Coolier - 新生・東方創想話

すべてを残す事はできない

2026/06/09 07:22:13
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 その人の名は稗田阿未。

 屋敷の天井は見飽きる事がない。差し込む光によって刻一刻と、なにもかもが違う――日の光、月の光、晴れの日、曇りの日、雨の日。冬には雪の鮮烈な照り返し、夏には夕立の空模様のあわあわとした陰影が、なんとなくその天井に反映される。その人にとっては、天井は空そのものだった。
 音も聞こえた。屋敷の庭で、なにか酒盛りをしているようだった。その人のややぼやけた聴覚でも、それをはっきりとおぼえる事はできる。
 と、廊の板敷きをどたばたと踏みしめてやってくるふたつの足音がする。彼らの体重や足の長さからくる歩みの拍子の微妙な感じで、弟や兄の誰々が来た、という事は知れた。
 姉が、あまり騒がしくしないで……と抗議するのを聞く。姉はその人をなにくれとなく世話して――下の世話までやって――くれている。
 やってきた兄弟たちは騒がしい。花が綺麗なので起こして見せてやりたいという。姉は、雪の大晦日にも同じような事を彼らがやって、嘔吐させてしまった事の方を心配している。
 あの時は少し調子が悪かっただけだ、きっと今日は大丈夫だろう……とその人は思うのだが、それをきょうだいたちに伝える手段はない。舌の動きは肉腫に阻まれていて、なにかの発作が起きるたび引っ込んだり痙攣したりして、死なない程度に窒息しかけている。腕の力は弱々しく、筆すら取れない。目やには姉がこまめに取ってくれていたが、どうやら視力も衰えつつある。
 兄や弟たちの男手に起こされて、その人は花見をした。自覚した通りに調子の良い日だったが、疲れてしまった。しかし適度に疲れるのは悪いことではない。その日はいつになく、少しの寝つきの悪さもなく、眠れた。
 ふっと目が覚めた時、天井にうつる月明かりの様子のおかげで、深夜のいつ頃、という感覚は瞬時に把握できた。
 その人はぼんやりと、身じろぎも寝返りもする事ができないまま、いつもと同じ事を考えている。
(困った事になったな)と。
 もっとも“いつもと同じ事”とはいえ、困った事の内訳は毎回違っていて、その深刻さの濃淡もまちまち。濃いところでは(余計なお世話だが)この世界の行く末を案じ、淡いところでは(尾籠な話だが)肌がかぶれる前に汚れたむつきを取り替えてもらえるのを願うばかりの事だった。
 そんな調子だから、自分が御阿礼の子――初代阿一、二代目阿爾と続いてきた、三代目の人――という自覚も、その人にはぴんとこない。素直な自認で言えば、自分は身動きもままならず、ただここにいるだけの存在だ。
 たしかに前世についておぼえているものはある。しかしそれが普通でないという自覚をする事ができない。誰でも、大なり小なり、こういう記憶は持ちえているのではないか、ともその人は思う。
 だいたい、自分が御阿礼の子に押し上げられた経緯にも、不明な点が多い。いったい誰がそれを決めたのか。または押しつけ合ったのか。一応、初代阿一、二代目阿爾と続いた伝説だけは奇跡的に家に継承されていたようだが、その三代目を、生まれた時から病弱な――そして幼い頃にやった大病のせいで、いよいよ身に不自由が生じた――者が継いでしまったのは、なにかの間違いだと思わされる。
 そのうえ、さいわいな事ではあるが、当代の稗田宗家は優秀な者が多い。その人がいなくても、この奇妙な一族は隆盛を保っていただろう。
(なんのためにいるんだろうな)と、我が事を突き放したようにその人は考えた。(いてもいなくても困らないだろ、こんな半端者)と、ただ下着を汚すばかりの自分を自覚している。
 ぼやいてはいるものの、どうしてこの状況で安定してしまっているのかはわかる。世界を統べるのに天才は必要ないからだ。もちろん完璧な統治機構ではないが、稗田家という家政はこの一帯をよく治めている。家々や集落ごとの諍いを卒なくまとめて、お上のおぼえもめでたい。近頃では、この郷はさるやんごとなき筋の庇護下に入り、領地の安定を保証されながら、仏寺の造営に関する簡単な労役を下請けするに代わり、税の減免を許可されたりもしている。
(仏寺、か)
 その人は思う。
(この郷の本質はあの、博麗の神社なのだがな)
 といってみたところで、その人にはどうしようもない話だ。先代、先々代が転生する前から、こうした事はずっと進行していた。いっそ、神仏の厳格な区別などは、もはやつけようがない。神事にはもう何百年もどこかしらに仏教色が入り込んできていて――これがみだりに紛れ込む事、神祇の家という自覚を強く持っていた阿一の代には、かなり抵抗もしたはずだが――妙な色を持ってしまったのは仏教側もたいして変わらない。いまいましい話だが、なるようになったというやつだ。
 もっとも、変質してしまったのはお互い様だ、という話。そうした説明だけで当事者が納得できるかどうかは別だろう。結局のところ、神々が仏の教えに吸収されつつあるという構図は色濃く感じさせられる。
(博麗の巫女にも思うところはあるだろう)
 と考えるのだが、さて、その博麗の巫女と会う事も少ない。もちろん稗田家としても神社を蔑ろにするつもりはさらさらなく、月決めだったり時季ごとだったりする祭礼など積極的に行っていたが、その人自身は体を弱くしていて、時々しか出席できなかった。
 かわりに兄弟がそうした公的な行事には出席してくれる。出席し、参列して、玉串の奉納(この玉串も、近頃では妙に仏教色がつきつつある。文句を言ったところで詮無い話なのだが)、それから土地の顔役としてのなんやかんや、それらの儀式が終われば、土地の者との宴会。自分にはとてもできない、地元の名士としての稗田家を、兄弟姉妹たちはよく勤めてくれている。
(だから別に、文句はないのだよな)
 その人は目を開いているのさえ体力の消耗だと言わんばかりに、力なく目を閉じた。文句はない。さりとてなにもかもが良しとも言えない。
(だが、たとえこの身が自由であろうとも、やれていた事は少ないだろう)と。
 きし きし きし 耳に伝うように来るのは、その人が記憶している誰の足音でもない。そもそも、夜、その人の寝床に近づいてくる者はいない。板敷きのきしむ軽い音は、もっと近づいてくると足裏に湿り気がある、ぺたぺたした、小童のような足音だった。
(なんせこの郷は相変わらずこんな調子だ)
 その人は思い出す――数年前に発した、けたたましい咳の発作の事を。肉体が記憶しているその胸のわななきは、命を削るほどのものではないが、とにかく家中に響くほどうるさかった。それを再現した。
 ぺたぺたの足音だけが遠ざかっていく。
 かわりにやってきたのは、きょうだいたちの騒々しい足音。
 さて。
 彼らは、その人のきょうだいたちだが、先主は何人か室を変えた事があるため、産まれてきた腹が違う。それとは別に、暮らし向きの厳しい親戚筋からもらわれてきた養子たちもいる――大家族だった。そうした方々が、この時期の稗田家を構成している。
(正直、人間なのかどうか、出自のあやしい者もいる)
 と、駆けつけてきたきょうだいたちに囲まれて、わいわいと安否を尋ねられながら、しかしそれに応えることはできず、ただ力なく目を閉じながら思う。
(自分と腹違いの兄の母親は、あれは化生の者だった。姉の胎には嬰児がいるが、その相手は人間ではない。弟はある日、ぷいと外に遊びに行って、日が暮れた後に戻ってきた時には、歩き方や歩幅がそれ以前とはほんのわずか違っていた。妹は養子だが、あの家は、三代に渡る雑婚でもののけかも人間かもわからぬ連中の血が浸透しきっている)
 一代切り取ってもこんな有り様の系図で、自分だけが都合よく純粋な人間のわけもあるまい、とその人は思う。
(どこかしら、なにかしら混じっている。そうならないはずがない)
 同時に、一族内部に浸透しようとしている胡乱な者どもが、その人に危害を加えようとはしていない事にも気がついていた――今だってそうだ。彼らはその人に危険があると、本気で焦る。全力でその人を守ろうとする。
 どうも、もののけや化生という語は、もはや彼らの身元やあり方を保証してくれず、そんなものよりも稗田の家名にすがる方が、よほど確からしい。
 その人は、きょうだいたちを安心させようと、深く、落ち着いた息をついた。やれることが少ないその人の、なけなしの感情表現方法だったが、効果はある。
(お前らが人間だろうがそうじゃなかろうが、どうでもいい)
 この奇妙な稗田の子がすべて受け容れている事を、きょうだいたちは知っているのだろうか?……おそらく、ある程度は勘づいているだろう。そのために生じる疑念や猜疑もあるだろう。しかし彼らは稗田の家を支えている。はたから見れば奇妙な事態だが。
(さて)
 考えなければいけない。
 この襲撃は、おそらく野にあるもののけの仕業だろう――連中とて一枚岩ではない。目的は稗田家を滅ぼす事。具体的には、病気がちで満足に動けもしない死にぞこないの弱っちい人間でしかない現当主を暗殺して、この家になんとかすがりつく事で息をしているもののけたちの勢力を一掃し、叩き落とす事。
それはそれで大問題だが、まあいい。これだけの騒ぎになればきょうだいたちが一晩じゅう、弓持て矢を手挟んで警戒してくれるだろうし、事件そのものの処理をどうするかは、彼らに任せる。その人はきょうだいたちの有能さを信頼していた。
(しかし、あるいは巫女が出張ってくる。そうした憂いはある)
 そこがちょっとばかり問題で、しかも難しいところだった。
(襲撃の目的は、単に自分を害するだけにはとどまらないだろう。それが失敗しても二の矢、三の矢がある。既に博麗の巫女は稗田家を猜疑の目で見ている――もののけに取り込まれてしまった家として。だが、そうした疑惑を告発した側も人ではあるまい)
 外ではきょうだいたちの手で(皮肉なことに)魔よけの弓弦が鳴らされているのが、寝所まで聞こえてくる。
(巫女も困ったものだ。あれの本分は神祇祭祀だろうに、なぜかもののけ退治などに血道を上げ始めている)
 もちろん、この土地には厄介な存在がいるのも確かだ。実際に人間の生活圏を侵害してもいる。そうした事実関係はたしかにあるが、あの女が神職の本分からかけ離れた行為にのぼせ上がっている本当の理由は別にあり、それは間違いなく、そうしなければ自分が何者であるか、わからなくなってしまっているからだろう。
(既に――初代阿一の時から――仏法は本朝に遍く行き渡っていた。だが、神祇の道は滅ぼされたわけではなく、閉ざされてもいないし、篤く敬われてもいる。祭祀だってまつりごとに組み込まれてはいる。でも、それだけ。ただそこにいるだけ。それはそれで尊い事なのだけれども、ああいう女はそういう扱いに我慢ならない)
 その人はふと、おかしみを感じた。
(……そこにいるだけ、か)
 自分の身の上そのものではなかろうか。
 夜は何事もなく明けた。
 翌朝。
 ぼんやり、眠れぬ夜を過ごした後の半覚醒と半睡眠のあいだをその人が漂っていると、屋敷の門塀の方が騒がしい。
(神社の子らだ)とその人は思った。(博麗党のお出まし)
 昨晩の騒ぎはひどくうるさくなってしまったので、その伝で博麗の巫女に話が入ったのだろう。……あるいは、稗田の家人か奴婢の誰かしらが昨晩のもののけ騒ぎを告発したのかもしれないが、その人自身はその点を追求する気はない――きょうだいたちは別かもしれないが、ひとまず、表立っては。
 しかしろくな捜査権限も、誰からの依頼もないまま、稗田屋敷の領地に踏み込ませるつもりは、むろん稗田の家の子らにはない。
(とはいえ、あの巫女が郎党まで引き連れてやって来るからには、なにか屋敷の門扉を開かせる呪文があるに違いない……その呪文とは……)
 やがて、ぱたぱたと屋敷の内が騒がしくなり始めた。一頭どころではない騎馬のいななきが表の方から聞こえて(屋敷の前を馬糞でいっぱいにしやがって)と内心毒づいたりもするが、家の子らも外の様子に慌て始めた。博麗党は彼らの勢力のみで稗田屋敷を包囲したわけではなかったらしい。
 稗田家は博麗神社に提訴されていた。
 元来、神社の社領であったはずの土地が、その管理を請け負った稗田家によって、不正に利用されている、云々。
 その人はあきれたように目を細める。(土地争論とはずいぶん俗っぽい呪文だな)と。
 実際、稗田家が長いこと管理を肩代わりしているうち、いつの間にかその権利関係が曖昧になっている土地は、ある。たとえば、ある土地をやんごとなき筋に寄進する際、該当する免田だけでなく、その周辺の土地も付属する四至内の“荒地”として処理して、寄進した事がままあった。そうして広大な領地を寄進した側にはもちろん相応の利得があり、在地領主としての権利を認められて、そのまま領地の長期的な管理に専念する事もできる。なにが変わったかといえば、土地所有の法的根拠と、その実効支配にお墨付きが加わったという事実関係だけ。
 こうした変遷を経る中で、博麗神社はいつの間にかこの郷の土地権利者から弾き飛ばされている。
(それはあるが、いまさらそれを持ち出してくるか?)という話ではある。
 国衙から派遣されてきた役人たちの応対は、もっぱらきょうだいたちがやってくれる。その人自身はお飾り当主なので、とりあえず行儀を崩さないかんじに身を起こさせられて、衣服をぴしっと整えて据えつけられるのが、本当に座敷の飾りのよう。
(ともかく、国衙側は、こうした私領を寄進する動きをあまり面白く思ってはいない。そうした不満を察知した博麗の巫女は連中とつるみ始めたが、連中、こちらの事を苦々しく思っていてつるんではいるが、別に目的が一致しているわけでもない)
 なにより四至の牓示の設置に関わる審理と立ち合いは、他ならぬ彼ら国衙から派遣された役人たちが行っている。その裁定が覆されるわけはなかった。
(終わってんだよ、最初から)
 そもそも近頃は制度の形骸化と慣習化が進んでいる。かつては位階が高すぎるため、かえって実務的な地方行政に関われなかった中央の大貴族たちも、地方に本格的な収入源を持つに至って、国司の任命権を行使してやや位階の低い縁者や係累を地方の行政官に派遣する事で、法的な軋轢を制御しようとする動きが、全国に広がりつつあった。
(最近こちらに赴任してきた国司の某は、どこそこの家の子弟だ)
 といった関係性は、私領所有者としては当然頭に入れておかなければならない事だった。
(あいつらにはたんまり贈り物をしてやって、こちらの一門の顔と名前くらいはしっかり覚えさせてやっているからな。……別にあからさまなものではない。奥方なんかへの贈り物という体裁で、絹で)
 これは汚職や贈賄と仰々しく言えるものですらなく、ただの社交の一環でしかない。
 その人は目を細めた。
(だから、終わってんだよな。博麗の巫女とその一党は、絶対に稗田家に対して政治的な勝利をおさめる事はできない)
 ……ではなぜ、とその人は考えるのだ。
(では、なぜ博麗の巫女はこのような訴え出を行ったのか。彼女だってばかではない。自分の立ち位置くらい知っているはずだ。しかも昨日の今日、昨晩の騒ぎの続きのように、今日になって……)
 表情の変わらないむくんだ顔が、視線だけを少し動かした。
(……実際は、我々は国衙への出頭を命令されていたはずだ。役人どもがのこのこと領内の屋敷に入ってきてくれているのは、長いお付き合いのおかげもあって、こちらの不自由な身の上を多少は配慮してくれているらしい。つまり巫女にとっては予想外の展開だろう。本来の形式に従うなら、こっちが国衙に出頭し、自分たちも裁定をされるため、それについていく……そうした道中で、巫女はなにをたくらんでいた?)
 まさか、と、あまり考えたくはなかった事を思った。
(道中で襲撃でもするつもりだったか? 本気で抗争するつもりなのか? 国衙の役人まで巻き込んで? 博麗の巫女と稗田の家が? 土地の争論ごときで?)
 もちろん、そうした争いが血を見る事態に発展する事も珍しくないのは知っている。
(しかし博麗と稗田は阿一以来の――)
 と考えかけたところで、疲れたように目を閉じた。
(……いや、違うな。これはそんな土地争い以前の話だ。もう、かつての我々じゃなくなったってだけの話だ。こちらの家がもののけの血をたっぷり含んでぐちゃぐちゃになっているのなら、向こうだってとうに彼らに乗っ取られていたんだ。あの神社の係累も、そうしたものどもに犯し尽くされている)
 昨晩、稗田屋敷で起きた騒ぎも、そうだ。稗田阿未を殺す事は、赤子をそうするのと同じくらい簡単。屋敷に忍び込む事さえできれば、容易い話だったはずだ。そうした後で、翌日、混乱状態の稗田家を、かねてからの土地争いの件でのうのうと提訴する。
(妖怪神社だ。あそこは)
 しかしすべての手筈が狂った。稗田家の死にぞこないは相変わらずしぶとく生きているし、国衙の役人もそんな稗田家に格別の対応をしてやっている。博麗党の味方はどこにも存在していない。
(で、どうする?)
 その人は目を薄く開いて、視線だけをせわしなく左右に振った。応接の場では、きょうだいたちが役人とぎこちない談笑をしている。はなから既定路線ではあったが、提訴はおそらく取り下げられる方向に向かうだろう。
(そうなると、どうする? あの巫女は……引き下がるか? いや、引き下がればもう後はあるまい。稗田家との軋轢は決定的だし、弱腰を見せれば自分の一党に従う連中に示しがつかない。だから、あの女はどうする? 私があの女の立場なら、私なら――)
 と考えかけて、意地の悪い気持ちになった。少なくとも、その人が博麗の巫女と同じ立場なら、こんなどん詰まりにはいないはずだ。
(……だが、あいつの立場になってやる事はできる。やるなら今が最良の機会だ。こうも事態が極限に達しているのに、そこに考えが及んでいるのは、おそらく私しかいない)
 その人はわずかに唇を動かし、声を上げた。きょうだいたちが一斉に振り返る。満足な発声ではなかったが、その人が声を発する事なんてついぞ無かったから。
 彼らの注意を引いた上で、ふたたび視線を振った。屋敷の門の方――もっと外の方を示すように。
 その意味をきょうだいたちが満足に了解する前に、塀越しに何かぐにゃりと重たいものが、外から投げ込まれた。すぐ庭先に人をやって確認させたが、ちいさく引きつるような悲鳴が聞こえて、投げ込まれたのは人の――役人を待って外に留め置かれていた下人の――死骸と知れた。
 混乱が騒ぎにすら発展していないうちに、博麗の巫女は別の場所から稗田屋敷内部に侵入している。
 彼女の目的がなんであったか、もはや知る由もないが、おそらく、襲撃の名分としては、提訴にかかわった国衙の役人が稗田家によって拉し去られたため、これを救出するべく襲撃を行った、といった筋書きでも存在していたのだろう。あまりに穴の多い大義名分ではあるが、無理ではない。稗田家のものどもを一匹漏らさず一族郎党誅滅して(ついでに役人も討って)しまえば、とりあえずの説明はつく。法的根拠など後からいくらでもつけられる――そこに関しては稗田家とてお互い様だ。
 行為そのものの理由はそれとして、では、彼女をそこにまで追い詰めたものはなんであったのか。ただ土地争論で負けたからというわけでもないだろう。もののけ退治に熱中する中で、かえって交流が深くなり、自分に与してきた魑魅魍魎たちの突き上げに屈した、というのも、単なる状況説明としては適確だろうが、ものの半分しか説明できていない。仏道にないがしろにされつつある神祇の家としての鬱憤が、世俗を上手に立ち回っている稗田家に八つ当たり同然に飛んできた、という突き放した見方もできるが、あまりに一面的だ。
(このむちゃくちゃこそあの女の心の内そのもの)と、混乱――屋敷外からは博麗の郎党が包むように寄せてきているし、既に単騎で屋敷の端から忍び込んでいる巫女は、家人の殺戮を開始している――の中でその人は思った。
 騒ぎの中でも、その人は特にする事がなかった。きょうだいたちが、外から圧してくる寄せ手に気を取られすぎて、屋敷のすみっこから聞こえてきた惨殺の悲鳴に気がつくのにやや遅れた時も、考えるしか能がない。
(もののけどもに囲まれて、自分が何者なのか、わからなくなったのだろう。あわれな女だ)
 そして(そこが我と彼女との違いなのだろう)とも思った。その人には人間という以上に、あの阿一、阿爾という人々に続く、三番目の人という自認が(あまり自覚はなくとも)あるのかもしれない。そこばかりがよすがとも言えた。
 屋敷とはいえ、鄙びた地方領主の家である。そこまで広いわけではない。巫女がきょうだいたちや家人に見つかり、反撃を受け、勝手のわからぬ家を惑い、建具をはね飛ばして、その人の目の前に現われた時は既に血みどろになっていたが、もはや国衙の役人などは視界の端にも入っていない。もはや稗田の家になにか一矢報いたいだけという眼差しで、その人を発見している。
 なにか謝りたい気持ちになった。
 ――と、そんな巫女の横合いに向かって、身を投げ出すように躍りかかった女の人影と、彼女がしっかと構えて突いた短刀の切っ先が、巫女の致命傷になった。
 その人は目を丸くしながら、姉を――血を多く失って漫然と死にゆく巫女におぶさりかかったまま、腰を抜かして動けないでいる内気な姉を見つめた。やがて場はきょうだいたちや家人によって騒がしくなるが、その瞬間だけは妙に静かだったように覚えている。

 稗田阿未は、この事件の後も縁者から代わりの巫女を立てて、博麗神社の社を篤く保っている。
このままだと「博麗の巫女が政治的に敗北していく様に興奮している危ない作者」になりかねない気がしますがこのままいきます。
かはつるみ
https://twitter.com/kahatsurumi
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コメント



0.簡易評価なし
1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.90東ノ目削除
事実上一切動くことのできない小説にあるまじき主人公が兄弟の忠誠だけで辛うじて保っているのを見て、御阿礼の子としての能力だけでは足りず最低限の暴というものが要るのではなかろうかと思いました。
稗田家にとってある種共通の敵だった巫女が消え、多分阿未は子を残せないだろうから後継者問題が沸き起こり…。むしろ大変なのはこの後な気もしますがそれはまた別のお話