「あ……」
いつぶりかの発声に喉は渇きを訴え、震えている。
鉄の味とともに絞り出した空気はあまりに少なく、続く言葉にはならない。
私はあれからどうなったのだろう。
少なくとも、消えてはいない。
思う心が有る限り、私はここに在る。
意識が鮮明になってくるにつれて、身体の節々がじくじくと痛み始める。
どうやら冷たい何かの上に仰向けで横たわっているようだ。
それを認識した途端、素足が冷感で微かに震える。
ああ、懐かしい。
この慣れ親しんだ石の冷たさ。
鉱物、土がほとんど含まれない無機質な匂い。
一体、どれだけの時間が経ったのだろうか。
得体の知れない術に身体を縛られ、薄れゆく意識の中で抱いたたった一つの願い。
もし、もう一度目覚めることが出来るなら。
……最初に聞くのは、あの子の声がいい。
何者かが封印を解いた?
いや、それとも。
その先を推考しようとしたところ、突如私の思考は中断された。
「お目覚めかしら」
不快な音がする。
あの日、月の住人は自分達の身勝手な都合で命令をし、それを断った結果私は封印された。
一団の中でも一際印象に残っている声。
不気味なまでに物腰柔らかな物言いが当時もかえって不愉快に感じられたのをよく覚えている。
顔など二度と見たくもない。
だがこの女がすぐ傍にいることが分かった以上、既に行動に選択の余地はない。
意を決して瞼を開けると、紺色の景色が広がっていく。
眩しさに目を擦ると、眉間を針で刺されたような痛みが走った。
声を上げそうになるのを辛うじて堪え、双眸を完全に開き立ち上がる。
「突然だけど、お話があるの」
眼前にいたのは先程の声の主だった。
こちらが無言のまま視線を合わせても、動じた様子はない。
気怠い身体をなんとか奮い立たせ、精一杯の声で言葉を返す。
「封印を解いたのは……貴女?」
「……ええ、貴女の力を使って欲しくて」
目の前の女、綿月豊姫が述べたのはあの時と全く同じ要求。
まさか、こうして幽閉を続ければこちらが屈するとでも考えているのだろうか。
石の翼が徐々に熱を帯びる。
感情に呼応するかのように、部屋中に無造作に立て並べられた化石の像もがたがたと音を立て始める。
だが、私の口はこれ以上の音を発することが出来なかった。
喉の渇きが限界に達している。
餌を待つ魚のように口をぱくぱくさせる自分の姿はさぞかし滑稽に映っていることだろう。
「ごめんなさい、少し待っててね」
豊姫は少し慌てた様子で持っていた扇子をしまい、小さめの水筒を差し出してきた。
本当なら施しなど受けたくない。
しかし、それでも一つずつ、取り戻さなければならない。
一つずつ。
差し出されたそれを無言で受け取り、中の水を口に含む。
よく冷えた無味無臭のそれが胃の底まで落ちたあたりで、ようやく喉の痛みは和らいだ。
一息ついたところで、豊姫が語りかけてくる。
「話せるようになったかしら」
返事はしない。
だが彼女はそんなことはどうでもいいと言わんばかりに続ける。
「ここは少し埃っぽいし、移動しましょ」
そう言った彼女が水筒を持っていない方の手で扇子を一振りすると、先程まであったはずの風景は跡形もなく消え去っていた。
出入りする者が誰もいない、空気すら不動を保っているような冷たい石の部屋。
だが今眼下に広がっているのは、全く別の場所だった。
小さな波紋が浮かぶ、だだっ広い海原。
彼女の能力は未知数だが、ただの幻というわけではなさそうだ。
その証拠に、素足でそっと海面に触れると水はとても冷たい。
それに先程飲んだ水と違い、若干だが軽く鼻を刺すような臭いもする。
私が黙っていると、豊姫がこちらに近付いてきた。
落ち着き払った顔つきのまま、口元には微笑を浮かべている。
無視して海面に視線を戻すと、彼女が先程よりも慎重な口調で語り始めた。
「景色の感想でも聞きたいところだけど、今は一刻を争うの。だから単刀直入に言うわ。
外の世界から入って来る情報が増え過ぎて、あの子が壊れる寸前なの。
だから貴女の力で、全ての変化を止めて頂戴」
自分達がしたことなど棚に上げ、まるで他人事のように宣っている。
元々理解し合える存在ではないと思っていた。
目の前の女を物言わぬ石の塑像にしたい衝動を必死に押さえ込む。
否、正確には胸元の異物感が私の心に冷や水を浴びせかけた。
目覚めた時からたしかにあったのに、何故今まで忘れていたのだろう。
そうだ。
今はこの女を壊すことよりも。
ずっと大切なことがある。
「阿梨夜はいつも優しいよね」
「ねえ、阿梨夜も一緒に行こうよ」
大切なあの子の声と笑顔がはっきりと追想される。
艶のある白のロングヘアに、飾り気のないノースリーブのワンピース姿。
連中に目をつけられるまで私も彼女、ユイマンも平穏に過ごしていた。
居所への来客はほとんどないし、日々を退屈に感じたことは幾度となくある。
でも、あの子と一緒に過ごしているだけでそれは簡単に霧散した。
いつだったか、神社への参拝者が来ない日が続いていた頃のことだった。
また一緒に狩りをしようと誘ってきたのかと思ったが、その日は違った。
「ねえ、お互いにお賽銭の入れ合いっ子しない?」
そう言いながら掌の上の一枚の硬貨を楽しげに見せてくる。
彼女が急に突拍子のないことを言い出すのは初めてのことではなかった。
「……それ、おかしくない? 私達がお互いに渡しあったらお賽銭とは言わないでしょう」
もしや来客の途絶えた日々が続いて寂しくなったのだろうか。
しかし、彼女の意図は私の想像とは違うところにあった。
「細かいことはいいじゃない、それにお賽銭が駄目ならプレゼント交換でもいいわ。
なんでもいいから、阿梨夜となにか取り替えっこしたいの」
「……急にどうしたの?」
「……私達、今はこうして一緒に過ごせてるけど。
もしも、もしもよ。どっちかが人々から忘れられて、先に消えることになったらと思って」
普段は朗らかに白い歯を見せてよく笑う彼女。
それが今日は珍しく神妙な様子を見せている。
こんなことは滅多にない。
「……心配しなくても、私は一人になっても平気よ」
「それでも嫌なの。阿梨夜はいつもそうやって悲しい気持ちを表に出さないんだから。
それに、私が先にいなくなるとしても……やっぱり、嫌だよ。ね、だからお願い」
ユイマンはそう言いながら服の裾をそっと握ってきた。
「分かった、分かったから一旦落ち着いて」
そうして私達二人は、お互いの持ち物を一つだけ交換した。
私は直径一寸ほどの石貨、そしてユイマンは。
「どうかこれだけは信じて。
貴女の力で停止させた幻想郷を再び動かす準備はしてあるし、
ユイマンに十分な休息を与えることも約束します。
今ここで貴女が私に牙を剥いても事態は何も好転しない。
押し問答をする時間が無駄なことは、聡明な貴女なら分かるわよね」
耳障りな声が再び私の意識を現実に引き戻す。
月都の住人が幻想郷の存続を本気で願っている?
身勝手な都合で他者を巻き込み、利用しているような輩が?
その上散々あの子の時間を奪っておいて、今度は休息を「与える」?
一体自分達をどれだけの存在と考えている?
私にとって女の発言は信じる、信じない以前の物だった。
だが、あの子はずっとあそこに閉じ込められ、連中のいいように使われ続けている。
今、それ以上に考えなければならないことなどない。
……力を使った結果、再び身動き一つ取れない暗い檻に閉じ込められることになっても。
もうあの子に会えなくなってしまうとしても。
私は意を決し、胸間を弄った。
封印されたあの日からずっと胸元に抱いていた、私の石貨とほぼ同じ大きさの硬貨。
それを掌に握りしめながら、最低限の言葉で応える。
「あの子のいる場所に連れて行きなさい」
すると目の前の女は初めて、少しだけ驚いた表情を浮かべた。
私の決断の早さが言葉の淡泊さと釣り合っていないとでも思ったのだろうか。
「理解が早くて助かるわ」
私は言葉を返さず、再び眼の前の女から視線を切った。
次の瞬間、女が再び扇子を一振りするとそこに現れたのは見覚えのない空間だった。
上下左右、各方向に極彩色の領域が広がっている。
長い付き合いからあの子がここに居ることは肌ではっきりと認識できる。
だが、自分が知るユイマンの居住スペースにこんな風景はなかった。
私が先刻まで封じられていた部屋と同様に光源はほとんどなかったし、どちらかと言うと薄暗い場所だったはずだ。
一歩一歩、奥へと足を踏み入れる。
肌が受ける感覚はひんやりしており、石床を歩いているのと大差ない。
辺り一面の景色は忙しなく、流動的な光が絶えず続いている。
しかし不思議と眩しさは無い。
まるで光が自分ではない、別の何かを照らしているように。
考えなければならないことは沢山ある。
月都の手先であるこの女が真実を述べている保証などどこにもない。
私に力を使わせるために、嘘を言っている可能性だってある。
でも、それでも。
あの子が危機に陥っているのを黙って見過ごすことなど出来ない。
自我を奪われたあの子が文字通り道具のように使われ続けていることを思えば。
他の何を犠牲にしてでも、この手で『全て』を停止させるしかない。
しばらく進んだところ、晄が急に激しくなった。
反射的に両手で閃光を遮る。
光線から眼を庇いながら前方を見ると、人影が像のように不動のままそこに立ち尽くしている。
立姿に気付いた直後、自分でも驚くほどの声が出た。
「ユイマン」
記憶と変わらない、病的なまでに細く華奢な身体。
狩りに行くときは結っていることもあった、綺麗な白のロングヘア。
「ちょっと、ストップ」
いつの間にかすぐ後を着いてきていた女の焦った物言い。
いつになく、自分の眉が吊り上がっているのが鏡を見なくとも分かる。
私は振り向くことなく、抑揚のない口調で答えた。
「喋らないで」
何か言い返してくるかと思ったが、それ以上の言葉はなかった。
ゆっくりと彼女に近付く。
ユイマンは立ったまま祈りを捧げるように両手を重ね合わせている。
その手の中には、あの日私が渡した石貨が握られていた。
経年劣化のせいか細かい欠けとヒビが入っているものの、間違いなく私の物だ。
瞳は閉じたまま微動だにせず、眠っているようにも見える。
しかし胸元にそっと耳を近づけると、心音が微かに聞こえてくる。
私は一先ず安堵した。
だが、その感情はすぐにどす黒い靄によってかき消される。
心優しく感情豊かだった彼女を、こんな物言わぬ人形のような姿に変えた奴がいる。
神として自我を持ち得てから、久しく感じたことのない純粋な憤怒の感情。
それは自分自身が封印を施された時とは、比べ物にならない。
気付けば身体を取り巻く化石の翼尾が刃を研ぐように音を鳴らし始めている。
心の奥底から糊のような粘ついた負の感情が溢れてくる。
『壊してもいいじゃない』
悪魔の囁きが耳朶に響き渡る。
鋭く尖った石尾で後ろの物言わぬ女をぎりぎりと締め上げる光景が脳裏を過った、その時だった。
「あり……や……」
思わず、自分の耳を疑った。
ずっと聴きたかった音。
だが、それだけではない。
ユイマンの閉じた眸が白く光っている。
腰を屈め、その白い貌をそっと覗く。
口元から零れるような声が続いた。
「あり……がと……」
彼女は一筋の涙とともに、微かに頬を緩めていた。
途端、先刻まで心中を支配していた黒い感情が心の底の底へと溶け落ちていく。
私は手を触れたい気持ちを必死に抑え、そっと囁いた。
「……うん」
本当は、言いたかった。
『きっと、また会える』って。
でも、言えなかった。
今の私に未来を信じ切るだけの心は残っていない。
元々期待し過ぎず、悲観し過ぎもせず、がモットーのつもりではいる。
だからだろうか。
ユイマンはよく、『阿梨夜はしっかりしてるよね』と私を評する。
でも私は、本当は貴女のようになりたかった。
いつだってポジティブな、貴女のように。
せめて今だけでも。
だって、これが最後かもしれないから―
帰路の道中、女はずっと喋り通しだった。
「貴女に力を使って欲しいとは言ったけど、幻想郷全てを犠牲にするつもりはないわ。
幻想郷には異変解決を生業とする人間がいる。
彼女達が貴女の元に辿り着き、そのまま貴女の術を解く。
そのための算段も付けてあるわ」
元々月の民だった自分達の師にも入念に確認を取ったことだから、と念を押してくる。
随分とその薬師のことを信頼しているようだった。
幻想郷には年若い人間でも不思議な力を持った強者が何人かいるという話は過去に聞いたことがある。
だが、会ったことすらない彼女達にどれほどのことが出来るというのか。
少なくとも、この女は一度私に力を使わせてからそれを解除させると言っている。
ユイマンの居所を出ると、そこには再び広大な海が広がっていた。
もう波紋さえ生まれない、まるで凍りついたように不動の水面。
黙ったまま女の方を見やると、豊姫はどこか疲れたように短い溜息を吐いた。
「……じゃ、送るわ」
扇を翳すと、そこは数瞬の間に見慣れた石室へと戻っていた。
結局、私は力を使った。
ユイマンも今は休息を取れているはず。
いつぶりかの休息を。
入口を開き、部屋の奥に進む。
帰路の途中、女の言葉にはついに一言も応えなかったが、奥まで踏み入って来ることはなかった。
石扉を閉め、一息つく。
あの女は、信用出来ない。
本当のことを言っていても、いなくてもだ。
だが今の私に選択肢はない。
ふと石室の隅に視線をやると、人間の幼子ぐらいの背丈の塑像が視界に入る。
人は神を信仰する。
では神は、何を信じる?
何に希望を持ち、縋る?
硬貨を両手で包み、眼を閉じる。
あの子が少しでも安らかな眠りにつけることを祈って。
一体誰が、ここまでやって来る?
それは分からない。
だが、もしもここを訪れるというのなら。
「人の可能性を、私に見せて。私を信じさせて」
時間は、残り少ない。
いつぶりかの発声に喉は渇きを訴え、震えている。
鉄の味とともに絞り出した空気はあまりに少なく、続く言葉にはならない。
私はあれからどうなったのだろう。
少なくとも、消えてはいない。
思う心が有る限り、私はここに在る。
意識が鮮明になってくるにつれて、身体の節々がじくじくと痛み始める。
どうやら冷たい何かの上に仰向けで横たわっているようだ。
それを認識した途端、素足が冷感で微かに震える。
ああ、懐かしい。
この慣れ親しんだ石の冷たさ。
鉱物、土がほとんど含まれない無機質な匂い。
一体、どれだけの時間が経ったのだろうか。
得体の知れない術に身体を縛られ、薄れゆく意識の中で抱いたたった一つの願い。
もし、もう一度目覚めることが出来るなら。
……最初に聞くのは、あの子の声がいい。
何者かが封印を解いた?
いや、それとも。
その先を推考しようとしたところ、突如私の思考は中断された。
「お目覚めかしら」
不快な音がする。
あの日、月の住人は自分達の身勝手な都合で命令をし、それを断った結果私は封印された。
一団の中でも一際印象に残っている声。
不気味なまでに物腰柔らかな物言いが当時もかえって不愉快に感じられたのをよく覚えている。
顔など二度と見たくもない。
だがこの女がすぐ傍にいることが分かった以上、既に行動に選択の余地はない。
意を決して瞼を開けると、紺色の景色が広がっていく。
眩しさに目を擦ると、眉間を針で刺されたような痛みが走った。
声を上げそうになるのを辛うじて堪え、双眸を完全に開き立ち上がる。
「突然だけど、お話があるの」
眼前にいたのは先程の声の主だった。
こちらが無言のまま視線を合わせても、動じた様子はない。
気怠い身体をなんとか奮い立たせ、精一杯の声で言葉を返す。
「封印を解いたのは……貴女?」
「……ええ、貴女の力を使って欲しくて」
目の前の女、綿月豊姫が述べたのはあの時と全く同じ要求。
まさか、こうして幽閉を続ければこちらが屈するとでも考えているのだろうか。
石の翼が徐々に熱を帯びる。
感情に呼応するかのように、部屋中に無造作に立て並べられた化石の像もがたがたと音を立て始める。
だが、私の口はこれ以上の音を発することが出来なかった。
喉の渇きが限界に達している。
餌を待つ魚のように口をぱくぱくさせる自分の姿はさぞかし滑稽に映っていることだろう。
「ごめんなさい、少し待っててね」
豊姫は少し慌てた様子で持っていた扇子をしまい、小さめの水筒を差し出してきた。
本当なら施しなど受けたくない。
しかし、それでも一つずつ、取り戻さなければならない。
一つずつ。
差し出されたそれを無言で受け取り、中の水を口に含む。
よく冷えた無味無臭のそれが胃の底まで落ちたあたりで、ようやく喉の痛みは和らいだ。
一息ついたところで、豊姫が語りかけてくる。
「話せるようになったかしら」
返事はしない。
だが彼女はそんなことはどうでもいいと言わんばかりに続ける。
「ここは少し埃っぽいし、移動しましょ」
そう言った彼女が水筒を持っていない方の手で扇子を一振りすると、先程まであったはずの風景は跡形もなく消え去っていた。
出入りする者が誰もいない、空気すら不動を保っているような冷たい石の部屋。
だが今眼下に広がっているのは、全く別の場所だった。
小さな波紋が浮かぶ、だだっ広い海原。
彼女の能力は未知数だが、ただの幻というわけではなさそうだ。
その証拠に、素足でそっと海面に触れると水はとても冷たい。
それに先程飲んだ水と違い、若干だが軽く鼻を刺すような臭いもする。
私が黙っていると、豊姫がこちらに近付いてきた。
落ち着き払った顔つきのまま、口元には微笑を浮かべている。
無視して海面に視線を戻すと、彼女が先程よりも慎重な口調で語り始めた。
「景色の感想でも聞きたいところだけど、今は一刻を争うの。だから単刀直入に言うわ。
外の世界から入って来る情報が増え過ぎて、あの子が壊れる寸前なの。
だから貴女の力で、全ての変化を止めて頂戴」
自分達がしたことなど棚に上げ、まるで他人事のように宣っている。
元々理解し合える存在ではないと思っていた。
目の前の女を物言わぬ石の塑像にしたい衝動を必死に押さえ込む。
否、正確には胸元の異物感が私の心に冷や水を浴びせかけた。
目覚めた時からたしかにあったのに、何故今まで忘れていたのだろう。
そうだ。
今はこの女を壊すことよりも。
ずっと大切なことがある。
「阿梨夜はいつも優しいよね」
「ねえ、阿梨夜も一緒に行こうよ」
大切なあの子の声と笑顔がはっきりと追想される。
艶のある白のロングヘアに、飾り気のないノースリーブのワンピース姿。
連中に目をつけられるまで私も彼女、ユイマンも平穏に過ごしていた。
居所への来客はほとんどないし、日々を退屈に感じたことは幾度となくある。
でも、あの子と一緒に過ごしているだけでそれは簡単に霧散した。
いつだったか、神社への参拝者が来ない日が続いていた頃のことだった。
また一緒に狩りをしようと誘ってきたのかと思ったが、その日は違った。
「ねえ、お互いにお賽銭の入れ合いっ子しない?」
そう言いながら掌の上の一枚の硬貨を楽しげに見せてくる。
彼女が急に突拍子のないことを言い出すのは初めてのことではなかった。
「……それ、おかしくない? 私達がお互いに渡しあったらお賽銭とは言わないでしょう」
もしや来客の途絶えた日々が続いて寂しくなったのだろうか。
しかし、彼女の意図は私の想像とは違うところにあった。
「細かいことはいいじゃない、それにお賽銭が駄目ならプレゼント交換でもいいわ。
なんでもいいから、阿梨夜となにか取り替えっこしたいの」
「……急にどうしたの?」
「……私達、今はこうして一緒に過ごせてるけど。
もしも、もしもよ。どっちかが人々から忘れられて、先に消えることになったらと思って」
普段は朗らかに白い歯を見せてよく笑う彼女。
それが今日は珍しく神妙な様子を見せている。
こんなことは滅多にない。
「……心配しなくても、私は一人になっても平気よ」
「それでも嫌なの。阿梨夜はいつもそうやって悲しい気持ちを表に出さないんだから。
それに、私が先にいなくなるとしても……やっぱり、嫌だよ。ね、だからお願い」
ユイマンはそう言いながら服の裾をそっと握ってきた。
「分かった、分かったから一旦落ち着いて」
そうして私達二人は、お互いの持ち物を一つだけ交換した。
私は直径一寸ほどの石貨、そしてユイマンは。
「どうかこれだけは信じて。
貴女の力で停止させた幻想郷を再び動かす準備はしてあるし、
ユイマンに十分な休息を与えることも約束します。
今ここで貴女が私に牙を剥いても事態は何も好転しない。
押し問答をする時間が無駄なことは、聡明な貴女なら分かるわよね」
耳障りな声が再び私の意識を現実に引き戻す。
月都の住人が幻想郷の存続を本気で願っている?
身勝手な都合で他者を巻き込み、利用しているような輩が?
その上散々あの子の時間を奪っておいて、今度は休息を「与える」?
一体自分達をどれだけの存在と考えている?
私にとって女の発言は信じる、信じない以前の物だった。
だが、あの子はずっとあそこに閉じ込められ、連中のいいように使われ続けている。
今、それ以上に考えなければならないことなどない。
……力を使った結果、再び身動き一つ取れない暗い檻に閉じ込められることになっても。
もうあの子に会えなくなってしまうとしても。
私は意を決し、胸間を弄った。
封印されたあの日からずっと胸元に抱いていた、私の石貨とほぼ同じ大きさの硬貨。
それを掌に握りしめながら、最低限の言葉で応える。
「あの子のいる場所に連れて行きなさい」
すると目の前の女は初めて、少しだけ驚いた表情を浮かべた。
私の決断の早さが言葉の淡泊さと釣り合っていないとでも思ったのだろうか。
「理解が早くて助かるわ」
私は言葉を返さず、再び眼の前の女から視線を切った。
次の瞬間、女が再び扇子を一振りするとそこに現れたのは見覚えのない空間だった。
上下左右、各方向に極彩色の領域が広がっている。
長い付き合いからあの子がここに居ることは肌ではっきりと認識できる。
だが、自分が知るユイマンの居住スペースにこんな風景はなかった。
私が先刻まで封じられていた部屋と同様に光源はほとんどなかったし、どちらかと言うと薄暗い場所だったはずだ。
一歩一歩、奥へと足を踏み入れる。
肌が受ける感覚はひんやりしており、石床を歩いているのと大差ない。
辺り一面の景色は忙しなく、流動的な光が絶えず続いている。
しかし不思議と眩しさは無い。
まるで光が自分ではない、別の何かを照らしているように。
考えなければならないことは沢山ある。
月都の手先であるこの女が真実を述べている保証などどこにもない。
私に力を使わせるために、嘘を言っている可能性だってある。
でも、それでも。
あの子が危機に陥っているのを黙って見過ごすことなど出来ない。
自我を奪われたあの子が文字通り道具のように使われ続けていることを思えば。
他の何を犠牲にしてでも、この手で『全て』を停止させるしかない。
しばらく進んだところ、晄が急に激しくなった。
反射的に両手で閃光を遮る。
光線から眼を庇いながら前方を見ると、人影が像のように不動のままそこに立ち尽くしている。
立姿に気付いた直後、自分でも驚くほどの声が出た。
「ユイマン」
記憶と変わらない、病的なまでに細く華奢な身体。
狩りに行くときは結っていることもあった、綺麗な白のロングヘア。
「ちょっと、ストップ」
いつの間にかすぐ後を着いてきていた女の焦った物言い。
いつになく、自分の眉が吊り上がっているのが鏡を見なくとも分かる。
私は振り向くことなく、抑揚のない口調で答えた。
「喋らないで」
何か言い返してくるかと思ったが、それ以上の言葉はなかった。
ゆっくりと彼女に近付く。
ユイマンは立ったまま祈りを捧げるように両手を重ね合わせている。
その手の中には、あの日私が渡した石貨が握られていた。
経年劣化のせいか細かい欠けとヒビが入っているものの、間違いなく私の物だ。
瞳は閉じたまま微動だにせず、眠っているようにも見える。
しかし胸元にそっと耳を近づけると、心音が微かに聞こえてくる。
私は一先ず安堵した。
だが、その感情はすぐにどす黒い靄によってかき消される。
心優しく感情豊かだった彼女を、こんな物言わぬ人形のような姿に変えた奴がいる。
神として自我を持ち得てから、久しく感じたことのない純粋な憤怒の感情。
それは自分自身が封印を施された時とは、比べ物にならない。
気付けば身体を取り巻く化石の翼尾が刃を研ぐように音を鳴らし始めている。
心の奥底から糊のような粘ついた負の感情が溢れてくる。
『壊してもいいじゃない』
悪魔の囁きが耳朶に響き渡る。
鋭く尖った石尾で後ろの物言わぬ女をぎりぎりと締め上げる光景が脳裏を過った、その時だった。
「あり……や……」
思わず、自分の耳を疑った。
ずっと聴きたかった音。
だが、それだけではない。
ユイマンの閉じた眸が白く光っている。
腰を屈め、その白い貌をそっと覗く。
口元から零れるような声が続いた。
「あり……がと……」
彼女は一筋の涙とともに、微かに頬を緩めていた。
途端、先刻まで心中を支配していた黒い感情が心の底の底へと溶け落ちていく。
私は手を触れたい気持ちを必死に抑え、そっと囁いた。
「……うん」
本当は、言いたかった。
『きっと、また会える』って。
でも、言えなかった。
今の私に未来を信じ切るだけの心は残っていない。
元々期待し過ぎず、悲観し過ぎもせず、がモットーのつもりではいる。
だからだろうか。
ユイマンはよく、『阿梨夜はしっかりしてるよね』と私を評する。
でも私は、本当は貴女のようになりたかった。
いつだってポジティブな、貴女のように。
せめて今だけでも。
だって、これが最後かもしれないから―
帰路の道中、女はずっと喋り通しだった。
「貴女に力を使って欲しいとは言ったけど、幻想郷全てを犠牲にするつもりはないわ。
幻想郷には異変解決を生業とする人間がいる。
彼女達が貴女の元に辿り着き、そのまま貴女の術を解く。
そのための算段も付けてあるわ」
元々月の民だった自分達の師にも入念に確認を取ったことだから、と念を押してくる。
随分とその薬師のことを信頼しているようだった。
幻想郷には年若い人間でも不思議な力を持った強者が何人かいるという話は過去に聞いたことがある。
だが、会ったことすらない彼女達にどれほどのことが出来るというのか。
少なくとも、この女は一度私に力を使わせてからそれを解除させると言っている。
ユイマンの居所を出ると、そこには再び広大な海が広がっていた。
もう波紋さえ生まれない、まるで凍りついたように不動の水面。
黙ったまま女の方を見やると、豊姫はどこか疲れたように短い溜息を吐いた。
「……じゃ、送るわ」
扇を翳すと、そこは数瞬の間に見慣れた石室へと戻っていた。
結局、私は力を使った。
ユイマンも今は休息を取れているはず。
いつぶりかの休息を。
入口を開き、部屋の奥に進む。
帰路の途中、女の言葉にはついに一言も応えなかったが、奥まで踏み入って来ることはなかった。
石扉を閉め、一息つく。
あの女は、信用出来ない。
本当のことを言っていても、いなくてもだ。
だが今の私に選択肢はない。
ふと石室の隅に視線をやると、人間の幼子ぐらいの背丈の塑像が視界に入る。
人は神を信仰する。
では神は、何を信じる?
何に希望を持ち、縋る?
硬貨を両手で包み、眼を閉じる。
あの子が少しでも安らかな眠りにつけることを祈って。
一体誰が、ここまでやって来る?
それは分からない。
だが、もしもここを訪れるというのなら。
「人の可能性を、私に見せて。私を信じさせて」
時間は、残り少ない。
面白かったです。有難う御座いました。