口をぐっと押さえて息を殺せば、青く焼けた手首の縄痕が一層痛む。
ここに彼女の居場所はない。甚く真っ赤なその内装は、ただ一つの根源的な恐怖を呼び起こすだけであり、洋館特有のその匂いは、乾いた木々と重い繊維が足を竦ませる。豪勢なシャンデリアの割に暗い部屋部屋はどうして気味が悪いのかと、しかし、それでも彼女の居るそこだけは、完全なる暗闇だった。
「あの人間、全くどこへ行ったか……」
隙間からこもった声が微かに彼女の耳に入る。足音……一人、いや二人。遠ざかっていない。寧ろ、近づいて来る音。
「こうなると、予備の食糧を用意しないといけませんね」
人を探す二人は、決して彼女を呼ぶことがない。屋敷にとって、それに名前は存在しない。別に、誰だって買ってきた食材に名前を付けることはないだろう。それは普通、庫の中で落ち着いていて勝手にどこかへ行ったりはしないし、もし名を呼びかけたとて、応じることはないのだから。
目を逸らすように、彼女は体を横たわらせる布地に一層体を預ける。随分肌触りの悪い薄い布団で、よく体に引っかかり、髪がくしゃくしゃになるのをもう何度も彼女は知っていた。けれど、最も優れた逃げ場所は、屋敷に似つかぬちっぽけな部屋の、並び立つ右側の箪笥の中であったから、目下にまで掛けられた揺れる衣装の白い上品さに憧れながら目を閉じることしかできなかった。視覚が休めば、他の四感が敏感になる。より強まる足音に呼応する心音がただ煩い。嗅覚を刺激する懐かしい防虫剤の匂いも、今ではどこか気を急かす。逃げるように、彼女は箪笥のただ触れている一面、縮こまった全身で感じる床の硬さと、身体を暖めもしない布団の感触だけに意識を向けた。
不思議なことに、彼女が床に意識を向けて最初に感じたのは、口を押さえる両指の冷たさと、もはやそれが自分の物ではないかのような異質感だった。指に息が当たる感覚すら全くないのは、自分の時が止まってしまったからかと考えて、僅かに指先に力を込めれば、それが頬を擦るようになぞり、こそばゆい空気が漏れ出る。それから、僅かな体温を作り出す血流に意識が移って、皮膚を通り、ようやく床と布団に意識が着いた。戸棚も、壁も、天井も、全く触れていなかった。それだからか、彼女は気が付けば、まるでここには戸棚も壁も天井も何もない、ただ呆然と広い、無の空間が拡張されたように思えていた。揺れもしない。浮かびもしない。動くものは何もない。ただ有るだけの止まった空間を、かくして彼女は初めて見た。その空間は、瞬きすれば様子を変える。屋敷に連れて来られ、最初に目隠しを外された時に見た光景──地下牢に。けれど、かつて身体に纏わり馴染んでいた金属の感覚は今はない。ただ、変わらない牢の中で、その鉄格子は終ぞ開くことはなかった。
不意に、世界の天井が割れた。視界を焼く光と、耳を焦がす戸の軋む音が鳴り響いて、彼女はもう動けない。目は覚めていたが、凍えている。横向きに眩む視界の先に、一人。鈍く艶めく蝙蝠の羽と、暖かそうで、柔らかそうな衣装に身を包んでいる誰かがにやりと笑い、軽く息を吐いてから声を紡いだ。
「あぁ、全く面白い人間だ。布の牢屋に逃げ込んでなお、腐ることのないとは。これも運命ね」
「……運命は扉を叩くと聞きました」
漸く何時ぶりか、必要とされた彼女の喉が絶え絶えに空気を吸って返すには、
「戸を叩かれて迎え入れるのは、いつだって主人であるのよ」
と。
妖しか寄り付かぬ紅魔の屋敷。以来、人間のメイドが、一人増えた。
ここに彼女の居場所はない。甚く真っ赤なその内装は、ただ一つの根源的な恐怖を呼び起こすだけであり、洋館特有のその匂いは、乾いた木々と重い繊維が足を竦ませる。豪勢なシャンデリアの割に暗い部屋部屋はどうして気味が悪いのかと、しかし、それでも彼女の居るそこだけは、完全なる暗闇だった。
「あの人間、全くどこへ行ったか……」
隙間からこもった声が微かに彼女の耳に入る。足音……一人、いや二人。遠ざかっていない。寧ろ、近づいて来る音。
「こうなると、予備の食糧を用意しないといけませんね」
人を探す二人は、決して彼女を呼ぶことがない。屋敷にとって、それに名前は存在しない。別に、誰だって買ってきた食材に名前を付けることはないだろう。それは普通、庫の中で落ち着いていて勝手にどこかへ行ったりはしないし、もし名を呼びかけたとて、応じることはないのだから。
目を逸らすように、彼女は体を横たわらせる布地に一層体を預ける。随分肌触りの悪い薄い布団で、よく体に引っかかり、髪がくしゃくしゃになるのをもう何度も彼女は知っていた。けれど、最も優れた逃げ場所は、屋敷に似つかぬちっぽけな部屋の、並び立つ右側の箪笥の中であったから、目下にまで掛けられた揺れる衣装の白い上品さに憧れながら目を閉じることしかできなかった。視覚が休めば、他の四感が敏感になる。より強まる足音に呼応する心音がただ煩い。嗅覚を刺激する懐かしい防虫剤の匂いも、今ではどこか気を急かす。逃げるように、彼女は箪笥のただ触れている一面、縮こまった全身で感じる床の硬さと、身体を暖めもしない布団の感触だけに意識を向けた。
不思議なことに、彼女が床に意識を向けて最初に感じたのは、口を押さえる両指の冷たさと、もはやそれが自分の物ではないかのような異質感だった。指に息が当たる感覚すら全くないのは、自分の時が止まってしまったからかと考えて、僅かに指先に力を込めれば、それが頬を擦るようになぞり、こそばゆい空気が漏れ出る。それから、僅かな体温を作り出す血流に意識が移って、皮膚を通り、ようやく床と布団に意識が着いた。戸棚も、壁も、天井も、全く触れていなかった。それだからか、彼女は気が付けば、まるでここには戸棚も壁も天井も何もない、ただ呆然と広い、無の空間が拡張されたように思えていた。揺れもしない。浮かびもしない。動くものは何もない。ただ有るだけの止まった空間を、かくして彼女は初めて見た。その空間は、瞬きすれば様子を変える。屋敷に連れて来られ、最初に目隠しを外された時に見た光景──地下牢に。けれど、かつて身体に纏わり馴染んでいた金属の感覚は今はない。ただ、変わらない牢の中で、その鉄格子は終ぞ開くことはなかった。
不意に、世界の天井が割れた。視界を焼く光と、耳を焦がす戸の軋む音が鳴り響いて、彼女はもう動けない。目は覚めていたが、凍えている。横向きに眩む視界の先に、一人。鈍く艶めく蝙蝠の羽と、暖かそうで、柔らかそうな衣装に身を包んでいる誰かがにやりと笑い、軽く息を吐いてから声を紡いだ。
「あぁ、全く面白い人間だ。布の牢屋に逃げ込んでなお、腐ることのないとは。これも運命ね」
「……運命は扉を叩くと聞きました」
漸く何時ぶりか、必要とされた彼女の喉が絶え絶えに空気を吸って返すには、
「戸を叩かれて迎え入れるのは、いつだって主人であるのよ」
と。
妖しか寄り付かぬ紅魔の屋敷。以来、人間のメイドが、一人増えた。