< 序章 >
―紅魔館の図書館。
パチュリー・ノーレッジは、書斎で一冊の本を開いていた。
頁を捲る小さな音だけが、広大な図書館に微かに響いている。
―静寂。
それは、長い年月にわたって何度も繰り返されてきた、見慣れた光景。
だが、そこには欠けているものがあった。
常に傍に控えているはずの使い魔の気配が、どこにもない。
「やあ。また本を読ませてもらうよ」
その声に、パチュリーはゆっくりと顔を上げた。
美しい銀色の長髪に、真紅の瞳の女性。
―そこに立っていたのは、藤原妹紅だった。
「…どうぞ」
それだけ答えると、再び視線を本へ戻す。
妹紅も特に気にした様子はなく、本棚から適当な一冊を抜き取った。
再び、訪れる静寂。
二人の間に流れる沈黙は、居心地の悪いものではなかった。
言葉を交わさずとも成立する、長い付き合いの末に残った空気だった。
「…外は、相変わらず?」
パチュリーは本から目を離さぬまま、問いを投げた。
「ああ。静かなもんだ」
妹紅はそう言って、少し間を置いた。
「もう、あんたと私しか居ないんじゃないか、ってくらいにな。
―『あいつら』も…随分前に、去ってしまったしな…」
その言葉とともに、妹紅はわずかに顔を伏せた。
声色には、抑えきれない影が差していた。
「…そう」
パチュリーもまた、無意識のうちに声を落として応じる。
妹紅の言う『あいつら』が誰を指しているのか、想像はついた。
因縁深い、同じく不老不死の身を持つ者と、その従者たちだろう。
―頭の中で、自然と過去が呼び起こされる。
◆
―パチュリーたちが紅魔館とともに幻想郷へと移り住んでから、約百年が経った頃。
外の世界で、人間同士による大規模な戦争が勃発した。
詳細は、もはや誰にも分からない。
だが、恐らく、人類の大半が死滅するほどの規模だったようだ。
その影響は甚大だった。
幻想郷は、博麗大結界によって外の世界の人間たちの「非常識」を取り込み、
それを幻想郷の「常識」へと変換することで成立していた。
その大元となる人間そのものが、ほとんど死に絶えた。
結果として、「常識」も、「非常識」も、支える基盤を失った。
―そして。
神話や民俗、信仰や噂といった、人の想念によって生じた妖怪たちは
その存在を維持できなくなり、消えていった。
それから、さらに百年以上の時が流れた。
もはや、この図書館を訪れる者はほとんどいない。
たまに、妹紅がこうして本を読みに来る。それだけが、外界との細い繋がりだった。
広大な図書館は今も変わらずそこに在り続けている。
だが、その静けさは、世界が終わった後に残された、空白そのものだった。
パチュリーは頁を閉じることなく、ただ静かに、過ぎ去った時間の重さを噛み締めていた。
◆
しばらくの間、沈黙が続いた。
広大な図書館の中で、微かに聞こえるのは、二人がそれぞれ頁を捲る音だけだった。
…大図書館では、かつて外の世界から書物を無作為に取り込み、徐々に、ゆっくりと蔵書を増やし続けていた。
だが、外の世界そのものが滅び、博麗大結界も失われたことで、
新たな本が生まれることも、ここへ辿り着くことも、もはやない。
パチュリーは、この図書館にある書物を、ほぼすべて読み尽くしていた。
魔導書に限らず、歴史書、哲学書、文学、科学書。
人類が遺した知の痕跡を、彼女は等しく辿ってきた。
紅魔館と図書館を維持するための時間魔法、空間魔法も、
かつて仕えていた人間のメイドから引き継ぎ、すでに完全に体系化している。
術者である自分がいなくなっても、館が機能し続けるよう、既に整え、準備し終えていた。
自身が修めた魔法についても、すべて魔導書として書き残し終えている。
思考も、理論も、試行錯誤の痕跡も。
「―私は、すべての本を読み終えたら…その先は、どうすればいいのだろうか」
それは誰に向けた言葉でもなかった。
純然たる、自問だった。
もちろん、魔法の研究はこれまでも続けてきたし、これからも続けていく。
それは彼女にとって、呼吸をするのと等しく、自然な営みだった。
ただ、それだけでは、もはや朝を迎える理由にならなくなっていた。
以前なら、こんな疑問は浮かばなかっただろう。
孤独を厭わず、周囲を一切顧みず、自分の内なる世界に没頭する。
それだけで、十分だった。
だが、世界が破壊し尽くされ、彼女にとって大切だった多くの存在が、ことごとく失われた。
目を覚ませば続いているはずだった日常が、もはやどこにも見当たらなかった。
その現実を前にして、これからどう生きていけばいいのか。
その答えを、パチュリーは見いだせずにいた。
―頭の中で呟いたつもりだった。
だが、どうやらそれは、自然と声に出ていたらしい。
「何でもすればいいじゃないか」
妹紅の声が、静寂を破った。
「もう博麗大結界はなく、出入りは自由だ。外の世界がどうなったのか、つぶさに観察するのもよし」
そう言って、妹紅はほんのわずかに笑みを浮かべた。
「…もしくは、あんたは自分でも本を書くんだろ?今度は、自分の本で本棚を埋めてやればいい。
魔導書に限らなくてもいい。趣味の本でも、自伝でも、何でもいいじゃないか」
パチュリーは、しばし考え込んだ。
自分にとって、あまりにも辛い出来事が多すぎた。
それらから逃れるように、経年劣化を防ぐために魔法で紅魔館の時間を止め、
さらに外界から姿を隠す結界を張り、内に籠もってきたのだ。
…外の世界を、観察する。
この身体では、恐らく、大きなリスクを伴うだろう。
それでも…生きる意味を見出せないまま、永遠の時を過ごすのは、それこそ死と変わらないのではないか。
一度、向き合い直してもいい頃なのかもしれない。
パチュリーは、静かに決心した。
外の世界へ旅立ち、その行く末がどうなったのか自分の目で見届け、
その先に、生きる意味を見い出そう、と。
< 第一章 彷徨 >
パチュリーは、西へ向かって空を飛びながら、眼下に広がる外界の様子を静かに見下ろしていた。
空を切る風の冷たさを肌に受けつつ、視線は常に地表に向けられている。
人間同士の大戦が終結してから、すでにおよそ百年が経っているため、
都市や街道は今や緑に覆われ、廃墟の輪郭すら曖昧になりつつあった。
自然は、ゆっくりと、しかし確実に領土を取り戻していた。ところどころには、野生動物の姿も見えた。
旅に出てから一週間ほどが過ぎた頃。
パチュリーは、朽ちた建造物を整備し利用した、人間の集落らしきものを発見した。
粗末な衣服を身にまとった人間たちが、慎ましく生活している。
規模は小さいが、畑と呼べる程度の耕作地も見受けられた。
―まだ、人間が生きている…!
その事実に、彼女の胸の奥で、わずかな波紋と動揺が広がった。
パチュリーは静かに地へ降り立ち、自身に魔法を施す。彼らと同じような服装に錯覚させる幻惑魔法だった。
集落へと歩み寄る。やがて、数人がその存在に気づいた。
「誰だ!」
鋭い声が飛び、警戒の色が一斉に広がる。
パチュリーは足を止め、両手を静かに上げた。
「…私は旅の者です。もしよろしければ、少し休ませていただけませんか」
声色は柔らかく、害意のなさを示すよう慎重に言葉を選ぶ。
人々は互いに顔を見合わせたが、目の前にいるのが力のなさそうな少女にしか見えなかったためだろう。
やがて、無言のうちに頷き合い、彼女を受け入れた。
◆
集落の中では、子どもたちが駆け回って遊んでいた。
時折、見慣れぬ来訪者であるパチュリーをちらりと見ては、不思議そうに首を傾げる。
だが、それ以上踏み込んでくることはなく、すぐにまた遊びへと戻っていった。
「疲れたろう。こんなものしかないけれど、お飲みよ」
中年女性が、ステンレスと思われるへこんだコップに入った白湯を笑顔で差し出してくれた。
パチュリーは礼を言って受け取り、一口すする。その暖かさは、空を飛んで冷えた身体に心地よく染み渡った。
パチュリーはこの集落に滞在する間、人々の話に耳を傾けた。
百年前の戦争で、ほとんどの人間は死に絶えた。
だが、わずかに生き残った者たちが、こうして小さなコミュニティを築き、細々と暮らしているのだという。
その生き方は、大きく二つに分かれていた。
ひとつは、農耕を行い、定住して生きる者たち。
もうひとつは、そうした集落を襲い、略奪によって糧を得る者たち。
ここにいる人々は前者であり、常に後者の襲撃に怯えながら日々を過ごしているのだと語った。
―そう言われて、ふと思い至った。
集落の離れに存在する、木の棒を十字に括り付けただけの簡素な墓標。
…その数が、やけに多いとは思っていた。
さらに、もうひとつ。
彼らの間では、すでに宗教や神、自然崇拝といった概念は失われていた。
この地獄のように過酷な世界で、祈りが何の救いにもならなかったことを思えば、無理もない話だった。
「嬢ちゃんみたいな別嬪さんが、外をうろついていちゃ危険だよ。
ここで、私たちと一緒に暮らさないかい?」
善良で人の良さそうな中年女性のその提案を、パチュリーは礼を失さぬよう、丁寧に断った。
◆
しばらく滞在した後、彼女は礼を述べ、集落を後にした。
再び空へと舞い上がり、集落から離れ上空を進んでいると、地上を移動する人間の集団が視界に入った。
それぞれが手に、槍や刃物のような即席の武器を携えている。
その進行方向は、先ほど立ち寄った集落と一致していた。
―あれが、略奪者たちか。
パチュリーは宙で静止する。どうすべきか少し考えた後―複雑な詠唱を紡いだ。
彼女の頭上に魔力の粒子が収束し、相互に反応を起こし、灼熱の疑似太陽―ロイヤルフレアが形成される。
圧倒的な魔力の凝縮体が、周囲の空気を歪ませた。
今まさに魔法を放とうとしたその時。
その集団の中に、粗末な槍のようなものを握る小さな子供が混じっているのが見えた。
よく見ると、背に赤子を背負った、痩せ細った女の姿もあった。
「…」
パチュリーは、詠唱を中断した。
頭上の疑似太陽は霧散し、跡形もなく消える。
―私に、彼らの生き死にを裁く資格はない。それは、ただの傲慢に過ぎない。
パチュリーは心の中でそう呟く。
―脳裏に、親切にしてくれた集落の人間たちの顔が一瞬浮かんだ。
思わず拳を握りしめる。その手が、僅かに震えた。
だが、それらを振り切るように、そのまま空を切って飛び、先へと進んだ。
略奪者の集団の、遥か頭上を越えて。
◆
パチュリーはあてもなく、ただひたすらに一方向へと飛び続けていた。
目的地があるわけではない。風の流れに身を委ねるように、大地を横切っていく。
その時、不意に、空気の質が変わった。
強烈な魔力の奔流。
それは彼女自身と拮抗するか、あるいは下手をすれば凌駕しかねないほどの濃度を持っていた。
驚愕と警戒が、ほぼ同時に胸中を満たす。
一体、何者なのか。もしこれが敵意を伴う存在であれば、戦いは避けられないだろう。
そうなれば、無傷で済む保証はどこにもない。
だが、それでもなお、好奇心が勝った。
この荒れ果てた大地で、妖怪の多くが消え失せた今、これほどの力を有する者がなお存在している。
その事実を、この目で確かめずにはいられなかった。
パチュリーは魔力の源を辿り、その気配の中心へと飛翔し、やがて地へ降り立った。
「貴方は…!」
思わず声が漏れた。そこに立っていたのは、
金と紫のグラデーションが入った長髪に、金色の瞳を持つ、擦り切れた外套をまとった僧侶の姿だった。
―聖白蓮。
その名が、記憶の底から静かに浮かび上がる。
「これは…お変わりなさそうで、何よりです」
白蓮は目を細め、穏やかな微笑を浮かべた。長い歳月を経ても、その眼差しに曇りはない。
「ええ。貴方もね…」
短い応答ののち、白蓮は静かに言葉を継ぐ。
「貴方と再び言葉を交わすのは、あの『戦争』以来でしょうか。
まさか、このような形で再会できるとは…これも、御仏のお導きでしょう」
そう言って、彼女は胸の前で静かに手を合わせた。
その言葉を聞いた瞬間、パチュリーの内奥に封じ込めていた記憶が、不意に呼び覚まされる。
抑え込んでいたはずの光景と感情が、堤を越えて溢れ出し、彼女は思わず顔を歪めた。
◆
―人類が滅び、多くの妖怪が消え去った。
残ったのは、神話や伝承に由来しない、血肉を持ってこの世に生を受けた妖怪たちだった。
かつて幻想郷では、妖怪が人里の人間を喰らうことは禁忌とされていた。
その代替として、境界を操る賢者によって、外の世界から「食料」が供給されていた。
自ら命を絶とうとした人間たちである。
だが、その供給は途絶えた。
やがて、人間という限られた存在を巡って、血で血を洗う争いが始まった。
人を喰らう妖怪。
人喰いだが、それを良しとしない妖怪。
人間を守ろうとする妖怪と、その人間たち。
それぞれの正義と生存本能が衝突し、争いは戦争へと拡大した。
スペルカードルールという抑制が外れた、文字通りの殺し合い。
その戦いは、凄惨を極めた。
その結果、さらに多くの妖怪と人間が消えていった。
戦火の余波は幻想郷の地を荒廃させ、博麗大結界は消滅した。
パチュリーは、その戦いの中で、かけがえのない存在を幾人も失った。
パチュリー自身も、多くの妖怪たちをその手に掛けた。
生き残ったわずかな妖怪、あるいは戦いを静観していた妖怪の多くは、
かつて幻想郷と呼ばれた地を去っていった。
その中には、友人の人形遣いの姿もあった。
恐らく彼女は、変わり果てたこの地を見るのが、耐え難かったのだろう。
―それ以降、冥界や地獄といった異界への道は閉ざされた。
聖白蓮は、人間を守る側に立ち、その力を惜しみなく振るったのだった。
◆
「…申し訳ありません。辛い記憶を…呼び覚ましてしまいましたね」
白蓮は一瞬だけ言葉を詰まらせ、わずかに視線を落としてから、静かに頭を下げた。
その所作には、形式的な謝意ではない、確かな悔恨が滲んでいた。
「…いいのよ。それより、貴方は何をしているの?」
話題を逸らしたつもりだったが、その声音には疲労の影が残っていた。
「私は、人々を救済するために各地を巡り、御仏の教えを説いています」
白蓮は真っ直ぐに答えた。その眼差しには一切の迷いがなかった。
自らの歩む道が定まっている者だけが持つ、揺るぎない確信がそこにあった。
「―そういう貴方は、なぜ外の世界へ出たのですか?
てっきり、昔と同じように図書館に籠もっているものとばかり」
その言葉に皮肉めいた響きはなかった。むしろ率直な疑問だった。
それでも、その問いはパチュリーの胸に小さく、しかし確かに刺さった。
「…」
パチュリーは、答えられなかった。
外の世界を巡り、その果てを見届け、何が見つかるのだろうか。
「貴方は、この世界で何を求め、生きているのでしょうか」
禅問答というにはあまりにも素朴な問いだった。
だが、その一言は、殴られたかのような衝撃をもって、パチュリーを揺さぶった。
なぜ、自分は生きているのだろうか。
「…分からない」
沈黙ののち、パチュリーはそう口にした。
「それを見つけるために、私は、旅をしている…」
取り繕うこともなく、逃げることもなく、ただ事実として吐露する。
「そうですか…」
白蓮はそう言うと、目を伏せた。
「いきなりの不躾な質問、謝罪いたします。
人であれ妖怪であれ、誰しも、迷いを持って生きるもの…。
御仏もまた、かつては迷い、苦しみ抜いた末、煩悩と無明から脱却し、悟りを開いたのですから」
白蓮の浮かべる笑みは、慈愛に満ちていた。
「もし進む道に迷っているのであれば、一度、ご自身の縁の地を訪ねてみてはいかがでしょうか。
さすれば、何か見つかるかもしれません」
その言葉とともに、パチュリーの脳裏に生まれ故郷の風景が浮かんだ。
英国、ハムステッド。落ち着いた、閑静で、緑に満ちた住宅街。
だが、そこに懐かしさはなかった。郷愁と呼べる感情は、もはや何一つ残っていなかった。
「…ありがとう。そうしてみるわ」
「貴方の行く末に、御仏の祝福がありますように」
白蓮は再び合掌し、深く頭を下げた。
< 第二章 故郷 >
「これで…よし、と」
パチュリーは、落ちていた木の枝で描いた五芒星を見下ろし、小さく頷いた。
円環と星が歪みなく描かれていることを確かめ、その中心に静かに立つ。
詠唱が始まると、五芒星を縁取る円が淡く光を放った。
次第に周囲の空気が震え、風が渦を巻き始める。
その風は、彼女の豊かな紫の髪を持ち上げ、ゆるやかに揺らした。
―瞬間。
パチュリーの足は地を離れていた。
周囲には何もない。空だけが、どこまでも広がっている。
「…どうやら、上手くいったようね」
パチュリーは転移魔法によって、ロンドン上空へと移動していた。
万一の事故を避けるため、転移先の座標は地表ではなく、空中を指定した。
眼下を見下ろしても、濃い霧が視界を遮り、地上の様子は分からなかった。
やがて、風に押されるように霧が流れ、徐々にその全貌が露わになる。
「…!!」
パチュリーは、息を呑んだ。
視界いっぱいに広がっていたのは、巨大なクレーターだった。
そこには、ロンドンの街の面影は、一切残されていなかった。
―これは、「太陽の兵器」。
私のロイヤルフレアと同じ原理を用いて、人間の手によって作られた、最凶最悪の爆弾。
それを、ロンドンに…。
クレーターの周縁をよく見れば、かつて建物だったものの残骸が、わずかに点在している。
それは、この圧倒的な破壊力の一端を、雄弁に物語っていた。
しばらく呆然とその光景を見つめていたパチュリーは、はっと我に返った。
「…ハムステッドは…?」
肝心の生まれ故郷は、どうなったのだろうか。
答えを求めるように、彼女は北へ向かって飛び立った。
◆
ロンドン北部に位置するハムステッド。
知識層が集い、節度と教養を身に纏った人々が暮らす、静謐な高級住宅街。
通りには手入れの行き届いた邸宅が並び、石畳と街路樹が、英国社会の安定と自負を語っていた。
―そう、かつては。
パチュリーはこの街で、ごく普通の中産階級である、弁護士と教師の夫婦のもとで産まれ、育った。
ロンドンの外縁部にあたるこの一帯は、爆心地から距離があったためだろうか。
往時の面影は流石に色褪せていたが、それでも建物の多くは辛うじて形を保っていた。
崩壊し尽くした都市の只中にあって、ここはまだ「街」と呼べる輪郭を留めている。
―人が、いる。
そこでは、人間たちが通りを行き交い、店先では商品が並べられ、路傍では幾人かが言葉を交わしていた。
目を凝らせば、衣服も建築も、日本で見たコミュニティよりは明らかに整っていた。
完全に失われてはいない文明の残り香が、そこには伺えた。皺ひとつないスーツに身を包んだ紳士の姿すらあった。
「…」
パチュリーは静かに地上へ降り立った。
日本の時と同様、幻惑の魔法を自身に施し、周囲に溶け込む装いに錯視させる。
彼女自身が英国出身である以上、外見に違和感が生じることはない。
◆
歩き回るうちに、このコミュニティの規模が想像以上であることが分かってきた。
小さな集落などではない。一つの街と呼ぶに相応しかった。
人々は比較的身なりが整っており、文明水準も中世後期から産業革命前夜程度には達しているように見える。
崩壊後の世界にしては、あまりにも秩序だった光景だった。
ふと、その中で異様に浮いた存在が目に入った。
周囲の整然とした建物とは対照的に、崩れかけ、打ち捨てられたような教会らしき施設。
引き寄せられるように近づき、内部を覗き込む。
―鼻を突く、強烈な異臭。
そこに広がっていたのは、異様な光景だった。
浮浪者と思しき者たちが、汚れたぼろ布を纏い、床に座り込み、あるいは横たわっている。
咳き込む病人の姿もある。白く漂う煙は、阿片か、それに類するものだろうか。
どのような時代、どのような世界であれ、貧富の差は必ず生まれるようだ。
奥に据えられていたマリア像は首を折られ、十字架はえぐり取られ、逆さに立て掛けられていた。
荘厳であるはずのステンドグラスには、赤いペンキのようなもので無造作に大きなバツ印が描かれている。
信仰と祈りを捧げる神聖な場とは、到底思えなかった。
―この地でもまた、人間たちにとっての神は、既に死んでいるようだった。
パチュリーは踵を返し、足早にその場を離れようとした。
その瞬間だった。
乾いた音が空気を裂いた。銃声―そうとしか思えない音。
◆
散発的に響く銃声。人々の怒号と、悲鳴。
街は一瞬で混乱に陥った。人々が、巣を突かれた蟻のように四散して逃げ惑う。
反対側から、制服に身を包んだ集団が銃を掲げ、隊列を組んで侵攻してくる。
やがて、市民服の集団が銃を手にして、建物や樹木を盾に、応戦を始めた。
銃はいずれも簡素な単発式だが、過去の遺物ではない。明らかに、この時代、この環境で製作されたものだった。
―内戦か、あるいは革命か…?
だが、どちらであろうと、結論は同じだ。パチュリーは小さく首を振り、息を吐いた。
そのとき、甲高い金属音が鳴り響き、背後の教会の壁に銃弾が突き刺さった。
流れ弾が彼女の魔法障壁をかすめ、軌道を逸れたのだ。
…ここには、求めるものは何も無い。
そう判断するのに、迷いはなかった。パチュリーは宙へ浮き、その場を離脱する。
背後では、人間たちの悲鳴と銃声が入り混じった狂騒曲が、
かつて彼女の故郷であった街を満たしていた。
◆
―ディーンの森。
パチュリーは、かつて紅魔館が存在していた森を訪れていた。
人の手がほとんど入らなかったせいか、森は原形を留めていた。
枯れた針葉が一面に広がっている。重なり合う枝葉の隙間から鈍い光が差し込んでいた。
あるいは一度、すべてが焼き払われた後、百年という月日によって、自然と再生したのかもしれない。
いずれにせよ、ここに人為の痕跡は乏しかった。
紅魔館は、今は日本に存在している。この地に残されているはずのものなど、何ひとつない。
理屈ではそう理解していながら、それでもパチュリーは、抗い難い引力に導かれるように歩みを進めていた。
やがて、針葉樹の木立が途切れる。
視界が開けた先に広がるのは、かつて紅魔館が建っていた広い空き地だった。
当然ながら、建物の影はない。だが、その中心に、人影があった。
そしてその人物の前には、簡素な墓標が二つ、並んで立っていた。
その姿を認めた瞬間、パチュリーは驚愕した。
白いシャツに、黒いベストとスカート。
燃えるような赤い長髪。
そして、頭と背に生えた黒い羽。
それは、記憶に刻み込まれた使い魔―小悪魔の姿と、寸分違わなかった。
「こあ…!」
抑えきれず、思わず大きな声で呼びかけた。
「ど、どうして…?死…消えた、はずじゃ…」
言葉が喉に詰まる。その手が、小さく震えた。
声に反応し、その人物はゆっくりと振り向いた。
顔立ちも、佇まいも、瓜二つだった。
だが、その小悪魔そっくりの女性は、わずかに首を傾げ、淡々と問い返した。
「貴方は…誰ですか?」
◆
事情を語り終えたパチュリーの前で、小悪魔の姿をした人物は、顎に手を添え、思案するような素振りを見せた。
その一挙手一投足は、かつての使い魔そのものだったが、表情には感情の揺らぎがほとんど見られなかった。
「なるほど…経緯は理解しました」
そう前置きした後、彼女は静かに告げる。
「ですが、私は貴方の言う『こあ』ではありません」
拒絶でも否定でもない、事実を淡々と告げた。
「貴方が契約していた『こあ』は、貴方を庇い、消滅した。ですが、それは死ではありません。
いわば、この世界に召喚された、ひとつの分霊が消えたに過ぎない…」
彼女は墓標に一瞬だけ視線を落とし、続ける。
「悪魔の本体は魔界に存在します。そして今また、分霊である私がこの地に召喚されたのです」
◆
小悪魔は、自身の経緯を語り始めた。
一年前。イギリスでは、生き残った人間たちは二つの勢力に分かれ、長きにわたる争いを続けていた。
ひとつは、巨大な爆心地を拠点とする悪魔崇拝者のカルト集団。
もうひとつは、ハムステッドを根拠地とし、自らをイギリス王室の血を引くと称する『キング』に率いられた集団だった。
後者は、限定的ながらも秩序と文明を維持しており、前者は次第に追い詰められていった。
劣勢を覆すため、カルト集団の教祖は禁じ手に踏み込む。悪魔召喚の儀式だった。
パチュリーはそこまで聞いて、一瞬、思索に耽った。
―本来、悪魔召喚とは、深い魔法知識と厳密な条件を要する行為である。
月の満ち欠け、星の並び、供物、緻密な魔法陣。
そのすべてが揃って初めて成立するものであり、素人の人間に扱える代物ではない。
これは推測に過ぎないが―
莫大なエネルギーが放出され、数十万の命が一瞬で失われた、爆心地というその特異な環境。
それが、現世と魔界の距離を縮める何らかの空間異常を発生させ、偶然にも召喚が成立してしまったのではないか。
召喚された小悪魔の力を頼りに、教祖は全面戦争を仕掛けた。
しかし、素人だったためか、その契約は不完全だった。
その隙を見抜いた小悪魔は、契約の不備を突いて戦いに介入することなく、ただ事の成り行きを見守った。
―そして、悪魔崇拝者たちは滅び去った。
◆
語り終えた小悪魔は、口を閉じた。
森には風の音だけが残り、墓標の前で、時間だけがゆっくりと流れていた。
「…なるほど。私がハムステッドで目にした集団は、その戦いに勝利した側だった、というわけね。
けど、内戦が起きているように見えたわ」
パチュリーは静かに問いを投げた。
「あぁ…あれは、『キング』が暴政を敷いた結果、革命が起き、市民軍と衝突しているようです。
カルト集団と争っていた頃は、英邁な指導者と評されていたようですが…」
小悪魔の淡々とした説明を聞きながら、パチュリーは胸の内で人間の愚かさを小さく嘲笑った。
どうやら、第二のマグナ・カルタとはいかなかったようだ。
飢餓に直面し、限られた食料を巡って争うのであれば、まだ理解の余地はある。妖怪すら、そうだったのだ。
だが、種そのものが絶滅の淵に立たされてなお、権力という名の魔力に囚われ、暴政を敷く。
その挙げ句、過去と何一つ変わらぬ流血の闘争を繰り返す。
―これはもはや、個人の過ちではない。
人間という種に深く刻み込まれた、逃れ得ぬ因果なのかもしれなかった。
それにしても…。
パチュリーは改めて目の前の小悪魔を見つめた。
―あまりにも、似すぎている。
否応なく、かつての日々が脳裏をよぎる。
紅魔館の図書館で、いつもそばに控えていた存在。
自分にとって、家族ともいえる、小さな悪魔の姿。
「…私には、以前の私の記憶が、ほんの僅かですが、断片的に残っています」
小悪魔はそう言うと、静かに墓標へと視線を向けた。
パチュリーもまた、その視線に導かれるように墓標を見る。
そこには、かつての親友と、その妹の名が刻まれていた。
「これは…」
思わず息を呑む。
同時に、過去の様々な想い出が、刹那の閃光のように脳裏を駆け抜けた。
「おそらく、術者の召喚術が不完全だったのでしょう。その影響で、以前の私の記憶が混線してしまった。
この二つの名前が、どうしても頭から離れず…この地で、弔わねばならない、と。
そうしなければならない、という強い意志だけが、残っていたのです」
小悪魔は感情を滲ませることなく、ただ墓標を見つめ続けていた。
―姿形は、かつての小悪魔と寸分違わない。
だが、明確な違いがあった。
以前の小悪魔は、人懐っこく、無邪気に慕い、感情を隠そうともしなかった。
笑い、怒り、泣き、明るく振る舞う存在だった。
一方、今ここにいる小悪魔は、常に一定の距離を保ち、冷静で、感情を表に出さない。
そこには、どこか人を寄せつけない冷たさがあった。
―だが、それでも構わなかった。
「…貴方は今、召喚者を失い、独りなのでしょう。もしよければ…私と一緒に来ない?」
パチュリーは、慎重に、だがはっきりと提案した。
「…私は、貴方の記憶にある私ではありません。あくまで、別の存在です」
小悪魔は視線を逸らさずに続ける。
「以前の私は、貴方と強い絆で結ばれていたのでしょう。ですが、その関係性を、私に押し付けられても困ります。
―それでも、いいのですか?」
その冷徹な眼差しが、パチュリーを射抜いた。
もちろん、心のどこかで、かつての小悪魔の面影を求めてしまう自分がいることも、否定はできなかった。
だが―
パチュリーは、再び墓標に視線を向ける。もし、あの吸血鬼の親友がここにいたなら。
きっと、いつものように、にやりと笑みを浮かべ、愉しげにこう言ったに違いない。
『かつての使い魔と同じ姿をした悪魔と、かつて紅魔館が存在したこの場所で再会する―
面白いじゃない。それこそ、運命かもね』と―。
そう、運命を感じざるを得なかった。
それに、互いに独りで生きている者同士。
であれば、共に生きよう、という申し出は、あまりにも単純で、自然な選択だった。
「ええ、貴方は貴方よ。それは、ちゃんと弁えているわ」
パチュリーの言葉に、小悪魔は一度目を伏せ、沈黙の中で思考を巡らせた。
やがて、静かに目を開き、小さく頷く。
「―かしこまりました。であれば、貴方にお仕えしましょう。―パチュリー様」
そう告げて、恭しく一礼する。
その場で、パチュリーは小悪魔と契約を交わした。
パチュリーが死ぬまで、傍にいること。
パチュリーが死した後、その魂を小悪魔に捧げること。
そして―
< 第三章 知識 >
パチュリーは小悪魔を伴い、イギリスを発ってドーバー海峡を越えた。
荒廃した大地を縫うように各地を巡り、彼女たちは進路を東へと定め、終わりの見えない旅を続けていた。
―バチカン市国。
かつてカトリック教会の総本山として、世界に絶対的な影響力を誇ったこの都市は、
周囲の地域と比して被害が少なく、なお多くの建造物が原型を保っていた。
さすがに、人間たちにとってもこの地を完全に破壊し尽くすことには、どこか躊躇いがあったのだろうか。
だが、その考えは、南東部に広がるサン・ピエトロ広場へ足を踏み入れた瞬間、無残に打ち砕かれた。
広場の中央にそびえ立つ象徴的なオベリスクは、爆撃を受けたのだろうか。
その胴は真ん中から無惨に折れ、表面には黒く焦げついた痕跡が生々しく残っていた。
そして―
まるで、そのオベリスクそのものを巨大な墓標と見立てるかのように、
根元には夥しい量の人骨が積み上げられていた。
白く乾いた骨の山は、沈黙のうちに、この地で起きた惨禍のすべてを物語っているかのようだった。
「パチュリー様…これは…」
小悪魔がその惨状を見て、立ち尽くした。
「…」
パチュリーもまた、言葉を失っていた。
だが、ここで何が起きたのかを想像することは、決して難しくはない。
この聖域においても、戦禍は容赦なく牙を剥いたのだ。
そのとき、視界の端で、かすかな動きがあった。
広場の片隅で、一人の人間の女性が膝をつき、白骨の山に向かって花束を供えていた。
祈りとも弔いともつかぬ、静かな所作。
こちらの存在に気づいたのか、その手がぴたりと止まる。
彼女は怯えたように身を翻し、背を向けると、逃げるように広場を後にした。
小悪魔は、取り残された花束に視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
「…行きましょう」
パチュリーは、それ以上、何も言わなかった。
◆
二人はサン・ピエトロ広場に面した、崩れかけの大聖堂の側廊を抜け、宮殿区画へと足を踏み入れた。
壁面を覆う宗教画、随所に配された天使像。
外観も内装も往時の姿を保っており、略奪や破壊の痕跡はほとんど見受けられなかった。
「…」
歩を進めながら、パチュリーは胸中で冷ややかな笑みを浮かべていた。
かつて魔女狩りを主導し、異端を焚書と火炙りの刑で排除してきたカトリック教会の総本山。
その頂点に立つローマ教皇の居城を、今や魔女と悪魔が我が物顔で闊歩している。
なんとも、皮肉に満ちた光景ではないか。
やがて、二人は目的の場所へと辿り着く。
―バチカン図書館。
宮殿内に存在するこの世界最古の図書館は、百万冊を超える蔵書と膨大な写本を擁し、
さらに文書室には、ローマ教皇が私有する数百万点に及ぶ記録が眠る、
人類史の記憶そのものとも言える場所だった。
「―まさに、奇跡ね。ほとんど無傷で残っている…」
パチュリーは、思わず呟いた。
視界いっぱいに広がる書架。
整然と並ぶ書物と文書は、かつての姿をそのまま留め、誰の手にも荒らされていなかった。
パチュリーの胸の奥で、抑えがたい衝動がざわめく。
長い時を生き、数え切れぬ書を愛してきた魔女の、本の虫としての本能が疼いていた。
「―しばらく、ここに滞在しましょう」
わずかに喜色を滲ませてそう告げると、パチュリーは小悪魔を振り返ることもなく、
無数の書棚が連なる迷宮の奥へと歩み去っていった。
「…」
残された小悪魔は、その後ろ姿を見送り、ほんの少しだけ呆れたような表情を浮かべた。
◆
それからしばらくの間、二人の周囲には、穏やかな日々が流れていた。
パチュリーは、心ゆくまで書物の海に身を沈め、来る日も来る日も読書に没頭した。
この歴史上きわめて重要な図書館には、
紅魔館の大図書館にも存在しなかった書籍や文書が、数多く眠っていた。
しかもそれらは、いずれも彼女の知的好奇心を強く刺激するものばかりだった。
それはもはや、知識の魔女に捧げられた宝物庫と言っても過言ではなかった。
だが、パチュリーはただ本を読み耽っていただけではない。
毎日、きっちりと時間を区切り、一科目につき九十分。それを六科目。
小悪魔はパチュリーから、各国の言語と文字をはじめ、地理、歴史、数学、物理、化学、魔法―
この世界における、そしてパチュリー自身にとっての「一般教養」とも言うべき知識を体系的に学んでいた。
何しろ、小悪魔はこの世界に召喚されてから一年、その殆どを、ほぼ独りで生き抜いてきたのだ。
知らぬこと、理解していないことは、文字通り山ほどあった。
小悪魔の理解力は驚くべきものだった。
一を教えれば十を知るかのように、それらの知識を次々と吸収していった。
教壇に立つように語るパチュリーの姿は、どこか楽しげに映った。
小悪魔が極めて優秀な生徒だったこともあるだろう。だが…
自らが長い歳月をかけて積み上げてきた知識が、誰かに受け継がれ、血肉となっていく。
その行為そのものに、彼女は確かな喜びを見出していたのかもしれない。
こうして、二人にとっての静かな平和は、ゆるやかに過ぎ去っていった―
◆
その平穏は、何の前触れもなく破られた。
いつものように、パチュリーが書物に目を落としていた、その時だった。
突如として、重く腹に響く轟音が鳴り渡った。
「…!?」
図書館全体が大きく揺れ、天井から埃が舞い落ちる。
次の瞬間、ガラス瓶のようなものが次々と投げ込まれ、乾いた音を立てて砕け散った。
炎が噴き上がり、瞬く間に広がって書棚を舐め尽くしていく。
パチュリーは、ほんの刹那の間に思考を巡らせた。
―サン・ピエトロ広場で、白骨に花を供えていた、あの女性。
人間と変わらぬ外見の自分はともかく、羽を持つ小悪魔の姿も、確かに見られていた。
恐らくは―
「小悪魔!」
パチュリーが、鋭く呼びかける。
「はっ、ここに」
影から滲み出るように、小悪魔が即座に姿を現した。
「…どうやら、泡沫の夢は、もう終わりのようね」
パチュリーは軽く首を振る。
その表情には、諦観とも、あるいは覚悟ともつかぬ、微妙な感情が滲んでいた。
炎は容赦なく、書棚を焼き、床を舐め、無数の書物を次々と飲み込んでいく。
歴史、哲学、神学、科学―。
一冊一冊に込められた、著者の思索、情熱、人生そのものが、区別なく灰へと化していった。
小悪魔は、その光景を見つめながら、胸の奥に形容しがたい感覚を覚えた。
こんなことは、初めてだった。
言葉にできない、重く、昏く、熱を帯びた何か。思わず、拳を強く握りしめる。
「―私が、始末しましょうか」
気づけば、そう口にしていた。目を細め、無表情のまま右手を胸元へ掲げる。
その掌に、赤く脈動する魔力の球体が浮かび上がった。
「…いや、放っておきましょう」
パチュリーは静かに目を伏せた。
「―勿体ないことを…。
今を生きるのに精一杯な人間たちにとっては、叡智の結晶も…もはや、ただの紙屑に過ぎないのでしょうね」
小さく息を吐く。
憂いを帯びたその美しい横顔を、燃え盛る炎の朱が照らし出していた。
パチュリーは詠唱を紡いだ。
次第に二人の周囲が淡く光を帯び、風が渦を巻くように集まってくる。
やがて、強い光が弾け、二人の姿はその場から掻き消えた。
直後、彼女たちが立っていた場所へ、炎に包まれた書棚が崩れ落ち、無数の火の粉が宙を舞った。
< 第四章 黄昏 >
―イギリスを出立してから、すでに十年近い歳月が流れていた。
パチュリーと小悪魔は、変わり果てた世界を渡り歩きながら、旅を続けていた。
旅路に起伏がなく、ただ移動だけが淡々と積み重なっていく時ほど、思考は否応なく内側へと沈んでいく。
景色を眺め、風を切り、先へと進むその時間は、外界よりも記憶と向き合うためのものになっていった。
荒野の上空を飛びながら、パチュリーはふと、若き日の自分を思い返していた。
魔女という種族。
親友の、吸血鬼という種族。
いずれも人間社会には居場所を持たず、陽の当たらぬ場所で生きる存在。
こんな自分たちが堂々と生きていける理想郷が、きっと世界のどこかにあるはずだ、と信じていた。
そう思って、小悪魔とともに世界中を巡った末―極東の地で、幻想郷を見つけたのだ。
そして今、再びもう一人の小悪魔と肩を並べ、世界を旅している。
西欧、東欧、中東―
だが、それは理想郷を探す旅ではない。この世界の行く末を見届け、自身の生きる意味を見出す旅。
その答えは、パチュリー自身にも、まだ見えていなかった。
ある土地では、食人を繰り返すうちに正気を失い、狂気の淵に沈んだ人々がいた。
ある土地では、人であることを捨て、森の中で野生動物のように暮らす人々がいた。
ある土地では、奇病が蔓延し、身体に異形を宿し、人としての尊厳を失ったまま、死ぬために生き続ける人々がいた。
日本でも、イギリスでも、そしてどの地でも共通していたことがある。
それは、神への信仰も、超自然的な崇拝も、すでに人間の中から消え去っていたという事実だった。
つまり、幻想郷のような仕組みは、もう二度と成立しない。
常識も非常識も、そのものが消滅した世界となっていたからだ。
◆
―東欧からアラビア半島を抜け、ペルシャ湾西岸の海岸線に沿って南下し、さらに東へと進む。
二人は、廃墟と化した建物の屋上に立ち、視界に広がる海を眺めていた。
かつて交易港として栄えたオマーンの海岸都市。
位置から考えれば、ここは、恐らく首都マスカット近辺なのだろう。
白い建物群は崩れ落ち、港は完全に沈黙していた。
それでもインド洋だけは、深い青をたたえ、何事もなかったかのようにそこに在り続けていた。
人間の営みが滅び去った一方で、自然だけが力強く生き残っている。
その対照が、痛々しいほど鮮明だった。
「前の私は、どんな人となりだったのでしょうか」
小悪魔が問いかける。
そこには好奇心というより、事実を確認しようとする、淡々とした響きがあった。
「そうね…ドジで、おっちょこちょいで、慌てん坊で…いつも、失敗ばかりしていたわ」
パチュリーは、くすりと小さく笑いながら答えた。
小悪魔は一瞬、わずかに憮然とした表情を浮かべたが、すぐにいつもの澄ました顔に戻る。
「…さぞかし、ご苦労されたのでしょうね。前の私が、ご迷惑をおかけしました」
神妙な面持ちで、大真面目に頭を下げる小悪魔の様子を見て、
パチュリーは堪えきれず声を上げて笑い、ごほ、ごほと少し咳き込んだ。
「貴方が謝ってどうするのよ」
「―いえ、何となく」
パチュリーはひとしきり笑った後、遠くの海へと視線を向けた。
「けどね。誰よりも頑張り屋で、努力家で、一途で…とても優しい心を持っていたわ。
そして、本を心から愛していた」
懐かしさを滲ませて語るその横顔を見ながら、
小悪魔は胸の奥に、じわりと温かい何かが広がるのを感じていた。
「…随分、私とは違うんですね」
無表情のまま、ぽつりと呟く。
「何を言っているの。貴方も、こあと同じ。優しくて、温かい心を持っているわ。私には、分かる」
パチュリーは柔らかな笑みを浮かべてそう告げた。
小悪魔は思わず視線を逸らす。
―それは、照れ隠しなのかもしれなかった。
「ごほっ、ごほっ…」
不意に、パチュリーが激しく咳き込んだ。
だが、それはいつもの発作とは明らかに違っていた。
彼女は思わず身体を折り、胸元を強く押さえる。小悪魔が即座に、細い身体を支えた。
次の瞬間、再び咳が込み上げ、泡立った鮮血が口元から飛び散る。
「パチュリー様…大丈夫ですか!?血が…」
小悪魔の声には、隠しきれない動揺が滲んでいた。
パチュリーは答えられず、ただ荒い呼吸を繰り返す。
「…はぁ、はぁ…」
苦痛に歪むその表情を見て、小悪魔は眉をひそめる。
「どうして…?これは、ただの喘息ではない…」
その疑問に、パチュリーはしばし目を伏せてから、かすれた声で答えた。
「…恐らく、残留放射性物質による被ばくが原因、でしょうね」
その言葉に、小悪魔が一瞬硬直する。
だが、すぐに理性的な疑問が浮かび、わずかに首を傾げた。
「―いや、ですが…人間たちの戦争から百年以上は経っています。
半減期を考えれば、放射線はすでに影響のない水準なのでは…?」
パチュリーは静かに目を閉じた。
ほんの短い逡巡の後、覚悟を決めたように口を開く。
「…私は、真の魔法使いとなるために『捨虫の術』を行使し、不老の身体となった」
突然の語りに、小悪魔は一瞬戸惑いを見せたが、口を挟むことなく耳を傾けた。
「寿命を縮める三尸(さんし)の虫。つまり、細胞分裂の回数制限そのものを、捨てる」
一拍置き、パチュリーは続ける。
「科学的に掘り下げて言えば、こういうことになるわ。
『細胞分裂の回数制限を司るテロメアを自動修復し、かつ代謝を極端に低下させることで、老化を防ぐ』―
私は吸血鬼の血を元に、その機構の部分のみを自分の細胞に転写したの。―それが、『捨虫の術』よ」
「…!」
その説明を聞いた瞬間、小悪魔の表情が変わった。何かに気づいたように、目を見開く。
「…貴方は、賢いわね」
パチュリーは、かすかに微笑んだ。
「通常の人間なら、体内に取り込んだ放射性物質の粉塵や、汚染された細胞は、
代謝によって排出され、更新されていく。だから大した影響は残らない。
けど…代謝が著しく鈍い私にとっては、それらは体内に長く留まり続ける毒になるの」
一瞬の沈黙。海の音が、遠くで規則正しく繰り返される。
「…パチュリー様」
小悪魔は、パチュリーをまっすぐに見据えた。
「貴方は、最初からそれを分かっていて、この旅を…?」
その問いに、パチュリーは迷いなく答えた。
「…何の後悔もないわ。貴方と、出会えたのだから。それに…もう少しで、『答え』が見つかりそうなの」
微笑みながらそう告げるパチュリーの横顔を見て、小悪魔はそっと視線を落とした。
波のさざめきと、潮風が吹き抜ける音だけが、二人の周囲を満たしていた。
「ですが…これ以上の旅は危険です。どうか、お願いです。…紅魔館に、戻りませんか?」
顔を上げて訴える小悪魔の表情には、わずかな感情の揺らぎがあった。
この十年という歳月の中で、彼女が真剣に気遣ってくれていることは、パチュリーにも痛いほど伝わっていた。
「最後に…行きたいところがあるの」
その声が、微かに震えていることに、小悪魔は気づいた。
だが、止めようとはしなかった。命を縮める覚悟の上で、ここまで歩んできた旅なのだ。
止められなかった。
「それは―どこでしょうか?」
小悪魔は、静かにそう問いかけた。
◆
―オマーン湾を一旦北上し、陸地に到達すると、そこから二人は東へと進路を取った。
途中、インダス川を越え、さらに果てしなく広がるタール砂漠を横断する。
「…?」
空を行くパチュリーの表情に、微かな戸惑いが浮かんだ。
既にインドの都市部の上空に差しかかっているはずだった。
だが、眼下に広がるのは、妙に起伏のある、荒涼とした大地ばかりで、街の廃墟すら見当たらない。
地図もなく、ほとんど目算だけを頼りに進んできた。
進路を誤ったのだろうか―そんな疑念がよぎる。
「…まさか…」
ひとつの考えが、胸の奥に冷たい影を落とした。インドは、世界有数の核保有国だ。つまり―
数十発に及ぶ「太陽の兵器」が投下され、この地のすべてを、灰燼に帰したのではないか。
改めて地上を見渡す。
都市の輪郭も、瓦礫の山もない。ただ、死の大地が、どこまでも続いている。
もはや、人の住める場所など残されていないのではないか―そう思えた。
「…」
小悪魔はその光景を見下ろし、わずかに首を振ると、静かに目を伏せた。
◆
―かつて、ムンバイと呼ばれていた場所。
パチュリーは、そこへ降り立った。
目の前に広がっていたのは、見渡す限りのごみの山だった。
文字通り、山と積み上げられた廃棄物が、地平線の果てまで連なっている。
急成長を遂げた国が抱え込んだ副作用。
人間の利便と繁栄の裏側で積み重ねられてきた、あらゆるツケが、この一地点に凝縮されたかのような、この地。
都市部は跡形もなく消えていたのに、ごみ山の一帯が形を留めていたことは、どこか皮肉に思えた。
「行きたい場所って…ここ、ですか?」
小悪魔が困惑した声で尋ねる。
今回ばかりは、その表情に隠しきれない戸惑いが浮かんでいた。
それも無理はない。病弱な身体を押して、わざわざ辿り着いた先が、この場所なのだから。
「ええ…」
パチュリーは、短くそう答えた。
やがて、太陽が傾き、沈みゆく。
空は朱に染まり、夕焼けとなって、辺り一面を照らし始めた。
「…わぁ…」
思わず、小悪魔の口から感嘆の声がこぼれた。
夕焼けの光が、ごみ山を照らし、世界を朱に染め上げる。
金属片や硝子の破片がその光を反射し、視界一杯に、無数の輝きとなって瞬く。
それは、どんな大自然の景観よりも、どんな宮殿よりも、どんな宝石よりも―
荘厳で、美しかった。
「この光景を…貴方に、見せたかったのよ」
パチュリーはそう呟き、感慨深げに、その景色を見つめていた。
「私に…?」
小悪魔はわずかに首を傾げる。
「それは、どういう…?それに、どうして、ここを…」
疑問を重ねる小悪魔に、パチュリーは答えようとした。
「ここはね、私の―」
だが、その言葉は途中で途切れた。ゴホゴホ、と、激しい咳が彼女の喉を突き上げる。
「パチュリー様!!」
小悪魔が即座に身体を支える。
その表情には、はっきりとした心配と気遣いが刻まれていた。
パチュリーは喀血し、ローブを赤く汚す。身体が、小さく震えた。
「…こあ、どうも、ありがとう。もう十分よ。帰りましょう、紅魔館へ…」
その声は弱く、だが、確かだった。
パチュリーは、この時初めて、かつての使い魔の愛称で、小悪魔を呼んだ。
―後に小悪魔が振り返ってみても、こう呼ばれたのは、この時が最初で、最後だった。
それは、身体を蝕む毒による苦痛の中、無意識の底から零れ落ちた呼び名だったのかもしれなかった。
< 第五章 記録 >
―紅魔館の図書館。
「ゴホッ、ゴホッ…」
静寂に満ちた書架の奥。
書斎の机に向かい、パチュリーは咳き込みながらも羽根ペンを走らせていた。
細い指先は震えを帯びながらも止まることなく、頁の上に文字を刻み続けている。
「パチュリー様、どうぞ」
小悪魔が静かに近づき、湯気を立てるカップを差し出す。
ふわりと立ちのぼる香りに、パチュリーは思わず目を瞬かせた。
「これ…ダージリン?よく、こんなものを調達できたわね…」
その言葉に、小悪魔はほんのわずかに口元を緩めた。
「パチュリー様と旅をした際に、こっそりと手に入れておいたものです」
―近頃、小悪魔の表情には、以前には見られなかった微かな感情の揺らぎが宿るようになっていた。
それに気づき、パチュリーもまた、釣られるように小さな笑みを浮かべる。
パチュリーはカップを手に取り、香りを確かめるように一度息を吸い込み、ゆっくりと口に含んだ。
「…美味しいわ。どうも、ありがとう」
紅茶を口にするのは、何十年ぶりだろうか。その温もりが、僅かに胸の奥を和らげた。
「随分と精が出ますね。何を執筆されているのですか?」
「…記録よ」
パチュリーは羽根ペンを置かずに答える。
「私が生きてきた証。誰と出会い、何を成し、どこへ行ったのか…。
その全てを、書き残しておこうと思ってね」
そう言った直後、再び喉が震え、ごほごほ、と咳が漏れる。
「パチュリー様…」
小悪魔はそっと背に手を当て、静かにさすった。
「へぇ…」
その様子を、本から顔を上げて眺めていた妹紅が、ぽつりと声をかける。
「長いこと留守にしていたが…やりたいこと、見つけたんだな」
「…ええ」
パチュリーは僅かに微笑む。
「貴方の助言のおかげかも、しれないわね」
ややあって、パチュリーは首を傾げ、思索するように妹紅を見た。
「妹紅…貴方は、既に見つけているの?」
その問いに、妹紅は一瞬、目を細めた。
すぐには答えず、長い沈黙を挟んでから、ゆっくりと口を開く。
「―私は、生きることそのものが、罰であり、償いなんだ」
本を閉じ、机の上に置き、俯く。
その表情には、迷いではなく、深く沈殿した後悔の色が滲んでいた。
「私は罪を犯した。それは、死んでも償えない。死ぬこと無く、生き続ける。
たとえ、世界が壊れようとも…この世に、私ただ一人になったとしても」
言葉を選ぶように、絞り出すように続ける。
「…それが、私の生きる意味だ」
語り終えた後、図書館には深い静寂が落ちた。
「…」
パチュリーは、何も言えなかった。
小悪魔もまた、ただ二人の姿を見つめるしか出来なかった。
◆
―それから数年。パチュリーは執筆を続けた。
完成した書籍は、数十冊に及んだ。
だが、その冊数に比例するかのように、パチュリーの体調は確実に悪化していった。
まるで、自身の生命の火を削り、その火を文字に乗せて、本に刻み込んでいるかのように。
やがて、起き上がることすら辛くなり、ベッドに横たわって過ごす日が増えていく。
それでも、羽根ペンを手放すことはなかった。
◆
「ごほ、ごほ…小悪魔…こ、こちらへ…」
天蓋付きのベッドで半身を起こしたパチュリーは、見るからにやせ細っていた。
頬はこけ、肌には生気がなく、かつての蒼白さとは別種の、衰弱の色が見て取れた。
「は、ここに」
小悪魔はすぐに枕元へと歩み寄った。
表情は努めて平静を装っているが、その瞳の奥では、抑えきれぬ動揺が微かに揺れていた。
「もう…私は、長くない…」
息を整えるように言葉を区切りながら、パチュリーは続ける。
「…まだ、まともに会話ができる今のうちに…貴方に、託したいことがあるの」
言い終える前に、喉が震え、激しい咳が込み上げた。
手で口元を押さえると、その指の隙間から、粘り気を帯びた血が滴り落ちる。
「パチュリー様…! そのような、弱気なことを…」
思わず声を上げかけた小悪魔を、パチュリーは小さく手を挙げて制した。
「…契約の内容は、覚えているわよね」
荒い呼吸の合間を縫うように、言葉を紡ぐ。
「私が死ぬまで、そばにいること。私が死んだら、その魂を、貴方に捧げること。そして―」
一瞬、言葉を切る。
「貴方は、何者にも縛られず…自分の意志で、自由に生きること」
喋るだけでも苦しいのだろう。パチュリーは左手で胸を押さえ、浅く息を吸った。
小悪魔は、黙って深く頷いた。
「だから…これは、命令でも、契約の強制でも何でもないわ。ただの…お願いよ」
視線を小悪魔に向け、言葉を選ぶように続けた。
「…私が、書いた本は…まだ、未完成なの。それを…貴方が、受け継いでほしい」
「パチュリー様…」
小悪魔は一瞬、言葉に詰まり、やがて困惑を滲ませて尋ねた。
「…ですが、何を、書けばよいのでしょうか…?」
「難しいことでは、ないわ」
パチュリーはかすかに微笑んだ。その笑みは、儚い灯火のようだった。
「貴方が、見て…聞いて…感じたこと。それを…思うままに、書けばいいのよ」
「…思うがままに…」
小悪魔はそう呟くと、視線を落とし、静かに考え込んだ。
◆
―小悪魔の目の前の机には、パチュリーが書き上げた数十冊の本が、整然と積み重ねられていた。
彼女の頼みを受けるにあたり、小悪魔はまず、それらを読ませてほしいと願い出た。
パチュリーは、その申し出を、迷うことなく受け入れてくれた。
書物の構成は、次のようになっていた。
なお、特に明確な分類名は付されていなかったため、以下の名称は小悪魔が便宜上付したものだ。
パチュリー自身の視点で綴られた、自身の歩みを記した『自伝』。
彼女が生きる中で関わった、百人を超える人間や妖怪たちについて、個々の人物像や出来事を記した『人物伝』。
なお、各編の末尾には、パチュリーによる人物評が添えられていた。
外の世界と幻想郷で起こった出来事を年代順にまとめた『年表』。
外の世界と幻想郷の地理、風俗、文化について、パチュリー自身の考察を交えて記された『地理・文化史』。
外の世界と幻想郷における超自然的現象、魔術的事象、各地の魔法体系を整理した『魔法史』。
後になって小悪魔は知ることになるが、『人物伝』『年表』『地理・文化史』といった構成は、
東アジアを中心に用いられてきた「紀伝体」と呼ばれる歴史書の形式と、驚くほどよく似ていた。
―つまり、これらは単なる記録ではなく、パチュリーなりの、自身にまつわる歴史を後世に遺すための事業でもあったのだ。
なお、これらの書は、日本語と英語の二言語でそれぞれ執筆されていた。
そして、その中で『自伝』のみが未完成のまま、残されていた。
◆
小悪魔は、『自伝』の最初の一冊を、静かに手に取った。
知識の権化とも言うべきパチュリーが執筆したものだ。
その先入観から、難解な専門用語に満ち、幾重にも修飾を重ねた、
読む者を選ぶ文章ではないかと、無意識のうちに身構えていた。
だが、頁を開き、数行を追ったところで、その予想はいい意味で裏切られた。
文体は驚くほど平易で、行間に無理な力みもなく、すらすらと視線が流れていく。
いわば、大衆小説に近い体裁だった。
…きっと、誰にでも読めるように、敢えて平易な表現にしたのだろう。
そう思いながら、小悪魔は最初の頁を捲る。
それは、主人の知られざる過去を辿る行為であると同時に、
まだ触れたことのない、彼女の根源へと踏み入る行為でもあった。
< 第六章 軌跡 >
物語は、幼少期の章から始まっていた。
パチュリーは十九世紀末、イギリスのハムステッドで生を受けた。
父は弁護士、母は教師。特別な家柄ではない、ごく一般的な中流知識層の人間の夫婦である。
しかし、この章で描かれる幼き日の彼女は、最初から「普通」からは大きく逸脱していた。
幼少期にして既に、いわゆる『ギフテッド』と称される天才的な知性を有し、
食事や睡眠をほとんど必要としない、生粋の魔女としての特異体質。
そして何より、魔法に関する知識と、桁外れの魔力量。
それらは祝福であると同時に、人間社会においては決定的な断絶を意味していた。
人と同じ速度で成長できない精神と頭脳。同年代の子供たちとは決して共有できない視座。
結果として、友人を得ることも叶わなかった。
母は出産時に命を落とし、父とも行き違いの末、パチュリーの側から一方的に離縁している。
後に、父は労働者の権利を巡る裁判で勝訴した祝宴の帰途、暴徒に襲われ命を落とした。
―これにより、彼女は血縁者をすべて失うことになる。
二十世紀初頭、英国で流行したオカルティズムと魔術思想に傾倒する大人たち―
文中では簡潔に『G.D.』とだけ記された団体に囲われ、神秘の象徴として祀り上げられ、
偶像として扱われながら成長していく様子が淡々と記されていた。
それは庇護であると同時に、逃げ場のない隔離であり、幼い少女にとっては極めて歪で異常な環境でもあった。
―自然と、思考は内向きになり、人との接し方がわからず、孤独を深めていった。
そんな中で、様々な出来事があり、やがて小悪魔や吸血鬼と出会い、生まれて初めて「友」と呼べる存在を得る。
そして、ほんの僅かではあるが、自身の居場所を見出していく…そんな内容だった。
小悪魔は、違和感を覚え、ふと頁を捲る手を止めた。
そして、頭の中で、今のパチュリーの姿を思い描く。
理性的で、穏やかで、少なくとも小悪魔の目には、優しさを失っていない存在。
この幼少期が、人格形成に深い歪みを残したであろうことは疑いようがない。
それと現在の彼女とが、どうにも結びつかなかった。
恐らく、この数百年で…特に、世界が死んだ後の、あの百年余りの歳月が、
彼女の内面を大きく変えていったのだろう。
小悪魔はそう結論づけ、再び頁に視線を戻した。
◆
続く章は、旅立ちの記録だった。
この世界のどこかに、魔女や吸血鬼であっても、胸を張って生きられる理想郷があるのではないか。
そう考えたパチュリーは、紅魔館を後にし、小悪魔とともに旅に出る。
英国を発ち、西欧から東欧へ。
さらに中東、インド、東南アジア、中華民国、そして日本へと至る長い遍歴。
その果てに、幻想郷を見出すまでの道程が綴られていた。
書籍を求め、魔法の研究を行い、各地で長期滞在を繰り返したため、その旅は数十年にも及んだ。
幼少期の章とは打って変わり、各国の文化風俗、土地の魔術的特性、民俗学的考察などがふんだんに盛り込まれ、
研究者としてのパチュリーの視点が色濃く表れている。
それは単なる回想ではなく、一種の旅行記としても成立しており、小悪魔の知的好奇心を強く刺激した。
だが、読み進めるうちに、小悪魔はある事実に気づき、静かに息を呑んだ。
記されている旅程が、自分自身がパチュリーとともに、滅びた世界で辿った行程と、ほとんど重なっていたのだ。
特筆すべきは、インドのボンベイ(注:ムンバイの旧称)における描写だった。
====『自伝』より引用=====
―ベイルートを発ち、蒸気船でスエズ運河を抜け、紅海を越え、さらにインド洋を渡る。
途中、マスカットに寄港しつつ、長い航路の果てに、ようやくボンベイの港へと辿り着いた。
埠頭には、英国製と思しき黒塗りのタクシーが数台、停まっていた。
ターバンを巻いたインド人の運転手たちが、蒸気船から降り立つ乗客を相手に、声高に客引きをしている。
私はその中から適当な一人を選び、行き先を告げ、少し多めのチップを握らせて車内へと乗り込んだ。
―道路事情が悪いのだろう。
舗装の不十分な路面を走るたび、車体は大きく揺れ、座席越しに振動が伝わってきた。
窓越しに街の様子を眺めていると、所々に神経質そうな表情を浮かべた英国兵や警官が立ち、周囲を警戒しているのが目に入る。
その立ち姿は、治安維持というよりも、むしろ張り詰めた緊張の象徴のように見えた。
「パチュリー様…大丈夫でしょうか」
小悪魔が心配そうに声を掛けてくる。
運転手に聞かれないようにするためだろう、使用していたのは英語ではなくドイツ語だった。
なお、頭部と背中の羽は、錯視の魔法によって既に不可視化している。
その主語の曖昧な問いかけに、私は僅かに眉を寄せた。
「この国では、英国からの独立運動が盛んだと聞いています。余計な騒動に巻き込まれなければよいのですが…」
「運動の指導者は、非暴力主義だと聞いているわ。なら、大丈夫でしょう」
そう答えながら、私は再び窓の外へと視線を戻した。
外界を見ているようで、その実、意識は別のところへと向いていた。
―自分は、なぜこの地へ来たのか。
その理由を、まだ言葉にできずにいた。
◆
―フォート地区。
小高い丘の上に築かれた白人街であり、
かつて東インド会社に勤める英国人たちが暮らしていた官庁街でもある。
…顔すら知らぬ私の祖父は、同社が統治権を王室へ移管し解散した後も、
法務顧問として残務処理に携わり、幼い頃の父とともに、この街で生活していたらしい。
だが、その事実を知っていたとしても、胸に特別な感慨が湧くことはなかった。
旅の途中、偶然通りかかった。それだけのことだ。
あくまで戯れに立ち寄ったに過ぎない。
―そう、自分に言い聞かせていた。
丘の上からは、眼下にインド人居住区やスラム街が広がっているのが見えた。
小悪魔は当面の宿泊先を探すため、別行動を取っており、合流までにはまだ時間がある。
―理由は分からない。だが、自然と足が動いていた。
丘を下り、雑多なインド人居住区を抜けていく。
道行く人々の視線が、時折こちらに向けられるのを感じたが、そこに露骨な敵意はなかった。
やはり、独立運動の指導者の思想が、人々の振る舞いにまで浸透しているのだろうか。
さらに足を進め、スラム街へと至る。
粗末な小屋やテントが、隙間を埋めるように無秩序に建ち並び、
街というよりは、寄せ集められた生活の残骸のようだった。
汚れたボロ布を纏った現地民たちが、こちらを物珍しげに、あるいは胡乱げな目で見つめてくる。
一見して裕福と分かる身なりの若い白人女性が、このような場所を物見遊山で歩くのは危険極まりなく、
客観的に見れば異質で、無謀としか言いようがなかっただろう。
それでも私は、周囲の視線を意に介することなく、ためらいもなく、さらに奥へと歩みを進めていった。
◆
そして、私はたどり着いた。
理由は分からない。なぜ数ある行き先の中から、この場所を選び、目指したのか。
自分自身に問いかけても、明確な答えは返ってこなかった。
ただ、そうしなければならない、という曖昧で確固たる衝動だけが、私の足をここへ運ばせた。
―デオナールごみ集積場。
眼前には、不要となった物、役目を終えた物、何の価値もない物たちが、
無秩序に積み上げられ、巨大な山を成している。
その斜面を、現地のストリートチルドレンたちが器用に歩き回り、
まだ使えそうな金属や布切れを探しては掘り返していた。
やがて、太陽が傾き始める。
昼と夜の境界が、ゆっくりと溶けていく。
―視界のすべてを覆い尽くすかのような、朱の光。
沈みゆく太陽が、容赦なく、そして平等に、この地を照らし始めた。
目の前にあるのは、ただのごみ山だ。
誰からも見向きもされず、不要と断じられ、捨てられた物の集合体にすぎない。
―それなのに。
夕日に染め上げられたその山は、信じがたいほどに輝いて見えた。
どんな王宮よりも、どんな大理石の回廊よりも、どんな宝石を敷き詰めた広間よりも、
鮮烈で、息を呑むほど美しかった。
価値のないものが、価値を超えて輝く。
その矛盾を孕んだ光景に、私は言葉を失い、ただ立ち尽くすしかなかった。
「お嬢さん、こんなところで一人は危ないですよ」
背後から、穏やかな声がかけられた。
振り返ると、インド人の男性が立っていた。白髪交じりの頭。年の頃は六十前後だろうか。
仕立てのよいスーツに身を包み、その上からでも分かる引き締まった体躯。
年齢を感じさせない精悍な顔立ちは、不思議と若々しく映った。
「―父と、祖父が…この街で暮らしていたと聞いて」
言いながら、自分で驚いていた。
初対面の人間相手だというのに、なぜか、その言葉が自然に口をついて出たのだ。
自分の家族のことなど、友人にすら語ったことがなかったというのに。
「ああ、あの白人街のことだね。昔は多くの英国人が居たけど、
今は事業で成功した、裕福なインド人たちが住んでいるよ」
彼自身もまた、その「成功した側」の人間なのだろう。スーツの質感が、それを雄弁に語っていた。
「…貴方こそ、こんな場所に居たら危ないんじゃなくて?」
私は、ほんの少しだけ意地の悪さを込めて言った。
男性はそれを咎めるでもなく、懐かしむように目を細めた。
「―子供の頃、このごみ山に登って夕日の景色を眺めるのが好きでね。今でもこうして、たまに訪れるんだ。
そうそう、アーサーという白人の子供も、一緒だった」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が大きく揺さぶられた。
私は思わず、男性の顔を凝視していた。―それは、父の名だった。
男性は、私の動揺には気づかないまま、言葉を続ける。
「彼はいつもボロ服を着ていたけれど、話し方や立ち居振る舞いで分かるんだ。
中流家庭の出だってね。そういえば、微かにパチュリーの香油の匂いを漂わせていたよ」
思わず息を飲んだ。
自分の名が、まさかこんな形で、過去と繋がるなんて。
「夕日を眺めながら、『貧しい人を助ける弁護士になるんだ』とよく言っていたが…
いや、すまない。君には、関係のない話だったな」
男性はそう言って、頭を掻き、少し照れたように笑った。
その仕草は、どこか少年のようだった。
―貧しい人を助ける弁護士。
間違いない、父だ。
「いえ、興味深いお話を、どうもありがとう」
一瞬、「私は、アーサーの娘です」と名乗りかけた。
だが、その言葉は喉の奥で消え、代わりに、まったく別の言葉が口をついた。
「分かる気がするわ。この光景は―どんな宝石の山よりも、美しく見えるから…」
男性は、ふっと微笑んだ。
朱の光が、二人を包み込んでいた。
夕日は、世界のあらゆる境界を溶かしていた。
立場も、人種も、思想も、宗教も、貧富の差も。
種族の違いさえも、その光の前では、取るに足らないものに思えた。
―幼い頃の父が、かつて見ていた光景。
縁を切り、死に別れ、記憶も曖昧になったはずの存在。
それでも、もしかしたら、私は…無意識のうちに父の面影を、血の繋がりを求め…そして、ここへ導かれたのだろうか。
今にして思えば、私はこの光景に、自らが求める理想郷の姿を、重ねて見ていたのかもしれない。
===========
小悪魔は、そこまで読み終えると、静かに本を置いた。
ムンバイでの夕日の光景は、パチュリーが父の友人とともに見ていたものだった。
時を隔て、今また、同じ朱に染まった世界を前にして、彼女は何を思っていたのだろうか。
失われたはずの繋がりを、改めてその眼で確かめながら。
―これは、あくまで想像に過ぎない。
だが…過去と同じ行程を辿り、世界中で変わり果てた姿を見続けてきた末に、
最後に辿り着いたのが、あの矛盾に満ちたごみ山だったことには、意味があるように思えた。
文明の残骸が折り重なり、価値を失ったものだけが集められた場所。
そこで彼女は、もう一人の小悪魔―自分とともに、変わらぬ美しさを見たのだ。
それは父がかつて見た光景であり、父から受け継がれ、
そして今また、誰かへと手渡されようとしていたのではなかったか。
「この光景を貴方に見せたかった」
彼女は、確かにそう言っていた。
それは単なる回想の共有ではなく、意志の伝達だったのかもしれない。
記憶の継承。
自身が生きた証、その軌跡と歴史を、書物という形に封じ込めること。
消えゆく存在が、なお誰かの未来に触れようとする行為。
そして、もしかしたら。勘違い―いや、ただの願望なのかもしれないけれど…。
それは、私が生きるための道標として、意図的に残そうとしたのではないか。
壊れてしまった世界の中で、それでも前を向くための、自分なりの、生きる意味なのだと。
そう、思ったのだ。
◆
物語の最後は、幻想郷の章だった。
幻想郷という名の理想郷を見出したパチュリーは、一旦紅魔館へと戻り、数十年という歳月を研究に費やす。
やがて博麗大結界を越え、紅魔館そのものを幻想郷へ転送するという計画を実行に移した。
幻想郷への移住直後、彼女は親友である吸血鬼の提案を受け、『紅霧異変』と呼ばれる異変に協力する。
同地の人間の調停者と、『スペルカードルール』なる平和的決闘手段によって争い、最終的に敗北する。
興味深いのは、パチュリーがこの異変に対して、最後まで難色を示していた点だった。
親友の勢いに押され、渋々協力する形ではあったが、この二人の関係性はその後も幾度となく描写される。
衝突と妥協、理性と奔放。その対比は、どこか微笑ましく、同時に深い信頼を感じさせた。
以降、書物には様々な異変と日常が記されているが、その筆致には、明らかに感情と郷愁が滲んでいた。
おそらく、彼女にとって最も穏やかで、安らぎに満ちた日々だったのだろう。
―そして、それは起こった。
人間が滅んだ戦争。そして、人間という食料を巡る、妖怪同士の戦争。
このあたりから、文字に乱れが目立ち始める。
体調の悪化によるものだろうが、記されている内容の救いのなさによって、影を落としているようにも思えた。
どちらにせよ、読み進めるだけで胸が締め付けられるようだった。
感情は極力排され、事実が淡々と書き連ねられている。
だが、その行間からは、拭いきれない孤独が滲み出ていた。
戦争が終わった後、彼女は日々を過ごし、本を読み、自身がいなくなった後の準備を整える。
稀に訪れる妹紅との会話だけが、かろうじて生きていることを示す証明となっていた。
―やがて、意を決し、生きる意味を探すための旅に出る。
その行き着く先は、かつて紅魔館が存在した森の中。
そこで彼女は、もう一人の小悪魔と出会う。
―『自伝』は、そこで終わっていた。
小悪魔は、そこに込められたパチュリーの明確な意図を読み取っていた。
ここからは、貴方に続きを任せたい―
そう、静かに語りかけられているように感じられた。
< 第七章 継承 >
―それから、小悪魔は、折を見ては本を書くようになった。
日々の隙間に、わずかな時間を見つけては、机に向かう。
最初は、何を書けばよいのか分からなかった。白紙を前に、羽根ペンを持つ手が止まることも多かった。
だが、やがて、ほんの断片からでも構わないのだと気づき、少しずつ言葉を書き留めるようになっていった。
イギリスで召喚された日のこと。
人間たちが繰り広げた、醜く、救いのない争い。
朧気に残る、吸血鬼たちの記憶。
森の中で墓標を立てたこと。
魔女との邂逅。
共に世界を巡り、旅をしたこと。
バチカン図書館で、炎に包まれていく書物を目にし、初めて、怒りという感情を覚えたこと。
オマーンで、かつての「私」について語られるのを聞き、初めて、胸の奥に温もりが宿ったこと。
ムンバイで、夕日に染まるごみ山の光景を前にし、初めて、美しいと感じたこと。
その日は、驚くほど筆が進んだ。
頁は次々と埋まり、丁寧で几帳面な文字が、綴られていく。
小悪魔は書き終えた本を見下ろし、満足そうに小さく頷いた。
その足で、パチュリーの私室へと向かう。扉の前で一度立ち止まり、ノックをする。
「失礼します」と声を掛けてから、静かに入室した。
「パチュリー様、今日は大分書けましたよ」
自然と笑みが浮かび、そう報告する。
ベッドの端に、遠慮がちに腰を下ろした。
「少し…パチュリー様のお気持ちが、分かった気がします」
そう前置きしてから、言葉を続ける。
「書物って、いいですね。その人の人生のすべてが、そこに宿っていて…」
小悪魔は、少し宙を見つめた。言葉を選ぶように、間を置く。
「…前の私は、書物が大好きだったんですよね。
―私も、同じように…好きに、なれるでしょうか?」
答えは返ってこなかった。
パチュリーの表情は、ただ安らかだった。眠っているのだろうか。
そう思い、小悪魔は首を傾げる。
「パチュリー様?」
声を掛けながら、その手を取る。
「………」
小悪魔は、ゆっくりと目を伏せた。
わずかに、身体が震える。
―永遠にも思える長い沈黙が、部屋を満たした。
「…そうだ」
不意に、言葉を絞り出すように口を開く。
「今度、妹紅さんがいらっしゃった際には…外の庭園で、皆で…一緒に、お食事しませんか?」
声はかすれ、微かに揺れていた。
「大した食材はないですが…私が腕によりをかけて、料理…しますから…」
それは、必死に日常を繋ぎ止めようとする呼びかけだった。
「……きっと……」
小悪魔は俯いた。
その目端に、確かに光るものが、滲んでいた。
◆
―紅魔館の図書館。
小悪魔は、書斎で一冊の本を書いていた。
羽根ペンを頁に走らせる小さな音だけが、広大な図書館に微かに響いている。
―静寂。
辺りは、昼とも夜ともつかぬ薄明に満ちている。
高い天井、果てしなく続く書架、その奥に沈殿する時間。
机に向かう小悪魔の羽根ペンの運びには、迷いがなかった。
紙に触れる音だけが、規則正しく、静寂を刻んでいる。
そこへ、足音がゆっくりと近づいた。
「随分、精が出るな」
妹紅の声は低く、柔らかい。
小悪魔は顔を上げ、振り返る。驚きはなく、どこか安堵を含んだ表情だった。
「ええ…約束ですから」
そう言って、小悪魔は微笑んだ。
「そうか…」
妹紅は一歩だけ近づき、書きかけの頁に目を落とす。
そこに記されている文字を読むことはしなかった。
ただ、その積み重なった時間の重さを感じ取るように、静かに頷く。
「…お前は、見つけたんだな」
その言葉に、小悪魔は穏やかな笑みを浮かべた。
妹紅は、ふっと口元を緩める。
―パチュリー様の魂は、私の中で、今も静かに呼吸をしている。
小悪魔は、心の中でそう言葉にする。
それは比喩でも、慰めでもない。確かな実感だった。
契約によって、私は自由を得た。
命令ではなく、自らの意志で選び、考え、歩む自由を。
ならば―
パチュリー様、見ていてください。
貴方が積み重ねてきた思索も、言葉も、意志も。
私はそれを受け継ぎ、私なりの形で…生きていきます。
小悪魔は再び羽根ペンを取り、頁へと向き直る。
―図書館は、今日も静謐に、悠久の時を刻んでいた。
誰かの願い、情熱、希望、人生。それらの思いが込められた、無数の蔵書を抱えて。
―紅魔館の図書館。
パチュリー・ノーレッジは、書斎で一冊の本を開いていた。
頁を捲る小さな音だけが、広大な図書館に微かに響いている。
―静寂。
それは、長い年月にわたって何度も繰り返されてきた、見慣れた光景。
だが、そこには欠けているものがあった。
常に傍に控えているはずの使い魔の気配が、どこにもない。
「やあ。また本を読ませてもらうよ」
その声に、パチュリーはゆっくりと顔を上げた。
美しい銀色の長髪に、真紅の瞳の女性。
―そこに立っていたのは、藤原妹紅だった。
「…どうぞ」
それだけ答えると、再び視線を本へ戻す。
妹紅も特に気にした様子はなく、本棚から適当な一冊を抜き取った。
再び、訪れる静寂。
二人の間に流れる沈黙は、居心地の悪いものではなかった。
言葉を交わさずとも成立する、長い付き合いの末に残った空気だった。
「…外は、相変わらず?」
パチュリーは本から目を離さぬまま、問いを投げた。
「ああ。静かなもんだ」
妹紅はそう言って、少し間を置いた。
「もう、あんたと私しか居ないんじゃないか、ってくらいにな。
―『あいつら』も…随分前に、去ってしまったしな…」
その言葉とともに、妹紅はわずかに顔を伏せた。
声色には、抑えきれない影が差していた。
「…そう」
パチュリーもまた、無意識のうちに声を落として応じる。
妹紅の言う『あいつら』が誰を指しているのか、想像はついた。
因縁深い、同じく不老不死の身を持つ者と、その従者たちだろう。
―頭の中で、自然と過去が呼び起こされる。
◆
―パチュリーたちが紅魔館とともに幻想郷へと移り住んでから、約百年が経った頃。
外の世界で、人間同士による大規模な戦争が勃発した。
詳細は、もはや誰にも分からない。
だが、恐らく、人類の大半が死滅するほどの規模だったようだ。
その影響は甚大だった。
幻想郷は、博麗大結界によって外の世界の人間たちの「非常識」を取り込み、
それを幻想郷の「常識」へと変換することで成立していた。
その大元となる人間そのものが、ほとんど死に絶えた。
結果として、「常識」も、「非常識」も、支える基盤を失った。
―そして。
神話や民俗、信仰や噂といった、人の想念によって生じた妖怪たちは
その存在を維持できなくなり、消えていった。
それから、さらに百年以上の時が流れた。
もはや、この図書館を訪れる者はほとんどいない。
たまに、妹紅がこうして本を読みに来る。それだけが、外界との細い繋がりだった。
広大な図書館は今も変わらずそこに在り続けている。
だが、その静けさは、世界が終わった後に残された、空白そのものだった。
パチュリーは頁を閉じることなく、ただ静かに、過ぎ去った時間の重さを噛み締めていた。
◆
しばらくの間、沈黙が続いた。
広大な図書館の中で、微かに聞こえるのは、二人がそれぞれ頁を捲る音だけだった。
…大図書館では、かつて外の世界から書物を無作為に取り込み、徐々に、ゆっくりと蔵書を増やし続けていた。
だが、外の世界そのものが滅び、博麗大結界も失われたことで、
新たな本が生まれることも、ここへ辿り着くことも、もはやない。
パチュリーは、この図書館にある書物を、ほぼすべて読み尽くしていた。
魔導書に限らず、歴史書、哲学書、文学、科学書。
人類が遺した知の痕跡を、彼女は等しく辿ってきた。
紅魔館と図書館を維持するための時間魔法、空間魔法も、
かつて仕えていた人間のメイドから引き継ぎ、すでに完全に体系化している。
術者である自分がいなくなっても、館が機能し続けるよう、既に整え、準備し終えていた。
自身が修めた魔法についても、すべて魔導書として書き残し終えている。
思考も、理論も、試行錯誤の痕跡も。
「―私は、すべての本を読み終えたら…その先は、どうすればいいのだろうか」
それは誰に向けた言葉でもなかった。
純然たる、自問だった。
もちろん、魔法の研究はこれまでも続けてきたし、これからも続けていく。
それは彼女にとって、呼吸をするのと等しく、自然な営みだった。
ただ、それだけでは、もはや朝を迎える理由にならなくなっていた。
以前なら、こんな疑問は浮かばなかっただろう。
孤独を厭わず、周囲を一切顧みず、自分の内なる世界に没頭する。
それだけで、十分だった。
だが、世界が破壊し尽くされ、彼女にとって大切だった多くの存在が、ことごとく失われた。
目を覚ませば続いているはずだった日常が、もはやどこにも見当たらなかった。
その現実を前にして、これからどう生きていけばいいのか。
その答えを、パチュリーは見いだせずにいた。
―頭の中で呟いたつもりだった。
だが、どうやらそれは、自然と声に出ていたらしい。
「何でもすればいいじゃないか」
妹紅の声が、静寂を破った。
「もう博麗大結界はなく、出入りは自由だ。外の世界がどうなったのか、つぶさに観察するのもよし」
そう言って、妹紅はほんのわずかに笑みを浮かべた。
「…もしくは、あんたは自分でも本を書くんだろ?今度は、自分の本で本棚を埋めてやればいい。
魔導書に限らなくてもいい。趣味の本でも、自伝でも、何でもいいじゃないか」
パチュリーは、しばし考え込んだ。
自分にとって、あまりにも辛い出来事が多すぎた。
それらから逃れるように、経年劣化を防ぐために魔法で紅魔館の時間を止め、
さらに外界から姿を隠す結界を張り、内に籠もってきたのだ。
…外の世界を、観察する。
この身体では、恐らく、大きなリスクを伴うだろう。
それでも…生きる意味を見出せないまま、永遠の時を過ごすのは、それこそ死と変わらないのではないか。
一度、向き合い直してもいい頃なのかもしれない。
パチュリーは、静かに決心した。
外の世界へ旅立ち、その行く末がどうなったのか自分の目で見届け、
その先に、生きる意味を見い出そう、と。
< 第一章 彷徨 >
パチュリーは、西へ向かって空を飛びながら、眼下に広がる外界の様子を静かに見下ろしていた。
空を切る風の冷たさを肌に受けつつ、視線は常に地表に向けられている。
人間同士の大戦が終結してから、すでにおよそ百年が経っているため、
都市や街道は今や緑に覆われ、廃墟の輪郭すら曖昧になりつつあった。
自然は、ゆっくりと、しかし確実に領土を取り戻していた。ところどころには、野生動物の姿も見えた。
旅に出てから一週間ほどが過ぎた頃。
パチュリーは、朽ちた建造物を整備し利用した、人間の集落らしきものを発見した。
粗末な衣服を身にまとった人間たちが、慎ましく生活している。
規模は小さいが、畑と呼べる程度の耕作地も見受けられた。
―まだ、人間が生きている…!
その事実に、彼女の胸の奥で、わずかな波紋と動揺が広がった。
パチュリーは静かに地へ降り立ち、自身に魔法を施す。彼らと同じような服装に錯覚させる幻惑魔法だった。
集落へと歩み寄る。やがて、数人がその存在に気づいた。
「誰だ!」
鋭い声が飛び、警戒の色が一斉に広がる。
パチュリーは足を止め、両手を静かに上げた。
「…私は旅の者です。もしよろしければ、少し休ませていただけませんか」
声色は柔らかく、害意のなさを示すよう慎重に言葉を選ぶ。
人々は互いに顔を見合わせたが、目の前にいるのが力のなさそうな少女にしか見えなかったためだろう。
やがて、無言のうちに頷き合い、彼女を受け入れた。
◆
集落の中では、子どもたちが駆け回って遊んでいた。
時折、見慣れぬ来訪者であるパチュリーをちらりと見ては、不思議そうに首を傾げる。
だが、それ以上踏み込んでくることはなく、すぐにまた遊びへと戻っていった。
「疲れたろう。こんなものしかないけれど、お飲みよ」
中年女性が、ステンレスと思われるへこんだコップに入った白湯を笑顔で差し出してくれた。
パチュリーは礼を言って受け取り、一口すする。その暖かさは、空を飛んで冷えた身体に心地よく染み渡った。
パチュリーはこの集落に滞在する間、人々の話に耳を傾けた。
百年前の戦争で、ほとんどの人間は死に絶えた。
だが、わずかに生き残った者たちが、こうして小さなコミュニティを築き、細々と暮らしているのだという。
その生き方は、大きく二つに分かれていた。
ひとつは、農耕を行い、定住して生きる者たち。
もうひとつは、そうした集落を襲い、略奪によって糧を得る者たち。
ここにいる人々は前者であり、常に後者の襲撃に怯えながら日々を過ごしているのだと語った。
―そう言われて、ふと思い至った。
集落の離れに存在する、木の棒を十字に括り付けただけの簡素な墓標。
…その数が、やけに多いとは思っていた。
さらに、もうひとつ。
彼らの間では、すでに宗教や神、自然崇拝といった概念は失われていた。
この地獄のように過酷な世界で、祈りが何の救いにもならなかったことを思えば、無理もない話だった。
「嬢ちゃんみたいな別嬪さんが、外をうろついていちゃ危険だよ。
ここで、私たちと一緒に暮らさないかい?」
善良で人の良さそうな中年女性のその提案を、パチュリーは礼を失さぬよう、丁寧に断った。
◆
しばらく滞在した後、彼女は礼を述べ、集落を後にした。
再び空へと舞い上がり、集落から離れ上空を進んでいると、地上を移動する人間の集団が視界に入った。
それぞれが手に、槍や刃物のような即席の武器を携えている。
その進行方向は、先ほど立ち寄った集落と一致していた。
―あれが、略奪者たちか。
パチュリーは宙で静止する。どうすべきか少し考えた後―複雑な詠唱を紡いだ。
彼女の頭上に魔力の粒子が収束し、相互に反応を起こし、灼熱の疑似太陽―ロイヤルフレアが形成される。
圧倒的な魔力の凝縮体が、周囲の空気を歪ませた。
今まさに魔法を放とうとしたその時。
その集団の中に、粗末な槍のようなものを握る小さな子供が混じっているのが見えた。
よく見ると、背に赤子を背負った、痩せ細った女の姿もあった。
「…」
パチュリーは、詠唱を中断した。
頭上の疑似太陽は霧散し、跡形もなく消える。
―私に、彼らの生き死にを裁く資格はない。それは、ただの傲慢に過ぎない。
パチュリーは心の中でそう呟く。
―脳裏に、親切にしてくれた集落の人間たちの顔が一瞬浮かんだ。
思わず拳を握りしめる。その手が、僅かに震えた。
だが、それらを振り切るように、そのまま空を切って飛び、先へと進んだ。
略奪者の集団の、遥か頭上を越えて。
◆
パチュリーはあてもなく、ただひたすらに一方向へと飛び続けていた。
目的地があるわけではない。風の流れに身を委ねるように、大地を横切っていく。
その時、不意に、空気の質が変わった。
強烈な魔力の奔流。
それは彼女自身と拮抗するか、あるいは下手をすれば凌駕しかねないほどの濃度を持っていた。
驚愕と警戒が、ほぼ同時に胸中を満たす。
一体、何者なのか。もしこれが敵意を伴う存在であれば、戦いは避けられないだろう。
そうなれば、無傷で済む保証はどこにもない。
だが、それでもなお、好奇心が勝った。
この荒れ果てた大地で、妖怪の多くが消え失せた今、これほどの力を有する者がなお存在している。
その事実を、この目で確かめずにはいられなかった。
パチュリーは魔力の源を辿り、その気配の中心へと飛翔し、やがて地へ降り立った。
「貴方は…!」
思わず声が漏れた。そこに立っていたのは、
金と紫のグラデーションが入った長髪に、金色の瞳を持つ、擦り切れた外套をまとった僧侶の姿だった。
―聖白蓮。
その名が、記憶の底から静かに浮かび上がる。
「これは…お変わりなさそうで、何よりです」
白蓮は目を細め、穏やかな微笑を浮かべた。長い歳月を経ても、その眼差しに曇りはない。
「ええ。貴方もね…」
短い応答ののち、白蓮は静かに言葉を継ぐ。
「貴方と再び言葉を交わすのは、あの『戦争』以来でしょうか。
まさか、このような形で再会できるとは…これも、御仏のお導きでしょう」
そう言って、彼女は胸の前で静かに手を合わせた。
その言葉を聞いた瞬間、パチュリーの内奥に封じ込めていた記憶が、不意に呼び覚まされる。
抑え込んでいたはずの光景と感情が、堤を越えて溢れ出し、彼女は思わず顔を歪めた。
◆
―人類が滅び、多くの妖怪が消え去った。
残ったのは、神話や伝承に由来しない、血肉を持ってこの世に生を受けた妖怪たちだった。
かつて幻想郷では、妖怪が人里の人間を喰らうことは禁忌とされていた。
その代替として、境界を操る賢者によって、外の世界から「食料」が供給されていた。
自ら命を絶とうとした人間たちである。
だが、その供給は途絶えた。
やがて、人間という限られた存在を巡って、血で血を洗う争いが始まった。
人を喰らう妖怪。
人喰いだが、それを良しとしない妖怪。
人間を守ろうとする妖怪と、その人間たち。
それぞれの正義と生存本能が衝突し、争いは戦争へと拡大した。
スペルカードルールという抑制が外れた、文字通りの殺し合い。
その戦いは、凄惨を極めた。
その結果、さらに多くの妖怪と人間が消えていった。
戦火の余波は幻想郷の地を荒廃させ、博麗大結界は消滅した。
パチュリーは、その戦いの中で、かけがえのない存在を幾人も失った。
パチュリー自身も、多くの妖怪たちをその手に掛けた。
生き残ったわずかな妖怪、あるいは戦いを静観していた妖怪の多くは、
かつて幻想郷と呼ばれた地を去っていった。
その中には、友人の人形遣いの姿もあった。
恐らく彼女は、変わり果てたこの地を見るのが、耐え難かったのだろう。
―それ以降、冥界や地獄といった異界への道は閉ざされた。
聖白蓮は、人間を守る側に立ち、その力を惜しみなく振るったのだった。
◆
「…申し訳ありません。辛い記憶を…呼び覚ましてしまいましたね」
白蓮は一瞬だけ言葉を詰まらせ、わずかに視線を落としてから、静かに頭を下げた。
その所作には、形式的な謝意ではない、確かな悔恨が滲んでいた。
「…いいのよ。それより、貴方は何をしているの?」
話題を逸らしたつもりだったが、その声音には疲労の影が残っていた。
「私は、人々を救済するために各地を巡り、御仏の教えを説いています」
白蓮は真っ直ぐに答えた。その眼差しには一切の迷いがなかった。
自らの歩む道が定まっている者だけが持つ、揺るぎない確信がそこにあった。
「―そういう貴方は、なぜ外の世界へ出たのですか?
てっきり、昔と同じように図書館に籠もっているものとばかり」
その言葉に皮肉めいた響きはなかった。むしろ率直な疑問だった。
それでも、その問いはパチュリーの胸に小さく、しかし確かに刺さった。
「…」
パチュリーは、答えられなかった。
外の世界を巡り、その果てを見届け、何が見つかるのだろうか。
「貴方は、この世界で何を求め、生きているのでしょうか」
禅問答というにはあまりにも素朴な問いだった。
だが、その一言は、殴られたかのような衝撃をもって、パチュリーを揺さぶった。
なぜ、自分は生きているのだろうか。
「…分からない」
沈黙ののち、パチュリーはそう口にした。
「それを見つけるために、私は、旅をしている…」
取り繕うこともなく、逃げることもなく、ただ事実として吐露する。
「そうですか…」
白蓮はそう言うと、目を伏せた。
「いきなりの不躾な質問、謝罪いたします。
人であれ妖怪であれ、誰しも、迷いを持って生きるもの…。
御仏もまた、かつては迷い、苦しみ抜いた末、煩悩と無明から脱却し、悟りを開いたのですから」
白蓮の浮かべる笑みは、慈愛に満ちていた。
「もし進む道に迷っているのであれば、一度、ご自身の縁の地を訪ねてみてはいかがでしょうか。
さすれば、何か見つかるかもしれません」
その言葉とともに、パチュリーの脳裏に生まれ故郷の風景が浮かんだ。
英国、ハムステッド。落ち着いた、閑静で、緑に満ちた住宅街。
だが、そこに懐かしさはなかった。郷愁と呼べる感情は、もはや何一つ残っていなかった。
「…ありがとう。そうしてみるわ」
「貴方の行く末に、御仏の祝福がありますように」
白蓮は再び合掌し、深く頭を下げた。
< 第二章 故郷 >
「これで…よし、と」
パチュリーは、落ちていた木の枝で描いた五芒星を見下ろし、小さく頷いた。
円環と星が歪みなく描かれていることを確かめ、その中心に静かに立つ。
詠唱が始まると、五芒星を縁取る円が淡く光を放った。
次第に周囲の空気が震え、風が渦を巻き始める。
その風は、彼女の豊かな紫の髪を持ち上げ、ゆるやかに揺らした。
―瞬間。
パチュリーの足は地を離れていた。
周囲には何もない。空だけが、どこまでも広がっている。
「…どうやら、上手くいったようね」
パチュリーは転移魔法によって、ロンドン上空へと移動していた。
万一の事故を避けるため、転移先の座標は地表ではなく、空中を指定した。
眼下を見下ろしても、濃い霧が視界を遮り、地上の様子は分からなかった。
やがて、風に押されるように霧が流れ、徐々にその全貌が露わになる。
「…!!」
パチュリーは、息を呑んだ。
視界いっぱいに広がっていたのは、巨大なクレーターだった。
そこには、ロンドンの街の面影は、一切残されていなかった。
―これは、「太陽の兵器」。
私のロイヤルフレアと同じ原理を用いて、人間の手によって作られた、最凶最悪の爆弾。
それを、ロンドンに…。
クレーターの周縁をよく見れば、かつて建物だったものの残骸が、わずかに点在している。
それは、この圧倒的な破壊力の一端を、雄弁に物語っていた。
しばらく呆然とその光景を見つめていたパチュリーは、はっと我に返った。
「…ハムステッドは…?」
肝心の生まれ故郷は、どうなったのだろうか。
答えを求めるように、彼女は北へ向かって飛び立った。
◆
ロンドン北部に位置するハムステッド。
知識層が集い、節度と教養を身に纏った人々が暮らす、静謐な高級住宅街。
通りには手入れの行き届いた邸宅が並び、石畳と街路樹が、英国社会の安定と自負を語っていた。
―そう、かつては。
パチュリーはこの街で、ごく普通の中産階級である、弁護士と教師の夫婦のもとで産まれ、育った。
ロンドンの外縁部にあたるこの一帯は、爆心地から距離があったためだろうか。
往時の面影は流石に色褪せていたが、それでも建物の多くは辛うじて形を保っていた。
崩壊し尽くした都市の只中にあって、ここはまだ「街」と呼べる輪郭を留めている。
―人が、いる。
そこでは、人間たちが通りを行き交い、店先では商品が並べられ、路傍では幾人かが言葉を交わしていた。
目を凝らせば、衣服も建築も、日本で見たコミュニティよりは明らかに整っていた。
完全に失われてはいない文明の残り香が、そこには伺えた。皺ひとつないスーツに身を包んだ紳士の姿すらあった。
「…」
パチュリーは静かに地上へ降り立った。
日本の時と同様、幻惑の魔法を自身に施し、周囲に溶け込む装いに錯視させる。
彼女自身が英国出身である以上、外見に違和感が生じることはない。
◆
歩き回るうちに、このコミュニティの規模が想像以上であることが分かってきた。
小さな集落などではない。一つの街と呼ぶに相応しかった。
人々は比較的身なりが整っており、文明水準も中世後期から産業革命前夜程度には達しているように見える。
崩壊後の世界にしては、あまりにも秩序だった光景だった。
ふと、その中で異様に浮いた存在が目に入った。
周囲の整然とした建物とは対照的に、崩れかけ、打ち捨てられたような教会らしき施設。
引き寄せられるように近づき、内部を覗き込む。
―鼻を突く、強烈な異臭。
そこに広がっていたのは、異様な光景だった。
浮浪者と思しき者たちが、汚れたぼろ布を纏い、床に座り込み、あるいは横たわっている。
咳き込む病人の姿もある。白く漂う煙は、阿片か、それに類するものだろうか。
どのような時代、どのような世界であれ、貧富の差は必ず生まれるようだ。
奥に据えられていたマリア像は首を折られ、十字架はえぐり取られ、逆さに立て掛けられていた。
荘厳であるはずのステンドグラスには、赤いペンキのようなもので無造作に大きなバツ印が描かれている。
信仰と祈りを捧げる神聖な場とは、到底思えなかった。
―この地でもまた、人間たちにとっての神は、既に死んでいるようだった。
パチュリーは踵を返し、足早にその場を離れようとした。
その瞬間だった。
乾いた音が空気を裂いた。銃声―そうとしか思えない音。
◆
散発的に響く銃声。人々の怒号と、悲鳴。
街は一瞬で混乱に陥った。人々が、巣を突かれた蟻のように四散して逃げ惑う。
反対側から、制服に身を包んだ集団が銃を掲げ、隊列を組んで侵攻してくる。
やがて、市民服の集団が銃を手にして、建物や樹木を盾に、応戦を始めた。
銃はいずれも簡素な単発式だが、過去の遺物ではない。明らかに、この時代、この環境で製作されたものだった。
―内戦か、あるいは革命か…?
だが、どちらであろうと、結論は同じだ。パチュリーは小さく首を振り、息を吐いた。
そのとき、甲高い金属音が鳴り響き、背後の教会の壁に銃弾が突き刺さった。
流れ弾が彼女の魔法障壁をかすめ、軌道を逸れたのだ。
…ここには、求めるものは何も無い。
そう判断するのに、迷いはなかった。パチュリーは宙へ浮き、その場を離脱する。
背後では、人間たちの悲鳴と銃声が入り混じった狂騒曲が、
かつて彼女の故郷であった街を満たしていた。
◆
―ディーンの森。
パチュリーは、かつて紅魔館が存在していた森を訪れていた。
人の手がほとんど入らなかったせいか、森は原形を留めていた。
枯れた針葉が一面に広がっている。重なり合う枝葉の隙間から鈍い光が差し込んでいた。
あるいは一度、すべてが焼き払われた後、百年という月日によって、自然と再生したのかもしれない。
いずれにせよ、ここに人為の痕跡は乏しかった。
紅魔館は、今は日本に存在している。この地に残されているはずのものなど、何ひとつない。
理屈ではそう理解していながら、それでもパチュリーは、抗い難い引力に導かれるように歩みを進めていた。
やがて、針葉樹の木立が途切れる。
視界が開けた先に広がるのは、かつて紅魔館が建っていた広い空き地だった。
当然ながら、建物の影はない。だが、その中心に、人影があった。
そしてその人物の前には、簡素な墓標が二つ、並んで立っていた。
その姿を認めた瞬間、パチュリーは驚愕した。
白いシャツに、黒いベストとスカート。
燃えるような赤い長髪。
そして、頭と背に生えた黒い羽。
それは、記憶に刻み込まれた使い魔―小悪魔の姿と、寸分違わなかった。
「こあ…!」
抑えきれず、思わず大きな声で呼びかけた。
「ど、どうして…?死…消えた、はずじゃ…」
言葉が喉に詰まる。その手が、小さく震えた。
声に反応し、その人物はゆっくりと振り向いた。
顔立ちも、佇まいも、瓜二つだった。
だが、その小悪魔そっくりの女性は、わずかに首を傾げ、淡々と問い返した。
「貴方は…誰ですか?」
◆
事情を語り終えたパチュリーの前で、小悪魔の姿をした人物は、顎に手を添え、思案するような素振りを見せた。
その一挙手一投足は、かつての使い魔そのものだったが、表情には感情の揺らぎがほとんど見られなかった。
「なるほど…経緯は理解しました」
そう前置きした後、彼女は静かに告げる。
「ですが、私は貴方の言う『こあ』ではありません」
拒絶でも否定でもない、事実を淡々と告げた。
「貴方が契約していた『こあ』は、貴方を庇い、消滅した。ですが、それは死ではありません。
いわば、この世界に召喚された、ひとつの分霊が消えたに過ぎない…」
彼女は墓標に一瞬だけ視線を落とし、続ける。
「悪魔の本体は魔界に存在します。そして今また、分霊である私がこの地に召喚されたのです」
◆
小悪魔は、自身の経緯を語り始めた。
一年前。イギリスでは、生き残った人間たちは二つの勢力に分かれ、長きにわたる争いを続けていた。
ひとつは、巨大な爆心地を拠点とする悪魔崇拝者のカルト集団。
もうひとつは、ハムステッドを根拠地とし、自らをイギリス王室の血を引くと称する『キング』に率いられた集団だった。
後者は、限定的ながらも秩序と文明を維持しており、前者は次第に追い詰められていった。
劣勢を覆すため、カルト集団の教祖は禁じ手に踏み込む。悪魔召喚の儀式だった。
パチュリーはそこまで聞いて、一瞬、思索に耽った。
―本来、悪魔召喚とは、深い魔法知識と厳密な条件を要する行為である。
月の満ち欠け、星の並び、供物、緻密な魔法陣。
そのすべてが揃って初めて成立するものであり、素人の人間に扱える代物ではない。
これは推測に過ぎないが―
莫大なエネルギーが放出され、数十万の命が一瞬で失われた、爆心地というその特異な環境。
それが、現世と魔界の距離を縮める何らかの空間異常を発生させ、偶然にも召喚が成立してしまったのではないか。
召喚された小悪魔の力を頼りに、教祖は全面戦争を仕掛けた。
しかし、素人だったためか、その契約は不完全だった。
その隙を見抜いた小悪魔は、契約の不備を突いて戦いに介入することなく、ただ事の成り行きを見守った。
―そして、悪魔崇拝者たちは滅び去った。
◆
語り終えた小悪魔は、口を閉じた。
森には風の音だけが残り、墓標の前で、時間だけがゆっくりと流れていた。
「…なるほど。私がハムステッドで目にした集団は、その戦いに勝利した側だった、というわけね。
けど、内戦が起きているように見えたわ」
パチュリーは静かに問いを投げた。
「あぁ…あれは、『キング』が暴政を敷いた結果、革命が起き、市民軍と衝突しているようです。
カルト集団と争っていた頃は、英邁な指導者と評されていたようですが…」
小悪魔の淡々とした説明を聞きながら、パチュリーは胸の内で人間の愚かさを小さく嘲笑った。
どうやら、第二のマグナ・カルタとはいかなかったようだ。
飢餓に直面し、限られた食料を巡って争うのであれば、まだ理解の余地はある。妖怪すら、そうだったのだ。
だが、種そのものが絶滅の淵に立たされてなお、権力という名の魔力に囚われ、暴政を敷く。
その挙げ句、過去と何一つ変わらぬ流血の闘争を繰り返す。
―これはもはや、個人の過ちではない。
人間という種に深く刻み込まれた、逃れ得ぬ因果なのかもしれなかった。
それにしても…。
パチュリーは改めて目の前の小悪魔を見つめた。
―あまりにも、似すぎている。
否応なく、かつての日々が脳裏をよぎる。
紅魔館の図書館で、いつもそばに控えていた存在。
自分にとって、家族ともいえる、小さな悪魔の姿。
「…私には、以前の私の記憶が、ほんの僅かですが、断片的に残っています」
小悪魔はそう言うと、静かに墓標へと視線を向けた。
パチュリーもまた、その視線に導かれるように墓標を見る。
そこには、かつての親友と、その妹の名が刻まれていた。
「これは…」
思わず息を呑む。
同時に、過去の様々な想い出が、刹那の閃光のように脳裏を駆け抜けた。
「おそらく、術者の召喚術が不完全だったのでしょう。その影響で、以前の私の記憶が混線してしまった。
この二つの名前が、どうしても頭から離れず…この地で、弔わねばならない、と。
そうしなければならない、という強い意志だけが、残っていたのです」
小悪魔は感情を滲ませることなく、ただ墓標を見つめ続けていた。
―姿形は、かつての小悪魔と寸分違わない。
だが、明確な違いがあった。
以前の小悪魔は、人懐っこく、無邪気に慕い、感情を隠そうともしなかった。
笑い、怒り、泣き、明るく振る舞う存在だった。
一方、今ここにいる小悪魔は、常に一定の距離を保ち、冷静で、感情を表に出さない。
そこには、どこか人を寄せつけない冷たさがあった。
―だが、それでも構わなかった。
「…貴方は今、召喚者を失い、独りなのでしょう。もしよければ…私と一緒に来ない?」
パチュリーは、慎重に、だがはっきりと提案した。
「…私は、貴方の記憶にある私ではありません。あくまで、別の存在です」
小悪魔は視線を逸らさずに続ける。
「以前の私は、貴方と強い絆で結ばれていたのでしょう。ですが、その関係性を、私に押し付けられても困ります。
―それでも、いいのですか?」
その冷徹な眼差しが、パチュリーを射抜いた。
もちろん、心のどこかで、かつての小悪魔の面影を求めてしまう自分がいることも、否定はできなかった。
だが―
パチュリーは、再び墓標に視線を向ける。もし、あの吸血鬼の親友がここにいたなら。
きっと、いつものように、にやりと笑みを浮かべ、愉しげにこう言ったに違いない。
『かつての使い魔と同じ姿をした悪魔と、かつて紅魔館が存在したこの場所で再会する―
面白いじゃない。それこそ、運命かもね』と―。
そう、運命を感じざるを得なかった。
それに、互いに独りで生きている者同士。
であれば、共に生きよう、という申し出は、あまりにも単純で、自然な選択だった。
「ええ、貴方は貴方よ。それは、ちゃんと弁えているわ」
パチュリーの言葉に、小悪魔は一度目を伏せ、沈黙の中で思考を巡らせた。
やがて、静かに目を開き、小さく頷く。
「―かしこまりました。であれば、貴方にお仕えしましょう。―パチュリー様」
そう告げて、恭しく一礼する。
その場で、パチュリーは小悪魔と契約を交わした。
パチュリーが死ぬまで、傍にいること。
パチュリーが死した後、その魂を小悪魔に捧げること。
そして―
< 第三章 知識 >
パチュリーは小悪魔を伴い、イギリスを発ってドーバー海峡を越えた。
荒廃した大地を縫うように各地を巡り、彼女たちは進路を東へと定め、終わりの見えない旅を続けていた。
―バチカン市国。
かつてカトリック教会の総本山として、世界に絶対的な影響力を誇ったこの都市は、
周囲の地域と比して被害が少なく、なお多くの建造物が原型を保っていた。
さすがに、人間たちにとってもこの地を完全に破壊し尽くすことには、どこか躊躇いがあったのだろうか。
だが、その考えは、南東部に広がるサン・ピエトロ広場へ足を踏み入れた瞬間、無残に打ち砕かれた。
広場の中央にそびえ立つ象徴的なオベリスクは、爆撃を受けたのだろうか。
その胴は真ん中から無惨に折れ、表面には黒く焦げついた痕跡が生々しく残っていた。
そして―
まるで、そのオベリスクそのものを巨大な墓標と見立てるかのように、
根元には夥しい量の人骨が積み上げられていた。
白く乾いた骨の山は、沈黙のうちに、この地で起きた惨禍のすべてを物語っているかのようだった。
「パチュリー様…これは…」
小悪魔がその惨状を見て、立ち尽くした。
「…」
パチュリーもまた、言葉を失っていた。
だが、ここで何が起きたのかを想像することは、決して難しくはない。
この聖域においても、戦禍は容赦なく牙を剥いたのだ。
そのとき、視界の端で、かすかな動きがあった。
広場の片隅で、一人の人間の女性が膝をつき、白骨の山に向かって花束を供えていた。
祈りとも弔いともつかぬ、静かな所作。
こちらの存在に気づいたのか、その手がぴたりと止まる。
彼女は怯えたように身を翻し、背を向けると、逃げるように広場を後にした。
小悪魔は、取り残された花束に視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
「…行きましょう」
パチュリーは、それ以上、何も言わなかった。
◆
二人はサン・ピエトロ広場に面した、崩れかけの大聖堂の側廊を抜け、宮殿区画へと足を踏み入れた。
壁面を覆う宗教画、随所に配された天使像。
外観も内装も往時の姿を保っており、略奪や破壊の痕跡はほとんど見受けられなかった。
「…」
歩を進めながら、パチュリーは胸中で冷ややかな笑みを浮かべていた。
かつて魔女狩りを主導し、異端を焚書と火炙りの刑で排除してきたカトリック教会の総本山。
その頂点に立つローマ教皇の居城を、今や魔女と悪魔が我が物顔で闊歩している。
なんとも、皮肉に満ちた光景ではないか。
やがて、二人は目的の場所へと辿り着く。
―バチカン図書館。
宮殿内に存在するこの世界最古の図書館は、百万冊を超える蔵書と膨大な写本を擁し、
さらに文書室には、ローマ教皇が私有する数百万点に及ぶ記録が眠る、
人類史の記憶そのものとも言える場所だった。
「―まさに、奇跡ね。ほとんど無傷で残っている…」
パチュリーは、思わず呟いた。
視界いっぱいに広がる書架。
整然と並ぶ書物と文書は、かつての姿をそのまま留め、誰の手にも荒らされていなかった。
パチュリーの胸の奥で、抑えがたい衝動がざわめく。
長い時を生き、数え切れぬ書を愛してきた魔女の、本の虫としての本能が疼いていた。
「―しばらく、ここに滞在しましょう」
わずかに喜色を滲ませてそう告げると、パチュリーは小悪魔を振り返ることもなく、
無数の書棚が連なる迷宮の奥へと歩み去っていった。
「…」
残された小悪魔は、その後ろ姿を見送り、ほんの少しだけ呆れたような表情を浮かべた。
◆
それからしばらくの間、二人の周囲には、穏やかな日々が流れていた。
パチュリーは、心ゆくまで書物の海に身を沈め、来る日も来る日も読書に没頭した。
この歴史上きわめて重要な図書館には、
紅魔館の大図書館にも存在しなかった書籍や文書が、数多く眠っていた。
しかもそれらは、いずれも彼女の知的好奇心を強く刺激するものばかりだった。
それはもはや、知識の魔女に捧げられた宝物庫と言っても過言ではなかった。
だが、パチュリーはただ本を読み耽っていただけではない。
毎日、きっちりと時間を区切り、一科目につき九十分。それを六科目。
小悪魔はパチュリーから、各国の言語と文字をはじめ、地理、歴史、数学、物理、化学、魔法―
この世界における、そしてパチュリー自身にとっての「一般教養」とも言うべき知識を体系的に学んでいた。
何しろ、小悪魔はこの世界に召喚されてから一年、その殆どを、ほぼ独りで生き抜いてきたのだ。
知らぬこと、理解していないことは、文字通り山ほどあった。
小悪魔の理解力は驚くべきものだった。
一を教えれば十を知るかのように、それらの知識を次々と吸収していった。
教壇に立つように語るパチュリーの姿は、どこか楽しげに映った。
小悪魔が極めて優秀な生徒だったこともあるだろう。だが…
自らが長い歳月をかけて積み上げてきた知識が、誰かに受け継がれ、血肉となっていく。
その行為そのものに、彼女は確かな喜びを見出していたのかもしれない。
こうして、二人にとっての静かな平和は、ゆるやかに過ぎ去っていった―
◆
その平穏は、何の前触れもなく破られた。
いつものように、パチュリーが書物に目を落としていた、その時だった。
突如として、重く腹に響く轟音が鳴り渡った。
「…!?」
図書館全体が大きく揺れ、天井から埃が舞い落ちる。
次の瞬間、ガラス瓶のようなものが次々と投げ込まれ、乾いた音を立てて砕け散った。
炎が噴き上がり、瞬く間に広がって書棚を舐め尽くしていく。
パチュリーは、ほんの刹那の間に思考を巡らせた。
―サン・ピエトロ広場で、白骨に花を供えていた、あの女性。
人間と変わらぬ外見の自分はともかく、羽を持つ小悪魔の姿も、確かに見られていた。
恐らくは―
「小悪魔!」
パチュリーが、鋭く呼びかける。
「はっ、ここに」
影から滲み出るように、小悪魔が即座に姿を現した。
「…どうやら、泡沫の夢は、もう終わりのようね」
パチュリーは軽く首を振る。
その表情には、諦観とも、あるいは覚悟ともつかぬ、微妙な感情が滲んでいた。
炎は容赦なく、書棚を焼き、床を舐め、無数の書物を次々と飲み込んでいく。
歴史、哲学、神学、科学―。
一冊一冊に込められた、著者の思索、情熱、人生そのものが、区別なく灰へと化していった。
小悪魔は、その光景を見つめながら、胸の奥に形容しがたい感覚を覚えた。
こんなことは、初めてだった。
言葉にできない、重く、昏く、熱を帯びた何か。思わず、拳を強く握りしめる。
「―私が、始末しましょうか」
気づけば、そう口にしていた。目を細め、無表情のまま右手を胸元へ掲げる。
その掌に、赤く脈動する魔力の球体が浮かび上がった。
「…いや、放っておきましょう」
パチュリーは静かに目を伏せた。
「―勿体ないことを…。
今を生きるのに精一杯な人間たちにとっては、叡智の結晶も…もはや、ただの紙屑に過ぎないのでしょうね」
小さく息を吐く。
憂いを帯びたその美しい横顔を、燃え盛る炎の朱が照らし出していた。
パチュリーは詠唱を紡いだ。
次第に二人の周囲が淡く光を帯び、風が渦を巻くように集まってくる。
やがて、強い光が弾け、二人の姿はその場から掻き消えた。
直後、彼女たちが立っていた場所へ、炎に包まれた書棚が崩れ落ち、無数の火の粉が宙を舞った。
< 第四章 黄昏 >
―イギリスを出立してから、すでに十年近い歳月が流れていた。
パチュリーと小悪魔は、変わり果てた世界を渡り歩きながら、旅を続けていた。
旅路に起伏がなく、ただ移動だけが淡々と積み重なっていく時ほど、思考は否応なく内側へと沈んでいく。
景色を眺め、風を切り、先へと進むその時間は、外界よりも記憶と向き合うためのものになっていった。
荒野の上空を飛びながら、パチュリーはふと、若き日の自分を思い返していた。
魔女という種族。
親友の、吸血鬼という種族。
いずれも人間社会には居場所を持たず、陽の当たらぬ場所で生きる存在。
こんな自分たちが堂々と生きていける理想郷が、きっと世界のどこかにあるはずだ、と信じていた。
そう思って、小悪魔とともに世界中を巡った末―極東の地で、幻想郷を見つけたのだ。
そして今、再びもう一人の小悪魔と肩を並べ、世界を旅している。
西欧、東欧、中東―
だが、それは理想郷を探す旅ではない。この世界の行く末を見届け、自身の生きる意味を見出す旅。
その答えは、パチュリー自身にも、まだ見えていなかった。
ある土地では、食人を繰り返すうちに正気を失い、狂気の淵に沈んだ人々がいた。
ある土地では、人であることを捨て、森の中で野生動物のように暮らす人々がいた。
ある土地では、奇病が蔓延し、身体に異形を宿し、人としての尊厳を失ったまま、死ぬために生き続ける人々がいた。
日本でも、イギリスでも、そしてどの地でも共通していたことがある。
それは、神への信仰も、超自然的な崇拝も、すでに人間の中から消え去っていたという事実だった。
つまり、幻想郷のような仕組みは、もう二度と成立しない。
常識も非常識も、そのものが消滅した世界となっていたからだ。
◆
―東欧からアラビア半島を抜け、ペルシャ湾西岸の海岸線に沿って南下し、さらに東へと進む。
二人は、廃墟と化した建物の屋上に立ち、視界に広がる海を眺めていた。
かつて交易港として栄えたオマーンの海岸都市。
位置から考えれば、ここは、恐らく首都マスカット近辺なのだろう。
白い建物群は崩れ落ち、港は完全に沈黙していた。
それでもインド洋だけは、深い青をたたえ、何事もなかったかのようにそこに在り続けていた。
人間の営みが滅び去った一方で、自然だけが力強く生き残っている。
その対照が、痛々しいほど鮮明だった。
「前の私は、どんな人となりだったのでしょうか」
小悪魔が問いかける。
そこには好奇心というより、事実を確認しようとする、淡々とした響きがあった。
「そうね…ドジで、おっちょこちょいで、慌てん坊で…いつも、失敗ばかりしていたわ」
パチュリーは、くすりと小さく笑いながら答えた。
小悪魔は一瞬、わずかに憮然とした表情を浮かべたが、すぐにいつもの澄ました顔に戻る。
「…さぞかし、ご苦労されたのでしょうね。前の私が、ご迷惑をおかけしました」
神妙な面持ちで、大真面目に頭を下げる小悪魔の様子を見て、
パチュリーは堪えきれず声を上げて笑い、ごほ、ごほと少し咳き込んだ。
「貴方が謝ってどうするのよ」
「―いえ、何となく」
パチュリーはひとしきり笑った後、遠くの海へと視線を向けた。
「けどね。誰よりも頑張り屋で、努力家で、一途で…とても優しい心を持っていたわ。
そして、本を心から愛していた」
懐かしさを滲ませて語るその横顔を見ながら、
小悪魔は胸の奥に、じわりと温かい何かが広がるのを感じていた。
「…随分、私とは違うんですね」
無表情のまま、ぽつりと呟く。
「何を言っているの。貴方も、こあと同じ。優しくて、温かい心を持っているわ。私には、分かる」
パチュリーは柔らかな笑みを浮かべてそう告げた。
小悪魔は思わず視線を逸らす。
―それは、照れ隠しなのかもしれなかった。
「ごほっ、ごほっ…」
不意に、パチュリーが激しく咳き込んだ。
だが、それはいつもの発作とは明らかに違っていた。
彼女は思わず身体を折り、胸元を強く押さえる。小悪魔が即座に、細い身体を支えた。
次の瞬間、再び咳が込み上げ、泡立った鮮血が口元から飛び散る。
「パチュリー様…大丈夫ですか!?血が…」
小悪魔の声には、隠しきれない動揺が滲んでいた。
パチュリーは答えられず、ただ荒い呼吸を繰り返す。
「…はぁ、はぁ…」
苦痛に歪むその表情を見て、小悪魔は眉をひそめる。
「どうして…?これは、ただの喘息ではない…」
その疑問に、パチュリーはしばし目を伏せてから、かすれた声で答えた。
「…恐らく、残留放射性物質による被ばくが原因、でしょうね」
その言葉に、小悪魔が一瞬硬直する。
だが、すぐに理性的な疑問が浮かび、わずかに首を傾げた。
「―いや、ですが…人間たちの戦争から百年以上は経っています。
半減期を考えれば、放射線はすでに影響のない水準なのでは…?」
パチュリーは静かに目を閉じた。
ほんの短い逡巡の後、覚悟を決めたように口を開く。
「…私は、真の魔法使いとなるために『捨虫の術』を行使し、不老の身体となった」
突然の語りに、小悪魔は一瞬戸惑いを見せたが、口を挟むことなく耳を傾けた。
「寿命を縮める三尸(さんし)の虫。つまり、細胞分裂の回数制限そのものを、捨てる」
一拍置き、パチュリーは続ける。
「科学的に掘り下げて言えば、こういうことになるわ。
『細胞分裂の回数制限を司るテロメアを自動修復し、かつ代謝を極端に低下させることで、老化を防ぐ』―
私は吸血鬼の血を元に、その機構の部分のみを自分の細胞に転写したの。―それが、『捨虫の術』よ」
「…!」
その説明を聞いた瞬間、小悪魔の表情が変わった。何かに気づいたように、目を見開く。
「…貴方は、賢いわね」
パチュリーは、かすかに微笑んだ。
「通常の人間なら、体内に取り込んだ放射性物質の粉塵や、汚染された細胞は、
代謝によって排出され、更新されていく。だから大した影響は残らない。
けど…代謝が著しく鈍い私にとっては、それらは体内に長く留まり続ける毒になるの」
一瞬の沈黙。海の音が、遠くで規則正しく繰り返される。
「…パチュリー様」
小悪魔は、パチュリーをまっすぐに見据えた。
「貴方は、最初からそれを分かっていて、この旅を…?」
その問いに、パチュリーは迷いなく答えた。
「…何の後悔もないわ。貴方と、出会えたのだから。それに…もう少しで、『答え』が見つかりそうなの」
微笑みながらそう告げるパチュリーの横顔を見て、小悪魔はそっと視線を落とした。
波のさざめきと、潮風が吹き抜ける音だけが、二人の周囲を満たしていた。
「ですが…これ以上の旅は危険です。どうか、お願いです。…紅魔館に、戻りませんか?」
顔を上げて訴える小悪魔の表情には、わずかな感情の揺らぎがあった。
この十年という歳月の中で、彼女が真剣に気遣ってくれていることは、パチュリーにも痛いほど伝わっていた。
「最後に…行きたいところがあるの」
その声が、微かに震えていることに、小悪魔は気づいた。
だが、止めようとはしなかった。命を縮める覚悟の上で、ここまで歩んできた旅なのだ。
止められなかった。
「それは―どこでしょうか?」
小悪魔は、静かにそう問いかけた。
◆
―オマーン湾を一旦北上し、陸地に到達すると、そこから二人は東へと進路を取った。
途中、インダス川を越え、さらに果てしなく広がるタール砂漠を横断する。
「…?」
空を行くパチュリーの表情に、微かな戸惑いが浮かんだ。
既にインドの都市部の上空に差しかかっているはずだった。
だが、眼下に広がるのは、妙に起伏のある、荒涼とした大地ばかりで、街の廃墟すら見当たらない。
地図もなく、ほとんど目算だけを頼りに進んできた。
進路を誤ったのだろうか―そんな疑念がよぎる。
「…まさか…」
ひとつの考えが、胸の奥に冷たい影を落とした。インドは、世界有数の核保有国だ。つまり―
数十発に及ぶ「太陽の兵器」が投下され、この地のすべてを、灰燼に帰したのではないか。
改めて地上を見渡す。
都市の輪郭も、瓦礫の山もない。ただ、死の大地が、どこまでも続いている。
もはや、人の住める場所など残されていないのではないか―そう思えた。
「…」
小悪魔はその光景を見下ろし、わずかに首を振ると、静かに目を伏せた。
◆
―かつて、ムンバイと呼ばれていた場所。
パチュリーは、そこへ降り立った。
目の前に広がっていたのは、見渡す限りのごみの山だった。
文字通り、山と積み上げられた廃棄物が、地平線の果てまで連なっている。
急成長を遂げた国が抱え込んだ副作用。
人間の利便と繁栄の裏側で積み重ねられてきた、あらゆるツケが、この一地点に凝縮されたかのような、この地。
都市部は跡形もなく消えていたのに、ごみ山の一帯が形を留めていたことは、どこか皮肉に思えた。
「行きたい場所って…ここ、ですか?」
小悪魔が困惑した声で尋ねる。
今回ばかりは、その表情に隠しきれない戸惑いが浮かんでいた。
それも無理はない。病弱な身体を押して、わざわざ辿り着いた先が、この場所なのだから。
「ええ…」
パチュリーは、短くそう答えた。
やがて、太陽が傾き、沈みゆく。
空は朱に染まり、夕焼けとなって、辺り一面を照らし始めた。
「…わぁ…」
思わず、小悪魔の口から感嘆の声がこぼれた。
夕焼けの光が、ごみ山を照らし、世界を朱に染め上げる。
金属片や硝子の破片がその光を反射し、視界一杯に、無数の輝きとなって瞬く。
それは、どんな大自然の景観よりも、どんな宮殿よりも、どんな宝石よりも―
荘厳で、美しかった。
「この光景を…貴方に、見せたかったのよ」
パチュリーはそう呟き、感慨深げに、その景色を見つめていた。
「私に…?」
小悪魔はわずかに首を傾げる。
「それは、どういう…?それに、どうして、ここを…」
疑問を重ねる小悪魔に、パチュリーは答えようとした。
「ここはね、私の―」
だが、その言葉は途中で途切れた。ゴホゴホ、と、激しい咳が彼女の喉を突き上げる。
「パチュリー様!!」
小悪魔が即座に身体を支える。
その表情には、はっきりとした心配と気遣いが刻まれていた。
パチュリーは喀血し、ローブを赤く汚す。身体が、小さく震えた。
「…こあ、どうも、ありがとう。もう十分よ。帰りましょう、紅魔館へ…」
その声は弱く、だが、確かだった。
パチュリーは、この時初めて、かつての使い魔の愛称で、小悪魔を呼んだ。
―後に小悪魔が振り返ってみても、こう呼ばれたのは、この時が最初で、最後だった。
それは、身体を蝕む毒による苦痛の中、無意識の底から零れ落ちた呼び名だったのかもしれなかった。
< 第五章 記録 >
―紅魔館の図書館。
「ゴホッ、ゴホッ…」
静寂に満ちた書架の奥。
書斎の机に向かい、パチュリーは咳き込みながらも羽根ペンを走らせていた。
細い指先は震えを帯びながらも止まることなく、頁の上に文字を刻み続けている。
「パチュリー様、どうぞ」
小悪魔が静かに近づき、湯気を立てるカップを差し出す。
ふわりと立ちのぼる香りに、パチュリーは思わず目を瞬かせた。
「これ…ダージリン?よく、こんなものを調達できたわね…」
その言葉に、小悪魔はほんのわずかに口元を緩めた。
「パチュリー様と旅をした際に、こっそりと手に入れておいたものです」
―近頃、小悪魔の表情には、以前には見られなかった微かな感情の揺らぎが宿るようになっていた。
それに気づき、パチュリーもまた、釣られるように小さな笑みを浮かべる。
パチュリーはカップを手に取り、香りを確かめるように一度息を吸い込み、ゆっくりと口に含んだ。
「…美味しいわ。どうも、ありがとう」
紅茶を口にするのは、何十年ぶりだろうか。その温もりが、僅かに胸の奥を和らげた。
「随分と精が出ますね。何を執筆されているのですか?」
「…記録よ」
パチュリーは羽根ペンを置かずに答える。
「私が生きてきた証。誰と出会い、何を成し、どこへ行ったのか…。
その全てを、書き残しておこうと思ってね」
そう言った直後、再び喉が震え、ごほごほ、と咳が漏れる。
「パチュリー様…」
小悪魔はそっと背に手を当て、静かにさすった。
「へぇ…」
その様子を、本から顔を上げて眺めていた妹紅が、ぽつりと声をかける。
「長いこと留守にしていたが…やりたいこと、見つけたんだな」
「…ええ」
パチュリーは僅かに微笑む。
「貴方の助言のおかげかも、しれないわね」
ややあって、パチュリーは首を傾げ、思索するように妹紅を見た。
「妹紅…貴方は、既に見つけているの?」
その問いに、妹紅は一瞬、目を細めた。
すぐには答えず、長い沈黙を挟んでから、ゆっくりと口を開く。
「―私は、生きることそのものが、罰であり、償いなんだ」
本を閉じ、机の上に置き、俯く。
その表情には、迷いではなく、深く沈殿した後悔の色が滲んでいた。
「私は罪を犯した。それは、死んでも償えない。死ぬこと無く、生き続ける。
たとえ、世界が壊れようとも…この世に、私ただ一人になったとしても」
言葉を選ぶように、絞り出すように続ける。
「…それが、私の生きる意味だ」
語り終えた後、図書館には深い静寂が落ちた。
「…」
パチュリーは、何も言えなかった。
小悪魔もまた、ただ二人の姿を見つめるしか出来なかった。
◆
―それから数年。パチュリーは執筆を続けた。
完成した書籍は、数十冊に及んだ。
だが、その冊数に比例するかのように、パチュリーの体調は確実に悪化していった。
まるで、自身の生命の火を削り、その火を文字に乗せて、本に刻み込んでいるかのように。
やがて、起き上がることすら辛くなり、ベッドに横たわって過ごす日が増えていく。
それでも、羽根ペンを手放すことはなかった。
◆
「ごほ、ごほ…小悪魔…こ、こちらへ…」
天蓋付きのベッドで半身を起こしたパチュリーは、見るからにやせ細っていた。
頬はこけ、肌には生気がなく、かつての蒼白さとは別種の、衰弱の色が見て取れた。
「は、ここに」
小悪魔はすぐに枕元へと歩み寄った。
表情は努めて平静を装っているが、その瞳の奥では、抑えきれぬ動揺が微かに揺れていた。
「もう…私は、長くない…」
息を整えるように言葉を区切りながら、パチュリーは続ける。
「…まだ、まともに会話ができる今のうちに…貴方に、託したいことがあるの」
言い終える前に、喉が震え、激しい咳が込み上げた。
手で口元を押さえると、その指の隙間から、粘り気を帯びた血が滴り落ちる。
「パチュリー様…! そのような、弱気なことを…」
思わず声を上げかけた小悪魔を、パチュリーは小さく手を挙げて制した。
「…契約の内容は、覚えているわよね」
荒い呼吸の合間を縫うように、言葉を紡ぐ。
「私が死ぬまで、そばにいること。私が死んだら、その魂を、貴方に捧げること。そして―」
一瞬、言葉を切る。
「貴方は、何者にも縛られず…自分の意志で、自由に生きること」
喋るだけでも苦しいのだろう。パチュリーは左手で胸を押さえ、浅く息を吸った。
小悪魔は、黙って深く頷いた。
「だから…これは、命令でも、契約の強制でも何でもないわ。ただの…お願いよ」
視線を小悪魔に向け、言葉を選ぶように続けた。
「…私が、書いた本は…まだ、未完成なの。それを…貴方が、受け継いでほしい」
「パチュリー様…」
小悪魔は一瞬、言葉に詰まり、やがて困惑を滲ませて尋ねた。
「…ですが、何を、書けばよいのでしょうか…?」
「難しいことでは、ないわ」
パチュリーはかすかに微笑んだ。その笑みは、儚い灯火のようだった。
「貴方が、見て…聞いて…感じたこと。それを…思うままに、書けばいいのよ」
「…思うがままに…」
小悪魔はそう呟くと、視線を落とし、静かに考え込んだ。
◆
―小悪魔の目の前の机には、パチュリーが書き上げた数十冊の本が、整然と積み重ねられていた。
彼女の頼みを受けるにあたり、小悪魔はまず、それらを読ませてほしいと願い出た。
パチュリーは、その申し出を、迷うことなく受け入れてくれた。
書物の構成は、次のようになっていた。
なお、特に明確な分類名は付されていなかったため、以下の名称は小悪魔が便宜上付したものだ。
パチュリー自身の視点で綴られた、自身の歩みを記した『自伝』。
彼女が生きる中で関わった、百人を超える人間や妖怪たちについて、個々の人物像や出来事を記した『人物伝』。
なお、各編の末尾には、パチュリーによる人物評が添えられていた。
外の世界と幻想郷で起こった出来事を年代順にまとめた『年表』。
外の世界と幻想郷の地理、風俗、文化について、パチュリー自身の考察を交えて記された『地理・文化史』。
外の世界と幻想郷における超自然的現象、魔術的事象、各地の魔法体系を整理した『魔法史』。
後になって小悪魔は知ることになるが、『人物伝』『年表』『地理・文化史』といった構成は、
東アジアを中心に用いられてきた「紀伝体」と呼ばれる歴史書の形式と、驚くほどよく似ていた。
―つまり、これらは単なる記録ではなく、パチュリーなりの、自身にまつわる歴史を後世に遺すための事業でもあったのだ。
なお、これらの書は、日本語と英語の二言語でそれぞれ執筆されていた。
そして、その中で『自伝』のみが未完成のまま、残されていた。
◆
小悪魔は、『自伝』の最初の一冊を、静かに手に取った。
知識の権化とも言うべきパチュリーが執筆したものだ。
その先入観から、難解な専門用語に満ち、幾重にも修飾を重ねた、
読む者を選ぶ文章ではないかと、無意識のうちに身構えていた。
だが、頁を開き、数行を追ったところで、その予想はいい意味で裏切られた。
文体は驚くほど平易で、行間に無理な力みもなく、すらすらと視線が流れていく。
いわば、大衆小説に近い体裁だった。
…きっと、誰にでも読めるように、敢えて平易な表現にしたのだろう。
そう思いながら、小悪魔は最初の頁を捲る。
それは、主人の知られざる過去を辿る行為であると同時に、
まだ触れたことのない、彼女の根源へと踏み入る行為でもあった。
< 第六章 軌跡 >
物語は、幼少期の章から始まっていた。
パチュリーは十九世紀末、イギリスのハムステッドで生を受けた。
父は弁護士、母は教師。特別な家柄ではない、ごく一般的な中流知識層の人間の夫婦である。
しかし、この章で描かれる幼き日の彼女は、最初から「普通」からは大きく逸脱していた。
幼少期にして既に、いわゆる『ギフテッド』と称される天才的な知性を有し、
食事や睡眠をほとんど必要としない、生粋の魔女としての特異体質。
そして何より、魔法に関する知識と、桁外れの魔力量。
それらは祝福であると同時に、人間社会においては決定的な断絶を意味していた。
人と同じ速度で成長できない精神と頭脳。同年代の子供たちとは決して共有できない視座。
結果として、友人を得ることも叶わなかった。
母は出産時に命を落とし、父とも行き違いの末、パチュリーの側から一方的に離縁している。
後に、父は労働者の権利を巡る裁判で勝訴した祝宴の帰途、暴徒に襲われ命を落とした。
―これにより、彼女は血縁者をすべて失うことになる。
二十世紀初頭、英国で流行したオカルティズムと魔術思想に傾倒する大人たち―
文中では簡潔に『G.D.』とだけ記された団体に囲われ、神秘の象徴として祀り上げられ、
偶像として扱われながら成長していく様子が淡々と記されていた。
それは庇護であると同時に、逃げ場のない隔離であり、幼い少女にとっては極めて歪で異常な環境でもあった。
―自然と、思考は内向きになり、人との接し方がわからず、孤独を深めていった。
そんな中で、様々な出来事があり、やがて小悪魔や吸血鬼と出会い、生まれて初めて「友」と呼べる存在を得る。
そして、ほんの僅かではあるが、自身の居場所を見出していく…そんな内容だった。
小悪魔は、違和感を覚え、ふと頁を捲る手を止めた。
そして、頭の中で、今のパチュリーの姿を思い描く。
理性的で、穏やかで、少なくとも小悪魔の目には、優しさを失っていない存在。
この幼少期が、人格形成に深い歪みを残したであろうことは疑いようがない。
それと現在の彼女とが、どうにも結びつかなかった。
恐らく、この数百年で…特に、世界が死んだ後の、あの百年余りの歳月が、
彼女の内面を大きく変えていったのだろう。
小悪魔はそう結論づけ、再び頁に視線を戻した。
◆
続く章は、旅立ちの記録だった。
この世界のどこかに、魔女や吸血鬼であっても、胸を張って生きられる理想郷があるのではないか。
そう考えたパチュリーは、紅魔館を後にし、小悪魔とともに旅に出る。
英国を発ち、西欧から東欧へ。
さらに中東、インド、東南アジア、中華民国、そして日本へと至る長い遍歴。
その果てに、幻想郷を見出すまでの道程が綴られていた。
書籍を求め、魔法の研究を行い、各地で長期滞在を繰り返したため、その旅は数十年にも及んだ。
幼少期の章とは打って変わり、各国の文化風俗、土地の魔術的特性、民俗学的考察などがふんだんに盛り込まれ、
研究者としてのパチュリーの視点が色濃く表れている。
それは単なる回想ではなく、一種の旅行記としても成立しており、小悪魔の知的好奇心を強く刺激した。
だが、読み進めるうちに、小悪魔はある事実に気づき、静かに息を呑んだ。
記されている旅程が、自分自身がパチュリーとともに、滅びた世界で辿った行程と、ほとんど重なっていたのだ。
特筆すべきは、インドのボンベイ(注:ムンバイの旧称)における描写だった。
====『自伝』より引用=====
―ベイルートを発ち、蒸気船でスエズ運河を抜け、紅海を越え、さらにインド洋を渡る。
途中、マスカットに寄港しつつ、長い航路の果てに、ようやくボンベイの港へと辿り着いた。
埠頭には、英国製と思しき黒塗りのタクシーが数台、停まっていた。
ターバンを巻いたインド人の運転手たちが、蒸気船から降り立つ乗客を相手に、声高に客引きをしている。
私はその中から適当な一人を選び、行き先を告げ、少し多めのチップを握らせて車内へと乗り込んだ。
―道路事情が悪いのだろう。
舗装の不十分な路面を走るたび、車体は大きく揺れ、座席越しに振動が伝わってきた。
窓越しに街の様子を眺めていると、所々に神経質そうな表情を浮かべた英国兵や警官が立ち、周囲を警戒しているのが目に入る。
その立ち姿は、治安維持というよりも、むしろ張り詰めた緊張の象徴のように見えた。
「パチュリー様…大丈夫でしょうか」
小悪魔が心配そうに声を掛けてくる。
運転手に聞かれないようにするためだろう、使用していたのは英語ではなくドイツ語だった。
なお、頭部と背中の羽は、錯視の魔法によって既に不可視化している。
その主語の曖昧な問いかけに、私は僅かに眉を寄せた。
「この国では、英国からの独立運動が盛んだと聞いています。余計な騒動に巻き込まれなければよいのですが…」
「運動の指導者は、非暴力主義だと聞いているわ。なら、大丈夫でしょう」
そう答えながら、私は再び窓の外へと視線を戻した。
外界を見ているようで、その実、意識は別のところへと向いていた。
―自分は、なぜこの地へ来たのか。
その理由を、まだ言葉にできずにいた。
◆
―フォート地区。
小高い丘の上に築かれた白人街であり、
かつて東インド会社に勤める英国人たちが暮らしていた官庁街でもある。
…顔すら知らぬ私の祖父は、同社が統治権を王室へ移管し解散した後も、
法務顧問として残務処理に携わり、幼い頃の父とともに、この街で生活していたらしい。
だが、その事実を知っていたとしても、胸に特別な感慨が湧くことはなかった。
旅の途中、偶然通りかかった。それだけのことだ。
あくまで戯れに立ち寄ったに過ぎない。
―そう、自分に言い聞かせていた。
丘の上からは、眼下にインド人居住区やスラム街が広がっているのが見えた。
小悪魔は当面の宿泊先を探すため、別行動を取っており、合流までにはまだ時間がある。
―理由は分からない。だが、自然と足が動いていた。
丘を下り、雑多なインド人居住区を抜けていく。
道行く人々の視線が、時折こちらに向けられるのを感じたが、そこに露骨な敵意はなかった。
やはり、独立運動の指導者の思想が、人々の振る舞いにまで浸透しているのだろうか。
さらに足を進め、スラム街へと至る。
粗末な小屋やテントが、隙間を埋めるように無秩序に建ち並び、
街というよりは、寄せ集められた生活の残骸のようだった。
汚れたボロ布を纏った現地民たちが、こちらを物珍しげに、あるいは胡乱げな目で見つめてくる。
一見して裕福と分かる身なりの若い白人女性が、このような場所を物見遊山で歩くのは危険極まりなく、
客観的に見れば異質で、無謀としか言いようがなかっただろう。
それでも私は、周囲の視線を意に介することなく、ためらいもなく、さらに奥へと歩みを進めていった。
◆
そして、私はたどり着いた。
理由は分からない。なぜ数ある行き先の中から、この場所を選び、目指したのか。
自分自身に問いかけても、明確な答えは返ってこなかった。
ただ、そうしなければならない、という曖昧で確固たる衝動だけが、私の足をここへ運ばせた。
―デオナールごみ集積場。
眼前には、不要となった物、役目を終えた物、何の価値もない物たちが、
無秩序に積み上げられ、巨大な山を成している。
その斜面を、現地のストリートチルドレンたちが器用に歩き回り、
まだ使えそうな金属や布切れを探しては掘り返していた。
やがて、太陽が傾き始める。
昼と夜の境界が、ゆっくりと溶けていく。
―視界のすべてを覆い尽くすかのような、朱の光。
沈みゆく太陽が、容赦なく、そして平等に、この地を照らし始めた。
目の前にあるのは、ただのごみ山だ。
誰からも見向きもされず、不要と断じられ、捨てられた物の集合体にすぎない。
―それなのに。
夕日に染め上げられたその山は、信じがたいほどに輝いて見えた。
どんな王宮よりも、どんな大理石の回廊よりも、どんな宝石を敷き詰めた広間よりも、
鮮烈で、息を呑むほど美しかった。
価値のないものが、価値を超えて輝く。
その矛盾を孕んだ光景に、私は言葉を失い、ただ立ち尽くすしかなかった。
「お嬢さん、こんなところで一人は危ないですよ」
背後から、穏やかな声がかけられた。
振り返ると、インド人の男性が立っていた。白髪交じりの頭。年の頃は六十前後だろうか。
仕立てのよいスーツに身を包み、その上からでも分かる引き締まった体躯。
年齢を感じさせない精悍な顔立ちは、不思議と若々しく映った。
「―父と、祖父が…この街で暮らしていたと聞いて」
言いながら、自分で驚いていた。
初対面の人間相手だというのに、なぜか、その言葉が自然に口をついて出たのだ。
自分の家族のことなど、友人にすら語ったことがなかったというのに。
「ああ、あの白人街のことだね。昔は多くの英国人が居たけど、
今は事業で成功した、裕福なインド人たちが住んでいるよ」
彼自身もまた、その「成功した側」の人間なのだろう。スーツの質感が、それを雄弁に語っていた。
「…貴方こそ、こんな場所に居たら危ないんじゃなくて?」
私は、ほんの少しだけ意地の悪さを込めて言った。
男性はそれを咎めるでもなく、懐かしむように目を細めた。
「―子供の頃、このごみ山に登って夕日の景色を眺めるのが好きでね。今でもこうして、たまに訪れるんだ。
そうそう、アーサーという白人の子供も、一緒だった」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が大きく揺さぶられた。
私は思わず、男性の顔を凝視していた。―それは、父の名だった。
男性は、私の動揺には気づかないまま、言葉を続ける。
「彼はいつもボロ服を着ていたけれど、話し方や立ち居振る舞いで分かるんだ。
中流家庭の出だってね。そういえば、微かにパチュリーの香油の匂いを漂わせていたよ」
思わず息を飲んだ。
自分の名が、まさかこんな形で、過去と繋がるなんて。
「夕日を眺めながら、『貧しい人を助ける弁護士になるんだ』とよく言っていたが…
いや、すまない。君には、関係のない話だったな」
男性はそう言って、頭を掻き、少し照れたように笑った。
その仕草は、どこか少年のようだった。
―貧しい人を助ける弁護士。
間違いない、父だ。
「いえ、興味深いお話を、どうもありがとう」
一瞬、「私は、アーサーの娘です」と名乗りかけた。
だが、その言葉は喉の奥で消え、代わりに、まったく別の言葉が口をついた。
「分かる気がするわ。この光景は―どんな宝石の山よりも、美しく見えるから…」
男性は、ふっと微笑んだ。
朱の光が、二人を包み込んでいた。
夕日は、世界のあらゆる境界を溶かしていた。
立場も、人種も、思想も、宗教も、貧富の差も。
種族の違いさえも、その光の前では、取るに足らないものに思えた。
―幼い頃の父が、かつて見ていた光景。
縁を切り、死に別れ、記憶も曖昧になったはずの存在。
それでも、もしかしたら、私は…無意識のうちに父の面影を、血の繋がりを求め…そして、ここへ導かれたのだろうか。
今にして思えば、私はこの光景に、自らが求める理想郷の姿を、重ねて見ていたのかもしれない。
===========
小悪魔は、そこまで読み終えると、静かに本を置いた。
ムンバイでの夕日の光景は、パチュリーが父の友人とともに見ていたものだった。
時を隔て、今また、同じ朱に染まった世界を前にして、彼女は何を思っていたのだろうか。
失われたはずの繋がりを、改めてその眼で確かめながら。
―これは、あくまで想像に過ぎない。
だが…過去と同じ行程を辿り、世界中で変わり果てた姿を見続けてきた末に、
最後に辿り着いたのが、あの矛盾に満ちたごみ山だったことには、意味があるように思えた。
文明の残骸が折り重なり、価値を失ったものだけが集められた場所。
そこで彼女は、もう一人の小悪魔―自分とともに、変わらぬ美しさを見たのだ。
それは父がかつて見た光景であり、父から受け継がれ、
そして今また、誰かへと手渡されようとしていたのではなかったか。
「この光景を貴方に見せたかった」
彼女は、確かにそう言っていた。
それは単なる回想の共有ではなく、意志の伝達だったのかもしれない。
記憶の継承。
自身が生きた証、その軌跡と歴史を、書物という形に封じ込めること。
消えゆく存在が、なお誰かの未来に触れようとする行為。
そして、もしかしたら。勘違い―いや、ただの願望なのかもしれないけれど…。
それは、私が生きるための道標として、意図的に残そうとしたのではないか。
壊れてしまった世界の中で、それでも前を向くための、自分なりの、生きる意味なのだと。
そう、思ったのだ。
◆
物語の最後は、幻想郷の章だった。
幻想郷という名の理想郷を見出したパチュリーは、一旦紅魔館へと戻り、数十年という歳月を研究に費やす。
やがて博麗大結界を越え、紅魔館そのものを幻想郷へ転送するという計画を実行に移した。
幻想郷への移住直後、彼女は親友である吸血鬼の提案を受け、『紅霧異変』と呼ばれる異変に協力する。
同地の人間の調停者と、『スペルカードルール』なる平和的決闘手段によって争い、最終的に敗北する。
興味深いのは、パチュリーがこの異変に対して、最後まで難色を示していた点だった。
親友の勢いに押され、渋々協力する形ではあったが、この二人の関係性はその後も幾度となく描写される。
衝突と妥協、理性と奔放。その対比は、どこか微笑ましく、同時に深い信頼を感じさせた。
以降、書物には様々な異変と日常が記されているが、その筆致には、明らかに感情と郷愁が滲んでいた。
おそらく、彼女にとって最も穏やかで、安らぎに満ちた日々だったのだろう。
―そして、それは起こった。
人間が滅んだ戦争。そして、人間という食料を巡る、妖怪同士の戦争。
このあたりから、文字に乱れが目立ち始める。
体調の悪化によるものだろうが、記されている内容の救いのなさによって、影を落としているようにも思えた。
どちらにせよ、読み進めるだけで胸が締め付けられるようだった。
感情は極力排され、事実が淡々と書き連ねられている。
だが、その行間からは、拭いきれない孤独が滲み出ていた。
戦争が終わった後、彼女は日々を過ごし、本を読み、自身がいなくなった後の準備を整える。
稀に訪れる妹紅との会話だけが、かろうじて生きていることを示す証明となっていた。
―やがて、意を決し、生きる意味を探すための旅に出る。
その行き着く先は、かつて紅魔館が存在した森の中。
そこで彼女は、もう一人の小悪魔と出会う。
―『自伝』は、そこで終わっていた。
小悪魔は、そこに込められたパチュリーの明確な意図を読み取っていた。
ここからは、貴方に続きを任せたい―
そう、静かに語りかけられているように感じられた。
< 第七章 継承 >
―それから、小悪魔は、折を見ては本を書くようになった。
日々の隙間に、わずかな時間を見つけては、机に向かう。
最初は、何を書けばよいのか分からなかった。白紙を前に、羽根ペンを持つ手が止まることも多かった。
だが、やがて、ほんの断片からでも構わないのだと気づき、少しずつ言葉を書き留めるようになっていった。
イギリスで召喚された日のこと。
人間たちが繰り広げた、醜く、救いのない争い。
朧気に残る、吸血鬼たちの記憶。
森の中で墓標を立てたこと。
魔女との邂逅。
共に世界を巡り、旅をしたこと。
バチカン図書館で、炎に包まれていく書物を目にし、初めて、怒りという感情を覚えたこと。
オマーンで、かつての「私」について語られるのを聞き、初めて、胸の奥に温もりが宿ったこと。
ムンバイで、夕日に染まるごみ山の光景を前にし、初めて、美しいと感じたこと。
その日は、驚くほど筆が進んだ。
頁は次々と埋まり、丁寧で几帳面な文字が、綴られていく。
小悪魔は書き終えた本を見下ろし、満足そうに小さく頷いた。
その足で、パチュリーの私室へと向かう。扉の前で一度立ち止まり、ノックをする。
「失礼します」と声を掛けてから、静かに入室した。
「パチュリー様、今日は大分書けましたよ」
自然と笑みが浮かび、そう報告する。
ベッドの端に、遠慮がちに腰を下ろした。
「少し…パチュリー様のお気持ちが、分かった気がします」
そう前置きしてから、言葉を続ける。
「書物って、いいですね。その人の人生のすべてが、そこに宿っていて…」
小悪魔は、少し宙を見つめた。言葉を選ぶように、間を置く。
「…前の私は、書物が大好きだったんですよね。
―私も、同じように…好きに、なれるでしょうか?」
答えは返ってこなかった。
パチュリーの表情は、ただ安らかだった。眠っているのだろうか。
そう思い、小悪魔は首を傾げる。
「パチュリー様?」
声を掛けながら、その手を取る。
「………」
小悪魔は、ゆっくりと目を伏せた。
わずかに、身体が震える。
―永遠にも思える長い沈黙が、部屋を満たした。
「…そうだ」
不意に、言葉を絞り出すように口を開く。
「今度、妹紅さんがいらっしゃった際には…外の庭園で、皆で…一緒に、お食事しませんか?」
声はかすれ、微かに揺れていた。
「大した食材はないですが…私が腕によりをかけて、料理…しますから…」
それは、必死に日常を繋ぎ止めようとする呼びかけだった。
「……きっと……」
小悪魔は俯いた。
その目端に、確かに光るものが、滲んでいた。
◆
―紅魔館の図書館。
小悪魔は、書斎で一冊の本を書いていた。
羽根ペンを頁に走らせる小さな音だけが、広大な図書館に微かに響いている。
―静寂。
辺りは、昼とも夜ともつかぬ薄明に満ちている。
高い天井、果てしなく続く書架、その奥に沈殿する時間。
机に向かう小悪魔の羽根ペンの運びには、迷いがなかった。
紙に触れる音だけが、規則正しく、静寂を刻んでいる。
そこへ、足音がゆっくりと近づいた。
「随分、精が出るな」
妹紅の声は低く、柔らかい。
小悪魔は顔を上げ、振り返る。驚きはなく、どこか安堵を含んだ表情だった。
「ええ…約束ですから」
そう言って、小悪魔は微笑んだ。
「そうか…」
妹紅は一歩だけ近づき、書きかけの頁に目を落とす。
そこに記されている文字を読むことはしなかった。
ただ、その積み重なった時間の重さを感じ取るように、静かに頷く。
「…お前は、見つけたんだな」
その言葉に、小悪魔は穏やかな笑みを浮かべた。
妹紅は、ふっと口元を緩める。
―パチュリー様の魂は、私の中で、今も静かに呼吸をしている。
小悪魔は、心の中でそう言葉にする。
それは比喩でも、慰めでもない。確かな実感だった。
契約によって、私は自由を得た。
命令ではなく、自らの意志で選び、考え、歩む自由を。
ならば―
パチュリー様、見ていてください。
貴方が積み重ねてきた思索も、言葉も、意志も。
私はそれを受け継ぎ、私なりの形で…生きていきます。
小悪魔は再び羽根ペンを取り、頁へと向き直る。
―図書館は、今日も静謐に、悠久の時を刻んでいた。
誰かの願い、情熱、希望、人生。それらの思いが込められた、無数の蔵書を抱えて。
Fioさんが長い時間をかけ、考え抜いてきたことが伝わる良い作品でした。
キャラクターそれぞれの感情が精密に描かれ、読む手が止まりませんでした。
ポストアポカリプスな世界で旅するパチュリーに哀愁と無常を感じました
自伝を紡いだりそれを託したりと小悪魔との絆もよかったですが、最期の死に場所に故郷よりも紅魔館を選んでくれたところが嬉しかったです