Coolier - 新生・東方創想話

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2026/07/16 12:46:48
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 梅雨が明けた翌朝の魔法の森は、まるで世界が水を含んで膨らんでいるみたいだった。
 葉の一枚一枚が光を受けてぬらりと輝き、土はまだ雨の匂いを手放していない。踏み込むたびに足元がわずかに沈み、森全体が息をしているような、そういう感触がある。梅雨明けの森だけが持つ、あの特有の重さと豊かさ。蒸れた緑の気配が立ち込めて、肺の奥まで緑色に染まりそうだった。
 どこかで水滴が落ちる音がした。葉先に溜まっていた雫が、下の葉へ、さらにその下の葉へと落ちていく。ぽつり、ぽつり。雨はとうに止んでいるのに、森はまだ昨夜の続きを演じているようだった。梢の高いところでは蝉がまだ鳴き方を思い出せずにいるらしく、途切れ途切れの試し鳴きだけが響いている。土から立ちのぼる湿った匂いに、腐葉土の甘い匂いが混じっていた。夏の始まりの匂いだ、とリグルはいつも思う。命が始まる匂いと、何かが終わっていく匂いは、案外よく似ている。
 
 リグル・ナイトバグは、倒木の傍らに膝をついていた。
 倒れているのは老人だった。仰向けに、両腕を体の脇に沿わせたまま、草の上に横たわっている。
 息はない。
 三日前から、ない。
 リグルはそれを知っていた。老人がこの場所に辿り着いた瞬間から、ずっとそばで見守っていたから。
 森の中でひとりで死ぬというのは、あるいは迷子になって行き倒れるということは、普通は恐ろしい最期のはずだ。けれどこの老人の顔には、そういう種類の何かが欠けていた。目は閉じられ、口元は引き結ばれてもいなければ歪んでもいない。ただ静かに、眠るように——という比喩は死者に使い古された言葉だけれど、他に表しようがない——横たわっている。
 白髪はほとんど失われ、残ったわずかな髪も雨に濡れて頭皮に張り付いている。皺だらけの手は、若い頃の名残なのか、指の関節が節くれ立って大きい。虫取り網を握っていた手だ、とリグルは思った。もう何十年も前のことになるけれど、あの手の形だけは変わっていない。
 
 夏になるたびに、この森へやってきた少年だった。
 思い出すのは何十年も前のことだ。背が低くて、日に焼けて、虫取り網を振り回しながら森の縁を走り回っていた子供。カブトムシを捕まえたといっては歓声を上げ、アゲハの幼虫を踏んでしまったといっては泣きべそをかいた。
 人間の子供というのは、だいたいそういうものだ。虫を愛するのか殺すのかよくわからない、曖昧な感情の塊。
 リグルは最初、そのうち怖がらせてやろうと思っていた。妖怪として当然の矜持だ。害虫を恐れない人間、ましてや虫を平気で踏む人間には、相応の目に遭ってもらわなくてはならない。

 初めてその少年を見つけたのは、やはり梅雨明けの頃だった。まだ背丈がリグルよりうんと小さい、五つか六つの子供。虫取り網も持たず、素手で草むらに突っ込んでは何かを摘み上げ、しげしげと眺めては歓声を上げていた。
「うわあ、光ってる!」
 摘み上げたのは蛍だった。まだ日が高い時間だったから光ってはいなかったはずだが、少年はそう言い張った。丸い目で、羽の付け根の光る器官を覗き込んでいる。
 リグルは近くの茂みに隠れて、その様子を見ていた。人間の子供が一匹で森に入り込むのは珍しいことではないが、大抵はすぐに泣き出すか、怯えて逃げ帰るかのどちらかだ。この子はどちらでもなかった。夢中で虫を追いかけ回し、転び、膝を擦りむいても気にせず立ち上がり、また追いかけた。
 リグルは少し苛立った。
 驚かせてやろう。少しくらい痛い目を見せてやろう。虫の妖怪としての矜持だ。
 しかし機会をうかがっているうちに、少年は蟻の巣を見つけて座り込んでしまった。地面に這いつくばるようにして、蟻の行列をじっと観察している。何時間でもそうしていそうな集中の仕方だった。
「何してんの、それ」
 リグルは我慢できずに、木の陰から姿を現した。人間の目には奇妙な羽虫の妖怪と映ったはずだが、少年は驚くどころか目を輝かせた。
「わあ、お姉ちゃん誰? 妖怪?」
「私は——」
 言いかけて、リグルは言葉を止めた。この子供は自分を怖がっていない。怯えさせるつもりで出てきたのに、興味津々な顔で見上げられている。
「蟻ってさ、どうしてまっすぐ歩くの? 迷わないの?」
 その質問に、リグルはつい答えてしまった。フェロモンの道のこと、女王蟻のこと、巣の構造のこと。少年は目を輝かせて聞いていた。気づけば日が傾き始めていて、里の方角から少年を呼ぶ声が聞こえてきた。
「あ、母ちゃんだ」少年は慌てて立ち上がった。「またね、虫のお姉ちゃん!」
 走り去っていく背中を見送りながら、リグルは自分がすっかり機会を逃してしまったことに気づいた。

 次の夏も、また次の夏も、少年はやってきた。
 ある夏、少年はアゲハの幼虫を踏んでしまい、本気で泣いた。緑色の小さな体が潰れて地面に張り付いているのを見て、しゃがみこんで動かなくなった。
「ごめん、ごめんね……」
 謝りながら、土を指で掘り返し、潰れた幼虫を丁寧に埋めてやろうとしていた。その真剣さがおかしくて、リグルはとうとう怖がらせる機会をまた逃した。
「そんなに悲しいなら、最初から踏まなきゃいいのに」
「わざとじゃないもん」少年は洟をすすりながら言い返した。「見てなかっただけだもん」
「見てなかったら踏んでいいってわけじゃないでしょ」
「わかってるよ! だから謝ってるんじゃん!」
 妙な理屈だとリグルは思ったが、口には出さなかった。少年は掘った穴に幼虫を横たえ、土をかぶせ、その上に小さな石を置いた。墓のつもりらしい。誰も見ていないところでそんなことをする人間の子供を、リグルはそれまで見たことがなかった。

 少年はどんどん大きくなり、少しずつ賢くなった。虫の習性を覚え、足音を殺すことを覚え、捕まえた虫を気の済むまで観測して、いつしか逃がすようになった。
 十歳を過ぎた頃には、少年は虫取り網の扱いにもすっかり慣れていた。カブトムシの角の使い方、クワガタの挟む力、蝶の鱗粉が指につくと二度と元には戻らないこと——そういう知識を、まるで宝物のように蓄えていった。
「この前、カブトムシ捕まえたんだ」ある夏、少年はリグルに得意げに報告した。「でも一晩飼って、逃がしてやった」
「なんで逃がしたの」
「もう見たから」少年は答えた。「見たいものはもう見たし、あとはあいつが好きに生きればいいと思って」
 その答えに、リグルは少しだけ驚いた。捕まえて、満足して、手放す。独占するでも、貪るでもない。そういう距離の取り方もあるのだと、この時初めて知った。
 
 他の妖怪がちょっかいをかけようとするたびに、リグルは先回りして追い払った。
「別に保護しているわけじゃない」
 誰に言うでもなく、リグルはそう独り言ちた。ただ、アイツは自分の獲物だから、他の妖怪には手を出させたくなかった。それだけのことだ。

 十三歳の夏、少年は珍しく友人を連れてきたことがあった。同じ年頃の少年で、虫が苦手なのか、蜘蛛の巣に引っかかっただけで大げさに悲鳴を上げていた。
「情けないな、お前」
 連れてきた本人がそう言って笑うのを聞いて、リグルは木の陰でひそかに愉快な気分になった。虫を怖がる人間はいくらでもいる。それが普通で、目の前の少年の方が例外なのだ。ただ、その例外がずっと自分の獲物であり続けているという事実に、少しだけ奇妙な満足感を覚えている自分にも気づいていた。

 少年が十五を過ぎた頃、初めて夏の来訪が途切れた。次の年も来なかった。三年目にようやく現れた少年は、背丈がすっかり伸びて、声も低くなっていた。
「久しぶり」少年は照れくさそうに言った。「勉強が忙しくてさ」
「へえ」
 リグルはそっけなく答えたが、内心では少し安堵していた。もう来ないのかもしれないと思っていたから。
 二十歳を過ぎた頃には、少年は隣に誰かを連れてくるようになった。同じ年頃の娘だった。「この森、俺が子供の頃からよく来てたんだ」と誇らしげに紹介する少年——もう少年と呼ぶには大人びていたけれど——の横で、娘は虫を怖がって悲鳴を上げていた。リグルは物陰から、その様子を面白がって見ていた。

 少年は大人になり、伴侶を得て、子供を持ち、老いた。来る間隔は少しずつ開いていき、あるときから杖をつくようになり、しかしそれでも夏が来るたびに、この森へやってきた。自身の孫だろうか、小さな人間を連れてきて虫や森について嬉しそうに話をしている時期もあった。
「ここにな、蟻の巣があってな」白髪の交じり始めた頭で、小さな子供の手を引きながら、彼はそう話していた。「じいちゃんが子供の頃、よくここで遊んだんだ」
 リグルはその声を、少し離れた木の陰から聞いていた。何十年経っても、あの子供の頃の声の芯のようなものは変わらないのだと思った。

 最後の数年は、里の人間たちが何度も連れ戻しに来た。杖をついてもなお森へ入ろうとする老人を、若い者たちが両脇から支えて連れ帰っていく光景を、リグルは何度も見た。なぜ森へ行くのかを問うても、老人はうまく答えられなかった。家族の顔が、名前が、もう頭の中に残っていなかったのだろう。
 それでも足は、この森を覚えていた。
 
 
「おかえり」
 リグルは呟いた。返事は来ない。来るはずがない。
 それでも言葉は、梅雨明けの空気の中に静かに溶けた。
 リグルは立ち上がり、周囲を見渡した。指示は既に出してある。集まってきた虫たちが、老人の体の周囲で静かに待機している。甲虫、蟻、蛆虫、普通の人間が見たら卒倒するような顔ぶれだが、リグルにとっては全員、信頼できる働き手だ。長年この森で共に過ごしてきた顔ぶれでもある。
「じゃあ、始めようか」
 静かに、しかし容赦のない、葬送が始まった。
 最初に動いたのは蟻の一団だった。列を成して老人の体に取り付き、衣服の隙間から、皮膚の柔らかい部分から、仕事を始めていく。その動きに迷いはない。次に甲虫たちが体液を吸い上げ始め、少し遅れて蛆が卵から孵り、静かに、しかし着実にその数を増やしていった。
 リグルはその一部始終を、少し離れた場所から見守っていた。手を出すことはしない。ただ見ている。それが自分の役目だと知っているから。

 三日後に、死神の小野塚小町がやってきた。
「おーい」
 間延びした声が森の奥まで届いた。小町が本気で急ぐことはない。死神というのはどこへだって間に合う存在だ——あるいは間に合わなくても、それはそれで仕事のうちだという考え方もある。しかし今日は、いつもより少しだけ足が速かった。
 三日前に死んだはずの魂が、彼岸への渡しにやってこないのだ。
 それだけならまだいい。未練を残した魂や、自分が死んだとわかっていない魂は珍しくない。問題は、里でも大騒ぎになっているということだった。老人は里の人間で、家族があって、何度も行方不明になっては連れ戻されてきた人物だ。また森へ行ったのだろうとは誰もが思っていたが、今回は戻ってこない。捜索願が出て、人間たちが森の縁まで探しに来ている。
 小町が直接出向いてきたのは、早く魂を回収して彼岸へ送り届けるためだった。放っておけば、里の人間たちが自ら森の奥まで踏み込んでくるかもしれない。それは面倒事の種になる。魔法の森は人間が気軽に立ち入っていい場所ではないし、妖怪たちとの間に余計な軋轢を生む。死神としても、そういう事態は避けたかった。
「いたいた」
 森の奥、倒木の傍らに辿り着いた小町は、目に入ったものを見て少し眉を上げた。
 老人の体は、三日前とはかなり様相が変わっていた。顔色はもちろん、輪郭そのものが少しずつ——変わりつつある。周囲には無数の虫たちが、実に忙しそうに動き回っている。蟻の列が何本も走り、甲虫が体液を吸い、蛆虫が——まあ、蛆虫は蛆虫の仕事をしている。
「おいおい」小町は鎌を担ぎ直した。
「酷い有様だね。……まあ、三日も経てばそうなるか」
「来たね、死神」
 声がしたので振り向くと、リグルが倒木の上に座っていた。足をぶらぶらさせながら、こちらを見ている。
「あんたが見張ってたのか、こんな場所で三日も?」小町は少し意外そうな顔をした。
「別に、ずっとついてたわけじゃないよ、近くにはいたけど」リグルは肩をすくめた。
「ふうん」
 小町は老人の体の周囲をゆっくりと歩きながら、魂の在り処を探した。すぐに見つかった。老人の輪郭のすぐそばで、うっすらと光を帯びながら漂っている。
「……なるほど。動かない理由はわかった。まだここにいたいんだろう、この爺さん」
「そうじゃないよ」
 リグルの声は静かだったが、はっきりしていた。小町は顔を上げた。
「もう迷子じゃない、辿り着いたんだ、ここに」
「辿り着いた、ねぇ」
 小町は少し考えるような間を置いてから、ゆるく首を振った。
「悪いがあたいには関係ない話だ。魂は早く彼岸へ連れて行ってやるのが情けってもんだよ。人間は人間の場所で弔われるべきさ。家族だっているだろう、あの里に」
「それはわかってる」
 リグルは倒木から下りて、小町の隣に並んだ。小町より頭ふたつ分は低い。小柄な妖怪と長身の死神が、老人の傍らに並んで立っている。
「人間は人間の場所で最期を迎えるべきだっていうのは、妖怪の私だって理解できる。でもね、死神」
 リグルは真っすぐに小町を見た。
「この人は、何度も里に連れ戻されても、ここに帰ってきたんだ」
「……帰ってきた」
「そう。家族の顔も名前も忘れて、自分が誰かもわからなくなっても、ここだけは覚えてた。子供の頃に虫を追いかけた場所、転んで泣いた場所、世界の色々を学んだ場所。その記憶だけが、最後まで消えなかった。だから還ってきた」
 小町は黙って老人の魂を見た。
 漂っている。けれどそれは迷子の漂い方ではなかった。行くべき場所がわからなくて彷徨っているのとは違う。ここにいたくて、ここにいる。目的地に辿り着いた者の、静かな安堵がそこにあった。
 小町は少しの間、何も言わなかった。
 鎌を握る手の力が、わずかに緩んだ。長年この仕事をしていると、魂の在り方の違いくらいは見分けがつくようになる。未練で足止めされている魂には、もっと切実な、掴みかかるような気配がある。しがみつく先を探して彷徨う手つきが、どこかにある。しかし目の前の魂にはそれがなかった。ただ、静かに漂い、そこに留まっている。

 小町は鎌を少しだけ下げた。
 完全に引っ込めたわけではない。仕事を放棄したわけでもない。ただ、少し、持ち方が変わった。それだけだ。
「……わかったよ」小町は言った。
「あんたの言いたいことはわかった。でも、あたいが言ってるのは魂の話だ。体じゃない」
「うん」
「魂は彼岸へ渡って、生前の罪と功績を裁かれて、次の輪廻へ送られる。それが筋ってもんだ。それが魂の救いだ」
 小町は老人の魂を顎でしゃくった。
「この爺さんがどれだけここを好きでも、ここに留まり続けることが幸福だとは限らない」
「幸福の話をしてるんじゃないよ、私は」
 リグルは静かに言った。
「幸福かどうかなんて、私にはわからない。決めるのはこの人自身でしょ。お前達死神や閻魔様が決めることでも、私が決めることでもない」
「……理屈は正しいな」小町は苦笑した。「だが理屈が正しいことと、あたいの仕事とは、また別の話だ」
「わかってる。だから体の話をしてるんだ」
「体?」
「この体はね——」
 リグルは老人の傍らにしゃがんだ。蟻の列をよけながら、丁寧に。
「今、虫たちを生かしてる。大好きな森を育てるために、分解されて、土に還っていく。この人が毎夏ここへ来て、虫を見て、土を踏んで、木の匂いを吸って——その時間の全部が、今、この形で返ってきてる。それがこの人の、最後の願いだったはずだよ」
「願い、か」
「言葉にしてたわけじゃないけどね。でも、そうだと思う」
 小町はリグルを見た。妖怪は老人の傍らにしゃがんだまま、働く蛆虫を見ている。その目が嫌悪でも哀愁でもなく、ただ静かに見守る目であることに、小町は少し驚いた。
 魂を次へ進めることが小町の仕事で、肉体を今ここで循環させることがリグルの在り方だ。
 どちらも間違っていない。
 それが厄介なところだった。魂を必要とする死神と体を必要とするリグルで合意は得られそうだが、本人がそれを良しとしていない。
「……なあ、リグル」小町は鎌を担ぎながら言った。
「あんたはいつから、この爺さんを知ってたんだ」
「まだ小さかった頃から」
「何十年も前から?」
「そのくらいになるね」
 小町はほう、と息をついた。
「妖怪ってのはそういうもんだよな。人間が何世代も生きる間を、同じ顔でずっと生きてる」
「うん」
「それで、飽きないのか」
 リグルは少し笑った。
「飽きない。毎年夏が来るたびに、またこの人が来るから」
「来なくなる日が来るってわかってても?」
「わかってても。それが人間だから」
 リグルは立ち上がった。
 小町はそれ以上何も言わなかった。しばらくそこで、二人で並んで、虫たちの仕事を見ていた。
 風が吹くたびに、木々の葉がさわさわと音を立てた。蟬の声が遠くから近づいては、また遠ざかっていく。梅雨明けの太陽が、木漏れ日となって地面にまだら模様を描いていた。

 日が傾いてきた頃、小町はその場を離れ損ねていた。
 本来なら、もうとっくに次の仕事に移っていなければならない時間だ。死神というのは忙しい。今日だけで何人死ぬと思っているのか。しかしなぜか、この場所から足が動かなかった。
「一緒に見てく?」リグルが言った。
「別に、あんたに付き合ってやる理由はないけどね」
「そう」
「……ちょっとくらいなら、いいか」
 結局、小町は倒木に腰を下ろし、煙管に火を着けた。死神がそんな場所に腰を下ろすのは些か妙な光景だったが、この森に見ている人間もいない。
 
 虫たちの仕事は続いていた。甲虫が水気を取り除き、蟻が切り分け、蛆が分解する。グロテスクといえばグロテスクだが、不思議と不潔な感じがしない。手際がいい、という言葉が思い浮かんだ。これは仕事なのだと、そういう確信がある。
 皮膚の色は失われ、下にあるはずのものが少しずつ露わになっていく。それでも小町の目には、不思議とそれが嫌悪すべきものには映らなかった。むしろ、ひとつの仕事が丁寧に進められているのを見ているような、そんな感覚だった。
 蟻たちは分業していた。ある一団は運搬に専念し、ある一団は巣への道筋を作り、また別の一団は見張りのように周囲を警戒している。甲虫の中には夜になると入れ替わる種類もいるらしく、日が落ちると別の顔ぶれが現れて仕事を引き継いだ。まるで交代制の職人たちのようだと、小町はぼんやり思った。
「虫は死体が好きなんじゃないんだ、生きるために食べるだけ」リグルが言った。
「まあ、そうだろうな」
「人間だって同じでしょ。この人も、そうやって何かを食べて、何かを踏んで、何かを殺して、生きてきた」
「今度は食われる側か」
「そう。でも」
 リグルは蟻の列を目で追いながら続けた。
「この人は、今こうして大好きな生き物たちを生かしてる。恩返しをさせてもらってるみたいに、すごく幸せそうだよ」
 小町は老人の魂を見た。
 確かに、そうかもしれない。
 怯えていない。苦しんでいない。もちろん歓喜しているわけでもないけれど——静かに、安らいでいる。体が少しずつ土に還っていく過程を、その魂は穏やかに見守っている。
「死んでるけどねぇ」
「死んでるけどね」リグルは微笑んだ。
「でも、やっと森とひとつになれたんだ」
 小町はしばらく黙っていた。
「あんたはこの爺さんのことが好きだったんじゃないのか」と、やがて小町は言った。
 リグルは少し間を置いた。
「獲物だよ」
「そうかい」
「ちょっかいかけてくる妖怪を追い払ったのも、コイツは私の獲物だから。勝手に食われたら困るから。それだけ」
「ふうん」
 小町はそれ以上突っ込まなかった。突っ込んでも仕方のない話だ。妖怪の感情というのは人間のそれと少し違う形をしていて、本人に問い質したところで正直な答えが返ってくるとは限らない。
 ただ、三日間、ほぼ付きっきりで傍らにいたという事実はある。
 それだけで十分だろうと小町は思った。
「来年の夏、この場所に来たら」リグルが続けた。
「この人の体を食べて育った虫が、また誰かの体に戻る。虫を食う鳥が飛ぶかもしれない。その鳥を狐が食うかもしれない。そういう風に、ずっと繋がっていく」
「死んでも終わらないってことか」
「死が終わりだとは思ってないよ、私は」
「死神の立場もないな」
「あんたは魂を送るんでしょ。体のことは私に任せてよ」
 小町は苦笑した。言い返す言葉がなかった。
 煙管の煙が、夕暮れの光の中でゆっくりと立ちのぼり、やがて溶けるように消えていく。それを見ながら、小町はふと思った。この妖怪は、こうしてどれだけの生き物の最期を見送ってきたのだろう。何十年、何百年という時間の中で。

 数週間後、小町がまた来た。
 今度は純粋にルーティンの仕事だった。魂が彼岸に渡る覚悟ができたか様子を見に来る。滞留している魂がいれば声をかけて促す。必要に応じてその禍々しい大鎌で刈り取る。それだけのことだ。
 倒木の傍らに来て、小町はまず遺体の残骸を確認した。かなり進んでいた。衣服の繊維だけが残り、あとはほとんど土へ還っている。虫たちの仕事の速さに感心しながら、小町は魂を探した。
 あった。
 けれど、その輪郭が最初の時と変わっていた。
 小町は眉をひそめた。魂というのは通常、一定の形を持っている。輪郭がはっきりしていて、生前の人間の面影を留めている。ところがこの老人の魂は——輪郭が、滲んでいた。
 正確には、滲むというより、溶けていた。
 老人の魂と、木々のざわめきと、飛び交う蛍の光と、土の気配と、草の匂いと、何もかもが混ざり合って、境界がなくなっていた。魔法の森全体の妖気が、老人の魂をゆっくりと、確実に、飲み込んでいた。
「……しぶといねぇ」
 小町は鎌を取り出した。引き剥がそうとして——手が止まった。
 魂の輪郭を引き剥がそうとすると、森の木々そのものを引っこ抜くことになる。土の中に張り巡らされた根が、老人の体の残滓と絡み合って、そこまで全部が繋がっている。試しに鎌の先を近づけてみると、根の一本一本から、かすかな抵抗のようなものが伝わってきた。まるで森全体が、この魂を手放すまいとしているかのようだった。
「あたいもそれなりに永いこと死神やってるけど初めてみたよ。これじゃあまるで……」
 小町は低く呟いた。
「あたいが世界の理を壊す側じゃないか」
「言ったでしょ」
 声がして振り向くと、リグルがいた。
 今日もいる。この妖怪は本当にこの場所に入り浸っている。
「この人は、もうこの森の一部なんだ」
 リグルは言った。
「あそこの木の根の先に、この人の体を食べた土がある。その土から吸い上げた水が、今あの葉の先に光ってる。それが全部、この人だよ」
 小町はしばらく黙っていた。鎌を持ったまま、動かなかった。
「……頑固な爺さんだ」
 最終的にそう言った。
 リグルは何も答えなかった。ただ、草むらの方を見ていた。
「あーあ、四季様に怒られるね、こりゃあ」
 小町は鎌を下ろした。
 間があったが、笑顔を作ると老人の魂に向かって口を開いた。
「もう好きにしな」
 小町は、呆れたような、しかしどこか満足したような顔で言った。

 それからさらに時間が経った。
 骨すらも土に還り、衣服の繊維だけが草の中に残っていた。虫たちの多くが散り散りになっていた。仕事を終えた者は去る。それが虫のやり方だ。
 リグルは一人、倒木に腰をかけていた。
 そこには何もない。
 墓はない。名前もない。花もない。人間の弔いに必要とされる何もかもが、ここにはない。あるのはただ、青々と茂った草むらだけだ。梅雨明けの雨をたっぷり吸って、老人の体から溶け出した栄養を受け取って、力強く、眩しいくらいに緑色をしている。
 風が吹いた。草むらが揺れた。
 遠くで蝉の声が響いていた。もう試し鳴きではない、夏の盛りを告げる本鳴きだった。三日前にはまだおずおずとしていた声が、今ではこの森いっぱいに響き渡っている。季節は確かに進んでいた。人ひとりがいなくなっても、森は変わらずそこにあり続ける。それを寂しいと呼ぶべきなのか、リグルにはまだわからなかった。
 そのとき、リグルの視界の端で、何かが動いた。
 草の葉の上に、一匹の小さな芋虫がいた。
 黄緑色の、親指の爪ほどの大きさの芋虫。草の葉を静かに食んでいる。その葉は老人の栄養を吸い上げた草で、だとすれば、この芋虫の体の中にも、少しだけあの老人が入っていることになる。
 今年の夏には羽化して、蝶か蛾になるだろう。
 その蝶がこの森を飛ぶとき、この老人はまだここにいる。
 リグルはその芋虫の前に、そっと指を差し出した。
 芋虫はしばらくためらってから、おずおずと、指の先に前足をかけた。
 リグルは微笑んだ。
「またね」
 梅雨明けの森で、その言葉は風に乗って、どこまでも静かに広がっていった。
酉河つくねです。
たまにはしっとりとしたお話を書きたくて、湿度の高そうな場所を舞台にしてみました。多分しっとりとした話と言うのはそう言うモノでは無いのだと思いますが。
酉河つくね
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コメント



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2.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
4.100名前が無い程度の能力削除
人と自然、人と妖怪、長い時間をかけた理解と親愛の物語。
風変わりな人間の一生、その一生に寄り添った妖怪。こんな人生があってもいい。
とても興味深く読ませていただきました。面白かったです。