大嫌いなものを全部集めて、丸めて、塊にしたような、恐ろしく、気持ちの悪く、忌々しく、悍しく―――でもその異形さのあまり、目を離すことができないような、そんな夢。
「母さま、母さま。」
決まって始まりは幸せ。自分を呼ぶ声に優しく答えて、笑い合って。「自分は今、この世で一番幸せなんだ。」そう確信する瞬間。
「母さまっ母さまああぁっ!」
ほんの一瞬の間、視界が暗転する。しかし、その一瞬は、母から子を奪うのに―――永遠と思っていた幸せを全て崩すのに、十分だった。
叫び声で我に返り、最初に目にするのは、見たことも無いような悪夢の世界。床には、果なき湖のように広がる、紅く玄い血。その中には、まだ温もりの残る幼い身体。
「かあさま…かぁ、さ、まぁ…」
顔を上げると、刃物を持ったまま狂気的に笑う夫と、その隣で不敵な笑みを浮かべる「彼女」の姿があった。
亡骸となった身体を抱き、立ち上がろうとした所で、
―――意識が途切れた。いや、夢から冷めたのだから、意識が戻った、というべきか。純狐はゆっくりと起き上がった。額には大粒の汗が浮かび、心臓は通常より速く脈打っている。じんじんと痛む胸に手を当て、深呼吸を繰り返していると、段々と涙が零れてきた。見たくもない苦しい夢でも、最初だけは幸せなのだ。その先にどんな悪夢を見ようと、優しく甘い夢から覚めるのは、辛く苦しいものなのだ。
もう何年、同じ地獄絵図を毎晩見たことだろう。吐き気を抑えながら、純狐は息子を失った時の、あの心に茨が巻き付くような感覚を忘れようとしたが、脳に刻まれたそれは、簡単に消すことはできなかった。
以前、地獄の女神・ヘカーティアと手を組み、「彼女」―――嫦娥の住む月の都を襲撃した時。人間や巫女、元・月の兎に倒され、純狐は地上、特に幻想郷に興味を持った。ヘカーティアやその部下、クラウンピースと人里を回り、巫女達の神社や、人間の魔法使いの住む魔法の森、そしてあの兎が元・月の姫や賢者と暮らす竹林にも行った。しばらくは充実した日々を過ごし、悪夢を見ることも少なくなっていたのに。
「潜在意識というのは、恐ろしいものね。」
もう、耐えられなかった。怖かった。このまま毎日同じ夢を見続けたら、精神が崩壊してしまうのではないか。そう思うと、心臓の鼓動が一層速くなるのを感じた。
「ここで終わらせた方が、いいのかしら…」
嫦娥への復讐心が弱まることはなかった。いつも、その命を断ってやりたいと、そう願っていた。でも同時に、それも怖かった。もう何年も復讐心だけで生きてきたものだったから、仮に嫦娥を亡き者にして、復讐心が収まったとしても、純狐には生きる理由がなくなる。いや、そもそも自分は底なき憎しみ、苦しみ、悲しみが純化し、今の仙霊という存在になっているのだから、最悪の場合消滅するかもしれない。
「つっ…!」
息子が死んだ瞬間が、まさに走馬灯のように、脳裏にちらついた。かつてはきらきらと輝いていたのに、その時全ての光を失った虚ろな目。小さく軽かった身体。そして、最後まで自分を呼んでくれた、自分を信じてくれた、自分を愛してくれた、あの高く優しい声。一瞬で溢れ出した記憶に、純狐は激しい頭痛を覚えた。
「もう、駄目だわ…終わらせなきゃ」
消えてもいい。それで、この苦しみから解放されるのなら。胸を押しつぶす、この底なきどす黒い感情を失くすことができるのなら。そして立ち上がり、部屋を出た。
「あれ、ご友人様。どこか行かれるんですか?」
廊下を歩いている時に、地獄の妖精、クラウンピースとすれ違った。
「ええ、ちょっと散歩にね。すぐに戻ってくるわ。」
「分かりました。お気をつけて〜」
(クラウンピースに知られたら、ついていくって言うかもしれないし…これは私一人の問題だもの、大丈夫)
そう心を落ち着かせながら、純狐は月へと向かった。
一方その頃、月の都では
「じょ、嫦娥様?」
屋敷から出ようとする嫦娥を見て、使用人の一人が訝しげに尋ねる。
「どうかなさったんですか?」
「ええ、少しね。なんとなく、彼女が来る予感がするの。」
「か、彼女って、まさか…!?駄目です嫦娥様、ここに残ってください!こんな夜遅くに、夫様に知られたら…!ただでさえ嫦娥様は…!」
「いいの、大丈夫。すぐに戻ってくるわ。」
そう言いながら嫦娥は、彼女の住む豪邸を去った。
月面の海付近
「やはりいましたね、嫦娥」
「やはりいたのね、純狐」
二人の声が重なった。
「今日こそ、積年の恨みを晴らします」
「はぁ、うっとおしい。諦めて帰ればいいのに。」
そう言いながら二人は、お互いに弾幕を出し合った。
戦いは長かった。どちらの弾幕も美しく、狂気的だった。その戦いの中で、純狐は違和感を覚えた。
なんだ。なんだ、この違和感は。嫦娥の動きが、あまりにも不自然だ。まるで、何かを守っているような…
(腹部に何か、隠している?)
「何を隠し持っている、嫦娥」
「…」
純狐は弾幕で剣を作り、嫦娥に向けた。この時初めて、嫦娥の目に、恐怖が見えた。
『…っ』
純狐は、その剣で、嫦娥の腹を割いた。
「っ…!」
中から、何かが出てきた。
そのナニカは、赤く、小さく、肉々しい形をしていた。
遠い昔に嗅いだような、鉄っぽく、それでもほんの少し優しい香りがした。
最初は内臓が出たのかと思った。でも、それにしては、大き過ぎる気がした。瞬間、純狐は自分が犯したことを悟った。
血塗れの嫦娥はふらふらと立ち上がった。ナニカを拾い上げ、
「これが、あの時の貴女の、気持ち、だったの…?貴女は、どうして、あんな気持ちを味わってから、未だに生きているの…?」
そう残して立ち去った。
純狐は、身体の力が全て抜けるのを感じながら、それを見ることしかできなかった。
やがて嫦娥の姿が消えてしばらく経った後、純狐も立ち上がった。意味もなく辺りを一瞥した。少し離れたところに、透明な海が見えた。
純狐は、ゆっくりとその海へと歩んで行った。つま先から少しづつ、固く軟らかい水へ降りていった。意外にも、体はそれを拒絶しなかった。きっとこれが必要なことだと分かっていたのだろう。
すでに腰あたりまで全て水に呑まれていた。純狐の重い服は、すぐに水を吸収し、まもなく動くことさえ難しくなってきた。
そうして体が完全に水に呑まれた時、純狐は初めて、自分が愛する者たちに感謝と別れを告げなかったことを悔いた。鼓動が速くなるのをだんだんと強く感じながら、純狐は最期に別れの念を想った。
(ヘカーティア、月の都の襲撃に協力してくれてありがとう。クラウンピース、いつも私たちに元気をくれてありがとう。うどんちゃん、こんな私を拒絶せずに、嫌々でしたでしょうけど、受け入れてくれてありがとう。)
視界は少しずつ狭まり、今になって体が理解したように、腕を、脚を、動かそうとする。ただ、その時にはもう遅かった。
(最期、か。そうね、『純粋』が取り柄の私には相応しい最期、かもね)
少し開いた口から、小さな泡がいくつか零れた。
(さようなら、私が、憎みながらもどこか愛していた、不倶戴天の敵、嫦娥よ)
ゆっくりと目を閉じ、碧く黎く、冷たい水底に堕ちる姿は、まるで人形のように美しかった。
水面は一瞬揺れてから、また静かになった。
清らかな海には、かつての幸せだった母と子を描くような、満天星が映っていた。
「母さま、母さま。」
決まって始まりは幸せ。自分を呼ぶ声に優しく答えて、笑い合って。「自分は今、この世で一番幸せなんだ。」そう確信する瞬間。
「母さまっ母さまああぁっ!」
ほんの一瞬の間、視界が暗転する。しかし、その一瞬は、母から子を奪うのに―――永遠と思っていた幸せを全て崩すのに、十分だった。
叫び声で我に返り、最初に目にするのは、見たことも無いような悪夢の世界。床には、果なき湖のように広がる、紅く玄い血。その中には、まだ温もりの残る幼い身体。
「かあさま…かぁ、さ、まぁ…」
顔を上げると、刃物を持ったまま狂気的に笑う夫と、その隣で不敵な笑みを浮かべる「彼女」の姿があった。
亡骸となった身体を抱き、立ち上がろうとした所で、
―――意識が途切れた。いや、夢から冷めたのだから、意識が戻った、というべきか。純狐はゆっくりと起き上がった。額には大粒の汗が浮かび、心臓は通常より速く脈打っている。じんじんと痛む胸に手を当て、深呼吸を繰り返していると、段々と涙が零れてきた。見たくもない苦しい夢でも、最初だけは幸せなのだ。その先にどんな悪夢を見ようと、優しく甘い夢から覚めるのは、辛く苦しいものなのだ。
もう何年、同じ地獄絵図を毎晩見たことだろう。吐き気を抑えながら、純狐は息子を失った時の、あの心に茨が巻き付くような感覚を忘れようとしたが、脳に刻まれたそれは、簡単に消すことはできなかった。
以前、地獄の女神・ヘカーティアと手を組み、「彼女」―――嫦娥の住む月の都を襲撃した時。人間や巫女、元・月の兎に倒され、純狐は地上、特に幻想郷に興味を持った。ヘカーティアやその部下、クラウンピースと人里を回り、巫女達の神社や、人間の魔法使いの住む魔法の森、そしてあの兎が元・月の姫や賢者と暮らす竹林にも行った。しばらくは充実した日々を過ごし、悪夢を見ることも少なくなっていたのに。
「潜在意識というのは、恐ろしいものね。」
もう、耐えられなかった。怖かった。このまま毎日同じ夢を見続けたら、精神が崩壊してしまうのではないか。そう思うと、心臓の鼓動が一層速くなるのを感じた。
「ここで終わらせた方が、いいのかしら…」
嫦娥への復讐心が弱まることはなかった。いつも、その命を断ってやりたいと、そう願っていた。でも同時に、それも怖かった。もう何年も復讐心だけで生きてきたものだったから、仮に嫦娥を亡き者にして、復讐心が収まったとしても、純狐には生きる理由がなくなる。いや、そもそも自分は底なき憎しみ、苦しみ、悲しみが純化し、今の仙霊という存在になっているのだから、最悪の場合消滅するかもしれない。
「つっ…!」
息子が死んだ瞬間が、まさに走馬灯のように、脳裏にちらついた。かつてはきらきらと輝いていたのに、その時全ての光を失った虚ろな目。小さく軽かった身体。そして、最後まで自分を呼んでくれた、自分を信じてくれた、自分を愛してくれた、あの高く優しい声。一瞬で溢れ出した記憶に、純狐は激しい頭痛を覚えた。
「もう、駄目だわ…終わらせなきゃ」
消えてもいい。それで、この苦しみから解放されるのなら。胸を押しつぶす、この底なきどす黒い感情を失くすことができるのなら。そして立ち上がり、部屋を出た。
「あれ、ご友人様。どこか行かれるんですか?」
廊下を歩いている時に、地獄の妖精、クラウンピースとすれ違った。
「ええ、ちょっと散歩にね。すぐに戻ってくるわ。」
「分かりました。お気をつけて〜」
(クラウンピースに知られたら、ついていくって言うかもしれないし…これは私一人の問題だもの、大丈夫)
そう心を落ち着かせながら、純狐は月へと向かった。
一方その頃、月の都では
「じょ、嫦娥様?」
屋敷から出ようとする嫦娥を見て、使用人の一人が訝しげに尋ねる。
「どうかなさったんですか?」
「ええ、少しね。なんとなく、彼女が来る予感がするの。」
「か、彼女って、まさか…!?駄目です嫦娥様、ここに残ってください!こんな夜遅くに、夫様に知られたら…!ただでさえ嫦娥様は…!」
「いいの、大丈夫。すぐに戻ってくるわ。」
そう言いながら嫦娥は、彼女の住む豪邸を去った。
月面の海付近
「やはりいましたね、嫦娥」
「やはりいたのね、純狐」
二人の声が重なった。
「今日こそ、積年の恨みを晴らします」
「はぁ、うっとおしい。諦めて帰ればいいのに。」
そう言いながら二人は、お互いに弾幕を出し合った。
戦いは長かった。どちらの弾幕も美しく、狂気的だった。その戦いの中で、純狐は違和感を覚えた。
なんだ。なんだ、この違和感は。嫦娥の動きが、あまりにも不自然だ。まるで、何かを守っているような…
(腹部に何か、隠している?)
「何を隠し持っている、嫦娥」
「…」
純狐は弾幕で剣を作り、嫦娥に向けた。この時初めて、嫦娥の目に、恐怖が見えた。
『…っ』
純狐は、その剣で、嫦娥の腹を割いた。
「っ…!」
中から、何かが出てきた。
そのナニカは、赤く、小さく、肉々しい形をしていた。
遠い昔に嗅いだような、鉄っぽく、それでもほんの少し優しい香りがした。
最初は内臓が出たのかと思った。でも、それにしては、大き過ぎる気がした。瞬間、純狐は自分が犯したことを悟った。
血塗れの嫦娥はふらふらと立ち上がった。ナニカを拾い上げ、
「これが、あの時の貴女の、気持ち、だったの…?貴女は、どうして、あんな気持ちを味わってから、未だに生きているの…?」
そう残して立ち去った。
純狐は、身体の力が全て抜けるのを感じながら、それを見ることしかできなかった。
やがて嫦娥の姿が消えてしばらく経った後、純狐も立ち上がった。意味もなく辺りを一瞥した。少し離れたところに、透明な海が見えた。
純狐は、ゆっくりとその海へと歩んで行った。つま先から少しづつ、固く軟らかい水へ降りていった。意外にも、体はそれを拒絶しなかった。きっとこれが必要なことだと分かっていたのだろう。
すでに腰あたりまで全て水に呑まれていた。純狐の重い服は、すぐに水を吸収し、まもなく動くことさえ難しくなってきた。
そうして体が完全に水に呑まれた時、純狐は初めて、自分が愛する者たちに感謝と別れを告げなかったことを悔いた。鼓動が速くなるのをだんだんと強く感じながら、純狐は最期に別れの念を想った。
(ヘカーティア、月の都の襲撃に協力してくれてありがとう。クラウンピース、いつも私たちに元気をくれてありがとう。うどんちゃん、こんな私を拒絶せずに、嫌々でしたでしょうけど、受け入れてくれてありがとう。)
視界は少しずつ狭まり、今になって体が理解したように、腕を、脚を、動かそうとする。ただ、その時にはもう遅かった。
(最期、か。そうね、『純粋』が取り柄の私には相応しい最期、かもね)
少し開いた口から、小さな泡がいくつか零れた。
(さようなら、私が、憎みながらもどこか愛していた、不倶戴天の敵、嫦娥よ)
ゆっくりと目を閉じ、碧く黎く、冷たい水底に堕ちる姿は、まるで人形のように美しかった。
水面は一瞬揺れてから、また静かになった。
清らかな海には、かつての幸せだった母と子を描くような、満天星が映っていた。