その日の朝、今泉 影狼は愕然とした。
湖が全面、氷に覆われていた。
今泉 影狼はおぼつかない足取りで湖に近付き、恐る恐るとその表面に足を乗せた。
やはりそれは水面ではなかった。凍っていた。今泉 影狼はさらに1歩、足を踏み入れ、湖の上に直立した。
ガクリと首をうつむかせ、揺れる瞳で氷を見た。口をパクパクさせ真っ白な息で呼吸する。おのずと呼吸から音が漏れ出し、そのうちに言葉が聞こえてきた。
「ひ、ひ、、、ひめ。ひめ。。。姫、、、!」
顔を上げ、湖を見渡した。遠くにある2軒の西洋建築と雑多な妖精の他には雪と氷と雲しかない。氷点下に凍った水蒸気が東日に照らされて世界をかすみ、薄黄色い青空だけがそれらを見降ろしていた。
今泉 影狼は息を呑んだ。力なく溢れた涙が頬を伝ってあごから落ちた。
氷面に落下した涙は間もなく凍った。今泉 影狼は叫んだ。
「姫ええええぇぇ!!!」
今泉 影狼は叫びながら走った。「姫!姫!」と叫びながら氷の上をつま先を踏みしめて走り、何度も滑りながらも決して転ぶことなく、そこら中を見回しながら走り出した。
しかしそこでは無数の妖精たちが氷上追いかけっこと雪合戦または氷合戦と弾幕ごっこを展開していた。
今泉 影狼はその真っただ中に突っ込んだ。自身の前後を通り過ぎる妖精に次々と衝突して何度も何度も転倒した。しかし今泉 影狼は転がりながら立ち上がり走り続け、左右を飛び交う雪球や氷塊に何度も打ち付けられて、全身に雪と鮮血をまみれさせながら走り続けた。幾発もの弾幕を全身に浴び、舞い上がった氷のしぶきに呑み込まれてもなお、凸凹になった氷面を飛び跳ねて、かすむ視界をかき分け、未だに「姫!姫!」と叫びながら走り続けた。
今泉 影狼が突然止まった。叫びも止まり、目を丸めた。
今泉 影狼はわかさぎ姫を見た。
ぶ厚い氷を下から叩き、彼女の名を呼びながら助けを求めるわかさぎ姫の姿を今泉 影狼は見つけ出した。
「姫ええぇぇぇぇ!!!!!」
今泉 影狼は走った。彼女がわかさぎ姫を見たその地点まで走った。その場所に両手を突き、四つん這いじみた体制になり、ぶ厚い氷の向こう側で自身の名を叫ぶ彼女と向かいあって、わかさぎ姫の名を叫んだ。
気泡交じりの真っ白な氷越しにワカサギの姿など見えるのか、その声が聞こえるかといった当然の疑問はさて置いて、今泉 影狼は間違いなくわかさぎ姫を見た。わかさぎ姫の姿を鮮明に見て、その助けを求める声を鮮明に聞き取った。
救けを求めるわかさぎ姫の言葉を聞いて今泉 影狼は両手を氷に叩き付けた。
何度も何度も叩き付けた。
しかし傷ひとつない氷はビクともせず、トントンという乾いた音ばかりが、彼女の絶叫に掻き消された。
そのうち今泉 影狼は氷を叩くことを諦めて、その場に突っ伏し声を上げて泣いた。わんわんと泣いた。時にはひめひめと泣いたかと思いきや、やはり次にはわんわんと泣いた。
いつまでもいつまでも泣いて声を枯らして泣いた。あまりにも盛大に泣くため周囲の妖精が彼女を怪訝に見つめ始め、ヒソヒソ話の種となったが、それでも彼女は泣き続けた。
歩み寄って声を掛けてくれた緑髪のサイドテール妖精の手すら振り払ってまで、彼女はいつまでも泣いていた。
いつまでも泣き続けて、周囲の話題にもならなくなった頃、今泉 影狼の泣き声が止んだ。しくしくという息遣いがしばらく続いたが、しばらく経つとその音も聞こえなくなった。顔を隠すように突っ伏していた今泉 影狼は起き上がって氷面に座り、目元の赤く腫れた虚ろな瞳で、高く天上から照らし付ける白い太陽を力なく見上げた。
その瞳に怨念がこもっているような気がした。
今泉 影狼が立ち上がった。太陽を睨んだまま。
今泉 影狼が歩き出す。明らかに前は見ていない。太陽を睨んでいた。そんな彼女が再び妖精たちの注目の的となる。
今泉 影狼の正面を1匹の氷精が陣取っていた。彼女が歩き出すと氷精は彼女に声を掛け、止まるように命じる。しかし彼女はそんな氷精の制止には聞く耳を持たず、ぐんぐんとそれに接近した。
交渉の失敗を悟った氷精は迫り来る今泉 影狼に1歩2歩とたじろいたがそれだけでは間に合わなかった。
ついに氷精は今泉 影狼に接触し、押し倒され、踏みつけられ、最後には通り過ぎられた。
今泉 影狼の背後で緑髪のサイドテール妖精が氷精の名を叫びながらそれを揺り起こそうと試みている。氷精は一回休みとなった訳ではなく息もあったが起き上がらなかった。両目を×にしたまま悪夢でも見ているかのように唸っていた。緑髪のサイドテール妖精を含めた複数の妖精が氷精を抱え上げて飛んで行った。
今泉 影狼は明らかに前を見ず前進し続けていた。やがて氷が雪に変わり、彼女は湖面から湖畔に上陸した、しかしそれでも彼女は止まらず、だんだんと木々に呑み込まれて森の中へと入って行った。
茂みの中を歩き続ける、枝雪に覆われた太陽を睨みながら。ふいに何かがつま先に当たり、今泉 影狼は歩みを止めた。木漏れ日から目を逸らして足元を見降ろす。そこにはひと抱えほどもある巨大な岩が転がっていた。
ぎらぎらと輝く。
ゆっくりとかがみ、がっしりと掴み、今泉 影狼はゆっくりとその岩を抱え上げた。
今泉 影狼はぎらぎらと輝く瞳でその岩を見つめた。岩を見つめると次に、正面を見つめた。
間もなく彼女は機械的に180°反転して、もの凄い速さで走り出した。雪原を超え氷上に乗り、速度を緩めることなく、むしろ加速して走り続けた。
周囲から立て続けに少女の断末魔が上がり、妖精たちが彼女の前から飛び去って行く。その中に氷精の姿はない。遠くの湖畔で緑髪のサイドテールを始めとした複数の妖精が除雪をしていて、一ヶ所に雪を集めていた。そこにも氷精の姿は見られなかった。
今泉 影狼は妖精のことなど気にかけず湖の上を走り続けた。人間離れした体感と脚力を如何なく発揮し、滑ることも転ぶこともなくまっすぐと彼女がわかさぎ姫を見た地点まで走り続けた。
走りながら頭上高く大岩を抱え上げ、助走を付けたまま全力を込めてそれをその地点へと投げ落とした。大岩は凄まじい衝撃音と共に氷の上に打ち付けられ、高くワンバウンドして数m滑って制止した。
しかし氷は割れなかった。氷面には深さ数mm程度の傷跡ができた程度で、ヒビらしいヒビすらはえず、未だに湖は完全に氷に覆われたままだった。
今泉 影狼は再び大岩を頭上高く上げ、氷の傷跡めがけて再び力一杯に投げつけた。それでも割れず、みたび大岩を投げつけても氷は割れなかった。今泉 影狼は両膝を突いたまま岩を持ち、振り上げてから全腕力でそれを氷に叩き付けた。それでも割れないことを知ると再び岩を頭上に持ち上げ、再び力一杯に叩き降ろした。
今泉 影狼はこれを繰り返した。いつまでもいつまでも繰り返した。無心になって繰り返していたが、そのうち息遣いに声が漏れ出してきて、小声で「ひめ!ひめ!」とつぶやき始め、そのうちに「姫!!!姫!!!」と絶え間なく叫び続けた。
氷は一向に割れることはなく、ヒビの発生しそうな様子もなかったが、その傷だけは少しずつ大きくなり、だんだんと深く、広くなっていった。
空が赤らんだ。鈍い打撃音と叫び声は今も続いている。かすれた声だった。しかし、いきなりミシミシと鳴って、湖全体が振動した。大岩を持ち上げた途端、深さ10cm弱、幅半mまで広がった氷の傷跡が左右に何mも伸び、幾重にも枝分かれして巨大なヒビを形作った。
今泉 影狼の腕が止まる。今泉 影狼の叫びが止まる。
一縷のハイライトもなかった両瞳は突然にキラキラと輝き出し、笑顔に口元をほころばせた。彼女は力強く立ち上がり、頭上に持ち上げた岩を渾身の力を込めて振り投げた。
「姫!」
岩がヒビ割れた氷を殴り付ける。岩がバウンドしてメキメキと氷面がきしみ、衝突面から何本ものヒビが新しく伸びた。しかしまだ氷は割れなかった。今泉 影狼は再び大岩を持ち上げ、再びそこに投げつけた。
「ひめ!!」
再び大岩が激突した。ミシミシミシミシと大きくきしみ、衝突地点が数cm破断的に陥没し、周囲のヒビ割れが大きく揺れ、ヒビ割れた氷面が一瞬の間に互い違いに傾いた。しかし氷は割れなかった。厳密にはまだ砕けず、わかさぎ姫を引き上げられるだけの隙間はできていなかった。今泉 影狼は迷いなく大岩を一杯まで高く持ち上げ、間髪入れずに殴り放った。
「 ひ め !!!!!」
バゴォォォン!!!!!
破滅的な轟音。同時に足元の氷が半径10数m一斉に割れ、バラバラに砕けた。透き通った水が姿を現し、大岩と今泉 影狼は傾いた氷面から滑って水面へドボンと落下した。
「姫!姫!」
岩は沈み、上がってこなかった。氷点下の湖水に耳先まで完璧に沈んだ今泉 影狼は間もなく湖面から飛び出して、ずぶ濡れになったことも構わずに、はつらつとした笑顔で周囲を見渡した。
揺れる水面が赤く照り返す。ぶ厚い氷片と岸部は陽光に陰っていてよく見えない。西日はそんなに眩しくない。空も雲も赤く、雪も氷も、遠くにある西洋建築も、吐く息すら、うっすらと赤く染まっていた。弱い風と揺れる水の音だけが聞こえていて、わかさぎ姫の姿はどこにもなかった。
今泉 影狼はだんだんと表情を沈ませ、弱々しく口をつぐんだ。
「ひ、、、め、、、?」
見開かれた瞳孔、今泉 影狼は漏らすようにつぶやいた。間もなく彼女は目を閉じてひと息に水中にもぐり、目を開けて周囲を見回した。
氷点下の水の中、光があまり入らない、青暗い水中は遠くまではよく見えない。近場には小魚ばかりが泳ぎ、どこを見回してもわかさぎ姫は見つからなかった。ただ寒いばかりだった。
水の中で小さく口を開く。ぼこぼこと漏れ出た泡が頬を伝い、こめかみから水上へと昇って行った。
今泉 影狼は抵抗もなく浮かび上がり、再び湖面へと顔を出した。流れ込んだ水が口の中から流れ落ち、おぼろげに開かれた口をパクパク動かして声を出した。
「姫、ひめ、、、」
今泉 影狼は叫んだ。
「ひめぇぇぇぇええええ!!!!!!!!」
「どうしたの影狼ちゃん。」
今泉 影狼の叫びが止まった。唖然となり、首を右に捻る。
水面から肩まで飛び出させ、赤々とした陽光に照らされたわかさぎ姫が、きょとんと笑って彼女のことを見つめていた。
「やあ、どうしたの影狼ちゃん。そんなにいつまでも氷叩いてたらね、お魚さんに迷惑だよ。」
今泉 影狼は口を大きく開けて、目を丸めて、あからさまに笑って、わかさぎ姫を抱き締めた。もう絶対に離さない、逃がしてなるものかとでも言うように、強く、強く、強く抱き締めていた。
「ひめええええええええぇぇぇぇぇぇ!!!」
今泉 影狼は叫んで、わんわんと泣いた。ひめひめと泣いたかと思うと、再びわんわんと泣いて、泣きながら笑っていた。
わかさぎ姫は今泉 影狼に抱かれ、全身をミシミシときしませながら首を傾げていた。彼女はどこか脱力気に笑うと、今泉 影狼を優しく抱き締め返し、頭上に?を浮かび上がらせていた。
その後、今泉 影狼は普通に戻った。普通に喋り、普通にわかさぎ姫と談笑し、日が暮れた頃にまた明日会う約束を取り付けて普通に別れ、次の日の朝までぐっすりと眠った。
次の日の朝、今泉 影狼は愕然とした。
湖が全面、氷に覆われていた。
おわり
湖が全面、氷に覆われていた。
今泉 影狼はおぼつかない足取りで湖に近付き、恐る恐るとその表面に足を乗せた。
やはりそれは水面ではなかった。凍っていた。今泉 影狼はさらに1歩、足を踏み入れ、湖の上に直立した。
ガクリと首をうつむかせ、揺れる瞳で氷を見た。口をパクパクさせ真っ白な息で呼吸する。おのずと呼吸から音が漏れ出し、そのうちに言葉が聞こえてきた。
「ひ、ひ、、、ひめ。ひめ。。。姫、、、!」
顔を上げ、湖を見渡した。遠くにある2軒の西洋建築と雑多な妖精の他には雪と氷と雲しかない。氷点下に凍った水蒸気が東日に照らされて世界をかすみ、薄黄色い青空だけがそれらを見降ろしていた。
今泉 影狼は息を呑んだ。力なく溢れた涙が頬を伝ってあごから落ちた。
氷面に落下した涙は間もなく凍った。今泉 影狼は叫んだ。
「姫ええええぇぇ!!!」
今泉 影狼は叫びながら走った。「姫!姫!」と叫びながら氷の上をつま先を踏みしめて走り、何度も滑りながらも決して転ぶことなく、そこら中を見回しながら走り出した。
しかしそこでは無数の妖精たちが氷上追いかけっこと雪合戦または氷合戦と弾幕ごっこを展開していた。
今泉 影狼はその真っただ中に突っ込んだ。自身の前後を通り過ぎる妖精に次々と衝突して何度も何度も転倒した。しかし今泉 影狼は転がりながら立ち上がり走り続け、左右を飛び交う雪球や氷塊に何度も打ち付けられて、全身に雪と鮮血をまみれさせながら走り続けた。幾発もの弾幕を全身に浴び、舞い上がった氷のしぶきに呑み込まれてもなお、凸凹になった氷面を飛び跳ねて、かすむ視界をかき分け、未だに「姫!姫!」と叫びながら走り続けた。
今泉 影狼が突然止まった。叫びも止まり、目を丸めた。
今泉 影狼はわかさぎ姫を見た。
ぶ厚い氷を下から叩き、彼女の名を呼びながら助けを求めるわかさぎ姫の姿を今泉 影狼は見つけ出した。
「姫ええぇぇぇぇ!!!!!」
今泉 影狼は走った。彼女がわかさぎ姫を見たその地点まで走った。その場所に両手を突き、四つん這いじみた体制になり、ぶ厚い氷の向こう側で自身の名を叫ぶ彼女と向かいあって、わかさぎ姫の名を叫んだ。
気泡交じりの真っ白な氷越しにワカサギの姿など見えるのか、その声が聞こえるかといった当然の疑問はさて置いて、今泉 影狼は間違いなくわかさぎ姫を見た。わかさぎ姫の姿を鮮明に見て、その助けを求める声を鮮明に聞き取った。
救けを求めるわかさぎ姫の言葉を聞いて今泉 影狼は両手を氷に叩き付けた。
何度も何度も叩き付けた。
しかし傷ひとつない氷はビクともせず、トントンという乾いた音ばかりが、彼女の絶叫に掻き消された。
そのうち今泉 影狼は氷を叩くことを諦めて、その場に突っ伏し声を上げて泣いた。わんわんと泣いた。時にはひめひめと泣いたかと思いきや、やはり次にはわんわんと泣いた。
いつまでもいつまでも泣いて声を枯らして泣いた。あまりにも盛大に泣くため周囲の妖精が彼女を怪訝に見つめ始め、ヒソヒソ話の種となったが、それでも彼女は泣き続けた。
歩み寄って声を掛けてくれた緑髪のサイドテール妖精の手すら振り払ってまで、彼女はいつまでも泣いていた。
いつまでも泣き続けて、周囲の話題にもならなくなった頃、今泉 影狼の泣き声が止んだ。しくしくという息遣いがしばらく続いたが、しばらく経つとその音も聞こえなくなった。顔を隠すように突っ伏していた今泉 影狼は起き上がって氷面に座り、目元の赤く腫れた虚ろな瞳で、高く天上から照らし付ける白い太陽を力なく見上げた。
その瞳に怨念がこもっているような気がした。
今泉 影狼が立ち上がった。太陽を睨んだまま。
今泉 影狼が歩き出す。明らかに前は見ていない。太陽を睨んでいた。そんな彼女が再び妖精たちの注目の的となる。
今泉 影狼の正面を1匹の氷精が陣取っていた。彼女が歩き出すと氷精は彼女に声を掛け、止まるように命じる。しかし彼女はそんな氷精の制止には聞く耳を持たず、ぐんぐんとそれに接近した。
交渉の失敗を悟った氷精は迫り来る今泉 影狼に1歩2歩とたじろいたがそれだけでは間に合わなかった。
ついに氷精は今泉 影狼に接触し、押し倒され、踏みつけられ、最後には通り過ぎられた。
今泉 影狼の背後で緑髪のサイドテール妖精が氷精の名を叫びながらそれを揺り起こそうと試みている。氷精は一回休みとなった訳ではなく息もあったが起き上がらなかった。両目を×にしたまま悪夢でも見ているかのように唸っていた。緑髪のサイドテール妖精を含めた複数の妖精が氷精を抱え上げて飛んで行った。
今泉 影狼は明らかに前を見ず前進し続けていた。やがて氷が雪に変わり、彼女は湖面から湖畔に上陸した、しかしそれでも彼女は止まらず、だんだんと木々に呑み込まれて森の中へと入って行った。
茂みの中を歩き続ける、枝雪に覆われた太陽を睨みながら。ふいに何かがつま先に当たり、今泉 影狼は歩みを止めた。木漏れ日から目を逸らして足元を見降ろす。そこにはひと抱えほどもある巨大な岩が転がっていた。
ぎらぎらと輝く。
ゆっくりとかがみ、がっしりと掴み、今泉 影狼はゆっくりとその岩を抱え上げた。
今泉 影狼はぎらぎらと輝く瞳でその岩を見つめた。岩を見つめると次に、正面を見つめた。
間もなく彼女は機械的に180°反転して、もの凄い速さで走り出した。雪原を超え氷上に乗り、速度を緩めることなく、むしろ加速して走り続けた。
周囲から立て続けに少女の断末魔が上がり、妖精たちが彼女の前から飛び去って行く。その中に氷精の姿はない。遠くの湖畔で緑髪のサイドテールを始めとした複数の妖精が除雪をしていて、一ヶ所に雪を集めていた。そこにも氷精の姿は見られなかった。
今泉 影狼は妖精のことなど気にかけず湖の上を走り続けた。人間離れした体感と脚力を如何なく発揮し、滑ることも転ぶこともなくまっすぐと彼女がわかさぎ姫を見た地点まで走り続けた。
走りながら頭上高く大岩を抱え上げ、助走を付けたまま全力を込めてそれをその地点へと投げ落とした。大岩は凄まじい衝撃音と共に氷の上に打ち付けられ、高くワンバウンドして数m滑って制止した。
しかし氷は割れなかった。氷面には深さ数mm程度の傷跡ができた程度で、ヒビらしいヒビすらはえず、未だに湖は完全に氷に覆われたままだった。
今泉 影狼は再び大岩を頭上高く上げ、氷の傷跡めがけて再び力一杯に投げつけた。それでも割れず、みたび大岩を投げつけても氷は割れなかった。今泉 影狼は両膝を突いたまま岩を持ち、振り上げてから全腕力でそれを氷に叩き付けた。それでも割れないことを知ると再び岩を頭上に持ち上げ、再び力一杯に叩き降ろした。
今泉 影狼はこれを繰り返した。いつまでもいつまでも繰り返した。無心になって繰り返していたが、そのうち息遣いに声が漏れ出してきて、小声で「ひめ!ひめ!」とつぶやき始め、そのうちに「姫!!!姫!!!」と絶え間なく叫び続けた。
氷は一向に割れることはなく、ヒビの発生しそうな様子もなかったが、その傷だけは少しずつ大きくなり、だんだんと深く、広くなっていった。
空が赤らんだ。鈍い打撃音と叫び声は今も続いている。かすれた声だった。しかし、いきなりミシミシと鳴って、湖全体が振動した。大岩を持ち上げた途端、深さ10cm弱、幅半mまで広がった氷の傷跡が左右に何mも伸び、幾重にも枝分かれして巨大なヒビを形作った。
今泉 影狼の腕が止まる。今泉 影狼の叫びが止まる。
一縷のハイライトもなかった両瞳は突然にキラキラと輝き出し、笑顔に口元をほころばせた。彼女は力強く立ち上がり、頭上に持ち上げた岩を渾身の力を込めて振り投げた。
「姫!」
岩がヒビ割れた氷を殴り付ける。岩がバウンドしてメキメキと氷面がきしみ、衝突面から何本ものヒビが新しく伸びた。しかしまだ氷は割れなかった。今泉 影狼は再び大岩を持ち上げ、再びそこに投げつけた。
「ひめ!!」
再び大岩が激突した。ミシミシミシミシと大きくきしみ、衝突地点が数cm破断的に陥没し、周囲のヒビ割れが大きく揺れ、ヒビ割れた氷面が一瞬の間に互い違いに傾いた。しかし氷は割れなかった。厳密にはまだ砕けず、わかさぎ姫を引き上げられるだけの隙間はできていなかった。今泉 影狼は迷いなく大岩を一杯まで高く持ち上げ、間髪入れずに殴り放った。
「 ひ め !!!!!」
バゴォォォン!!!!!
破滅的な轟音。同時に足元の氷が半径10数m一斉に割れ、バラバラに砕けた。透き通った水が姿を現し、大岩と今泉 影狼は傾いた氷面から滑って水面へドボンと落下した。
「姫!姫!」
岩は沈み、上がってこなかった。氷点下の湖水に耳先まで完璧に沈んだ今泉 影狼は間もなく湖面から飛び出して、ずぶ濡れになったことも構わずに、はつらつとした笑顔で周囲を見渡した。
揺れる水面が赤く照り返す。ぶ厚い氷片と岸部は陽光に陰っていてよく見えない。西日はそんなに眩しくない。空も雲も赤く、雪も氷も、遠くにある西洋建築も、吐く息すら、うっすらと赤く染まっていた。弱い風と揺れる水の音だけが聞こえていて、わかさぎ姫の姿はどこにもなかった。
今泉 影狼はだんだんと表情を沈ませ、弱々しく口をつぐんだ。
「ひ、、、め、、、?」
見開かれた瞳孔、今泉 影狼は漏らすようにつぶやいた。間もなく彼女は目を閉じてひと息に水中にもぐり、目を開けて周囲を見回した。
氷点下の水の中、光があまり入らない、青暗い水中は遠くまではよく見えない。近場には小魚ばかりが泳ぎ、どこを見回してもわかさぎ姫は見つからなかった。ただ寒いばかりだった。
水の中で小さく口を開く。ぼこぼこと漏れ出た泡が頬を伝い、こめかみから水上へと昇って行った。
今泉 影狼は抵抗もなく浮かび上がり、再び湖面へと顔を出した。流れ込んだ水が口の中から流れ落ち、おぼろげに開かれた口をパクパク動かして声を出した。
「姫、ひめ、、、」
今泉 影狼は叫んだ。
「ひめぇぇぇぇええええ!!!!!!!!」
「どうしたの影狼ちゃん。」
今泉 影狼の叫びが止まった。唖然となり、首を右に捻る。
水面から肩まで飛び出させ、赤々とした陽光に照らされたわかさぎ姫が、きょとんと笑って彼女のことを見つめていた。
「やあ、どうしたの影狼ちゃん。そんなにいつまでも氷叩いてたらね、お魚さんに迷惑だよ。」
今泉 影狼は口を大きく開けて、目を丸めて、あからさまに笑って、わかさぎ姫を抱き締めた。もう絶対に離さない、逃がしてなるものかとでも言うように、強く、強く、強く抱き締めていた。
「ひめええええええええぇぇぇぇぇぇ!!!」
今泉 影狼は叫んで、わんわんと泣いた。ひめひめと泣いたかと思うと、再びわんわんと泣いて、泣きながら笑っていた。
わかさぎ姫は今泉 影狼に抱かれ、全身をミシミシときしませながら首を傾げていた。彼女はどこか脱力気に笑うと、今泉 影狼を優しく抱き締め返し、頭上に?を浮かび上がらせていた。
その後、今泉 影狼は普通に戻った。普通に喋り、普通にわかさぎ姫と談笑し、日が暮れた頃にまた明日会う約束を取り付けて普通に別れ、次の日の朝までぐっすりと眠った。
次の日の朝、今泉 影狼は愕然とした。
湖が全面、氷に覆われていた。
おわり
まあでも東方の姫は永遠をつかさどるものですしね
湖が冬に凍るのは単なる自然現象なんだから、その辺わかさぎ姫はちゃんと影狼に教える責任がある
友のピンチにIQが4分の1になる影狼が必死過ぎて楽しくなってきました
そして今日もまた繰り返すのですね