Coolier - 新生・東方創想話

おかえり、魔人

2026/06/22 22:28:31
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 博麗神社の境内に、冬の終わりの風が吹いていた。
 梅の蕾がようやく色づき始めた頃合い。参拝客もなく、石畳の上には枯れ葉が数枚、乾いた音を立てて転がっていく。霊夢はどこかへ出かけているらしく、賽銭箱の前には誰もいない。
 魔理沙は箒を境内の隅に立てかけ、縁側に腰を下ろした。母屋に上がり込んで茶を一杯いただこうという、いつもの算段だったのに、肝心の巫女がいない。仕方なく、誰もいない神社でぼんやりと空を仰いでいると——。
「あら」
 声がした。
 振り向くと、命蓮寺の住職、聖白蓮が石畳の上に立っていた。両手を袖に収め、いつもの穏やかな微笑を浮かべて。霊夢に用があって来たのか、あるいはただ散策の途中に立ち寄ったのか。どちらにしても、魔理沙にとっては少々——いや、かなり居心地の悪い相手だった。
「お元気ですか」
「ああ」
 返しながら、魔理沙は自分の声が思ったより平坦に出たことに気づいた。愛想よくするつもりはない。かといって、喧嘩を売るつもりもない。ただ——この女と話すと、いつもどこかに棘が刺さるような感覚がある。うまく言葉にできないまま、それだけはずっと残っている。

 白蓮は縁側のそばまで歩いてきて、梅の木に視線を向けた。
「霊夢さんは留守ですか」
「みたいだな」
「そうですか」
 それきり、会話は途切れた。
 沈黙は別に苦痛ではない。魔理沙は魔法の森に一人で暮らしているから、静寂には慣れている。だが、白蓮との間に生まれる沈黙は、森の静けさとはまるで質が違った。この女の静けさは、完成されている。揺らがない。何百年という時間の中で、すでに答えを出し終えた人間の——いや、もはや人間とは呼べない何かの、静けさだ。
 魔理沙はそっと目を細めた。
 聖白蓮。かつて不老不死になり、妖怪たちのために法界の中に封じられ、千年を経て蘇った。今は命蓮寺を構えて、妖怪も人間も分け隔てなく受け入れる。誰が見ても「聖人」と呼ぶしかない生き方をしている女。
 綺麗事ばかりだ、と魔理沙は思う。悪意があるわけじゃない。ただ——自分とは、絶対に価値観が合わない。
 人間を捨てた本物の超人と、泥臭く這いつくばって霊夢の隣に居続けようとしている自分とでは、そもそも立っている位置が違う。白蓮がどれだけ穏やかに微笑んでいても、魔理沙にはその笑顔の向こう側が透けて見える気がした——全てを超越した人間が、まだ足掻いている小さな存在を、慈しむように見下ろしている。
 そう思うのは、ただの僻みかもしれない。
 わかっていても、どうにもならなかった。
「梅が咲き始めていますね」と白蓮が言った。
「ああ」と魔理沙は答えた。
 風が一陣、石畳を渡っていった。枯れ葉が二枚、くるりと舞って賽銭箱の裏に消えた。
 白蓮はしばらく梅の木を見ていたが、やがて静かに身を翻した。
「霊夢さんにどうぞよろしく」
「ああ」
 足音もなく遠ざかっていく背中を、魔理沙は見送らなかった。ただ空を見上げて、白い息を一つ吐いた。
 冬はまだ、終わっていなかった。

 
 爆発した。
 盛大に、見事に。魔法の森の外れに白煙が立ち上り、魔理沙は地面に倒れ込んでいた。顔が煤けている。外套の袖が焦げている。三週間かけて組み上げた魔法陣の残骸が、灰になって降ってくる。
 空が青かった。
 鳥が鳴いた。風が梢を渡った。それだけだった。
 魔理沙はしばらく空を見ていた。八卦炉の出力を魔法陣に直結させ、星弾の収束率を倍にする実験だった。理論は正しかったと思う。ただ、魔力の流入量を見誤った。それだけのことだ。三週間が、一秒で灰になった。
 おかしかった。
 笑いが込み上げてきて、止まらなかった。失敗が悔しいのか嬉しいのか、自分でもよくわからないまま、ただ笑った。こういうとき、魔理沙はいつもそうだった。うまく説明できないが——盛大にやらかした後の、この感触が嫌いではなかった。
「まったく。やらかしてくれるぜ、私って奴は」
 起き上がって、八卦炉を拾い上げた。無事だった。煤を払いながら、頭の中ではすでに次の設計が動いていた。流入量の計算を見直す。収束のタイミングをずらす。もう一度、最初から組み直す。
「次こそは成功させる」
 誰に言うでもなく、ただそう言った。
 冬の終わりの風が、焦げた外套を揺らした。


 秦こころが命蓮寺の門をくぐってきたのは、昼過ぎのことだった。
 白蓮が縁側で経典を読んでいると、参道の向こうから小さな人影が近づいてくる。頭に能面を乗せ、周囲にも無数の面を浮かべた、あの独特の気配。命蓮寺には珍しくない来訪者だが、今日は少し様子が違った。いつもの飄々とした足取りではなく、どこか目的を持った、真っ直ぐな歩き方をしている。
「聖白蓮」
 挨拶もなく、こころは言った。
「手合わせをお願いしたい」
 白蓮は経典を閉じた。
「またですか」
「また、です」
 こころの顔には表情がない。それがこころという存在の性質だ。だが白蓮には、その無表情の奥に何かがあることがわかった——強くなりたい、という、真っ直ぐな欲求。仮面の少女はいつもそれだけを持って、この寺にやってくる。
「わかりました」と白蓮は言って、立ち上がった。

 境内の中央で、二人は向かい合った。
 こころの周囲に面が浮かぶ。怒りの面、哀しみの面、喜びの面——感情を司る付喪神の弾幕が、空気を揺らし始める。白蓮は静かに魔力を引き出した。身体に通す、いつもの感触。守るための魔法。与えるための魔法。
 こころが動いた。
 速い。前に来たときより、明らかに速い。感情の奔流を乗せた弾幕が四方から迫り、白蓮の結界を叩く。白蓮はそれを一つ一つ捌きながら、返しの魔法を放った。強すぎず、弱すぎず。相手の成長を引き出す、丁度いい圧力で。
 こころは怯まなかった。弾かれるたびに立て直し、角度を変え、また向かってくる。その目が——面の奥の、小さな目が——きらきらと光っていた。
 白蓮はそれを見ながら、魔法を動かし続けた。
 楽しいのだろう、と思った。
 こころにとって、この手合わせは楽しいのだ。強くなることが、限界に挑むことが、ぶつかって弾かれてまた立ち上がることが——この仮面の少女にとって、それは純粋な喜びなのだ。
 白蓮にはわかった。見ていればわかる。
 だが——わかるだけだった。
 身体に魔力が流れている、自分の手の中に魔法がある。結界が張られ、弾が走り、こころの攻撃を捌くたびに身体が動く。全て、いつもどおりだ。滞りなく、完璧に、機能している。
 ただ、それだけだった。
 何かが——欠けている。
 その感触に気づいたのは初めてではなかった。いつからか、もうわからない。気づいたときにはすでにそうなっていた。魔法を使うとき、白蓮の中に湧き上がるものは、かつてとは違う。満足がある。成し遂げた手応えがある。だが——胸の奥で何かが弾けるような、あの感覚が、ない。
 こころが一際鋭い一撃を放った。白蓮の結界が軋み、一瞬押し込まれる。白蓮は体勢を立て直し、光の奔流で返した。こころが吹き飛んで、地面に膝をつく。
 少しの間があった。
 それからこころは顔を上げた。口元がわずかに動いていた——笑っているのかもしれない。面の少女が笑うとき、白蓮にはそれがいつもかろうじてしかわからない。
「もう一度」
「……ええ」
 白蓮は答えた。穏やかに、いつもどおりに。
 構え直しながら、ふと思った。
 かつて自分も、あんな目をしていたのだろうか。知らない魔法に触れるたびに、世界の仕組みが一つ解けるたびに——面の奥のこころの目と同じように、きらきらと光っていたのだろうか。
 答えは、出なかった。
 こころがまた動いた。白蓮は魔法を動かした。境内に光が走り、弾が交差し、冬の空の下で二人の手合わせが続いていく。
 白蓮の魔法は、今日も完璧に機能していた。
 ただ——それだけだった。
 
 
 魔法の森の西端は、普段から霧が濃い。
 木々の根が地面を割るように張り出し、その隙間から瘴気に似た靄が這い上がってくる。昼でも薄暗いその場所で、魔理沙が異変に気づいたのは、木の葉が一斉に裏返ったときだった。
 風ではない。
 地面が、鳴っていた。
 低い、腹に響く振動。次の瞬間、木立の奥から何かが飛び出してきた——正確には、複数の何かが。妖怪、というより、妖精の成り損ないに近い。明確な形を持たず、ただ濃い負の感情だけが凝り固まったような、灰色の塊。おそらく、森の瘴気が変質したのだろう。大した相手ではないが、数が多い。
 魔理沙が箒にまたがって即座に距離を取ったとき、反対側の木立から白い影が現れた。
「これは……瘴気から産まれた妖精?」
 白蓮だった。今日も穏やかな顔をしている。こんな状況でも。
「奇遇だな」
「本当に」
 お互い、それ以上は言わなかった。言葉より先に、それぞれの魔法が動き始めていた。
 白蓮の結界が、まず周囲の木々を包んだ。薄い光の膜が、森の一区画をそっと覆う。被害をここに封じ込めるための、堅牢な境界線。次いで、柔らかな光の奔流が塊に向かって放たれる——炸裂するのではなく、絡め取るように、解くように。成り損ない妖精の負の感情を静かに中和していく魔法だった。
 無駄がない。
 一切の破壊を伴わず、ただ問題だけを取り除く。長い年月をかけて完成させた、守るための技術。

 魔理沙はそれを横目に見ながら、箒を急上昇させた。
 狙いを定める時間など、ほとんど取らない。塊の動きを直感で読んで、八卦炉を向ける。撃つ。また撃つ。星の形をした弾が夜より速く走り、灰色の塊を次々と弾き飛ばす。爆発が起きるたびに木の葉が舞い上がり、白蓮の結界がかすかに揺れた。
 楽しかった。
 それが正直なところだった。強敵ではない。だからこそ、当たりの感触を研究する余裕がある。今日の八卦炉の出力は昨日より一割増しで、弾道の収束もいい。自分の限界の、少し先を試しているような感覚。それが魔理沙には——酒より、茶より、ずっと楽しかった。

 十分もかからず、塊は全て消えた。
 森の西端に、静寂が戻ってくる。白蓮の結界が音もなく解け、木々は元通りそこに立っていた。折れた枝一本、踏み荒らされた草一本、ない。
 魔理沙は箒から降りながら、八卦炉を外套の下に収めた。
「手際がいいな、大魔法使い」
「あなたもお見事でした」
 白蓮は微笑んだが、その目が、どこか曇っていた。少し間を置いてから、静かに口を開く。
「……少し無茶が過ぎるのではないですか」
 魔理沙の足が、止まった。
「魔法は、使い方を誤れば他者を害する武器にも……」
「お説教なら他所でやってくれ」
 声が、思ったより冷たく出た。
 自分でも少し驚きながら、魔理沙は続けた。
「私は私のためにやってんだよ。他の誰かのためじゃない」
 白蓮は何も言わなかった。ただ静かに、その言葉を受け止めるように目を伏せた。
 その沈黙が、また棘になった。反論しない。諭すでもない。ただ受け止めて、悲しむ。それが魔理沙には——どういうわけか、言葉で返されるより、ずっと腹に刺さった。
「じゃあな」
 吐き捨てるように言って、魔理沙は箒にまたがった。西の空へ向かって飛び立つ。振り返らなかった。
 白蓮の姿が、木立の向こうに小さくなっていく。
 魔理沙は前だけを向いて、風を切った。

 
 その夜、魔理沙はずっと本を読んでいたが、一行も頭に入らなかった。
 魔法の森の夜は深い。窓の外には光源がなく、ランタンの火だけが部屋を照らしている。積み上がった魔導書の隙間に頬杖をついて、同じ頁を三度めくり返して、魔理沙はようやく本を閉じた。
 昼間の白蓮の言葉が、まだ胸の中にある。
 お説教なら他所でやってくれ、と言った。そのとおりだと今でも思う。あれは正しい返答だった。なのに——何故こんなに、引っかかっているのか。
 白蓮は何も言わなかった。言葉で言い返すことも、重ねて諭すこともせず、ただ目を伏せた。その静けさが、ずっと棘のように残っている。反論されたなら忘れられた。論破すれば終わりだ。なのにあの沈黙は、どこに持っていけばいいかわからない。
 魔理沙は立ち上がった。
 外套を羽織って、箒を持って、夜の森へ出た。行き先は、決める前から決まっていた。

 命蓮寺は、夜になっても静かに明るかった。
 本堂の灯りが薄く漏れ、境内の石畳を橙色に染めている。門をくぐると、境内を掃き清めていた白蓮が振り向いた。驚いた様子はなかった。まるで来ることがわかっていたように、ただ静かに魔理沙を見た。
「あら、こんな夜更けに」
「ちょっと話したかった」
 言葉にしてから、自分でも少し驚いた。こんな台詞を白蓮に向けて言う日が来るとは思っていなかった。
 白蓮は箒を縁側に立てかけ、「こちらへ」と本堂の脇の縁側へ魔理沙を招いた。境内に面した廊下に並んで腰を下ろす。遠くで梟が鳴き、それきり音が消えた。
 しばらく、どちらも黙っていた。
 夜の境内は、昼間とはまるで別の場所のように見えた。灯りが少なく、影が深く、木々の輪郭だけが空の色を切り取っている。こういう静けさの中にいると、昼間は言えなかったことが、不思議と言葉になる気がする。
 先に口を開いたのは、魔理沙だった。
「昼間のあの言葉、お前が悪いとは思ってない」
「……そうですか」
「ただ」
 魔理沙は夜空を見上げた。星が出ていた。冬の終わりの、鋭い星だ。
「私は、霊夢の隣に居続けたいんだよ」
 白蓮は何も言わなかった。続きを待っている。
「あいつは生まれついての天才だ。博麗の巫女ってのはそういうもんで、努力とか研鑽とか、そういうのと関係ないところに立ってる。私は普通の人間だ。実家を飛び出して、一人で森で生きていくためにも、のんびり停滞してる暇なんてねえ」
 言いながら、八卦炉を外套の内側で握った。いつも、そこにある。
「でもな——そのために泥をすすって腕を上げるのが、私は最高に楽しいんだよ。笑えるだろ? 必死なのに、楽しいんだ。誰かのためじゃなく、自分のために限界を試すのが——それが、私の魔法だ」
 言い終えてから、少し恥ずかしくなった。こんなことを白蓮に言うつもりはなかった。だが言ってしまったものは戻らない。魔理沙は夜空を見たまま、白蓮の返答を待った。

 白蓮は、しばらく沈黙していた。
 境内の木が風に揺れた。灯りがわずかに揺れた。
「……私はかつて、魔法を極める為に不老不死になりました」
 声が、いつもより低かった。穏やかではあるが——何かが剥き出しになっている、そういう声だった。
「魔法が好きでした。知らない魔法を知ることが、それを自分のものにしていくことが何より楽しかった。自分のために、ただそれだけのために、人間を辞める選択をしました」
 魔理沙はそちらを向かなかった。向かないまま、聞いた。
「ですが——ふと立ち止まった時、世界は変わっていた。妖怪たちが虐げられ、弱いものが踏みにじられていた。見て見ぬふりは、できなかった」
「それで仏の道を?」
「ええ」
 白蓮の声は穏やかなままだったが、その穏やかさの底に、何か重いものが沈んでいた。
「今の私にとって、魔法はただの『道具』です。寺の皆を守るための、ただの力。それ以上でも、それ以下でもない」
 一拍の間があった。
「……もう、自分のために魔法を楽しいと思うことなど、ないのでしょう」
 最後の一文が、静かに境内へ落ちた。
 魔理沙はそのとき初めて、白蓮の横顔を見た。
 微笑んでいた。いつもの、穏やかな微笑だ。だが——それが今は違って見えた。完成された聖人の笑顔ではなく、何かを諦めた人間の笑顔に見えた。ずっとそこにあったのに、昼間は見えなかったものが、夜の灯りの中ではっきりと浮かび上がっていた。
 寂しい、と魔理沙は思った。
 言葉にはしなかった。ただ、夜空に目を戻した。星はまだそこにあった。鋭く、冷たく、揺らがずに。
 二人の間に、また静寂が満ちた。
 だが今度の沈黙は、昼間のものとは違った。棘がなかった。ただ夜の重さだけが、均等に二人の上にのしかかっていた。

 
 沈黙が、限界に達したのは魔理沙の方だった。
 夜空を見上げたまま、白蓮の言葉を反芻していた。自分のために魔法を楽しいと思うことなど、ないのでしょう——。その一文が、胸の中でじりじりと燃えていた。寂しい、と思った。だがそれより先に、別の感情が来ていた。
 むかつく、と思った。
 魔法使いが、魔法を楽しめないまま生きている。しかも、それを当然のこととして受け入れている。千年生きて、魔法のために人間を辞めた女が、今は「道具」と割り切って微笑んでいる。その笑顔が、善意に満ちていることはわかる。誰かを守るために自分を削ることの、何が間違っているというのか——理屈ではわかる。
 わかるが。
 
 魔理沙は立ち上がった。
「だったら」
 白蓮が顔を上げた。
「お前のその『道具』、私の『魔法』で叩き割ってやろうか?」
 一瞬、白蓮の目が瞬いた。それから——ほんの少しだけ、口の端が動いた。
「……お断りしておきます」
「うるせぇ、お前のその『道具』ぶっ壊してやる!」
「ふふ」
 笑い声だった。聖人の微笑ではなく、何かがほぐれたような、小さな笑い声。
「そこまで言うなら、受けて立ちましょう」白蓮は立ち上がり、夜の境内を見渡した。
「境内であれば毘沙門天様の結界術で守られています。人里に被害が出ることはないでしょう」

 最初の一撃は、魔理沙の星弾だった。
 八卦炉から放たれた光の塊が、夜の境内を横切る。白蓮の結界がそれを受け止めた——昼間と同じ、薄く柔らかな光の膜。弾は静かに絡め取られ、消えた。
 完璧な守り。
 魔理沙は箒で上昇しながら、次の弾を放った。今度は連射だ。星の形をした弾が幾筋も走り、白蓮の結界を叩く。結界はそれを一つ一つ、丁寧に受け止めていく。揺れない。乱れない。長い年月で磨き上げた、守りの完成形だった。
 だが、魔理沙はそれでいいと思っていなかった。
 八卦炉を両手で構え、出力を上げる。昨日より一割増し——ではなく、今日は上限を試す。集中して、呼吸を整えて、弾の密度を上げていく。星弾が嵐のように降り注ぎ、白蓮の結界を叩き続ける。
 結界が、わずかに軋んだ。
 白蓮の眉がかすかに動いた。それだけだった。結界はまだ、揺らいでいない。
 魔理沙は笑った。
 そうでなくては、と思った。
 八卦炉の出力を、もう一段上げる。今まで試したことのない領域へ踏み込む。弾が変わった——星の形が崩れ、純粋な光の奔流に近い何かになる。
 恋符。自分の中の全部を込めた魔法。霊夢の隣に居続けるために、泥をすすって掘り当てた、今の自分の全力だ。
 光が、夜の境内を白く染めた。
 
 白蓮の結界が——割れた。
 音はなかった。ガラスが砕けるような派手な崩壊ではなく、張り詰めた糸がぷつりと切れるような、静かな瓦解。光の膜が霧散して、夜の空気に溶けた。
 いや、本当に割れたのは結界ではなかった。千年もの間、白蓮が自分で自分に被せ続けていた何かだった。
 白蓮は、その瞬間動かなかった。
 目を見開いて、自分の手のひらを見つめている。魔理沙のことを見ていない。もっと遠い何かを——あるいは、かつて秦こころの目に見た、あの圧倒的な熱量を、自分の内側に見出しているような目だった。

 魔理沙は箒を止め、不敵に笑った。
「法界で霊夢とお前がやり合ってるのを見て思ってたんだ。……あんたのぶわぁぁってなってぐわぁぁぁってなる魔法! 面白かった! さあ使ってこいよ!」
「……面白い?」
 白蓮がぽつりと言った。声が、いつもより一段低くなる。
「私の、この『道具』が……あなたには、面白いのですか」
「当たり前だろ!」
 魔理沙は八卦炉を構え直しながら、腹の底から笑い飛ばした。
「魔法ってのはな、守るためだの何だのの前に、本来こうやって滾るもんだろ!」

 境内に風が吹いた。白蓮の長い髪が揺れた。
 そして——その顔から、聖者の仮面が完全に剥がれ落ちる。
 穏やかな微笑が溶けた奥から滲み出てきたのは、ゾクゾクするような、純粋に戦いを渇望する魔人の笑顔だった。魔理沙がこれまで一度も見たことのない、聖白蓮の本当の『原点』。
 魔人経巻が、咆哮を上げるように開いた。
「——ああ、そうでした」
 白蓮の瞳に、千年前の、あのきらきらとした光が蘇る。
「私は、これが好きで人間を辞めたのでした!」
 解放の光が溢れた。極彩色の魔弾が夜空へ向かって走り、星々に混じって境内の上空を埋め尽くす。――魔神改め、魔人復誦。
 
 魔理沙の星弾を経巻で飲み込み、そのまま虹色の魔弾に変換して撃ち返す。白蓮の魔法は昼間とは全く違う——守るためではなく、ただ弾けるための魔法。千年分の何かが一気に溢れ出したような、制御よりも歓喜が勝っている魔法だ。
 それが、最高だった。
 星弾と極彩色の魔弾が夜の境内で交差し、互いを弾き飛ばしながら夜空へ消えていく。光が混ざって、命蓮寺の上空がまるで祭りのように輝いていた。
 白蓮は笑っていた。魔理沙も笑っていた。どちらが攻めていてどちらが守っているのか、もうわからなかった。
 ただ——二人の魔法が、同じ夜空の下で全力でぶつかり合っていた。
 それだけが、今この場所の全てだった。


 白蓮の極限の魔力。魔理沙の最大出力の光線。
二つの熱量が正面から激突し、命蓮寺の上空に巨大な光柱が立ち上った。
 それは一瞬で幻想郷の夜空を塗り替えた。極彩色と純白が混ざり合い、螺旋を描きながら天へ向かって伸びていく。地面が震え、本堂の瓦が数枚吹き飛び、境内の石畳に焦げた亀裂が走った。魔理沙は防御に回す魔力を捨て、箒の推進力を全開にして白蓮へ彗星の如く飛び込んだ。白蓮は文字通り超人と呼べる程に身体強化の魔法を限界まで引き上げてそれを正面から受け止めていた。
 笑いながら。二人とも、笑いながら。

 その光柱が——突然、消えた。
 音もなく。爆発もなく。まるで最初からなかったように、夜の闇が戻ってきた。
 魔理沙は目を瞬かせた。八卦炉がある。白蓮の経巻もある。魔力も切れていない。なのに、魔法が——消えた。
 境内の中央に、人影が浮いていた。
 ふわふわと、重力を忘れたように。陰陽玉を両脇に従えて、博麗霊夢が夜の空気の上に立っていた。
「これは夢想天生!?」
 魔理沙の背筋が、一瞬で冷えた。
「ヤバい、霊夢か!」
「こんな夜中に何やってんのよ」
 霊夢の声は低かった。怒っているというより——怒りを通り越して、どこか別の場所に到達した声だった。
「魔法使いなんてろくな奴がいない。次は手加減なしで行くから、覚悟しなさい」
 魔理沙が白蓮の腕を掴んだ。
「逃げるぞ、ああなった霊夢は手がつけられない」
「えっ、あ、ええ!」
 二人は弾かれたように、夜空へ飛び出した。

 魔理沙は魔力で身体を覆い、空気抵抗を減らしつつ箒からの魔力出力を最大にしていた。幻想郷の夜空を横断するための速度。本来ならほぼ誰にも追いつかれない速度のはずだった。
 だが、後ろが近い。
 振り返る余裕はないが、気配でわかる。陰陽玉の風を切る音が、じりじりと距離を詰めてくる。霊夢は飛ぶのではなく、浮いている。ただそこに在るだけで、魔理沙の全力に追いついてくる。
「まずい、速度が落ちてきた」
 この飛び方は確かに速いが燃費が悪い。全開で飛び続けると、推進力の魔力が先に尽きる。感触でわかった——あと少しで、失速する。
 そのとき。
 白蓮の腕が、背後から魔理沙を包んだ。
「掴まっていてください」
「え——」
「掴まっていて、と言いました」
 白蓮の魔力が変わった。身体強化、しかし先ほどまでとは違う。瞬発力に特化した様な引き出し方をしている。白蓮の速度が跳ね上がった。魔理沙を抱えたまま、夜空を引き裂くように加速する。
 霊夢の気配が、遠くなった。
 遠くなって——消えた。
 
 しばらくの間、二人は無言で飛び続けた。人里の灯りが一瞬見えて、すぐに後ろへ消えた。白蓮の腕の中で、魔理沙はただ流れていく夜を見ていた。星が横に流れた。木々の輪郭が消えた。
 やがて、白蓮の速度が落ちた。
 地面が近づいてきた。草原だった。木もなく、灯りもなく、人も妖怪も気配がない。幻想郷の端の、何もない場所。二人の足が、静かに草の上に降り立った。

 魔理沙は膝に手をついて、息を整えた。
 白蓮も、肩で息をしていた。千年生きた大魔法使いが、全力で飛んで息を切らしている。その事実が、どういうわけか魔理沙には可笑しくてたまらなかった。
 こらえようとした。
 こらえきれなかった。
「ぶはっ……!」
 笑いが漏れた。抑えようとすればするほど、腹の奥から込み上げてくる。草むらに大の字で倒れ込みながら、魔理沙は笑い続けた。
「見たかよ? あの霊夢の顔!」
 白蓮も草の上に座り込んでいた。息を整えながら、少し間を置いて——それから、くすりと笑った。
「ええ」
 夜空を見上げて、白蓮は言った。
「金剛力士像のような表情になっていましたね」
 魔理沙の笑いが、一瞬止まった。
「おいおい、私はそこまで言ってないぞ?」
「あら」
 白蓮が魔理沙を見た。悪戯っぽい目だった。聖人でも、超人でも、千年を生きた大魔法使いでもなく、ただ今この場所で笑っている人間の目だった。
「ここまできて、私一人を悪者にしようなんて許しませんよ?」
 魔理沙はしばらく白蓮の顔を見た。
 それから、また笑い出した。今度は声を上げて、遠慮なく。草の上に転がって、夜空に向かって笑った。白蓮も笑っていた。静かだが、確かに笑っていた。

 笑いが収まるまで、少し時間がかかった。
 静寂が戻ってきたとき、二人は並んで夜空を見ていた。星が出ていた。冬の終わりの、あの鋭く冷たい星だ。だが今は——その冷たさが、火照った身体に心地よかった。
「なぁ、聖」
魔理沙が寝転んだまま、ぶっきらぼうに言った。
「今夜の打ち上げ、どっかで一杯やらないか。……あー、悪い。アンタ、酒はダメだったな。やっぱりいいわ、面倒くせえ」
 白蓮は夜空を見上げたまま、くすりと肩を揺らした。
「人里の外れに、夜遅くまで開いている小さな店があるんです。ひっそりしていますが料理が丁寧で……あそこなら、お酒も置いてありますよ」
「へえ。話がわかるじゃないか」
 魔理沙はがばりと起き上がり、ニカッと歯を見せて笑った。
「酒がありゃ、私はどこだっていいんだよ」
 白蓮も静かに上体を起こし、草を払った。その横顔はいつもの穏やかな住職のものに戻っていたが、夜の闇でもわかるほど、瞳の奥の光はまだ消えていない。
「今日は、本当に楽しかったです。魔法を使ってあんなに笑ったのは……いつ以来でしょうね」
 魔理沙は何も言わなかった。言わなくても、その答えはさっきの弾幕が全て語っていた。
「ですから、また遊びましょう」
 白蓮が魔理沙を見た。その口元が、悪戯っぽく吊り上がる。
「今度はもっと派手に。そして——」
「霊夢に見つからないようにな」
 白蓮が言い切る前に、魔理沙が不敵に笑って言葉を奪った。
 遮られた当の住職は、降参といった風に両手を広げ、
「それだけは、完全に同意します」
 と、いつもの穏やかな、けれど少し悪戯っぽい声で微笑んだ。
 二人の小さな笑い声が、誰もいない夜の草原に溶けていく。
 冬はもう、終わりを告げようとしていた。
良いですかー、みなさん。
世の中には「白マリ」という素晴らしい世界があるのです。
きっと(今のところは)少ないけど。絶対に少ないけど。
でもね、本っ当に最高のものなのだと、私は声を大にして言いたい。
このお話を読み終えたあなたが、少しでも「白マリ、ありかもな……」と思ってくれたなら、私の勝ちです。
酉河つくね
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