Coolier - 新生・東方創想話

すべてを残す事はできない

2026/03/22 14:29:09
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 その人の名は稗田阿一。

 その人は、この土地にやってくる道中で、片目を悪くしている。道端で泥をひっかけられて、眼に傷が入ったのだ。泥をひっかけたのは駅馬だったが、この律令国家によって整備された駅路――有事においては軍団の移動にも使用される、長大な官道――ではない場所を駆けていったところをみると、非公式の密使であったのかもしれない。
 事故は起きたが、先を急がねばならなかった。近頃は先帝崩御後の政権交代時といった、不安定な政治状況での変事を未然に防ぐ目的で、関所が封鎖されるという事態がぽつぽつ起きていた。これを固関という。関所は東へ通じる三つが特に重要なものとされていて、伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、越前国愛発関の事をいう。どれも東方への道であり、これら三関によって隔てられた列島の東側を関東といった。
 その人は一人でなく、家族に伴われていた。家族といっても道連れは父母や兄姉だけでなく、母系の親戚家族のような同族や、奴婢も幾人かいて、総数が二、三十人ほどにはなった。
 末の子だった。その人より年下の子らは別家の人々の方に一人二人いたくらいで、自分の家族に妹や弟はなかった。父母はもう歳を取りすぎていた。
 一応関東へ下向する許可こそ得ていたものの、どこかこそこそ、逃げるような道行きだった。固関となれば足止めを食う事は間違いなく、実際そうなった。まごまごしているうちに発行された通行許可が失効する可能性がまったくないわけではなく、一行はやきもきしながら、冬の寒道のへりで、寒波を避けるように野宿を始めたが、翌日には近隣住民の訴え出によって強制退去させられるといった羽目になり、彷徨の末に行き着いたのは近くの川端の葦原、そこで獣のように身を寄せ合いながら寝起きした。その日々の中で、奴婢の若いものたちが内々に示し合わせて逃散したが、仕方のないことでもあった――その一組は夫婦で、懐妊していた。また最年長の老人が一人死んだ。捨ておいても埋めても、また訴訟される事が予想されたので、川端でさっさと焚いて、ひとつかみの灰だけを持ち歩いた。
 様々な懸念と苦労はあったが、悪いばかりに事は進まなかった。数日のちに関は開かれ、幼いその人が覚えている事といったら、いくつかの余計な事をのぞけば、とにかく目がごろごろと痛くて、真っ赤になったまぶたから、膿がだらだら、涙とともに流れ落ちていく気分の悪さだった。そのうちに熱が出て、神経までもが痛めつけられたようで、共感覚の幻想ばかりを悪夢のように見て、世界は噛んでも味のしない赤や青の光線にちらついた。そんなふうに新天地を見たので、おさなごころに呪われた土地だと感じた。家族が老人の遺灰を埋葬する事が、そういう土地に着いてから初めてやった行いだった。
 いまいましい事に、その人はそうした事をすべておぼえている。記憶力が良いのはこの一門みんなに共通する特質だったが、その人は特に記憶力が良かった。ものおぼえが良ければいい事もあるが、余計な事をおぼえている場合もある。たとえば、土地にやってきてしばらくの間、この郷に土着していた連中からかなり冷たくよそ者の扱いを受けた事、そのくせ連中には、侮蔑とは相反する微妙な心理もあったのか、畿内という内つ国からやってきただけの彼ら一族に、へつらうような面もなぜかあった事、なにより、そうしたへつらいの中で、いいように利用された事。その人はいつまでもそれをおぼえていた。
 何年も経ち、ぼちぼちと彼らが集落に受け入れられ始めた頃、その人の父親は集落の顔役に担ぎ出された。顔役といえば聞こえがいいが、本質を言えば貧乏くじを引いた形である。この土地に元来から住んでいる人々の中に、周囲のまとめ役になれるような、そんな勢力に恵まれていなかったのもあるだろう。ようするに、こっちの事情としてもいてくれると都合がいいからそこにいてくれていい、と言われただけの事で、徹頭徹尾あちら側の事情だった。
 その人は、親たちの事を家族として尊敬していたろうが、お人好しだとも感じていたかもしれない。彼らは畿内でも別に政治的な大族ではなく、朝廷祭祀を担う事だけを職能にした、そういう氏族の端っこの家だった。氏族内の中核には神祇官僚の末端に籍を置く者もいたのかもしれないが、よく知らない――少なくとも周囲の家族がそうではなかったのは確かだ。
 自分たちが大和にいた頃の記憶を辿ってみると、親たちがあたっていた仕事も、神祇祭祀そのものではなく、もっぱら公的なそれに連なってくる、煩瑣な文書作成の方だったように思う。なので、かみづかさの家というよりはふひとの類のように見られていただろうが、そこはそれ。国家中央に籍を置く木っ端氏族の末端として、律令の歯車として、公官庁の下っ端職員として、こき使われるぶんには、お人好しでもまだよかったわけだ。
(この土地ではそういうわけにもゆくまい)
 郷の実情は難しかった。律令の名のもとに行われた勧農・開田政策の浸透も不十分であり、そんな状態のまま、それら墾田の完全な公有化は断念されて、私有が認められた。
 また、この土地には神田があった。神田、寺田といったものには班田収授法に例外規定が存在していたので、開墾者が死亡した後も田は国家公領として回収される事がなく、実態はどうあれ社領として現存していた。彼ら一族の下向は、そうした社領の現状の把握と管理を、神祇官の政庁が求めたところにあったと見られている。
(でも、それだけではないかもしれない)
 そう考えるようになったきっかけは、中央で執り行われたという祭祀についての話を聞いた時だった。こんな辺鄙な土地に伝わってくるにしては妙に専門的な話だったので、神祇官のつてによって特別に伝わってきた情報だという事はなんとなく察せられた。
 お上が昊天上帝を郊祀した、という。昊天上帝だの郊祀だの、その人は聡明だったが知らない単語は知りえないので、大人たちの会話の文脈をどうにか探ってみるに、すめらみことがいわゆる漢神の天帝を祀ったという事らしい。親たちはどうもそれを気味の悪い事のように感じているようで、正確な事情の把握より、据わりの悪そうな肌感覚の方が印象に残った。
 それでも、家族が今のお上にあまりよい印象を抱いていないようだという事だけは、わかった。それが昔ながらのかみづかさの家ゆえの事なのか、もっと別の理由があるのか。
 そういえば、自分たちが下向する折に起き、関所が封鎖される原因となった政変。あれがどのようなものであったのか詳しいところは知りえないが、あれももしかすると自分たちの一族になにかしら関係した変事だったのではないか。その人は、熱と幻覚にうめいている最中、伊豆の方に貴人が流されていく様子に遭遇した事を、しっかりとおぼえてしまっている。
 なんとなく、みだりに家族に尋ねるべきではない、という直感が働いていた。いつの事であったのかは細かい日付までよく覚えているので、畿内へ行く機会などがあればいいのだ。大和にある稗田氏の故地に帰ってみるか、記録が残っているであろう政庁に出向けば、なにかを調べられるかもしれない――逆に言えば、その程度しか、なにがしかを知る手段は無いという事でもあったが。
 租調の納入の時期がやってきた。その人は「そろそろ外行きの仕事も学んでいきたいから」という理由をかこつけて、兄が都に行くのにひっついていく事にした。その人は、どんな仕事でも、一連の流れを一度眺めれば、ほとんど覚えてしまうたちだった。そんな優秀な子に仕事をおぼえさせない理由がない。
(しかし、あんな郷にばかりいると、知らないままの事も多い)としみじみ思わされたのは、大和の故地への里帰りもついでにできる道行きと思っていたものが、まるで違う場所にやってきたからだった。
 遷都が行われていた。長岡京と呼ばれている。まだ新しい都なので、税を納入する手続きにも慣れない事が多いらしく、かなり手間取っているようだった。
 そうしたさなかに、その人は兄に自分の目的を打ち明けた。家族の中でも特に仲の良い人であったし、同時に、彼は親譲りのお人好しでもあったからだ。
 そういう事なら、中務省に行けばわかるだろう、が――という口調で、兄は言葉を切った。
 が、のところで思考が行き詰まってしまったのが、容易に察せられる。なぜなら、そのようなたいそうな政庁に入って記録を閲覧するような権利もつても、彼らは持っていなかったから。
 結局、大和の故郷に戻ってみるか、どこか寺社に尋ねた方がよかろうという話になった。寺社は独自に記録を持っている可能性があって、細かい事はわからなくても、当時の世情として何が起きたのかは判明するだろう。
 しかし、長岡の都には昔ながらの寺社がない。仕事を済ませたその人と兄は、そのまま家に帰るような事はせず、木津川を渡って大和国に入った。
(今のすめらみことは、なにかから逃れようとしているのではないか)
 その人は考えた。平城京の都の、百年にも満たないが権力闘争に彩られた歴史などなにも知らず、その地に根付いた仏教勢力や貴族勢力のしがらみといった事情も存じ上げなかったが、政治的な事情を知らなくとも、そうした直感は容易に働いた。
(新しき都に移り、漢神を祀って、天に世が変わった事を示す。まるで唐の皇帝のよう)
 と、見たこともない大陸の皇帝にその像を重ね合わせてもみた。
(なにから逃れようとしているのか)
 そして、逃れようとしてみても、逃れられていないのかもしれない、とも思った。先だって――ちょうど郊祀が執り行われた前後の時期らしいが――重臣の暗殺事件とそれにまつわる疑惑によって、皇位継承者であった早良親王が廃太子されていた。親王は流刑となり、島に流される途上で食を断って自害したとか。
(そうした近頃の事はみんなおぼえているし、口さのない噂話の端にくらいは昇るのだけれど、何年も前となると、途端にあやしくなってくる)
 その人は自分以外の人々の記憶の曖昧さにあきれながら、そうした人々の代表格である自分の兄を、ちらりと見た。彼は数年前の変事についてよくおぼえていなかった。嘘ではないのだろう。
(自分ばかりがおぼえてしまっている記憶に、意味はあるのかしらん)
 だが、迷いはあっさりと解決してしまった。大和の故地に帰ってみてから、ふと思いついた事があって元の平城京の都に出向き、がらんとした旧中務省庁舎の中に、遷都前の記録が捨て置かれるように残っていたのを見つけたのだ。その人たちにとって折よかったのは、首都機能の移転がまだ完了しきっておらず、記録の持ち出しすらも後回しにされており、どさくさに紛れてそれを閲覧する機会に恵まれた事だった。
 もちろん、兄がこの記録を閲覧するにあたり、なにかと骨折ってくれたのも確かだ。神祇の家らしく、儀式の日取りを決めるのに以前の記録を知りたくてどうこう、といったでたらめを、いけしゃあしゃあと述べ上げてくれる。おかげで、数年前に起きた変事がなんであったかは知れた。
 歴史上の名称としては氷上川継の乱と言われる。氷上川継は天武天皇の四世孫であり天武皇統に位置する人物だったが、父の塩焼王の代で臣籍降下を受けて氷上真人姓となっていた。
 平城京の時代――いわゆる奈良時代は天武皇統の時代とも言い換える事ができるが、やがて天武天皇の直系は果てなき権力闘争にまつわる殺し合いの果てに途切れてしまい、今上のすめらみことは別系統の天智皇統である。このお方は長子ではあったものの生母の家格が低く(外蕃――渡来人の家系だった事も取り沙汰されがちだが、一番の問題は単純に家格が低かったところだろう)、そうした出自から、当初は皇族としてより政務官僚としての栄達の方を嘱望されている、そういう人物だった。
 そういった、皇位継承者として賛否のある人物が、貴族間の政争の果てに高御座につかされたわけだが、そういう立場には疑義がつきものだ(生母の出自が渡来人系の家系である事さえ殊更にあげつらわれた)。別の親王を推す声もあったし、先帝も継承に混乱が起きぬよう、気を揉んだ事であろう。
 即位後もそうした動きがなかったわけがない。氷上川継の乱はその一つであり、要するに、日陰の立場の元皇族が謀った、政権転覆計画。稗田のような家とは縁遠い政争。
(では、自分たちはその変とかかわりないのだろうか)
 その人は少し期待を裏切られたように思ったが、ふと、更に記録を遡ってあたってみた。
 川継には岳父があった。藤原浜成――藤原京家の人物。乱当時は九州に赴任して大宰員外帥をつとめており、乱に直接の関係はないと思われるが、連座のような形で失脚。流罪同然に九州に留め置かれたままになっているという人。
 なぜこの人が気にかかったのかというと、彼は今上のすめらみことが立太子する際の議論の中でそれに反対し、確かな生母を持つ別の親王を推挙したからだった。
 その親王は名を薭田親王といった。
 ……さて、これが自分たち大和稗田の家となにかかかわりのあった人なのかというと、すでにだいぶ足元があやしい。まず、自分たちは草冠の薭田ではない。この薭田といえば山背国桑田郡の薭田野神社の方が、ぱっと思い浮かぶ(腐っても神祇の家だったので、畿内の、それなりに古記録のある社の名前くらいは、そらで言う事ができた)とも、素直に思った。
 たしかに、親王や内親王の命名にあたって乳母の氏族や土地の名をつける事は、ままある。しかしそれはどんなに低くとも国造や伴造といった家格の事であって、姓も定かならぬ稗田の家が、皇位継承にまでかかわった親王を養育したとは、とても考えられない事であった。
(結局、自分の思い過ごしだったと認めるのが、一番早いわけだ)
 なんの結論も見いだせないまま、兄と一緒に畿内を出ながら、その人はぼんやり考えた。
(ただし、氷上川継の乱の顛末はちょっと面白い。計画の発覚後、川継は早々に遁走したが、葛上郡に潜伏していたところを捕らえられた。なぜそんな場所をうろうろとしていたのだろう。案外、身元を隠してもらえるあてが外れた、とかかな――大和稗田の地は添上郡にある。山背に抜けて東国へ逃れるなら、そこに身を潜めるのも悪い選択ではなかったはずだ。藤原浜成が薭田親王を日嗣に推挙した時にできた縁を、こっそり不遇の娘婿に言い含めておいた、とか? 稗田の人々は、家柄は低いが信頼できるとして……しかし彼は裏切られた。稗田の一族としても外聞の良くない事だし、潜伏を助けたわけではないが、刑部省の監察へ届け出もしなかったため、累が及ぶ事もあるかもしれない。そのために一部の家族はこそこそと三関を抜けた……)
 ぼんやり空想しながら、その人は唇の端をちょっと皮肉っぽく歪めた。仮定に仮定を重ね続けて、おそらくはありもしない人々との縁を作ろうとしている自分が、おかしかった。ただ、そうした想像ばかりが真実らしくなる瞬間が、一瞬でも訪れていた事は確かだ。
(本当のところはどうでもいい――いや、もちろん実際に本当に近ければそれに越したことはないが、それよりもそう考えてしまえる事の方を大事にしておきたい)
 その人はだいぶ空想過多な性質であった。
(……それより、気になったのは薭田親王の薨去なされた時期だ。記録を見た限りでは“辛丑。三品薭田親王薨。”、そして記事をひとつ置いて、“丁未。太上天皇崩。”……)
 そういう流れになっている。太上天皇とは、今上のすめらみことに皇位を譲った老齢の先帝の事であり、まず薭田親王が薨去し、次いで先帝が崩じた……六日の間にこの二者が連続して没した事になる。薭田親王の薨去により、帝王桓武にとっては、対抗馬にあった最有力者が、都合よく消えた――そして、そのふた月後に氷上川継の乱が起こる。
(本当のところがわからないのは、こっちだって一緒だ)
 その人はそう考えながら、ふらふらと山奥の郷に戻っていく。その後、その人はぽつぽつと記録を残し始めるようになった。むろん、自分が参照するためではなく、のちの人々が参照できるように。
 やがて数年のうちに父母が立て続けに亡くなり、子が家の采配を担わなくてはならなくなった。その人は末っ子ながら、ものおぼえも要領もよかったので、家の内外の事をよく掌握していた。
 その人に縁談を持ち込んできたのは、あの一番仲の良い兄だった。その人は――彼女は、兄がもので釣って妹に話を聞かせようとしている事に微笑した。
 兄者が持ち寄ってきたものとは、えらのところを笹の葉で何尾かまとめてくくった、新鮮な旬のアユだ。アユは好きだったので(ところで、その人の名の読みには諸説あり、現状では「あいち」あるいは「あいつ」が一般的とされるが、実際の発音にすると「あゆち」がもっとも近いのではないか、という説がある)、話だけは聞いてやろうと思った。
 艶っぽい光沢を保ったままのアユを、串刺しにして家の炉端に置き、越の国で仕入れてきた藻塩をかけて火が通るのを待ちながら、兄妹は語らった。
 話自体はひどく単純だ。姉たちがあらかたこの土地の者のもとに落ち着いた今、その人が若くして刀自のような立場になって、もとあった稗田の家を采配している(兄も別に一家を成していた)。稗田の家に婿入りする相手は、この土地に土着する者の家で、今までほとんど没交渉だったが、ここらで縁を作っておきたい。それだけ。お人好しの兄者にしては、家の事という小さな領域なりに、政治的な話だった。
 その人は一瞬返答を保留しようとしたが、別に拒絶するつもりもなかった。自分がやがてそうなる事はわかっていたし、一族がそうして土着していくだろう事も、とうに受け容れていた。
(悪い話ではない)
 火が通りつつあるアユから脂がにじみ出て、更に火の勢いを助け、時には爆ぜながら、己そのものを焼いていく。その様子をじっと眺めて、その人は思った。
(身を委ねよう)
 と感じた。身を委ねるというのは、婚姻の相手に対してだけでなく、この土地そのものにも身を委ねる事を含めている。父母もこの地の土となっていた。
 古代の、田舎の婚姻らしく、段取りはさっさと進んだ。が、さすがに野合して成立するような乱脈ぶりではない。よい日取りを決めて、ちょっと神前で儀式を行ったあと、宴会を開き、盃を交わすくらいの事はした。そこはさすがに神祇の家だった。
 神前結婚を執り行ったのは巫で、十年前、その人たちと共にこの土地に流れてきた、もうひとつの家の者だった。この女性は、この辺鄙な土地でほとんどほったらかしにされているのが実情であった当地の神社を、神祇官の制御下に回収するため、神社の名に合わせてその氏さえ変えていたのだ。
 博麗氏である(しかし、この稗田氏から分かれた始まりの一族は、後によく知られる、いわゆる博麗の巫女と呼ばれている者たちの直系ではない。その系譜には、何度となく断絶が発生している)。
 その人にとって少しひっかかる出来事が起きたのも、婚姻後の酒宴での事だった。この博麗神社の巫が、ちょっと気が悪いと言って、宴もそこそこに身を引いていった。巫とはいっても大酒飲みで有名な女でもあったので、周囲は特に気にも留めなかったが、その人だけが少し気にかけた――彼女が、この宴席ではほとんど酒杯に口をつけていなかったのを記憶していたから。
 どういう事なのだろうと思いつつ、宴が終わってすぐ、見舞いに行った。婚儀を終えた新婦にしては少し変わった行動だが、まだ日が落ちるには早く、新郎と閨に入るまでには時間がある。このあたりは田舎のおおらかさがあった。
 神社は荒れていたものを最近建て直したもので、そこまで豪勢なものではない。それに、この国に浸透しつつあった仏教の風と比べると、なんとも地味な建築でもある。
「お酒の飲みすぎにはあれこれの野草が、腹を悪くしなくて良いでしょう」
 と、元々別に親しくもなかった相手に教えた。その後は妙な間があった。
 巫は、じっとその人の顔を見ていた。相手は古くさく、流行遅れの、昔ながらの巫の装束を守り続けている。そんな女に見つめられると、どこか神代からずっとあった、なにものかの目に、じっと見つめられているような気になる。
「それでは……」
 さすがのその人も相手が不気味に思えてきて、たいした話もしないままにその場を辞去したが、あの表情自体が、なにか予言のように身の内に響いていた。
(なにを言いたいのかは、わかっている)
 そして彼女は、この郷が人ならざる者――のちの時の流れで、ゆっくりとありようを形成されていく連中、いわゆる妖怪――たちと、どこかで接続している世界だと認識した。
 婚姻を通じて、稗田の血にもそうした者たちが混じった。幾度も交わっているうちに、そう確信した。
(わかっていたよ)
 兄たちは――もちろん、物故している父母や、土着の他家に嫁いでいった姉らも含めて――そういう戦略を最初から有していて、この郷に下向した。この土地の、どこか自分たちとは違う者どもを、稗田の姻戚という形で縁を作り、彼らを人間として扱う事で人間秩序の下に置こうとしている。ある種の同化政策と言えるが、おそらくある程度は成功するだろう。自分たちは、ああしたよくわからないものたちに、ゆさぶられて、おかされながらも、のみこむ。無力だが、自分たちはそれだけはできる。
(しかし兄者たちも詰めが甘いな)
 とも、大きくなりつつある腹を撫でながらおかしく思った。
(自分たちが何者であるか、担保されるものが必要だ――重要なのは記録だ。私はなにもかもをおぼえているが、それだけに人々の忘れっぽさをも知っている。なにかを残すべきだ。たとえすべてを残す事はできないとしてもね)
 筆をとったその人が、幻想郷縁起を残した事は知られている。しかしどういった内容のものなのか、極めて難渋であるという後代の感想以外、詳しくは残っていない。ただその人の名前と、自分たちはあくまで人間であって、妖怪とは区別されるべき者たちである、という共同幻想のみが残った。

 高祖稗田阿礼を頂点にいただきつつ、幻想郷稗田氏の歴史はこの稗田阿一に始まる。
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3.90東ノ目削除
流石にこの時代だと読み手にとってフックとなるような元ネタにも乏しく「関東の範囲って昔は広かったんだなあ」「じゃあ愛知ということもありうるか、阿一だけに」と作品の衒学味にあるまじき低レベルな思考を脳内で回すしかなくなるところもありましたが、歴史短編としては面白かったです