Coolier - 新生・東方創想話

巌に刻む呪い

2026/05/23 01:00:32
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■序章

窓という窓が、燃え落ちる街の光で満たされている。
兵を指揮する歳若い男は、何かを探すように王宮をさ迷い歩いていた。

(──何処だ)

略奪の続く街の喧騒とは裏腹に、王宮の中だけが妙に静かだった。
──まるで、何者の存在も許されていないように。

静かすぎる、と男は思う。
回廊に並ぶ大蛇の石像が、薄暗い光の中でこちらを見下ろしている。

(気味の悪い)

男は舌打ちし、剣を一閃する。
石像の首が落ちる音だけが、やけに大きく響いた。

──貴き血筋である俺が、こんな地に降りることになるとは。

この国の名は維縵国ゆいまんこく
神人と呼ばれる、古い神の血を継ぐ民の暮らす地だ。

神。
その言葉を思い浮かべた瞬間、男の胸の内に、わずかな侮蔑が差し込む。

(神人、だと)

蛇だの獣だのを崇めていた時代の残滓を、未だにそう呼ぶらしい。
民草の信仰を真に受けた、未成熟な神のなれの果て。
我ら、正統なる天の神とは比ぶべくもない──それが、男の中では当然の理だった。

「こんなものを『神』と呼ぶとはな」
吐き捨てるように言いながら、男はさらに奥へと進む。
回廊を進むほどに、空気は濃く、重くなる。
霊力の気配はあるはずなのに、それは掴めない。

「霊力の反応すら掴めないとは……使えない連中め」
部下達への侮蔑の言葉を吐きながら、男は進んで行く。

都の上層部が告げたもうひとつの任務。
それはこの地の奥に潜む「ある存在」を連れ帰ること。

天の神と父祖を同じくする、地の神──国津神の娘。
その力は、天の神々にすら代替不能だという。

そして男は、ようやくそれを見た。
回廊の奥、火の明滅の向こう側。
ひとりの女が、待ち構えるかのようにそこに立っていた。

「あれが……」

磐永阿梨夜。
恒久の力を持つという「石の女神」。

巨大な骨の翼と尾を持つその異形の姿は、禍々しい威圧感を放つ。
骨の翼に張られた黒紗のような皮膜には、無数の「目」が辺りを睨め回すように蠢いていた。

話には聞いていたが、あれでは神と言うよりまるで──

男はそこで一度言葉を失いかけ、咳払いで無理に繋げる。
ごほん、とひとつ咳払いをして、男はその神に語りかけ始める。

「噂に違わぬその特異なお姿、貴方が磐永様ですね?」
「こんな地の底の国にいらっしゃるものですから、探すのに手間を取ってしまいましたよ」
男は、丁寧に整えた声でそう告げた。

「……その鎧、高天原の者だな」
「常日頃、穢れがどうだののたまう連中が、よくもこんな真似をしてくれたものね」
返って来た声は、地の底で唸る風そのものだった。

「……ああ」
「この程度の穢れ、さして問題ではありませんよ」
肩を竦めるように、男は言う。
──自分が何を問われているのかすら、理解の出来ぬまま。

穢れ。
天の神々の最も厭う物。
今や死の匂いに包まれたこの王宮にも色濃く満ちているが、男の身に付ける装備にはそれを跳ね退けるだけの力はあった。

「高天原の──『都』の高官達は、貴方を迎え入れたいと考えておいでです」
「安寧の象徴たる『いわ』の化身、恒久の世を築くことすら出来るという優れたお力。こんな蛇共の元で腐らせるなど勿体のない話」
「私も都ではそれなりの地位に居る者です。共に来て頂けるのなら、貴方に相応しい身分を御用意致しましょう」

「……随分と、巫山戯た言い分ね」
「私は……この姿を見ても『特異』なんて言わない、この国の人達が好きだった」
「安寧? 恒久? そんな物、お前達にくれてやるものか」
押しても動かぬ巨石のような、拒絶だった。

「たとえ世界がお前の所業を忘れようとも、このいわおは決して許しはしない」
「己が振り撒いた穢れに喰われるがいい」

阿梨夜がそう口にした途端、王宮に満ちていた「穢れ」が、自らの意思を得たかのように、男に向かって這い寄りだす。
──その様子はまるで「蛇」さながらだ。

「ひっ!?」

「お前は、天には帰れない」

「こっ……の……っ! こちらが下手に出ていれば!」
「醜い怪物が! 稀有な力を持つからと付け上がるなよ!!」
男の叫びと共に振り下ろされた刃は、しかし女の身を切り裂くことは出来ずに、へし折れ跳んでいく。

「な……っ!?」

「あんたが言ったんでしょ、『巌』の化身って」
「そんななまくらで『巌』を傷付けられると思ったの?」

「なまくら、だと……?」
男の身に付けた物は、剣に鎧、装身具のぎょくのひとつに至るまで、高天原でも指折りの工芸神達が誂えた、文字通りの神の御業の代物だ。

それをなまくらと……目の前の怪物は事も無げに言い切る。

そうしている間にも、男を囲む「蛇」達は数を増していく。

折れた剣を手に呆然とそれを眺めると、男に最悪の想像がよぎる。
──この女の前では、この鎧も、玉も、何の意味も成さないのではないか。

「くそっ、くそ……っ!」
男はたまらず駆け出すが──引き返そうとした回廊の壁すら、今や「蛇」が黒く蠢いていた。

「あ……うぅぅ……ええい!」
意を決して、黒い回廊を駆け抜ける。
どの道、他に逃げ場は無い。

「……今は逃げるがいいわ、傲慢な罪人よ」
「お前が自分の運命を悟る時、本当の絶望がお前を捕らえるでしょう」



あれから、どれだけの月日が経っただろう。
すっかりその輝きを失った、泥と錆に塗れた鎧を引きずるように、男は国津神達の領域──葦原の地をさ迷っていた。

維縵国の王宮で、「蛇」の群れに呑まれた男は、しかしその命を失うことは無かった。
だが男が穢れに染まったと見なした高天原は、彼の帰還を拒絶した。
奇しくもそれは、阿梨夜の予言と同じ結末だった。

(あのっ……薄情者共め……!)

都に入れなくなることまでは覚悟していた。
たがまさか、自分のような身分の者が使い捨ての駒のように地に捨て置かれるなどとは……。

──お前は、天には帰れない。

あの異形の女の残した言葉が耳から離れない。
物言わず道端に佇む岩が、石が、あの女の目として見張っているような気さえした。

……喉の奥が、貼り付くように疼く。
高天原では感じたことの無いような、強烈な渇きが男を苛んだ。

「何だ……この苦しみは……」
ふらつく身体をどうにか動かし、森をさ迷った先で、男は日の光に照らされ輝く何かを見つける。

──泉だ。

男は本能的に泉に駆け寄ると、浴びるようにその水を飲む。
そうしてやっと生きた心地を取り戻すと、徐々に平穏さを取り戻していく水面の、そこに写る己の顔が目に入る。

その目元には、長い放浪によるやつれというだけでは説明の付かない皺が刻まれていた。

(老いている……? この俺が……!?)

それは、男が神性を失いつつある何よりの証だった。

「あぁ……あ……ああああああ!!」
「都」があれほどまでに穢れを疎む、その本当の意味を、男はこの時初めて理解したのだ。



​「……俺は、ここで朽ちるのか」

​飢えと渇き、そして阿梨夜にかけられた「決して許しはしない」という呪いの言葉が、じわじわと彼の精神を削っていく。

意識が朦朧とし、春の陽光が差し込む野原に倒れ伏したその時。

​「……あら、大変」

​鈴を転がすような、清らかな声が聞こえた。

薄れゆく視界の端に映ったのは、満開の桜の花びらよりも鮮やかな、桃色の衣を纏った美しい乙女。

​「こんなところで、どうされたのですか?」

​差し伸べられた手は、驚くほど白く、柔らかかった。
高天原の神々さえも霞むほどに瑞々しく、可憐な彼女。

​それが「花の女神」──佐久夜との出会いだった。



その後男は、佐久夜が父親と共に暮らす山の館に連れ帰られて献身的な看病を受けた。
人生の全てに絶望していた男は深く感じ入り、身体が回復したある日とうとう佐久夜に求婚する。

「……わたくしが結婚すると聞けば……姉様あねさまも、帰って来てくださるでしょうか」
しばらく考え込んだ佐久夜が、やっと零したのはそんな言葉だった。

「姉?」
佐久夜には姉妹が居たのか。
まあ、然程意外なことではないが。

「ええ、もう六十年にもなるでしょうか……ふらっと姿を消したきり、ずっとお会いしていないのです」
そう言って瞳をふせる佐久夜からは、深い悲しみと寂しさが伺い知れた。

堪らず、男は両の手で佐久夜の手を取り、その目を見詰めて語りかける。

「……こんなに美しい妹の晴れ姿だ、きっと見逃すのを惜しんで、一も二も無く飛んで来てくださるさ」

「義姉上にも、俺達の門出の姿を見ていただこう」

それを聞くと花の姫は、答える代わりにほころぶように微笑んだ。

彼女とならば俺は、この地でやり直せる。
この時の男は、心からそう思っていた……。


■第一章

婚礼の日、館には佐久夜の縁者である国津神達が押し寄せていた。

「いやぁ、佐久夜様もとうとう御結婚ですか」
「どんな美丈夫に言い寄られてもなびかなかったあの高嶺の花が!」
「なんでも婿殿は高天原のお方だとか……」
「ほう! 高天原の!」

耳に入る会話に、思わず身が固まる。

「あやつらと袂を別かってからもう随分になりますが……。いやはや! こうしてまた縁が結べるとは、きっと良き兆しに違いありますまい!」
「奴らとは色々ありはしましたが、元はと言えば父母を同じくする兄弟姉妹。また仲良く出来るのなら何よりでございますな」

地の神達の余りに呑気な会話に、視線を伏せる。
……とうに高天原から切り捨てられたこの身を、そうとも知らずに「縁者」として迎えようという彼ら。
それに縋りたくなるような気持ちもあるが──胸を刺す、言い様のない痛みがそれを拒んでいるようだった。

ふと、広間の入り口からどよめきが上がる。

「あれは……」「戻っていらしたのか」

釣られてそちらを見て──息が、止まる。

道を譲るように割れた国津神達の間を、大きな翼と尾を持つ女が進んで行く。
今は黒紗の皮膜の見えないその骨の翼は、それでも尚、禍々しい威圧感を放っていた。

──磐永阿梨夜だ。

「相も変わらず、凄みのある御姿だ」「お戻りになられたのか」「そりゃあ、お帰りにもなるさ。なにせ……」

何故、何故あの女がここに居る?
確かに国津神だということは知っていた。だが──
ずっと地の底にいるものだと、何処かで決めつけていた。

女の視線が、真っ直ぐにこちらに向けられる。
涼やかなその表情からは、感情は伺い知れない。

「……! あっ……ぁ……」

恐怖と混乱で、男の思考が今にも途切れそうになったその時 ──隣で、弾むような声が上がった。

「姉様! 帰ってきてくださったのですね!」

──姉様?

男の隣に居た花嫁は、弾かれたように席を立つと人波の先へ駆け出した。
国津神逹も一斉に道を開ける。誰ひとり、それを妨げようとする者はおらず、微笑みながら見送る者達すら居る。
そうして怪物の元に辿り着くと、花嫁はその胸に飛び込むように抱き付いた。

「ああ、佐久夜。久しぶりね。……結婚おめでとう」
そう言って微笑むその女の声は、あの国で対峙した時とは別人のように穏やかだった。

「あぁ……ああ……っ。夢では、夢ではありませんよね……?」
一方の佐久夜は、今にも泣き出さんばかりに声を震わせていた。

「相変わらず大袈裟な子ねぇ」
苦笑するように、女は佐久夜へと語りかける。

……段々と、男の中でも断片同士が繋がっていく。
それは理解でも納得でもない、ただの拒絶に近い認識だった。
「嘘だ……」
最も受け入れがたい現実が、徐々にその輪郭を確かにしていく。

「おお、目出度い! 姉妹の麗しき再会ですな!」



「姉様! あのっ!」
姉の腕の中から離れた佐久夜は、姿勢を正すとやや緊張した面持ちで切り出す。

「この、装束……父様が本日の為に仕立ててくださったのです」
一片の汚れもない、純白の婚礼衣装。
それを見てもらおうと控えめに手を広げる。

「どう、でしょうか……?」
佐久夜は、おずおずと姉の顔を伺う。

「ええ、似合ってる。……綺麗よ、とっても。ふふっ、葦原一の花嫁ね」
実際それは、姉の欲目を差し引いたとしても、とても美しい花嫁姿だった。
葦原でも指折りの美女と名高い、花の女神の晴れ姿。
その場の誰もがその美しさを称賛していたことだろう。

それでも佐久夜にとっては、姉からの賛辞は格別な意味を持っていた。
ぱぁっと、満開の花のような笑みが妹の顔に満ちるのを、阿梨夜は目を細めて見詰めていた。

「長い間、お姿が見えませんでしたが、一体どちらにいらしていたのですか?」

「……初めは、御婆様の所にでも行こうと思っていたのだけれど」
阿梨夜の視線が、僅かに伏せられる。

「その道中で、思いのほか心地の良い場所を見付けてしまってね。少し長居してしまったわ」

「心地の良い場所……?」
佐久夜の顔には、わずかな不安が滲む。

「……ええ、とても良い場所よ。人も穏やかで、流れる時間も長閑な……」
懐かしむように目を細めながら、ふと流した視線が男を捉える。

「……っ!」
目を逸らすことは、出来なかった。



「……そちらの娘は何者ですか?」
阿梨夜の後ろに控える、侍女、と捉えるには些か華の過ぎる娘に気付き、佐久夜が尋ねる。
美しい白髪に赤い瞳の──白蛇を思わせる容貌の少女だった。

──男には、その顔に覚えがあった。
あの日、王宮で手にかけた王の娘達。
髪の色こそ違うが、目の前の娘の顔立ちは彼女達によく似ていた。

「私が世話になった国の王女です。名をユイマンと仰います。今は配神として私の神社で暮らしていただいています」
阿梨夜に促されて前へ出ると、ユイマン王女は緊張した面持ちで礼をする。

「ふぅん……」

「佐久夜?」

「……長い間私を放って、そんな娘の元にいらっしゃったのですね」



「まさか佐久夜の婿があの男だとはね」
「阿梨夜、私やっぱり……」
神々による盛大な宴が始まる中、王女は阿梨夜に言い淀む。

「……大丈夫ですよ、ユイマン王女」
そう言って優しく微笑むと、阿梨夜は王女の腰をそっと抱き寄せる。
「どうか、私の傍に居てください」
「あの男には、何も出来はしません」

「……」
それだけではない、などと言うことは王女には出来なかった。
阿梨夜の妹が主賓の席からふたりに向ける、刺すような視線に、王女だけが気付いていた。



「……私の為に帰ってきてくださったと思ったのに」
「結局、あの娘を連れ帰る手筈が整ったからお戻りになられただけなのですね」
宴の主役であるはずの花嫁は、子どものように顔を背けていた。

「まだ拗ねていたの? 貴方が思うような話じゃないのよ、佐久夜」
何処にでも居る姉のように、阿梨夜は妹を諭す。

「あの方にも事情があって、故郷で暮らしていくことが出来なくなってしまったの」
「それで、私の山に共に来ていただいたのよ」
淡々と説明するその様子は、相手が理解してくれると疑わぬかのようだった。
そこには迷いも、後ろめたさも見当たらない。

それが、佐久夜にはどうしても届かない。

「結局、その娘の為にお戻りになったことに変わりはないではありませんか……」
佐久夜の声が、泣き出しそうな色を帯びはじめる。
それでも、言葉だけは途切れなかった。

「それに、配神ですって……?」
「幾千年もの間、誰に気を許すことも無く生きてきた、姉様が、そんな特別扱いをすることもあるのですね」

「はぁ……全く、相変わらずの甘えたなんだから」
「貴方にとって、これは晴れの日なのでしょう? いつまでも臍を曲げていてどうするの」
阿梨夜の対応は、何処までもありふれた姉としての物だった。
──悠久の時を生きる神には、似つかわしくないほどに。

「甘えた、ですって……?」
佐久夜の声が、上擦る。

「この……っ、この六十年、私は……!」
目を見開き、言葉を絞り出す佐久夜の──握りしめた袖口が小さく震えた。

言葉を返そうとして、阿梨夜の口が一瞬だけ止まった。
流石の姉君も、ようやく妹の様子がおかしいことに気付いたのだろうか。

そんな姉妹の会話を、生きた心地のしないまま聞いていた男の頭に、あの日の妻の笑みがよぎる。
姉に晴れ姿を見て貰えるなら──そう言って、結婚に応じてくれた彼女。

あれは確かに嬉しそうだった。
──そう見えたはずだ。

(言ってやるべきなのか……?)

喉の奥で言葉が形になりかけては崩れる。
この恐ろしい女に向かって、それを。

躊躇いの理由は、恐怖だけではなかった。
言ってしまえば何かが決定的に壊れる、そんな予感があった。

(いや……やめろ)

男は首を振る。
だが一度染み込んだ疑念は、思考の底から離れない。

(……あの笑みは、俺に向けられたものではなかったのかもしれない)



「阿梨夜様は……」
張り詰めた空気を裂くように、控えていた王女が口を開いた。

「王女……?」

「父への恩義から、私に情けをくださっただけなのです」

「ユイマン王女、何を……」
自ら連れ帰った王女の思いがけない言葉に、阿梨夜は困惑の声を上げる。

だが王女は小さく目配せして阿梨夜に首を振る。
──今は、庇うようなことは言わないで。

「私は最初から、そういう立場の者です」
「決して、決して御姉妹の仲を邪魔するようなことはいたしません」
「ですのでどうか……」 



「阿梨夜! 戻っていたか!」

冷徹に王女を見下ろす佐久夜がその口を開きかけた瞬間、広間に雷が落ちるような大声が響く。
その場の者達が振り返ると、そこには豊かな髭を蓄えた大男が立っている。
彼こそは阿梨夜と佐久夜の父である、偉大な山神だ。

「父様! 久しく顔をお見せしなかったこと、申し訳無く思います」

「構わぬ構わぬ! この目出度い席でこうして姿が見れたのだ、これ以上のことなどなかろうて!」
阿梨夜の肩を叩きながら山の神らしく豪快に笑う父だったが、やがて傍らの王女に視線を移して尋ねる。

「して、阿梨夜よ。そちらのお嬢さんの紹介はしてくれぬのか」

「ああ、失礼しました父様。この方は……」
そう言って、先程妹にしたものと同じ紹介をすると、得心したとでもいった風な態度で父は言う。

「なるほどなるほど……いや道理で、どんな縁談を持って来ても首を縦に振らない訳だ」

「ちょっ……父様、何を言い出すおつもりですか」

「よいよい、皆まで言わせるな娘よ」
「私は、誰に対しても何処か距離のあったお前が、そうも心を許せる者に出会えたことが嬉しいのだ」

「王女よ、どんな事情があったか、私から詳しくお聞きすることはすまい」
「だがどうか、この葦原に居る間は私のことを父と思ってくだされ」

阿梨夜は彼女としては珍しく──極めて珍しく、僅かに照れたように視線を逸らす。
その仕草は、誰の目にも分かり易いものだった。
──だからこそ、佐久夜には耐え難かった。

(姉様は……そんな顔も、するのですね)

胸の奥が軋むように痛む。
自分に向けられたことのない種類の表情を誰かに向ける姉を、初めて見てしまった瞬間だった。



宴も終わりを迎え、人もまばらになった時間、かつての仇敵は再び言葉を交える

「まさか、佐久夜の結婚相手があんただったとはね」

「お……俺だって、知らなかったんだ! お前の妹だなんて!」
「知っていたら……」

「知っていたら……?」
周囲の空気が、冷え込んだ気がした

「その程度の心積もりで、あの子に言い寄ったって?」
「……お前が残りの命をこの地ですり減らすというなら、それもいいだろう」
「けれどもし……あの子やこの葦原の民を傷付けるのならば、もう容赦はしない」

「……っ! うっ……うぅ……」


■第二章

宴の終わった夜、阿梨夜は館に残されていた自分の部屋で、ユイマン王女と穏やかな時間を過ごしていた。

「久しぶりに帰るからどうなってることかと思ったけど、掃除はしてくれたみたいね」

かつて彼女の大きな翼と尾の為に誂えられた、特別製の寝台の上に用意された真新しい寝具を確かめながら、阿梨夜は言う。

「久しぶり……」
六十年。
そう、あの妹君は言っていた。

それ程の年月も、この方にとっては「久しぶり」の一言に収まってしまうのか。

王女は周囲を見回す。
部屋は隅々まで埃ひとつ無く、調度品もよく手入れされている。
それは昨日今日になって急に片付けられた物ではない。
……この部屋の主の帰りを待つ誰かが、丹精に掃除をし続けていたのだろう。

「……阿梨夜」
王女は、自らを連れ帰った「巌」の神に向き合うとその名を呼んだ。

「明日になったら、もう一度妹様と話し合って」
「それで……ずっと留守にしてごめんって……ちゃんと言ってあげて」

その語り口は何処までも真っ直ぐだった。
配神という立場は、このふたりにとって上下の別を付ける物ではない。

「王女……」
「阿梨夜だって、妹様を傷付けてしまったことには気付いてるんでしょ?」
「それは……」

昔からこういうことはあった。
阿梨夜は時折、妹の言葉に込められた物の重さを量り損ねる。
当人に悪気は無い。ただ彼女にとっては、受け流せる程度の感情だった。

「……分かりました」
「明日になったら、あの子にちゃんと謝ります」
「……ごめんなさい、貴方にまで気を遣わせてしまった」

「阿梨夜……ううん。いいの、私のことは」
「ちゃんと仲直り、出来たらいいね」
そう言って王女は、屈託の無い笑顔を阿梨夜に向けた。



夜の闇の中、寝台の上で阿梨夜は静かに過ごしていた。
睡眠を必要としない「巌」の身の阿梨夜にとって、夜とは周囲の──風の音や虫の声、そして今では、傍らの王女の寝息に耳を澄ます時間だった。

(ここから聴こえる音は……変わらないな)

人並みの郷愁に耽り、物言わぬ石のように暗闇に溶け混みながら、阿梨夜は今日一日の出来事を考える。

あの広間で再会した時の妹は、本当に幸せそうだった。
相手があの男だというのは、どうにも受け入れがたい気持ちはある。
だがあれから父神にこんこんとふたりの馴れ初めを聞かされるうちに、ふたりが想い合っていることも、あの男が対峙した時のような傲慢さを失いつつあることも、事実としては確からしいと分かっていく。

(佐久夜……)

怒りに震えながらこちらを見詰める妹の様子を思い出す。
どうにも自分は、あの子の気持ちを軽く扱い傷付けてしまう。

あの男なら、それを受け止めてやれるのだろうか?

──答えを急ぐ必要は、無いのかもしれない。

阿梨夜が自身の思考にひとつの区切りを付けようとした時、夜の静寂の中に異変が現れた。

ズズ……ッ

闇の中で、部屋の戸の開く気配がする。

「……何者だ?」

返事は無い。
代わりに、後ろ手で戸を閉める音が、ストンと響く。

「……」
招かれざる客に、阿梨夜は寝台から身体を起こし、隣の王女を庇うように身構える。

「姉様」
思いがけず聞こえた見知った声に、つい気が弛み──

──花の香りと共に、何かが唇に触れた。

理解が追いつく前に、軽い衝撃と共に身体の自由を奪われる。
胸に飛び込んだ熱は、何処か覚えがあるような気がした。
暗闇の中で見下ろしてくるその顔が、徐々に輪郭を結んでいく。

「……佐久夜!? 一体何のつもりで……」

「しっ……」
口元に指を添え、佐久夜は微笑む。
「お静かに。貴方の可愛い王女が、目を覚ましてしまいますよ」

「……花嫁が、こんな所に居ていいの? 貴方の夫は……」
「あの人なら、今頃暢気に眠っていますよ」

「知りたくなったのです。夫との夜を迎えたからこそ──姉様と同じことをすれば、どんな気持ちになるのか」
その言葉は、妙に穏やかだった。
佐久夜は、ゆっくりと寝着に手を掛ける。

背筋を、嫌な汗が伝う。
──この子は、何をしようとしている?

「佐久夜、落ち着いて。貴方は今冷静じゃない」

「……」
「姉様に比べれば、冷静な者など居はしないでしょうね──」
しゅるり、と布の滑る音がした。
身体に覆いかぶさるその熱が、先ほどよりも近い。

「姉様だって、どうせそこの王女とすることはなさっているのでしょう?」
「でしたら──私にも、御慈悲を分けてくださってもよいではありませんか」
暗闇の中で、血を分けた妹が妖しく微笑む。

「私達は……別に、そんなんじゃ……」

「あら? そうなのですか? 王女様も御可哀想にね」
「でも良かった」
「誰も知らない姉様の顔がまだ残っていて」



王女は、自らの背中越しに聞こえてくる異常な会話を、声を押し殺して聞いていた。
(妹様……!? どうして……)

どうして。
そんなことは、今や王女にも分かりきっていた。
佐久夜の言葉の端々から滲み出る、自分に向けられる敵意と嫉妬。
この方が阿梨夜に抱く感情は、妹としてのそれではない。

(私のせい……?)
私が、阿梨夜と共にこの館に来たから、この姉妹の関係は壊れてしまったのか。
絶望と恐怖で震えそうになる身体を、必死に抑える。

今、目を覚ましていたことがふたりに知られれば……何かが決定的に壊れてしまう気がして。



寝台の上で、小さな衣擦れと押し殺した息遣いだけが暗闇に滲む。
王女には、目を閉じていても分かった。
触れてはいけない何かが、今、自分のすぐ背中側で静かに育っていく。

不意に漏れた阿梨夜の声に、王女の背筋が強張る。
聞いてはいけないものを聞いてしまった──そんな感覚だけが確かだった。

「姉様は」
「こんな状況でも、私を傷付けることは出来ないのですね」
「受け入れてくださった……そう思って構わないのでしょうか?」

「ちがっ……!」

ギシッ……
寝台の軋む音と共に、その揺れが王女にも伝わる。

「……っ」

「分かりますか? 姉様」
声音が、熱に浮いている。

「私、今、こんなに鼓動が高鳴っているのです」

「姉様だって……ほら」



……衣擦れの音が収まり、部屋には乱れた息の音だけが残る。
口にするのも憚るような何かが、暗闇の中で形を成してしまった。

「佐久夜」
震える声で、阿梨夜は妹の名を呼んだ。

「こんな状況で言っても、貴方には届かないかもしれないけど……私は、貴方を大切な妹だと思っている」
「それは今この時にだって、変わらない。だから……」
続けるべき言葉が何なのか、阿梨夜にも分からなかった。

「……これだけのことをされて、おっしゃるのがそれですか」
「姉様は……何処までも変わりませんね」
そう零した妹の声が寂しげに聞こえたのは──私の願望なのだろうか。

「……帰ります」
「身仕度をしなければ……夜が明けますので」

「佐久夜……」



「……何処へ行っていたんだ」
佐久夜が寝所へ戻ると、夫は灯りも付けずに寝台に腰かけていた。

「……あら、起きていらしたのですか」
「心配なさらずとも、夜半に目が覚めてしまったので、水浴びをして来ただけですわ」

「それなら、いいが……」
そう言って自らを納得させる夫は、すぐに妻の身体に覚えの無い痣があることに気付くこととなる。



「……おはよう、阿梨夜」
鳥の囀りが聞こえ始める頃、王女は意を決して眠るふりを終えた。

「ああ、王女……おはようございます」
返事に、力は無い。

「……大丈夫? 何だか、顔色が悪いけど……」
まるで何も知らないかのように、王女は振る舞う。

「……久しぶりの長旅で、気疲れがでたのかも知れませんね」
「心配は、要りませんよ」
阿梨夜は笑おうとしたものの、口元は僅かに歪むだけだった。

「阿梨夜……」

「……少し、水を浴びて来ます。その間、誰か訪ねて来ても戸を開けないようにしてください」

「あっ、水浴びなら私も一緒に……」

「……今日は、ひとりで行かせてください……すみません……」
そう言って戸の向こうに消えて行く背中は、何時になく小さく見えた。

「……」
「最低、だよね……」
ひとり残された部屋で、王女はぽつりと声を零した。

「阿梨夜はあんなに傷付いてるのに、私、私……」
「私が……同じことをしたら、阿梨夜は受け入れてくれるのかな、なんて……」
耳に残る音が、望まぬ想像を育てていく。



(私は……一体何処で間違えてしまったのかしらね)
流れ落ちる冷水を頭に浴びせるまま、阿梨夜は自問する。

これまでの妹との関係は、決して悪いものではなかったはずだ。
……少なくとも阿梨夜の認識する限りでは。

昔から他者に対して距離を取る癖のあった阿梨夜にとって、佐久夜はそんなこともお構い無しに懐いて来る可愛い妹だった。

(もう、あの頃の関係には戻れないのか……)



水浴びから戻った阿梨夜の、その顔が青白いのは冷えた身体のためか、はたまた別の理由か。

「あっ、阿梨夜、おかえりなさい」
努めて明るく、王女は阿梨夜を出迎える。

「王女……」
「貴方は、神社へ帰るべきだ」

「……帰るなら、貴方も一緒に」

「私は……あの男を見張らないと……」
「……あいつは、貴方の父君に姉君達……あの国の民達、皆の仇です」
「貴方まで、その近くに居る必要はありません」

「そんな……」
こんな状況で、この館に彼女を置いて行く……?

「私は……」
昨日の夜の、阿梨夜が漏らした声が頭から離れない。

「阿梨夜……やっぱり私……私は、貴方の隣に居たい」
慎重に、言葉を選びながら王女は言う。

「貴方が傷付いた時は支えたいし……重荷に崩れそうな時は……抱きしめて、あげられたら……って……」
その言葉に、濁りが混ざることに怯えながら。



「ユイマン王女……」
王女から向けられた真っ直ぐな言葉に、何故だか阿梨夜は、急激に肩身の狭まるような気持ちを覚える。

──貴方の隣に居たい。
そんな風に言ってもらう資格があるのか? 今の私に?

思わず阿梨夜は、王女から顔を背ける。
……彼女の目を、見ることが出来ない。

「阿梨夜……?」

天すら恐れる「巌」の化身が、今は蹴れば転がる小石のようだった。



「……」
それから数日が経った夜。
主の不在の部屋で、王女はひとり膝を抱えていた。

結局ふたりは揃って山神の館に留まることを選んだが、あの日以降、阿梨夜が王女の隣で夜を過ごすことはなくなってしまった。
ひとりで過ごすには広すぎる寝台の上で、王女はどうしようもない寂しさを抱える。

「……私ってまた、自分のことばっかり……」
そう思った瞬間、その寂しささえ自分勝手なものに思えて、胸の奥が重く沈む。

「阿梨夜……」
夜は、まだ長い。


■第三章

季節がひとつ進む頃、阿梨夜は妹の部屋へと招かれていた。

「ほら、姉様。私、懐妊致しました。あの夜の子ですよ」
そう言って自らの腹を撫でながら微笑む佐久夜は、ありふれた母親の姿のように見える。

「言い方……」
あの夜。
夫との初夜を終えたその身で、妹が自分の寝所へ押しかけてきたその日を思い出し、阿梨夜の身体がわずかに強ばる。

──私を困らせたいにしても、その冗談は悪趣味過ぎないか。
そう考えている阿梨夜の後ろで、王女は言葉も無く青ざめている。

王女は今の阿梨夜を、妹君とふたりきりにはさせたくなかった。
さりとて口を挟むことも出来ず、ふたりのやり取りをただ見守ることしか出来ない。

「ふふっ……そんな恐い顔をなさらないで、姉様もこの子を撫でてやってくださいな」

「なんで私が……」

「あら? 姉様の『石』の力は『安定』の力。薬師様が仰るにはどうにもこの子……いえ、この子達は多胎だそうで。あやかれるのでしたら、不安の多い身重の身としてはこの上無いことですもの」

「……分かったわよ」

「ぁ……」
王女が何か言いかけるが、結局声にはならない。
阿梨夜は妹の膨らみ始めた腹へ、恐る恐る手を添えた。

「……動いてる」
掌に伝わる熱と鼓動。そこに紛れる新しい命の気配。
その瞬間まで胸にあった嫌悪は、不思議と霧散していく。

「……耳も当ててみますか?」

「……」
促されるまま、阿梨夜は妹の腹に耳を寄せた。

「……居た」
頬に触れる熱と、内側から響く鼓動。
阿梨夜はただ目を閉じ、それに耳を澄ます。

(本当に、この中に居るんだな……)

「……無事に、産まれて来て欲しいな」
気づけば、そう呟いていた。

その言葉に一瞬目を見開いた佐久夜は、満足そうに目を細め、そっと姉の前髪を梳く。
そして、王女へと一度だけ視線を流した。

身を強ばらせる王女を置き去りに、姉妹の間には不思議なほど穏やかな時間が流れていく。
その様子を、物陰から妊婦の夫がじっと見詰めていた。



「……本当に、俺の子か?」
馬鹿なことを、口にした。
佐久夜が実の姉にどれだけ異常な執着を抱いているとして、相手は女だ。
俺は一体何を恐れている……?

「……貴方様の御子でないとしたら、どなたの子だと考えておいでなのです?」
不躾の極みとも言える問いに、新妻はそれでも悠然と微笑み、問い返す。

「俺は……俺はただ……」
男には、その笑みから妻の真意を読むことは出来なかった。



火鉢の熱に当たりながら、佐久夜は自らの腹をそっと撫でる。
思い返すのは、あの時触れられた姉の頬の温もりだった。

(あぁ……姉様……)
(あれほどのことがあってもなお……貴方の純真さは、少しも損なわれない)
腹に伝わる微かな重みを感じながら、佐久夜は胸の奥が締め付けられるのを覚える。
そこにあるのは喜びではなく、どうしようもない焦燥だった。

──分かっているのだ。
あの鈍重なほどの「純真さ」こそが、自分の願いを遠ざけるものであることを。

「姉様……」

佐久夜は自らの身体を抱くように身を丸める。
まるで今そこに居ない誰かごと抱きしめるかのように。

火鉢の火が、その焦燥に呼応するようにごうっと膨らんだ。



それからまた季節は進み、佐久夜は臨月を迎え、産屋へと身を移していた。
ふとした拍子に、あの夜、夫が震える声で投げかけた問いを思い出す。

──本当に、俺の子か。

その疑念が示す先が真実だったのなら、どれほど救いだっただろう。

この子達を宿した──あの日の夜。
姉が共に堕ちてくれなかった時点で、彼女に届く手は断たれていたのだ。
──真の意味で「巌」を穢せる者など、何処にも居はしない。

「それでも、私は……」

言葉の先は、産屋の熱に溶けていく。
周囲の灯りの火が、じわじわと強さを増していることに、まだ佐久夜は気づいていない。


■第四章

空が、赤く染まっている。
冬の夜だというのに、その場所は異様な熱気に包まれていた。

「あれって産屋じゃ……」
ごうごうと燃え盛る家屋を目の前に、阿梨夜は立ち尽くす。

「阿梨夜様!」
佐久夜の侍女が、阿梨夜の姿を見て駆け寄る。

「佐久夜様が……佐久夜様がまだ中に……」

「佐久夜が……? なんで誰も助けない!?」
燃え盛る家屋を目の前にして、阿梨夜が妹の夫の胸ぐらをつかんで叫ぶ。

「……助けられるものか。あの女は狂っている……お前も同じだ……」

「……っ!」

突き放すように男を解放すると、阿梨夜は地に腰を付けたその姿を一瞥した。
そして次の瞬間には、躊躇いもなく踵を返す。

「阿梨夜!」
王女が止める声も聞かず、阿梨夜は火の中に飛び込んで行った。



「佐久夜っ! 佐久夜——っ!」
妹の名を叫びながら、阿梨夜は火の中へと踏み込んだ。

これが普通の火ではないのは一目で分かっていた。
佐久夜の情念そのものが薪としてくべられた、神の火。

その熱は今や、不変であるはずの「巌」の身すら焦がし始めていた。

(私でこんなになるなら、あの子なんて……)

脳裏に、最悪の想像がよぎる。
同時に、これまで見てきた妹の顔が、濁流のように押し寄せてきた。

──私を傷付け、翻弄しようとした妹。
──我が儘を言って、私を困らせた妹。
──私の無神経さに、傷付けてしまった妹。
──幼い頃、ただ無邪気に懐いて来た妹……。

「……嫌だ! あの子が死ぬなんて!」



産屋の奥で横たわる佐久夜もまた、己を取り囲む火の正体に気が付いていた。

(私はずっと……何かに身を焦がされるような心持ちで生きてきた気がするわ)
だがまさか、その火に本当に焼かれる日が来るとは──皮肉でしかない。

──無事に、産まれてきて欲しいな。
いつかの日に姉が零した言葉を、佐久夜は思い出していた。

「……ごめんなさい」
腹を抱えながら、そう呟く。
その言葉が誰に向けられたものなのかは、自分でも分からない。

──その時だった。

「……っ、こんの……馬鹿妹! 子供まで巻き込んで何やってるのよ!」

「姉様……!? お顔が、お顔が……」

火を裂くようにして現れた阿梨夜の半身は、すでに痛々しく焼けただれていた。

「顔……? そんなこと、今はどうだっていい!」

「巌」を本質とするその身にとって、肉の痛みは致命ではない。
だがそれでも、一度焼けたものが戻らないことだけは、他と同じだった。

「……私にとってあんたは、妹ってだけで特別なのに、どうしてそれが分からないのよ」
跪き、妹の傍らに手を伸ばす。

「姉様……」
「私、私は……それでは、満たされないのです……」
絞り出すような声とともに、一粒の涙が落ちた。

「佐久夜……」

阿梨夜は言葉を失った。
それでも、何かを言わなければと口を開くが──

「……うっ……ぁ……!」

「佐久夜!?」

呻き声とともに身をよじる妹を見やると、そこではひとつの命が世に産まれ出ようとしていた。

──ここで産ませるしかないのか。

「……佐久夜、佐久夜! しっかりして!」
「私が……私が付いてるから……」
そう言って阿梨夜は妹の手を握り、今なお燃え盛る火から守るように黒い翼を広げる。

「あぁ……姉様……」

燃え盛る火のただ中で、二つの影が重なる。



空が白み始める頃、産屋をすっかり炭にすると火はようやく治まった。
誰もが諦めを抱き目を背ける中、燻り続ける煙の向こうに影が動く。
ずたぼろになった阿梨夜が、妹とその子供達を抱えていた。

「阿梨夜……傷、傷が……手当てしないと……」

「……私のことは構いませんので、佐久夜と子供達をお願いします」
「大丈夫ですよ、見た目ほどは酷くありませんから」

「阿梨夜……」

男には、最早自分がどんな感情でその光景を眺めているかも分からない。

──いっそ全て灰に帰してくれていたら。

そんな考えがよぎり、慌てて首を振る。


■第五章

王女は阿梨夜の顔に巻かれた包帯をゆっくり解く。
そして、その下に現れたものに息を止めた。

(やっぱり痕、残っちゃうんだね……)

産屋での火事から数ヶ月、傷も殆ど癒えた阿梨夜の身体には、しかし、波打つような痕がその存在を痛々しく主張していた。

「……そんな顔をなさらないでください、王女。私は見目のことなど気にしていませんから」

「私は……」
王女が気にしているのは、見目のことだけではない。
あの異様な妹君の、あの情念。
その証が、阿梨夜の肌に永遠に刻まれてしまったことが恐ろしいのだ。



「でも良かったよ、佐久夜に怪我が無くて」
「姉様……」

妹に向けられる阿梨夜の声音は、何処までも優しく、甘い響きさえ含んでいる。
あの火事の一件以来、姉妹の間の何かが決定的に変わったのは、周囲の目からも明らかだった。
殆どの者はそれを、自己犠牲から成る美しい姉妹愛と捉え称賛するが、幾人かにとっては……。

(阿梨夜……)
(あんなことをされた相手に、どうして貴方はそんな顔を、声を向けられるの……?)

──寝台へは未だ戻ってきてくれていないのに。
そんな考えを浮かべてしまった自分に気づき、王女は思わず肩を抱いた。

(もう、この姉妹の視界には俺は存在すらしていない……)
火事の前の阿梨夜は、何処か男に後ろめたさを抱いているような素振りがあった。
だがそれも今では、男の見る目もお構い無しにその妻の頬を撫でている。

──あの夜、あの火の外側に居た俺は、それに口を挟む資格を永遠に失ったのだ。



夕暮れ時の館の一室。
本来であれば、客人を迎える為に用意された部屋。
いつしかそこは、人目を避けるふたりだけの場所になっていた。

「姉様……」
佐久夜が、縋るように姉へ身を寄せる。

「……何時も言ってるけど、頬までだからね、頬」
「変なところは、なし」

念を押すようにそう言って、阿梨夜は妹の口づけを受け入れる。
これくらいなら姉妹の甘えの延長だと、自分に言い聞かせながら──

あの火事の一件以来、阿梨夜は彼女なりに妹との接し方に規則を設けるようになった。

この子の中に燻る火は、消そうと思って消せるものではない。
それならば、自分が上手くいなしてやるより他はないのだろう。

──本当にそうなのだろうか……?



右の頬に二度、三度。
刻みつけるように落とされる口づけを、阿梨夜はこそばゆい気持ちで受け止めていた。

ふと、妹の潤んだ瞳と目が合う。

数瞬の沈黙の後、佐久夜は再び目を閉じる。
今度は左の頬へ、波打つ肌に口づけを落とした。

「……頬までとは言ったけど」
「あんまりやらしいのは、駄目」
部屋の空気に耐えきれず阿梨夜が零す。

「……やらしい、とお感じになっているのですか?」
佐久夜の浮かべる微笑みは、かつての狂気に染まったものとは異なり、何処か満ち足りたような幸福な女の顔だった。

「……」
──いらんことを言った。
バツの悪そうに顔を背けた阿梨夜の胸元へ、佐久夜がそっと身を預ける。

「……お慕いしております、姉様」
「うん」
「たとえ貴方が、私を妹としか思っていなくとも」
「……うん」

口づけは、途切れない。
妹の手を、阿梨夜は無言で握り続けていた。



姉妹の「客間での交流」がひと月も続くある日、佐久夜は唐突に切り出した。

「……姉様からも、口づけてはいただけませんか?」
「へぁっ?」

思わず間の抜けた声が漏れる。
動揺を隠すように、阿梨夜は姿勢を正した。

「……何を急に言い出すのかと思ったら」
「だって……何時も私から求めてばかりで」
その声は、何処か不安げだった。

「頬で、構わないのです……ですから……」
今にも泣き出しそうな顔で、佐久夜は姉に縋る。
それはまるで、姉様が構ってくれないと拗ねていた頃の幼子のようだった。

「……あーもう! 分かったわよ、頬だけね頬」

観念したように息を吐いてから、阿梨夜はおずおずと妹の頬へ顔を寄せた。

「ふふっ、ふふふ……」
「……姉様、私幸せです。あの夜よりもずっと……」

ぎこちない口づけをくれた姉の背に、佐久夜はそっと腕を回す。
ようやく掴んだ幸せが、逃げてしまわぬようにと。



火傷を負ってから二年が経つ頃、阿梨夜は左目の周囲を覆うように、石製の仮面を身に付けるようになった。

「まあほら、会う人ごとにぎょっとされるよりはいいかと思って」
あっけらかんとそう言うその声音に、何処まで本心が混ざっているのかは分からない。



それからまた年月は流れ、
冷涼な風の吹き抜ける山神の館には、子供達の笑い声がこだましていた。

「いやはや、あの子らと来たら年々やんちゃになるな」
庭を駆け回る孫達を眺めながら、山神が言う。

「全く、お前が居てくれて良かったぞ阿梨夜」
声をかけられた先では、彼女が孫のひとりを膝に乗せてあやしている。

「何せ初産でいきなりの三つ子だ、佐久夜だけではさぞや荷が重かったことだろう」
「しかしすまないな、お前にも自分の神社があるというのに何年も留めてしまった」

「あー……まあ、私がここに居る理由は色々あるけど」
阿梨夜は子どもを抱き直し、何でもないように言う。
「別にこの子達の相手が苦だと思ったことはないよ」

「この子達は、私にとっても自分の子みたいなもんだからさ」

何の気もなく放ったその言葉に、場の空気がわずかに揺れる。

阿梨夜にとってそれは、火中で生まれた命を守り続けてきた時間の延長だった。
だがこの家でそれを、そのまま受け取れる者は多くない。

「姉様……!」
「姉様からそんな風に言っていただける日が来るなんて、ああ、私は……!」
真っ先に声を上げたのは、子ども達の母親である佐久夜だった。
阿梨夜の言葉をどう受け取ったのか、その瞳は今にも涙を零しそうに潤んでいる。

(ああ、そうか……)
一方で父親であるはずの男は、妻が子ども越しに義姉へ身を寄せるのを澱んだ目で眺めている。
(俺は最初から、この光景に至る為の「道具」でしかなかったのだ)
(それでも……それでもあの日の微笑みだけは……)
求婚の日のあの花のような微笑みを思い浮かべ、男は静かに目を閉ざす。

(貴方は……本気で言っているの……?)
王女は言葉を失う。
あの日、憔悴し切った様子で水場へ向かった阿梨夜と──今、妹に微笑みかける彼女を、どうしても重ねることが出来ない。

──あの夜の子ですよ。
ふいに、いつかの佐久夜の言葉が脳裏に浮かぶ。
王女は、姉妹の姿を直視することが出来なかった。

「はっはっは! そうかそうか! そう言ってくれるか阿梨夜よ!」
「お前にとっても自らその誕生を見届けた甥子達! 増してや、そうも自分を慕う妹の子だ! 可愛くて当然か!」

その場の誰もが、それぞれ別の景色を見ている。
山神の豪快な笑い声だけが、ただ山の空へ響き渡っていた。


■終章

今にも崩れ落ちそうな足取りで、男は自分の部屋へと辿り着く。
ふと目に入った姿見へ視線を向けると、そこには髪に白い物が混じり始めた己の姿があった。

(この館で、俺だけが老いていく……)

いつまでも若く美しい女達に、活力の塊のような義父。
──子供達はどうなるのだろうか?

……きっと、自分達が限りある命と気付いたとしても、そういう物として受け入れていくのだろう。
手にしていたはずの物の、その全てを失った俺と違って。

そんな思考に沈んでいると、不意に背後から声がした。

「随分と、青白い顔をなさっているのね。姉様の仰ることが、そんなに受け入れられなかったのかしら?」

佐久夜だ。
何時になく、勝ち誇った顔をした妻がそこに居た。

「貴方様もご存知でしょう? 姉様の力は恒久の世すらもたらす、巌の力」
そう言って、彼女は一歩ずつ男へと近づく。

「お喜びなさいな」
両の手が、男の頬に添えられる。

「巌に呪われた貴方様の、その御子達が、今や巌の愛を手に入れたのです」
「貴方様の子孫は……この葦原の地でさぞや繁栄することとなりましょう」

恍惚とした笑みを浮かべる妻の、その喜びは何に対する物なのか。
もはや男には、考えることすら恐ろしかった。

──巌に刻む呪い・完
阿求「……っていう話で、新刊は行こうと思うのよ」
小鈴「神子さんに怒られるわよ……」
名無しの異変敵
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