「ーーPlutchigraph(プルチグラフ)の臨床研究、進んでるみたいじゃない」
蓮子がデバイスに目を落としたまま、どうでもいいことみたく言う。
こういうときの蓮子は、すごく判りやすい。目線は少しも私に向かないし、声にも興奮のトーンがない。演技としては悪くない。蓮子のことをよく知らない人だったら、まるで彼女が無理に話題を絞り出したかのように思うだろう。でも、相手が私じゃ悪手も良いところ。だって私は、こういう顔をしたときの蓮子がいちばん出歯亀精神を取り繕ってるとすぐに判る。
「Dr.ハイドリヒの新しい論文、読んだわ。『プルチック・モデルを用いたマウス感情のメトリクス化手法の検証』。プラハの最新研究では、恒温動物まで感情メトリクスが可視化されてるのね。メリーの研究室、Dr.ハイドリヒと協力してるらしいけど、どうなの?」
「どうって、何が?」
おばかさんみたいに小首を傾げて見せる。こうして焦らすと、彼女はとてもチャーミングに気分を害してくれる。案の定、眉根を潜めた蓮子がデバイスから視線を上げた。そうそう、私に聞きたいことがあるなら、しっかり私の目を見たほうがいい。
「……プルチック・モデル自体は最初の提言が1980年代の古い概念だけど、感情分析手法としては信頼性があると思うわ。100年以上チューニングが繰り返されてきたモデルだしね」
「けれど、古臭いしマイナー?」
「悪く言えばね。それに結局のところ、ポリグラフの延長線でしかないように思う。相対性精神学というより、プリミティブな臨床心理学って感じ」
「臨床心理学だって立派な学問よ? 先進的な学問が出てきたからといって、過去の学派が否定できるわけではないでしょう。ニーチェの後でも神学は消えなかったし、むしろ現代においては文学よりも復権してる」
「学派差別を嬉々として唱えるほどアカデミズムに毒されてないつもりよ」
「それじゃ何を差別したいの?」
「OK、判った。私が悪かったわ。認めるわよ。気になるわ。すっごく気になる。メリーもPlutchigraph(プルチグラフ)のPoC(「概念実証」Proof of Concept)構築に一枚噛んでるんでしょ?」
ひそひそと声を落とす蓮子の様子に、私はささやかな自尊心の充足を感じる。我ながら俗っぽいとは思うけど、貴重な睡眠時間を削ってまで最先端の研究に携わっているんだから、これくらいの役得は可愛いものだろう。カップを傾けてアッサムで唇を湿らせる。
ーーPlutchigraph。
実のところ、蓮子の解釈もそれほど間違っているわけじゃない。核となる概念はポリグラフであり、実現したいビジョンは正確な嘘発見器の実現に相違ないから。もちろん、1900年代初頭にはすでに試作機が作られていた嘘発見器とPlutchigraphを同じものと見なすのは、アウストラロピテクスと現代人が同じ猿と見なすようなものだけど。
「えぇー? 気になるのぉ?」
「あんまり焦らすと嫌気が差すわよ」
「でも、コア・コンポーネントの理論は明かせないわよ? 守秘義務もあるし」
「そこまで首突っ込まないわ。話せる範囲で良いから」
「判った判った。それじゃ、まずは前提から。蓮子はポリグラフと嘘発見器の違い、言える?」
「もちろん。前者は脳波や皮膚電気信号とか複数の生理的反応を記録するための装置。後者はポリグラフの原理を用いて被験者の回答における虚実の判定を図る機器。どちらも複数の生理的反応の記録装置という意味では同じだけど、嘘発見器に関しては俗称的な意味が強いわね。被験者の回答が嘘かどうかを判定する時にポリグラフ機器を用いると、その機器が嘘発見器と呼称されるようなイメージ」
「満点の回答ね。さては予習してきた?」
「この程度、文献をひとつふたつ漁れば自然に覚えるでしょ。それで?」
「えぇ。まったく同じ出力を返す機械であっても、その利用目的が異なることで名称も変わる。というより、出力された数値の運用方法によって、という方が正しいかもね。極端な話、ありふれた血圧測定器や体温計だってポリグラフにも嘘発見器にもなり得る。適正血圧が80~110かつ体温が36.4℃である人がいると仮定して、その人があるタイミングで血圧が90~120かつ体温が37.0℃だった場合、ポリグラフとしての利用法においては、それは単なる血圧と体温の一時的な変化の記録でしかないけど、測定時に尋問を行なって血圧と体温に変化が見られた場合、その事実を持って尋問の真偽を判断するのなら嘘発見器よね」
「メリーの例えは判りやすいけれど、理系としては異議を挟みたいところね。血圧と体温の変化と尋問の真偽との相関関係の仮定が不充分だと思う。身体的ステータスの変化に有意性を認める判断も恣意的になりそうだし」
「さすがね、蓮子。それが端的に、ポリグラフが医療現場においては重宝されたけれど、嘘発見器としての運用がメジャーにならなかった理由ね」
ぴし、とGoodの意を込めて蓮子の顔に人差し指を向ける。彼女はフラットな表情でモンブランを一口切り分けて食べていた。この程度、賞賛に値するとも思っていない感。一回の説明で内容を理解してそれに対して問題提起できるのって稀有な能力だと思うんだけど、相変わらず知に対してストイックだ。蓮子と話すことが常に楽しく感じる理由でもある。指を下ろした私は続けて、
「さておき、そういう意味で言えばPlutigraphもポリグラフの一種ではあるわ。つまり蓮子の意見も正しいってこと。そして基本的なPlutigraphの運用は犯罪捜査や裁判所での公判に限定される想定だから、嘘発見器と呼称される要件も満たしていることになるわね」
「それって何がブレークスルーなのかしら? 身体ステータス検知精度の向上? 被験者の変化を判断するロジックの構築? それともプルチックの感情の輪モデルに当てはめて判断軸を増やしたモデルの提唱?」
「それら全てのブレークスルーの統合がPlutigraphだ、という理解で間違いないわ。脳波測定は量子ネット上の個人医療アカウントロールにAssumeしてテレメトリクスAPIをキックすればリアルタイムで観測可能だし、テレメトリクスシステムが出力したデータを医療診断モデルのAIに解析させれば被験者の変化の方向性をカテゴライズもできる。そしてカテゴライズできたデータをプルチックの感情の輪モデルをベースにしたチャートに出力すれば、リアルタイムで脳波解析結果の視覚化が可能になるという寸法ね。だから目新しいひとつの技術によって形作られているわけじゃなくて、複数のブレークスルーをもたらした技術の組み合わせが、Plutigraphというひとつのアプリケーションとして出力される感じ」
「ん? それって、メリーの研究室が介入する余地あるの?」
「言っちゃうと、うちの研究室でやってるのはアプリケーション統合時の最終調整ね。実際の感情モデルと出力結果のQA(「品質保証」Quality Assurance)。医療診断モデルのAIもまだ専用の推論プロファイルが存在するわけじゃないから、プロンプトの調整も完璧じゃなくてハレーションが発生するらしいの。だからPoC用のデータセットとPlutigraphの出力結果を確認しながらプロンプト調整のPull Request出したり、Plutigraph出力時のメトリクス重み付けの引数変更したり、そんな程度よ」
「うーん、なるほどね」
「なるほど、って本当に理解できた? 私の説明、かなり技術寄り(ギーク)だったと思うんだけど」
「メリーの口から、すらすらカタカナ語が出てくるの、けっこう新鮮で面白いわね。意識高い系メリーって感じ」
「はぐらかしたという解釈で良いかしら?」
茶化された感じがして、ムッと唇を結ぶ。蓮子はそんな私の不機嫌を敏感に察知して、
「冗談、冗談。大丈夫よ、ちゃんと理解できてるつもり。立証するのは難しいかもだけど」
「再現性が担保されないのなら、ハイそうですか、と受け取る気にはなれないわね」
プイ、とそっぽを向いてやる。マエリベリー印の伝家の宝刀。ひとたび抜くと宇佐見蓮子に特攻が入り、彼女は私のご機嫌伺いスタイルにフォルムチェンジするのだ。ご多聞に漏れず困り眉になった蓮子は私の顔を覗き込みながら、
「ごめんって。単純にメリーがPull Requestとか言ってるのがツボだっただけよ」
「え? この流れでディスりが入ることあるの?」
「ディスってない。ディスってないわ。メリーだって私が真面目な顔で急に『墾田永年私財法』って言ったら面白いでしょ?」
「フッ……、……そんなこと、ないもん」
「私の感想に対する反証なら簡単だったわね。ま、お互い様ということで」
口角が上がってくるのを指で抑えながら、私、面白くないですの表情をキープしようとした。駄目だった。文脈に全く関係のないカオスな単語に、私はめっぽう弱かった。それが難しい単語であればあるほど破壊力は増す。
悔しい。悔しいのに、唇の端がプルプルするのを我慢できない。
完全に私のツボを蓮子に把握されてしまっている。
恨めしい感情を胸に抱きながら蓮子を睨む。彼女はもう涼しげな表情でデバイスをフリックしながら、
「原理は概ね理解できたわ。概念的には嘘発見器の延長だけど、プルチックの感情モデルを取り入れて判断軸を増やした上で脳波測定と連動させることで、リアルタイムで感情のパラメータを視覚化する。相対してる相手の感情を視覚的に判断できる世界線ーー」
小さく息を吐いた蓮子が、古典的なシャフトを連想させる角度で私を流し見ながら、
「いわば、さとりバースの到来ね?」
「キメ顔のところ大変申し訳ないのだけど、言うわね。なんて?」
「ピンと来ない?」
「ぜんぜん、まったく、これっぽっちも」
「さとり妖怪みたいだな、って思ったのよ」
さすがにメンタルがポジティブお化けの蓮子でも思うところがあったようで、いつものハットの位置を指先で調整しながら、
「誰もが心を読めるようになる時代の到来って、全人類がさとり妖怪になるってことかな、って」
「……あぁ、さとり・バースなのね。マルチバース的な。魂をマーベルに買収でもされた?」
「DCかもしれないわよ?」
ウィンクで小粋に選択肢を提案してきた風の蓮子が鼻について、
「いや、知らんけど」
「うわ〜、本場京都の腰の入った"知らんけど"〜、田舎者には効くわ〜」
「ぶぶ漬け頭にぶっかけていい?」
「どんな鈍感頭でもストレートに伝わりそうね。"死ねどす"みたいな」
「東京出身の僻みを私にぶつけないで。私は長崎じゃないんだから」
「むしろ出島って感じよね」
「おっと白人差別かしら? ずいぶん大きく出たわね。奴隷にされたいの?」
「あら、日本人女性に勝てると思う? 子供を連れ去るわよ?」
「判った、判った、やめましょう。この手のふざけ合いがスマートに終わった試しが無いわ」
両手を軽く振りながら降参の意を示す。場に立ち込め始めたカオスの粒子を払うような気持ちで。蓮子はあっけらかんとした顔で、
「そう? 私は、まだまだ行けるけど?」
「だから嫌なのよ。せっかく知的な会話を楽しんでたのに、煽り合戦は淑女じゃないもの」
「ところでPlutigraphのPoCがローンチしたら臨床データはどうやって取るの? さすがに相手の同意なしに感情を可視化するのはNGよね? 個人医療アカウントロールにAssumeするなら認証の問題もあるし、脆弱性を突かれて医療事故に発展したら損害賠償が天文学的数字になるし。でも、臨床データを解析AIに食わせるなら最低でも数十万単位の臨床例は欲しいわよね?」
「うーん、切り替えの早さ」
温度差で風邪を引きそうになるし、この会話が淑女かどうかは判断が微妙なとこだと思った。というか、蓮子がしれっとギークな文脈を使いこなすどころか、Plutigraphの臨床実験が次のフェーズで解決すべき課題を提示してくるあたり、頭の出来が底知れなさすぎて気持ち悪いくらいだった。こんな化け物相手に最先端研究の一端を開示してしまった自分を少しばかり苦々しく思いつつ、
「その辺ひっくるめて、検討中よ。個人医療アカウント権限の話も、セキュリティの話もね。でも技術選定のレイヤは私の仕事じゃないわ。PoC構築に伴うQAなんて、化石めいたウォーターフォールの産物だものね。ボランティアみたいなもんよ。もっと上流で要件定義してるエンジニアが解決すればいいと思う」
「でも臨床データは、あればあるほど良い。違う?」
蓮子が碇ゲンドウの構えで不敵に笑うのを見てピンと来た。古今東西、このポーズで笑う輩が考えることなんて碌でもないことだと相場は決まってる。
「……正気? 危険性があるって、自分で言ったばかりじゃない」
「科学に犠牲は付きものなのだよ。ワトスンくん」
「私はワトスンじゃないし、あなたはホームズじゃないわ。むしろメンゲレね。知ってる? ナチス・ドイツの死の天使」
「別に人道に反する行為をしようとしてるわけじゃないでしょ。ちょちょいとQAの末席に加わった上で、生きた臨床データを提供しても良い、と言ってるだけよ。現代医療においても献体は篤志行為でしょ? 人口減少政策で多少ハードルは下がったけど」
「本音は?」
「新しいおもちゃに触りたい! 最先端ガジェットで遊びたい! 危険? 脆弱性? うるせ〜!! 知らね〜!! だって私たちは秘封倶楽部だから! ドン!!」
「ドンじゃなくて」
「ババン!!」
「オノマトペにケチつけてるんじゃないわ」
「ババンババンバンバン!!」
「温泉にはひとりで行ってきなさい」
「いいじゃない! ひどい! メリーのいけず!」
「東京モノがいけず、なんて言っても、腰が入ってなくて効かないわね」
「行かず後家!」
「いや、それは言い過ぎ」
急にフルスロットルになるじゃん。プリウスミサイルかな?
私の乙女心が哀れな中世の砦みたいに崩れる音がするのは、さておき。蓮子の反応は想定通りではある。彼女は理論も嗜むけれど実態は行動派だし、興味を持った対象には彗星みたいに一直線だ。オカルトであれテクノロジーであれ。私がPlutigraphの実証実験に携わっている話をして、蓮子がそれに興味を持った時点でこうなることは既定路線だったと言っても良い。
そして、このマエリベリー・ハーンが宇佐見蓮子にマウントを取れる機会を見逃すはずもなかろうなのだ。
「……ま、いつか、そう言い出すとは思ってたわ」
「ってことは!? まさか!?」
「テスト用アカウントは払い出し済みよ。これを使えば、量子ネット経由で蓮子もPlutigraphのPoCにアクセスできるようになるわ」
呼び出した拡張現実(AR)アプリでアカウント情報をDMに添付し、蓮子へ向けて人差し指でスライドする。DMがポップしたらしい蓮子が、トランペットを買ってもらった黒人の少年めいた笑顔で私を見る。その両目には夜空の星が瞬くように「感激」の二文字が。
「メリー、私、あなたのことが好き」
「知ってるわ。さ、早いところ初期設定をやってちょうだい。私もアカウントをアクティブにすれば、あなたの夢見たさとりバースは目の前よ。ロマンチックな意味じゃなくて文字通り、角膜と瞼の裏に横たわるARレイヤのことだけどね」
ARアプリ越しに認証を通し、スリープモードにしていたPlutigraphのPoCアプリケーションを立ち上げる。視界の解像度が少しばかり生の眼球のそれよりも下がるのは、没入の感覚を適度に薄れさせるARアプリ特有のバリデーションだ。蓮子が虚空を見つめながら右手を痙攣めいて動作させている。俗に言う飛び眼(トリップアイ)。ARの表示に集中している人を第三者目線で見ると薬物でトンでるみたいに異様だということで、口さがない連中がこぞって揶揄する奴だ。これを指摘されるのを嫌がって、色付き眼鏡の売り上げが前年度比にして2倍になっているんだとかなんとか。
ちなみに私は、蓮子の飛び眼を見てる分にはけっこう好き。
なんかこう、尊厳破壊モノを観てる時と同じゾクゾクをちょっと感じる。
「設定完了! これでメリーの感情も存分に悟れちゃうわけね」
「まぁ、悟ると表現できるほど精密に把握できるわけではないとは思うけど……」
「ちょっと待って……なんか見えてきた……これはーー」
虚空にブレていた蓮子の視線が私にポイントする。被験者である私は、彼女が見ているだろうものを察するのも容易だった。同じものが、私にも見えている。

「ーーエロゲーじゃねーか!!」
「いや、エロゲーではないわよ……?」
蓮子の威勢のいいツッコミに反して引き気味の指摘をそっと付け加える。最先端技術の結晶をアングラな文化のシンボルと同一化するのは、アカデミズムとエレガントの欠如に思える。しかし私は大人なので、普段の蓮子らしからぬところはテンションが上がってしまってるが故かもしれないな、と気を遣う程度の良識は持ち合わせていた。初期設定の構築が済んだのか、飛び眼から戻ってきた彼女の視線が私のそれと交差して、
「えっと、これ、誰も指摘しなかった感じ?」
「指摘って何を?」
「いや、どう見てもシミュレーション系エロゲーのステータスパラメータ……」
「蓮子が言ってること、たまに難しくてよく判らないわ。もしかして疲れてる? ARアプリは視覚情報の拡張に伴って慣れないうちは脳の認知負荷が激しいから、眩暈に似た気持ち悪さを感じたらすぐに言ってね」
「指摘したらエロゲプレイヤーだってバレるから、誰も指摘できなかったのかしら……?」
まだ何かブツブツ言ってる蓮子をいったんスルーして、Plutigraphが出力する蓮子の感情のレーダーチャートを確認する。プリセットされている私の感情のチャートと比較することで、今の彼女の内心にも直感的な推測が成り立つようになる。


なるほど。"驚き"と"恥"の感情が少し強いかも。けれどそれよりずっと顕著に、"喜び"と"期待"の感情が色濃い。そちらは明らかに私のメトリクスとの有意差がありそうだった。さもありなん、と思う。PlutigraphのPoC検証用WebUIは私にとっては既知だし、私の情動が強くないのは当たり前。それと比べれば初めての体験真っ最中な蓮子の感情メトリクスは、ほとんど小惑星の爆発のよう。活発な捕食細胞みたく1秒ことに形を変えて。
「Plutigraphがどんなものか、少し飲み込めてきたみたいね? 初見の衝撃が和らいで、有用性の検討フェーズに入っている。そんなところかしら?」
変化していく蓮子の感情チャートを眺めながら、推測した彼女の内心を表現してみる。私だから察知できる程度に、蓮子の目が見開かれる。それに伴って、"驚き"のパラメータが明らかに反応した。
「反応を見るに、当たってるみたいね。感情パラメータの変動値から相手の心情をプロファイリングするのは、少しコツがいるわ。私の場合はアナタとの付き合いが長いから、それが精度の向上に寄与している形ね。あら? "恐れ"と"嫌悪"の感情に変化があったわね? 大丈夫、心配しないで。Plutigraphの被験者の9割は、今の蓮子と同じように内心を覗き見られることに本能的な忌避感を覚えるの。アナタの反応は、むしろ冷静な方よ」
「……そういうメリーは、"誇り"と"喜び"のパラメータが増大しているわね。自分の関わっている研究成果が、私を怖がらせたことに満足しているみたい。サディストね」
「お褒めに預かり光栄よ。"信頼"のパラメータに反応があったわ。憎まれ口を叩くのも、信頼の裏返しということかしらね? 蓮子ったら、可愛いところあるんだから」
「さとりバースって、かなり冗談のつもりで言ったんだけどーー」
蓮子が目頭を押さえながらため息と一緒に呟いた。
「これは、かなり先進的ね。人間同士の相互理解という観点では間違いなく有用だけど、それなりに反発も大きそう。個人の心中にまで干渉して来られるような感覚は、お世辞にも快適とは言い難いわ」
「生物は理解不能な事象に恐怖するものだからね。他人の脳細胞を走査するシナプスの方向性なんて、これまで物理的な干渉手段が存在しなかった。だから思想・良心・信仰の自由が聖域化してきたという背景もあると思う。そんな領域に足を踏み入れる技術だもの。反発は当然の反応だわ」
「悪用の方法はいくらでも考えつきそう。政情不安定な土地では独裁者による思想統制が発生するかもしれないし、そうじゃなくても内心の開示が社会的な軋轢のトリガーになる可能性は大きいように思うわね」
「それはそうね。便利だし、有用だもの。利便性とトレードオフになるものは、もちろんあるでしょうね。それくらいの可能性を秘めているからこそ、活発に研究開発が進んでいる。Plutigraphの技術がさらに進歩すれば、もしかしたら内心の開示が規範になるかもしれない。被服文化の発展に伴って、その形式に言外のコンテキストが発生したみたくね。フォーマルな場では、スーツやドレスを着なくてはマナー違反。目上の人の前に出るとき、"嫌悪"のパラメータが反応するのはマナー違反」
「そうしてPlutigraphそのものが規範になったとき、そんな社会で生きる少年少女たちは恥ずべき感情を発生させてしまう自分の脳みそを呪うのね。大人になるためのプロトコルが1段階増えて、適切な場で適切な感情を持つことが含まれるようになる。なかなかグロテスクね? ディストピアまっしぐらって感じ」
「そんな窮屈な世界で、私たち秘封倶楽部が大人になれるかどうかは疑わしいところね。でも先進的な概念に触れて何かを喪うことを恐れるほど、お婆ちゃんになったつもりもないわ」
「ん、それもそうね」
少しばかりのセンチメンタルを準備運動として享受し終えた私たちは、嗜んでいた紅茶やケーキでマインドセットをリセットする。Plutigraphが私たち自身の内心をモニタリングしているからこそ、普段のルーティーンによるリラックス効果が可視化されて。思考をフラットに戻すまでの時間が明らかに早かったように思う。
息を吐いた蓮子が、"期待"のパラメータにとびきりの反応を見せながら、
「さて、マエリベリー・ハーン。用意周到なアナタのことよ。今回のPlutigraph体験会は、アカウント接続と初期設定だけでは終わらないのでしょう?」
「あらあら、それは買い被りすぎじゃない? 私のこと、ランプの魔人か何かだと思っている?」
待ってました、とばかりに髪の毛をファッサァさせる私。きっとキラキラのSEがつくくらいにキマってる。と思う。腕組みをした蓮子が映画監督のように指差しして、
「"誇り"のパラメータが振り切れてるわ。魔神は期待に答えてくれそうね。肌は青色じゃないけど」
「と言っても、そこまで大したものじゃないけどね。でも友達と遊ぶのに、ある程度の玩具は欲しいでしょ?」
言って、ポーチの中に忍ばせていたものをテーブルの上に並べていく。私の意図を把握したらしく蓮子が挑戦的に目を輝かせて、
「トランプ、サイコロ、チップ……あなたの思惑が見えてきたわ」
「そう。Plutigraphの真髄は、相手の心理ステータスの開示。それを十全に味わうためには、心理戦が最適。そして一対一の心理戦をするなら、やっぱり相場は、ギャンブルでしょう?」
ギャンブル。なんて背徳的な単語。口にするだけで、倫理の回路がパチパチと明滅するような。もはや社会空間から追放され尽くして半ば形骸化した化石のような遊戯。パパやママには口が裂けても言えない。キャベツ畑やコウノトリが実体と取り替わったファンタジーの中で、交尾の末の受精を経て発生した有機体は、きっとこの世すべての汚穢を一身に受けた呪詛の化身のように迫害されるだろう。私たちを内包する社会or世界の中においてギャンブルとはそういう堕落の象徴であり、ロリータコンプレックスと同程度には言語浄化作戦でのやり玉筆頭対象である。
優雅に微笑んで見せる。いけないことをするとき、笑顔がないのは嘘だ。社会的に許されない悪事を働くために公共の福祉が引いた境界(ライン)を跨ぐとき、無邪気さだけが私を規定するPassになる。私も蓮子も、そんなことは重々承知の上。なぜなら私たちは秘封倶楽部なのだから。
「さて、何かご所望のゲームはあるかしら?」
手慰みにトランプの山札をショットガンシャッフルしていると、蓮子は肩を竦めて、
「トランプ以外が良いわ」
「あら、どうして?」
「適当な場所で切ってみて」
蓮子が退屈そうに山札を指差す。言われるがまま、シャッフルしていた山札の真ん中あたりをデッキの一番上に送ると、蓮子は片手の指を一本ずつ折りながら、
「上から、ハートの3、スペードの9、スペードのJ、ダイヤの4」
冗談を疑いながら一枚ずつ山札のカードを表にしていくと、果たしてそれらは寸分違わず蓮子の宣言通りなのだった。ノストラダムスに身体を操られているかのような気味の悪さが背筋を撫でる。私のPlutigraphが"恐れ"のパラメータで強く反応している。きっと、今の私は辞書で繰った怪訝という単語に添えられる参考画像にピッタリの顔になっていると思った。
「あなたって、いつから空条承太郎になったのかしら? 宇佐見蓮子。 次は弾丸でも止めるつもり?」
「Praepapilio(プレパピリオ)の副作用で、まだちょっとね。多少は慣れてきたけど、トランプに乱数を見出すレベルまでは落ち着けてないわね」
「言っちゃなんだけど、改めて不気味だわ。月と星さえ見えなければ異能と呼べる程度じゃないことが、唯一のアナタの可愛げだったのに」
「猫を被って惚けようとしても無駄よ。メリー。アナタならーー」
言いつつ蓮子は、テーブルの上のサイコロを指で示して、
「そこにある6つのサイコロの目を操ることだってできるでしょう? ちなみに可能性は1 / 6 ^ 5 ≒ 0.0129%だから、狙って1回で出せるとしたら確実にイカサマだけどね」
「そんな、人をバケモノみたいに言わないで頂戴」
鼻を鳴らしながら、一緒に持参したテーブルの上のツボの中にサイコロを放り込み、カラカラと軽くシェイクした後でテーブルの上で伏せる。蓮子と私の視線が交差する。Plutigraphのパラメータは、どちらも特に動きがない。
ゆっくりとツボを開ける。中から垂直に積み上げられたサイコロが姿を現す。私から見ると6の目が並んでいるので、蓮子から見たら1の目がズラリと並んでいるだろう。私はこれ見よがしに眉をあげてみるが、蓮子の表情は冷ややかだった。
「まぁ、できるけどね」
「バケモノじゃない」
「どちらの眼の方がバケモノと呼ばれるのに相応しいか議論することに価値があるとは思えないわね。不毛だわ。それより困ったわ。トランプもサイコロも駄目となると、ギャンブルで遊ぶのは断念せざるを得ないかしらね?」
「心理戦と言えばギャンブルというのも、ギャンブルをテーマにしたエンタメが多いせいで陥りがちな誤謬だと思うけどね。相手の裏をかくとかイカサマみたいな騙し合いこそが心理戦を魅せるエンタメとしての肝で、ギャンブルはそれを成り立たせるための土台でしかないんじゃないかしら。だって本当に運否天賦、純粋な確率で勝敗が分かれるゲームで戦うフィクションなんて見せられても、ご都合主義にしかならなくて面白くないもの。つまり心理戦を重視したいのであれば、必ずしもゲームはギャンブルである必要はないってこと。こういうのはどう?」
蓮子がチップを手に取り、手際よく枚数を数え始める。彼女と私の間にひとつずつ並べ始め、5枚。そして次の列に5枚。そうして5*4の列を作ったかと思うと、さらに1枚を追加する。これで合計21枚のチップが私たちの間に置かれることになった。
○○○○○
○○○○○
○○○○○
○○○○○
○
「ルールはこう。まず、先手と後手を決める。そして、順番に1~3までのチップを取っていく。パスはなし。最後の1枚を取ったら負け」
「それってすごくオーソドックスな逆形Nim(ニム)じゃない。今回のルールだと合計が4の倍数になるように取れば後手必勝よね。ゲームにならないわ」
「まぁまぁ、話は最後まで聞くものよ? お互いに最適を選べるゲーム理論が成り立つのは、お行儀よくお膳立てされたテーブルの上だけの欺瞞でしかない。ルールにひとつペナルティを織り交ぜるだけで、そんなもの砂上の楼閣より容易く崩れるのよ」
キメキメに小賢しい言い回しをするときの蓮子は最高にエンジンが掛かってる。それが判ってるからこそ、私はちょっぴり沸き上がったイラッをポーカーフェイスでやり過ごすことが出来た。いつものルーティーン。気取られたことはないと自負している。盛り上がってる蓮子に水を差すのも悪いしね。彼女は3枚のメダルをピックアップして、
「3枚のメダルを取るとき、何か恥ずかしい思いをしてもらうわ。Plutigraphに"恥"のパラメータがあるでしょう? このメモリが80%を超えることが条件」
「80%……」
その閾値がどの程度の精神状態を示すのか、実験に携わっている私には見当がつく。もちろんまだPoCの最中だから個人差はあるとはいえ、顔が紅潮するような思いをしてもパラメータの数値が振れるのは40~50%程度だろう。つまり、それはかなり極まった恥の感情だ。それこそ耳まで真っ赤になって、顔全体がヤカンの様に熱を持ち、反対に頭は真っ白になる程度の。
「ん? まずかった? 心身の健康に問題が出たりする?」
「80%程度なら問題ないとは思う。90を超えるようなら後遺症が出かねないけど。でも、そんなの、ペナルティというより罰ゲームじゃないの。そんなゲーム、負けたらどんな目に遭うっての?」
「安心して。過程がそれなりに重いからといって、結末に劇的な破滅を用意しなくてもいいと思うのよ。今の私たちにとって、ギャンブルはあくまで添え物。本筋はPlutigraphの実証実験。なら、別に勝った方がすべてを得て、負けた方がすべてを失う必要もないでしょう? この手のゲームの終着点は大抵お金か命だけど、私たちはそれに身を焦がすほど俗物でもないでしょ?」
「それじゃ、負けた方への罰は?」
「そうね、ここの会計の奢り、ってのでもいいんじゃない? ま、大した金額でもないでしょう。ちょっとした火遊びなのだから、その程度で充分と思うけど?」
蓮子が優美にトランプをシャッフルしながら片眉をあげる。その瞳はありありと値踏みする色を湛えていた。Plutigraphのメトリクスは"喜び"、"信頼"、"誇り"、"期待"のポジティブ感情四天王が手ぐすねを引いているようだった。早くやりたいと急かすような蓮子の表情も相まって、私はプレイヤーとして彼女に相対する覚悟を決める。
「やる気になってくれたようで何より」
蓮子が微笑みながら言う。その視線は微妙に私から外れ、恐らくは私の横に空間描画されているPlutigraphのメトリクスを読み取っている。もうこれだけの時間で、彼女はPlutigraphのメトリクスと私の内心を照合して意識を読み取る感覚を手にしつつある。Plutigraphを用いた臨床データに触れた数は、もちろん私が圧倒的大差をつけて蓮子に勝っている。けれどプランク並みの頭脳を自称する彼女の前で、そんなものがアドバンテージとして頼りになる気がしなかった。
「それじゃ、ちゃっちゃと先攻、後攻を決めましょう。数字の大きい方が先攻ってことで」
手先で弄んでいたトランプの上から1枚引かれたカードを蓮子がテーブルに伏せる。もう1枚がスルスルとテーブルの上を軽やかに滑りながら私の元へ。めくると、それはクラブの7だった。蓮子が手元のカードをめくる。ハートの9。蓮子が先攻。私は後攻。通常の逆形Nimなら、ほとんど私の勝ちが確定したようなもの。
「決まりね。それじゃ、私から。始めていい?」
トランプを拾い上げる蓮子に手を伸べて、どうぞ、と先攻の一手を促す。ここはまず、お手並み拝見といこう。
途端、蓮子のPlutigraphメトリクスが急激に"喜び"のパラメータに振り切れる。
閾値が80%を超える。それは脳神経学的に言えば、アドレナリンやドーパミンの放出が明確に観測できるほどの値。
とっさのことで、私はその劇的な変化の理由が判らず狼狽える。蓮子は人差し指をメダルの列に延ばし、
「開始の同意はあったと見做すわ。ここからは待ったなし。素直で聞き分けが良いのは社会的生物としての美徳だけど、秘封倶楽部の最善とは限らないわね」
言って、1枚のメダルを手元に引き寄せる。
○
○○○○○
○○○○○
○○○○○
○○○○○
「……あっ」
そこに至って、私はようやく気付く。ルールの構築、ペナルティの設定、勝敗にBETされた罰の定義、そして先攻後攻を決める手段。
すべて、蓮子が仕掛けた私をハメるための罠だ。
ゲームはシンプルな逆形Nim。通常通りに考えれば後手必勝。単純に、先手が取ったメダルの数に合わせて、4になるようメダルを取るだけだ。蓮子が3枚なら、私は1枚。2枚なら2枚。1枚なら3枚。
しかしそれは裏を返せば、蓮子の打つ手によって私の打つ手が操作される脆弱性になる。私に3枚のメダルを取らせたいのなら、蓮子はメダルを1枚取ればいい。そして他ならぬ蓮子によって、メダルを3枚とる行為にはペナルティが課されている。
蓮子の思惑が判った! 最初からゲームの勝敗は目的じゃない。このゲームに負けたところで、大したダメージはない。彼女は私が3枚のメダルを取り続けることを強いてきている。ゲーム中の一手と最終的なペナルティのレートをすり替えた!
そして、そうした局面に持ち込むために、わざわざトランプの数字の大小で先攻後攻を決めたのだ! 今の蓮子はどんなにトランプをシャッフルしたところで、山札の上から何のカードが出るのかすべて記憶している! 自分が確実に先攻を取るためのイカサマを!
「おー、万華鏡みたい。メリーのPlutigraphメトリクス、見てて飽きないわね。クセになりそう」
私の動揺が露わになっていると、蓮子の表情もPlutigraphメトリクスも、あけすけに宣言していた。私の感情スペクトラムはPlutigraphメトリクスに開示され私の内心を雄弁に語り、もはや反射的なポーカーフェイスも何の意味もなさない。
「蓮子……」
「私を責めるのはお門違いよ。マエリベリー・ハーン。手慰みのゲームだからこそ、持てる力を注ぎ込んで最善を尽くすのが粋というものじゃない? それとも、自分に都合が悪いからと怒ってチェス盤をひっくり返すような真似をするかしら? もしそうなら、アナタを見つめるために両目を生暖かく加温しなくちゃいけないかもね」
蓮子の芝居がかった台詞が本気で頭にくるときは年に1,2回しかないけど、今この瞬間は間違いなくそれにカウントできると思った。
深呼吸をして、思考を乱す感情をフラットに戻す。右手の親指で左手の脈拍を測る。いにしえのアンガーマネジメントよろしく数値をカウントすることで、およそ冷静と呼べる閾値まで自分の感情が落ち着いたことがPlutigraphメトリクスからも明らかになった。私は選択を迫られている。このゲームにおいて、私が何を探求するべきなのか。目の前のメダルを眺める。
3つの選択肢がある。
ーー1. ペナルティを甘受し、ゲームに勝つための最善手を取る。
ーー2. 後手必勝の勝ち筋を放棄し、ペナルティを回避する。
ーー3. チェス盤をひっくり返し、ゲーム自体をご破算にする。
ゲーム理論的に(戦略的状況において自分の利益を最大化するという意味で)考えれば3つ目の選択肢が最も効果が高い。この局面は蓮子が意図的にゲームの目的と手段の重みづけをあべこべにし、その認識を私に錯誤させたままゲームを開始したことでもたらされている。このゲームにおいて、既に勝敗は問題ではなくなっている。破綻そのものだ。合理的に考えるなら、もはや私が事前に定義されたステップを経由する妥当性そのものが失われていると言える。メダルをぐちゃぐちゃにかき混ぜるとか、喫茶店を後にするとか、そんな場外戦略によってゲームを異常終了させる。私はペナルティを負うことなくチョンボで敗北し、紅茶とケーキの代金を支払って終わり。
実にスイートな決着だ。そんな手法を選択できたなら、見せかけの被害は最小限で済んだ。
けれど、もちろんーー
「ーーわざわざ勿体ぶった脅しまで先回りで用意してもらっておいて恐縮だわ」
整列したメダルの前線に手を伸べる。3枚のメダルを手元に引き寄せて。
「ずいぶんと臆病なのね? 自分の小賢しい奇手が台無しにされるのが怖かった? 残念。私が蓮子の期待を裏切ったこと、あったかしら?」
「素敵だわ。メリー。すごく、素敵」
うっとりと破顔した蓮子が、私の覚悟を称賛するように上品な所作で手を叩く。Plutigraphメトリクスもまた、"誇り"、"信頼"、"喜び"のパラメータが強く反応して、彼女の脳内で幸せホルモン=オキシトシンの分泌が確信できるほどの値になる。それは蓮子の心の中に確かにある、友情や絆と呼べる繋がりの表出でもあった。
そして蓮子はひと通り拍手を済ませると、表情を変えないままに両手を開いて、
「それじゃ、罰ゲーム。"恥"のメモリを80%の閾値まで持っていってね」
「えっと……自力で?」
「まぁ、そうなるわね。私はメリーのことをよく判ってるつもりだけど、流石に何をさせればアナタが死ぬほど恥ずかしくなるのかは、パッとは判らないから」
「……新歓で一発芸の無茶振りされたときよりしんどそうね。あれ、日本の悪しき文化過ぎるわ。どうしてここまで社会が発達したというのに、あんな粗雑なコミュニケーションが許容されてるのか理解に苦しむ」
「いいから、早く。Hurry,Hurry,メリー」
「はい……」
いきなり空手で恥を掻けと言われても、まともな人類では戸惑うのが関の山。どうすればいいのか判らないのはもどかしいけれど、こんな地獄のようなお題に即反応できてしまったほうが人として終わってると思う。マゾメス過ぎるというか。こんな風にオロオロしてるうちに何かの間違いで目標が達成されてたらいいな、なんてチラリと自分のPlutigraphメトリクスを確認するも"恥"のメモリは精々が20%で、このままでは天地がひっくり返っても話が先に進まないのだった。マエリベリー、動きます。
「えー……サブカルクソ女の真似します」
「芸人めいてるわね」
「うっさい。えーっと……『てかね? あたしが本読み始めたのって中2ん時で、きっかけは普通に太宰の【人間失格】だったんだけど。まぁ、そこまでは普通じゃん? でも、そこで満足できなかったのが、たぶん、あたしの不幸の始まりだったのね? 気付いたら安吾行って、澁澤行って、で、高校入った時には、もうすでに中井英夫みたいな、そんなとこまで着地しちゃったんだわ。同級生がヨシモトバナナとか桜庭……あ、一樹クンね? で、キッチンが~とか、砂糖菓子~とかキャッキャしてる横で、【虚無への供物】読んじゃってるみたいな笑? 今から思うと、イタタタ……って感じだけどさぁ。あのときのあたし、なんかそういう救いを求めてたなぁ、って』ーーああああ、もう無理、食道に酸っぱい液が上がってきた……っ!」
「すごっ、メリー、やってたでしょ? なんか鳥肌立ってきた……違う、これ、蕁麻疹だわ! ものすっごく痒い!! あ、でもメトリクス的にはまだ駄目かも! まだ50%くらいしか行ってない!」
「冗談でしょ……っ!?」
冗談ではないのだった。Plutigraphメトリクスで"恥"のパラメータは確かに反応している。でもメモリはまだ50%程度を推移していて。愕然とする。こんなに恥ずかしい思いをしたのに? 代わりに"嫌悪"のパラメータが70%近くまで上がっていた。方向性が違っていた! 忸怩たる思いに唇を嚙み締めながら、私はもっとシンプルな二の矢を継ぐことを強いられることとなる。
「ーーにゃ~ん、私ぃ、メリーニャンコだにゃん♪」
「ぐっ……!」
私が猫ちゃんのポーズで構えた途端、蓮子がパシンと両手で顔を覆う。ほとんど闘魂注入のような鋭い音。そしてそのまま、蓮子がプルプルと小刻みに震え始める。私もプルプルと小刻みに震えている。顔がジワジワと赤くなっていくのが判る。両目に涙が浮かぶ。ぶりっ子にゃんにゃんロールプレイを間借りなりにも公衆の場で敢行するのは、ありていに言って処刑もしくはハラキリだった。メトリクス。70%。ゴールは確かに近いかもしれない。けれど、これはあまりにも、あまりにもだった。
「メリーニャンコは~、カツブシもカリカリもイヤイヤにゃ~♪ ぷぅぷぅ♪ だぁい好きなのは~、ゴロゴロおねんねにゃん、ポカポカおひさまにゃん、あとは尻尾の付け根をとん????とん????す・る・とぉ~……ふわふわ気分でえくすたしぃなのだにゃ~♪ にゃんにゃん、にゃ~んにゃん♪ 可及的速やかに息の根を止めて欲しい。にゃお~ん♪ んなぁ~♪ ゴロゴロゴロ~♪ 蓮子、私、死にたいのだにゃん」
「あっ、行った! メリー! "恥"のメモリが80%突破したわ! 罰ゲームクリア! よくやり切ったわね!」
視界の端で破廉恥に歪むPlutigraphメトリクスを見た瞬間、私は背骨を引っこ抜かれたみたいにその場に崩れ落ち、茹だる顔面を両手で隠しながらさめざめと泣くことしかできなかった。断言してもいいけれど、私の大して長くもない人生において今この瞬間より強く、消えて無くなってしまいたいと願った経験はなかった。
「コロシテ……コロシテ……」
「ご愁傷様。想像してたよりもエグかったわね。ハードルが高すぎたかも。80%ってノリで決めたみたいなところがあるから、調整しないとゲームにならないかもね。60%くらいを目安にした方が良いかしら?」
コクコクと頷く私。しもやけみたいに耳が熱い。今日この日、この国において私よりも恥ずかしい思いをした人は居ないに違いないという確信があった。恥ずかしいが爆発して、身体がソテーになってしまいそう。両目をグシグシとブラウスの袖で拭って、席に着く。カフェに他のお客さんが居なくてよかった。救急車を呼ばれてたかもしれない。マスターはいるけれど、彼女は秘封俱楽部の奇行に慣れっこなので存在する位相が違うみたく知らん顔をしているので問題ない。蓮子を見る。ちょっと引いてる。私はそのことが堪らなく悔しい。この恨みが晴らせなかったら、きっと私は死後、呪いに転ずるだろうと思った。私が3枚のメダルを取り、後手必勝の逆形Nimの形を維持している。
○
○○○○○
○○○○○
○○○○○
○○
○○○
「お互いの合意が成立したと見做すので、ルール変更。3枚のメダルを取ったときの"恥"のメトリクスのパーセンテージは60%とするわ。異論はないわね?」
「無いわ。蓮子の自尊心を平らに均してから、その上で駐車場を経営してやるわ。3の倍数と3が付く数字の時だけアホになる身体に改造してやるから。ぎゃふんと言うまで、絶対に許さない」
「公営賭博が排除された現代に生きててよかったわね、メリー。完全にのめり込んで破滅するタイプ。"怒り"のパラメータを60%以上に上げたところで、このゲームでは何の意味も無いわよー」
呆れ顔で言った蓮子が、迷うことなくメダルを1枚手元に引き寄せる。
○○
○○○○○
○○○○○
○○○○○
○
○○○
逆形Nimに起死回生の奇手は存在しない。Nimの手順はポピュラーな数学的帰納法で100%の再現性が確立された法則であり、揺らぎの発生確率はゼロに等しい。蓮子が1枚のメダルを取ることは木から落ちた林檎が地面に落ちるのと同様に必然であり、私が3枚のメダルを取るか否かの選択を再び迫られるのも、論理的に導き出せる当然だ。
ーーここで3枚のメダルを取る? それとも、1枚か2枚で様子を見る?
セオリーでは3枚。疑いの余地もない。
だけど、あの罰ゲームは想像以上にヤバい。突破すべきメトリクスの閾値は60%まで引き下げられたけれど、それだって相当な数値だ。サブカルクソ女のモノマネでも達成できないレベルなことは判ってる。それを考えると、心の底からゾッとする。
無理だ! どう考えても無理! この短期間であんなレベルの羞恥心を植え付けられるなんて、心臓麻痺で死んでも不思議じゃない! 私はほとんど指運に委ねるような気分で1枚のメダルを自分の元に引き寄せる。最善手を捨てて、目前の罰ゲームを回避する。
○○
○○○○○
○○○○○
○○○○○
○○○○
いつの間にか、呼吸が乱れていた。酸素が足りてないのかもしれない。私のPlutigraphメトリクスは、私自身の胸中のカオスを体現するかのようにグニャグニャと、とめどなく変形していた。追い詰められている。私だけが追い詰められている。たったの2巡目で。対する蓮子は涼しい顔で、Plutigraphメトリクスもほとんど動きが観測できないほどに凪いでいる。その澄ました顔をグチャグチャに歪めてやりたい。まさか生きている人間相手に、こんなゴブリンみたいなことを思う日が来るとは思わなかった。そして蓮子は大した検討の色も見せず、2枚のメダルを引き寄せる。
○○○○
○○○○○
○○○○○
○○○
○○○○
ペナルティ逃れの私の1枚取りに対し、蓮子も定石から離れた手を打ってきた。既に状況は逆形Nimの後手必勝ルートから逸脱している。蓮子が1枚のメダルを取ったところで、私に3枚のメダルを強制することはできない。ゲーム中のペナルティとゲームクリア時の罰ゲームとの価値をあべこべにしたネタも割れている。このまま互いに1か2のメダルを取り合うことで、カフェの代金を払う側をダラダラと押し付け合う。
ーーなんて、退屈な展開に陥ることを、宇佐見蓮子が良しとするわけがない。
無意味な一手を浪費するほど殊勝な女じゃない。この手にも意味があると考えるべき。悪辣なラブレターみたく歪曲した私への信頼をコンテキストの外側にそっと据えて。
(残りのメダルは13枚……)
……なるほど。厄介な局面に誘導してくれたものだ。ギリ、と奥歯を噛み締めて蓮子の小憎らしい薄笑いを睨みつける。
このままペナルティを回避するためMax2枚のメダルを取り合うと、蓮子は私の手に合わせて合計が3になるようメダルを取ってくる。私が1枚なら蓮子は2枚。2枚なら1枚といった具合に。つまり私たちの取得するメダルの合計は3の倍数となり、4ターン目に12枚目のメダルを蓮子が取得して私に手番が回ってくる。ここにきて蓮子が勝ちを拾いに来た。私にペナルティを味わわせるだけに飽き足らず、ゲームそのものの勝利条件さえ取りに来た!
もちろん、私はそんな横暴を許すわけには行かない。ここでスゴスゴと引き下がれば、私はただ失っただけで終わってしまう。そんなの絶対に納得できない。何も得られないまま屈辱だけを抱えて帰るなんて。このグツグツと臓腑を滾らせる"恥"と"怒り"と"嫌悪"の交じり合った私のPlutigraphのネガティブパターンの欠片でも、蓮子の心に届けてやらずして今日という日を心地良く終わらせることなんてできやしない。
そうなるとやはり、私は再度、死地に赴かなければならない。ペナルティを取らなければ、このまま後手必勝パターンが続くだけ。虎穴に入らずんば何とやらだ。気持ち的にはむしろ、死なば諸共な感じだけど。ともかく私だって、このままなぁなぁで終わらせるつもりはない。負けっぱなしは性分じゃない。温存はない。突撃あるのみ。やられたらやり返す。舐められたら殺す。目には目を。"恥"には"恥"を。カミカゼAttackも辞さない。蓮子にペナルティの選択肢を、突き付けるっ!
○○○○
○○○○○
○○○○○
○○
○○○○○
「3枚よ」
「good. 3枚取ったからペナルティね。さて、メリーは次はどんなチャレンジをーーちょ、メリー!?」
蓮子の顔色がサッと青くなる。それこそゲームの体裁なんて意識の埒外といった具合に。安定しきっていた蓮子のPlutigraphが唐突に揺らいで。
両腕を後ろに回しながら、蓮子を面食らわせてやったことに優越感を覚えた。でも、ワンピース越しにブラのホックを外して胸の圧迫感が緩んだ瞬間、そんな些末な感情は圧倒的な『やってしまった』感で搔き消える。
もしかして私、勢いでとんでもないことをしようとしてるんじゃ? なんて今さらな感傷。ワンピースの袖の下でブラ紐を滑らせて、袖口からストラップを抜く。ワナワナと震えた蓮子がしきりにカフェの出入り口に目線を飛ばすのは、新しい客が入ってくることを警戒しているからだ。その表情の異様なさはそっくりそのまま、私が今していることの異常性を端的に表していた。女としての最低限をブチ抜いている確信。でも、私はやめない。今さら止められない。もう降りられない。Plutigraphメトリクスによると、今の私の"恥"の感情はおよそ55%ほど。乙女の矜持をドブに叩き込む真似をしてもなお、あともう少し足りない。
「め、メリー……」
「"フリ"じゃ、駄目ってことね……上等よ……ッ! ノーブラが何よ!! 乳首のひとつふたつ浮いてたところで、命に別状はない!!」
奥歯をギリギリ噛み締めながら、ストラップを抜いてフリーになったブラを襟元から引っこ抜き、その勢いのままテーブルに叩きつける。
本日のブラはフランスの老舗、Aubade(オーバドゥ)のハーフカップ、Rythm of Desireのブルー・オルテンシヤ。ギリシャの夏をコンセプトにしたジャガードレース仕立ての一品はヤシの木をメインにしたデザインが地中海リゾートの空気感を内包して、気品を感じるところがお気に入り。蒸し暑さの権化のような京都の気候でも涼しく使える実用性の高いアイテム。
両手で胸元を覆いながら、蓮子を睨みつける私。Plutigraphメトリクスは、無事に"恥"の感情が70%を突破。少しやり過ぎた。仄かに頬を赤く染めた蓮子が私のブラを摘み上げて、
「うわっ、メリーの生下着、温かい……」
「生って言わないで、生って……」
「スケスケね。何なの? 普段、こんなの着けてるの? エロなの? 何か、勝負のご予定がおありで?」
「馬鹿言わないで。殺すわよ。たまたまよ。たまたま」
「いやぁ、たはは……。まさか、メリーがここまでやるとはね……。何だか、私まで恥ずかしくなってきちゃう……」
まるでドングリを隠すタイワンリスみたく、蓮子がAubadeを私のバッグの中にコッソリと仕舞う。もじもじと口元を手で隠しながら、気まずそうに視線を逸らしたりして。まったく免疫のない初心な中学生のように。
違和感。蓮子に下着を見られたのなんて、これが初めてじゃない。でも、こんなリアクション、見たことない。彼女が本当にヘテロかどうかは議論の余地があると常々感じていたのは確かだけど、まさか単なるランジェリーで恥ずかしくなってしまうほど、おぼこでもあるまいしーー
ーー私まで、"恥"ずかしくなる?
まさかーー
「3枚取るわ。ペナルティね。ただ、もう"恥"のPlutigraphメトリクスは60%を突破してるから、ノルマクリアで問題ないわよね?」
○○○○○
○○
○○○○○
○○
○○
○○○○○
パタパタと火照った頬を右手で扇ぐ蓮子を見て、開いた口が塞がらない。
この女! わざと大げさに反応して"恥"のPlutigraphメトリクスを盛ることで、私のペナルティにただ乗りしてきた!!
悪魔的奇手……っ! 狡猾、奇想天外、掟破りの一刺し……っ! 全身がジェンガみたいに崩れてしまいそうなほどの強烈な敗北感……っ!
Plutigraphメトリクスの検出数値を『盛る』なんて芸当がどれほど困難なのか、私には判ってる。単純な演技でメトリクスに誤差なんて出ない。それこそ一流俳優並みのメソッド演技ができて、脳内分泌されるホルモンがリアルな感情を導き出していなければ土台無理な話。
私の脱衣チャレンジを蓮子が恥ずかしいと感じたのは事実なのだろう。"恥"のメトリクスも50%程度は本心のはず。彼女はその自分の本心を利用した。わざと感情を助長するように振る舞って。そして、そして、沸き上がった感情を逆手にとって……。
「さ、どうぞ? マエリベリー・ハーン。残り7枚。そろそろクライマックスかしら」
優美に微笑んでみせる蓮子の顔を、もうまともに見られない。浅い呼吸を繰り返すたびに、魂の表面の薄皮が剥がれていくような心地。舌が、口蓋が、カラカラに乾いていく。反対に、理由もなく両目にじんわりと涙が浮かんで。残り7枚。敗色濃厚。この局面、依然ペナルティを避けるためにMax2枚のやり取りをするのなら、3,6と合計数を調整できる蓮子が勝つ後手必勝の型に嵌っている。蓮子が私の枚数に合わせて3を取る形に持ち込んだ場合、残りが4枚になったタイミングで私が3枚のメダルを取ることでゲームには勝てる。もう一度、私がペナルティを踏むことで。
けど、もはや、そんなの勝ちなんかじゃない。蓮子にケーキと紅茶の代金を払わせることができたところで、明らかに割に合わない。傷口をイタズラにほじくり返すだけの、実質負けーー。
「ペナルティとしては、1:2ね。がんばって、ノーブラメリー。公共空間で下着を引っ張り出すくらいの何かをすれば、最後の1枚は私が取ることになるから、勝てるわよ」
――こいつ、煽ってくる……。
実存感覚が宇宙まで吹き飛ぶ。自我が魂ごと無重力に投げ出されたような。未体験の感情。前例のない精神世界。その忘我が、"怒り"に分類される感情だという事実を私のPlutigraphメトリクスがご丁寧にも教えてくれた。
あぁ、なるほど。これが『キレる』ってやつ。
頭の出来のよろしくなさそうな連中が口癖みたいに言ってるやつ。
私みたいな人間にも搭載されてたらしい。規範、倫理、未来。私の認識する世界を形作っていた要素が強引にそぎ落とされていくような。私の中のただ1つの意志を実現させるためなら、この場、この時において、どんな手段さえも正当化されるような。
深呼吸。
震えるような混沌はもう胸中にない。
思考は真冬の晴天みたいに澄んでいる。
天上天下唯我独尊。
今この瞬間、世界の全ては私に消費されるために存在しているという確信。
私は漆黒の殺意を番えた単なる一本の矢でしかない。
ただ、怒りを。ただ、罰を。ただ、断罪を。
勝ち誇る蓮子に、私が味わった屈辱以上の"恥"をーー。
○○○○○
○○
○○○○○
○○
○○
○○○○○
残りのメダルは7枚。私が蓮子に3枚のメダルを取らせようと思ったら、この手番で私も3枚のメダルを取ってペナルティをクリアするしかない。
けれど、それは実質的に不可能。これ以上、私は"恥"を上塗りすることが出来ない。恥ずかしい台詞やモノマネも、もう耐性が付いてしまっている。脱衣はこれ以上やったら流石に捕まる。そも、妙齢の乙女がブラをキャストオフするくらいの"恥"を簡単に掻けるわけもなし。ペナルティの選択はない。勝った、と蓮子は思っている。
ーーだからこそ、イカサマが通る。
使えるイカサマがあるのなら、最初から使っていて然るべき。2回も天地がひっくり返るような"恥"を掻いてから、手を出すはずがない。
それはその通り。理性と倫理が残っていたら、やりたくはなかった。でも、もう背に腹は代えられない。引く選択はない。たとえ、プラハとの秘密保持契約(NDA)がおじゃんになって、ゼミと大学の権威が地の底に堕ちようとも。
(……PoCアプリケーション管理者権限請求、設定ファイル閲覧)
取るべきメダルの枚数に悩んでいるフリをしながら、テーブルの下に隠した右手でARアプリケーション越しに、QAアカウントからテスト用のサーバ管理者権限を請求する。ARレイヤ越しに古式ゆかしいLinuxサーバの有名な警句がポップアップした。
◆◆◆
あなたはシステム管理者から通常の講習を受けたはずです。
これは通常、以下の3点に要約されます:
#1) 他人のプライバシーを尊重すること。
#2) タイプする前に考えること。
#3) 大いなる力には大いなる責任が伴うこと。
◆◆◆
(Shut the Fxxk Up)
胸の内で中指を立てながら、暗記していたパスワードを叩いて管理者権限に昇格する。rootパーティションの中で大事に管理されているPlutigraphアプリケーションのコアロジックにアクセス。アプリケーションから外部参照されているconfigファイルを編集する。
難しいことはしない。単純に、メトリクス検出の重み付けを変えて、私が感じる"恥"の数値を2倍に設定する。そして蓮子が感じる"恥"の数値は0.5倍に。なんと破廉恥かつ独善的なif文! こんなコードをQAサーバに仕込んでしまった時点で、私のエンジニアとしてのキャリアは閉ざされたも同然だわ!! でも、華々しい(?)キャリアを不意にしても惜しくないほど、今の私は蓮子を滅茶苦茶にしたくて堪らないってこと。
「ずいぶん悩むのね? 辞世の句でも考えてる?」
「急かさないでちょうだい。もう決めたわ」
首尾よく設定を変更した私は、サーバ接続を切って目の前のメダルへと視線を戻す。3枚のメダルを引き寄せて、
「メダル3枚。勝負に出るわ」
「なるほどね……」
蓮子が少しだけ驚いたように私をジッと見つめてくる。イカサマを疑われてるんじゃないか。そんな思いが去来して、背筋をムズムズとくすぐっていく。私のPlutigraphメトリクスは、私がサーバサイドで実行した細工によって、QA担当である私の目から見ればあからさまにその挙動を変えていた。"恥"の数値だけ振れ幅が大きい。いま、私は恥ずかしさを自覚していない。けれど数値上は30%程度を行き来していて、これは臨床データ的には軽度の羞恥状態と判断される。ただ、それも私がここ最近ずっとPlutigraphと睨めっこしてたから判る程度の閾値に収まってはいた。
○○○○○
○○
○○○○
○○○○○
○○○○○
「攻めてくるじゃない。ちょっと計算違い。ただその蛮勇も、ペナルティを消化できてこそよ。いまのメリーに達成できるかしら」
「メリーメロン」
「うわっ、ビックリした……急に真顔で……」
「あー、最悪。あー、すっごい恥ずかしいー。羞恥心が粉砕骨折しそうー。あ、60%超えた。ペナルティクリアよね?」
「え? え? 今ので? 嘘でしょ?」
「数字は嘘を吐かないわ。誰がどう見ても、60のメモリは超えてる。そうでしょ?」
少しばかりぬるくなった紅茶をガブガブ喉を鳴らして嚥下する。私のPlutigraphメトリクスときたら、文字通りの女心と秋の空めいて"恥"の数値だけ1sのインターバルを経て乱高下していた。こんな挙動、流石に違和感で流しきれない。かもしれない。判らない。知らず、私の手はあからさまに震えていて、カップとソーサーがデスメタルのデスミサで粛清されるシンバルも斯くやとばかりに振動して。
「……単語? 単語で? 呟くだけで羞恥心が天元突破するの? それ、どんな呪い?」
「さぁ、蓮子! 御託はいいわ! アナタのターンよ! 自分の運命を自分で決めるがいいわ! せいぜい残されたメダルに命を預けるのね!!」
「どんなテンション? 初期の海馬社長なの?」
「CV津田健二郎じゃないわ! いいからメダルを取りなさい、蓮子! ドローフェイズよ!」
ビシッと蓮子に指を差して宣言する。苦しいか? でも、いまの蓮子に私のイカサマを証明する手段はない。彼女のために払い出したテスト用アカウントに、サーバ接続権限なんか付与してない。疑念はあるだろうけれど、怪しいだけでは立証になんてならない。手詰まり。チェックメイト。もう蓮子はこの局面から逃れることはできない。
「……まぁ、この状況なら……」
蓮子がメダルに手を伸ばす。
1枚? 2枚? 勝負を捨てて、曖昧な、当たり障りのない結末に? そんなはずはない。宇佐見蓮子という人間が、そんな面白みのない決着を良しとするはずがないと、私は確信している。この信頼は絶対だと断言できる。中庸なんて言葉、蓮子には世界中の誰よりも似つかわしくない。
3枚のメダルを取るはずだ。蓮子、お願い、私をガッカリさせないで。
薄く間延びした息の詰まる永遠の一瞬。祈りにも似た私の視線に、蓮子の指は、果たして、応えた。事もなげに3枚のメダルを引き寄せて。
「3枚取るわ。勝負は私の勝ちみたい。でもその前に、ペナルティね」
さぁて、ショータイム!! 心の奥底でドス黒い悪意が舌なめずりする感触。あぁ、蓮子。可哀想な蓮子。いまのアナタのPlutigraphメトリクスは、通常の2倍の負荷が掛かっているの。そんな条件で数値が60%を超えるまで恥ずかしい思いをしなきゃならないなんて!
きっと、一生忘れられない心的外傷(トラウマ)になるわ。生き恥を晒すなんて生ぬるい言葉じゃ、追いつかないかも! でも、安心して。これからアナタが披露する痴態は、海馬に刻み込んででも記憶に残してあげる。これから先、お婆ちゃんになっても、私は今日のことを思い出しながら赤ワインを嗜むことになると思う。タンニンの、うんと濃いのが良い! でないと、きっと胃もたれしてしまうに違いないでしょうから。
はしゃぐ私の内面もどこ吹く風といった面持ちで、蓮子はしばしの思案顔。焦らすわね。でも、いいわ。どうぞ、ゆっくりと悩んで。これから先、死ぬまで思い返す、とびっきりの"恥"だもの。趣向が凝っているに越したことはないわ。このワクワクとドキドキが、こっくりと深みを熟成させてくれるーー
「メリー、いつもありがとう。アナタは私の人生で、いちばん大切な、愛すべきバディよ」
「……へ?」
不意打ち。と、言わざるを得なかった。
蓮子が私の瞳をまっすぐ見つめてくる。まるでその向こう側に星空を幻視して、今の時刻を読み取ろうとでもしてるみたいに。彼女の手が、私の手を暖かく、優しく、包み込むように握って。唐突な告白。真剣な眼差し。改まって言われると、なんとも実に照れくさい一直線の言葉。
奇襲を受けた形となった私の意識に、じわじわと実感が降りてくる。胸の内が暖かくなるにつれて、口元がにやけてくるのが判った。我ながら単純な精神だと自嘲の念はあれど、嬉しいものは嬉しいのだ。
これは、それなりに格好つけた返事をしなきゃもったいない。頭の中でゴテゴテに肩肘の張ったフレーズをスキャンする。そんな風に意気込む私を見て、蓮子が不意に蠱惑的な猫のようにほくそ笑んだかと思うと、
「あぁ、これは、駄目ね」
「え?」
「ドクターストップよ。メリー。だってアナタのPlutigraphメトリクス、"恥"の数値が90を超えてる」
「…………」
思考が停止する。自分が何を言われたのか、理解が追いつかなくて。
「…………」
今さらのように、自分のPlutigraphを確認する。蓮子の指摘通り私のPlutigraphメトリクスは、これがドラゴンボールだったらスカウターが爆発してるに違いないと思うほど激しく荒ぶっていた。"恥"の数値だけ。それはもう、尋常ではない振れ幅で。
臨床データ的には有り得ない数値。それはそうだろう。なんせ、私はアプリケーションが参照するconfigファイルに細工している。2倍に増幅されれば、ささやかな照れくささでさえ致命的な激情であるかのように検出されて当然。
反面、蓮子のPlutigraphメトリクスは、それはそれは穏やかだった。木漏れ日の降る森林の中を歩いている時のようにリラックスしている、と判断できるような数値。
仮にこのゲームを第三者がジャッジしていたら、間違いなく私にはTKOによる敗北が宣言されているに違いない。落ち着き払った蓮子の放った言葉の一撃で、心身に後遺症が出かねない危険なレベルまで興奮している私の有り様が観測されているのだろうから。
「あ、ぁ……ち、ちが……」
「あーぁ、残念。私のメトリクスは、大きく見積もっても40ってところ? ぜんぜん、ペナルティをクリアできる気がしない。でも仕方ないわよね。これ以上がんばったら、メリーの心臓が破裂しちゃいそうだもの。やれやれ、このパターンは想像してなかったわ。恥ずかしい行為を実行する主体より、それを観測する客体の方が先に限界が来るなんて」
蓮子が二の句も継げない私に、オーバーな仕草で肩を竦めて見せてくる。そして馬鹿なアリスを嘲るチェシャ猫のように、イタズラっぽい笑みを浮かべて、
「ーーただお礼を言うだけで、後遺症が出かねないくらい恥ずかしくなっちゃうのね。メリー。アナタ私のこと、大好き過ぎるんじゃない?」
そのパンチラインが、言い逃れできない私にクリーンヒットする。理屈や論理を飛び越えて、鮮烈な感情として実感できる敗北が、私の身体を雷めいて撃ち抜いて。煙も出ないほどやり込められた私は、この四文字以外の単語を発することができなくなる。
すなわち、マエリベリー・ハーン曰く、
「……ぎゃふん」
と。
蓮子がデバイスに目を落としたまま、どうでもいいことみたく言う。
こういうときの蓮子は、すごく判りやすい。目線は少しも私に向かないし、声にも興奮のトーンがない。演技としては悪くない。蓮子のことをよく知らない人だったら、まるで彼女が無理に話題を絞り出したかのように思うだろう。でも、相手が私じゃ悪手も良いところ。だって私は、こういう顔をしたときの蓮子がいちばん出歯亀精神を取り繕ってるとすぐに判る。
「Dr.ハイドリヒの新しい論文、読んだわ。『プルチック・モデルを用いたマウス感情のメトリクス化手法の検証』。プラハの最新研究では、恒温動物まで感情メトリクスが可視化されてるのね。メリーの研究室、Dr.ハイドリヒと協力してるらしいけど、どうなの?」
「どうって、何が?」
おばかさんみたいに小首を傾げて見せる。こうして焦らすと、彼女はとてもチャーミングに気分を害してくれる。案の定、眉根を潜めた蓮子がデバイスから視線を上げた。そうそう、私に聞きたいことがあるなら、しっかり私の目を見たほうがいい。
「……プルチック・モデル自体は最初の提言が1980年代の古い概念だけど、感情分析手法としては信頼性があると思うわ。100年以上チューニングが繰り返されてきたモデルだしね」
「けれど、古臭いしマイナー?」
「悪く言えばね。それに結局のところ、ポリグラフの延長線でしかないように思う。相対性精神学というより、プリミティブな臨床心理学って感じ」
「臨床心理学だって立派な学問よ? 先進的な学問が出てきたからといって、過去の学派が否定できるわけではないでしょう。ニーチェの後でも神学は消えなかったし、むしろ現代においては文学よりも復権してる」
「学派差別を嬉々として唱えるほどアカデミズムに毒されてないつもりよ」
「それじゃ何を差別したいの?」
「OK、判った。私が悪かったわ。認めるわよ。気になるわ。すっごく気になる。メリーもPlutchigraph(プルチグラフ)のPoC(「概念実証」Proof of Concept)構築に一枚噛んでるんでしょ?」
ひそひそと声を落とす蓮子の様子に、私はささやかな自尊心の充足を感じる。我ながら俗っぽいとは思うけど、貴重な睡眠時間を削ってまで最先端の研究に携わっているんだから、これくらいの役得は可愛いものだろう。カップを傾けてアッサムで唇を湿らせる。
ーーPlutchigraph。
実のところ、蓮子の解釈もそれほど間違っているわけじゃない。核となる概念はポリグラフであり、実現したいビジョンは正確な嘘発見器の実現に相違ないから。もちろん、1900年代初頭にはすでに試作機が作られていた嘘発見器とPlutchigraphを同じものと見なすのは、アウストラロピテクスと現代人が同じ猿と見なすようなものだけど。
「えぇー? 気になるのぉ?」
「あんまり焦らすと嫌気が差すわよ」
「でも、コア・コンポーネントの理論は明かせないわよ? 守秘義務もあるし」
「そこまで首突っ込まないわ。話せる範囲で良いから」
「判った判った。それじゃ、まずは前提から。蓮子はポリグラフと嘘発見器の違い、言える?」
「もちろん。前者は脳波や皮膚電気信号とか複数の生理的反応を記録するための装置。後者はポリグラフの原理を用いて被験者の回答における虚実の判定を図る機器。どちらも複数の生理的反応の記録装置という意味では同じだけど、嘘発見器に関しては俗称的な意味が強いわね。被験者の回答が嘘かどうかを判定する時にポリグラフ機器を用いると、その機器が嘘発見器と呼称されるようなイメージ」
「満点の回答ね。さては予習してきた?」
「この程度、文献をひとつふたつ漁れば自然に覚えるでしょ。それで?」
「えぇ。まったく同じ出力を返す機械であっても、その利用目的が異なることで名称も変わる。というより、出力された数値の運用方法によって、という方が正しいかもね。極端な話、ありふれた血圧測定器や体温計だってポリグラフにも嘘発見器にもなり得る。適正血圧が80~110かつ体温が36.4℃である人がいると仮定して、その人があるタイミングで血圧が90~120かつ体温が37.0℃だった場合、ポリグラフとしての利用法においては、それは単なる血圧と体温の一時的な変化の記録でしかないけど、測定時に尋問を行なって血圧と体温に変化が見られた場合、その事実を持って尋問の真偽を判断するのなら嘘発見器よね」
「メリーの例えは判りやすいけれど、理系としては異議を挟みたいところね。血圧と体温の変化と尋問の真偽との相関関係の仮定が不充分だと思う。身体的ステータスの変化に有意性を認める判断も恣意的になりそうだし」
「さすがね、蓮子。それが端的に、ポリグラフが医療現場においては重宝されたけれど、嘘発見器としての運用がメジャーにならなかった理由ね」
ぴし、とGoodの意を込めて蓮子の顔に人差し指を向ける。彼女はフラットな表情でモンブランを一口切り分けて食べていた。この程度、賞賛に値するとも思っていない感。一回の説明で内容を理解してそれに対して問題提起できるのって稀有な能力だと思うんだけど、相変わらず知に対してストイックだ。蓮子と話すことが常に楽しく感じる理由でもある。指を下ろした私は続けて、
「さておき、そういう意味で言えばPlutigraphもポリグラフの一種ではあるわ。つまり蓮子の意見も正しいってこと。そして基本的なPlutigraphの運用は犯罪捜査や裁判所での公判に限定される想定だから、嘘発見器と呼称される要件も満たしていることになるわね」
「それって何がブレークスルーなのかしら? 身体ステータス検知精度の向上? 被験者の変化を判断するロジックの構築? それともプルチックの感情の輪モデルに当てはめて判断軸を増やしたモデルの提唱?」
「それら全てのブレークスルーの統合がPlutigraphだ、という理解で間違いないわ。脳波測定は量子ネット上の個人医療アカウントロールにAssumeしてテレメトリクスAPIをキックすればリアルタイムで観測可能だし、テレメトリクスシステムが出力したデータを医療診断モデルのAIに解析させれば被験者の変化の方向性をカテゴライズもできる。そしてカテゴライズできたデータをプルチックの感情の輪モデルをベースにしたチャートに出力すれば、リアルタイムで脳波解析結果の視覚化が可能になるという寸法ね。だから目新しいひとつの技術によって形作られているわけじゃなくて、複数のブレークスルーをもたらした技術の組み合わせが、Plutigraphというひとつのアプリケーションとして出力される感じ」
「ん? それって、メリーの研究室が介入する余地あるの?」
「言っちゃうと、うちの研究室でやってるのはアプリケーション統合時の最終調整ね。実際の感情モデルと出力結果のQA(「品質保証」Quality Assurance)。医療診断モデルのAIもまだ専用の推論プロファイルが存在するわけじゃないから、プロンプトの調整も完璧じゃなくてハレーションが発生するらしいの。だからPoC用のデータセットとPlutigraphの出力結果を確認しながらプロンプト調整のPull Request出したり、Plutigraph出力時のメトリクス重み付けの引数変更したり、そんな程度よ」
「うーん、なるほどね」
「なるほど、って本当に理解できた? 私の説明、かなり技術寄り(ギーク)だったと思うんだけど」
「メリーの口から、すらすらカタカナ語が出てくるの、けっこう新鮮で面白いわね。意識高い系メリーって感じ」
「はぐらかしたという解釈で良いかしら?」
茶化された感じがして、ムッと唇を結ぶ。蓮子はそんな私の不機嫌を敏感に察知して、
「冗談、冗談。大丈夫よ、ちゃんと理解できてるつもり。立証するのは難しいかもだけど」
「再現性が担保されないのなら、ハイそうですか、と受け取る気にはなれないわね」
プイ、とそっぽを向いてやる。マエリベリー印の伝家の宝刀。ひとたび抜くと宇佐見蓮子に特攻が入り、彼女は私のご機嫌伺いスタイルにフォルムチェンジするのだ。ご多聞に漏れず困り眉になった蓮子は私の顔を覗き込みながら、
「ごめんって。単純にメリーがPull Requestとか言ってるのがツボだっただけよ」
「え? この流れでディスりが入ることあるの?」
「ディスってない。ディスってないわ。メリーだって私が真面目な顔で急に『墾田永年私財法』って言ったら面白いでしょ?」
「フッ……、……そんなこと、ないもん」
「私の感想に対する反証なら簡単だったわね。ま、お互い様ということで」
口角が上がってくるのを指で抑えながら、私、面白くないですの表情をキープしようとした。駄目だった。文脈に全く関係のないカオスな単語に、私はめっぽう弱かった。それが難しい単語であればあるほど破壊力は増す。
悔しい。悔しいのに、唇の端がプルプルするのを我慢できない。
完全に私のツボを蓮子に把握されてしまっている。
恨めしい感情を胸に抱きながら蓮子を睨む。彼女はもう涼しげな表情でデバイスをフリックしながら、
「原理は概ね理解できたわ。概念的には嘘発見器の延長だけど、プルチックの感情モデルを取り入れて判断軸を増やした上で脳波測定と連動させることで、リアルタイムで感情のパラメータを視覚化する。相対してる相手の感情を視覚的に判断できる世界線ーー」
小さく息を吐いた蓮子が、古典的なシャフトを連想させる角度で私を流し見ながら、
「いわば、さとりバースの到来ね?」
「キメ顔のところ大変申し訳ないのだけど、言うわね。なんて?」
「ピンと来ない?」
「ぜんぜん、まったく、これっぽっちも」
「さとり妖怪みたいだな、って思ったのよ」
さすがにメンタルがポジティブお化けの蓮子でも思うところがあったようで、いつものハットの位置を指先で調整しながら、
「誰もが心を読めるようになる時代の到来って、全人類がさとり妖怪になるってことかな、って」
「……あぁ、さとり・バースなのね。マルチバース的な。魂をマーベルに買収でもされた?」
「DCかもしれないわよ?」
ウィンクで小粋に選択肢を提案してきた風の蓮子が鼻について、
「いや、知らんけど」
「うわ〜、本場京都の腰の入った"知らんけど"〜、田舎者には効くわ〜」
「ぶぶ漬け頭にぶっかけていい?」
「どんな鈍感頭でもストレートに伝わりそうね。"死ねどす"みたいな」
「東京出身の僻みを私にぶつけないで。私は長崎じゃないんだから」
「むしろ出島って感じよね」
「おっと白人差別かしら? ずいぶん大きく出たわね。奴隷にされたいの?」
「あら、日本人女性に勝てると思う? 子供を連れ去るわよ?」
「判った、判った、やめましょう。この手のふざけ合いがスマートに終わった試しが無いわ」
両手を軽く振りながら降参の意を示す。場に立ち込め始めたカオスの粒子を払うような気持ちで。蓮子はあっけらかんとした顔で、
「そう? 私は、まだまだ行けるけど?」
「だから嫌なのよ。せっかく知的な会話を楽しんでたのに、煽り合戦は淑女じゃないもの」
「ところでPlutigraphのPoCがローンチしたら臨床データはどうやって取るの? さすがに相手の同意なしに感情を可視化するのはNGよね? 個人医療アカウントロールにAssumeするなら認証の問題もあるし、脆弱性を突かれて医療事故に発展したら損害賠償が天文学的数字になるし。でも、臨床データを解析AIに食わせるなら最低でも数十万単位の臨床例は欲しいわよね?」
「うーん、切り替えの早さ」
温度差で風邪を引きそうになるし、この会話が淑女かどうかは判断が微妙なとこだと思った。というか、蓮子がしれっとギークな文脈を使いこなすどころか、Plutigraphの臨床実験が次のフェーズで解決すべき課題を提示してくるあたり、頭の出来が底知れなさすぎて気持ち悪いくらいだった。こんな化け物相手に最先端研究の一端を開示してしまった自分を少しばかり苦々しく思いつつ、
「その辺ひっくるめて、検討中よ。個人医療アカウント権限の話も、セキュリティの話もね。でも技術選定のレイヤは私の仕事じゃないわ。PoC構築に伴うQAなんて、化石めいたウォーターフォールの産物だものね。ボランティアみたいなもんよ。もっと上流で要件定義してるエンジニアが解決すればいいと思う」
「でも臨床データは、あればあるほど良い。違う?」
蓮子が碇ゲンドウの構えで不敵に笑うのを見てピンと来た。古今東西、このポーズで笑う輩が考えることなんて碌でもないことだと相場は決まってる。
「……正気? 危険性があるって、自分で言ったばかりじゃない」
「科学に犠牲は付きものなのだよ。ワトスンくん」
「私はワトスンじゃないし、あなたはホームズじゃないわ。むしろメンゲレね。知ってる? ナチス・ドイツの死の天使」
「別に人道に反する行為をしようとしてるわけじゃないでしょ。ちょちょいとQAの末席に加わった上で、生きた臨床データを提供しても良い、と言ってるだけよ。現代医療においても献体は篤志行為でしょ? 人口減少政策で多少ハードルは下がったけど」
「本音は?」
「新しいおもちゃに触りたい! 最先端ガジェットで遊びたい! 危険? 脆弱性? うるせ〜!! 知らね〜!! だって私たちは秘封倶楽部だから! ドン!!」
「ドンじゃなくて」
「ババン!!」
「オノマトペにケチつけてるんじゃないわ」
「ババンババンバンバン!!」
「温泉にはひとりで行ってきなさい」
「いいじゃない! ひどい! メリーのいけず!」
「東京モノがいけず、なんて言っても、腰が入ってなくて効かないわね」
「行かず後家!」
「いや、それは言い過ぎ」
急にフルスロットルになるじゃん。プリウスミサイルかな?
私の乙女心が哀れな中世の砦みたいに崩れる音がするのは、さておき。蓮子の反応は想定通りではある。彼女は理論も嗜むけれど実態は行動派だし、興味を持った対象には彗星みたいに一直線だ。オカルトであれテクノロジーであれ。私がPlutigraphの実証実験に携わっている話をして、蓮子がそれに興味を持った時点でこうなることは既定路線だったと言っても良い。
そして、このマエリベリー・ハーンが宇佐見蓮子にマウントを取れる機会を見逃すはずもなかろうなのだ。
「……ま、いつか、そう言い出すとは思ってたわ」
「ってことは!? まさか!?」
「テスト用アカウントは払い出し済みよ。これを使えば、量子ネット経由で蓮子もPlutigraphのPoCにアクセスできるようになるわ」
呼び出した拡張現実(AR)アプリでアカウント情報をDMに添付し、蓮子へ向けて人差し指でスライドする。DMがポップしたらしい蓮子が、トランペットを買ってもらった黒人の少年めいた笑顔で私を見る。その両目には夜空の星が瞬くように「感激」の二文字が。
「メリー、私、あなたのことが好き」
「知ってるわ。さ、早いところ初期設定をやってちょうだい。私もアカウントをアクティブにすれば、あなたの夢見たさとりバースは目の前よ。ロマンチックな意味じゃなくて文字通り、角膜と瞼の裏に横たわるARレイヤのことだけどね」
ARアプリ越しに認証を通し、スリープモードにしていたPlutigraphのPoCアプリケーションを立ち上げる。視界の解像度が少しばかり生の眼球のそれよりも下がるのは、没入の感覚を適度に薄れさせるARアプリ特有のバリデーションだ。蓮子が虚空を見つめながら右手を痙攣めいて動作させている。俗に言う飛び眼(トリップアイ)。ARの表示に集中している人を第三者目線で見ると薬物でトンでるみたいに異様だということで、口さがない連中がこぞって揶揄する奴だ。これを指摘されるのを嫌がって、色付き眼鏡の売り上げが前年度比にして2倍になっているんだとかなんとか。
ちなみに私は、蓮子の飛び眼を見てる分にはけっこう好き。
なんかこう、尊厳破壊モノを観てる時と同じゾクゾクをちょっと感じる。
「設定完了! これでメリーの感情も存分に悟れちゃうわけね」
「まぁ、悟ると表現できるほど精密に把握できるわけではないとは思うけど……」
「ちょっと待って……なんか見えてきた……これはーー」
虚空にブレていた蓮子の視線が私にポイントする。被験者である私は、彼女が見ているだろうものを察するのも容易だった。同じものが、私にも見えている。
「ーーエロゲーじゃねーか!!」
「いや、エロゲーではないわよ……?」
蓮子の威勢のいいツッコミに反して引き気味の指摘をそっと付け加える。最先端技術の結晶をアングラな文化のシンボルと同一化するのは、アカデミズムとエレガントの欠如に思える。しかし私は大人なので、普段の蓮子らしからぬところはテンションが上がってしまってるが故かもしれないな、と気を遣う程度の良識は持ち合わせていた。初期設定の構築が済んだのか、飛び眼から戻ってきた彼女の視線が私のそれと交差して、
「えっと、これ、誰も指摘しなかった感じ?」
「指摘って何を?」
「いや、どう見てもシミュレーション系エロゲーのステータスパラメータ……」
「蓮子が言ってること、たまに難しくてよく判らないわ。もしかして疲れてる? ARアプリは視覚情報の拡張に伴って慣れないうちは脳の認知負荷が激しいから、眩暈に似た気持ち悪さを感じたらすぐに言ってね」
「指摘したらエロゲプレイヤーだってバレるから、誰も指摘できなかったのかしら……?」
まだ何かブツブツ言ってる蓮子をいったんスルーして、Plutigraphが出力する蓮子の感情のレーダーチャートを確認する。プリセットされている私の感情のチャートと比較することで、今の彼女の内心にも直感的な推測が成り立つようになる。
なるほど。"驚き"と"恥"の感情が少し強いかも。けれどそれよりずっと顕著に、"喜び"と"期待"の感情が色濃い。そちらは明らかに私のメトリクスとの有意差がありそうだった。さもありなん、と思う。PlutigraphのPoC検証用WebUIは私にとっては既知だし、私の情動が強くないのは当たり前。それと比べれば初めての体験真っ最中な蓮子の感情メトリクスは、ほとんど小惑星の爆発のよう。活発な捕食細胞みたく1秒ことに形を変えて。
「Plutigraphがどんなものか、少し飲み込めてきたみたいね? 初見の衝撃が和らいで、有用性の検討フェーズに入っている。そんなところかしら?」
変化していく蓮子の感情チャートを眺めながら、推測した彼女の内心を表現してみる。私だから察知できる程度に、蓮子の目が見開かれる。それに伴って、"驚き"のパラメータが明らかに反応した。
「反応を見るに、当たってるみたいね。感情パラメータの変動値から相手の心情をプロファイリングするのは、少しコツがいるわ。私の場合はアナタとの付き合いが長いから、それが精度の向上に寄与している形ね。あら? "恐れ"と"嫌悪"の感情に変化があったわね? 大丈夫、心配しないで。Plutigraphの被験者の9割は、今の蓮子と同じように内心を覗き見られることに本能的な忌避感を覚えるの。アナタの反応は、むしろ冷静な方よ」
「……そういうメリーは、"誇り"と"喜び"のパラメータが増大しているわね。自分の関わっている研究成果が、私を怖がらせたことに満足しているみたい。サディストね」
「お褒めに預かり光栄よ。"信頼"のパラメータに反応があったわ。憎まれ口を叩くのも、信頼の裏返しということかしらね? 蓮子ったら、可愛いところあるんだから」
「さとりバースって、かなり冗談のつもりで言ったんだけどーー」
蓮子が目頭を押さえながらため息と一緒に呟いた。
「これは、かなり先進的ね。人間同士の相互理解という観点では間違いなく有用だけど、それなりに反発も大きそう。個人の心中にまで干渉して来られるような感覚は、お世辞にも快適とは言い難いわ」
「生物は理解不能な事象に恐怖するものだからね。他人の脳細胞を走査するシナプスの方向性なんて、これまで物理的な干渉手段が存在しなかった。だから思想・良心・信仰の自由が聖域化してきたという背景もあると思う。そんな領域に足を踏み入れる技術だもの。反発は当然の反応だわ」
「悪用の方法はいくらでも考えつきそう。政情不安定な土地では独裁者による思想統制が発生するかもしれないし、そうじゃなくても内心の開示が社会的な軋轢のトリガーになる可能性は大きいように思うわね」
「それはそうね。便利だし、有用だもの。利便性とトレードオフになるものは、もちろんあるでしょうね。それくらいの可能性を秘めているからこそ、活発に研究開発が進んでいる。Plutigraphの技術がさらに進歩すれば、もしかしたら内心の開示が規範になるかもしれない。被服文化の発展に伴って、その形式に言外のコンテキストが発生したみたくね。フォーマルな場では、スーツやドレスを着なくてはマナー違反。目上の人の前に出るとき、"嫌悪"のパラメータが反応するのはマナー違反」
「そうしてPlutigraphそのものが規範になったとき、そんな社会で生きる少年少女たちは恥ずべき感情を発生させてしまう自分の脳みそを呪うのね。大人になるためのプロトコルが1段階増えて、適切な場で適切な感情を持つことが含まれるようになる。なかなかグロテスクね? ディストピアまっしぐらって感じ」
「そんな窮屈な世界で、私たち秘封倶楽部が大人になれるかどうかは疑わしいところね。でも先進的な概念に触れて何かを喪うことを恐れるほど、お婆ちゃんになったつもりもないわ」
「ん、それもそうね」
少しばかりのセンチメンタルを準備運動として享受し終えた私たちは、嗜んでいた紅茶やケーキでマインドセットをリセットする。Plutigraphが私たち自身の内心をモニタリングしているからこそ、普段のルーティーンによるリラックス効果が可視化されて。思考をフラットに戻すまでの時間が明らかに早かったように思う。
息を吐いた蓮子が、"期待"のパラメータにとびきりの反応を見せながら、
「さて、マエリベリー・ハーン。用意周到なアナタのことよ。今回のPlutigraph体験会は、アカウント接続と初期設定だけでは終わらないのでしょう?」
「あらあら、それは買い被りすぎじゃない? 私のこと、ランプの魔人か何かだと思っている?」
待ってました、とばかりに髪の毛をファッサァさせる私。きっとキラキラのSEがつくくらいにキマってる。と思う。腕組みをした蓮子が映画監督のように指差しして、
「"誇り"のパラメータが振り切れてるわ。魔神は期待に答えてくれそうね。肌は青色じゃないけど」
「と言っても、そこまで大したものじゃないけどね。でも友達と遊ぶのに、ある程度の玩具は欲しいでしょ?」
言って、ポーチの中に忍ばせていたものをテーブルの上に並べていく。私の意図を把握したらしく蓮子が挑戦的に目を輝かせて、
「トランプ、サイコロ、チップ……あなたの思惑が見えてきたわ」
「そう。Plutigraphの真髄は、相手の心理ステータスの開示。それを十全に味わうためには、心理戦が最適。そして一対一の心理戦をするなら、やっぱり相場は、ギャンブルでしょう?」
ギャンブル。なんて背徳的な単語。口にするだけで、倫理の回路がパチパチと明滅するような。もはや社会空間から追放され尽くして半ば形骸化した化石のような遊戯。パパやママには口が裂けても言えない。キャベツ畑やコウノトリが実体と取り替わったファンタジーの中で、交尾の末の受精を経て発生した有機体は、きっとこの世すべての汚穢を一身に受けた呪詛の化身のように迫害されるだろう。私たちを内包する社会or世界の中においてギャンブルとはそういう堕落の象徴であり、ロリータコンプレックスと同程度には言語浄化作戦でのやり玉筆頭対象である。
優雅に微笑んで見せる。いけないことをするとき、笑顔がないのは嘘だ。社会的に許されない悪事を働くために公共の福祉が引いた境界(ライン)を跨ぐとき、無邪気さだけが私を規定するPassになる。私も蓮子も、そんなことは重々承知の上。なぜなら私たちは秘封倶楽部なのだから。
「さて、何かご所望のゲームはあるかしら?」
手慰みにトランプの山札をショットガンシャッフルしていると、蓮子は肩を竦めて、
「トランプ以外が良いわ」
「あら、どうして?」
「適当な場所で切ってみて」
蓮子が退屈そうに山札を指差す。言われるがまま、シャッフルしていた山札の真ん中あたりをデッキの一番上に送ると、蓮子は片手の指を一本ずつ折りながら、
「上から、ハートの3、スペードの9、スペードのJ、ダイヤの4」
冗談を疑いながら一枚ずつ山札のカードを表にしていくと、果たしてそれらは寸分違わず蓮子の宣言通りなのだった。ノストラダムスに身体を操られているかのような気味の悪さが背筋を撫でる。私のPlutigraphが"恐れ"のパラメータで強く反応している。きっと、今の私は辞書で繰った怪訝という単語に添えられる参考画像にピッタリの顔になっていると思った。
「あなたって、いつから空条承太郎になったのかしら? 宇佐見蓮子。 次は弾丸でも止めるつもり?」
「Praepapilio(プレパピリオ)の副作用で、まだちょっとね。多少は慣れてきたけど、トランプに乱数を見出すレベルまでは落ち着けてないわね」
「言っちゃなんだけど、改めて不気味だわ。月と星さえ見えなければ異能と呼べる程度じゃないことが、唯一のアナタの可愛げだったのに」
「猫を被って惚けようとしても無駄よ。メリー。アナタならーー」
言いつつ蓮子は、テーブルの上のサイコロを指で示して、
「そこにある6つのサイコロの目を操ることだってできるでしょう? ちなみに可能性は1 / 6 ^ 5 ≒ 0.0129%だから、狙って1回で出せるとしたら確実にイカサマだけどね」
「そんな、人をバケモノみたいに言わないで頂戴」
鼻を鳴らしながら、一緒に持参したテーブルの上のツボの中にサイコロを放り込み、カラカラと軽くシェイクした後でテーブルの上で伏せる。蓮子と私の視線が交差する。Plutigraphのパラメータは、どちらも特に動きがない。
ゆっくりとツボを開ける。中から垂直に積み上げられたサイコロが姿を現す。私から見ると6の目が並んでいるので、蓮子から見たら1の目がズラリと並んでいるだろう。私はこれ見よがしに眉をあげてみるが、蓮子の表情は冷ややかだった。
「まぁ、できるけどね」
「バケモノじゃない」
「どちらの眼の方がバケモノと呼ばれるのに相応しいか議論することに価値があるとは思えないわね。不毛だわ。それより困ったわ。トランプもサイコロも駄目となると、ギャンブルで遊ぶのは断念せざるを得ないかしらね?」
「心理戦と言えばギャンブルというのも、ギャンブルをテーマにしたエンタメが多いせいで陥りがちな誤謬だと思うけどね。相手の裏をかくとかイカサマみたいな騙し合いこそが心理戦を魅せるエンタメとしての肝で、ギャンブルはそれを成り立たせるための土台でしかないんじゃないかしら。だって本当に運否天賦、純粋な確率で勝敗が分かれるゲームで戦うフィクションなんて見せられても、ご都合主義にしかならなくて面白くないもの。つまり心理戦を重視したいのであれば、必ずしもゲームはギャンブルである必要はないってこと。こういうのはどう?」
蓮子がチップを手に取り、手際よく枚数を数え始める。彼女と私の間にひとつずつ並べ始め、5枚。そして次の列に5枚。そうして5*4の列を作ったかと思うと、さらに1枚を追加する。これで合計21枚のチップが私たちの間に置かれることになった。
○○○○○
○○○○○
○○○○○
○○○○○
○
「ルールはこう。まず、先手と後手を決める。そして、順番に1~3までのチップを取っていく。パスはなし。最後の1枚を取ったら負け」
「それってすごくオーソドックスな逆形Nim(ニム)じゃない。今回のルールだと合計が4の倍数になるように取れば後手必勝よね。ゲームにならないわ」
「まぁまぁ、話は最後まで聞くものよ? お互いに最適を選べるゲーム理論が成り立つのは、お行儀よくお膳立てされたテーブルの上だけの欺瞞でしかない。ルールにひとつペナルティを織り交ぜるだけで、そんなもの砂上の楼閣より容易く崩れるのよ」
キメキメに小賢しい言い回しをするときの蓮子は最高にエンジンが掛かってる。それが判ってるからこそ、私はちょっぴり沸き上がったイラッをポーカーフェイスでやり過ごすことが出来た。いつものルーティーン。気取られたことはないと自負している。盛り上がってる蓮子に水を差すのも悪いしね。彼女は3枚のメダルをピックアップして、
「3枚のメダルを取るとき、何か恥ずかしい思いをしてもらうわ。Plutigraphに"恥"のパラメータがあるでしょう? このメモリが80%を超えることが条件」
「80%……」
その閾値がどの程度の精神状態を示すのか、実験に携わっている私には見当がつく。もちろんまだPoCの最中だから個人差はあるとはいえ、顔が紅潮するような思いをしてもパラメータの数値が振れるのは40~50%程度だろう。つまり、それはかなり極まった恥の感情だ。それこそ耳まで真っ赤になって、顔全体がヤカンの様に熱を持ち、反対に頭は真っ白になる程度の。
「ん? まずかった? 心身の健康に問題が出たりする?」
「80%程度なら問題ないとは思う。90を超えるようなら後遺症が出かねないけど。でも、そんなの、ペナルティというより罰ゲームじゃないの。そんなゲーム、負けたらどんな目に遭うっての?」
「安心して。過程がそれなりに重いからといって、結末に劇的な破滅を用意しなくてもいいと思うのよ。今の私たちにとって、ギャンブルはあくまで添え物。本筋はPlutigraphの実証実験。なら、別に勝った方がすべてを得て、負けた方がすべてを失う必要もないでしょう? この手のゲームの終着点は大抵お金か命だけど、私たちはそれに身を焦がすほど俗物でもないでしょ?」
「それじゃ、負けた方への罰は?」
「そうね、ここの会計の奢り、ってのでもいいんじゃない? ま、大した金額でもないでしょう。ちょっとした火遊びなのだから、その程度で充分と思うけど?」
蓮子が優美にトランプをシャッフルしながら片眉をあげる。その瞳はありありと値踏みする色を湛えていた。Plutigraphのメトリクスは"喜び"、"信頼"、"誇り"、"期待"のポジティブ感情四天王が手ぐすねを引いているようだった。早くやりたいと急かすような蓮子の表情も相まって、私はプレイヤーとして彼女に相対する覚悟を決める。
「やる気になってくれたようで何より」
蓮子が微笑みながら言う。その視線は微妙に私から外れ、恐らくは私の横に空間描画されているPlutigraphのメトリクスを読み取っている。もうこれだけの時間で、彼女はPlutigraphのメトリクスと私の内心を照合して意識を読み取る感覚を手にしつつある。Plutigraphを用いた臨床データに触れた数は、もちろん私が圧倒的大差をつけて蓮子に勝っている。けれどプランク並みの頭脳を自称する彼女の前で、そんなものがアドバンテージとして頼りになる気がしなかった。
「それじゃ、ちゃっちゃと先攻、後攻を決めましょう。数字の大きい方が先攻ってことで」
手先で弄んでいたトランプの上から1枚引かれたカードを蓮子がテーブルに伏せる。もう1枚がスルスルとテーブルの上を軽やかに滑りながら私の元へ。めくると、それはクラブの7だった。蓮子が手元のカードをめくる。ハートの9。蓮子が先攻。私は後攻。通常の逆形Nimなら、ほとんど私の勝ちが確定したようなもの。
「決まりね。それじゃ、私から。始めていい?」
トランプを拾い上げる蓮子に手を伸べて、どうぞ、と先攻の一手を促す。ここはまず、お手並み拝見といこう。
途端、蓮子のPlutigraphメトリクスが急激に"喜び"のパラメータに振り切れる。
閾値が80%を超える。それは脳神経学的に言えば、アドレナリンやドーパミンの放出が明確に観測できるほどの値。
とっさのことで、私はその劇的な変化の理由が判らず狼狽える。蓮子は人差し指をメダルの列に延ばし、
「開始の同意はあったと見做すわ。ここからは待ったなし。素直で聞き分けが良いのは社会的生物としての美徳だけど、秘封倶楽部の最善とは限らないわね」
言って、1枚のメダルを手元に引き寄せる。
○
○○○○○
○○○○○
○○○○○
○○○○○
「……あっ」
そこに至って、私はようやく気付く。ルールの構築、ペナルティの設定、勝敗にBETされた罰の定義、そして先攻後攻を決める手段。
すべて、蓮子が仕掛けた私をハメるための罠だ。
ゲームはシンプルな逆形Nim。通常通りに考えれば後手必勝。単純に、先手が取ったメダルの数に合わせて、4になるようメダルを取るだけだ。蓮子が3枚なら、私は1枚。2枚なら2枚。1枚なら3枚。
しかしそれは裏を返せば、蓮子の打つ手によって私の打つ手が操作される脆弱性になる。私に3枚のメダルを取らせたいのなら、蓮子はメダルを1枚取ればいい。そして他ならぬ蓮子によって、メダルを3枚とる行為にはペナルティが課されている。
蓮子の思惑が判った! 最初からゲームの勝敗は目的じゃない。このゲームに負けたところで、大したダメージはない。彼女は私が3枚のメダルを取り続けることを強いてきている。ゲーム中の一手と最終的なペナルティのレートをすり替えた!
そして、そうした局面に持ち込むために、わざわざトランプの数字の大小で先攻後攻を決めたのだ! 今の蓮子はどんなにトランプをシャッフルしたところで、山札の上から何のカードが出るのかすべて記憶している! 自分が確実に先攻を取るためのイカサマを!
「おー、万華鏡みたい。メリーのPlutigraphメトリクス、見てて飽きないわね。クセになりそう」
私の動揺が露わになっていると、蓮子の表情もPlutigraphメトリクスも、あけすけに宣言していた。私の感情スペクトラムはPlutigraphメトリクスに開示され私の内心を雄弁に語り、もはや反射的なポーカーフェイスも何の意味もなさない。
「蓮子……」
「私を責めるのはお門違いよ。マエリベリー・ハーン。手慰みのゲームだからこそ、持てる力を注ぎ込んで最善を尽くすのが粋というものじゃない? それとも、自分に都合が悪いからと怒ってチェス盤をひっくり返すような真似をするかしら? もしそうなら、アナタを見つめるために両目を生暖かく加温しなくちゃいけないかもね」
蓮子の芝居がかった台詞が本気で頭にくるときは年に1,2回しかないけど、今この瞬間は間違いなくそれにカウントできると思った。
深呼吸をして、思考を乱す感情をフラットに戻す。右手の親指で左手の脈拍を測る。いにしえのアンガーマネジメントよろしく数値をカウントすることで、およそ冷静と呼べる閾値まで自分の感情が落ち着いたことがPlutigraphメトリクスからも明らかになった。私は選択を迫られている。このゲームにおいて、私が何を探求するべきなのか。目の前のメダルを眺める。
3つの選択肢がある。
ーー1. ペナルティを甘受し、ゲームに勝つための最善手を取る。
ーー2. 後手必勝の勝ち筋を放棄し、ペナルティを回避する。
ーー3. チェス盤をひっくり返し、ゲーム自体をご破算にする。
ゲーム理論的に(戦略的状況において自分の利益を最大化するという意味で)考えれば3つ目の選択肢が最も効果が高い。この局面は蓮子が意図的にゲームの目的と手段の重みづけをあべこべにし、その認識を私に錯誤させたままゲームを開始したことでもたらされている。このゲームにおいて、既に勝敗は問題ではなくなっている。破綻そのものだ。合理的に考えるなら、もはや私が事前に定義されたステップを経由する妥当性そのものが失われていると言える。メダルをぐちゃぐちゃにかき混ぜるとか、喫茶店を後にするとか、そんな場外戦略によってゲームを異常終了させる。私はペナルティを負うことなくチョンボで敗北し、紅茶とケーキの代金を支払って終わり。
実にスイートな決着だ。そんな手法を選択できたなら、見せかけの被害は最小限で済んだ。
けれど、もちろんーー
「ーーわざわざ勿体ぶった脅しまで先回りで用意してもらっておいて恐縮だわ」
整列したメダルの前線に手を伸べる。3枚のメダルを手元に引き寄せて。
「ずいぶんと臆病なのね? 自分の小賢しい奇手が台無しにされるのが怖かった? 残念。私が蓮子の期待を裏切ったこと、あったかしら?」
「素敵だわ。メリー。すごく、素敵」
うっとりと破顔した蓮子が、私の覚悟を称賛するように上品な所作で手を叩く。Plutigraphメトリクスもまた、"誇り"、"信頼"、"喜び"のパラメータが強く反応して、彼女の脳内で幸せホルモン=オキシトシンの分泌が確信できるほどの値になる。それは蓮子の心の中に確かにある、友情や絆と呼べる繋がりの表出でもあった。
そして蓮子はひと通り拍手を済ませると、表情を変えないままに両手を開いて、
「それじゃ、罰ゲーム。"恥"のメモリを80%の閾値まで持っていってね」
「えっと……自力で?」
「まぁ、そうなるわね。私はメリーのことをよく判ってるつもりだけど、流石に何をさせればアナタが死ぬほど恥ずかしくなるのかは、パッとは判らないから」
「……新歓で一発芸の無茶振りされたときよりしんどそうね。あれ、日本の悪しき文化過ぎるわ。どうしてここまで社会が発達したというのに、あんな粗雑なコミュニケーションが許容されてるのか理解に苦しむ」
「いいから、早く。Hurry,Hurry,メリー」
「はい……」
いきなり空手で恥を掻けと言われても、まともな人類では戸惑うのが関の山。どうすればいいのか判らないのはもどかしいけれど、こんな地獄のようなお題に即反応できてしまったほうが人として終わってると思う。マゾメス過ぎるというか。こんな風にオロオロしてるうちに何かの間違いで目標が達成されてたらいいな、なんてチラリと自分のPlutigraphメトリクスを確認するも"恥"のメモリは精々が20%で、このままでは天地がひっくり返っても話が先に進まないのだった。マエリベリー、動きます。
「えー……サブカルクソ女の真似します」
「芸人めいてるわね」
「うっさい。えーっと……『てかね? あたしが本読み始めたのって中2ん時で、きっかけは普通に太宰の【人間失格】だったんだけど。まぁ、そこまでは普通じゃん? でも、そこで満足できなかったのが、たぶん、あたしの不幸の始まりだったのね? 気付いたら安吾行って、澁澤行って、で、高校入った時には、もうすでに中井英夫みたいな、そんなとこまで着地しちゃったんだわ。同級生がヨシモトバナナとか桜庭……あ、一樹クンね? で、キッチンが~とか、砂糖菓子~とかキャッキャしてる横で、【虚無への供物】読んじゃってるみたいな笑? 今から思うと、イタタタ……って感じだけどさぁ。あのときのあたし、なんかそういう救いを求めてたなぁ、って』ーーああああ、もう無理、食道に酸っぱい液が上がってきた……っ!」
「すごっ、メリー、やってたでしょ? なんか鳥肌立ってきた……違う、これ、蕁麻疹だわ! ものすっごく痒い!! あ、でもメトリクス的にはまだ駄目かも! まだ50%くらいしか行ってない!」
「冗談でしょ……っ!?」
冗談ではないのだった。Plutigraphメトリクスで"恥"のパラメータは確かに反応している。でもメモリはまだ50%程度を推移していて。愕然とする。こんなに恥ずかしい思いをしたのに? 代わりに"嫌悪"のパラメータが70%近くまで上がっていた。方向性が違っていた! 忸怩たる思いに唇を嚙み締めながら、私はもっとシンプルな二の矢を継ぐことを強いられることとなる。
「ーーにゃ~ん、私ぃ、メリーニャンコだにゃん♪」
「ぐっ……!」
私が猫ちゃんのポーズで構えた途端、蓮子がパシンと両手で顔を覆う。ほとんど闘魂注入のような鋭い音。そしてそのまま、蓮子がプルプルと小刻みに震え始める。私もプルプルと小刻みに震えている。顔がジワジワと赤くなっていくのが判る。両目に涙が浮かぶ。ぶりっ子にゃんにゃんロールプレイを間借りなりにも公衆の場で敢行するのは、ありていに言って処刑もしくはハラキリだった。メトリクス。70%。ゴールは確かに近いかもしれない。けれど、これはあまりにも、あまりにもだった。
「メリーニャンコは~、カツブシもカリカリもイヤイヤにゃ~♪ ぷぅぷぅ♪ だぁい好きなのは~、ゴロゴロおねんねにゃん、ポカポカおひさまにゃん、あとは尻尾の付け根をとん????とん????す・る・とぉ~……ふわふわ気分でえくすたしぃなのだにゃ~♪ にゃんにゃん、にゃ~んにゃん♪ 可及的速やかに息の根を止めて欲しい。にゃお~ん♪ んなぁ~♪ ゴロゴロゴロ~♪ 蓮子、私、死にたいのだにゃん」
「あっ、行った! メリー! "恥"のメモリが80%突破したわ! 罰ゲームクリア! よくやり切ったわね!」
視界の端で破廉恥に歪むPlutigraphメトリクスを見た瞬間、私は背骨を引っこ抜かれたみたいにその場に崩れ落ち、茹だる顔面を両手で隠しながらさめざめと泣くことしかできなかった。断言してもいいけれど、私の大して長くもない人生において今この瞬間より強く、消えて無くなってしまいたいと願った経験はなかった。
「コロシテ……コロシテ……」
「ご愁傷様。想像してたよりもエグかったわね。ハードルが高すぎたかも。80%ってノリで決めたみたいなところがあるから、調整しないとゲームにならないかもね。60%くらいを目安にした方が良いかしら?」
コクコクと頷く私。しもやけみたいに耳が熱い。今日この日、この国において私よりも恥ずかしい思いをした人は居ないに違いないという確信があった。恥ずかしいが爆発して、身体がソテーになってしまいそう。両目をグシグシとブラウスの袖で拭って、席に着く。カフェに他のお客さんが居なくてよかった。救急車を呼ばれてたかもしれない。マスターはいるけれど、彼女は秘封俱楽部の奇行に慣れっこなので存在する位相が違うみたく知らん顔をしているので問題ない。蓮子を見る。ちょっと引いてる。私はそのことが堪らなく悔しい。この恨みが晴らせなかったら、きっと私は死後、呪いに転ずるだろうと思った。私が3枚のメダルを取り、後手必勝の逆形Nimの形を維持している。
○
○○○○○
○○○○○
○○○○○
○○
○○○
「お互いの合意が成立したと見做すので、ルール変更。3枚のメダルを取ったときの"恥"のメトリクスのパーセンテージは60%とするわ。異論はないわね?」
「無いわ。蓮子の自尊心を平らに均してから、その上で駐車場を経営してやるわ。3の倍数と3が付く数字の時だけアホになる身体に改造してやるから。ぎゃふんと言うまで、絶対に許さない」
「公営賭博が排除された現代に生きててよかったわね、メリー。完全にのめり込んで破滅するタイプ。"怒り"のパラメータを60%以上に上げたところで、このゲームでは何の意味も無いわよー」
呆れ顔で言った蓮子が、迷うことなくメダルを1枚手元に引き寄せる。
○○
○○○○○
○○○○○
○○○○○
○
○○○
逆形Nimに起死回生の奇手は存在しない。Nimの手順はポピュラーな数学的帰納法で100%の再現性が確立された法則であり、揺らぎの発生確率はゼロに等しい。蓮子が1枚のメダルを取ることは木から落ちた林檎が地面に落ちるのと同様に必然であり、私が3枚のメダルを取るか否かの選択を再び迫られるのも、論理的に導き出せる当然だ。
ーーここで3枚のメダルを取る? それとも、1枚か2枚で様子を見る?
セオリーでは3枚。疑いの余地もない。
だけど、あの罰ゲームは想像以上にヤバい。突破すべきメトリクスの閾値は60%まで引き下げられたけれど、それだって相当な数値だ。サブカルクソ女のモノマネでも達成できないレベルなことは判ってる。それを考えると、心の底からゾッとする。
無理だ! どう考えても無理! この短期間であんなレベルの羞恥心を植え付けられるなんて、心臓麻痺で死んでも不思議じゃない! 私はほとんど指運に委ねるような気分で1枚のメダルを自分の元に引き寄せる。最善手を捨てて、目前の罰ゲームを回避する。
○○
○○○○○
○○○○○
○○○○○
○○○○
いつの間にか、呼吸が乱れていた。酸素が足りてないのかもしれない。私のPlutigraphメトリクスは、私自身の胸中のカオスを体現するかのようにグニャグニャと、とめどなく変形していた。追い詰められている。私だけが追い詰められている。たったの2巡目で。対する蓮子は涼しい顔で、Plutigraphメトリクスもほとんど動きが観測できないほどに凪いでいる。その澄ました顔をグチャグチャに歪めてやりたい。まさか生きている人間相手に、こんなゴブリンみたいなことを思う日が来るとは思わなかった。そして蓮子は大した検討の色も見せず、2枚のメダルを引き寄せる。
○○○○
○○○○○
○○○○○
○○○
○○○○
ペナルティ逃れの私の1枚取りに対し、蓮子も定石から離れた手を打ってきた。既に状況は逆形Nimの後手必勝ルートから逸脱している。蓮子が1枚のメダルを取ったところで、私に3枚のメダルを強制することはできない。ゲーム中のペナルティとゲームクリア時の罰ゲームとの価値をあべこべにしたネタも割れている。このまま互いに1か2のメダルを取り合うことで、カフェの代金を払う側をダラダラと押し付け合う。
ーーなんて、退屈な展開に陥ることを、宇佐見蓮子が良しとするわけがない。
無意味な一手を浪費するほど殊勝な女じゃない。この手にも意味があると考えるべき。悪辣なラブレターみたく歪曲した私への信頼をコンテキストの外側にそっと据えて。
(残りのメダルは13枚……)
……なるほど。厄介な局面に誘導してくれたものだ。ギリ、と奥歯を噛み締めて蓮子の小憎らしい薄笑いを睨みつける。
このままペナルティを回避するためMax2枚のメダルを取り合うと、蓮子は私の手に合わせて合計が3になるようメダルを取ってくる。私が1枚なら蓮子は2枚。2枚なら1枚といった具合に。つまり私たちの取得するメダルの合計は3の倍数となり、4ターン目に12枚目のメダルを蓮子が取得して私に手番が回ってくる。ここにきて蓮子が勝ちを拾いに来た。私にペナルティを味わわせるだけに飽き足らず、ゲームそのものの勝利条件さえ取りに来た!
もちろん、私はそんな横暴を許すわけには行かない。ここでスゴスゴと引き下がれば、私はただ失っただけで終わってしまう。そんなの絶対に納得できない。何も得られないまま屈辱だけを抱えて帰るなんて。このグツグツと臓腑を滾らせる"恥"と"怒り"と"嫌悪"の交じり合った私のPlutigraphのネガティブパターンの欠片でも、蓮子の心に届けてやらずして今日という日を心地良く終わらせることなんてできやしない。
そうなるとやはり、私は再度、死地に赴かなければならない。ペナルティを取らなければ、このまま後手必勝パターンが続くだけ。虎穴に入らずんば何とやらだ。気持ち的にはむしろ、死なば諸共な感じだけど。ともかく私だって、このままなぁなぁで終わらせるつもりはない。負けっぱなしは性分じゃない。温存はない。突撃あるのみ。やられたらやり返す。舐められたら殺す。目には目を。"恥"には"恥"を。カミカゼAttackも辞さない。蓮子にペナルティの選択肢を、突き付けるっ!
○○○○
○○○○○
○○○○○
○○
○○○○○
「3枚よ」
「good. 3枚取ったからペナルティね。さて、メリーは次はどんなチャレンジをーーちょ、メリー!?」
蓮子の顔色がサッと青くなる。それこそゲームの体裁なんて意識の埒外といった具合に。安定しきっていた蓮子のPlutigraphが唐突に揺らいで。
両腕を後ろに回しながら、蓮子を面食らわせてやったことに優越感を覚えた。でも、ワンピース越しにブラのホックを外して胸の圧迫感が緩んだ瞬間、そんな些末な感情は圧倒的な『やってしまった』感で搔き消える。
もしかして私、勢いでとんでもないことをしようとしてるんじゃ? なんて今さらな感傷。ワンピースの袖の下でブラ紐を滑らせて、袖口からストラップを抜く。ワナワナと震えた蓮子がしきりにカフェの出入り口に目線を飛ばすのは、新しい客が入ってくることを警戒しているからだ。その表情の異様なさはそっくりそのまま、私が今していることの異常性を端的に表していた。女としての最低限をブチ抜いている確信。でも、私はやめない。今さら止められない。もう降りられない。Plutigraphメトリクスによると、今の私の"恥"の感情はおよそ55%ほど。乙女の矜持をドブに叩き込む真似をしてもなお、あともう少し足りない。
「め、メリー……」
「"フリ"じゃ、駄目ってことね……上等よ……ッ! ノーブラが何よ!! 乳首のひとつふたつ浮いてたところで、命に別状はない!!」
奥歯をギリギリ噛み締めながら、ストラップを抜いてフリーになったブラを襟元から引っこ抜き、その勢いのままテーブルに叩きつける。
本日のブラはフランスの老舗、Aubade(オーバドゥ)のハーフカップ、Rythm of Desireのブルー・オルテンシヤ。ギリシャの夏をコンセプトにしたジャガードレース仕立ての一品はヤシの木をメインにしたデザインが地中海リゾートの空気感を内包して、気品を感じるところがお気に入り。蒸し暑さの権化のような京都の気候でも涼しく使える実用性の高いアイテム。
両手で胸元を覆いながら、蓮子を睨みつける私。Plutigraphメトリクスは、無事に"恥"の感情が70%を突破。少しやり過ぎた。仄かに頬を赤く染めた蓮子が私のブラを摘み上げて、
「うわっ、メリーの生下着、温かい……」
「生って言わないで、生って……」
「スケスケね。何なの? 普段、こんなの着けてるの? エロなの? 何か、勝負のご予定がおありで?」
「馬鹿言わないで。殺すわよ。たまたまよ。たまたま」
「いやぁ、たはは……。まさか、メリーがここまでやるとはね……。何だか、私まで恥ずかしくなってきちゃう……」
まるでドングリを隠すタイワンリスみたく、蓮子がAubadeを私のバッグの中にコッソリと仕舞う。もじもじと口元を手で隠しながら、気まずそうに視線を逸らしたりして。まったく免疫のない初心な中学生のように。
違和感。蓮子に下着を見られたのなんて、これが初めてじゃない。でも、こんなリアクション、見たことない。彼女が本当にヘテロかどうかは議論の余地があると常々感じていたのは確かだけど、まさか単なるランジェリーで恥ずかしくなってしまうほど、おぼこでもあるまいしーー
ーー私まで、"恥"ずかしくなる?
まさかーー
「3枚取るわ。ペナルティね。ただ、もう"恥"のPlutigraphメトリクスは60%を突破してるから、ノルマクリアで問題ないわよね?」
○○○○○
○○
○○○○○
○○
○○
○○○○○
パタパタと火照った頬を右手で扇ぐ蓮子を見て、開いた口が塞がらない。
この女! わざと大げさに反応して"恥"のPlutigraphメトリクスを盛ることで、私のペナルティにただ乗りしてきた!!
悪魔的奇手……っ! 狡猾、奇想天外、掟破りの一刺し……っ! 全身がジェンガみたいに崩れてしまいそうなほどの強烈な敗北感……っ!
Plutigraphメトリクスの検出数値を『盛る』なんて芸当がどれほど困難なのか、私には判ってる。単純な演技でメトリクスに誤差なんて出ない。それこそ一流俳優並みのメソッド演技ができて、脳内分泌されるホルモンがリアルな感情を導き出していなければ土台無理な話。
私の脱衣チャレンジを蓮子が恥ずかしいと感じたのは事実なのだろう。"恥"のメトリクスも50%程度は本心のはず。彼女はその自分の本心を利用した。わざと感情を助長するように振る舞って。そして、そして、沸き上がった感情を逆手にとって……。
「さ、どうぞ? マエリベリー・ハーン。残り7枚。そろそろクライマックスかしら」
優美に微笑んでみせる蓮子の顔を、もうまともに見られない。浅い呼吸を繰り返すたびに、魂の表面の薄皮が剥がれていくような心地。舌が、口蓋が、カラカラに乾いていく。反対に、理由もなく両目にじんわりと涙が浮かんで。残り7枚。敗色濃厚。この局面、依然ペナルティを避けるためにMax2枚のやり取りをするのなら、3,6と合計数を調整できる蓮子が勝つ後手必勝の型に嵌っている。蓮子が私の枚数に合わせて3を取る形に持ち込んだ場合、残りが4枚になったタイミングで私が3枚のメダルを取ることでゲームには勝てる。もう一度、私がペナルティを踏むことで。
けど、もはや、そんなの勝ちなんかじゃない。蓮子にケーキと紅茶の代金を払わせることができたところで、明らかに割に合わない。傷口をイタズラにほじくり返すだけの、実質負けーー。
「ペナルティとしては、1:2ね。がんばって、ノーブラメリー。公共空間で下着を引っ張り出すくらいの何かをすれば、最後の1枚は私が取ることになるから、勝てるわよ」
――こいつ、煽ってくる……。
実存感覚が宇宙まで吹き飛ぶ。自我が魂ごと無重力に投げ出されたような。未体験の感情。前例のない精神世界。その忘我が、"怒り"に分類される感情だという事実を私のPlutigraphメトリクスがご丁寧にも教えてくれた。
あぁ、なるほど。これが『キレる』ってやつ。
頭の出来のよろしくなさそうな連中が口癖みたいに言ってるやつ。
私みたいな人間にも搭載されてたらしい。規範、倫理、未来。私の認識する世界を形作っていた要素が強引にそぎ落とされていくような。私の中のただ1つの意志を実現させるためなら、この場、この時において、どんな手段さえも正当化されるような。
深呼吸。
震えるような混沌はもう胸中にない。
思考は真冬の晴天みたいに澄んでいる。
天上天下唯我独尊。
今この瞬間、世界の全ては私に消費されるために存在しているという確信。
私は漆黒の殺意を番えた単なる一本の矢でしかない。
ただ、怒りを。ただ、罰を。ただ、断罪を。
勝ち誇る蓮子に、私が味わった屈辱以上の"恥"をーー。
○○○○○
○○
○○○○○
○○
○○
○○○○○
残りのメダルは7枚。私が蓮子に3枚のメダルを取らせようと思ったら、この手番で私も3枚のメダルを取ってペナルティをクリアするしかない。
けれど、それは実質的に不可能。これ以上、私は"恥"を上塗りすることが出来ない。恥ずかしい台詞やモノマネも、もう耐性が付いてしまっている。脱衣はこれ以上やったら流石に捕まる。そも、妙齢の乙女がブラをキャストオフするくらいの"恥"を簡単に掻けるわけもなし。ペナルティの選択はない。勝った、と蓮子は思っている。
ーーだからこそ、イカサマが通る。
使えるイカサマがあるのなら、最初から使っていて然るべき。2回も天地がひっくり返るような"恥"を掻いてから、手を出すはずがない。
それはその通り。理性と倫理が残っていたら、やりたくはなかった。でも、もう背に腹は代えられない。引く選択はない。たとえ、プラハとの秘密保持契約(NDA)がおじゃんになって、ゼミと大学の権威が地の底に堕ちようとも。
(……PoCアプリケーション管理者権限請求、設定ファイル閲覧)
取るべきメダルの枚数に悩んでいるフリをしながら、テーブルの下に隠した右手でARアプリケーション越しに、QAアカウントからテスト用のサーバ管理者権限を請求する。ARレイヤ越しに古式ゆかしいLinuxサーバの有名な警句がポップアップした。
◆◆◆
あなたはシステム管理者から通常の講習を受けたはずです。
これは通常、以下の3点に要約されます:
#1) 他人のプライバシーを尊重すること。
#2) タイプする前に考えること。
#3) 大いなる力には大いなる責任が伴うこと。
◆◆◆
(Shut the Fxxk Up)
胸の内で中指を立てながら、暗記していたパスワードを叩いて管理者権限に昇格する。rootパーティションの中で大事に管理されているPlutigraphアプリケーションのコアロジックにアクセス。アプリケーションから外部参照されているconfigファイルを編集する。
難しいことはしない。単純に、メトリクス検出の重み付けを変えて、私が感じる"恥"の数値を2倍に設定する。そして蓮子が感じる"恥"の数値は0.5倍に。なんと破廉恥かつ独善的なif文! こんなコードをQAサーバに仕込んでしまった時点で、私のエンジニアとしてのキャリアは閉ざされたも同然だわ!! でも、華々しい(?)キャリアを不意にしても惜しくないほど、今の私は蓮子を滅茶苦茶にしたくて堪らないってこと。
「ずいぶん悩むのね? 辞世の句でも考えてる?」
「急かさないでちょうだい。もう決めたわ」
首尾よく設定を変更した私は、サーバ接続を切って目の前のメダルへと視線を戻す。3枚のメダルを引き寄せて、
「メダル3枚。勝負に出るわ」
「なるほどね……」
蓮子が少しだけ驚いたように私をジッと見つめてくる。イカサマを疑われてるんじゃないか。そんな思いが去来して、背筋をムズムズとくすぐっていく。私のPlutigraphメトリクスは、私がサーバサイドで実行した細工によって、QA担当である私の目から見ればあからさまにその挙動を変えていた。"恥"の数値だけ振れ幅が大きい。いま、私は恥ずかしさを自覚していない。けれど数値上は30%程度を行き来していて、これは臨床データ的には軽度の羞恥状態と判断される。ただ、それも私がここ最近ずっとPlutigraphと睨めっこしてたから判る程度の閾値に収まってはいた。
○○○○○
○○
○○○○
○○○○○
○○○○○
「攻めてくるじゃない。ちょっと計算違い。ただその蛮勇も、ペナルティを消化できてこそよ。いまのメリーに達成できるかしら」
「メリーメロン」
「うわっ、ビックリした……急に真顔で……」
「あー、最悪。あー、すっごい恥ずかしいー。羞恥心が粉砕骨折しそうー。あ、60%超えた。ペナルティクリアよね?」
「え? え? 今ので? 嘘でしょ?」
「数字は嘘を吐かないわ。誰がどう見ても、60のメモリは超えてる。そうでしょ?」
少しばかりぬるくなった紅茶をガブガブ喉を鳴らして嚥下する。私のPlutigraphメトリクスときたら、文字通りの女心と秋の空めいて"恥"の数値だけ1sのインターバルを経て乱高下していた。こんな挙動、流石に違和感で流しきれない。かもしれない。判らない。知らず、私の手はあからさまに震えていて、カップとソーサーがデスメタルのデスミサで粛清されるシンバルも斯くやとばかりに振動して。
「……単語? 単語で? 呟くだけで羞恥心が天元突破するの? それ、どんな呪い?」
「さぁ、蓮子! 御託はいいわ! アナタのターンよ! 自分の運命を自分で決めるがいいわ! せいぜい残されたメダルに命を預けるのね!!」
「どんなテンション? 初期の海馬社長なの?」
「CV津田健二郎じゃないわ! いいからメダルを取りなさい、蓮子! ドローフェイズよ!」
ビシッと蓮子に指を差して宣言する。苦しいか? でも、いまの蓮子に私のイカサマを証明する手段はない。彼女のために払い出したテスト用アカウントに、サーバ接続権限なんか付与してない。疑念はあるだろうけれど、怪しいだけでは立証になんてならない。手詰まり。チェックメイト。もう蓮子はこの局面から逃れることはできない。
「……まぁ、この状況なら……」
蓮子がメダルに手を伸ばす。
1枚? 2枚? 勝負を捨てて、曖昧な、当たり障りのない結末に? そんなはずはない。宇佐見蓮子という人間が、そんな面白みのない決着を良しとするはずがないと、私は確信している。この信頼は絶対だと断言できる。中庸なんて言葉、蓮子には世界中の誰よりも似つかわしくない。
3枚のメダルを取るはずだ。蓮子、お願い、私をガッカリさせないで。
薄く間延びした息の詰まる永遠の一瞬。祈りにも似た私の視線に、蓮子の指は、果たして、応えた。事もなげに3枚のメダルを引き寄せて。
「3枚取るわ。勝負は私の勝ちみたい。でもその前に、ペナルティね」
さぁて、ショータイム!! 心の奥底でドス黒い悪意が舌なめずりする感触。あぁ、蓮子。可哀想な蓮子。いまのアナタのPlutigraphメトリクスは、通常の2倍の負荷が掛かっているの。そんな条件で数値が60%を超えるまで恥ずかしい思いをしなきゃならないなんて!
きっと、一生忘れられない心的外傷(トラウマ)になるわ。生き恥を晒すなんて生ぬるい言葉じゃ、追いつかないかも! でも、安心して。これからアナタが披露する痴態は、海馬に刻み込んででも記憶に残してあげる。これから先、お婆ちゃんになっても、私は今日のことを思い出しながら赤ワインを嗜むことになると思う。タンニンの、うんと濃いのが良い! でないと、きっと胃もたれしてしまうに違いないでしょうから。
はしゃぐ私の内面もどこ吹く風といった面持ちで、蓮子はしばしの思案顔。焦らすわね。でも、いいわ。どうぞ、ゆっくりと悩んで。これから先、死ぬまで思い返す、とびっきりの"恥"だもの。趣向が凝っているに越したことはないわ。このワクワクとドキドキが、こっくりと深みを熟成させてくれるーー
「メリー、いつもありがとう。アナタは私の人生で、いちばん大切な、愛すべきバディよ」
「……へ?」
不意打ち。と、言わざるを得なかった。
蓮子が私の瞳をまっすぐ見つめてくる。まるでその向こう側に星空を幻視して、今の時刻を読み取ろうとでもしてるみたいに。彼女の手が、私の手を暖かく、優しく、包み込むように握って。唐突な告白。真剣な眼差し。改まって言われると、なんとも実に照れくさい一直線の言葉。
奇襲を受けた形となった私の意識に、じわじわと実感が降りてくる。胸の内が暖かくなるにつれて、口元がにやけてくるのが判った。我ながら単純な精神だと自嘲の念はあれど、嬉しいものは嬉しいのだ。
これは、それなりに格好つけた返事をしなきゃもったいない。頭の中でゴテゴテに肩肘の張ったフレーズをスキャンする。そんな風に意気込む私を見て、蓮子が不意に蠱惑的な猫のようにほくそ笑んだかと思うと、
「あぁ、これは、駄目ね」
「え?」
「ドクターストップよ。メリー。だってアナタのPlutigraphメトリクス、"恥"の数値が90を超えてる」
「…………」
思考が停止する。自分が何を言われたのか、理解が追いつかなくて。
「…………」
今さらのように、自分のPlutigraphを確認する。蓮子の指摘通り私のPlutigraphメトリクスは、これがドラゴンボールだったらスカウターが爆発してるに違いないと思うほど激しく荒ぶっていた。"恥"の数値だけ。それはもう、尋常ではない振れ幅で。
臨床データ的には有り得ない数値。それはそうだろう。なんせ、私はアプリケーションが参照するconfigファイルに細工している。2倍に増幅されれば、ささやかな照れくささでさえ致命的な激情であるかのように検出されて当然。
反面、蓮子のPlutigraphメトリクスは、それはそれは穏やかだった。木漏れ日の降る森林の中を歩いている時のようにリラックスしている、と判断できるような数値。
仮にこのゲームを第三者がジャッジしていたら、間違いなく私にはTKOによる敗北が宣言されているに違いない。落ち着き払った蓮子の放った言葉の一撃で、心身に後遺症が出かねない危険なレベルまで興奮している私の有り様が観測されているのだろうから。
「あ、ぁ……ち、ちが……」
「あーぁ、残念。私のメトリクスは、大きく見積もっても40ってところ? ぜんぜん、ペナルティをクリアできる気がしない。でも仕方ないわよね。これ以上がんばったら、メリーの心臓が破裂しちゃいそうだもの。やれやれ、このパターンは想像してなかったわ。恥ずかしい行為を実行する主体より、それを観測する客体の方が先に限界が来るなんて」
蓮子が二の句も継げない私に、オーバーな仕草で肩を竦めて見せてくる。そして馬鹿なアリスを嘲るチェシャ猫のように、イタズラっぽい笑みを浮かべて、
「ーーただお礼を言うだけで、後遺症が出かねないくらい恥ずかしくなっちゃうのね。メリー。アナタ私のこと、大好き過ぎるんじゃない?」
そのパンチラインが、言い逃れできない私にクリーンヒットする。理屈や論理を飛び越えて、鮮烈な感情として実感できる敗北が、私の身体を雷めいて撃ち抜いて。煙も出ないほどやり込められた私は、この四文字以外の単語を発することができなくなる。
すなわち、マエリベリー・ハーン曰く、
「……ぎゃふん」
と。
イカサマみたいな騙し合いがギャンブル漫画の誤謬みたいな話をしておいて、連メリという答えを出すところがテクニカルでした