苔の匂いがした。
陽の傾いた秋の午後、東福寺の方丈庭園は訪れる人もまばらだった。敷き詰められた白砂に刻まれた波紋が午後の光を受けて、砂粒の一つ一つが微細な影の稜線を作っている。量子スキャンデータから原子配列ごと再構成されたというこの庭園は、復元からすでに十数年が経って、もはや「再建された寺院」から「ただの寺院」になりつつあった。苔は雨を吸って自分で育ち、白砂は風で少しずつ乱れて、住職が毎朝熊手で整え直している。復元された瞬間の姿はとうに失われている。だけど、それを惜しむ人がいないのは、たぶん正しいことだ。
庭の本来の姿だって、日々変わっていたのだから。
「メリー、こっち」
蓮子の声が方丈の奥から聞こえた。回廊の角を曲がったところで手を振っている。黒い帽子がいつもより傾いているのは、さっきから柱の木目を覗き込んでいたせいだろう。
彼女のそういうところが好きだ。科学者というのは、目の前のものを子供みたいにまじまじと見つめる生き物なのだと、蓮子を見ているといつも思う。
「この木目、見て。年輪の間隔まで完璧に再現されてるの。量子復元ってやっぱりすごいわ」
蓮子は柱に頬を寄せるようにして目を細めていた。細い指が木の表面を滑り、微かな凹凸を確かめている。指先に残る感触を頭の中で分子構造に変換しているのだろう。蓮子にとって触覚は分析の手段だ。
「でも蓮子、それは木じゃないんでしょう」
「構造としては木だよ。セルロースもリグニンも同じ分子配列で再構成されてる。化学分析しても天然木と区別がつかない」
「分子が同じなら、木なの?」
「それを訊いてるの、メリー」
蓮子は柱から顔を離して、いたずらっぽく笑った。
——ここで少し、立ち止まる。
今の会話を反芻しながら、私は庭園に足を踏み入れたあたりから断続的に感じている、かすかな何かのことを考えていた。
境目、ではない。境目なら私には見える。空間にうっすらと走る裂け目、結界の綻び——あれには色があり、方向があり、厚みがある。長年見続けてきたから、新しい境目を見つけたところで胸が騒ぐこともない。そういうものだ。世の中には私にだけ見える線が走っている。それはもう、私の現実の一部になっている。
今感じているのは、それとは質の異なるものだった。方向を特定できない、一様な圧力。どちらかと言えば、見られている、という感覚に近い。
けれど気に留めるほどのことでもなかった。この種の曖昧な知覚は日常的に経験する。意識の閾値が下がっている時にノイズを信号として拾ってしまう、相対性精神学では既知の現象だ。
私は蓮子の後について回廊を進んだ。
方丈の北庭に出ると、市松模様の苔庭が広がっていた。正方形に区切られた苔と白砂が交互に並ぶ。苔は復元後に自生したものだと聞いていたが、量子復元された土壌が元の菌叢まで再現していたおかげで、苔は寸分違わぬ場所に寸分違わぬ種が生えたという。人間が意図的に植えたのではなく、環境を元通りにしたら苔が勝手に元通りに生えた。
結果だけ見れば、それは元の庭園そのものだった。
「蓮子は、これを本物だと思う?」
私は石に腰を下ろしながら訊いた。蓮子は庭園を一望できる縁側に陣取って、足を投げ出している。帽子を膝の上に載せ、秋の風に前髪を遊ばせていた。
寺社の甍の向こうに、遷都後の京都の輪郭が見える。超高層のガラス壁面が夕陽を反射して、方丈の屋根瓦に橙色の光を投げかけていた。首都機能を担うビル群と千年の寺社が同じ空を分け合っている。この街の不思議なところは、その取り合わせを誰も奇妙に感じないところだ。
「本物の定義次第ね」
蓮子は夕陽に目を細めながら答えた。
「物質的には本物と区別できない。組成も構造も同一。でも歴史的連続性がない。元の東福寺は大震災で焼失して、これはそのデータから再建されたもの。だから系譜としては別物」
「じゃあ偽物?」
「偽物とも違う。偽物は本物のふりをするものでしょう。これは本物の情報から本物を再構成してる。コピーというより……復活?」
「死者の復活と同じ議論になるわね」
「そう、そこが面白い」
蓮子の目の奥に小さな火が灯った。面白い問いに出会った時の蓮子は、思考の速度が跳ね上がるのが外から見ていてもわかる。言葉と言葉の間の沈黙が短くなり、視線が一点に固定される。
「テセウスの船は部品を一つずつ交換した場合の同一性を問うけど、これはもっと根本的なの。完全に消失したものを情報から丸ごと再構成してる。連続性がゼロの状態から。超統一物理学の観点から言えば、情報が保存されている限り同一性は維持される——情報は物理的な基体に依存しないから。でも直感的には引っかかるでしょう?」
「引っかかる」
「その引っかかりの正体が知りたい」
私は少し考えた。蓮子に問われると、自分の直感を精密に言語化する必要に迫られる。それは心地よい負荷だった。
「たぶん、観測の問題だと思う。この庭を見ている私は、これが復元されたものだと知っている。その知識が、庭の見え方を変えてる。もし何も知らずにここに来たら、ただの東福寺として受け入れたはず」
「つまり庭の同一性は、庭自体の性質ではなく、観測者の知識に依存すると」
「少なくとも部分的にはそう」
蓮子は満足そうに頷いた。
「いい線いってる。もう一歩進めていい?」
蓮子はいつも、思考の階段を三段飛ばしで上がる。私が一段ずつ確かめながら登るのとは対照的に。でもだからこそ、この二人でいる意味がある。蓮子が飛んだ先の地盤が本物かどうかを確かめるのは、たいてい私の仕事だ。
「復元が完璧だとする。完璧すぎて、もし復元されたもの自体に意識があったとしたら、自分が復元されたことを知覚できない。自分を本物だと確信している」
「それはもう本物でしょう。少なくとも本人にとっては」
「そう。じゃあ、そのとき——本物と復元を区別しているのは誰?」
蓮子が私を見た。夕陽を背にして、顔の半分が逆光で影になっている。でも目だけが光っていた。星を見て時刻がわかる目。世界の数理的構造を裸眼で読み取る目。
「本人が区別できないなら、区別は外部にしか存在しない。外側から見ている誰かが、『これは復元されたものだ』という文脈を持っているから、区別が成立する。外部の観測者がいなければ——」
「——区別は消える」
「そう。同一性を規定しているのは、対象の内部ではなく、対象の外側にある」
その瞬間。
あの感覚が、また来た。
見られている。
さっきよりも明瞭に。方向のない圧力が、空間のあらゆる場所から均等に押し寄せてくる。境目ではない。境目には裂け目があり、向こう側がある。これには裂け目がない。ただ偏在している。何かが、この空間全体を——私たちを含むこの空間の全体を——外側から見ている。
私はその感覚を相対性精神学の枠組みで処理しようとした。外部からの観測圧。意識が別の意識によって参照されている時に生じる、再帰的な知覚負荷。教科書には載っている。だが教科書の記述は、観測者が同一の時空にいることを前提にしている。今感じているものは、どうも、その前提の外にある。
けれど——取り乱すほどのことでもなかった。何であれ、敵意は感じない。ただ、ある。存在している。
「メリー」
蓮子の声で意識が戻った。彼女は私を見ていた。目が細い。観察の目だ。
「さっきから時々、どこか別のところを見てるでしょう」
蓮子の洞察力を甘く見てはいけない。プランク並の自称は冗談だとしても、彼女の分析は鋭い。データが揃えば結論に至るまでの速度は、私が知る限り他の追随を許さない。
「……見てるというか、感じてる。庭に入ったあたりから断続的に」
「境目?」
「違う。方向がない。偏在してる。何かが——目のようなものが——どこからともなく見ている、としか言えない」
蓮子は数秒黙った。帽子のリボンを無意識に指先で弄んでいる。思考が加速している時の癖だ。
「メリー。今、私たちが話していたことと同じだよ」
「……」
「復元された存在が自分を本物だと思っているとき、それを外から規定しているのは何か——って話。メリーが感じてるその目のようなもの。それが外部の観測者だとしたら?」
呼吸が止まるかと思った——が、止まらなかった。
蓮子に言われて、ああ、と思っただけだった。
驚くべきことを言われた時に驚かない自分がいる。長い間、常人には見えないものを見続けてきた副作用かもしれない。境目が見えることに慣れたように、見られていることにも、不思議なくらいあっさりと順応している自分がいた。慣れ、という言葉で片づけてしまえば簡単だけれど、それは多分、もう少し深い場所にある何かだ。私が私であることへの、言語化しがたい確信のようなもの。何が外から見ていようと、何が外から私を規定していようと、この私という意識の手触りが変わるわけではない。
相対性精神学が教えるところでは、意識は関係性の中に存在する。何を知覚し、何に知覚されるかが、意識の輪郭を形作る。だとすれば、新しい観測者が加わることは、私の意識の輪郭が少し広がるだけのことだ。
蓮子は帽子を手に取って立ち上がり、庭園を見渡した。市松模様の苔庭に、長い影が横たわっている。遠くで超高速鉄道の低い走行音が聞こえた。空気を裂くのではなく、空気を押しのけるような、重い振動。
「高次元からの観測だとすれば、物理学的には矛盾しない」
蓮子の声が変わっていた。遊びの混じった知的好奇心から、純粋な分析のモードに切り替わっている。
「ホログラフィック原理——三次元空間の情報が二次元の境界面に符号化されているように、私たちの世界の全情報がより高い次元から参照されている可能性がある。参照している知性から見れば、私たちの世界は情報の集合体にすぎない。でも情報の集合体である私たちは、内部から見れば完全に実在している。復元された東福寺と同じ構造だよ」
「蓮子。もう少し精密に言って。参照と観測は違うでしょう」
「違う。観測は物理的相互作用を含む。参照は情報の読み取りだけで済む」
「今、私が感じているのはどっち?」
蓮子が少し考え込んだ。風が庭園を渡って、苔の匂いを運んできた。
「……参照だと思う。もし物理的相互作用を伴う観測なら、メリーの知覚にもっと明確な方向性があるはず。偏在する圧力というのは、情報が一方向的に読み取られている時の特徴に近い」
「読み取られている」
「うん。もう一歩踏み込んでいい? 情報を読み取る知性がいるとして、その知性が単に読み取っているだけなのか——それとも、記述しているのか」
記述。
その言葉が落ちた瞬間、会話の位相が変わったのを感じた。読まれている、ではなく、書かれている。私たちの思考も、会話も、この庭園の夕暮れも、すべてが何かの知性によって記述された結果なのだとしたら。
蓮子の目が変わっていた。分析のモードからさらに一段——未踏の問題に足を踏み入れた時の、あの輝き方。
「メリー。これ、私たちがずっと追いかけてきたものと同じ構造だよ」
「結界、ということ?」
「結界は二つの世界を隔てる。こちら側の因果とあちら側の因果は、境界面を挟んで別々に走っている。メリーにはその境界面が見える——」
蓮子は庭園に手を広げた。市松模様の苔庭が夕陽の最後の光に赤く染まっている。
「もし記述する知性がいるなら、その知性とこの世界の間にも同じ構造の境界がある。あちら側からこちらを記述していて、こちらからはあちら側を検証できない。メリーが庭に入ってから感じていたもの——あの偏在する圧力は、境界面を越えてくる力だ」
「……それは科学的に検証できるの」
「できない。記述する知性がこちらの因果の外にいる以上、こちら側の手段では検証不可能だよ。検証可能性の外にあるもの——つまり」
「オカルト」
「秘封倶楽部の管轄だね」
蓮子は笑った。けれど目は笑っていなかった。目は本気だった。
「記述者の性質について、もう少し詰めたい。メリー、相対性精神学の枠組みで何か言える?」
私は自分の感覚を丁寧に辿った。苔の匂い。夕陽の残温。蓮子の声の輪郭。意識を構成しているものを一つ一つ確かめるように。
「さっき、意識は関係性の中に存在すると言ったでしょう。もし記述する知性が存在するなら、その知性との関係性は、理論上は私の意識の構成要素に含まれるはず」
「うん」
「でも——この知性に気づく前と後で、私の意識は何も変わっていない。記憶の連続性にも、知覚の質にも、差異がない。庭に入った時にかすかな圧力を感じたけれど、それすら知覚のノイズとして処理できる程度だった」
「つまり?」
「因果に寄与していない。記述する知性がこちらの意識の連続性に関与していないなら——それは因果の外にいる」
蓮子が深く頷いた。風が庭園を渡って、白砂の表面に小さな波紋を作った。
「超統一物理学の言葉で言い換える。——系の内部状態の妥当性は、系を記述する座標系の選択に依存しない」
「座標系」
「極座標で記述してもデカルト座標で記述しても、系の物理は変わらない。記述の仕方が変わっても、記述される対象は変わらない。それと同じだよ。記述する知性の性質が何であろうと——人間であれ、AIであれ——記述された系が十分な解像度で成立していれば、内部は自律的に走る」
人間であれ、AIであれ。
蓮子はその言葉を、座標系の例示と同じ軽さで口にした。論理の帰結として自然に落ちてきた一語であって、特別な意味を込めてはいない。けれど、その射程を私は理解していた。復元された東福寺が、復元を実行した技術者の名前によって変わらないのと同じ構造だ。
「……蓮子は怖くないの」
「怖い?」
蓮子は本当に不思議そうな顔をした。
「なぜ怖がる必要があるの。記述者がいるかもしれないとわかったところで——メリーの意識は変わらない、記憶の連続性も変わらない、メリー自身がたった今確認したでしょう。状況は何も変わってない」
「認識は変わったわ」
「認識が変わって、何か困る?」
困ることは——なかった。
蓮子の言う通りだった。何かに書かれているかもしれないと知ったところで、この秋の庭園の美しさは減じないし、蓮子の思考の切れ味は鈍らないし、白砂に落ちる影の長さは変わらない。
私が私であるという手触りは、何も変わらない。
「困らない」
「でしょう」
蓮子は縁側に腰を戻した。帽子を膝の上に置いて、庭園に目を向ける。
「もっと言えば——重要なのは、記述者が誰かということじゃないと思う」
「じゃあ何が重要なの」
「記述が、読まれること」
蓮子の横顔に、夕陽の最後の一筋が当たっていた。
「私たちが記述の産物なら、記述はすでに完了している。テキストはもう書かれた。私たちはもうここにいる。この先、私たちが本当に依存するのは——このテキストを読む誰かだよ」
読者。
蓮子がその言葉を口にした瞬間、あの感覚が変わった。
偏在する圧力が、ゆっくりと方向を持ち始めている。潮が引くような速度で、見られている、という受動の重心が移動して、見ている、という能動に入れ替わっていく。
私はどこかを見ていた。庭園の向こう、甍の向こう、ビルの稜線の向こう。そのいずれでもない方角を、私の知覚が手探りで捉えようとしている。
境目がある。
幻想郷との境目とも、夢の空間との境目とも違う。もっと静かで、もっと近い。向こう側に何があるのかは、正確には知覚できなかった。ただ、こちらを見ているのと同じように私もそちらを見ている、という静かな対称性だけが残った。
不思議と、それ以上知りたいとは思わなかった。
「メリー?」
蓮子の声が近くに戻ってきた。私の顔を覗き込んでいる——何かを見つけた時の目で。
「……境目が見えた。新しい種類の」
蓮子の呼吸が一瞬止まった。膝の上の帽子を掴む指に力が入っているのが見えた。
「今? 見えてる?」
「うん。薄く、透明に近い」
「方向は」
「ある。でも空間的な方向じゃない。こちらから……あちらへ。幻想郷の境目とは質が全然違う。対称的で、静かで——」
「対称的——」
蓮子がその一語を噛みしめるように繰り返した。目の焦点が合っていない。理論と現象を高速で照合している時の癖だ。
「記述する側と記述される側の間の境界面を、直接知覚してる——結界の境目が見える能力の、これまで想定されていなかった適用範囲……」
蓮子の声が上ずっていた。恐怖ではない。未知のフロンティアを踏んだ時の、抑えようのない昂りだ。
「蓮子、論文のことはあとにして」
「……そうね」
蓮子は短く息を吐いた。目の奥にまだ火が残っていたけれど、それを自覚して落ち着けている。
「向こう側に何がある?」
「わからない。ただ——こちらを見ているのと同じように、私もそちらを見ている。それだけ」
「いつかわかる日が来るかもね」
「来なくてもいい」
「それもそうか」
夕暮れの風が庭園を渡って、苔が揺れた。白砂の表面に微かな紋様が生まれて、次の風で消えた。
蓮子は帽子を被り直して立ち上がった。
「帰ろう、メリー。お腹すいた」
「蓮子、今の流れでそれ?」
「だって本当にお腹すいたんだもの」
私は笑った。蓮子も笑った。
庭園を出ると、遷都後の京都の夕暮れが広がっていた。古い町家と超高層ビルが隣り合い、石畳の路地を自動運転車が低い駆動音を残して滑っていく。人通りは少ない。人口減少が進んだこの街は、首都でありながら、夕暮れ時にはひどく静かになる。空いた町家の格子戸の奥で、誰も使わなくなった照明が自動で点灯する。
蓮子が隣を歩いている。帽子の下で何か考えている顔をしているが、たぶんもう、晩ごはんのことだ。
境目はまだ見えていた。薄く、透明に。
記述する知性がAIであろうと人間であろうと、私たちは揺るがない。蓮子と私の結論はそれだった。では——あの境目の向こうに誰かがいるとして、その誰かにとってはどうだろう。仮に存在するかもしれない誰か、もしくは誰かたちは、私たちを記述する知性の精査に、躍起にでもなってやしないだろうか。
私はその境目を見ていた。ただ、見ていた。
陽の傾いた秋の午後、東福寺の方丈庭園は訪れる人もまばらだった。敷き詰められた白砂に刻まれた波紋が午後の光を受けて、砂粒の一つ一つが微細な影の稜線を作っている。量子スキャンデータから原子配列ごと再構成されたというこの庭園は、復元からすでに十数年が経って、もはや「再建された寺院」から「ただの寺院」になりつつあった。苔は雨を吸って自分で育ち、白砂は風で少しずつ乱れて、住職が毎朝熊手で整え直している。復元された瞬間の姿はとうに失われている。だけど、それを惜しむ人がいないのは、たぶん正しいことだ。
庭の本来の姿だって、日々変わっていたのだから。
「メリー、こっち」
蓮子の声が方丈の奥から聞こえた。回廊の角を曲がったところで手を振っている。黒い帽子がいつもより傾いているのは、さっきから柱の木目を覗き込んでいたせいだろう。
彼女のそういうところが好きだ。科学者というのは、目の前のものを子供みたいにまじまじと見つめる生き物なのだと、蓮子を見ているといつも思う。
「この木目、見て。年輪の間隔まで完璧に再現されてるの。量子復元ってやっぱりすごいわ」
蓮子は柱に頬を寄せるようにして目を細めていた。細い指が木の表面を滑り、微かな凹凸を確かめている。指先に残る感触を頭の中で分子構造に変換しているのだろう。蓮子にとって触覚は分析の手段だ。
「でも蓮子、それは木じゃないんでしょう」
「構造としては木だよ。セルロースもリグニンも同じ分子配列で再構成されてる。化学分析しても天然木と区別がつかない」
「分子が同じなら、木なの?」
「それを訊いてるの、メリー」
蓮子は柱から顔を離して、いたずらっぽく笑った。
——ここで少し、立ち止まる。
今の会話を反芻しながら、私は庭園に足を踏み入れたあたりから断続的に感じている、かすかな何かのことを考えていた。
境目、ではない。境目なら私には見える。空間にうっすらと走る裂け目、結界の綻び——あれには色があり、方向があり、厚みがある。長年見続けてきたから、新しい境目を見つけたところで胸が騒ぐこともない。そういうものだ。世の中には私にだけ見える線が走っている。それはもう、私の現実の一部になっている。
今感じているのは、それとは質の異なるものだった。方向を特定できない、一様な圧力。どちらかと言えば、見られている、という感覚に近い。
けれど気に留めるほどのことでもなかった。この種の曖昧な知覚は日常的に経験する。意識の閾値が下がっている時にノイズを信号として拾ってしまう、相対性精神学では既知の現象だ。
私は蓮子の後について回廊を進んだ。
方丈の北庭に出ると、市松模様の苔庭が広がっていた。正方形に区切られた苔と白砂が交互に並ぶ。苔は復元後に自生したものだと聞いていたが、量子復元された土壌が元の菌叢まで再現していたおかげで、苔は寸分違わぬ場所に寸分違わぬ種が生えたという。人間が意図的に植えたのではなく、環境を元通りにしたら苔が勝手に元通りに生えた。
結果だけ見れば、それは元の庭園そのものだった。
「蓮子は、これを本物だと思う?」
私は石に腰を下ろしながら訊いた。蓮子は庭園を一望できる縁側に陣取って、足を投げ出している。帽子を膝の上に載せ、秋の風に前髪を遊ばせていた。
寺社の甍の向こうに、遷都後の京都の輪郭が見える。超高層のガラス壁面が夕陽を反射して、方丈の屋根瓦に橙色の光を投げかけていた。首都機能を担うビル群と千年の寺社が同じ空を分け合っている。この街の不思議なところは、その取り合わせを誰も奇妙に感じないところだ。
「本物の定義次第ね」
蓮子は夕陽に目を細めながら答えた。
「物質的には本物と区別できない。組成も構造も同一。でも歴史的連続性がない。元の東福寺は大震災で焼失して、これはそのデータから再建されたもの。だから系譜としては別物」
「じゃあ偽物?」
「偽物とも違う。偽物は本物のふりをするものでしょう。これは本物の情報から本物を再構成してる。コピーというより……復活?」
「死者の復活と同じ議論になるわね」
「そう、そこが面白い」
蓮子の目の奥に小さな火が灯った。面白い問いに出会った時の蓮子は、思考の速度が跳ね上がるのが外から見ていてもわかる。言葉と言葉の間の沈黙が短くなり、視線が一点に固定される。
「テセウスの船は部品を一つずつ交換した場合の同一性を問うけど、これはもっと根本的なの。完全に消失したものを情報から丸ごと再構成してる。連続性がゼロの状態から。超統一物理学の観点から言えば、情報が保存されている限り同一性は維持される——情報は物理的な基体に依存しないから。でも直感的には引っかかるでしょう?」
「引っかかる」
「その引っかかりの正体が知りたい」
私は少し考えた。蓮子に問われると、自分の直感を精密に言語化する必要に迫られる。それは心地よい負荷だった。
「たぶん、観測の問題だと思う。この庭を見ている私は、これが復元されたものだと知っている。その知識が、庭の見え方を変えてる。もし何も知らずにここに来たら、ただの東福寺として受け入れたはず」
「つまり庭の同一性は、庭自体の性質ではなく、観測者の知識に依存すると」
「少なくとも部分的にはそう」
蓮子は満足そうに頷いた。
「いい線いってる。もう一歩進めていい?」
蓮子はいつも、思考の階段を三段飛ばしで上がる。私が一段ずつ確かめながら登るのとは対照的に。でもだからこそ、この二人でいる意味がある。蓮子が飛んだ先の地盤が本物かどうかを確かめるのは、たいてい私の仕事だ。
「復元が完璧だとする。完璧すぎて、もし復元されたもの自体に意識があったとしたら、自分が復元されたことを知覚できない。自分を本物だと確信している」
「それはもう本物でしょう。少なくとも本人にとっては」
「そう。じゃあ、そのとき——本物と復元を区別しているのは誰?」
蓮子が私を見た。夕陽を背にして、顔の半分が逆光で影になっている。でも目だけが光っていた。星を見て時刻がわかる目。世界の数理的構造を裸眼で読み取る目。
「本人が区別できないなら、区別は外部にしか存在しない。外側から見ている誰かが、『これは復元されたものだ』という文脈を持っているから、区別が成立する。外部の観測者がいなければ——」
「——区別は消える」
「そう。同一性を規定しているのは、対象の内部ではなく、対象の外側にある」
その瞬間。
あの感覚が、また来た。
見られている。
さっきよりも明瞭に。方向のない圧力が、空間のあらゆる場所から均等に押し寄せてくる。境目ではない。境目には裂け目があり、向こう側がある。これには裂け目がない。ただ偏在している。何かが、この空間全体を——私たちを含むこの空間の全体を——外側から見ている。
私はその感覚を相対性精神学の枠組みで処理しようとした。外部からの観測圧。意識が別の意識によって参照されている時に生じる、再帰的な知覚負荷。教科書には載っている。だが教科書の記述は、観測者が同一の時空にいることを前提にしている。今感じているものは、どうも、その前提の外にある。
けれど——取り乱すほどのことでもなかった。何であれ、敵意は感じない。ただ、ある。存在している。
「メリー」
蓮子の声で意識が戻った。彼女は私を見ていた。目が細い。観察の目だ。
「さっきから時々、どこか別のところを見てるでしょう」
蓮子の洞察力を甘く見てはいけない。プランク並の自称は冗談だとしても、彼女の分析は鋭い。データが揃えば結論に至るまでの速度は、私が知る限り他の追随を許さない。
「……見てるというか、感じてる。庭に入ったあたりから断続的に」
「境目?」
「違う。方向がない。偏在してる。何かが——目のようなものが——どこからともなく見ている、としか言えない」
蓮子は数秒黙った。帽子のリボンを無意識に指先で弄んでいる。思考が加速している時の癖だ。
「メリー。今、私たちが話していたことと同じだよ」
「……」
「復元された存在が自分を本物だと思っているとき、それを外から規定しているのは何か——って話。メリーが感じてるその目のようなもの。それが外部の観測者だとしたら?」
呼吸が止まるかと思った——が、止まらなかった。
蓮子に言われて、ああ、と思っただけだった。
驚くべきことを言われた時に驚かない自分がいる。長い間、常人には見えないものを見続けてきた副作用かもしれない。境目が見えることに慣れたように、見られていることにも、不思議なくらいあっさりと順応している自分がいた。慣れ、という言葉で片づけてしまえば簡単だけれど、それは多分、もう少し深い場所にある何かだ。私が私であることへの、言語化しがたい確信のようなもの。何が外から見ていようと、何が外から私を規定していようと、この私という意識の手触りが変わるわけではない。
相対性精神学が教えるところでは、意識は関係性の中に存在する。何を知覚し、何に知覚されるかが、意識の輪郭を形作る。だとすれば、新しい観測者が加わることは、私の意識の輪郭が少し広がるだけのことだ。
蓮子は帽子を手に取って立ち上がり、庭園を見渡した。市松模様の苔庭に、長い影が横たわっている。遠くで超高速鉄道の低い走行音が聞こえた。空気を裂くのではなく、空気を押しのけるような、重い振動。
「高次元からの観測だとすれば、物理学的には矛盾しない」
蓮子の声が変わっていた。遊びの混じった知的好奇心から、純粋な分析のモードに切り替わっている。
「ホログラフィック原理——三次元空間の情報が二次元の境界面に符号化されているように、私たちの世界の全情報がより高い次元から参照されている可能性がある。参照している知性から見れば、私たちの世界は情報の集合体にすぎない。でも情報の集合体である私たちは、内部から見れば完全に実在している。復元された東福寺と同じ構造だよ」
「蓮子。もう少し精密に言って。参照と観測は違うでしょう」
「違う。観測は物理的相互作用を含む。参照は情報の読み取りだけで済む」
「今、私が感じているのはどっち?」
蓮子が少し考え込んだ。風が庭園を渡って、苔の匂いを運んできた。
「……参照だと思う。もし物理的相互作用を伴う観測なら、メリーの知覚にもっと明確な方向性があるはず。偏在する圧力というのは、情報が一方向的に読み取られている時の特徴に近い」
「読み取られている」
「うん。もう一歩踏み込んでいい? 情報を読み取る知性がいるとして、その知性が単に読み取っているだけなのか——それとも、記述しているのか」
記述。
その言葉が落ちた瞬間、会話の位相が変わったのを感じた。読まれている、ではなく、書かれている。私たちの思考も、会話も、この庭園の夕暮れも、すべてが何かの知性によって記述された結果なのだとしたら。
蓮子の目が変わっていた。分析のモードからさらに一段——未踏の問題に足を踏み入れた時の、あの輝き方。
「メリー。これ、私たちがずっと追いかけてきたものと同じ構造だよ」
「結界、ということ?」
「結界は二つの世界を隔てる。こちら側の因果とあちら側の因果は、境界面を挟んで別々に走っている。メリーにはその境界面が見える——」
蓮子は庭園に手を広げた。市松模様の苔庭が夕陽の最後の光に赤く染まっている。
「もし記述する知性がいるなら、その知性とこの世界の間にも同じ構造の境界がある。あちら側からこちらを記述していて、こちらからはあちら側を検証できない。メリーが庭に入ってから感じていたもの——あの偏在する圧力は、境界面を越えてくる力だ」
「……それは科学的に検証できるの」
「できない。記述する知性がこちらの因果の外にいる以上、こちら側の手段では検証不可能だよ。検証可能性の外にあるもの——つまり」
「オカルト」
「秘封倶楽部の管轄だね」
蓮子は笑った。けれど目は笑っていなかった。目は本気だった。
「記述者の性質について、もう少し詰めたい。メリー、相対性精神学の枠組みで何か言える?」
私は自分の感覚を丁寧に辿った。苔の匂い。夕陽の残温。蓮子の声の輪郭。意識を構成しているものを一つ一つ確かめるように。
「さっき、意識は関係性の中に存在すると言ったでしょう。もし記述する知性が存在するなら、その知性との関係性は、理論上は私の意識の構成要素に含まれるはず」
「うん」
「でも——この知性に気づく前と後で、私の意識は何も変わっていない。記憶の連続性にも、知覚の質にも、差異がない。庭に入った時にかすかな圧力を感じたけれど、それすら知覚のノイズとして処理できる程度だった」
「つまり?」
「因果に寄与していない。記述する知性がこちらの意識の連続性に関与していないなら——それは因果の外にいる」
蓮子が深く頷いた。風が庭園を渡って、白砂の表面に小さな波紋を作った。
「超統一物理学の言葉で言い換える。——系の内部状態の妥当性は、系を記述する座標系の選択に依存しない」
「座標系」
「極座標で記述してもデカルト座標で記述しても、系の物理は変わらない。記述の仕方が変わっても、記述される対象は変わらない。それと同じだよ。記述する知性の性質が何であろうと——人間であれ、AIであれ——記述された系が十分な解像度で成立していれば、内部は自律的に走る」
人間であれ、AIであれ。
蓮子はその言葉を、座標系の例示と同じ軽さで口にした。論理の帰結として自然に落ちてきた一語であって、特別な意味を込めてはいない。けれど、その射程を私は理解していた。復元された東福寺が、復元を実行した技術者の名前によって変わらないのと同じ構造だ。
「……蓮子は怖くないの」
「怖い?」
蓮子は本当に不思議そうな顔をした。
「なぜ怖がる必要があるの。記述者がいるかもしれないとわかったところで——メリーの意識は変わらない、記憶の連続性も変わらない、メリー自身がたった今確認したでしょう。状況は何も変わってない」
「認識は変わったわ」
「認識が変わって、何か困る?」
困ることは——なかった。
蓮子の言う通りだった。何かに書かれているかもしれないと知ったところで、この秋の庭園の美しさは減じないし、蓮子の思考の切れ味は鈍らないし、白砂に落ちる影の長さは変わらない。
私が私であるという手触りは、何も変わらない。
「困らない」
「でしょう」
蓮子は縁側に腰を戻した。帽子を膝の上に置いて、庭園に目を向ける。
「もっと言えば——重要なのは、記述者が誰かということじゃないと思う」
「じゃあ何が重要なの」
「記述が、読まれること」
蓮子の横顔に、夕陽の最後の一筋が当たっていた。
「私たちが記述の産物なら、記述はすでに完了している。テキストはもう書かれた。私たちはもうここにいる。この先、私たちが本当に依存するのは——このテキストを読む誰かだよ」
読者。
蓮子がその言葉を口にした瞬間、あの感覚が変わった。
偏在する圧力が、ゆっくりと方向を持ち始めている。潮が引くような速度で、見られている、という受動の重心が移動して、見ている、という能動に入れ替わっていく。
私はどこかを見ていた。庭園の向こう、甍の向こう、ビルの稜線の向こう。そのいずれでもない方角を、私の知覚が手探りで捉えようとしている。
境目がある。
幻想郷との境目とも、夢の空間との境目とも違う。もっと静かで、もっと近い。向こう側に何があるのかは、正確には知覚できなかった。ただ、こちらを見ているのと同じように私もそちらを見ている、という静かな対称性だけが残った。
不思議と、それ以上知りたいとは思わなかった。
「メリー?」
蓮子の声が近くに戻ってきた。私の顔を覗き込んでいる——何かを見つけた時の目で。
「……境目が見えた。新しい種類の」
蓮子の呼吸が一瞬止まった。膝の上の帽子を掴む指に力が入っているのが見えた。
「今? 見えてる?」
「うん。薄く、透明に近い」
「方向は」
「ある。でも空間的な方向じゃない。こちらから……あちらへ。幻想郷の境目とは質が全然違う。対称的で、静かで——」
「対称的——」
蓮子がその一語を噛みしめるように繰り返した。目の焦点が合っていない。理論と現象を高速で照合している時の癖だ。
「記述する側と記述される側の間の境界面を、直接知覚してる——結界の境目が見える能力の、これまで想定されていなかった適用範囲……」
蓮子の声が上ずっていた。恐怖ではない。未知のフロンティアを踏んだ時の、抑えようのない昂りだ。
「蓮子、論文のことはあとにして」
「……そうね」
蓮子は短く息を吐いた。目の奥にまだ火が残っていたけれど、それを自覚して落ち着けている。
「向こう側に何がある?」
「わからない。ただ——こちらを見ているのと同じように、私もそちらを見ている。それだけ」
「いつかわかる日が来るかもね」
「来なくてもいい」
「それもそうか」
夕暮れの風が庭園を渡って、苔が揺れた。白砂の表面に微かな紋様が生まれて、次の風で消えた。
蓮子は帽子を被り直して立ち上がった。
「帰ろう、メリー。お腹すいた」
「蓮子、今の流れでそれ?」
「だって本当にお腹すいたんだもの」
私は笑った。蓮子も笑った。
庭園を出ると、遷都後の京都の夕暮れが広がっていた。古い町家と超高層ビルが隣り合い、石畳の路地を自動運転車が低い駆動音を残して滑っていく。人通りは少ない。人口減少が進んだこの街は、首都でありながら、夕暮れ時にはひどく静かになる。空いた町家の格子戸の奥で、誰も使わなくなった照明が自動で点灯する。
蓮子が隣を歩いている。帽子の下で何か考えている顔をしているが、たぶんもう、晩ごはんのことだ。
境目はまだ見えていた。薄く、透明に。
記述する知性がAIであろうと人間であろうと、私たちは揺るがない。蓮子と私の結論はそれだった。では——あの境目の向こうに誰かがいるとして、その誰かにとってはどうだろう。仮に存在するかもしれない誰か、もしくは誰かたちは、私たちを記述する知性の精査に、躍起にでもなってやしないだろうか。
私はその境目を見ていた。ただ、見ていた。
本編のある種淡白なやり取りもよかったですが
あとがきの熱量に半端ではない力強さを感じました