いまだ涅槃には至らない。
一歩進む度ひびくカッカラ(※仏僧が持つ錫杖のこと)の音。からっ風が私の袈裟を翻し、そのまま周囲の伽藍堂な高層建造物たちにぶつかり、吹き下ろし、唸る声。ヒビの割れたコンクリート舗装路から生え伸びたヒメジョオンがざわざわと揺れる。
ここは、この地は、この時代、この世は人の夢の果て。どこもかしこも廃墟ばっかりの……聖。あなたが涅槃に入ってからこの方、世界は悪くなる一方ですよ。もちろん聖のせいじゃないとわかってるけど。誰のせいでもないと。聖のせいでも、釈迦のせいでも、いつまで経っても降りてこない如来のせいでもないと。
むしろ……私たちのせいなのか? 傾いた廃ビルに呪詛札か何かのように貼り付けられた何らかの広告ポスターが、風によってまた一枚はがれ、すっ飛んでいく。さらにもう一枚。私はそれをあわやの所でキャッチする。
『月移民募集……明日から夢の……子育て支援……てを……あなたの第二の故郷……厚生労働省宇宙移民推進局』
数百年も前の広告がまだ残っていたんだ。もし私が通らなければ、こいつは、このチラシのゴミの山もまだまだ壁面にへばりついていられたかもしれない。人類の経済活動は失われて久しい。その残り香を引き寄せるのは、私の気質の残り香でもある。太陽光に色褪せすぎたポスターも、たくさんのゼロが並んだ金も、今や等しく価値のない代物でしかない。むしろ私の興味を呼び起こすだけこのチラシは金よりも価値のあるものとして私の手元に舞い込んできた、のかもしれない。
いや……考えすぎか?
そうしてもはや誰にとっても価値なんてなくなった紙切れを手放すと、舞い上がったそれは濁った青空にはるか溶けていった。その先には歪つに欠けた月が見えた。第何次めかの月面戦争によって月はその総質量の七パーセントを喪失したらしい。だから……結局こんな宣伝はひどい疫病神だったって事。こんなものに釣られて行った連中は。
今、月には人間はもちろん、他のどんな生き物も住んでいない。兎も、神々もいない。でもそれが正しい形なのかもしれない。そうして十分な質量を失った為に、引力と遠心力の均衡を失った為に、あと数百万年もすれば月はこの地表に落っこちてくるらしい。阿弥陀如来よりだいぶ早いおつきだ。
「……ぉーーん。じょぉおーーん!」
さて、騒がしいのが戻ってきた。
べたべたと素足を踏み鳴らし、手を振って駆けてくるあんなのを連れている限り、私が涅槃に入るのは無理だって気もする。このカッカラを打ち据えて、いの一番に除霊すべき相手なのかもしれない。はあ。そんな考えも百万遍は頭をよぎった。でもこれが死ぬと私もどうなるかわからない。困ったものだ。
「姉さん、何か見つかった……」
「じゃーん」
「なに、それ」
「レトルトカレー。しかも乾燥ライス入りだって!」
銀色のレトルトパウチに、よく見れば確かに、黒いゴシック体でそんなような事が書いてあった。消費期限はまだ数百万年先だ。ミリオン・ストックス。滅亡という具体的な脅威にさらされた人類文明が生み出した、滅びへの対抗手段の一つ……と言えば聞こえはいいが、半分は公的資金支援を取り付けるための大仰なマーケティングのような気もする。どうせ本当にミリオン単位で備蓄ができるかなんて確かめようがないんだ……少なくとも、この商品を開発した連中やそれを評価する連中達には。
「よかったね」
「なにその反応!? もっと感激してよ! こんなきれいな状態で残ってるのなんて滅多にないんだから!」
「どこから見つけてきたの?」
「うん、なんかの地下施設っぽいのが……防空壕だったんじゃないかな? 守衛室の、書類用キャビネットの奥に隠してあった。誰かが備蓄からくすねて、そのまま忘れたんだね」
あるいはその非常食を使う前に隠し主が息絶えて、誰も見つけられなくなったか。
「私の嗅覚すごいでしょ。食べものはにおいでわかるのよ」
姉さんの戯言は無視する。レトルトパウチに「におい」なんてあるかよ。
「その施設……どれくらいの規模?」
「けっこうデカかったよ」
頼りにならん。この愚姉は、一から始めて百万の果てまで私が説明してやらないと……ほんと、いつまで経っても……はあ。
「人間は?」
「いるわけないじゃん」
「インフラは……それも無いか」
「ああ、電気は通ってたよ」
「馬鹿! 早く言え!」
「誰が馬鹿よ!」
おめえだよ! と言いたいのを意思の力で堪える。私は、そう、私は昔の私じゃないのよ。くそ。聖のように……とにかく汚い言葉は無し。もちろん、わかってる。私は聖にはなれない。聖が釈迦になれないように。それでも私は(長ったらしい遠回りの紆余曲折の末に)仏門に入った。姉さんはそんなのは御免だと言った。それでも私たちは(長ったらしい遥か紆余紆余折折な道のりを)共に歩いてきた。そして姉さんは未だにすぐ癇癪を起こす。意地汚い。借金を返さない。そして金の方が先に価値を失くしてしまった。困ったものだ。
『涅槃に至る道に一つとして同じものはないのよ、女苑……きっとあなたにも見つけられる。あなたの、あなただけの道が』
まったくその通りですね? 聖……ああ。まったくもってその通りです。どうにもしようのないくらい!
◯
「本当だ……電気系統が生きてる」
着いてみると、かなり立派なシェルターだと言えた。
煌々と照らされた真っ白い廊下を姉さんが進む。私は後に続く。ぺたぺたという足音に、カッカラが樹脂っぽい床を打つノックが重なる。姉さんが自慢げに振り返り、にへらと笑う。
「私の嗅覚、すごいでしょ?」
「宝の持ち腐れね」
「貧乏神だもの」
そういうもんなのか? 廊下に連なる扉を一つ一つ開いては中を見てまわる。人の営みの様子は無い。奇妙な感じだった。外観はちょっと小綺麗な廃ビルって感じだったけど、地下方向にかなり広く続いているこの規模といい、電気系統が生きていたり、相当金のかかった施設に思える。その割には侵入口はフリーパスだった。生身の守衛は置いていたようだけど、それだけ。自動迎撃ドローンとか、電磁ショックのセキュリティとか、大抵のシェルターにはそういう厳重な警備が備わってる物なのに。だってそうでなきゃシェルターの意味がない。だってそれじゃあ、そんな手薄じゃあ守れない。肝心かなめ、逃げ込んだ者たちの生命を……。
「どこの系列の施設なんだろう」
「さっき岡崎未来重工のマークがあったけど」
「それは請負先でしょ。金を出した大元はどこかってこと」
「どこだっていいじゃん、そんなもん」
「そうもいかないでしょ……」
「女苑は人間のことが好きねえ」
「好きなもんかよ……嫌いだから、きっちりさせておきたいの」
「まーでも死体の一つも無いってのは妙かも」
「そう。人の暮らしていたにおいはあるけど、死体が一つも無い。なぜ? 物が無いのはわかる。フリーパスだもん、野盗に盗られたんでしょうけど……姉さんみたいな連中に……」
「カレーあげないからね」
「いらんわ」
どうにも言いようのないもやもやとした気分を抱えたまま私たちは(抱えてたのは私だけだけど)さらに施設の奥へ、奥へと踏み込んでいった。
物理的な脅威は何もない。今まで訪れた施設と比べればだいぶんにマシ。例えば致死性のウィルスが蔓延したシェルターとか、殺戮ドローンが廻遊する軍事施設とか、ブービートラップだらけの市街戦跡地とか……まあそういう具体的な敵意と殺意はいつもだいたい姉さんが引き受けてくれたけど……。
なのに、何だろう? どうしてこんなに落ち着かないんだろう。私たちはエレベーターホールらしき空間に出る。試しに呼び出してみると、さらに下層へ向かう扉が開いた。姉さんが「まだ進むの?」という顔をこっちに向けてくる。
「不満なの?」
「別に……ただ……」
姉さんにしては神妙な表情だ。珍しい。もしかして私と同じ違和感を、もやもやしたものを、姉さんも感じているのだろうか?
「ただ、なに……?」
「においがしない」
「え?」
「もう食べ物のにおいがしない。こっからは無駄足だよ、たぶん」
聞いて損した。いつもこうなんだ。困ったものだ。
「私は別に残飯を漁りにきたんじゃないの。一緒にしないで」
「あ、そう。そういえば女苑は何を探してるんだっけ?」
「……道よ」
「何の道?」
「姉さん着いてくるの、どうするの?」
「行くよ。一人だと心配だからね」
「あっそ」
「あ、女苑のことが心配なんだからね」
「あっそう!」
好きにしたらいい。
私たちは下へと向かう。下へ。下へと。手狭なエレベーターに二人、詰め込まれて、さらに下へ。
それで……しかし随分と……長いな。階層の表示は無い。入り口と、出口。あるのはそれだけのようだ。その辺りもやはり軍事施設では無い気がした。ミリタリーな施設はいつでももっと細分化されているもの。
だからここは……何というか……大雑把すぎる。その割に金を持っている。これだけの規模と独立した電力供給システム。いったいここはどこなんだ? ここは――
「あれ?」
扉が開いた。姉さんの間抜けな声。青空と、木のにおい。香のにおい。懐かしいにおい。
「聖?」
ちがう。
私は否定する。姉さんの声、じゃない。今のは私の声だ。「女苑」今のは姉さんの声だ。大丈夫だ。一瞬、ほんの一瞬だけ意識が飛びかけたけど、一千年前に……みんなが馬鹿やっていた頃に……まさかこんな、自分が本気で仏門に入るなんて思ってもみなかった頃に。
ノスタルジー? そんなもん、そんなもんは、だ。そんなもん、とっくに捨てたはずじゃないか。
「ふざけてるわ」
「大丈夫なの?」
「行こう」
「待ってよ、ここ……お寺みたいだね? 地下に、お寺? 幻じゃないよね?」
「当たり前でしょ」
ハルシネーション、じゃない、これはイミテーションだ。かなり巨大ではあるが……ここも地下には違いない。まさしく伽藍堂のようだ。香のにおいは、壁面のエアダクトから定期的にミストとして散布されているらしい。行燈めいた灯りも、青空も、すべて壁面のスクリーンに投影されているだけだ。電気系統が生きているのはこれを維持するため? 姉さんが不安げに振り返る。いや……不安がってるのは私だ。姉さんはそういうのに敏感だ。腹立たしいほどに。
……困ったものだ。
「もしかしてここってさ」
「……宗教施設。そういうことね。政府や企業の気配がしないわけだわ」
「女苑と同じ宗派?」
知るもんか。宗派とか、教義とか、そういうのは私は知らない。知りたいと思った時にはもう誰もいなかったから。聖も、他の姉弟子方も。まあ、そう。だから結局、私のやってる事はただの猿真似なのかもしれない。仏門に入ったと言って、その実、自分で切り貼りして拵えたママゴトみたいな門をひょいとくぐっただけなんだ。
だけど、そうだとしてもきっと聖なら、それでも良いと言ってくれると思う。それだけは不思議と確信があった。もう、あの寺で過ごした時間なんかよりも遥かに長い長い長い長い時を生きてきてしまったというのに。
「ちょっと待って、女苑」
「なに? 置いてくよ」
「だから待ってってば……ねー、まだ行くの? これ以上行っても何もないんじゃない?」
「まだ奥の区画があるみたい」
「べつに……全部を踏破しようってわけじゃないんでしょ? 食べられるものも無いだろうし」
「姉さんと一緒にしないでよ」
「一緒にカレー食べようよ」
「なに……私にはくれないんじゃなかったの?」
「そんなこと言ったんだっけ?」
「ついさっき言ったじゃん」
「まあ、それはそれだよ」
妙に纏わりついてくる姉さんを振り払う。貧乏神なんかとまともにやり合っても仕方ない。
それに、もうほとんど最深部まで来ているはずだ。伽藍堂の奥にもう一つ扉が残っていた。ここが寺なら、あの先はきっと本殿だろう。
宗派とか、教義とか、そういうのはよく知らないけど、きっと莫大な金を費やしてこの施設を作った者たちが何を崇めているのか……当然、本殿には本尊があるはずだ……きっと、それを知るために私はここまで降りてきたんだ。
「どうしても行くの? お姉ちゃんの言うことが聞けないの?」
「誰が貧乏神の言うことなんて」
「そっか。でもやっぱり、これ以上はやめておいたら?」
「なんでそう……何か……根拠でも?」
「その奥からにおいがする」
「またにおい? 姉さん、意地汚すぎ」
「食べ物のにおいじゃないよ。むしろ逆。その先からは死のにおいがする」
「死……」
私たちは、伽藍堂の奥に閉ざされた扉を見つめる。
姉さんがにこりと微笑む。
誰かの後ずさる足音がする。
「それは、つまり、罠ってこと? 本殿に踏み入れた者を殺すための、例えばトラップとか……」
「ううん、そんな気配じゃないよ。そういう危険は感じない」
「それもアテになるんだか……」
「でも女苑がそうしたいって言うなら、そうしたらいいよ。私はここでレトルトカレーをあっためてるから」
「はあ」
「水筒、まだ中身ある?」
「全部使わないでよ」
「戻ってきたら、一緒に食べようね」
気味が悪い姉さんだった。水筒やら燃料やらの入った背嚢を押し付けるように渡して、後は、私だけが先へと進む。
まあ、貧乏神の道連れなんて居ない方が気が楽だわ。
カリカリと、カッカラの底が嘘くさい木製の床を引っ掻く音を立てながら私は、薄暗くって無駄に広い空間を進む。振り返るともう姉さんが随分遠くに見える。馬鹿みたいに大きな空間だ。姉さんは……お湯を温めてるんだろう、微かに携帯コンロの炎の光が見えた。壁面に投影されたイミテーションの行燈の炎よりずっと美しく輝いていた。
そんな事を考えてる間に、もう私は本殿(推定)へと続く大扉の前に立っている。と言っても、大扉のほとんどはやっぱり巨大な壁面スクリーンに投影された精緻な映像にすぎない。本当の開閉機構は、人が数人はまとめて通れる程度だからけして小さくはないが、偽物に比べれば随分と肩透かしなサイズ感だ。
「ふうん……」
手をかざしても反応がない。よく見ると、どうも私らより先に訪れた野盗がこじ開けようとした形跡があった。認証装置がめちゃくちゃに壊されている。これまでとは打って変わってセキュリティが厳重のようだ。やっぱり本尊には値打ちがあるんだろうか? もっともこの程度じゃ私を阻む事はできないけれど。
私はカッカラを翳す。こういう時の呪文を知ってる。扉を開けるための魔法。秘文。秘術を。そして私は(落ちぶれたとは言え、そして化け物より仏の使徒であることを選んだとは言え)まだまだ神秘の連なる末端でもある。すなわち、魔術の端末でもあるのだから。
「ひらけ、ごま」
そして扉が開いた。
そして……その瞬間。
死がなだれ込んできた。
◯
「……ぉーーん。じょぉおーーん!」
酒のにおいがした。私にダル絡みをして引き寄せる姉弟子の顔が赤い。船幽霊のくせにこの人は……そう、船幽霊のくせに……これはワインのにおいじゃないか?
「村紗?」
「あんだとぉ! 村紗先輩だろうが! ぼげっ!」
「げぼっ――」
空になったワインボトルで頭を殴られる。痛い。痛い……本物の痛み。ふらふらと顔を上げると、船幽霊と尼僧が肩を組んで笑ってる。つられて私も笑う。いつものことだ。いつもの……いつの?
「女苑、久しぶりじゃないですか」
背後から声がかかる。私は酒を飲んでないけど、思わず肩が震えた。
毘沙門天代理、寺の本尊がやれやれと頭を振る。まったくもって困ったものです。ええまあ。あなたもそう思いますよね? ええ、まあ。そんな言葉をかわす。
「あの馬鹿者共といっしょに過ごしていると、まったく、あなたの方がよっぽど真面目に見えますよ。もっと居てくれてもいいのに」
「そういうわけには」
「どうして?」
「どうしてって……まあ、その……私は疫病神だし」
「私だって虎ですよ」
関係ないんじゃないか? でも言いたいことはわかる。毘沙門天代理殿が微笑む。私もつられて微笑む。さっきよりも洒脱げに。
「それよりいいんですか、あの先輩方、また大っぴらに飲んで」
「もちろん良くはないですがね。でも、せっかくあなたが来てくれたんだし……二人も嬉しいんでしょう」
「まさか」
「本当ですよ。まあ、後輩というのは可愛いものですからね。私も一杯もらおうかな」
「ちょ、ちょっと、そんな」
「でもあなたが持ってきてくれたワインですよね?」
「え……?」
そうだったっけ?
いくらなんでも寺に戻る手土産でワインなんて……よく貢がれるからいつもちょうど良いんだ……いや……いや?
頭が痛い。そりゃそうだ。さっきあんな風にぶん殴られたもの。額を抑えた手が赤く滲む。赤い液体。ワインが溢れただけだ。一発殴り返してやらないと。湯呑に赤い血のような液体を、二人分持って戻ってくる人影。
「旅に出ていたんでしょう? みんな土産話を期待してますよ」
「いやでも、お酒は、また怒られますよ」
「怒られる? 誰に?」
「そりゃ――」
言いかける。口を閉ざす。口を開く。私は……「女苑」……私は、また息を呑んで。
「今日だけ、特別ですよ」
「え」
「星、ありがとう。私の分も貰っちゃおうかな?」
「もちろん! 少しお待ちを」
「ま、待ってください。そんな、でも、あなたは……だって、そんなっ」
「いいのよ。だって一千年ぶりに女苑が帰ってきたんだものね」
「そうじゃなくて、そのことじゃなくて、でも、でも、聖っ! あなたは!」
「はい、女苑の分」
そうやって、ワインの注がれた湯呑を差し出しながらその人は、私は、その人は、聖は、私は――――
「あ゛あ゛ーーーーっ゛っ゛!!」
ゴミ溜めを爆発させたみたいに汚いダミ声の絶叫だった。
はっと息を呑む。瞬間、湯呑が消える。聖が消える。毘沙門天代理殿も、馬鹿な先輩方も消える。
代わりに私を取り巻いていたのは闇だった。底なしの、底抜けの、ぞっとするほど冷たい冷たい死の闇だった。
「ッ――喝!」
私は咄嗟にカッカラを突き出し、経を唱えていた。それで終わった。呆気なく、その死の闇の気配は弾け飛び、目の前で扉が閉まる。そしてもう二度と開くことはなかった。
遅れて胸の高鳴りがする。今のは――それよりさっきの絶叫は? あれは、あのどうしようもなく穢らわしい汚れた濁点塗れの叫び声は、確かに姉さんの叫び声だった!
「姉さん!? どうしたの! 姉さん!」
まさかあの気配か? あの死の気配が何かしたのか? 姉さんに……私の姉さんに何を!
「姉さんっ! 無事!?」
「女゛苑゛ん゛ん゛っ゛っ゛! 無事なんかじゃないぃいっっ!」
「姉さ――姉さん……?」
「私のカレーがっっ!!」
切れた線が繋がり始める。きれた息が急速に元へと戻っていく。
立ち尽くす私の視界の中で頭を抱え悶える馬鹿な姉が、腐りきったレトルトパウチを勢いよく床に叩きつけている。
「なんでだよおっ! 百万年保つんじゃないのかよ! てめえまだ千年も経ってないんだぞ!? くそッくそッ! 私の楽しみを返せ! 私のワクワクを返せよ! 私のカレー返せよおッッ!」
「やめて。みっともないから。マジでやめて」
「あ゛あ゛ーーーーん゛! 久々のマトモ食事ーーっ゛!」
もはや溜息も出なかった。
馬鹿に関わると碌なことがない。特にそれが貧乏神なんて存在なら、特に。
私の白けた視線にもめげず(というか気が付いてさえいない)未だミリオン・ストックスに恨みをぶつける姉を、強引に引きずっていく。
「待って、女苑、待って」
「なに」
「やっぱり食べてく。腐ってるけど、粉末スパイスの部分だけなら――」
「絶対にやめて」
かくして私たちは地上へと戻るエレベーターに再び乗り込んだ。その扉がゆっくりと閉まっていく。そのずっと先には「本殿」へと続く扉が小さく見えていたが、それもすぐに隠れて消えた。
姉さんはまだ失われたカレーについてぶつぶつ文句を言っている。私は……あの時、姉さんがひび割れた叫び声を上げなかったら、私は……どうなっていたんだろう?
あの時に見えたもの。扉の向こう。そこに横たわっていた者たち。一瞬だが、私の眼に焼き付いている光景……それは、膨大な死者の列だった。
聞いたことがある。
終末期、無数に流行した新興宗教団体の一つ。それはありふれた来世信仰を軸としたもので、信徒から絞り上げた莫大な金を注ぎ込んでは世界中にシェルターを建設した――そこまではよくある――が、彼らは突如として表舞台から姿を消してしまった。
『我らの生命、星々に調進いたします』
その一言を世界中に発信して。
「他人を巻き込むなよな」
「なにか言ったあ……」
「べつに何も」
結局、彼らの思念は重力に縛られたままだったってことだ。
馬鹿な話だ。本当に、人間ってのはいつだって。
「でも、まあ、女苑が祓ってあげたんでしょ?」
「え?」
「成仏できたんじゃない?」
「姉さん……知ってたの?」
「まあ、同族の気配はね」
ため息。結局、敵わないのか。この姉にさえ、私は。
エレベーターが止まる。また長い白い廊下を抜け、ようやく外へ戻ってくる。
もうすっかり夜だった。苛立ちを滅すべくカッカラを地に打ち鳴らす。
いまだ涅槃には至らない。
「飯にでもするか。レトルトカレーは無いけど、まだ昨日の残りがいくらかあるでしょ」
「……あ」
先導していた姉さんが立ち止まる。振り返った表情、「女苑、ごめん」、もはや身構える気にもならなかった。
「コンロと水筒、忘れてきた」
まったく困ったものだ。本当に。
一歩進む度ひびくカッカラ(※仏僧が持つ錫杖のこと)の音。からっ風が私の袈裟を翻し、そのまま周囲の伽藍堂な高層建造物たちにぶつかり、吹き下ろし、唸る声。ヒビの割れたコンクリート舗装路から生え伸びたヒメジョオンがざわざわと揺れる。
ここは、この地は、この時代、この世は人の夢の果て。どこもかしこも廃墟ばっかりの……聖。あなたが涅槃に入ってからこの方、世界は悪くなる一方ですよ。もちろん聖のせいじゃないとわかってるけど。誰のせいでもないと。聖のせいでも、釈迦のせいでも、いつまで経っても降りてこない如来のせいでもないと。
むしろ……私たちのせいなのか? 傾いた廃ビルに呪詛札か何かのように貼り付けられた何らかの広告ポスターが、風によってまた一枚はがれ、すっ飛んでいく。さらにもう一枚。私はそれをあわやの所でキャッチする。
『月移民募集……明日から夢の……子育て支援……てを……あなたの第二の故郷……厚生労働省宇宙移民推進局』
数百年も前の広告がまだ残っていたんだ。もし私が通らなければ、こいつは、このチラシのゴミの山もまだまだ壁面にへばりついていられたかもしれない。人類の経済活動は失われて久しい。その残り香を引き寄せるのは、私の気質の残り香でもある。太陽光に色褪せすぎたポスターも、たくさんのゼロが並んだ金も、今や等しく価値のない代物でしかない。むしろ私の興味を呼び起こすだけこのチラシは金よりも価値のあるものとして私の手元に舞い込んできた、のかもしれない。
いや……考えすぎか?
そうしてもはや誰にとっても価値なんてなくなった紙切れを手放すと、舞い上がったそれは濁った青空にはるか溶けていった。その先には歪つに欠けた月が見えた。第何次めかの月面戦争によって月はその総質量の七パーセントを喪失したらしい。だから……結局こんな宣伝はひどい疫病神だったって事。こんなものに釣られて行った連中は。
今、月には人間はもちろん、他のどんな生き物も住んでいない。兎も、神々もいない。でもそれが正しい形なのかもしれない。そうして十分な質量を失った為に、引力と遠心力の均衡を失った為に、あと数百万年もすれば月はこの地表に落っこちてくるらしい。阿弥陀如来よりだいぶ早いおつきだ。
「……ぉーーん。じょぉおーーん!」
さて、騒がしいのが戻ってきた。
べたべたと素足を踏み鳴らし、手を振って駆けてくるあんなのを連れている限り、私が涅槃に入るのは無理だって気もする。このカッカラを打ち据えて、いの一番に除霊すべき相手なのかもしれない。はあ。そんな考えも百万遍は頭をよぎった。でもこれが死ぬと私もどうなるかわからない。困ったものだ。
「姉さん、何か見つかった……」
「じゃーん」
「なに、それ」
「レトルトカレー。しかも乾燥ライス入りだって!」
銀色のレトルトパウチに、よく見れば確かに、黒いゴシック体でそんなような事が書いてあった。消費期限はまだ数百万年先だ。ミリオン・ストックス。滅亡という具体的な脅威にさらされた人類文明が生み出した、滅びへの対抗手段の一つ……と言えば聞こえはいいが、半分は公的資金支援を取り付けるための大仰なマーケティングのような気もする。どうせ本当にミリオン単位で備蓄ができるかなんて確かめようがないんだ……少なくとも、この商品を開発した連中やそれを評価する連中達には。
「よかったね」
「なにその反応!? もっと感激してよ! こんなきれいな状態で残ってるのなんて滅多にないんだから!」
「どこから見つけてきたの?」
「うん、なんかの地下施設っぽいのが……防空壕だったんじゃないかな? 守衛室の、書類用キャビネットの奥に隠してあった。誰かが備蓄からくすねて、そのまま忘れたんだね」
あるいはその非常食を使う前に隠し主が息絶えて、誰も見つけられなくなったか。
「私の嗅覚すごいでしょ。食べものはにおいでわかるのよ」
姉さんの戯言は無視する。レトルトパウチに「におい」なんてあるかよ。
「その施設……どれくらいの規模?」
「けっこうデカかったよ」
頼りにならん。この愚姉は、一から始めて百万の果てまで私が説明してやらないと……ほんと、いつまで経っても……はあ。
「人間は?」
「いるわけないじゃん」
「インフラは……それも無いか」
「ああ、電気は通ってたよ」
「馬鹿! 早く言え!」
「誰が馬鹿よ!」
おめえだよ! と言いたいのを意思の力で堪える。私は、そう、私は昔の私じゃないのよ。くそ。聖のように……とにかく汚い言葉は無し。もちろん、わかってる。私は聖にはなれない。聖が釈迦になれないように。それでも私は(長ったらしい遠回りの紆余曲折の末に)仏門に入った。姉さんはそんなのは御免だと言った。それでも私たちは(長ったらしい遥か紆余紆余折折な道のりを)共に歩いてきた。そして姉さんは未だにすぐ癇癪を起こす。意地汚い。借金を返さない。そして金の方が先に価値を失くしてしまった。困ったものだ。
『涅槃に至る道に一つとして同じものはないのよ、女苑……きっとあなたにも見つけられる。あなたの、あなただけの道が』
まったくその通りですね? 聖……ああ。まったくもってその通りです。どうにもしようのないくらい!
◯
「本当だ……電気系統が生きてる」
着いてみると、かなり立派なシェルターだと言えた。
煌々と照らされた真っ白い廊下を姉さんが進む。私は後に続く。ぺたぺたという足音に、カッカラが樹脂っぽい床を打つノックが重なる。姉さんが自慢げに振り返り、にへらと笑う。
「私の嗅覚、すごいでしょ?」
「宝の持ち腐れね」
「貧乏神だもの」
そういうもんなのか? 廊下に連なる扉を一つ一つ開いては中を見てまわる。人の営みの様子は無い。奇妙な感じだった。外観はちょっと小綺麗な廃ビルって感じだったけど、地下方向にかなり広く続いているこの規模といい、電気系統が生きていたり、相当金のかかった施設に思える。その割には侵入口はフリーパスだった。生身の守衛は置いていたようだけど、それだけ。自動迎撃ドローンとか、電磁ショックのセキュリティとか、大抵のシェルターにはそういう厳重な警備が備わってる物なのに。だってそうでなきゃシェルターの意味がない。だってそれじゃあ、そんな手薄じゃあ守れない。肝心かなめ、逃げ込んだ者たちの生命を……。
「どこの系列の施設なんだろう」
「さっき岡崎未来重工のマークがあったけど」
「それは請負先でしょ。金を出した大元はどこかってこと」
「どこだっていいじゃん、そんなもん」
「そうもいかないでしょ……」
「女苑は人間のことが好きねえ」
「好きなもんかよ……嫌いだから、きっちりさせておきたいの」
「まーでも死体の一つも無いってのは妙かも」
「そう。人の暮らしていたにおいはあるけど、死体が一つも無い。なぜ? 物が無いのはわかる。フリーパスだもん、野盗に盗られたんでしょうけど……姉さんみたいな連中に……」
「カレーあげないからね」
「いらんわ」
どうにも言いようのないもやもやとした気分を抱えたまま私たちは(抱えてたのは私だけだけど)さらに施設の奥へ、奥へと踏み込んでいった。
物理的な脅威は何もない。今まで訪れた施設と比べればだいぶんにマシ。例えば致死性のウィルスが蔓延したシェルターとか、殺戮ドローンが廻遊する軍事施設とか、ブービートラップだらけの市街戦跡地とか……まあそういう具体的な敵意と殺意はいつもだいたい姉さんが引き受けてくれたけど……。
なのに、何だろう? どうしてこんなに落ち着かないんだろう。私たちはエレベーターホールらしき空間に出る。試しに呼び出してみると、さらに下層へ向かう扉が開いた。姉さんが「まだ進むの?」という顔をこっちに向けてくる。
「不満なの?」
「別に……ただ……」
姉さんにしては神妙な表情だ。珍しい。もしかして私と同じ違和感を、もやもやしたものを、姉さんも感じているのだろうか?
「ただ、なに……?」
「においがしない」
「え?」
「もう食べ物のにおいがしない。こっからは無駄足だよ、たぶん」
聞いて損した。いつもこうなんだ。困ったものだ。
「私は別に残飯を漁りにきたんじゃないの。一緒にしないで」
「あ、そう。そういえば女苑は何を探してるんだっけ?」
「……道よ」
「何の道?」
「姉さん着いてくるの、どうするの?」
「行くよ。一人だと心配だからね」
「あっそ」
「あ、女苑のことが心配なんだからね」
「あっそう!」
好きにしたらいい。
私たちは下へと向かう。下へ。下へと。手狭なエレベーターに二人、詰め込まれて、さらに下へ。
それで……しかし随分と……長いな。階層の表示は無い。入り口と、出口。あるのはそれだけのようだ。その辺りもやはり軍事施設では無い気がした。ミリタリーな施設はいつでももっと細分化されているもの。
だからここは……何というか……大雑把すぎる。その割に金を持っている。これだけの規模と独立した電力供給システム。いったいここはどこなんだ? ここは――
「あれ?」
扉が開いた。姉さんの間抜けな声。青空と、木のにおい。香のにおい。懐かしいにおい。
「聖?」
ちがう。
私は否定する。姉さんの声、じゃない。今のは私の声だ。「女苑」今のは姉さんの声だ。大丈夫だ。一瞬、ほんの一瞬だけ意識が飛びかけたけど、一千年前に……みんなが馬鹿やっていた頃に……まさかこんな、自分が本気で仏門に入るなんて思ってもみなかった頃に。
ノスタルジー? そんなもん、そんなもんは、だ。そんなもん、とっくに捨てたはずじゃないか。
「ふざけてるわ」
「大丈夫なの?」
「行こう」
「待ってよ、ここ……お寺みたいだね? 地下に、お寺? 幻じゃないよね?」
「当たり前でしょ」
ハルシネーション、じゃない、これはイミテーションだ。かなり巨大ではあるが……ここも地下には違いない。まさしく伽藍堂のようだ。香のにおいは、壁面のエアダクトから定期的にミストとして散布されているらしい。行燈めいた灯りも、青空も、すべて壁面のスクリーンに投影されているだけだ。電気系統が生きているのはこれを維持するため? 姉さんが不安げに振り返る。いや……不安がってるのは私だ。姉さんはそういうのに敏感だ。腹立たしいほどに。
……困ったものだ。
「もしかしてここってさ」
「……宗教施設。そういうことね。政府や企業の気配がしないわけだわ」
「女苑と同じ宗派?」
知るもんか。宗派とか、教義とか、そういうのは私は知らない。知りたいと思った時にはもう誰もいなかったから。聖も、他の姉弟子方も。まあ、そう。だから結局、私のやってる事はただの猿真似なのかもしれない。仏門に入ったと言って、その実、自分で切り貼りして拵えたママゴトみたいな門をひょいとくぐっただけなんだ。
だけど、そうだとしてもきっと聖なら、それでも良いと言ってくれると思う。それだけは不思議と確信があった。もう、あの寺で過ごした時間なんかよりも遥かに長い長い長い長い時を生きてきてしまったというのに。
「ちょっと待って、女苑」
「なに? 置いてくよ」
「だから待ってってば……ねー、まだ行くの? これ以上行っても何もないんじゃない?」
「まだ奥の区画があるみたい」
「べつに……全部を踏破しようってわけじゃないんでしょ? 食べられるものも無いだろうし」
「姉さんと一緒にしないでよ」
「一緒にカレー食べようよ」
「なに……私にはくれないんじゃなかったの?」
「そんなこと言ったんだっけ?」
「ついさっき言ったじゃん」
「まあ、それはそれだよ」
妙に纏わりついてくる姉さんを振り払う。貧乏神なんかとまともにやり合っても仕方ない。
それに、もうほとんど最深部まで来ているはずだ。伽藍堂の奥にもう一つ扉が残っていた。ここが寺なら、あの先はきっと本殿だろう。
宗派とか、教義とか、そういうのはよく知らないけど、きっと莫大な金を費やしてこの施設を作った者たちが何を崇めているのか……当然、本殿には本尊があるはずだ……きっと、それを知るために私はここまで降りてきたんだ。
「どうしても行くの? お姉ちゃんの言うことが聞けないの?」
「誰が貧乏神の言うことなんて」
「そっか。でもやっぱり、これ以上はやめておいたら?」
「なんでそう……何か……根拠でも?」
「その奥からにおいがする」
「またにおい? 姉さん、意地汚すぎ」
「食べ物のにおいじゃないよ。むしろ逆。その先からは死のにおいがする」
「死……」
私たちは、伽藍堂の奥に閉ざされた扉を見つめる。
姉さんがにこりと微笑む。
誰かの後ずさる足音がする。
「それは、つまり、罠ってこと? 本殿に踏み入れた者を殺すための、例えばトラップとか……」
「ううん、そんな気配じゃないよ。そういう危険は感じない」
「それもアテになるんだか……」
「でも女苑がそうしたいって言うなら、そうしたらいいよ。私はここでレトルトカレーをあっためてるから」
「はあ」
「水筒、まだ中身ある?」
「全部使わないでよ」
「戻ってきたら、一緒に食べようね」
気味が悪い姉さんだった。水筒やら燃料やらの入った背嚢を押し付けるように渡して、後は、私だけが先へと進む。
まあ、貧乏神の道連れなんて居ない方が気が楽だわ。
カリカリと、カッカラの底が嘘くさい木製の床を引っ掻く音を立てながら私は、薄暗くって無駄に広い空間を進む。振り返るともう姉さんが随分遠くに見える。馬鹿みたいに大きな空間だ。姉さんは……お湯を温めてるんだろう、微かに携帯コンロの炎の光が見えた。壁面に投影されたイミテーションの行燈の炎よりずっと美しく輝いていた。
そんな事を考えてる間に、もう私は本殿(推定)へと続く大扉の前に立っている。と言っても、大扉のほとんどはやっぱり巨大な壁面スクリーンに投影された精緻な映像にすぎない。本当の開閉機構は、人が数人はまとめて通れる程度だからけして小さくはないが、偽物に比べれば随分と肩透かしなサイズ感だ。
「ふうん……」
手をかざしても反応がない。よく見ると、どうも私らより先に訪れた野盗がこじ開けようとした形跡があった。認証装置がめちゃくちゃに壊されている。これまでとは打って変わってセキュリティが厳重のようだ。やっぱり本尊には値打ちがあるんだろうか? もっともこの程度じゃ私を阻む事はできないけれど。
私はカッカラを翳す。こういう時の呪文を知ってる。扉を開けるための魔法。秘文。秘術を。そして私は(落ちぶれたとは言え、そして化け物より仏の使徒であることを選んだとは言え)まだまだ神秘の連なる末端でもある。すなわち、魔術の端末でもあるのだから。
「ひらけ、ごま」
そして扉が開いた。
そして……その瞬間。
死がなだれ込んできた。
◯
「……ぉーーん。じょぉおーーん!」
酒のにおいがした。私にダル絡みをして引き寄せる姉弟子の顔が赤い。船幽霊のくせにこの人は……そう、船幽霊のくせに……これはワインのにおいじゃないか?
「村紗?」
「あんだとぉ! 村紗先輩だろうが! ぼげっ!」
「げぼっ――」
空になったワインボトルで頭を殴られる。痛い。痛い……本物の痛み。ふらふらと顔を上げると、船幽霊と尼僧が肩を組んで笑ってる。つられて私も笑う。いつものことだ。いつもの……いつの?
「女苑、久しぶりじゃないですか」
背後から声がかかる。私は酒を飲んでないけど、思わず肩が震えた。
毘沙門天代理、寺の本尊がやれやれと頭を振る。まったくもって困ったものです。ええまあ。あなたもそう思いますよね? ええ、まあ。そんな言葉をかわす。
「あの馬鹿者共といっしょに過ごしていると、まったく、あなたの方がよっぽど真面目に見えますよ。もっと居てくれてもいいのに」
「そういうわけには」
「どうして?」
「どうしてって……まあ、その……私は疫病神だし」
「私だって虎ですよ」
関係ないんじゃないか? でも言いたいことはわかる。毘沙門天代理殿が微笑む。私もつられて微笑む。さっきよりも洒脱げに。
「それよりいいんですか、あの先輩方、また大っぴらに飲んで」
「もちろん良くはないですがね。でも、せっかくあなたが来てくれたんだし……二人も嬉しいんでしょう」
「まさか」
「本当ですよ。まあ、後輩というのは可愛いものですからね。私も一杯もらおうかな」
「ちょ、ちょっと、そんな」
「でもあなたが持ってきてくれたワインですよね?」
「え……?」
そうだったっけ?
いくらなんでも寺に戻る手土産でワインなんて……よく貢がれるからいつもちょうど良いんだ……いや……いや?
頭が痛い。そりゃそうだ。さっきあんな風にぶん殴られたもの。額を抑えた手が赤く滲む。赤い液体。ワインが溢れただけだ。一発殴り返してやらないと。湯呑に赤い血のような液体を、二人分持って戻ってくる人影。
「旅に出ていたんでしょう? みんな土産話を期待してますよ」
「いやでも、お酒は、また怒られますよ」
「怒られる? 誰に?」
「そりゃ――」
言いかける。口を閉ざす。口を開く。私は……「女苑」……私は、また息を呑んで。
「今日だけ、特別ですよ」
「え」
「星、ありがとう。私の分も貰っちゃおうかな?」
「もちろん! 少しお待ちを」
「ま、待ってください。そんな、でも、あなたは……だって、そんなっ」
「いいのよ。だって一千年ぶりに女苑が帰ってきたんだものね」
「そうじゃなくて、そのことじゃなくて、でも、でも、聖っ! あなたは!」
「はい、女苑の分」
そうやって、ワインの注がれた湯呑を差し出しながらその人は、私は、その人は、聖は、私は――――
「あ゛あ゛ーーーーっ゛っ゛!!」
ゴミ溜めを爆発させたみたいに汚いダミ声の絶叫だった。
はっと息を呑む。瞬間、湯呑が消える。聖が消える。毘沙門天代理殿も、馬鹿な先輩方も消える。
代わりに私を取り巻いていたのは闇だった。底なしの、底抜けの、ぞっとするほど冷たい冷たい死の闇だった。
「ッ――喝!」
私は咄嗟にカッカラを突き出し、経を唱えていた。それで終わった。呆気なく、その死の闇の気配は弾け飛び、目の前で扉が閉まる。そしてもう二度と開くことはなかった。
遅れて胸の高鳴りがする。今のは――それよりさっきの絶叫は? あれは、あのどうしようもなく穢らわしい汚れた濁点塗れの叫び声は、確かに姉さんの叫び声だった!
「姉さん!? どうしたの! 姉さん!」
まさかあの気配か? あの死の気配が何かしたのか? 姉さんに……私の姉さんに何を!
「姉さんっ! 無事!?」
「女゛苑゛ん゛ん゛っ゛っ゛! 無事なんかじゃないぃいっっ!」
「姉さ――姉さん……?」
「私のカレーがっっ!!」
切れた線が繋がり始める。きれた息が急速に元へと戻っていく。
立ち尽くす私の視界の中で頭を抱え悶える馬鹿な姉が、腐りきったレトルトパウチを勢いよく床に叩きつけている。
「なんでだよおっ! 百万年保つんじゃないのかよ! てめえまだ千年も経ってないんだぞ!? くそッくそッ! 私の楽しみを返せ! 私のワクワクを返せよ! 私のカレー返せよおッッ!」
「やめて。みっともないから。マジでやめて」
「あ゛あ゛ーーーーん゛! 久々のマトモ食事ーーっ゛!」
もはや溜息も出なかった。
馬鹿に関わると碌なことがない。特にそれが貧乏神なんて存在なら、特に。
私の白けた視線にもめげず(というか気が付いてさえいない)未だミリオン・ストックスに恨みをぶつける姉を、強引に引きずっていく。
「待って、女苑、待って」
「なに」
「やっぱり食べてく。腐ってるけど、粉末スパイスの部分だけなら――」
「絶対にやめて」
かくして私たちは地上へと戻るエレベーターに再び乗り込んだ。その扉がゆっくりと閉まっていく。そのずっと先には「本殿」へと続く扉が小さく見えていたが、それもすぐに隠れて消えた。
姉さんはまだ失われたカレーについてぶつぶつ文句を言っている。私は……あの時、姉さんがひび割れた叫び声を上げなかったら、私は……どうなっていたんだろう?
あの時に見えたもの。扉の向こう。そこに横たわっていた者たち。一瞬だが、私の眼に焼き付いている光景……それは、膨大な死者の列だった。
聞いたことがある。
終末期、無数に流行した新興宗教団体の一つ。それはありふれた来世信仰を軸としたもので、信徒から絞り上げた莫大な金を注ぎ込んでは世界中にシェルターを建設した――そこまではよくある――が、彼らは突如として表舞台から姿を消してしまった。
『我らの生命、星々に調進いたします』
その一言を世界中に発信して。
「他人を巻き込むなよな」
「なにか言ったあ……」
「べつに何も」
結局、彼らの思念は重力に縛られたままだったってことだ。
馬鹿な話だ。本当に、人間ってのはいつだって。
「でも、まあ、女苑が祓ってあげたんでしょ?」
「え?」
「成仏できたんじゃない?」
「姉さん……知ってたの?」
「まあ、同族の気配はね」
ため息。結局、敵わないのか。この姉にさえ、私は。
エレベーターが止まる。また長い白い廊下を抜け、ようやく外へ戻ってくる。
もうすっかり夜だった。苛立ちを滅すべくカッカラを地に打ち鳴らす。
いまだ涅槃には至らない。
「飯にでもするか。レトルトカレーは無いけど、まだ昨日の残りがいくらかあるでしょ」
「……あ」
先導していた姉さんが立ち止まる。振り返った表情、「女苑、ごめん」、もはや身構える気にもならなかった。
「コンロと水筒、忘れてきた」
まったく困ったものだ。本当に。
これは間違いなく私の勝手なキャラ解釈によるものですが、女苑の独自が(元来の女苑の素を除くと)聖というよりは星に近いようにも少し感じた気がしました。好きでした
終末の世界を妙ににぎやかに歩いていく二人が最高でした
カレーが腐ってて本気で泣き喚く紫苑は逆にこれ解脱してるんじゃなかろうか
展開は勿論、表現が格好良い