「相変わらず傘が多いわね、蓮子の家は」
蓮子のマンションに入ると、玄関にはいつもどおり、傘が六、七本ほど立てかけられていた。
そのことを指摘したら、蓮子は唇を尖らせた。
「うるさいなぁ。メリーは小言が多いのよ」
「事実を言っただけよ」
蓮子は出かけるとき、よく傘を忘れる。天気予報の精度が高い科学世紀においてもなお、その恩恵にあずかれていない。
結果、外出先で雨に降られるたび、コンビニで傘を買うので、家に傘が増えていく。
そうそう壊れるものではないから、傘は増える一方だ。
「夏は良いんだけどねぇ。日傘持ち歩いてるから」
彼女は羽織っていた上着を脱ぎ捨てると、コーヒーを入れ始めた。
「だったら常に折り畳み傘持てば良いでしょう?」
「降らなかったらどうするのよ。一日中無駄な荷物を持ち歩いたことになるじゃない。デッドウエイトよ」
「不要な傘を買う方が、よっぽど無駄と思うけれど。ていうか手を洗いなさいよ」
私はため息をついた。
蓮子は万事においてこういうところがある。目先の効率を重視しすぎて、かえって効率が悪いことをしがちだ。
私は勝手に洗面台を借りて手を洗い、蓮子のベッドに腰掛けた。もちろん知り合ったばかりのころは、いきなり人様の家のベッドに腰掛けるような無礼なことはしなかったが、今ではすっかりベッドが私の指定席となっていた。
言われた通り手を洗ってきた彼女は、私専用のマグカップにコーヒーを注いで差し出した。
「私が傘を持ち歩かないのはね、メリーと相合傘をするためなの」
「へー光栄」
戯言には取り合わなかったが、コーヒーは受け取った。
蓮子の入れるコーヒーは妙に美味しい。何か人には言えない隠し味を混ぜているのではと私は疑っている。
「メリーが少なすぎるのよ。折り畳み傘一本しか持ってないだなんて、ボッキリ折れたらどうするのよ」
「早々そんな派手な壊れ方しないわよ」
自分の分のコーヒーも入れた蓮子は、デスクとセットで購入した椅子にどかっと腰をおろす。
「そういや傘ってすごいわよね。基本的なフォルムは江戸?鎌倉?くらいから変わらないんだもの」
「そうねぇ。ドローン傘も結局定着しなかったし」
ドローン技術は二〇一〇年代に飛躍的に進歩した。しかし低空を飛ぶドローン傘は危険も多く、また製造コストもただの傘には遠く及ばなかったため、結局普及しなかった。
「ここ十年くらい、ソフト面では色々な発展があったけど、ハード面でのブレイクスルーって中々ないわよねぇ。精々ドローン便くらい?」
ドローン傘は定着しなかった一方、ドローン便はなくてはならないものになっていた。年々減っていく労働力の減少にもマッチし、配達業はかなり無人化が進んだ。
都市部では常にドローン便が飛行しており、空の景観を損ねていると憤る市民団体がいるほどだ。その人たちの気持ちはわからなかったが、何もない突き抜けた青空を懐かしむ人の気持ちはわからなくもない。
「街並みが変わるレベルっていうと、それと電線の地中化くらいかしら」
「電柱は人が居なくなった撤退地域とかに沢山放置されてるけどね。あーあとは、無人運転の拡大とか」
「それはハードというよりギリソフト面の進歩っぽい気も……」
ぱっと見の街の景観は、無人運転になったからといってそう変わらない気もした。
それにしても子供のころは有人運転が主流だったのが、今となっては信じられない。危なくないのだろうか。いや、実際その頃は相当数の事故が起きていたように思う。
「そういや、日傘さしてるときのメリーってなんかちょっと怖いのよね」
「怖い?」
急に話題が傘に戻った。
蓮子はコロコロ表情を変えるが、話題もコロコロ変わる。好奇心が人一倍強いせいだろうか。
私ももう慣れっこだったので、特に話題が変わったことを指摘しない。
「待ち合わせとかでさ、遠くから日傘さしてるメリーが目に入ったとき、別人みたいでちょっと怖いのよね。声かけると、ああいつものメリーだな、ってなるけど」
「人の顔ちゃんと覚えてないんじゃない?」
わざとらしく突き放したような調子で、私はそう言った。
でも少しわからなくもない。私もゼミ仲間だとかそれなりに顔を覚えているはずの相手でも、駅で待ち合わせしたりすると、普段と雰囲気が違って、声をかける際に自信がなくて躊躇する。目が合って相手もリアクションしてくれないと、話しかけられない。
しかし蓮子の抱くイメージは、私のそれとは違うようだった。
「こんな四六時中顔突き合わせてて、自信なくなるわけないでしょ。本当傘さしてるときだけなのよ」
「へー、傘が似合いすぎて美人に見えるとか?」
「美人、か……そんな感じかも」
適当に返すと、蓮子は考え込むようにそう言った。私は恥ずかしくて、少し顔が熱くなった。
「……ボケを殺さないでよ」
「ああ、ごめんごめん。でもイメージとしては、そんな感じかもなって」
「何それ。傘が悪いのかしら。そしたらビニール傘とかの方が良いかな」
私は呆れるように笑う。
普段持ち歩いているのは、ちょっと小洒落たデザインの白い折り畳み傘だ。中々に気に入っているのだが、そのせいで普段と違う雰囲気に見えてしまうのかもしれない。
蓮子がコンビニで買ったビニール傘を物色しようと、コーヒーを置いて玄関に戻る。すると私の背中に向かって、彼女がが声をかけてくる。
「私の忘れ傘、持って行っていいよ」
「知恩院?」
「傘を持っていくのを忘れたせいで増えた傘、略して忘れ傘ね。魔除けになるわよ」
知恩院とは、忘れ傘で有名な寺のことだ。
京都の東山にある立派な寺なのだが、そのお堂の軒裏に、一本の古びた傘が置いてある。
御影堂というお堂にあるのだが、これが中々に大きいお堂で、傘は梯子を使っても中々手の届かなさそうな場所に置いてある。というわけでその傘は知恩院の七不思議の一つに数えられている。
大工が置いて行っただとか、白狐がお詫びに魔除けとしておいて行っただとか、由緒は諸説ある。
「まあでも今の傘気に入ってるし、要らないかなぁ」
「そんなこと言わずにさぁ」
蓮子が背中にのしかかってくる。私の頭の上に顎を乗せた彼女は、傘を見て「あれ?」と呟く。
「傘が多いな」
「そりゃ一人暮らしにしては、多いわよ」
「そうじゃなくて、全部で六本だったはずなのに、七本ある」
玄関の壁にかかっている傘は、確かに七本ある。
普通の傘が二本と、ビニール傘が五本だ。ぱっと見、二本の方が元々持っていた傘で、五本のビニール傘が忘れたときに買ったものと思われるが、そうではないらしい。
「本当に六本だった? これだけ多ければ、何本あるかよくわからなくなるでしょ」
「絶対六本よ。六本あるから、六歌仙か六道になぞらえられるなぁ、って最近思った記憶があるもの」
「くだらないこと考えてるな……」
玄関は部屋の明かりで間接的に照らされているだけで暗かったので、蓮子が壁面のスイッチに触り、明かりをつけた。
ビニールではない二本の傘は、一つは白で、もう一つは紫色だった。彼女が見おぼえがないのは、後者の紫色の方らしかった。
「こんな紫色の傘、買った覚えないなぁ」
「本当?誰かの忘れ物とかじゃないの?」
「親とメリー以外を部屋に入れたことないわよ。メリーはこんな傘買わないでしょ?」
「そうね」
紫色の傘は古く、ボロボロだった。紫色と括ったが、もう少し厳密に言うと、茄子のような色味で何ともダサい。確かに私はこんな傘を買いはしないだろう。
「蓮子のストーカーとかが置いていったんじゃない?」
「やめてよ……ウチのオートロックの故障、いまだに放置されてるんだから。ああもうインターホン鳴らされても怖くて出られない」
「ごめんごめん」
蓮子が本当に怯えた様子だったので、謝りながら肩を寄せた。
確かに今の発言は配慮を欠いていたかもしれない。独り暮らしでいきなり見知らぬ傘が部屋に現れたら、確かに恐ろしい。
「でも本当なんなんだろう。傘に足が生えて部屋に入ってくるわけもないし……」
怯えてた割には、急にファンシーなことを言い出すな、とギャップで少し面白くなってしまう。傘ににょきっと二本の生足が生えるところを想像してしまう。
改めて傘に目をやると、私は僅かに違和感を覚えた。
「……ん?」
「どうしたの?」
蓮子は私の顔を覗き、不安そうな声で聞いてくる。
「いや、なんか結界……ではないんだけど」
私は目をこすってから、もう一度傘を手に取って目を凝らしてみる。
「何かゆらぎ、みたいのが……」
本物のオカルトがらみの品は、その場にあるだけで周囲に影響を与える。私にはそれが、周りの空間にヒビが入ったように見えることがある。
この傘はそれほどではないが、空間が揺らいでいるように見えなくもない。
「え、オカルト案件なの?じゃあこれ、本当に足が生えてウチに入ってきたもの?」
「化け傘……とかかも。目を凝らすと揺らいで見える程度だから、大したものじゃないと思うけど」
「何だぁ」
蓮子が胸をなでおろす。
変な話だ。妖怪かもしれないことの方が安心するだなんて。でも実際、妖怪よりも人間のストーカーの方がよっぽど恐ろしかった。
「しかし秘封倶楽部の前に現れるだなんて、飛んで火にいる夏の虫とはこのことね」
すっかり調子を取り戻した蓮子は、傘を手に取り、まじまじと見つめる。
開いたり閉じたり、手触りを確認している。
「触った感じ、素材は普通の傘と一緒なのかな。いや、通常の素材と同じように振舞っているだけで、全く別の組成という線も完全には捨てきれないわね。明日大学に持っていってX線回折や赤外分光法を試してみるか。専門外だから知り合いに頼むとしましょう」
小躍りしだしそうなウキウキの蓮子とは裏腹に、握られている傘が、なんだか怯えているように見えた。
その日は遅かったので、蓮子の部屋に泊まった。
翌朝起きると、紫色の傘はなくなっていた。
実験動物のような扱いに、これはたまらん、と蓮子から逃げ出したのかもしれない。
化け傘も恐れて逃げ出すとは、流石は私の相棒だなぁ、と呆れ半分で私は感心した。
それから一カ月も経たないうちに、日々の忙しさや憂い事の渦の中で、私は紫色の傘のことなどすっかり忘れてしまった。
悪いことは立て続くものだ。
昨日はゼミの発表の日だった。資料は勿論ちゃんと準備したはずだったが、教授の着眼点が想定外の方向性で、質問に全く上手く答えられなかった。上手い回答が出てこないときの、あの沈黙は何度体験しても辛いものだ。しかも「もう少し準備をした方が良いかもしれないね」と小言までいただいた。自分では準備したつもりだったので、余計に凹む。周りのゼミ仲間は慰めてくれたが、その優しさがかえって辛かった。
その後、蓮子と晩御飯でも食べて気を紛らわせようと思ったが、あいにくバイトのヘルプが入ってしまったらしく、断られてしまった。
時間割が合えばご飯を食べるくらいの友人は何人かいるが、急に呼び出せるほど気の置けない友達は蓮子以外にいなかった。留学生というのを差し引いても、私は友達が少ないのだろうか。そう思うと一層辛い気持ちになる。
仕方なく一人でファミレスに行くと、今度は中々注文が来ない。気落ちしていたのも手伝って、遅いことに気づかなかった。どうしようとちょっと悩んだ後、デバイスを確認したところ、そもそもカートの中で止まっていて、注文決定の操作をしていなかった。
「はぁ……」
一晩経って気分も戻ってきたかと思いきや、今度は朝食を買い忘れていたうえ、冷食等も丁度切らしており、冷蔵庫に食べれそうなものは何もなかった。
外ではザアザアと雨が降っており、雨粒が窓を叩く音が鬱陶しい。
まあいい。
今日は秘封倶楽部の活動日だ(活動日といっても墓荒らしだとかフィールドワークになる回はそう多くなく、今回もカフェで話すだけだ)。二人でいれば気分も晴れるだろう。こういう明確な原因なく落ち込んでいるときは、往々にして誰かと話していれば気分も切り替わるものだ。
一人で過ごしていたのが良くなかった。通話でもすればよかったのだろうが、行動を起こすほどの気力がなかった。行動すれば気分を持ち直せるのに、そうするだけの気力がないという負のスパイラルに陥っていた。
軽くメイクを済ませ、最後に景気づけにいつもより少しだけ深めの赤のリップを引く。特別な日にだけ使うというほどではないが、テストがある日だとか気合を入れたいときとかに使うリップだ。
そしてカバンの中身を開いて、それからようやく気づいた。
「あれっ?」
傘がない。
そう多くないカバンの中身をひっくり返し、机の上や引き出し、果てはベッドの下まで覗き見てみるものの、やっぱり傘が見つからない。
「これは……」
正直、探している最中に、薄々結論にたどり着いていた。
三日前くらいに蓮子の部屋で飲んだとき、行きは雨が降っていたが、帰るときは雨がやんでいた。その時に傘を持ち帰るのを忘れたのだろう。
「あーもう、全部嫌んなる……」
私はとうとうその場にへたり込んでしまった。
不幸、と形容するには、自分のミスが原因の出来事ばかりでそうは言えない。本当に自分が嫌になる。
蓮子があまりにガサツなものだから、自分もすっかり間抜けな人間であることを最近忘れていた。金髪と留学生という要素がそうさせるのか、私に対してミステリアスで近寄りがたいイメージを持っていると人が多いらしい。しかし実際は抜けていて人見知りをしているだけだ。
蓮子と異なり普段几帳面を心掛けているにもかかわらず、こうやってミスが多いのは、かなりのダメ人間なのではないだろうか。
「どうしたもんかな……」
多少待てば雨脚も弱まるのでは、と期待し天気予報を開くが、夜まで一本調子で振り続けるようだった。
いつものカフェにどうたどり着くかを考える。
このマンションの階下にコンビニはない。一番近いのは通りを挟んで少し行った先にあるコンビニだが、たどり着くまでにびしょ濡れになるのは確実だ。
ドローン便で新しい傘を買うのは、五時間程度はかかるので、到底間に合わない。
あとは蓮子に迎えに来てもらうくらいしかないが、彼女の家は目的地のカフェを挟んで反対方向にあるので気が引ける。それに気分が落ちていて、人に何かをお願いできる気分じゃない。何より、普段から蓮子の遅刻や忘れ物に散々小言を言っているので、弱みを見せたら鬼の首を取ったかのように馬鹿されるかもしれない。
傘を一本しか持たない自分の吝嗇家ぶりが悔やまれる。今だけ傘を沢山買い込んでいる蓮子がうらやましい。
「本当最悪……」
上着を被って一番近いコンビニまで走って傘を買いに行くしかない。
私は暗い気持ちを引きずりながら、玄関へ向かう。家の中にいても聞こえてくるほどの土砂降りの音で、さらに私の気分が滅入る。
「うん……?」
玄関に向かうと、傘が壁に立てかけてあった。
紫色の傘だった。
蓮子の家に現れた、あの化け傘だった。この茄子のような紫色、間違いない。
私はしゃがみこんで、傘と向き合う。
「自分を使え、っていうの?」
返事は特にない。
ただ、本当に何となくだが、傘はなんだか誇らしげに見えた。
何だか面白くなって、吹き出すように笑いがこぼれた。
「今日だけだからね」
バッグを持ち直して、傘を手に取り、部屋のドアを開けた。
鍵を閉める。いまいち自分がアテにならないので、ちゃんと取ってを引いて施錠できているか確認する。
マンションの階段を下る。足取りが何だか軽く、最後は殆ど駆け降りていた。
オートロックを抜けて、雨と向かいあった。車が道を行き交うたびに、水たまりがバシャっと跳ね上がる。この中を傘なしでいくのは、かなりキツかっただろう。
勢いよく、紫の傘を開く。
バッと広がる傘の手ごたえが、何だか小気味良い。
そして私と傘は、雨の中に身を投じた。
化け傘が使われて喜んでいるのだろうか。私の手の中で、傘がくるりと回る。
これは傘が勝手に動いているのか。それとも、私が無意識に動かしているのか。
傘を叩く雨音も、耳に馴染んで妙に心地良かった。
小傘ちゃんが誇らしそうなのが可愛かったです。うちにもきてほしい…
傘、ちょっとデザインが悪いからといって、メリーに捨てられないといいですね
科学世紀と妖怪伝説の入り混じった少し不思議な話でした
素晴らしかったです