私が仏門へと入った頃には上人はもう既に高名な僧であられました。様々なところへと行者として赴かれ、山道を切り開かれたり教えを説かれたりされたということを伝え聞いておりました。眼病が世間に流行りましたときには、自らの片眼をくり抜かれて神仏に衆人の救いを祈念されたことなども実に有名なことであります。私は当時は若輩の僧でした。そして上人は修行の最後の段階に差し掛かろうとされておりました。御存知ですか? 生きながらにして御仏となる、という究極の修行を。
ええ、木の根や木の実、水といった僅かなものを口にしながら体から贅肉を落としていくのです。もとより僧侶には我欲は不要なものです。そうはいっても、絶え間のない空腹に耐えることがどれほどに辛いものなのか、それは私自身もなんとなしにではありますが分かっております。ええ、聞き及んだ往年のあの飢饉のころのことなどを考えると、心がじくじくと疼くような思いであります。失礼、少々寄り道をしてしまいました。
僭越ながら私は修行の最終段階に立ち会わせていただいておりました。語るのにすら心苦しさはあるのですが、生きながらにして仏にならんとするものは、地中に設けられた函、一応にそこには唯一地上に通づる、息をするための竹筒が設けられているのですが、その函の中に鈴を持ってただ一人入るのです。そして私たちは地上で鈴の音がしなくなるのをただひたすらに待ち続けるのです。
鈴の音は未だ鳴り響いておりました。私は無性に悲しさを感じてしまいました。もとより上人には多分に世話となりましたし、上人は特に私を色々とかわいがってくださりました。僧として生きること、それは生活のすべてを修行とすることを意味しております。それゆえ私の一挙一動をお見据えになられつつ、ときにはお叱りになり、ときにはお説きになり、そしてときにはじっと黙って私の成すことをご覧になってくださいました。見守られる、というには私はもはや成長しすぎましたし、それと同時に私は未だ幼くあったのです。
上人が境内の地の中に入られて一日ほど経った頃でしょう。一人の女が私の近くに来ました。もとより上人の修行を見守る人の中には少数ながら近くの村の方々もおりました。それほどまでに上人は皆様から慕われておられたのです。だから、私はその女のこともそれほど気にも留めませんでした。ただ、少しだけ気になったのは、その女の髪の色は随分と白く、そしてその女はこの往生の最終段階という緊迫した中においても随分に悠然としていたということです。普通の人であれば、この空気に耐えることはなかなかに難しいことでしょう。なにせ私や兄弟子たちでさえも、今すぐにでもここから逃げ出したいと思うぐらいには空気はひどく冷え冷えとしており、どこまでも鋭く、ぴんと張り詰めておりましたから。それでも私はその女に特別に気を留めることはなかったのです。
静かな、不規則な、冷たい鈴の音を聴きながら、私の心中にはさまざまなことが去来しておりました。それは私が仏門に入る前のお恥ずかしい過去であったりとか、仏門に入った後の修行の毎日であったりとか、そんな他愛もないことです。ただ、私にとってそんなつまらないことであろうとも、鮮やかな色づきをもった日々であったことは間違いがありません。上人という、一つのものさしを目の当たりにしたからこそ、ではありますが。
泣いてしまいたくもありました。涙を流すことができればどれほど楽になれたことでしょう。しかしそれはこの場においてはまったくふさわしくのない行いであります。なにせ誰一人、ええ、近くの村からやってきた方々も、そしてあの女も、誰一人としてそんなことをしていないからです。私は彼らと同じように、強いて悲しみを顔に出さないように努めておりました。それが今この場において私がやらねばならない、そして私の出来る最大限の行いだったからです。
永遠とも思える時間が流れております。鈴の音は次第に小さくなっていきます。周囲の蝋燭は静かにゆらめき、辺りを小さく照らし出しておりました。時折静かな風がどこやらか吹きますが、鈴の音を周りに運ぶだけでありまして、蝋燭の炎は依然消えることはありませんでした。私はこの炎が消えないことを考えながらも、心のどこかでは炎がふっと消えてくれることを願っていたのかもしれません。今となってはもはやわからぬことではあります。
夜闇の中、大分に鈴の音は小さくなりました。もはや辺りに漂う虫の音とも紛れるほどです。しかし私たちは、そのかすかな鈴の音を聞き漏らすまいと、ひたすらに耳をそばだてておりました。
そして、ひゅうと冷たい一筋の風が何本かの蝋燭の炎を摘み取ったとき。
鈴の音は静かに止みました。
誰も何も言いません。兄弟子の一人はただ私に向かって頷き、そして私は頷きを返しました。耐えられなくなったのか、村から来た人の幾人かは涙を流しておりました。不思議と私は静かでした。ただ、上人が仏に成られた、ということを理解したのみです。私がこれからやらねばならぬこともあります。ただ、今は上人が無事に仏と成られたことを噛み締めるばかりであります。
私の近くにいた女はなにやら神妙な顔をしながら、消えた蝋燭を一本摘み取りました。誰もその女のことを気に留めません。なにせ次の準備で色々とやることもあるからです。しかし私はなぜだかわからないのですが、その女の行いになにか言いたくなりました。ですから、蝋燭を持ってその場から離れ一人暗がりへと進んでいく女の後を追いかけました。
私が女に追いついたときにはすでに、女は火のついた蝋燭を地面に立てておりました。女の姿が再び照らし出されます。白い髪、そしていまだ少女と言っても良いその顔立ち、しかしながらどこかその感覚を裏切るような、奇妙な雰囲気。蝋燭の明かりは私の姿をも照らし出しまして、女の方も私のことに気づいたようです。
「おい」
私は女に努めて低く声をかけました。
「なにをやっている」
「なにって……ここにいたら悪いわけ?」
私はなんと言い返そうかとあぐねました。とはいえ適当な言葉が思い浮かびません。確かにこの場にいて悪いことなどなにもないはずだ。蝋燭を持っていったとはいえ、そんな些細なことで諍うことになんの意味があろうか? そんなことは上人も決して望んではおられないはずだ。もとより私は仏門に入った身である。だったら諍うことは避けたほうがよいのだろう。そう心中で決着したものの、私はそれを気取られないように黙っておりました。ただ、蝋燭の小さな炎がゆらゆらと私と女の顔を照らし出しておりました。女は表情をほとんど変えることなく、小さくため息をつき、口を開きました。
「知り合いが一人で往生するところにぐらい、黙って立ち会わせてもらいたいものだね。あいにく、顔は見ることができなかったけど」
女はそう吐き捨てるように言いました。
知り合い? 私は上人のことを以前から知っておりました。無論、私が仏門に入った後ですから、たかだか十五年ほどではありますが。しかしです、私はこの女のことを一度も見たことがないのです。しかもこの女の齢は見たところ、未だ十代にすら思えます。そしてもとより、上人ともあろう方が女人と深く関わりを持つ、ということは非常に考えにくいことではありました。
「嘘をつくんじゃない」
私はますます強いて低い声を出してそう述べました。
「まあ、あんたからみればそりゃ嘘にも思えるだろうね……でも本当のことですよ。私は昔からあの上人のことを知っている。まあ随分と長い間、会っていなかったけどね。でもまあ、こういうことをしているとは……」
女はまたしても小さくため息を付きました。そこにどういう感情が込められているのか、私にはどうしても読み取ることが出来ません。私は次第にこの女に気圧されているような、そんな感覚すら持ち始めていたように思います。しかし私はやはり女にそのことを気取られないように、平静を保ちながら語りかけました。
「上人は既に仏に成られた。その尊い足跡にお前は唾を吐きかけるつもりなのか?」
「まさか。そんなつもりなんてないよ。ただ、静かにその死を悼ませてほしかっただけ」
私は仏門に入った身です。そして他ならぬ上人の愛弟子でありました。ですから私にはその言葉を聞き捨てることはどうしてもできませんでした。
「死んだのではない、上人はもはや仏に成られたのだ」
「仏ねえ……」
女は表情一つ変えることなく、ただ静かに、どこか呆れも入ったような感じでそう告げました。
「別にね、あんたのことを否定しようだなんて思わないよ。ただ、私は古くからの知り合いとして、その死を見届けたかっただけ。そんなに怒らないでほしいな」
淡々と語るその女は、それでもどこか憂いを帯びているようにも思えました。もちろん目には涙など浮かべておらず、そして体を震わせたりもしておりません。ただ、その様子は兄弟子があの飢饉を思い出すときのそれにどこか似通っておりました。それはなかなかに申し上げづらいのですが、あえて言うならば、もはや霞がかったものになんとか意味を付与しようとしつつ、それでいてどうしてもそれに相応しい言葉を自らの心中からは発することが叶わない歯がゆさ、とでもいいましょうか。もしかしたらその女も、上人のこの決着に対して心中どう対応するべきなのか決めかねていたのかもしれません。
「……名前を教えてくれ」
「名乗るほどの者でもないけど……うん、まあ、名乗っても良いけど、私がこうやってここに来たのも久しぶりなんだ。誰も覚えてなんかいやしないはず。だいたい寺は女人禁制でしょう? 私がこうやってここに来るのもこれが最後だろうしね」
女はそう呟くように言いました。
「ただね……あの上人さんのことは個人的に色々と知っていましたから」
女はそう低く述べると、私の双眸をじっと見つめてきました。その瞳にあったのは、やはりかすかな憂いのような気がしてなりませんでした。私はどこかたじろぎながらも、女になんとか語りかけました。
「俺は上人のことは昔から知っているが、お前のような女は知らん。人違いだ。さっさと帰れ」
「多分、あんたと上人さんが出会う前から知ってたからねえ。そりゃ私とあんたは初対面になるはず」
私は静かに混乱し始めました。女の言っていることが嘘である、というのがもっともあり得る話です。しかし、だからといってただこんな嘘を披露するためだけにわざわざこんなところへとこんな時間に年若い女が一人で来るものでしょうか? あいにく私は人の偽りを見破る術を持ち合わせてはおりません。無論、女が嘘をついていると単純に結論付ければ、私は女を置いてさっさと上人のもとへと戻ることが出来るでしょうに。しかし、私の心中にむくりむくりと、小さな影のような感情が芽吹いてきたことに私は気づかざるを得ませんでした。それは先程まで、それこそ蝋燭の火が消え、鈴の音が止むまでは決して心中に起こり得なかった感情でした。私はどこか恐ろしくなってきました。いえ、目の前の女に対しても少しはそうではあるのですが、そんなものよりもずっと大きく、先の見えない暗闇のような、そのような感情が沸き起こってきたのです。
「嘘をつけ。お前はまだ年若いじゃないか。俺なんかよりもずっと」
「ありがとうね、そう言ってもらえて」
私の声はかすかに震えていました。私は目の前のこの女のことをどう定義すれば良いのか決めかねていました。女はそんな私を尻目に静かに続けます。
「私は地獄にも極楽にも行けないんだよね。だからついに墓場に持っていくことも出来ない話だけど、聞いていかない?」
今度は蝋燭の炎を見つめながら、女は告げました。
一瞬、炎が揺らめいたように思えました。しかし案の定消えることもなく、ただ元へと戻ります。
鼓動が強く、静かに打ち始めました。誰もそんなことは言っておりません。誰もそんなことを告げてはおりません。ただ、私は目の前のこの女の口からもしかしたら語られるかもしれない話は、私を、踏み出してしまったら決して帰還のできない十字路へと否応なしに連れて行くに違いない、そう本能的に感じておりました。
おそらく私にとっての「正解」とは、今すぐ踵を返してこの場からさっさと立ち去ることなのでしょう。それが僧としての唯一無二の解であるはずです。しかし私の足は動くことがありません。ただ、自分よりもはるかに年若いはずの女の前に立ち尽くしておりました。
「続けていいの?」
私はしばらくの間、黙っておりました。女の方もその沈黙に静かに従いました。ただ、ゆらゆらと揺れる蝋燭の明かりだけが、雄弁にものを語っておりました。時間の経過であるとか、相対する二人の表情や顔色であるとか……しかしその沈黙を強いて破ったのは意外なことに、私の方でした。
「……続けてくれ」
ほんの少しだけ驚いたような顔を女は見せました。きっと私の方も似たような顔をしていたのでしょう。無論、自分ではよくわかりません。
「上人さんを尊敬していたんじゃないの?」
「だから自分に嘘はつきたくはない。もっともお前が嘘をついていない、という条件付きだがな」
「安心しなさいな。私は強いて嘘を付くつもりはないよ。もっとも、古い記憶だからあまり保証もできないけれども」
女はそこで地に座しました。女は私にも座することを勧めましたが、私は黙って立っていました。
「……真面目だね」
私は答えませんでした。私はもしかしたらいつでも立ち去ることができるように用意をしていたのかもしれません。しかし、仮にそのような気持ちが生じたとしても、私はそうすることができるのかどうか、自信は全くありませんでした。
「どこから始めれば良い?」
「上人とお前が出会ったきっかけで良い」
女は静かに頷くと、ぽつりぽつりと語り始めました。
「出会ったのは、上人さんがまだ若い頃。ううん、まだ上人さんじゃないな。仏門にも入ってなかったから」
上人にも若い頃、仏門に入る前の人生があるということを私は想像だにしたことがありませんでした。至極当たり前のことです。しかし私はそんなこともわかっていなかったのです。そしてこれではっきりしました。今からこの女の口から語られるであろう話は、きっと私の知らない話なのです。立ち止まるべきだろうか? 今すぐ逃げ出すべきだろうか? 様々な思いが胸の中を駆け巡りました。しかしどうしても私は足を動かすことが出来なかったのです。蝋燭の炎は相変わらずゆらゆらと揺らいでいました。
「続けて良い?」
私はついに小さく頷いてしまいました。私は心のなかで、どこかまだ引き返せることを期待していたのでしょう。しかし、実際にはもはや冷たい、茶色く錆びた金縁に手をかけてしまっていたのです。それは好奇心からではありません。猜疑心からでもありません。ただ、あの厳しくも優しかった上人を自分は裏切ってはならない、そんな思いからだったのです。
「私は当時焼き場で火葬の仕事をしていたんだ。……人が大勢亡くなった。ひどい飢饉だったね。お公儀の対応も後手後手だったし。私も何度も経験してきたけれども、お腹が空くことほど苦しいものはない。仏様がいるんだったらとっとと助けてくれとは何度も思ったよ。ただ、仏様がいるのかいないのかは私にはわからないけれども、仏様は当時は助けてくれなかったんだ」
女は静かに語っておりました。ただ目を静かに細めながら。その瞳にかつて何が写ったのか、私が貫徹することは叶いません。
飢饉のことは兄弟子やもはや縁を切ったかつての肉親からは聞き及んでおりました。誰もがそのことを語ろうとするとき、言葉が少なくなりました。あまりにひどく、あまりに厳しいものであったことはおぼろげながらも聞いております。しかし、その当時を生きたはずの上人については私は一度も想像を及ばせようとしたことはなかったのです。上人ははじめから上人であった、少し考えればありえないとわかるであろうそんなことを私は全く疑うこともなく、大真面目に信じ込んでいたのです。
「人はバタバタ死んでいくし、火葬しても火葬しても追いつきやしない。そりゃ私だって仕事でやってるんだから焼き賃もちょっとはほしかったけど、米どころか粟だの稗だの黍だのも全然取れなかった。だからまあ、半分タダ働きみたいなものだった。まったく……仏様がいるんだったらちょっとは認めてほしいものだね、せっかく衆人を地獄や極楽へと連れて行ってやったんだから」
私は女の話を聞きながらも、どこかで期待に胸を少しだけ膨らませておりました。上人はそのような地獄のような世界を救うために自ら仏門に入られたはずだ、と。そう自分に語るのです。
「ある日のことだ。珍しいことに、骨と皮だけではない男の死体が焼き場に運ばれてきた。運んできたのは年若い人足だった。なんで人足って分かったかって? 右腕のあたりに鯉の墨が掘ってあったんだ。人足は、行き倒れになっていたのを見つけたから、火葬してくれないか、と私に頼んだ。これまた珍しいことに、銭もくれた。まあ、色々気になることはあるけどここまでされたら火葬しないわけにはいかないよね。私は何も言うことなく、その死体を燃やしたんだ。骨? ああ、人足に渡したよ。そのときはそこで別れた。良い? 続けて?」
「……続けてくれ」
「わかった。それで数日経った頃。お侍様が何人か私のところにやってきたんだ」
私の足は少しずつですが、震え始めてきました。嫌な予感、嫌な気配、嫌な臭い、そんなものが私の周りにだけ漂い始めているような気がしました。私を今まで包んでくれていたものが次第に薄まっていく、そんな気分です。
「それでね、似顔絵を一枚出して、この男を知らないか、って詰問してくるんだ。そこまで似てはなかったけど、ホクロとかそういう特徴はちゃんと描かれていたからわかったよ。私が前に火葬した、あの男だってね。それで次にお侍様はもう一枚……大丈夫? 顔、白いけど続ける?」
それはきっと最後の機会だったのでしょう。その場から立ち去り、すべてを、女のことも女の語ったこともすべてを忘れてしまえる、最後の機会。上人を裏切りたくはない、私はさきほど自分で自分にそう言い聞かせておりました。ただ、私の中に次第に次々と芽吹いてきたわずかばかりの好奇心と少しばかりの猜疑心が汚く混じり合ったものが、その純粋な意思をついに打ち負かそうとしていました。
「……続けていいの?」
私は黙っていました。女もそれに静かに応じてくれました。
どれほどの時間が経ったのでしょうか、不意に一陣の風がぴゅうと吹き、蝋燭の炎を掻き消し、辺りは真っ黒な夜の帳に包まれてしまいました。
私はほっとしました。その夜闇が私の沈黙を許してくれるような、そんな気持ちになったからです。しかし女は、小言を言いながら、蝋燭にすぐに再び炎を着けたのです。辺りは元通りに、僅かな明るさを取り戻してしまいました。
そして私はじっと、炎だけをを見つめていました。
「……上人か?」
「なにが?」
「……殺めたのか?」
女は静かにため息を付きました。その後に続いた沈黙が否定を意味していてくれたのならどれほどに良かったことでしょうか。乾いた沈黙は、熱を帯びた蝋燭の炎がぱちり、ぱちりと爆ぜる音に呼応するかのように、そうではないことをどこまでも雄弁に語っておりました。
「まあ……私もあまりよく死体のことを確かめなかったから。無論あの人足の手にかかったんだと知っていたとしても、私にはあまり関係のないことだけど。綺麗に焼いてあげた。それこそ骨になるまで。お侍様にはなんて答えるか迷ったけど、面倒だし知らぬふりをした。別に私がこの手で殺したわけじゃないしね」
殺したわけじゃない、と述べるときにだけ、女の声色に一瞬影が宿ったように思いつつ、私はぐるぐると思いを自分の中で巡らせておりました。
あの優しかった上人様、柔和で穏やかで、空洞となった片方の眼ともう一方の眼で私をいつも貫徹してくださったあの上人様と、薄汚い人殺し、は私の中でどうやっても重なり合うことはなかったのです。
「でもまあ、本意ではないにせよ証拠隠滅の手伝いをしたことには変わりがないから、別の場所に行くことにした。面倒だしね、色々と。そうやって色々な場所を転々としていた。それであの日から何年か経ったときのことだ。私は相変わらず火葬の仕事をやっていた。だからお寺さんともちょっとした付き合いもあった。その日、私はそのお寺さん、ああ、ここなんだけど、お寺さんから新しい坊さんを紹介された。若い坊さんだった。それこそ今のあんたよりも少しね。坊さんは私に恭しく礼をしてくれた。そのときね、坊さんの服の首のあたりから、右腕の付け根がちらりと見えたんだ。……ええ、今でもよく思い出せる。あれは、魚の頭、だった、ヒゲのついたね」
蝋燭の炎は冷たく揺れていて、女は私の方をじっと見据えておりました。私はそのときにどんな顔をしていたのか。女だけがそれを知っているのです。女はそれを告げることもなく、無情にも話を再開しました。
「最初に考えたのは向こうに私のことを気づかれないか、ということだった。いくら今は坊さんとはいえ、元は人殺しだ。証人が今も目の前で生きていると知ったらなにをするかわからない。ありがたいことに、向こうは私のことは覚えていないようだった。まあ数年前に一度だけ少し顔を合わせたきりだ。私が覚えていたのも顔ではなくて墨だったから。でも、色々なことが思い出された。あの飢饉のことも、私が燃やした男のことも、そしてその後のお侍たちのことも。どうしようかとは思案した。私は当時この地に来たばかりだったしね。仕事の前金も方々からいただいていたし、ここでいきなりとんずらするのはちょっと流石に冥利が悪い。まあ、あっちが気づいていない以上、別に良いかと私はしばらくこの地に留まることに決めた。大丈夫? 聞きたくないんだったらこれぐらいにするけど」
それが許されるのであればどれだけ私の生は気楽だったのでしょうか。上人は生前一度も、この女の語るようなことを匂わせたことすらありませんでした。だからこの女の言うことがすべて嘘だという結論に至ることは容易いことでありましょう。……ただ一つ、私の中にある強い記憶が、その道を断ち切ってしまっているのです。一度だけです。兄弟子が病に倒れたとき、年老いた上人が袈裟を脱がれるのを手伝ったことがあるのです。そのとき、私も見てしまったのです。……右腕の付け根。なにか、丸いものと細い紐のようなもの。私はそのときはすぐに記憶から消し去りました。しかし、今ならはっきり言えます。あれは鯉の口とヒゲである、と。
するりするりと手をかけていたものが手の隙間から抜けていくような感覚に陥りながら、それでも私は続けてくれるよう女に告げました。女は黙って頷きました。
「私はたまに人の護衛なんかも請け負っていた。それであるとき私はその坊さんが遠出するっていうので同行していってもらえるように寺の方から依頼された。私は少しだけ疑問に思っていた。もう天下泰平の世だ。お公儀のお陰で街道も整備され、野盗なんてとっくに駆逐されている。危ないことなんてそうそうありゃしない。相手が商人とかだったらわからなくもないが、坊さん相手に狼藉を働く連中もそこまでいるとはあまり思えない。だいたい私が護衛するのはそれこそ山の中を行ったりするときぐらい。こんなふうに街道を進んでいく人間をわざわざ護衛する必要なんてあるのだろうか? とは思ったけど、報酬は結構弾んでくれたから、そこはあまり深く考えないことにした。坊さんの方も私に丁寧に頼んでくれたしね。それで何日かかけて目的地まで行くんだけど、道中坊さんは落ち着かない様子だった。宿でも名前や身分をわざわざ偽ったりしたりしてね。まあ、鈍い私でも薄々感づいてきたんだ……」
私はもはや女からの答えを待つ必要はありませんでした。蝋燭の炎のゆらめきがちらちらと女の神妙な顔を照らします。私はようやく重い口を開きました。
「仇討ち……というわけか」
「そうだね……お侍様を殺めてしまったからね。坊さんはきっと恐れていた。年中びくびくしてたんじゃないかな、いつ自分の目の前に、名前も顔も知らない、だけど自分のかつての行いだけを知っている人間が現れるのか、ということを」
武士が平民の手にかかって殺されることがどれほど武家にとっての名折れとなるか、武士などではない私でも知ってはおります。生まれるのは、禄の削減、縁談の消失、などなど……だからその雪辱を灌ぐため、残された武家の人間はどうしても下手人を斬らねばならぬことも。しかし、かつての上人とその死んだ侍の間にどのような諍いがあったのか、そもそもどちらに非があったのか、そもそもどちらにも非などなかったのか、それは目の前の女も預かり知らぬことでしょう。無論どうあろうとも、仇討ちをする側には一切の関係などないことであります。
私はそこでようやく静かに地に座しました。そして、小さな炎を横に、女の顔を見ながら問いかけました。
「それを知ってどう思った?」
「どう思ったって? ……まあ、私も別に無垢な身ではない。だからまあ、ご愁傷さま、とは思った。でも、坊さんの気持ちを理解することなんてもとより叶わないし、私はただ請け負った仕事をこなすだけかな。仇討ち、なんてことの意義は私にはわからない」
しかし私は女のその言葉を馬鹿正直に受け入れることはできませんでした。同じ目線になってようやく気づいたことではありますが、いつも変わらない神妙さを保っているように思われた女の顔が微妙に崩れることがあったのです。仇討ち、という言葉を口にしたとき、小さく目を細めたような、それこそどこか遠くを見るかのような目つきをしました。まるで、私ではない誰かに言い聞かせているような、そんな感覚を受けました。
それよりも、私の中でゆっくりと確実に大きな位置を占めていくのは、上人のせいで人が死んだという確かに大きな事件ではなく、上人が死を非常に恐れていた、という実に冷えた話題でした。私はかつて不躾ながら上人に尋ねたことがあります。なぜ上人は自らの片目を神仏に捧げるのみならず、進んで仏になろうという気概を抱くことができるのかと。上人は何も言いませんでした。ただ黙って私の顔を見ただけです。そのとき私は自らの不明をひどく恥じました。上人のあの柔和な沈黙が、今になって私のかつて抱いたあの恥じらいをどんどんと塗りつぶしていくのです。
ちりん、という音がかすかに聞こえたような気がしました。でもそれは気の所為にほかなりません。鈴の音は既に止んでしまっています。ただ蝋燭の炎が爆ぜる音だけです、もはや聞こえるのは。
「なああんた」
私は女に問いかけます。
「どうしたの?」
「飢饉が起こったのも、上人がまだ若くあられたのも、随分と前のことだ。あんたはなぜ若いままなんだ?」
これは私にとっての最後の賭けでした。この女の言うことがすべて嘘であるという、その一点に私はすべてを賭けたのです。私にとってそれは非常に分の良い賭けのはずでした。なにせどのような人間であろうと、若い姿を保ち続けることなど絶対に叶わぬ夢であるはずだからです。女がただの一言、自分の語ったことはすべてが偽りである、ということを認めさえすれば、上人は無事に仏となられることができるのです。
女は何も言うことなく、懐からすくと一振りの短刀を取り出しました。そして自らの頸へと躊躇なく突き刺したのです。私は呆然とその光景を見ていました。多くの血が流れ落ち、女は地面にどたりと伏しました。私はその場から動くことも出来ず、ただ目の前で起こったことに戦慄くのみでした。しかしです。倒れた女はすぐにぴくり、と動き、そしてすく、と上半身を起こしました。頸の傷は完全に癒えている、いえ、傷があったことなど全くわからない、元のとおりになっております。そして血で赤黒く汚れた衣服は先程の出来事を生々しく物語っておりました。
「結構痛いから、あんまり披露はしたくないんですが……」
女はいけしゃあしゃあとそう語ります。こうして私は賭けに無様に負けることとなりました。いえ、もとより勝つ見込みなどなかったのです。唯一できたことがあるとすれば、私の中に持ち上がったあの感情が私を操る前にこの女に背を向けることだったのでしょう。
私の中で何かが崩れたように思いました。それは物事の理であり、神仏というものへの無邪気な信頼であり、そしてなによりも自分の中に遍く巡らされていたはずの堅固な帷そのものでした。
しばらくの間、私は嗚咽を漏らしていました。それはあの衝撃的な光景を目にしただけではきっとありません。そんな私を、女は何も言うことなく、静かに眺めておりました。きっと女は私のように振る舞う人間をこれまでもたくさん見てきたのでしょう。おそらくはこれからも。
「続けましょうか?」
女は無情にもそう私に告げました。女自身が一番よくわかっているはずでしょう。私はきっと辺りが明るくなるまでこの場にいなければならないという残酷な事実を。先程私は自分に申しました。上人を裏切りたくない、と。宙ぶらりんのままで逃げたところで、私はもはや上人にどのような顔を向ければよいのかわからないのです。きっと耳を塞いだところで、上人の右腕の付け根にある鯉の入れ墨は目に入ってくることでしょう。きっと目を塞いだところで、あの鈴の音はいつまでもつきまとってくることでしょう。いずれにせよ、煮えたぎった釜の蓋を不用意に空けてしまった私にはもう選択など用意はされていないのです。
涙を拭います。ひどい顔をしていることでしょう。蝋燭の炎はそんな私の顔を相も変わらず照らします。だんだんと夜も明けつつあるのでしょうか、空の色もごくごく僅かですが白味を抱きつつありました。私はもう一度すくと立ちました。どうしてもこの女と同じ目線でいることはできない、そう思ったのです。女はそんな私を見て、再び口を開きました。
「結局その旅路では仇討ちに遭遇することはなかった。まあ、遭遇したとしても私が返り討ちにしてただろうけど。だけど年がら年中坊さんを護衛するわけにもいかない。だいたい寺の中は女人禁制だったしね。結局、何事もなく時間が経ったから、いつものように私は別の土地に移ることにした。若い頃の坊さんとはそれっきりだね」
私はそこで話が終わってくれることを願っておりました。あとはただ、上人が自分の行いを悔い、そして自らの罪へと一人孤独に向き合うために片眼を差し出し、そして仏を目指されるだけなのです。
しかしその願いは当然ながらあっさりと裏切られました。
「それから随分と後です。ええ、もうその頃には上人、と呼ばれていたんじゃないですかね。だからまあ、上人、と呼ぶよ。多分知っていることでしょうが、上人さんは一人津々浦々を回り、色々なことをしてきたみたいですね。……護衛はもう誰もつけていなかったんだろうね。まあともかく、上人の名は当時都の辺りにいた私のもとにも檀家さんの方から伝え聞こえてくることとなりました。私は相変わらず火葬の仕事をしてましたから、やっぱり檀家さんとのつながりは、私にとってはあまり好ましくはないんだけども強くなってしまうんだよね。世俗の人々と親交を結んでしまうのも結構心苦しいものはあるけど……。そんなある日、檀家さんが私にある人を紹介してくれたんだ。名前は聞いたことなかった。……今でも一字一句思い出せるけど。その人は長旅で病に倒れ、もはや幾ばくもないという。身よりもない人らしかったから、面倒事ということで私に頼んだんだろう。おそらくその人の残りの財産だったんだろうけど、私に手間賃として結構な額をくれたし、私はまあ半ば仕方なく言われたところに行くことにした。布団に横たわっていた男の人は、結構若め、といってももう四十過ぎだっただろうけど、肺をやられていたみたいで確かにもう幾ばくもない、という感じ。住まいは結構立派だった。長屋とかそういうのを想像してたんだけど、一応普通の屋敷だった。ただ、もう家は荒れ果てていて草もぼうぼうで、かつての面影はもはや見る影もない、という感じではあったけど。その人は私が来たのを見て、何か言おうとしたみたいだけど、ごほごほと乾いた咳をするばかりで言葉にならない。多分ほうっておくことも出来ないし、かといって病気が自分たちに伝染るかもしれないし、そう考えたからこそ私を使ったんだろう。それはいいけど、とりあえず栄養のある食事でも作って食べてもらうことにした。台所を借りて、米の重湯に大根の煮汁を添えて、匙で口に運んでやる。男はゆっくりと咀嚼してなんとか飲み込む。むせないか少し心配だったけど。何日かそういうことを繰り返すと、男はほんの少しだけど、元気になってくれたみたいだ。もちろん肺病が治る、ということはないんだけどね。ただ、血色は僅かに良くなり、布団から上体をなんとか少し起こせるぐらいにはなった。……男の身分は薄々分かっていた。男の方も私の行いに小さく礼をするだけで、お礼の言葉を発することは叶わなかった。時折何かを言おうとするんだけど、強い咳がいつも邪魔をする。だからその言葉を聞くことはいつだって出来なかった」
私は黙って聞いていた。もはや私が付け加えることなどありません。ただ、その結末は自然予想がついていました。
「ある日、男は激しく血を吐き出した。畳と布団は瞬く間に赤黒く汚れた。私は何度かこういう場面を目にしてきました。だから理解りました。彼の人生の終焉はすぐそこに近づいている、ということを。一人で死ぬことは誰にとっても寂しいこと。だから私はそのときが来るまで男の近くにいてやることにしました。激しく咳をしながら、男はなんとか指を指します。指の向こうには、一振りの刀がありました。ええ、竹光なんかではない。私がこの屋敷に来て一番最初に目にしたものでした。そして男は、咳に阻まれながら、なにかを言おうとしていました。その試みが何度か繰り返された後、男は静かに息が引いていき、ゆっくりと目を閉じました」
女は虚空を見つめながら、そう語っておりました。だんだんと辺りが明るくなっているからか、もはや蝋燭の炎がなくともその顔を見ることが出来ました。
「そして私が色々と後片付けをしているときに、一冊の書物を見つけた。そこに書いてあったのは、自分の父親が人足の手にかかって死んだこと、仇討ちのために方々を周ったこと、しかしどうしても見つからず、長旅でついに肺を病んだこと、そして自分をひどく不甲斐なく感じること、人足の右腕には魚の入れ墨があること、その他諸々……私はひとしきり読んだ後、黙って燃やした」
だからなんなんだ、と、それでも私は思わず言い返したくなりました。魚の入れ墨を入れた人足なんて山のようにいる。それも右腕の付け根に入れる人間なんて珍しくもない、そう言ってやりたくなりました。無論それは間違いなく正しい、正しいのですが、その正しさは私と目の前の女との間のやり取りにおいてはなんら意味をもたない戯言だということも私は同時に分かっておりました。
「私は男の火葬を終えた。結局私以外に見届けるものはいなかった。多分栄養不足からか、骨もぼろぼろと崩れてしまった。彼の人生はなんだったんだろうか? 私でさえ少しだけそう思いたくもなった。別に誰が良いだとか悪いだとかそんなことは言うつもりは毛頭ないけどね。ただ……一人きりで往生することはなかった、その一点において彼はほんの少しだけ幸運だった、それだけかな」
空は既に大分白くなりつつありました。もうそろそろ夜明けなのでしょう。蝋燭の炎はすでに消えていたことに私はようやく気づいたのです。
「なあ」
「なに?」
「あんたは上人のことをどう思うんだ?」
「……思うところはあります、ただ、私なんかが御高説を垂れることのできるものではない。きっとそういう役割はあんたのほうがよっぽど相応しいと思うよ」
女はそれ以上何も言うことなく、すくと立ち上がり、さっさとどこかに消えていってしまいました。後には短くなった蝋燭と立ちつくす私だけが柔らかな朝日の中に残されていたのです。
今度こそ嗚咽を漏らすこともできない。女のことを追いかけることも出来ない。結果私の足は自然、元の場所へと向かっておりました。
兄弟子たちは大事なときに姿を消した私のことを強く叱責しましたが、それは心配の裏返しだったのでしょう。だからひとしきり叱った後で私を、地中から出され、境内の入定場から堂へと移されて安置されておられる上人のところへと連れて行ってくれました。そして何も言うことなく、私を置いて出ていってくれました。
朝の光が上人のお姿を後ろから照らし出します。しかし私の中には、その姿を安易に神々しいなどと呼ぶことにどうしても強いためらいがありました。上人の右腕の付け根におもわず目をやります。袈裟の隙間から何かが見えるような見えないような、そんな感じでした。
ふと、あの女の声が聞こえたような気がしました。そしてあの女がここにやってきた理由をも思い出します。あの静かな行いの意味合いを私は噛み締めつつ、それでも飲み込みきれずにおりました。そして私は上人のあの柔和な沈黙をおそらくいつまでも忘れることはないはずです。それが結局私にとって、いや、私が会ったこともない、名前も知らない、もはや過去の渦に飲み込まれてしまったその男、にとってもどういう意味を持ち合わせていたのでしょうか。私はただ上人の目の前で目を瞑り、小さく祈念しました。そして目を開いて踵を返し、私は堂から出ていきました。私にとって上人とは、自らの眼をくり抜かれ、衆生の治癒を祈念されるほどの方であります。私にとって上人とは、ただ弟子の成長を静かに見守ってくださった方であります。私にとって上人とは……いずれにせよ、上人はもう何も仰らず、ただ座しておられるだけでしょう。そういうものなのかもしれません。もう私は誰かの鈴の音を聞くことも、無論自分で鈴を鳴らすこともないのでしょう。 あの夜のことはもう随分と前のことになります。私もこの寺の住職となりました。依然、上人を仏、と呼ぶことには私はためらいがあります。おそらくはあの女にとっても、私とはまた別の理由でそうなのでしょう。
上人がなぜ最後にあのようなこと、すなわち入定へと至られることを自ら選ばれたのか、私にはどうしてもわかりかねます。考えるたびに上人のあの柔和な沈黙だけが静かに立ち上がってくるだけなのです。そして上人は何も仰りません。私は未熟なのでしょうね。それでも、私の中では上人と過ごしました鮮やかな日々は未だ色づいているのです。
私が上人の年に近づいた辺りで、私はようやく上人伝を書き記すことといたしました。上人の足跡はあちこちにございます。私は色々と伝え聞きつつ、上人のことを自分が知る限りで記していくのです。ええ、方々で山道などを切り開かれたことも。片目を自らくり抜かれ、流行り病が収まることを祈祷なさったことも。かつては人足でありそのときに人を殺めてしまったことも。そして最後には生きながら仏となられる道を自ら選ばれたことも。
ある夜のことです。私はおおよそ書き終えた上人伝の一部分を、かすかに震える手で、黒く塗りつぶしはじめました。それは女が私にあの夜語った話の一部分、すなわちあの女が都にいた頃の部分だけを、です。そうやって塗りつぶしを終える頃には、私の手の震えもようやく止まっておりました。
上人伝の完成の暁には、御仏となられたはずである上人の足跡を後世まで遍く伝えていく次第であります。
ええ、木の根や木の実、水といった僅かなものを口にしながら体から贅肉を落としていくのです。もとより僧侶には我欲は不要なものです。そうはいっても、絶え間のない空腹に耐えることがどれほどに辛いものなのか、それは私自身もなんとなしにではありますが分かっております。ええ、聞き及んだ往年のあの飢饉のころのことなどを考えると、心がじくじくと疼くような思いであります。失礼、少々寄り道をしてしまいました。
僭越ながら私は修行の最終段階に立ち会わせていただいておりました。語るのにすら心苦しさはあるのですが、生きながらにして仏にならんとするものは、地中に設けられた函、一応にそこには唯一地上に通づる、息をするための竹筒が設けられているのですが、その函の中に鈴を持ってただ一人入るのです。そして私たちは地上で鈴の音がしなくなるのをただひたすらに待ち続けるのです。
鈴の音は未だ鳴り響いておりました。私は無性に悲しさを感じてしまいました。もとより上人には多分に世話となりましたし、上人は特に私を色々とかわいがってくださりました。僧として生きること、それは生活のすべてを修行とすることを意味しております。それゆえ私の一挙一動をお見据えになられつつ、ときにはお叱りになり、ときにはお説きになり、そしてときにはじっと黙って私の成すことをご覧になってくださいました。見守られる、というには私はもはや成長しすぎましたし、それと同時に私は未だ幼くあったのです。
上人が境内の地の中に入られて一日ほど経った頃でしょう。一人の女が私の近くに来ました。もとより上人の修行を見守る人の中には少数ながら近くの村の方々もおりました。それほどまでに上人は皆様から慕われておられたのです。だから、私はその女のこともそれほど気にも留めませんでした。ただ、少しだけ気になったのは、その女の髪の色は随分と白く、そしてその女はこの往生の最終段階という緊迫した中においても随分に悠然としていたということです。普通の人であれば、この空気に耐えることはなかなかに難しいことでしょう。なにせ私や兄弟子たちでさえも、今すぐにでもここから逃げ出したいと思うぐらいには空気はひどく冷え冷えとしており、どこまでも鋭く、ぴんと張り詰めておりましたから。それでも私はその女に特別に気を留めることはなかったのです。
静かな、不規則な、冷たい鈴の音を聴きながら、私の心中にはさまざまなことが去来しておりました。それは私が仏門に入る前のお恥ずかしい過去であったりとか、仏門に入った後の修行の毎日であったりとか、そんな他愛もないことです。ただ、私にとってそんなつまらないことであろうとも、鮮やかな色づきをもった日々であったことは間違いがありません。上人という、一つのものさしを目の当たりにしたからこそ、ではありますが。
泣いてしまいたくもありました。涙を流すことができればどれほど楽になれたことでしょう。しかしそれはこの場においてはまったくふさわしくのない行いであります。なにせ誰一人、ええ、近くの村からやってきた方々も、そしてあの女も、誰一人としてそんなことをしていないからです。私は彼らと同じように、強いて悲しみを顔に出さないように努めておりました。それが今この場において私がやらねばならない、そして私の出来る最大限の行いだったからです。
永遠とも思える時間が流れております。鈴の音は次第に小さくなっていきます。周囲の蝋燭は静かにゆらめき、辺りを小さく照らし出しておりました。時折静かな風がどこやらか吹きますが、鈴の音を周りに運ぶだけでありまして、蝋燭の炎は依然消えることはありませんでした。私はこの炎が消えないことを考えながらも、心のどこかでは炎がふっと消えてくれることを願っていたのかもしれません。今となってはもはやわからぬことではあります。
夜闇の中、大分に鈴の音は小さくなりました。もはや辺りに漂う虫の音とも紛れるほどです。しかし私たちは、そのかすかな鈴の音を聞き漏らすまいと、ひたすらに耳をそばだてておりました。
そして、ひゅうと冷たい一筋の風が何本かの蝋燭の炎を摘み取ったとき。
鈴の音は静かに止みました。
誰も何も言いません。兄弟子の一人はただ私に向かって頷き、そして私は頷きを返しました。耐えられなくなったのか、村から来た人の幾人かは涙を流しておりました。不思議と私は静かでした。ただ、上人が仏に成られた、ということを理解したのみです。私がこれからやらねばならぬこともあります。ただ、今は上人が無事に仏と成られたことを噛み締めるばかりであります。
私の近くにいた女はなにやら神妙な顔をしながら、消えた蝋燭を一本摘み取りました。誰もその女のことを気に留めません。なにせ次の準備で色々とやることもあるからです。しかし私はなぜだかわからないのですが、その女の行いになにか言いたくなりました。ですから、蝋燭を持ってその場から離れ一人暗がりへと進んでいく女の後を追いかけました。
私が女に追いついたときにはすでに、女は火のついた蝋燭を地面に立てておりました。女の姿が再び照らし出されます。白い髪、そしていまだ少女と言っても良いその顔立ち、しかしながらどこかその感覚を裏切るような、奇妙な雰囲気。蝋燭の明かりは私の姿をも照らし出しまして、女の方も私のことに気づいたようです。
「おい」
私は女に努めて低く声をかけました。
「なにをやっている」
「なにって……ここにいたら悪いわけ?」
私はなんと言い返そうかとあぐねました。とはいえ適当な言葉が思い浮かびません。確かにこの場にいて悪いことなどなにもないはずだ。蝋燭を持っていったとはいえ、そんな些細なことで諍うことになんの意味があろうか? そんなことは上人も決して望んではおられないはずだ。もとより私は仏門に入った身である。だったら諍うことは避けたほうがよいのだろう。そう心中で決着したものの、私はそれを気取られないように黙っておりました。ただ、蝋燭の小さな炎がゆらゆらと私と女の顔を照らし出しておりました。女は表情をほとんど変えることなく、小さくため息をつき、口を開きました。
「知り合いが一人で往生するところにぐらい、黙って立ち会わせてもらいたいものだね。あいにく、顔は見ることができなかったけど」
女はそう吐き捨てるように言いました。
知り合い? 私は上人のことを以前から知っておりました。無論、私が仏門に入った後ですから、たかだか十五年ほどではありますが。しかしです、私はこの女のことを一度も見たことがないのです。しかもこの女の齢は見たところ、未だ十代にすら思えます。そしてもとより、上人ともあろう方が女人と深く関わりを持つ、ということは非常に考えにくいことではありました。
「嘘をつくんじゃない」
私はますます強いて低い声を出してそう述べました。
「まあ、あんたからみればそりゃ嘘にも思えるだろうね……でも本当のことですよ。私は昔からあの上人のことを知っている。まあ随分と長い間、会っていなかったけどね。でもまあ、こういうことをしているとは……」
女はまたしても小さくため息を付きました。そこにどういう感情が込められているのか、私にはどうしても読み取ることが出来ません。私は次第にこの女に気圧されているような、そんな感覚すら持ち始めていたように思います。しかし私はやはり女にそのことを気取られないように、平静を保ちながら語りかけました。
「上人は既に仏に成られた。その尊い足跡にお前は唾を吐きかけるつもりなのか?」
「まさか。そんなつもりなんてないよ。ただ、静かにその死を悼ませてほしかっただけ」
私は仏門に入った身です。そして他ならぬ上人の愛弟子でありました。ですから私にはその言葉を聞き捨てることはどうしてもできませんでした。
「死んだのではない、上人はもはや仏に成られたのだ」
「仏ねえ……」
女は表情一つ変えることなく、ただ静かに、どこか呆れも入ったような感じでそう告げました。
「別にね、あんたのことを否定しようだなんて思わないよ。ただ、私は古くからの知り合いとして、その死を見届けたかっただけ。そんなに怒らないでほしいな」
淡々と語るその女は、それでもどこか憂いを帯びているようにも思えました。もちろん目には涙など浮かべておらず、そして体を震わせたりもしておりません。ただ、その様子は兄弟子があの飢饉を思い出すときのそれにどこか似通っておりました。それはなかなかに申し上げづらいのですが、あえて言うならば、もはや霞がかったものになんとか意味を付与しようとしつつ、それでいてどうしてもそれに相応しい言葉を自らの心中からは発することが叶わない歯がゆさ、とでもいいましょうか。もしかしたらその女も、上人のこの決着に対して心中どう対応するべきなのか決めかねていたのかもしれません。
「……名前を教えてくれ」
「名乗るほどの者でもないけど……うん、まあ、名乗っても良いけど、私がこうやってここに来たのも久しぶりなんだ。誰も覚えてなんかいやしないはず。だいたい寺は女人禁制でしょう? 私がこうやってここに来るのもこれが最後だろうしね」
女はそう呟くように言いました。
「ただね……あの上人さんのことは個人的に色々と知っていましたから」
女はそう低く述べると、私の双眸をじっと見つめてきました。その瞳にあったのは、やはりかすかな憂いのような気がしてなりませんでした。私はどこかたじろぎながらも、女になんとか語りかけました。
「俺は上人のことは昔から知っているが、お前のような女は知らん。人違いだ。さっさと帰れ」
「多分、あんたと上人さんが出会う前から知ってたからねえ。そりゃ私とあんたは初対面になるはず」
私は静かに混乱し始めました。女の言っていることが嘘である、というのがもっともあり得る話です。しかし、だからといってただこんな嘘を披露するためだけにわざわざこんなところへとこんな時間に年若い女が一人で来るものでしょうか? あいにく私は人の偽りを見破る術を持ち合わせてはおりません。無論、女が嘘をついていると単純に結論付ければ、私は女を置いてさっさと上人のもとへと戻ることが出来るでしょうに。しかし、私の心中にむくりむくりと、小さな影のような感情が芽吹いてきたことに私は気づかざるを得ませんでした。それは先程まで、それこそ蝋燭の火が消え、鈴の音が止むまでは決して心中に起こり得なかった感情でした。私はどこか恐ろしくなってきました。いえ、目の前の女に対しても少しはそうではあるのですが、そんなものよりもずっと大きく、先の見えない暗闇のような、そのような感情が沸き起こってきたのです。
「嘘をつけ。お前はまだ年若いじゃないか。俺なんかよりもずっと」
「ありがとうね、そう言ってもらえて」
私の声はかすかに震えていました。私は目の前のこの女のことをどう定義すれば良いのか決めかねていました。女はそんな私を尻目に静かに続けます。
「私は地獄にも極楽にも行けないんだよね。だからついに墓場に持っていくことも出来ない話だけど、聞いていかない?」
今度は蝋燭の炎を見つめながら、女は告げました。
一瞬、炎が揺らめいたように思えました。しかし案の定消えることもなく、ただ元へと戻ります。
鼓動が強く、静かに打ち始めました。誰もそんなことは言っておりません。誰もそんなことを告げてはおりません。ただ、私は目の前のこの女の口からもしかしたら語られるかもしれない話は、私を、踏み出してしまったら決して帰還のできない十字路へと否応なしに連れて行くに違いない、そう本能的に感じておりました。
おそらく私にとっての「正解」とは、今すぐ踵を返してこの場からさっさと立ち去ることなのでしょう。それが僧としての唯一無二の解であるはずです。しかし私の足は動くことがありません。ただ、自分よりもはるかに年若いはずの女の前に立ち尽くしておりました。
「続けていいの?」
私はしばらくの間、黙っておりました。女の方もその沈黙に静かに従いました。ただ、ゆらゆらと揺れる蝋燭の明かりだけが、雄弁にものを語っておりました。時間の経過であるとか、相対する二人の表情や顔色であるとか……しかしその沈黙を強いて破ったのは意外なことに、私の方でした。
「……続けてくれ」
ほんの少しだけ驚いたような顔を女は見せました。きっと私の方も似たような顔をしていたのでしょう。無論、自分ではよくわかりません。
「上人さんを尊敬していたんじゃないの?」
「だから自分に嘘はつきたくはない。もっともお前が嘘をついていない、という条件付きだがな」
「安心しなさいな。私は強いて嘘を付くつもりはないよ。もっとも、古い記憶だからあまり保証もできないけれども」
女はそこで地に座しました。女は私にも座することを勧めましたが、私は黙って立っていました。
「……真面目だね」
私は答えませんでした。私はもしかしたらいつでも立ち去ることができるように用意をしていたのかもしれません。しかし、仮にそのような気持ちが生じたとしても、私はそうすることができるのかどうか、自信は全くありませんでした。
「どこから始めれば良い?」
「上人とお前が出会ったきっかけで良い」
女は静かに頷くと、ぽつりぽつりと語り始めました。
「出会ったのは、上人さんがまだ若い頃。ううん、まだ上人さんじゃないな。仏門にも入ってなかったから」
上人にも若い頃、仏門に入る前の人生があるということを私は想像だにしたことがありませんでした。至極当たり前のことです。しかし私はそんなこともわかっていなかったのです。そしてこれではっきりしました。今からこの女の口から語られるであろう話は、きっと私の知らない話なのです。立ち止まるべきだろうか? 今すぐ逃げ出すべきだろうか? 様々な思いが胸の中を駆け巡りました。しかしどうしても私は足を動かすことが出来なかったのです。蝋燭の炎は相変わらずゆらゆらと揺らいでいました。
「続けて良い?」
私はついに小さく頷いてしまいました。私は心のなかで、どこかまだ引き返せることを期待していたのでしょう。しかし、実際にはもはや冷たい、茶色く錆びた金縁に手をかけてしまっていたのです。それは好奇心からではありません。猜疑心からでもありません。ただ、あの厳しくも優しかった上人を自分は裏切ってはならない、そんな思いからだったのです。
「私は当時焼き場で火葬の仕事をしていたんだ。……人が大勢亡くなった。ひどい飢饉だったね。お公儀の対応も後手後手だったし。私も何度も経験してきたけれども、お腹が空くことほど苦しいものはない。仏様がいるんだったらとっとと助けてくれとは何度も思ったよ。ただ、仏様がいるのかいないのかは私にはわからないけれども、仏様は当時は助けてくれなかったんだ」
女は静かに語っておりました。ただ目を静かに細めながら。その瞳にかつて何が写ったのか、私が貫徹することは叶いません。
飢饉のことは兄弟子やもはや縁を切ったかつての肉親からは聞き及んでおりました。誰もがそのことを語ろうとするとき、言葉が少なくなりました。あまりにひどく、あまりに厳しいものであったことはおぼろげながらも聞いております。しかし、その当時を生きたはずの上人については私は一度も想像を及ばせようとしたことはなかったのです。上人ははじめから上人であった、少し考えればありえないとわかるであろうそんなことを私は全く疑うこともなく、大真面目に信じ込んでいたのです。
「人はバタバタ死んでいくし、火葬しても火葬しても追いつきやしない。そりゃ私だって仕事でやってるんだから焼き賃もちょっとはほしかったけど、米どころか粟だの稗だの黍だのも全然取れなかった。だからまあ、半分タダ働きみたいなものだった。まったく……仏様がいるんだったらちょっとは認めてほしいものだね、せっかく衆人を地獄や極楽へと連れて行ってやったんだから」
私は女の話を聞きながらも、どこかで期待に胸を少しだけ膨らませておりました。上人はそのような地獄のような世界を救うために自ら仏門に入られたはずだ、と。そう自分に語るのです。
「ある日のことだ。珍しいことに、骨と皮だけではない男の死体が焼き場に運ばれてきた。運んできたのは年若い人足だった。なんで人足って分かったかって? 右腕のあたりに鯉の墨が掘ってあったんだ。人足は、行き倒れになっていたのを見つけたから、火葬してくれないか、と私に頼んだ。これまた珍しいことに、銭もくれた。まあ、色々気になることはあるけどここまでされたら火葬しないわけにはいかないよね。私は何も言うことなく、その死体を燃やしたんだ。骨? ああ、人足に渡したよ。そのときはそこで別れた。良い? 続けて?」
「……続けてくれ」
「わかった。それで数日経った頃。お侍様が何人か私のところにやってきたんだ」
私の足は少しずつですが、震え始めてきました。嫌な予感、嫌な気配、嫌な臭い、そんなものが私の周りにだけ漂い始めているような気がしました。私を今まで包んでくれていたものが次第に薄まっていく、そんな気分です。
「それでね、似顔絵を一枚出して、この男を知らないか、って詰問してくるんだ。そこまで似てはなかったけど、ホクロとかそういう特徴はちゃんと描かれていたからわかったよ。私が前に火葬した、あの男だってね。それで次にお侍様はもう一枚……大丈夫? 顔、白いけど続ける?」
それはきっと最後の機会だったのでしょう。その場から立ち去り、すべてを、女のことも女の語ったこともすべてを忘れてしまえる、最後の機会。上人を裏切りたくはない、私はさきほど自分で自分にそう言い聞かせておりました。ただ、私の中に次第に次々と芽吹いてきたわずかばかりの好奇心と少しばかりの猜疑心が汚く混じり合ったものが、その純粋な意思をついに打ち負かそうとしていました。
「……続けていいの?」
私は黙っていました。女もそれに静かに応じてくれました。
どれほどの時間が経ったのでしょうか、不意に一陣の風がぴゅうと吹き、蝋燭の炎を掻き消し、辺りは真っ黒な夜の帳に包まれてしまいました。
私はほっとしました。その夜闇が私の沈黙を許してくれるような、そんな気持ちになったからです。しかし女は、小言を言いながら、蝋燭にすぐに再び炎を着けたのです。辺りは元通りに、僅かな明るさを取り戻してしまいました。
そして私はじっと、炎だけをを見つめていました。
「……上人か?」
「なにが?」
「……殺めたのか?」
女は静かにため息を付きました。その後に続いた沈黙が否定を意味していてくれたのならどれほどに良かったことでしょうか。乾いた沈黙は、熱を帯びた蝋燭の炎がぱちり、ぱちりと爆ぜる音に呼応するかのように、そうではないことをどこまでも雄弁に語っておりました。
「まあ……私もあまりよく死体のことを確かめなかったから。無論あの人足の手にかかったんだと知っていたとしても、私にはあまり関係のないことだけど。綺麗に焼いてあげた。それこそ骨になるまで。お侍様にはなんて答えるか迷ったけど、面倒だし知らぬふりをした。別に私がこの手で殺したわけじゃないしね」
殺したわけじゃない、と述べるときにだけ、女の声色に一瞬影が宿ったように思いつつ、私はぐるぐると思いを自分の中で巡らせておりました。
あの優しかった上人様、柔和で穏やかで、空洞となった片方の眼ともう一方の眼で私をいつも貫徹してくださったあの上人様と、薄汚い人殺し、は私の中でどうやっても重なり合うことはなかったのです。
「でもまあ、本意ではないにせよ証拠隠滅の手伝いをしたことには変わりがないから、別の場所に行くことにした。面倒だしね、色々と。そうやって色々な場所を転々としていた。それであの日から何年か経ったときのことだ。私は相変わらず火葬の仕事をやっていた。だからお寺さんともちょっとした付き合いもあった。その日、私はそのお寺さん、ああ、ここなんだけど、お寺さんから新しい坊さんを紹介された。若い坊さんだった。それこそ今のあんたよりも少しね。坊さんは私に恭しく礼をしてくれた。そのときね、坊さんの服の首のあたりから、右腕の付け根がちらりと見えたんだ。……ええ、今でもよく思い出せる。あれは、魚の頭、だった、ヒゲのついたね」
蝋燭の炎は冷たく揺れていて、女は私の方をじっと見据えておりました。私はそのときにどんな顔をしていたのか。女だけがそれを知っているのです。女はそれを告げることもなく、無情にも話を再開しました。
「最初に考えたのは向こうに私のことを気づかれないか、ということだった。いくら今は坊さんとはいえ、元は人殺しだ。証人が今も目の前で生きていると知ったらなにをするかわからない。ありがたいことに、向こうは私のことは覚えていないようだった。まあ数年前に一度だけ少し顔を合わせたきりだ。私が覚えていたのも顔ではなくて墨だったから。でも、色々なことが思い出された。あの飢饉のことも、私が燃やした男のことも、そしてその後のお侍たちのことも。どうしようかとは思案した。私は当時この地に来たばかりだったしね。仕事の前金も方々からいただいていたし、ここでいきなりとんずらするのはちょっと流石に冥利が悪い。まあ、あっちが気づいていない以上、別に良いかと私はしばらくこの地に留まることに決めた。大丈夫? 聞きたくないんだったらこれぐらいにするけど」
それが許されるのであればどれだけ私の生は気楽だったのでしょうか。上人は生前一度も、この女の語るようなことを匂わせたことすらありませんでした。だからこの女の言うことがすべて嘘だという結論に至ることは容易いことでありましょう。……ただ一つ、私の中にある強い記憶が、その道を断ち切ってしまっているのです。一度だけです。兄弟子が病に倒れたとき、年老いた上人が袈裟を脱がれるのを手伝ったことがあるのです。そのとき、私も見てしまったのです。……右腕の付け根。なにか、丸いものと細い紐のようなもの。私はそのときはすぐに記憶から消し去りました。しかし、今ならはっきり言えます。あれは鯉の口とヒゲである、と。
するりするりと手をかけていたものが手の隙間から抜けていくような感覚に陥りながら、それでも私は続けてくれるよう女に告げました。女は黙って頷きました。
「私はたまに人の護衛なんかも請け負っていた。それであるとき私はその坊さんが遠出するっていうので同行していってもらえるように寺の方から依頼された。私は少しだけ疑問に思っていた。もう天下泰平の世だ。お公儀のお陰で街道も整備され、野盗なんてとっくに駆逐されている。危ないことなんてそうそうありゃしない。相手が商人とかだったらわからなくもないが、坊さん相手に狼藉を働く連中もそこまでいるとはあまり思えない。だいたい私が護衛するのはそれこそ山の中を行ったりするときぐらい。こんなふうに街道を進んでいく人間をわざわざ護衛する必要なんてあるのだろうか? とは思ったけど、報酬は結構弾んでくれたから、そこはあまり深く考えないことにした。坊さんの方も私に丁寧に頼んでくれたしね。それで何日かかけて目的地まで行くんだけど、道中坊さんは落ち着かない様子だった。宿でも名前や身分をわざわざ偽ったりしたりしてね。まあ、鈍い私でも薄々感づいてきたんだ……」
私はもはや女からの答えを待つ必要はありませんでした。蝋燭の炎のゆらめきがちらちらと女の神妙な顔を照らします。私はようやく重い口を開きました。
「仇討ち……というわけか」
「そうだね……お侍様を殺めてしまったからね。坊さんはきっと恐れていた。年中びくびくしてたんじゃないかな、いつ自分の目の前に、名前も顔も知らない、だけど自分のかつての行いだけを知っている人間が現れるのか、ということを」
武士が平民の手にかかって殺されることがどれほど武家にとっての名折れとなるか、武士などではない私でも知ってはおります。生まれるのは、禄の削減、縁談の消失、などなど……だからその雪辱を灌ぐため、残された武家の人間はどうしても下手人を斬らねばならぬことも。しかし、かつての上人とその死んだ侍の間にどのような諍いがあったのか、そもそもどちらに非があったのか、そもそもどちらにも非などなかったのか、それは目の前の女も預かり知らぬことでしょう。無論どうあろうとも、仇討ちをする側には一切の関係などないことであります。
私はそこでようやく静かに地に座しました。そして、小さな炎を横に、女の顔を見ながら問いかけました。
「それを知ってどう思った?」
「どう思ったって? ……まあ、私も別に無垢な身ではない。だからまあ、ご愁傷さま、とは思った。でも、坊さんの気持ちを理解することなんてもとより叶わないし、私はただ請け負った仕事をこなすだけかな。仇討ち、なんてことの意義は私にはわからない」
しかし私は女のその言葉を馬鹿正直に受け入れることはできませんでした。同じ目線になってようやく気づいたことではありますが、いつも変わらない神妙さを保っているように思われた女の顔が微妙に崩れることがあったのです。仇討ち、という言葉を口にしたとき、小さく目を細めたような、それこそどこか遠くを見るかのような目つきをしました。まるで、私ではない誰かに言い聞かせているような、そんな感覚を受けました。
それよりも、私の中でゆっくりと確実に大きな位置を占めていくのは、上人のせいで人が死んだという確かに大きな事件ではなく、上人が死を非常に恐れていた、という実に冷えた話題でした。私はかつて不躾ながら上人に尋ねたことがあります。なぜ上人は自らの片目を神仏に捧げるのみならず、進んで仏になろうという気概を抱くことができるのかと。上人は何も言いませんでした。ただ黙って私の顔を見ただけです。そのとき私は自らの不明をひどく恥じました。上人のあの柔和な沈黙が、今になって私のかつて抱いたあの恥じらいをどんどんと塗りつぶしていくのです。
ちりん、という音がかすかに聞こえたような気がしました。でもそれは気の所為にほかなりません。鈴の音は既に止んでしまっています。ただ蝋燭の炎が爆ぜる音だけです、もはや聞こえるのは。
「なああんた」
私は女に問いかけます。
「どうしたの?」
「飢饉が起こったのも、上人がまだ若くあられたのも、随分と前のことだ。あんたはなぜ若いままなんだ?」
これは私にとっての最後の賭けでした。この女の言うことがすべて嘘であるという、その一点に私はすべてを賭けたのです。私にとってそれは非常に分の良い賭けのはずでした。なにせどのような人間であろうと、若い姿を保ち続けることなど絶対に叶わぬ夢であるはずだからです。女がただの一言、自分の語ったことはすべてが偽りである、ということを認めさえすれば、上人は無事に仏となられることができるのです。
女は何も言うことなく、懐からすくと一振りの短刀を取り出しました。そして自らの頸へと躊躇なく突き刺したのです。私は呆然とその光景を見ていました。多くの血が流れ落ち、女は地面にどたりと伏しました。私はその場から動くことも出来ず、ただ目の前で起こったことに戦慄くのみでした。しかしです。倒れた女はすぐにぴくり、と動き、そしてすく、と上半身を起こしました。頸の傷は完全に癒えている、いえ、傷があったことなど全くわからない、元のとおりになっております。そして血で赤黒く汚れた衣服は先程の出来事を生々しく物語っておりました。
「結構痛いから、あんまり披露はしたくないんですが……」
女はいけしゃあしゃあとそう語ります。こうして私は賭けに無様に負けることとなりました。いえ、もとより勝つ見込みなどなかったのです。唯一できたことがあるとすれば、私の中に持ち上がったあの感情が私を操る前にこの女に背を向けることだったのでしょう。
私の中で何かが崩れたように思いました。それは物事の理であり、神仏というものへの無邪気な信頼であり、そしてなによりも自分の中に遍く巡らされていたはずの堅固な帷そのものでした。
しばらくの間、私は嗚咽を漏らしていました。それはあの衝撃的な光景を目にしただけではきっとありません。そんな私を、女は何も言うことなく、静かに眺めておりました。きっと女は私のように振る舞う人間をこれまでもたくさん見てきたのでしょう。おそらくはこれからも。
「続けましょうか?」
女は無情にもそう私に告げました。女自身が一番よくわかっているはずでしょう。私はきっと辺りが明るくなるまでこの場にいなければならないという残酷な事実を。先程私は自分に申しました。上人を裏切りたくない、と。宙ぶらりんのままで逃げたところで、私はもはや上人にどのような顔を向ければよいのかわからないのです。きっと耳を塞いだところで、上人の右腕の付け根にある鯉の入れ墨は目に入ってくることでしょう。きっと目を塞いだところで、あの鈴の音はいつまでもつきまとってくることでしょう。いずれにせよ、煮えたぎった釜の蓋を不用意に空けてしまった私にはもう選択など用意はされていないのです。
涙を拭います。ひどい顔をしていることでしょう。蝋燭の炎はそんな私の顔を相も変わらず照らします。だんだんと夜も明けつつあるのでしょうか、空の色もごくごく僅かですが白味を抱きつつありました。私はもう一度すくと立ちました。どうしてもこの女と同じ目線でいることはできない、そう思ったのです。女はそんな私を見て、再び口を開きました。
「結局その旅路では仇討ちに遭遇することはなかった。まあ、遭遇したとしても私が返り討ちにしてただろうけど。だけど年がら年中坊さんを護衛するわけにもいかない。だいたい寺の中は女人禁制だったしね。結局、何事もなく時間が経ったから、いつものように私は別の土地に移ることにした。若い頃の坊さんとはそれっきりだね」
私はそこで話が終わってくれることを願っておりました。あとはただ、上人が自分の行いを悔い、そして自らの罪へと一人孤独に向き合うために片眼を差し出し、そして仏を目指されるだけなのです。
しかしその願いは当然ながらあっさりと裏切られました。
「それから随分と後です。ええ、もうその頃には上人、と呼ばれていたんじゃないですかね。だからまあ、上人、と呼ぶよ。多分知っていることでしょうが、上人さんは一人津々浦々を回り、色々なことをしてきたみたいですね。……護衛はもう誰もつけていなかったんだろうね。まあともかく、上人の名は当時都の辺りにいた私のもとにも檀家さんの方から伝え聞こえてくることとなりました。私は相変わらず火葬の仕事をしてましたから、やっぱり檀家さんとのつながりは、私にとってはあまり好ましくはないんだけども強くなってしまうんだよね。世俗の人々と親交を結んでしまうのも結構心苦しいものはあるけど……。そんなある日、檀家さんが私にある人を紹介してくれたんだ。名前は聞いたことなかった。……今でも一字一句思い出せるけど。その人は長旅で病に倒れ、もはや幾ばくもないという。身よりもない人らしかったから、面倒事ということで私に頼んだんだろう。おそらくその人の残りの財産だったんだろうけど、私に手間賃として結構な額をくれたし、私はまあ半ば仕方なく言われたところに行くことにした。布団に横たわっていた男の人は、結構若め、といってももう四十過ぎだっただろうけど、肺をやられていたみたいで確かにもう幾ばくもない、という感じ。住まいは結構立派だった。長屋とかそういうのを想像してたんだけど、一応普通の屋敷だった。ただ、もう家は荒れ果てていて草もぼうぼうで、かつての面影はもはや見る影もない、という感じではあったけど。その人は私が来たのを見て、何か言おうとしたみたいだけど、ごほごほと乾いた咳をするばかりで言葉にならない。多分ほうっておくことも出来ないし、かといって病気が自分たちに伝染るかもしれないし、そう考えたからこそ私を使ったんだろう。それはいいけど、とりあえず栄養のある食事でも作って食べてもらうことにした。台所を借りて、米の重湯に大根の煮汁を添えて、匙で口に運んでやる。男はゆっくりと咀嚼してなんとか飲み込む。むせないか少し心配だったけど。何日かそういうことを繰り返すと、男はほんの少しだけど、元気になってくれたみたいだ。もちろん肺病が治る、ということはないんだけどね。ただ、血色は僅かに良くなり、布団から上体をなんとか少し起こせるぐらいにはなった。……男の身分は薄々分かっていた。男の方も私の行いに小さく礼をするだけで、お礼の言葉を発することは叶わなかった。時折何かを言おうとするんだけど、強い咳がいつも邪魔をする。だからその言葉を聞くことはいつだって出来なかった」
私は黙って聞いていた。もはや私が付け加えることなどありません。ただ、その結末は自然予想がついていました。
「ある日、男は激しく血を吐き出した。畳と布団は瞬く間に赤黒く汚れた。私は何度かこういう場面を目にしてきました。だから理解りました。彼の人生の終焉はすぐそこに近づいている、ということを。一人で死ぬことは誰にとっても寂しいこと。だから私はそのときが来るまで男の近くにいてやることにしました。激しく咳をしながら、男はなんとか指を指します。指の向こうには、一振りの刀がありました。ええ、竹光なんかではない。私がこの屋敷に来て一番最初に目にしたものでした。そして男は、咳に阻まれながら、なにかを言おうとしていました。その試みが何度か繰り返された後、男は静かに息が引いていき、ゆっくりと目を閉じました」
女は虚空を見つめながら、そう語っておりました。だんだんと辺りが明るくなっているからか、もはや蝋燭の炎がなくともその顔を見ることが出来ました。
「そして私が色々と後片付けをしているときに、一冊の書物を見つけた。そこに書いてあったのは、自分の父親が人足の手にかかって死んだこと、仇討ちのために方々を周ったこと、しかしどうしても見つからず、長旅でついに肺を病んだこと、そして自分をひどく不甲斐なく感じること、人足の右腕には魚の入れ墨があること、その他諸々……私はひとしきり読んだ後、黙って燃やした」
だからなんなんだ、と、それでも私は思わず言い返したくなりました。魚の入れ墨を入れた人足なんて山のようにいる。それも右腕の付け根に入れる人間なんて珍しくもない、そう言ってやりたくなりました。無論それは間違いなく正しい、正しいのですが、その正しさは私と目の前の女との間のやり取りにおいてはなんら意味をもたない戯言だということも私は同時に分かっておりました。
「私は男の火葬を終えた。結局私以外に見届けるものはいなかった。多分栄養不足からか、骨もぼろぼろと崩れてしまった。彼の人生はなんだったんだろうか? 私でさえ少しだけそう思いたくもなった。別に誰が良いだとか悪いだとかそんなことは言うつもりは毛頭ないけどね。ただ……一人きりで往生することはなかった、その一点において彼はほんの少しだけ幸運だった、それだけかな」
空は既に大分白くなりつつありました。もうそろそろ夜明けなのでしょう。蝋燭の炎はすでに消えていたことに私はようやく気づいたのです。
「なあ」
「なに?」
「あんたは上人のことをどう思うんだ?」
「……思うところはあります、ただ、私なんかが御高説を垂れることのできるものではない。きっとそういう役割はあんたのほうがよっぽど相応しいと思うよ」
女はそれ以上何も言うことなく、すくと立ち上がり、さっさとどこかに消えていってしまいました。後には短くなった蝋燭と立ちつくす私だけが柔らかな朝日の中に残されていたのです。
今度こそ嗚咽を漏らすこともできない。女のことを追いかけることも出来ない。結果私の足は自然、元の場所へと向かっておりました。
兄弟子たちは大事なときに姿を消した私のことを強く叱責しましたが、それは心配の裏返しだったのでしょう。だからひとしきり叱った後で私を、地中から出され、境内の入定場から堂へと移されて安置されておられる上人のところへと連れて行ってくれました。そして何も言うことなく、私を置いて出ていってくれました。
朝の光が上人のお姿を後ろから照らし出します。しかし私の中には、その姿を安易に神々しいなどと呼ぶことにどうしても強いためらいがありました。上人の右腕の付け根におもわず目をやります。袈裟の隙間から何かが見えるような見えないような、そんな感じでした。
ふと、あの女の声が聞こえたような気がしました。そしてあの女がここにやってきた理由をも思い出します。あの静かな行いの意味合いを私は噛み締めつつ、それでも飲み込みきれずにおりました。そして私は上人のあの柔和な沈黙をおそらくいつまでも忘れることはないはずです。それが結局私にとって、いや、私が会ったこともない、名前も知らない、もはや過去の渦に飲み込まれてしまったその男、にとってもどういう意味を持ち合わせていたのでしょうか。私はただ上人の目の前で目を瞑り、小さく祈念しました。そして目を開いて踵を返し、私は堂から出ていきました。私にとって上人とは、自らの眼をくり抜かれ、衆生の治癒を祈念されるほどの方であります。私にとって上人とは、ただ弟子の成長を静かに見守ってくださった方であります。私にとって上人とは……いずれにせよ、上人はもう何も仰らず、ただ座しておられるだけでしょう。そういうものなのかもしれません。もう私は誰かの鈴の音を聞くことも、無論自分で鈴を鳴らすこともないのでしょう。 あの夜のことはもう随分と前のことになります。私もこの寺の住職となりました。依然、上人を仏、と呼ぶことには私はためらいがあります。おそらくはあの女にとっても、私とはまた別の理由でそうなのでしょう。
上人がなぜ最後にあのようなこと、すなわち入定へと至られることを自ら選ばれたのか、私にはどうしてもわかりかねます。考えるたびに上人のあの柔和な沈黙だけが静かに立ち上がってくるだけなのです。そして上人は何も仰りません。私は未熟なのでしょうね。それでも、私の中では上人と過ごしました鮮やかな日々は未だ色づいているのです。
私が上人の年に近づいた辺りで、私はようやく上人伝を書き記すことといたしました。上人の足跡はあちこちにございます。私は色々と伝え聞きつつ、上人のことを自分が知る限りで記していくのです。ええ、方々で山道などを切り開かれたことも。片目を自らくり抜かれ、流行り病が収まることを祈祷なさったことも。かつては人足でありそのときに人を殺めてしまったことも。そして最後には生きながら仏となられる道を自ら選ばれたことも。
ある夜のことです。私はおおよそ書き終えた上人伝の一部分を、かすかに震える手で、黒く塗りつぶしはじめました。それは女が私にあの夜語った話の一部分、すなわちあの女が都にいた頃の部分だけを、です。そうやって塗りつぶしを終える頃には、私の手の震えもようやく止まっておりました。
上人伝の完成の暁には、御仏となられたはずである上人の足跡を後世まで遍く伝えていく次第であります。
黒で塗りつぶしたところで決して消えることの無い過去ですが、それでもなお仏にならんとした上人に凄みを感じました
静かに語る妹紅もよい語り手でした