私は橋の欄干にもたれかかり居眠りをしていた。
地底の妖怪らしく豪快に酒を飲み、飲んで飲んで飲みまくって明け方に背脂たっぷりのラーメンを完食したのだから仕方がない。寝不足、二日酔い、胃もたれのトリプルパンチでグロッキーなのだ。
妬ましい。と言うか怨めしい。前日の自分が、酔いに任せて飲み続けた事が、止めてくれなかった黒谷ヤマメが、途中でしれっと帰った黒谷ヤマメが、支払いを全額私に擦りつけて帰った黒谷ヤマメが!
夢の中で私はヤマメをとっ捕まえるべく、学研の蜘蛛捕獲セットを物置から引っ張り出し、いざ出発と自宅の扉を開けたところで――。
「控えおろぉぉ! 地底で一番嫌われている妖怪の妹様だぞぉぉ!」
「わぁぁぁ!」
耳元で叫ばれ驚きで仰け反り、欄干から落ちそうになった。危なかった。洒落にならないところだった。橋姫が自分の橋から落ちるところだった。
「地底で一番嫌われている妖怪の妹です」
古明地こいしが満面の笑みで頭を下げた。
「アンタね、お姉ちゃんの事をそんな風に言わないの、事実かもしれないけれど。それと体調悪いから大声出さないで」
「た だ い まっ」
「だぁぁ、うるさい! 大きい声出すな」
「あはは、ごめんごめん。久しぶりに大好きなパルスィに会えたから嬉しくなっちゃって」
大好き。
まったく、ずるい言葉を使う。少し耳が熱くなった気がしたが、そんなことは断じてない、ないからね! 変な妄想膨らませんなよ!
「私は久しぶりに会ったら、地底で一番嫌いだった事に気がつけたよ」
「妬ましいわ」
「私のセリフ取らないで!」
とは言うものの、私は気を良くしてこいしを詰め所に案内していた。我ながらチョロいものだ。
詰め所は橋の袂にある小さな小屋だ。橋を行き来する者が手続に訪れる窓口と、番をする妖怪が休憩に使う部屋がひとつずつ。質素だが居心地は悪くない。少なくとも私はそう思っている。
こいしを窓口の椅子に座らせ、向かいに腰を下ろした。
引き出しから入出台帳を取り出し、ペラペラとページを捲る。
どれだけ日付を遡っても『古明地こいし』の名前がない。私の眉間の皺が深くなっていくのが自分でもわかった。
「あんたの記録、どこにもないんだけど、いつ地上に行ったのよ?」
「おかしいな、三日前の正午にここを通ったのだけれど。もしかして当番の人が寝てたんじゃない? マズイねぇ、お姉ちゃんが知ったらマズイねぇ」
悪戯な笑みを浮かべている。
こういう顔をする時は大抵、自分が一番マズい事をしている時だ。
「……あんた、能力使って素通りしてるでしょ?」
「ありゃ、バレた」
「マズイのはどっちよ? 今からさとりのとこ行ったって良いのよ?」
「二ボス如きが調子に乗りやがって、こっちはエクストラボスのこいしちゃんだぞ? そこら辺のシューターじゃあ辿り着けないエクストラだぞ、おん?」
「よし。地霊殿行ってくる」
「待って待って」
袖を掴まれた。凄い力で、引っ張られ思わずバランスが崩れた。どうやらこの怖いもの知らずの天真爛漫娘もあの姉は怖いようだ。
「お土産あるから」
「買収のつもり?」
「そう」
「正直ね、嫌いじゃあないわ」
私は椅子に座り直した。
地上土産なんて中々手に入らない。私は少し期待しながらこいしを見た。
風呂敷から包みが次々と出てくる。
「花林糖、芋羊羹、あとこれ名前忘れた」
「栗きんとんでしょ」
「そうそれ。美味しそうだったから買ったの」
受け取る。笑顔を作る。
甘いものは今の私の胃には少々堪える。いや、かなり堪える。正直に言えば直視するだけで胃が訴えを起こしそうだ。芋羊羹の濃厚な甘みを想像しただけで胃の奥から微かな抗議の声が聞こえた気がした。
「……ありがとう」
「顔が嫌そう」
「そんな事ないわよ」
「めちゃくちゃ嫌そう」
「二日酔いなのよ」
「それでもさ、ランキング一位がランキング三十七位にお土産あげてるんだよ? もう少し有り難がっても良いんじゃないの?」
「すみませんでした、ありがとうございます」
くそっ。数字は嘘をつかないってのは本当よね。なんのランキングかわからないけど、こいつの悪態を認めざるを得ない説得力と底知れない恐ろしさを感じたわ。
やかんを火にかける。
せめてお茶くらいは自分で淹れる。こいしに任せて胃に優しくないものが出てきても困る。棚からほうじ茶の缶を取り出しながら、私はこいしをちらりと見た。
窓の外を眺めている。
地底に窓から見える景色などたかが知れているのに、飽きもせず見ている。
「三日間、地上で何してたのよ」
「んー、最初の日は人里をぶらぶらしてた。甘味屋さんとか、古道具屋さんとか」
「それでこのお土産か」
「そう。二日目は山の方まで行ってみたの。きれいだったよ、紅葉が始まってて」
妬ましい。
地底に紅葉はない。季節が変わっても天井の岩は岩のままだ。
「三日目がお祭りだったの」
「楽しそうね」
「楽しかったよ。屋台がたくさんあってね、焼きとうもろこしとか、綿菓子とか、あと揚げたての天ぷらとか」
やかんから湯気が立ち始めた。
揚げたての天ぷら。そのキーワードに胃が盛大に抗議した。
「……そう」
「パルスィも地上行けば良いのに」
「橋の番があるでしょ」
「休みはないの?」
「あるけど」
「行かないの?」
急須に茶葉を入れながら、私は少し考えた。
「賑やかなところは好きじゃないのよ」
「そっか」
こいしは窓の外を見たまま言った。
「じゃあ人里の甘味屋さんは? 静かで良かったよ」
「……覚えておくわ」
ほうじ茶の香りが漂い始めると、少しだけ胃が落ち着いた気がした。
「どうぞ」
「ありがと。……あ、美味しい」
「そう」
私も湯飲みを両手で包む。目を閉じる。
生き返る。
こいしは花林糖をひとつつまんでぱりっと齧った。
私は栗きんとんを一口だけ食べてみた。
予想通りに甘かった。
胃が抗議した。でもまあ、悪くなかった。
「地上、賑やかだったよ。お祭りがあってね、屋台がたくさんあって、人もたくさんいて」
「さっき聞いた」
「あ、そうだっけ」
こいしはけろりとした顔で芋羊羹に手を伸ばした。
しばらく、二人とも黙っていた。
やかんが静かに鳴っていた。
「ねえパルスィ、私の事嫌い?」
「そういう質問をしれっとできるアンタが妬ましいわ」
「それ、嫌いじゃないって事だよね」
得意げな顔をしている。
古明地の名前を聞いただけで顔色を変える妖怪は地底にも旧都にも掃いて捨てるほどいる。心を読む姉を持ち、無意識に潜り込む能力を持つ妹。関わりたくないと思うのは自然な話だ。
私には関係のない話だけれど。
妬ましいものは妬ましい。それだけだ。
「地上、楽しかったって言ってたじゃない」
「楽しかったよ」
「なのにあんまり浮いた顔じゃないわね」
こいしは少し黙った。
「お祭り、人がたくさんいたから」
「それは聞いた」
「無意識に入っちゃって」
ああ、そういう事か。
この子の能力は本人でも完全には御しきれないと聞いた事がある。人が多ければ多いほど、意識せずとも滑り込んでしまう。賑やかな祭りの中で、こいしはずっと人の輪の外にいたのだろう。隣にいるのに届かない、そういう場所に。
「誰とも話せなかったの?」
「話せたよ。屋台のおじさんと、迷子の子供と、あと神社の巫女と宿敵の能面と少しだけ」
「少しだけか」
「うん」
こいしは湯飲みを両手で包んだ。
「ちょっと話したかっただけだから、別に良いんだけど」
別に良いんだけど、と言う時は大抵良くないのだ。それくらいは私にもわかる。
「お茶、もう一杯飲んでいきなさい」
「飲む」
「そういえば四丁目にできた新しい雑貨屋知ってる?」なんて、柄にもない話題を切り出しながら急須を傾ける。
湯飲みに茶が満ちていく。
どれくらい経っただろうか。
こいしが立ち上がり、風呂敷を畳み始めた。
「そろそろ帰るよ」
「台帳に記録してから帰りなさい」
「はーい」
こいしはペンを取り、几帳面な字で名前と日付を書いた。
扉に手をかけて、振り返る。
「またくるね、パルスィ」
「次は能力使わずに来なさい」
「それは約束できないかな」
笑って、出ていった。
妬ましい話だ。
この子が話したい気分の時に思い浮かべる顔が私だなんて。
私は湯飲みの残りを飲み干した。
すっかり冷めていた。
まあ、悪くなかった。
地底の妖怪らしく豪快に酒を飲み、飲んで飲んで飲みまくって明け方に背脂たっぷりのラーメンを完食したのだから仕方がない。寝不足、二日酔い、胃もたれのトリプルパンチでグロッキーなのだ。
妬ましい。と言うか怨めしい。前日の自分が、酔いに任せて飲み続けた事が、止めてくれなかった黒谷ヤマメが、途中でしれっと帰った黒谷ヤマメが、支払いを全額私に擦りつけて帰った黒谷ヤマメが!
夢の中で私はヤマメをとっ捕まえるべく、学研の蜘蛛捕獲セットを物置から引っ張り出し、いざ出発と自宅の扉を開けたところで――。
「控えおろぉぉ! 地底で一番嫌われている妖怪の妹様だぞぉぉ!」
「わぁぁぁ!」
耳元で叫ばれ驚きで仰け反り、欄干から落ちそうになった。危なかった。洒落にならないところだった。橋姫が自分の橋から落ちるところだった。
「地底で一番嫌われている妖怪の妹です」
古明地こいしが満面の笑みで頭を下げた。
「アンタね、お姉ちゃんの事をそんな風に言わないの、事実かもしれないけれど。それと体調悪いから大声出さないで」
「た だ い まっ」
「だぁぁ、うるさい! 大きい声出すな」
「あはは、ごめんごめん。久しぶりに大好きなパルスィに会えたから嬉しくなっちゃって」
大好き。
まったく、ずるい言葉を使う。少し耳が熱くなった気がしたが、そんなことは断じてない、ないからね! 変な妄想膨らませんなよ!
「私は久しぶりに会ったら、地底で一番嫌いだった事に気がつけたよ」
「妬ましいわ」
「私のセリフ取らないで!」
とは言うものの、私は気を良くしてこいしを詰め所に案内していた。我ながらチョロいものだ。
詰め所は橋の袂にある小さな小屋だ。橋を行き来する者が手続に訪れる窓口と、番をする妖怪が休憩に使う部屋がひとつずつ。質素だが居心地は悪くない。少なくとも私はそう思っている。
こいしを窓口の椅子に座らせ、向かいに腰を下ろした。
引き出しから入出台帳を取り出し、ペラペラとページを捲る。
どれだけ日付を遡っても『古明地こいし』の名前がない。私の眉間の皺が深くなっていくのが自分でもわかった。
「あんたの記録、どこにもないんだけど、いつ地上に行ったのよ?」
「おかしいな、三日前の正午にここを通ったのだけれど。もしかして当番の人が寝てたんじゃない? マズイねぇ、お姉ちゃんが知ったらマズイねぇ」
悪戯な笑みを浮かべている。
こういう顔をする時は大抵、自分が一番マズい事をしている時だ。
「……あんた、能力使って素通りしてるでしょ?」
「ありゃ、バレた」
「マズイのはどっちよ? 今からさとりのとこ行ったって良いのよ?」
「二ボス如きが調子に乗りやがって、こっちはエクストラボスのこいしちゃんだぞ? そこら辺のシューターじゃあ辿り着けないエクストラだぞ、おん?」
「よし。地霊殿行ってくる」
「待って待って」
袖を掴まれた。凄い力で、引っ張られ思わずバランスが崩れた。どうやらこの怖いもの知らずの天真爛漫娘もあの姉は怖いようだ。
「お土産あるから」
「買収のつもり?」
「そう」
「正直ね、嫌いじゃあないわ」
私は椅子に座り直した。
地上土産なんて中々手に入らない。私は少し期待しながらこいしを見た。
風呂敷から包みが次々と出てくる。
「花林糖、芋羊羹、あとこれ名前忘れた」
「栗きんとんでしょ」
「そうそれ。美味しそうだったから買ったの」
受け取る。笑顔を作る。
甘いものは今の私の胃には少々堪える。いや、かなり堪える。正直に言えば直視するだけで胃が訴えを起こしそうだ。芋羊羹の濃厚な甘みを想像しただけで胃の奥から微かな抗議の声が聞こえた気がした。
「……ありがとう」
「顔が嫌そう」
「そんな事ないわよ」
「めちゃくちゃ嫌そう」
「二日酔いなのよ」
「それでもさ、ランキング一位がランキング三十七位にお土産あげてるんだよ? もう少し有り難がっても良いんじゃないの?」
「すみませんでした、ありがとうございます」
くそっ。数字は嘘をつかないってのは本当よね。なんのランキングかわからないけど、こいつの悪態を認めざるを得ない説得力と底知れない恐ろしさを感じたわ。
やかんを火にかける。
せめてお茶くらいは自分で淹れる。こいしに任せて胃に優しくないものが出てきても困る。棚からほうじ茶の缶を取り出しながら、私はこいしをちらりと見た。
窓の外を眺めている。
地底に窓から見える景色などたかが知れているのに、飽きもせず見ている。
「三日間、地上で何してたのよ」
「んー、最初の日は人里をぶらぶらしてた。甘味屋さんとか、古道具屋さんとか」
「それでこのお土産か」
「そう。二日目は山の方まで行ってみたの。きれいだったよ、紅葉が始まってて」
妬ましい。
地底に紅葉はない。季節が変わっても天井の岩は岩のままだ。
「三日目がお祭りだったの」
「楽しそうね」
「楽しかったよ。屋台がたくさんあってね、焼きとうもろこしとか、綿菓子とか、あと揚げたての天ぷらとか」
やかんから湯気が立ち始めた。
揚げたての天ぷら。そのキーワードに胃が盛大に抗議した。
「……そう」
「パルスィも地上行けば良いのに」
「橋の番があるでしょ」
「休みはないの?」
「あるけど」
「行かないの?」
急須に茶葉を入れながら、私は少し考えた。
「賑やかなところは好きじゃないのよ」
「そっか」
こいしは窓の外を見たまま言った。
「じゃあ人里の甘味屋さんは? 静かで良かったよ」
「……覚えておくわ」
ほうじ茶の香りが漂い始めると、少しだけ胃が落ち着いた気がした。
「どうぞ」
「ありがと。……あ、美味しい」
「そう」
私も湯飲みを両手で包む。目を閉じる。
生き返る。
こいしは花林糖をひとつつまんでぱりっと齧った。
私は栗きんとんを一口だけ食べてみた。
予想通りに甘かった。
胃が抗議した。でもまあ、悪くなかった。
「地上、賑やかだったよ。お祭りがあってね、屋台がたくさんあって、人もたくさんいて」
「さっき聞いた」
「あ、そうだっけ」
こいしはけろりとした顔で芋羊羹に手を伸ばした。
しばらく、二人とも黙っていた。
やかんが静かに鳴っていた。
「ねえパルスィ、私の事嫌い?」
「そういう質問をしれっとできるアンタが妬ましいわ」
「それ、嫌いじゃないって事だよね」
得意げな顔をしている。
古明地の名前を聞いただけで顔色を変える妖怪は地底にも旧都にも掃いて捨てるほどいる。心を読む姉を持ち、無意識に潜り込む能力を持つ妹。関わりたくないと思うのは自然な話だ。
私には関係のない話だけれど。
妬ましいものは妬ましい。それだけだ。
「地上、楽しかったって言ってたじゃない」
「楽しかったよ」
「なのにあんまり浮いた顔じゃないわね」
こいしは少し黙った。
「お祭り、人がたくさんいたから」
「それは聞いた」
「無意識に入っちゃって」
ああ、そういう事か。
この子の能力は本人でも完全には御しきれないと聞いた事がある。人が多ければ多いほど、意識せずとも滑り込んでしまう。賑やかな祭りの中で、こいしはずっと人の輪の外にいたのだろう。隣にいるのに届かない、そういう場所に。
「誰とも話せなかったの?」
「話せたよ。屋台のおじさんと、迷子の子供と、あと神社の巫女と宿敵の能面と少しだけ」
「少しだけか」
「うん」
こいしは湯飲みを両手で包んだ。
「ちょっと話したかっただけだから、別に良いんだけど」
別に良いんだけど、と言う時は大抵良くないのだ。それくらいは私にもわかる。
「お茶、もう一杯飲んでいきなさい」
「飲む」
「そういえば四丁目にできた新しい雑貨屋知ってる?」なんて、柄にもない話題を切り出しながら急須を傾ける。
湯飲みに茶が満ちていく。
どれくらい経っただろうか。
こいしが立ち上がり、風呂敷を畳み始めた。
「そろそろ帰るよ」
「台帳に記録してから帰りなさい」
「はーい」
こいしはペンを取り、几帳面な字で名前と日付を書いた。
扉に手をかけて、振り返る。
「またくるね、パルスィ」
「次は能力使わずに来なさい」
「それは約束できないかな」
笑って、出ていった。
妬ましい話だ。
この子が話したい気分の時に思い浮かべる顔が私だなんて。
私は湯飲みの残りを飲み干した。
すっかり冷めていた。
まあ、悪くなかった。