶かして沸かしたお湯の入った鍋に大きな白い丼ぶりを入れ、そこにチョコレートを細かく砕き入れた。
どろり、と溶け始める。甘い香りが、鼻先をくすぐった。
「チョコレートの融点は極めて低く、三十二度前後。
人間の体温は約三十六度だから、手で持っただけで溶けてしまうわ。これが『融解』よ」
教室中に甘い香りが漂う。子ども達は思わず鼻をひくつかせていた。
パチュリーは金属の匙で溶けたチョコレートを掬い、そのまま垂らした。
チョコレートはどろりと糸を引くように、落ちていく。生徒たちの目は釘付けになっていた。
「逆に言えば、冷やしてしまえば簡単に固まるのよ」
パチュリーは金属の匙でチョコレートを再び掬い、余った氷が溶けて氷水で満たされた容器に匙の下側を浸ける。
すると、見る見る内に固まっていく。匙を氷水から上げ、ひっくり返す。
固まったチョコレートは匙にくっついたままだった。生徒たちからおぉ、といった声が漏れる。
「これが『凝固』。この二つの変化は、物質を構成する『分子』という、
とても小さな粒の結びつきが強くなったり弱くなったりすることで起こるのよ」
生徒たちがへぇ~、と声を上げる。
パチュリーは匙を湯煎のチョコレートに戻し、今度は網を乗せた七輪二つを用意する。
「次はお餅を焼きましょう」
そう言って袋を机の受けに置いた。中には長方形の切り餅が入っていた。
「慧音先生、手伝ってもらえるかしら」
これについては予め段取りしていた。慧音は頷くと、餅を七輪の網の上に置き、はけで中央部に少しだけ醤油を塗る。
香ばしい匂いが、じわじわと立ち上り、やがて、綺麗に真ん中がぷっくりと膨らみ始める。
「皆、お正月に焼き餅を食べたことがあると思うけれど。熱すると膨らむわよね。…さて、これはどうしてかしら?」
パチュリーが生徒たちを見回す。子ども達は思い思いに考え込む。
「えっと…熱を入れると、固体は液体になるから…溶けて液体みたいに柔らかくなって、膨らんだ?」
男の子が答えた。自信なさげに、それでも精一杯考えた答えだった。
「残念、違うわ。ヒントは…さっき水を沸騰させたわよね。それが関係しているわ」
うーん、と皆考えている様子だった。
やがて、一人の女の子が声を上げた。それは前回唯一授業を聞いて、質問してきた赤井しおりだった。
「もしかして、お餅の中の水分が蒸発して水蒸気になって、膨らませた…?」
パチュリーは指をパチンと鳴らした。
「お見事、正解よ。もう少し掘り下げると、お餅には約半分の水分が含まれているわ。
そして、液体が気体に変化する際には体積が莫大に膨れ上がる。だからお餅も膨らむのよ」
しおりは嬉しそうに顔をほころばせた。周囲の子ども達も、感心したような視線を彼女に向けていた。
やがて、餅が大きく膨らむ。
「さあ、そろそろ食べ頃ね」
お餅を紙の皿に取り分け、金属の匙で溶けたチョコレートを餅に掛けて、生徒たちに配る。
「全員に行き渡ったわね?じゃあ頂きましょう」
生徒たちは大きな声で「いただきます」と唱和し、美味しそうに餅を頬張った。
喜色に満ちた声があちこちから上がる。厨房は賑やかさに満ちていた。
◆
授業を終え、パチュリーと慧音は後片付けをしていた。
使い終えた鍋や匙を、二人で手分けして洗っていく。
「お見事でした、八里先生。子ども達も喜んでいたよ」
「フ…まあ、私の手にかかればこんなものね」
称賛する慧音に、パチュリーは得意そうに胸を張った。
「さ、ではこれをお願いするわ」
二枚の紙切れを差し出す。慧音はそれを受け取ると、怪訝な目で見つめた。
そこには細々とした明細と共に、それぞれ、十銭、一円と記載されている。
「…これは?」
「領収書よ。生徒全員分のお餅にチョコレートのお代。氷は魔法で作ったから無料よ、感謝しなさい。
あまり生活に余裕がないから、できれば今払ってほしいわね」
慧音はぽかんと口を開けていた。手にした紙切れを、まじまじと見つめる。
「…あー、いや、これは…寺子屋は参考書類は経費で落ちるが…実験にまつわる消耗品は…」
「何よ、はっきり言いなさい」
「…個人負担だ」
目を見合わせる二人。しばしの沈黙が流れた。
「…は?」
「そりゃそうだろう。あんな授業を毎日やってみろ。寺子屋の経営が立ち行かなくなる…。
まあ、お給金は日払いで渡しているし、悪いがそこから補填してくれ」
「…寺子屋の日給って、幾らだったかしら」
「三十銭だが…」
頭の中で、瞬時に計算が弾かれる。四日働いてようやく一円と二十銭。
パチュリーは、目の前が真っ暗になった。
<追放八日目>
―寺子屋の教室。
午後の光が、埃の舞う教室に差し込んでいた。
「さあ、今日はここまで。各自、宿題を来週月曜までにやってくること」
パチュリーのその声を合図に、生徒達はがやがやと外へ出ていった。
瞬く間に教室は空になった。
黒板を消しつつ、頭の中で先程の授業を振り返る。
今日は水溶液の性質についての講義だった。
水を用意し、実際に塩を溶かし込み、溶解度を目で見て教える。
また、火にかけて沸騰させ、塩の結晶を取り出す。
「外には『海』という巨大な塩水の水域があるわ。船を一ヶ月漕いでも端まで辿り着けないほど広いのよ」
そんな小話も挟んで、生徒達の興味を授業へ向けさせる。
先日はチョコレートとお餅という、いわば奥の手を使った。
が、慧音の言ったように毎日そんなやり方が出来るはずがない。
現実的かつ低コストな方法で、生徒達の興味を引く授業を考える必要がある。
―今日の授業は、上手くいったんじゃないかしら。
自分なりの手応えを感じ、自然と笑みがこぼれる。黒板消しを手に持ったまま、しばし満足げに佇んでいた。
器具を片付け、帰ろうとすると慧音に声をかけられた。
「八里先生。この後体育の授業があるんだが、よければ手伝ってくれないか?」
一瞬、パチュリーは硬直した。
「…は?この私が体育なんて出来るわけ無いでしょ」
無愛想に、にべもなく断る。
パチュリーの貧弱さは、自他ともに認めるところだった。
何しろ、普段は図書館に籠って体を動かさずに本ばかり読んでいる。
運動は喘息によくないことも一因だが、根本的に体力は皆無と言ってよかった。
「そうか、残念だな。もちろん、日当も三十銭上乗せするつもりだったんだが」
「え?」
パチュリーの目がきらりと光った。
真剣そのものの表情で、頭の中でシミュレーションを始めた。
三十銭あれば小悪魔に美味しい食べ物を買える。
越後商店のツケ払いに回せる。
鈴奈庵で本を借りられる…。
パチュリーの脳内で、体育の授業と三十銭がそれぞれ擬人化され、盛大な綱引きを始めた。
それらは一進一退の攻防を繰り広げ、決着がつかない。
「ぐぬぬ…」
思わず声が漏れた。
「いや、ぐぬぬって…そんなに嫌なら無理にとは言わないが…」
パチュリーが歯を食いしばって眉間にシワを寄せ考え込んでいるのを見て、慧音が若干引きつつ答えた。
パチュリーはそこでとある事実に気づき、手をぽんと打った。表情が一変する。
よく考えたら、体育の授業といっても、運動するのはあくまで生徒であって教師は指導するだけだ。
だから体を動かす必要はないじゃないか。
―ふん、楽勝じゃない。
「仕方ないわね。じゃあ手伝ってあげるわ」
「そ、そうか。じゃあよろしく頼む」
パチュリーのついさっきまでとは一転した余裕の表情を訝しみながらも慧音は頷いた。
◆
―人里の空き地。乾いた土の匂いと、雑草の青臭さが立ち込めている。
「はぁ…ひぃ…げほっ…」
パチュリーは今にも死にそうな表情で、息も絶え絶えに、亀のような遅さでよろよろと走っていた。
名職人の手によって造形された美しいフランス人形のような端正な顔は、見るも無惨に歪んでいた。
額には汗が浮かび、足はもつれかけている。
―な…なんで教師が走らないといけないのよ…。
パチュリーはつい先程の自らの決断を後悔していた。
自然と、体育の授業開始時のやり取りが頭に過った。
「よし、準備体操は終わったな。まずは五十米走をするぞ。
では八里先生に、見本を見せてもらおう。皆も、先生がどんな走りをするか、興味があるだろう?」
慧音がよく通る声で聞くと、生徒達が口々に「あるー」とか「見たーい」とか言い出した。
「…は?」
パチュリーはあんぐりと口を開けた。まさか、こんな落とし穴が待っていようとは。
―そして今に至る。
あまりの体力のなさと醜態に、慧音も生徒たちも呆気にとられていた。
―運動が苦手とは聞いていたが、ここまでとは…。
慧音は、生徒達との交流の機会に良いと思いパチュリーを誘ったのだが、次第に後悔し始めていた。
やがて、一部の生徒達からからかいの声が上がる。
「へんな顔ー」「おっそーい」
子ども故の遠慮のない無慈悲な声は、パチュリーの耳には届いていなかった。
もはや意識は、目の前のゴールラインにしか向いていなかったのだ。
―ともかく、どれだけみっともなくても良い。完走だけは果たす。
生徒に示しをつけるためにも、途中で諦めるのは受け入れられない―
これはパチュリーなりの、大魔女として、教師としてのプライドでもあった。
震える足を、それでも一歩、また一歩と前へと進める。
相変わらず一部の生徒から揶揄する声が飛ぶ。
三角座りをしながらその様子を見ていた赤井しおりは、内心憤っていた。
膝の上で、拳がわずかに震えていた。
―先生は一生懸命走っているのに、からかうなんて。
だからといって、生来大人しい性格のしおりには注意するのは憚られた。
俯きがちに、それでも視線だけはパチュリーの姿を追い続けていた。
勇気を振り絞って、声を上げようとしたその時。
「お前ら!先生は頑張って走ってんだぞ!馬鹿にしてんじゃねえよ!」
一喝が響き渡り、しん、と静まり返った。
寺子屋でしおりの隣の席に座っている、石川虎太郎だった。
からかいの声を上げていた生徒達が、気まずそうに視線を逸らした。
やがて、改めてパチュリーの必死な走りを見つめ直した。
しおりは虎太郎を意外そうに見つめた。そして、ふっと笑い、心の中でお礼を言った。
誰が見ても格好いい走りではなかった。
それでも、理科の授業では涼しい顔で教壇に立ち、スマートに講義する綺麗な先生が、
息を切らしながら必死に最後まで走ろうとする姿は、不思議と胸を打った。
先程までからかっていた生徒達も含めて、じっと走りを見つめていた。
その表情が、徐々に真剣なものに変わっていく。
やがて、自然と生徒達からパチュリーを応援する声がぽつり、ぽつりと上がり始めた。
「先生、がんばれー!」「まけるなー!」「あとちょっと!」
声援は次第に、空き地いっぱいに広がっていく。
そして、五十米のラインを走りきったときには、わっと生徒達が駆け寄って疲労困憊して倒れそうになるパチュリーを支えた。
「やったね先生!」「完走おめでとう!」「なんか俺、感動しちゃった」
生徒達がわいわいとパチュリーを取り囲むが、当の本人は魂が抜け、ほぼ死にかけて意識が遠のいていた。
客観的に見ればただの五十米走なのだが、
さながらアテナイの勝利を告げるためにマラトンから四十粁を走りきった伝令兵を迎えるが如く、
妙な感動がその場に醸成されていた。
それを遠目に見つつ、慧音はふっと笑みを浮かべた。
「三日目にして、随分慕われているじゃないか。…案外、あの魔女は教職に向いているのかもしれないな」
◆
小悪魔は茶店の使いの帰り道、近道をしようと寺子屋の裏手を通りかかった。
その時、賑やかな声が耳に届いた。
―何だろう。
足を止め、そっと様子を窺う。
空き地に、大勢の生徒達がパチュリーを取り囲んでいた。
小悪魔は目を丸くした。
図書館に籠り、本以外には一切関心を示さなかった主人。
それが、汗だくになって、息も絶え絶えになりながらも、生徒達に支えられていた。
しばらくその光景を見つめていた。やがて、小さく笑みがこぼれる。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。
人里で暮らしてからというもの、主人は少しずつ、確実に変わりつつある。
それが何より、嬉しかった。
―この方についていこう。どこまでも。
改めてそう心に誓うと、小悪魔はパチュリーに気づかれないよう、そっとその場を後にした。
◆
慧音はパチュリーの体力のなさを考慮し、以後は指導のみを任せることにした。
生徒を二組に分け、それぞれ慧音とパチュリーが指導する。
「一人ずつ、五十米走の時間を測るわ。皆、いい?ゴールは六十米だと思いなさい。
じゃないと、直前で脚を自然と緩めてしまい遅くなるから」
まだ体力が回復しきれていないパチュリーは、椅子に座って指導していた。
その動きはガクガクで、老人のそれと変わらない。座った椅子から立ち上がるのすら、億劫そうだった。
河童製のストップウォッチを使用して、一人ずつ時間を測り、記録していく。
走り終わる度に、生徒の走りについて講評し、アドバイスを与える。
人体の仕組みや構造については知識として持ち合わせているので、運動できないとはいえ助言は的確だった。
「へぇ…虎太郎、貴方足が速いのね。頭一つ抜けて暫定一位よ」
パチュリーが感心したように声をかける。虎太郎は照れて頭を掻いた。
先程の一喝からは想像もつかない、素朴な照れ笑いだった。
「じゃあ次は球技をするから、慧音先生のもとへ集合しなさい」
はーい、と声を上げ、各々が移動し始める。土埃を蹴りながら、子ども達が駆けていった。
その中で一人、しおりだけがパチュリーのもとへ歩み寄った。
「あの…先生。ちょっといいでしょうか」
「…?何かしら」
しおりはちょっとためらってから、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「私…運動が大の苦手で。勉強は好きなんですが、体育の授業はいつも、やりたくないなって思ってて…」
少し俯き気味に、そこで言葉を切る。
「先生も運動は苦手そうだから、少し聞いてもらいたくて…」
パチュリーはそんなしおりを見つめて、指を顎に当てて考えた。
「しおりは、運動自体が嫌いなのかしら。それとも、周りにそれを見られてみっともないと思われてしまうのが嫌?」
しおりは首を傾げた。
「うーん…後者、ですかね。やっぱり、人に見られて笑われてるんじゃないかって苦手意識があります」
パチュリーは頷いた。そして、ふっと笑って答える。
「なら、あまり深く考えることはないんじゃないかしら。
さっきの先生の走りを見たでしょ?あれ以上みっともない姿なんて、世界のどこにだって存在しないわ」
何故か胸を張ってそう答えるパチュリーに、しおりは一瞬呆気に取られた。
「『あれと比べたら私は全然ましだ』、そう思えばいいのよ。そうしたら、少しは心が軽くなるんじゃない?」
しおりは目を丸くした。予想していた答えとはまるで違っていたからだ。
「そんなことない、皆応援してくれるよ」「頑張ることに意味がある」といった、当たり障りのない励ましをされるものだと思っていた。
そうではなく、自分という最低値を提示して「それよりましだから恥じることはない」と言ったのだ。
感情よりも理屈が先に立つ、どこか不器用な八里先生らしい助言だと思った。
これは励ましになっているのだろうか、と頭の中で助言を反芻する内に、なんだかおかしくなってしまい、思わず笑ってしまった。
頬が緩み、胸を覆っていた暗い気持ちが晴れていった。
「―あはは、先生、自虐が過ぎますよ。それに、みっともないなんてこと無いです。一生懸命頑張る、立派な姿でした」
くすくす笑うしおりを見て、パチュリーも笑みを浮かべる。
「貴方は優しい子ね。でも、貴方がそう思うなら、貴方の頑張る姿もそう思ってくれる人がきっといる筈よ。
少なくとも、私はその一人。―まあ、軽い気持ちでやってみなさい」
しおりはこくりと頷いた。表情には、先程までの陰りがすっかり消えていた。
「ありがとうございます、八里先生。少し気が楽になりました」
そう言って笑顔で頭を下げると、集合する皆のもとへ走っていった。
その後姿をパチュリーは見送った。日差しが、駆けていく小さな背中を照らしていた。
「…あの場合、ああいう感じで良かったのかしら」
誰かに寄り添い、心を軽くするための言葉は、どんな魔導書にも載っていなかった。
教師とは難しい仕事だ、複雑な魔法術式を解くよりも―そう思った。
◆
―長屋の一室。
夕餉のいい匂いが、狭い部屋の中にほのかに漂っていた。
「できたわよ、どうぞ」
パチュリーが小悪魔の前に御膳を置いた。
そこには雑穀米、鮎の塩焼き、葱と人参の味噌汁、ほうれん草のおひたしが並んでいた。
彩りよく整えられたそれらの料理は、初日の惨状とはまるで別物だった。
「ありがとうございます、パチュリー様」
小悪魔はじっと見つめる。視線には、わずかな緊張と期待が入り混じっていた。
「では…いただきます」
手を合わせて、まずは味噌汁に口をつける。
パチュリーはごくりと唾を飲んで見守った。
「…うん。川魚の煮干しのだしがよく効いてます。味噌も麹味噌のいいやつを使ってますね。
味噌を入れた後に煮立たせてないから、風味も香ってます」
続いて鮎の身を箸でほぐして口に運ぶ。
「中までしっかり火が通って、身がふっくらしています。じっくり焼かないとこうはなりません。
…苔を食べて育った鮎独特の香りがたまりませんね」
最後にほうれん草のおひたしを口にし、雑穀米をゆっくりと噛みしめる。
「おひたしは味付けが濃すぎず薄すぎず、丁度いいですね。
雑穀米は水加減も丁度よかったんでしょう、粒立ちがよく、食感もしっかり残っています」
一つ一つ、丁寧な講評が続いていく。まるで、あの日受けたダメ出しを、そのまま裏返したかのようだった。
そして箸を置く。
「美味しいです、パチュリー様」
にっこりと笑う。その笑顔には、一切のお世辞や噓が見られなかった。
パチュリーはそれを聞いて胸を張った。安堵と誇らしさが、同時に胸に広がる。
「料理なんて、一種の薬物調合や実験と同じようなもの。調理方法さえ知ればこんなものよ」
実は調合は苦手なのだが、そこは触れないでおく。
ふと小悪魔を見ると、体が震えていた。目に涙が光る。
「こ、こあ…?どうしたの?もしかして、体調が悪いの?」
パチュリーが心配そうに声をかける。腰を浮かせかけて、身を乗り出す。
「いえ、嬉しいんです。パチュリー様が、私のために、こうやって少しでも美味しくなるように工夫してお料理をしていただいたことが」
指で涙をすくい、笑顔を浮かべる。
「この子ったら、大げさなんだから…」
そこまで言って、コホンと咳払いする。目を逸らしながら、耳の先が赤らんでいた。
「今は支え合って生活しないといけないんだから。これくらい当然でしょう」
ふっと笑う。
―その夜。
二人は食事しながら、茶店の客や寺子屋であった出来事、安くて新鮮な食料品店についての情報などの話題で会話に花が咲き、
穏やかな時間が過ぎていった。
行灯の灯りが、二人を柔らかく包んでいた。
<追放九日目>
―稗田邸。
朝の光が、門前の石畳を白く照らしていた。
「八里さん。以前も言ったように、貴方はお通しするなと申し付けられております」
正門前の門衛が困ったようにパチュリーに告げる。
「ええ、それは分かっている。ただ、せめてこの手紙を届けてほしい。私はここで待っているわ」
「…手紙ですか。まあ、いいでしょう」
手紙を受け取り、門衛は邸内へ向かった。閉ざされた門の前で、パチュリーはじっと待っていた。
―しばらく後。門衛が戻ってきた。足取りには、先程とは違う慌ただしさがあった。
「八里さん。阿求様がお会いになるそうです」
パチュリーはにやりと笑い、門をくぐった。
◆
「―手紙を読みましたが…私の仕事を手伝う、と?」
阿求の声には、妙に疲労の色が感じられた。以前会ったときよりも、顔色も良くなかった。
目の下の隈はより深く刻まれている。
服装も違っていて、毛皮のついた外套を羽織り、首にはネックレスを着けていた。
「この前のお詫びも兼ねてね。土日は寺子屋が休みだから。
その代わりと言っては何だけど、書庫の本を読ませてほしい」
阿求は顎に手を当て、思考を巡らせた。
書庫で延々と本を読んで、礼も言わず片付けもせずに去っていった魔女と同じとは思えなかった。
「具体的に、何を手伝ってもらえるんでしょうか」
「資料整理でも、筆写でも、写本でも。貴方の執筆した文章の査読をしてもいい」
それを聞いた阿求の目が、鋭く細められ光る。まるで、暗闇の中に一筋の光を見出したかのような輝きだった。
―これは千載一遇の好機かもしれない。
「…貴方ほどの知識人に手伝っていただけるのであれば、ありがたいです。ぜひお願い致します」
阿求は頭を下げた。これまでの警戒色はすっかり消えていた。
「―実は、私は今窮地に立っています」
阿求の真剣な表情に、パチュリーは一瞬緊張する。
「私はペンネームで小説も書いているのですが…今日が締切なんです。
鈴奈庵への提出期限が午後五時。…鈴奈庵で組版や校正などを済ませ、印刷する手筈です」
鈴奈庵が出版社の役割まで兼ねているとは、少し意外だった。
パチュリーは壁にかかっている柱時計を見た。午前十時だった。
「肝心の小説が…まだ出来ていないんです。プロットはすべて頭の中にある。ですが…まだ書ききれていない」
阿求は紙の束を取り出した。
「これは概ね八割ほど完成した初稿です。
ただ、推敲していないので間違いや改善点が沢山あるはず。残り二割は、今から書きます」
阿求は自分で口に出して、改めて絶望的な現状を認識したのか、悲壮感が漂っていた。
「…なるほど。小説は専門外だけど古今東西の大体の文学作品は読んでるから、役に立てると思うわ。
その初稿を渡しなさい。徹底的に推敲するから」
パチュリーは阿求から原稿を受け取った。ぱらぱらとめくってみる。かなりの走り書きだった。
「貴方は残り二割を書きなさい。どうせ私が目を通すんだから、ともかく早さ優先で」
「わかりました。よろしくお願いします」
阿求は姿勢を正し、新しい原稿用紙に向き合った。
◆
阿求はチラと横目で隣の机に座る魔女を見た。
パチュリーは腕を組みつつ、口の中でぶつぶつ呟いていた。
机の上には朱墨の入った三つの硯と六つの原稿の束。
目を素早く動かし、三枚の原稿を凝視している。
時折、三本の筆が宙を独りでに動き、原稿に赤字で追記している。
推敲が終わると、原稿が推敲済みの束にふわりと移動する。
そうして次々と推敲作業が進められていった。
―一体、何という早さなのか。
その文字通り人間業ではない光景に、阿求は思わず目を奪われていた。
だが、これなら間に合うかもしれない。
阿求は希望を抱き、原稿と向き合い、筆を動かしていた。
―午後一時。
「推敲終わったわよ」
「私も丁度原稿が上がりました。かなり急いだので乱文ですが…」
お互いに原稿を交換する。
阿求が原稿をパラパラめくると、朱墨による指摘の文字が至る所に記入されていた。
「誤字脱字。他にも、描写がおかしいところ…例えば、夜空の月の満ち欠けの間違い、トリックの矛盾など、
気になる点はすべて指摘内容と改善案を追記したわ」
阿求は試しに一箇所読んでみる。
―確かに、この場面は暦を考えれば満月ではなく半月が正しい。思わず、小さく唸った。
「…最後に、差し出がましいかもしれないけれど。主人公が過去を独白するシーンはもっと後ろに持っていったほうがいい。
推理に行き詰まり、相方と衝突し、追い詰められた上で自身の過去を顧みる、とした方が読者が感情移入できるわ」
阿求ははっとした。そこはまさに自身も気になっていた点だった。
だが、早さ優先で修正せずそのままにしていた。指摘された箇所を、何度も読み返す。
「…確かに。後ろに引っ張った方がより効果的ですね」
阿求が感心して頷いた。
「では、私は貴方の指摘を踏まえてこちらの原稿の修正をします。貴方は残り二割の推敲をお願いします」
パチュリーは無言で頷いた。既に視線は次の原稿へと移っていた。
◆
―その後、阿求は原稿の修正、パチュリーは推敲が完了する。この時点で午後三時だった。
窓の外では、日が少しずつ傾き始めていた。
「…早さ優先とは言ったけど、本当に乱文だったわね。苦労したわよ」
原稿には赤字でびっしりと書き込みがされていた。
「すみません。ただ、この粒度じゃないと間に合わなかったので…」
阿求は疲れ切っていた。まるで十歳は老けたかのようだった。目の下の隈は、朝よりも一層濃くなっている。
「では私は残りの原稿の修正に入ります。貴方には…既に修正が終わった原稿の、清書をお願いしたい」
白紙の原稿用紙の束が渡される。
「―さあ、後少し。正念場ですが、頑張りましょう」
◆
三本の筆が原稿に次々と文字を書き加えていく。その字は丁寧かつ流暢だった。
パチュリーは、魔法によって同時に三枚の原稿を清書していた。
流石にこの神経を使う作業と魔法を長時間にわたって使用した影響か、パチュリーの表情にも疲れが見え始めた。
額に、わずかな汗の玉が浮かんでいる。
「修正が終わりました。私がこのまま清書します」
阿求がそう言うと、白紙の原稿に筆を走らせた。
―午後四時五十分。
「―終わった…!」
阿求がばたりと畳に倒れこんだ。良家のお嬢様らしくない振る舞いをパチュリーは少し意外に思った。
が、無理もないと思い直す。
自身も倒れ込みたい気分だったが、こらえて原稿の束を手にしてばらばらと目を通す。
何度も、何度もばらばらめくっては目を小刻みに動かして読み込んでいく。
指先が、紙の端をなぞるように動いた。やがて、満足げに頷き、阿求に手渡す。
「誰か!」
阿求が身を起こして叫ぶ。程なく使用人が静かに襖を開ける。
「これを、大急ぎで鈴奈庵へ」
「はっ、承知しました」
使用人が原稿を抱え、足早に去っていく。足音が、廊下の奥へと消えていった。
阿求は笑顔でパチュリーを見据えた。
「ありがとう。貴方の仕事ぶりは素晴らしかったです。お陰様でなんとか間に合いました」
「私を誰だと思っているの。このくらい当然よ。…ま、貴方も人間にしては中々やるじゃない」
お互いに顔を見合わせて、ふふ、と笑った。
そこには、共に難しい仕事をやりきった一種の連帯感が生まれていた。
「それに、貴方の小説面白かったわよ」
パチュリーの何気ない一言に、阿求の目がギラリと光った。
「具体的にどこが面白かったですか!?」
阿求は急に身を乗り出してパチュリーに迫った。その変わり様に、パチュリーは困惑した。
「え、ええっと…」
パチュリーはこの場面の情景描写が良かった、登場人物の心理の綾が巧みだった、など思いつくままに感想を述べた。
それを聞いて阿求は目を輝かせてうんうん、と相槌を打つ。先程までの疲労困憊が嘘のようだった。
「そ、それより次の仕事は?」
感想攻めに遭いそうな気配を察したパチュリーは、話題を変えた。
「いえ、これだけ働いてもらえれば十分です。約束通り、書庫の本を自由にお読みください。それと、少ないですがこちらを…」
阿求が封筒を差し出す。
「お給金です。成果には正当な報酬を。是非受け取って下さい」
パチュリーは一瞬戸惑った。報酬はあくまで読書だと思っていて、お金を貰うつもりはなかったからだ。
「そう。じゃあ遠慮なくいただくわ。ありがとう」
両手で受け取り、封筒を開けて覗き見る。
中には、一円札が二枚入っていた。折り目のない、真新しい紙幣だった。
「二円も…?」
パチュリーは目を見開いた。おおよそ寺子屋の七日分の収入と同じ金額だった。
「貴方の働きは、それだけの価値があります」
阿求が笑いかける。
―これだけあれば、越後商店のツケを精算して、尚且つお釣りが来る。
改めて、パチュリーは阿求に頭を下げた。
◆
「―パチュリーさん」
声をかけられて、はっと顔を上げる。
書庫の机の上には数十冊の本が山積みになっていた。窓の外は、既に暗くなっていた。
「あぁ…もう時間なのね。夢中になって時間を忘れてたわ」
そう言うと、小さな声で詠唱した。
すると、本達がまるで生きているかのように宙に浮き、一つ、また一つと元の場所へと収まっていく。
やがて、すべての本は綺麗に元通りになった。
「…」
阿求はその光景に見とれていた。
灯りで淡く照らされる書庫の中で、静かに舞う本の群れは、幻想的とすら言えた。
「中々充実した蔵書だったわ、ありがとう。来週土曜日も、この仕事をしたいのだけれど…頼めるかしら」
パチュリーの問いに、阿求ははっと我に返る。
「ええ、勿論です。こちらからも是非お願いします。門衛には話をつけておきますから」
「そう。じゃあ来週もよろしくお願いするわ」
書庫から去っていくパチュリーの背中に、阿求は頭を下げた。
<追放十日目>
人里に隠れ住み、仕事を始めてから迎えた初の日曜日。
朝の柔らかな光が、隙間だらけの障子から差し込んでいた。
小悪魔は二組の薄っぺらい生地の布団を畳んでいた。パチュリーを見ると、寝ぼけ眼を擦っている。
小悪魔は意外に思った。魔女は睡眠を必要としない。
恐らく、慣れない仕事の毎日に疲労が溜まり、睡眠を欲しているのだろうと思った。
「あの…パチュリー様」
「なに?」
小悪魔は少しためらい、意を決して尋ねた。指先が、布団の端をきゅっと握りしめる。
「今日は日曜日でお仕事も休みですよね。もしよろしければ…気分転換も兼ねて、その…一緒に、お出かけしませんか」
少し頬を染め、俯く。
勇気を振り絞ったであろう小悪魔の誘いを聞いて、パチュリーはふっと笑みを漏らす。
「ええ、いいわよ」
小悪魔はぱぁ、と明るい笑顔を見せた。抱えていた布団を、ぎゅっと抱きしめる。
「ありがとうございます!」
◆
二人は通りを歩いていた。
子ども達の笑い声、物売りの掛け声、あちこちから漂う食べ物の匂い。
休日だけあって、往来を行き来する人々も普段より多く感じた。
「どこに行きましょうか」
小悪魔が尋ねる。弾んだ声だった。
「―悪いけど、ちょっと寄りたいところがあるの」
やがて、とある店の前にたどり着く。―鈴奈庵だった。
がらりと引き戸が開けられる。
「いらっしゃ…」
小鈴は笑顔で声を掛けるも、パチュリーの顔を見た瞬間に笑顔が露骨に警戒色に変化する。
後ろから小悪魔も頭を下げて店へ入る。
「…パチュリーさん。立ち読みはお断りですよ」
小鈴が腕を組んで疑いの目で見る。
「…小鈴。今日はきちんとお金を払うから安心して。それと、この前は悪かったわ」
パチュリーが頭を下げる。それを目の当たりにした小鈴は驚き、小悪魔も目を丸くした。
働いて、対価を得る。そのお金でモノを購入する。
至極当たり前のことだが、経験することで初めて重みを知った。
謝罪の言葉は自然と口に出たのだった。
「あ、いえ…お金を払っていただけるのであれば、いいんです」
小鈴は優しい笑みを浮かべた。
パチュリーと小悪魔は本棚を見て回った。整然と並んだ本の背表紙を、指先でなぞるように見て歩く。
「あ、アガサクリスQの新刊だ!これ、気になってたんですよねぇ」
小悪魔が本棚から取り出す。目を輝かせて、表紙をまじまじと見つめた。
「パチュリー様もどうですか?面白いですよ」
小悪魔から渡されて、ぱらぱらと捲りざっと読んだ。
―これは。
そこにあったのは、先日格闘した阿求の原稿そのものだった。
印刷され、装丁され、一冊の本として並び、今はこうして誰かの手に渡ろうとしている。
自分の仕事が、こんな風に形になるなんて。
パチュリーの胸に、じわりと温かい何かが広がった。
「その新刊、昨日校正したばかりで、夜通し刷って完成したんですよ。
河童製印刷機のおかげで助かりました…あ、ちなみに新刊なので貸し出しはしていないです」
小鈴の声には疲労が感じられた。よく見たら目元に少し隈ができている。
「勿論購入します!」
小悪魔が小気味良く返事をする。
パチュリーも手早く本棚から数冊の本を取り出し、小鈴に手渡す。
「幾らかしら?」
「えっと…六銭ですね。返却は一週間です」
小悪魔とパチュリーは小銭を手渡し、本を受け取った。
「それじゃ。また来るわ」
「あ、パチュリーさん!」
小鈴の声に振り返る。
「ありがとうございました!またお越しください!」
小鈴が満面の笑顔で頭を下げる。パチュリーは微笑を浮かべ、小悪魔もそれに続き、店を後にした。
◆
大通りを歩いていると、小悪魔が声をかける。
「あそこのお店でちょっと休憩しませんか。私が働いている茶店なんです」
「ええ、いいわよ」
『甘味処 名華』という達筆の看板を構えている。
こじんまりとしているが、風情のある店構えだった。
数名の客が表の縁台に座って菓子を食べている。そこそこ繁盛しているようだった。
二人で店先に声をかける。
「おや、こあちゃんじゃないかい。いらっしゃい」
「こんにちは~。それと、私の名前はここあです」
老婆が笑顔で迎えてくれた。
パチュリーは思わず吹き出しそうになった。未だにこの老婆は小悪魔の名前を間違えているのか。
しかも、間違えた呼び名が普段の愛称であることもより可笑しみを増していた。
座敷に案内され、座って一息ついた。畳の感触が、歩き疲れた足に心地よかった。
「こちらのお嬢さんは、お友達かい?」
「八里知子様。私のご主人様です」
パチュリーは一瞬、驚いた。主従関係であることをそのまま言ってしまっていいのだろうか。
同じ歳頃の少女が主人だなんて、不自然ではないだろうか、と。慌てて口を開いた。
「…コホン。厳密に言うと、この子は八里家に仕える小間使いね。私専属でついてくれているの」
「あらまぁ、そうなんだねぇ。こあちゃんは一生懸命働いてくれて感謝しているよ」
小悪魔が笑いながら小さい声で「ここあです」と訂正した。どうやらこれは定番の掛け合いになっているようだ。
「…そう。この子は頑張り屋だから…」
頭を掻いて照れる小悪魔を見て、パチュリーは思わず笑みを漏らした。
普段図書館で働く小悪魔の働きっぷりは勿論知っているが、
こうやって別のお店で働き、店主から評価されるのを聞くのは悪くない気分だった。
やがて、お品書きを書いた紙を手渡される。
「八里様、何になさいますか。この抹茶の羊羹なんて美味しいですよ」
「じゃあそれにしようかしら」
程なくして老婆が湯気の立つ湯呑と菓子を持ってきてくれた。
「どうぞ。ゆっくり召し上がってね」
老婆に礼を言って口に運ぶ。ほろ苦い甘さがお茶によく合った。
「…結構いい店ね」
「えへへ、そうでしょう?お婆さんも優しいし、いい職場です!」
まるで自分のことのように小悪魔は顔をほころばせた。
菓子を食べ終わりお茶を飲んでいると、小悪魔が湯呑を両手で包むように持ちながら、真剣な表情で言った。
「…パチュリー様。私、この仕事、気に入ってるんです」
パチュリーが少し意外そうに見る。
「この先、もし人里を離れることになったとしても。
人里で暮らした日々を―こういう時間があったことを、忘れたくないなって思うんです」
湯呑に視線を落として、しばらく黙っている。
「…そうね」
パチュリーは優しく微笑み、短く答えた。
外の通りでは、行き交う人々の声が、遠くに聞こえていた。
◆
「あ、八里先生!こんにちは!」
茶店を後にし、小悪魔とともに商店を覗き込んでいると、声をかけられた。
振り向くと、赤井しおりがにこやかに笑っていた。買い物籠を手に提げている。
「こんにちは。貴方もお出かけ?」
「はい。母に頼まれてお使いに―」
しおりはふと、隣に立つ小悪魔を興味津々といった様子で見つめた。
「そちらのお姉さんは…?」
少し首を傾げる。
「七詩ここあ。同棲しているのよ」
パチュリーは平然と言った。
「ど…」
しおりは口に手を当て、驚いたように言い詰まった。頬に、みるみる赤みが差していく。
「あ、えっと…赤井しおりです。寺子屋で八里先生にお世話になっています。よろしくお願いしますね」
しおりが小悪魔に頭を下げる。小悪魔は呆けたような顔をしていたが、はっと我に返る。
「あ…これはご丁寧にどうも。私は七詩ここあといいます。
八里様とは…ど…一緒に住まわせてもらっています。よ、よろしくお願いします…」
しどろもどろになりながら自己紹介する。頬が、これ以上ないほど赤く染まっていた。
しおりはその様子を見ながらにこにこ笑っていた。
パチュリーだけは頭に疑問符が浮かんでいた。
ふと、しおりの手に本が握られているのが見えた。
「その本…」
パチュリーが問いかける。
「あ、これは先生から貸していただいた『やさしい理科入門』です!」
そう言って両手で大事そうに掲げる。そこには、大量の付箋が貼られていた。
かなり読み込んだのか、少し曲がってくたびれていた。
「…随分読み込んだのね。役に立っているようで何よりだわ」
そういって微笑みかける。しおりもぱあ、と明るい笑顔になった。
「それにしても、先生も隅に置けないですね。では、お邪魔にならないように私はそろそろ行きますね。
ごゆっくり楽しんでいってください」
別れ際、しおりが笑みを浮かべながら意味深なことを言って去っていった。
パチュリーは頭を傾げた。
「さ、こあ。行くわよ」
小悪魔を見ると、手で顔を覆って真っ赤になっていた。
指の隙間から、耳の先まで赤らんでいるのが見えた。
◆
―その後。
いろんな店を見て回り、買い物をしたり、銭湯に入ったりしている内にすっかり暗くなっていた。
軒先の提灯に、次々と灯りが点いていく。
「パチュリー様。そろそろ夕食にしましょうか」
「そうね…」
飲食店が並ぶ通りを歩く。
どの店からも賑やかな声が聞こえ、いい匂いが鼻をくすぐる。
醤油の焦げる香り、出汁の湯気、揚げ物の油の匂いが、夜の通りに入り混じっていた。
「あ、あそこの牛鍋屋とかどうでしょうか!」
小悪魔が指さしたのは、かつてパチュリーが働いていた牛鍋屋だった。
「…」
パチュリーは一瞬ためらった。
少なくとも、別れる際に店長は自分に大して悪感情は持っていなかった。
まさか、変に正体を勘ぐられることはないだろう。記憶の中の、あの日の巾着袋の重みが、ふと蘇った。
暖簾をくぐると、店長が「あれ、八里さんじゃないか」と顔をほころばせた。
厨房からも「久しぶり!」と声が飛ぶ。
すぐに辞めたために賄いとして食べる機会すら無かった牛鍋は、
ここ数日素朴な和食ばかりだった舌にはひと際美味しく感じられた。
―店員ではなく、客の立場として訪れると、見える光景が変わる。
客の注文を取り、厨房へオーダーを出す。牛鍋を座敷に運ぶ。
会計し、退店する客に頭を下げ、大きな声で礼を言う。
皆が一生懸命に働き、美味しい食事を提供し、金銭を頂く。
そのサイクルの中で、かつては店員として、今は客としてこの場にいることが、どこか嬉しく感じられた。
―会計を済ませ、退店すると店の外まで出て店員たちが見送りしてくれた。
小悪魔は、何となく照れくさそうな様子の主人を見て、自然と笑みが漏れていた。
「結構遅い時間になりましたね。どうしましょうか。そろそろ帰りますか?」
「―せっかくだし、二軒目はどうかしら。行ってみたいお店があるのよ」
ふと、以前マミゾウに「酒と料理が美味い」と言われた鯢呑亭のことを思い出していた。
その足が繁華街へと向けられる。
夜の帳が下りた通りの先に、賑やかな灯りが揺れていた。
◆
「―大体、レミリア様は気まぐれすぎるんですよ!」
小悪魔がどん、と酒の入ったコップをテーブルに音を立てて置いた。
「親友のパチュリー様をこんな…ひっく」
顔は真っ赤に染まり、目は酔いで虚ろだった。
「ちょっと、こあ…貴方酔いすぎよ」
パチュリーが若干戸惑いつつ、注意する。
―二人は、鯢呑亭へ飲みに来ていた。
提灯の灯りが揺れる店内には、酒と焼き物の香ばしい匂いが満ちていた。
料理はどれもシンプルだが丁寧な仕事により絶品だった。
酒も普段飲むワインとは違った、透き通った甘い香りが印象的な日本酒で、和食とよく合った。
「パチュリー様はなんとも思わないんですかぁ?こんな仕打ちを食らって…」
とろんとした目で絡んでくる。
「―思うところがないとは言えないけれど…」
パチュリー自身、そこまでレミリアを恨む気にもなれなかった。
むしろ、今では自業自得だと思えた。
「いっそ難題にぶち当たって、パチュリー様の偉大さを思い知ればいいんですぅ…」
そう言うと、机に突っ伏す。やがて、微かな寝息と共に身体が上下し始めた。
「まったく、この子は…」
苦笑しつつ、自分の上着をかけてやる。
「それにしても、こあがここまではっきり言うなんてね…」
普段はパチュリーにもレミリアにも従順で、口答え一つしない小悪魔がこうもレミリアに対して不満を口にしたのは初めてだった。
小悪魔の新たな一面を知るとともに、パチュリーの胸の奥がわずかに温かみで包まれた。
その時、ガラリと引き戸が開けられ客が一人来店した。
奥野田美宵の「いらっしゃいませ」という元気な声が響く。
「おや、来たんじゃな。お連れの方は随分潰れてるようじゃが」
その客は声をかけて近づいてきた。マミゾウだった。
「人里の暮らしはどうじゃ?」
言いつつ、パチュリーの隣に座る。
「…ま、何とかやってるわ」
「そうかそうか。ま、それは何より」
かっかっかと笑い、出された熱燗をお猪口に注ぎ、掲げる。
パチュリーも酒の入ったコップを掲げ、かちんと音を鳴らして合わせる。そしてお互いにくい、と飲んだ。
「貴方、ここの常連なの?」
「うむ。まあわしはここの発案者の一人でもあるしな」
「へぇ…」
改めて周りを見回してみる。客はすべて妖怪だった。
最初に足を踏み入れたときは驚いたものだった。
何より、こうも多くの妖怪が人里に紛れていたのか、ということと、
大勢の妖怪が人里のど真ん中に集って飲んでいる、という大胆さに驚いた。
「よくも霊夢にバレないものね」
「そこは上手くやっとるよ」
マミゾウはつきだしのイワナのなめろうを美味しそうに口に運び、満足げに目を細める。
―しばらくは、他愛もない会話が続いた。
いや、あえてそういった話題をお互いに選んでいた。
それはパチュリーの今の立場が特殊であり、あまり触れないほうが良いというマミゾウの気遣いでもあった。
「しかし―お主とは会ったのはまだ二回目じゃが…随分変わったのぅ」
「…変わった?」
パチュリーは疑問を口にするも、改めてここ数日を思い返してみる。
狭苦しい長屋で寝泊まりし、労働に従事し、料理を作る…。
少なくとも、図書館に籠っていた頃では考えられないだろう。
「人間と接して、人里で暮らすのも案外悪くない…そう思ってるんじゃないかの?」
「…ふん、何を言ってるの。そんなわけないじゃない。さっさと紅魔館に帰りたい一心よ」
ぷいと横を向くも、マミゾウがからからと笑う。パチュリーもやがて、ふふ、と苦笑する。
―確かに、こういうのも悪くない。
「そうじゃ。お主は確か寺子屋で子ども達を教えてるんじゃったな」
「そうだけど」
どうして知ってるんだ、とパチュリーは一瞬思ったが、
マミゾウであれば様々な伝手や手下の狸を使って、幾らでも情報を得ていそうだ、と得心した。
「なら忠告じゃ。最近どうも人里を嗅ぎ回ってる妖怪がいるらしい」
その声色から、先程までの穏やかさが消える。わずかに緊張が走った。
「そんなの、たくさんいるんじゃないの?現にこの店にも大勢―」
「いや、そうじゃない。例えば、ここに居る連中は皆自分達の立場をわきまえておる。
―もっと後ろ暗い匂いを感じるんじゃよ。
直近で行方不明者が二名出ておる。その犯人なのではないか、とわしは疑っとる」
そういえば、牛鍋屋でも客が同じような話をしていたのを思い出した。
パチュリーは疑問に思った。人里の人間に手を出してはいけないという不文律。
それを破ろうとする愚かな妖怪がいるのだろうか。
「まあ、用心するに越したことはない。また何か分かったら連絡しよう」
その一言が、パチュリーの胸の奥に小さな棘のように残った。
「忠告ありがとう。気をつけるわ」
やがて、ひとしきり会話した後、パチュリーが口を開く。
「―さて。いい時間だし、私達はそろそろ御暇しようかしら」
そう言うと席から立ち上がる。
「ほら、こあ。もう帰るわよ」
小悪魔を揺するとふわぁ、とあくびをして目をこすった。
「―ま、結構楽しめたわ。それじゃお先に失礼するわね」
マミゾウに向かって笑顔を向ける。
「わしもお主と飲めて良い時間を過ごせたよ。じゃあな」
◆
会計を済まし、小悪魔を支えてふらつきながらも鯢呑亭を後にした。
夜風が酒で温まった身体に心地よかった。
「パチュリ~様ぁ~…一生お仕えしますぅ~…」
小悪魔はまだ寝ぼけているようだった。パチュリーは思わず苦笑する。
静かな人里の通りを、二人で歩く。
―うん、こういうのも悪くない。
時間は午前一時を回っていた。
夜は更け、どこからか蟋蟀の鳴き声が聞こえた。
◆
―あれから数日が経った。
パチュリーと小悪魔は人里での生活にようやく慣れ、それぞれ自分の居場所を確立していった。
寺子屋で授業を行い、仕事をこなし、小悪魔と食事を囲む。
気づけばそんな生活が、ごく当たり前になっていた。
日々の中に、いつしか確かな輪郭が生まれていた。
そして―
<追放十四日目>
大通りに面する茶店、『甘味処 名華』。
小悪魔が開店の準備をしていると、血相を変えた少女が通りを必死で走るのを目撃した。
手を止めて、去っていく背中を見つめる。
「あれは…寺子屋の生徒?」
ただならぬ雰囲気に、心に動揺が広がる。
直感が告げていた。これはただ事ではない、と。
迷いは一瞬だった。
「お婆さん、すみません!ちょっと急ぎの用事ができたので、仕事を抜けます!」
「あれまぁ…何だかよくわからないけれど…」
一瞬老婆は首を傾げ、考えた。だが、小悪魔の目を真っ直ぐに見つめ、言った。
「こあちゃん、行っておいで」
老婆は柔和な笑顔で頷く。その瞳は、すべてを見通すかのように澄んでいた。
小悪魔は一瞬ドキッとした。
いつもの単なる言い間違いではない―
「七詩ここあ」ではなく「小悪魔」として呼ばれたように感じた。
「はい、行ってきます!」
力強く返事し、頭を下げる。素早く割烹着を脱ぎ、畳んで置き、寺子屋へと駆けていった。
小悪魔の後姿を、老婆はどこか寂し気に見送った。
姿が見えなくなった後も、通りの向こうを、いつまでも―
◆
―寺子屋の教室。
子ども達が次々と登校し、がやがやと賑やかになっていた。
パチュリーは教壇で考え事をしていた。
「ちょっと朝は用事があってな。すまないが、一限目の歴史の授業をパチュリーに任せたい」
昨日の時点で慧音から頼まれていた。
何でも、昨今の行方不明の件で、里の自警団の詰め所で会合があるらしい。
パチュリーは鯢呑亭で聞いたマミゾウの忠告を元に、翌日慧音に相談していた。
その結果として、念のため生徒達に最低二人以上で登下校するよう義務付け、
また登下校の時間帯を重点的に、自警団による定期巡回を行うよう手配していた。
現実的に可能な範囲での対策ではあったが、万全とは言い難く、一抹の不安は拭えなかった。
やがて、概ね生徒が登校した頃。
一人の少女が引き戸を音を立てて開け、パチュリーのもとに駆けつけた。
息を切らし、顔面は蒼白だった。
「八里先生!助けて…!」
必死の表情に、パチュリーはただ事ではないと感じ、一瞬で緊張感に包まれた。
しゃがみこんで、生徒に優しく尋ねる。目線を合わせ、震える肩にそっと手を添えた。
「大丈夫、落ち着いて。何があったの?」
「しおりちゃんが…妖怪に…」
震える声でそれだけを告げる。瞬間、全てを理解した。
ざわめく教室。空気が、一瞬にして張り詰めた。
パチュリーは一瞬、言葉に詰まった。胸中で様々な感情が渦巻く。
だが、同時に頭の中では冷静に、幾つもの対応策を瞬時に組み上げていった。
「そう…どうもありがとう。落ち着いてからでいいから、教えてちょうだい。その妖怪の外見はどんなだった?」
優しげに問いかける。少女は俯いて、混乱した記憶の中から必死に探り出す。
「えっと…人間のおじさんと見た目はほとんど同じ。
少し痩せ気味で、耳が尖ってて、目は黒目だけだった。服は…普通の茶色い着物だった」
「どうもありがとう。最後にもう一つだけ。どの方角へ去っていったか分かるかしら?」
「うん。西門の方角だから、西に飛んでいった」
パチュリーは少女の両肩に手を置いた。
「それだけ分かれば十分よ。大丈夫、しおりは先生が必ず助けるわ」
そう言って頭を撫でてやる。少女はこくり、と頷いた。強張っていた表情が、少しだけ緩んだ。
「虎太郎!」
パチュリーが名前を呼ぶ。
はい!と反射的に虎太郎が立ち上がり、声を上げた。
「貴方は生徒の中で最もかけっこが速かったわよね。里の詰め所にいる慧音先生や大人達にこの事態を伝えてほしい」
虎太郎はごくり、とつばを飲んだ。
「…頼まれてくれるかしら?」
「―任せとけ!」
力強く頷きどんと胸を叩くと、脱兎のごとく教室から駆けていく。足音が奥へと遠ざかっていった。
「皆は教室で自習しておくこと!絶対に外に出ないようにね」
そう言い渡すと、パチュリーも教室を後にした。振り返ることなく、引き戸を閉める音だけが響いた。
◆
寺子屋を出たところで、小悪魔とばったりと会った。息を切らし、額には汗が光っていた。
「パチュリー様!」
「こあ…!」
小悪魔は息を整える。二人は素早く状況を伝え合った。
「丁度良かった。貴方に会いに行こうとしてたのよ。貴方の力を貸してほしい」
「私に出来ることであれば何でもお申し付けください」
小悪魔は胸に手を当てて頷いた。
「―『やさしい理科入門』の本の場所を探してほしいの」
その頼みに、小悪魔は一瞬疑問が浮かんだが、すぐにぱっと明るい顔になった。
「なるほど!承知しました!」
やがて、手を耳に添え、目を瞑る。
「―本たちよ。貴方の声を聞かせて…」
そして耳を澄ます。周囲の喧騒が、一瞬にして遠くなったかのようだった。
小悪魔には『目的の本を瞬時に探す能力』が備わっている。
普段は図書館での図書整理や、パチュリーが読みたい本の検索に役立てていた。
「―寺子屋の職員室。
―鈴奈庵、左奥の本棚の上から三段目。
―紅魔館、南西区画3241番本棚の上から二十一段目。
…人里から西南西へ約三粁、野原」
小悪魔の目が開かれる。パチュリーと顔を見合わせ、互いに頷きあった。
誘拐を目撃した少女の証言と方角も一致する。
「行きましょう!」
二人は人目をはばからず、空に浮いて西へと飛んでいった。
◆
―名も無き草花が生い茂る、一面の草原。
風によって波打つ緑の絨毯は、色とりどりの草花に静かに彩られていた。
パチュリーと小悪魔は全速力で空を飛んでいた。景色が線を引くように、高速で後方へと流れていく。
風が耳元で唸り、髪を激しく後ろへとなびかせた。
―まだ間に合う。
まるで自分に言い聞かせるように、胸の奥でその言葉が何度も繰り返されていた。
やがて、視界の彼方に小さく人影が見えた。
更に速度を上げ、急速接近する。
それは茶色の着物に身を包んだ、人型の妖怪だった。
腕には恐怖にこわばった表情のしおりが抱えられている。
小さな手が、着物の袖をぎゅっと握りしめていた。
パチュリーが前に回り込んで小悪魔と挟む形になり、妖怪はその場で止まった。
同時に、パチュリーは口の中でぼそり、と何かを呟いた。
「八里先生!?」
空から現れた二人の姿に、しおりは目を見開き、叫んだ。
涙で潤んだ瞳に、驚きと、確かな希望の光が灯った。
「その子を離しなさい。―死んだりしたら、寝覚めが悪いのよ」
抑揚のない声だった。だが、底には静かな凄みが込められていた。
妖怪は驚いた。
「お前…紅魔館の魔女、パチュリー・ノーレッジか!?何でお前みたいな大物が…」
しおりが困惑の表情を浮かべる。
「魔女…?パチュリー…?先生…妖怪、だったの…?」
パチュリーは舌打ちした。
普段滅多に人前へ姿を現さず、しかも今は髪型も服装も変えている。正体は伏せられると思っていた。
何より、追いつくよう急いでいたため、そこまで気が回らなかった。
―そして、しおりにも知られてしまった。
魔法を行使する場面を見られても、最悪、魔理沙のような「人間の魔法使いだ」と言い張ろうと思っていた。
だが、それもできなくなってしまった。
「…人里の人間に手を出すのはご法度だってことは、
低級妖怪だろうと人語を理解するのであれば知っているでしょう?」
「俺はあくまで頼まれて拐っただけだ。取って食おうってわけじゃない。
…それにしても、まさか紅魔館の魔女様が人間の子どもを助けようだなんてな」
侮蔑の笑みを浮かべ、鋭い爪をしおりの喉元に突きつける。しおりの喉から、小さな悲鳴が漏れた。
「いいか、下手な真似はするなよ。少しでも魔法を詠唱しようものなら、こいつを殺す」
パチュリーは無表情だった。手に持つ魔導書を開こうとした、その時。
妖怪の人差し指の爪がまるで銃弾のように射出され、パチュリーの頬を掠めた。
つ、と赤い血が頬を伝う。髪を後ろで束ねていた紐が切れたのか、ぱさりと豊かな髪が風に乗って広がった。
「妙な真似はするなよ!」
妖怪の警告に、その場の空気が緊張に包まれる。
パチュリーは小悪魔に視線を送った。
小悪魔は小さく頷いた。
「誰に頼まれたの?」
「言えるわけないだろう」
パチュリーの問いに嘲笑を含んで返事したその刹那―
しおりに爪を突きつけていた妖怪の右腕が、音を立てて根本から吹き飛んだ。
「―!!?」
妖怪は声にならない叫び声を上げる。返り血がしおりの顔に跳ねた。
支えを失ったしおりの身体が宙へ投げ出される。
悲鳴を上げながら落下するしおりに、小悪魔が一直線に飛び込み、小さな身体を抱き留めた。
しおりは震える手で小悪魔の服をぎゅっと掴み、声もなく胸に顔を埋めた。
「何故だ…!?まったく詠唱の気配がなかったのに…無詠唱なんて、出来るはずが―」
パチュリーは苦痛をにじませた驚きの声には答えず、淡々と聞く。
「左腕、右足、左足。まだ三本あるわね。もう一度聞くわ。誰に頼まれた?」
「い、言ったら俺が殺される―」
鈍い破裂音とともに今度は左腕が吹き飛ぶ。悲痛な叫びと共に、赤黒い血が飛び散った。
その凄惨な光景を目の当たりにしたしおりは、恐怖に顔を強張らせ目を逸らせた。
「貴方のこと、見くびっていたわ。雑魚なりに根性あるのね。あと二本。さあ、誰に頼まれた?」
「―じ、絡新婦だよ。最近幻想郷に来たやつらしい。
ここから更に西へ行った森の奥深くに巣を張ってる。だが、あんたと言えど…」
小さな爆発音が響き、首が吹き飛んだ。
断面から血を吹き出しつつ、身体と首が自由落下する。
そのまま地面へ墜落し、肉片と赤黒い染みと化した。
「―無詠唱じゃない。お前と対峙した時に、既に魔法は唱え終えていた。
お前は会った瞬間に、死が確定していたのよ」
音を立てて魔導書を閉じ、吐き捨てる。その声色には、一切の感慨がなかった。
「しおり、もう大丈―」
パチュリーは振り返り、柔らかな笑顔で声をかけた。
だが―しおりの瞳を見て、パチュリーの表情が硬直する。
しおりがパチュリーを見る、心底怯えた目。
小悪魔にしがみついて、まるでおこりのように全身を震わせていた。
瞳には、先程まであった信頼の色が、跡形もなく消え失せていた。
その瞬間、パチュリーの中で何かが音を立てて崩れ去っていった。
―ほんの一瞬だったはずだが、永遠に感じるほどの沈黙。
パチュリーは息をつき、俯いた。わずかに寂しさが目に宿っているように見えた。
「こあ、しおりを人里へ送ってあげて」
「パチュリー様…」
小悪魔が心配そうに声をかける。
「私は後始末しに行くわ。頼んだわよ」
そう言うと、西へと飛んでいった。
振り返ることなく、その背中は空と地平線の境界へと溶けていった。
◆
―小悪魔はしおりを抱えて、人里を目指して空を飛んでいた。
風が、二人の頬を冷たく撫でていった。
「…」
「…」
二人とも、何も言わなかった。
小悪魔はしおりの震えが手に伝わるのを感じた。抱きしめる腕に、無意識に力がこもった。
「…七詩ここあさん、でしたよね。貴方も…」
しおりがようやく口を開く。途中で口をつぐんだが、何を言いたいのかは明らかだった。
「―はい。八里先生…いや、パチュリー様も、私も、妖怪です。黙っていてごめんなさい」
小悪魔は言い訳もせず、正直に打ち明けた。
「…」
しおりは俯き、目を伏せた。
やがて、地平線に人里が見えた頃、前方から何かが近づくのが見えた。
一瞬警戒するも、それは上白沢慧音だった。
「慧音さん!」
「しおり!無事だったか!」
慧音の声に、しおりがようやく笑みを浮かべる。が、それはぎこちなかった。
「こ…貴方が助けてくれたのか」
慧音は言葉を詰まらせて、言い直した。
「いえ、パチュリー様が誘拐犯の妖怪と戦い、しおりちゃんを助けてくれたのです」
偽名ではなく本名を口にしたことに、慧音は一瞬驚いた。
小悪魔は経緯を説明した。言葉を選びながら、事の顛末を丁寧に伝えていく。
「一人で黒幕と…ならば、加勢にいかねば!」
今にも飛び去ろうとする慧音を小悪魔は止めた。
「その必要はないと思います。今のパチュリー様には…誰も、敵わないでしょうから」
そう言うと、小悪魔は来た方向を振り返った。西の空を、じっと見つめる。
―パチュリー様…ご武運を。
そう、心の中で呟いた。
◆
―奥深くの森の中。そこには、所々で炎が燃え盛り、火の粉と木の葉が舞っていた。
火の動きに合わせて、赤い光が不気味に照り返している。
全長二十米はあろうかという、巨大な蜘蛛が丸太のような脚を伸ばして木々を掴んでいた。
人間の女の頭部を持つその妖怪は、絡新婦だった。
周囲にはまるでドームのように蜘蛛の巣が覆っていた。
よく見ると何本かの脚は欠損し、腹は破れ、緑色の液体が止め処無く流れ出ている。
地面には何十もの子蜘蛛―と言っても、人間の子どもほどの大きさだが―の死骸が横たわっていた。
焦げた木々の匂いと、生臭い血の匂いが入り混じっていた。
空間の中央には、パチュリーが宙に浮かんでいた。
紫の髪が風を受け、ふわりと舞う。火の照り返しを受け、美しく光っていた。
目は極北の氷河のごとく、冷たかった。
「お前は…」
絡新婦が苦痛と困惑の表情を浮かべ、声を漏らす。
「なぜだ?紅魔館と我は手を組んでいるはず…紅魔館の幹部のお前が、なぜ我を襲う?
当主のレミリアはこの所業を知っているのか…!?」
その言葉に、パチュリーは記憶の底からとある情景が浮かんだ。
『絡新婦という名前の、新興の妖怪から手を組もうと申し出があったわ。手駒は多い方がいいと思うけど、どうかしら』
『別にいいんじゃない?』
―追放を言い渡されたあの日。
確かに相談を受け、生返事をしていた。あの日の自分の声が、耳の奥で鈍く反響する。
「…今思えば間違いだったわね。こんな頭の悪い輩だとは思わなかったから」
ふん、と鼻を鳴らす。
「レミィは知らないわ。けど、お前のような雑魚がどうなろうとレミィは何の興味も持たない」
吐き捨てる冷たい言葉に、絡新婦がぎり、と歯を食いしばった。
「なぜ、人間の子ども一人にここまでする。博麗の巫女ならばともかく、妖怪のお前が―」
「幻想郷では『人里の人間に手を出してはいけない』という不文律がある。
新参者だから知らなかった、なんて言い訳は通用しないわ。馬鹿なことをやらかしたものね」
パチュリーは肩をすくめ、やれやれ、とため息をついた。まるで、困ったもんだ、といった風の軽さだった。
だが、瞳の奥に宿る光は、鋭利なナイフのように鋭かった。
「妖怪が人を喰って何が悪い!」
絡新婦は叫んだ。
「幻想郷の妖怪達の方が余程不自然ではないか?妖怪とは本来、人を喰らうものだ!」
そして、少し遠くに視線をやった。
「…一月ほど前、たまたま迷い込んだ『外来人』を喰った。
あの柔らかい肉に新鮮な血…言葉にできぬほどの甘美な味わい!―あぁ、想像しただけで涎が…」
絡新婦は恍惚な表情を浮かべ、舌なめずりする。
「―で、我慢できなくなり、人里から人を拐って喰った、ってわけね」
パチュリーが侮蔑の視線で刺す。
「その通り。万一に備え、強力な妖怪の勢力と手を組み、地盤を固めて態勢を整えた上で実行に移したというわけよ」
それを聞いたパチュリーははっとなった。表情に、わずかな動揺が走る。
「『強力な妖怪の勢力と手を組み』…?」
―つまり、紅魔館と手を組んだからこいつは人を拐って喰った?そして、今度はしおりを?
じわりとその事実が頭の中に浸透していった。
―結局は、自分がすべての発端だった?
時間差で沸々と怒りが湧く。その怒りは絡新婦ではなく、自分自身に向いていた。
絡新婦はパチュリーが一瞬呆けたように動きを止めたのを見て、口元を歪めた。
その瞬間、隠れていた生き残りの子蜘蛛が、牙から致命的な毒液を滴らせ木の上からパチュリーに飛びかかった。
「…エレメンタルハーベスター」
小さくぼそりと呟くと、何もない空間から突如回転する円盤ノコギリが現れた。
子蜘蛛はそこに飛び込む形になり、脚と胴体が寸断され、肉片と体液をばら撒きながらバラバラに飛び散った。
飛んだ体液がぴしゃりとパチュリーの服の裾を汚す。
「ちッ…!」
絡新婦が舌打ちする。
「さ、終わりにしましょう」
パチュリーが抑揚のない声で告げる。それは死刑宣告に等しかった。
「…不文律を守るだけなら、博麗の巫女に任せればよかったはずだ。お前が出張る必要はない。
たかが人間の子ども一人のために、なぜ戦う?それとも妖怪のお前が、情に絆されたか?」
絡新婦は話し続ける。と同時に、密かに腹の先にある管を地面に突き刺した。
「…勘違いしないで頂戴。私は妖怪。人間が何人死のうが、何の痛痒も感じない」
そこで言葉を区切る。やがて、恐ろしいほどの殺気を伴った鋭い視線で絡新婦を睨みつけた。
「―理由なんて無い。強いて言うなら…私が不快に思った。全部ひっくるめて、ね。だからお前を殺す。それだけよ」
その言葉が引き金となったかのように、絡新婦が鋭く尖った丸太のように太い脚数本を、疾風の如き速さでパチュリーに向けて放った。
パチュリーは急上昇し回避する。が、待ち構えていたかのように、時間差で残り一本の脚が襲い来る。
それは確かにパチュリーの身体を捉えた。
―だが、柔らかい身体を刺し貫くことはなく、甲高い音を上げて弾き返された。
わずかな一瞬、パチュリーの身に金剛石の結晶のような紋様が浮かび上がった。
「な―!?」
「―フォレストブレイズ」
短い詠唱とともに、周囲に舞う木の葉が意思を持ったかのように渦を巻き、業炎となって絡新婦に襲いかかる。
上半身はあっという間に燃え盛る火柱となり、耳障りな断末魔を上げ、異臭を放ちつつ炭化していく。
ちらと絡新婦が鎮座していた地面を見る。パチュリーは鼻を鳴らすと、口の中で短く詠唱する。
「…トリリトンシェイク」
地面が揺れたかと思うと、突如、石柱が地面から勢いよく飛び出した。
同時に、乳白色のぬらぬらと光る無数の卵が、石柱により抉られた地面からむき出しとなっていた。
「まったく…虫けらは油断も隙もないわね」
人差し指をくいと下に向ける。ぐるぐると宙を舞っていた残りの木の葉が再び燃え上がり、卵に向かっていく。
業火に焼かれ、ぷち、ぷちと卵が嫌な音を立てて潰れていった。
その様子を冷たい目で見下ろす。表情には、一切の感情が浮かんでいなかった。
ふと、パチュリーが目を細めた。
―そして、聞き取れないほど小さく、何かを紡いだ。
◆
「あ~、随分派手に殺っちゃいましたねぇ。参ったなぁ」
唐突に声が聞こえた。声の方向を見ると、木の枝に誰かが足を組んで腰掛けていた。
ふいに炎が揺らぎ、その顔が照らされる。
「…射命丸文」
パチュリーがその名を口にする。警戒を顕にするその声には、わずかな疲労も混じっていた。
「絡新婦は妖怪の山と手を組んでたんですよ。それをこうも…うーん、困りましたねぇ。
飯綱丸様の書簡も無駄になってしまいました」
大して困ってなさそうな表情で肩をすくめる。
軽薄な口調とは裏腹に、視線だけは鋭く周囲の惨状を捉えていた。
「こいつ、妖怪の山とも手を…」
「ええ、そうなんですよ。―で、紅魔館に所属する貴方がそれを手に掛けた。
パチュリーさん。困ったことをしてくれましたねぇ」
木の枝から見下ろすその視線には、明確な値踏みの色があった。
「こいつは人里の人間に手を出したわ」
「ええ、一部始終は聞きましたよ。絡新婦は不文律を破った。あのような輩は庇う余地もないし、消されて当然です。
私達天狗は、人間を守る役割も担っていますしね」
文は人差し指を立てて、まるで講義するように続ける。
「ですが、絡新婦が言ったように本来は博麗の巫女に任せるべきでした。
人間を襲った妖怪は人間によって退治される―それがルールですから」
文は指を顎に当て、考え込むような仕草をする。
「―それにしても。その妖怪がどういった横の繋がりがあるのかを考慮せず、妖怪の山に筋を通すこともなく、一方的に粛清する。
随分貴方らしくない…冷静さを欠いた行いでしたね?」
その指摘に、パチュリーの表情が強張った。
「…だったら、何故戦いに介入しなかったの?」
「私が駆けつけたのはもう終盤でしたから。あの負傷じゃどのみち命はなかったでしょう」
炎による陽炎で文の姿がゆらり、と揺れた。
「さて、お喋りはそろそろ終わりにしましょうか」
その瞬間、文の姿が消えた。座していた枝の木の葉一枚、揺れなかった。
「妖怪の山のメンツは潰された。さあ、どう落とし前をつけてもらいましょうかね?」
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
すぐ背後から文が耳元に囁く。普段のお調子者の雰囲気は影も形もなかった。
吐息が、耳朶に触れるほどの近さだった。
「いっそ、魔女の首をいただくのもいいかもしれませんね…飯綱丸様へのいい土産になりそうだ」
「…試してみる?その代わり、貴方も無事では済まないわ」
ぼわ、と五つの光が浮かんだ。それらはパチュリーと文を中心に、円を描くように周囲を回っていた。
五色の結晶体だった。膨大な量の魔力が溢れ出し、渦巻き、辺り一帯に満ちていた。
二人の間に緊張が走った。
「絡新婦戦では『ダイアモンドハードネス』、私には『賢者の石』ですか…事前に仕込む戦い方、お見事です」
文は小さく拍手をした。その音が、やけに乾いて響いた。
「『勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求む』…それと、貴方はもうちょっと魔力を消す修練を積んだほうがいいわよ」
「これでもまっさらに消していたつもりなんですけどね…」
文が頭をかく。そしてパチュリーから離れ、距離を取った。
「まあ、冗談ですよ、冗談。
この程度の手駒のために、貴方を討って紅魔館と戦争状態になるなんてまったく割に合わないですからね。
貴方にはインタビューでもお世話になってますし。あくまで釘を差したかった…それだけです」
「そうね。私も、貴方を返り討ちにして妖怪の山と戦争状態になるのはごめんだわ」
文は苦笑した。互いに引き際を知る者同士の、静かな了解があった。
「飯綱丸様には『新興の妖怪同士の抗争があった。介入する余地もなく敗れ、間に合わなかった。相手は始末した』
とでも言っておきますよ。じゃ、私はこれで」
文は頭を下げると、飛び立とうとした。が、ふと振り返る。
「似合ってますよ、その服」
目を細め、ふっと薄く笑ってそう言うと、瞬速で去っていった。
パチュリーはちっと小さく舌打ちした。
文の気配が完全に遠ざかったのを確認すると、深く息をついた。
「―退いてくれたか…」
賢者の石は淡く明滅すると、自然と消滅した。周囲を包んでいた魔力の圧力が、潮が引くように収まっていく。
「ゴホッ、ゴホッ…」
ふいに喘息の発作が起こる。
喉の奥の違和感が増し、じわりと痛む。口の中に鉄錆の味が広がった。
胸元を抑え、細く、慎重に息を整える。
「はぁ…はぁ…」
ようやく呼吸が落ち着く。
パチュリーは人里の方向へ向けて、静かに飛び立った。
◆
―人里の西門外。
天頂に輝く太陽の光が、里の家屋に降り注いでいた。
パチュリーは目撃されないよう、少し距離を取った位置に降り立った。
「ふぅ…」
先程の戦いでは一切のダメージは受けていないが、生来の体力の無さゆえ、一定の疲労は蓄積していた。
何より、文を相手に使用した賢者の石によって魔力が大きく消耗していた。
足元が、わずかにふらつく。
改めて自分の姿を顧みる。
若干煤に汚れ、髪も乱れ、袴の裾は蜘蛛の体液で黒い染みとなっていた。
「せっかくこあに買ってもらったのに…」
思わず呟き、ため息をついた。汚れた裾を指先でつまみ、顔をしかめる。
そこに、何者かが空から降り立った。
博麗霊夢だった。
白い巫女装束の袖が翻り、長い御幣の棒を肩に担ぐ。
パチュリーは内心舌打ちをした。この状況で、最も避けたかった相手だった。
詰め所に虎太郎を走らせた時点で、博麗神社に知らせが行くことは勿論想定内だった。
だが、よりにもよって霊夢と鉢合わせするとは。
「あんた、なんで人里にいるのよ。それに、その服…」
霊夢の目は鋭くパチュリーを射抜いている。
ふと、頬の血と袴に黒い染みがついているのを見つけ、鋭さが増した。
「まさか…あんたが、子どもを拐ったんじゃないでしょうね」
並の妖怪ならば、体の芯から震えるかのような、恐ろしい眼光と声音だった。
パチュリーは、怯えるようなことはしなかった。
ただ、どうしようもない疲労感と倦怠感が全身を包み込んだ。
―わずかな沈黙。
パチュリーは冷めた目で霊夢を見つめた。
頭がひどく重く、これ以上の思考を拒絶していた。
しおりの怯えた瞳が、まだ胸の奥に焼き付いたままだった。
「…だったらどうするの?」
言ってから、自分でも驚いていた。
どうしてこんな、挑発するような最悪の返事をしてしまったのか。
だが、あながちそれも間違っていない、と思い直した。
―何しろ、自分が遠因でしおりが誘拐されたのだから。
霊夢は御幣を向け、どすの利いた低い声で言い放つ。
「―あんたを、討つ」
鋭い目には強い決意が込められていた。
パチュリーは自嘲気味に笑った。乾いた、感情の薄い笑い声だった。
「何がおかしい!」
霊夢が鋭く声を上げる。
かつて満月の夜の下、マミゾウに言われた警告を思い出した。
『我々は姿形が人間に似てようが、妖怪であることに変わりはない』
―あの言葉が、今になって重く胸にのしかかる。
「いえ…所詮、妖怪は妖怪。人間は人間…改めて実感したわ」
その瞳は諦観に満ちていた。
風が吹き、草花が揺れる。
どこからか、雀が降り立ち、虫をついばむ。
何も知らぬ小さな営みが、緊張した空気の中でやけに場違いに映った。
そして、空に羽ばたいた瞬間―
二人はほぼ同時に宙に飛び立った。
―そこに、スペルカード宣言はなかった。
すかさず霊夢が数枚の御札をパチュリーの移動先へ偏差撃ちする。
白い紙片が、鋭い刃のように空を切り裂いた。パチュリーはそれを見切り、軌道を変えて回避し、短く詠唱する。
「―メタルファティーグ」
複数の魔法陣が空に浮かび、金属弾が射出される。それらは途中で弾け、散弾のように霊夢に襲いかかる。
お互いに、魅せるための弾幕は一切排除していた。
それは遊戯としての決闘ではなく、明確に、相手を仕留めるための戦いだった。
霊夢は複雑な軌道でそれらを難なく避けつつ距離を詰め、封魔針でパチュリーを狙い撃つ。
―常に距離を取らなければ…。
パチュリーは詠唱を優先し、回避行動を取ること無く後ろに下がり、針は魔法障壁で弾かれるのに任せた。
見えない壁に複数本の針が阻まれつつも、明確にヒビが入るような音が聞こえた。危うさが、指先を伝う冷たさとなって残る。
「―シルバードラゴン」
詠唱を終えると同時に、背後に巨大な魔法陣が現れ、白銀の鱗を持つ巨竜が咆哮を上げつつ這い出した。
空に、咆哮が長く尾を引いて響き渡った。
◆
―寺子屋の教室。
小悪魔と慧音は、魔力同士がぶつかり合う強烈な奔流を感じ取った。
「これは…!?」
障子を勢いよく開け放ち、縁側から外を見る。
西門の向こう側の空中で、誰か二人が派手な弾幕戦を繰り広げているのが見えた。
人里の人々もざわめき、空を見上げていた。空を彩る光の乱舞が、遠くからでもはっきりと見えた。
「あれは…パチュリー様の魔法!?どうして、こんな里の近くで…」
「…まさか、霊夢と鉢合わせて?」
慧音は思考を巡らせた。眉間に、深い皺が刻まれる。博麗神社へは詰め所から早馬を送っていた。
「何らかの行き違いで、パチュリーが誘拐犯と間違われているのではないか?」
慧音のつぶやきに、小悪魔が頷いた。
「有り得ますね。パチュリー様は誇り高きお方。言い訳せずにそのまま戦いに突入したのかも…」
あの主人ならば、きっとそうするだろう、という確信にも似た不安が滲んでいた。
慧音は振り返り、生徒たちに強く言った。
「皆、ここで待ってるんだ!絶対外へは出るなよ!」
二人は縁側から地を蹴り、宙へと飛んでいった。それを見て生徒たちがどよめく。
しおりは縁側から空を見上げた。遠くで色とりどりの光が飛び交っている。
「八里先生が…戦っている…?」
しおりは少しためらった後、教室を飛び出した。足が、無意識のうちに動いていた。
「しおり!外に出るなって慧音先生が言ってたろ!」
虎太郎が注意するも、躊躇うことなく西門へと駆けていった。
◆
魔力で生み出された白銀の竜が顎を大きく開き、白いブレスを放射し、射出された御札を燃やし尽くす。
霊夢は右手に飛び退き辛うじて避けるも、巫女服の裾を焦がした。
「封魔陣!」
霊夢が両手に御札を持ち、放った。
大量の御札が意思を持つかのように飛び交い、白銀の竜を中心に幾何学模様の陣を描き、眩く光る。
竜はやがて苦しそうに身悶えし、断末魔を上げ、消滅した。
パチュリーはその間、詠唱を続けていた。額に浮かぶ汗が、頬を伝って顎から滴り落ちる。
―なぜ、私は霊夢と戦っているのだろうか。
ふと頭に浮かんだ。その問いに、明確な答えを見つけることができなかった。
喘息の調子が悪く、喉の奥が焼けるように熱い。
途切れ途切れの詠唱ではあるが、竜が十分な時間を稼いでくれた。
「―サンシャインリフレクター」
無数の金属板が周囲の空間に乱立し、覆った。
霊夢はその鏡面世界に自身の姿が延々と鏡写しのように投影され、方向感覚や位置感覚が失われる。
そして、金属板から収束された魔力による光線が霊夢に向かって次々と発射された。
「こんなものっ!」
霊夢は光線を誘導しつつ急制動でそれらを回避し、封魔針を全方位に放つ。
針は金属板を破壊するが、その内幾つかは、破壊されると同時に込められた魔力による魔弾が襲いかかった。
霊夢は強引にそれらをかいくぐりつつ、手に持った御幣を縦横無尽に振り回し、
乱立する金属板をすれ違い様に、まるで狂戦士のように次々と破壊していった。
金属板の砕ける音が、空を切り裂き続けた。
「ぜえ、ぜえ…」
パチュリーは息を切らしていた。視界が、霞み始めていた。
―私は誘拐犯じゃない、そう言えば事足りたのに。
頭の片隅で途切れ途切れの思考が浮かび上がる。
絡新婦戦からの疲労に加え、立て続けに魔法を使い続けたことで底なしの魔力も流石に枯れ果てそうだった。
何より喉の奥の不快感が無視できないほど強くなっている。
「―エメラルドメガロ…」
そこまで言ったところで、耐えきれずごほっごほっと激しく咳き込む。
口を押さえた手を見ると、血で汚れていた。その赤い染みを、他人事のようにぼんやりと見つめた。
こんな状態で、霊夢に勝てるはずがない。
それは戦い始める前から、自分が一番よく分かっていた。
視界の端が黒く滲み、狭まっていく。聞こえるのは、霊夢が次々と金属板を叩き割る耳障りな音。
やがて、音が聞こえなくなった。
霊夢がいないことに気づいた、一瞬の後―
「上…!」
見上げると頭上から陰陽玉が勢いよく迫り、甲高い音を上げて魔法障壁が砕け散る音が響いた。
辛うじて陰陽玉の直撃を避けるも、陰陽玉に隠れるように迫っていた霊夢が肉薄する。
「くっ…!」
「これで、とどめよっ!」
霊夢が御幣を両手に持ち、振りかぶる。白い袖が大きく翻った。
瞬間―
まるで時間が限界まで引き伸ばされ、世界が静止したかのような錯覚を覚えた。
手足の感覚はなく、意識の輪郭が曖昧になり、遠のいていく―
思考は飽和し、やがて色を失って霧散した。
迫り来る紅白の影を前に、パチュリーは、静かに目を伏せた。
握りしめていた魔導書を離す。それは、頁が捲れる乾いた音を立てて、地面へと落ちていった。
完全に無防備な姿で、訪れるであろう致命の一撃を受け入れようとした。
霊夢はまるで刀で斬首するかのように、パチュリーの首元に御幣を振るう。
風を切る鋭い音がした―
◆
西門には人だかりが出来ていた。
空で繰り広げられる弾幕戦を見ようと、野次馬が押しかけていたのだ。
「危険だから、下がってください!」
門衛が必死にそれを押し留めようとする。
人々の頭上を、色とりどりの光が絶え間なく舞っていた。
西門は空いていた。
恐らく、外にいる人が避難できるよう、また、締め出さないようにするための措置だろう、としおりは思った。
人の間を縫い、最前列まで抜け出す。
より近くで空を見ると、戦っている内の一人は遠目にも明らかに八里先生だと分かった。
無数の金属板が展開され、博麗の巫女がものともせず金属板を蹴散らしながら肉薄しようとしている―
それは、素人目に見ても八里先生が不利な状況で、追い詰められているように見えた。
心臓が、早鐘のように打ち始める。
―先生が、博麗の巫女に殺されるかもしれない。
「―っ!」
その悍ましい想像に、しおりは矢も盾もたまらず、門衛の隙をついて門の外へ駆け出した。
「あっ、待ちなさい!危ないぞ!」
後ろから門衛の声が聞こえたが、構わず脚を踏み出す。息が上がり、汗が前髪を張り付かせる。
小さな身体を懸命に前へ、前へと走らせた。
◆
パチュリーは伏せた目をそっと開いた。
霊夢が振りかぶった御幣は、パチュリーの細い首の皮膚から触れるか触れないかという位置で、ぴたりと静止していた。
空気の張り詰めた、刃物のような静寂がその場を支配した。
「ま、待ってください!」
小悪魔と慧音が空を必死に飛び、ようやく二人のもとに追いつく。
息を切らした声が、緊迫した空気を切り裂いた。
「霊夢さん、違うんです!パチュリー様は拐われた子どもを助けたんです!」
小悪魔の必死の表情に、霊夢の目から闘気が消え去っていく。
「霊夢、小悪魔の言うとおりだ。パチュリーが追いかけて、寺子屋の生徒を連れ戻してくれたんだ」
慧音も説得する。息を整える間もなく、必死に言葉を継いだ。
「パチュリー様も、どうしてきちんと話さないんですか…!」
小悪魔が批難するも、パチュリーの目は虚ろで、無表情だった。
いつにもまして顔色が青白い。そこには疲労の影が色濃く落ちていた。
「はー…だったら最初からそう言いなさいよ!ややこしいのよ、まったく」
霊夢が呆れたように肩をすくめた。パチュリーの首元から御幣を、ゆっくりと下ろす。
小悪魔がひたすら頭を下げる。
パチュリーは力を失ったかのように、ゆっくりと降下し地上へ軟着陸した。
自然と、一同も地上へ降り立つ。乾いた土の感触が、足の裏に伝わった。
「霊夢…どうして私を討たなかったの。こあ達が駆けつける前に、とどめを刺せたはずよ」
パチュリーの淡々とした問いに、霊夢は頭をポリ、と掻いた。
「―まあ、あんたが誘拐なんてケチなことするような奴じゃないって知ってるしね。
一発ぶん殴って、白黒はっきりさせようと思ったのよ」
そして、小さく苦笑する。
「…大体、そんな泣きそうな顔した奴が犯人なわけないでしょ」
「泣きそうな…?」
パチュリーは思わず自分の顔に手を当てた。指先が、頬をなぞる。
霊夢はため息をつき、腕を組んでぼそりと呟いた。
「…ほんと、不器用な奴」
パチュリーは一瞬ぽかんとした後、ふふと笑った。
口の中で小さく「貴方もね」と呟いたが、霊夢には聞こえなかったようだ。
「で、その犯人の妖怪は…」
「始末したわ。黒幕も含めてね」
「そう…ま、助けてくれたことには礼を言うわ。けど、堂々と人里で妖怪が闊歩してるのは…」
「分かってるわ」
パチュリーが遮る。声には、既に何かを覚悟したような静けさがあった。
―パチュリーは、妖怪からしおりを助けたときの光景がフラッシュバックした。
しおりが恐怖で震え、自身を心底怯えた目で見つめているその様を。
「…」
一瞬、目を伏せた。やがて、目を開き霊夢に向き合う。
「安心して。もう出ていくから」
小悪魔は驚いた。目を見開き、思わず一歩踏み出す。
「パチュリー様、いいんですか?しおりちゃんや、寺子屋の子どもたちが…」
「これが、あの子たちのためでもあるのよ」
「…」
パチュリーは無表情だった。小悪魔は悲しそうに目を伏せる。
小悪魔は意を決し、霊夢の元に駆け寄る。霊夢は一瞬身構えた。
「霊夢さん。一つだけお願いがあります」
小悪魔は胸に手を当て訴えた。声には、わずかな震えが混じっていた。
「大通りにある『甘味処 名華』のお婆さんにお伝え頂きたいんです。
『七詩ここあは、事情により急遽実家に帰ることになりました。
挨拶もできずごめんなさい。そして、これまでどうもありがとうございました』と―」
霊夢はじっと小悪魔の目を見つめた。少し潤んだ、真剣な赤い瞳を。
「…ええ、必ず伝えるわ」
静かに力強く頷き、微笑んだ。
「―ありがとうございます!」
小悪魔は深く頭を下げて礼を言い、パチュリーの元にふわりと飛んで戻った。
二人はゆっくりと歩み去っていく。足取りは重かった。
「先生!」
力強い声に、パチュリーは立ち止まり、振り返った。
―それはしおりだった。息を切らし、頬を上気させて駆けてくる。
パチュリーの元まで駆け寄ると、膝に手をつき、肩を上下させ、はぁ、はぁと息を上げた。
「…」
しおりはためらって顔をそらす。身体はまだ、わずかに震えていた。
恐怖の名残と、それでも駆けつけた勇気とが、小さな体の中でせめぎ合っているようだった。
ふいに、しおりの脳裏に記憶が走馬灯のように駆け抜けた。
―質問に優しく答えてくれたこと。
―参考書を「貴方なら役立てる」と貸してくれたこと。
―苦手な運動について、不器用に励ましてくれたこと。
「あ、あの…」
ためらいつつ、意を決して口を開く。
「た…助けてくれて、あ…ありが、とう…」
頭を下げる。けれど、目は合わさなかった。
パチュリーは驚いた表情を浮かべたが、やがてしおりに歩み寄り、しゃがみこんで言った。
目線を合わせ、小さな瞳をまっすぐに見つめる。
「沢山本を読んで、しっかり勉強しなさい。身につけた知識は、必ず貴方を助けてくれるわ」
どこか寂し気に、笑いかける。
そこには、これが最後の言葉になるという覚悟が込められていた。
しおりはそんなパチュリーを正視できなかった。
手をぎゅっと握りしめる。俯いた視線の先で、指先が白くなるほど力がこもっていた。
―しばしの沈黙。
風が、二人の間を静かに吹き抜けていった。
やがて、勇気を振り絞って真正面からパチュリーを見つめた。
瞳には、恐怖を押し退けた、確かな意志が宿っていた。
「―うん」
聞き取れないほど小さな声で返事し、こくりと頷いた。
後ろで慧音は、無言で深く頭を下げた。
◆
「人里を出てきたはいいけど、次はどこに行きましょうか…」
「…」
パチュリーと小悪魔は無言で歩いていた。
そよ風が、草花と、パチュリーの紫の髪を揺らした。
―静かだった。
見渡す限りの草原。優しく降り注ぐ陽光。
まるで、世界に二人しかいないかのように感じられた。
「あ…」
ふと、パチュリーの身体がぐらりと揺らぎ、倒れそうになった。
「パチュリー様!」
慌てて小悪魔が細い体を支える。
まるで紙のように軽く、儚く、今にも消えてしまいそうに感じた。
丁度、腕と胸で抱きとめるような形になった。
どくん、どくん、と胸の鼓動の音と、体温。
それらが、お互いに伝わった。
―しばらくの沈黙。
虫の鳴き声だけが、静かに二人を包んでいた。
「私は、どこだろうと」
ふいに、パチュリーが呟く。
「貴方がいれば、生きていけるわ」
そう言って、小悪魔の手を握った。
「パチュリー様…」
その、様々な感情が混ざり、揺らぐ瞳を見て、小悪魔は思わず手を握り返した。
自然と、互いに指を絡ませる。
―時間が、永遠のように感じられた。
やがて、パチュリーは縋るように、顔をゆっくりと小悪魔に寄せた。
小悪魔は一瞬だけ目を見開いた。
互いの吐息が触れそうな距離まで近づいた、その時―
小悪魔は逡巡しつつ、ほんの少しだけ身を引いた。
パチュリーは動きを止めた。小悪魔を見つめる紫の瞳が、揺らいでいた。
小悪魔は目を伏せた。そして、意志を固め、笑顔で口を開いた。
「大丈夫ですよ。私は、どこへだってついて行きます」
パチュリーは小悪魔の応えを受け、まっすぐに瞳を見つめた。
―やがて、柔らかな笑みを浮かべ、一歩退いた。
軽く衣服を整え、猫背がちな背筋を真っすぐ伸ばす。目には、主人たる威厳が戻っていた。
「―ありがとう。これからもよろしくね、こあ」
それは、信頼と、情感に満ちた声音だった。
◆
そこに、咲夜が唐突に現れた。
音もなく現れたその姿に、二人は驚いた。
「―!」
「パチュリー様、こあ。お久しぶりです」
パチュリーと小悪魔は一瞬目を見合わせ、咲夜に向き直る。
「紅魔館へお帰りください。お嬢様がお待ちです」
「…追放から丁度二週間。予想より、少し遅かったわね」
パチュリーが咲夜を睨んだ。だが、視線には普段の刺すような皮肉めいた色はなかった。
小悪魔がキョトンとした顔で首を傾げる。
「―私たち、追放されたんじゃ?それに、よく居場所がわかりましたね」
小悪魔が疑問を呈する。
「すべてはお嬢様ご自身からお話がございます。居場所については―」
「小鈴の文通の手紙に書かれてあったんでしょう?」
パチュリーが遮るように、確認に満ちた声で言った。
「…よくご存知で。まさか里の外に出られていたとは。まだ近くにいらっしゃって助かりました」
咲夜の安堵のこもった言葉に、パチュリーは腕を組んで目を逸らした。
「…人里の噂で、概ね話は聞きました。誘拐された子どもを命を張って助け、霊夢に討たれかけた、と。
―本当に、ご無事で何よりでした」
咲夜は陰りの色が差した表情を浮かべ、深く頭を下げた。
それを見たパチュリーがふん、と鼻を鳴らした。
「万全だったなら、霊夢相手だろうとあんな醜態は晒さないわ」
小さく口の中で呟いた。咲夜はその強がりを聞き、わずかに口元を緩めた。
「それでは、私は一足先にお嬢様に報告致します。では、失礼」
咲夜はそう言うと、姿を消した。時止めの能力で紅魔館へ帰ったのだろう。
小悪魔は頭の中が疑問符だらけになった。
「え、えっと、どういう…?」
「さ、いきましょう」
パチュリーはそれには答えず、少しよろけつつも魔力を振り絞って、紅魔館へ向けて飛び立った。
紫の髪がふわりと広がった。
< 終章 >
―紅魔館。
館の入口の前で、レミリアが日傘を差して待っていた。
いつもと変わらぬ余裕を装っていたが、傘の柄を握る手には、わずかな力がこもっていた。
「おかえりなさい、パチェ」
まるで、ちょっとした用事で出かけて帰ってきたかのような、普段通りの言葉。
だが、芯には深い後悔と謝罪の意が感じられた。
レミリアは暗い表情で俯きつつ、懺悔するように話す。
「咲夜から聞いたわ。とても辛い経験をした、と…。私は、貴方に―」
「大丈夫。何も言わなくていいのよ、レミィ」
言葉を遮るように言われ、レミリアは言葉を飲み込み―やがて、頷いた。
パチュリーは穏やかな笑みを浮かべた。
「ただいま」
レミリアは一瞬だけ目を丸くした。だがすぐに口元を緩める。
「…フフ」
少しだけ肩の力を抜き、くすりと笑う。
張り詰めていた何かが、ほどけたようだった。
「こあもおかえりなさい。よくパチェを支えてくれたわね」
レミリアが小悪魔に声をかける。
小悪魔はほんの一瞬、表情を曇らせた。じっとレミリアを見つめる。
口を開き、何かを言いかけたが飲み込んだ。やがて、絞り出すように言った。
「………いえ、パチュリー様と共に人里で過ごし、良い経験になりました」
小悪魔は小さく一礼した。
レミリアはしばらく小悪魔を見つめ―そして、目を伏せた。
全てを察したような、静かな仕草だった。
「…さあ、湯浴みが終わったら食事にしましょう。ご馳走の準備ができているわ」
レミリアが玄関へ入ろうとして、振り返った。
日傘の房飾りが小さく揺れた。
「―二人とも、似合ってるわよ。その服」
優しく微笑み、そう呟いた。
◆
―紅魔館、執務室。
窓がない豪奢な部屋には複数の燭台が設置され、揺れる火がわずかに室内を照らしていた。
その薄闇の中、レミリア・スカーレットは書類が山積みの執務机に向かって、ちょこんと座っていた。
応接ソファーには本を読んでいるパチュリー・ノーレッジが腰掛けている。
あの日と同じ光景。だが、そこに流れる空気は、確かに何かが違っていた。
「人里の稗田家や上白沢慧音から、図書館の一部の書籍の貸し出し、または写本の提供の相談が来ているわ。
相応の対価は支払う、寺子屋の学習に利用したい、とのことだけど…。
恩を売ることで後々の人里進出に有利に働くかもしれない。私はいいと思うけど、どうかしら」
パチュリーは本を閉じて、顔を上げた。脳裏にしおりや寺子屋の生徒達の顔が浮かんだ。
「…こちらにリスクはないし、里の有力者と公に繋がりを構築できる。受けるべきね。対価は…」
そこで言葉を切った。授業をした日々が自然と再生される。
「三十銭」
パチュリーが口にした金額は、寺子屋の日給と同じ額だった。
「たったそれだけ?」
「いいのよ、あくまで建前だから」
その声色には、かつての日々を懐かしむような、柔らかさがあった。
レミリアが頷いた。
「じゃあそう返事するわね。次。人里の西の森が、件の絡新婦が消えたことで、政治的空白地になってるわ。
その隙を突いて、妖怪の山が尖兵を送って実効支配しようと動いてるフシがあるのだけれど…。
静観するか、こちらも対抗するか、どちらがいいかしら。私としては、このまま好きにされるのは癪に障るわね」
パチュリーは一瞬、思考を巡らせる。
合理的に考えても、リターンは小さく、リスクのほうが大きい。それに―
いつかの文とのやり取りが蘇った。絡新婦を屠った森の中で交わした、あの静かな駆け引きを。
「―静観で構わない。あの土地に旨味はないし、下手に妖怪の山との関係を拗らせない方がいいわ」
「そう?…ふむ、じゃあ放置するわ。次―」
―これで貸し借りなしよ、文。
パチュリーは内心で呟いた。
ふと、パチュリーはレミリアの執務机の上に一冊の本があるのに気づく。やけにカラフルなイラストが載っている。
「レミィ、その本は?」
尋ねると、レミリアは慌てたように本を隠した。その慌てぶりに、パチュリーは訝しげに目を細めた。
「あ、えっと。これは美鈴からお勧めされた漫画本よ。こういうの、貴方は興味ないでしょう」
パチュリーは首を傾げた。
◆
―図書館。
乾いたインクと埃っぽい匂いが漂う、静寂に満ちた叡智を湛える空間。
小悪魔が紅茶のティーカップをそっとパチュリーの机に置いた。
湯気と香りが、ふわりと立ち昇る。
パチュリーは羽ペンを走らせて便箋に何かを書いていた。
「それは…お手紙ですか?」
「ええ。阿求と小鈴宛の、図書館への招待状」
それを聞いて、小悪魔がかつての日々を思い出し、笑みを浮かべた。
「パチュリー様、一つお伺いしても良いでしょうか」
「何かしら」
「―レミリア様が本気で追放したわけじゃないって、分かってらっしゃったんですか?」
しばしの沈黙。ペン先が、便箋の上で止まった。
「まあ、恐らくそうだろうとは、ね…何十年もの付き合いのある私を、あんな簡単に手放すわけ無いでしょうし」
小悪魔は首を傾げる。
「けど、その割には日々の生活がかなり真に迫ってましたよね」
「…レミィが本気だろうと、本気でなかろうと、生活しなきゃいけないんだからやること自体は変わらないわ。それに―」
「それに?」
「…あの日々も、それほど悪くはなかった…ただそれだけよ」
すまし顔でそう嘯くパチュリーを見て、小悪魔が優しくにこと笑った。
ふと、パチュリーは小悪魔が手に持っている本に目がいった。
「その本は?」
小悪魔はびくり、と身を竦ませた。手にした本を、背中に隠そうとする。
「あ、あー…これは、レ…私が借りて、読んでた本です。返却を頼ま…返却しようかと…」
しどろもどろした反応に、パチュリーが訝しがる。
小悪魔の脳裏には「散々小言を言われそうで、咲夜には頼めないの。お願い!」と頭を下げて
代わりに返却してほしいと懇願するレミリアの姿が蘇っていた。
「…ちょっと見せてくれる?」
「ぱ、パチュリー様がお気に召すような本じゃないですよ!?そ、それより今日の夕ご飯って何でしょ―」
「見せなさい」
その言葉に抗いきれず、小悪魔は恐る恐る本を手渡した。
そこにはポップなフォントの日本語でこう書かれていた。
『追放された引き篭もり魔女ですが、気ままにスローライフを送ります』
それは外の世界の本―外来本だった。
表紙には帽子を被った魔法使い然とした美少女のカラフルなイラストが描かれていた。
パチュリーの本を持つ手が震えた。指先に、みるみる力がこもっていく。
「レミィ…」
身体の奥底から絞り出すような、恐ろしい声。小悪魔は思わず手で顔を覆った。
「ふ…ふふ…」
小悪魔がちら、と指の隙間から主人を見る。
「あはははっ!」
パチュリーが声高に笑う。笑い声が、図書館の静寂に響き渡った。
小悪魔は驚いた。主人がこんな風に笑うのは、これまで一度も見たことがなかったからだ。
「はぁ、まったくレミィったら…」
目頭に浮かんだ涙を指ですくう。
「こあ、この本私が借りるわ」
「えぇ!?け、けどパチュリー様が好まれるような本では…」
小悪魔が仰天する。
「ま、たまにはこういうのもいいでしょ」
そう言って苦笑しつつ最初の一頁を捲った。
そこには、大きなフォントでこう書かれてあった。
『貴方の振る舞いはこれ以上看過できない!よって、貴方を追放する!!』
―静寂に満ちた図書館には、頁を捲る音だけが微かに響いていた。
―紅魔館、執務室。
窓がない豪奢な部屋には複数の燭台が設置され、揺れる火がわずかに室内を照らしていた。
その薄闇の中、レミリア・スカーレットは書類が山積みの執務机に向かって、ちょこんと座っていた。
応接ソファーには、本を読んでいるパチュリー・ノーレッジが腰掛けていた。
部屋には頁を捲る乾いた音と、レミリアが書類にペンを走らせる音だけが、静かに響いていた。
「―という名前の、新興の妖怪から手を組もうと申し出があったわ。手駒は多い方がいいと思うけど、どうかしら」
「別にいいんじゃない?」
パチュリーが本に視線を落としたまま返事をする。声には、微塵の抑揚もなかった。
「ふむ。じゃあ使者にはそう伝えるわ。次。妖怪の山から書簡が来ているわ。共同で市場を開こう、といった内容。
場所やマージンはこれから調整。うちには以前開いたノウハウがあるし、条件次第ではいいんじゃないかしら」
「悪くないと思うわ」
頁を捲る。やはり意識は本に向かったままだ。
「じゃあ咲夜に調整させるわね。次―」
レミリアは政治的な議題を次々と挙げてはパチュリーに尋ねていた。
パチュリーは本に視線を落としたまま、都度曖昧な生返事をする。
まるで壁に向かって話しかけているかのような、噛み合わない時間だけが過ぎていった。
レミリアは目を細めて親友をじっと見つめた。
「ねぇ、パチェ。本当にちゃんと聞いてるの?」
「えぇ」
軽く鼻を鳴らす。試すような口調で、レミリアは続けた。
「―今日の夕食の献立は、蜘蛛の丸焼きと蛆虫のスープにしようと思うんだけど…」
「美味しそうね」
―痛いほどの沈黙。
遂にレミリアが執務机を叩いて勢いよく立ち上がった。乾いた音が、静かな部屋に響き渡る。
「全然聞いてないじゃない!」
その剣幕に、さすがのパチュリーも本を降ろしてレミリアを見つめた。
「あぁ…ごめんなさい。本に集中してたわ」
悪びれもせず、あっさりとした謝罪だった。それがかえってレミリアの神経を逆撫でする。
レミリアは疲れの色が滲んだため息をついた。
「貴方…私の友人だからって、当たり前のように何もせず本ばかり読んで毎日過ごしてるけど…。
もう少し居候としての自覚を持ったらどうなの?」
「居候としての自覚…?」
聞き慣れない言葉であるかのように、首を傾げる。
「そうね―試しに、これまで貴方が紅魔館に対して貢献した事柄を挙げてみなさい」
急に言われて、パチュリーは宙に視線をやり、記憶の頁を手繰る。
「…紅魔館を幻想郷に転送させた」
「随分前の話ね。他には?」
「…貴方の我儘に応えて月へ行くロケットを作った」
「あれは助かったけど、それも昔の話ね。他には?」
「他には…」
記憶をさらに掘り返す。頭の奥底から、幾つか浮かび上がってくる。
―紅霧異変に協力して、レミリアの霧を幻想郷中に拡散させた。
―箱庭型の霊界を作ってプレゼントした。
―紅魔館の地下に海(という名のプール)を作った。
―地霊殿の異変にいち早く気付き、紫に相談し、魔理沙とともに解決にあたった。
―他にも、いくつかの異変について解決に向けて動いた。
だが、これらは胸を張って言うには小粒に思えた。そもそも異変周りは紅魔館への貢献とは言い難い。
並べてみればみるほど、説得力が失われていくのが自分でも分かった。
「…」
何も言えなかった。口を開きかけては、閉じる。それを二度、三度と繰り返す。
「どう?直近で貴方が何か働いたことって何もないでしょ」
「―私は、貴方の参謀として常日頃から助言を…」
「さっきの相談も、生返事ばかりで全く聞いてくれてなかったじゃない。まともな助言を受けた記憶がないんだけど?」
「…」
―痛いほどの沈黙が流れた。
「パチェ!」
それを破るかのように、レミリアの声が響く。そしてびしっと指をパチュリーに向かって突き出す。
「紅魔館の主として宣言するわ!もう、貴方の振る舞いはこれ以上看過できない!」
すうっと息を吸い、よく響く高い声で宣言した。
「よって、貴方を追放する!!」
まるで雷に打たれたかのような衝撃が走った。
パチュリーが、ぽかんとした表情でレミリアを見やる。
「つい…ほう…?」
「ええ。もう貴方をここには置いておけない。外へ出て、自分の力で暮らしなさい」
再び訪れる沈黙。時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「―冗談よね?」
縋るような響きが、声に混じる。だがレミリアは真剣な表情で首を横に振った。
「明日の早朝まで猶予をあげるわ。それまでに出ていく準備しなさい。
それと、これまで支給した研究費も全部置いていくこと。一銭たりとも持ち出すのは許さない」
「…」
パチュリーは、ただただ呆然としていた。積み上げてきた書架が、一瞬で崩れ落ちるような感覚だった。
やがて、思考が巡ってくる。凍りついていた頭が少しずつ動き出し、回転し始めた。
「…いいでしょう。出て行けと言うなら出ていってやるわ」
じっとレミリアを睨む。瞳の奥には、悔しさとも意地とも取れる光が灯っていた。
「けど、図書館は誰も出入りできないように封印させてもらう」
パチュリーが宣言する。それは有無を言わさぬ口調だった。
「何を言ってるの?図書館は紅魔館の財産の一部よ。勝手な真似は―」
「私とこあが居なくなれば、図書館は無防備になる。
出ていく身とはいえ、白黒のネズミに好き勝手に荒らされるのは耐えられないわ。
…心配しないで。百年後には自動的に封印は解けるようにしておくから」
レミリアは考え込む。その頃には、人間は寿命を迎えている。
「長命種の貴方にとって百年など大して長くはないでしょう。それに、元々私以外大して利用してなかったんだし」
「…わかったわ。好きにしなさい」
レミリアはまるで犬を追い払うようにしっし、と手を振り、ドアの方へ顎をしゃくった。
執務室からさっさと出ていけ、というのだろう。その仕草の乱暴さとは裏腹に、目はどこか揺れていた。
パチュリーは無言で退室した。ドアを閉める際に力が入り、バタンという音が廊下に響いた。
◆
荷物をまとめたパチュリーと小悪魔がエントランスホールで十六夜咲夜の見送りを受けていた。
大きな旅行鞄が足元に置かれている。
長年住み慣れた館の玄関が、今日はやけに広く感じられた。
「パチュリー様。まさか、こんな事態になろうとは…」
咲夜は恐縮しきりだった。表情には隠しきれない動揺が浮かんでいた。
「―私も、あまりにも急で…驚きました」
小悪魔も困惑している。抱えた荷物の重みを確かめるように、腕にぐっと力を込めた。
「…レミィは、見送りにもこないのね」
パチュリーが目を細めて呟く。
声には、失望とも意地とも取れない、乾いた響きがあった。
「パチュリー様、こあ。きっと、お嬢様のいつもの気まぐれかと思います。
気が変わるまでのしばらくの間、大変申し訳ないですが―」
「貴方が気を使うことないわよ。じゃ、元気でね」
パチュリーはそう言うと、さっさと門へと向かう。振り返ることはしなかった。
「咲夜さん…それでは、失礼します」
小悪魔も頭を下げてあわてて主人についていく。
咲夜はそれを見送り、ふぅ、とため息をついた。開け放たれた門の先に、二人の後ろ姿が小さくなっていった。
夜明けの淡い光が、その輪郭を寂しげに染めていた。
<追放一日目>
―魔法の森、アリスの家。
木々の隙間から漏れる光が、地面に細かな斑模様を描いていた。
アリス・マーガトロイドは訪問客の二人の顔を見ると、驚いた。
事情を聞き、得心したように頷く。
「なるほどね…まぁ、とりあえず今晩は泊めてもいいけど…ずっと三人も寝泊まりできるほど広い家じゃないからね」
アリスが釘を差す。そこには、既に一抹の予感めいた警戒があった。
「ふぅん…まあしょうがないわね」
「あ、ありがとうございます!」
パチュリーの素っ気ない返事を上書きするように、小悪魔が慌てて礼を言って頭を下げた。
◆
パチュリーと小悪魔は応接ソファーに腰を下ろした。
簡素だが、アリスらしい小洒落た内装だった。そこにアリスが紅茶を持ってくる。
湯気とともに、ほのかな花の香りが漂った。
「貴方の書庫を見せてもらってもいいかしら」
紅茶を口に運びつつ、パチュリーが尋ねる。
「いいけど…大した量はないわよ」
「大丈夫よ。期待してないから」
その言いようにアリスは顔をしかめた。
◆
アリスに案内され、書庫に足を踏み入れる。
そこにはこじんまりとした部屋に本棚が壁沿いに並んでいた。
紅魔館の大図書館の壮大さとは比べるべくもない、質素な書庫だった。
「どうぞ、ご自由に」
アリスが短く言い、退室する。
パチュリーは適当な一冊を手に取った。
指先で頁の紙質を確かめるように、静かに開いた。
◆
―日が落ち、夕日が森の木々を赤く染め上げる頃。
パチュリーは自室にいるアリスを訪ねた。
部屋には人形作りの道具が几帳面に並べられ、作業机の上には出来かけの人形が座らされていた。
「もう全部読み終えたんだけど。他にはないの?」
「あの量をたった数時間で!?」
アリスが人形を縫っていた手を止め、驚きの声を上げる。
そこには信じられない、といった表情が浮かんでいた。
「もうないけど…」
「はぁ…貴方、魔法使いのくせに…蔵書量少ないわね」
パチュリーの呆れるような言葉に、アリスの表情が固くなる。眉間に、微かな皺が寄った。
「だから最初に言ったでしょ、大した量はないって。うちは貴方の図書館じゃないのよ」
「ま、何冊かは読む価値のある本があったから、それは褒めてあげるわ」
その上から目線の物言いに、流石のアリスも我慢の限界を突破した。
「人の家に泊めてもらおうとしておきながら…あんた、何様なの?そんなに文句言うならもう出ていきなさい!」
冷静な普段と違い、かなりの剣幕で言い放つアリスに、無理やり家から追い出された。
不満顔で鼻を鳴らすパチュリーを尻目に、小悪魔はしきりに頭を下げてアリスに謝った。
◆
―既に日が暮れ、闇の帷が覆い始める頃。
森の梢の隙間から、星がぽつぽつと瞬き始めていた。
二人は霧雨魔法店を訪ねていた。
看板の文字が、月明かりにぼんやりと浮かび上がっている。
「へぇ…レミリアがお前を追い出すなんてな…」
霧雨魔理沙がそう言いつつ、目が一瞬キラリと光ったのをパチュリーは見逃さなかった。
「けど、悪いけど泊まらせることはできないぜ」
「なによ。散々うちから本を盗んでおいて、頼ったら断るつもり?」
パチュリーは不満顔で詰る。
「いや、そうじゃなくてだな…まあ、中を見たら分かる」
魔理沙はドアを開けて、二人に内部の様子を見せた。
「こ、これは…」
パチュリーと小悪魔は驚いた。
家の中はあらゆるガラクタが散乱し、足の踏み場もなかった。
壊れた魔法道具、読みかけの本、埃を被った瓶が、まるで発掘現場のように積み重なっている。
「この通りだ。とてもじゃないが客を泊めるようなスペースがないんでな」
魔理沙が若干気恥ずかしそうに、ぽり、と頭をかく。
「はぁ…よくこんなゴミ溜めたいなところで毎日寝られるわね。人間ってよっぽど鈍感なのかしら」
口元を抑えてパチュリーが言い放った。
その言葉に魔理沙は表情をこわばらせた。握った拳に、力が入る。
「あ?喧嘩売ってんのか?
そりゃお前は紅魔館で恵まれた生活を送ってたからそう思えるかもしれんけどな。
多くの奴らは限られた環境の中で折り合いつけて生活してんだよ」
その反論に、小悪魔は心の中に疑問が浮かんだ。
―正論だけど、それと家がゴミだらけなのは関係ないんじゃ…
だが、空気を読んで押し黙る。二人の間に走る緊張を、ただ黙って見守るしかできなかった。
「ほら、さっさと出てけよ」
魔理沙に外に押し出され、ばたんと強くドアが閉められた。
冷えた夜風が、二人の頬を撫でた。
◆
―墨汁を落としたような空には、月が淡く光っていた。
パチュリーは同じ魔法使いの誼を頼りに、命蓮寺の聖白蓮を訪ねていた。
山門をくぐると、線香の残り香がふわりと鼻先を掠めた。
物音一つなく、揺れる燭火だけが本堂を照らしていた。
「ふむ…それは構いませんが、あくまでここは禅寺。旅館じゃありません。
貴方達には明日早朝から修行を受けてもらいますよ」
聖白蓮が優しげな笑みを浮かべつつ、そう告げる。
柔らかな声音とは裏腹に、その言葉には有無を言わさぬ力強さが込められていた。
パチュリーと小悪魔は顔を見合わせる。もう夜も更けているし、他に選択肢はなかった。
「…ええ、分かったわ」
パチュリーは頷いた。
白蓮がにこりと笑う。一瞬、目が鋭く光った気がした。
<追放二日目>
―命蓮寺の一室。まだ空が白み始めた早朝。
畳張りの部屋で、パチュリーと小悪魔が坐禅を組んで目を瞑っていた。
その後ろを、警策と呼ばれる長い木の板を持った白蓮がゆっくりと歩いている。
パチュリーは既に足が痺れ、我慢の限界に達していた。
血の巡りが悪くなり、足先がじんじんと痛む感覚だけが、やけに鮮明に意識に上ってくる。
―そもそも、西洋の魔女である私がなんで仏寺で修行なんか…。
そんな雑念が脳裏をよぎる。
まるでそれを見抜いたかのように、白蓮が容赦なく警策で肩を叩く。
パン、と乾いた音が部屋に響いた。
「むきゅ…」
思わず声が漏れる。
―なんでこんな目に遭わなくてはいけないのか。
沸々と怒りが湧いてくる。
それにしても、と隣の小悪魔をちら、と見る。
相変わらず澄まし顔で座っているようだが、眉間には微かな皺が寄っていた。
「煩悩が漏れていますよ」
白蓮が小悪魔の肩を叩く。
「あいたっ」
情けない悲鳴が上がった。
さっきから、小悪魔が叩かれる回数が尋常ではなかった。
おおよそパチュリーの五倍に達していただろう。
―あの子、どれだけ煩悩を抱えてるのよ…。
「そこ、迷いがありますよ」
パチュリーがまたも白蓮に叩かれる。今度は先ほどより強めの一撃だった。
「…っ」
庭に雀が降り立ち、小さく囀る。
まだ一日は始まったばかりだった。
◆
「ささささ寒いいいいい…」
―山奥の滝。
木々の切れ間から差し込む朝日が、飛び散る水しぶきを幾筋もの光の帯に変えていた。
パチュリーと小悪魔は白装束に着替え、滝行をさせられていた。
勢いよく叩きつけられる冷たい山の水。
舞い散る飛沫に息すらままならず、あまりの寒さに歯の根が合わない。
「滝の水とともに、雑念を捨て去るのですよ~」
白蓮が仏のような笑顔で、滝の音に負けないよう大きな、だがどこかのんびりした声で叫ぶ。
「ここここんなのやってられないいいい…」
雑念を捨てるどころか、怒りやら後悔やら苦痛やらの負の雑念で胸が一杯になっていた。
「もっと精神集中してください~」
白蓮の目をよく見ると、仏の笑顔をたたえつつも目は笑っていなかった。
「死しししぬぬぬうううう…」
強烈な水圧を貧弱な身体で受け続けるのはまさに拷問だった。
ちら、と隣の小悪魔を見る。微動だにしていない。
―大したものね…。
少し感心するも、よく見ると白目をむいていた。どうやら気絶しているようだった。
このままじゃ精神集中どころか精神が崩壊する。
せめて、何か、気を紛らわせることを…そうだ、素数を心の中で呟いていこう。
2, 3, 5, 7, 11, 13, 17, 19…
「まだまだ邪念が残っていますよ~」
その声に、集中がぷつりと途切れる。それでも歯を食いしばり、続きを紡いだ。
23, 29, 31, 37, 41, 43, 47, 53, 59…
「そんなんじゃいつまでも終わりませんよ~」
まるで心の中を覗き見られているかのような的確な茶々に、苛立ちが募る。
61, 67, 71, 73, 79…
「御仏の教えを胸に身を委ね…」
「あーーーー!やってられないわよ!!」
遂にパチュリーは堪忍袋の緒が切れた。
浮遊魔法で滝から飛び出して地面に転がる。濡れた身体が土の上を滑り、小石が肌に食い込んだ。
「はぁ、はぁ…」
大きく深呼吸し、酸素を肺に供給する。
塗れた白装束が肌に張り付き、輪郭をあらわにしていた。
寒さのあまりガクガクと体が震えていた。唇は既に紫色に変わりつつある。
「あらあら…けど、貴方にしてはここまで耐えたのは上出来ですね」
白蓮が上品に口元に手を当て笑った。
◆
―命蓮寺の一室。
囲炉裏の炭が、ぱちりと小さく爆ぜる音がした。
冷え切った身体に、温もりがじんわりと染み込んでくる。
「お疲れさまでした。精進料理をどうぞ」
目の前には御膳に載った質素な和食が置かれていた。湯気を立てる汁物、煮しめた野菜、艶やかな白米。
彩りは決して派手ではないが、丁寧に調理されているのが一目で分かった。
箸に手を伸ばし、食事を口に運ぶ。
「…味がしない」
それはわがままというより、素直な感想だった。
洋食の味付けに慣れているパチュリーにとって、精進料理は味が薄すぎたのだ。
隣を見ると、小悪魔はがつがつと箸を動かしている。
滝行の疲労が、味の好みを凌駕しているようだった。
二人は黙々と食事を摂った。外では、既に日が高くなっていた。
◆
食事の後、パチュリーは白蓮に書庫へと案内してもらった。
そこには経典が山のように積まれていた。
天井近くまで届く書棚には、隙間なく巻物や綴じ本が並んでいる。
「経典の他には、命蓮寺に纏わる記録や書付け、歴史書などがあります。貴方が気に入りそうな本はないと思いますが…」
「いえ、十分よ」
白蓮の言葉に、パチュリーが頷いて答える。
紐で括られた本を一冊手に取り、視線を落とす。
滝行の疲労も、痺れた足の痛みも、この瞬間だけは頭の隅に追いやられていた。
白蓮は邪魔せぬよう、そっと退室した。
その夜は、書庫から明かりが消えることはなかった。
<追放三日目>
「出ていかれるのですか?そうですか…残念です」
パチュリーから告げられ、白蓮は小さく目を伏せた。
その表情には、社交辞令とは思えない、微かな寂しさが浮かんでいた。
―あんな修行、毎日受けてたら死んじゃうわよ…。
パチュリーはそう思ったが、口には出さなかった。
「短い間だけど、世話になったわね」
「どうもありがとうございました」
小悪魔が頭を下げた。
山門を出るとき、朝靄が薄く境内を包んでいた。
振り返ると、白蓮が静かに手を合わせているのが見えた。
◆
「次はどこへ行きましょうか。もう行く宛が…」
小悪魔が声をかける。街道を歩く二人の足取りは、決して軽くはなかった。
パチュリーは交友関係が広い方ではない。頼れそうな相手はもういなかった。
「例えば、妖怪の山や永遠亭といった別勢力を頼るというのはどうでしょうか」
小悪魔の提案に、パチュリーは少し考え込んだ。歩みを緩め、視線を宙に彷徨わせる。
「ええ、そうね。この私という極めて優秀な頭脳と、幻想郷屈指の魔法使いが手に入るんだから、
どの勢力だろうと受け入れてくれるでしょうね」
「…」
その極めて高い自己評価について、小悪魔は敢えて何も触れなかった。
「けどね。そうなった場合、『外から見た』ら、どう映るかしら」
「―というと?」
小悪魔が首を傾げる。
「命蓮寺は、まだ『妖怪の駆け込み寺』という側面があるから政治色は薄かった。けど、他はそうはいかない。
『紅魔館の内紛の挙句、出奔し他勢力に下った』としか見えない。
…そして、そういった認識が広まってしまったら最後。それは真実となるのよ。本人の意図に関係なく、ね」
淡々と、まるで講義するように見解を述べる。
そこでようやく小悪魔は得心がいった。
―レミリア様によって追い出されてしまったが、その最後の一線は越えられない。
パチュリー様は、そう思っているんだ、と。
「…人里に行きましょう」
「え、人里ですか?」
小悪魔は驚いた。おおよそ、最も似合わない、望まない場所だと思っていたからだ。
「ええ。最低限の生活インフラが整っていて、政治的にも中立。潜伏するには向いてるでしょう」
少なくとも、野原や山奥で野宿するよりは百倍ましだ、とパチュリーは思った。
◆
パチュリーは茂みの中で、木にもたれて本を読んでいた。
がさり、と草を踏む音がして視線を移すと、そこには小悪魔が頬を上気させ、息を弾ませていた。
「お待たせしました。呉服屋で買ってきた服です」
そう言って、大きな袋を差し出す。
「…ここまでする必要あるのかしら」
パチュリーが袋の中を覗き見つつ、疑問を呈する。
「勿論ですよ。私達の洋装は人里では目立ちますし、何よりパチュリー様は幻想郷縁起に挿絵付きで載ってますからね」
―幻想郷縁起。
稗田阿求が著した、幻想郷の妖怪を記した書物。
確かに、あの挿絵は中々特徴を捉えて上手く描けていた。
あれを読んだ者であれば、ひと目見てパチュリーが魔女だと気づくだろう。
「さ、着替えましょう。私が着付けをお手伝いしますよ」
パチュリーは一つため息をついて、詠唱した。
周囲の空間が陽炎のように歪み、やがてパチュリー達の姿が見えなくなる。錯視の魔法だった。
小悪魔はパチュリーを手慣れた手つきで着付けていった。
「―どうかしら?」
鏡がなく自分の姿が見られないため、小悪魔に尋ねる。
小悪魔はなぜか鼻を押さえ、頭を上に向けながらも何度も頷いた。
「~~っ…!最高です、パチュリー様!和装スタイルもお似合いですよ!」
「…」
何となく不安だったので、ぼそりと魔法を詠唱する。虚空に文様が走り、一枚の金属板が現れ、姿を映す。
明治時代の女学生が着るような、薄紫色の袴姿だった。
頭のナイトキャップはなく、三日月のアクセサリのみ髪飾りとして着用している。髪は後ろで紐で束ねていた。
「ふむ…まあ悪くないわね」
一人頷いた。口元には、わずかながら満足げな笑みが浮かんでいた。
小悪魔も自分で手早く着替える。こちらも同じ様な袴姿だが、黒と赤を基調とした色合いだった。
パチュリーが軽く詠唱すると、小悪魔の頭と背中の羽がじわりと消えていった。
「さ、では人里へ参りましょう。諸々の準備は終えていますので」
そう言って歩き出す小悪魔の背中を、パチュリーはしばし見つめた。
その後ろ姿は、普段と違って頼もしく感じられた。
◆
「パチュリー様、こちらです」
「なにこれ。ウサギ小屋?」
―人里。
陽光が、傾いた瓦屋根の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。
そこは日稼ぎ労働者御用達のボロ長屋だった。
板壁は所々剥がれ落ち、軒先には蜘蛛の巣が幾重にも張り巡らされている。
「ウサ…いえ、一応これでも人間の住居です。今の持ち合わせだと、ここが精一杯でした」
「…嘘でしょ。こんなの人が生活できる家じゃないわよ。なんかすえた匂いもするし」
そう言いながら、口元を抑えて中に入る。
極めて狭い四畳半だった。
畳は所々擦り切れ、天井の梁は煤で黒く染まっていた。
「パチュリー様…これでも賃貸契約を結ぶのにだいぶ苦労したんですよ。
紅魔館と闇取引している商人に仲介金を払って、身請け人になってもらったんです」
小悪魔が少し口を尖らせて言った。
「闇取引の商人…」
そういえば以前、紅魔館が仕入れた外来品の卸先である商人が、
用心棒と共にレミリアに表敬訪問しているのを見かけたことがあった。
確か、越後屋だか何だかとかいう、如何にも悪徳そうな名前だった気がする。
「私たちの追放が周知されて無くて助かりましたよ。身請け人なしじゃ、住居なんて絶対借りられないですから。
というわけで、申し訳ありませんがしばらくご辛抱ください。それと、こちらをどうぞ」
小悪魔は紙切れを差し出した。
「これは?」
「偽造した住民台帳の写しです。身分証明みたいなものですね。
人里で、自治の範囲で帳簿管理してるんですよ。何しろ、これがないと職探しもできないので…」
パチュリーは意外に思った。
幻想郷には国や政府、自治体といった概念がない。よって、戸籍のような制度もないものと思っていた。
だが、互助による身分証明の仕組み自体は存在していたのだ。
人間に扮する妖怪が紛れないよう、身分を明確にする側面もあるのかもしれない、と考えた。
「パチュリー様は『八里知子』、私は『七詩ここあ』です。以後、外ではこの名を名乗ってください」
じっと紙切れを見つめた。
「こんなの、どうやって手に入れたの?」
「フフ…蛇の道は蛇、ですよ。一つ言えるのは、紅魔館のネームバリューは人里にも行き渡っている、ということです」
小悪魔が妖しげな笑みを浮かべる。
パチュリーはぽかんとしていた。妖怪が人里で生きていくのに、ここまで色んな根回しが必要だったとは―
「生活用水は、外の共同井戸から汲んでください。トイレは長屋の共同厠を使います。
お風呂は備え付けがないので、銭湯を利用します。お金に余裕がないのでよくて二、三日に一回ってところですね。
生ゴミはある程度溜まったら農家の人に引き取ってもらうので、この桶に入れといてください」
小悪魔は次々と注意事項を口にする。まるで生徒を指導する先生のようだった。
パチュリーはただただ聞いているだけしか出来なかった。
これまで、水を汲むことも、湯を沸かすことも、誰かが当たり前のように整えてくれていたのだと、今になって思い知らされる。
「それと、くれぐれも目立たぬよう、出入りをあまり人に見られないようにしてください。
仮に訪問客が来ても出ずにガン無視でお願いします。何しろ、この長屋周辺はあまり治安が良くないので…。
若い女性二人が住んでいる、と知られたら、いらぬトラブルの元ですから」
小悪魔が淡々と述べる。
「では、私は仕事に行ってきます」
「仕事?」
「ええ。この長屋の頭金と呉服代、仲介金と偽造手数料、加えて最低限の日用品で私のへそくりはなくなりましたから…。
収入がなければ、生活していけませんので」
小悪魔は財布を手に持ち、口を下にして揺すってみせた。硬貨一枚も落ちてこなかった。
「大通りの茶店で求人があったので、今日からそこで働くことになりました。では、遅れそうなので失礼しますね」
そう言うと小悪魔は慌てて駆けていった。引き戸を閉める音が、狭い部屋に乾いた音を立てて響いた。
一人残されたパチュリーは呆然として立ちすくんでいた。
◆
狭い長屋に居ると気が滅入るだけなので、パチュリーは人里を散策することにした。
日中の商店街は、通行人と店先で足を止める客達で賑やかだった。
心なしか、通行人にちらちらと見られている気配がする。
―ま、私の容姿なら当然ね。
自惚れではなくごく自然に、そう思った。
暫く歩くと、大きな屋敷が見えてきた。
立派な門構え。表札には稗田、とあった。
庭木の手入れも行き届き、この界隈では明らかに一線を画す佇まいだった。
「そうだわ、ここなら…!」
◆
―稗田邸。
案内された畳の部屋で待っていると、稗田阿求が部屋に姿を現した。
着物をきっちりと着付け、立ち居振る舞いも良家の令嬢、といった雰囲気だった。
が、目の下にはくっきりと隈が出来ていた。心なしか、疲れが表情に現れている。
「貴方と直接お会いするのは、幻想郷縁起の取材以来ですね。
それにしても、私の小説の登場人物の名前を名乗るなんて…中々大胆ですね」
稗田阿求の言葉に、パチュリーは首を傾げた。
『八里知子』という名前は、小悪魔が決めたものだ。まさか、小説から拝借していたとは。
自身の当て字のような名前に、小説の中でどういう描写がされているのか、一瞬興味が湧いた。
「―で、紅魔館の魔女が何の御用でしょうか」
阿求が訝しげに問いかける。その視線には、来訪者への警戒と、わずかな好奇心が同居していた。
「貴方の屋敷には沢山の蔵書があると聞いたわ。それを拝見したくてね」
「うちの蔵書を…?」
阿求が首を傾げる。
「確かに、歴史書関連の書籍はありますが…紅魔館の大図書館を持つ貴方が、わざわざ?」
「うちにはない幻想郷にまつわる歴史書も多くあるはずだから、一度読んでみたくてね」
「本来は一般公開などしてないのですが…まあ、貴方なら信用できそうですし、特別に許可しましょう」
◆
書庫に案内されると、書棚に整然と整理された書籍が並んでいた。
乾いた紙と墨の匂いが、部屋いっぱいに満ちている。
「へぇ…中々じゃない」
パチュリーが目を輝かせると、早速一冊手に取った。
「東アジアの正史から野史、歴史以外にも薬学、地理などジャンル問わず概ね揃っています」
それを聞いてパチュリーは思考を巡らし、試すように呟いた。
「…春秋左氏伝」
「ありますよ」
「吾妻鏡」
「それもあります」
「風土記」
「もちろんあります」
「山海経」
「ばっちりです」
パチュリーのやるじゃない、といった風の眼差しを受け、阿求はにこっと笑い親指を上向きに立てた。
―それは、まさに知識人同士の無言の絆が結ばれた瞬間だった。
ぱらり、ぱらりと頁を捲る。
「貴方は西洋の妖怪ですが、漢文の方は…?」
「私は五行魔法の使い手。当然、読めるわよ」
既にパチュリーの視線は本に落とされている。常人ではありえない早さで読み進めていた。
「―では、私はこれで失礼します。用が済みましたらお声掛けください。ああ、そうだ。もしよければ…」
阿求が一瞬そこで言葉を区切る。
「お返しと言っては何ですが、今度貴方の図書館を見せていただければ助かります」
「ええ…貴方なら別に―」
構わないわよ、と言いかけて、喉元まで出かかった言葉が止まった。
レミリアに紅魔館から追い出された身だ。口約束は出来なかった。
「…レミィに聞いてみるわ」
これなら嘘にはならない。
阿求は一瞬首を傾げた。レミリアに許可が必要なのか?と疑問に思ったのだ。
「お願いしますね。では―」
阿求は退室した。障子が静かに閉まる音が、書庫の静寂な空間に微かに響いた。
◆
筆を走らせていた阿求は、ふと外を見た。すっかり暗くなっていた。
庭木の影が、月明かりに長く伸びている。
「―そういえば、あの魔女は…?」
書庫に行くと、そこではパチュリーがまだ本を読んでいた。
百冊を超える本が机に雑然と積まれている。
行灯の灯りに照らされたその姿は、まるで書物の海に沈んでいるかのようだった。
―これを全部読んだというの…?
阿求は内心驚いた。
「ノーレッジさん」
声をかける。パチュリーがはっと視線を上げた。
「あぁ。何かしら」
「もうすっかり日が落ちていますが…」
暗に早く帰れ、と促す言葉だった。
「あら、もうそんな時間なのね。じゃあ続きは明日にするわ」
阿求がぽかんとした表情になった。
「明日…?」
「世話になったわね。それじゃあ失礼するわ」
パチュリーは出した本を片付けることもせず、そのまま書庫から退室した。
阿求は机の上に無造作に放置された本を、じっと見つめていた。
◆
―ボロ長屋の一室。
畳の上には、粗末な御膳が据えられていた。。
「―これは?」
「雑穀米に、小松菜のおみそ汁。それにイワナの塩焼きにお新香です」
小悪魔の顔にはわずかな疲労の色が見られたが、それを隠すように微笑んでいた。
「茶店のお婆さんに、無理を言ってお給料を日払いにしてもらったんです。
…パチュリー様のお口には合わないかもしれませんが…」
「いえ、そうじゃなくて。私たち、食事をしなくても生きていけるでしょう」
魔女は魔力を消費して生きるためのエネルギーとし、使い魔も契約者から魔力を得ていた。
「ええ、確かにそうです。けど…どんなあばら家であっても、私たち二人だけになっても。
いつもの、食卓を囲んだ団らんは…必要かなって思ったんです」
その声には、わずかな照れと、それ以上に確かな想いが込められていた。
ふとパチュリーの脳裏に、紅魔館での豪華な料理を囲んだ食卓が浮かんだ。
レミリアは食事が不要であるパチュリーと小悪魔にも、必ず食事を用意して招いてくれた。
レミリアとフランドールだけでなく、咲夜、美鈴も席につく。
そこには、主君も従者もない。朗らかな団らんがあった。
「ふ…そうね。ありがとう、こあ」
湯気の立つ味噌汁を、そっと口に運んだ。粗末な椀の中に、確かな温もりがあった。
◆
食事を終え、小悪魔は手慣れた手つきで後片付けをしていた。
「ふと思ったんですが…。
パチュリー様の知識やスキル、魔法を駆使すれば、幾らでもお金を稼ぐことは可能ではないでしょうか?」
小悪魔は素朴な疑問を口にした。
「確かに、その気になれば簡単に億万長者になれるでしょうね。けど…」
そこで言葉を区切る。
「一つ。私はね、そんな日銭を稼ぐという俗な目的のために魔法を探求しているんじゃないわ。
二つ。経済バランスの観点からも、人里という文化水準から逸脱した技術を用いること自体、忌避されるべきものよ。
鷹は飢えても穂を摘まず…というでしょ」
「…さすがパチュリー様。そんな高尚なお考えがあったとは…申し訳ありません、私が浅はかでした」
小悪魔が頭を下げつつ、目を輝かせて尊敬の眼差しを向ける。パチュリーはそれを受け、コホンと咳払いをした。
「最後に。…目立つことすると、博麗の巫女に潜伏してるのがバレるでしょ」
「あぁ…」
小悪魔は苦笑を浮かべつつ、得心したように頷いた。
◆
狭い四畳半の空間に、隙間がないほどきっちりと薄っぺらい布団が二組、並んで敷かれていた。
行灯の灯りが、二組の布団をぼんやりと照らしている。
「…」
パチュリーが黙ってそれを見つめていた。
「あ、あの…パチュリー様。これは決して、他意があるわけではなくて。
この狭さですから、どうしても隣同士になってしまうのであって」
小悪魔が若干慌てつつも、頬を淡く染めて言い訳をする。
「何を慌ててるのよ。別に私は何も言ってないじゃない」
パチュリーは全く意に介さないようだ。その素っ気なさが、かえって小悪魔の狼狽を助長した。
「あ、そうですよね。あはは…」
小悪魔が乾いた笑いを浮かべる。
―しばしの沈黙。行灯の芯が、ぱちりと小さな音を立てた。
「じゃ、じゃあ…そろそろ寝ますか」
小悪魔がちらちらとパチュリーを見ながら、布団に潜り込む。
「私はちょっと外で本でも読んでくるわ。魔女だから寝る必要もないし」
「えっ」
そう言うと分厚い本を手に、がらがらと引き戸を開けてさっさと出ていった。
夜の冷えた空気が、一瞬だけ部屋の中に流れ込んだ。
一人残された小悪魔は、布団の中に頭をうずめた。
◆
パチュリーは夜の通りを歩いていた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。軒先の提灯が、点々と道を照らしていた。
やがて、川岸の縁台に腰を下ろす。水の流れる音が、涼やかに耳に届いた。
空を見上げると、満月が淡く地面を照らしていた。
ふと、紅魔館を思い浮かべる。
書架に囲まれたあの薄暗い書斎の匂いが、蘇った気がした。
「…」
軽く首を振って、その想像を頭の中から追い払った。
「―おやおや、これは」
その声に顔を上げる。
「溢れ出る膨大な魔力、おぬし…紅魔館の魔女か?」
緑色の着物を着た、丸眼鏡を掛けた癖っ毛のある髪の女がにやりと笑った。
その佇まいには、只者ではない気配が感じられた。
「―!!」
パチュリーは飛び上がるように立ち上がり、口の中で詠唱する。
「待て待て、こんな人里で魔法なぞ使うな。それに、わしは敵ではない」
女は慌てたように両手を軽く上げ、敵意がないと示す。
「貴方、何者?」
パチュリーはそれでもなお警戒を解かず、尋ねる。
「わしは二ッ岩マミゾウ。以後お見知りおきを」
そう言って頭を下げる。
「マミゾウ…!あの大妖怪の…」
その名を耳にした瞬間、パチュリーの背筋に緊張が走った。
「おや、知っておったか。光栄じゃの」
愉快そうに笑う。
「―ところで。なぜ普段滅多に外に出ないお主が、人間のふりをして夜の人里に居るんじゃ?」
余裕ぶった口調だが、底には冷たい警戒心が含まれていた。
「お転婆吸血鬼が、何か善からぬことを企んでおる…といったことはないよな?」
目を細める。鋭い視線が、丸眼鏡越しにパチュリーに刺さる。
「ふん…レミィは何の関係もない。少なくとも、貴方の想像しているような理由じゃないから安心しなさい」
ぶっきらぼうに答える。声には、若干の苦みが込められていた。
マミゾウは少し考えて、呟いた。
「ふむ…ま、深くは探らんでおこう。お主は人里で無茶をするような阿呆ではないことは確かじゃからの」
カラカラと笑う。緊張した空気が、少しだけ緩んだ。
「貴方こそ人里で、しかもこんな夜に何してるのよ」
お返しとばかりに詰ると、マミゾウは肩をすくめた。
「別に大したことではない。今から呑みにでも行こうと思ってな。
…そうじゃ、せっかくじゃしお主も一緒に来るか?鯢呑亭といってな、美味い料理と酒を出す、良い店じゃよ」
パチュリーは一瞬ぽかん、としたが、ふっと笑った。誘いの唐突さに、毒気を抜かれたような気分だった。
「―遠慮しておくわ。そういう気分じゃないし、使い魔を置いて私一人酒を楽しむ気にもなれない」
「そうか、残念じゃのう…ま、気が向いたらいつでも来てくれ」
そう言って、マミゾウは繁華街へ続く通りへと去っていく。後ろ姿が数歩進んだところで、不意に足を止めた。
「そうじゃ。普段滅多に外に出ないお主に、一つ忠告じゃ」
振り返る。月明かりが、丸眼鏡に反射していた。
「我々は姿形が人間に似てようが、妖怪であることに変わりはない。―それをゆめゆめ忘れぬようにな」
「…は?そんな事、言われなくても分かってるわよ」
反射的に言い返す。だが、その言葉の重みが、思いのほか胸に残った。
「そうか、それならいいんじゃ」
そして、今度は振り返らずに去っていった。
パチュリーはわずかに首を傾げた。そして月を見上げる。
それは、人里を淡く照らしていた。
<追放四日目>
「阿求様から、お通しするなと申し付けられております。お引き取りください」
―稗田邸の門前。
朝の澄んだ空気の中、門衛からにべもない言葉を受け、パチュリーは一瞬言葉を失った。
昨日とは明らかに違う、硬く閉ざされた態度だった。
「…どうして?昨日は普通に通してもらえたのに」
「さあ…詳しいことは存じ上げません。ですが、当主の言いつけですので…」
門衛の言葉は柔らかいが、一歩も退かぬという意思を感じさせた。
―単に本を読んでいただけなのに。何が気に触ったのだろうか?
まさか、無理やり押し通るわけにもいかない。仕方なく門前を後にした。
さて、どうするか。
パチュリーは宛もなく人里を彷徨った。朝の商店街では、既に人々の営みが始まっていた。
他に本が読めるような場所があっただろうか。
―そういえば。
レミリアは本居小鈴という人間の少女と文通をしていた。
何でも、貸本屋の娘で、どんな文字でも読めるという特殊な能力を持っているとのことだった。
「パチェ、貴方と相性がいいんじゃない?」
とレミリアがからかい混じりに言っていたのを思い出したのだ。
丁度いい。本を読みに行こう。それに―
パチュリーはにやりと笑った。
◆
「いらっしゃいませ~。ごゆっくり見ていってくださいね」
―鈴奈庵。
明るい赤みがかった髪の少女が笑顔で声をかける。
木造りの本棚が整然と並び、朝の光が格子窓から柔らかく差し込んでいた。
紙とインクの匂いが、店内にほのかに漂っている。
「私はパチュリー・ノーレッジ。レミィから貴方のことは聞いているわ」
それを聞くと、小鈴はぱぁっと顔が明るくなった。
「貴方が、大図書館の魔女ですね…!一度お会いしてみたいと思っていたんです」
「私と…?」
言いながら、書棚から一冊の本を手に取った。
「はい!私、本が大好きで…妖魔本や妖怪といった類のものにも興味があるんです。
沢山の本を読まれているパチュリーさんと、話してみたくて」
「へぇ…」
視線は本に落とし、さっと読んでは頁を捲る。
―その後。
「図書館の蔵書数ってどのくらいあるんですか?」
「いつから魔法の研究をされてるんですか?」
「西洋にはどんな妖怪がいるんですか?」
小鈴は様々な質問をパチュリーに投げかけ、短く返事を返す、という応酬がしばらく続いた。
小鈴の瞳には、憧れにも似た輝きが宿っていた。
「レミリアさんから聞いているかもしれませんが、私にはどんな文字も読めるという力があります。
もしかしたら、パチュリーさんの研究のお役に立てるかもしれませんよ」
パチュリーはそこで本から視線を上げ、小鈴をまっすぐ見つめた。
少し考え込む。先程までと違い、瞳には真剣な光があった。
「…いや、遠慮しとくわ。ただの人間が魔導書を読むなんて危険すぎるし、万一何かあったら霊夢に…」
調伏されてしまう、という言葉は飲み込んだ。
「けど、安全だと分かっている本だけなら大丈夫じゃないですか?」
小鈴は食い下がる。きっと、図書館に来訪したいという思惑もあるのだろう。
その粘り強さに、パチュリーはわずかな苦笑を浮かべ、本をパタンと閉じた。
「そうね。確かに、貴方の能力で読解すれば飛躍的に研究は進むでしょうね」
「だったら…!」
期待に満ちた声が上がる。だが、パチュリーの表情は変わらなかった。
「…私は、魔法に限らず学究とは、結果だけでなく過程も重要だと考えているわ。
貴方は、この国で初めて翻訳された西洋科学書が何か、知ってるかしら?」
小鈴は首を傾げる。突然の問いかけに、戸惑いの色が浮かんだ。
「えっと…確か、解体新書だったかな。オランダ語で書かれた人体の解剖学書ですよね」
「正解よ。杉田玄白らが中心となって、何の情報も無い中翻訳に取り組み、四年も掛けて自力で完成させた。
その結果、オランダ語の理解が深まり、蘭学者のサロンが生まれ、後の近代科学への発展の礎となった」
小鈴がハッとしたように目を見張る。
「…私はね。知識というものは、探求する過程に意味があると思っている。
読解し、考察し、検証し、理解することで、初めて『知識を身に付ける』と言える。
―『Knowledge』を名乗る以上、私は真理へ至る道を、自分の足で辿りたいのよ」
わずかな沈黙が、二人の間に落ちた。
埃の粒が、格子窓から差し込む光の中でゆっくりと舞っていた。
やがて、小鈴は深く納得したように頷き、微笑んだ。
「―ご立派なお考えだと思います。やっぱり、貴方は私が思った通りの人ですね」
輝く瞳は深い尊敬の色に満ちていた。
◆
―それから数時間後。
パチュリーは延々と本を読んでいた。いや―よく見ると、足が宙に浮いている。
長時間立ち続けるのは疲れるので、気づかれない程度に魔法で身体を浮かせているのだった。
「ん、んんっ」
小鈴が傍まで来て、わざとらしく喉を鳴らす。
だがパチュリーは知らん顔だ。視線は本から逸れなかった。
小鈴ははたきで本棚を叩き始めた。ふわ、と埃が宙に舞う。
「…ちょっと。私は喘息なのよ」
抗議の声を無視して、はたきでぽんぽんとパチュリーの立つ本棚を集中的に叩く。
小鈴の目には、先程の尊敬の色はどこへやら、
今では虫けらを見るような―迷惑な客に対する蔑み一色になっていた。
パチュリーは仕方なく端っこへ避難して本を再び読み始める。
小鈴はそんなパチュリーをじっと睨みつけ、遂に口を開いた。
「えっと、パチュリーさん。うちは貸本屋なんですよ」
「ええ、そうね。だからこうして『借りずに立ち読み』してるんだけど」
小鈴の額に青筋が浮かぶ。こめかみのあたりが、痙攣していた。
「そんなに読みたいなら、お金を払って貸し出して読んでください」
「悪いけど手持ちがないのよ」
小鈴はぽかんとした顔になった。表情に、困惑の色が広がっていく。
「…紅魔館って、すごく豪華で羽振りもいいって聞いてましたけど。
それにパチュリーさんって、レミリアさんの親友ですよね。沢山お小遣い貰ってるんじゃないですか?」
パチュリーはしばし沈黙する。
「以前は研究費として毎月百円貰ってたんだけど。今はちょっと、ね」
「ひゃくえん…!?」
そのあまりに巨大な額に小鈴は仰天した。それは鈴奈庵の数ヶ月分の売上と同等だった。
そして、パチュリーの置かれた状況を何となく察した。
そもそも、自前の図書館でなく人里の小さな書店で読み続ける、という行為自体がおかしいのだ。
「―お金がないなら、出ていってください!」
小鈴の剣幕に流石のパチュリーもいたたまれなくなり、半ば追い出されるように鈴奈庵を後にした。
◆
―紅魔館の執務室。
レミリアが机に向かって書類を捌いている。
ペン先が紙を滑る音だけが、静かな部屋に規則正しく響く。その脇では咲夜が控えていた。
「―聞いたわよ、パチュリーを追い出したんだってね?」
その声とともに姿を現したのは、フランドールだった。
「あんなにお姉様のお気に入りだったのに…ま、無理もないけどね」
面白がるように言いつつ、肩をすくめた。
「フラン、どういう意味よ」
レミリアが若干むっとして尋ねる。ペンを持つ手が止まった。
「そりゃあ…何の役にも立たないくせに態度だけは大きかったからね。むしろよく今まで我慢してたわね」
フランドールは『何の役にも立たない』という箇所をことさら強調して言い放ち、からかうように笑う。
姉の反応を試すような悪戯心が透けて見えた。
「…フラン」
レミリアが目を細めて立ち上がった。椅子が軋む音が、いつもより硬く聞こえた。
「その辺にしておきなさい。人をそう悪く言うもんじゃないわ」
フランドールは軽い足取りでレミリアの執務机に近づく。
そしてレミリアの後ろに回り込み、吐息が触れるほどの距離で、耳元で囁いた。
「へぇ~、パチュリーを擁護するんだ?」
「…」
「お姉様自身が追い出したというのに?おかしいわねぇ」
「…」
フランドールが妖しい笑みを浮かべる。
「あれだけ大好きだったのに、さぞ追放するときは辛かった―」
「―っ…ええ、そうよ。何十年も連れ添った友人なのよ。当然じゃない!」
遂にレミリアは根負けしたかのように叫んだ。そして、はぁと息をついた。
声には、隠しきれない本音が滲み出ていた。
「けどね、これもパチェを思ってのこと…そのためには心を鬼にするわ」
フランドールは、してやったりの顔で笑った。目的を達成した猫のような満足げな表情だった。
「あははッ!やっぱりお姉様は素直な方が似合ってるわよ。…ま、程々にしてあげてね。
あのもやし、下手したらその辺で行き倒れになるかもしれないから」
フランドールはクスクスと笑いながら去っていった。
後ろに控えていた咲夜が声を掛ける。
「お嬢様…やはり、あの追放劇は…」
「咲夜」
レミリアはじっと咲夜を見つめた。
「私が本気でパチェを追い出すわけないでしょ?」
「…では」
「私は、パチェに少し自覚してほしかったのよ。
自分の環境がまるで当たり前のように振る舞っているけど…それが特別であり、恵まれたものである、とね」
ふっと笑う。燭台で揺れる炎が、横顔を柔らかく照らしていた。
「何日か外で過ごしたら、自然と理解できるようになるでしょう」
「お嬢様…」
咲夜がほっとした笑顔を見せる。張り詰めていた肩の力が、抜けたようだった。
「それに…」
レミリアはちら、と執務机の上に置かれている、やたらとカラフルで見慣れない表紙の本に視線をやった。
「いや、何でも無いわ」
咲夜は首を傾げた。主が何を思い浮かべたのか、計りかねているようだった。
「ですが、パチュリー様がいないと何かと困るのではないですか?
やはり幻想郷屈指の知識人ですし、相談事でご助言をいただけないとなると…」
「いや、今のところ特に困ってないけれど…」
レミリアの率直な答えに、咲夜はなんと返せばよいか分からず、沈黙した。
レミリア自身も、言った後にはっとして手を口に当てた。
―少し気まずい空気が流れた。
「ま、まあ…パチェならどこでもやっていけるわよ。こあもついてるし」
「そ、そうですね」
二人は空気を変えるかのように努めて明るく振る舞った。
だがその笑い声は、どこかぎこちなかった。
◆
「まったく…どこかのネズミと違って持ち出すわけでもないのに。
阿求といい小鈴といい、人間は随分狭量ね」
鈴奈庵から追い出されたパチュリーはそう嘯きつつ、ボロ長屋へと向かっていた。
その帰り道。
大通りの茶店で健気に働く小悪魔の姿を見つけた。
慌てて隠れ、物陰からこっそり観察する。
小悪魔は割烹着を付け、客相手に愛想を振る舞い、笑顔で働いていた。
慌ただしく盆を運び、頭を下げ、また笑う。その一連の動きには、既に馴染みつつある手際の良さがあった。
「こあちゃん、働き者だねぇ」
店主らしき老婆が、感心したように声をかける。しわがれた声には、素朴な温かみがあった。
その呼び名を聞いてパチュリーは驚いた。小悪魔も動揺したようだ。
「お、お婆さん。私の名前は『七詩ここあ』ですよ」
小悪魔が少し困ったように訂正する。慌てて周囲を見回す仕草に、パチュリーは思わず息を潜めた。
「ご主人様に少しでも楽をしていただきたくて…」
その言葉が、物陰にいるパチュリーの耳に、やけにはっきりと届いた。
「へえぇ、その歳で偉いねぇ」
小悪魔の少し気恥ずかしそうな様子に、老婆が皺くちゃの顔で笑いかける。
二人の間に流れる、何気ない温もりのある空気。
その光景を目の当たりにし、パチュリーはなにかが胸にチクリと刺さった気がした。
小悪魔に気づかれないように元来た道を引き返し、路地に入り、立ちすくむ。
冷えた壁に背をもたれ、しばらく動くことができなかった。
心の中で、申し訳ないと思った。
せめて夕食を用意しようと思ったが、そもそも手元にお金もないので、食材を買うことも出来ない。
「私は…昨日、今日と一体何をしていたのかしら」
阿求と小鈴の元でただ単に本を読んでいるだけだった。
その間、小悪魔が必死に働き、なけなしのお金で食事を用意してくれた。
自分は、それを当たり前のように食べているだけだった。
「…」
やがて、一つの決意を胸に秘めた。
夕闇が、路地の奥にゆっくりと降りてきていた。
<追放五日目>
「…いらっしゃいませ」
―人里の繁華街にある牛鍋屋。
割り下の香ばしい匂いが、暖簾の外まで漂っていた。
そこに、三角巾を頭につけ、可愛らしいフリルのついた割烹着を着たパチュリーの姿があった。
慣れない衣装のせいか、どこかぎこちなさが感じられた。
無表情かつ仏頂面で、客に応対している。
「―店長、あの子、どうですか?」
遅番の店員が恰幅の良い年配の男性に話しかける。
「ああ、八里知子さんね。うん…」
少し考える。
「まあ、中々独特だね。接客はお世辞にも良いとは言えない。笑顔はないし、声も小さい。
それに動きも遅い。ただ、あの通り器量は抜群だ。微笑まなくても、華がある。極めつけは…」
そこで言葉を区切った。
「とんでもなく記憶力がいいんだ。どんな仕事でも、一度教えると絶対に忘れることがない。
それに、客の多数の注文を次々と受けても、メモも取らずに全て覚えている。面白い子だよ」
「へぇ…」
店員は改めてパチュリーを見やる。視線の先で、パチュリーは黙々と鍋を運んでいた。
「はぁ、はぁ…」
仕事を始めて既に数時間が経とうとしていた。
パチュリーはへとへとに疲れていた。決して重労働ではないのだが、常に立ちっぱなしであっちへこっちへと忙しい。
鍋を運ぶ際も非力ゆえ手が震える。額に自然と汗が浮かんだ。
―いや、こあだって働いてるのよ。あの子だけに押し付けるわけにはいかない。
そう心の中で決意を固め、棒のようになった脚を動かす。一歩一歩が、鉛のように重かった。
様々な客が思い思いに牛鍋をつついている。
家族連れ、一人客、老夫婦など。湯気の立つ座敷には、雑多な笑い声と話し声が絶えず満ちていた。
自然と、会話内容もパチュリーの耳に入ってくる。
「大通りの茶店に可愛らしい店員さんが…」
「今年の稲は実りが良い…」
「ちゃんと寺子屋の宿題はやったの?…」
そんな中、引っかかる話題があった。声のトーンが、他の会話よりも低く沈んでいた。
「行方不明者が出たらしい。妖怪の仕業かもしれない…」
―人里の人間に手を出す妖怪などいるのだろうか、と疑問が浮かぶ。
頭の片隅に、その言葉が引っかかりとして残った。
がらりと引き戸が開く。
「いらっしゃいませ」
パチュリーはにこりとも笑わずに声を掛ける。
客はガラの悪そうな男二人組だった。着流しをだらしなく着込み、一人は口に煙管を加えている。
パチュリーは、少し首を傾げた。どこかで見た顔だと思ったからだ。
そして、思い出す。そうだ、あの二人は―
二人は座敷の席にドカリと座り込んだ。
「ご注文は」
パチュリーが必要最低限の文言で尋ねると、男は「牛鍋二人前だ!早く持ってこい!」と大声を上げた。
他の客はじろりと非難めいた視線を送るが、二人に睨まれるとすぐに視線を外した。店内に、一瞬の緊張が走る。
「はい、ただいま」
そう返事すると奥へ行き、注文を厨房に告げる。その時、座敷から小さな悲鳴が聞こえた。
店員の若い女性が、男に腕を掴まれていた。恐怖に強張った表情が、パチュリーの視界の端に飛び込んでくる。
「なかなか可愛いじゃないか。隣りに座って酌をしてくれよ」
「お客様。こ、困ります…」
パチュリーはそれを冷たい目で睨みつけた。そのまま歩み寄る。足取りに迷いはなかった。
「お客様。当店はそういったサービスは行っておりません」
二人が睨みつける。粘つくような視線が、全身に纏わりついた。
「あ?客は神様だろ?客に口答え…」
そこで言葉が途切れる。
「いや、あんたの方が別嬪だな。おい、こっちこいよ」
「こんな上玉がいるなんてな」
下卑た笑いを上げる。パチュリーは、呆れとも侮蔑とも取れるため息をついた。
「…お客様。当店では、お客様自身にも最低限の品性と礼節を求めております」
すうっと息を吸う。
「―貴方達はそれを満たしていない。さっさと出ていきなさい」
先程までと違った、よく通る声だった。店内の喧騒が、一瞬にして静まり返った。
それは抑揚のない、淡々とした言い方だったが、強烈な威圧感を伴っていた。
魔女としての威厳、矜持が、表れていた。
一瞬気圧された男達は、それを振り払うかのように声を上げた。
「なんだぁ?客に向かってその言い草は!?」
パチュリーの腕を乱暴に掴む。骨が軋むような、痛みを伴う力だった。
パチュリーは口の中でぼそり、と詠唱を紡ごうとし―思いとどまった。
「あっ…」
無理やり男に引き寄せられ、身体を密着させられる。
酒と煙草のすえた臭いが、鼻先を掠める。
―嫌悪感がぞわりと背筋を走る。同時に、怒りがじわじわと広がった。
「お、お客様!」
店長がすっ飛んできた。
「店員の教育の不行き届きから、不快な思いをさせてしまい申し訳ありません!
その者にはきつく言い聞かせますから、どうか…!」
深く頭を下げる。額には、冷や汗が滲んでいた。
「ごめんで済んだら博麗の巫女はいらねぇんだよ!」
男が勢いづく。周囲の客たちは、固唾を飲んで成り行きを見守っていた。
―その時。パチュリーは男の耳元に口を近づけ、ぼそりと呟いた。
「貴方、越後商店の旦那の用心棒でしょ?」
男は硬直した。掴んでいた腕の力が、自然と緩んだ。
「―何で知ってんだ?」
「あそこの旦那…紅魔館の妖怪と外来品を闇取引してるわよね?」
今度は明確に男達に衝撃が走った。互いに顔を見合わせ、表情から余裕が消えていく。
「別にそれ自体は違法でもなんでもないわ。けど、そんな噂が人里中を駆け巡ったら…どうなるかしらね?」
妖しく笑みを浮かべる。そこには、静かな凄みがあった。
男はパチュリーを突き飛ばした。
「くそ、帰るぞ!」
乱暴に引き戸を開けて帰っていった。荒々しい足音が、遠ざかっていく。
「あ、ありがとう!八里さん!」
男に迫られていた女性店員がパチュリーの手を握り、感謝の意を表す。
その手の温もりに、パチュリーは少し戸惑った。
「君、一体どうやって…あの男達を…」
店長が訝しげに尋ねる。
パチュリーは目をじっと見た。やがて、わずかに俯き、首を横に振った。
思考が頭の中を巡る。
―迂闊だった。無礼な客を追い払うのに、普通では知り得ない知識を使ってしまった。
そして、一つの結論を出した。
「すみません、私にはこの仕事は合わないようです。辞めさせて頂きます」
呆気にとられる店長達を尻目に、パチュリーは三角巾と割烹着を脱ぎ、丁寧に畳んで座敷に置き、店を出た。
◆
「ま、待ってくれ!」
店長が追いかけて走ってくる。
―何だろう。まさか、さっきの件を問いただされるのだろうか。
だとしたら面倒になる。足を止め、身構えるように振り返った。
はぁ、はぁと膝に手をついて息切れしている。
相当太ってるので、少し走るだけで辛そうだ。額には玉のような汗が浮かんでいた。
「…何かしら」
「君を庇えなくて、さっきはすまなかった。それと、これを受け取ってくれ。今日の分の給金だ」
巾着袋が差し出される。
パチュリーは少し目を丸くした。予期せぬ言葉に、身構えていた肩の力が抜けた。
「―いいの?」
「いいも何も、働いたら報酬を払うのは当たり前だよ。
それに、あの男達を追い払ってくれたしね。少し色を付けさせてもらった」
汗を拭きながら、気持ちいい笑顔で応える。
「―ありが…とう」
両手で巾着袋を受け取る。思いのほかしっかりとした重みが、掌に伝わった。
「なにか事情があるのかもしれないが―私は、君を応援しているよ。それじゃ」
そう言うと、店長は人の良さそうな笑顔を残して店に戻っていった。
「…」
巾着袋を見つめる。
得も言えぬ感情がじわりと広がった。
口を開けて、中身を見る。十銭銅貨が五枚入っていた。
―五十銭。
かつてレミリアから毎月支給されていた百円。
それに比べると、あまりにも小さな額だった。数字だけを見れば、笑ってしまうほどの差だった。
―だが、それでも。
パチュリーはぎゅっと握りしめた。
今は、この巾着袋がどんな大金よりも重く感じられた。
◆
―長屋の一室。
夕暮れの光が、橙色に染まって差し込んでいた。
「こ、これは…?」
パチュリーが差し出した菓子折りを見て、小悪魔が目を丸くする。
「…おみやげのカステラ。その…牛鍋屋で働いたお給金で、買ったのよ。貴方には苦労をかけてるし、感謝の気持ち」
パチュリーが照れくさそうに目をそらしながら言った。
「―え?」
小悪魔は言葉の意味が頭に浸透するのに時間がかかった。
「パチュリー様、働かれたのですか?そ、その初任給で、私のために…??」
パチュリーが無言で頷く。頬には、赤みが残っていた。
―沈黙がその場に落ちた。やがて、小悪魔の身体が堪えきれないように小刻みに震えた。
「ぱ、パチュリーさまぁあぁあ~~!!」
小悪魔は急に叫び、号泣し始めた。堰を切ったように、涙が次から次へと溢れ出す。
「うわ~~ん、嬉しいですぅぅ~~!!」
思わずパチュリーに抱きつく。あまりに激しい反応に、パチュリーは若干引いていた。
「ちょ、こあ…大げさよ」
「だってだって…こんなのって…うわあああ~~ん!!」
言葉にならない嗚咽が、部屋いっぱいに響いた。
パチュリーはどうすればいいか分からなかったが、とりあえず小悪魔の背中をぽんぽん、と軽くさすってやった。
その手つきは、ぎこちなくもどこか優しかった。
―しばらく経ってようやく落ち着いた頃。
ひび割れた二つの皿の上に、二等分に切ったカステラが乗っている。
「さあ、いただきましょう」
パチュリーが優しく微笑む。
「うぅ…このカステラ、コーティングして一生大事にしますぅ」
「いや、食べなさいよ」
まだ潤んだ目の小悪魔にパチュリーが即座に突っ込む。
二人で甘いカステラを味わいつつ、パチュリーが口を開く。
「…ねえ、こあ。これからは、私も働いて生活費の足しにする。それと、お料理は交代制にしましょう」
その申し出に、カステラを口に運びかけた小悪魔の手が止まった。
「ぱ、パチュリーさまぁあぁあ~~!!」
感激のあまりまたも号泣する。
「ありがとうございますぅ~~!パチュリー様の手料理、コーティングして永久ほぞ―」
「いや、だから食べなさいよ」
最後まで言う前にパチュリーが突っ込んだ。
―隙間風が吹く狭いあばら家が、この日は暖かく感じた。
夕暮れの光が、二人の皿の上でゆっくりと色を変えていった。
<追放六日目>
パチュリーは人里の商店通りを歩いていた。朝の光が石畳に長く伸びる影を作っている。
一つ一つの店を覗き込んでは、求人がないかを探す。だが、そう都合よく見つかるものではなかった。
大して広くもない人里だ。ほどなく、商店通りの端まで到達する。
―どうするか。
職業斡旋所みたいな施設でもあればいいのだが、この幻想郷に在るはずもない。
空を仰ぎ、小さくため息をついた。
その時、親子連れが目の前を仲睦まじく歩いていった。
母親に手を引かれた子供が、何やら得意げに話している。
それを見たパチュリーは、頭の中で閃いた。
「そうか、あそこなら…」
◆
「まさか紅魔館の魔女が、寺子屋の教職を求めるとは、な…」
―寺子屋の一室。
障子越しの光が、質素な文机を照らしていた。
上白沢慧音が顎に手を当て、考え込んでいる。その表情には、驚きと戸惑いが半分ずつ浮かんでいた。
パチュリーは寺子屋を訪れ、正体を明かした上で職を求めている旨を伝えたのだ。
「ええ。生活するためにどうしても働きたいのよ。教師ならば私の知識を自然と活かすことも出来るわ」
パチュリーは真剣な目で慧音を見つめた。そこには、確かな熱意が宿っていた。
「質問させてほしい。貴方は紅魔館で何不自由無く暮らしていると聞いている。なぜ職を探す必要がある?」
慧音の目には若干の疑いの色があった。
長年、歴史を記録する者として培われた、事実を見極めようとする視線だった。
パチュリーは経緯を説明した。
追放の理由も、これまでの数日間の出来事も、包み隠さずにすべてを打ち明けた。
「ふむ…だから正体を偽って人里で暮らしているのか…。にわかに信じがたいが…かといって嘘をつく理由もない」
「他に頼るところもないのよ。お願い出来ないかしら」
慧音は、このプライドの高そうな魔女が頭を下げる様子を見て、信じても良いかもしれない、と思い始めた。
「―まあ、理知的な貴方ならば妙なトラブルも起こさないだろうし、いいでしょう」
それは知識人同士、という信頼もあったのかもしれない。
慧音の言葉に、パチュリーはほっと息をつき、改めて頭を下げた。
「…ありがとう」
「霊夢にも黙っておこう。ただ、くれぐれも気をつけてくれ。何かの拍子で正体がバレるとも限らない」
パチュリーは素直に頷いた。
◆
「まずはどういった科目を、どの程度の内容を扱っているか教えてほしいのだけれど」
「教師は二人。私と阿求だ。主に私は歴史、阿求は国語を担当している。他にも、臨時講師として何人か在籍している」
文机の上に広げられた資料を指先で示しながら、慧音はざっと内容を説明した。
「なるほどね。では私は何の教科を教えればいいかしら」
「何だって構わない。子どもたちの学びに繋がるのなら、な。あぁ、『魔法』の教科は勘弁してくれよ」
そう言って、一人笑う。パチュリーは一瞬キョトンとしてから、ふふ、と笑みを浮かべた。
「…そうね。じゃあ理科にするわ。魔法といえど、原理は科学法則の上で成り立っている…私に合っていると思うわ」
「そうか、じゃあよろしく頼む。―そうだ、だったらこの本を貴方に譲ろう。子ども達に教える際の参考にしてくれ」
慧音は机の引き出しから一冊の本を取り出した。題字には「やさしい理科入門」とあった。
表紙は既に幾度となく開かれた形跡があり、端が少し擦り切れていた。
「ありがとう」
パチュリーは本をばらばらと何度もめくり、目を左右に小刻みに動かして速読していく。
五、六回ほどそれを繰り返し、一人頷いた。その速さに慧音は目を丸くしたが、何も言わなかった。
「初回の授業は私も立ち会おう。なに、口出しはしないから安心してくれ。様子を見たいだけだから」
◆
―寺子屋の教室は子ども達の話し声でがやがやと騒がしかった。
畳が擦れる音、笑い声、紙をめくる音が入り混じっている。
そこに、慧音とパチュリーが教壇に立った。
見慣れぬパチュリーを見て、子ども達はしん…と静まり返る。
無数の視線が、一斉に新しい教師へと注がれた。そんな教室を見回して、慧音が口を開いた。
「皆、聞いてくれ。今日から新しい先生が加わった。―では、どうぞ」
パチュリーは黒板に丁寧な字で名前を書き込む。チョークの擦れる音が、静かな教室に響いた。
こほん、と咳払いする。
「…八里知子。よろしく」
あまりにも簡素な自己紹介に、慧音を含めその場の皆が一瞬呆気にとられた。
教室に、微かなざわめきが広がる。
「あ、あー。八里先生は理科の教科を教えてくれる。しっかり先生の言う事を聞くんだぞ。
―では、よろしくお願いします」
慧音は頭を下げて教室の端に移動する。
「じゃあまずは出席を取るわ。赤井しおり」
最前列の大人しそうなおさげの少女がはい、と返事をする。
「石川虎太郎」
先程の少女の隣りに座る、短髪でいかにもわんぱくそうな少年がはーい、と元気に返事をする。
―やがて、出席を取り終わる。
「―さて」
パチュリーの一挙手一投足に生徒達が注目する。
「今日は初回だから、まずはこの世の中を構成する、物体の性質について教えるわ」
そう言うと、黒板に『固体』『液体』『気体』とふりがな付きで記入した。
「あらゆる物質は、この三つのいずれかの状態で存在し、変化するわ。これらを『物質の三態』と呼ぶ」
黒板に『物質の三態』と書き、丸印で囲む。
「固体は決まった形と体積を持つ。液体は決まった体積を持つが、形は流動的。気体は一定の形も体積も持たない…」
説明しながら、黒板の三つの単語に説明文を追記していく。生徒たちは真剣な表情で耳を傾けていた。
「―例えば、水。水は氷、水、水蒸気と、温度や圧力によって状態変化し―」
パチュリーは延々と解説しつつ、黒板に神経質そうな文字を音を立てて書き込んでいく。
それを子ども達はじっと見つめ、あるいは板書していた。
「―物質や条件によっては、固体から気体、逆に気体から固体へ変化する事象も存在する。これを昇華と呼び…」
黒板の『固体』と『気体』の文字を矢印で結び、その上に『昇華』と書き加える。
「より詳しく説明すると、多くの固体では、粒子が規則正しく並び振動運動を行うのだけれど、液体は粒子同士が互いに移動でき…」
やがて、生徒たちの手が止まり始める。鉛筆を握ったまま、動かなくなる子が一人、また一人と増えていった。
「これらの状態変化は、分子間に働く引力と、熱運動のエネルギーの釣り合いによって決定されるわ。
温度の上昇に伴って分子の平均運動エネルギーが増加し、分子間ポテンシャルを上回ることで、液体や気体への相転移が誘発され…」
皆、ぽかんとした表情で、半ば口を開けて聞いていた。
◆
授業が始まってしばらく経った頃。黒板は文字の羅列でぎっちりと埋められていた。
余白という余白が、数式と専門用語で塗り潰されている。
「…したがって、気液平衡はクラウジウス・クラペイロンの式によって近似することができ…」
パチュリーは黒板のわずかな空きスペースにややこしそうな数式を書き込み始めた。
「―コホン。パ…八里先生。ちょっと、よろしいかな?」
慧音が顔を引きつらせて咳払いしつつ、歩み寄って声を掛ける。
パチュリーは手を止め、訝しげな視線を向けた。
「何よ。口は出さないんじゃなかったの?」
慧音は無言で、生徒たちの方を見るよう、顔と目の動きで促した。
そこには、机に突っ伏して寝ている者、呆けたような顔をしている者、鉛筆を転がして遊んでいる者、教科書に落書きしている者など、
ともかく殆どの生徒が授業をまともに聞いていなかった。
―だが、よく見ると一人だけ、最前列の席に熱心に黒板を見て板書する少女がいた。
「授業内容が難し過ぎて、理解出来ず退屈してるんだ。最後の方は、もはや大学レベルの講義になっている。
もっと平易かつ解りやすくしてくれ…」
慧音がぼそりと小声で耳打ちする。
「私がこの子達くらいの歳には、相対性理論と量子論を理解していたけれど。
それに、これでも最大限に解りやすく解説しているつもりよ」
そこには自慢の色はなかった。純粋な疑問と困惑があった。
「貴方ではなく、生徒たちの物差しで考えてやってくれないか」
慧音の言葉が、静かに胸の奥へと浸透する。
「先生ー、もう休み時間に入ってます」
生徒の一人が挙手して告げる。
「あ、あぁ。理科の授業はここまでだ。お疲れさま。皆、休憩していいぞ」
慧音が努めて明るく言うと、生徒たちは黄色い声を上げて一斉に外へ出ていった。
慧音は深いため息をついた。
「…次はもう少し、生徒目線の授業を心掛けてみてくれ。頼んだぞ」
退室する慧音の後ろ姿を見ながら、パチュリーは言われたことを反芻していた。
「…あの、先生」
呼びかけられて振り向く。先程板書をしていた少女だった。
頬を紅潮させ、緊張した面持ちで立っている。
「貴方は―赤井しおりね」
少女は驚いた。
「初日なのに、もう顔と名前を覚えたんですか?」
「教師なら当然でしょう。それより、何かしら」
「さっきの授業内容について、質問してもいいでしょうか?」
若干緊張気味に問いかける。指先が、教科書の端をきゅっと握りしめていた。
「ええ、いいわよ」
「どうして『昇華』は固体から気体へ一足飛びに変化するんでしょうか」
パチュリーはほう、と感心した。
―こんな風に興味を持って疑問をぶつけてくるなんて…この子は見込みがありそうね。
「物質がどの状態で存在できるかは、温度だけでなく気圧にも左右されるの。
圧力が十分低い条件では液体の状態が安定せず、固体から直接気体へ変化することがある。それが昇華よ」
「気圧…?」
「気圧というのはね…」
パチュリーはその少女の疑問に、次々と答えていった。
先程までの難解な講義とは違い、咀嚼しつつ、平易な表現を心がける。
「なるほど…よく分かりました。どうもありがとうございます」
ふと、しおりはパチュリーが手に持っている本に目をやった。
「その本…」
パチュリーがそれに気づき、本の表紙をしおりに見せる。
慧音から譲ってもらった「やさしい理科入門」だった。
「ああ、これは理科の入門書よ」
しおりがじっと本を見つめているのを見て、パチュリーはふっと笑った。
「―これ、貴方に貸すわ」
「えっ?いいんですか?」
「ええ。ざっと読んで内容は把握したしね。貴方ならきっと役立てるはず」
そう言って本を差し出す。しおりは両手で受け取ってぱあっと明るい笑顔になる。
先程までの緊張が嘘のように晴れやかだった。
「先生、ありがとうございます!肌身離さず持って大切にします!」
しおりは顔を明るくして笑い、礼をして去っていった。
パチュリーはその「先生」という言葉が、不思議と胸の奥に残るのを感じていた。
◆
パチュリーは人里の通りを歩きながら、もっと「学んでもらえる」ための授業をするにはどうすればいいか、
という課題について思考を巡らせていた。
視線は宙を彷徨い、幾つもの案が浮かんでは消えていく。
「…まてよ」
ふと思い出した。そういえば今日は自分が食事当番だった。足を止め、記憶を辿る。
昨夜の約束を、すっかり頭の隅に追いやっていたことに気づく。
食料品を扱う商店が並んだ通りへと足を運ぶ。
店先には威勢のいい掛け声が飛び交っていた。
野菜や果物、魚に肉。様々な食料品が並び、店員達が元気に声をかけてくる。
紅魔館では、食材の調達は全て咲夜や他の者の仕事だった。
だが、頭の中には新鮮な野菜の見分け方、それぞれの食材の旬といった知識は蓄えられている。
ざっと商店を見て回り、すべての店の一つ一つの食材の品質と状態、値段を記憶し、相場を掴む。
「大根は通りの端の八百屋、川魚は突き当たりの魚屋、雑穀米は十字路角の米問屋…」
そして最適解を導き出し、最もコストパフォーマンスの良い食材を、それぞれの店を回って購入していった。
「フ…私にかかればこんなものね」
両手に提げた包みの重みに、わずかな満足感を覚えながら、パチュリーは長屋への道を歩いた。
まさに完璧といえた。
―そう、買い物に関しては。
◆
―長屋の一室。
食卓の粗末な御膳には、ベッチャベチャの雑穀米、黒焦げになった焼き魚、形が不揃いな大根の味噌汁が置かれていた。
「…」
「…」
沈黙が、場を満たす。なんとも言えない、気まずい空気が漂う。
行灯の灯りが、珍妙な御膳を無情にも照らし出していた。
やがて、意を決したように小悪魔が手を合わせた。
「―いただきます」
最もまともそうな味噌汁に口をつける。その瞬間、ぶふぉっ、と思わず吹き出しそうになり、寸前で止める。
「―いいのよ。正直に言ってくれて」
パチュリーの言葉に、小悪魔は脳裏で「パチュリー様が作ってくれた食事なら何でも美味しいですよ!」といったようなお世辞が浮かんだ。
だが―少し考え、味噌汁の椀をそっと御膳に戻す。
無言で雑穀米、焼き魚と箸をつけ、黙々と咀嚼する。そして、箸を置いた。
「…雑穀米は水が多すぎです。しかも、恐らく炊きあがった後に混ぜてない。混ぜ込むことで空気を含んでふっくらとします」
次に焼き魚に視線を向ける。真っ黒に炭化したそれは、もはや原形を留めていなかった。
「魚は見ての通り、火を通しすぎです。これは、魔法を使って強火で焼きましたよね?
中火でじっくり焼くことでふっくらとした仕上がりになります」
最後に、味噌汁の椀を手に持つ。
「お味噌汁は出汁が入っていません。単にお湯に味噌を溶かしただけになっています。
これでは味噌の味が立ってしまい、美味しくありません。川魚の煮干しや干し椎茸で出汁をとらないと」
パチュリーは意外だった。まさかここまではっきりと言われるとは思っていなかったからだ。
使い魔からの痛烈なダメ出しを受けても、怒りが湧くようなことはなかった。
ただ申し訳ない、と思った。
膨大な知識を蓄えたはずの頭が、こんな基本的なことすら実践できなかったという事実が、胸に重くのしかかった。
自然と目を伏せ、俯いた。
「でも、パチュリー様のお気持ちは痛いほど伝わりました」
そう言って、小悪魔がパチュリーの手を取る。
「そのお気持ちが、私にとっては何よりも嬉しいのです。明日は、一緒に作りましょう。一からお教えしますから」
パチュリーは顔を上げた。小悪魔が優しく微笑む。
「―ええ。よろしくお願いするわ」
パチュリーは、ようやく柔らかく微笑んだ。
「でも、せっかくですし、せめてお味噌汁は今からでも出汁をとりましょうか。私の買った煮干しが少し残ってるので」
小悪魔はそう言うと、鍋にパチュリーの椀の味噌汁を戻し、煮干しを加えて魔法で火にかけた。
「沸騰させるとお味噌の風味がとんじゃいますが、少量の味噌を溶くことである程度は復活出来るんです」
やがて味噌汁が沸騰して湯気が立つ。
小悪魔は魔法の火を弱火にし、味噌を少しだけ箸で取り、溶かし入れた。
―沸騰し、気化し、水蒸気となる。
今日の授業そのものだった。
その時、パチュリーに電流が走った。目を見開き、湯気の行方をじっと見つめる。
「そうだ、実際に見せてやればいいのよ」
<追放七日目>
―寺子屋の教室。
パチュリーは出席を取った後、教室を見回した。
生徒たちはジト目でパチュリーを見つめている。
恐らく、前回の授業が複雑怪奇でつまらなかったことで警戒心を抱かれているのだろう。
教室の端には慧音が立っていた。
初回のみの立ち会いとのことだったが、昨日の有様を見て不安だったのだろう、
心配だから付き添う、との申し出だった。
「…まずは先生から一言。前回は貴方たちに沿わない、先生の独りよがりの授業だった。ごめんなさい」
そう言って頭を下げた。教室がざわつく。慧音も驚いた様子だった。
「―そこで、再挑戦させてほしいの。今日こそ皆に『物質の三態』について分かりやすく教えるわ」
そこでパチュリーがにやりと笑い、手をパンと叩いた。乾いた音が、教室の空気を切り替えた。
「さあ、今から理科の実験よ。厨房に移動しましょう」
◆
―厨房の机にはいくつかの調理器具が用意されていた。
「皆、見える位置に適当に立って頂戴。
さて、前回は『固体』『液体』『気体』の性質と状態変化について話したわね。
今日はそれを実際にお見せしましょう」
そう言うとパチュリーは金属製の容器を取り出し、蓋を開けた。辺りに冷気が漂う。
ブロック状の小さい氷が大量に入っていた。それを見て生徒たちから声が上がる。
幻想郷では冷蔵技術が発達しておらず、氷は貴重品であった。
せいぜい、縁日で氷精が売るかき氷くらいしか見られる機会はなかった。
子ども達の目が、氷の欠片に釘付けになっている。
パチュリーは氷を半分ほど鍋に入れて火にかけた。氷が溶けて水になり、沸騰すると水蒸気となる。
それらを見せながら、『固体』『液体』『気体』を説明していく。
生徒たちは、今度こそ食い入るように鍋の中の変化を見つめていた。
「…と、まあこれが水を使った説明になるわ」
鍋の火を消し、パチュリーが壁にかかっている時計をチラと見る。午後三時だった。
「けど、これだけじゃあまり面白くないわね。そこで…いい時間だし、実験を兼ねておやつを作りましょう」
おやつ、という言葉を聞いて子ども達が嬉しそうに騒ぎ出す。
「まずは『融解』の実例ね」
パチュリーはそう言うと茶色い固形物を取り出した。
「これはチョコレート。カカオ豆を使ったお菓子よ」
子ども達からわあ、と声が上がる。
それを見た慧音は仰天した。慌てて歩み寄り、こそこそ耳打ちする。
「チョコレートなんて、一体どうやって…!?幻想郷ではこんなモノ、手に入らないだろう」
「これは越後商店の外来品の闇市で手に入れたのよ。随分高かったわ、一円もしたから」
「い、いち…!?随分、剛毅だな…」
慧音の驚きように、パチュリーは一瞬首を傾げた。
「まあ、『牛鍋屋で世話になった誼』でツケにしてもらってるけれど」
慧音は意味がわからず、頭の中に疑問符が浮かんだ。
パチュリーは、先ほど氷を溶かして沸かしたお湯の入った鍋に大きな白い丼ぶりを入れ、そこにチョコレートを細かく砕き入れた。
どろり、と溶け始める。甘い香りが、鼻先をくすぐった。
「チョコレートの融点は極めて低く、三十二度前後。
人間の体温は約三十六度だから、手で持っただけで溶けてしまうわ。これが『融解』よ」
教室中に甘い香りが漂う。子ども達は思わず鼻をひくつかせていた。
パチュリーは金属の匙で溶けたチョコレートを掬い、そのまま垂らした。
チョコレートはどろりと糸を引くように、落ちていく。生徒たちの目は釘付けになっていた。
「逆に言えば、冷やしてしまえば簡単に固まるのよ」
パチュリーは金属の匙でチョコレートを再び掬い、余った氷が溶けて氷水で満たされた容器に匙の下側を浸ける。
すると、見る見る内に固まっていく。匙を氷水から上げ、ひっくり返す。
固まったチョコレートは匙にくっついたままだった。生徒たちからおぉ、といった声が漏れる。
「これが『凝固』。この二つの変化は、物質を構成する『分子』という、
とても小さな粒の結びつきが強くなったり弱くなったりすることで起こるのよ」
生徒たちがへぇ~、と声を上げる。
パチュリーは匙を湯煎のチョコレートに戻し、今度は網を乗せた七輪二つを用意する。
「次はお餅を焼きましょう」
そう言って袋を机の受けに置いた。中には長方形の切り餅が入っていた。
「慧音先生、手伝ってもらえるかしら」
これについては予め段取りしていた。慧音は頷くと、餅を七輪の網の上に置き、はけで中央部に少しだけ醤油を塗る。
香ばしい匂いが、じわじわと立ち上り、やがて、綺麗に真ん中がぷっくりと膨らみ始める。
「皆、お正月に焼き餅を食べたことがあると思うけれど。熱すると膨らむわよね。…さて、これはどうしてかしら?」
パチュリーが生徒たちを見回す。子ども達は思い思いに考え込む。
「えっと…熱を入れると、固体は液体になるから…溶けて液体みたいに柔らかくなって、膨らんだ?」
男の子が答えた。自信なさげに、それでも精一杯考えた答えだった。
「残念、違うわ。ヒントは…さっき水を沸騰させたわよね。それが関係しているわ」
うーん、と皆考えている様子だった。
やがて、一人の女の子が声を上げた。それは前回唯一授業を聞いて、質問してきた赤井しおりだった。
「もしかして、お餅の中の水分が蒸発して水蒸気になって、膨らませた…?」
パチュリーは指をパチンと鳴らした。
「お見事、正解よ。もう少し掘り下げると、お餅には約半分の水分が含まれているわ。
そして、液体が気体に変化する際には体積が莫大に膨れ上がる。だからお餅も膨らむのよ」
しおりは嬉しそうに顔をほころばせた。周囲の子ども達も、感心したような視線を彼女に向けていた。
やがて、餅が大きく膨らむ。
「さあ、そろそろ食べ頃ね」
お餅を紙の皿に取り分け、金属の匙で溶けたチョコレートを餅に掛けて、生徒たちに配る。
「全員に行き渡ったわね?じゃあ頂きましょう」
生徒たちは大きな声で「いただきます」と唱和し、美味しそうに餅を頬張った。
喜色に満ちた声があちこちから上がる。厨房は賑やかさに満ちていた。
◆
授業を終え、パチュリーと慧音は後片付けをしていた。
使い終えた鍋や匙を、二人で手分けして洗っていく。
「お見事でした、八里先生。子ども達も喜んでいたよ」
「フ…まあ、私の手にかかればこんなものね」
称賛する慧音に、パチュリーは得意そうに胸を張った。
「さ、ではこれをお願いするわ」
二枚の紙切れを差し出す。慧音はそれを受け取ると、怪訝な目で見つめた。
そこには細々とした明細と共に、それぞれ、十銭、一円と記載されている。
「…これは?」
「領収書よ。生徒全員分のお餅にチョコレートのお代。氷は魔法で作ったから無料よ、感謝しなさい。
あまり生活に余裕がないから、できれば今払ってほしいわね」
慧音はぽかんと口を開けていた。手にした紙切れを、まじまじと見つめる。
「…あー、いや、これは…寺子屋は参考書類は経費で落ちるが…実験にまつわる消耗品は…」
「何よ、はっきり言いなさい」
「…個人負担だ」
目を見合わせる二人。しばしの沈黙が流れた。
「…は?」
「そりゃそうだろう。あんな授業を毎日やってみろ。寺子屋の経営が立ち行かなくなる…。
まあ、お給金は日払いで渡しているし、悪いがそこから補填してくれ」
「…寺子屋の日給って、幾らだったかしら」
「三十銭だが…」
頭の中で、瞬時に計算が弾かれる。四日働いてようやく一円と二十銭。
パチュリーは、目の前が真っ暗になった。
<追放八日目>
―寺子屋の教室。
午後の光が、埃の舞う教室に差し込んでいた。
「さあ、今日はここまで。各自、宿題を来週月曜までにやってくること」
パチュリーのその声を合図に、生徒達はがやがやと外へ出ていった。
瞬く間に教室は空になった。
黒板を消しつつ、頭の中で先程の授業を振り返る。
今日は水溶液の性質についての講義だった。
水を用意し、実際に塩を溶かし込み、溶解度を目で見て教える。
また、火にかけて沸騰させ、塩の結晶を取り出す。
「外には『海』という巨大な塩水の水域があるわ。船を一ヶ月漕いでも端まで辿り着けないほど広いのよ」
そんな小話も挟んで、生徒達の興味を授業へ向けさせる。
先日はチョコレートとお餅という、いわば奥の手を使った。
が、慧音の言ったように毎日そんなやり方が出来るはずがない。
現実的かつ低コストな方法で、生徒達の興味を引く授業を考える必要がある。
―今日の授業は、上手くいったんじゃないかしら。
自分なりの手応えを感じ、自然と笑みがこぼれる。黒板消しを手に持ったまま、しばし満足げに佇んでいた。
器具を片付け、帰ろうとすると慧音に声をかけられた。
「八里先生。この後体育の授業があるんだが、よければ手伝ってくれないか?」
一瞬、パチュリーは硬直した。
「…は?この私が体育なんて出来るわけ無いでしょ」
無愛想に、にべもなく断る。
パチュリーの貧弱さは、自他ともに認めるところだった。
何しろ、普段は図書館に籠って体を動かさずに本ばかり読んでいる。
運動は喘息によくないことも一因だが、根本的に体力は皆無と言ってよかった。
「そうか、残念だな。もちろん、日当も三十銭上乗せするつもりだったんだが」
「え?」
パチュリーの目がきらりと光った。
真剣そのものの表情で、頭の中でシミュレーションを始めた。
三十銭あれば小悪魔に美味しい食べ物を買える。
越後商店のツケ払いに回せる。
鈴奈庵で本を借りられる…。
パチュリーの脳内で、体育の授業と三十銭がそれぞれ擬人化され、盛大な綱引きを始めた。
それらは一進一退の攻防を繰り広げ、決着がつかない。
「ぐぬぬ…」
思わず声が漏れた。
「いや、ぐぬぬって…そんなに嫌なら無理にとは言わないが…」
パチュリーが歯を食いしばって眉間にシワを寄せ考え込んでいるのを見て、慧音が若干引きつつ答えた。
パチュリーはそこでとある事実に気づき、手をぽんと打った。表情が一変する。
よく考えたら、体育の授業といっても、運動するのはあくまで生徒であって教師は指導するだけだ。
だから体を動かす必要はないじゃないか。
―ふん、楽勝じゃない。
「仕方ないわね。じゃあ手伝ってあげるわ」
「そ、そうか。じゃあよろしく頼む」
パチュリーのついさっきまでとは一転した余裕の表情を訝しみながらも慧音は頷いた。
◆
―人里の空き地。乾いた土の匂いと、雑草の青臭さが立ち込めている。
「はぁ…ひぃ…げほっ…」
パチュリーは今にも死にそうな表情で、息も絶え絶えに、亀のような遅さでよろよろと走っていた。
名職人の手によって造形された美しいフランス人形のような端正な顔は、見るも無惨に歪んでいた。
額には汗が浮かび、足はもつれかけている。
―な…なんで教師が走らないといけないのよ…。
パチュリーはつい先程の自らの決断を後悔していた。
自然と、体育の授業開始時のやり取りが頭に過った。
「よし、準備体操は終わったな。まずは五十米走をするぞ。
では八里先生に、見本を見せてもらおう。皆も、先生がどんな走りをするか、興味があるだろう?」
慧音がよく通る声で聞くと、生徒達が口々に「あるー」とか「見たーい」とか言い出した。
「…は?」
パチュリーはあんぐりと口を開けた。まさか、こんな落とし穴が待っていようとは。
―そして今に至る。
あまりの体力のなさと醜態に、慧音も生徒たちも呆気にとられていた。
―運動が苦手とは聞いていたが、ここまでとは…。
慧音は、生徒達との交流の機会に良いと思いパチュリーを誘ったのだが、次第に後悔し始めていた。
やがて、一部の生徒達からからかいの声が上がる。
「へんな顔ー」「おっそーい」
子ども故の遠慮のない無慈悲な声は、パチュリーの耳には届いていなかった。
もはや意識は、目の前のゴールラインにしか向いていなかったのだ。
―ともかく、どれだけみっともなくても良い。完走だけは果たす。
生徒に示しをつけるためにも、途中で諦めるのは受け入れられない―
これはパチュリーなりの、大魔女として、教師としてのプライドでもあった。
震える足を、それでも一歩、また一歩と前へと進める。
相変わらず一部の生徒から揶揄する声が飛ぶ。
三角座りをしながらその様子を見ていた赤井しおりは、内心憤っていた。
膝の上で、拳がわずかに震えていた。
―先生は一生懸命走っているのに、からかうなんて。
だからといって、生来大人しい性格のしおりには注意するのは憚られた。
俯きがちに、それでも視線だけはパチュリーの姿を追い続けていた。
勇気を振り絞って、声を上げようとしたその時。
「お前ら!先生は頑張って走ってんだぞ!馬鹿にしてんじゃねえよ!」
一喝が響き渡り、しん、と静まり返った。
寺子屋でしおりの隣の席に座っている、石川虎太郎だった。
からかいの声を上げていた生徒達が、気まずそうに視線を逸らした。
やがて、改めてパチュリーの必死な走りを見つめ直した。
しおりは虎太郎を意外そうに見つめた。そして、ふっと笑い、心の中でお礼を言った。
誰が見ても格好いい走りではなかった。
それでも、理科の授業では涼しい顔で教壇に立ち、スマートに講義する綺麗な先生が、
息を切らしながら必死に最後まで走ろうとする姿は、不思議と胸を打った。
先程までからかっていた生徒達も含めて、じっと走りを見つめていた。
その表情が、徐々に真剣なものに変わっていく。
やがて、自然と生徒達からパチュリーを応援する声がぽつり、ぽつりと上がり始めた。
「先生、がんばれー!」「まけるなー!」「あとちょっと!」
声援は次第に、空き地いっぱいに広がっていく。
そして、五十米のラインを走りきったときには、わっと生徒達が駆け寄って疲労困憊して倒れそうになるパチュリーを支えた。
「やったね先生!」「完走おめでとう!」「なんか俺、感動しちゃった」
生徒達がわいわいとパチュリーを取り囲むが、当の本人は魂が抜け、ほぼ死にかけて意識が遠のいていた。
客観的に見ればただの五十米走なのだが、
さながらアテナイの勝利を告げるためにマラトンから四十粁を走りきった伝令兵を迎えるが如く、
妙な感動がその場に醸成されていた。
それを遠目に見つつ、慧音はふっと笑みを浮かべた。
「三日目にして、随分慕われているじゃないか。…案外、あの魔女は教職に向いているのかもしれないな」
◆
小悪魔は茶店の使いの帰り道、近道をしようと寺子屋の裏手を通りかかった。
その時、賑やかな声が耳に届いた。
―何だろう。
足を止め、そっと様子を窺う。
空き地に、大勢の生徒達がパチュリーを取り囲んでいた。
小悪魔は目を丸くした。
図書館に籠り、本以外には一切関心を示さなかった主人。
それが、汗だくになって、息も絶え絶えになりながらも、生徒達に支えられていた。
しばらくその光景を見つめていた。やがて、小さく笑みがこぼれる。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。
人里で暮らしてからというもの、主人は少しずつ、確実に変わりつつある。
それが何より、嬉しかった。
―この方についていこう。どこまでも。
改めてそう心に誓うと、小悪魔はパチュリーに気づかれないよう、そっとその場を後にした。
◆
慧音はパチュリーの体力のなさを考慮し、以後は指導のみを任せることにした。
生徒を二組に分け、それぞれ慧音とパチュリーが指導する。
「一人ずつ、五十米走の時間を測るわ。皆、いい?ゴールは六十米だと思いなさい。
じゃないと、直前で脚を自然と緩めてしまい遅くなるから」
まだ体力が回復しきれていないパチュリーは、椅子に座って指導していた。
その動きはガクガクで、老人のそれと変わらない。座った椅子から立ち上がるのすら、億劫そうだった。
河童製のストップウォッチを使用して、一人ずつ時間を測り、記録していく。
走り終わる度に、生徒の走りについて講評し、アドバイスを与える。
人体の仕組みや構造については知識として持ち合わせているので、運動できないとはいえ助言は的確だった。
「へぇ…虎太郎、貴方足が速いのね。頭一つ抜けて暫定一位よ」
パチュリーが感心したように声をかける。虎太郎は照れて頭を掻いた。
先程の一喝からは想像もつかない、素朴な照れ笑いだった。
「じゃあ次は球技をするから、慧音先生のもとへ集合しなさい」
はーい、と声を上げ、各々が移動し始める。土埃を蹴りながら、子ども達が駆けていった。
その中で一人、しおりだけがパチュリーのもとへ歩み寄った。
「あの…先生。ちょっといいでしょうか」
「…?何かしら」
しおりはちょっとためらってから、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「私…運動が大の苦手で。勉強は好きなんですが、体育の授業はいつも、やりたくないなって思ってて…」
少し俯き気味に、そこで言葉を切る。
「先生も運動は苦手そうだから、少し聞いてもらいたくて…」
パチュリーはそんなしおりを見つめて、指を顎に当てて考えた。
「しおりは、運動自体が嫌いなのかしら。それとも、周りにそれを見られてみっともないと思われてしまうのが嫌?」
しおりは首を傾げた。
「うーん…後者、ですかね。やっぱり、人に見られて笑われてるんじゃないかって苦手意識があります」
パチュリーは頷いた。そして、ふっと笑って答える。
「なら、あまり深く考えることはないんじゃないかしら。
さっきの先生の走りを見たでしょ?あれ以上みっともない姿なんて、世界のどこにだって存在しないわ」
何故か胸を張ってそう答えるパチュリーに、しおりは一瞬呆気に取られた。
「『あれと比べたら私は全然ましだ』、そう思えばいいのよ。そうしたら、少しは心が軽くなるんじゃない?」
しおりは目を丸くした。予想していた答えとはまるで違っていたからだ。
「そんなことない、皆応援してくれるよ」「頑張ることに意味がある」といった、当たり障りのない励ましをされるものだと思っていた。
そうではなく、自分という最低値を提示して「それよりましだから恥じることはない」と言ったのだ。
感情よりも理屈が先に立つ、どこか不器用な八里先生らしい助言だと思った。
これは励ましになっているのだろうか、と頭の中で助言を反芻する内に、なんだかおかしくなってしまい、思わず笑ってしまった。
頬が緩み、胸を覆っていた暗い気持ちが晴れていった。
「―あはは、先生、自虐が過ぎますよ。それに、みっともないなんてこと無いです。一生懸命頑張る、立派な姿でした」
くすくす笑うしおりを見て、パチュリーも笑みを浮かべる。
「貴方は優しい子ね。でも、貴方がそう思うなら、貴方の頑張る姿もそう思ってくれる人がきっといる筈よ。
少なくとも、私はその一人。―まあ、軽い気持ちでやってみなさい」
しおりはこくりと頷いた。表情には、先程までの陰りがすっかり消えていた。
「ありがとうございます、八里先生。少し気が楽になりました」
そう言って笑顔で頭を下げると、集合する皆のもとへ走っていった。
その後姿をパチュリーは見送った。日差しが、駆けていく小さな背中を照らしていた。
「…あの場合、ああいう感じで良かったのかしら」
誰かに寄り添い、心を軽くするための言葉は、どんな魔導書にも載っていなかった。
教師とは難しい仕事だ、複雑な魔法術式を解くよりも―そう思った。
◆
―長屋の一室。
夕餉のいい匂いが、狭い部屋の中にほのかに漂っていた。
「できたわよ、どうぞ」
パチュリーが小悪魔の前に御膳を置いた。
そこには雑穀米、鮎の塩焼き、葱と人参の味噌汁、ほうれん草のおひたしが並んでいた。
彩りよく整えられたそれらの料理は、初日の惨状とはまるで別物だった。
「ありがとうございます、パチュリー様」
小悪魔はじっと見つめる。視線には、わずかな緊張と期待が入り混じっていた。
「では…いただきます」
手を合わせて、まずは味噌汁に口をつける。
パチュリーはごくりと唾を飲んで見守った。
「…うん。川魚の煮干しのだしがよく効いてます。味噌も麹味噌のいいやつを使ってますね。
味噌を入れた後に煮立たせてないから、風味も香ってます」
続いて鮎の身を箸でほぐして口に運ぶ。
「中までしっかり火が通って、身がふっくらしています。じっくり焼かないとこうはなりません。
…苔を食べて育った鮎独特の香りがたまりませんね」
最後にほうれん草のおひたしを口にし、雑穀米をゆっくりと噛みしめる。
「おひたしは味付けが濃すぎず薄すぎず、丁度いいですね。
雑穀米は水加減も丁度よかったんでしょう、粒立ちがよく、食感もしっかり残っています」
一つ一つ、丁寧な講評が続いていく。まるで、あの日受けたダメ出しを、そのまま裏返したかのようだった。
そして箸を置く。
「美味しいです、パチュリー様」
にっこりと笑う。その笑顔には、一切のお世辞や噓が見られなかった。
パチュリーはそれを聞いて胸を張った。安堵と誇らしさが、同時に胸に広がる。
「料理なんて、一種の薬物調合や実験と同じようなもの。調理方法さえ知ればこんなものよ」
実は調合は苦手なのだが、そこは触れないでおく。
ふと小悪魔を見ると、体が震えていた。目に涙が光る。
「こ、こあ…?どうしたの?もしかして、体調が悪いの?」
パチュリーが心配そうに声をかける。腰を浮かせかけて、身を乗り出す。
「いえ、嬉しいんです。パチュリー様が、私のために、こうやって少しでも美味しくなるように工夫してお料理をしていただいたことが」
指で涙をすくい、笑顔を浮かべる。
「この子ったら、大げさなんだから…」
そこまで言って、コホンと咳払いする。目を逸らしながら、耳の先が赤らんでいた。
「今は支え合って生活しないといけないんだから。これくらい当然でしょう」
ふっと笑う。
―その夜。
二人は食事しながら、茶店の客や寺子屋であった出来事、安くて新鮮な食料品店についての情報などの話題で会話に花が咲き、
穏やかな時間が過ぎていった。
行灯の灯りが、二人を柔らかく包んでいた。
<追放九日目>
―稗田邸。
朝の光が、門前の石畳を白く照らしていた。
「八里さん。以前も言ったように、貴方はお通しするなと申し付けられております」
正門前の門衛が困ったようにパチュリーに告げる。
「ええ、それは分かっている。ただ、せめてこの手紙を届けてほしい。私はここで待っているわ」
「…手紙ですか。まあ、いいでしょう」
手紙を受け取り、門衛は邸内へ向かった。閉ざされた門の前で、パチュリーはじっと待っていた。
―しばらく後。門衛が戻ってきた。足取りには、先程とは違う慌ただしさがあった。
「八里さん。阿求様がお会いになるそうです」
パチュリーはにやりと笑い、門をくぐった。
◆
「―手紙を読みましたが…私の仕事を手伝う、と?」
阿求の声には、妙に疲労の色が感じられた。以前会ったときよりも、顔色も良くなかった。
目の下の隈はより深く刻まれている。
服装も違っていて、毛皮のついた外套を羽織り、首にはネックレスを着けていた。
「この前のお詫びも兼ねてね。土日は寺子屋が休みだから。
その代わりと言っては何だけど、書庫の本を読ませてほしい」
阿求は顎に手を当て、思考を巡らせた。
書庫で延々と本を読んで、礼も言わず片付けもせずに去っていった魔女と同じとは思えなかった。
「具体的に、何を手伝ってもらえるんでしょうか」
「資料整理でも、筆写でも、写本でも。貴方の執筆した文章の査読をしてもいい」
それを聞いた阿求の目が、鋭く細められ光る。まるで、暗闇の中に一筋の光を見出したかのような輝きだった。
―これは千載一遇の好機かもしれない。
「…貴方ほどの知識人に手伝っていただけるのであれば、ありがたいです。ぜひお願い致します」
阿求は頭を下げた。これまでの警戒色はすっかり消えていた。
「―実は、私は今窮地に立っています」
阿求の真剣な表情に、パチュリーは一瞬緊張する。
「私はペンネームで小説も書いているのですが…今日が締切なんです。
鈴奈庵への提出期限が午後五時。…鈴奈庵で組版や校正などを済ませ、印刷する手筈です」
鈴奈庵が出版社の役割まで兼ねているとは、少し意外だった。
パチュリーは壁にかかっている柱時計を見た。午前十時だった。
「肝心の小説が…まだ出来ていないんです。プロットはすべて頭の中にある。ですが…まだ書ききれていない」
阿求は紙の束を取り出した。
「これは概ね八割ほど完成した初稿です。
ただ、推敲していないので間違いや改善点が沢山あるはず。残り二割は、今から書きます」
阿求は自分で口に出して、改めて絶望的な現状を認識したのか、悲壮感が漂っていた。
「…なるほど。小説は専門外だけど古今東西の大体の文学作品は読んでるから、役に立てると思うわ。
その初稿を渡しなさい。徹底的に推敲するから」
パチュリーは阿求から原稿を受け取った。ぱらぱらとめくってみる。かなりの走り書きだった。
「貴方は残り二割を書きなさい。どうせ私が目を通すんだから、ともかく早さ優先で」
「わかりました。よろしくお願いします」
阿求は姿勢を正し、新しい原稿用紙に向き合った。
◆
阿求はチラと横目で隣の机に座る魔女を見た。
パチュリーは腕を組みつつ、口の中でぶつぶつ呟いていた。
机の上には朱墨の入った三つの硯と六つの原稿の束。
目を素早く動かし、三枚の原稿を凝視している。
時折、三本の筆が宙を独りでに動き、原稿に赤字で追記している。
推敲が終わると、原稿が推敲済みの束にふわりと移動する。
そうして次々と推敲作業が進められていった。
―一体、何という早さなのか。
その文字通り人間業ではない光景に、阿求は思わず目を奪われていた。
だが、これなら間に合うかもしれない。
阿求は希望を抱き、原稿と向き合い、筆を動かしていた。
―午後一時。
「推敲終わったわよ」
「私も丁度原稿が上がりました。かなり急いだので乱文ですが…」
お互いに原稿を交換する。
阿求が原稿をパラパラめくると、朱墨による指摘の文字が至る所に記入されていた。
「誤字脱字。他にも、描写がおかしいところ…例えば、夜空の月の満ち欠けの間違い、トリックの矛盾など、
気になる点はすべて指摘内容と改善案を追記したわ」
阿求は試しに一箇所読んでみる。
―確かに、この場面は暦を考えれば満月ではなく半月が正しい。思わず、小さく唸った。
「…最後に、差し出がましいかもしれないけれど。主人公が過去を独白するシーンはもっと後ろに持っていったほうがいい。
推理に行き詰まり、相方と衝突し、追い詰められた上で自身の過去を顧みる、とした方が読者が感情移入できるわ」
阿求ははっとした。そこはまさに自身も気になっていた点だった。
だが、早さ優先で修正せずそのままにしていた。指摘された箇所を、何度も読み返す。
「…確かに。後ろに引っ張った方がより効果的ですね」
阿求が感心して頷いた。
「では、私は貴方の指摘を踏まえてこちらの原稿の修正をします。貴方は残り二割の推敲をお願いします」
パチュリーは無言で頷いた。既に視線は次の原稿へと移っていた。
◆
―その後、阿求は原稿の修正、パチュリーは推敲が完了する。この時点で午後三時だった。
窓の外では、日が少しずつ傾き始めていた。
「…早さ優先とは言ったけど、本当に乱文だったわね。苦労したわよ」
原稿には赤字でびっしりと書き込みがされていた。
「すみません。ただ、この粒度じゃないと間に合わなかったので…」
阿求は疲れ切っていた。まるで十歳は老けたかのようだった。目の下の隈は、朝よりも一層濃くなっている。
「では私は残りの原稿の修正に入ります。貴方には…既に修正が終わった原稿の、清書をお願いしたい」
白紙の原稿用紙の束が渡される。
「―さあ、後少し。正念場ですが、頑張りましょう」
◆
三本の筆が原稿に次々と文字を書き加えていく。その字は丁寧かつ流暢だった。
パチュリーは、魔法によって同時に三枚の原稿を清書していた。
流石にこの神経を使う作業と魔法を長時間にわたって使用した影響か、パチュリーの表情にも疲れが見え始めた。
額に、わずかな汗の玉が浮かんでいる。
「修正が終わりました。私がこのまま清書します」
阿求がそう言うと、白紙の原稿に筆を走らせた。
―午後四時五十分。
「―終わった…!」
阿求がばたりと畳に倒れこんだ。良家のお嬢様らしくない振る舞いをパチュリーは少し意外に思った。
が、無理もないと思い直す。
自身も倒れ込みたい気分だったが、こらえて原稿の束を手にしてばらばらと目を通す。
何度も、何度もばらばらめくっては目を小刻みに動かして読み込んでいく。
指先が、紙の端をなぞるように動いた。やがて、満足げに頷き、阿求に手渡す。
「誰か!」
阿求が身を起こして叫ぶ。程なく使用人が静かに襖を開ける。
「これを、大急ぎで鈴奈庵へ」
「はっ、承知しました」
使用人が原稿を抱え、足早に去っていく。足音が、廊下の奥へと消えていった。
阿求は笑顔でパチュリーを見据えた。
「ありがとう。貴方の仕事ぶりは素晴らしかったです。お陰様でなんとか間に合いました」
「私を誰だと思っているの。このくらい当然よ。…ま、貴方も人間にしては中々やるじゃない」
お互いに顔を見合わせて、ふふ、と笑った。
そこには、共に難しい仕事をやりきった一種の連帯感が生まれていた。
「それに、貴方の小説面白かったわよ」
パチュリーの何気ない一言に、阿求の目がギラリと光った。
「具体的にどこが面白かったですか!?」
阿求は急に身を乗り出してパチュリーに迫った。その変わり様に、パチュリーは困惑した。
「え、ええっと…」
パチュリーはこの場面の情景描写が良かった、登場人物の心理の綾が巧みだった、など思いつくままに感想を述べた。
それを聞いて阿求は目を輝かせてうんうん、と相槌を打つ。先程までの疲労困憊が嘘のようだった。
「そ、それより次の仕事は?」
感想攻めに遭いそうな気配を察したパチュリーは、話題を変えた。
「いえ、これだけ働いてもらえれば十分です。約束通り、書庫の本を自由にお読みください。それと、少ないですがこちらを…」
阿求が封筒を差し出す。
「お給金です。成果には正当な報酬を。是非受け取って下さい」
パチュリーは一瞬戸惑った。報酬はあくまで読書だと思っていて、お金を貰うつもりはなかったからだ。
「そう。じゃあ遠慮なくいただくわ。ありがとう」
両手で受け取り、封筒を開けて覗き見る。
中には、一円札が二枚入っていた。折り目のない、真新しい紙幣だった。
「二円も…?」
パチュリーは目を見開いた。おおよそ寺子屋の七日分の収入と同じ金額だった。
「貴方の働きは、それだけの価値があります」
阿求が笑いかける。
―これだけあれば、越後商店のツケを精算して、尚且つお釣りが来る。
改めて、パチュリーは阿求に頭を下げた。
◆
「―パチュリーさん」
声をかけられて、はっと顔を上げる。
書庫の机の上には数十冊の本が山積みになっていた。窓の外は、既に暗くなっていた。
「あぁ…もう時間なのね。夢中になって時間を忘れてたわ」
そう言うと、小さな声で詠唱した。
すると、本達がまるで生きているかのように宙に浮き、一つ、また一つと元の場所へと収まっていく。
やがて、すべての本は綺麗に元通りになった。
「…」
阿求はその光景に見とれていた。
灯りで淡く照らされる書庫の中で、静かに舞う本の群れは、幻想的とすら言えた。
「中々充実した蔵書だったわ、ありがとう。来週土曜日も、この仕事をしたいのだけれど…頼めるかしら」
パチュリーの問いに、阿求ははっと我に返る。
「ええ、勿論です。こちらからも是非お願いします。門衛には話をつけておきますから」
「そう。じゃあ来週もよろしくお願いするわ」
書庫から去っていくパチュリーの背中に、阿求は頭を下げた。
<追放十日目>
人里に隠れ住み、仕事を始めてから迎えた初の日曜日。
朝の柔らかな光が、隙間だらけの障子から差し込んでいた。
小悪魔は二組の薄っぺらい生地の布団を畳んでいた。パチュリーを見ると、寝ぼけ眼を擦っている。
小悪魔は意外に思った。魔女は睡眠を必要としない。
恐らく、慣れない仕事の毎日に疲労が溜まり、睡眠を欲しているのだろうと思った。
「あの…パチュリー様」
「なに?」
小悪魔は少しためらい、意を決して尋ねた。指先が、布団の端をきゅっと握りしめる。
「今日は日曜日でお仕事も休みですよね。もしよろしければ…気分転換も兼ねて、その…一緒に、お出かけしませんか」
少し頬を染め、俯く。
勇気を振り絞ったであろう小悪魔の誘いを聞いて、パチュリーはふっと笑みを漏らす。
「ええ、いいわよ」
小悪魔はぱぁ、と明るい笑顔を見せた。抱えていた布団を、ぎゅっと抱きしめる。
「ありがとうございます!」
◆
二人は通りを歩いていた。
子ども達の笑い声、物売りの掛け声、あちこちから漂う食べ物の匂い。
休日だけあって、往来を行き来する人々も普段より多く感じた。
「どこに行きましょうか」
小悪魔が尋ねる。弾んだ声だった。
「―悪いけど、ちょっと寄りたいところがあるの」
やがて、とある店の前にたどり着く。―鈴奈庵だった。
がらりと引き戸が開けられる。
「いらっしゃ…」
小鈴は笑顔で声を掛けるも、パチュリーの顔を見た瞬間に笑顔が露骨に警戒色に変化する。
後ろから小悪魔も頭を下げて店へ入る。
「…パチュリーさん。立ち読みはお断りですよ」
小鈴が腕を組んで疑いの目で見る。
「…小鈴。今日はきちんとお金を払うから安心して。それと、この前は悪かったわ」
パチュリーが頭を下げる。それを目の当たりにした小鈴は驚き、小悪魔も目を丸くした。
働いて、対価を得る。そのお金でモノを購入する。
至極当たり前のことだが、経験することで初めて重みを知った。
謝罪の言葉は自然と口に出たのだった。
「あ、いえ…お金を払っていただけるのであれば、いいんです」
小鈴は優しい笑みを浮かべた。
パチュリーと小悪魔は本棚を見て回った。整然と並んだ本の背表紙を、指先でなぞるように見て歩く。
「あ、アガサクリスQの新刊だ!これ、気になってたんですよねぇ」
小悪魔が本棚から取り出す。目を輝かせて、表紙をまじまじと見つめた。
「パチュリー様もどうですか?面白いですよ」
小悪魔から渡されて、ぱらぱらと捲りざっと読んだ。
―これは。
そこにあったのは、先日格闘した阿求の原稿そのものだった。
印刷され、装丁され、一冊の本として並び、今はこうして誰かの手に渡ろうとしている。
自分の仕事が、こんな風に形になるなんて。
パチュリーの胸に、じわりと温かい何かが広がった。
「その新刊、昨日校正したばかりで、夜通し刷って完成したんですよ。
河童製印刷機のおかげで助かりました…あ、ちなみに新刊なので貸し出しはしていないです」
小鈴の声には疲労が感じられた。よく見たら目元に少し隈ができている。
「勿論購入します!」
小悪魔が小気味良く返事をする。
パチュリーも手早く本棚から数冊の本を取り出し、小鈴に手渡す。
「幾らかしら?」
「えっと…六銭ですね。返却は一週間です」
小悪魔とパチュリーは小銭を手渡し、本を受け取った。
「それじゃ。また来るわ」
「あ、パチュリーさん!」
小鈴の声に振り返る。
「ありがとうございました!またお越しください!」
小鈴が満面の笑顔で頭を下げる。パチュリーは微笑を浮かべ、小悪魔もそれに続き、店を後にした。
◆
大通りを歩いていると、小悪魔が声をかける。
「あそこのお店でちょっと休憩しませんか。私が働いている茶店なんです」
「ええ、いいわよ」
『甘味処 名華』という達筆の看板を構えている。
こじんまりとしているが、風情のある店構えだった。
数名の客が表の縁台に座って菓子を食べている。そこそこ繁盛しているようだった。
二人で店先に声をかける。
「おや、こあちゃんじゃないかい。いらっしゃい」
「こんにちは~。それと、私の名前はここあです」
老婆が笑顔で迎えてくれた。
パチュリーは思わず吹き出しそうになった。未だにこの老婆は小悪魔の名前を間違えているのか。
しかも、間違えた呼び名が普段の愛称であることもより可笑しみを増していた。
座敷に案内され、座って一息ついた。畳の感触が、歩き疲れた足に心地よかった。
「こちらのお嬢さんは、お友達かい?」
「八里知子様。私のご主人様です」
パチュリーは一瞬、驚いた。主従関係であることをそのまま言ってしまっていいのだろうか。
同じ歳頃の少女が主人だなんて、不自然ではないだろうか、と。慌てて口を開いた。
「…コホン。厳密に言うと、この子は八里家に仕える小間使いね。私専属でついてくれているの」
「あらまぁ、そうなんだねぇ。こあちゃんは一生懸命働いてくれて感謝しているよ」
小悪魔が笑いながら小さい声で「ここあです」と訂正した。どうやらこれは定番の掛け合いになっているようだ。
「…そう。この子は頑張り屋だから…」
頭を掻いて照れる小悪魔を見て、パチュリーは思わず笑みを漏らした。
普段図書館で働く小悪魔の働きっぷりは勿論知っているが、
こうやって別のお店で働き、店主から評価されるのを聞くのは悪くない気分だった。
やがて、お品書きを書いた紙を手渡される。
「八里様、何になさいますか。この抹茶の羊羹なんて美味しいですよ」
「じゃあそれにしようかしら」
程なくして老婆が湯気の立つ湯呑と菓子を持ってきてくれた。
「どうぞ。ゆっくり召し上がってね」
老婆に礼を言って口に運ぶ。ほろ苦い甘さがお茶によく合った。
「…結構いい店ね」
「えへへ、そうでしょう?お婆さんも優しいし、いい職場です!」
まるで自分のことのように小悪魔は顔をほころばせた。
菓子を食べ終わりお茶を飲んでいると、小悪魔が湯呑を両手で包むように持ちながら、真剣な表情で言った。
「…パチュリー様。私、この仕事、気に入ってるんです」
パチュリーが少し意外そうに見る。
「この先、もし人里を離れることになったとしても。
人里で暮らした日々を―こういう時間があったことを、忘れたくないなって思うんです」
湯呑に視線を落として、しばらく黙っている。
「…そうね」
パチュリーは優しく微笑み、短く答えた。
外の通りでは、行き交う人々の声が、遠くに聞こえていた。
◆
「あ、八里先生!こんにちは!」
茶店を後にし、小悪魔とともに商店を覗き込んでいると、声をかけられた。
振り向くと、赤井しおりがにこやかに笑っていた。買い物籠を手に提げている。
「こんにちは。貴方もお出かけ?」
「はい。母に頼まれてお使いに―」
しおりはふと、隣に立つ小悪魔を興味津々といった様子で見つめた。
「そちらのお姉さんは…?」
少し首を傾げる。
「七詩ここあ。同棲しているのよ」
パチュリーは平然と言った。
「ど…」
しおりは口に手を当て、驚いたように言い詰まった。頬に、みるみる赤みが差していく。
「あ、えっと…赤井しおりです。寺子屋で八里先生にお世話になっています。よろしくお願いしますね」
しおりが小悪魔に頭を下げる。小悪魔は呆けたような顔をしていたが、はっと我に返る。
「あ…これはご丁寧にどうも。私は七詩ここあといいます。
八里様とは…ど…一緒に住まわせてもらっています。よ、よろしくお願いします…」
しどろもどろになりながら自己紹介する。頬が、これ以上ないほど赤く染まっていた。
しおりはその様子を見ながらにこにこ笑っていた。
パチュリーだけは頭に疑問符が浮かんでいた。
ふと、しおりの手に本が握られているのが見えた。
「その本…」
パチュリーが問いかける。
「あ、これは先生から貸していただいた『やさしい理科入門』です!」
そう言って両手で大事そうに掲げる。そこには、大量の付箋が貼られていた。
かなり読み込んだのか、少し曲がってくたびれていた。
「…随分読み込んだのね。役に立っているようで何よりだわ」
そういって微笑みかける。しおりもぱあ、と明るい笑顔になった。
「それにしても、先生も隅に置けないですね。では、お邪魔にならないように私はそろそろ行きますね。
ごゆっくり楽しんでいってください」
別れ際、しおりが笑みを浮かべながら意味深なことを言って去っていった。
パチュリーは頭を傾げた。
「さ、こあ。行くわよ」
小悪魔を見ると、手で顔を覆って真っ赤になっていた。
指の隙間から、耳の先まで赤らんでいるのが見えた。
◆
―その後。
いろんな店を見て回り、買い物をしたり、銭湯に入ったりしている内にすっかり暗くなっていた。
軒先の提灯に、次々と灯りが点いていく。
「パチュリー様。そろそろ夕食にしましょうか」
「そうね…」
飲食店が並ぶ通りを歩く。
どの店からも賑やかな声が聞こえ、いい匂いが鼻をくすぐる。
醤油の焦げる香り、出汁の湯気、揚げ物の油の匂いが、夜の通りに入り混じっていた。
「あ、あそこの牛鍋屋とかどうでしょうか!」
小悪魔が指さしたのは、かつてパチュリーが働いていた牛鍋屋だった。
「…」
パチュリーは一瞬ためらった。
少なくとも、別れる際に店長は自分に大して悪感情は持っていなかった。
まさか、変に正体を勘ぐられることはないだろう。記憶の中の、あの日の巾着袋の重みが、ふと蘇った。
暖簾をくぐると、店長が「あれ、八里さんじゃないか」と顔をほころばせた。
厨房からも「久しぶり!」と声が飛ぶ。
すぐに辞めたために賄いとして食べる機会すら無かった牛鍋は、
ここ数日素朴な和食ばかりだった舌にはひと際美味しく感じられた。
―店員ではなく、客の立場として訪れると、見える光景が変わる。
客の注文を取り、厨房へオーダーを出す。牛鍋を座敷に運ぶ。
会計し、退店する客に頭を下げ、大きな声で礼を言う。
皆が一生懸命に働き、美味しい食事を提供し、金銭を頂く。
そのサイクルの中で、かつては店員として、今は客としてこの場にいることが、どこか嬉しく感じられた。
―会計を済ませ、退店すると店の外まで出て店員たちが見送りしてくれた。
小悪魔は、何となく照れくさそうな様子の主人を見て、自然と笑みが漏れていた。
「結構遅い時間になりましたね。どうしましょうか。そろそろ帰りますか?」
「―せっかくだし、二軒目はどうかしら。行ってみたいお店があるのよ」
ふと、以前マミゾウに「酒と料理が美味い」と言われた鯢呑亭のことを思い出していた。
その足が繁華街へと向けられる。
夜の帳が下りた通りの先に、賑やかな灯りが揺れていた。
◆
「―大体、レミリア様は気まぐれすぎるんですよ!」
小悪魔がどん、と酒の入ったコップをテーブルに音を立てて置いた。
「親友のパチュリー様をこんな…ひっく」
顔は真っ赤に染まり、目は酔いで虚ろだった。
「ちょっと、こあ…貴方酔いすぎよ」
パチュリーが若干戸惑いつつ、注意する。
―二人は、鯢呑亭へ飲みに来ていた。
提灯の灯りが揺れる店内には、酒と焼き物の香ばしい匂いが満ちていた。
料理はどれもシンプルだが丁寧な仕事により絶品だった。
酒も普段飲むワインとは違った、透き通った甘い香りが印象的な日本酒で、和食とよく合った。
「パチュリー様はなんとも思わないんですかぁ?こんな仕打ちを食らって…」
とろんとした目で絡んでくる。
「―思うところがないとは言えないけれど…」
パチュリー自身、そこまでレミリアを恨む気にもなれなかった。
むしろ、今では自業自得だと思えた。
「いっそ難題にぶち当たって、パチュリー様の偉大さを思い知ればいいんですぅ…」
そう言うと、机に突っ伏す。やがて、微かな寝息と共に身体が上下し始めた。
「まったく、この子は…」
苦笑しつつ、自分の上着をかけてやる。
「それにしても、こあがここまではっきり言うなんてね…」
普段はパチュリーにもレミリアにも従順で、口答え一つしない小悪魔がこうもレミリアに対して不満を口にしたのは初めてだった。
小悪魔の新たな一面を知るとともに、パチュリーの胸の奥がわずかに温かみで包まれた。
その時、ガラリと引き戸が開けられ客が一人来店した。
奥野田美宵の「いらっしゃいませ」という元気な声が響く。
「おや、来たんじゃな。お連れの方は随分潰れてるようじゃが」
その客は声をかけて近づいてきた。マミゾウだった。
「人里の暮らしはどうじゃ?」
言いつつ、パチュリーの隣に座る。
「…ま、何とかやってるわ」
「そうかそうか。ま、それは何より」
かっかっかと笑い、出された熱燗をお猪口に注ぎ、掲げる。
パチュリーも酒の入ったコップを掲げ、かちんと音を鳴らして合わせる。そしてお互いにくい、と飲んだ。
「貴方、ここの常連なの?」
「うむ。まあわしはここの発案者の一人でもあるしな」
「へぇ…」
改めて周りを見回してみる。客はすべて妖怪だった。
最初に足を踏み入れたときは驚いたものだった。
何より、こうも多くの妖怪が人里に紛れていたのか、ということと、
大勢の妖怪が人里のど真ん中に集って飲んでいる、という大胆さに驚いた。
「よくも霊夢にバレないものね」
「そこは上手くやっとるよ」
マミゾウはつきだしのイワナのなめろうを美味しそうに口に運び、満足げに目を細める。
―しばらくは、他愛もない会話が続いた。
いや、あえてそういった話題をお互いに選んでいた。
それはパチュリーの今の立場が特殊であり、あまり触れないほうが良いというマミゾウの気遣いでもあった。
「しかし―お主とは会ったのはまだ二回目じゃが…随分変わったのぅ」
「…変わった?」
パチュリーは疑問を口にするも、改めてここ数日を思い返してみる。
狭苦しい長屋で寝泊まりし、労働に従事し、料理を作る…。
少なくとも、図書館に籠っていた頃では考えられないだろう。
「人間と接して、人里で暮らすのも案外悪くない…そう思ってるんじゃないかの?」
「…ふん、何を言ってるの。そんなわけないじゃない。さっさと紅魔館に帰りたい一心よ」
ぷいと横を向くも、マミゾウがからからと笑う。パチュリーもやがて、ふふ、と苦笑する。
―確かに、こういうのも悪くない。
「そうじゃ。お主は確か寺子屋で子ども達を教えてるんじゃったな」
「そうだけど」
どうして知ってるんだ、とパチュリーは一瞬思ったが、
マミゾウであれば様々な伝手や手下の狸を使って、幾らでも情報を得ていそうだ、と得心した。
「なら忠告じゃ。最近どうも人里を嗅ぎ回ってる妖怪がいるらしい」
その声色から、先程までの穏やかさが消える。わずかに緊張が走った。
「そんなの、たくさんいるんじゃないの?現にこの店にも大勢―」
「いや、そうじゃない。例えば、ここに居る連中は皆自分達の立場をわきまえておる。
―もっと後ろ暗い匂いを感じるんじゃよ。
直近で行方不明者が二名出ておる。その犯人なのではないか、とわしは疑っとる」
そういえば、牛鍋屋でも客が同じような話をしていたのを思い出した。
パチュリーは疑問に思った。人里の人間に手を出してはいけないという不文律。
それを破ろうとする愚かな妖怪がいるのだろうか。
「まあ、用心するに越したことはない。また何か分かったら連絡しよう」
その一言が、パチュリーの胸の奥に小さな棘のように残った。
「忠告ありがとう。気をつけるわ」
やがて、ひとしきり会話した後、パチュリーが口を開く。
「―さて。いい時間だし、私達はそろそろ御暇しようかしら」
そう言うと席から立ち上がる。
「ほら、こあ。もう帰るわよ」
小悪魔を揺するとふわぁ、とあくびをして目をこすった。
「―ま、結構楽しめたわ。それじゃお先に失礼するわね」
マミゾウに向かって笑顔を向ける。
「わしもお主と飲めて良い時間を過ごせたよ。じゃあな」
◆
会計を済まし、小悪魔を支えてふらつきながらも鯢呑亭を後にした。
夜風が酒で温まった身体に心地よかった。
「パチュリ~様ぁ~…一生お仕えしますぅ~…」
小悪魔はまだ寝ぼけているようだった。パチュリーは思わず苦笑する。
静かな人里の通りを、二人で歩く。
―うん、こういうのも悪くない。
時間は午前一時を回っていた。
夜は更け、どこからか蟋蟀の鳴き声が聞こえた。
◆
―あれから数日が経った。
パチュリーと小悪魔は人里での生活にようやく慣れ、それぞれ自分の居場所を確立していった。
寺子屋で授業を行い、仕事をこなし、小悪魔と食事を囲む。
気づけばそんな生活が、ごく当たり前になっていた。
日々の中に、いつしか確かな輪郭が生まれていた。
そして―
<追放十四日目>
大通りに面する茶店、『甘味処 名華』。
小悪魔が開店の準備をしていると、血相を変えた少女が通りを必死で走るのを目撃した。
手を止めて、去っていく背中を見つめる。
「あれは…寺子屋の生徒?」
ただならぬ雰囲気に、心に動揺が広がる。
直感が告げていた。これはただ事ではない、と。
迷いは一瞬だった。
「お婆さん、すみません!ちょっと急ぎの用事ができたので、仕事を抜けます!」
「あれまぁ…何だかよくわからないけれど…」
一瞬老婆は首を傾げ、考えた。だが、小悪魔の目を真っ直ぐに見つめ、言った。
「こあちゃん、行っておいで」
老婆は柔和な笑顔で頷く。その瞳は、すべてを見通すかのように澄んでいた。
小悪魔は一瞬ドキッとした。
いつもの単なる言い間違いではない―
「七詩ここあ」ではなく「小悪魔」として呼ばれたように感じた。
「はい、行ってきます!」
力強く返事し、頭を下げる。素早く割烹着を脱ぎ、畳んで置き、寺子屋へと駆けていった。
小悪魔の後姿を、老婆はどこか寂し気に見送った。
姿が見えなくなった後も、通りの向こうを、いつまでも―
◆
―寺子屋の教室。
子ども達が次々と登校し、がやがやと賑やかになっていた。
パチュリーは教壇で考え事をしていた。
「ちょっと朝は用事があってな。すまないが、一限目の歴史の授業をパチュリーに任せたい」
昨日の時点で慧音から頼まれていた。
何でも、昨今の行方不明の件で、里の自警団の詰め所で会合があるらしい。
パチュリーは鯢呑亭で聞いたマミゾウの忠告を元に、翌日慧音に相談していた。
その結果として、念のため生徒達に最低二人以上で登下校するよう義務付け、
また登下校の時間帯を重点的に、自警団による定期巡回を行うよう手配していた。
現実的に可能な範囲での対策ではあったが、万全とは言い難く、一抹の不安は拭えなかった。
やがて、概ね生徒が登校した頃。
一人の少女が引き戸を音を立てて開け、パチュリーのもとに駆けつけた。
息を切らし、顔面は蒼白だった。
「八里先生!助けて…!」
必死の表情に、パチュリーはただ事ではないと感じ、一瞬で緊張感に包まれた。
しゃがみこんで、生徒に優しく尋ねる。目線を合わせ、震える肩にそっと手を添えた。
「大丈夫、落ち着いて。何があったの?」
「しおりちゃんが…妖怪に…」
震える声でそれだけを告げる。瞬間、全てを理解した。
ざわめく教室。空気が、一瞬にして張り詰めた。
パチュリーは一瞬、言葉に詰まった。胸中で様々な感情が渦巻く。
だが、同時に頭の中では冷静に、幾つもの対応策を瞬時に組み上げていった。
「そう…どうもありがとう。落ち着いてからでいいから、教えてちょうだい。その妖怪の外見はどんなだった?」
優しげに問いかける。少女は俯いて、混乱した記憶の中から必死に探り出す。
「えっと…人間のおじさんと見た目はほとんど同じ。
少し痩せ気味で、耳が尖ってて、目は黒目だけだった。服は…普通の茶色い着物だった」
「どうもありがとう。最後にもう一つだけ。どの方角へ去っていったか分かるかしら?」
「うん。西門の方角だから、西に飛んでいった」
パチュリーは少女の両肩に手を置いた。
「それだけ分かれば十分よ。大丈夫、しおりは先生が必ず助けるわ」
そう言って頭を撫でてやる。少女はこくり、と頷いた。強張っていた表情が、少しだけ緩んだ。
「虎太郎!」
パチュリーが名前を呼ぶ。
はい!と反射的に虎太郎が立ち上がり、声を上げた。
「貴方は生徒の中で最もかけっこが速かったわよね。里の詰め所にいる慧音先生や大人達にこの事態を伝えてほしい」
虎太郎はごくり、とつばを飲んだ。
「…頼まれてくれるかしら?」
「―任せとけ!」
力強く頷きどんと胸を叩くと、脱兎のごとく教室から駆けていく。足音が奥へと遠ざかっていった。
「皆は教室で自習しておくこと!絶対に外に出ないようにね」
そう言い渡すと、パチュリーも教室を後にした。振り返ることなく、引き戸を閉める音だけが響いた。
◆
寺子屋を出たところで、小悪魔とばったりと会った。息を切らし、額には汗が光っていた。
「パチュリー様!」
「こあ…!」
小悪魔は息を整える。二人は素早く状況を伝え合った。
「丁度良かった。貴方に会いに行こうとしてたのよ。貴方の力を貸してほしい」
「私に出来ることであれば何でもお申し付けください」
小悪魔は胸に手を当てて頷いた。
「―『やさしい理科入門』の本の場所を探してほしいの」
その頼みに、小悪魔は一瞬疑問が浮かんだが、すぐにぱっと明るい顔になった。
「なるほど!承知しました!」
やがて、手を耳に添え、目を瞑る。
「―本たちよ。貴方の声を聞かせて…」
そして耳を澄ます。周囲の喧騒が、一瞬にして遠くなったかのようだった。
小悪魔には『目的の本を瞬時に探す能力』が備わっている。
普段は図書館での図書整理や、パチュリーが読みたい本の検索に役立てていた。
「―寺子屋の職員室。
―鈴奈庵、左奥の本棚の上から三段目。
―紅魔館、南西区画3241番本棚の上から二十一段目。
…人里から西南西へ約三粁、野原」
小悪魔の目が開かれる。パチュリーと顔を見合わせ、互いに頷きあった。
誘拐を目撃した少女の証言と方角も一致する。
「行きましょう!」
二人は人目をはばからず、空に浮いて西へと飛んでいった。
◆
―名も無き草花が生い茂る、一面の草原。
風によって波打つ緑の絨毯は、色とりどりの草花に静かに彩られていた。
パチュリーと小悪魔は全速力で空を飛んでいた。景色が線を引くように、高速で後方へと流れていく。
風が耳元で唸り、髪を激しく後ろへとなびかせた。
―まだ間に合う。
まるで自分に言い聞かせるように、胸の奥でその言葉が何度も繰り返されていた。
やがて、視界の彼方に小さく人影が見えた。
更に速度を上げ、急速接近する。
それは茶色の着物に身を包んだ、人型の妖怪だった。
腕には恐怖にこわばった表情のしおりが抱えられている。
小さな手が、着物の袖をぎゅっと握りしめていた。
パチュリーが前に回り込んで小悪魔と挟む形になり、妖怪はその場で止まった。
同時に、パチュリーは口の中でぼそり、と何かを呟いた。
「八里先生!?」
空から現れた二人の姿に、しおりは目を見開き、叫んだ。
涙で潤んだ瞳に、驚きと、確かな希望の光が灯った。
「その子を離しなさい。―死んだりしたら、寝覚めが悪いのよ」
抑揚のない声だった。だが、底には静かな凄みが込められていた。
妖怪は驚いた。
「お前…紅魔館の魔女、パチュリー・ノーレッジか!?何でお前みたいな大物が…」
しおりが困惑の表情を浮かべる。
「魔女…?パチュリー…?先生…妖怪、だったの…?」
パチュリーは舌打ちした。
普段滅多に人前へ姿を現さず、しかも今は髪型も服装も変えている。正体は伏せられると思っていた。
何より、追いつくよう急いでいたため、そこまで気が回らなかった。
―そして、しおりにも知られてしまった。
魔法を行使する場面を見られても、最悪、魔理沙のような「人間の魔法使いだ」と言い張ろうと思っていた。
だが、それもできなくなってしまった。
「…人里の人間に手を出すのはご法度だってことは、
低級妖怪だろうと人語を理解するのであれば知っているでしょう?」
「俺はあくまで頼まれて拐っただけだ。取って食おうってわけじゃない。
…それにしても、まさか紅魔館の魔女様が人間の子どもを助けようだなんてな」
侮蔑の笑みを浮かべ、鋭い爪をしおりの喉元に突きつける。しおりの喉から、小さな悲鳴が漏れた。
「いいか、下手な真似はするなよ。少しでも魔法を詠唱しようものなら、こいつを殺す」
パチュリーは無表情だった。手に持つ魔導書を開こうとした、その時。
妖怪の人差し指の爪がまるで銃弾のように射出され、パチュリーの頬を掠めた。
つ、と赤い血が頬を伝う。髪を後ろで束ねていた紐が切れたのか、ぱさりと豊かな髪が風に乗って広がった。
「妙な真似はするなよ!」
妖怪の警告に、その場の空気が緊張に包まれる。
パチュリーは小悪魔に視線を送った。
小悪魔は小さく頷いた。
「誰に頼まれたの?」
「言えるわけないだろう」
パチュリーの問いに嘲笑を含んで返事したその刹那―
しおりに爪を突きつけていた妖怪の右腕が、音を立てて根本から吹き飛んだ。
「―!!?」
妖怪は声にならない叫び声を上げる。返り血がしおりの顔に跳ねた。
支えを失ったしおりの身体が宙へ投げ出される。
悲鳴を上げながら落下するしおりに、小悪魔が一直線に飛び込み、小さな身体を抱き留めた。
しおりは震える手で小悪魔の服をぎゅっと掴み、声もなく胸に顔を埋めた。
「何故だ…!?まったく詠唱の気配がなかったのに…無詠唱なんて、出来るはずが―」
パチュリーは苦痛をにじませた驚きの声には答えず、淡々と聞く。
「左腕、右足、左足。まだ三本あるわね。もう一度聞くわ。誰に頼まれた?」
「い、言ったら俺が殺される―」
鈍い破裂音とともに今度は左腕が吹き飛ぶ。悲痛な叫びと共に、赤黒い血が飛び散った。
その凄惨な光景を目の当たりにしたしおりは、恐怖に顔を強張らせ目を逸らせた。
「貴方のこと、見くびっていたわ。雑魚なりに根性あるのね。あと二本。さあ、誰に頼まれた?」
「―じ、絡新婦だよ。最近幻想郷に来たやつらしい。
ここから更に西へ行った森の奥深くに巣を張ってる。だが、あんたと言えど…」
小さな爆発音が響き、首が吹き飛んだ。
断面から血を吹き出しつつ、身体と首が自由落下する。
そのまま地面へ墜落し、肉片と赤黒い染みと化した。
「―無詠唱じゃない。お前と対峙した時に、既に魔法は唱え終えていた。
お前は会った瞬間に、死が確定していたのよ」
音を立てて魔導書を閉じ、吐き捨てる。その声色には、一切の感慨がなかった。
「しおり、もう大丈―」
パチュリーは振り返り、柔らかな笑顔で声をかけた。
だが―しおりの瞳を見て、パチュリーの表情が硬直する。
しおりがパチュリーを見る、心底怯えた目。
小悪魔にしがみついて、まるでおこりのように全身を震わせていた。
瞳には、先程まであった信頼の色が、跡形もなく消え失せていた。
その瞬間、パチュリーの中で何かが音を立てて崩れ去っていった。
―ほんの一瞬だったはずだが、永遠に感じるほどの沈黙。
パチュリーは息をつき、俯いた。わずかに寂しさが目に宿っているように見えた。
「こあ、しおりを人里へ送ってあげて」
「パチュリー様…」
小悪魔が心配そうに声をかける。
「私は後始末しに行くわ。頼んだわよ」
そう言うと、西へと飛んでいった。
振り返ることなく、その背中は空と地平線の境界へと溶けていった。
◆
―小悪魔はしおりを抱えて、人里を目指して空を飛んでいた。
風が、二人の頬を冷たく撫でていった。
「…」
「…」
二人とも、何も言わなかった。
小悪魔はしおりの震えが手に伝わるのを感じた。抱きしめる腕に、無意識に力がこもった。
「…七詩ここあさん、でしたよね。貴方も…」
しおりがようやく口を開く。途中で口をつぐんだが、何を言いたいのかは明らかだった。
「―はい。八里先生…いや、パチュリー様も、私も、妖怪です。黙っていてごめんなさい」
小悪魔は言い訳もせず、正直に打ち明けた。
「…」
しおりは俯き、目を伏せた。
やがて、地平線に人里が見えた頃、前方から何かが近づくのが見えた。
一瞬警戒するも、それは上白沢慧音だった。
「慧音さん!」
「しおり!無事だったか!」
慧音の声に、しおりがようやく笑みを浮かべる。が、それはぎこちなかった。
「こ…貴方が助けてくれたのか」
慧音は言葉を詰まらせて、言い直した。
「いえ、パチュリー様が誘拐犯の妖怪と戦い、しおりちゃんを助けてくれたのです」
偽名ではなく本名を口にしたことに、慧音は一瞬驚いた。
小悪魔は経緯を説明した。言葉を選びながら、事の顛末を丁寧に伝えていく。
「一人で黒幕と…ならば、加勢にいかねば!」
今にも飛び去ろうとする慧音を小悪魔は止めた。
「その必要はないと思います。今のパチュリー様には…誰も、敵わないでしょうから」
そう言うと、小悪魔は来た方向を振り返った。西の空を、じっと見つめる。
―パチュリー様…ご武運を。
そう、心の中で呟いた。
◆
―奥深くの森の中。そこには、所々で炎が燃え盛り、火の粉と木の葉が舞っていた。
火の動きに合わせて、赤い光が不気味に照り返している。
全長二十米はあろうかという、巨大な蜘蛛が丸太のような脚を伸ばして木々を掴んでいた。
人間の女の頭部を持つその妖怪は、絡新婦だった。
周囲にはまるでドームのように蜘蛛の巣が覆っていた。
よく見ると何本かの脚は欠損し、腹は破れ、緑色の液体が止め処無く流れ出ている。
地面には何十もの子蜘蛛―と言っても、人間の子どもほどの大きさだが―の死骸が横たわっていた。
焦げた木々の匂いと、生臭い血の匂いが入り混じっていた。
空間の中央には、パチュリーが宙に浮かんでいた。
紫の髪が風を受け、ふわりと舞う。火の照り返しを受け、美しく光っていた。
目は極北の氷河のごとく、冷たかった。
「お前は…」
絡新婦が苦痛と困惑の表情を浮かべ、声を漏らす。
「なぜだ?紅魔館と我は手を組んでいるはず…紅魔館の幹部のお前が、なぜ我を襲う?
当主のレミリアはこの所業を知っているのか…!?」
その言葉に、パチュリーは記憶の底からとある情景が浮かんだ。
『絡新婦という名前の、新興の妖怪から手を組もうと申し出があったわ。手駒は多い方がいいと思うけど、どうかしら』
『別にいいんじゃない?』
―追放を言い渡されたあの日。
確かに相談を受け、生返事をしていた。あの日の自分の声が、耳の奥で鈍く反響する。
「…今思えば間違いだったわね。こんな頭の悪い輩だとは思わなかったから」
ふん、と鼻を鳴らす。
「レミィは知らないわ。けど、お前のような雑魚がどうなろうとレミィは何の興味も持たない」
吐き捨てる冷たい言葉に、絡新婦がぎり、と歯を食いしばった。
「なぜ、人間の子ども一人にここまでする。博麗の巫女ならばともかく、妖怪のお前が―」
「幻想郷では『人里の人間に手を出してはいけない』という不文律がある。
新参者だから知らなかった、なんて言い訳は通用しないわ。馬鹿なことをやらかしたものね」
パチュリーは肩をすくめ、やれやれ、とため息をついた。まるで、困ったもんだ、といった風の軽さだった。
だが、瞳の奥に宿る光は、鋭利なナイフのように鋭かった。
「妖怪が人を喰って何が悪い!」
絡新婦は叫んだ。
「幻想郷の妖怪達の方が余程不自然ではないか?妖怪とは本来、人を喰らうものだ!」
そして、少し遠くに視線をやった。
「…一月ほど前、たまたま迷い込んだ『外来人』を喰った。
あの柔らかい肉に新鮮な血…言葉にできぬほどの甘美な味わい!―あぁ、想像しただけで涎が…」
絡新婦は恍惚な表情を浮かべ、舌なめずりする。
「―で、我慢できなくなり、人里から人を拐って喰った、ってわけね」
パチュリーが侮蔑の視線で刺す。
「その通り。万一に備え、強力な妖怪の勢力と手を組み、地盤を固めて態勢を整えた上で実行に移したというわけよ」
それを聞いたパチュリーははっとなった。表情に、わずかな動揺が走る。
「『強力な妖怪の勢力と手を組み』…?」
―つまり、紅魔館と手を組んだからこいつは人を拐って喰った?そして、今度はしおりを?
じわりとその事実が頭の中に浸透していった。
―結局は、自分がすべての発端だった?
時間差で沸々と怒りが湧く。その怒りは絡新婦ではなく、自分自身に向いていた。
絡新婦はパチュリーが一瞬呆けたように動きを止めたのを見て、口元を歪めた。
その瞬間、隠れていた生き残りの子蜘蛛が、牙から致命的な毒液を滴らせ木の上からパチュリーに飛びかかった。
「…エレメンタルハーベスター」
小さくぼそりと呟くと、何もない空間から突如回転する円盤ノコギリが現れた。
子蜘蛛はそこに飛び込む形になり、脚と胴体が寸断され、肉片と体液をばら撒きながらバラバラに飛び散った。
飛んだ体液がぴしゃりとパチュリーの服の裾を汚す。
「ちッ…!」
絡新婦が舌打ちする。
「さ、終わりにしましょう」
パチュリーが抑揚のない声で告げる。それは死刑宣告に等しかった。
「…不文律を守るだけなら、博麗の巫女に任せればよかったはずだ。お前が出張る必要はない。
たかが人間の子ども一人のために、なぜ戦う?それとも妖怪のお前が、情に絆されたか?」
絡新婦は話し続ける。と同時に、密かに腹の先にある管を地面に突き刺した。
「…勘違いしないで頂戴。私は妖怪。人間が何人死のうが、何の痛痒も感じない」
そこで言葉を区切る。やがて、恐ろしいほどの殺気を伴った鋭い視線で絡新婦を睨みつけた。
「―理由なんて無い。強いて言うなら…私が不快に思った。全部ひっくるめて、ね。だからお前を殺す。それだけよ」
その言葉が引き金となったかのように、絡新婦が鋭く尖った丸太のように太い脚数本を、疾風の如き速さでパチュリーに向けて放った。
パチュリーは急上昇し回避する。が、待ち構えていたかのように、時間差で残り一本の脚が襲い来る。
それは確かにパチュリーの身体を捉えた。
―だが、柔らかい身体を刺し貫くことはなく、甲高い音を上げて弾き返された。
わずかな一瞬、パチュリーの身に金剛石の結晶のような紋様が浮かび上がった。
「な―!?」
「―フォレストブレイズ」
短い詠唱とともに、周囲に舞う木の葉が意思を持ったかのように渦を巻き、業炎となって絡新婦に襲いかかる。
上半身はあっという間に燃え盛る火柱となり、耳障りな断末魔を上げ、異臭を放ちつつ炭化していく。
ちらと絡新婦が鎮座していた地面を見る。パチュリーは鼻を鳴らすと、口の中で短く詠唱する。
「…トリリトンシェイク」
地面が揺れたかと思うと、突如、石柱が地面から勢いよく飛び出した。
同時に、乳白色のぬらぬらと光る無数の卵が、石柱により抉られた地面からむき出しとなっていた。
「まったく…虫けらは油断も隙もないわね」
人差し指をくいと下に向ける。ぐるぐると宙を舞っていた残りの木の葉が再び燃え上がり、卵に向かっていく。
業火に焼かれ、ぷち、ぷちと卵が嫌な音を立てて潰れていった。
その様子を冷たい目で見下ろす。表情には、一切の感情が浮かんでいなかった。
ふと、パチュリーが目を細めた。
―そして、聞き取れないほど小さく、何かを紡いだ。
◆
「あ~、随分派手に殺っちゃいましたねぇ。参ったなぁ」
唐突に声が聞こえた。声の方向を見ると、木の枝に誰かが足を組んで腰掛けていた。
ふいに炎が揺らぎ、その顔が照らされる。
「…射命丸文」
パチュリーがその名を口にする。警戒を顕にするその声には、わずかな疲労も混じっていた。
「絡新婦は妖怪の山と手を組んでたんですよ。それをこうも…うーん、困りましたねぇ。
飯綱丸様の書簡も無駄になってしまいました」
大して困ってなさそうな表情で肩をすくめる。
軽薄な口調とは裏腹に、視線だけは鋭く周囲の惨状を捉えていた。
「こいつ、妖怪の山とも手を…」
「ええ、そうなんですよ。―で、紅魔館に所属する貴方がそれを手に掛けた。
パチュリーさん。困ったことをしてくれましたねぇ」
木の枝から見下ろすその視線には、明確な値踏みの色があった。
「こいつは人里の人間に手を出したわ」
「ええ、一部始終は聞きましたよ。絡新婦は不文律を破った。あのような輩は庇う余地もないし、消されて当然です。
私達天狗は、人間を守る役割も担っていますしね」
文は人差し指を立てて、まるで講義するように続ける。
「ですが、絡新婦が言ったように本来は博麗の巫女に任せるべきでした。
人間を襲った妖怪は人間によって退治される―それがルールですから」
文は指を顎に当て、考え込むような仕草をする。
「―それにしても。その妖怪がどういった横の繋がりがあるのかを考慮せず、妖怪の山に筋を通すこともなく、一方的に粛清する。
随分貴方らしくない…冷静さを欠いた行いでしたね?」
その指摘に、パチュリーの表情が強張った。
「…だったら、何故戦いに介入しなかったの?」
「私が駆けつけたのはもう終盤でしたから。あの負傷じゃどのみち命はなかったでしょう」
炎による陽炎で文の姿がゆらり、と揺れた。
「さて、お喋りはそろそろ終わりにしましょうか」
その瞬間、文の姿が消えた。座していた枝の木の葉一枚、揺れなかった。
「妖怪の山のメンツは潰された。さあ、どう落とし前をつけてもらいましょうかね?」
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
すぐ背後から文が耳元に囁く。普段のお調子者の雰囲気は影も形もなかった。
吐息が、耳朶に触れるほどの近さだった。
「いっそ、魔女の首をいただくのもいいかもしれませんね…飯綱丸様へのいい土産になりそうだ」
「…試してみる?その代わり、貴方も無事では済まないわ」
ぼわ、と五つの光が浮かんだ。それらはパチュリーと文を中心に、円を描くように周囲を回っていた。
五色の結晶体だった。膨大な量の魔力が溢れ出し、渦巻き、辺り一帯に満ちていた。
二人の間に緊張が走った。
「絡新婦戦では『ダイアモンドハードネス』、私には『賢者の石』ですか…事前に仕込む戦い方、お見事です」
文は小さく拍手をした。その音が、やけに乾いて響いた。
「『勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求む』…それと、貴方はもうちょっと魔力を消す修練を積んだほうがいいわよ」
「これでもまっさらに消していたつもりなんですけどね…」
文が頭をかく。そしてパチュリーから離れ、距離を取った。
「まあ、冗談ですよ、冗談。
この程度の手駒のために、貴方を討って紅魔館と戦争状態になるなんてまったく割に合わないですからね。
貴方にはインタビューでもお世話になってますし。あくまで釘を差したかった…それだけです」
「そうね。私も、貴方を返り討ちにして妖怪の山と戦争状態になるのはごめんだわ」
文は苦笑した。互いに引き際を知る者同士の、静かな了解があった。
「飯綱丸様には『新興の妖怪同士の抗争があった。介入する余地もなく敗れ、間に合わなかった。相手は始末した』
とでも言っておきますよ。じゃ、私はこれで」
文は頭を下げると、飛び立とうとした。が、ふと振り返る。
「似合ってますよ、その服」
目を細め、ふっと薄く笑ってそう言うと、瞬速で去っていった。
パチュリーはちっと小さく舌打ちした。
文の気配が完全に遠ざかったのを確認すると、深く息をついた。
「―退いてくれたか…」
賢者の石は淡く明滅すると、自然と消滅した。周囲を包んでいた魔力の圧力が、潮が引くように収まっていく。
「ゴホッ、ゴホッ…」
ふいに喘息の発作が起こる。
喉の奥の違和感が増し、じわりと痛む。口の中に鉄錆の味が広がった。
胸元を抑え、細く、慎重に息を整える。
「はぁ…はぁ…」
ようやく呼吸が落ち着く。
パチュリーは人里の方向へ向けて、静かに飛び立った。
◆
―人里の西門外。
天頂に輝く太陽の光が、里の家屋に降り注いでいた。
パチュリーは目撃されないよう、少し距離を取った位置に降り立った。
「ふぅ…」
先程の戦いでは一切のダメージは受けていないが、生来の体力の無さゆえ、一定の疲労は蓄積していた。
何より、文を相手に使用した賢者の石によって魔力が大きく消耗していた。
足元が、わずかにふらつく。
改めて自分の姿を顧みる。
若干煤に汚れ、髪も乱れ、袴の裾は蜘蛛の体液で黒い染みとなっていた。
「せっかくこあに買ってもらったのに…」
思わず呟き、ため息をついた。汚れた裾を指先でつまみ、顔をしかめる。
そこに、何者かが空から降り立った。
博麗霊夢だった。
白い巫女装束の袖が翻り、長い御幣の棒を肩に担ぐ。
パチュリーは内心舌打ちをした。この状況で、最も避けたかった相手だった。
詰め所に虎太郎を走らせた時点で、博麗神社に知らせが行くことは勿論想定内だった。
だが、よりにもよって霊夢と鉢合わせするとは。
「あんた、なんで人里にいるのよ。それに、その服…」
霊夢の目は鋭くパチュリーを射抜いている。
ふと、頬の血と袴に黒い染みがついているのを見つけ、鋭さが増した。
「まさか…あんたが、子どもを拐ったんじゃないでしょうね」
並の妖怪ならば、体の芯から震えるかのような、恐ろしい眼光と声音だった。
パチュリーは、怯えるようなことはしなかった。
ただ、どうしようもない疲労感と倦怠感が全身を包み込んだ。
―わずかな沈黙。
パチュリーは冷めた目で霊夢を見つめた。
頭がひどく重く、これ以上の思考を拒絶していた。
しおりの怯えた瞳が、まだ胸の奥に焼き付いたままだった。
「…だったらどうするの?」
言ってから、自分でも驚いていた。
どうしてこんな、挑発するような最悪の返事をしてしまったのか。
だが、あながちそれも間違っていない、と思い直した。
―何しろ、自分が遠因でしおりが誘拐されたのだから。
霊夢は御幣を向け、どすの利いた低い声で言い放つ。
「―あんたを、討つ」
鋭い目には強い決意が込められていた。
パチュリーは自嘲気味に笑った。乾いた、感情の薄い笑い声だった。
「何がおかしい!」
霊夢が鋭く声を上げる。
かつて満月の夜の下、マミゾウに言われた警告を思い出した。
『我々は姿形が人間に似てようが、妖怪であることに変わりはない』
―あの言葉が、今になって重く胸にのしかかる。
「いえ…所詮、妖怪は妖怪。人間は人間…改めて実感したわ」
その瞳は諦観に満ちていた。
風が吹き、草花が揺れる。
どこからか、雀が降り立ち、虫をついばむ。
何も知らぬ小さな営みが、緊張した空気の中でやけに場違いに映った。
そして、空に羽ばたいた瞬間―
二人はほぼ同時に宙に飛び立った。
―そこに、スペルカード宣言はなかった。
すかさず霊夢が数枚の御札をパチュリーの移動先へ偏差撃ちする。
白い紙片が、鋭い刃のように空を切り裂いた。パチュリーはそれを見切り、軌道を変えて回避し、短く詠唱する。
「―メタルファティーグ」
複数の魔法陣が空に浮かび、金属弾が射出される。それらは途中で弾け、散弾のように霊夢に襲いかかる。
お互いに、魅せるための弾幕は一切排除していた。
それは遊戯としての決闘ではなく、明確に、相手を仕留めるための戦いだった。
霊夢は複雑な軌道でそれらを難なく避けつつ距離を詰め、封魔針でパチュリーを狙い撃つ。
―常に距離を取らなければ…。
パチュリーは詠唱を優先し、回避行動を取ること無く後ろに下がり、針は魔法障壁で弾かれるのに任せた。
見えない壁に複数本の針が阻まれつつも、明確にヒビが入るような音が聞こえた。危うさが、指先を伝う冷たさとなって残る。
「―シルバードラゴン」
詠唱を終えると同時に、背後に巨大な魔法陣が現れ、白銀の鱗を持つ巨竜が咆哮を上げつつ這い出した。
空に、咆哮が長く尾を引いて響き渡った。
◆
―寺子屋の教室。
小悪魔と慧音は、魔力同士がぶつかり合う強烈な奔流を感じ取った。
「これは…!?」
障子を勢いよく開け放ち、縁側から外を見る。
西門の向こう側の空中で、誰か二人が派手な弾幕戦を繰り広げているのが見えた。
人里の人々もざわめき、空を見上げていた。空を彩る光の乱舞が、遠くからでもはっきりと見えた。
「あれは…パチュリー様の魔法!?どうして、こんな里の近くで…」
「…まさか、霊夢と鉢合わせて?」
慧音は思考を巡らせた。眉間に、深い皺が刻まれる。博麗神社へは詰め所から早馬を送っていた。
「何らかの行き違いで、パチュリーが誘拐犯と間違われているのではないか?」
慧音のつぶやきに、小悪魔が頷いた。
「有り得ますね。パチュリー様は誇り高きお方。言い訳せずにそのまま戦いに突入したのかも…」
あの主人ならば、きっとそうするだろう、という確信にも似た不安が滲んでいた。
慧音は振り返り、生徒たちに強く言った。
「皆、ここで待ってるんだ!絶対外へは出るなよ!」
二人は縁側から地を蹴り、宙へと飛んでいった。それを見て生徒たちがどよめく。
しおりは縁側から空を見上げた。遠くで色とりどりの光が飛び交っている。
「八里先生が…戦っている…?」
しおりは少しためらった後、教室を飛び出した。足が、無意識のうちに動いていた。
「しおり!外に出るなって慧音先生が言ってたろ!」
虎太郎が注意するも、躊躇うことなく西門へと駆けていった。
◆
魔力で生み出された白銀の竜が顎を大きく開き、白いブレスを放射し、射出された御札を燃やし尽くす。
霊夢は右手に飛び退き辛うじて避けるも、巫女服の裾を焦がした。
「封魔陣!」
霊夢が両手に御札を持ち、放った。
大量の御札が意思を持つかのように飛び交い、白銀の竜を中心に幾何学模様の陣を描き、眩く光る。
竜はやがて苦しそうに身悶えし、断末魔を上げ、消滅した。
パチュリーはその間、詠唱を続けていた。額に浮かぶ汗が、頬を伝って顎から滴り落ちる。
―なぜ、私は霊夢と戦っているのだろうか。
ふと頭に浮かんだ。その問いに、明確な答えを見つけることができなかった。
喘息の調子が悪く、喉の奥が焼けるように熱い。
途切れ途切れの詠唱ではあるが、竜が十分な時間を稼いでくれた。
「―サンシャインリフレクター」
無数の金属板が周囲の空間に乱立し、覆った。
霊夢はその鏡面世界に自身の姿が延々と鏡写しのように投影され、方向感覚や位置感覚が失われる。
そして、金属板から収束された魔力による光線が霊夢に向かって次々と発射された。
「こんなものっ!」
霊夢は光線を誘導しつつ急制動でそれらを回避し、封魔針を全方位に放つ。
針は金属板を破壊するが、その内幾つかは、破壊されると同時に込められた魔力による魔弾が襲いかかった。
霊夢は強引にそれらをかいくぐりつつ、手に持った御幣を縦横無尽に振り回し、
乱立する金属板をすれ違い様に、まるで狂戦士のように次々と破壊していった。
金属板の砕ける音が、空を切り裂き続けた。
「ぜえ、ぜえ…」
パチュリーは息を切らしていた。視界が、霞み始めていた。
―私は誘拐犯じゃない、そう言えば事足りたのに。
頭の片隅で途切れ途切れの思考が浮かび上がる。
絡新婦戦からの疲労に加え、立て続けに魔法を使い続けたことで底なしの魔力も流石に枯れ果てそうだった。
何より喉の奥の不快感が無視できないほど強くなっている。
「―エメラルドメガロ…」
そこまで言ったところで、耐えきれずごほっごほっと激しく咳き込む。
口を押さえた手を見ると、血で汚れていた。その赤い染みを、他人事のようにぼんやりと見つめた。
こんな状態で、霊夢に勝てるはずがない。
それは戦い始める前から、自分が一番よく分かっていた。
視界の端が黒く滲み、狭まっていく。聞こえるのは、霊夢が次々と金属板を叩き割る耳障りな音。
やがて、音が聞こえなくなった。
霊夢がいないことに気づいた、一瞬の後―
「上…!」
見上げると頭上から陰陽玉が勢いよく迫り、甲高い音を上げて魔法障壁が砕け散る音が響いた。
辛うじて陰陽玉の直撃を避けるも、陰陽玉に隠れるように迫っていた霊夢が肉薄する。
「くっ…!」
「これで、とどめよっ!」
霊夢が御幣を両手に持ち、振りかぶる。白い袖が大きく翻った。
瞬間―
まるで時間が限界まで引き伸ばされ、世界が静止したかのような錯覚を覚えた。
手足の感覚はなく、意識の輪郭が曖昧になり、遠のいていく―
思考は飽和し、やがて色を失って霧散した。
迫り来る紅白の影を前に、パチュリーは、静かに目を伏せた。
握りしめていた魔導書を離す。それは、頁が捲れる乾いた音を立てて、地面へと落ちていった。
完全に無防備な姿で、訪れるであろう致命の一撃を受け入れようとした。
霊夢はまるで刀で斬首するかのように、パチュリーの首元に御幣を振るう。
風を切る鋭い音がした―
◆
西門には人だかりが出来ていた。
空で繰り広げられる弾幕戦を見ようと、野次馬が押しかけていたのだ。
「危険だから、下がってください!」
門衛が必死にそれを押し留めようとする。
人々の頭上を、色とりどりの光が絶え間なく舞っていた。
西門は空いていた。
恐らく、外にいる人が避難できるよう、また、締め出さないようにするための措置だろう、としおりは思った。
人の間を縫い、最前列まで抜け出す。
より近くで空を見ると、戦っている内の一人は遠目にも明らかに八里先生だと分かった。
無数の金属板が展開され、博麗の巫女がものともせず金属板を蹴散らしながら肉薄しようとしている―
それは、素人目に見ても八里先生が不利な状況で、追い詰められているように見えた。
心臓が、早鐘のように打ち始める。
―先生が、博麗の巫女に殺されるかもしれない。
「―っ!」
その悍ましい想像に、しおりは矢も盾もたまらず、門衛の隙をついて門の外へ駆け出した。
「あっ、待ちなさい!危ないぞ!」
後ろから門衛の声が聞こえたが、構わず脚を踏み出す。息が上がり、汗が前髪を張り付かせる。
小さな身体を懸命に前へ、前へと走らせた。
◆
パチュリーは伏せた目をそっと開いた。
霊夢が振りかぶった御幣は、パチュリーの細い首の皮膚から触れるか触れないかという位置で、ぴたりと静止していた。
空気の張り詰めた、刃物のような静寂がその場を支配した。
「ま、待ってください!」
小悪魔と慧音が空を必死に飛び、ようやく二人のもとに追いつく。
息を切らした声が、緊迫した空気を切り裂いた。
「霊夢さん、違うんです!パチュリー様は拐われた子どもを助けたんです!」
小悪魔の必死の表情に、霊夢の目から闘気が消え去っていく。
「霊夢、小悪魔の言うとおりだ。パチュリーが追いかけて、寺子屋の生徒を連れ戻してくれたんだ」
慧音も説得する。息を整える間もなく、必死に言葉を継いだ。
「パチュリー様も、どうしてきちんと話さないんですか…!」
小悪魔が批難するも、パチュリーの目は虚ろで、無表情だった。
いつにもまして顔色が青白い。そこには疲労の影が色濃く落ちていた。
「はー…だったら最初からそう言いなさいよ!ややこしいのよ、まったく」
霊夢が呆れたように肩をすくめた。パチュリーの首元から御幣を、ゆっくりと下ろす。
小悪魔がひたすら頭を下げる。
パチュリーは力を失ったかのように、ゆっくりと降下し地上へ軟着陸した。
自然と、一同も地上へ降り立つ。乾いた土の感触が、足の裏に伝わった。
「霊夢…どうして私を討たなかったの。こあ達が駆けつける前に、とどめを刺せたはずよ」
パチュリーの淡々とした問いに、霊夢は頭をポリ、と掻いた。
「―まあ、あんたが誘拐なんてケチなことするような奴じゃないって知ってるしね。
一発ぶん殴って、白黒はっきりさせようと思ったのよ」
そして、小さく苦笑する。
「…大体、そんな泣きそうな顔した奴が犯人なわけないでしょ」
「泣きそうな…?」
パチュリーは思わず自分の顔に手を当てた。指先が、頬をなぞる。
霊夢はため息をつき、腕を組んでぼそりと呟いた。
「…ほんと、不器用な奴」
パチュリーは一瞬ぽかんとした後、ふふと笑った。
口の中で小さく「貴方もね」と呟いたが、霊夢には聞こえなかったようだ。
「で、その犯人の妖怪は…」
「始末したわ。黒幕も含めてね」
「そう…ま、助けてくれたことには礼を言うわ。けど、堂々と人里で妖怪が闊歩してるのは…」
「分かってるわ」
パチュリーが遮る。声には、既に何かを覚悟したような静けさがあった。
―パチュリーは、妖怪からしおりを助けたときの光景がフラッシュバックした。
しおりが恐怖で震え、自身を心底怯えた目で見つめているその様を。
「…」
一瞬、目を伏せた。やがて、目を開き霊夢に向き合う。
「安心して。もう出ていくから」
小悪魔は驚いた。目を見開き、思わず一歩踏み出す。
「パチュリー様、いいんですか?しおりちゃんや、寺子屋の子どもたちが…」
「これが、あの子たちのためでもあるのよ」
「…」
パチュリーは無表情だった。小悪魔は悲しそうに目を伏せる。
小悪魔は意を決し、霊夢の元に駆け寄る。霊夢は一瞬身構えた。
「霊夢さん。一つだけお願いがあります」
小悪魔は胸に手を当て訴えた。声には、わずかな震えが混じっていた。
「大通りにある『甘味処 名華』のお婆さんにお伝え頂きたいんです。
『七詩ここあは、事情により急遽実家に帰ることになりました。
挨拶もできずごめんなさい。そして、これまでどうもありがとうございました』と―」
霊夢はじっと小悪魔の目を見つめた。少し潤んだ、真剣な赤い瞳を。
「…ええ、必ず伝えるわ」
静かに力強く頷き、微笑んだ。
「―ありがとうございます!」
小悪魔は深く頭を下げて礼を言い、パチュリーの元にふわりと飛んで戻った。
二人はゆっくりと歩み去っていく。足取りは重かった。
「先生!」
力強い声に、パチュリーは立ち止まり、振り返った。
―それはしおりだった。息を切らし、頬を上気させて駆けてくる。
パチュリーの元まで駆け寄ると、膝に手をつき、肩を上下させ、はぁ、はぁと息を上げた。
「…」
しおりはためらって顔をそらす。身体はまだ、わずかに震えていた。
恐怖の名残と、それでも駆けつけた勇気とが、小さな体の中でせめぎ合っているようだった。
ふいに、しおりの脳裏に記憶が走馬灯のように駆け抜けた。
―質問に優しく答えてくれたこと。
―参考書を「貴方なら役立てる」と貸してくれたこと。
―苦手な運動について、不器用に励ましてくれたこと。
「あ、あの…」
ためらいつつ、意を決して口を開く。
「た…助けてくれて、あ…ありが、とう…」
頭を下げる。けれど、目は合わさなかった。
パチュリーは驚いた表情を浮かべたが、やがてしおりに歩み寄り、しゃがみこんで言った。
目線を合わせ、小さな瞳をまっすぐに見つめる。
「沢山本を読んで、しっかり勉強しなさい。身につけた知識は、必ず貴方を助けてくれるわ」
どこか寂し気に、笑いかける。
そこには、これが最後の言葉になるという覚悟が込められていた。
しおりはそんなパチュリーを正視できなかった。
手をぎゅっと握りしめる。俯いた視線の先で、指先が白くなるほど力がこもっていた。
―しばしの沈黙。
風が、二人の間を静かに吹き抜けていった。
やがて、勇気を振り絞って真正面からパチュリーを見つめた。
瞳には、恐怖を押し退けた、確かな意志が宿っていた。
「―うん」
聞き取れないほど小さな声で返事し、こくりと頷いた。
後ろで慧音は、無言で深く頭を下げた。
◆
「人里を出てきたはいいけど、次はどこに行きましょうか…」
「…」
パチュリーと小悪魔は無言で歩いていた。
そよ風が、草花と、パチュリーの紫の髪を揺らした。
―静かだった。
見渡す限りの草原。優しく降り注ぐ陽光。
まるで、世界に二人しかいないかのように感じられた。
「あ…」
ふと、パチュリーの身体がぐらりと揺らぎ、倒れそうになった。
「パチュリー様!」
慌てて小悪魔が細い体を支える。
まるで紙のように軽く、儚く、今にも消えてしまいそうに感じた。
丁度、腕と胸で抱きとめるような形になった。
どくん、どくん、と胸の鼓動の音と、体温。
それらが、お互いに伝わった。
―しばらくの沈黙。
虫の鳴き声だけが、静かに二人を包んでいた。
「私は、どこだろうと」
ふいに、パチュリーが呟く。
「貴方がいれば、生きていけるわ」
そう言って、小悪魔の手を握った。
「パチュリー様…」
その、様々な感情が混ざり、揺らぐ瞳を見て、小悪魔は思わず手を握り返した。
自然と、互いに指を絡ませる。
―時間が、永遠のように感じられた。
やがて、パチュリーは縋るように、顔をゆっくりと小悪魔に寄せた。
小悪魔は一瞬だけ目を見開いた。
互いの吐息が触れそうな距離まで近づいた、その時―
小悪魔は逡巡しつつ、ほんの少しだけ身を引いた。
パチュリーは動きを止めた。小悪魔を見つめる紫の瞳が、揺らいでいた。
小悪魔は目を伏せた。そして、意志を固め、笑顔で口を開いた。
「大丈夫ですよ。私は、どこへだってついて行きます」
パチュリーは小悪魔の応えを受け、まっすぐに瞳を見つめた。
―やがて、柔らかな笑みを浮かべ、一歩退いた。
軽く衣服を整え、猫背がちな背筋を真っすぐ伸ばす。目には、主人たる威厳が戻っていた。
「―ありがとう。これからもよろしくね、こあ」
それは、信頼と、情感に満ちた声音だった。
◆
そこに、咲夜が唐突に現れた。
音もなく現れたその姿に、二人は驚いた。
「―!」
「パチュリー様、こあ。お久しぶりです」
パチュリーと小悪魔は一瞬目を見合わせ、咲夜に向き直る。
「紅魔館へお帰りください。お嬢様がお待ちです」
「…追放から丁度二週間。予想より、少し遅かったわね」
パチュリーが咲夜を睨んだ。だが、視線には普段の刺すような皮肉めいた色はなかった。
小悪魔がキョトンとした顔で首を傾げる。
「―私たち、追放されたんじゃ?それに、よく居場所がわかりましたね」
小悪魔が疑問を呈する。
「すべてはお嬢様ご自身からお話がございます。居場所については―」
「小鈴の文通の手紙に書かれてあったんでしょう?」
パチュリーが遮るように、確認に満ちた声で言った。
「…よくご存知で。まさか里の外に出られていたとは。まだ近くにいらっしゃって助かりました」
咲夜の安堵のこもった言葉に、パチュリーは腕を組んで目を逸らした。
「…人里の噂で、概ね話は聞きました。誘拐された子どもを命を張って助け、霊夢に討たれかけた、と。
―本当に、ご無事で何よりでした」
咲夜は陰りの色が差した表情を浮かべ、深く頭を下げた。
それを見たパチュリーがふん、と鼻を鳴らした。
「万全だったなら、霊夢相手だろうとあんな醜態は晒さないわ」
小さく口の中で呟いた。咲夜はその強がりを聞き、わずかに口元を緩めた。
「それでは、私は一足先にお嬢様に報告致します。では、失礼」
咲夜はそう言うと、姿を消した。時止めの能力で紅魔館へ帰ったのだろう。
小悪魔は頭の中が疑問符だらけになった。
「え、えっと、どういう…?」
「さ、いきましょう」
パチュリーはそれには答えず、少しよろけつつも魔力を振り絞って、紅魔館へ向けて飛び立った。
紫の髪がふわりと広がった。
< 終章 >
―紅魔館。
館の入口の前で、レミリアが日傘を差して待っていた。
いつもと変わらぬ余裕を装っていたが、傘の柄を握る手には、わずかな力がこもっていた。
「おかえりなさい、パチェ」
まるで、ちょっとした用事で出かけて帰ってきたかのような、普段通りの言葉。
だが、芯には深い後悔と謝罪の意が感じられた。
レミリアは暗い表情で俯きつつ、懺悔するように話す。
「咲夜から聞いたわ。とても辛い経験をした、と…。私は、貴方に―」
「大丈夫。何も言わなくていいのよ、レミィ」
言葉を遮るように言われ、レミリアは言葉を飲み込み―やがて、頷いた。
パチュリーは穏やかな笑みを浮かべた。
「ただいま」
レミリアは一瞬だけ目を丸くした。だがすぐに口元を緩める。
「…フフ」
少しだけ肩の力を抜き、くすりと笑う。
張り詰めていた何かが、ほどけたようだった。
「こあもおかえりなさい。よくパチェを支えてくれたわね」
レミリアが小悪魔に声をかける。
小悪魔はほんの一瞬、表情を曇らせた。じっとレミリアを見つめる。
口を開き、何かを言いかけたが飲み込んだ。やがて、絞り出すように言った。
「………いえ、パチュリー様と共に人里で過ごし、良い経験になりました」
小悪魔は小さく一礼した。
レミリアはしばらく小悪魔を見つめ―そして、目を伏せた。
全てを察したような、静かな仕草だった。
「…さあ、湯浴みが終わったら食事にしましょう。ご馳走の準備ができているわ」
レミリアが玄関へ入ろうとして、振り返った。
日傘の房飾りが小さく揺れた。
「―二人とも、似合ってるわよ。その服」
優しく微笑み、そう呟いた。
◆
―紅魔館、執務室。
窓がない豪奢な部屋には複数の燭台が設置され、揺れる火がわずかに室内を照らしていた。
その薄闇の中、レミリア・スカーレットは書類が山積みの執務机に向かって、ちょこんと座っていた。
応接ソファーには本を読んでいるパチュリー・ノーレッジが腰掛けている。
あの日と同じ光景。だが、そこに流れる空気は、確かに何かが違っていた。
「人里の稗田家や上白沢慧音から、図書館の一部の書籍の貸し出し、または写本の提供の相談が来ているわ。
相応の対価は支払う、寺子屋の学習に利用したい、とのことだけど…。
恩を売ることで後々の人里進出に有利に働くかもしれない。私はいいと思うけど、どうかしら」
パチュリーは本を閉じて、顔を上げた。脳裏にしおりや寺子屋の生徒達の顔が浮かんだ。
「…こちらにリスクはないし、里の有力者と公に繋がりを構築できる。受けるべきね。対価は…」
そこで言葉を切った。授業をした日々が自然と再生される。
「三十銭」
パチュリーが口にした金額は、寺子屋の日給と同じ額だった。
「たったそれだけ?」
「いいのよ、あくまで建前だから」
その声色には、かつての日々を懐かしむような、柔らかさがあった。
レミリアが頷いた。
「じゃあそう返事するわね。次。人里の西の森が、件の絡新婦が消えたことで、政治的空白地になってるわ。
その隙を突いて、妖怪の山が尖兵を送って実効支配しようと動いてるフシがあるのだけれど…。
静観するか、こちらも対抗するか、どちらがいいかしら。私としては、このまま好きにされるのは癪に障るわね」
パチュリーは一瞬、思考を巡らせる。
合理的に考えても、リターンは小さく、リスクのほうが大きい。それに―
いつかの文とのやり取りが蘇った。絡新婦を屠った森の中で交わした、あの静かな駆け引きを。
「―静観で構わない。あの土地に旨味はないし、下手に妖怪の山との関係を拗らせない方がいいわ」
「そう?…ふむ、じゃあ放置するわ。次―」
―これで貸し借りなしよ、文。
パチュリーは内心で呟いた。
ふと、パチュリーはレミリアの執務机の上に一冊の本があるのに気づく。やけにカラフルなイラストが載っている。
「レミィ、その本は?」
尋ねると、レミリアは慌てたように本を隠した。その慌てぶりに、パチュリーは訝しげに目を細めた。
「あ、えっと。これは美鈴からお勧めされた漫画本よ。こういうの、貴方は興味ないでしょう」
パチュリーは首を傾げた。
◆
―図書館。
乾いたインクと埃っぽい匂いが漂う、静寂に満ちた叡智を湛える空間。
小悪魔が紅茶のティーカップをそっとパチュリーの机に置いた。
湯気と香りが、ふわりと立ち昇る。
パチュリーは羽ペンを走らせて便箋に何かを書いていた。
「それは…お手紙ですか?」
「ええ。阿求と小鈴宛の、図書館への招待状」
それを聞いて、小悪魔がかつての日々を思い出し、笑みを浮かべた。
「パチュリー様、一つお伺いしても良いでしょうか」
「何かしら」
「―レミリア様が本気で追放したわけじゃないって、分かってらっしゃったんですか?」
しばしの沈黙。ペン先が、便箋の上で止まった。
「まあ、恐らくそうだろうとは、ね…何十年もの付き合いのある私を、あんな簡単に手放すわけ無いでしょうし」
小悪魔は首を傾げる。
「けど、その割には日々の生活がかなり真に迫ってましたよね」
「…レミィが本気だろうと、本気でなかろうと、生活しなきゃいけないんだからやること自体は変わらないわ。それに―」
「それに?」
「…あの日々も、それほど悪くはなかった…ただそれだけよ」
すまし顔でそう嘯くパチュリーを見て、小悪魔が優しくにこと笑った。
ふと、パチュリーは小悪魔が手に持っている本に目がいった。
「その本は?」
小悪魔はびくり、と身を竦ませた。手にした本を、背中に隠そうとする。
「あ、あー…これは、レ…私が借りて、読んでた本です。返却を頼ま…返却しようかと…」
しどろもどろした反応に、パチュリーが訝しがる。
小悪魔の脳裏には「散々小言を言われそうで、咲夜には頼めないの。お願い!」と頭を下げて
代わりに返却してほしいと懇願するレミリアの姿が蘇っていた。
「…ちょっと見せてくれる?」
「ぱ、パチュリー様がお気に召すような本じゃないですよ!?そ、それより今日の夕ご飯って何でしょ―」
「見せなさい」
その言葉に抗いきれず、小悪魔は恐る恐る本を手渡した。
そこにはポップなフォントの日本語でこう書かれていた。
『追放された引き篭もり魔女ですが、気ままにスローライフを送ります』
それは外の世界の本―外来本だった。
表紙には帽子を被った魔法使い然とした美少女のカラフルなイラストが描かれていた。
パチュリーの本を持つ手が震えた。指先に、みるみる力がこもっていく。
「レミィ…」
身体の奥底から絞り出すような、恐ろしい声。小悪魔は思わず手で顔を覆った。
「ふ…ふふ…」
小悪魔がちら、と指の隙間から主人を見る。
「あはははっ!」
パチュリーが声高に笑う。笑い声が、図書館の静寂に響き渡った。
小悪魔は驚いた。主人がこんな風に笑うのは、これまで一度も見たことがなかったからだ。
「はぁ、まったくレミィったら…」
目頭に浮かんだ涙を指ですくう。
「こあ、この本私が借りるわ」
「えぇ!?け、けどパチュリー様が好まれるような本では…」
小悪魔が仰天する。
「ま、たまにはこういうのもいいでしょ」
そう言って苦笑しつつ最初の一頁を捲った。
そこには、大きなフォントでこう書かれてあった。
『貴方の振る舞いはこれ以上看過できない!よって、貴方を追放する!!』
―静寂に満ちた図書館には、頁を捲る音だけが微かに響いていた。
これを書いてくれてありがとう