今から数年前、私達が幻想郷に移り住む前の最後の夏、守矢神社に一つの厄介ごとの種が届きました。
可愛らしい紙箱の蓋を開けたら、中から黄色くて丸くて、ちょっと間の抜けた顔をした「ひよこ」がぎっしり詰まってこちらを見上げていました。近所に住む氏子さんからの旅行土産らしいです。信仰が薄れゆく現代においても旅行土産を『ミシャグジ様にあげてくださいね』の一言を添えて下さるなんて、ありがたいことですね。
私はその可愛らしい頭部を躊躇なくつまみ上げ、一口で脳天から噛み砕きました。うん、しっとりして美味しい。
その時背後から、じっとりと不穏な神気が立ち上り始めるのを感じながら、私はお茶を淹れることにしました。どうせ長くなりますから。
「おい諏訪子。よく見ろ、この洗練されたフォルム、そして東京という巨大市場が生み出した圧倒的な売上高を。現代において土産菓子の覇権を握っているのは、この東京ひよこ以外にあり得んな」
神奈子様が腕を組んで傲然と言い放ちました。さすがは軍神です。目に見える数字や、勝敗のパワーバランスで物事を語らせたら右に出るものはいません。
対する諏訪子様は、ちゃぶ台に頬杖をついたまま、カエルのような目でねっとりとした笑みを浮かべました。
「浅いねぇ、神奈子は。只々人間の多い場所で横流しされて数が出ているからって、我が物顔で語るんじゃないよ。これは明治の時代に福岡で生まれて、炭鉱夫たちの血と汗を吸って育った文化なんだ。後から乗っかっただけの分家が、本家に勝てると思って怪気炎を上げてるの? 見苦しいなぁ」
「分家だと? 市場を制した者が勝者だ! 現世のトレンドも掴めぬロートルは、地元の土の中で大人しく芋でも掘っていろ!」
「へえ、数の多さが偉いんだ。じゃあ世界中で数十億部も売れてるあの西洋の神に、あんた今すぐ頭下げて軍門に下りなよ。ほら、プライド捨ててさ」
うわぁ、性根が悪い。相手の最もプライドが高くて繊細なところを、笑顔で正確に抉っていきます。さすがはかつて国を呪いで支配した祟り神です。神奈子様が「ぬ、ぬう……」と青筋を立てて硬直しました。
「それならばいっそ、御二方の知見を寄せ合って信州銘菓ひよこを作って東京も福岡も征服してしまえばいいのに。境内にお店を構えている和菓子屋さんにお声掛けしてきましょうか?」
お茶を運びながら私が笑顔で提案すると、二柱の動きがピタッと止まりました。
「「……それは本当に生々しい泥沼の利権戦争になるからやめなさい」」
声が揃いました。珍しいですね、二人の意見が一致するなんて。
「ところで早苗はどっちのひよこが好きなんだい?」と、諏訪子様がねちっこい笑顔を私にむけました。
「うむ、それは聞いておきたい」
「ちょっと前に県内初出店したアメリカ生まれのドーナツ屋さんの圧倒的な甘さが忘れられないんです。私に関わらないでください」とだけ残し 私は自分の湯呑みだけを持って、さっさと縁側に退避しました。
「なんて品のない子なんだ! こら待ちなさい早苗!」
「やめておきなよ、神奈子。今どきの若い子に和菓子の繊細さなんてどれだけ伝えたって分りゃしないよ」
二柱のことは大好きですし、心から敬っていますけど、それとこれとは話が別です。二柱のいざこざに関わるとこちらの知的レベルまで下がりそうな気がします。これは私の信頼性の高い経験則です。
それから本当に色々あって、私たち守矢神社は幻想郷に引っ越してきました。色々、というのは文字通り「弾幕で殺し合いをした」とかそういうレベルの血生臭い話なので割愛します。とにかく色々あったんです。説明が面倒臭いとかそういうのではありません。
神奈子様が地底の鴉に余計な力を授けたり、そのせいで封じられていた色々が飛び出て色々あったりして。
幻想郷に来てしばらく経ち、妖怪の山の皆さんとも腹の探り合いができる程度には顔なじみになりました。神奈子様と諏訪子様も、年中くだらないマウンティングを繰り広げながらも、それなりにここでの生活に馴染んでいるようです。
問題が起きたのは、ある秋の午後のことでした。
山の重鎮である天魔様が政治的な挨拶も兼ねて手土産を持って訪ねてきたのです。
「この幻想郷に古くから伝わる和菓子ではあるが、山では河童達が開発した機械で職人の手をほぼ介さずに作られているのだ。八坂殿はこういうモノがお好きと聞いたので」
風呂敷を解いたら、出てきました。
完璧な流線型の、ひよこが。
私は思わず二柱の顔を見ました。二柱の目が「ギチッ」と音を立てて肉食獣のように細まりました。嫌な予感しかありません。
さらに最悪なことに、翌日には人里の稗田阿求さんが訪ねてきました。取材の依頼との事で手土産と一緒に。
「守矢の神様方、江戸時代の文献にも記載のあるこの幻想郷の伝統的な菓子をお持ちしました。人里の製菓店では当時の製造方法を忠実に再現しています。現在においても江戸時代と同じ材料、同じ作り方を徹底しています」
包みの中身は、皮がパリッと引き締まった、ひよこでした。
私は無言で縁側に出て、空を見上げました。雲一つない青空が、なんだかとても遠く感じられました。
神社の中からは、かつて古代の諏訪大戦の直前のような、重苦しい殺気が立ち込めています。
「……」
「……」
「神奈子」
「諏訪子」
「神の威信に懸けて、ここで叩き潰してやる」
「望むところさ。泥水をすする準備はできてるかい?」
意見一致です。迷惑ですが。
ちなみに私は両方のひよこを食べてみましたが、山のひよこは河童の精密な温度管理による「しっとりふっくら系」で、神奈子様好み。里のひよこは竈の直火で焼き上げた「歴史と伝統のしっかり系」で、諏訪子様好み。
要するに、ただの老害二柱の「好みの押し付け合い」が、山と里という巨大な経済圏を巻き込んで再点火しただけでした。
「好みで言えば私はもっともっと甘い方がいいなぁ。中の白餡はもっとねっとりしてて、量が多くて、食べ終えた後に背徳感が芽生えるような……」
まあ、私の好みを伝えた所で二柱は「早苗は黙っていなさい」なんて息をピッタリ揃えて仰るのでしょうけど。
私はそっと三個目のひよこを口に放り込み、現実逃避を決め込みました。
翌朝から、山の空気は一変しました。
神奈子様は山の製菓工場に足を運び、技術者の河童達相手に「これは山の技術力が人間の手工業に勝るかどうかの聖戦である!」とプロパガンダをブチ上げ、生産ラインの改良と増産体制を指示。
対する諏訪子様は人里に降り、製菓店の大将を筆頭に商店街の理事会相手に「山からの不当な経済侵略に対抗せよ」と、職人たちを煽動していました。
私はその様子を眺めながら、二番煎じの渋いお茶を飲んでいました。神々の狂気に付き合うほど、私の給料は高くありません。
ただ、困ったことに、山の妖怪たちも里の人たちも、案外ノリノリだったのです。
山の河童は「今のオーブンを改良すれば、一日に数千個のひよこを1ミリの狂いもなく焼ける!」と目を血走らせ、里の菓子屋の大将は「機械の味に負けてたまるか、職人の魂を見せてやる」と、文字通り命を削って餡を練り始めました。
もともと山と里の間にあった「あっちには負けたくない」というコンプレックスに、神様たちがいい感じにガソリンを注いでしまった形です。きっと太古の昔に起こった諏訪大戦をはじめ、宗教戦争はこうやって起こされていたのでしょう。
そんな中、嘘っぱち新聞の、あれ? 文々。新聞? とにかく出鱈目ばかりの新聞の文さんが風のように飛んできました。取材ノートを片手に、獲物を見つけたハイエナのような下品な笑みを浮かべています。
「これはスクープの予感ですね! 神々の代理戦争、山と里の経済戦争!」
翌日発行の文々。新聞の見出しはこうでした。
『幻想郷ひよこ戦争勃発! 敗者は全財産没収か!?』
戦争て。あと勝手に賭けのレートを吊り上げるのはやめてもらえます?
私の正論は、狂乱する山と里の怒号にかき消されました。
文さんの新聞のせいで、事態は完全に臨界点を突破しました。
山の製菓工場がひよこ製造に全電力を投入したせいで、妖怪の山のインフラが一部停電。
里の職人が総動員されたせいで、惣菜や食料品の提供が滞り、人里の物価が急騰。もはや不毛な暴動の域に達していました。
これを解決(正しくは丸投げ)するために、幻想郷の管理者である八雲紫様が守矢神社に呼び出されました。
紫様がスキマから現れたのは、穏やかな昼下がりのことです。式神の藍さんを引き連れ、いかにも「どうせ大した話じゃないでしょう」という、全てを見通したような賢者の顔をしていました。
「それで、幻想郷を揺るがすほどの問題とは何かしら?」
「ひよこです」
「……帰るわ」
「帰れません、紫様。前払いで多額の金銭をいただいていますので」
そう言うと藍さんは無言のまま、音もなく紫様の背後のスキマを物理的に塞ぎました。流石は有能な式神、主人の扱いをよく分かっていらっしゃいます。
事情を説明すると、紫様はしばらく深いため息をついて、頭を押さえました。
「……要するに、外の世界のくだらない土産物論争を、神二柱が本気で山と里の代理戦争にまで発展させた、と。あなたたち神様って、本当に他人のリソースを消費して遊ぶのが好きねえ」
「言葉が悪いな、八雲殿」
神奈子様が不敵に笑い、ちゃぶ台を叩きました。
「これは『どちらの技術と品質が優れているか』という、信仰の優劣を懸けた聖戦だ。山の精巧な技術力を見れば、軍配がどちらに上がるかなど明白だろう」
「信仰の優劣なんぞ懸けてないだろうに。相変わらず脳みそまで筋肉でできてるね、神奈子は」
諏訪子様が、袖から覗かせた手でねちねちと扇子を弄びながら言います。
「そもそも幻想郷の技術や歴史を管理してるのは紫でしょ? その紫が、歴史ある本家の味と、後から乗っかっただけのニセモノの区別もつかないなんて言わないよねえ。ねえ、まさかそんな節穴じゃないよね?」
「……っ」
紫様の管理責任とプライドを笑顔で煽り始めました。本当にこの祟り神様は、人が嫌がるツボを突くのが天才的です。紫様の美貌が、怒りと面倒臭さでピキピキと引き攣っていくのが分かります。
「八雲殿、お辛そうなら私が代わりに幻想郷の『技術力』の管理権を引き受けてもよろしいが?」
「紫、こいつに主導権握らせたら、幻想郷は三日も立たないうちに内戦状態になるよ」
「うっわ……何この神様たち、本当に性質が悪いわ……」
紫様が本音を漏らしました。お気持ちは分かります。
私は藍さんと視線を交わしました。藍さんは静かに、哀れみの目をこちらに向けていました。巻き込んですみません。うちの二柱はとんでもなく面倒なのです。
「……わかったわ。もう勝手にしなさい」
紫様は完全に目が死んだ状態で、扇子で投げやりに空間を指しました。
「『幻想郷ひよこグランプリ』を開催しなさい。来場者に実物を食べ比べさせ、完全な匿名投票で白黒つける。それで終わりにしなさい。……藍、即刻予算を組んで会場の手配を」
「かしこまりました、紫様」
「「話が早くて助かるよ」」
こうして、幻想郷の賢者は一銭の得にもならない不毛なグランプリの運営委員長に就任させられました。スキマに消えていく後ろ姿が、心なしかいつもより小さく見えました。
会場となった人里の広場は、最悪の熱気に包まれていました。
天狗たちがバラ撒いた「山と里、生き残るのはどっちだ!」という物騒なビラのせいで、見物目的の妖怪や人間がすし詰め状態です。もはやただの菓子コンテストではなく、山と里の威信を懸けた抗争の空気です。
本部席の紫様は、開始前から既に「一刻も早く寝所へ帰りたい」というオーラを全身から放っていました。
そこへ、地響きと共に人混みを割って現れた影がありました。旧都の菓子職人――見るからに血気盛んな鬼の一団です。
「おいおい、山だの里だの、お高くとまったヌルい菓子で盛り上がってんじゃねえよ!」
代表の鬼が、ちゃぶ台を破壊せんばかりの勢いで大皿をドン、と机に叩きつけました。
「地獄の底で、罪人の叫びを聞きながら練り上げた『鬼のひよこ』だ! 混ぜな、文句はあるめえな!?」
会場が、そのあまりの物々しさに一瞬で静まり返りました。
紫様がゆっくりと立ち上がりました。その目は、限界を迎えた中間管理職のそれでした。
「……ねえ藍。エントリー、増えたわよ?」
「増えましたね、紫様。グランプリの開催要項をちゃんと詰めなかったからでしょうね」
「帰っていいかしら」
「駄目です。ここであなたが投げ出したら、明日から幻想郷が焦土になります」
紫様は静かに椅子に座り直しました。この世の全てを呪うかのような、深い、深い沈黙でした。
こうして始まった三つ巴の戦い。
山チーム(神奈子様陣営)は、河童の最新技術を駆使した、ミリ単位の狂いもない「完璧な流線型のひよこ」を出してきました。神奈子様が「どうだ、この圧倒的な工業力と完成度!」と高笑いしています。
里チーム(諏訪子様陣営)は、稗田家の古文書からサルベージした、素材の配合率が呪術的に美しい「由緒正しき完全再現ひよこ」です。阿求さんが「五百年の歴史の重みを味わうといいです」と笑顔で圧をかけています。
そして旧都チームは、見た目こそボコボコで、ひよこというよりは「殴られた鳥」みたいな形をしていますが、薄らと砂糖の膜に覆われて、ひよこというよりはもはや鶏です。
「甘さだ! 背徳的な甘さは全てを凌駕する!」
実食と投票が始まりました。私も一通り食べてみました。
山のひよこは気高いほどに洗練された上質な甘さ。里のひよこは、噛むほどに伝統の深みが広がる確かな食べ応え。そして旧都のひよこは、粗削りながらも、暴力的なまでの餡の密度と糖分、一度食べたら脳が焼けるような中毒性のある甘さでした。うん、私がお伝えした通りの味になっています。
夕刻。集計を終えた紫様が、怒りを通り越して無の表情で立ち上がりました。
「……結果を発表するわ。山のひよこ、百十四票。里のひよこ、百二十票。鬼のひよこ、四百十三票。よって優勝、旧都」
うおおおおお!と鬼たちが咆哮し、酒樽をぶち開けました。会場はお祭り騒ぎです。
完璧な技術力を誇った神奈子様も、ねちねちと歴史を盾にした諏訪子様も、呆然としたまま石のように固まっていました。マーケティングだの、伝統だの、そんな細かい理屈は力(圧倒的な糖分)の前に全て粉砕されたのです。私の思わく通りに……。
お祭り騒ぎの喧騒の真ん中で、神奈子様と諏訪子様は、並んで立ったまましばらく何も言いませんでした。
さっきまであれほど偉そうに大見得を切っていたというのに、完全に燃え尽きています。勝負に負けた後の二柱を見るのは久しぶりですが、なんとも言えない哀愁が漂っていました。
「……負けたな、完敗だ。圧倒的な餡の密度と暴力的な甘さの前に我が軍のテクノロジーは敗北した」
神奈子様が、信じられないくらい真剣な顔で敗戦弁を述べました。
「負けたね。歴史の長さにあぐらをかいてたら、地底の野蛮なカロリーに正面から轢き殺されちゃった」
諏訪子様も、悔しそうに爪を噛みながら同意しました。
お互いを責めるでもなく、言い訳をするでもなく、ただただ敗北という「結果」だけを厳粛に受け止める。くだらないプライドで山と里を巻き込んで大騒ぎしたくせに、負けた瞬間の引き際の潔さだけは、数千年の戦乱を生き延びてきた本物の神様のそれでした。
私はしばらくその横顔を見ていました。
普段は小学生みたいな理由で年中言い争っているくせに、こういう時だけ妙に格好いいんですよね。本当にずるいと思います。
「早苗、みんなよく頑張ってくれた。勝負には負けたが、我が陣営の健闘を称えたい。甘いものでも買ってきてやってくれ。ほら、あそこの屋台がまだ開いている」
神奈子様からお財布を預かり、私は人混みを歩き始めました。
広場を横切ると、里チームの片付けを手伝っている諏訪子様が、ひょいと顔を上げました。
「あ、早苗。里の職人たちさ、私のためにあんなに頑張ってくれたからさ、何か労ってあげたいんだよね。あそこの屋台で甘いもの、たくさん買ってきてよ。私のお金でいいから」
私は歩きながら、少し吹き出しました。
二人して、まったく同じことを考えるんですね。言葉の端々に神としての傲慢さや歪みはあるくせに、信者を労うタイミングと優しさだけは、気味が悪いくらいにシンクロしている。そういうところだけは、息がぴったりなんですよ、この二人。ひよこの起源では一ミリも分かり合えなかったのに。
本当に、愛すべきしょうもない神様たちです。
屋台に着くと、回転焼きが売られていました。小麦粉の焼けるいい匂いがします。私は二柱から預かった軍資金を湯水のように使い、回転焼きを袋から溢れんばかりに買い占めました。
山チームと里チーム、わたしがこっそり手を回していた地底チームに配り終え、最後に、作業を終えて並んで立っている二柱のところへ向かいました。さっきまで死んだ魚の目をしていたくせに、もう「次は何をして遊ぼうか」という、前向きな悪巧みの顔をしています。切り替えが早すぎます。
私が袋を差し出すと、二柱は同時に中を覗き込みました。
「お、良いね、大判焼き。私はカスタード。神奈子は粒あんだよね?
「あぁ、粒あんだ。ただし今川焼きのな」
神奈子様が当然のように言いました。
――ピキ、と。
広場の気温が、一瞬で氷点下まで下がりました。
「何言ってんだい神奈子。これは大判焼きだよ」
「今川焼きだ、小麦粉の生地で餡子を包み焼いたもの、それすなわち今川焼きだろうが」
「はぁ、あんた本当に歴史を学ぶ脳みそが欠落してるんじゃないかい? 歴史的に見ても大判焼きと呼ばれている。お前の好きな『覇権』は大判焼きの名だろうが」
「名前の歴史の話ではない! 認知度のパワーバランスの話をしているんだ!」
まだやるんですか、この人たち。
通りがかりにその様子を目撃してしまった紫様が、彫刻のように硬直しました。今日一日でもう一生分のひよこと神様の相手をした、という、絶望に満ちた目でした。
「八雲殿!」
神奈子様が笑顔で呼び止めます。
「幻想郷の管理者として、この餡を包んで焼いた菓子の『正しい名称』をこのロートルに教えてやってはくれまいか!」
「紫ー」
諏訪子様も、ねっとりとした呪いの神気を指先から出しながら呼びかけます。
「当然、大判焼きって言うよね? もし違う呼び方をしている者がいれば祟ってでも修正してもらうけど」
紫様は、すがるような目で私を見つめました。助けて、という無言の悲鳴でした。
私は、これ以上ないくらい満面の笑みを浮かべ、静かに首を横に振りました。
「あぁぁぁっ面倒臭い! 藍っ!」
「はい、紫様」
「スキマを開けなさい。今すぐ、誰もいない世界の果てへ行くわよ」
「かしこまりました。お労しや、紫様……」
哀れな管理者が次元の裂け目に消えていくのを横目に、二柱の声はさらにボリュームを増していきます。
「今川焼きだ!」
「大判焼きだよ!」
私は回転焼きのカスタードを一口かじりました。
温かくて、容赦なく甘くて、とっても美味しかったです。
……もっとも、これの名前については、私も譲るつもりはありませんけど。
可愛らしい紙箱の蓋を開けたら、中から黄色くて丸くて、ちょっと間の抜けた顔をした「ひよこ」がぎっしり詰まってこちらを見上げていました。近所に住む氏子さんからの旅行土産らしいです。信仰が薄れゆく現代においても旅行土産を『ミシャグジ様にあげてくださいね』の一言を添えて下さるなんて、ありがたいことですね。
私はその可愛らしい頭部を躊躇なくつまみ上げ、一口で脳天から噛み砕きました。うん、しっとりして美味しい。
その時背後から、じっとりと不穏な神気が立ち上り始めるのを感じながら、私はお茶を淹れることにしました。どうせ長くなりますから。
「おい諏訪子。よく見ろ、この洗練されたフォルム、そして東京という巨大市場が生み出した圧倒的な売上高を。現代において土産菓子の覇権を握っているのは、この東京ひよこ以外にあり得んな」
神奈子様が腕を組んで傲然と言い放ちました。さすがは軍神です。目に見える数字や、勝敗のパワーバランスで物事を語らせたら右に出るものはいません。
対する諏訪子様は、ちゃぶ台に頬杖をついたまま、カエルのような目でねっとりとした笑みを浮かべました。
「浅いねぇ、神奈子は。只々人間の多い場所で横流しされて数が出ているからって、我が物顔で語るんじゃないよ。これは明治の時代に福岡で生まれて、炭鉱夫たちの血と汗を吸って育った文化なんだ。後から乗っかっただけの分家が、本家に勝てると思って怪気炎を上げてるの? 見苦しいなぁ」
「分家だと? 市場を制した者が勝者だ! 現世のトレンドも掴めぬロートルは、地元の土の中で大人しく芋でも掘っていろ!」
「へえ、数の多さが偉いんだ。じゃあ世界中で数十億部も売れてるあの西洋の神に、あんた今すぐ頭下げて軍門に下りなよ。ほら、プライド捨ててさ」
うわぁ、性根が悪い。相手の最もプライドが高くて繊細なところを、笑顔で正確に抉っていきます。さすがはかつて国を呪いで支配した祟り神です。神奈子様が「ぬ、ぬう……」と青筋を立てて硬直しました。
「それならばいっそ、御二方の知見を寄せ合って信州銘菓ひよこを作って東京も福岡も征服してしまえばいいのに。境内にお店を構えている和菓子屋さんにお声掛けしてきましょうか?」
お茶を運びながら私が笑顔で提案すると、二柱の動きがピタッと止まりました。
「「……それは本当に生々しい泥沼の利権戦争になるからやめなさい」」
声が揃いました。珍しいですね、二人の意見が一致するなんて。
「ところで早苗はどっちのひよこが好きなんだい?」と、諏訪子様がねちっこい笑顔を私にむけました。
「うむ、それは聞いておきたい」
「ちょっと前に県内初出店したアメリカ生まれのドーナツ屋さんの圧倒的な甘さが忘れられないんです。私に関わらないでください」とだけ残し 私は自分の湯呑みだけを持って、さっさと縁側に退避しました。
「なんて品のない子なんだ! こら待ちなさい早苗!」
「やめておきなよ、神奈子。今どきの若い子に和菓子の繊細さなんてどれだけ伝えたって分りゃしないよ」
二柱のことは大好きですし、心から敬っていますけど、それとこれとは話が別です。二柱のいざこざに関わるとこちらの知的レベルまで下がりそうな気がします。これは私の信頼性の高い経験則です。
それから本当に色々あって、私たち守矢神社は幻想郷に引っ越してきました。色々、というのは文字通り「弾幕で殺し合いをした」とかそういうレベルの血生臭い話なので割愛します。とにかく色々あったんです。説明が面倒臭いとかそういうのではありません。
神奈子様が地底の鴉に余計な力を授けたり、そのせいで封じられていた色々が飛び出て色々あったりして。
幻想郷に来てしばらく経ち、妖怪の山の皆さんとも腹の探り合いができる程度には顔なじみになりました。神奈子様と諏訪子様も、年中くだらないマウンティングを繰り広げながらも、それなりにここでの生活に馴染んでいるようです。
問題が起きたのは、ある秋の午後のことでした。
山の重鎮である天魔様が政治的な挨拶も兼ねて手土産を持って訪ねてきたのです。
「この幻想郷に古くから伝わる和菓子ではあるが、山では河童達が開発した機械で職人の手をほぼ介さずに作られているのだ。八坂殿はこういうモノがお好きと聞いたので」
風呂敷を解いたら、出てきました。
完璧な流線型の、ひよこが。
私は思わず二柱の顔を見ました。二柱の目が「ギチッ」と音を立てて肉食獣のように細まりました。嫌な予感しかありません。
さらに最悪なことに、翌日には人里の稗田阿求さんが訪ねてきました。取材の依頼との事で手土産と一緒に。
「守矢の神様方、江戸時代の文献にも記載のあるこの幻想郷の伝統的な菓子をお持ちしました。人里の製菓店では当時の製造方法を忠実に再現しています。現在においても江戸時代と同じ材料、同じ作り方を徹底しています」
包みの中身は、皮がパリッと引き締まった、ひよこでした。
私は無言で縁側に出て、空を見上げました。雲一つない青空が、なんだかとても遠く感じられました。
神社の中からは、かつて古代の諏訪大戦の直前のような、重苦しい殺気が立ち込めています。
「……」
「……」
「神奈子」
「諏訪子」
「神の威信に懸けて、ここで叩き潰してやる」
「望むところさ。泥水をすする準備はできてるかい?」
意見一致です。迷惑ですが。
ちなみに私は両方のひよこを食べてみましたが、山のひよこは河童の精密な温度管理による「しっとりふっくら系」で、神奈子様好み。里のひよこは竈の直火で焼き上げた「歴史と伝統のしっかり系」で、諏訪子様好み。
要するに、ただの老害二柱の「好みの押し付け合い」が、山と里という巨大な経済圏を巻き込んで再点火しただけでした。
「好みで言えば私はもっともっと甘い方がいいなぁ。中の白餡はもっとねっとりしてて、量が多くて、食べ終えた後に背徳感が芽生えるような……」
まあ、私の好みを伝えた所で二柱は「早苗は黙っていなさい」なんて息をピッタリ揃えて仰るのでしょうけど。
私はそっと三個目のひよこを口に放り込み、現実逃避を決め込みました。
翌朝から、山の空気は一変しました。
神奈子様は山の製菓工場に足を運び、技術者の河童達相手に「これは山の技術力が人間の手工業に勝るかどうかの聖戦である!」とプロパガンダをブチ上げ、生産ラインの改良と増産体制を指示。
対する諏訪子様は人里に降り、製菓店の大将を筆頭に商店街の理事会相手に「山からの不当な経済侵略に対抗せよ」と、職人たちを煽動していました。
私はその様子を眺めながら、二番煎じの渋いお茶を飲んでいました。神々の狂気に付き合うほど、私の給料は高くありません。
ただ、困ったことに、山の妖怪たちも里の人たちも、案外ノリノリだったのです。
山の河童は「今のオーブンを改良すれば、一日に数千個のひよこを1ミリの狂いもなく焼ける!」と目を血走らせ、里の菓子屋の大将は「機械の味に負けてたまるか、職人の魂を見せてやる」と、文字通り命を削って餡を練り始めました。
もともと山と里の間にあった「あっちには負けたくない」というコンプレックスに、神様たちがいい感じにガソリンを注いでしまった形です。きっと太古の昔に起こった諏訪大戦をはじめ、宗教戦争はこうやって起こされていたのでしょう。
そんな中、嘘っぱち新聞の、あれ? 文々。新聞? とにかく出鱈目ばかりの新聞の文さんが風のように飛んできました。取材ノートを片手に、獲物を見つけたハイエナのような下品な笑みを浮かべています。
「これはスクープの予感ですね! 神々の代理戦争、山と里の経済戦争!」
翌日発行の文々。新聞の見出しはこうでした。
『幻想郷ひよこ戦争勃発! 敗者は全財産没収か!?』
戦争て。あと勝手に賭けのレートを吊り上げるのはやめてもらえます?
私の正論は、狂乱する山と里の怒号にかき消されました。
文さんの新聞のせいで、事態は完全に臨界点を突破しました。
山の製菓工場がひよこ製造に全電力を投入したせいで、妖怪の山のインフラが一部停電。
里の職人が総動員されたせいで、惣菜や食料品の提供が滞り、人里の物価が急騰。もはや不毛な暴動の域に達していました。
これを解決(正しくは丸投げ)するために、幻想郷の管理者である八雲紫様が守矢神社に呼び出されました。
紫様がスキマから現れたのは、穏やかな昼下がりのことです。式神の藍さんを引き連れ、いかにも「どうせ大した話じゃないでしょう」という、全てを見通したような賢者の顔をしていました。
「それで、幻想郷を揺るがすほどの問題とは何かしら?」
「ひよこです」
「……帰るわ」
「帰れません、紫様。前払いで多額の金銭をいただいていますので」
そう言うと藍さんは無言のまま、音もなく紫様の背後のスキマを物理的に塞ぎました。流石は有能な式神、主人の扱いをよく分かっていらっしゃいます。
事情を説明すると、紫様はしばらく深いため息をついて、頭を押さえました。
「……要するに、外の世界のくだらない土産物論争を、神二柱が本気で山と里の代理戦争にまで発展させた、と。あなたたち神様って、本当に他人のリソースを消費して遊ぶのが好きねえ」
「言葉が悪いな、八雲殿」
神奈子様が不敵に笑い、ちゃぶ台を叩きました。
「これは『どちらの技術と品質が優れているか』という、信仰の優劣を懸けた聖戦だ。山の精巧な技術力を見れば、軍配がどちらに上がるかなど明白だろう」
「信仰の優劣なんぞ懸けてないだろうに。相変わらず脳みそまで筋肉でできてるね、神奈子は」
諏訪子様が、袖から覗かせた手でねちねちと扇子を弄びながら言います。
「そもそも幻想郷の技術や歴史を管理してるのは紫でしょ? その紫が、歴史ある本家の味と、後から乗っかっただけのニセモノの区別もつかないなんて言わないよねえ。ねえ、まさかそんな節穴じゃないよね?」
「……っ」
紫様の管理責任とプライドを笑顔で煽り始めました。本当にこの祟り神様は、人が嫌がるツボを突くのが天才的です。紫様の美貌が、怒りと面倒臭さでピキピキと引き攣っていくのが分かります。
「八雲殿、お辛そうなら私が代わりに幻想郷の『技術力』の管理権を引き受けてもよろしいが?」
「紫、こいつに主導権握らせたら、幻想郷は三日も立たないうちに内戦状態になるよ」
「うっわ……何この神様たち、本当に性質が悪いわ……」
紫様が本音を漏らしました。お気持ちは分かります。
私は藍さんと視線を交わしました。藍さんは静かに、哀れみの目をこちらに向けていました。巻き込んですみません。うちの二柱はとんでもなく面倒なのです。
「……わかったわ。もう勝手にしなさい」
紫様は完全に目が死んだ状態で、扇子で投げやりに空間を指しました。
「『幻想郷ひよこグランプリ』を開催しなさい。来場者に実物を食べ比べさせ、完全な匿名投票で白黒つける。それで終わりにしなさい。……藍、即刻予算を組んで会場の手配を」
「かしこまりました、紫様」
「「話が早くて助かるよ」」
こうして、幻想郷の賢者は一銭の得にもならない不毛なグランプリの運営委員長に就任させられました。スキマに消えていく後ろ姿が、心なしかいつもより小さく見えました。
会場となった人里の広場は、最悪の熱気に包まれていました。
天狗たちがバラ撒いた「山と里、生き残るのはどっちだ!」という物騒なビラのせいで、見物目的の妖怪や人間がすし詰め状態です。もはやただの菓子コンテストではなく、山と里の威信を懸けた抗争の空気です。
本部席の紫様は、開始前から既に「一刻も早く寝所へ帰りたい」というオーラを全身から放っていました。
そこへ、地響きと共に人混みを割って現れた影がありました。旧都の菓子職人――見るからに血気盛んな鬼の一団です。
「おいおい、山だの里だの、お高くとまったヌルい菓子で盛り上がってんじゃねえよ!」
代表の鬼が、ちゃぶ台を破壊せんばかりの勢いで大皿をドン、と机に叩きつけました。
「地獄の底で、罪人の叫びを聞きながら練り上げた『鬼のひよこ』だ! 混ぜな、文句はあるめえな!?」
会場が、そのあまりの物々しさに一瞬で静まり返りました。
紫様がゆっくりと立ち上がりました。その目は、限界を迎えた中間管理職のそれでした。
「……ねえ藍。エントリー、増えたわよ?」
「増えましたね、紫様。グランプリの開催要項をちゃんと詰めなかったからでしょうね」
「帰っていいかしら」
「駄目です。ここであなたが投げ出したら、明日から幻想郷が焦土になります」
紫様は静かに椅子に座り直しました。この世の全てを呪うかのような、深い、深い沈黙でした。
こうして始まった三つ巴の戦い。
山チーム(神奈子様陣営)は、河童の最新技術を駆使した、ミリ単位の狂いもない「完璧な流線型のひよこ」を出してきました。神奈子様が「どうだ、この圧倒的な工業力と完成度!」と高笑いしています。
里チーム(諏訪子様陣営)は、稗田家の古文書からサルベージした、素材の配合率が呪術的に美しい「由緒正しき完全再現ひよこ」です。阿求さんが「五百年の歴史の重みを味わうといいです」と笑顔で圧をかけています。
そして旧都チームは、見た目こそボコボコで、ひよこというよりは「殴られた鳥」みたいな形をしていますが、薄らと砂糖の膜に覆われて、ひよこというよりはもはや鶏です。
「甘さだ! 背徳的な甘さは全てを凌駕する!」
実食と投票が始まりました。私も一通り食べてみました。
山のひよこは気高いほどに洗練された上質な甘さ。里のひよこは、噛むほどに伝統の深みが広がる確かな食べ応え。そして旧都のひよこは、粗削りながらも、暴力的なまでの餡の密度と糖分、一度食べたら脳が焼けるような中毒性のある甘さでした。うん、私がお伝えした通りの味になっています。
夕刻。集計を終えた紫様が、怒りを通り越して無の表情で立ち上がりました。
「……結果を発表するわ。山のひよこ、百十四票。里のひよこ、百二十票。鬼のひよこ、四百十三票。よって優勝、旧都」
うおおおおお!と鬼たちが咆哮し、酒樽をぶち開けました。会場はお祭り騒ぎです。
完璧な技術力を誇った神奈子様も、ねちねちと歴史を盾にした諏訪子様も、呆然としたまま石のように固まっていました。マーケティングだの、伝統だの、そんな細かい理屈は力(圧倒的な糖分)の前に全て粉砕されたのです。私の思わく通りに……。
お祭り騒ぎの喧騒の真ん中で、神奈子様と諏訪子様は、並んで立ったまましばらく何も言いませんでした。
さっきまであれほど偉そうに大見得を切っていたというのに、完全に燃え尽きています。勝負に負けた後の二柱を見るのは久しぶりですが、なんとも言えない哀愁が漂っていました。
「……負けたな、完敗だ。圧倒的な餡の密度と暴力的な甘さの前に我が軍のテクノロジーは敗北した」
神奈子様が、信じられないくらい真剣な顔で敗戦弁を述べました。
「負けたね。歴史の長さにあぐらをかいてたら、地底の野蛮なカロリーに正面から轢き殺されちゃった」
諏訪子様も、悔しそうに爪を噛みながら同意しました。
お互いを責めるでもなく、言い訳をするでもなく、ただただ敗北という「結果」だけを厳粛に受け止める。くだらないプライドで山と里を巻き込んで大騒ぎしたくせに、負けた瞬間の引き際の潔さだけは、数千年の戦乱を生き延びてきた本物の神様のそれでした。
私はしばらくその横顔を見ていました。
普段は小学生みたいな理由で年中言い争っているくせに、こういう時だけ妙に格好いいんですよね。本当にずるいと思います。
「早苗、みんなよく頑張ってくれた。勝負には負けたが、我が陣営の健闘を称えたい。甘いものでも買ってきてやってくれ。ほら、あそこの屋台がまだ開いている」
神奈子様からお財布を預かり、私は人混みを歩き始めました。
広場を横切ると、里チームの片付けを手伝っている諏訪子様が、ひょいと顔を上げました。
「あ、早苗。里の職人たちさ、私のためにあんなに頑張ってくれたからさ、何か労ってあげたいんだよね。あそこの屋台で甘いもの、たくさん買ってきてよ。私のお金でいいから」
私は歩きながら、少し吹き出しました。
二人して、まったく同じことを考えるんですね。言葉の端々に神としての傲慢さや歪みはあるくせに、信者を労うタイミングと優しさだけは、気味が悪いくらいにシンクロしている。そういうところだけは、息がぴったりなんですよ、この二人。ひよこの起源では一ミリも分かり合えなかったのに。
本当に、愛すべきしょうもない神様たちです。
屋台に着くと、回転焼きが売られていました。小麦粉の焼けるいい匂いがします。私は二柱から預かった軍資金を湯水のように使い、回転焼きを袋から溢れんばかりに買い占めました。
山チームと里チーム、わたしがこっそり手を回していた地底チームに配り終え、最後に、作業を終えて並んで立っている二柱のところへ向かいました。さっきまで死んだ魚の目をしていたくせに、もう「次は何をして遊ぼうか」という、前向きな悪巧みの顔をしています。切り替えが早すぎます。
私が袋を差し出すと、二柱は同時に中を覗き込みました。
「お、良いね、大判焼き。私はカスタード。神奈子は粒あんだよね?
「あぁ、粒あんだ。ただし今川焼きのな」
神奈子様が当然のように言いました。
――ピキ、と。
広場の気温が、一瞬で氷点下まで下がりました。
「何言ってんだい神奈子。これは大判焼きだよ」
「今川焼きだ、小麦粉の生地で餡子を包み焼いたもの、それすなわち今川焼きだろうが」
「はぁ、あんた本当に歴史を学ぶ脳みそが欠落してるんじゃないかい? 歴史的に見ても大判焼きと呼ばれている。お前の好きな『覇権』は大判焼きの名だろうが」
「名前の歴史の話ではない! 認知度のパワーバランスの話をしているんだ!」
まだやるんですか、この人たち。
通りがかりにその様子を目撃してしまった紫様が、彫刻のように硬直しました。今日一日でもう一生分のひよこと神様の相手をした、という、絶望に満ちた目でした。
「八雲殿!」
神奈子様が笑顔で呼び止めます。
「幻想郷の管理者として、この餡を包んで焼いた菓子の『正しい名称』をこのロートルに教えてやってはくれまいか!」
「紫ー」
諏訪子様も、ねっとりとした呪いの神気を指先から出しながら呼びかけます。
「当然、大判焼きって言うよね? もし違う呼び方をしている者がいれば祟ってでも修正してもらうけど」
紫様は、すがるような目で私を見つめました。助けて、という無言の悲鳴でした。
私は、これ以上ないくらい満面の笑みを浮かべ、静かに首を横に振りました。
「あぁぁぁっ面倒臭い! 藍っ!」
「はい、紫様」
「スキマを開けなさい。今すぐ、誰もいない世界の果てへ行くわよ」
「かしこまりました。お労しや、紫様……」
哀れな管理者が次元の裂け目に消えていくのを横目に、二柱の声はさらにボリュームを増していきます。
「今川焼きだ!」
「大判焼きだよ!」
私は回転焼きのカスタードを一口かじりました。
温かくて、容赦なく甘くて、とっても美味しかったです。
……もっとも、これの名前については、私も譲るつもりはありませんけど。