Coolier - 新生・東方創想話

頼朝アキュムレイト

2026/02/05 21:24:18
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江ノ電が映すモノ
 
 藤沢駅のホームは、朝の光に満ちていた。
 観光客らしい人影が増え始め、売店の前では江ノ電一日乗車券のポスターが風に揺れている。まだ十時前だというのに、改札から続く人の流れは途切れない。
「思ったより人多いね」
 宇佐見蓮子は、きょろきょろと辺りを見回しながら言った。
「鎌倉って、平日でもこんな感じなんだ」
「まだ鎌倉市内にすら入っていないんだもの。お仕事の人、学校の人の方が多いでしょう」
 マエリベリー・ハーンは、どこか当たり前のことのように答える。
 レトロで可愛らしい電車に乗り込むと、座席はほぼ埋まっていた。二人は並んで窓際に立つ。発車のベルが鳴り、車体がゆっくりと動き出す。
 
 家並みが近い。洗濯物の揺れるベランダ、植木鉢の影。電車がすぐそばを通るたび、生活の気配が窓越しに流れ込んでくる。軒先に干された布団、縁側で日向ぼっこをする猫。どれもが手を伸ばせば届きそうな距離にある。
「この距離感、想像以上におかしいよね」
 蓮子は楽しそうに言った。
「誰かの庭を横切ってるみたい」
 いくつか踏切を越えるたび、メリーは窓に映る外の景色から目を離せずにいた。
 ――何度か、景色の"調子"がずれる。
 色が一瞬だけ鈍くなる。人影が、どこか古めかしい輪郭を帯びる。はっきりとは見えない。けれど、確実に"今の鎌倉じゃない何か"が、薄く混じっている。
「ねえ蓮子、さっきから、窓……変じゃない?」
「え、そう? 観光補正じゃないの」
 
 次の踏切で、電車は少し減速した。
 メリーはふと、向かい側の窓ガラスに目をやった。そこに映る自分の姿。立ったまま揺られている蓮子の姿。
 そして――自分の背後に、別の景色が映り込んでいた。舗装されていない道。木造の看板を掲げた商家。人力車を引く人影。
 メリーは息を呑んだ。振り返る。外には今の鎌倉がある。アスファルトの道路、電柱、看板。
 もう一度、向かいの窓ガラスを見る。そこには、確かに古い街並みが映っている。自分の肩越しに、大正か昭和初期の鎌倉が、薄く重なっていた。
「……蓮子」
「ん?」
「向かいの窓、見て」
 蓮子が視線を移す。一瞬、眉をひそめて――それから、小さく息を吐いた。
「……ああ、映ってる」
「見える?」
「うん。反射越しだと、別の時代が混ざるんだ」
 現代のデジタルサイネージの光がその景色を際立たせている。
 他の乗客は誰も気が付いていない。

 車内アナウンスが流れる。
『まもなく、長谷。長谷です』
「――大変! 降りるよ!」
 蓮子が慌ててリュックを掴む。扉が開き、人の流れに押されるようにしてホームへ降りる。
「……今の、もう一回試したいね」
 メリーは少し悔しそうに言う。
「うん、覚えとこ」
 蓮子は笑う。
「窓ガラスの反射。江ノ電の怪異?」
「怪異じゃないと思うけど」
「じゃあ何?」
「たぶん、もっと柔らかいものじゃないかしら?」
 メリーは、バッグを肩にかけ直しながら、小さく呟いた。
「古い町だから、いろんな時代が、まだ残ってるんだと思う」
 確かめたいのに、確かめられない。けれど、そのもどかしさは、どこか胸を弾ませる感覚でもあった。
 この旅は、どうやら"見るだけの観光"では終わらないらしい。
 

庇護の境内

 改札を抜け、長谷の街へ出ると、坂道の向こうに大仏の看板が見えた。蓮子が地図アプリを開きかけて、すぐに画面を閉じる。
「とりあえず、長谷寺行こうか」
「うん」
 二人は並んで歩き出す。石畳の道は、どこか時間の流れが違う気がした。
 
 長谷駅から海の気配を背に、観光客の流れに乗って歩く。土産物屋の軒先に吊るされた提灯が、昼の風にかすかに揺れていた。焼きたての煎餅の匂いと、甘い菓子の香りが混ざる。すれ違う人々の会話が、日本語と英語と中国語で入り混じっている。
「ほんとに"来たことある場所"って感じだね」
 蓮子は、スマホで写真を撮りながら言った。
「ガイドブック通りの鎌倉」
「それが鎌倉らしさでもあるから」
 メリーは答える。期待通りであることが、ここでは価値なのだと。

 山門をくぐると、外の喧騒が一段階遠のいた。石畳の感触が足裏に伝わる。境内は思っていた以上に奥行きがあり、木々の影が斜めに落ちている。ひんやりとした空気が肌に触れた。
 メリーは、境内に足を踏み入れた瞬間から、妙な違和感を覚えていた。
 参拝客の中に――一瞬、古めかしい装いの人影が混じった気がした。墨染めの衣。質素な着物。烏帽子のような影
 でも、視線を向けると、そこにいるのは普通の観光客だけだった。
「……気のせい、かな」
 小さく呟く。
「ん? 何か見えた?」
 蓮子が振り返る。
「ううん。ちょっと、見間違えただけ」
 メリーは首を振った。けれど、歩を進めるたびに、その違和感は増していく。

 石段を上る。両脇には、季節の花が整えられ、少し歩くごとに視界が開け、鎌倉の街並みが木立の向こうに覗いた。
「見晴台あるんだ! あとで行こ」
 蓮子は楽しそうだ。完全に観光モードに入っている。
 一方でメリーは、回廊の柱の影や、苔むした石垣の隙間に、いくつもの"気配"を感じ取っていた。入口は、ある。けれど――どれも"閉じられている"。
 扉は見える。でも、鍵がかかっている。

 この寺には、時代の層が確かに積み重なっている。鎌倉時代の祈り、江戸の参詣者、明治の観光客。それらが静かに沈殿して、今も薄く残っている。ただし、それらは意図的に整えられ、守られている。勝手に覗くことを許さない、静かな意志がある。
「……このお寺、いえこの町、何か仕掛けがある気がする」
 蓮子が小さく呟いた。
「仕掛け?」
「うん。ただの古い町じゃない感じ。時間の扱い方に、何か……意図がある」
 メリーは頷く。蓮子の直感は、大抵当たる。

 十一面観音菩薩の前に立った瞬間、境内のざわめきが、すっと遠のいた気がした。
 圧倒的な大きさ。白い肌のような像の表面に、昼の光が柔らかく落ちる。けれど、視線だけは妙に生々しい。
 多くの人を見下ろしているはずなのに、"見下ろされている"という感覚はない。むしろ――こちらの内側を、静かに覗き込まれている。
 
「……この観音様さ」
 蓮子が、小声で言った。メリーは視線を逸らさず、頷く。
「うん」
「境界暴きとか、たぶん見逃してくれなそうな目してない?」
 冗談めかした口調の裏に、ほんの少しの本音が混じっていた。
 メリーは、かすかに笑った。
「ええ。全部、お見通しって顔よね」
 その言葉を裏付けるように、観音の眼差しは、二人の奥底にある好奇心をまるごと包み込んでいるように見えた。責めるでもなく、止めるでもなく、ただ"知っている"という在り方。
 
 ――ああ、だからここは、覗く場所じゃない。メリーは、改めてそう理解した。
 さっきから感じていた"閉じられた境界"の正体が、ようやく分かった。ここには、侵すべきでない静けさがある。時代の層を守る、穏やかで確固たる力が。観音様が、すべての時代の参拝者を、静かに見守っている。
「ここは、見なくていい境界だと思う」
 そう言って、彼女は観音像に小さく手を合わせた。
 蓮子も、珍しく黙って倣う。

 二人が観音堂を出ると、再び境内の音が戻ってきた。観光客の話し声、木の葉のざわめき、どこかで鳴る鐘の音。石段を降りながら、メリーは放生池の前で足を止めた。
「……確かめたい」
「何を?」
「観音様が、どうやって時間を守っているのか」
 メリーは池の縁に立ち、水面を覗き込んだ。
 鯉がゆったりと泳ぎ、睡蓮の葉が陽を受けて光っている。水面は静かで、風が吹くたびにわずかに歪む。
 水面には、空が映っている。木立の影も、石灯籠も、すべてが鏡のように映り込んでいる。
 そして――人影も。
 メリーは目を凝らした。水面に映る参拝者の姿が、さっき見た"古めかしい人影"と重なっている。現代の服装の人々に混じって、別の装いの人影が薄く映り込んでいる。
 墨染めの衣を着た僧侶。烏帽子を被った公家らしき人物。着物に羽織を重ねた江戸の商人。袴姿の明治の学生。
それぞれの時代の参拝者が、同じ池の縁に立ち、同じように水面を覗き込んでいる。
 けれど――観光客は誰も気が付いていない。境界の向こうを覗くことに慣れてしまった二人だから見える景色なのだとメリーは理解した。
 
 鎌倉時代の僧侶の隣に、江戸時代の商人が立っているのに、二つの影は互いに干渉しない。まるで別々の層に存在しているかのように、整然と並んでいる。
「……メリー?」
 蓮子が訝しげに声をかける。
「水面、見て」
 蓮子も池を覗き込んだ。一瞬、眉をひそめる。
「……ああ、映ってる」
「見える?」
「うん。いろんな時代の人が、同時に参拝してる」
「でも、混ざってないわ」
 メリーは水面を指差した。
「ほら、あの僧侶と、あの商人。同じ場所に立ってるのに、お互いを認識してない。それぞれの時代で、それぞれに存在してる」
「……整えられてるんだ」
 蓮子が呟く。
「長谷寺の観音様が、時間を守ってる」
 メリーは頷いた。

 ここでは、時間の層が重なっていても、決して混乱しない。観音の力が、それぞれの時代をきちんと分けて、秩序立てて配置している。だから、どの時代の参拝者も、安らかにここを訪れることができる。
 風が吹いた。水面が揺れ、映り込んでいた影が一瞬ぼやける。揺らぎが収まると、影の配置が少し変わっていた。鎌倉時代の僧侶が消え、代わりに大正時代らしき着物姿の女性が現れた。
「……入れ替わってる」
 メリーは小さく呟いた。
「時間の層が、少しずつ循環してるのね」
「観音様の管理下、ってことか」
 蓮子は池から視線を外し、境内の奥を見た。
「ここは、覗く場所じゃないね」
「ええ」
 メリーも頷く。
 江ノ電の窓ガラスのように、偶然見えてしまうものではない。ここでは、見せてもらっている。長谷寺という場所が、時間の重なりを整え、守り、そして訪れる者に静かに示している。
 振り返ると、水面はまた静かに揺れていた。そこに映る影の数は、見るたびに変わっている気がした。でも、その変化は穏やかで、決して乱れることはなかった。

「見晴台、行く?」
 蓮子が訊く。
「うん」
 石段を上がり、見晴台に立つ。鎌倉の街が一望できた。低い屋根の連なり、その向こうに光る海。現代の街並みの中に、古い町割りの名残が透けて見える。
「きれいだね」
 蓮子がスマホを構える。
 メリーは、風に吹かれながら街を眺めた。ここからなら、時代の重なりを俯瞰できる。無理に覗かなくても、ただ眺めるだけで、鎌倉という街の厚みが伝わってくる。
「ねえ、メリー」
「なに?」
「ここって、"見せてもらってる"感じがするね」
蓮子の言葉に、メリーは頷いた。
「そうね。私たちが見つけたんじゃなくて、見せてもらってる」
 それは、秘封倶楽部の活動としては少し物足りないかもしれない。けれど、それでいいのだとメリーは思った。すべての境界を暴くことが、目的ではない。
 石段を降りながら、蓮子が言った。
「お昼、小町通で食べよっか」
「賛成」
 二人は山門をくぐり、再び賑やかな参道へ戻っていった。長谷寺の静けさは、背中越しに遠ざかっていく。けれど、観音の視線は、今もどこかで二人を見守っている気がした。

 
頼朝アキュムレイト

 昼下がりの小町通は、観光客で溢れていた。
 食べ歩きの串を手にした若者たち、土産物を選ぶ家族連れ、スマホで写真を撮る外国人観光客。メリーと蓮子は人波に流されるように歩きながら、適当な店を探していた。
「どこも混んでるね」
「平日なのにね」
 裏路地をいくつか曲がった先に、場違いなほど静かな喫茶店があった。昼下がりの小町通の喧騒が、嘘のように遠い。硝子戸の向こうは、時間が一枚、剥がれ落ちているように見えた。
「……入ってみる?」
 メリーが訊く。
「うん」
 蓮子が扉を開けると、カランと古い呼び鈴が鳴った。
 店内は妙に古く、妙に新しい。昭和の面影を残した木製のカウンターの奥に、つい最近取り替えたらしいコーヒーメーカーが置かれている。壁には色褪せたポスターと、真新しいメニューボードが並んでいる。どの時代にも属しているようで、どの時代にもきちんと収まらない。
 空気がひんやりとしている。木のテーブルは使い込まれて滑らかで、触れると微かに温かい。
 二人は窓際の席に座った。店内には、他に数人の客がいた。
 カウンターの端には、袴姿の女学生が二人、コーヒーカップを前に談笑している。エビ茶色の袴に白い襟。髪は低い位置で結われ、リボンが揺れている。
「……貸衣装かな」
 蓮子が小声で言った。
「鎌倉だし、そういうサービスあるのかも」
 でも、メリーは首を傾げた。
 女学生たちの袴は、確かに本物に見える。生地の質感、縫い目の細かさ、着崩れ一つない着付け。レンタル衣装にしては、あまりにも自然すぎる。
 そして何より――二人の会話が、聞こえない。
口は動いている。笑顔も見える。でも、声がまったく届いてこない。まるで、別の層に存在しているかのように。
 窓際の席には、立派なカイゼル髭を蓄えた紳士が座っていた。三つ揃いのスーツ、懐中時計の鎖が胸元で光っている。その膝の上には、新聞が広げられていた。
 メリーは目を凝らした。新聞の活字は旧字体に見える。「經濟」「發展」「帝國」――現代では使われない漢字が並んでいる。日付の欄には、「大正」の文字が見えた。
 紳士は丁寧に新聞を折りたたみ、コーヒーカップを手に取る。その仕草は優雅で、時間をかけてゆっくりと。
「……ねえ、蓮子」
「ん?」
「あの人たちって――」
 その時、マスターがカウンターから出てきた。女学生たちの席へ向かい、何かを告げる。女学生たちは頷き、立ち上がる。カウンターで会計を済ませると、扉へ向かった。
 呼び鈴が鳴る。――カラン。
 女学生たちが外へ出た瞬間――その姿が、ふっと薄れた。
 硝子戸の向こうに消えていく二人の袴姿は、まるで午後の陽炎のように揺らいで、小町通の人波に溶け込んでいった。

 メリーと蓮子は、顔を見合わせた。
「……今の」
「見た」
 マスターは何事もなかったかのように、カウンターへ戻る。そして、カイゼル髭の紳士へ視線を向けた。
 紳士は新聞を脇に置き、立ち上がる。帽子を被り、ステッキを手に取る。マスターに一礼して、扉へ向かう。
呼び鈴が鳴る。
カラン。
 紳士の姿も、硝子戸の向こうで薄れていった。三つ揃いのスーツの輪郭が、昼の光に溶けるように消えていく。
 店内には、メリーと蓮子だけが残された。

 マスターが二人の席へやってきた。
「ブレンドを二つ」
 蓮子が、やや上ずった声で注文する。マスターは無言で頷き、カウンターへ戻る。
 しばらくして、コーヒーカップが置かれる。湯気が立ち上り、深い香りが広がった。苦味の中に、かすかな酸味と甘みが混じっている。
「長居する場所じゃないよ」
 マスターがそれだけ告げて、カウンターへ戻る。
 その一言で、蓮子は妙な確信を得た。ここは"休むための場所"ではあっても、"留まるための場所"ではない。時代の狭間に立ち寄る、一時的な休憩所のような。
 蓮子は、カップを両手で包み込んだ。
「……ねえ、メリー」
「うん」
「さっきの人たち、私たちのこと見てなかったよね」
「ええ」
 メリーは頷いた。
「向こうからは、私たちが見えてなかったと思う。それぞれの時代で、それぞれにここに来てた」
「でも、マスターだけは――」
「全員に対応してた」
 二人は、カウンターの向こうでグラスを拭くマスターを見た。
 
 彼だけが、すべての時代に同時に存在している。明治の女学生にも、大正の紳士にも、科学世紀の観光客にも、分け隔てなく珈琲を淹れる。
「……ここ、どの時代からでも入れてそうだね」
 蓮子が、面白がるように言った。
 メリーも頷く。入口は一つだけれど、この店には複数の時代から同時にアクセスできる。意図的なのか、自然とそうなったのか。
「ねえメリー」
 蓮子はカップを指で回しながら言った。
「これは仮説なんだけどさ、鎌倉全体に仕込まれてると思うの。時間を溜め込むシステムが」
「……随分と乱暴な言い方ね」
「じゃあさ、こう呼ぼうよ。頼朝アキュムレイト」
 メリーは一瞬、言葉を失ってから、ため息混じりに首を振った。
「勝手に名前を付けないでちょうだい。でも……」
 メリーは店の奥、壁に掛けられた年代不明の写真に視線を向けた。そこには、今の鎌倉とも、昔の鎌倉とも微妙に違う風景が写っている。建物の配置は同じなのに、看板の文字が読めない。人々の服装が、どの時代とも特定できない。
「京都という"歴史ある都"に並ぶ場所を作ろうとした、頼朝公のその執念みたいなものは……感じるわね」
「でしょ?」
 蓮子はどこか楽しそうに笑った。
「ただの観光地じゃない感じ。町そのものが、時間を抱え込む装置になってる」
 
 マスターは二人の会話を聞いているのかいないのか分からないまま、静かにグラスを拭いている。
 メリーはコーヒーを一口飲んだ。苦味の奥に、かすかな甘みがある。この味も、いつの時代のものとも言えない。
「ねえ、蓮子」
「ん?」
「鎌倉って、何度も滅びかけたのよ」
「そうなの?」
「鎌倉幕府が滅んだ後も、戦国時代の戦火も、関東大震災も。それでも、町の骨格は残り続けた」
 メリーは窓の外を見る。狭い路地の向こうに、小町通の人波が見えた。
「溜め込んだ時間が層になって街全体を守っているのかもしれない」
「時間の層ねぇ」
 蓮子は少し考えるように黙った。それから、にやりと笑う。
「じゃあ訂正。頼朝アキュムレイトじゃなくて、鎌倉タイムミルフィーユ」
「それはダサい」
 二人は笑った。
 
 カップを置くと、マスターが無言で伝票を持ってくる。
「ありがとうございました」
 蓮子が代金を払い、二人は店を出た。
 扉を閉めた瞬間、再び小町通の喧騒が押し寄せてきた。食べ歩きの観光客、土産物を探す人々、スマホで写真を撮る若者たち。さっきまでの静けさが、夢のように遠い。
「……あれ?」
 蓮子が振り返る。
 さっきまで確かにあった喫茶店の入口が、見当たらない。そこにあるのは、古い木戸の閉まった民家だけだった。
「入れる時と、入れない時があるのかもね」
メリーが言う。
「タイミング次第ってこと?」
「たぶん。時間の重なり方が、ちょうど良い時だけ、扉が開く」
 蓮子はスマホで写真を撮ろうとして、やめた。記録するより、覚えておく方がいい気がした。
「次は報国寺、行く?」
「ええ。竹林見たいし」
 二人は小町通を抜けて、二の鳥居前の交差点を渡る。背中越しに、あの喫茶店の呼び鈴の音が、まだかすかに聞こえている気がした。

 
すれ違いの竹林
 
 報国寺に着いた頃には、空はすでに夕方の色を帯び始めていた。
 西日が斜めに差し込み、木々の影が長く伸びている。門をくぐると、街のざわめきがふっと薄れる。小町通で感じた"時間の重なり"とは違う、もう少し柔らかな静けさだった。
「……音が違うわね」
 メリーが足を止める。
 風に揺れる竹の葉の音が、やけに近く、やけに遠い。さらさらと擦れ合う音が、一定の間隔で、まるで時間の拍動のように続いている。
「確かに。さっきまでの鎌倉と、同じ町とは思えないや」
 蓮子はスマホをポケットにしまい、代わりにあたりを見回した。背の高い竹が空を覆い、視界の奥行きが曖昧になる。距離感が狂うせいか、少し歩いただけなのに、随分奥まで来てしまったような錯覚を覚える。
 
「ここ……時間、溜まってるよね」
 蓮子の呟きに、メリーは小さく頷いた。
「ええ。鎌倉という町の"性質"が、一番分かりやすく現れている場所かもしれない」
 竹林の中を歩く。光が縞模様に差し込み、足元の石畳を照らしている。竹はどれも同じ高さ、同じ太さに揃えられているわけではない。それなのに、全体としては見事な調和を保っている。自然と人の手が、何百年もかけて作り上げた景色。
 竹の幹に触れてみる。表面は滑らかで、ひんやりとしている。生きているのに、まるで磨かれた石のよう。
「この竹、植え替えてるんでしょうね」
 メリーが言う。
「だろうね。でも、配置は変えてないんだと思う」
「そう。だから、ここにいた人たちが見ていた景色と、今の私たちが見ている景色が、ほとんど同じになる」
 小径を進むうち、メリーは何度か足を止めた。竹と竹の隙間――その向こうに、何かが動いた気がする。
 
 人影。
 髷を結った侍が、竹林の奥を横切っていく。紺色の着流し、腰には大小の刀。足音はない。ただ、確かにそこを歩いていた。
 メリーは思わず立ち止まり、そちらを見た。でも、視線を向けた瞬間、侍の姿は消えていた。そこにあるのは、ただ揺れる竹だけ。
「……今、侍が」
 メリーが呟く。
「え? 侍?」
 蓮子が振り返る。
「竹の向こうを、横切っていったの」
「へえ。私はバブルのお姉さん見たけど」
「バブル?」
 メリーは目を丸くした。
「うん。肩パッドの入った派手なスーツ着て、ソバージュで。竹林、似合わないなって思ったけど、すぐ消えた」
 二人は顔を見合わせた。
「……見てる時代、違うんだ」
 蓮子が面白そうに笑う。
「報国寺の優しさ、ってやつ?」
「そうね」
 メリーは頷いた。
「見ようとすると消える。押し付けない。強制しない」
 長谷寺の観音様のような、厳かな守護ではない。小町通の喫茶店のような、時代の交差点でもない。ここは、ただ静かに包み込む場所。訪れた者それぞれに、それぞれの時代を見せる。

 蓮子が再び歩き出す。メリーもその後に続いた。
 また、竹の隙間に人影が見えた。今度は、もんぺ姿の女性だった。手ぬぐいを頭に巻き、腰を屈めて何かを拾っている。戦時中か、戦後すぐか。視線を向けると、やはり消えた。
「……メリー、また見えた?」
「ええ。今度は戦時中の女性」
「私は学生服の男の子。昭和っぽい詰襟」
 蓮子はくすくすと笑った。
「ほんと、人によって違うんだね」
「ええ」
 二人はしばらく黙って歩いた。時折、竹の向こうに人影が見える。メリーには江戸の町人が見え、蓮子には平成の観光客が見える。どちらも、視線を向けると消えてしまう。
 それは、決して寂しいことではなかった。
 むしろ、報国寺という場所の優しさを感じた。すべての時代を抱え込みながら、押し付けることなく、ただそっと示してくれる。

 竹林の小径を抜けると、枯山水の庭が現れた。白砂に引かれた模様は、何度も何度も描き直された痕跡を残している。同じ形のはずなのに、よく見ると線の流れが微妙に違う。今日の庭と、昨日の庭と、十年前の庭が、ゆるやかに重なっているようだった。
「ねえメリー」
 蓮子が、どこか納得したように言う。
「ここさ、偶然こうなってるんじゃないよね」
「……ええ。たぶん、分かってやっているわ」
「だよね。竹の揺れも、庭の配置も……人の気持ちを、ここに引き留めるための仕掛け」
 メリーは縁側に腰を下ろした。蓮子もその隣に座る。木の縁側は、日に温められて心地よい。
 しばらく黙って庭を眺めていると、時間の感覚が曖昧になってくる。五分しか経っていないはずなのに、ひどく長く座っていたような気がした。竹の音だけが、変わらず続いている。
「長谷寺とは、また違う閉じ方ね」
 メリーが言う。
「長谷寺は?」
「守るための閉じ方。時間を整えて、守護している感じ」
「じゃあ、ここは?」
「……包み込むための閉じ方」
 メリーは竹林を見上げた。夕日が竹の葉を透かして、金色に輝いている。
「訪れた人を、時間の中に優しく閉じ込めて、ゆっくり解放する。だから、帰る時には少し名残惜しくなる」
「なるほどね」
 蓮子は納得したように頷いた。それから、ふと思いついたように言う。
「……甘いもの、食べたくならない?」
 不意の提案に、メリーは一瞬きょとんとした後、はっとして視線を逸らす。竹林の奥に、甘味処の案内板が見えた。
「……誘導、されてるわね」
「だよねえ。時間の層で気分を緩ませて、ついでに財布の紐も緩ませる、と」
 蓮子はどこか楽しそうに笑った。
「生臭坊主、ってやつ?」
「言い方」
 呆れたように言いながらも、メリーの口元はわずかに緩んでいた。ここで一息つかないと、この場所に"溶け込んでしまいそう"な感覚があるのも、確かだったからだ。
 二人は視線を交わし、無言のまま甘味処の方へ歩き出す。
 
 甘味処は竹林の奥、ひっそりと佇んでいた。縁側の席に座ると、抹茶と和菓子が運ばれてくる。
「いただきます」
 蓮子が菓子を口に運ぶ。甘さが口の中に広がり、抹茶の苦味がそれを引き締める。舌の上で、甘みと苦味が溶け合っていく。
「……美味しいね」
「ええ」
 メリーも頷く。
 ここで食べる和菓子は、ただ甘いだけではない。この場所の時間を、少しだけ味わっている気がした。
 
 二人は甘味処を出て、再び竹林の中を歩く。帰り道は、来た時よりも短く感じた。時間に慣れたのか、それとも報国寺が名残惜しさを和らげてくれたのか。
 門を出ると、外はもう薄暗くなっていた。街灯が灯り始め、観光客の姿もまばらになっている。空の色が、青から紫へと変わりつつある。
「次、どうする?」
 蓮子が訊く。
「鶴岡八幡宮、行ってみたいわ」
「あそこって、夕方でも入れるの?」
「たぶん。鎌倉観光の中心だもの」
 二人は歩き出した。背後で、竹がまた一斉に揺れた。その音は、どこか満足そうにも聞こえた。

 
星層ナビゲーション

 鶴岡八幡宮に着いた頃には、夜の帳が降り始めていた。
 参道の石段を上り、本殿で参拝を済ませる。観光客の姿はまばらで、境内には静けさが戻りつつあった。灯籠の明かりが、石畳を淡く照らしている。
「そろそろ帰ろうか」
 蓮子が言いかけた時、メリーが足を止めた。
「ねえ、あれ……」
 本殿の西側、ひときわ高い場所に、小さな朱の列が浮かんでいる。
「本殿より上に、稲荷?」
「……配置、逆じゃない?」
 蓮子も足を止める。
 普通、摂末社というのは境内の隅に祀られることが多い。本殿を見下ろす位置に鎮座しているのは、珍しい。いや、珍しいというより――この稲荷の方が、先にここにいたのかもしれない。
 
 丸山稲荷へ続く石段は、人の気配が薄く、踏みしめるたびに乾いた音がした。伏見稲荷に比べれば鳥居の数は少ない。けれど、一つ一つの鳥居が妙に"古い時間"をまとっている。朱色の塗料が剥げかけた部分から、さらに古い層が覗いている。
 鳥居の下に立った瞬間、空気がわずかに変わった。冷たく、鋭い。
「……この先、何か変よ」
 メリーが小さく呟く。
「どんな風に?」
「分からない。でも……なにかの裏側、それこそ境界の向こう側みたいな」
 蓮子は眉をひそめた。なにかの裏側。つまり、頼朝アキュムレイトの裏側。この町の"時間管理システム"の中枢の、さらに背後。蓮子は本能的にそう思った。
 
「ちょっと待って」
 蓮子は夜空を見上げた。月と星の位置を確認する。オリオン座の三つ星、冬の大三角、北極星。すべて、今この時間、この場所にあるべき配置で輝いている。
「今は、20--年2月20日。午後7時32分。北緯35度19分、東経139度33分」
 メリーは頷いた。蓮子が月と星を読んだということは、ここから先の時間が現在とは異なるという意味だ。
「行く?」
「……少しだけ」
 メリーは鳥居の列へ足を踏み入れた。蓮子もその後に続く。
 
 一つ目の鳥居をくぐる。何も変わらない。
 二つ目。空気が少し冷たくなる。
 三つ目。足音が、わずかに響き方を変えた。
 四つ目――
 視界が、変わった。
 鳥居と鳥居の間から見える景色が、さっきまでと違う。
 鶴岡八幡宮の境内ではない。いや、境内なのかもしれないが、全く別の様相を呈していた。
 空間が、裂けている。いくつもの層が、露わになっていた。
 光の粒が、無数に漂っていた。
「……これ」
 メリーは息を呑んだ。
 一つ一つの光の粒が、かすかに異なる色を放っている。琥珀色、青白い光、くすんだ橙色、淡い紫。
「時間……?」
 そう呟いた瞬間、一つの光の粒が、メリーの目の前で変化を始めた。
 光の中に、映像が浮かび上がる。

 鎌倉の街。でも、今の鎌倉ではない。木造の家屋が立ち並び、人力車が走っている。大正時代。空の色、雲の形、人々の装い。その一日の、ある特定の時間が、光の粒の中に封じ込められている。
「1923年7月15日、午後3時」
 蓮子の声が、背後から聞こえた。
「空の星の配置から分かる。その光、関東大震災の一ヶ月前の鎌倉だ」
 光の粒は、ゆっくりと回転しながら、圧縮され始めた。
一日が、数時間に。数時間が、数分に。数分が、数秒に。時間が、凝縮されていく。
 やがて、それは針の先ほどの、けれど眩いばかりの光になった。
 その光が、ふっと動いた。
 宙を漂い――鎌倉の街のどこかへ、落ちていく。
 メリーは、その軌跡を目で追った。光は、遠く離れた場所へ吸い込まれるように消えていく。町のどこかに、格納されていく。
 
「……頼朝アキュムレイトの裏側」
 メリーは呟いた。
 周囲には、同じような光の粒が無数に漂っている。それぞれが、異なる時代の、異なる日の、異なる時刻を封じ込めている。
「1868年4月23日、正午」
「1945年8月17日、夕暮れ」
「1603年10月1日、明け方」
 蓮子が、次々と光の粒の時刻を読み上げる。
 それらすべてが、同じように圧縮され、鎌倉の街のどこかへ送られていく。
 この街は、時間を蓄積している。ただし、それは表側の話だ。
 裏側では、こうして時間が切り分けられ、圧縮され、街のどこかに分散して格納されている。
 まるで、巨大な記憶装置のように。
 
「メリー!」
 蓮子の声が、急に遠くなった。
 メリーは振り返ろうとして――足元がぐらりと揺れた。
 ――石畳が、ない。いや、ある。でも、さっきまでと違う石畳だ。摩耗の具合が違う。苔の生え方が違う。
「……やばい」
 周囲の光の粒が、一斉に明滅した。
 メリーの立っている場所が、どの時代なのか分からなくなる。
「メリー、動かないで! 現在の星空を見失うと多分帰ってこれなくなる!」
 蓮子の声が、また少し遠い。

 メリーは足を止めた。けれど、景色は勝手に変わっていく。
 鳥居の朱色が褪せる。塗り直される。また褪せる。また塗り直される。
 石段に生える草が伸びる。刈られる。また伸びる。
 時間が、ランダムに切り替わっている。
「蓮子!」
 メリーが叫ぶ。
「星を見て! 私が言う星座を探して!」
 蓮子の声が、必死に響く。
 メリーは夜空を見上げた。
 月が、星が――無数にある。
 いや、"ありすぎる"。
 月は軌道を描くように並び、オリオン座が十も、二十も、微妙に位置をずらして並んでいる。北極星が円を描くように並び、冬の大三角が幾何学模様を作っている。
「星がありすぎてどれかわからない!」
「同じ軌道や配列の中で一番光が強いのを探して!」
 
「オリオン座の三つ星!」
 蓮子の声が、かすかに届く。
メリーは目を凝らした。幾重にも重なったオリオン座の中から、一番明るく輝いている三つ星を探す。
「……見えた!」
「その三つ星から、右下! シリウス!」
 視線を動かす。複数のシリウスが並んでいる。
「どれ!?」
「一番青白いやつ!」
 見つけた。確かに、他のシリウスより青く、鋭く光っている。
「そのシリウスと、オリオンの三つ星と、ベテルギウスで三角形! それが"今"の冬の大三角!」
 メリーは星を結んだ。三角形が、浮かび上がる。
 その瞬間、視界がはっきりした。足元の石畳が、安定する。周囲の光の粒の明滅が、わずかに遠のく。
「次! 北極星! 冬の大三角から、カシオペア座を経由して――」
「見えてる!」
 メリーは叫んだ。
 蓮子が次々と星の位置を指示する。メリーはそれを追いかける。一つ、また一つと、"今この瞬間の星空"を頭の中で組み立てていく。
「ペガサス座の四辺形!」
「見つけた!」
「アンドロメダ座!」
「ある!」
「こと座のベガ!」
「分かった!」
 やがて、重なり合っていた星座が、一つに収束し始めた。
 余分な時代の星が消え、20--年2月20日午後7時47分の星空だけが残る。
 
「――今だ! 走って!」
 蓮子の声に、メリーは駆け出した。
 鳥居を逆にくぐる。四つ目、三つ目、二つ目、一つ目。
 最後の鳥居をくぐった瞬間、メリーの足が地面をしっかりと踏みしめた。
 振り返ると、鶴岡八幡宮の本殿が、ちゃんとそこにあった。
 蓮子が、ぜえぜえと息を切らしながら駆け寄ってくる。
「……無事?」
「うん」
 メリーは頷いた。心臓がまだ早鐘を打っている。
「今の見えた?」
「ええ」
 メリーは空を見上げた。星は、正しい数だけ瞬いている。
「頼朝アキュムレイトの裏側。時間を切り分けて、圧縮して、格納する場所」
「あの光の粒……」
「そう。一つ一つが、誰かの鎌倉の記憶なんだ。それが、この町のどこかに埋め込まれてる」
 蓮子は、丸山稲荷の鳥居を見上げた。朱色の鳥居は、何事もなかったかのように静まり返っている。
「……やっぱりさ」
 蓮子は小さく笑った。
「頼朝公も、ここだけは完全に手出しできなかったんだと思う。町中に頼朝アキュムレイト仕込んでも、こういうのは、昔からそこにいる」
 メリーは頷いた。
「土着の神様の領域ね」
「その領域を利用して、時間の整理整頓をしている。仕組みはわからないけどそういうことでしょ」
「……したたかね」
「そりゃあ、武家で初めて幕府を開いた人だものね」
 
 二人はもう一度だけ鳥居を見上げてから、石段を降り始めた。
 本殿の前を通り、境内を抜けると、街の灯りが見えた。
「今日、いろんな鎌倉を見たね」
 蓮子が言う。
「ええ。守られた時間、包まれた時間、そして……管理される時間」
「どれが一番良かった?」
 メリーは少し考えてから答えた。
「……全部、かな」
「欲張りだね」
「鎌倉が欲張りなのよ。いろんな時代を、全部抱え込んでるんだから」
 二人は予約していた旅館へ向かって歩き出した。背後で、丸山稲荷の鳥居が静かに佇んでいる。あの時間の断片は、今もあそこで圧縮され、街のどこかへ送られているのだろうか。それとも、見る者がいなければ静止しているのだろうか。
 メリーは振り返らなかった。振り返ったら、また引き込まれそうな気がしたから。

 旅館に着く頃には、夜も更けていた。
 部屋に入ると、窓から夜の鎌倉が見えた。低い屋根の連なり、街灯に照らされた路地。遠くに、鶴岡八幡宮の森が黒々とした影を落としている。
 浴衣に着替え、冷蔵庫からビールを取り出す。蓮子が瓶の王冠を開けると、どこか懐かしい音が静かな部屋に響いた。
「乾杯」
「乾杯」
 二人はグラスを合わせ、一口飲んだ。冷たいビールが喉を通り、一日の疲れがほぐれていく気がした。

 窓際に座り、夜景を眺める。
 二人はしばらく黙って、夜の鎌倉を眺めていた。
 遠くで、電車の音が聞こえる。江ノ電かもしれない。あの窓ガラスには、今も別の時代が映り込んでいるのだろうか。
「……ねえ、蓮子」
「ん?」
「明日、どこ行く?」
 蓮子は少し考えて、笑った。
「まだ行ってないとこ、たくさんあるよね」
「建長寺とか」
「円覚寺も」
「銭洗弁財天も面白そう」
「大仏は?」
「それは外せないわね」

 二人は楽しそうに明日の予定を話し合った。
 耳の奥で、まだ竹の葉が揺れる音が聞こえる気がした。江ノ電の車輪の音も、観音様の前で聞いた鐘の音も、すべてが混ざり合って、ゆっくりと遠ざかっていく。

「酔いが回る前にお風呂行こうか」
「その前に夕食よ。一日中歩いたからお腹すいた」
「そういえばそうね」

 窓の外では、鎌倉の夜が静かに流れていた。
 明日もまた、この街は二人を迎えてくれるだろう。新しい時間の層を見せてくれるかもしれない。
 メリーは、ふと思った。
 丸山稲荷で見た、あの光の粒。一つ一つが、誰かの一日だった。
 ――では、今日は?
 江ノ電の窓に映った景色。長谷寺の池。小町通の喫茶店。報国寺の竹林。そして、この旅館で交わしている会話も。
 いつか、圧縮されて。
 光の粒になって。
 鎌倉の街のどこかに格納されて、ひょんなことがきっかけで誰かに見られるのかもしれない。

「……恥ずかしいわね」
 メリーは小さく呟いた。
「ん? 何が?」
 蓮子が振り返る。
「ううん、何でもない」
 メリーは笑って、グラスを置いた。

 窓の外で、星が一つ、瞬いた。
 それが本当に星なのか、それとも誰かの記憶の光なのか。もう、区別はつかなかった。
 
酉河つくねです。
個人的に好きな鎌倉を二人に散策してもらいました。
古い街には色々不思議が隠れていそうで楽しいですよね。
酉河つくね
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コメント



0.簡易評価なし
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.90夏後冬前削除
鎌倉という場所と時間概念の積み重なり方を覗くというアイディアが抜群に面白くて静謐な世界の在り様がとても好きだっただけに途中でエンターテイメントの山場が差し込まれてしまったのが逆に没入感が削がれてしまったような感覚でした。語り口や展開が淡々としてても充分に魅力的だと思うのでサビの部分がなくても読者を引き込むことはちゃんとできてると思いました。
3.100南条削除
面白かったです
普段秘封倶楽部が相対するのはにじり寄ってくような怪異だと思いますが、ここ鎌倉にあるのは穏やかで規律のある朗らかな物でした
大いなるものに見守られている秘封倶楽部というのも珍しくて読んでいて楽しかったです