十一月の昼下がり、民俗学の講義室は暖房の効きすぎた空気に満たされていた。
後方の席で、宇佐見蓮子は教授の声を子守唄代わりに、ノートの端に意味のない図形を描いて眠気と格闘していた。三角形と円を組み合わせた、魔法陣めいた何か。隣の席のメリーは、そんな蓮子を横目で見ながら、きちんと板書を写している。
「——というわけで、黄昏時は『逢魔が時』とも呼ばれ、この世とあの世の境界が曖昧になる時間帯とされてきました」
教授の言葉に、メリーの手が止まった。
「特に子供の遊びには、そうした境界性を利用した儀式的要素が色濃く残っています。かくれんぼ、影踏み、鬼ごっこ。これらは単なる遊戯ではなく、本来は——」
チャイムが鳴り、教授の言葉は途中で途切れた。学生たちが一斉に荷物をまとめ始める。
「続きは来週。ああ、それから」
教授は教室を出る前に付け加えた。
「影踏み遊びについては、特に黄昏時に行うものは注意が必要です。民俗学的には、影を踏むという行為には呪術的な意味があると考えられていますから」
その言葉を聞いていたのは、メリーだけだった。
蓮子は既に立ち上がり、大きく伸びをしている。
「ふああ……眠かった。メリー、今日はどうする? このまま帰る?」
「今日はバイトないし久しぶりにお酒飲みに行かない?」
「素敵な提案ね、反対する理由が見当たらない」
二人は講義室を出て、廊下を歩く。窓の外では、空が少しずつオレンジ色に染まり始めていた。
「ねえ蓮子」
「ん?」
「さっきの講義、聞いてた?」
「え、ちゃんと起きてたよ? 黄昏がどうとか」
「子供の遊びの話よ」
メリーはノートに写したホワイトボードの内容を思い浮かべる。
「影踏み、かくれんぼ、鬼ごっこ。これらの遊びには、元々呪術的な意味があったって」
「へえ」
蓮子は興味なさそうに答えた。
「でも今はただの遊びでしょ?」
「そうとも限らないわ。境界が曖昧になる時間——黄昏時に行われる遊びは、時として本物の儀式になることがある」
「メリーらしい考え方だね」
蓮子は笑った。
「まあ、それが秘封倶楽部らしいと言えばらしいけど」
二人は階段を降りていく。
「教授が最後に言ってたでしょ。影を踏む行為には呪術的な意味があるって」
「そうなの?」
「ええ。影は本体と繋がっている。だから影を踏むことは、相手の存在を掴むことと同義だった。ここまで話を聞かれていない教授が不埒で仕方ないわ」
メリーは真剣な顔で続けた。
「古い時代には、影を踏まれることを極度に嫌った文化もあったらしいわ」
「ふーん。じゃあ影踏み遊びって、結構ヤバいやつなんだ」
「特に黄昏時はね」
「影を踏まれると、魂が抜かれる——か。面白いね」
「面白がらないで。本当に危ない可能性もあるんだから」
「はいはい。気をつけます」
蓮子は軽く答えて、先に立って歩き出した。
メリーはため息をついて、後を追う。
校舎を出ると、空はもう傾き始めていた。影が長く伸び、アスファルトの上で形を歪めている。
十一月の午後四時。一年で最も影の長い季節だ。
大学を出て商店街へ向かう路地を歩いていると、白い軟式野球のボールが転がってきた。
使われなくなったグラウンドのフェンスの向こうで、子供たちが野球をしている。小学生が五、六人。いや、七人だろうか。数えようとするが動き回るので正確な人数が分からない。
「ごめんなさーい!」
蓮子はボールを拾い、軽く肩を回してから投げ返した。ワンバウンドにならない、素直な返球。腕の振りが綺麗だった。
「うわ、速っ!」
「お姉さん、野球やってた?」
「やってないけど、ストラックアウトは得意かな」
それだけで、距離は一気に縮まった。子供たちは蓮子をフェンスの中へ招き入れる。
「メリーも来なよ」
「私は見てるだけでいいわ」
なぜかそう答えてしまった。理由は分からない。ただ、フェンスの向こうに入りたくないという直感があった。
蓮子はいつの間にか即席のピッチャーになっていた。夕日が低く差し込み、ボールが飛ぶたびに影が地面を横切る。
メリーはフェンス際のコンクリートブロックに腰を下ろし、グラウンドを眺めた。
子供たちは無邪気に笑い、ボールを追いかけている。ごく普通の、放課後の光景。
でも——
メリーは小さな違和感を覚えていた。
子供たちの影が、妙に濃い。それに、重なり方がおかしい気がする。
さっきの講義を思い出す。
影踏み。影を踏む遊び。呪術的な意味を持つ遊び。
そして、黄昏時。
境界が曖昧になる時間。
メリーは鞄の中から小さな手帳を取り出した。秘封倶楽部の活動記録用に持ち歩いているものだ。ペンを走らせる。
『十一月二十六日、午後四時三十分頃。旧第三小学校跡地にて観察。子供の数が不安定——数えるたびに人数が変わる気がする。影の濃度が異常。重なり方も不自然』
書きながら、メリーは気づいた。
影の向きがおかしい。
太陽は西にある。だから影は東を向くはずだ。なのに、子供たちの影は、グラウンドの中心を向いている。
まるで、何かに引き寄せられているように。
「蓮子、そろそろ帰らない?」
声をかけたが、蓮子は聞こえていないようだった。楽しそうに投げ続けている。
「よーし、次はカーブいくよ」
楽しそうにはしゃぐ蓮子と子供達。
「うわっ、本当に曲がった!」
「なんだこのお姉さん、すげぇ!」
メリーは時計を見た。午後四時四十五分。日没まであと三十分ほど。
「蓮子!」
今度は大きく叫んだ。蓮子がようやく振り向く。
「もうちょっとだけ!」
野球は、日が沈みきる直前に終わった。光が赤から紫へ変わる、ほんの数分間の出来事だった。
そして——
「ねえ、次、影鬼やろうよ」
誰かが言った。
「今が一番面白い時間なんだ」
別の誰かが続けた。
メリーの背筋に、冷たいものが走る。
――影鬼。
さっきの講義で聞いたばかりの、その言葉。
影鬼。
それは単純な遊びだ。鬼が他の誰かの影を踏めば交代。踏まれた者が次の鬼になる。
でも、メリーの知る影鬼とは、何かが違っていた。
「私は見てるだけでいい」
「えー、つまんないの」
「蓮子だけで大丈夫」
メリーの声には、いつもとは違う固さがあった。蓮子は少し不思議そうな顔をしたが、すぐに笑って頷いた。
「じゃあ、すぐ終わらせるから」
影鬼が始まる。
最初の鬼は、背の高い男の子だった。彼は素早く動き、他の子供たちの影を狙う。
名前は呼ばれない。鬼は影だけを狙う。
それは普通のルールだ。だが、子供たちの動きは、どこか機械的だった。
笑い声がない。
いや、ある。確かに笑っている。でもそれは、喉の奥から搾り出されたような、不自然な笑い声だった。
運動神経のいい蓮子は軽快に逃げ回る。
背の高い男の子が蓮子の影を踏もうとするが、蓮子は身軽にかわす。次の子が追いかけてくる。それもかわす。
蓮子は笑いながら走っている。楽しんでいる。
だが、メリーには分かった。
子供たちの動きが、徐々に変わっていく。
最初は一人ずつ追いかけていたのに、いつの間にか——全員が蓮子を狙っている。
鬼が一人のはずなのに。
全員が、蓮子の影だけを追いかけている。
メリーは立ち上がった。鞄から手鏡を取り出す。アンティークショップで買った銀細工の縁取りがついた古い手鏡だ。
蓮子は笑いながら走り続けている。気づいていない。自分が、全員から狙われていることに。
子供たちの輪が、徐々に狭まっていく。
逃げ場がなくなっていく。
そして——
小柄な男の子が、蓮子の影を踏んだ。
その瞬間。
時間が止まったように感じた。
蓮子の動きが、一瞬だけ固まる。
そして、他の子供たちも一斉に、蓮子の影を踏んだ。
一人、二人、三人——
全員が、蓮子の影の上に立っている。
蓮子は笑顔のまま、立ち尽くしている。
「あはは、負けたー」
だが、その足元から、何かが抜けていくような気配があった。
——遊びじゃない。これは儀式だ。
メリーはフェンスを越えた。一瞬の迷いもなく。
「蓮子!」
叫びながら、輪の中に飛び込む。
子供たちは、一斉にメリーを見た。その目は、どこか焦点が合っていない。
メリーは蓮子の前に立ち、低い位置で、手鏡に蓮子の影を映した。
鏡面に映るのは、蓮子の靴と、その下に広がる黒い影。影は、鏡の中でゆっくりと蠢いていた。
いや、違う。
影が——薄くなっている。
子供たちに踏まれた部分が、まるで食われたように、薄くなっている。
西日と鏡の反射が重なる瞬間を待つ。ほんの一秒。
光が揃った。
「宇佐見蓮子」
小さく、フルネームを一度だけ唱える。
鏡の中で、影が動いた。いや、こちらを向いた。確かに、意思を持ってこちらを見た。
ざわり、と空気が震える。
薄くなっていた影が、少しずつ濃さを取り戻していく。
子供たちが、一斉に後ずさった。
まるで、何かを奪われたかのように。
「メリー?」
蓮子が不思議そうに言った。
「何してるの?」
「そろそろ帰るわよ」
メリーは蓮子の腕を掴んだ。有無を言わさぬ強さで。
「え、でもまだ——」
「帰るの」
遊びは唐突に終わった。
「えー、もう?」
「またね、少年達。次もストライク量産するから覚悟があれば誘って」
子供たちは不満そうだったが、引き留めはしなかった。むしろ、どこか諦めたような、淡白な反応だった。
メリーは蓮子を引っ張るようにして、グラウンドから出た。
フェンスの外に出た瞬間、背後から声がした。
「ちぇっ。もうちょっとで影が食えたのに」
振り返ると、誰が言ったのか分からない。子供たちはもう散り散りになっていて、人数も、さっきより明らかに少なかった。
いや、最初から何人いたのかも分からない。
ただ、夕闇の中で、グラウンドの影だけが異様に濃く、黒々と広がっていた。
商店街を抜ける頃には、空は完全に夜の色に変わっていた。
蓮子は首を傾げながら歩いている。
「ねえメリー、なんであんなに急いで帰ったの?」
「……後で話すわ」
メリーの声は、まだ少し震えていた。
大学近くの居酒屋に入った。狭い店内は学生で賑わい、揚げ物の匂いが立ち込めている。
二人は奥の席に座った。
「とりあえず、飲みましょう」
メリーは生ビールを二つ注文した。
ジョッキが運ばれてくると、蓮子は上機嫌で掲げた。
「今日、楽しかったわー。子供と遊ぶのって久しぶりだったから、なんか新鮮だった」
メリーは一口飲んでから、蓮子を見た。
「ねえ蓮子」
「ん?」
「さっきの影鬼、何か変だと思わなかった?」
「変?」
蓮子は首を傾げた。
「普通に楽しかったけど」
「最後の方、どうだった?」
「最後? ああ、なんか全員に追いかけられてたような……」
蓮子は笑った。
「私、結構上手く逃げてたでしょ?」
「そうね」
メリーは頷いた。
「でも、最後は踏まれたわよね」
「うん、一人に。で、鬼交代だなって思ったら、メリーが急に——」
蓮子は言葉を切った。
「……あれ?」
「何?」
「一人だけ……だったっけ?」
蓮子は自分の記憶を探るように、視線を宙に泳がせた。
「なんか、全員に囲まれたような気もするんだけど……でも、それっておかしいよね。影鬼は一人しか鬼がいないんだから」
「よく思い出してみて」
メリーは真剣な顔で言った。
「本当に、一人だった?」
蓮子は考え込んだ。
ジョッキを持つ手が、わずかに震えている。
「……全員、だった」
小さく呟いた。
「全員が、私の影を踏んだ」
「そうよ」
「でも、それって——」
蓮子は顔を上げた。
「ルール違反じゃない?」
「ルール違反じゃないわ」
メリーは静かに言った。
「だって、あれは遊びじゃなかったもの」
「遊びじゃない?」
「ええ」
メリーはジョッキを置いた。
「さっき、講義で聞いたでしょ。子供の遊びには、呪術的な意味があるって」
「まさか……」
「まさか、よ」
メリーは蓮子の目を見た。
「影を踏まれるということは、相手に存在を掴まれるということ。そして複数に踏まれるということは——」
「存在を、奪われる?」
「正確には、食われる」
メリーの言葉に、蓮子は息を呑んだ。
「影食い。影を食べることで、存在を奪う。古い呪術の一つよ」
「じゃあ、私——」
「ギリギリで間に合ったわ」
メリーは小さく息を吐いた。
「鏡であなたの名前を呼んで、影を繋ぎ止めた」
蓮子は自分の手元を見下ろした。テーブルに映る自分の影。
普通に、そこにある。
でも——
「影って、食われるとどうなるの?」
「最初は、写真に映らなくなる。らしい」
メリーは答えた。
「次に、人の記憶から薄れていく。名前を呼ばれても、思い出してもらえなくなる」
「そして?」
「最後には、誰も覚えていない人になる」
静寂。
店内の喧騒だけが、遠くに聞こえる。
「存在を失うの。完全に」
メリーは続けた。
「そして、影だけの存在になる」
「影だけの……」
蓮子は震える手で、ジョッキを持った。
「じゃあ、あの子供たちは」
「おそらくね」
メリーは頷いた。
「影だけの存在。だから、数が分からなかった。だから、姿が曖昧だった」
「そんな……」
蓮子は飲み干すように、ビールを一気に飲んだ。
それから、少し笑った。
「メリーって、たまに本気で怖いこと言うよね」
「本気だから言ってるのよ」
メリーは真顔で答えた。
蓮子は笑おうとしたが、笑えなかった。
代わりに、もう一杯注文した。
二杯目のビールが運ばれてくる。
蓮子はゆっくりと飲みながら、窓の外を見た。
「ねえメリー」
「何?」
「もし私が本当に影を食われてたら、今頃どうなってた?」
「考えたくもないわ」
メリーは即答した。
「でも、間に合った。それが全てよ」
「そっか」
蓮子は小さく笑った。
「ありがとう、メリー」
「礼なんていいわ。秘封倶楽部の相棒なんだから」
二人はしばらく黙って飲んだ。
店内は相変わらず賑やかで、学生たちの笑い声が響いている。
ごく普通の、居酒屋の夜。
でも、二人の間には、静かな緊張が流れていた。
「なんか、不思議な感じ」
蓮子が呟いた。
「私は楽しく遊んでたつもりだったのに、実は命の危険があったって」
「境界っていうのは、そういうものよ」
メリーは言った。
「日常と非日常の境目は、いつも曖昧。気づかないうちに、向こう側に踏み込んでいることがある」
「秘封倶楽部で、いつもそういうの探してるのにね」
「探すのと、巻き込まれるのは違うわ」
メリーは真剣な顔で続けた。
「これからは、もう少し慎重にならないと」
「はーい」
蓮子は軽く答えたが、その顔は少し青ざめていた。
ジョッキを置いて、ふと自分の手を見る。
テーブルに映る影。
普通に、そこにある。
でも——
一瞬だけ、その影が遅れて動いた気がした。
蓮子は目を凝らす。
でも、もう普通に動いている。
気のせい、だろうか。
「メリー」
「何?」
「影って、完全に元に戻るの?」
メリーは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「……そっか」
蓮子は小さく笑った。
「まあ、仕方ないか」
「大丈夫よ」
メリーは蓮子の手を握った。
「私が見てるから。何かあったら、すぐに分かるから」
「頼りになる相棒で助かるよ」
蓮子は笑った。
でも、その笑顔は少しだけ強張っていた。
二人は三杯目を注文した。
そして、他愛もない話を始める。
大学の講義のこと。
次の秘封倶楽部の活動のこと。
来週の予定のこと。
ごく普通の、日常の会話。
でも、時々、蓮子は自分の影を確認していた。
テーブルに映る、自分の影を。
それが確かにそこにあることを、確認するように。
店を出ると、夜は更けていた。
街灯の光が、二人の影を地面に落とす。
蓮子は、少し酔っていた。
「ああ、飲んだ飲んだ」
「大丈夫?」
「余裕余裕」
蓮子は笑いながら歩く。
メリーはその隣を、少し心配そうに歩いていた。
「ねえメリー」
「何?」
「今日のこと、誰にも言わないでね」
「当然よ」
「だって、言っても信じてもらえないでしょ」
「そうね」
蓮子は空を見上げた。
月が出ている。
街灯と月明かりが、地面に二つの影を作っていた。
蓮子の影と、メリーの影。
二つの影が、並んで伸びている。
「ねえメリー、影って不思議だよね」
「どうして?」
「だって、いつも一緒にいるのに、普段は気にしないでしょ」
「そうね」
「でも、本当はすごく大事なものなのかもしれない」
蓮子は自分の影を見下ろした。
「影がなくなるって、存在がなくなるってことなんだもんね」
「ええ」
メリーも自分の影を見た。
「影は、光があるから生まれる。光がなければ、影もない」
「じゃあ、私たちがここにいるのは、光があるから?」
「そうかもしれないわね」
二人は並んで歩いた。
影も、並んで伸びていく。
駅に着くまで、二人は黙って歩いた。
「じゃあね、メリー」
「ええ、また明日」
蓮子は手を振って、改札に向かう。
その背中を、メリーは見送った。
蓮子の影が、街灯の光を受けて、長く伸びている。
普通に。
当たり前のように。
でも、メリーには見えた。
その影の輪郭が、ほんの少しだけ、ぼやけていることが。
ほんの少しだけ、薄くなっていることが。
完全には、戻っていない。
メリーは小さくため息をついた。
そして、自分も改札に向かった。
その夜、蓮子は一人で部屋にいた。
酔いは醒めて、頭は冴えている。
でも、体は妙に重い。
ベッドに横になり、天井を見上げる。
今日のことを思い出す。子供たちとの野球。楽しかった影鬼。そして、メリーの言葉。
「影を食われかけてた」
そんな実感は、まだない。
でも、何かが違う気がする。
何かが、足りない気がする。
蓮子は起き上がり、鏡の前に立った。
部屋の明かりを受けて、自分の影が床に映っている。
普通に、そこにある。
でも——
じっと見ていると、その輪郭が揺らぐ気がした。まるで、水面に映った像のように。蓮子は手を動かした。
影も動く。
でも——
ほんの一瞬だけ、遅れた気がした。
「……気のせいだよね」
小さく呟いて、明かりを消す。
部屋が暗くなり、影が見えなくなる。
闇の中では、すべてが影だ。
蓮子はベッドに戻り、目を閉じた。
でも、なかなか眠れなかった。足元が、妙に冷たい気がした。まるで、何かが足りないように。まるで、何かが欠けているように。
そして——
暗闇の中で。ベッドの下で。蓮子の影が、ゆっくりと動いた気がした。
蓮子の体とは、別に。独立して。
まるで、意思を持ったかのように。でも、蓮子は気づかない。
目を閉じたまま、眠りに落ちていく。影だけが、そこで動いていた。
静かに。
ゆっくりと。
闇の中で。
後方の席で、宇佐見蓮子は教授の声を子守唄代わりに、ノートの端に意味のない図形を描いて眠気と格闘していた。三角形と円を組み合わせた、魔法陣めいた何か。隣の席のメリーは、そんな蓮子を横目で見ながら、きちんと板書を写している。
「——というわけで、黄昏時は『逢魔が時』とも呼ばれ、この世とあの世の境界が曖昧になる時間帯とされてきました」
教授の言葉に、メリーの手が止まった。
「特に子供の遊びには、そうした境界性を利用した儀式的要素が色濃く残っています。かくれんぼ、影踏み、鬼ごっこ。これらは単なる遊戯ではなく、本来は——」
チャイムが鳴り、教授の言葉は途中で途切れた。学生たちが一斉に荷物をまとめ始める。
「続きは来週。ああ、それから」
教授は教室を出る前に付け加えた。
「影踏み遊びについては、特に黄昏時に行うものは注意が必要です。民俗学的には、影を踏むという行為には呪術的な意味があると考えられていますから」
その言葉を聞いていたのは、メリーだけだった。
蓮子は既に立ち上がり、大きく伸びをしている。
「ふああ……眠かった。メリー、今日はどうする? このまま帰る?」
「今日はバイトないし久しぶりにお酒飲みに行かない?」
「素敵な提案ね、反対する理由が見当たらない」
二人は講義室を出て、廊下を歩く。窓の外では、空が少しずつオレンジ色に染まり始めていた。
「ねえ蓮子」
「ん?」
「さっきの講義、聞いてた?」
「え、ちゃんと起きてたよ? 黄昏がどうとか」
「子供の遊びの話よ」
メリーはノートに写したホワイトボードの内容を思い浮かべる。
「影踏み、かくれんぼ、鬼ごっこ。これらの遊びには、元々呪術的な意味があったって」
「へえ」
蓮子は興味なさそうに答えた。
「でも今はただの遊びでしょ?」
「そうとも限らないわ。境界が曖昧になる時間——黄昏時に行われる遊びは、時として本物の儀式になることがある」
「メリーらしい考え方だね」
蓮子は笑った。
「まあ、それが秘封倶楽部らしいと言えばらしいけど」
二人は階段を降りていく。
「教授が最後に言ってたでしょ。影を踏む行為には呪術的な意味があるって」
「そうなの?」
「ええ。影は本体と繋がっている。だから影を踏むことは、相手の存在を掴むことと同義だった。ここまで話を聞かれていない教授が不埒で仕方ないわ」
メリーは真剣な顔で続けた。
「古い時代には、影を踏まれることを極度に嫌った文化もあったらしいわ」
「ふーん。じゃあ影踏み遊びって、結構ヤバいやつなんだ」
「特に黄昏時はね」
「影を踏まれると、魂が抜かれる——か。面白いね」
「面白がらないで。本当に危ない可能性もあるんだから」
「はいはい。気をつけます」
蓮子は軽く答えて、先に立って歩き出した。
メリーはため息をついて、後を追う。
校舎を出ると、空はもう傾き始めていた。影が長く伸び、アスファルトの上で形を歪めている。
十一月の午後四時。一年で最も影の長い季節だ。
大学を出て商店街へ向かう路地を歩いていると、白い軟式野球のボールが転がってきた。
使われなくなったグラウンドのフェンスの向こうで、子供たちが野球をしている。小学生が五、六人。いや、七人だろうか。数えようとするが動き回るので正確な人数が分からない。
「ごめんなさーい!」
蓮子はボールを拾い、軽く肩を回してから投げ返した。ワンバウンドにならない、素直な返球。腕の振りが綺麗だった。
「うわ、速っ!」
「お姉さん、野球やってた?」
「やってないけど、ストラックアウトは得意かな」
それだけで、距離は一気に縮まった。子供たちは蓮子をフェンスの中へ招き入れる。
「メリーも来なよ」
「私は見てるだけでいいわ」
なぜかそう答えてしまった。理由は分からない。ただ、フェンスの向こうに入りたくないという直感があった。
蓮子はいつの間にか即席のピッチャーになっていた。夕日が低く差し込み、ボールが飛ぶたびに影が地面を横切る。
メリーはフェンス際のコンクリートブロックに腰を下ろし、グラウンドを眺めた。
子供たちは無邪気に笑い、ボールを追いかけている。ごく普通の、放課後の光景。
でも——
メリーは小さな違和感を覚えていた。
子供たちの影が、妙に濃い。それに、重なり方がおかしい気がする。
さっきの講義を思い出す。
影踏み。影を踏む遊び。呪術的な意味を持つ遊び。
そして、黄昏時。
境界が曖昧になる時間。
メリーは鞄の中から小さな手帳を取り出した。秘封倶楽部の活動記録用に持ち歩いているものだ。ペンを走らせる。
『十一月二十六日、午後四時三十分頃。旧第三小学校跡地にて観察。子供の数が不安定——数えるたびに人数が変わる気がする。影の濃度が異常。重なり方も不自然』
書きながら、メリーは気づいた。
影の向きがおかしい。
太陽は西にある。だから影は東を向くはずだ。なのに、子供たちの影は、グラウンドの中心を向いている。
まるで、何かに引き寄せられているように。
「蓮子、そろそろ帰らない?」
声をかけたが、蓮子は聞こえていないようだった。楽しそうに投げ続けている。
「よーし、次はカーブいくよ」
楽しそうにはしゃぐ蓮子と子供達。
「うわっ、本当に曲がった!」
「なんだこのお姉さん、すげぇ!」
メリーは時計を見た。午後四時四十五分。日没まであと三十分ほど。
「蓮子!」
今度は大きく叫んだ。蓮子がようやく振り向く。
「もうちょっとだけ!」
野球は、日が沈みきる直前に終わった。光が赤から紫へ変わる、ほんの数分間の出来事だった。
そして——
「ねえ、次、影鬼やろうよ」
誰かが言った。
「今が一番面白い時間なんだ」
別の誰かが続けた。
メリーの背筋に、冷たいものが走る。
――影鬼。
さっきの講義で聞いたばかりの、その言葉。
影鬼。
それは単純な遊びだ。鬼が他の誰かの影を踏めば交代。踏まれた者が次の鬼になる。
でも、メリーの知る影鬼とは、何かが違っていた。
「私は見てるだけでいい」
「えー、つまんないの」
「蓮子だけで大丈夫」
メリーの声には、いつもとは違う固さがあった。蓮子は少し不思議そうな顔をしたが、すぐに笑って頷いた。
「じゃあ、すぐ終わらせるから」
影鬼が始まる。
最初の鬼は、背の高い男の子だった。彼は素早く動き、他の子供たちの影を狙う。
名前は呼ばれない。鬼は影だけを狙う。
それは普通のルールだ。だが、子供たちの動きは、どこか機械的だった。
笑い声がない。
いや、ある。確かに笑っている。でもそれは、喉の奥から搾り出されたような、不自然な笑い声だった。
運動神経のいい蓮子は軽快に逃げ回る。
背の高い男の子が蓮子の影を踏もうとするが、蓮子は身軽にかわす。次の子が追いかけてくる。それもかわす。
蓮子は笑いながら走っている。楽しんでいる。
だが、メリーには分かった。
子供たちの動きが、徐々に変わっていく。
最初は一人ずつ追いかけていたのに、いつの間にか——全員が蓮子を狙っている。
鬼が一人のはずなのに。
全員が、蓮子の影だけを追いかけている。
メリーは立ち上がった。鞄から手鏡を取り出す。アンティークショップで買った銀細工の縁取りがついた古い手鏡だ。
蓮子は笑いながら走り続けている。気づいていない。自分が、全員から狙われていることに。
子供たちの輪が、徐々に狭まっていく。
逃げ場がなくなっていく。
そして——
小柄な男の子が、蓮子の影を踏んだ。
その瞬間。
時間が止まったように感じた。
蓮子の動きが、一瞬だけ固まる。
そして、他の子供たちも一斉に、蓮子の影を踏んだ。
一人、二人、三人——
全員が、蓮子の影の上に立っている。
蓮子は笑顔のまま、立ち尽くしている。
「あはは、負けたー」
だが、その足元から、何かが抜けていくような気配があった。
——遊びじゃない。これは儀式だ。
メリーはフェンスを越えた。一瞬の迷いもなく。
「蓮子!」
叫びながら、輪の中に飛び込む。
子供たちは、一斉にメリーを見た。その目は、どこか焦点が合っていない。
メリーは蓮子の前に立ち、低い位置で、手鏡に蓮子の影を映した。
鏡面に映るのは、蓮子の靴と、その下に広がる黒い影。影は、鏡の中でゆっくりと蠢いていた。
いや、違う。
影が——薄くなっている。
子供たちに踏まれた部分が、まるで食われたように、薄くなっている。
西日と鏡の反射が重なる瞬間を待つ。ほんの一秒。
光が揃った。
「宇佐見蓮子」
小さく、フルネームを一度だけ唱える。
鏡の中で、影が動いた。いや、こちらを向いた。確かに、意思を持ってこちらを見た。
ざわり、と空気が震える。
薄くなっていた影が、少しずつ濃さを取り戻していく。
子供たちが、一斉に後ずさった。
まるで、何かを奪われたかのように。
「メリー?」
蓮子が不思議そうに言った。
「何してるの?」
「そろそろ帰るわよ」
メリーは蓮子の腕を掴んだ。有無を言わさぬ強さで。
「え、でもまだ——」
「帰るの」
遊びは唐突に終わった。
「えー、もう?」
「またね、少年達。次もストライク量産するから覚悟があれば誘って」
子供たちは不満そうだったが、引き留めはしなかった。むしろ、どこか諦めたような、淡白な反応だった。
メリーは蓮子を引っ張るようにして、グラウンドから出た。
フェンスの外に出た瞬間、背後から声がした。
「ちぇっ。もうちょっとで影が食えたのに」
振り返ると、誰が言ったのか分からない。子供たちはもう散り散りになっていて、人数も、さっきより明らかに少なかった。
いや、最初から何人いたのかも分からない。
ただ、夕闇の中で、グラウンドの影だけが異様に濃く、黒々と広がっていた。
商店街を抜ける頃には、空は完全に夜の色に変わっていた。
蓮子は首を傾げながら歩いている。
「ねえメリー、なんであんなに急いで帰ったの?」
「……後で話すわ」
メリーの声は、まだ少し震えていた。
大学近くの居酒屋に入った。狭い店内は学生で賑わい、揚げ物の匂いが立ち込めている。
二人は奥の席に座った。
「とりあえず、飲みましょう」
メリーは生ビールを二つ注文した。
ジョッキが運ばれてくると、蓮子は上機嫌で掲げた。
「今日、楽しかったわー。子供と遊ぶのって久しぶりだったから、なんか新鮮だった」
メリーは一口飲んでから、蓮子を見た。
「ねえ蓮子」
「ん?」
「さっきの影鬼、何か変だと思わなかった?」
「変?」
蓮子は首を傾げた。
「普通に楽しかったけど」
「最後の方、どうだった?」
「最後? ああ、なんか全員に追いかけられてたような……」
蓮子は笑った。
「私、結構上手く逃げてたでしょ?」
「そうね」
メリーは頷いた。
「でも、最後は踏まれたわよね」
「うん、一人に。で、鬼交代だなって思ったら、メリーが急に——」
蓮子は言葉を切った。
「……あれ?」
「何?」
「一人だけ……だったっけ?」
蓮子は自分の記憶を探るように、視線を宙に泳がせた。
「なんか、全員に囲まれたような気もするんだけど……でも、それっておかしいよね。影鬼は一人しか鬼がいないんだから」
「よく思い出してみて」
メリーは真剣な顔で言った。
「本当に、一人だった?」
蓮子は考え込んだ。
ジョッキを持つ手が、わずかに震えている。
「……全員、だった」
小さく呟いた。
「全員が、私の影を踏んだ」
「そうよ」
「でも、それって——」
蓮子は顔を上げた。
「ルール違反じゃない?」
「ルール違反じゃないわ」
メリーは静かに言った。
「だって、あれは遊びじゃなかったもの」
「遊びじゃない?」
「ええ」
メリーはジョッキを置いた。
「さっき、講義で聞いたでしょ。子供の遊びには、呪術的な意味があるって」
「まさか……」
「まさか、よ」
メリーは蓮子の目を見た。
「影を踏まれるということは、相手に存在を掴まれるということ。そして複数に踏まれるということは——」
「存在を、奪われる?」
「正確には、食われる」
メリーの言葉に、蓮子は息を呑んだ。
「影食い。影を食べることで、存在を奪う。古い呪術の一つよ」
「じゃあ、私——」
「ギリギリで間に合ったわ」
メリーは小さく息を吐いた。
「鏡であなたの名前を呼んで、影を繋ぎ止めた」
蓮子は自分の手元を見下ろした。テーブルに映る自分の影。
普通に、そこにある。
でも——
「影って、食われるとどうなるの?」
「最初は、写真に映らなくなる。らしい」
メリーは答えた。
「次に、人の記憶から薄れていく。名前を呼ばれても、思い出してもらえなくなる」
「そして?」
「最後には、誰も覚えていない人になる」
静寂。
店内の喧騒だけが、遠くに聞こえる。
「存在を失うの。完全に」
メリーは続けた。
「そして、影だけの存在になる」
「影だけの……」
蓮子は震える手で、ジョッキを持った。
「じゃあ、あの子供たちは」
「おそらくね」
メリーは頷いた。
「影だけの存在。だから、数が分からなかった。だから、姿が曖昧だった」
「そんな……」
蓮子は飲み干すように、ビールを一気に飲んだ。
それから、少し笑った。
「メリーって、たまに本気で怖いこと言うよね」
「本気だから言ってるのよ」
メリーは真顔で答えた。
蓮子は笑おうとしたが、笑えなかった。
代わりに、もう一杯注文した。
二杯目のビールが運ばれてくる。
蓮子はゆっくりと飲みながら、窓の外を見た。
「ねえメリー」
「何?」
「もし私が本当に影を食われてたら、今頃どうなってた?」
「考えたくもないわ」
メリーは即答した。
「でも、間に合った。それが全てよ」
「そっか」
蓮子は小さく笑った。
「ありがとう、メリー」
「礼なんていいわ。秘封倶楽部の相棒なんだから」
二人はしばらく黙って飲んだ。
店内は相変わらず賑やかで、学生たちの笑い声が響いている。
ごく普通の、居酒屋の夜。
でも、二人の間には、静かな緊張が流れていた。
「なんか、不思議な感じ」
蓮子が呟いた。
「私は楽しく遊んでたつもりだったのに、実は命の危険があったって」
「境界っていうのは、そういうものよ」
メリーは言った。
「日常と非日常の境目は、いつも曖昧。気づかないうちに、向こう側に踏み込んでいることがある」
「秘封倶楽部で、いつもそういうの探してるのにね」
「探すのと、巻き込まれるのは違うわ」
メリーは真剣な顔で続けた。
「これからは、もう少し慎重にならないと」
「はーい」
蓮子は軽く答えたが、その顔は少し青ざめていた。
ジョッキを置いて、ふと自分の手を見る。
テーブルに映る影。
普通に、そこにある。
でも——
一瞬だけ、その影が遅れて動いた気がした。
蓮子は目を凝らす。
でも、もう普通に動いている。
気のせい、だろうか。
「メリー」
「何?」
「影って、完全に元に戻るの?」
メリーは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「……そっか」
蓮子は小さく笑った。
「まあ、仕方ないか」
「大丈夫よ」
メリーは蓮子の手を握った。
「私が見てるから。何かあったら、すぐに分かるから」
「頼りになる相棒で助かるよ」
蓮子は笑った。
でも、その笑顔は少しだけ強張っていた。
二人は三杯目を注文した。
そして、他愛もない話を始める。
大学の講義のこと。
次の秘封倶楽部の活動のこと。
来週の予定のこと。
ごく普通の、日常の会話。
でも、時々、蓮子は自分の影を確認していた。
テーブルに映る、自分の影を。
それが確かにそこにあることを、確認するように。
店を出ると、夜は更けていた。
街灯の光が、二人の影を地面に落とす。
蓮子は、少し酔っていた。
「ああ、飲んだ飲んだ」
「大丈夫?」
「余裕余裕」
蓮子は笑いながら歩く。
メリーはその隣を、少し心配そうに歩いていた。
「ねえメリー」
「何?」
「今日のこと、誰にも言わないでね」
「当然よ」
「だって、言っても信じてもらえないでしょ」
「そうね」
蓮子は空を見上げた。
月が出ている。
街灯と月明かりが、地面に二つの影を作っていた。
蓮子の影と、メリーの影。
二つの影が、並んで伸びている。
「ねえメリー、影って不思議だよね」
「どうして?」
「だって、いつも一緒にいるのに、普段は気にしないでしょ」
「そうね」
「でも、本当はすごく大事なものなのかもしれない」
蓮子は自分の影を見下ろした。
「影がなくなるって、存在がなくなるってことなんだもんね」
「ええ」
メリーも自分の影を見た。
「影は、光があるから生まれる。光がなければ、影もない」
「じゃあ、私たちがここにいるのは、光があるから?」
「そうかもしれないわね」
二人は並んで歩いた。
影も、並んで伸びていく。
駅に着くまで、二人は黙って歩いた。
「じゃあね、メリー」
「ええ、また明日」
蓮子は手を振って、改札に向かう。
その背中を、メリーは見送った。
蓮子の影が、街灯の光を受けて、長く伸びている。
普通に。
当たり前のように。
でも、メリーには見えた。
その影の輪郭が、ほんの少しだけ、ぼやけていることが。
ほんの少しだけ、薄くなっていることが。
完全には、戻っていない。
メリーは小さくため息をついた。
そして、自分も改札に向かった。
その夜、蓮子は一人で部屋にいた。
酔いは醒めて、頭は冴えている。
でも、体は妙に重い。
ベッドに横になり、天井を見上げる。
今日のことを思い出す。子供たちとの野球。楽しかった影鬼。そして、メリーの言葉。
「影を食われかけてた」
そんな実感は、まだない。
でも、何かが違う気がする。
何かが、足りない気がする。
蓮子は起き上がり、鏡の前に立った。
部屋の明かりを受けて、自分の影が床に映っている。
普通に、そこにある。
でも——
じっと見ていると、その輪郭が揺らぐ気がした。まるで、水面に映った像のように。蓮子は手を動かした。
影も動く。
でも——
ほんの一瞬だけ、遅れた気がした。
「……気のせいだよね」
小さく呟いて、明かりを消す。
部屋が暗くなり、影が見えなくなる。
闇の中では、すべてが影だ。
蓮子はベッドに戻り、目を閉じた。
でも、なかなか眠れなかった。足元が、妙に冷たい気がした。まるで、何かが足りないように。まるで、何かが欠けているように。
そして——
暗闇の中で。ベッドの下で。蓮子の影が、ゆっくりと動いた気がした。
蓮子の体とは、別に。独立して。
まるで、意思を持ったかのように。でも、蓮子は気づかない。
目を閉じたまま、眠りに落ちていく。影だけが、そこで動いていた。
静かに。
ゆっくりと。
闇の中で。
面白かったです。
触れてはいけないものに触れてしまった蓮子がこの後どうなるのか気になります
間一髪かと思ったらそんなことなかった