< 序篇 >
―雲一つない晴天。
空では小鳥がさえずり、大地では若葉が芽吹き、梅の木には花がほころび始めている。
寒かった日々が嘘のように、柔らかく暖かい陽気が幻想郷を優しく包み込んでいた。
「春ですよ~」
どこか間延びしたその声とともに、長い金髪を風に靡かせながら、
白いワンピースの少女―リリーホワイトが空を飛んでいた。
春告精である彼女は、幻想郷中を飛び回り、春の訪れを告げて回るのだ。
「春ですよ~…くしゅんっ」
不意のくしゃみに、思わず空中で止まった。
「う~…もしかして、風邪かな?」
鼻をすする。気を取り直し、彼女は再び空を切った。
◆
―人里の寺子屋。
畳の部屋に小机が並び、子どもたちが正座して席に着いている。
教壇に立つのは、青みを帯びた銀髪に帽子を戴く女性―上白沢慧音であった。
しかしその学びの場では、筆の走る音ではなく、くしゃみと鼻をすする音で満たされていた。
慧音は寺子屋の生徒たちを見渡した。
目を真っ赤にし、鼻をすすり、あるいはくしゃみを繰り返す。
中には、かなり重症で、勉強どころではなさそうな者もいる。
(花粉症、か…?それにしても、例年と比べるとあまりにも多すぎるが…)
そう考えるそばから、自身もくしゃみをする。
「あまりに症状がひどくて辛い者は、無理に授業へ出る必要はない。自宅で休んでいいぞ」
そう声を掛けるも、席を立つ生徒は一人としておらず、慧音に視線を向けていた。
「…ふむ。授業の途中でも構わない。遠慮なく申し出るがいい。では、教科書を開いて。
『論語』学而第一からだ」
軽く咳払いをする。気を取り直して、授業を始めた。
◆
―妖怪の山、賭博場。
白い煙がたゆたい、妖しい雰囲気と熱気とが渦巻くその空間では、天狗や河童、山童たちが賭博に興じている。
同時に、そこにはくしゃみと鼻をする雑音も混ざっていた。
(一体、どうなっている…?)
駒草山如は内心で首を傾げた。
煙管から細く息を吐き出し、扇子で口元を覆いながら、思考を巡らせる。
暦は三月。たしかに花粉が飛ぶ季節ではある。
だが、妖怪がこんなに大勢花粉症に罹るなんて、これまで聞いたこともない。
かく言う自分も、目の痒みに耐えかねていた。
そのせいか、賭場の取り仕切りも、チンチロの手さばきもどこか精彩を欠く。
何より、頭がぼんやりとし、判断力も低下している。
(これでは、商売に差し支えるな…)
軽くため息をついた、その刹那。くしゃみがひとつ、こぼれ落ちた。
◆
―博麗神社。
境内には柔らかな陽光が降り注ぎ、暖かい陽気と、芽吹く緑が春の気配を告げていた。
だが、そこに参拝客の姿はいつものごとく、なかった。
「異変?な~に言ってんのよ」
博麗霊夢は布団にくるまりながら、鼻声混じりに不機嫌そうに言い放った。
「でもよ、人里中、花粉症だらけなんだぜ。明らかに異常だろ」
縁側に腰を下ろした、とんがり帽子に白黒衣装の魔法使い―霧雨魔理沙がそう返し、
直後にくしゅんと可愛らしいくしゃみをする。
「たまたま今年は花粉が多く飛んだんでしょ。
それに、こんなしょぼい異変なんて聞いたことないわよ」
霊夢は言いながら、盛大なくしゃみを連発し、ずるずると鼻をすする。
どうやら相当重症のようだ。
「それはそうだけどよ…」
「そんなに気になるなら、あんた一人で調べなさいよ。どっちにしろ、私はこの有り様で外に出れないし」
そう言うと、布団の中に潜り込んだ。
魔理沙は肩を竦め、やれやれと小さく呟くと、箒にまたがり空へと舞い上がった。
「他に相談できそうな奴は…」
頭の中で、心当たりを見繕う。
最初に尋ねたアリス・マーガトロイドは留守だった。となれば―。
< 推理篇 >
―紅魔館の図書館。
埃とカビの匂いが相変わらず鼻につく、悠久の時と知識を蓄えた、薄暗い広大な空間。
「パチュリー、いるか~?」
魔理沙は書斎を訪れ、声を掛ける。
が、いつもはそこに在るはずの魔女の姿はなかった。
「おや、魔理沙さんこんにちは。パチュリー様に御用ですか?」
そこへ、包みを抱えた小悪魔が姿を現した。
「よう、小悪魔。ちょっと相談したいことがあってな…くしゅん!」
言いかけて、くしゃみが出る。
「あぁ…ご用件は、察しがつきました。パチュリー様は自室でお休みになっております」
そう言うと、小悪魔は先に立ち、魔理沙を案内し歩き出した。
◆
そこには、天蓋付きのベッドに身を沈め、静かに横たわる魔女―パチュリー・ノーレッジの姿があった。
傍らの屑籠には、使用済みの丸められたティッシュが山と積まれている。
幾度も鼻をかんだためか、その鼻先は薄っすらと赤くなっていた。
恐らく魔法によるものだろう。本が宙に浮かび、時折、ひとりでに頁がめくれていた。
やがて、控えめなノックの音。
続いて「失礼します」の声とともにドアが開かれる。
「パチュリー様、永遠亭よりお薬を仕入れて参りました。それと、魔理沙さんがお見えです」
パチュリーは言葉を発さずに、視線だけで小悪魔に促す。
同時に、宙に浮いていた本が、ゆっくりとベッドの上に軟着陸した。
小悪魔は水の入ったコップと薬の包みを差し出し、パチュリーはそれを飲み下した。
どうやら喋るのも辛いようだ。
「よう、パチュリー。お前も花粉症か」
魔理沙の軽口に、パチュリーはじろりと睨みつけると、無言のまま小さく頷いた。
「これでようやく確信が持てたぜ。年中、窓もない図書館に引き籠もってるお前が花粉症なんて、おかしいよな」
魔理沙が一人納得したように頷くと、小悪魔もそれに同意する。
「そうなんですよね…。まあ、訪問者の衣服に付着した花粉は多少は持ち込まれているでしょうけれど。
たったそれだけで発症するとは考えにくいですし」
「小悪魔は永遠亭に行ってきたんだろ。様子はどうだった?」
「人間や妖怪たちが薬を求めて、長蛇の列が出来ていました。人間はともかく、妖怪まで…」
「人里も酷い有り様だ。ほとんどの人間がくしゃみと鼻水に悩まされてる。これは、一種の異変なんじゃないか?」
魔理沙はそこで言葉を切ると、パチュリーへ視線を向けた。釣られるように、小悪魔も主人を見つめる。
パチュリーは少し身を起こし、何かを語ろうとする。
だが、不意にくしゃみがこぼれ、それを引き金に激しく咳き込み、言葉にならなかった。
一瞬、小悪魔が駆け寄ろうとするが、それを手で制した。
パチュリーはぜえ、ぜえと呼吸し、息を落ち着かせる。
そして、口の中でなにかをぼそぼそと呟きつつ、指で宙に魔法陣を描いた。
魔法陣の輪郭が浮かび、淡く光る。
すると、コップの水がふわり、と宙に浮かび上がった。
次第に水の塊が空気に溶け込むように消えていき、しばらくすると周囲の空気が急に冷えるのを感じた。
パチュリーが指をぱちんと軽く鳴らすと、宙に光る文字が浮かび上がった。
<―貴方の言う通り、これは明らかに異変の類よ。
博麗大結界は、意思ある者の通行は遮るけれど、音や光、空気、その他物質は素通りさせる。
勿論、スギ花粉も例外ではない。問題はその質と量よ>
魔理沙は思わず目を見張った。
恐らく七曜のうち、水と太陽―水分と光を操り、一旦水を気化し、空気の冷却によって水分を凝結、
そこに光を当てることで文字を空中に浮かばせたのだろう。
「へぇ…器用な魔法の使い方だな」
素直な感嘆が、ぽつりと漏れる。
<この程度、貴方にも出来るはずよ。水の魔法は本来、得意なはず>
再び文字が浮かび上がり、そして消えた。
パチュリーは無意味なお世辞など口にする性格ではないのは承知だった。
魔理沙は僅かに気恥ずかしさを覚え、鼻先を指でかいた。
<空気中の花粉量を測定したところ、通常の数倍の量のスギ花粉が確認された。
花粉自体を顕微鏡で調べてみると、大部分は普通とは違う、巨大な個体だったわ>
文字はしばし宙に留まり、しばらくして消えていった。
「もうそこまで調べたのか。…ってことは、通常の花粉に混じって、
何者かが生成した花粉を意図的にばら撒いてるってわけか。…けど、それだけじゃ―」
魔理沙が言い終えるより早く、再び光の文字が現れる。
<ええ、その通り。それだけじゃ一斉に発症するのは不自然よ。
実験したところ、特殊個体の花粉をほんの少しでも吸い込めば、花粉症と同等の症状が現れた。
これは普通ではない…。恐らくだけど、魔法、または妖怪の能力が関与しているはず。
その正体、および犯人の目的は不明だけれど>
「ふむ…単純に考えりゃ、この状況で得をしてる奴が怪しいってことになるけどな」
魔理沙が腕を組み、思案する。
「となると…永遠亭でしょうか。薬が飛ぶように売れているでしょうし」
小悪魔は少し考え、口にする。
「永琳が金なんて俗世のものに執着するとも、こんな小さな異変を起こすとも考えにくいけどな…」
魔理沙の返答に、小悪魔も小首を傾げ、思案顔となった。
すると、再び文字が浮かび上がった。
<永琳が犯人とは思えないけれど、考える方向性は悪くないと思うわ。
兎たち―鈴仙や因幡てゐが関わっている可能性もある。
…どちらにしろ、他に手掛かりはないのだし、まずは永遠亭周りを調査するといいわ。
私はこの通り動けないけど、幸い、こあには症状が出てない。助手として連れていきなさい>
「ぱ、パチュリー様?!ですが、パチュリー様のお世話は…」
小悪魔が思わず声を上げる。
<別に寝たきりの重病人じゃないんだし、大丈夫よ。
それより、魔理沙に協力して、この馬鹿げた異変を一刻も早く解決して頂戴>
「…承知しました。必ずや早急に解決して、パチュリー様を楽にしてみせます!」
小悪魔が決意を宿した表情で背筋を正した。
「ま、協力してくれるってんなら助かる。よろしく頼むぜ!」
魔理沙は勢いよく小悪魔の肩を叩く。
「は、はい。こちらこそよろしくお願いしますね」
小悪魔はその叩かれた勢いと力強さに苦笑を浮かべつつ、丁寧に一礼した。
胸の中には、自身が役に立てるのかという一抹の不安と、それを遥かに上回る主人への忠誠心で満ちていた。
◆
―永遠亭の正門前。
迷いの竹林の奥にひっそりと佇むその大きな屋敷は、普段の静けさが嘘のように、喧騒に包まれていた。
薬を求める人間や妖怪たちが詰めかけ、長い行列を作っている。
その傍らに、腕を組んで壁にもたれかかっている人物がいた。
美しい銀髪に紅い瞳、精悍な顔立ちの女性―藤原妹紅だった。
「妹紅じゃないか。こんなところでどうしたんだ。お前も花粉症の薬を求めて来たのか?」
魔理沙が声を掛ける。
妹紅が魔理沙と小悪魔の姿を認め、意外そうな表情を浮かべた。
「随分珍しい組み合わせだな…。大勢の人間たちに頼まれてな、永遠亭への道案内をしてたんだよ」
妹紅は、迷いの竹林で迷った人間を出口まで導いてくれることで知られている。
薬を求める者たちが、彼女に頼み込んだのだろう。
「あれだけの人数を案内するなんて初めてだよ。
傍から見れば、さながら団体旅行客の観光ガイドってところだろうな」
自嘲気味に笑った直後、くしゅんとくしゃみが漏れる。
「妹紅さんは、この花粉症について何かご存知だったりしますか?」
小悪魔が尋ねる。
「さあね、こっちが聞きたいくらいだよ。私もこの症状には悩まされてるんだ。
何しろ、花粉症は死んでも治らないからな」
不死の身を持つ彼女の冗談とも本気とも取れない言葉に、魔理沙と小悪魔はどう反応すればいいかと顔を見合わせた。
(まさか、本当に一度死んで試したんじゃ…?)
小悪魔が一瞬、頭の中で想像し、すぐ頭を振って打ち消した。
「…永遠亭の連中に聞き込みに来たんだろ?中にいるから、会ってくるといい」
◆
―永遠亭。
その純和風の屋敷は、新築と見紛うほどに美しく、汚れ一つ無かった。
内部では、兎たちが対応に追われ、慌ただしく行き来していた。
どこまでも、永遠に続くかのような板張りの廊下を進んでいると、
背丈の低い、兎耳の少女―因幡てゐにばったりと出くわした。
「…あんたらも花粉症の薬を買いに来たのかい」
てゐが声を掛ける。
「いえ、私たちは調査に来たんです。この花粉症異変の…」
小悪魔の答えに、てゐは目を見開いた。
「異変…?あんたらは、これが異変だと思ってるのか?まぁ、確かに例年と比べると異常なほど患者が多いけど」
「そのお陰でお前らは、さぞかし懐が暖かくなったんじゃないか?」
魔理沙が挑発するように言うと、てゐはむっとした顔で反論する。
「…うちは、他所よりも質の良い薬を良心的な値段で扱ってるんだ。沢山売れようと、大した儲けはない」
「ほほぅ…」
魔理沙が目を細めて、どこか疑うような視線をてゐに向けた。
「そもそも…私たちが本気で薬で儲けようと思ったら、この花粉症の流行に限らず、いくらでもやりようはあるんだ。
その気になれば、幻想郷の医療市場を独占だって出来る。それに…いや、詳しくは直接お師匠様から聞いてみるんだな」
てゐは言い切ると、ふんとそっぽを向き、その場を去っていった。
◆
廊下を渡った最奥部に、永琳の部屋はあった。
それは、幻想郷屈指の実力者の部屋にしてはこじんまりとしており、質素で、綺麗に整理され、機能的だった。
「―ふむ…要するに、私たちを疑っている、というわけですね」
青と赤の衣を纏い、看護帽のような帽子を被った女性―八意永琳は、表情一つ変えず、冷静に言った。
「あ、いや、そこまではっきりと―」
小悪魔が慌てて取りなそうとするが、魔理沙がそれを遮る。
「ああ、そうだ。花粉症が広まって得するのは、あんたら永遠亭の連中だからな。
真っ先に疑うのが自然ってもんだ」
魔理沙の鋭い視線が永琳を射抜く。だが、当の本人は意に介した様子もなかった。
「まず前提として言いますが…
薬、と言っても、花粉症そのものを治す薬という訳ではありません。
花粉症とは、花粉に対して過敏に免疫反応が起こるアレルギー症状。
病気のように、薬を飲んで完治する類のものではないのです。
他にも、一定期間症状を抑える注射もありますが、幻想郷では材料が手に入りません」
「ああ、知ってるさ。だが、その過敏反応を抑える薬は売ってるんだろ?」
永琳は机の上に置かれていた、白い粉の包みを手に取った。
「ええ。この粉を服用すれば、ほとんど副作用なく、丸一日は症状を完全に抑えられます。
―ですが、この一袋を除いて、すでに売り切れました」
それを聞いて魔理沙と小悪魔が目を見開いた。
「私が今朝来たときには、まだあったはずですが…もう売り切れたんですか?」
小悪魔が少し訝しげに尋ねる。
「そもそも、幻想郷でこれほどの花粉症患者が発生するなど想定していませんでした。
例年通りの在庫しなかった以上、品切れになるのは必然でしょう。それと―」
永琳は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「昨日判明したのですが、花粉症薬の製薬レシピが、何者かに盗まれました」
それを聞いた魔理沙と小悪魔が驚き、同時に息を呑んだ。
「おいおい、そういう大事なことは先に言ってくれよ。話がだいぶ変わってくるぜ」
「…ちょっと待ってください。そもそも、製薬レシピなんて大事な物、そんな簡単に盗まれるものなんでしょうか」
小悪魔が目を細めて尋ねる。その瞳には、疑いの色が見えた。
「通常であれば難しいでしょう。ですが、昨日は大勢の人間と妖怪が押し寄せ、
邸内は混乱していました。その隙を突かれた可能性はあります。それに―」
永琳はそこで一旦区切り、少し考えた後に続けた。
「視覚を誤魔化したり、認知をずらしたり、気配を消す…
そういった能力を持つ妖怪が関与している可能性も否定できません」
「ってことは…」
魔理沙は考え込んだ。
(薬で儲けるなら、事前に大量生産してるはず。しかも、レシピも盗まれた、ときた。
…ということは、永遠亭は白…?いや、まだ…)
永琳はその考えを見透かしたかのように、微笑んだ。
「どうやら、私たちの疑いは晴れたようですね」
「勘違いするなよ。疑いが晴れたわけじゃない。ただ、他の犯人の可能性が増えたってだけだ」
魔理沙が釘を差す。
「ところで…その薬、いつ頃再販できるのでしょうか。
パチュリー様がかなりの重症で、薬がないと困るんです」
小悪魔は眉根を寄せる。
彼女にとっては、異変の解決と同じくらい、主人の容体も重要だった。
既に一定量は購入済みだが、使い切れば、当然追加購入が必要だ。
魔理沙も内心、重症の霊夢に薬を買ってやろうと思っていたので、少し身を乗り出して答えを待った。
「原材料の調達のため、人里に使いを出しています。今日中には量産体制に入れるでしょう。ただ…」
永琳が言い淀んだその時、障子が慌ただしく開けられた。
「お師匠様!仕入れに行った兎が戻ったのですが…」
飛び込んできた鈴仙は、来客に気づいてはっとし、「失礼しました!」と頭を下げた。
「構わないわ。…で?原材料が品切れだった、というところかしら?」
永琳の落ち着いた問いに、鈴仙は驚きを隠せなかった。
「お、仰るとおりです…どの薬問屋でも買い占められていて、仕入れができませんでした」
そのやり取りを聞いて、魔理沙と小悪魔が顔を見合わせる。
「…レシピを盗んだ奴が、買い占めやがったのか」
魔理沙が悔しげに口を歪める。
「そんな…」
小悪魔の胸に、暗い影が落ちた。
今後は主人に渡す薬が入荷しないという現実が、重くのしかかっていた。
しばしの沈黙が、その場を支配した。
「…その原材料って、何だ?」
魔理沙が絞り出すように尋ねる。
「そんなこと、言えるはずが―」
鈴仙が言いかけるが、永琳がそれを手で遮った。
そして、少し考え込んだ後に、軽く頷いた。
「本来は門外不出ですが…事情が事情です。
それに、材料だけ知ったところで再現できるはずもありませんし、特別に教えましょう」
「お師匠様!」
鈴仙が声を上げるも、永琳は「いいのですよ」と静かに言った。
「『甘草(かんぞう)』、『黄芩(おうごん)』、『辛夷』、『連翹(れんぎょう)』、『桔梗』です」
魔理沙は頭の中の薬学辞書を開き、それらを照らし合わせた。
「…どれもアレルギーや炎症系に効能のある薬草や漢方だな。ありがとよ、助かったよ」
二人は頭を下げる。
永琳はその様子を見て、意味ありげに微笑んだ。
◆
魔理沙と小悪魔は永遠亭を後にし、竹林の上空を飛んでいた。
「結局、永遠亭は白とも黒ともつかず、でしたね。これからどうしましょうか。
品切れになった薬の原材料を追ってみます?恐らく、犯人が買い占めたのでしょうし」
小悪魔が隣を飛ぶ魔理沙に問いかける。
「ああ、それもいいが…そもそもの根本的な原因である、異常な花粉について、まだ何も分かっちゃいない。
そっちを先に当たりたいんだ。迷いの竹林からも近いしな」
魔理沙は前方を見据えたまま答えた。
「近い…?何か心当たりがあるんですか?」
「ああ。スギ花粉といっても、元は植物だろ。植物を操る奴といえば…」
その言葉に、小悪魔がはっと息を呑む。
「なるほど。確かに、あの人なら何か知っているかもしれませんね」
魔理沙は、口元に薄く笑みを浮かべた。
「そう、風見幽香だ」
◆
―太陽の畑。
夏であれば、黄金色に輝く向日葵の海が広がっていたはずの場所。
しかし今は季節の移ろいに取り残されたように、枯れ果てた花々の残骸が大地を覆い尽くしている。
その光景は、名とは裏腹にもの寂しさを感じさせた。
魔理沙と小悪魔は空を巡りながら、地上へと視線を落とし、目当ての姿を探していた。
「…どこにいるんでしょう」
小悪魔は口の中に渇きを覚え、不安を押し隠しきれない、掠れた声で呟く。
それも無理はない。風見幽香は妖怪の中でも屈指の力を持ち、気まぐれに弱者を弄ぶという噂も聞く。
万が一、話がこじれて戦闘にでもなった場合、無事に帰れる保証などどこにもない。
「…お、随分分かりやすいじゃないか」
魔理沙が前方を見て、にやりと笑った。
視線の先、その一画だけが、鮮やかな橙色の向日葵が咲き乱れていた。
まるで、その場所にだけ、夏が訪れたかのように。
◆
白い傘を差した、紅のロングスカートの女性―風見幽香は、風にそよぐ向日葵の中心で、
自身もその一部であるかのように、優雅に佇んでいた。
頬を撫でる風を、心地よさそうに全身で受け止めている。
その姿は静謐でありながら、どこか底知れぬ威圧を孕んでいた。
やがて、空から二つの影が舞い降りる。
魔理沙と小悪魔だ。
「…これはこれは」
幽香は二人を認めると、目を細め、妖しく微笑んだ。
その声音には、歓迎とも警戒ともつかぬ含みがある。
「私の魔法を盗んだ魔法使いさんが、悪魔を引き連れて…一体、何の御用かしら?」
小悪魔は『魔法を盗んだ』という言葉の意味を測りかね、首を傾げた。
一方の魔理沙は、ぴくりと眉を動かした。
「そういえば、噂に聞いたわよ。貴方、最近魔法の火力が落ちてきているんですってね」
幽香はくすり、と笑った。
「困るのよね。オリジナルである私の魔法の風評被害にもなるから。やめてもらえないかしら?」
軽やかなその物言いとは裏腹に、込められた言葉の刃は鋭かった。
魔理沙が小さく舌打ちを鳴らした。
「…お前と無駄話をするつもりはない。単刀直入に聞く。
この異常なスギ花粉はお前の仕業か?」
そのあまりにも直球な問いかけに、小悪魔は肝が冷える思いだった。
「あら。私を疑っているの?」
幽香が目を細める。その笑顔は変わらない。だがその瞬間、強烈な妖気と殺気が放たれ、圧となって押し寄せた。
周囲の向日葵畑がざわめいたように揺れた。
「お前以外に―」
魔理沙が言い切るより早く、小悪魔が魔理沙の口を塞いだ。
「―!?」
抗議の声が飲み込まれ、驚いた魔理沙は非難めいた視線を小悪魔に向け、
もごもごと何かを言おうとしている。小悪魔は耳元に顔を寄せ、低く囁いた。
(魔理沙さん、幽香さん相手に挑発的な態度はまずいですよ。今は異変解決が最優先です。
ここは一つ、私にお任せください―いいですね?)
魔理沙はしばし逡巡した様子だったが、やがて小さく頷いた。
小悪魔はそっとその手を離す。
魔理沙は息を整え、宙に浮いた箒を椅子代わりに腰掛け、腕を組んだ。
小悪魔の交渉を見届ける、という意思表示だった。
小悪魔は一歩前に出て、深く頭を下げた。
「風見幽香さん、先程は失礼いたしました。ご紹介が遅れましたね。
改めまして、私は紅魔館の魔女、パチュリー・ノーレッジ様に仕える使い魔、小悪魔と申します。」
その所作は丁寧かつ、礼節を弁え、隙がなかった。
「これはご丁寧にどうも。…それで?」
幽香から放たれていた妖気と殺気は次第に消えていった。
だが、その微笑には依然として強い威圧感が宿っていた。
小悪魔は軽く目を伏せた。僅かに震える手を握りしめ、呼吸を整える。
そして目を開き、語りかけた。
「現在、幻想郷では例年の数倍もの量、かつ巨大な個体の、異常なスギ花粉が飛散しています。
その結果、殆どの人妖が花粉症に苦しめられている状況です」
小悪魔は胸に手を当て、真摯に言葉を重ねる。
「私たちはこの異変を解決したい。
そのために、植物を操る能力を持つ貴方の知見をお借りしたく、参りました」
その切実な訴えを、幽香は静かに受け止め、やがて小さく頷いた。
「…ふふ、貴方は礼儀を弁えているようね。いいでしょう、私の知る限りを教えましょう」
手で向日葵の花に触れ、優しく撫でる。
「結論から言うわ、今飛んでいる花粉は、自然のものではない。
まったく別の手段によって作られ、そして撒かれたものよ」
「では―」
「私の能力は、あくまで植物そのものを操る。けれど、その性質そのものを変質させることは出来ない」
幽香の言葉に、魔理沙が口を挟んだ。
「つまりお前は、自分は白だと言いたいんだな」
小悪魔は特に咎めなかった。先程と違い、魔理沙の口調には冷静さが戻っていたからだ。
「ええ。そもそも、そんなことをする理由もないもの」
幽香は淡く笑った。
小悪魔は一歩踏み出し、すがるように問いかける。
「何か、心当たりはありませんか?正直に申し上げて…手詰まりなんです。
スギ花粉をここまで異常に変化させ、大量に生成する―そんな魔法も、妖怪の能力も、見当もつかなくて」
幽香は顎に手を当て、思案する。
「…そうね。残念だけど、具体的には思いつかないわ。けれど―」
そこで言葉を切り、にやりと笑った。
「あまり固定観念に囚われないことね。この幻想郷は、想念によっていくらでも本質が揺らぐ世界。
そう、例えば何でもない花や果実でさえ、捉え方や状況次第で、毒になり得るのだから」
その言葉は、風に乗って静かに広がった。
魔理沙は目を細め、しばし考え込んた。
やがて、その表情が変わる。
「…なるほどな。よく分かったよ、助かった」
魔理沙は素直に、短く礼を述べると、箒を浮かせて空へと上がる。
小悪魔も慌てて深く一礼し、その後を追った。
二人の姿が遠ざかるのを見送りながら、幽香はくく、と喉の奥で笑った。
「さて…あの子たちは、ちゃんと辿り着けるかしらね?」
◆
―人間の里。
明治時代初期を思わせる家屋と、春の訪れを感じさせる、鮮やか緑の街路樹。
いつもなら笑い声と呼び声が交差する大通りは静まり返り、通りを行き交う人影もまばらだった。
人々は皆、花粉を避けるように家へと籠もり、外界との接触を断っているのかもしれない。
「そういえば、花粉症の薬って人里の町医者では売ってるのでしょうか」
小悪魔は思いついたように尋ねる。
「いや…聞いたことないな。そもそも、人里の医者や薬剤師は素人に毛が生えた程度の医療知識の奴も多い。
人体に有害な劇物を、薬として平気で処方する様なやぶもいるくらいだ」
魔理沙が苦々しげに答える。
「そうなんですね…」
小悪魔は、人里の医療リテラシーの現実に若干引きながらも、考え込んだ。
「ただの人間が永遠亭に忍び込んで製薬レシピを盗むだなんて、現実的じゃないと思うぜ」
それを見越したかのように、魔理沙が先回りで答える。
「まあ、そうですよね…」
小悪魔は頷いた。
◆
魔理沙と小悪魔は手分けして複数の薬問屋を巡り、
永琳の言っていた『甘草』や『黄芩』といった花粉症薬の原材料について、
在庫の有無や、直近で大量に仕入れた業者がいなかったか等の聞き込みを行っていた。
だが、どの薬問屋でも返ってくる答えは同じだった。
「へい、先日見慣れない客が訪れまして、相場の倍の値ですべて買っていかれましたよ」
ただし、その客の特徴はばらばらだった。
痩せた男、太った男、背の高い者、低い者―まるで別人のように、証言が食い違っていた。
夕刻、再び合流した二人は、茶店で腹ごしらえをしながら情報を共有しあった。
「…どういうことでしょうか。複数の人間を雇って、代わりに買わせたのですかね?」
小悪魔は指先で顎に軽く触れ、小さく首を傾げる。
「あるいは、姿を自由に変えられる妖怪か…どちらにしても、用心深い奴だな」
魔理沙は言いつつ、団子を口に運んだ。
だが、元よりこの程度で突き止められるとは思っていなかった。
「犯人は、買い占めた原材料と盗んだレシピを使って薬を作り、闇ルートで売り捌くはずだ」
目を細め、視線を鋭くし、続ける。
「なら、売り子をとっ捕まえるしかない。そこから、黒幕を引きずり出す」
その言葉には、静かな決意が帯びていた。
◆
―それから数日。
二人はそれぞれ別行動を取り、幻想郷中を巡って聞き込みを行った。
昼は問屋や商人、夜は酒場や裏路地に、妖怪たちの集まるコミュニティ。
花粉に悩む人妖の声に耳を傾けながら、密かに流通している薬の気配を探り続けた。
だが、手応えは薄い。
噂はあれど、確証に至る情報は掴めない。
見えぬ糸を手繰るような捜査は、次第に疲労と焦燥を蓄積させていった。
◆
―人里、寺子屋。
「気をつけて帰るんだぞ」
上白沢慧音が表に立ち、子どもたちに声をかけ、手を振る。
保護者たちは深く頭を下げ、子の手を引いて夕暮れの道へと消えていく。
赤く染まった空の下、その光景は和やかで、微笑ましいものだった。
魔理沙は少し離れた場所から、それを眺めていた。
幼い頃の記憶が、ふと浮かび上がる。
親に手を引かれて歩いた帰り道。
夕焼けの色、手の温もり。
胸の奥が、ずきり、と痛んだ。
「…っ」
小さく頭を振り、その感情を振り払う。
(もう、今の私には関係ない記憶だ)
そして、まるで何事もなかったかのように努めて振る舞い、慧音に歩み寄り、声をかけた。
◆
「ふむ…。闇市場で薬、か」
慧音は腕を組み、静かに思案する。
「人里で顔が広く、事情に通じてるあんたなら、何か掴んでるんじゃないか?」
魔理沙は期待を込めて尋ねた。
子どものいる親は、治安に関しては特に人一倍敏感になり、保護者間での情報交換が盛んだ。
教師である慧音の元に、闇で薬を捌く不審者の情報が入っていてもおかしくはない、と考えたのだ。
「確証はないが…生徒の保護者から、最近夜の居酒屋通りの路地裏で妙な男を見た、
と言う話なら聞いたことがあるな」
その言葉に、魔理沙の表情が明るくなった。
「そいつだ。間違いない」
喜色を帯びたその声には、確かな手応えがあった。
慧音はそんな彼女を見つめ、言葉を重ねた。
「魔理沙は、この異変を解決しようとしているのだろう」
先程子どもたちが去っていった道へと視線を向けた。
「寺子屋の子どもたちも、花粉症で苦しんでいる。授業にも支障が出ている状態だ。
もし協力が必要なら言ってくれ。できることなら、力を貸そう」
そこには、教師としての焦りと責任が滲んでいた。
「ああ、サンキューな。その時が来たら、遠慮なく頼らせてもらうぜ」
魔理沙は軽く笑った。
夕焼けが、二人の影を長く伸ばしていた。
◆
―人里、酒場通り。
夜の帳が降りた通りは、かつての喧騒をどこかに置き忘れたかのように静まり返っていた。
酔客の笑い声もまばらで、時折、ほろ酔いの男が千鳥足で行き来するのみだった。
軒先の提灯は揺れ、ぼんやりとした灯りが路地の奥へと溶けていく。
その光と影の境目、人目につきにくい場所に、一人の男が闇に溶け込むように立っていた。
逆立った髪に、恰幅の良い体つき。
いかにも場末に馴染んだ風体の中年男性だった。
彼は壁にもたれ、ぼんやりと通りを眺めていた。
花粉症の薬を売るようになってからというもの、状況は一変した。
どこからともなく噂を聞きつけ、夜ごとに客が現れる。
一包や二包では済まぬ者も多く、ときにはまとめて買い占めるような大口もあった。
値は張る。だが、それでも人は金を払った。花粉症という苦しみから逃れるために。
売上の一割が自分の懐に入るという仕組みも、男の頬を緩ませるには十分だった。
ふと、人の気配を感じた。
顔を上げると、路地の奥から一つの影が歩み寄ってきていた。
深く被った笠に、身を包む外套。
背丈は低く、輪郭は曖昧だった。その佇まいからは、普通ではない雰囲気を感じた。
男は直感した。―客だ。
「あんたかい?花粉症の薬を捌いてるのは」
落ち着いた、中性的な声だった。
その響きに、男は意外に思いつつも、短く応じる。
「…ああ」
「一ついくらだ?」
「四十銭※」
(※一円=百銭=現在の貨幣価値でおよそ10000円)
その言葉に、相手は僅かに息を呑んだ。
「おいおい、ずいぶん強気だな。少し高すぎやしないか?」
「文句があるなら帰んな」
男は肩を竦める。
売る側の余裕、それが声音に滲んでいた。
客はしばし沈黙し、思案する。
やがて、観念したように頷いた。
「…分かったよ。二十包くれ」
「毎度あり」
男は内心で舌なめずりする。
「二十包だな。だったら八円だ」
懐から小さな包みを取り出し、手際よく薬を詰める。
差し出された八枚の紙幣へと手を伸ばした。
月明かりが、淡く紙の表面を照らす。
―白い。
何も書かれていない、ただの紙切れだった。
その瞬間、客の手が男の手首を掴んだ。
「少し聞きたいことがあるんだ。痛い目に遭いたくなければ、大人しくしな」
低く抑えた声。
その左手には、八角形の奇妙な器具―ミニ八卦炉が構えられていた。
魔力が凝縮し、周囲の空気がひりついた。淡い光が、路地裏を照らし出した。
(こいつ、魔法使いか!?)
男の脳裏に、危険を示す警鐘が鳴り響く。
一瞬の逡巡。だが、迷っている時間などない。
結論は、即座に導かれた。
次の瞬間、ぼん、と煙が弾け、男の姿が消えた―かのように見えた。
「ひッ…!?」
客の腕に何かが絡みついている。
ぬめるような鱗に、筋肉質な胴体。
それは、大蛇だった。
「な、なんだこれ…蛇…!?」
客は思わず裏声で悲鳴を上げ、腕を振り払う。
絡みついていた蛇は、ぼとり、と地面に落ちた。
次の瞬間には、蛇はするりと体をくねらせ、闇へと滑り込む。
家屋の床下の隙間へと潜り込み、その姿を完全に消した。
◆
「くそっ…あの蛇が正体なのか」
霧雨魔理沙は舌打ちし、しゃがみこんで床下を覗き込む。
だが、隙間の奥は墨を流したように暗く、何も見通せない。
「ちっ、見えねえな……」
ミニ八卦炉に魔力を流し込むと、指向性を伴った淡い光が灯る。
即席のランタン代わりに掲げ、隙間の奥を照らす。
どうやら反対側へ抜けたらしい。
壁に立てかけてあった箒をひっ掴み、そのまま軽やかに宙へと浮かぶ。
上空から周囲を見渡す。
夜の里は静まり返っている。だが、それがかえって不気味だった。
人影はない。蛇の気配も、どこにも見当たらない。
「…どこ行きやがった」
目を細めて探していると、視界の端に古びた井戸が映った。
その瞬間、脳裏にひらめくものがあった。
―紅魔館の図書館で見た光景。
水を気化させ、空気を冷却し、光を通して空中に文字を描いた、あの魔法。
<この程度、貴方にも出来るはずよ。水の魔法は本来、得意なはず>
パチュリーのその言葉が、思い出された。
魔理沙はにやり、と笑った。
「…あいつの魔法、真似てみるか」
箒の上で体勢を整え、空中に魔法陣を描く。
指先が軌跡をなぞるたび、淡い光が重なり合い、幾何学の紋様を形作っていく。
短い詠唱。
すると、井戸の中から水が応じるようにせり上がった。
大きな水塊となって空中に浮かび上がり、ゆらりと揺れる。
やがて、それは霧のようにほどけ、空気に溶けるように消えていく。
魔理沙は細い瓶を取り出し、触媒をばら撒いた。
続けて、今度はより複雑で長い詠唱を紡ぐ。
空気が急速に冷却され、青白い光が辺りを満たし、気温が一気に落ちた。
吐く息が白く染まり、地面には霜が降り、それがじわじわと広がっていく。
土は瞬く間に凍りつき、ところどころに霜柱が突き出す。
草は音もなく凍結し、ぱきり、と小さな音を立てて砕けた。
まるで、夜の中に極寒の冬が侵入してきたかのようだった。
「ひ、ひえぇ…!」
情けない悲鳴が、路地の片隅から上がる。
ぼん、と煙が弾けた。
そこに、先ほどの男が姿を現す。肩を震わせ、顔を青ざめさせている。
急激な寒気―変温動物である蛇の身では、もはや耐えられなかったのだ。
「見つけたぜ」
魔理沙は箒で弧を描くように回り込み、逃げ道を塞ぐ。
同時にミニ八卦炉へと魔力を集中する。
次の瞬間―男の足元に、極限まで細く収束された魔力の光線が放たれた。
轟音とともに土が弾け、地面が大きくえぐれる。
衝撃が足元から伝わり、男は思わずよろめいた。
「動くな!」
ミニ八卦炉をぴたりと向ける。
その先端には、まだ収束しきらぬ魔力が渦巻き、陽炎のように揺らめいていた。
「次に動いたら容赦なく撃つ。…これは脅しじゃねえぞ」
静かな、低い声だった。だが、そこに一切の迷いは見られなかった。
男は顔を引きつらせ、ゆっくりと両手を上げた。
「わ、分かったから…撃つな、撃たないでくれ…!」
◆
―人里の外れにある、薄暗い長屋の一室。
煤けた壁、擦り切れた畳、隅に積まれた日用品の数々。
ここで慎ましく生きていた者の痕跡が感じられた。
その主は、蟒蛇(うわばみ)であった。
かつては人里で人間に化け、無銭飲食を繰り返していたが、
二ッ岩マミゾウの手によって改心させられた。
今は人の姿を借りて、どうにか真面目に人里で働きながら日々を繋いでいた。
魔理沙の尋問に対し、蟒蛇は観念したように、ぽつりぽつりと語り始めた。
ある日、差出人不明の包みが届いたのだという。
中には、ずしりと重みを感じさせるほどの現金と、薬の原材料の仕入れを指示する手紙。
その内容は簡潔だった。
仕入れの際は、店ごとに姿を変えること。
報酬として、同封された金から十円を抜き取ってよいこと。
そして何より異様だったのは、その手紙に貼り付けられていた、一枚の鱗。
それは紛れもなく、自分と同じ、蛇のものだった。
蟒蛇は迷った。この依頼主は、自分の正体を知っている。
拒んだり、金だけ頂いてとんずらすれば、何をされるか分からない。
加えて、決して豊かとは言えぬ現状の生活―その現実が、背中を静かに押した。
蟒蛇は、手紙の指示に従った。
それからしばらくして、再び包みが届くようになる。
今度は薬そのものと、販売、及び売上金の回収指示だった。
一包四十銭。
売上の一割を報酬として取ってよい。
集金場所は毎回変わった。
橋の下の土の中、無人の家屋の雨樋の裏、あるいは誰も気に留めぬような隙間。
金を置き、その場を離れる。
誰が、どうやって回収しているのか。それを考えるのは、意識的に避けていた。
知りすぎることは、時に命取りになる。それは、人も妖も変わらぬ理だった。
◆
「なら、金の回収場所に張り込めば黒幕に辿り着けるな。場所を言うんだ!」
魔理沙が一歩踏み込み、鋭く迫る。
蟒蛇は、身体を硬直させた。顔が強張り、視線が揺れる。
脳裏で幾つもの選択肢がせめぎ合い、葛藤した。
そして、沈黙。
重く、長い静寂の後、蟒蛇は決意を固めたように顔を上げた。
その冷たい瞳には、先ほどまでの迷いはなかった。
「悪いが、これ以上は協力しない」
言葉は短く、しかし確固としていた。
「予め指示されているんだ。万が一露見した場合は、売り子も売上回収も、すべての活動を止めろと」
「へぇ…義理立てか?顔も知らない相手に」
魔理沙が口の端を吊り上げる。だがその挑発にも、蟒蛇は揺るがない。
「どうだかな。自分でも分からんさ。ただ…裏切れば、俺の正体をばらされるかもしれん」
一拍、間を置く。
「それに…この仕事で、多少なりとも生活は楽になった。恩があると言えば、そうなるのかもな」
さらに低く、押し殺すように続けた。
「それに、恐らくだが…この一件の黒幕は妖怪だ。あんたは人間だろう?人間を助けて、妖怪を売る道理はない」
その言葉に、魔理沙は鼻で笑った。
「ああ、そうかい。だったら私が正体ばらしてやってもいいし、この場で退治してもいいんだぜ?」
鋭い口調で言いつつ、ミニ八卦炉を見せつけた。
これは魔理沙のブラフだった。あくまで揺さぶりに過ぎない。
蟒蛇は肩を竦め、静かに応じた。
「好きにしろ。元々、危ういところを救われた身だからな」
脳裏には、マミゾウの姿がよぎる。
人間を傷つけたわけではない。だが、無銭飲食という、人間へ直接害をなす行為。
下手をすれば、博麗の巫女に調伏されていたかもしれない。
「それにだ。俺は悪事を働いたわけじゃない。ただ花粉症の薬を売っていただけだ。
値は張るが、需要があるから売れる。それを悪く言われる筋合いはない」
蟒蛇は腹をくくったらしく、腕を組み、動かぬ意思を示す。
もはや言葉では崩せない、硬い殻を感じた。
魔理沙は小さく息を吐いた。これは、無理にこじ開けるのは難しそうだ。
しばらく考え込み―やがて、彼女の脳裏に電球が明るく光を灯した。
「…あんたの意思は分かった。もうこれ以上は言わない」
静かにそう告げる。
「だがな、薬は押収させてもらうぜ」
有無を言わせぬその言葉に、蟒蛇はふぅ、と息をつき「…好きにしろ」と呟いた。
◆
―鯢呑亭。
墨汁を垂らしたかのような闇が覆い尽くす、丑三つ時。
店の灯りに引き寄せられるように、妖怪たちが自然と集うその居酒屋は、今宵もまた賑わいを見せていた。
卓には酒と皿が並べられ、作りたての料理からは美味そうな匂いと湯気が立ちのぼる。
笑い声、盃の触れ合う音。
だが、その合間に混じるくしゃみや鼻をすする音が、場の空気を濁していた。
小悪魔は、カウンターの端で一人、静かにグラスを傾けていた。
それは酒ではなく、淡い色をしたソフトドリンクだった。
店内での会話内容を、一語一句聞き漏らすまいと、先の尖った耳に意識を全集中する。
他愛もない雑談。
妖怪勢力に関する、政治的な討論。
花粉症に対する愚痴。
上司の悪口。
「まったく、この花粉症には参ったよ」
「でもさ、なんか、症状が出てない連中もいるらしい」
「へぇ?永遠亭の薬はもう売り切れだったのに?」
「買い占めたんじゃないの?少し分けてほしいもんだよ」
交わされる何気ない雑談。
だがその言葉の端に、小悪魔の意識が鋭く反応した。
視線だけを僅かに動かす。
そこには、飛頭蛮の妖怪―赤蛮奇と、黒髪に狼の耳を生やした少女―今泉影狼の姿があった。
「…」
小悪魔は、静かに席を立った。
◆
「すみません。もしよろしければ、相席をお願いできますか?一人で飲むのも寂しくて」
非の打ち所のない完璧な笑顔―社交の仮面を被り、柔らかく声を掛ける。
小悪魔がテーブルへ歩み寄ると、赤蛮奇と影狼は一瞬だけ視線を交わした。
警戒とも、戸惑いともつかぬ沈黙。
小悪魔はカウンター奥で忙しそうに働く奥野田美宵へ注文の声を上げた。
「美宵さん、紅魔館持ち込みのボトルキープ…マッカランの25年をお願いできますか?」
「はーい」と美宵の元気な声が返ってきた。
外の世界から紅魔館独自のルートで持ち込んだ、高級ウィスキーだ。
さらりと告げられたその一言は、場の空気を変えた。
赤蛮奇と影狼はその酒の名前を聞いて、驚いた表情になり、互いに顔を見合わせる。
改めて、小悪魔がにこやかに微笑む。
「…いかがでしょう?」
ほんの僅かの沈黙の後、赤蛮奇が肩を竦めた。
「まあ、いいさ。どうせ飲むなら賑やかな方がいい」
影狼も小さく頷く。
「うん、歓迎するよ。お酒は一人より、みんなで飲んだ方が楽しいしね」
その言葉を合図に、空気がふっと緩んだ。
小悪魔は内心でほくそ笑んだ。
―それからの展開は、早かった。
軽い世間話。
些細な愚痴。
季節の話題に、他愛もない笑い。
小悪魔は持ち前の社交性を存分に発揮していた。
相手の間合いに合わせ、言葉の温度を微調整しながら、違和感なく会話に溶け込んでいく。
相手を立て、聞き役に徹し、時折肯定し、感心して見せる。
―これらは、半分は計算、半分は素によるものだった。
気づけば三人の間に、自然な親しさが芽生えていた。
警戒心は、いつの間にか酒の酔いとともに薄れていった。
そして、小悪魔は、何気ない調子を装って口を開いた。
「ところで、先ほどのお薬のお話ですが…」
◆
―紅魔館の図書館。
「―なるほど。妖怪の山、ね…」
パチュリーは低く呟き、思案を巡らせた。
彼女はベッドの上で半身を起こしていた。
花粉症の名残は、今やほとんど見えない。永遠亭の薬が効いたのだろう。
だが、時折ごほ、ごほと咳き込む。喘息の方はまだあまり良くないようだ。
「はい。赤蛮奇さんたちの情報によると、妖怪の山に属する妖怪たちには、花粉症の症状が見られないとのこと。
河童の光学迷彩を用いれば、製薬レシピの窃盗も不可能ではありません。そして、組織力も持つ。
総合すれば…有力な容疑者かと」
言葉を区切りながら、小悪魔は丁寧に論を積み上げ、報告する。
パチュリーは、かつて幻想郷中に妖怪の力を秘めたカードが流通した異変を思い出していた。
調査に出た咲夜曰く、妖怪の山の大天狗、飯綱丸龍も一枚噛んでいたという。
「ふむ…動機は、活動資金の拡大、といったところかしらね。まあ、調べる価値はありそうね」
パチュリーのその一言で、方針は定まった。
「ただ…妖怪の山は部外者の立ち入りが禁じられています。聞き込みも困難かと…」
小悪魔の声音が沈んだ。
妖怪の山は閉ざされた領域だ。天狗たちの目が鋭く監視し、侵入者は排除される。
もし紅魔館の使い魔が潜入し、捕縛でもされようものなら、政治問題に発展しかねない。
「ふむ…だったら、堂々と行けばいい」
あまりにもあっさりとした一言だった。
「…え?」
主人の言葉に、思わず、小悪魔は首を傾げる。
パチュリーは視線を上げ、淡々と続けた。
「末端の構成員に当たっても時間の無駄ね。直接、幹部に会うべきよ。
…そうね、飯綱丸龍が適任かしら」
さらりと言ってのけるその口調に、迷いはなかった。
「龍宛の私の書簡を、貴方が持参した、という体にすれば、面会は通るでしょう」
その発想の飛躍に、小悪魔は目を見開いた。
「そ、それはそうですが…」
「普段、物理的にも、政治的にも表に出ない私の書簡を、咲夜ではなく直属の部下である貴方が持参する。
すると、相手はどう思うかしら?」
小悪魔は頭の中で、相手側の立場になってその状況を想像してみた。
「必ず、興味を持つ。無視はできないはずよ」
パチュリーのその言葉は、確信に満ちていた。小悪魔も、確かに、と思わず頷いていた。
パチュリーは脇机へと手を伸ばし、便箋を引き寄せた。
一瞬手を止め、少し考えた後、さらさらと、淀みなく羽根ペンを滑らせる。
やがて書き終えると、封筒に収め、蝋を垂らし、封緘した。
「これを持っていきなさい」
差し出された封書を、小悪魔は両手で受け取った。
「書簡の内容は…?」
「あくまで会うための口実だから、中身は何だっていいのよ。勿論、龍が必ず興味を持つようにはしてあるけれど」
言いながら、パチュリーは僅かに口元を緩めた。
その意味深な微笑に、小悪魔は何となく不安を覚えた。
「私が…妖怪の山の幹部相手に…」
その言葉には、緊張と高揚が混じっていた。
「貴方なら出来るわ」
柔らかな声音。そこには確信と信頼が滲んでいた。
静かな図書館の中で、その言葉だけが確かに響き、小悪魔の背をそっと押していた。
◆
―妖怪の山。大天狗の屋敷、最奥部。
高く組まれた梁の影が落ちるその空間の最奥、重厚な執務机の向こうに、
飯綱丸龍は肘をつき、無機質な眼差しで小悪魔を射抜いていた。
その背後には、犬走椛が控え、鞘に納めた曲刀に手を添えている。
空気は張り詰め、痛いほどの沈黙が場を支配していた。
小悪魔は、片膝をつき頭を下げていた。自身の身体が微かに震えているのを感じていた。
だが、それを外に漏らすまいと、奥歯を噛み締め、無理やり押し殺す。
「―魔女殿の書簡は拝読した。が…あれは一体、何のつもりだ?」
静寂を切り裂くように、龍が口を開いた。その問いは短く、しかし鋭かった。
書簡の裏にある意図を見極めるかのように、視線が一層深く突き刺さる。
小悪魔は一瞬、言葉を失った。
「その…私は、書簡の内容を知らされておらず…」
口の中が、からからに乾いていた。掠れた声が、頼りなく響く。
自分でも分かるほどに、その言葉は弱々しかった。
龍は鼻で小さく笑った。椛が歩み寄り、小悪魔に書簡を差し出す。
小悪魔は両手でそれを受け取り、震えを抑えながら目を落とした。
そこには、こう記されていた。
========
天、衆妖を生ずるに、必ず司牧有り
当今、牧と為るは、山に非ずして誰ぞや
我、書に沈みて久しく世事に疎し 願うは此に及ばず
願わくは驥尾(きび)に附し、龍鱗を攀(よ)じ、共に宇内を清めん
========
「…???」
小悪魔の頭の中は、一瞬で疑問符によって埋め尽くされた。
西洋の妖怪である小悪魔にとっては、その古めかしい文章は、難解だった。
視線を書簡の上で行き来させる。一度では足りず、二度、三度と読み返す。
やがて、断片が繋がり始めた。
つまり、これは主人―パチュリーが紅魔館から妖怪の山に降る、といった内容ではないか?
だがそれは、完全な理解には程遠い、ぼんやりとした輪郭に過ぎない。
「―隋末の群雄、李淵が李密へ送った恭順の書簡の改変だな。
要約すると、『妖怪の山こそ統治者だと認める。私は世事に疎いが、あなた方に従い協力したい』といった内容だ」
小悪魔は、半ば自分の解釈と合っていたことに安心しつつ、その内容に息を呑んだ。
「『龍鱗を攀じ』―龍の鱗に縋る、か。私の名に掛けた引用…いかにも知の魔女殿らしい遊びだな」
龍の口元が僅かに緩む。だがその笑みは温度を持たない、冷たさがあった。
「妖怪の山を持ち上げ、自身はへりくだる文面―表向きはそう読める…が」
そこで言葉が止まり、静寂が重く沈んだ。次に発せられた声は、先ほどよりも低く、深かった。
「魔女殿は紅魔館の当主、レミリア殿と深く結ばれていると聞く。
それが、軽々しく他勢力に降るとは考え難い。それに―」
龍の視線が鋭さを増す。そして、ゆっくりと身を乗り出した。
「李淵は最終的に天下を取り、大唐帝国を建国し、李密を滅ぼした。つまり、だ。
この書簡は、読みようによっては紅魔館が幻想郷に覇を唱え、妖怪の山を討つ、とも取れるが?
真意をお聞かせ願いたいものだな」
言い終えた瞬間、空気が凍りついた。
小悪魔の背筋を、冷たいものが走る。血の気が引き、視界が揺らぐ。
理解の及ばなかった文意の深層を突きつけられ、思考が追いつかなかった。
短いはずの時間が、果てしなく引き延ばされる。呼吸が浅くなり、胸が締め付けられる。
じわり、と嫌な汗が滲み、衣服の内側を湿らせた。
そのとき、ふと脳裏に浮かぶ。―主人の、あの意味深な微笑。
確かに龍は食いついた。興味を持った。狙い通りだ。だが…。
小悪魔は、頭の中でパチュリーに向かって思いつく限りの恨み辛みを投げつけた。
しかし、そんなことをしても事態は何も変わらない。
「飯綱丸様のご質問に答えよ!」
椛のよく通る声が、鋭く空間を裂いた。その右手はすでに曲刀の柄に掛かっている。
その一声が、引き金になった。
小悪魔は、ゆっくりと息を吸った。震えは消えない。だが、逃げ場もない。
ならば―腹をくくって、進むしかない。
「…申し訳ありません。その書簡は、飯綱丸様とお会いするための口実です」
しっかりとした声には、先ほどよりも芯があった。
椛の手が動く。だが、龍が手でそれを制した。
小悪魔は続ける。
「本題は、巷に出回っている薬について、お話を伺うために参りました」
一瞬の沈黙。だが、小悪魔にとっては永遠のように長く感じられた。
「…ほほぅ。中々、大胆だな」
肘を外し、指を組み替える。その仕草は、先ほどまでの圧とは別種の余裕を帯びていた。
「いいだろう。話を聞くとしよう」
その一言で、場の空気が僅かに変わる。
―命拾いした。
だが同時に、交渉の舞台は整った。刃の上の対話が、今、静かに幕を開けた。
◆
―小悪魔は、自身の推理を披露した。
その声は淡々としていながら、張り詰めた糸のような緊張を孕んでいた。
やがて語り終えたとき、沈黙が、重く沈殿した。
「つまり…我々が、その異変の首謀者だと、そう言いたいのか」
沈黙を破ったのは、犬走椛だった。目を細め、低く唸るように言葉を紡ぐ。
その手が、曲刀を僅かに引き抜く。露わになった刃が、燭台の灯を受けて鈍く光る。
空気がぴんと張り詰め、今にも裂けそうな気配を孕む。
小悪魔は、喉の奥が乾くのを感じながらも、視線を逸らさなかった。
「…ふむ。確かに、状況だけ見れば疑われても不思議ではない。
だが、残念ながら、その推理は見当違いだな」
龍が、静かに口を開いた。
「我々は薬など作っていない。それは、業者から購入したものだ」
「飯綱丸様…!」
椛の声には、驚きと制止の色が混じっていた。だが龍は、軽く手を振るだけだった。
「構わんだろう?隠すほどのことでもない」
小悪魔は息を呑んだ。
「買った…?そ、その業者は、一体誰なのでしょうか?」
掠れた声で、尋ねる。
龍は椛へと視線を向ける。
「直接取引したのは、お前だったな。相手の素性は掴めたのか?」
「は、はい…ですが…」
椛は一瞬、言葉をためらう。
「他言無用、と。もし漏らせば、今後一切の取引はしないと、そう言われています」
その言葉は、重かった。龍は小さく頷く。
「ふむ…我々の信用問題にも関わるしな。―というわけだ、小悪魔殿。
妖怪の山は、単に取引を行ったに過ぎん。だが、その相手については口にできない。
我々の矜持にかけて、な」
それは拒絶であり、同時に妖怪の山なりの誠意でもあった。
小悪魔は、ゆっくりと目を伏せた。
ここまでだ。
これ以上踏み込めば、情報ではなく軋轢を掘り起こすことになる。
それは紅魔館にとっても、望むべき結果ではない。
…いや、あと一つ。
一つだけ、聞いておこう。
「ご回答、どうもありがとうございます。…最後に一つ、伺いたいことがあります。薬はいくつ、仕入れたのでしょうか」
この質問の答えは、別に隠すようなものではないはずだ。
龍が椛を見やり、椛が軽く頷いた。
「三千包だ。これでも、花粉のシーズンを乗り切るにはまだまだ足りないがな」
椛が淀み無く答えた。
小悪魔はその数の多さにも驚いたが、椛が答える際に、一切迷わず、戸惑うこともない様子だったことに着目した。
もし自前製造しているなら、存在しない「取引の数」を咄嗟に聞かれた際に、少しでも迷いが生じるのではないか。
それに―あの真面目で実直そうな、如何にも武人らしい椛が、さらりと嘘を言えるとも思えなかった。
小悪魔の直感が、妖怪の山は白だ、と告げていた。
また、三千という大きな数は、黒幕が個人ではなく、組織であることを裏付ける証左と思えた。
「―貴重なお話を、ありがとうございました。そして、度重なる無礼を…どうかお許しください」
一歩下がり、深く頭を垂れる。
「魔女殿に、よろしく伝えてくれ。『玄武門には気をつけろ』とな」
龍がにやりと笑った。
◆
―紅魔館の図書館、書斎。
パチュリーはいつもの重厚な机の安楽椅子に座し、
魔理沙と小悪魔は来客用ソファーに腰掛け、互いに情報交換をし合っていた。
「人里では売り子の蟒蛇。大口顧客の妖怪へは、業者自身が薬を卸している―というわけか」
魔理沙が腕を組み、椅子の背にもたれかかる。
「私の直感では、妖怪の山は白だと思います。…けど、結局黒幕に直接結びつく情報は無かったですね…」
小悪魔も頷きながら、視線を落とした。
「魔理沙がそれだけ派手に大立ち回りしたのなら、人里の販売網はもう閉じられているでしょうね」
パチュリーが淡々と呟き、紅茶のカップを口に運ぶ。魔理沙が眉をひそめた。
「何が言いたいんだ?」
「ただの事実確認よ。情報源が一つ無くなった。その代わり、一つの販路を潰せた。痛み分けってところね」
魔理沙が不満げに鼻を鳴らし、パチュリーを睨みつけた。
「正直言えば、いきなり蟒蛇に迫るんじゃなくて…
泳がせつつ張り込みをすれば、集金ルートから黒幕まで辿れたんじゃないか、と思ったんだけど。
まあタラレバを言っても仕方ないわね」
パチュリーがふぅ、と息をついた。
魔理沙は思わず言葉に詰まった。確かにパチュリーの言う通りではあった。
「…あぁ、たしかに私が悪かったかもな。それは素直に認めよう。
けどな、図書館に籠もって本を読んでるだけのお前に、結果論で責められる謂れはないぜ。
もう体調も良さそうだし、文句あるならお前も現場に出てこいよ」
魔理沙が低い声で刺すように言い放つ。
パチュリーは気にも留めず、澄まし顔だった。
「…私自らがわざわざ出ずとも、こあがいるからその必要はないわ。こあは優秀だから」
「ああ、そうだな。小悪魔はお前より、よっぽど役に立つもんな」
「…私の聞き間違いかしら。まるで貴方自身は役に立っている、という風に聞こえたけど」
二人の間で、微妙な空気が流れた。
その険悪な雰囲気に、小悪魔がたまらず割って入った。
「ちょ、ちょっと…お二人とも落ち着いてください。今は仲間割れしてる場合じゃないでしょう」
小悪魔は今にも喧嘩になりそうな二人に気が気ではなかった。
同時に、普段は滅多に褒めない主人に「優秀」と言われ、また言葉の綾とはいえ、
魔理沙からも肯定されたことで内心嬉しくもあった。
魔理沙がふん、とそっぽを向き、パチュリーは涼しい顔で「私は最初から落ち着いているけれど」と嘯いた。
小悪魔はその二人を見て、はぁ、と小さくため息を付いた。
「…そうだ、パチュリー様!」
ふと、小悪魔が思い出したように声を上げた。
「なんであんな手紙を書いたんですか!危うく、椛さんに斬られるところでしたよ」
頬を膨らませて、抗議の視線を主人に向ける。
「龍は、あの程度で気を害するほど器の小さい妖怪ではないわ。
…万一、あれで怒るような小物なら、いくらでも私の手の平の上で踊らせられる」
パチュリーは口元に笑みを浮かべた。その声は、確信と自信に満ちていた。
小悪魔は、一瞬宙に視線をやり、頭の中でその意味を咀嚼した。
(…そうなった場合、使者である私の身の安全は?)
と疑問に思ったが、それ以上は言うことなく、口をつぐんだ。
「そういえば伝言を頼まれてました。『玄武門に気をつけろ』と」
それを聞いたパチュリーがふっと笑った。
「―そう。うちの姉妹は、殺しても死なないから大丈夫よ」
小悪魔は意味がわからず、目を瞬かせた。
魔理沙は「なんだそりゃ」と小さく呟いたが、それ以上は追及しなかった。
やがて、空気が再び思考へと戻る。
「ともかく、だ」
魔理沙が身を乗り出す。
「犯人を絞り込むには、新たな情報が必要だ。けど、聞き込みだけだとそろそろ限界だと思うんだ。
だから、別の角度から攻める」
にやり、と笑う。
「お前の実験室を使わせてくれないか?」
その言葉に、パチュリーは一瞬だけ考え込み、納得したように口元を緩めた。
「…なるほどね。いいでしょう。こあ、魔理沙を案内してあげなさい」
「は、はい!」
即座に背筋を伸ばし、小悪魔が応じる。
「それと、これも持っていきなさい」
パチュリーが何かを投げ、魔理沙が片手でそれを受け止めた。
それは、薬の薬包だった。
「永遠亭の正規の薬よ。もう品切れで貴重だから、慎重に扱いなさい」
魔理沙は頷き、ポケットへと仕舞う。笑顔で短く礼を言った。
「ああ、ありがとな」
◆
―紅魔館、図書館奥の魔法実験室。
扉をくぐった瞬間、空気の質が変わる。
紙とインクの匂いに代わり、薬品のかすかな刺激臭が鼻についた。
広い室内には、整然と器具が並んでいた。
長い実験台の上には、大小さまざまなビーカーや三角フラスコ、丸底フラスコが規則正しく配置され、
ガラス管は蜘蛛の巣のように組み上げられ、蒸留装置がいくつも据え付けられている。
他にも、乳鉢と乳棒、精密天秤、金属製のピンセットや試験管立て、アルコールランプ等が設えてあった。
棚には色とりどりの薬品瓶が並び、ラベルには薬品名や成分名が記されていた。
それはまさに、魔法使いや薬士にとっては垂涎に値する空間だった。
「かぁ~…、金持ちの友人がいるってのは、羨ましいぜ」
魔理沙が実験室を見渡し、感嘆とも呆れともつかぬ息を漏らす。
「パチュリー様は調合があまり得意ではありませんので、実際に使われることは少ないのですけどね」
小悪魔が、どこか申し訳なさそうに微笑む。
「へぇ…宝の持ち腐れってやつか」
魔理沙は軽く肩を竦める。しかしその目は、輝いていた。
「ところで、何をなさるおつもりですか?」
小悪魔が、改めて問いかける。
魔理沙は、ポケットから小さな薬包を取り出し、もう一方の手には別の包みを掲げた。
「話は単純だ。永遠亭の正規品と、蟒蛇から押収した闇ルートの薬。こいつらを、徹底的に分析する」
その口元に、いつもの自信に満ちた笑みが浮かぶ。
「分析…ですか」
「永遠亭の製薬レシピが盗まれたって話だったよな。なら、本物と中身がどこまで同じか…あるいは、どこが違うか。
そこを調べて、犯人像に迫ろうって寸法だ」
薬包を指で弾き、にやりと笑った。
「なるほど…!」
小悪魔は、静かに頷いた。
「よし、それじゃあ始めるか!小悪魔、手伝ってくれよな」
「はい!」
小悪魔が小気味良く返事をした。
◆
魔理沙はまず、二種類の薬をそれぞれシャーレへと移した。
ピンセットでごく微量を摘み取り、慎重に別の試験管へと分ける。
透明な液体をビーカーから注ぎ、軽く揺らす。粉末はゆっくりと溶け、色を帯びた溶液へと変わっていく。
次に、丸底フラスコへと移し替え、ガラス管を接続する。
アルコールランプに火を灯すと、淡い炎が揺れ、液体が温められ、やがて、蒸気が立ち上る。
冷却管を通り、透明な滴となって別の容器へと落ちていく。
その一連の動きは、驚くほど無駄がなかった。
小悪魔は作業を手伝いながら、その様子をじっと見つめていた。
―意外だった。
豪放で、直感で突き進むような印象の強い魔理沙。
だが今、目の前にいる彼女は、まるで別人のように繊細で、集中していた。
火加減を調整する指先。
液体の色の変化を見逃さぬ視線。
一連の作業の手際の良さ。
どれもが、熟練のそれだった。
小悪魔は、思わずその姿に見入った。
(―やっぱり、魔理沙さんは、魔法使いなんだな)
主人とは、性格も、気質もまるで正反対だ。
だが、その根底に流れるものは、確かに同じだった。
知を求める執念。
魔法への飽くなき探究心。
現象を解き明かそうとする情熱。
それは、炎のように激しく、同時に、氷のように冷静で理知的でもあった。
小悪魔は、主人がなぜ、度々本を盗み出す厄介者の魔理沙を図書館から完全に締め出さないのか、
その理由の一端を知った気がした。
―そして、ほんの僅かに、淡い嫉妬が心にちくりと刺さった。
◆
作業を始めてから、すでに数時間が過ぎていた。
実験室の空気は、薬品の微かな匂いと、長時間の集中がもたらす張り詰めた静寂に満ちていた。
魔理沙は分析結果を書き連ねたノートを片手に、低く唸っていた。
その表情は、普段の軽薄さは影を潜めている。
「で、結果はどうでしたか?」
小悪魔が問いかける。その声には、期待と不安が織り交ぜられていた。
「そうだな…平たく言えば、正規の薬を便宜上純度100%とするなら、闇ルートの薬はおよそ80%ってところだ。
原材料は一致してる。だが、精製工程が僅かに異なるんだろうな」
「80%…ですか」
小悪魔は指先で顎に触れ、思考を巡らせる。
「つまり、製薬レシピを盗んだ何者かが、再現しきれずに作った粗悪品、ってことでしょうか」
小悪魔の言葉に、魔理沙は同意の相槌を打った。
ふと、疑問に思う。…本当にそうだろうか?
改めて、分析結果を記したノートに視線を落とし、思考を巡らせた。
その数字の羅列を眺めていると、違和感が引っかかった。
(なんだ…?)
何度も見返し、数字を比較する。そして―脳内に電流が走った。
大きな矛盾点があったことに気づいたのだ。
「…いや、最初は私もそう思ったんだがな。どうも、違うかもしれない。
というのも、どの分析結果も、ほとんど誤差がなく『80%前後』に収まってるんだ」
魔理沙の言葉に、小悪魔は疑問符が頭の中に浮かんだ。
「…何かおかしいのですか?」
「それが、大アリなんだよ。いいか、調合ってのはな。
気温、湿度、火加減、蒸留時間―ほんの些細なズレで結果は大きく変わるんだ。
素人が製薬レシピ通りに調合したとしても、もっと純度の幅がバラつくはずなんだよ」
魔理沙はまるで講義する先生のように、身を乗り出して滔々と説明した。
その言葉に、小悪魔の目がはっと見開かれる。
「なるほど。つまり、安定して80%前後を維持していること自体が、不自然、ということですね」
「そういうことだ」
魔理沙は口の端を吊り上げた。
「でも、精製の際は一度にまとまった数の薬が作られますよね。
純度が近いのは、たまたま同ロットの薬だった、とも考えられませんか」
小悪魔の疑問に、魔理沙は机に並べられた薬の包みを指で示した。
「この包みの右端に、数字があるだろ?」
小悪魔が覗き込むと、小さく「三・二四」「三・五六」「四・十三」といった漢数字が記されていた。
「恐らくだが、左がロット数で、右が同ロット内の連番なんじゃないかな。
これを作った奴は、余程きっちりしているのか、いつ製造した薬を、誰に卸したのか、厳密に薬の在庫管理をしてたんだろう」
魔理沙の声色は確信に満ちていた。
「ふむ…。つまり、左の数字が同じならば同ロット、違えば別ロットの薬ということですね。じゃあ…」
その小悪魔の言葉を継いで、魔理沙が頷きつつ答えた。
「同ロットと、別ロットの純度を比較してみたんだが、同ロットは完全に同一。
別ロット間だと、ほんの僅かに違いが見られた。78%とか、81%とか、小さな差異だけどな」
小悪魔はゆっくりと息を呑んだ。
「ってことは、これは…素人仕事に見せかけたプロの仕事ってことですね」
魔理沙の瞳が、鋭く光る。
「その通りだ。これは意図的に純度を落とした、精密な仕事―職人芸ってやつだな。
人里の薬剤師や町医者でも不可能だろう」
静寂が落ちた。
実験室には、冷静な思考の冷たさと、新たな事実の発見による熱い興奮が混ぜ合わさった、独特の空気に満ちていた。
「となると、後は魔理沙さんのような魔法使い、もしくは…」
「いや、調合の得意な私でも、ここまで安定した精製は無理だ。第一線の本職じゃないと。
しかも、大量生産できる設備と人手を持ち、人間にも妖怪にも薬を流通させるコネを持っている。
個人ではなく、組織の仕業だな…となると、考えられるのは?」
魔理沙の問いに、小悪魔は目を閉じ、思考の海へと潜った。
「妖怪の山は、設備は河童が整えられますが、製薬のプロはいないですよね」
小悪魔は言いつつ、頭の中で幻想郷の勢力図を一つ一つ思い浮かべては、容疑者から消していった。
そして、最後に残った、一つの勢力。
「―永遠亭」
小悪魔がその名を口にした瞬間、空気が冷えた気がした。
魔理沙は満足げに笑う。
「正解だ。製薬レシピ盗難も、おそらく自作自演。
純度を落として『レシピを盗んだ素人の仕事』に見せかける―見事な煙幕だぜ」
小悪魔は感心したように声を上げた。
「なるほど、用意周到ですね…。けど、永遠亭の誰が黒幕なんでしょうか?
それに、確たる証拠はないですよね」
「だいたい見当はついてる。恐らく、あいつだ」
魔理沙は軽く肩を竦めて笑う。
「だがな、お前の言う通り状況証拠ばかりで、決め手がない。そこで、最後の一手だ」
その笑みは、まるで盤上を読み切った棋士のようだった。
「小悪魔、お前は花粉の発生源の犯人のところへ行ってくれ」
「え…?誰か分かったんですか?」
小悪魔は目を見開く。
「ああ、分かってるさ。全部繋がった」
魔理沙は、ミニ八卦炉を指先でくるりと回した。
「そいつの正体は―」
◆
小悪魔は、青空を滑るように飛びながら、地上へ視線を落としていた。
風はまだ冷たく、しかし運ばれてくる空気には、あの忌まわしい花粉の気配が確かに混じっている。
ふと、視界の端に、見慣れた人影が映った。
羽ばたきを止め、小悪魔は地上へと降り立った。
「アリスさん!」
弾かれたように声が飛び出した。
呼ばれた人物―アリス・マーガトロイドは、静かに振り返る。
その整った顔立ちに、一瞬だけ意外そうな色が差した。
「あら…小悪魔じゃない。どうしてこんなところに?」
「それはこちらの台詞ですよ」
小悪魔は息を整えながら、まっすぐに彼女を見た。
「私は、魔理沙さんから花粉症異変の原因が、この近辺にいると聞いて来たんです」
その言葉に、アリスの表情が変わった。驚きと、そして納得。
「…そう。貴方たちも、ここに辿り着いたのね。私もね、独自に調べていたの。この異変を」
その一言で、互いの立場は明らかになった。
二人はその場で、自然と情報を交換し始める。
「なるほど…」
小悪魔は、アリスの話を聞き終えると、静かに頷いた。
「スギ花粉散布の容疑者は、アリスさんのお知り合いだったんですね」
「ええ」
アリスは頷き、遠くを見るように視線を逸らした。
「それにしても、裏で薬の精製と闇取引に手を回す別の黒幕がいたなんて、ね…。
確かにあいつなら、やりかねないわ」
そこには確信と、僅かな苦味が混じっていた。
「ただ…決定的な証拠がなくて。だからこそ、ここへ来ました。
もう一方、花粉そのものを生み出している犯人の元へ」
「なるほど」
アリスの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「事情は分かったわ。だったら、私も協力させてもらう」
その言葉は短く、しかし迷いがなかった。
小悪魔は笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。心強いです」
小悪魔は顔を上げ、周囲を見渡した。
「ところで…肝心のその人物は?」
その問いに、アリスはふっと空を仰いだ。
「噂をすれば、ってやつね」
つられて小悪魔も視線を上げる。青い空の中に、ひとつの影があった。
その人物もこちらに気づいたのか、近づいてくる。
風が、ざわめいた。
< 犯行篇 >
―迷いの竹林。
その奥深く、ひっそりとした一角に、ぽつんと佇むあばら家があった。
屋根は歪み、壁板はところどころ軋み、とても人の住む場所とは思えない。
だが、外観からは想像できないほど、内部は整然としていた。
長い作業台が幾列も並び、その上には無数の器具が規則正しく配置されている。
丸底フラスコ、三角フラスコ、細首の試験管。
蒸留装置一式が組み上げられ、冷却管の中では絶えず水が流れ、かすかな滴音を刻んでいる。
アルコールランプの青白い炎が、静かに揺れていた。
すり鉢と乳棒で乾燥した生薬をすり潰す音。秤で粉末を量る繊細な指の動き。
そこにあるのは、体系化され、管理された生産の現場だった。
忙しなく行き交うのは、幾羽もの兎たちだった。
「三番ライン、抽出終わったよ!」
「黄芩がもうすぐ切れるから、補充お願いねー」
兎たちの声が飛び交う。小さな体で器具を扱い、材料を運び、火加減を調整する。
その動きには無駄がなく、まさに熟練の手際だった。
薬の原材料が次々と刻まれ、煮出され、濃縮され、やがて白い粉末へと姿を変えていく。
そして完成した薬は、小さな包みに詰められ、几帳面に数字が記され、積み上げられていった。
◆
その隣室。
喧騒から切り離された静寂の中で、一人の小柄な兎の少女―因幡てゐが、椅子に腰掛けていた。
彼女は机の上を、どこか焦点の合わない目で見つめている。
そこには、無造作に積み上げられた紙幣と硬貨が、あふれ返り山を成していた。
一円の兌換券(だかんけん)はくしゃりと丸めて束にまとめられ、硬貨が無秩序に光を放つ。
てゐは一枚の紙幣を手に取り、大黒天の姿が印刷されたそれを、指先で軽く弾いた。
ぱちん、と乾いた音が部屋に響く。
その音だけが、やけに大きく感じられた。
「ここまでやるつもりは、なかった…」
ぼそり、と呟く。視線は、金の山に落ちたまま動かない。
「ほんの少し…小遣い稼ぎのつもりだったのに」
唇の端が歪む。笑いなのか、自嘲なのか、判別がつかなかった。
「はは…どうして、こうなってしまったんだろうな」
深く、長い吐息。
その独白は、隣室の規則正しい作業音とは対照的に、どこか空虚だった。
金は積み上がる。薬は作られ続ける。歯車は止まらない。
だが、その中心にいるはずの少女の心だけが、どこか、取り残されていた。
◆
時は少し遡る。
―永遠亭。
因幡てゐは、妖怪兎による組織『兎角同盟』の帳簿を前にして、深くため息を付いた。
人里への薬の行商や、抗うつ薬の精製、カラー兎の販売など、色々と手は尽くしている。
これらの事業は相応の結果を出しているはずなのだが、不思議なことに蓄えは潤沢とはいえず、心許なかった。
支出の活動費の項目を見ると、兎鍋反対を掲げたロビー活動に多額の資金が使われていた。
(非効率的だな…けど、それにしても額が大きい)
一度、鈴仙には無駄遣いするなと、厳しく言わないといけないかもしれない。
「なんか、うまい話はないかな…」
ぽつりと呟き、顔を上げる。
庭先に視線をやると、梅の木が白い花を咲かせていた。
もう暦の上では春だ。そして、花粉が舞う季節でもある。
「花粉症の薬は、よく売れるんだよな…」
それは、至極当然のことだった。
風邪は治れば、もう薬はいらない。だが、花粉症は違う。
花粉のシーズン中は、常に服用し続ける必要があるからだ。
ふと、一つの考えが脳裏に浮かび上がった。
もし、花粉症患者が今よりずっと増えたなら、大儲けできるんじゃないか。
「はは…できるわけない」
花粉の量は年ごとに変わる。自然によるものであり、人為的にどうこうできるわけではない。
それに、永遠亭では毎年永琳が定めた分量の薬しか作らないし、良心的な価格ゆえ儲けが大きいわけでもない。
―だが、仮に。万が一にでも、花粉症患者を意図的に増やすことができたなら。
てゐの目が僅かに細まり、少し思考を巡らせる。
基本方針としては、永遠亭には内密に、独自で薬を大量生産し、闇ルートで高値で売り捌く。
まずは、原材料の確保だ。
顔を見られるのはまずいから、金で雇った別人に仕入れさせる。
次に、製薬。
永遠亭の設備は当然使えない。
迷いの竹林には、かつて誰かが住んでいたであろう無人のあばら家が幾つか存在する。
そこを整備し、器材と原材料を持ち込み、その周辺だけ「迷いの術」を施す。
器材は、永遠亭の廃棄予定のお古を流用すれば良い。
これで、外界から切り離された、『調理場』は確保できる。
それだけだと、足がつくかも知れない。
敢えて、正規品とはほんの僅かに製造工程を違え、若干質を落とす。
万が一、成分を分析された際に、正規品と全く同等だとプロの犯行だと露呈してしまう。
結果的に、永遠亭へ疑惑の目が向けられてしまうからだ。
質が落ちていようと、薬としての効果は十分なはずだ。
正規品はあっという間に品切れするだろうから、質にこだわる者などいないだろう。
そうだ、ダメ押しで『永遠亭で管理している製薬レシピが紛失した』と虚偽の報告をすればどうか。
これで、第三者が製薬レシピを盗み、素人が真似て作った、という筋立てができる。
そこまで考えて、てゐは頭を振って思わず笑った。
いくら何でも、妄想がすぎる。
結局は、スギ花粉を操れないと何の意味もないのだ。ただの机上の空に過ぎない。
(―いや、待てよ。本当に、無いのだろうか?)
思考に、揺らぎが生じた。
魔法にはあまり詳しくない、が…紅魔館の引き篭もりの魔女は、七曜の魔法を操ると聞く。
ならば、木行の魔法で、植物を制御できないだろうか。
…いや、スギ花粉をどうこうするような、そんな都合の良い魔法が都合よくあるとは思えない。
他に思いつくのは、風見幽香だ。
彼女は花を操ることができる。ということは、植物であるスギも操れるだろう。
だが、仮に、幻想郷の全ての杉から従来の倍の量の花粉を出したとして、
それで花粉症が大量発生するだろうか。
スギ花粉は幻想郷内のものだけではない。外の世界からも、博麗大結界を越えて飛んでくる。
むしろ、そっちのほうが大部分を占めるだろう。結界内のスギだけを操ったところで、たかが知れている。
てゐは、軽く頭を振った。思考は、静かに閉じられた。
やはり、無理があったのだ。
馬鹿げた妄想はやめて、眼の前の数字と向き合わないと。
その時、ふと、記憶の底に沈んでいた光景が浮かび上がった。
どこかの宴会で…博麗神社だったか、守矢神社だったか、忘れてしまったが。
酒の香りと笑い声に満ちた夜、東風谷早苗と話したことがあった。
彼女曰く、何でも、外の世界では花粉症は想像以上に恐れられており、
花粉症に罹った者にとって、スギ花粉は忌むべき存在であり、外を出歩くことすら苦痛なのだ、と。
酔った早苗は、大仰な身振りを交えて、若干興奮気味にこう言っていた。
『まるで、腐海の底にマスク無しで降り立ったナ◯シカの気分ですよ!』
その比喩はいまいちピンとこなかったが、何となくその深刻さは理解できた。
だとすれば、人里の花粉症の人間もまた、同じように感じているのではないか。
彼らにとっては、スギ花粉は身体を蝕み、呼吸を乱し、苦しめ、日常を奪う―
そう、まるで『毒』のようなものではないか?
どくん、と心臓が跳ねた。
浮かび上がるその可能性に、静かに熱と興奮がせり上がってくる。
もしも。もしも彼らが、スギ花粉を『毒』だと認識していたら。
『毒』を操る能力によって、スギ花粉を、より強力な毒として、いくらでも生成できるんじゃないか。
頭の中に、メディスン・メランコリーの姿が浮かんだ。
人間に捨てられ、人間に深い恨みを持つ、人形の妖怪。
彼女は、あらゆる毒を自由に操る能力を持つ。
メディスンとは、永遠亭の製薬で使用する、ラベンダー毒の仕入れで接点がある。
「人間を苦しめるために、強力なスギ花粉をばら撒いてほしい」と頼めば、
目を輝かせて、喜んで協力してくれるのではないか。
しかも、彼女は子供だ。甘い言葉で囁やけば、いくらでも手球に取れる。
これら全てが仮に成立した場合、最も重要な点がある。
それは、あくまで「花粉症患者がいつもよりも多く出現する」程度に留める必要がある、ということだ。
あまりにも多すぎると、怪しまれる。
最悪、異変だと判断され、博麗の巫女が動くかもしれない。そうなれば、終わりだ。
それに…別に私は、悪人ではない。
程々の規模に留め、小金を稼げばそれでいい。
毎年花粉で苦しんでいる連中が、少し増えるだけだ。
やがて季節の移ろいとともにスギ花粉も飛ばなくなり、花粉症も消え、何事もなかったかのように日常が戻る。
それで終わりだ。
それ以上は、望まない。やりすぎると、足元を掬われる。
(―これは、試してみる価値はあるんじゃないか?)
自然と、てゐの口の端には笑みが浮かんでいた。
◆
―無名の丘、ラベンダー畑。
本来であれば、あたり一面を覆うはずの紫の絨毯は、まだ影も形もなかった。
芽吹いたばかりの若い株が、春の気配を受けて静かに息づいていた。
てゐはその上空を飛びつつ、視線は地上を舐めるように見渡していた。
やがて、目当ての妖怪を見つけ、ふわりと高度を落とし、土を踏む。
そこにいたのは、小柄な少女の姿をした妖怪―メディスン・メランコリーだった。
「あれ、てゐ?どうしたの、こんな時期に。ラベンダーはまだ咲いてないよ」
どこか無垢な調子で首を傾げる。
ラベンダー畑をぐるりと見渡し、小さく肩を竦めた。
「今日は別件だ。ちょっと、あんたに頼みたいことがある」
てゐの声音には、いつもの軽さとは違う硬さが混じっていた。
メディスンの瞳が、好奇心に揺れる。
てゐは一歩距離を詰めると、言葉を選ぶように間を置き、ゆっくりと口を開いた。
◆
「人間を花粉症で苦しめるために、スギ花粉を生成できないかって?」
メディスンは、僅かに目を見開き、意外そうに声を上げた。
驚きと、興味が混じっていた。
「うん。もしスギ花粉が人間の間で『毒』として認知されているなら、メディスンの能力で作れるはずだ」
てゐの瞳は真剣で、揺らぎがなかった。
メディスンは首を傾げ、しばし考え込んだ。細い指先が顎に触れ、視線が宙を彷徨う。
「人間を苦しめるのは大歓迎だけど…まあ、ちょっとやってみるよ」
ゆっくりと目を閉じ、片手を上へと掲げる。
手の平は空を受け止めるように開かれ、その上に、淡い光が集まり始めた。
最初はかすかな粒子に過ぎなかったそれが、次第に密度を増し、ひとつの塊へと収束していく。
空気が、僅かに震えた。
やがて、ぱち、と乾いた音が弾けたかと思うと、閃光が一瞬だけ走った。
その直後、黄色い粉末のようなものが、ふわりと宙に漂い始めた。
メディスンはゆっくりと目を開き、小さく息をついた。
「どうかな?」
その問いに、てゐは無言で応じる。漂う粉を指先で掬い取り、じっと見つめた。
見た目は、完璧だ。本物のスギ花粉と見分けがつかない。
だが、それだけでは―。
「…は、はっくしょん!」
突如、鼻の奥がむず痒くなり、堪えきれずくしゃみが弾けた。
その一瞬の反応が、何より雄弁だった。
「…完璧だ。これなら、いける!」
てゐは思わず飛び上がって喜び、笑みを浮かべた。その顔には、抑えきれぬ歓喜が滲んでいた。
「これを、幻想郷全体に、大量にばら撒き続けることはできるか?」
「風上に立って、毎日一定時間、能力で生成し続ければ…たぶんいけると思う!」
メディスンの瞳が輝いた。
その奥にあるのは、純粋な期待―いや、もっと直接的なものだ。
「ねえ、これで人間たち、いっぱい苦しむんだよね?怖がって、逃げ場もなくて…」
「ああ、もちろんだ」
てゐは即答した。口元に、細く鋭い笑みが浮かんだ。
メディスンもまた、それに応じるように、にやりと笑った。
だが、てゐはすぐに表情を引き締める。
「ただし、注意がある。あまり派手にやりすぎちゃだめだ。
異変として認知されたら、博麗の巫女が動くかもしれない。あくまで程々に抑えるんだ。いいな?」
その言葉に、メディスンは不満そうに唇を尖らせた。
「えー?どうせやるなら、もっと徹底的にやろうよ」
「だめだ。もし暗躍が露見して、討伐でもされたら終わりだ。全部無駄になる」
間髪入れずに否定する。
その現実的な言葉に、メディスンは渋々といった様子で頷いた。
「それと、もう一つ。万が一、花粉の発生源に気づいた奴が訪ねてきても、
絶対に知らぬ存ぜぬを通すんだ。当然、私の名前も出しちゃいけない。いいな?」
てゐはさらに一歩踏み込み、詰め寄った。
「そんなの、言われなくてもわかってる。子ども扱いしないでよ」
メディスンはむっとした顔で不満げに言い返した。
「…よし、それでいい。それじゃあ、決行は一週間後。実際に花粉が飛び始める時期に合わせる。
きっかりその日から、スギ花粉をばら撒くんだ」
「うん!」
てゐの言葉に、メディスンは素直に頷いた。
「…いい子だ」
てゐは胸の奥で、静かに笑った。
(―所詮、子どもだな。単純なもんだ)
すべては、思い描いた通りに進んでいる。
今のところ、歯車は狂うことなく、確実に回り始めていた。
◆
―永遠亭。
自室の奥、静寂に包まれた空間で、因幡てゐは腕を組み、じっと思索に沈んでいる。
頭の中では、今後の計画について細部に渡って比較検討が行われていた。
その知的労働は、微量の興奮と、得も言えぬ心地よい緊張を伴い、自然と口の端が歪んでいた。
(―都合のいい手駒が欲しい)
それは、計画を現実へと引き寄せるための必須条件だった。
原材料の仕入れに、人里での闇取引。
どちらも、自らの手を汚すわけにはいかない。
ましてや、配下の兎たちを使うなど論外だ。繋がりが露見すれば、それだけで全てが崩れる。
ならば、誰を使うべきか。
条件は明確だった。自分との縁が薄く、切り捨てても問題のない存在。
兎角同盟は人里で薬を販売している。その関係で、ある程度は事情に詳しい。
思考の中で、候補がいくつか浮かび上がる。だが、そのどれもが決定打に欠けていた。
ふと、一つの顔が脳裏に浮かぶ。人里にひっそりと潜む妖怪。
比較的最近になって住み着いた蛇の妖怪、蟒蛇だ。
大酒飲みで、大食いらしく、よく胃腸薬を買い求める姿が思い出された。
その身なりも、金に余裕がある風には見えなかった。
そして、人里で人間の姿に扮して生活している以上、余計な騒ぎは避けたいはずだ。
「…あいつなら、ちょうどいいな」
てゐは小さく呟き、にやりと笑った。ゆっくりと腕を解き、机へと向かった。
静まり返った部屋に、筆の走る音だけが、小さく響いていた。
◆
―人里、長屋の一室。
仕事帰りの蟒蛇が引き戸を開け足を踏み入れると、薄暗い室内に、かすかな違和感を覚えた。
戸口の脇に、見慣れぬ包みが一つ、無造作に置かれていた。
蟒蛇は眉をひそめ、しばしそれを見下ろす。
手に取って、子細を眺める。差出人の名はない。ましてや、届け物が来る覚えもない。
そもそも、施錠していたはずの室内に置かれている時点でおかしい。
警戒しつつ、紐をほどき、包みを開く。
中身を目にした蟒蛇の身体が、ぴたりと固まった。
そこにあったのは、札束だった。一円の兌換券が、整然と束ねられていた。
息が、止まる。指先が震え、紙幣をじっと凝視する。
「…こいつは…何の冗談だ?」
思わず漏れた声は、掠れていた。
ふと、この場も誰かに見られているのではないか、という強迫観念が働いた。
思わず、引き戸を開けて外の通りを見渡す。だが、誰もいなかった。
部屋に戻り、改めて包みを見ると、中に一通の手紙が同封されていることに気付いた。
蟒蛇はためらいながらもそれを取り出し、恐る恐る目を走らせた。
=======
人里のすべての薬問屋で、それぞれ別の人間に化けて、以下を相場の二倍の単価で全て買い占めよ。
『甘草』『黄芩』『辛夷』『連翹』『桔梗』
十円は手付金だ。購入した原材料は箱に詰めて、以下住所へ届けよ。
人里 南通りの外れ
朽ちた蔵の並び 三つ目の土蔵
夜半、裏戸より搬入のこと
=======
手紙の末尾には、蛇の鱗が貼り付けられ、赤い墨による丸印で囲われていた。
蟒蛇は、背筋に冷たいものが走った。
この差出人は、自分が蛇の妖怪であることを知っている。
薬の原材料を、相場の倍で買い占めるなど、どう考えても、まともな話ではない。
十円という報酬もまた、異様だった。
普通なら、無視すべきだ。関わるべきではない。だが、もし、断ったらどうなるか?
正体を暴かれ、人里から追われる光景が鮮明に浮かんだ。
世話になった、あの化け狸の大妖怪―二ッ岩マミゾウに相談すべきか、とも考えた。
あの人ならば、きっと親身になって、助けてくれるに違いない。
(―いや)
蟒蛇は、ゆっくりと首を振った。
今は人の姿で働いているとはいえ、暮らしは楽ではない。日々の糧を得るのに、精一杯だ。
それに、目の前にある十円という金額は、あまりにも、大きかった。
沈黙が、部屋を満たす。長い時間、蟒蛇は動かなかった。
札束と手紙を前に、ただ立ち尽くし、思考を巡らせ、悩んだ。
「…くそ」
札束を握りしめ、低く吐き出すように呟いた。迷いは、消えていない。
だが、決断だけは固まっていた。
従うしかない。そう、自分に言い聞かせた。
春とはいえ、安普請の長屋に入り込む隙間風は、冷たかった。
◆
―永遠亭。
その日は、ついに訪れた。
静謐を常とするこの地に、似つかわしくない喧騒が満ち、門前が人と妖怪で埋め尽くされていた。
あちらでは誰かがくしゃみを連発し、こちらでは鼻を押さえながら呻き声を漏らす。
―どこか、不穏な熱気を帯びていた。
てゐは、その光景を見て、目を見開いた。
「…ここまで、とはね」
ささやかな小金稼ぎのつもりだった。だが現実は、それを軽々と飛び越えてきた。
これほどの数が押し寄せるなど、計算外もいいところだった。
胸の奥で、微かな高揚と、同じだけの不安が広がっていく。
計画は今のところ成功している。成功しすぎている、と言ってもいい。
―だからこそ、油断はできない。
喧騒の隙間を縫うように、てゐは静かに踵を返した。
人気のない裏手へ回り込み、誰の視線もないことを確かめると、するりと影のように研究室へ忍び込む。
整然と並ぶ薬品棚、几帳面にまとめられた器具、そして何より―門外不出の製薬レシピが保管されている場所。
てゐは躊躇いなくそれを取り上げた。
「…これで、仕込みは完了だ」
その表情は、いつもの軽薄な笑みとは違い、狡猾で、愉悦を含んでいた。
部屋を出ると、廊下の向こうから足音が近づいてくる。
やがて現れたのは、ブレザー姿の兎耳の少女、鈴仙・優曇華院・イナバだった。
てゐは何事もなかったかのように、軽やかに口を開く。
「鈴仙、これだけ花粉症患者が詰めかけてるのなら、急遽増産が必要になるかもしれないね。
悪いけど、製薬レシピを準備しておいてくれない?」
あまりにも自然な声音。疑う余地すら与えぬ、日常の一コマのような会話だった。
鈴仙は小さく頷き「分かったわ」と返すと、そのまま足早に去っていった。
◆
研究室を見渡した鈴仙は、違和感に気づいた。あるはずのものが、そこにない。
整理された机の上にぽっかりと空白が生まれていた。
「…製薬レシピが、ない?」
その事実は、静かに、しかし確実に胸の中で波紋を広げていった。
「お師匠様に報告しないと…!」
鈴仙は慌てて永琳の私室に向かった。
◆
―翌日。
今日も門前は薬を求める人間と妖怪によってごった返していた。
てゐは、その中に魔理沙と小悪魔を見つけた。
妹紅に聞き込みをしているらしい。どうやら、この花粉症の流行を異変と捉え、調べているようだ。
(ちっ…博麗の巫女はまだ動いてないようだが、まさか、もう嗅ぎつけるなんて…)
てゐは心の中で舌打ちした。
想定外だった。あまりにも、被害者が多すぎた。そのせいで、あの白黒の魔法使いが勘づいてしまった。
小悪魔が同行しているのも気になった。
そして運の悪いことに、廊下でばったりと魔理沙たちに出会ってしまった。
(大丈夫、私に繋がる証拠は何も無い。焦るな、自然体で接するんだ)
自分にそう言い聞かせる。
「…あんたらも花粉症の薬を買いに来たのかい」
てゐが慎重に声を掛ける。
「いえ、私たちは調査に来たんです。この花粉症異変の…」
小悪魔の答えに、てゐは目を見開いた―これは勿論演技だ。
「異変…?あんたらは、これが異変だと思ってるのか?
まぁ、確かに例年と比べると異常なほど患者が多いけど」
変に詰まることもなく、上手く言えた…と思う。
「そのお陰でお前らは、さぞかし懐が暖かくなったんじゃないか?」
魔理沙が挑発するように言う。てゐはむっとした顔を作り、反論する。
「…うちは他所よりも質の良い薬を良心的な値段で扱ってるんだ。沢山売れようと、大した儲けはない」
「ほほぅ…」
魔理沙が目を細めて、どこか疑うような視線を向けてくる。
(構うな、今は演技に集中するんだ)
そう、自分に言い聞かせる。
「そもそも…私たちが本気で薬で儲けようと思ったら、この花粉症の流行に限らず、いくらでもやりようはあるんだ。
その気になれば、幻想郷の医療市場を独占することだって出来る。それに…いや、詳しくは直接お師匠様から聞いてみるんだな」
てゐは言い切ると、ふんとそっぽを向き、その場を立ち去る。
魔理沙たちに背を向け、歩を進めながら、内心で自身の行動を反芻していた。
(うん、不自然な点はない。ボロも出ていない。大丈夫だ)
◆
―数日後。
てゐが『調理場』の別室で、売り子の蟒蛇から回収した金の勘定をしていると、
その中に折り畳まれた小さな紙片―簡素な筆致で走り書きされたメモを見つけた。
そこに記されていたのは、短い報告だった。
大口の顧客が現れたこと。
相手は、妖怪の山であること。
注文数は三千包。
その数字を見た瞬間、てゐの思考は一瞬だけ止まり、次の瞬間には鋭く回転し始めた。
三千。
一包あたり四十銭。
掛け合わせれば、千二百円。
頭の中で計算すると同時に、その額が持つ重みが、ずしりと現実味を帯びて迫ってくる。
人里で小銭を拾うように売り捌く日々とは、まるで桁が違う。
口元が自然と緩み、胸の内で、小さな兎が跳ね回るような高揚が広がっていった。
だが同時に、理解していた。この取引は、ただの売買ではない。
今後のすべてを左右しかねない、分水嶺だ。
妖怪の山。
組織としての規模、資金力、そして影響力。どれを取っても、一筋縄ではいかない相手である。
「…売り子に任せるわけにはいかないな」
てゐはゆっくりと呟いた。
僅かな手違いが、すべてを台無しにしかねない。
信頼を得るどころか、疑念を招けば、その先は破滅だ。
この一手は、必ず成功させる必要がある。
それに、もしこの取引が上手くいけば、妖怪の山は、ただの客では終わらない。
継続的に利益をもたらす「太客」となる。
「私自ら、対応するしか無いな…」
竹林の奥で、風が一筋過ぎていった。
◆
―霧の湖。
月が、白く世界を照らしていた。
だがその光は、濃密な霧に呑み込まれ、数メートル先すら曖昧にぼかしていた。
腰に曲刀を差した白狼天狗―犬走椛は、静かに立っていた。手には風呂敷包みを持っている。
時折、周囲を警戒するように見渡す。
「…遅いな」
呟きは霧に吸われ、すぐに消える。
「フフ…時間通りだな」
背後から声を掛けられた。
霧の奥から姿を現したのは、ひと目で異様と分かる人物だった。
広いつばの帽子、サングラス、口元を覆うマスク。襟を立てたコートに身を包んだその人物の背丈は低かった。
―そして、帽子の隙間から覗く、兎の耳。
椛は眉をひそめた。
「…あんたか?売人ってのは。…というか、因幡てゐだろう?こんな暗がりでサングラスとは…
千里眼を持つわけでもないのに、随分と目が利くんだな」
「何を言う」
即座に否定が返る。だが、その声音には僅かな焦りと揺らぎが混じっていた。
「私はてゐではない。そうだな…闇のブローカーX、とでも呼んでくれ」
妙に力の入った名乗りだった。
「あ、ああ…そうか。じゃあ、X」
突っ込むのも野暮というものだろう。
「金は用意した。そっちはどうだ」
言いながら、大きなくしゃみをひとつ。
風呂敷をほどき、手近な岩の上に置いた。そこには、ピン札の束が十二束、並べられていた。
対するXは、どこか芝居がかった所作でアタッシュケースを差し出し、ゆっくりと開いた。
中には白い粉の袋が、整然と詰め込まれていた。
「もちろん、用意している。とびきりのブツだ」
低く、意味深に言い放つ。
椛は首を傾げ、一瞬沈黙した。
「…とびきりのブツって…これ、ただの花粉症の薬だよな?」
その思わせぶりなやり取りに、困惑を隠せなかった。
「疑うようなら、試してみるがいい。ぶっ飛ぶぞ」
そう言って、袋をひとつ放り投げる。
「いや、ぶっ飛ぶも何も…むしろ(症状が)治まってほしいんだが…」
椛は思わず呟きつつ、それを受け取った。
今一、てゐ―いや、Xの意図が分からなかった。
そして、まるで自分が、違法薬物の取引現場にいるかのような居心地の悪さを感じた。
手の薬包を見やり、今ここで服用しろ、ということなのだろう、と結論づけた。
袋を開け、白い粉を口へ含む。
水はない。唾液で無理やり飲み下す。
途端に、強烈な苦味が口腔いっぱいに広がり、思わず顔をしかめた。
「はっ!一気に全部いくとはクレイジーだな!」
Xが愉快そうに笑う。
「普通、そういうもんだろ…?というか、そんなすぐに効くものなのか…?」
椛は訝しげな表情を浮かべた。
「…まあいい。取引成立だな」
風呂敷ごと札束を差し出す。
Xはそれを受け取り、束をひとつ取り上げると、ばらばらとめくる。
さらにその中央から一枚を抜き取り、月光に透かして確認した。
「フン…どうやら本物のようだな」
「当たり前だろ…ヤクザ映画じゃないんだぞ」
椛はため息をつき、呆れを隠そうともしなかった。
「よし、これを受け取ってくれ」
アタッシュケースが差し出される。
椛はそれをしっかりと受け取った。
「これで妖怪の山は、しばらく花粉症に悩まされずに済む。助かったよ、てゐ」
「だから私はXだ」
即座に訂正が入る。
「…大口の客だからな。特別に私が直接対応した。
追加で入り用なら、いつでも言ってくれ。こちらはいくらでも用意できる。
それと言うまでもないが、私のことは一切他言無用だからな。漏らせば、以後は取引しない。
…じゃあな」
そう言い残し、コートを翻す。
その姿は霧の中へ溶けるように消えていった。
しばしの沈黙。
「…兎の間では、ギャングごっこが流行ってるのか?」
椛はぽつりと呟き、肩を竦めた。
そして、アタッシュケースを抱えたまま、夜空へと舞い上がる。
霧の湖の上に、再び静寂が降りた。
◆
―更に数日後。
商売は、驚くほど順調だった。
調理場の別室。
机の上には一円札と硬貨が無造作に積み上がり、小さな山をいくつも形作っている。
てゐは椅子に深く腰掛け、その光景を眺めていた。
「…まさか、ここまで上手くいくなんてね」
口元が緩み、やがて抑えきれない笑みが零れ落ちる。
金の匂い。成功の手触り。
それらがじんわりと心を満たし、思考を甘く鈍らせていく。
最近では、妖怪の山ほどの規模ではないが、別の大口顧客が現れた。
命蓮寺だ。どうやら、信者たちに薬を配るらしい。
人里で売り子を使い、小口でちまちまと売るよりも、組織へ一括で卸す方が、遥かに早く、遥かに大きく、金へと変わる。
売り子への手数料がかからない点も魅力的だった。
もっとも、人里の流通も無駄ではない。
個人に売り、噂が流れ、その噂が広がり、やがて大口の客を呼び寄せる。
「…我ながら、よくここまでやったもんだ」
自嘲とも自賛ともつかぬ呟きを漏らし、更に先へと思考を巡らせる。
「次は、紅魔館がいいかもな…」
あの館には、メイド妖精やホフゴブリンが大勢所属している。
消費量は膨大だ。営業をかけて取引が成立すれば、妖怪の山に匹敵する上得意となるだろう。
そして何より、あの生意気で傲慢な吸血鬼が、自分の薬を求めて金を差し出す。
その光景を想像した瞬間、てゐの口元は、意識せずとも歪んでいた。
「…いや、待てよ」
不意に、その思考が止まる。
「私は、何を考えているんだ…?」
胸の奥に、ひやりとしたものが落ちた。
霧雨魔理沙は、この一連の出来事をすでに異変と断じ、調査に当たっている。
そしてその傍らには、小悪魔がいた。
あいつは紅魔館の魔女の使い魔だ。当然、魔女の意志によって動いていると見るべきだ。
パチュリーは、当主レミリアの親友であり、紅魔館の参謀的存在でもある。
巨額の金が動く取引だ。当然、レミリアはパチュリーに相談するだろう。
「…馬鹿か、私は」
思わず、低く吐き捨てた。
それはまるで、燃え盛る火の中へ自ら飛び込むようなものだ。
その事実に気づいた瞬間、背中に冷水を浴びせられたかのような感覚が走る。
浮かれていたのだ。
目の前の金に酔い、ほんの少しの警戒すら失っていた。
長年培ってきたはずの危機に対する嗅覚が、鈍っていた。
ゆっくりと、もう一度机の上を見渡す。
そこにあるのは、先程と同じ金の山。
だが、もはやそこに、浮かれた喜びはなかった。
胸の奥で、別の感覚が目を覚ます。
生き延びるための、本能。
「…これ以上は、危ない」
もう、十分すぎるほど稼いだ。
そもそも、ここまでビジネスを広げるつもりはなかったのだ。
リスクは最小に。利益はそこそこに。
それで良かったはずだ。
「…潮時、か」
てゐは静かに呟いた。
そこには、長く生きてきた者だけが持つ、慎重な諦観が滲んでいた。
◆
―無名の丘、ラベンダー畑。
まだ花をつけぬラベンダーが、そよ風に揺れていた。
それらが微かに擦れあう音と、時折聞こえる小鳥のさえずりが奏でる協奏曲が、耳に心地よく響く。
そんな場に似つかぬ怒声が、突如響いた。
二つの人影が、激しく言い争っていたのだ。
てゐと、メディスンだった。
「なんで、やめる必要があるの?人間を苦しめようって、言ったじゃない!」
メディスンが、今にも噛みつかんばかりの勢いで詰め寄る。
てゐは、一歩も引かず、どこか宥めるような声音で応じた。
「…やり過ぎたんだよ。人間どころか、多くの妖怪まで巻き込んでる。
最初に言っただろ?派手にやりすぎてはだめだ、と。もうその一線を越えてしまったんだ」
ふぅ、と息をつく。
「もう十分だ。これで終わりにしよう」
だが、その説得の言葉はメディスンには届かなかった。
「嫌よ!人間を苦しめられるなら、私はそれでいい!他の妖怪なんて知ったことじゃないわ!」
その瞳には、純粋な悪意と曇りのない憎悪が宿っていた。
てゐは、ぎり、と歯を食いしばった。
(―読み違えた。まさか、ここまで強情だなんて…)
ただの子供。扱いやすい駒。
簡単に手球に取れる、御しやすい相手。
その甘い考えは、手痛いしっぺ返しとなって自分に返ってきてしまった。
一瞬、力で抑え込む考えが脳裏をよぎる。
だが、それは悪手だと、理性によって踏みとどまった。
「…別の方法がある」
てゐは、慎重に言葉を選んだ。
「人間だけに効果が出るプランだ。もっと効率よく、もっと確実に苦しめられる。
そのための準備が必要なんだ。だからまずは、一度止めて―」
「…馬鹿にしないで」
低く、冷たい声が、それを断ち切った。メディスンの目が細められる。
「どうせ、自分が思ってたより大事になってきたから、ビビって止めに来たんでしょ?
全部、分かってるんだから!」
その言葉に、てゐは驚き、息を呑んだ。
(見抜かれている…)
ただの子供だというこれまでの認識は、間違っていた。
そして、取り返しのつかない事態に陥りつつある、という自覚が胸の奥から湧き上がってきた。
「…貴方も、同じなの?私を捨てた人間と…同じように…」
空気が、変わった。
「さんざん利用して…最後には、裏切るつもりなんでしょう?」
その声には怒りだけではなく、沈殿した怨嗟が、じわりと滲んでいた。
てゐは湧き上がる苛立ちを何とか抑え込み、なおも説得を試みようとした。
「何馬鹿なことを言ってるんだ。そんなわけ―」
「結局、あんたも同じじゃない」
遮るように、言い切られた。
「私はやめないからね。こんな楽しいこと、やめられるわけないじゃない!」
そう叫ぶや、メディスンの身体がふわりと浮き上がった。
制止の言葉をかける間もなく、彼女は空へと舞い上がり、そのまま高速で遠くへと消えていった。
「…くそっ!」
てゐは思わず吐き捨てた。
すべては、計画通りのはずだった。
だが今や、その流れは手を離れ、どこへ向かうかも分からない有り様だ。
風が、てゐの髪と兎耳を靡かせていた。
しばらくその場に立ち尽くし、やがてゆっくりと目を伏せた。
◆
―永遠亭。
昼下がりの廊下には柔らかな陽が差し込み、障子越しに揺れる竹の影が、床へと落ちていた。
その穏やかさとは裏腹に、廊下の一角に立つてゐは、居場所を失ったように沈んでいた。
「最近、元気がないみたいだけど…どうしたの?」
背後からかけられた声は、柔らかく、気遣いに満ちていた。
振り返らずとも分かる。鈴仙だった。
「…鈴仙には関係ないだろ」
てゐが短く、棘のある返答をする。
無意識に耳を伏せ、視線を逸らす。陽だまりの中にいるはずなのに、妙に寒く感じた。
「なにか悩みがあるのなら、私に…」
言いかけた鈴仙の声は、どこまでも真っ直ぐだった。
その真っ直ぐさが、今のてゐには、ひどく煩わしく思えた。
「何も無いって!」
思わず、強く言い返す。その直後、てゐの表情に後悔の色が差した。
謝罪の言葉を口にしようとしたが、何も出てこなかった。
「…」
鈴仙は一瞬、言葉を失った。
やがて、静かに息を吸い、胸の前で手を重ね、そっと目を伏せた。
「気が変わったら、いつでも聞くからね」
やわらかな微笑みとともに、優しく告げる。
そして、鈴仙は足音を立てずに去っていった。
残されたのは、揺れる竹の影と、後悔の念だけだった。
「…ごめん」
誰もいなくなった空間に向けて、ぽつりと漏らした。
「けど、鈴仙を…」
続く言葉は、喉の奥で途切れた。深く息を吐く。
てゐはゆっくりと歩き出した。その兎耳は、力なく垂れ下がっていた。
汚れ一つない廊下は、永遠に続き、出口がないかのように思えた。
◆
―そして、現在。迷いの竹林、『調理場』。
薄暗い室内に、薬品の匂いと、かすかな熱気が籠もっていた。
整然と並ぶ器具の間を、兎たちが忙しなく行き来している。
別室ではただ一人、てゐだけが、時の流れから取り残されたように、机の前の椅子に座り込んでいた。
「…はぁ」
そのため息は重かった。思考は堂々巡りを繰り返し、出口のない迷路の中で彷徨い続けるのみだった。
―蟒蛇は、霧雨魔理沙によって捕まった。
それは、人里の販売網が終わったことを意味していた。
代わりの手駒を用意することは可能だったが、もはやてゐにその意志はなかった。
じわり、じわりと、見えない捜査の手が、確実に自分の首元へと伸びてきている。
そんな錯覚が、いや、確信に近い感覚が、てゐの背筋を這い上がった。
未だ精製の途中にある薬が大量にある。
妖怪の山からは、追加注文が届いていた。
どうするのか。どうすればいいのか。
一度走り出した馬車が、坂道で止まりたくとも止まれず、転げ落ちていく様が脳裏に浮かんだ。
「…なんでこんなことに!」
堪えきれず、思わず叫び、拳を机に振り下ろす。乾いた衝撃音が室内に響いた。
その震動で、積み上げられていた紙幣と硬貨の山が崩れ、一部が床へとこぼれ落ちた。
…最初から、歯車は狂っていたのかもしれない。
そもそも、メディスンが花粉を撒きすぎた。それが、すべてを破綻へと導いた。
患者数は想定を超え、需要は膨れ上がり、流通は拡大の一途を辿った。
(…いや、もはや、メディスンは関係ない)
今重要なのは、自分の保身をどうするか、だった。
この事業から、完全に手を引く。証拠は何も残していない自信はある。
視線が、並べられた器具と、精製途中の薬へと向けられた。
いっそ、全てを廃棄してしまおうか。全てを焼き払い、何もかもを無かったことにする。
それで、異変と自分を繋ぐ線は、全て消え去る。
妖怪の山の追加注文も、無視してしまえばいい。
稼いだ金は、すぐに表沙汰には出来ない。いきなり大金が現れたら、誰だって不審に思う。
兎角同盟の帳簿を弄り、各事業の売上を水増しし、それを埋める形で補填する。
そうやって少しずつ、時間を掛けてロンダリングすればいい。
その時、脳裏にとある光景がフラッシュバックのように蘇った。
それは、月明かりの下、濃霧の漂う湖畔での取引現場―犬走椛の言葉だった。
『…あんたか?売人ってのは。…というか、因幡てゐだろう?こんな暗がりでサングラスとは…
千里眼を持つわけでもないのに、随分と目が利くんだな』
―椛には、正体がバレている。
あれは、ただの当てずっぽうではなく、確信に近い響きを持っていた。
「くそっ…!」
てゐは頭を抱え、その場に崩れるようにうずくまった。
これでは、注文を無視なんてしたら、どんな報復を受けるか分かったものではない。
妖怪の山を敵に回すなど、あまりにも愚かだ。
「完璧な変装だったのに…どうしてバレたんだ!」
そもそも、自分で取引現場に赴いたこと自体が誤りだったのかもしれない。
だが、今更悔いても後の祭りだった。
てゐはゆっくりと息を吸い込み、肺の奥まで空気を満たし、時間をかけて吐き出した。
深呼吸を繰り返し、心と頭を落ち着けさせる。
そして、深く沈思する。やがて、一つの結論に到達した。
妖怪の山の追加注文は、応じる。
だが―それで終わりにする。
取引の場で、もう作れないと、正直にはっきり告げる。
原材料不足とでも言って、ごまかせばいい。
「…これしかない」
独り呟いた。
後一回だ。これで終わりだ。
そう自分に言い聞かせた。
だが、胸の奥では、まだ何かがざわついていた。
◆
―霧の湖。
月明かりが濃霧に注ぎ、その淡い光を拡散させる。それらは、周囲の景色を覆い隠していた。
椛は、霧の中から現れたてゐが以前と同じようなギャングめいた格好をしているのを見て、
思わず「…まだロールプレイは続いてるのか」と小さく呟いた。
「手短に済ませよう。ブツはここにある」
てゐがアタッシュケースを手早く開いた。中身は、ぎっしりと詰められた白い粉の袋。
椛はそれを見ながら、別のことを考えていた。
X―いや、てゐは頑なにこの演技を続けている。
ごっこ遊びなのか、一種の儀式のようなものなのかは分からないが、少なくとも真剣なのは確かだ。
それに対して素で応じている自分に、後ろめたさにも似た、妙な違和感を覚えていた。
いわば、宴席で皆が興に乗っている中、一人だけ醒めた顔で水を差しているようなものだ。
要するに、自分は「空気を読めていない」のではないか―そんな感覚だった。
日頃から同僚の天狗にも、「椛は真面目すぎる」と言われていたのを思い出す。
(ここは一つ、私もてゐに合わせてみるか…)
そう心に決める。
椛は、非番の日に河城にとりから「てれびじょん」と「びでおでっき」なるもので
ヤクザ映画を見せてもらったことがあった。
そこには、裏社会で生きる男たちの熱い生き様と死に様が活き活きと描かれており、夢中になったものだ。
(あれを参考にしてみるか…)
すぅ、と息を吸う。
今の私は違法薬物の取引現場に現れた、修羅場を潜り抜けてきたヤクザだ―そう自分に言い聞かせる。
肩の力を抜き、ゆっくりと息を吐く。そして―。
「…相変わらず、きっちりした仕事じゃねぇか。金は用意した。確認しな」
普段とは全く違う、低く鋭い、圧の感じられる声だった。
その顔には、いつもの生真面目さは影もなく、不敵な笑みが浮かんでいた。
風呂敷を解き、中の現金を見せると、札束を一つ放り投げる。
てゐは、急に様子が変わった椛に驚き、訝しみつつ、札束を受け取った。
ざっとめくって確認する。今回は、以前のように一枚抜いて透かすようなことはしなかった。
早く終わらせて、本題に入らねばならない。
「…さあ、受け取ってくれ」
掠れた声でそう言いつつ、アタッシュケースを差し出す。椛がそれを受け取った。
「確かに受け取った。…あんたのブツには、うちのボスも満足している。
これからもよろしく頼むぜ」
てゐは目を見張った。
今日の椛はどうしたというのか。普段の実直な武人といった気配は微塵もない。
口調も、声色も、表情も、何気ない仕草さえも、長年裏の世界に身を置いてきた者のそれだった。
しかも、単なる芝居には見えない。何かが憑いたかのように…そう、まるで人が変わっていた。
(二重人格か何かか…?)
だが、椛の様子がおかしかろうと、今日言うべきことは言わねばならない。
「いや、それが…もう、作れないんだ」
てゐは、小さい声で絞り出すように言った。
椛は一瞬、目を見開いた。
「なんだって?それは困…」
困るよ、と言いかけて、今がロールプレイの最中であることを思い出す。
「―今、なんて言った?」
声は極端に低く、どすが利いていた。
その視線は鋭利な刃のように、てゐを射抜く。
「ぁ、えっと…もう原材料がないんだ。だから、この取引で最後になる」
てゐはその視線に耐えきれず、目を逸らした。
椛は曲刀の鞘の底を、思い切り岩に叩きつけた。
甲高い音が霧の中に響き、てゐの身体がびくりと跳ね、硬直する。
「…おい、Xよ。あまり妖怪の山を舐めちゃいけねぇ。お前、最初になんて言ったか覚えてるか?」
その声には、底知れぬ圧があった。
てゐは必死に記憶を辿る。
「『追加で入り用なら、いつでも言ってくれ。こちらはいくらでも用意できる』…そう言ったよな?
あれは法螺だったってのか?」
椛の言葉に、てゐは思わずあっと声を漏らした。確かに、そう言った覚えがある。
「事情が変わったんだ。他に大口顧客が現れ、想定以上に需要が増えて、供給が追いつかない。
原材料も枯渇している。もう物理的に作れないんだよ」
必死の弁解。
だがそれは、すべて出鱈目だった。
少なくとも、今年の花粉症シーズンを乗り切るだけの材料は確保できている。
椛の表情が、氷のように冷えた。
静かに歩き出し、てゐを中心に半円を描いてゆっくりと背後へ回る。
そして、ふう、と小さく息を吐いた。
てゐは、振り返れなかった。
その身体が、小刻みに震えていた。
「…嘘だな」
椛が吐き捨てた。
「妖怪の山の情報網を甘く見るな。人里の売り子が魔理沙に捕まったのは知っている。
それに、うち以外の大口は命蓮寺組の信者連中だろう?」
感情を感じさせないその声音が、かえって、てゐの恐怖を煽った。
一瞬、「命蓮寺『組』」という椛の言い方に違和感を抱いたが、焦燥と恐怖によってすぐ上書きされた。
(派手に暴れた魔理沙の件はともかく、なんで命蓮寺のことまで知ってるんだ…?)
てゐは、額に嫌な汗が浮かぶのを感じた。
―命蓮寺の情報については、単に射命丸文がマミゾウから聞いたのを、椛が又聞きしただけだった。
椛は心の中で文に感謝した。
「小口が潰れ、命蓮寺組の需要もうちの規模には到底及ばない。
それが急に在庫切れ?…通らねぇな。大方、この世界にビビって足を洗おうとしたか?」
てゐは驚愕した。全てが言い当てられていたからだ。
すっと、視界に鞘が入り込む。
椛が曲刀の鞘を、てゐの首筋に添えたのだ。まるで、斬首の前触れのように。
「この世知辛い世の中じゃ、信義だけが価値を持つ。…それを、てめぇは裏切るってのか?」
冷たい感触が首に触れる。
てゐは震え出しそうになる身体を、必死で押さえ込んだ。
「…わ、わかった。何とか都合をつける。だから、それを納めてくれ!」
自分でも驚くほど声が震えていた。身体は石のように固まり、動かない。
「…いいだろう。『漢』同士の約束、絶対違えるな…あばよ」
そう言い残し、椛はゆっくり去っていく。
てゐは解放されたと悟るや否や、全速力でその場を離脱した。
(私もお前も女だろ)という突っ込みすら浮かばなかった。ただ、逃げることで頭が一杯だった。
椛はしばらく歩き、内心で頷いた。
(…うん、今の演技は我ながら良かった)
ふと振り返る。
「なあ、てゐ。今の演技どうだった?よかった……ろ…?」
声をかけるも、そこにはもう誰もいなかった。霧だけが、静かに揺れていた。
◆
てゐは空を裂くように、猛スピードで飛んでいた。
「くそ…!どうしてこうなるんだ!」
目に涙を浮かべながら、喚き声を上げた。
死の恐怖に直面し、震えが止まらなかった。
怖かったのは、椛ではない。その背後にある、妖怪の山という巨大な組織だった。
今の自分は、密かに事業を展開している以上、本件に関して永遠亭の庇護を受けられない。
後ろ盾―いわゆる、『ケツ持ち』もない。
個人対組織という構図に陥ってしまった、現在の状況そのものが、何よりも恐ろしかったのだ。
「もう、逃げられない…。一体…どうすれば…」
その弱々しい声は、濃霧と夜の闇に吸い込まれ、跡形もなく消えていった。
◆
―迷いの竹林。
春風がそよぎ、葉擦れの音が、どこか心をざわめかせるように響いていた。
てゐは、竹林をふらつきつつ、覚束ない足取りで進んでいた。
その目は虚ろで、口の中で何やらぶつぶつと呟き、長い耳は力なく折れていた。
やがて、竹林の奥にぽつりと佇む、みすぼらしいあばら家―『調理場』に辿り着いた。
戸口を押し開けると、現実が濁流のように押し寄せた。
中では、相変わらず兎たちが忙しなく立ち働いている。
そのすべてを、てゐはただ立ち尽くしたまま、眺めていた。
ふらりと足を引きずるようにして別室へ入る。
机の上には、相変わらず―いや、以前よりもなお夥しい量の硬貨と紙幣が、山を成していた。
そのすべてを、てゐはただ立ち尽くしたまま、眺めていた。
これは、自分が築いたものだ。
ほんの小さな思いつきから始まり、手を伸ばし、掴み取り、積み上げた王国。
だが今、それはゆっくりと、確実に掌から零れ落ちようとしていた。
ふっと、視界が歪んだ。光が遠のき、音が消え、輪郭が溶けていった。
世界が静かに暗転し、意識が遠のいた。
◆
奇妙な光景が広がっていた。
一匹の白兎がいた。
上空から、白い粉がさらさらと兎の上に降り注いでいた。
それは清浄の象徴ではなく、どこまでも空虚な色だった。
今度は、無数の硬貨と札束が兎の上に降り注いでいた。
それは富の象徴ではなく、虚栄と無価値を表していた。
やがて、粉と金に塗れた兎に変化が訪れた。
兎の毛並みが、じわりと滲むように黒く染まっていく。
白は侵食され、塗り潰され、やがて完全な黒へと変わる。
そして―音もなく、まるで砂像のように、兎だったものが崩れ落ちた。
床もまた、同時にひび割れ、崩壊し―
すべてが、無へと沈んだ。
◆
万里の遠くから、何かが聞こえた。
「…!…ぃ!」
輪郭が、徐々に浮かび上がる。
「…い!…てゐ!」
誰かが、何かを叫んでいた。
「てゐってば!」
はっと、意識が浮上した。
目の前には、部下の兎がいた。
肩を掴み、必死に揺さぶりながら、大声で名を呼んでいたのだ。
「あぁ…どうした?」
てゐは、何事もなかったかのように装って答えた。
「どうしたって…さっきからずっと呼んでたのに全然気づかなくて…。
まるで魂が抜けたみたいに上の空だったよ。大丈夫?」
兎が心配そうに覗き込んできた。
「ああ…ちょっと、ぼーっとしてただけだ。少し疲れが溜まってて。それで?」
努めていつも通りの調子を繕う。
「あ、うん…お師匠様がお呼びだよ。何でも、お客が来てるって」
◆
―永遠亭、正門前。
数日前まで花粉症の薬を求める人妖で喧騒に満ちていたその場所は、
今では嘘のように静まり返っていた。
一つの人影が、門の横の壁にもたれ掛かり、腕を組んでいた。
霧雨魔理沙だった。
魔理沙はてゐの姿を認めると、ゆっくりと顔を上げた。
「お前に話があるんだ」
その表情は硬く、視線は針のように鋭かった。
…来たか。
てゐは本能で悟り、同時に覚悟を決めた。
もう、この魔法使いは「結論」に辿り着いている。自分を黒幕と断じているのだ、と。
ならば後は、ボロを出さないように口先一つで逃れるしか術はない。
不思議と、焦燥は感じなかった。
こうなるんじゃないか、という思いはずっと前から抱いていたからだ。
「こんな門前では、往来の邪魔になる。ちょっと奥に行こうぜ」
魔理沙に促され、二人は人目を避けるように竹林の奥へと足を運んだ。
◆
ざわり、と笹の葉が揺れた。
風に沿って揺れは広がり、まるで頭上で緑の海原が波を打ったようだった。
二人は足を止め、向かい合った。
「単刀直入に言うぜ。お前が異変の黒幕だろ」
低く抑えた声は、確信に満ちていた。
「はっ、何を言うかと思えば…前にも言ったでしょ?永遠亭はその気になればいくらでも―」
「まあ、まずは私の話を聞いてくれ」
てゐが言いかけた言葉を魔理沙が遮り、そのまま淀みなく語り始めた。
闇で出回っている薬の純度が、正規品より劣ること。
そのくせ、素人仕事にしては異様なほど純度が安定していること。
妖怪の山の大量発注を捌けるほどの、大量生産を可能とする設備と人手を持っていること。
それらを全て備えるのは永遠亭のみであること。
更に、レシピ盗難という虚偽をでっち上げ、外部犯行に見せかけたこと。
てゐは、内心で驚愕していた。
特に、純度の安定性については完全に盲点だった。
質を落とすことばかりに意識が向き、均一性までは考えていなかった。
だが、犯人として裏付けるための明確な証拠はない。
であれば、いくらでも言い逃れは出来る…そう思った。
てゐは表情を崩さぬよう努めつつ、肩を竦めた。
「…さっきから聞いてりゃ、状況証拠ばかりじゃないか。
そもそも、その理屈なら永遠亭の誰もが容疑者だろ?どうして私なんだよ」
「…永遠亭でお前と会った時、お前、なんて言ったか覚えてるか?」
魔理沙がニヤつきながら意地悪そうに尋ねる。
「…」
てゐは記憶を巻き戻してみた。だが、特段おかしなことは言ってない…はずだ。
「『うちは、他所よりも質の良い薬を良心的な値段で扱ってる』と言ったんだよ。
おかしいよな?花粉症の薬なんて、人里の町医者や薬剤師でも扱ってない。
『他所』って、何のことだ?」
魔理沙は変わらず笑みを浮かべていたが、目は笑っていなかった。
てゐは思わずあっと声を上げそうになっていた。
「あの時点で、お前は闇流通用の質を落とした薬を既に生産していたんだろう。
だから咄嗟に『他所よりも質の良い』なんて口走った…違うか?」
魔理沙の目と声には、熱が帯びていた。
「あ…あれは…花粉症薬のことを言ったんじゃない。薬全般を指して言ったんだ!」
てゐは焦りながらも、何とか反論する。だが、我ながら苦しい言い訳だと思った。
「まあ、そう言うだろうと思ったよ。だからあの場では追求しなかった。下手に触れて、警戒されても困るしな」
魔理沙が肩を竦める。
「ふ、ふん…人を疑うなら、そんな曖昧なものじゃなく、もっと決定的な証拠を持ってきてよ。ま、そんなもの無いだろうけどね」
一拍、呼吸を置く。
「それにさ。仮にそうだとしても、やってることは花粉症の薬を作って売ってるだけでしょ?
闇流通の薬は法外な値段かもしれない。けど、嫌なら買わなきゃいいだけだ。何が悪いのさ?」
一瞬訪れる静寂。だが、それを魔理沙の声が破った。
「往生際が悪いぜ。もう盤面は詰んでるんだ。…おーい、来てくれ!」
魔理沙が竹林の奥へと呼びかけると、三つの影が現れた。
小悪魔。アリス。そして―メディスンだった。
その姿を見た瞬間、てゐの心臓が大きく跳ねた。
隠しきれぬ動揺と驚愕が、表情を一変させた。
「てゐ!この小悪魔さんがね、人間を苦しめる毒を作ってほしいって!
協力者も交えて詳しく話したいって言うから、連れてきたんだ!」
メディスンが無邪気に喜色を浮かべて声をかけてきた。
てゐは、血の気が音を立てて引いていくのを感じた。
握り締めた拳が、自然と震える。
「メディスン!あれだけ人に言うなって口封じしただろ!」
思わず、声が荒ぶる。
メディスンはびくりと肩を震わせ、怯えたように身を縮めた。
「…この花粉症の異常、最初からおかしいと思ってたのよ」
アリスが一歩前に出る。その瞳は冷静で、真実を見据えていた。
「自然発生では説明がつかない。何らかの超自然の力が介在している。
そして、思ったのよ。『スギ花粉=毒』という図式が成り立つならば―この子の領分ではないか、とね」
アリスが静かに推理を披露する。
「ブラフをかけたんです。『てゐさんの紹介で来た。ぜひ人間を苦しめる毒を作ってほしい』と」
小悪魔がくすりと笑う。
「…全て話してくれましたよ。貴方が、スギ花粉を毒と見立てて生成を依頼したことも」
普段の、純粋で従順な姿からは想像もつかない、妖艶な微笑みを浮かべた。
それは、てゐにとってはまさに悪魔の笑みに他ならなかった。
魔理沙がちらりとアリスに視線を送る。
アリスは静かに頷いた。
「さあ、メディスン。私たちは少し席を外しましょうか。てゐは、大人の話があるみたいだから」
優しくメディスンの手を引き、二人は竹林の奥へと消えていった。
風が吹き、笹が擦れ合う音だけが静かにその場を満たした。
だが、その音は、てゐにはやけに大きく響いた。
てゐは俯き、思考を巡らせ、頭脳を高速回転させた。
(…どうする?もう言い逃れはできない。どうすれば、この場を逃れられる…?)
その沈黙は、永遠のように長く感じた。
「…はぁ」
小さく、息を吐いた。
「あー…ここまでだね。悪かったよ、降参だ。全部、私がやったんだ」
てゐはやれやれ、といった風に肩を竦め、投げやりに笑い、さり気なく手を後ろにやった。
「さあ、煮るなり焼くなり好きにしてくれよ。何でも話すから…さッ!」
その言葉の終わりと同時に、後ろ手に隠していたそれを、魔理沙の足元に叩きつけた。
ぱん、と乾いた音を発し、次の瞬間、白煙が爆ぜるように広がった。
直後、てゐの身体は上空へ飛び上がっていた。
背後に魔理沙たちが咳き込む音が聞こえた。
◆
「くそっ!」
吐き捨てるように、てゐは声を荒げた。
(くそ、くそっ!どうして…!メディスンから足がつくなんて!)
思考が追いつかないまま、怒りと焦燥だけが先走った。
風を切り裂きながら、空を疾走する。
「逃がすかよ!」
後ろから、魔理沙の声が聞こえた。
てゐはそれを振り切るように、更に加速する。
視界が流れ、眼下の竹林の輪郭が線のように歪んでいった。
その瞬間、うなじに、ちり、と鋭い感覚が走った。
野生の生存本能が、頭の中で赤色灯を明滅させ、警告音をけたたましく鳴り響かせた。
反射的に、進路を右へ寄せる。
さっきまでいた空間に、轟音とともに極太の光が貫いた。
「あっぶな…!」
紙一重だった。
すぐ傍を掠めた光線は、空気そのものを焼き焦がし、弾ける魔力の奔流がバチバチと耳を打った。
鼻腔に、焦げた匂いが刺さった。
―魔理沙の、マスタースパークだった。
追撃する魔理沙に気を取られ振り返り、後ろに注意がいった瞬間、
前方の竹藪から突如何かが飛び出した。
「貴方はパチュリー様を苦しめた…決して逃がさない!」
小悪魔が、翼をばさりと広げて立ちはだかった。
小悪魔が両手を突き出し、藍色の大きな魔弾を大量に放った。
弾幕が雨のように降り注ぐ。
それらはてゐ個人を狙うには精密ではないが、進路を封じるには十分すぎた。
てゐは歯を食いしばり、その隙間を縫うように急降下し、竹藪に突っ込んだ。
地面すれすれに滑空しながら、思考がようやく追いつく。
(焦って上空に飛び出したが、最初からここに逃げ込めばよかったんだ!)
迷いの竹林はてゐにとって庭であり、自分の領分だ。地の利はこちらにある。
足が地をかすめるほどの高度で、複雑な軌道を描きながら疾走する。
ここなら、誰も追いつけない。
追手から距離を離して落ち着いたら、解除していた「迷いの術」を、再び張り巡らせる。
それで、取り急ぎ捕まることはなくなる。
後は、ゆっくりと対策を練ればいい。
「これで、私の勝ちだ!」
思わず、声が漏れた。
その瞬間。
「―チェック・メイト」
落ち着いた、冷たい声が、どこからともなく聞こえた。
同時に、全身に何かが絡みついた。
「くッ…!?」
視界が反転する。
宙に引き上げられ、逆さに吊り下げられた。
まるで、罠にかかった兎のようだった。
もがいてみるが、びくともしない。
よく見れば、それは細い糸だった。
竹林の影から、一歩踏み出し、アリスが現れる。
「誘い込まれてたのか…!」
てゐが吐き捨てるように言う。
アリスは微笑んだ。
「そういうこと。あなたは最初から、檻の中で藻掻いていたにすぎない」
淡々と、事実を告げる。
その直後、空から魔理沙と小悪魔が降り立った。
魔理沙は八卦炉を構え、照準をてゐに定めた。
「兎鍋になりたくなかったら、観念しな!」
てゐは抵抗をやめ、項垂れた。
胸の奥で、何かが崩れる音がした。
「ふ…ふふ…」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れる。
そのてゐの不気味な笑みに、魔理沙たちが一瞬顔を見合わせる。
「こんなはずじゃ…なかったのにな…」
呟き、天を仰ぐ。
重なり合う笹の葉の隙間から、微かに光が差し込んでいた。
< 終篇 >
―その後。
騒がしく渦巻いていた事態は、ひとつひとつ、糸を解くように収束していった。
アリスの優しく、親身で、かつ粘り強い説得により、メディスンは花粉の生成を止めることに同意した。
これにより、彼女によって生まれていた花粉が新たに散布されることはなくなった。
異常なまでに増殖していたスギ花粉が収まったことで、人々を苦しめていた症状もまた、潮が引くように薄れていった。
てゐが密かに積み上げていた薬の山は、すべてが無償で人間や妖怪たちへと配られることとなった。
そして、もう一つ。
不当に積み上げられた金銭の山は、永琳の手によって全て没収された。
購入者を追跡できる分は返金され、それが不可能な分は、人里に新たに設けられる、健康無料相談所の建設資金となった。
そこで働くことになった職員の顔ぶれは、少々皮肉に満ちていた。
今回の件に関わった兎たちが、そのまま配置されたのである。
それは、いわば今回の異変への償い、社会奉仕活動としての側面を持っていた。
この永遠亭の贖罪とも言える事業と、人里との橋渡し及び調整役は、魔理沙によって慧音に依頼された。
以前、慧音に聞き込みをした際に「協力が必要なら言ってくれ」と申し出てくれたのを思い出し、頼ったのだ。
慧音は二つ返事で引き受けてくれた。
こうして、幻想郷を騒がせた小さな異変は、静かな決着を迎えた。
◆
―永遠亭。
静謐な空気が、完璧なまでに整った美しい庭園を満たしていた。
春先の陽気が心地よく、風の小さな音が柔らかく流れている。
「うちの兎が、ご迷惑をおかけしました」
永琳は静かに一歩進み出ると、深く頭を下げた。
声は穏やかで、揺らぎがない。
謝罪の形を取りながら、その実、どこか完成された儀式のようですらあった。
「…お前、最初から全部知ってたんじゃないのか?」
魔理沙が眉をひそめ、半ば睨むように問いかける。その声には、疑念が滲んでいた。
「まさか」
永琳は顔を上げ、短く否定する。
その表情は、湖面のように澄み切っていた。
「仮に知っていたとして、黙って放置する理由など、何もないでしょう」
淀み無く返し、笑みを浮かべた。
だが、その目は冷たく、凍てつく氷のように思えた。
魔理沙は鼻を鳴らした。
そこには、納得とは程遠い感情が込められていた。
(全て看過していたのに、あえて放置して私たちに追わせ、てゐにお灸を据えたんじゃないか?)
浮かんだその考えが喉まで出そうになったが、寸前で止める。
この女の腹の内を探るのは、底なしの沼に踏み込むようなものだ。
魔理沙は小さく息を吐いた。
永遠亭の静けさは、何事もなかったかのように、その場を覆っていた。
◆
―永遠亭、てゐの私室。
永琳の抑揚のない、淡々とした、だが理詰めのロジハラめいた説教を長時間浴び続けたてゐは、
まるで雨に打たれた小兎のように意気消沈していた。
長く跳ねていた耳も、今はしおしおと力なく垂れ、影を落としている。
普段の軽口も、ずる賢さも、どこか遠くへ逃げてしまったかのようだった。
外の廊下から足音が近づき、部屋の前で止まった。
「てゐ、入るよ」
その声とともに、遠慮がちに襖が開く音が聞こえた。
振り返ると、鈴仙が腕を組み、立っていた。
やや困ったような、けれど、どこか優しい眼差しでこちらを見つめる。
「なんで私に相談しなかったの?」
苦笑交じりながらも、柔らかく問いかける。
「…鈴仙とやるより、私一人のほうがよっぽど効率的だし」
てゐは、わざとらしく素っ気ない調子で応じる。
その声には、いつもの小賢しさの残り香がかすかに混じっていたが、
芯の部分はどこか暗く落ち込んでいた。
―少しの間、沈黙が場を満たした。
「…それに、鈴仙は人が好いから…できないでしょ」
てゐは視線を逸らしたまま、小さく、ぼそりと呟いた。
「今、なんて言ったの?」
鈴仙の口元が、にやりと僅かに歪む。
聞き逃すまいとする意地の悪い優しさが、そこにはあった。
「うるさい、なんでもないよ」
てゐはむっとして顔を背け、ふん、と鼻を鳴らす。
その仕草には、どこか照れ隠しめいたぎこちなさが滲んでいた。
鈴仙は小さく苦笑すると、一歩近づき、てゐを後ろから、そっと抱きしめた。
「…次は、独りで抱え込まないでね」
その優しげな声が、乾いた心に沁みた気がした。
てゐは何も答えなかった。
ただ、微かに耳がぴくりと動き、垂れていた先がほんの少しだけ持ち上がった。
◆
―紅魔館、図書館。
魔理沙とアリスは書斎の応接用ソファーに身を沈め、思い思いに寛いでいた。
小悪魔が銀のトレイに紅茶を載せ、二人に歩み寄った。
陶器の触れ合うかすかな音とともに、ティーカップを乗せた皿がテーブルへと置かれる。
「三人とも、ご苦労さま。お陰様で、落ち着いて読書ができるわ」
書斎の定位置に座したパチュリーが、湯気の立つ紅茶をひと口含む。
三人は顔を見合わせ、ふっと笑みを交わした。
「それにしても、魔理沙たちも異変を調査していたなんてね…」
アリスが意外そうに、魔理沙と小悪魔を交互に見つめた。
「お前の家にも寄ったんだが、留守でな。最初から組んでりゃ、もっと早く片付いたかもなー」
魔理沙がどこか恨めしげな目を向ける。だが、その口元は楽しげだった。
「でも、お二人とも、よくメディスンさんが花粉の黒幕だと気づきましたね~」
小悪魔はトレイを胸に抱え、感心したように言った。
「風見幽香に聞き込みに行ったろ?あの時、あいつが何て言ったか覚えてるか?」
魔理沙の問いに、小悪魔は宙へと視線を泳がせ、記憶の糸を手繰る。
「『何でもない花や果実でも、捉え方や状況によっては『毒』になる』…でしたね。
あ、なるほど…!」
小悪魔は、ぱっと表情を明るくした。
「そういうことだ。露骨すぎるヒントだよな。あいつは最初から分かってたんだろうさ」
魔理沙がやれやれ、といった風に肩を竦めた。
「風見幽香が、ね…。自身が植物を操る力を持つが故に、気づいたのかもしれないわね」
アリスは少し考え込み、自分の推理を披露した。
「花粉症って、本来は病気じゃなくてアレルギーでしょ。
人によっては平気だったり、酷い症状が出たり…体質によってばらつきがある。
けど、今回はほぼ全員に症状が出ていた。―つまり、アレルギーとは別物。
そう考えた時に、一種の細菌、ウィルス、または…『毒』なんじゃないか、と思ったの」
そこまで話し、静かにティーカップを傾ける。
「私はメディスンとは多少なりとも交流があるから…
能力はもちろん、その人となりや、人間への恨みの感情も知っている。
どこかあの子らしい異変だな、と思ってね。そこから連想して…繋げていったのよ」
アリスはティーカップを皿に戻した。
「まあ、単独でそこまで辿り着いたんだ。大したもんだぜ」
魔理沙の率直な賛辞に、アリスは僅かに視線を逸らし、照れを隠した。
「小悪魔、お前とのコンビも中々良かったぜ。パチュリーの使い魔には勿体ないくらいだ」
魔理沙はいたずらっぽく小悪魔に笑いかける。
「あはは…そう言っていただけると嬉しいです」
小悪魔が若干困ったように苦笑しながら、丁寧に頭を下げた。
「…誰には勿体ないですって?」
パチュリーは不機嫌そうな低い声とともに、じとりと魔理沙を睨んだ。
魔理沙は口笛を吹いて視線を逸らし、知らぬ顔を決め込む。
その様子に、アリスと小悪魔は堪えきれず、くすりと笑みを漏らす。
その時。くしゅん、と小さなくしゃみが、パチュリーから発せられた。
何となく、四人が顔を見合わせる。
「たまたまよ、たまたま」
パチュリーが言うや否や、続けざまにくしゃみが重なった。
軽く鼻をすする音が、妙に生々しく響く。
「…お前、素で花粉症になったんじゃないか?」
魔理沙が訝しげに尋ねる。
「まさか、そんなはず―」
パチュリーの言葉の途中で、さらに大きなくしゃみがひとつ。
細い肩が揺れ、紫色の美しい髪がふわりと波打った。
「―こあ」
何事もなかったかのように衣服を整えながら、パチュリーは呼びかけた。
「は、はい」
「押収した薬、残ってる?」
―紅魔館の外では、春風が木々を揺らし、桜の花びらがひらりと舞っていた。
目に見えぬ、花粉とともに。
―雲一つない晴天。
空では小鳥がさえずり、大地では若葉が芽吹き、梅の木には花がほころび始めている。
寒かった日々が嘘のように、柔らかく暖かい陽気が幻想郷を優しく包み込んでいた。
「春ですよ~」
どこか間延びしたその声とともに、長い金髪を風に靡かせながら、
白いワンピースの少女―リリーホワイトが空を飛んでいた。
春告精である彼女は、幻想郷中を飛び回り、春の訪れを告げて回るのだ。
「春ですよ~…くしゅんっ」
不意のくしゃみに、思わず空中で止まった。
「う~…もしかして、風邪かな?」
鼻をすする。気を取り直し、彼女は再び空を切った。
◆
―人里の寺子屋。
畳の部屋に小机が並び、子どもたちが正座して席に着いている。
教壇に立つのは、青みを帯びた銀髪に帽子を戴く女性―上白沢慧音であった。
しかしその学びの場では、筆の走る音ではなく、くしゃみと鼻をすする音で満たされていた。
慧音は寺子屋の生徒たちを見渡した。
目を真っ赤にし、鼻をすすり、あるいはくしゃみを繰り返す。
中には、かなり重症で、勉強どころではなさそうな者もいる。
(花粉症、か…?それにしても、例年と比べるとあまりにも多すぎるが…)
そう考えるそばから、自身もくしゃみをする。
「あまりに症状がひどくて辛い者は、無理に授業へ出る必要はない。自宅で休んでいいぞ」
そう声を掛けるも、席を立つ生徒は一人としておらず、慧音に視線を向けていた。
「…ふむ。授業の途中でも構わない。遠慮なく申し出るがいい。では、教科書を開いて。
『論語』学而第一からだ」
軽く咳払いをする。気を取り直して、授業を始めた。
◆
―妖怪の山、賭博場。
白い煙がたゆたい、妖しい雰囲気と熱気とが渦巻くその空間では、天狗や河童、山童たちが賭博に興じている。
同時に、そこにはくしゃみと鼻をする雑音も混ざっていた。
(一体、どうなっている…?)
駒草山如は内心で首を傾げた。
煙管から細く息を吐き出し、扇子で口元を覆いながら、思考を巡らせる。
暦は三月。たしかに花粉が飛ぶ季節ではある。
だが、妖怪がこんなに大勢花粉症に罹るなんて、これまで聞いたこともない。
かく言う自分も、目の痒みに耐えかねていた。
そのせいか、賭場の取り仕切りも、チンチロの手さばきもどこか精彩を欠く。
何より、頭がぼんやりとし、判断力も低下している。
(これでは、商売に差し支えるな…)
軽くため息をついた、その刹那。くしゃみがひとつ、こぼれ落ちた。
◆
―博麗神社。
境内には柔らかな陽光が降り注ぎ、暖かい陽気と、芽吹く緑が春の気配を告げていた。
だが、そこに参拝客の姿はいつものごとく、なかった。
「異変?な~に言ってんのよ」
博麗霊夢は布団にくるまりながら、鼻声混じりに不機嫌そうに言い放った。
「でもよ、人里中、花粉症だらけなんだぜ。明らかに異常だろ」
縁側に腰を下ろした、とんがり帽子に白黒衣装の魔法使い―霧雨魔理沙がそう返し、
直後にくしゅんと可愛らしいくしゃみをする。
「たまたま今年は花粉が多く飛んだんでしょ。
それに、こんなしょぼい異変なんて聞いたことないわよ」
霊夢は言いながら、盛大なくしゃみを連発し、ずるずると鼻をすする。
どうやら相当重症のようだ。
「それはそうだけどよ…」
「そんなに気になるなら、あんた一人で調べなさいよ。どっちにしろ、私はこの有り様で外に出れないし」
そう言うと、布団の中に潜り込んだ。
魔理沙は肩を竦め、やれやれと小さく呟くと、箒にまたがり空へと舞い上がった。
「他に相談できそうな奴は…」
頭の中で、心当たりを見繕う。
最初に尋ねたアリス・マーガトロイドは留守だった。となれば―。
< 推理篇 >
―紅魔館の図書館。
埃とカビの匂いが相変わらず鼻につく、悠久の時と知識を蓄えた、薄暗い広大な空間。
「パチュリー、いるか~?」
魔理沙は書斎を訪れ、声を掛ける。
が、いつもはそこに在るはずの魔女の姿はなかった。
「おや、魔理沙さんこんにちは。パチュリー様に御用ですか?」
そこへ、包みを抱えた小悪魔が姿を現した。
「よう、小悪魔。ちょっと相談したいことがあってな…くしゅん!」
言いかけて、くしゃみが出る。
「あぁ…ご用件は、察しがつきました。パチュリー様は自室でお休みになっております」
そう言うと、小悪魔は先に立ち、魔理沙を案内し歩き出した。
◆
そこには、天蓋付きのベッドに身を沈め、静かに横たわる魔女―パチュリー・ノーレッジの姿があった。
傍らの屑籠には、使用済みの丸められたティッシュが山と積まれている。
幾度も鼻をかんだためか、その鼻先は薄っすらと赤くなっていた。
恐らく魔法によるものだろう。本が宙に浮かび、時折、ひとりでに頁がめくれていた。
やがて、控えめなノックの音。
続いて「失礼します」の声とともにドアが開かれる。
「パチュリー様、永遠亭よりお薬を仕入れて参りました。それと、魔理沙さんがお見えです」
パチュリーは言葉を発さずに、視線だけで小悪魔に促す。
同時に、宙に浮いていた本が、ゆっくりとベッドの上に軟着陸した。
小悪魔は水の入ったコップと薬の包みを差し出し、パチュリーはそれを飲み下した。
どうやら喋るのも辛いようだ。
「よう、パチュリー。お前も花粉症か」
魔理沙の軽口に、パチュリーはじろりと睨みつけると、無言のまま小さく頷いた。
「これでようやく確信が持てたぜ。年中、窓もない図書館に引き籠もってるお前が花粉症なんて、おかしいよな」
魔理沙が一人納得したように頷くと、小悪魔もそれに同意する。
「そうなんですよね…。まあ、訪問者の衣服に付着した花粉は多少は持ち込まれているでしょうけれど。
たったそれだけで発症するとは考えにくいですし」
「小悪魔は永遠亭に行ってきたんだろ。様子はどうだった?」
「人間や妖怪たちが薬を求めて、長蛇の列が出来ていました。人間はともかく、妖怪まで…」
「人里も酷い有り様だ。ほとんどの人間がくしゃみと鼻水に悩まされてる。これは、一種の異変なんじゃないか?」
魔理沙はそこで言葉を切ると、パチュリーへ視線を向けた。釣られるように、小悪魔も主人を見つめる。
パチュリーは少し身を起こし、何かを語ろうとする。
だが、不意にくしゃみがこぼれ、それを引き金に激しく咳き込み、言葉にならなかった。
一瞬、小悪魔が駆け寄ろうとするが、それを手で制した。
パチュリーはぜえ、ぜえと呼吸し、息を落ち着かせる。
そして、口の中でなにかをぼそぼそと呟きつつ、指で宙に魔法陣を描いた。
魔法陣の輪郭が浮かび、淡く光る。
すると、コップの水がふわり、と宙に浮かび上がった。
次第に水の塊が空気に溶け込むように消えていき、しばらくすると周囲の空気が急に冷えるのを感じた。
パチュリーが指をぱちんと軽く鳴らすと、宙に光る文字が浮かび上がった。
<―貴方の言う通り、これは明らかに異変の類よ。
博麗大結界は、意思ある者の通行は遮るけれど、音や光、空気、その他物質は素通りさせる。
勿論、スギ花粉も例外ではない。問題はその質と量よ>
魔理沙は思わず目を見張った。
恐らく七曜のうち、水と太陽―水分と光を操り、一旦水を気化し、空気の冷却によって水分を凝結、
そこに光を当てることで文字を空中に浮かばせたのだろう。
「へぇ…器用な魔法の使い方だな」
素直な感嘆が、ぽつりと漏れる。
<この程度、貴方にも出来るはずよ。水の魔法は本来、得意なはず>
再び文字が浮かび上がり、そして消えた。
パチュリーは無意味なお世辞など口にする性格ではないのは承知だった。
魔理沙は僅かに気恥ずかしさを覚え、鼻先を指でかいた。
<空気中の花粉量を測定したところ、通常の数倍の量のスギ花粉が確認された。
花粉自体を顕微鏡で調べてみると、大部分は普通とは違う、巨大な個体だったわ>
文字はしばし宙に留まり、しばらくして消えていった。
「もうそこまで調べたのか。…ってことは、通常の花粉に混じって、
何者かが生成した花粉を意図的にばら撒いてるってわけか。…けど、それだけじゃ―」
魔理沙が言い終えるより早く、再び光の文字が現れる。
<ええ、その通り。それだけじゃ一斉に発症するのは不自然よ。
実験したところ、特殊個体の花粉をほんの少しでも吸い込めば、花粉症と同等の症状が現れた。
これは普通ではない…。恐らくだけど、魔法、または妖怪の能力が関与しているはず。
その正体、および犯人の目的は不明だけれど>
「ふむ…単純に考えりゃ、この状況で得をしてる奴が怪しいってことになるけどな」
魔理沙が腕を組み、思案する。
「となると…永遠亭でしょうか。薬が飛ぶように売れているでしょうし」
小悪魔は少し考え、口にする。
「永琳が金なんて俗世のものに執着するとも、こんな小さな異変を起こすとも考えにくいけどな…」
魔理沙の返答に、小悪魔も小首を傾げ、思案顔となった。
すると、再び文字が浮かび上がった。
<永琳が犯人とは思えないけれど、考える方向性は悪くないと思うわ。
兎たち―鈴仙や因幡てゐが関わっている可能性もある。
…どちらにしろ、他に手掛かりはないのだし、まずは永遠亭周りを調査するといいわ。
私はこの通り動けないけど、幸い、こあには症状が出てない。助手として連れていきなさい>
「ぱ、パチュリー様?!ですが、パチュリー様のお世話は…」
小悪魔が思わず声を上げる。
<別に寝たきりの重病人じゃないんだし、大丈夫よ。
それより、魔理沙に協力して、この馬鹿げた異変を一刻も早く解決して頂戴>
「…承知しました。必ずや早急に解決して、パチュリー様を楽にしてみせます!」
小悪魔が決意を宿した表情で背筋を正した。
「ま、協力してくれるってんなら助かる。よろしく頼むぜ!」
魔理沙は勢いよく小悪魔の肩を叩く。
「は、はい。こちらこそよろしくお願いしますね」
小悪魔はその叩かれた勢いと力強さに苦笑を浮かべつつ、丁寧に一礼した。
胸の中には、自身が役に立てるのかという一抹の不安と、それを遥かに上回る主人への忠誠心で満ちていた。
◆
―永遠亭の正門前。
迷いの竹林の奥にひっそりと佇むその大きな屋敷は、普段の静けさが嘘のように、喧騒に包まれていた。
薬を求める人間や妖怪たちが詰めかけ、長い行列を作っている。
その傍らに、腕を組んで壁にもたれかかっている人物がいた。
美しい銀髪に紅い瞳、精悍な顔立ちの女性―藤原妹紅だった。
「妹紅じゃないか。こんなところでどうしたんだ。お前も花粉症の薬を求めて来たのか?」
魔理沙が声を掛ける。
妹紅が魔理沙と小悪魔の姿を認め、意外そうな表情を浮かべた。
「随分珍しい組み合わせだな…。大勢の人間たちに頼まれてな、永遠亭への道案内をしてたんだよ」
妹紅は、迷いの竹林で迷った人間を出口まで導いてくれることで知られている。
薬を求める者たちが、彼女に頼み込んだのだろう。
「あれだけの人数を案内するなんて初めてだよ。
傍から見れば、さながら団体旅行客の観光ガイドってところだろうな」
自嘲気味に笑った直後、くしゅんとくしゃみが漏れる。
「妹紅さんは、この花粉症について何かご存知だったりしますか?」
小悪魔が尋ねる。
「さあね、こっちが聞きたいくらいだよ。私もこの症状には悩まされてるんだ。
何しろ、花粉症は死んでも治らないからな」
不死の身を持つ彼女の冗談とも本気とも取れない言葉に、魔理沙と小悪魔はどう反応すればいいかと顔を見合わせた。
(まさか、本当に一度死んで試したんじゃ…?)
小悪魔が一瞬、頭の中で想像し、すぐ頭を振って打ち消した。
「…永遠亭の連中に聞き込みに来たんだろ?中にいるから、会ってくるといい」
◆
―永遠亭。
その純和風の屋敷は、新築と見紛うほどに美しく、汚れ一つ無かった。
内部では、兎たちが対応に追われ、慌ただしく行き来していた。
どこまでも、永遠に続くかのような板張りの廊下を進んでいると、
背丈の低い、兎耳の少女―因幡てゐにばったりと出くわした。
「…あんたらも花粉症の薬を買いに来たのかい」
てゐが声を掛ける。
「いえ、私たちは調査に来たんです。この花粉症異変の…」
小悪魔の答えに、てゐは目を見開いた。
「異変…?あんたらは、これが異変だと思ってるのか?まぁ、確かに例年と比べると異常なほど患者が多いけど」
「そのお陰でお前らは、さぞかし懐が暖かくなったんじゃないか?」
魔理沙が挑発するように言うと、てゐはむっとした顔で反論する。
「…うちは、他所よりも質の良い薬を良心的な値段で扱ってるんだ。沢山売れようと、大した儲けはない」
「ほほぅ…」
魔理沙が目を細めて、どこか疑うような視線をてゐに向けた。
「そもそも…私たちが本気で薬で儲けようと思ったら、この花粉症の流行に限らず、いくらでもやりようはあるんだ。
その気になれば、幻想郷の医療市場を独占だって出来る。それに…いや、詳しくは直接お師匠様から聞いてみるんだな」
てゐは言い切ると、ふんとそっぽを向き、その場を去っていった。
◆
廊下を渡った最奥部に、永琳の部屋はあった。
それは、幻想郷屈指の実力者の部屋にしてはこじんまりとしており、質素で、綺麗に整理され、機能的だった。
「―ふむ…要するに、私たちを疑っている、というわけですね」
青と赤の衣を纏い、看護帽のような帽子を被った女性―八意永琳は、表情一つ変えず、冷静に言った。
「あ、いや、そこまではっきりと―」
小悪魔が慌てて取りなそうとするが、魔理沙がそれを遮る。
「ああ、そうだ。花粉症が広まって得するのは、あんたら永遠亭の連中だからな。
真っ先に疑うのが自然ってもんだ」
魔理沙の鋭い視線が永琳を射抜く。だが、当の本人は意に介した様子もなかった。
「まず前提として言いますが…
薬、と言っても、花粉症そのものを治す薬という訳ではありません。
花粉症とは、花粉に対して過敏に免疫反応が起こるアレルギー症状。
病気のように、薬を飲んで完治する類のものではないのです。
他にも、一定期間症状を抑える注射もありますが、幻想郷では材料が手に入りません」
「ああ、知ってるさ。だが、その過敏反応を抑える薬は売ってるんだろ?」
永琳は机の上に置かれていた、白い粉の包みを手に取った。
「ええ。この粉を服用すれば、ほとんど副作用なく、丸一日は症状を完全に抑えられます。
―ですが、この一袋を除いて、すでに売り切れました」
それを聞いて魔理沙と小悪魔が目を見開いた。
「私が今朝来たときには、まだあったはずですが…もう売り切れたんですか?」
小悪魔が少し訝しげに尋ねる。
「そもそも、幻想郷でこれほどの花粉症患者が発生するなど想定していませんでした。
例年通りの在庫しなかった以上、品切れになるのは必然でしょう。それと―」
永琳は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「昨日判明したのですが、花粉症薬の製薬レシピが、何者かに盗まれました」
それを聞いた魔理沙と小悪魔が驚き、同時に息を呑んだ。
「おいおい、そういう大事なことは先に言ってくれよ。話がだいぶ変わってくるぜ」
「…ちょっと待ってください。そもそも、製薬レシピなんて大事な物、そんな簡単に盗まれるものなんでしょうか」
小悪魔が目を細めて尋ねる。その瞳には、疑いの色が見えた。
「通常であれば難しいでしょう。ですが、昨日は大勢の人間と妖怪が押し寄せ、
邸内は混乱していました。その隙を突かれた可能性はあります。それに―」
永琳はそこで一旦区切り、少し考えた後に続けた。
「視覚を誤魔化したり、認知をずらしたり、気配を消す…
そういった能力を持つ妖怪が関与している可能性も否定できません」
「ってことは…」
魔理沙は考え込んだ。
(薬で儲けるなら、事前に大量生産してるはず。しかも、レシピも盗まれた、ときた。
…ということは、永遠亭は白…?いや、まだ…)
永琳はその考えを見透かしたかのように、微笑んだ。
「どうやら、私たちの疑いは晴れたようですね」
「勘違いするなよ。疑いが晴れたわけじゃない。ただ、他の犯人の可能性が増えたってだけだ」
魔理沙が釘を差す。
「ところで…その薬、いつ頃再販できるのでしょうか。
パチュリー様がかなりの重症で、薬がないと困るんです」
小悪魔は眉根を寄せる。
彼女にとっては、異変の解決と同じくらい、主人の容体も重要だった。
既に一定量は購入済みだが、使い切れば、当然追加購入が必要だ。
魔理沙も内心、重症の霊夢に薬を買ってやろうと思っていたので、少し身を乗り出して答えを待った。
「原材料の調達のため、人里に使いを出しています。今日中には量産体制に入れるでしょう。ただ…」
永琳が言い淀んだその時、障子が慌ただしく開けられた。
「お師匠様!仕入れに行った兎が戻ったのですが…」
飛び込んできた鈴仙は、来客に気づいてはっとし、「失礼しました!」と頭を下げた。
「構わないわ。…で?原材料が品切れだった、というところかしら?」
永琳の落ち着いた問いに、鈴仙は驚きを隠せなかった。
「お、仰るとおりです…どの薬問屋でも買い占められていて、仕入れができませんでした」
そのやり取りを聞いて、魔理沙と小悪魔が顔を見合わせる。
「…レシピを盗んだ奴が、買い占めやがったのか」
魔理沙が悔しげに口を歪める。
「そんな…」
小悪魔の胸に、暗い影が落ちた。
今後は主人に渡す薬が入荷しないという現実が、重くのしかかっていた。
しばしの沈黙が、その場を支配した。
「…その原材料って、何だ?」
魔理沙が絞り出すように尋ねる。
「そんなこと、言えるはずが―」
鈴仙が言いかけるが、永琳がそれを手で遮った。
そして、少し考え込んだ後に、軽く頷いた。
「本来は門外不出ですが…事情が事情です。
それに、材料だけ知ったところで再現できるはずもありませんし、特別に教えましょう」
「お師匠様!」
鈴仙が声を上げるも、永琳は「いいのですよ」と静かに言った。
「『甘草(かんぞう)』、『黄芩(おうごん)』、『辛夷』、『連翹(れんぎょう)』、『桔梗』です」
魔理沙は頭の中の薬学辞書を開き、それらを照らし合わせた。
「…どれもアレルギーや炎症系に効能のある薬草や漢方だな。ありがとよ、助かったよ」
二人は頭を下げる。
永琳はその様子を見て、意味ありげに微笑んだ。
◆
魔理沙と小悪魔は永遠亭を後にし、竹林の上空を飛んでいた。
「結局、永遠亭は白とも黒ともつかず、でしたね。これからどうしましょうか。
品切れになった薬の原材料を追ってみます?恐らく、犯人が買い占めたのでしょうし」
小悪魔が隣を飛ぶ魔理沙に問いかける。
「ああ、それもいいが…そもそもの根本的な原因である、異常な花粉について、まだ何も分かっちゃいない。
そっちを先に当たりたいんだ。迷いの竹林からも近いしな」
魔理沙は前方を見据えたまま答えた。
「近い…?何か心当たりがあるんですか?」
「ああ。スギ花粉といっても、元は植物だろ。植物を操る奴といえば…」
その言葉に、小悪魔がはっと息を呑む。
「なるほど。確かに、あの人なら何か知っているかもしれませんね」
魔理沙は、口元に薄く笑みを浮かべた。
「そう、風見幽香だ」
◆
―太陽の畑。
夏であれば、黄金色に輝く向日葵の海が広がっていたはずの場所。
しかし今は季節の移ろいに取り残されたように、枯れ果てた花々の残骸が大地を覆い尽くしている。
その光景は、名とは裏腹にもの寂しさを感じさせた。
魔理沙と小悪魔は空を巡りながら、地上へと視線を落とし、目当ての姿を探していた。
「…どこにいるんでしょう」
小悪魔は口の中に渇きを覚え、不安を押し隠しきれない、掠れた声で呟く。
それも無理はない。風見幽香は妖怪の中でも屈指の力を持ち、気まぐれに弱者を弄ぶという噂も聞く。
万が一、話がこじれて戦闘にでもなった場合、無事に帰れる保証などどこにもない。
「…お、随分分かりやすいじゃないか」
魔理沙が前方を見て、にやりと笑った。
視線の先、その一画だけが、鮮やかな橙色の向日葵が咲き乱れていた。
まるで、その場所にだけ、夏が訪れたかのように。
◆
白い傘を差した、紅のロングスカートの女性―風見幽香は、風にそよぐ向日葵の中心で、
自身もその一部であるかのように、優雅に佇んでいた。
頬を撫でる風を、心地よさそうに全身で受け止めている。
その姿は静謐でありながら、どこか底知れぬ威圧を孕んでいた。
やがて、空から二つの影が舞い降りる。
魔理沙と小悪魔だ。
「…これはこれは」
幽香は二人を認めると、目を細め、妖しく微笑んだ。
その声音には、歓迎とも警戒ともつかぬ含みがある。
「私の魔法を盗んだ魔法使いさんが、悪魔を引き連れて…一体、何の御用かしら?」
小悪魔は『魔法を盗んだ』という言葉の意味を測りかね、首を傾げた。
一方の魔理沙は、ぴくりと眉を動かした。
「そういえば、噂に聞いたわよ。貴方、最近魔法の火力が落ちてきているんですってね」
幽香はくすり、と笑った。
「困るのよね。オリジナルである私の魔法の風評被害にもなるから。やめてもらえないかしら?」
軽やかなその物言いとは裏腹に、込められた言葉の刃は鋭かった。
魔理沙が小さく舌打ちを鳴らした。
「…お前と無駄話をするつもりはない。単刀直入に聞く。
この異常なスギ花粉はお前の仕業か?」
そのあまりにも直球な問いかけに、小悪魔は肝が冷える思いだった。
「あら。私を疑っているの?」
幽香が目を細める。その笑顔は変わらない。だがその瞬間、強烈な妖気と殺気が放たれ、圧となって押し寄せた。
周囲の向日葵畑がざわめいたように揺れた。
「お前以外に―」
魔理沙が言い切るより早く、小悪魔が魔理沙の口を塞いだ。
「―!?」
抗議の声が飲み込まれ、驚いた魔理沙は非難めいた視線を小悪魔に向け、
もごもごと何かを言おうとしている。小悪魔は耳元に顔を寄せ、低く囁いた。
(魔理沙さん、幽香さん相手に挑発的な態度はまずいですよ。今は異変解決が最優先です。
ここは一つ、私にお任せください―いいですね?)
魔理沙はしばし逡巡した様子だったが、やがて小さく頷いた。
小悪魔はそっとその手を離す。
魔理沙は息を整え、宙に浮いた箒を椅子代わりに腰掛け、腕を組んだ。
小悪魔の交渉を見届ける、という意思表示だった。
小悪魔は一歩前に出て、深く頭を下げた。
「風見幽香さん、先程は失礼いたしました。ご紹介が遅れましたね。
改めまして、私は紅魔館の魔女、パチュリー・ノーレッジ様に仕える使い魔、小悪魔と申します。」
その所作は丁寧かつ、礼節を弁え、隙がなかった。
「これはご丁寧にどうも。…それで?」
幽香から放たれていた妖気と殺気は次第に消えていった。
だが、その微笑には依然として強い威圧感が宿っていた。
小悪魔は軽く目を伏せた。僅かに震える手を握りしめ、呼吸を整える。
そして目を開き、語りかけた。
「現在、幻想郷では例年の数倍もの量、かつ巨大な個体の、異常なスギ花粉が飛散しています。
その結果、殆どの人妖が花粉症に苦しめられている状況です」
小悪魔は胸に手を当て、真摯に言葉を重ねる。
「私たちはこの異変を解決したい。
そのために、植物を操る能力を持つ貴方の知見をお借りしたく、参りました」
その切実な訴えを、幽香は静かに受け止め、やがて小さく頷いた。
「…ふふ、貴方は礼儀を弁えているようね。いいでしょう、私の知る限りを教えましょう」
手で向日葵の花に触れ、優しく撫でる。
「結論から言うわ、今飛んでいる花粉は、自然のものではない。
まったく別の手段によって作られ、そして撒かれたものよ」
「では―」
「私の能力は、あくまで植物そのものを操る。けれど、その性質そのものを変質させることは出来ない」
幽香の言葉に、魔理沙が口を挟んだ。
「つまりお前は、自分は白だと言いたいんだな」
小悪魔は特に咎めなかった。先程と違い、魔理沙の口調には冷静さが戻っていたからだ。
「ええ。そもそも、そんなことをする理由もないもの」
幽香は淡く笑った。
小悪魔は一歩踏み出し、すがるように問いかける。
「何か、心当たりはありませんか?正直に申し上げて…手詰まりなんです。
スギ花粉をここまで異常に変化させ、大量に生成する―そんな魔法も、妖怪の能力も、見当もつかなくて」
幽香は顎に手を当て、思案する。
「…そうね。残念だけど、具体的には思いつかないわ。けれど―」
そこで言葉を切り、にやりと笑った。
「あまり固定観念に囚われないことね。この幻想郷は、想念によっていくらでも本質が揺らぐ世界。
そう、例えば何でもない花や果実でさえ、捉え方や状況次第で、毒になり得るのだから」
その言葉は、風に乗って静かに広がった。
魔理沙は目を細め、しばし考え込んた。
やがて、その表情が変わる。
「…なるほどな。よく分かったよ、助かった」
魔理沙は素直に、短く礼を述べると、箒を浮かせて空へと上がる。
小悪魔も慌てて深く一礼し、その後を追った。
二人の姿が遠ざかるのを見送りながら、幽香はくく、と喉の奥で笑った。
「さて…あの子たちは、ちゃんと辿り着けるかしらね?」
◆
―人間の里。
明治時代初期を思わせる家屋と、春の訪れを感じさせる、鮮やか緑の街路樹。
いつもなら笑い声と呼び声が交差する大通りは静まり返り、通りを行き交う人影もまばらだった。
人々は皆、花粉を避けるように家へと籠もり、外界との接触を断っているのかもしれない。
「そういえば、花粉症の薬って人里の町医者では売ってるのでしょうか」
小悪魔は思いついたように尋ねる。
「いや…聞いたことないな。そもそも、人里の医者や薬剤師は素人に毛が生えた程度の医療知識の奴も多い。
人体に有害な劇物を、薬として平気で処方する様なやぶもいるくらいだ」
魔理沙が苦々しげに答える。
「そうなんですね…」
小悪魔は、人里の医療リテラシーの現実に若干引きながらも、考え込んだ。
「ただの人間が永遠亭に忍び込んで製薬レシピを盗むだなんて、現実的じゃないと思うぜ」
それを見越したかのように、魔理沙が先回りで答える。
「まあ、そうですよね…」
小悪魔は頷いた。
◆
魔理沙と小悪魔は手分けして複数の薬問屋を巡り、
永琳の言っていた『甘草』や『黄芩』といった花粉症薬の原材料について、
在庫の有無や、直近で大量に仕入れた業者がいなかったか等の聞き込みを行っていた。
だが、どの薬問屋でも返ってくる答えは同じだった。
「へい、先日見慣れない客が訪れまして、相場の倍の値ですべて買っていかれましたよ」
ただし、その客の特徴はばらばらだった。
痩せた男、太った男、背の高い者、低い者―まるで別人のように、証言が食い違っていた。
夕刻、再び合流した二人は、茶店で腹ごしらえをしながら情報を共有しあった。
「…どういうことでしょうか。複数の人間を雇って、代わりに買わせたのですかね?」
小悪魔は指先で顎に軽く触れ、小さく首を傾げる。
「あるいは、姿を自由に変えられる妖怪か…どちらにしても、用心深い奴だな」
魔理沙は言いつつ、団子を口に運んだ。
だが、元よりこの程度で突き止められるとは思っていなかった。
「犯人は、買い占めた原材料と盗んだレシピを使って薬を作り、闇ルートで売り捌くはずだ」
目を細め、視線を鋭くし、続ける。
「なら、売り子をとっ捕まえるしかない。そこから、黒幕を引きずり出す」
その言葉には、静かな決意が帯びていた。
◆
―それから数日。
二人はそれぞれ別行動を取り、幻想郷中を巡って聞き込みを行った。
昼は問屋や商人、夜は酒場や裏路地に、妖怪たちの集まるコミュニティ。
花粉に悩む人妖の声に耳を傾けながら、密かに流通している薬の気配を探り続けた。
だが、手応えは薄い。
噂はあれど、確証に至る情報は掴めない。
見えぬ糸を手繰るような捜査は、次第に疲労と焦燥を蓄積させていった。
◆
―人里、寺子屋。
「気をつけて帰るんだぞ」
上白沢慧音が表に立ち、子どもたちに声をかけ、手を振る。
保護者たちは深く頭を下げ、子の手を引いて夕暮れの道へと消えていく。
赤く染まった空の下、その光景は和やかで、微笑ましいものだった。
魔理沙は少し離れた場所から、それを眺めていた。
幼い頃の記憶が、ふと浮かび上がる。
親に手を引かれて歩いた帰り道。
夕焼けの色、手の温もり。
胸の奥が、ずきり、と痛んだ。
「…っ」
小さく頭を振り、その感情を振り払う。
(もう、今の私には関係ない記憶だ)
そして、まるで何事もなかったかのように努めて振る舞い、慧音に歩み寄り、声をかけた。
◆
「ふむ…。闇市場で薬、か」
慧音は腕を組み、静かに思案する。
「人里で顔が広く、事情に通じてるあんたなら、何か掴んでるんじゃないか?」
魔理沙は期待を込めて尋ねた。
子どものいる親は、治安に関しては特に人一倍敏感になり、保護者間での情報交換が盛んだ。
教師である慧音の元に、闇で薬を捌く不審者の情報が入っていてもおかしくはない、と考えたのだ。
「確証はないが…生徒の保護者から、最近夜の居酒屋通りの路地裏で妙な男を見た、
と言う話なら聞いたことがあるな」
その言葉に、魔理沙の表情が明るくなった。
「そいつだ。間違いない」
喜色を帯びたその声には、確かな手応えがあった。
慧音はそんな彼女を見つめ、言葉を重ねた。
「魔理沙は、この異変を解決しようとしているのだろう」
先程子どもたちが去っていった道へと視線を向けた。
「寺子屋の子どもたちも、花粉症で苦しんでいる。授業にも支障が出ている状態だ。
もし協力が必要なら言ってくれ。できることなら、力を貸そう」
そこには、教師としての焦りと責任が滲んでいた。
「ああ、サンキューな。その時が来たら、遠慮なく頼らせてもらうぜ」
魔理沙は軽く笑った。
夕焼けが、二人の影を長く伸ばしていた。
◆
―人里、酒場通り。
夜の帳が降りた通りは、かつての喧騒をどこかに置き忘れたかのように静まり返っていた。
酔客の笑い声もまばらで、時折、ほろ酔いの男が千鳥足で行き来するのみだった。
軒先の提灯は揺れ、ぼんやりとした灯りが路地の奥へと溶けていく。
その光と影の境目、人目につきにくい場所に、一人の男が闇に溶け込むように立っていた。
逆立った髪に、恰幅の良い体つき。
いかにも場末に馴染んだ風体の中年男性だった。
彼は壁にもたれ、ぼんやりと通りを眺めていた。
花粉症の薬を売るようになってからというもの、状況は一変した。
どこからともなく噂を聞きつけ、夜ごとに客が現れる。
一包や二包では済まぬ者も多く、ときにはまとめて買い占めるような大口もあった。
値は張る。だが、それでも人は金を払った。花粉症という苦しみから逃れるために。
売上の一割が自分の懐に入るという仕組みも、男の頬を緩ませるには十分だった。
ふと、人の気配を感じた。
顔を上げると、路地の奥から一つの影が歩み寄ってきていた。
深く被った笠に、身を包む外套。
背丈は低く、輪郭は曖昧だった。その佇まいからは、普通ではない雰囲気を感じた。
男は直感した。―客だ。
「あんたかい?花粉症の薬を捌いてるのは」
落ち着いた、中性的な声だった。
その響きに、男は意外に思いつつも、短く応じる。
「…ああ」
「一ついくらだ?」
「四十銭※」
(※一円=百銭=現在の貨幣価値でおよそ10000円)
その言葉に、相手は僅かに息を呑んだ。
「おいおい、ずいぶん強気だな。少し高すぎやしないか?」
「文句があるなら帰んな」
男は肩を竦める。
売る側の余裕、それが声音に滲んでいた。
客はしばし沈黙し、思案する。
やがて、観念したように頷いた。
「…分かったよ。二十包くれ」
「毎度あり」
男は内心で舌なめずりする。
「二十包だな。だったら八円だ」
懐から小さな包みを取り出し、手際よく薬を詰める。
差し出された八枚の紙幣へと手を伸ばした。
月明かりが、淡く紙の表面を照らす。
―白い。
何も書かれていない、ただの紙切れだった。
その瞬間、客の手が男の手首を掴んだ。
「少し聞きたいことがあるんだ。痛い目に遭いたくなければ、大人しくしな」
低く抑えた声。
その左手には、八角形の奇妙な器具―ミニ八卦炉が構えられていた。
魔力が凝縮し、周囲の空気がひりついた。淡い光が、路地裏を照らし出した。
(こいつ、魔法使いか!?)
男の脳裏に、危険を示す警鐘が鳴り響く。
一瞬の逡巡。だが、迷っている時間などない。
結論は、即座に導かれた。
次の瞬間、ぼん、と煙が弾け、男の姿が消えた―かのように見えた。
「ひッ…!?」
客の腕に何かが絡みついている。
ぬめるような鱗に、筋肉質な胴体。
それは、大蛇だった。
「な、なんだこれ…蛇…!?」
客は思わず裏声で悲鳴を上げ、腕を振り払う。
絡みついていた蛇は、ぼとり、と地面に落ちた。
次の瞬間には、蛇はするりと体をくねらせ、闇へと滑り込む。
家屋の床下の隙間へと潜り込み、その姿を完全に消した。
◆
「くそっ…あの蛇が正体なのか」
霧雨魔理沙は舌打ちし、しゃがみこんで床下を覗き込む。
だが、隙間の奥は墨を流したように暗く、何も見通せない。
「ちっ、見えねえな……」
ミニ八卦炉に魔力を流し込むと、指向性を伴った淡い光が灯る。
即席のランタン代わりに掲げ、隙間の奥を照らす。
どうやら反対側へ抜けたらしい。
壁に立てかけてあった箒をひっ掴み、そのまま軽やかに宙へと浮かぶ。
上空から周囲を見渡す。
夜の里は静まり返っている。だが、それがかえって不気味だった。
人影はない。蛇の気配も、どこにも見当たらない。
「…どこ行きやがった」
目を細めて探していると、視界の端に古びた井戸が映った。
その瞬間、脳裏にひらめくものがあった。
―紅魔館の図書館で見た光景。
水を気化させ、空気を冷却し、光を通して空中に文字を描いた、あの魔法。
<この程度、貴方にも出来るはずよ。水の魔法は本来、得意なはず>
パチュリーのその言葉が、思い出された。
魔理沙はにやり、と笑った。
「…あいつの魔法、真似てみるか」
箒の上で体勢を整え、空中に魔法陣を描く。
指先が軌跡をなぞるたび、淡い光が重なり合い、幾何学の紋様を形作っていく。
短い詠唱。
すると、井戸の中から水が応じるようにせり上がった。
大きな水塊となって空中に浮かび上がり、ゆらりと揺れる。
やがて、それは霧のようにほどけ、空気に溶けるように消えていく。
魔理沙は細い瓶を取り出し、触媒をばら撒いた。
続けて、今度はより複雑で長い詠唱を紡ぐ。
空気が急速に冷却され、青白い光が辺りを満たし、気温が一気に落ちた。
吐く息が白く染まり、地面には霜が降り、それがじわじわと広がっていく。
土は瞬く間に凍りつき、ところどころに霜柱が突き出す。
草は音もなく凍結し、ぱきり、と小さな音を立てて砕けた。
まるで、夜の中に極寒の冬が侵入してきたかのようだった。
「ひ、ひえぇ…!」
情けない悲鳴が、路地の片隅から上がる。
ぼん、と煙が弾けた。
そこに、先ほどの男が姿を現す。肩を震わせ、顔を青ざめさせている。
急激な寒気―変温動物である蛇の身では、もはや耐えられなかったのだ。
「見つけたぜ」
魔理沙は箒で弧を描くように回り込み、逃げ道を塞ぐ。
同時にミニ八卦炉へと魔力を集中する。
次の瞬間―男の足元に、極限まで細く収束された魔力の光線が放たれた。
轟音とともに土が弾け、地面が大きくえぐれる。
衝撃が足元から伝わり、男は思わずよろめいた。
「動くな!」
ミニ八卦炉をぴたりと向ける。
その先端には、まだ収束しきらぬ魔力が渦巻き、陽炎のように揺らめいていた。
「次に動いたら容赦なく撃つ。…これは脅しじゃねえぞ」
静かな、低い声だった。だが、そこに一切の迷いは見られなかった。
男は顔を引きつらせ、ゆっくりと両手を上げた。
「わ、分かったから…撃つな、撃たないでくれ…!」
◆
―人里の外れにある、薄暗い長屋の一室。
煤けた壁、擦り切れた畳、隅に積まれた日用品の数々。
ここで慎ましく生きていた者の痕跡が感じられた。
その主は、蟒蛇(うわばみ)であった。
かつては人里で人間に化け、無銭飲食を繰り返していたが、
二ッ岩マミゾウの手によって改心させられた。
今は人の姿を借りて、どうにか真面目に人里で働きながら日々を繋いでいた。
魔理沙の尋問に対し、蟒蛇は観念したように、ぽつりぽつりと語り始めた。
ある日、差出人不明の包みが届いたのだという。
中には、ずしりと重みを感じさせるほどの現金と、薬の原材料の仕入れを指示する手紙。
その内容は簡潔だった。
仕入れの際は、店ごとに姿を変えること。
報酬として、同封された金から十円を抜き取ってよいこと。
そして何より異様だったのは、その手紙に貼り付けられていた、一枚の鱗。
それは紛れもなく、自分と同じ、蛇のものだった。
蟒蛇は迷った。この依頼主は、自分の正体を知っている。
拒んだり、金だけ頂いてとんずらすれば、何をされるか分からない。
加えて、決して豊かとは言えぬ現状の生活―その現実が、背中を静かに押した。
蟒蛇は、手紙の指示に従った。
それからしばらくして、再び包みが届くようになる。
今度は薬そのものと、販売、及び売上金の回収指示だった。
一包四十銭。
売上の一割を報酬として取ってよい。
集金場所は毎回変わった。
橋の下の土の中、無人の家屋の雨樋の裏、あるいは誰も気に留めぬような隙間。
金を置き、その場を離れる。
誰が、どうやって回収しているのか。それを考えるのは、意識的に避けていた。
知りすぎることは、時に命取りになる。それは、人も妖も変わらぬ理だった。
◆
「なら、金の回収場所に張り込めば黒幕に辿り着けるな。場所を言うんだ!」
魔理沙が一歩踏み込み、鋭く迫る。
蟒蛇は、身体を硬直させた。顔が強張り、視線が揺れる。
脳裏で幾つもの選択肢がせめぎ合い、葛藤した。
そして、沈黙。
重く、長い静寂の後、蟒蛇は決意を固めたように顔を上げた。
その冷たい瞳には、先ほどまでの迷いはなかった。
「悪いが、これ以上は協力しない」
言葉は短く、しかし確固としていた。
「予め指示されているんだ。万が一露見した場合は、売り子も売上回収も、すべての活動を止めろと」
「へぇ…義理立てか?顔も知らない相手に」
魔理沙が口の端を吊り上げる。だがその挑発にも、蟒蛇は揺るがない。
「どうだかな。自分でも分からんさ。ただ…裏切れば、俺の正体をばらされるかもしれん」
一拍、間を置く。
「それに…この仕事で、多少なりとも生活は楽になった。恩があると言えば、そうなるのかもな」
さらに低く、押し殺すように続けた。
「それに、恐らくだが…この一件の黒幕は妖怪だ。あんたは人間だろう?人間を助けて、妖怪を売る道理はない」
その言葉に、魔理沙は鼻で笑った。
「ああ、そうかい。だったら私が正体ばらしてやってもいいし、この場で退治してもいいんだぜ?」
鋭い口調で言いつつ、ミニ八卦炉を見せつけた。
これは魔理沙のブラフだった。あくまで揺さぶりに過ぎない。
蟒蛇は肩を竦め、静かに応じた。
「好きにしろ。元々、危ういところを救われた身だからな」
脳裏には、マミゾウの姿がよぎる。
人間を傷つけたわけではない。だが、無銭飲食という、人間へ直接害をなす行為。
下手をすれば、博麗の巫女に調伏されていたかもしれない。
「それにだ。俺は悪事を働いたわけじゃない。ただ花粉症の薬を売っていただけだ。
値は張るが、需要があるから売れる。それを悪く言われる筋合いはない」
蟒蛇は腹をくくったらしく、腕を組み、動かぬ意思を示す。
もはや言葉では崩せない、硬い殻を感じた。
魔理沙は小さく息を吐いた。これは、無理にこじ開けるのは難しそうだ。
しばらく考え込み―やがて、彼女の脳裏に電球が明るく光を灯した。
「…あんたの意思は分かった。もうこれ以上は言わない」
静かにそう告げる。
「だがな、薬は押収させてもらうぜ」
有無を言わせぬその言葉に、蟒蛇はふぅ、と息をつき「…好きにしろ」と呟いた。
◆
―鯢呑亭。
墨汁を垂らしたかのような闇が覆い尽くす、丑三つ時。
店の灯りに引き寄せられるように、妖怪たちが自然と集うその居酒屋は、今宵もまた賑わいを見せていた。
卓には酒と皿が並べられ、作りたての料理からは美味そうな匂いと湯気が立ちのぼる。
笑い声、盃の触れ合う音。
だが、その合間に混じるくしゃみや鼻をすする音が、場の空気を濁していた。
小悪魔は、カウンターの端で一人、静かにグラスを傾けていた。
それは酒ではなく、淡い色をしたソフトドリンクだった。
店内での会話内容を、一語一句聞き漏らすまいと、先の尖った耳に意識を全集中する。
他愛もない雑談。
妖怪勢力に関する、政治的な討論。
花粉症に対する愚痴。
上司の悪口。
「まったく、この花粉症には参ったよ」
「でもさ、なんか、症状が出てない連中もいるらしい」
「へぇ?永遠亭の薬はもう売り切れだったのに?」
「買い占めたんじゃないの?少し分けてほしいもんだよ」
交わされる何気ない雑談。
だがその言葉の端に、小悪魔の意識が鋭く反応した。
視線だけを僅かに動かす。
そこには、飛頭蛮の妖怪―赤蛮奇と、黒髪に狼の耳を生やした少女―今泉影狼の姿があった。
「…」
小悪魔は、静かに席を立った。
◆
「すみません。もしよろしければ、相席をお願いできますか?一人で飲むのも寂しくて」
非の打ち所のない完璧な笑顔―社交の仮面を被り、柔らかく声を掛ける。
小悪魔がテーブルへ歩み寄ると、赤蛮奇と影狼は一瞬だけ視線を交わした。
警戒とも、戸惑いともつかぬ沈黙。
小悪魔はカウンター奥で忙しそうに働く奥野田美宵へ注文の声を上げた。
「美宵さん、紅魔館持ち込みのボトルキープ…マッカランの25年をお願いできますか?」
「はーい」と美宵の元気な声が返ってきた。
外の世界から紅魔館独自のルートで持ち込んだ、高級ウィスキーだ。
さらりと告げられたその一言は、場の空気を変えた。
赤蛮奇と影狼はその酒の名前を聞いて、驚いた表情になり、互いに顔を見合わせる。
改めて、小悪魔がにこやかに微笑む。
「…いかがでしょう?」
ほんの僅かの沈黙の後、赤蛮奇が肩を竦めた。
「まあ、いいさ。どうせ飲むなら賑やかな方がいい」
影狼も小さく頷く。
「うん、歓迎するよ。お酒は一人より、みんなで飲んだ方が楽しいしね」
その言葉を合図に、空気がふっと緩んだ。
小悪魔は内心でほくそ笑んだ。
―それからの展開は、早かった。
軽い世間話。
些細な愚痴。
季節の話題に、他愛もない笑い。
小悪魔は持ち前の社交性を存分に発揮していた。
相手の間合いに合わせ、言葉の温度を微調整しながら、違和感なく会話に溶け込んでいく。
相手を立て、聞き役に徹し、時折肯定し、感心して見せる。
―これらは、半分は計算、半分は素によるものだった。
気づけば三人の間に、自然な親しさが芽生えていた。
警戒心は、いつの間にか酒の酔いとともに薄れていった。
そして、小悪魔は、何気ない調子を装って口を開いた。
「ところで、先ほどのお薬のお話ですが…」
◆
―紅魔館の図書館。
「―なるほど。妖怪の山、ね…」
パチュリーは低く呟き、思案を巡らせた。
彼女はベッドの上で半身を起こしていた。
花粉症の名残は、今やほとんど見えない。永遠亭の薬が効いたのだろう。
だが、時折ごほ、ごほと咳き込む。喘息の方はまだあまり良くないようだ。
「はい。赤蛮奇さんたちの情報によると、妖怪の山に属する妖怪たちには、花粉症の症状が見られないとのこと。
河童の光学迷彩を用いれば、製薬レシピの窃盗も不可能ではありません。そして、組織力も持つ。
総合すれば…有力な容疑者かと」
言葉を区切りながら、小悪魔は丁寧に論を積み上げ、報告する。
パチュリーは、かつて幻想郷中に妖怪の力を秘めたカードが流通した異変を思い出していた。
調査に出た咲夜曰く、妖怪の山の大天狗、飯綱丸龍も一枚噛んでいたという。
「ふむ…動機は、活動資金の拡大、といったところかしらね。まあ、調べる価値はありそうね」
パチュリーのその一言で、方針は定まった。
「ただ…妖怪の山は部外者の立ち入りが禁じられています。聞き込みも困難かと…」
小悪魔の声音が沈んだ。
妖怪の山は閉ざされた領域だ。天狗たちの目が鋭く監視し、侵入者は排除される。
もし紅魔館の使い魔が潜入し、捕縛でもされようものなら、政治問題に発展しかねない。
「ふむ…だったら、堂々と行けばいい」
あまりにもあっさりとした一言だった。
「…え?」
主人の言葉に、思わず、小悪魔は首を傾げる。
パチュリーは視線を上げ、淡々と続けた。
「末端の構成員に当たっても時間の無駄ね。直接、幹部に会うべきよ。
…そうね、飯綱丸龍が適任かしら」
さらりと言ってのけるその口調に、迷いはなかった。
「龍宛の私の書簡を、貴方が持参した、という体にすれば、面会は通るでしょう」
その発想の飛躍に、小悪魔は目を見開いた。
「そ、それはそうですが…」
「普段、物理的にも、政治的にも表に出ない私の書簡を、咲夜ではなく直属の部下である貴方が持参する。
すると、相手はどう思うかしら?」
小悪魔は頭の中で、相手側の立場になってその状況を想像してみた。
「必ず、興味を持つ。無視はできないはずよ」
パチュリーのその言葉は、確信に満ちていた。小悪魔も、確かに、と思わず頷いていた。
パチュリーは脇机へと手を伸ばし、便箋を引き寄せた。
一瞬手を止め、少し考えた後、さらさらと、淀みなく羽根ペンを滑らせる。
やがて書き終えると、封筒に収め、蝋を垂らし、封緘した。
「これを持っていきなさい」
差し出された封書を、小悪魔は両手で受け取った。
「書簡の内容は…?」
「あくまで会うための口実だから、中身は何だっていいのよ。勿論、龍が必ず興味を持つようにはしてあるけれど」
言いながら、パチュリーは僅かに口元を緩めた。
その意味深な微笑に、小悪魔は何となく不安を覚えた。
「私が…妖怪の山の幹部相手に…」
その言葉には、緊張と高揚が混じっていた。
「貴方なら出来るわ」
柔らかな声音。そこには確信と信頼が滲んでいた。
静かな図書館の中で、その言葉だけが確かに響き、小悪魔の背をそっと押していた。
◆
―妖怪の山。大天狗の屋敷、最奥部。
高く組まれた梁の影が落ちるその空間の最奥、重厚な執務机の向こうに、
飯綱丸龍は肘をつき、無機質な眼差しで小悪魔を射抜いていた。
その背後には、犬走椛が控え、鞘に納めた曲刀に手を添えている。
空気は張り詰め、痛いほどの沈黙が場を支配していた。
小悪魔は、片膝をつき頭を下げていた。自身の身体が微かに震えているのを感じていた。
だが、それを外に漏らすまいと、奥歯を噛み締め、無理やり押し殺す。
「―魔女殿の書簡は拝読した。が…あれは一体、何のつもりだ?」
静寂を切り裂くように、龍が口を開いた。その問いは短く、しかし鋭かった。
書簡の裏にある意図を見極めるかのように、視線が一層深く突き刺さる。
小悪魔は一瞬、言葉を失った。
「その…私は、書簡の内容を知らされておらず…」
口の中が、からからに乾いていた。掠れた声が、頼りなく響く。
自分でも分かるほどに、その言葉は弱々しかった。
龍は鼻で小さく笑った。椛が歩み寄り、小悪魔に書簡を差し出す。
小悪魔は両手でそれを受け取り、震えを抑えながら目を落とした。
そこには、こう記されていた。
========
天、衆妖を生ずるに、必ず司牧有り
当今、牧と為るは、山に非ずして誰ぞや
我、書に沈みて久しく世事に疎し 願うは此に及ばず
願わくは驥尾(きび)に附し、龍鱗を攀(よ)じ、共に宇内を清めん
========
「…???」
小悪魔の頭の中は、一瞬で疑問符によって埋め尽くされた。
西洋の妖怪である小悪魔にとっては、その古めかしい文章は、難解だった。
視線を書簡の上で行き来させる。一度では足りず、二度、三度と読み返す。
やがて、断片が繋がり始めた。
つまり、これは主人―パチュリーが紅魔館から妖怪の山に降る、といった内容ではないか?
だがそれは、完全な理解には程遠い、ぼんやりとした輪郭に過ぎない。
「―隋末の群雄、李淵が李密へ送った恭順の書簡の改変だな。
要約すると、『妖怪の山こそ統治者だと認める。私は世事に疎いが、あなた方に従い協力したい』といった内容だ」
小悪魔は、半ば自分の解釈と合っていたことに安心しつつ、その内容に息を呑んだ。
「『龍鱗を攀じ』―龍の鱗に縋る、か。私の名に掛けた引用…いかにも知の魔女殿らしい遊びだな」
龍の口元が僅かに緩む。だがその笑みは温度を持たない、冷たさがあった。
「妖怪の山を持ち上げ、自身はへりくだる文面―表向きはそう読める…が」
そこで言葉が止まり、静寂が重く沈んだ。次に発せられた声は、先ほどよりも低く、深かった。
「魔女殿は紅魔館の当主、レミリア殿と深く結ばれていると聞く。
それが、軽々しく他勢力に降るとは考え難い。それに―」
龍の視線が鋭さを増す。そして、ゆっくりと身を乗り出した。
「李淵は最終的に天下を取り、大唐帝国を建国し、李密を滅ぼした。つまり、だ。
この書簡は、読みようによっては紅魔館が幻想郷に覇を唱え、妖怪の山を討つ、とも取れるが?
真意をお聞かせ願いたいものだな」
言い終えた瞬間、空気が凍りついた。
小悪魔の背筋を、冷たいものが走る。血の気が引き、視界が揺らぐ。
理解の及ばなかった文意の深層を突きつけられ、思考が追いつかなかった。
短いはずの時間が、果てしなく引き延ばされる。呼吸が浅くなり、胸が締め付けられる。
じわり、と嫌な汗が滲み、衣服の内側を湿らせた。
そのとき、ふと脳裏に浮かぶ。―主人の、あの意味深な微笑。
確かに龍は食いついた。興味を持った。狙い通りだ。だが…。
小悪魔は、頭の中でパチュリーに向かって思いつく限りの恨み辛みを投げつけた。
しかし、そんなことをしても事態は何も変わらない。
「飯綱丸様のご質問に答えよ!」
椛のよく通る声が、鋭く空間を裂いた。その右手はすでに曲刀の柄に掛かっている。
その一声が、引き金になった。
小悪魔は、ゆっくりと息を吸った。震えは消えない。だが、逃げ場もない。
ならば―腹をくくって、進むしかない。
「…申し訳ありません。その書簡は、飯綱丸様とお会いするための口実です」
しっかりとした声には、先ほどよりも芯があった。
椛の手が動く。だが、龍が手でそれを制した。
小悪魔は続ける。
「本題は、巷に出回っている薬について、お話を伺うために参りました」
一瞬の沈黙。だが、小悪魔にとっては永遠のように長く感じられた。
「…ほほぅ。中々、大胆だな」
肘を外し、指を組み替える。その仕草は、先ほどまでの圧とは別種の余裕を帯びていた。
「いいだろう。話を聞くとしよう」
その一言で、場の空気が僅かに変わる。
―命拾いした。
だが同時に、交渉の舞台は整った。刃の上の対話が、今、静かに幕を開けた。
◆
―小悪魔は、自身の推理を披露した。
その声は淡々としていながら、張り詰めた糸のような緊張を孕んでいた。
やがて語り終えたとき、沈黙が、重く沈殿した。
「つまり…我々が、その異変の首謀者だと、そう言いたいのか」
沈黙を破ったのは、犬走椛だった。目を細め、低く唸るように言葉を紡ぐ。
その手が、曲刀を僅かに引き抜く。露わになった刃が、燭台の灯を受けて鈍く光る。
空気がぴんと張り詰め、今にも裂けそうな気配を孕む。
小悪魔は、喉の奥が乾くのを感じながらも、視線を逸らさなかった。
「…ふむ。確かに、状況だけ見れば疑われても不思議ではない。
だが、残念ながら、その推理は見当違いだな」
龍が、静かに口を開いた。
「我々は薬など作っていない。それは、業者から購入したものだ」
「飯綱丸様…!」
椛の声には、驚きと制止の色が混じっていた。だが龍は、軽く手を振るだけだった。
「構わんだろう?隠すほどのことでもない」
小悪魔は息を呑んだ。
「買った…?そ、その業者は、一体誰なのでしょうか?」
掠れた声で、尋ねる。
龍は椛へと視線を向ける。
「直接取引したのは、お前だったな。相手の素性は掴めたのか?」
「は、はい…ですが…」
椛は一瞬、言葉をためらう。
「他言無用、と。もし漏らせば、今後一切の取引はしないと、そう言われています」
その言葉は、重かった。龍は小さく頷く。
「ふむ…我々の信用問題にも関わるしな。―というわけだ、小悪魔殿。
妖怪の山は、単に取引を行ったに過ぎん。だが、その相手については口にできない。
我々の矜持にかけて、な」
それは拒絶であり、同時に妖怪の山なりの誠意でもあった。
小悪魔は、ゆっくりと目を伏せた。
ここまでだ。
これ以上踏み込めば、情報ではなく軋轢を掘り起こすことになる。
それは紅魔館にとっても、望むべき結果ではない。
…いや、あと一つ。
一つだけ、聞いておこう。
「ご回答、どうもありがとうございます。…最後に一つ、伺いたいことがあります。薬はいくつ、仕入れたのでしょうか」
この質問の答えは、別に隠すようなものではないはずだ。
龍が椛を見やり、椛が軽く頷いた。
「三千包だ。これでも、花粉のシーズンを乗り切るにはまだまだ足りないがな」
椛が淀み無く答えた。
小悪魔はその数の多さにも驚いたが、椛が答える際に、一切迷わず、戸惑うこともない様子だったことに着目した。
もし自前製造しているなら、存在しない「取引の数」を咄嗟に聞かれた際に、少しでも迷いが生じるのではないか。
それに―あの真面目で実直そうな、如何にも武人らしい椛が、さらりと嘘を言えるとも思えなかった。
小悪魔の直感が、妖怪の山は白だ、と告げていた。
また、三千という大きな数は、黒幕が個人ではなく、組織であることを裏付ける証左と思えた。
「―貴重なお話を、ありがとうございました。そして、度重なる無礼を…どうかお許しください」
一歩下がり、深く頭を垂れる。
「魔女殿に、よろしく伝えてくれ。『玄武門には気をつけろ』とな」
龍がにやりと笑った。
◆
―紅魔館の図書館、書斎。
パチュリーはいつもの重厚な机の安楽椅子に座し、
魔理沙と小悪魔は来客用ソファーに腰掛け、互いに情報交換をし合っていた。
「人里では売り子の蟒蛇。大口顧客の妖怪へは、業者自身が薬を卸している―というわけか」
魔理沙が腕を組み、椅子の背にもたれかかる。
「私の直感では、妖怪の山は白だと思います。…けど、結局黒幕に直接結びつく情報は無かったですね…」
小悪魔も頷きながら、視線を落とした。
「魔理沙がそれだけ派手に大立ち回りしたのなら、人里の販売網はもう閉じられているでしょうね」
パチュリーが淡々と呟き、紅茶のカップを口に運ぶ。魔理沙が眉をひそめた。
「何が言いたいんだ?」
「ただの事実確認よ。情報源が一つ無くなった。その代わり、一つの販路を潰せた。痛み分けってところね」
魔理沙が不満げに鼻を鳴らし、パチュリーを睨みつけた。
「正直言えば、いきなり蟒蛇に迫るんじゃなくて…
泳がせつつ張り込みをすれば、集金ルートから黒幕まで辿れたんじゃないか、と思ったんだけど。
まあタラレバを言っても仕方ないわね」
パチュリーがふぅ、と息をついた。
魔理沙は思わず言葉に詰まった。確かにパチュリーの言う通りではあった。
「…あぁ、たしかに私が悪かったかもな。それは素直に認めよう。
けどな、図書館に籠もって本を読んでるだけのお前に、結果論で責められる謂れはないぜ。
もう体調も良さそうだし、文句あるならお前も現場に出てこいよ」
魔理沙が低い声で刺すように言い放つ。
パチュリーは気にも留めず、澄まし顔だった。
「…私自らがわざわざ出ずとも、こあがいるからその必要はないわ。こあは優秀だから」
「ああ、そうだな。小悪魔はお前より、よっぽど役に立つもんな」
「…私の聞き間違いかしら。まるで貴方自身は役に立っている、という風に聞こえたけど」
二人の間で、微妙な空気が流れた。
その険悪な雰囲気に、小悪魔がたまらず割って入った。
「ちょ、ちょっと…お二人とも落ち着いてください。今は仲間割れしてる場合じゃないでしょう」
小悪魔は今にも喧嘩になりそうな二人に気が気ではなかった。
同時に、普段は滅多に褒めない主人に「優秀」と言われ、また言葉の綾とはいえ、
魔理沙からも肯定されたことで内心嬉しくもあった。
魔理沙がふん、とそっぽを向き、パチュリーは涼しい顔で「私は最初から落ち着いているけれど」と嘯いた。
小悪魔はその二人を見て、はぁ、と小さくため息を付いた。
「…そうだ、パチュリー様!」
ふと、小悪魔が思い出したように声を上げた。
「なんであんな手紙を書いたんですか!危うく、椛さんに斬られるところでしたよ」
頬を膨らませて、抗議の視線を主人に向ける。
「龍は、あの程度で気を害するほど器の小さい妖怪ではないわ。
…万一、あれで怒るような小物なら、いくらでも私の手の平の上で踊らせられる」
パチュリーは口元に笑みを浮かべた。その声は、確信と自信に満ちていた。
小悪魔は、一瞬宙に視線をやり、頭の中でその意味を咀嚼した。
(…そうなった場合、使者である私の身の安全は?)
と疑問に思ったが、それ以上は言うことなく、口をつぐんだ。
「そういえば伝言を頼まれてました。『玄武門に気をつけろ』と」
それを聞いたパチュリーがふっと笑った。
「―そう。うちの姉妹は、殺しても死なないから大丈夫よ」
小悪魔は意味がわからず、目を瞬かせた。
魔理沙は「なんだそりゃ」と小さく呟いたが、それ以上は追及しなかった。
やがて、空気が再び思考へと戻る。
「ともかく、だ」
魔理沙が身を乗り出す。
「犯人を絞り込むには、新たな情報が必要だ。けど、聞き込みだけだとそろそろ限界だと思うんだ。
だから、別の角度から攻める」
にやり、と笑う。
「お前の実験室を使わせてくれないか?」
その言葉に、パチュリーは一瞬だけ考え込み、納得したように口元を緩めた。
「…なるほどね。いいでしょう。こあ、魔理沙を案内してあげなさい」
「は、はい!」
即座に背筋を伸ばし、小悪魔が応じる。
「それと、これも持っていきなさい」
パチュリーが何かを投げ、魔理沙が片手でそれを受け止めた。
それは、薬の薬包だった。
「永遠亭の正規の薬よ。もう品切れで貴重だから、慎重に扱いなさい」
魔理沙は頷き、ポケットへと仕舞う。笑顔で短く礼を言った。
「ああ、ありがとな」
◆
―紅魔館、図書館奥の魔法実験室。
扉をくぐった瞬間、空気の質が変わる。
紙とインクの匂いに代わり、薬品のかすかな刺激臭が鼻についた。
広い室内には、整然と器具が並んでいた。
長い実験台の上には、大小さまざまなビーカーや三角フラスコ、丸底フラスコが規則正しく配置され、
ガラス管は蜘蛛の巣のように組み上げられ、蒸留装置がいくつも据え付けられている。
他にも、乳鉢と乳棒、精密天秤、金属製のピンセットや試験管立て、アルコールランプ等が設えてあった。
棚には色とりどりの薬品瓶が並び、ラベルには薬品名や成分名が記されていた。
それはまさに、魔法使いや薬士にとっては垂涎に値する空間だった。
「かぁ~…、金持ちの友人がいるってのは、羨ましいぜ」
魔理沙が実験室を見渡し、感嘆とも呆れともつかぬ息を漏らす。
「パチュリー様は調合があまり得意ではありませんので、実際に使われることは少ないのですけどね」
小悪魔が、どこか申し訳なさそうに微笑む。
「へぇ…宝の持ち腐れってやつか」
魔理沙は軽く肩を竦める。しかしその目は、輝いていた。
「ところで、何をなさるおつもりですか?」
小悪魔が、改めて問いかける。
魔理沙は、ポケットから小さな薬包を取り出し、もう一方の手には別の包みを掲げた。
「話は単純だ。永遠亭の正規品と、蟒蛇から押収した闇ルートの薬。こいつらを、徹底的に分析する」
その口元に、いつもの自信に満ちた笑みが浮かぶ。
「分析…ですか」
「永遠亭の製薬レシピが盗まれたって話だったよな。なら、本物と中身がどこまで同じか…あるいは、どこが違うか。
そこを調べて、犯人像に迫ろうって寸法だ」
薬包を指で弾き、にやりと笑った。
「なるほど…!」
小悪魔は、静かに頷いた。
「よし、それじゃあ始めるか!小悪魔、手伝ってくれよな」
「はい!」
小悪魔が小気味良く返事をした。
◆
魔理沙はまず、二種類の薬をそれぞれシャーレへと移した。
ピンセットでごく微量を摘み取り、慎重に別の試験管へと分ける。
透明な液体をビーカーから注ぎ、軽く揺らす。粉末はゆっくりと溶け、色を帯びた溶液へと変わっていく。
次に、丸底フラスコへと移し替え、ガラス管を接続する。
アルコールランプに火を灯すと、淡い炎が揺れ、液体が温められ、やがて、蒸気が立ち上る。
冷却管を通り、透明な滴となって別の容器へと落ちていく。
その一連の動きは、驚くほど無駄がなかった。
小悪魔は作業を手伝いながら、その様子をじっと見つめていた。
―意外だった。
豪放で、直感で突き進むような印象の強い魔理沙。
だが今、目の前にいる彼女は、まるで別人のように繊細で、集中していた。
火加減を調整する指先。
液体の色の変化を見逃さぬ視線。
一連の作業の手際の良さ。
どれもが、熟練のそれだった。
小悪魔は、思わずその姿に見入った。
(―やっぱり、魔理沙さんは、魔法使いなんだな)
主人とは、性格も、気質もまるで正反対だ。
だが、その根底に流れるものは、確かに同じだった。
知を求める執念。
魔法への飽くなき探究心。
現象を解き明かそうとする情熱。
それは、炎のように激しく、同時に、氷のように冷静で理知的でもあった。
小悪魔は、主人がなぜ、度々本を盗み出す厄介者の魔理沙を図書館から完全に締め出さないのか、
その理由の一端を知った気がした。
―そして、ほんの僅かに、淡い嫉妬が心にちくりと刺さった。
◆
作業を始めてから、すでに数時間が過ぎていた。
実験室の空気は、薬品の微かな匂いと、長時間の集中がもたらす張り詰めた静寂に満ちていた。
魔理沙は分析結果を書き連ねたノートを片手に、低く唸っていた。
その表情は、普段の軽薄さは影を潜めている。
「で、結果はどうでしたか?」
小悪魔が問いかける。その声には、期待と不安が織り交ぜられていた。
「そうだな…平たく言えば、正規の薬を便宜上純度100%とするなら、闇ルートの薬はおよそ80%ってところだ。
原材料は一致してる。だが、精製工程が僅かに異なるんだろうな」
「80%…ですか」
小悪魔は指先で顎に触れ、思考を巡らせる。
「つまり、製薬レシピを盗んだ何者かが、再現しきれずに作った粗悪品、ってことでしょうか」
小悪魔の言葉に、魔理沙は同意の相槌を打った。
ふと、疑問に思う。…本当にそうだろうか?
改めて、分析結果を記したノートに視線を落とし、思考を巡らせた。
その数字の羅列を眺めていると、違和感が引っかかった。
(なんだ…?)
何度も見返し、数字を比較する。そして―脳内に電流が走った。
大きな矛盾点があったことに気づいたのだ。
「…いや、最初は私もそう思ったんだがな。どうも、違うかもしれない。
というのも、どの分析結果も、ほとんど誤差がなく『80%前後』に収まってるんだ」
魔理沙の言葉に、小悪魔は疑問符が頭の中に浮かんだ。
「…何かおかしいのですか?」
「それが、大アリなんだよ。いいか、調合ってのはな。
気温、湿度、火加減、蒸留時間―ほんの些細なズレで結果は大きく変わるんだ。
素人が製薬レシピ通りに調合したとしても、もっと純度の幅がバラつくはずなんだよ」
魔理沙はまるで講義する先生のように、身を乗り出して滔々と説明した。
その言葉に、小悪魔の目がはっと見開かれる。
「なるほど。つまり、安定して80%前後を維持していること自体が、不自然、ということですね」
「そういうことだ」
魔理沙は口の端を吊り上げた。
「でも、精製の際は一度にまとまった数の薬が作られますよね。
純度が近いのは、たまたま同ロットの薬だった、とも考えられませんか」
小悪魔の疑問に、魔理沙は机に並べられた薬の包みを指で示した。
「この包みの右端に、数字があるだろ?」
小悪魔が覗き込むと、小さく「三・二四」「三・五六」「四・十三」といった漢数字が記されていた。
「恐らくだが、左がロット数で、右が同ロット内の連番なんじゃないかな。
これを作った奴は、余程きっちりしているのか、いつ製造した薬を、誰に卸したのか、厳密に薬の在庫管理をしてたんだろう」
魔理沙の声色は確信に満ちていた。
「ふむ…。つまり、左の数字が同じならば同ロット、違えば別ロットの薬ということですね。じゃあ…」
その小悪魔の言葉を継いで、魔理沙が頷きつつ答えた。
「同ロットと、別ロットの純度を比較してみたんだが、同ロットは完全に同一。
別ロット間だと、ほんの僅かに違いが見られた。78%とか、81%とか、小さな差異だけどな」
小悪魔はゆっくりと息を呑んだ。
「ってことは、これは…素人仕事に見せかけたプロの仕事ってことですね」
魔理沙の瞳が、鋭く光る。
「その通りだ。これは意図的に純度を落とした、精密な仕事―職人芸ってやつだな。
人里の薬剤師や町医者でも不可能だろう」
静寂が落ちた。
実験室には、冷静な思考の冷たさと、新たな事実の発見による熱い興奮が混ぜ合わさった、独特の空気に満ちていた。
「となると、後は魔理沙さんのような魔法使い、もしくは…」
「いや、調合の得意な私でも、ここまで安定した精製は無理だ。第一線の本職じゃないと。
しかも、大量生産できる設備と人手を持ち、人間にも妖怪にも薬を流通させるコネを持っている。
個人ではなく、組織の仕業だな…となると、考えられるのは?」
魔理沙の問いに、小悪魔は目を閉じ、思考の海へと潜った。
「妖怪の山は、設備は河童が整えられますが、製薬のプロはいないですよね」
小悪魔は言いつつ、頭の中で幻想郷の勢力図を一つ一つ思い浮かべては、容疑者から消していった。
そして、最後に残った、一つの勢力。
「―永遠亭」
小悪魔がその名を口にした瞬間、空気が冷えた気がした。
魔理沙は満足げに笑う。
「正解だ。製薬レシピ盗難も、おそらく自作自演。
純度を落として『レシピを盗んだ素人の仕事』に見せかける―見事な煙幕だぜ」
小悪魔は感心したように声を上げた。
「なるほど、用意周到ですね…。けど、永遠亭の誰が黒幕なんでしょうか?
それに、確たる証拠はないですよね」
「だいたい見当はついてる。恐らく、あいつだ」
魔理沙は軽く肩を竦めて笑う。
「だがな、お前の言う通り状況証拠ばかりで、決め手がない。そこで、最後の一手だ」
その笑みは、まるで盤上を読み切った棋士のようだった。
「小悪魔、お前は花粉の発生源の犯人のところへ行ってくれ」
「え…?誰か分かったんですか?」
小悪魔は目を見開く。
「ああ、分かってるさ。全部繋がった」
魔理沙は、ミニ八卦炉を指先でくるりと回した。
「そいつの正体は―」
◆
小悪魔は、青空を滑るように飛びながら、地上へ視線を落としていた。
風はまだ冷たく、しかし運ばれてくる空気には、あの忌まわしい花粉の気配が確かに混じっている。
ふと、視界の端に、見慣れた人影が映った。
羽ばたきを止め、小悪魔は地上へと降り立った。
「アリスさん!」
弾かれたように声が飛び出した。
呼ばれた人物―アリス・マーガトロイドは、静かに振り返る。
その整った顔立ちに、一瞬だけ意外そうな色が差した。
「あら…小悪魔じゃない。どうしてこんなところに?」
「それはこちらの台詞ですよ」
小悪魔は息を整えながら、まっすぐに彼女を見た。
「私は、魔理沙さんから花粉症異変の原因が、この近辺にいると聞いて来たんです」
その言葉に、アリスの表情が変わった。驚きと、そして納得。
「…そう。貴方たちも、ここに辿り着いたのね。私もね、独自に調べていたの。この異変を」
その一言で、互いの立場は明らかになった。
二人はその場で、自然と情報を交換し始める。
「なるほど…」
小悪魔は、アリスの話を聞き終えると、静かに頷いた。
「スギ花粉散布の容疑者は、アリスさんのお知り合いだったんですね」
「ええ」
アリスは頷き、遠くを見るように視線を逸らした。
「それにしても、裏で薬の精製と闇取引に手を回す別の黒幕がいたなんて、ね…。
確かにあいつなら、やりかねないわ」
そこには確信と、僅かな苦味が混じっていた。
「ただ…決定的な証拠がなくて。だからこそ、ここへ来ました。
もう一方、花粉そのものを生み出している犯人の元へ」
「なるほど」
アリスの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「事情は分かったわ。だったら、私も協力させてもらう」
その言葉は短く、しかし迷いがなかった。
小悪魔は笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。心強いです」
小悪魔は顔を上げ、周囲を見渡した。
「ところで…肝心のその人物は?」
その問いに、アリスはふっと空を仰いだ。
「噂をすれば、ってやつね」
つられて小悪魔も視線を上げる。青い空の中に、ひとつの影があった。
その人物もこちらに気づいたのか、近づいてくる。
風が、ざわめいた。
< 犯行篇 >
―迷いの竹林。
その奥深く、ひっそりとした一角に、ぽつんと佇むあばら家があった。
屋根は歪み、壁板はところどころ軋み、とても人の住む場所とは思えない。
だが、外観からは想像できないほど、内部は整然としていた。
長い作業台が幾列も並び、その上には無数の器具が規則正しく配置されている。
丸底フラスコ、三角フラスコ、細首の試験管。
蒸留装置一式が組み上げられ、冷却管の中では絶えず水が流れ、かすかな滴音を刻んでいる。
アルコールランプの青白い炎が、静かに揺れていた。
すり鉢と乳棒で乾燥した生薬をすり潰す音。秤で粉末を量る繊細な指の動き。
そこにあるのは、体系化され、管理された生産の現場だった。
忙しなく行き交うのは、幾羽もの兎たちだった。
「三番ライン、抽出終わったよ!」
「黄芩がもうすぐ切れるから、補充お願いねー」
兎たちの声が飛び交う。小さな体で器具を扱い、材料を運び、火加減を調整する。
その動きには無駄がなく、まさに熟練の手際だった。
薬の原材料が次々と刻まれ、煮出され、濃縮され、やがて白い粉末へと姿を変えていく。
そして完成した薬は、小さな包みに詰められ、几帳面に数字が記され、積み上げられていった。
◆
その隣室。
喧騒から切り離された静寂の中で、一人の小柄な兎の少女―因幡てゐが、椅子に腰掛けていた。
彼女は机の上を、どこか焦点の合わない目で見つめている。
そこには、無造作に積み上げられた紙幣と硬貨が、あふれ返り山を成していた。
一円の兌換券(だかんけん)はくしゃりと丸めて束にまとめられ、硬貨が無秩序に光を放つ。
てゐは一枚の紙幣を手に取り、大黒天の姿が印刷されたそれを、指先で軽く弾いた。
ぱちん、と乾いた音が部屋に響く。
その音だけが、やけに大きく感じられた。
「ここまでやるつもりは、なかった…」
ぼそり、と呟く。視線は、金の山に落ちたまま動かない。
「ほんの少し…小遣い稼ぎのつもりだったのに」
唇の端が歪む。笑いなのか、自嘲なのか、判別がつかなかった。
「はは…どうして、こうなってしまったんだろうな」
深く、長い吐息。
その独白は、隣室の規則正しい作業音とは対照的に、どこか空虚だった。
金は積み上がる。薬は作られ続ける。歯車は止まらない。
だが、その中心にいるはずの少女の心だけが、どこか、取り残されていた。
◆
時は少し遡る。
―永遠亭。
因幡てゐは、妖怪兎による組織『兎角同盟』の帳簿を前にして、深くため息を付いた。
人里への薬の行商や、抗うつ薬の精製、カラー兎の販売など、色々と手は尽くしている。
これらの事業は相応の結果を出しているはずなのだが、不思議なことに蓄えは潤沢とはいえず、心許なかった。
支出の活動費の項目を見ると、兎鍋反対を掲げたロビー活動に多額の資金が使われていた。
(非効率的だな…けど、それにしても額が大きい)
一度、鈴仙には無駄遣いするなと、厳しく言わないといけないかもしれない。
「なんか、うまい話はないかな…」
ぽつりと呟き、顔を上げる。
庭先に視線をやると、梅の木が白い花を咲かせていた。
もう暦の上では春だ。そして、花粉が舞う季節でもある。
「花粉症の薬は、よく売れるんだよな…」
それは、至極当然のことだった。
風邪は治れば、もう薬はいらない。だが、花粉症は違う。
花粉のシーズン中は、常に服用し続ける必要があるからだ。
ふと、一つの考えが脳裏に浮かび上がった。
もし、花粉症患者が今よりずっと増えたなら、大儲けできるんじゃないか。
「はは…できるわけない」
花粉の量は年ごとに変わる。自然によるものであり、人為的にどうこうできるわけではない。
それに、永遠亭では毎年永琳が定めた分量の薬しか作らないし、良心的な価格ゆえ儲けが大きいわけでもない。
―だが、仮に。万が一にでも、花粉症患者を意図的に増やすことができたなら。
てゐの目が僅かに細まり、少し思考を巡らせる。
基本方針としては、永遠亭には内密に、独自で薬を大量生産し、闇ルートで高値で売り捌く。
まずは、原材料の確保だ。
顔を見られるのはまずいから、金で雇った別人に仕入れさせる。
次に、製薬。
永遠亭の設備は当然使えない。
迷いの竹林には、かつて誰かが住んでいたであろう無人のあばら家が幾つか存在する。
そこを整備し、器材と原材料を持ち込み、その周辺だけ「迷いの術」を施す。
器材は、永遠亭の廃棄予定のお古を流用すれば良い。
これで、外界から切り離された、『調理場』は確保できる。
それだけだと、足がつくかも知れない。
敢えて、正規品とはほんの僅かに製造工程を違え、若干質を落とす。
万が一、成分を分析された際に、正規品と全く同等だとプロの犯行だと露呈してしまう。
結果的に、永遠亭へ疑惑の目が向けられてしまうからだ。
質が落ちていようと、薬としての効果は十分なはずだ。
正規品はあっという間に品切れするだろうから、質にこだわる者などいないだろう。
そうだ、ダメ押しで『永遠亭で管理している製薬レシピが紛失した』と虚偽の報告をすればどうか。
これで、第三者が製薬レシピを盗み、素人が真似て作った、という筋立てができる。
そこまで考えて、てゐは頭を振って思わず笑った。
いくら何でも、妄想がすぎる。
結局は、スギ花粉を操れないと何の意味もないのだ。ただの机上の空に過ぎない。
(―いや、待てよ。本当に、無いのだろうか?)
思考に、揺らぎが生じた。
魔法にはあまり詳しくない、が…紅魔館の引き篭もりの魔女は、七曜の魔法を操ると聞く。
ならば、木行の魔法で、植物を制御できないだろうか。
…いや、スギ花粉をどうこうするような、そんな都合の良い魔法が都合よくあるとは思えない。
他に思いつくのは、風見幽香だ。
彼女は花を操ることができる。ということは、植物であるスギも操れるだろう。
だが、仮に、幻想郷の全ての杉から従来の倍の量の花粉を出したとして、
それで花粉症が大量発生するだろうか。
スギ花粉は幻想郷内のものだけではない。外の世界からも、博麗大結界を越えて飛んでくる。
むしろ、そっちのほうが大部分を占めるだろう。結界内のスギだけを操ったところで、たかが知れている。
てゐは、軽く頭を振った。思考は、静かに閉じられた。
やはり、無理があったのだ。
馬鹿げた妄想はやめて、眼の前の数字と向き合わないと。
その時、ふと、記憶の底に沈んでいた光景が浮かび上がった。
どこかの宴会で…博麗神社だったか、守矢神社だったか、忘れてしまったが。
酒の香りと笑い声に満ちた夜、東風谷早苗と話したことがあった。
彼女曰く、何でも、外の世界では花粉症は想像以上に恐れられており、
花粉症に罹った者にとって、スギ花粉は忌むべき存在であり、外を出歩くことすら苦痛なのだ、と。
酔った早苗は、大仰な身振りを交えて、若干興奮気味にこう言っていた。
『まるで、腐海の底にマスク無しで降り立ったナ◯シカの気分ですよ!』
その比喩はいまいちピンとこなかったが、何となくその深刻さは理解できた。
だとすれば、人里の花粉症の人間もまた、同じように感じているのではないか。
彼らにとっては、スギ花粉は身体を蝕み、呼吸を乱し、苦しめ、日常を奪う―
そう、まるで『毒』のようなものではないか?
どくん、と心臓が跳ねた。
浮かび上がるその可能性に、静かに熱と興奮がせり上がってくる。
もしも。もしも彼らが、スギ花粉を『毒』だと認識していたら。
『毒』を操る能力によって、スギ花粉を、より強力な毒として、いくらでも生成できるんじゃないか。
頭の中に、メディスン・メランコリーの姿が浮かんだ。
人間に捨てられ、人間に深い恨みを持つ、人形の妖怪。
彼女は、あらゆる毒を自由に操る能力を持つ。
メディスンとは、永遠亭の製薬で使用する、ラベンダー毒の仕入れで接点がある。
「人間を苦しめるために、強力なスギ花粉をばら撒いてほしい」と頼めば、
目を輝かせて、喜んで協力してくれるのではないか。
しかも、彼女は子供だ。甘い言葉で囁やけば、いくらでも手球に取れる。
これら全てが仮に成立した場合、最も重要な点がある。
それは、あくまで「花粉症患者がいつもよりも多く出現する」程度に留める必要がある、ということだ。
あまりにも多すぎると、怪しまれる。
最悪、異変だと判断され、博麗の巫女が動くかもしれない。そうなれば、終わりだ。
それに…別に私は、悪人ではない。
程々の規模に留め、小金を稼げばそれでいい。
毎年花粉で苦しんでいる連中が、少し増えるだけだ。
やがて季節の移ろいとともにスギ花粉も飛ばなくなり、花粉症も消え、何事もなかったかのように日常が戻る。
それで終わりだ。
それ以上は、望まない。やりすぎると、足元を掬われる。
(―これは、試してみる価値はあるんじゃないか?)
自然と、てゐの口の端には笑みが浮かんでいた。
◆
―無名の丘、ラベンダー畑。
本来であれば、あたり一面を覆うはずの紫の絨毯は、まだ影も形もなかった。
芽吹いたばかりの若い株が、春の気配を受けて静かに息づいていた。
てゐはその上空を飛びつつ、視線は地上を舐めるように見渡していた。
やがて、目当ての妖怪を見つけ、ふわりと高度を落とし、土を踏む。
そこにいたのは、小柄な少女の姿をした妖怪―メディスン・メランコリーだった。
「あれ、てゐ?どうしたの、こんな時期に。ラベンダーはまだ咲いてないよ」
どこか無垢な調子で首を傾げる。
ラベンダー畑をぐるりと見渡し、小さく肩を竦めた。
「今日は別件だ。ちょっと、あんたに頼みたいことがある」
てゐの声音には、いつもの軽さとは違う硬さが混じっていた。
メディスンの瞳が、好奇心に揺れる。
てゐは一歩距離を詰めると、言葉を選ぶように間を置き、ゆっくりと口を開いた。
◆
「人間を花粉症で苦しめるために、スギ花粉を生成できないかって?」
メディスンは、僅かに目を見開き、意外そうに声を上げた。
驚きと、興味が混じっていた。
「うん。もしスギ花粉が人間の間で『毒』として認知されているなら、メディスンの能力で作れるはずだ」
てゐの瞳は真剣で、揺らぎがなかった。
メディスンは首を傾げ、しばし考え込んだ。細い指先が顎に触れ、視線が宙を彷徨う。
「人間を苦しめるのは大歓迎だけど…まあ、ちょっとやってみるよ」
ゆっくりと目を閉じ、片手を上へと掲げる。
手の平は空を受け止めるように開かれ、その上に、淡い光が集まり始めた。
最初はかすかな粒子に過ぎなかったそれが、次第に密度を増し、ひとつの塊へと収束していく。
空気が、僅かに震えた。
やがて、ぱち、と乾いた音が弾けたかと思うと、閃光が一瞬だけ走った。
その直後、黄色い粉末のようなものが、ふわりと宙に漂い始めた。
メディスンはゆっくりと目を開き、小さく息をついた。
「どうかな?」
その問いに、てゐは無言で応じる。漂う粉を指先で掬い取り、じっと見つめた。
見た目は、完璧だ。本物のスギ花粉と見分けがつかない。
だが、それだけでは―。
「…は、はっくしょん!」
突如、鼻の奥がむず痒くなり、堪えきれずくしゃみが弾けた。
その一瞬の反応が、何より雄弁だった。
「…完璧だ。これなら、いける!」
てゐは思わず飛び上がって喜び、笑みを浮かべた。その顔には、抑えきれぬ歓喜が滲んでいた。
「これを、幻想郷全体に、大量にばら撒き続けることはできるか?」
「風上に立って、毎日一定時間、能力で生成し続ければ…たぶんいけると思う!」
メディスンの瞳が輝いた。
その奥にあるのは、純粋な期待―いや、もっと直接的なものだ。
「ねえ、これで人間たち、いっぱい苦しむんだよね?怖がって、逃げ場もなくて…」
「ああ、もちろんだ」
てゐは即答した。口元に、細く鋭い笑みが浮かんだ。
メディスンもまた、それに応じるように、にやりと笑った。
だが、てゐはすぐに表情を引き締める。
「ただし、注意がある。あまり派手にやりすぎちゃだめだ。
異変として認知されたら、博麗の巫女が動くかもしれない。あくまで程々に抑えるんだ。いいな?」
その言葉に、メディスンは不満そうに唇を尖らせた。
「えー?どうせやるなら、もっと徹底的にやろうよ」
「だめだ。もし暗躍が露見して、討伐でもされたら終わりだ。全部無駄になる」
間髪入れずに否定する。
その現実的な言葉に、メディスンは渋々といった様子で頷いた。
「それと、もう一つ。万が一、花粉の発生源に気づいた奴が訪ねてきても、
絶対に知らぬ存ぜぬを通すんだ。当然、私の名前も出しちゃいけない。いいな?」
てゐはさらに一歩踏み込み、詰め寄った。
「そんなの、言われなくてもわかってる。子ども扱いしないでよ」
メディスンはむっとした顔で不満げに言い返した。
「…よし、それでいい。それじゃあ、決行は一週間後。実際に花粉が飛び始める時期に合わせる。
きっかりその日から、スギ花粉をばら撒くんだ」
「うん!」
てゐの言葉に、メディスンは素直に頷いた。
「…いい子だ」
てゐは胸の奥で、静かに笑った。
(―所詮、子どもだな。単純なもんだ)
すべては、思い描いた通りに進んでいる。
今のところ、歯車は狂うことなく、確実に回り始めていた。
◆
―永遠亭。
自室の奥、静寂に包まれた空間で、因幡てゐは腕を組み、じっと思索に沈んでいる。
頭の中では、今後の計画について細部に渡って比較検討が行われていた。
その知的労働は、微量の興奮と、得も言えぬ心地よい緊張を伴い、自然と口の端が歪んでいた。
(―都合のいい手駒が欲しい)
それは、計画を現実へと引き寄せるための必須条件だった。
原材料の仕入れに、人里での闇取引。
どちらも、自らの手を汚すわけにはいかない。
ましてや、配下の兎たちを使うなど論外だ。繋がりが露見すれば、それだけで全てが崩れる。
ならば、誰を使うべきか。
条件は明確だった。自分との縁が薄く、切り捨てても問題のない存在。
兎角同盟は人里で薬を販売している。その関係で、ある程度は事情に詳しい。
思考の中で、候補がいくつか浮かび上がる。だが、そのどれもが決定打に欠けていた。
ふと、一つの顔が脳裏に浮かぶ。人里にひっそりと潜む妖怪。
比較的最近になって住み着いた蛇の妖怪、蟒蛇だ。
大酒飲みで、大食いらしく、よく胃腸薬を買い求める姿が思い出された。
その身なりも、金に余裕がある風には見えなかった。
そして、人里で人間の姿に扮して生活している以上、余計な騒ぎは避けたいはずだ。
「…あいつなら、ちょうどいいな」
てゐは小さく呟き、にやりと笑った。ゆっくりと腕を解き、机へと向かった。
静まり返った部屋に、筆の走る音だけが、小さく響いていた。
◆
―人里、長屋の一室。
仕事帰りの蟒蛇が引き戸を開け足を踏み入れると、薄暗い室内に、かすかな違和感を覚えた。
戸口の脇に、見慣れぬ包みが一つ、無造作に置かれていた。
蟒蛇は眉をひそめ、しばしそれを見下ろす。
手に取って、子細を眺める。差出人の名はない。ましてや、届け物が来る覚えもない。
そもそも、施錠していたはずの室内に置かれている時点でおかしい。
警戒しつつ、紐をほどき、包みを開く。
中身を目にした蟒蛇の身体が、ぴたりと固まった。
そこにあったのは、札束だった。一円の兌換券が、整然と束ねられていた。
息が、止まる。指先が震え、紙幣をじっと凝視する。
「…こいつは…何の冗談だ?」
思わず漏れた声は、掠れていた。
ふと、この場も誰かに見られているのではないか、という強迫観念が働いた。
思わず、引き戸を開けて外の通りを見渡す。だが、誰もいなかった。
部屋に戻り、改めて包みを見ると、中に一通の手紙が同封されていることに気付いた。
蟒蛇はためらいながらもそれを取り出し、恐る恐る目を走らせた。
=======
人里のすべての薬問屋で、それぞれ別の人間に化けて、以下を相場の二倍の単価で全て買い占めよ。
『甘草』『黄芩』『辛夷』『連翹』『桔梗』
十円は手付金だ。購入した原材料は箱に詰めて、以下住所へ届けよ。
人里 南通りの外れ
朽ちた蔵の並び 三つ目の土蔵
夜半、裏戸より搬入のこと
=======
手紙の末尾には、蛇の鱗が貼り付けられ、赤い墨による丸印で囲われていた。
蟒蛇は、背筋に冷たいものが走った。
この差出人は、自分が蛇の妖怪であることを知っている。
薬の原材料を、相場の倍で買い占めるなど、どう考えても、まともな話ではない。
十円という報酬もまた、異様だった。
普通なら、無視すべきだ。関わるべきではない。だが、もし、断ったらどうなるか?
正体を暴かれ、人里から追われる光景が鮮明に浮かんだ。
世話になった、あの化け狸の大妖怪―二ッ岩マミゾウに相談すべきか、とも考えた。
あの人ならば、きっと親身になって、助けてくれるに違いない。
(―いや)
蟒蛇は、ゆっくりと首を振った。
今は人の姿で働いているとはいえ、暮らしは楽ではない。日々の糧を得るのに、精一杯だ。
それに、目の前にある十円という金額は、あまりにも、大きかった。
沈黙が、部屋を満たす。長い時間、蟒蛇は動かなかった。
札束と手紙を前に、ただ立ち尽くし、思考を巡らせ、悩んだ。
「…くそ」
札束を握りしめ、低く吐き出すように呟いた。迷いは、消えていない。
だが、決断だけは固まっていた。
従うしかない。そう、自分に言い聞かせた。
春とはいえ、安普請の長屋に入り込む隙間風は、冷たかった。
◆
―永遠亭。
その日は、ついに訪れた。
静謐を常とするこの地に、似つかわしくない喧騒が満ち、門前が人と妖怪で埋め尽くされていた。
あちらでは誰かがくしゃみを連発し、こちらでは鼻を押さえながら呻き声を漏らす。
―どこか、不穏な熱気を帯びていた。
てゐは、その光景を見て、目を見開いた。
「…ここまで、とはね」
ささやかな小金稼ぎのつもりだった。だが現実は、それを軽々と飛び越えてきた。
これほどの数が押し寄せるなど、計算外もいいところだった。
胸の奥で、微かな高揚と、同じだけの不安が広がっていく。
計画は今のところ成功している。成功しすぎている、と言ってもいい。
―だからこそ、油断はできない。
喧騒の隙間を縫うように、てゐは静かに踵を返した。
人気のない裏手へ回り込み、誰の視線もないことを確かめると、するりと影のように研究室へ忍び込む。
整然と並ぶ薬品棚、几帳面にまとめられた器具、そして何より―門外不出の製薬レシピが保管されている場所。
てゐは躊躇いなくそれを取り上げた。
「…これで、仕込みは完了だ」
その表情は、いつもの軽薄な笑みとは違い、狡猾で、愉悦を含んでいた。
部屋を出ると、廊下の向こうから足音が近づいてくる。
やがて現れたのは、ブレザー姿の兎耳の少女、鈴仙・優曇華院・イナバだった。
てゐは何事もなかったかのように、軽やかに口を開く。
「鈴仙、これだけ花粉症患者が詰めかけてるのなら、急遽増産が必要になるかもしれないね。
悪いけど、製薬レシピを準備しておいてくれない?」
あまりにも自然な声音。疑う余地すら与えぬ、日常の一コマのような会話だった。
鈴仙は小さく頷き「分かったわ」と返すと、そのまま足早に去っていった。
◆
研究室を見渡した鈴仙は、違和感に気づいた。あるはずのものが、そこにない。
整理された机の上にぽっかりと空白が生まれていた。
「…製薬レシピが、ない?」
その事実は、静かに、しかし確実に胸の中で波紋を広げていった。
「お師匠様に報告しないと…!」
鈴仙は慌てて永琳の私室に向かった。
◆
―翌日。
今日も門前は薬を求める人間と妖怪によってごった返していた。
てゐは、その中に魔理沙と小悪魔を見つけた。
妹紅に聞き込みをしているらしい。どうやら、この花粉症の流行を異変と捉え、調べているようだ。
(ちっ…博麗の巫女はまだ動いてないようだが、まさか、もう嗅ぎつけるなんて…)
てゐは心の中で舌打ちした。
想定外だった。あまりにも、被害者が多すぎた。そのせいで、あの白黒の魔法使いが勘づいてしまった。
小悪魔が同行しているのも気になった。
そして運の悪いことに、廊下でばったりと魔理沙たちに出会ってしまった。
(大丈夫、私に繋がる証拠は何も無い。焦るな、自然体で接するんだ)
自分にそう言い聞かせる。
「…あんたらも花粉症の薬を買いに来たのかい」
てゐが慎重に声を掛ける。
「いえ、私たちは調査に来たんです。この花粉症異変の…」
小悪魔の答えに、てゐは目を見開いた―これは勿論演技だ。
「異変…?あんたらは、これが異変だと思ってるのか?
まぁ、確かに例年と比べると異常なほど患者が多いけど」
変に詰まることもなく、上手く言えた…と思う。
「そのお陰でお前らは、さぞかし懐が暖かくなったんじゃないか?」
魔理沙が挑発するように言う。てゐはむっとした顔を作り、反論する。
「…うちは他所よりも質の良い薬を良心的な値段で扱ってるんだ。沢山売れようと、大した儲けはない」
「ほほぅ…」
魔理沙が目を細めて、どこか疑うような視線を向けてくる。
(構うな、今は演技に集中するんだ)
そう、自分に言い聞かせる。
「そもそも…私たちが本気で薬で儲けようと思ったら、この花粉症の流行に限らず、いくらでもやりようはあるんだ。
その気になれば、幻想郷の医療市場を独占することだって出来る。それに…いや、詳しくは直接お師匠様から聞いてみるんだな」
てゐは言い切ると、ふんとそっぽを向き、その場を立ち去る。
魔理沙たちに背を向け、歩を進めながら、内心で自身の行動を反芻していた。
(うん、不自然な点はない。ボロも出ていない。大丈夫だ)
◆
―数日後。
てゐが『調理場』の別室で、売り子の蟒蛇から回収した金の勘定をしていると、
その中に折り畳まれた小さな紙片―簡素な筆致で走り書きされたメモを見つけた。
そこに記されていたのは、短い報告だった。
大口の顧客が現れたこと。
相手は、妖怪の山であること。
注文数は三千包。
その数字を見た瞬間、てゐの思考は一瞬だけ止まり、次の瞬間には鋭く回転し始めた。
三千。
一包あたり四十銭。
掛け合わせれば、千二百円。
頭の中で計算すると同時に、その額が持つ重みが、ずしりと現実味を帯びて迫ってくる。
人里で小銭を拾うように売り捌く日々とは、まるで桁が違う。
口元が自然と緩み、胸の内で、小さな兎が跳ね回るような高揚が広がっていった。
だが同時に、理解していた。この取引は、ただの売買ではない。
今後のすべてを左右しかねない、分水嶺だ。
妖怪の山。
組織としての規模、資金力、そして影響力。どれを取っても、一筋縄ではいかない相手である。
「…売り子に任せるわけにはいかないな」
てゐはゆっくりと呟いた。
僅かな手違いが、すべてを台無しにしかねない。
信頼を得るどころか、疑念を招けば、その先は破滅だ。
この一手は、必ず成功させる必要がある。
それに、もしこの取引が上手くいけば、妖怪の山は、ただの客では終わらない。
継続的に利益をもたらす「太客」となる。
「私自ら、対応するしか無いな…」
竹林の奥で、風が一筋過ぎていった。
◆
―霧の湖。
月が、白く世界を照らしていた。
だがその光は、濃密な霧に呑み込まれ、数メートル先すら曖昧にぼかしていた。
腰に曲刀を差した白狼天狗―犬走椛は、静かに立っていた。手には風呂敷包みを持っている。
時折、周囲を警戒するように見渡す。
「…遅いな」
呟きは霧に吸われ、すぐに消える。
「フフ…時間通りだな」
背後から声を掛けられた。
霧の奥から姿を現したのは、ひと目で異様と分かる人物だった。
広いつばの帽子、サングラス、口元を覆うマスク。襟を立てたコートに身を包んだその人物の背丈は低かった。
―そして、帽子の隙間から覗く、兎の耳。
椛は眉をひそめた。
「…あんたか?売人ってのは。…というか、因幡てゐだろう?こんな暗がりでサングラスとは…
千里眼を持つわけでもないのに、随分と目が利くんだな」
「何を言う」
即座に否定が返る。だが、その声音には僅かな焦りと揺らぎが混じっていた。
「私はてゐではない。そうだな…闇のブローカーX、とでも呼んでくれ」
妙に力の入った名乗りだった。
「あ、ああ…そうか。じゃあ、X」
突っ込むのも野暮というものだろう。
「金は用意した。そっちはどうだ」
言いながら、大きなくしゃみをひとつ。
風呂敷をほどき、手近な岩の上に置いた。そこには、ピン札の束が十二束、並べられていた。
対するXは、どこか芝居がかった所作でアタッシュケースを差し出し、ゆっくりと開いた。
中には白い粉の袋が、整然と詰め込まれていた。
「もちろん、用意している。とびきりのブツだ」
低く、意味深に言い放つ。
椛は首を傾げ、一瞬沈黙した。
「…とびきりのブツって…これ、ただの花粉症の薬だよな?」
その思わせぶりなやり取りに、困惑を隠せなかった。
「疑うようなら、試してみるがいい。ぶっ飛ぶぞ」
そう言って、袋をひとつ放り投げる。
「いや、ぶっ飛ぶも何も…むしろ(症状が)治まってほしいんだが…」
椛は思わず呟きつつ、それを受け取った。
今一、てゐ―いや、Xの意図が分からなかった。
そして、まるで自分が、違法薬物の取引現場にいるかのような居心地の悪さを感じた。
手の薬包を見やり、今ここで服用しろ、ということなのだろう、と結論づけた。
袋を開け、白い粉を口へ含む。
水はない。唾液で無理やり飲み下す。
途端に、強烈な苦味が口腔いっぱいに広がり、思わず顔をしかめた。
「はっ!一気に全部いくとはクレイジーだな!」
Xが愉快そうに笑う。
「普通、そういうもんだろ…?というか、そんなすぐに効くものなのか…?」
椛は訝しげな表情を浮かべた。
「…まあいい。取引成立だな」
風呂敷ごと札束を差し出す。
Xはそれを受け取り、束をひとつ取り上げると、ばらばらとめくる。
さらにその中央から一枚を抜き取り、月光に透かして確認した。
「フン…どうやら本物のようだな」
「当たり前だろ…ヤクザ映画じゃないんだぞ」
椛はため息をつき、呆れを隠そうともしなかった。
「よし、これを受け取ってくれ」
アタッシュケースが差し出される。
椛はそれをしっかりと受け取った。
「これで妖怪の山は、しばらく花粉症に悩まされずに済む。助かったよ、てゐ」
「だから私はXだ」
即座に訂正が入る。
「…大口の客だからな。特別に私が直接対応した。
追加で入り用なら、いつでも言ってくれ。こちらはいくらでも用意できる。
それと言うまでもないが、私のことは一切他言無用だからな。漏らせば、以後は取引しない。
…じゃあな」
そう言い残し、コートを翻す。
その姿は霧の中へ溶けるように消えていった。
しばしの沈黙。
「…兎の間では、ギャングごっこが流行ってるのか?」
椛はぽつりと呟き、肩を竦めた。
そして、アタッシュケースを抱えたまま、夜空へと舞い上がる。
霧の湖の上に、再び静寂が降りた。
◆
―更に数日後。
商売は、驚くほど順調だった。
調理場の別室。
机の上には一円札と硬貨が無造作に積み上がり、小さな山をいくつも形作っている。
てゐは椅子に深く腰掛け、その光景を眺めていた。
「…まさか、ここまで上手くいくなんてね」
口元が緩み、やがて抑えきれない笑みが零れ落ちる。
金の匂い。成功の手触り。
それらがじんわりと心を満たし、思考を甘く鈍らせていく。
最近では、妖怪の山ほどの規模ではないが、別の大口顧客が現れた。
命蓮寺だ。どうやら、信者たちに薬を配るらしい。
人里で売り子を使い、小口でちまちまと売るよりも、組織へ一括で卸す方が、遥かに早く、遥かに大きく、金へと変わる。
売り子への手数料がかからない点も魅力的だった。
もっとも、人里の流通も無駄ではない。
個人に売り、噂が流れ、その噂が広がり、やがて大口の客を呼び寄せる。
「…我ながら、よくここまでやったもんだ」
自嘲とも自賛ともつかぬ呟きを漏らし、更に先へと思考を巡らせる。
「次は、紅魔館がいいかもな…」
あの館には、メイド妖精やホフゴブリンが大勢所属している。
消費量は膨大だ。営業をかけて取引が成立すれば、妖怪の山に匹敵する上得意となるだろう。
そして何より、あの生意気で傲慢な吸血鬼が、自分の薬を求めて金を差し出す。
その光景を想像した瞬間、てゐの口元は、意識せずとも歪んでいた。
「…いや、待てよ」
不意に、その思考が止まる。
「私は、何を考えているんだ…?」
胸の奥に、ひやりとしたものが落ちた。
霧雨魔理沙は、この一連の出来事をすでに異変と断じ、調査に当たっている。
そしてその傍らには、小悪魔がいた。
あいつは紅魔館の魔女の使い魔だ。当然、魔女の意志によって動いていると見るべきだ。
パチュリーは、当主レミリアの親友であり、紅魔館の参謀的存在でもある。
巨額の金が動く取引だ。当然、レミリアはパチュリーに相談するだろう。
「…馬鹿か、私は」
思わず、低く吐き捨てた。
それはまるで、燃え盛る火の中へ自ら飛び込むようなものだ。
その事実に気づいた瞬間、背中に冷水を浴びせられたかのような感覚が走る。
浮かれていたのだ。
目の前の金に酔い、ほんの少しの警戒すら失っていた。
長年培ってきたはずの危機に対する嗅覚が、鈍っていた。
ゆっくりと、もう一度机の上を見渡す。
そこにあるのは、先程と同じ金の山。
だが、もはやそこに、浮かれた喜びはなかった。
胸の奥で、別の感覚が目を覚ます。
生き延びるための、本能。
「…これ以上は、危ない」
もう、十分すぎるほど稼いだ。
そもそも、ここまでビジネスを広げるつもりはなかったのだ。
リスクは最小に。利益はそこそこに。
それで良かったはずだ。
「…潮時、か」
てゐは静かに呟いた。
そこには、長く生きてきた者だけが持つ、慎重な諦観が滲んでいた。
◆
―無名の丘、ラベンダー畑。
まだ花をつけぬラベンダーが、そよ風に揺れていた。
それらが微かに擦れあう音と、時折聞こえる小鳥のさえずりが奏でる協奏曲が、耳に心地よく響く。
そんな場に似つかぬ怒声が、突如響いた。
二つの人影が、激しく言い争っていたのだ。
てゐと、メディスンだった。
「なんで、やめる必要があるの?人間を苦しめようって、言ったじゃない!」
メディスンが、今にも噛みつかんばかりの勢いで詰め寄る。
てゐは、一歩も引かず、どこか宥めるような声音で応じた。
「…やり過ぎたんだよ。人間どころか、多くの妖怪まで巻き込んでる。
最初に言っただろ?派手にやりすぎてはだめだ、と。もうその一線を越えてしまったんだ」
ふぅ、と息をつく。
「もう十分だ。これで終わりにしよう」
だが、その説得の言葉はメディスンには届かなかった。
「嫌よ!人間を苦しめられるなら、私はそれでいい!他の妖怪なんて知ったことじゃないわ!」
その瞳には、純粋な悪意と曇りのない憎悪が宿っていた。
てゐは、ぎり、と歯を食いしばった。
(―読み違えた。まさか、ここまで強情だなんて…)
ただの子供。扱いやすい駒。
簡単に手球に取れる、御しやすい相手。
その甘い考えは、手痛いしっぺ返しとなって自分に返ってきてしまった。
一瞬、力で抑え込む考えが脳裏をよぎる。
だが、それは悪手だと、理性によって踏みとどまった。
「…別の方法がある」
てゐは、慎重に言葉を選んだ。
「人間だけに効果が出るプランだ。もっと効率よく、もっと確実に苦しめられる。
そのための準備が必要なんだ。だからまずは、一度止めて―」
「…馬鹿にしないで」
低く、冷たい声が、それを断ち切った。メディスンの目が細められる。
「どうせ、自分が思ってたより大事になってきたから、ビビって止めに来たんでしょ?
全部、分かってるんだから!」
その言葉に、てゐは驚き、息を呑んだ。
(見抜かれている…)
ただの子供だというこれまでの認識は、間違っていた。
そして、取り返しのつかない事態に陥りつつある、という自覚が胸の奥から湧き上がってきた。
「…貴方も、同じなの?私を捨てた人間と…同じように…」
空気が、変わった。
「さんざん利用して…最後には、裏切るつもりなんでしょう?」
その声には怒りだけではなく、沈殿した怨嗟が、じわりと滲んでいた。
てゐは湧き上がる苛立ちを何とか抑え込み、なおも説得を試みようとした。
「何馬鹿なことを言ってるんだ。そんなわけ―」
「結局、あんたも同じじゃない」
遮るように、言い切られた。
「私はやめないからね。こんな楽しいこと、やめられるわけないじゃない!」
そう叫ぶや、メディスンの身体がふわりと浮き上がった。
制止の言葉をかける間もなく、彼女は空へと舞い上がり、そのまま高速で遠くへと消えていった。
「…くそっ!」
てゐは思わず吐き捨てた。
すべては、計画通りのはずだった。
だが今や、その流れは手を離れ、どこへ向かうかも分からない有り様だ。
風が、てゐの髪と兎耳を靡かせていた。
しばらくその場に立ち尽くし、やがてゆっくりと目を伏せた。
◆
―永遠亭。
昼下がりの廊下には柔らかな陽が差し込み、障子越しに揺れる竹の影が、床へと落ちていた。
その穏やかさとは裏腹に、廊下の一角に立つてゐは、居場所を失ったように沈んでいた。
「最近、元気がないみたいだけど…どうしたの?」
背後からかけられた声は、柔らかく、気遣いに満ちていた。
振り返らずとも分かる。鈴仙だった。
「…鈴仙には関係ないだろ」
てゐが短く、棘のある返答をする。
無意識に耳を伏せ、視線を逸らす。陽だまりの中にいるはずなのに、妙に寒く感じた。
「なにか悩みがあるのなら、私に…」
言いかけた鈴仙の声は、どこまでも真っ直ぐだった。
その真っ直ぐさが、今のてゐには、ひどく煩わしく思えた。
「何も無いって!」
思わず、強く言い返す。その直後、てゐの表情に後悔の色が差した。
謝罪の言葉を口にしようとしたが、何も出てこなかった。
「…」
鈴仙は一瞬、言葉を失った。
やがて、静かに息を吸い、胸の前で手を重ね、そっと目を伏せた。
「気が変わったら、いつでも聞くからね」
やわらかな微笑みとともに、優しく告げる。
そして、鈴仙は足音を立てずに去っていった。
残されたのは、揺れる竹の影と、後悔の念だけだった。
「…ごめん」
誰もいなくなった空間に向けて、ぽつりと漏らした。
「けど、鈴仙を…」
続く言葉は、喉の奥で途切れた。深く息を吐く。
てゐはゆっくりと歩き出した。その兎耳は、力なく垂れ下がっていた。
汚れ一つない廊下は、永遠に続き、出口がないかのように思えた。
◆
―そして、現在。迷いの竹林、『調理場』。
薄暗い室内に、薬品の匂いと、かすかな熱気が籠もっていた。
整然と並ぶ器具の間を、兎たちが忙しなく行き来している。
別室ではただ一人、てゐだけが、時の流れから取り残されたように、机の前の椅子に座り込んでいた。
「…はぁ」
そのため息は重かった。思考は堂々巡りを繰り返し、出口のない迷路の中で彷徨い続けるのみだった。
―蟒蛇は、霧雨魔理沙によって捕まった。
それは、人里の販売網が終わったことを意味していた。
代わりの手駒を用意することは可能だったが、もはやてゐにその意志はなかった。
じわり、じわりと、見えない捜査の手が、確実に自分の首元へと伸びてきている。
そんな錯覚が、いや、確信に近い感覚が、てゐの背筋を這い上がった。
未だ精製の途中にある薬が大量にある。
妖怪の山からは、追加注文が届いていた。
どうするのか。どうすればいいのか。
一度走り出した馬車が、坂道で止まりたくとも止まれず、転げ落ちていく様が脳裏に浮かんだ。
「…なんでこんなことに!」
堪えきれず、思わず叫び、拳を机に振り下ろす。乾いた衝撃音が室内に響いた。
その震動で、積み上げられていた紙幣と硬貨の山が崩れ、一部が床へとこぼれ落ちた。
…最初から、歯車は狂っていたのかもしれない。
そもそも、メディスンが花粉を撒きすぎた。それが、すべてを破綻へと導いた。
患者数は想定を超え、需要は膨れ上がり、流通は拡大の一途を辿った。
(…いや、もはや、メディスンは関係ない)
今重要なのは、自分の保身をどうするか、だった。
この事業から、完全に手を引く。証拠は何も残していない自信はある。
視線が、並べられた器具と、精製途中の薬へと向けられた。
いっそ、全てを廃棄してしまおうか。全てを焼き払い、何もかもを無かったことにする。
それで、異変と自分を繋ぐ線は、全て消え去る。
妖怪の山の追加注文も、無視してしまえばいい。
稼いだ金は、すぐに表沙汰には出来ない。いきなり大金が現れたら、誰だって不審に思う。
兎角同盟の帳簿を弄り、各事業の売上を水増しし、それを埋める形で補填する。
そうやって少しずつ、時間を掛けてロンダリングすればいい。
その時、脳裏にとある光景がフラッシュバックのように蘇った。
それは、月明かりの下、濃霧の漂う湖畔での取引現場―犬走椛の言葉だった。
『…あんたか?売人ってのは。…というか、因幡てゐだろう?こんな暗がりでサングラスとは…
千里眼を持つわけでもないのに、随分と目が利くんだな』
―椛には、正体がバレている。
あれは、ただの当てずっぽうではなく、確信に近い響きを持っていた。
「くそっ…!」
てゐは頭を抱え、その場に崩れるようにうずくまった。
これでは、注文を無視なんてしたら、どんな報復を受けるか分かったものではない。
妖怪の山を敵に回すなど、あまりにも愚かだ。
「完璧な変装だったのに…どうしてバレたんだ!」
そもそも、自分で取引現場に赴いたこと自体が誤りだったのかもしれない。
だが、今更悔いても後の祭りだった。
てゐはゆっくりと息を吸い込み、肺の奥まで空気を満たし、時間をかけて吐き出した。
深呼吸を繰り返し、心と頭を落ち着けさせる。
そして、深く沈思する。やがて、一つの結論に到達した。
妖怪の山の追加注文は、応じる。
だが―それで終わりにする。
取引の場で、もう作れないと、正直にはっきり告げる。
原材料不足とでも言って、ごまかせばいい。
「…これしかない」
独り呟いた。
後一回だ。これで終わりだ。
そう自分に言い聞かせた。
だが、胸の奥では、まだ何かがざわついていた。
◆
―霧の湖。
月明かりが濃霧に注ぎ、その淡い光を拡散させる。それらは、周囲の景色を覆い隠していた。
椛は、霧の中から現れたてゐが以前と同じようなギャングめいた格好をしているのを見て、
思わず「…まだロールプレイは続いてるのか」と小さく呟いた。
「手短に済ませよう。ブツはここにある」
てゐがアタッシュケースを手早く開いた。中身は、ぎっしりと詰められた白い粉の袋。
椛はそれを見ながら、別のことを考えていた。
X―いや、てゐは頑なにこの演技を続けている。
ごっこ遊びなのか、一種の儀式のようなものなのかは分からないが、少なくとも真剣なのは確かだ。
それに対して素で応じている自分に、後ろめたさにも似た、妙な違和感を覚えていた。
いわば、宴席で皆が興に乗っている中、一人だけ醒めた顔で水を差しているようなものだ。
要するに、自分は「空気を読めていない」のではないか―そんな感覚だった。
日頃から同僚の天狗にも、「椛は真面目すぎる」と言われていたのを思い出す。
(ここは一つ、私もてゐに合わせてみるか…)
そう心に決める。
椛は、非番の日に河城にとりから「てれびじょん」と「びでおでっき」なるもので
ヤクザ映画を見せてもらったことがあった。
そこには、裏社会で生きる男たちの熱い生き様と死に様が活き活きと描かれており、夢中になったものだ。
(あれを参考にしてみるか…)
すぅ、と息を吸う。
今の私は違法薬物の取引現場に現れた、修羅場を潜り抜けてきたヤクザだ―そう自分に言い聞かせる。
肩の力を抜き、ゆっくりと息を吐く。そして―。
「…相変わらず、きっちりした仕事じゃねぇか。金は用意した。確認しな」
普段とは全く違う、低く鋭い、圧の感じられる声だった。
その顔には、いつもの生真面目さは影もなく、不敵な笑みが浮かんでいた。
風呂敷を解き、中の現金を見せると、札束を一つ放り投げる。
てゐは、急に様子が変わった椛に驚き、訝しみつつ、札束を受け取った。
ざっとめくって確認する。今回は、以前のように一枚抜いて透かすようなことはしなかった。
早く終わらせて、本題に入らねばならない。
「…さあ、受け取ってくれ」
掠れた声でそう言いつつ、アタッシュケースを差し出す。椛がそれを受け取った。
「確かに受け取った。…あんたのブツには、うちのボスも満足している。
これからもよろしく頼むぜ」
てゐは目を見張った。
今日の椛はどうしたというのか。普段の実直な武人といった気配は微塵もない。
口調も、声色も、表情も、何気ない仕草さえも、長年裏の世界に身を置いてきた者のそれだった。
しかも、単なる芝居には見えない。何かが憑いたかのように…そう、まるで人が変わっていた。
(二重人格か何かか…?)
だが、椛の様子がおかしかろうと、今日言うべきことは言わねばならない。
「いや、それが…もう、作れないんだ」
てゐは、小さい声で絞り出すように言った。
椛は一瞬、目を見開いた。
「なんだって?それは困…」
困るよ、と言いかけて、今がロールプレイの最中であることを思い出す。
「―今、なんて言った?」
声は極端に低く、どすが利いていた。
その視線は鋭利な刃のように、てゐを射抜く。
「ぁ、えっと…もう原材料がないんだ。だから、この取引で最後になる」
てゐはその視線に耐えきれず、目を逸らした。
椛は曲刀の鞘の底を、思い切り岩に叩きつけた。
甲高い音が霧の中に響き、てゐの身体がびくりと跳ね、硬直する。
「…おい、Xよ。あまり妖怪の山を舐めちゃいけねぇ。お前、最初になんて言ったか覚えてるか?」
その声には、底知れぬ圧があった。
てゐは必死に記憶を辿る。
「『追加で入り用なら、いつでも言ってくれ。こちらはいくらでも用意できる』…そう言ったよな?
あれは法螺だったってのか?」
椛の言葉に、てゐは思わずあっと声を漏らした。確かに、そう言った覚えがある。
「事情が変わったんだ。他に大口顧客が現れ、想定以上に需要が増えて、供給が追いつかない。
原材料も枯渇している。もう物理的に作れないんだよ」
必死の弁解。
だがそれは、すべて出鱈目だった。
少なくとも、今年の花粉症シーズンを乗り切るだけの材料は確保できている。
椛の表情が、氷のように冷えた。
静かに歩き出し、てゐを中心に半円を描いてゆっくりと背後へ回る。
そして、ふう、と小さく息を吐いた。
てゐは、振り返れなかった。
その身体が、小刻みに震えていた。
「…嘘だな」
椛が吐き捨てた。
「妖怪の山の情報網を甘く見るな。人里の売り子が魔理沙に捕まったのは知っている。
それに、うち以外の大口は命蓮寺組の信者連中だろう?」
感情を感じさせないその声音が、かえって、てゐの恐怖を煽った。
一瞬、「命蓮寺『組』」という椛の言い方に違和感を抱いたが、焦燥と恐怖によってすぐ上書きされた。
(派手に暴れた魔理沙の件はともかく、なんで命蓮寺のことまで知ってるんだ…?)
てゐは、額に嫌な汗が浮かぶのを感じた。
―命蓮寺の情報については、単に射命丸文がマミゾウから聞いたのを、椛が又聞きしただけだった。
椛は心の中で文に感謝した。
「小口が潰れ、命蓮寺組の需要もうちの規模には到底及ばない。
それが急に在庫切れ?…通らねぇな。大方、この世界にビビって足を洗おうとしたか?」
てゐは驚愕した。全てが言い当てられていたからだ。
すっと、視界に鞘が入り込む。
椛が曲刀の鞘を、てゐの首筋に添えたのだ。まるで、斬首の前触れのように。
「この世知辛い世の中じゃ、信義だけが価値を持つ。…それを、てめぇは裏切るってのか?」
冷たい感触が首に触れる。
てゐは震え出しそうになる身体を、必死で押さえ込んだ。
「…わ、わかった。何とか都合をつける。だから、それを納めてくれ!」
自分でも驚くほど声が震えていた。身体は石のように固まり、動かない。
「…いいだろう。『漢』同士の約束、絶対違えるな…あばよ」
そう言い残し、椛はゆっくり去っていく。
てゐは解放されたと悟るや否や、全速力でその場を離脱した。
(私もお前も女だろ)という突っ込みすら浮かばなかった。ただ、逃げることで頭が一杯だった。
椛はしばらく歩き、内心で頷いた。
(…うん、今の演技は我ながら良かった)
ふと振り返る。
「なあ、てゐ。今の演技どうだった?よかった……ろ…?」
声をかけるも、そこにはもう誰もいなかった。霧だけが、静かに揺れていた。
◆
てゐは空を裂くように、猛スピードで飛んでいた。
「くそ…!どうしてこうなるんだ!」
目に涙を浮かべながら、喚き声を上げた。
死の恐怖に直面し、震えが止まらなかった。
怖かったのは、椛ではない。その背後にある、妖怪の山という巨大な組織だった。
今の自分は、密かに事業を展開している以上、本件に関して永遠亭の庇護を受けられない。
後ろ盾―いわゆる、『ケツ持ち』もない。
個人対組織という構図に陥ってしまった、現在の状況そのものが、何よりも恐ろしかったのだ。
「もう、逃げられない…。一体…どうすれば…」
その弱々しい声は、濃霧と夜の闇に吸い込まれ、跡形もなく消えていった。
◆
―迷いの竹林。
春風がそよぎ、葉擦れの音が、どこか心をざわめかせるように響いていた。
てゐは、竹林をふらつきつつ、覚束ない足取りで進んでいた。
その目は虚ろで、口の中で何やらぶつぶつと呟き、長い耳は力なく折れていた。
やがて、竹林の奥にぽつりと佇む、みすぼらしいあばら家―『調理場』に辿り着いた。
戸口を押し開けると、現実が濁流のように押し寄せた。
中では、相変わらず兎たちが忙しなく立ち働いている。
そのすべてを、てゐはただ立ち尽くしたまま、眺めていた。
ふらりと足を引きずるようにして別室へ入る。
机の上には、相変わらず―いや、以前よりもなお夥しい量の硬貨と紙幣が、山を成していた。
そのすべてを、てゐはただ立ち尽くしたまま、眺めていた。
これは、自分が築いたものだ。
ほんの小さな思いつきから始まり、手を伸ばし、掴み取り、積み上げた王国。
だが今、それはゆっくりと、確実に掌から零れ落ちようとしていた。
ふっと、視界が歪んだ。光が遠のき、音が消え、輪郭が溶けていった。
世界が静かに暗転し、意識が遠のいた。
◆
奇妙な光景が広がっていた。
一匹の白兎がいた。
上空から、白い粉がさらさらと兎の上に降り注いでいた。
それは清浄の象徴ではなく、どこまでも空虚な色だった。
今度は、無数の硬貨と札束が兎の上に降り注いでいた。
それは富の象徴ではなく、虚栄と無価値を表していた。
やがて、粉と金に塗れた兎に変化が訪れた。
兎の毛並みが、じわりと滲むように黒く染まっていく。
白は侵食され、塗り潰され、やがて完全な黒へと変わる。
そして―音もなく、まるで砂像のように、兎だったものが崩れ落ちた。
床もまた、同時にひび割れ、崩壊し―
すべてが、無へと沈んだ。
◆
万里の遠くから、何かが聞こえた。
「…!…ぃ!」
輪郭が、徐々に浮かび上がる。
「…い!…てゐ!」
誰かが、何かを叫んでいた。
「てゐってば!」
はっと、意識が浮上した。
目の前には、部下の兎がいた。
肩を掴み、必死に揺さぶりながら、大声で名を呼んでいたのだ。
「あぁ…どうした?」
てゐは、何事もなかったかのように装って答えた。
「どうしたって…さっきからずっと呼んでたのに全然気づかなくて…。
まるで魂が抜けたみたいに上の空だったよ。大丈夫?」
兎が心配そうに覗き込んできた。
「ああ…ちょっと、ぼーっとしてただけだ。少し疲れが溜まってて。それで?」
努めていつも通りの調子を繕う。
「あ、うん…お師匠様がお呼びだよ。何でも、お客が来てるって」
◆
―永遠亭、正門前。
数日前まで花粉症の薬を求める人妖で喧騒に満ちていたその場所は、
今では嘘のように静まり返っていた。
一つの人影が、門の横の壁にもたれ掛かり、腕を組んでいた。
霧雨魔理沙だった。
魔理沙はてゐの姿を認めると、ゆっくりと顔を上げた。
「お前に話があるんだ」
その表情は硬く、視線は針のように鋭かった。
…来たか。
てゐは本能で悟り、同時に覚悟を決めた。
もう、この魔法使いは「結論」に辿り着いている。自分を黒幕と断じているのだ、と。
ならば後は、ボロを出さないように口先一つで逃れるしか術はない。
不思議と、焦燥は感じなかった。
こうなるんじゃないか、という思いはずっと前から抱いていたからだ。
「こんな門前では、往来の邪魔になる。ちょっと奥に行こうぜ」
魔理沙に促され、二人は人目を避けるように竹林の奥へと足を運んだ。
◆
ざわり、と笹の葉が揺れた。
風に沿って揺れは広がり、まるで頭上で緑の海原が波を打ったようだった。
二人は足を止め、向かい合った。
「単刀直入に言うぜ。お前が異変の黒幕だろ」
低く抑えた声は、確信に満ちていた。
「はっ、何を言うかと思えば…前にも言ったでしょ?永遠亭はその気になればいくらでも―」
「まあ、まずは私の話を聞いてくれ」
てゐが言いかけた言葉を魔理沙が遮り、そのまま淀みなく語り始めた。
闇で出回っている薬の純度が、正規品より劣ること。
そのくせ、素人仕事にしては異様なほど純度が安定していること。
妖怪の山の大量発注を捌けるほどの、大量生産を可能とする設備と人手を持っていること。
それらを全て備えるのは永遠亭のみであること。
更に、レシピ盗難という虚偽をでっち上げ、外部犯行に見せかけたこと。
てゐは、内心で驚愕していた。
特に、純度の安定性については完全に盲点だった。
質を落とすことばかりに意識が向き、均一性までは考えていなかった。
だが、犯人として裏付けるための明確な証拠はない。
であれば、いくらでも言い逃れは出来る…そう思った。
てゐは表情を崩さぬよう努めつつ、肩を竦めた。
「…さっきから聞いてりゃ、状況証拠ばかりじゃないか。
そもそも、その理屈なら永遠亭の誰もが容疑者だろ?どうして私なんだよ」
「…永遠亭でお前と会った時、お前、なんて言ったか覚えてるか?」
魔理沙がニヤつきながら意地悪そうに尋ねる。
「…」
てゐは記憶を巻き戻してみた。だが、特段おかしなことは言ってない…はずだ。
「『うちは、他所よりも質の良い薬を良心的な値段で扱ってる』と言ったんだよ。
おかしいよな?花粉症の薬なんて、人里の町医者や薬剤師でも扱ってない。
『他所』って、何のことだ?」
魔理沙は変わらず笑みを浮かべていたが、目は笑っていなかった。
てゐは思わずあっと声を上げそうになっていた。
「あの時点で、お前は闇流通用の質を落とした薬を既に生産していたんだろう。
だから咄嗟に『他所よりも質の良い』なんて口走った…違うか?」
魔理沙の目と声には、熱が帯びていた。
「あ…あれは…花粉症薬のことを言ったんじゃない。薬全般を指して言ったんだ!」
てゐは焦りながらも、何とか反論する。だが、我ながら苦しい言い訳だと思った。
「まあ、そう言うだろうと思ったよ。だからあの場では追求しなかった。下手に触れて、警戒されても困るしな」
魔理沙が肩を竦める。
「ふ、ふん…人を疑うなら、そんな曖昧なものじゃなく、もっと決定的な証拠を持ってきてよ。ま、そんなもの無いだろうけどね」
一拍、呼吸を置く。
「それにさ。仮にそうだとしても、やってることは花粉症の薬を作って売ってるだけでしょ?
闇流通の薬は法外な値段かもしれない。けど、嫌なら買わなきゃいいだけだ。何が悪いのさ?」
一瞬訪れる静寂。だが、それを魔理沙の声が破った。
「往生際が悪いぜ。もう盤面は詰んでるんだ。…おーい、来てくれ!」
魔理沙が竹林の奥へと呼びかけると、三つの影が現れた。
小悪魔。アリス。そして―メディスンだった。
その姿を見た瞬間、てゐの心臓が大きく跳ねた。
隠しきれぬ動揺と驚愕が、表情を一変させた。
「てゐ!この小悪魔さんがね、人間を苦しめる毒を作ってほしいって!
協力者も交えて詳しく話したいって言うから、連れてきたんだ!」
メディスンが無邪気に喜色を浮かべて声をかけてきた。
てゐは、血の気が音を立てて引いていくのを感じた。
握り締めた拳が、自然と震える。
「メディスン!あれだけ人に言うなって口封じしただろ!」
思わず、声が荒ぶる。
メディスンはびくりと肩を震わせ、怯えたように身を縮めた。
「…この花粉症の異常、最初からおかしいと思ってたのよ」
アリスが一歩前に出る。その瞳は冷静で、真実を見据えていた。
「自然発生では説明がつかない。何らかの超自然の力が介在している。
そして、思ったのよ。『スギ花粉=毒』という図式が成り立つならば―この子の領分ではないか、とね」
アリスが静かに推理を披露する。
「ブラフをかけたんです。『てゐさんの紹介で来た。ぜひ人間を苦しめる毒を作ってほしい』と」
小悪魔がくすりと笑う。
「…全て話してくれましたよ。貴方が、スギ花粉を毒と見立てて生成を依頼したことも」
普段の、純粋で従順な姿からは想像もつかない、妖艶な微笑みを浮かべた。
それは、てゐにとってはまさに悪魔の笑みに他ならなかった。
魔理沙がちらりとアリスに視線を送る。
アリスは静かに頷いた。
「さあ、メディスン。私たちは少し席を外しましょうか。てゐは、大人の話があるみたいだから」
優しくメディスンの手を引き、二人は竹林の奥へと消えていった。
風が吹き、笹が擦れ合う音だけが静かにその場を満たした。
だが、その音は、てゐにはやけに大きく響いた。
てゐは俯き、思考を巡らせ、頭脳を高速回転させた。
(…どうする?もう言い逃れはできない。どうすれば、この場を逃れられる…?)
その沈黙は、永遠のように長く感じた。
「…はぁ」
小さく、息を吐いた。
「あー…ここまでだね。悪かったよ、降参だ。全部、私がやったんだ」
てゐはやれやれ、といった風に肩を竦め、投げやりに笑い、さり気なく手を後ろにやった。
「さあ、煮るなり焼くなり好きにしてくれよ。何でも話すから…さッ!」
その言葉の終わりと同時に、後ろ手に隠していたそれを、魔理沙の足元に叩きつけた。
ぱん、と乾いた音を発し、次の瞬間、白煙が爆ぜるように広がった。
直後、てゐの身体は上空へ飛び上がっていた。
背後に魔理沙たちが咳き込む音が聞こえた。
◆
「くそっ!」
吐き捨てるように、てゐは声を荒げた。
(くそ、くそっ!どうして…!メディスンから足がつくなんて!)
思考が追いつかないまま、怒りと焦燥だけが先走った。
風を切り裂きながら、空を疾走する。
「逃がすかよ!」
後ろから、魔理沙の声が聞こえた。
てゐはそれを振り切るように、更に加速する。
視界が流れ、眼下の竹林の輪郭が線のように歪んでいった。
その瞬間、うなじに、ちり、と鋭い感覚が走った。
野生の生存本能が、頭の中で赤色灯を明滅させ、警告音をけたたましく鳴り響かせた。
反射的に、進路を右へ寄せる。
さっきまでいた空間に、轟音とともに極太の光が貫いた。
「あっぶな…!」
紙一重だった。
すぐ傍を掠めた光線は、空気そのものを焼き焦がし、弾ける魔力の奔流がバチバチと耳を打った。
鼻腔に、焦げた匂いが刺さった。
―魔理沙の、マスタースパークだった。
追撃する魔理沙に気を取られ振り返り、後ろに注意がいった瞬間、
前方の竹藪から突如何かが飛び出した。
「貴方はパチュリー様を苦しめた…決して逃がさない!」
小悪魔が、翼をばさりと広げて立ちはだかった。
小悪魔が両手を突き出し、藍色の大きな魔弾を大量に放った。
弾幕が雨のように降り注ぐ。
それらはてゐ個人を狙うには精密ではないが、進路を封じるには十分すぎた。
てゐは歯を食いしばり、その隙間を縫うように急降下し、竹藪に突っ込んだ。
地面すれすれに滑空しながら、思考がようやく追いつく。
(焦って上空に飛び出したが、最初からここに逃げ込めばよかったんだ!)
迷いの竹林はてゐにとって庭であり、自分の領分だ。地の利はこちらにある。
足が地をかすめるほどの高度で、複雑な軌道を描きながら疾走する。
ここなら、誰も追いつけない。
追手から距離を離して落ち着いたら、解除していた「迷いの術」を、再び張り巡らせる。
それで、取り急ぎ捕まることはなくなる。
後は、ゆっくりと対策を練ればいい。
「これで、私の勝ちだ!」
思わず、声が漏れた。
その瞬間。
「―チェック・メイト」
落ち着いた、冷たい声が、どこからともなく聞こえた。
同時に、全身に何かが絡みついた。
「くッ…!?」
視界が反転する。
宙に引き上げられ、逆さに吊り下げられた。
まるで、罠にかかった兎のようだった。
もがいてみるが、びくともしない。
よく見れば、それは細い糸だった。
竹林の影から、一歩踏み出し、アリスが現れる。
「誘い込まれてたのか…!」
てゐが吐き捨てるように言う。
アリスは微笑んだ。
「そういうこと。あなたは最初から、檻の中で藻掻いていたにすぎない」
淡々と、事実を告げる。
その直後、空から魔理沙と小悪魔が降り立った。
魔理沙は八卦炉を構え、照準をてゐに定めた。
「兎鍋になりたくなかったら、観念しな!」
てゐは抵抗をやめ、項垂れた。
胸の奥で、何かが崩れる音がした。
「ふ…ふふ…」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れる。
そのてゐの不気味な笑みに、魔理沙たちが一瞬顔を見合わせる。
「こんなはずじゃ…なかったのにな…」
呟き、天を仰ぐ。
重なり合う笹の葉の隙間から、微かに光が差し込んでいた。
< 終篇 >
―その後。
騒がしく渦巻いていた事態は、ひとつひとつ、糸を解くように収束していった。
アリスの優しく、親身で、かつ粘り強い説得により、メディスンは花粉の生成を止めることに同意した。
これにより、彼女によって生まれていた花粉が新たに散布されることはなくなった。
異常なまでに増殖していたスギ花粉が収まったことで、人々を苦しめていた症状もまた、潮が引くように薄れていった。
てゐが密かに積み上げていた薬の山は、すべてが無償で人間や妖怪たちへと配られることとなった。
そして、もう一つ。
不当に積み上げられた金銭の山は、永琳の手によって全て没収された。
購入者を追跡できる分は返金され、それが不可能な分は、人里に新たに設けられる、健康無料相談所の建設資金となった。
そこで働くことになった職員の顔ぶれは、少々皮肉に満ちていた。
今回の件に関わった兎たちが、そのまま配置されたのである。
それは、いわば今回の異変への償い、社会奉仕活動としての側面を持っていた。
この永遠亭の贖罪とも言える事業と、人里との橋渡し及び調整役は、魔理沙によって慧音に依頼された。
以前、慧音に聞き込みをした際に「協力が必要なら言ってくれ」と申し出てくれたのを思い出し、頼ったのだ。
慧音は二つ返事で引き受けてくれた。
こうして、幻想郷を騒がせた小さな異変は、静かな決着を迎えた。
◆
―永遠亭。
静謐な空気が、完璧なまでに整った美しい庭園を満たしていた。
春先の陽気が心地よく、風の小さな音が柔らかく流れている。
「うちの兎が、ご迷惑をおかけしました」
永琳は静かに一歩進み出ると、深く頭を下げた。
声は穏やかで、揺らぎがない。
謝罪の形を取りながら、その実、どこか完成された儀式のようですらあった。
「…お前、最初から全部知ってたんじゃないのか?」
魔理沙が眉をひそめ、半ば睨むように問いかける。その声には、疑念が滲んでいた。
「まさか」
永琳は顔を上げ、短く否定する。
その表情は、湖面のように澄み切っていた。
「仮に知っていたとして、黙って放置する理由など、何もないでしょう」
淀み無く返し、笑みを浮かべた。
だが、その目は冷たく、凍てつく氷のように思えた。
魔理沙は鼻を鳴らした。
そこには、納得とは程遠い感情が込められていた。
(全て看過していたのに、あえて放置して私たちに追わせ、てゐにお灸を据えたんじゃないか?)
浮かんだその考えが喉まで出そうになったが、寸前で止める。
この女の腹の内を探るのは、底なしの沼に踏み込むようなものだ。
魔理沙は小さく息を吐いた。
永遠亭の静けさは、何事もなかったかのように、その場を覆っていた。
◆
―永遠亭、てゐの私室。
永琳の抑揚のない、淡々とした、だが理詰めのロジハラめいた説教を長時間浴び続けたてゐは、
まるで雨に打たれた小兎のように意気消沈していた。
長く跳ねていた耳も、今はしおしおと力なく垂れ、影を落としている。
普段の軽口も、ずる賢さも、どこか遠くへ逃げてしまったかのようだった。
外の廊下から足音が近づき、部屋の前で止まった。
「てゐ、入るよ」
その声とともに、遠慮がちに襖が開く音が聞こえた。
振り返ると、鈴仙が腕を組み、立っていた。
やや困ったような、けれど、どこか優しい眼差しでこちらを見つめる。
「なんで私に相談しなかったの?」
苦笑交じりながらも、柔らかく問いかける。
「…鈴仙とやるより、私一人のほうがよっぽど効率的だし」
てゐは、わざとらしく素っ気ない調子で応じる。
その声には、いつもの小賢しさの残り香がかすかに混じっていたが、
芯の部分はどこか暗く落ち込んでいた。
―少しの間、沈黙が場を満たした。
「…それに、鈴仙は人が好いから…できないでしょ」
てゐは視線を逸らしたまま、小さく、ぼそりと呟いた。
「今、なんて言ったの?」
鈴仙の口元が、にやりと僅かに歪む。
聞き逃すまいとする意地の悪い優しさが、そこにはあった。
「うるさい、なんでもないよ」
てゐはむっとして顔を背け、ふん、と鼻を鳴らす。
その仕草には、どこか照れ隠しめいたぎこちなさが滲んでいた。
鈴仙は小さく苦笑すると、一歩近づき、てゐを後ろから、そっと抱きしめた。
「…次は、独りで抱え込まないでね」
その優しげな声が、乾いた心に沁みた気がした。
てゐは何も答えなかった。
ただ、微かに耳がぴくりと動き、垂れていた先がほんの少しだけ持ち上がった。
◆
―紅魔館、図書館。
魔理沙とアリスは書斎の応接用ソファーに身を沈め、思い思いに寛いでいた。
小悪魔が銀のトレイに紅茶を載せ、二人に歩み寄った。
陶器の触れ合うかすかな音とともに、ティーカップを乗せた皿がテーブルへと置かれる。
「三人とも、ご苦労さま。お陰様で、落ち着いて読書ができるわ」
書斎の定位置に座したパチュリーが、湯気の立つ紅茶をひと口含む。
三人は顔を見合わせ、ふっと笑みを交わした。
「それにしても、魔理沙たちも異変を調査していたなんてね…」
アリスが意外そうに、魔理沙と小悪魔を交互に見つめた。
「お前の家にも寄ったんだが、留守でな。最初から組んでりゃ、もっと早く片付いたかもなー」
魔理沙がどこか恨めしげな目を向ける。だが、その口元は楽しげだった。
「でも、お二人とも、よくメディスンさんが花粉の黒幕だと気づきましたね~」
小悪魔はトレイを胸に抱え、感心したように言った。
「風見幽香に聞き込みに行ったろ?あの時、あいつが何て言ったか覚えてるか?」
魔理沙の問いに、小悪魔は宙へと視線を泳がせ、記憶の糸を手繰る。
「『何でもない花や果実でも、捉え方や状況によっては『毒』になる』…でしたね。
あ、なるほど…!」
小悪魔は、ぱっと表情を明るくした。
「そういうことだ。露骨すぎるヒントだよな。あいつは最初から分かってたんだろうさ」
魔理沙がやれやれ、といった風に肩を竦めた。
「風見幽香が、ね…。自身が植物を操る力を持つが故に、気づいたのかもしれないわね」
アリスは少し考え込み、自分の推理を披露した。
「花粉症って、本来は病気じゃなくてアレルギーでしょ。
人によっては平気だったり、酷い症状が出たり…体質によってばらつきがある。
けど、今回はほぼ全員に症状が出ていた。―つまり、アレルギーとは別物。
そう考えた時に、一種の細菌、ウィルス、または…『毒』なんじゃないか、と思ったの」
そこまで話し、静かにティーカップを傾ける。
「私はメディスンとは多少なりとも交流があるから…
能力はもちろん、その人となりや、人間への恨みの感情も知っている。
どこかあの子らしい異変だな、と思ってね。そこから連想して…繋げていったのよ」
アリスはティーカップを皿に戻した。
「まあ、単独でそこまで辿り着いたんだ。大したもんだぜ」
魔理沙の率直な賛辞に、アリスは僅かに視線を逸らし、照れを隠した。
「小悪魔、お前とのコンビも中々良かったぜ。パチュリーの使い魔には勿体ないくらいだ」
魔理沙はいたずらっぽく小悪魔に笑いかける。
「あはは…そう言っていただけると嬉しいです」
小悪魔が若干困ったように苦笑しながら、丁寧に頭を下げた。
「…誰には勿体ないですって?」
パチュリーは不機嫌そうな低い声とともに、じとりと魔理沙を睨んだ。
魔理沙は口笛を吹いて視線を逸らし、知らぬ顔を決め込む。
その様子に、アリスと小悪魔は堪えきれず、くすりと笑みを漏らす。
その時。くしゅん、と小さなくしゃみが、パチュリーから発せられた。
何となく、四人が顔を見合わせる。
「たまたまよ、たまたま」
パチュリーが言うや否や、続けざまにくしゃみが重なった。
軽く鼻をすする音が、妙に生々しく響く。
「…お前、素で花粉症になったんじゃないか?」
魔理沙が訝しげに尋ねる。
「まさか、そんなはず―」
パチュリーの言葉の途中で、さらに大きなくしゃみがひとつ。
細い肩が揺れ、紫色の美しい髪がふわりと波打った。
「―こあ」
何事もなかったかのように衣服を整えながら、パチュリーは呼びかけた。
「は、はい」
「押収した薬、残ってる?」
―紅魔館の外では、春風が木々を揺らし、桜の花びらがひらりと舞っていた。
目に見えぬ、花粉とともに。