一日目
その噂を聞いたのは、三限の講義が終わった直後だった。
「ねえ、知ってる? 裏門の小径にある古いお稲荷さん」
「石を積むやつでしょ」
「そうそう。七日間、毎日一個ずつ」
前の席の二人が、ノートも片付けないまま話していた。内容は曖昧で、語尾ばかりがはっきりしている。願いが叶うとか、狐が出るとか、途中で崩したら終わりだとか。私はペンをしまいながら、その言葉だけを拾っていた。
大学には、そういう噂話が多い。研究棟の階段を逆に数えると単位を落とすとか、図書館の地下で名前を呼ばれると恋人ができるとか。どれも半分は冗談で、残りの半分は誰も確かめないまま放置されている。
石積みも、その一つだと思った。
――とある小径にある、古い古いお稲荷さん。
――そこで七日間、毎日一個ずつ石を積む。
――石は、お稲荷さんとは別の場所から持ってこなければならない。
――七日間石を積み上げ、狐より石を高く積めば願いが叶う。
話の筋よりも、その条件の細かさが気になった。石を拾ってくる場所は決まっていないとか、手のひらに乗るくらいの大きさがいいとか。誰かが実際にやったことがある、そういう細部の匂いがした。
「メリー、興味ある?」
振り向くと、蓮子がいた。いつものように軽い調子で、でも少しだけ様子を窺う目をしている。私のノートの余白に、講義とは無関係な図形が描かれているのを見ていたのかもしれない。無意識だった。ペンの先で、小さな石を積み上げるような形を繰り返し描いていた。
「別に」
私はそう答えた。嘘ではなかった。
「ふうん。意外。好きそうなのに」
「好き”そう”なだけよ」
私は噂話に興味があるのであって、願掛けに興味があるわけじゃあない。そう言い切れるほど大人でもないけれど、少なくともこの時点では、何かを願っていたわけではなかった。
ただ、気になっただけだ。
講義棟の北に位置する裏門から伸びる小径は駅への近道ではあるが、人通りが少ない。足を踏み入れると、周囲の音が遠のいた気がした。講義棟のざわめきも、道路の車の音も、ここには届かない。境界を越えたような感覚だった。
噂に聞いた稲荷社は、思ったよりも小さかった。朱色は褪せ、扁額の文字も判別しづらい。いつからそこにあるのか、誰も覚えていない、そういう古さだった。
社の手前で、私は立ち止まった。
周囲を見回す。木立の間から、わずかに日が差している。影が長く伸びていて、私の足元まで届いていた。でも、社の前には影がなかった。光が避けているようにも、吸い込まれているようにも見える。
社の前は、少しだけ開けていて、石が転がっている。誰かが石を積んだ形跡はない。少なくとも、今日の時点では。
私は、しばらくそこに立っていた。
願いはなかった。
狐相手に勝ちたいとも、叶えたいとも思っていない。
ただ、ここに石を積んだら、何が起きるのかを知りたかった。
それは好奇心だ、と自分に言い聞かせた。秘封倶楽部の活動理念に沿っている。未確認の現象を観測し、記録する。それだけだ。
だから石は、帰り道に拾った。
川沿いまで遠回りして、手のひらに収まる石を一つ。丸すぎず、尖りすぎず、重さのあるもの。川底には無数の石があった。どれも似たような形をしていて、選ぶ基準が分からない。それでも私は、しゃがみ込んで一つ一つ手に取った。重さを確かめ、表面の質感を撫でる。五つ目に拾った石がなぜかしっくりきた。理由は説明できない。ただ、これだと思った。
選んでいる自分が、少しだけ滑稽に思えた。遊びにしては真剣すぎる。でも、そういうところから噂は始まるのだろう。
夕方、もう一度稲荷社に戻った。
小径は、先ほどよりも暗い。西日が木立に遮られて、足元がよく見えない。でも、社の場所は分かった。朱色が、わずかに浮かび上がっている。
社の前にしゃがみ、石を置く。膝が地面に触れた瞬間、冷たさが伝わってきた。土の湿り気ではない、もっと深いところから来る冷たさ。私は一瞬、手を止めた。
音は、思ったよりも鈍かった。乾いた音ではなく、土に吸われるような音。私は無意識に、息を止めていた。
その時だった。
隣に、気配がある。
振り向くほどではない。ただ、視界の端に、同じ高さの何かが置かれるのが見えた。石だ。私のものとよく似た、大きさと形。
――狐だ。
噂話の言葉が、遅れて浮かぶ。けれど、私はすぐにそれを打ち消した。狐がいるはずがない。誰かが先に来ていただけかもしれない。そう思おうとした。
でも、呼吸の音が聞こえない。足音も、衣擦れの音もしない。聞こえるのは、風が木の葉を揺らす音だけだった。
そこには誰もいなかった。
石だけが、並んでいた。
私は立ち上がり、社を見上げた。扁額の文字は、やはり読めない。でも、その奥に何かがいる気がした。視線のようなもの。観察されている、という感覚。
願いはまだない。ただ、胸の奥に、少しだけ落ち着かないものが残っている。
――明日も、来てみよう。
それは決意というほど強いものではなく、習慣に近い予感だった。
その時点で私は、まだ何も祈っていなかった。
ただ、石を積んだだけだ。
帰り道、一度だけ振り返った。社は、闇の中に沈んでいた。でも、石だけが、わずかに白く見えた気がした。
二日目
二日目は、昼過ぎに来た。
前日は夕方だったから、同じ時間に来る必要はない。噂には「一日一個」としかなかったし、それ以上の条件は見聞きしていなかった。そういう曖昧さも、記録しておくべき要素だと思った。
朝、目が覚めたとき、最初に頭に浮かんだのは石のことだった。夢の内容は覚えていない。ただ、何かを積み上げていた気がする。手を開くと、昨日川で石を拾ったときの感触が残っている気がした。錯覚だと分かっているのに、指先が覚えている。
講義の間、ノートを取りながら、何度も時計を見ていた。集中できない、というわけではない。教授の言葉も理解している。でも、意識の一部が、常に小径の方を向いていた。
社の前には、昨日置いた石が残っていた。位置も、高さも、そのまま。誰にも触れられていない。隣の石も同じだ。二つの石が、示し合わせたみたいに並んでいる。
近づいて、しゃがみ込む。昨日置いた石を、そっと指で触れた。動かすつもりはなかった。ただ、確かめたかった。これが本当に、私が置いたものなのかを。
石は、冷たかった。一晩、ここにあった証拠のような冷たさ。でも、それ以上の何かも感じた。馴染んでいる、という感覚。まるで、ずっとここにあったかのように。
私は少し離れた場所から、それを眺めた。
風の向き。人の足音。影の動き。昨日と違う点を探す。自分がこういうことをするとき、だいたいは蓮子が隣にいる。でも今日は一人だった。だから余計に、冷静でいようとした。
ポケットから、今朝拾った石を取り出す。昨日とは別の場所、大学の中庭の花壇の縁で見つけたものだ。川の石よりも少し小さく、角が丸い。
石を一つ、置く。
今度は音を聞き逃さなかった。一段目の石に当たる高い音。昨日よりも、わずかに軽い。湿度のせいかもしれないし、私の力加減かもしれない。そういう誤差も気になった。
置いた瞬間、私は息を止めていた。崩れないかどうかを確かめるため、というより、何かが起きるのを待っているような感覚だった。
隣でも、同じように石が置かれた。
視界の端で、ほとんど同時に。
今度は、音が聞こえた。私の石とほぼ同時。でも、確かに別の音だった。音色が違う。私のものより、ほんの少しだけ高い音。石の質が違うのだろうか。それとも、置き方の違いか。
私は顔を上げず、ただ数を数えた。二段。こちらも、向こうも、二段。高さは、ほぼ同じ。競っている、という感覚はなかった。ただ、同じ実験を別々に行っている、そんな印象だった。
でも、心臓の鼓動が、わずかに早くなっているのに気づいた。なぜだろう。私は何も恐れていない。何も期待していない。そう思っているのに、体は別のことを知っている。
しばらくして、蓮子が来た。
「やっぱりやってるんだ」
そう言って、社の前を覗き込む。蓮子の足音で、私ははっとした。いつの間にか、石積みを見つめたまま動いていなかった。どれくらい経ったのか分からない。
「観測中よ」
「ふうん。何が分かった?」
「条件がゆるい。時間帯は関係なさそう」
「願いは?」
「ない」
蓮子は小さく笑った。
「それ、儀式として成立してる?」
「成立するかどうかを含めて見るの」
蓮子は、少し考えるような顔をした。それから、隣の石積みを指差す。
「それ、誰が積んだの?」
「分からない」
「分からない? 見てなかったの?」
「見てた。でも、誰もいなかった」
蓮子の表情が、わずかに変わった。面白がっているのか、疑っているのか。
「それ、本当に?」
「嘘をつく理由がないわ」
蓮子は肩をすくめた。
「まあ、メリーが言うなら。でも、気をつけなよ。そういうのって、だいたい途中から変なことになるから」
「変なこと?」
「分からない。ただ、噂話には理由があるでしょ。誰かが途中でやめたから、七日間って条件が残ったんじゃない?」
その言葉が、妙に引っかかった。
石は崩れなかった。狐も現れなかった。代わりに、二つの石積みだけが、静かに残った。
蓮子が帰ったあと、私はもう一度、隣の石積みを見た。触れてみたい、という衝動が湧いた。でも、手は伸ばさなかった。触れたら、何かが壊れる気がした。
帰り際、振り返ると、二つの影が並んで伸びていた。どちらが私のものか、一瞬分からなくなった。
その夜、夢を見た。
石を積んでいる夢。でも、自分の手ではない。誰かの手が、私の隣で石を置いている。顔は見えない。ただ、手だけが見える。人間の手には見えなかった。指が長すぎる。
目が覚めたとき、枕元に何かある気がして、飛び起きた。
何もなかった。
でも、部屋の空気が、少しだけ冷たかった。
三日目
三日目は、講義の合間だった。
次の授業まで、四十分。往復を考えると、少し慌ただしい。でも、だからこそ条件として意味がある。噂話に「忙しい日はだめ」とはなかった。
朝から落ち着かなかった。講義中、何度もペンを落とした。隣の学生に、大丈夫かと聞かれた。大丈夫、と答えたが、自分でも確信が持てなかった。
昨夜の夢が、まだ頭に残っている。あの手の感触。指の長さ。人間ではない、という確信。でも、それを蓮子に話す気にはなれなかった。きっと、笑い飛ばされる。あるいは、心配される。どちらも嫌だった。
小径に入ると、昨日よりも人の気配が多かった。遠くで誰かが電話をしている。足音もする。それでも社の前は、不思議と静かだった。
人の気配が多いことに、少し安心した。異質な場所ではない、という証明になる。でも、社の前に立った瞬間、その安心は消えた。
ここだけが、別の場所だった。
音が違う。空気の密度が違う。周囲の喧騒が、まるでガラスの向こう側にあるように感じられる。
三つ目の石を置く。
昨日までと違い、私は高さを意識した。無意識だったと思う。積みやすい面を探し、石の重心を確かめる。倒れない位置。バランスの良い位置。
指先が、石の表面を何度もなぞった。ここだ、という場所を探している。見つけるまで、置けない。そんな強迫観念に近いものを感じた。
その瞬間、隣の石積みが、わずかに揺れた。
私は、息を呑んだ。
風のせいか、私の錯覚か。分からない。でも、私は視線をそちらに向けた。石は崩れていない。そして相手の石はまだ積まれていない。現時点では私は勝っている。
――勝ち、負け。
その言葉が浮かんで、すぐに消える。私は首を振った。違う。これは勝負じゃあない。条件を満たしているかどうかを見るだけだ。
でも、胸の奥で、何かが喜んでいた。
抜いた、という感覚。優位に立った、という安堵。それを認めたくなくて、私は立ち上がった。
そのとき、思い出した。
次の講義のこと。
レポートの締め切り。
評価基準が変わった、という噂。
――落としたら、どうなるんだろう。
考えた瞬間、自分で分かった。ああ、いま、余計なことを考えた、と。石積みとは関係ない。ここで願う必要はない。私はそう思おうとした。
でも、思考は止まらなかった。
単位を落とすこと。
進級のこと。
蓮子に、どう説明するか。
親に、どう報告するか。
奨学金の条件。
就職活動への影響。
石を見下ろす視線が、いつの間にか「祈る」角度になっていることに、私は気づかなかった。
隣の石が、一段積まれていた。
いつ置かれたのか分からない。音も聞こえなかった。ただ、三段目が、そこにあった。私より、少し高い。
追い抜かれた。
胸の奥が、ざわついた。
違う、と私は思う。これは観測だ。秘封倶楽部の活動だ。噂話の検証であって、願掛けじゃない。
それでも私は、講義に遅刻した。
講義棟に戻りながら石を探していたのだ。次に積む石の形を、無意識に選びながら。
四日目
四日目は、朝だった。
目が覚めた瞬間に、石のことを考えていた。そんな自分に気づいて、少しだけ気味が悪くなる。昨日のうちに、講義棟の裏で石を拾っておいたのは、合理的な判断だ。忙しくなるのは分かっていたし、毎回川まで行くのは効率が悪い。
でも、石を拾っているとき、自分が何をしているのか分からなくなった。
講義棟の裏には、植え込みがある。その縁に、小さな石が転がっていた。私はしゃがみ込んで、一つ一つ手に取った。大きさを確かめ、重さを量る。指先で表面をなぞり、積みやすい面を探す。
周囲に人はいなかった。でも、もし誰かに見られていたら、何をしているように見えるだろう。石を拾う女子学生。理由は説明できない。ただ、必要だから。
三十四個目の石を手に取ったとき、ふと顔を上げた。
窓から、誰かがこちらを見ていた気がした。でも、視線を向けた瞬間には、もう誰もいなかった。カーテンが、わずかに揺れていた。
手のひらの中の石は、角が取れていて、軽すぎない。三日目に見た、隣の三段目よりも安定しそうだった。
これなら、追いつける。
そう思った瞬間、ぞっとした。
追いつく? 何に? 誰に?
私は石を握りしめた。爪が食い込むくらい、強く。痛みで、思考を断ち切るように。
稲荷社の前には、誰もいなかった。
私はしゃがみ込み、昨日よりも慎重に、石を置いた。呼吸を整え、指先の力を抜く。石が触れ合う、乾いた音。
音が、昨日までと違った。
もっと、澄んでいる。響きが長い。まるで、社の奥まで届いているような音だった。
四段。
隣も、四段だった。
昨日は僅かに隣の石積みの方が高かったが、四段目の高さはピタリと同じだった。
私は、なぜか安心していた。それだけで、胸の奥が落ち着く。これは観測である。分かっているのに、そういう言葉はもう出てこなかった。
でも、同時に気づいた。
隣の石積みの形が、私のものと似ている。
一段目の石の配置。二段目の角度。三段目の重心の取り方。すべてが、鏡のように対称的だった。
私が真似しているのか。それとも、向こうが真似しているのか。
あるいは、最初から同じだったのか。
講義の時間が近づいていた。立ち上がる前に、もう一度だけ石積みを見る。崩れていない。それを確認してから、私は小径を戻った。
振り返らなかった。
振り返ったら、何かが見える気がした。見てはいけないものが。
その日の講義内容は、ほとんど覚えていない。
ノートには、石の形ばかりが描かれていた。無意識に、ペンが動いていた。丸い石、平たい石、角のある石。どれも、これから積むべき石の形だった。
隣の席の学生が、私のノートを見て、小さく笑った気がした。でも、確認する気にはなれなかった。
講義が終わって、蓮子が声をかけてきた。
「メリー、最近変よ」
「何が?」
「ずっと、どこか見てる。ここにいない感じ」
私は、答えられなかった。否定する言葉が見つからない。
「石積み、まだやってるの?」
「……四日目」
「あと三日?」
「そう」
蓮子は、少し困ったような顔をした。
「メリー、本当に大丈夫? あれ、ただの噂話でしょ。観測って言ってたじゃない」
「観測よ」
「でも、顔が違う」
「どう違うの」
「怖がってる」
その言葉で、何かが崩れた。
「怖がってない」
「じゃあ、なんで手が震えてるの?」
見ると、確かに手が震えていた。いつから? 気づかなかった。
「蓮子」
「何?」
「もし、途中でやめたら、どうなると思う?」
蓮子は、黙った。長い沈黙のあと、ゆっくりと答えた。
「分からない。でも、メリーがそう思ってるなら、やめた方がいいんじゃない?」
「やめられない」
「なんで?」
「分からない」
それが、本当だった。理由が、もう分からなくなっていた。
昼休みの中庭は、思ったより騒がしかった。
ベンチでは誰かが弁当を広げていて、芝生の端ではサークル勧誘の声がする。その一角で、私はしゃがみ込んでいた。花壇の縁に、石を三つ並べている。
大きさは、ほぼ同じ。
形は、少しずつ違う。
置いて、離す。
置いて、離す。
手が震える。昨日から、止まらない。
でも、石を置くときだけ、震えが止まる。
一つ崩れた。音がして石が転がる。私はすぐに拾い上げた。周囲の視線が、一瞬こちらに向いた気がして、肩が強張る。
次は、角度を変える。
花壇の縁は平らじゃない。だから、稲荷の前よりも難しい。でも、それがいい。条件が厳しい方が、感覚が掴める。
私は、練習していた。
認めたくなかったが、これは練習だった。五段目を、完璧に積むための。崩さないための。負けないための。
――負ける?
その言葉が、頭の中で反響する。
誰に? 何に?
「……何してんの?」
顔を上げると、蓮子が立っていた。紙パックのコーヒーを持っている。
「別に」
「別に、でそれ?」
「練習よ」
言ってから、少し間が空いた。練習、という言葉が、思ったよりもはっきり響いた。
「石積みの?」
「他に何があるの」
蓮子は、花壇と私の手元を見比べて、小さく笑った。
「熱心だね。秘封倶楽部の活動?」
「そうだけど」
即答した自分に、違和感はなかった。でも、蓮子の次の一言で、胸の奥がざらついた。
「観測ってさ、こんなに指先に力入れるものだっけ?」
私は、石を持つ手を見た。確かに、白くなっている。
爪が、石に食い込んでいた。削れて、少し欠けている。痛みは、感じなかった。
「……危ないから」
「何が?」
「崩れたら」
言ってから、しまった、と思った。崩れたらどうなるかなんて、ここでは関係ない。
蓮子は肩をすくめた。
「ふうん。まあ、落ち着きなよ。願掛けなんて、らしくない」
その言葉で、何かが切れた。
「願掛けじゃない」
「でも、顔はそんな感じ」
「違うって言ってるでしょ」
声が、思ったより大きかった。周囲の雑音が、一瞬だけ遠のいた気がする。
蓮子は、少し怯んだように見えた。それから、表情を変えずに言った。
「メリー、聞いて」
「何?」
「もうやめなよ。あと三日でしょ? 途中でやめても、誰も責めないから」
「責める? 誰が?」
「誰もいないでしょ。だから、大丈夫」
私は、蓮子を見た。
友人の顔が、遠い。まるで、磨りガラスの向こう側にいるみたいだった。
「蓮子は、分かってない」
「何を?」
「やめたら、負けるの」
「誰に?」
答えられなかった。
でも、確信はあった。負ける、という感覚。それは理屈じゃない。体が知っている。
蓮子は驚いた顔をしたあと、すぐにいつもの表情に戻った。
「はいはい。ごめんごめん」
そう言って、去っていく。
でも、去り際に振り返って、もう一度だけ言った。
「メリー、本当にやめた方がいいよ。それ、もう観測じゃないから」
私は、その背中を見送ってから、もう一度石を置いた。
今度は、崩れなかった。
それだけで、胸の奥が落ち着いた。
でも、手の震えは、止まらなかった。
五日目
五日目は、雨だった。
小径は水捌けが悪く、滑りやすい。水溜まりが多いので、雨の日にこの小道を通る人間はほぼいない。それでも「行かない」という選択肢は浮かばなかった。行かないと、崩れてしまう。石ではなく、もっと別のものが。
傘を差して小径に入ると、雨音が変わった。木立に遮られて、音が篭もる。自分の足音も、呼吸も、すべてが近くに聞こえる。
でも、聞こえないものがあった。
石を積む音。
昨日まで、頭の中で反響していた、あの乾いた音が、今日は鳴らない。雨が、すべてを吸い込んでいる。
それが、たまらなく不安だった。
社の前の地面は、湿っていた。昨日までと、感触が違う。膝をついたとき、冷たさが染み込んできた。土が、水を含んで重い。私は一度、石を置くのをやめて、手の水気を払った。意味があるのか分からない。でも、そうしないと落ち着かなかった。
手のひらを見る。
皺に土が入り込んでいる。爪の間も黒ずんでいる。いつから? 昨日? 一昨日?
洗ったはずなのに、落ちていない。まるで、染み込んでいるみたいだった。
石を拭く手が、震えていた。雨に濡れたせいだと思いたかった。でも、違う。これは、別の理由だ。
石積みは、四段。
隣も、同じ高さ。
完璧に、同じだった。
測ったように、ミリ単位で揃っているように思えた。
誰が積んでいるのか、もう考えなくなっていた。
重要なのは、高さだけ。
私は、今日持ってきた石を見つめた。昨日よりも、少し小さい。安定はする。でも、高さが出ない。
それが、許せなかった。
頭の中で、計算する。安全か、勝負か。
その考えが浮かんだ瞬間、胸が締めつけられた。
勝負?
何の勝負だ。
単位のことか。いや、違う。あれは口実だった。最初から、どうでもよかった。
では、何のために?
勝負じゃない、と言い聞かせる。願っていない。これは儀式でもない。ただの、噂話の検証だ。
嘘だ。
全部、嘘だ。
でも、ポケットの中には、もう一つ石がある。
予備だ。より高く積めるが、不安定でより危険な石。
今朝、三十分かけて探したのだ。川まで行って、何十個も手に取って、選んだ。
講義に遅刻した。教授に注意された。でも、気にならなかった。
この石が、手に入ったから。
私は、それを取り出していた。
見比べる。最初に選んだ石と、予備の石。
予備の方が、明らかに高く積める。でも形が悪い。少し歪んでいるのだ。これではバランスを取るのが難しい。
崩れるかもしれない。
でも、高い。
それだけで、選ぶ理由には十分だった。
私は高く積める方の石を選んだ。
安全な石を、地面に置く。
捨てる、という行為に近かった。もう必要ない。勝つためには。
――勝つ?
その言葉が、頭の中で反響する。
勝って、何になる? 賞品もない。称賛もない。誰も見ていない。本当に願いが叶うかわからない。
でも、勝たなければいけない。
理由は分からない。ただ、そう思った。
石を置くとき、雨音が遠のいた気がした。
いや、本当に遠のいた。
傘を打つ雨の音も、木の葉を揺らす音も、すべてが消えた。聞こえるのは、自分の心臓の音だけ。
そして、石が触れ合う音。
思ったより、高かった。澄んでいた。雨に吸われるはずなのに、響いた。
社の奥まで、届いたような気がした。
五段。
私の石は、わずかに傾いていた。
バランスが悪い。予想通りだ。でも、崩れていない。ぎりぎりで、持ちこたえている。
高さは、完璧だった。
隣も、五段だった。
同時だったのか、少し遅れたのか、分からない。ただ、私の石が安定するのを待っていたようにも見えた。
いや、待っていたのだ。
そう確信した。理由はない。でも、分かる。隣の石積みは、私を見ている。私が置くのを待って、それから置く。
そして、私より高く積んだ。
ほんの数ミリ。でも、確実に高い。
負けた。
その瞬間、息が止まった。
負けた。私が負けた。五段目でまた抜かれた。
何に対して? 誰に対して?
分からない。でも、負けた。
それだけで、胸が締めつけられた。
悔しさではない。もっと、暗いもの。恐怖に近い、何か。
私は、その場を離れられなかった。
ずっと、そこに座っていた気がする。石積みを見つめたまま、動けなかった。
隣の石積みを、何度も見た。
本当に高いのか。錯覚ではないのか。
でも、何度見ても、向こうの方が高かった。
数ミリ。測らなければ分からないくらいの差。でも、私には見えた。明確に、分かった。
負けている。
雨に打たれながら、震えていた。
気づいたら、歯を食いしばっていた。顎が痛い。でも、力を抜けなかった。
気づいたら、雨は小降りになっていた。服が濡れて、重い。でも、寒さは感じなかった。時間の感覚が、曖昧だった。
立ち上がろうとして、よろけた。足に力が入らない。どれくらい、ここにいたのだろう。
傘が、ひっくり返っていた。
いつから? 雨を防ぐ意味を、失っている。でも、気づかなかった。
帰り際、振り返った。
石積みが、二つ並んでいる。
わずかな差で、隣の方が高い。
その光景が、目に焼きついた。
帰り際、私は初めて思った。
――明日、失敗したらどうしよう。
いや、違う。
明日、追いつかなければ。
追いついて、追い抜かなければ。
その考えは、祈りに近かった。
いや、祈りそのものだった。
願いが、ある。
認めたくなかったが、もう隠せない。
私は、願っていた。
勝ちたい、と。
単位でも、進級でも、将来でもない。
ただ、目の前の石積みに。
たった数ミリでもいい。上回りたい。
それだけが、すべてだった。
その願いの、途方もない無意味さに、私は気づいていなかった。
あるいは、気づいていても、もう止められなかった。
その夜、私は石を探した。
部屋の中では、何度も何度も、手のひらで重さを確かめた。
明日こそ。
明日こそ、追い抜く。
そう思いながら、一晩中、石を握りしめていた。
六日目
六日目は、朝から落ち着かなかった。
昨日の段階では負けている。
その事実が、一晩中頭から離れなかった。
数ミリ。たった数ミリ、低かっただけ。でも、それがすべてだった。
中庭で石を積んでいる夢を見た。花壇の縁が、稲荷社の前と同じ高さになっていて、どれだけ積んでも六段から先に行かない。崩れてもいないのに、増えない。隣の石積みだけが、どんどん高くなっていく。そこで目が覚めた。
目覚ましの音が、石のぶつかる音に似ていて、しばらく体が動かなかった。
枕元に、石があった。
昨日、ポケットに入れたまま忘れていたものだ。いや、違う。昨夜、ずっと握っていた石だ。でも、一瞬、誰かが置いていったのかと思った。そのくらい、予想外の場所にあった。
石を拾い上げる。冷たい。夜の間、ずっと部屋にあったのに、まるで外から持ち込まれたみたいに冷たかった。
これで、追いつく。
そう思った。
重さも形も、これなら、六段目は安定する。
そして、高い。昨日の差を、埋められる。
身支度をする際に鏡を見た。
顔色が悪い。目の下に隈ができている。いつからだろう。昨日は気づかなかった。それとも、今朝できたのか。
髪を梳かす手が、また震えた。
もう、慣れていた。震えは止まらない。でも、石を持つときだけは、ぴたりと止まる。その矛盾に、疑問を感じなくなっていた。
稲荷社の前は、静かだった。
石積みは、五段。
隣も、五段。
当たり前のはずなのに、それを確認しただけで、少しだけ息が楽になる。私はしゃがみ込み、六つ目の石を置いた。
置く前に、何度も位置を確かめた。
ここか。いや、少し左。もう少し。角度は? 重心は?
指先が、石の表面を何度も往復する。完璧な位置を探している。見つけるまで、置けない。
置く瞬間、指先の感覚が消えた。
石が触れ合う音が遅れて聞こえる。崩れていない。そう分かるまで、目を閉じていたことに気づく。
目を開けると、六段になっていた。
完璧だった。
どの角度から見ても、安定している。これなら、崩れない。風が吹いても、揺れない。
六段。
隣も、六段だった。
揃っている。それが不自然に思えた。昨日まで、わずかな差を感じていたはずなのに、今日は完全に同じ高さに見える。水平線みたいだ、と馬鹿なことを考えた。
でも、本当に水平線に見えた。
二つの石積みが、地平線を作っている。その向こうに、何かがある。見えないけれど、そこに何かが待っている。
私は立ち上がれなかった。
もし、崩したら。
その考えが浮かんだだけで、喉が締まる。噂話では、崩したら負けだ。負けたらどうなるか、誰もはっきりとは言わない。だから余計に、想像が広がる。
でも、何に負けるのか。
それが分からない。
狐? それとも、社の奥にいる何か?
あるいは、私自身?
願っていない、と自分に言い聞かせる。
でも、一昨日の中庭を思い出す。崩れなかっただけで、安心していた自分。蓮子に言われて、怒った自分。
――もう、戻れない。
そう思った瞬間、怖くなった。
隣の石積みを、もう一度見る。誰もいない。石だけがある。そのことが、ようやく気味悪く思えた。
でも、本当に誰もいないのだろうか。
私は、周囲を見回した。小径には、誰もいない。木立の向こうも、社の裏も、人影はない。
それなのに、見られている。
視線を感じる。どこからか、誰かが、この石積みを見ている。
いや、違う。
石積みを見ているのではない。私を、見ている。
私は、石積みから目を離せなくなっていた。
どれくらい、そこにいたのか分からない。
気がつくと、影が伸びていた。太陽が動いている。時間が経っている。でも、体が動かない。
立ち上がろうとして、膝が笑った。力が入らない。しゃがみ込んだまま、石を見つめている。
このまま、ずっとここにいるのかもしれない。
そう思った瞬間、怖くなった。
私は、無理やり立ち上がった。足がもつれて、よろけた。社の鳥居に手をついて、体を支える。
手のひらに、朱色の粉がついた。塗料が剥がれている。でも、それよりも驚いたのは、手のひらの冷たさだった。
まるで、氷に触れたみたいに、冷たかった。
帰り道、川には寄らなかった。石はもう要らない。これ以上選ぶ必要はない。そう分かっているのに、足が勝手に止まりそうになる。
川沿いを歩いているとき、後ろから足音が聞こえた気がした。
振り返ると、誰もいなかった。
でも、確かに聞こえた。私と同じリズムで歩く、誰かの足音。
それから先、私は走った。
理由は分からない。ただ、追いつかれたくなかった。何に追いつかれるのか、分からないのに。
七日目は、失敗できない。
そう思っている自分が、いちばん怖かった。
その夜、私は眠れなかった。
目を閉じると、石が見える。積み上げた石が、暗闇の中で光っている。六段の石積みが、二つ。並んで、こちらを見ている。
見ている?
石に、目があるはずがない。でも、見られている感覚がある。観察されている。値踏みされている。
明日、七段目を積む。
そうしたら、終わる。
終わったら、どうなるのか。
願いが叶う? 私には、願いがない。少なくとも、最初はなかった。
でも、今は?
ベッドの中で、私は考えた。
何を願っているのか。
単位? それは口実だ。途中から考え始めただけで、本当に願っているわけじゃない。
では、何を?
――勝ちたい。
その言葉が、暗闇の中で浮かんだ。
勝ちたい。隣の石積みに。誰が積んでいるのか分からない、その相手に。
それが、私の願いだった。
気づいた瞬間、笑いがこみ上げた。
馬鹿みたいだ、と思った。何のために? 勝って、何になる?
でも、笑いは止まらなかった。
笑いながら、涙が出た。
理由は分からない。悲しくも、嬉しくもない。ただ、涙が出た。
朝まで、眠れなかった。
七日目
七日目は、驚くほど静かだった。
空は曇っていたが、雨の気配はない。風も弱い。ここ数日の落ち着かなさが、嘘みたいに思えた。
でも、体は重かった。
一晩中眠れなかったせいだ。鏡を見ると、自分だと分からないくらい、顔が変わっていた。頬がこけて、目だけが大きく見える。
これが、私?
疑問に思ったが、答える気力もなかった。
私は、少し早めに小径へ入った。朝の光が、木立の間から差し込んでいる。でも、小径は暗い。光が、ここには届かない。
ポケットの中には、石が一つ。
六日目までに、何度も確かめた重さだ。これで七段目になる。それ以上でも、それ以下でもない。考える必要は、もうなかった。
でも、ポケットの中で、石を何度も握りしめた。
確かめている。本当に、これでいいのか。他の石の方が良かったのではないか。
今からでも変えられる。川に行って、別の石を探せばいい。
でも、足は小径を進んでいた。
稲荷社の前には、誰もいなかった。
石積みは、六段。
隣も、六段。
揃っている。完全に、同じ高さ。私はそれを見て、なぜか安心した。競う必要がない、と思ったのだ。
でも、その安心は、すぐに不安に変わった。
同じ高さということは、七段目で確実に勝敗が着く。積み終わりと同時に終わるのだ。
しゃがみ込み、七つ目の石を置く。
手が、震えていた。
六日目までは、石を持つと震えが止まっていた。でも、今日は違う。石を持っても、震えが止まらない。
それでも、置いた。
置いた瞬間、力が抜けた。
崩れないかどうかを確認する前に、息を吐いていた。手を離してから、初めて石を見る。七段。きちんと、積み終わっている。
完璧だった。
これ以上ない、というくらい、安定している。
隣も、七段だった。
同時だったのか、そう見えただけなのか、分からない。でも、そこに差はなかった。高くも、低くもない。ただ、同じだった。
引き分け。
その言葉が浮かんだ。
勝ちでも、負けでもない。引き分け。
その光景を見た瞬間、胸のざわつきが、すっと消えた。
拍子抜けするほど、何も感じなかった。
怒りも、喜びも、悲しみも。何もない。
ただ、空っぽだった。
私は立ち上がった。
勝ったとも、負けたとも思わない。願いが叶うかどうかも、どうでもよかった。その時、ようやく思い出した。
――最初は、何も願っていなかった。
単位のことを考え始めたのは、途中からだ。焦って、怖くなって、理由を後付けしただけ。石を積み始めた理由は、好奇心だった。噂話を、確かめたかっただけだ。
積み終えた今、それがはっきり分かった。
でも、遅かった。
もう、元には戻れない。七日間、私は何かに囚われていた。それが何だったのか、今でも分からない。
石積みは、崩れなかった。
代わりに、静かに消えた。
音もなく、気配もなく、そこにあったはずの七段の石が、両方とも消えていた。地面は平らで、最初から何もなかったみたいだった。
私は、その場所を見つめた。
石があった場所。確かに、そこにあった。私が積んだ石。七日間、毎日一個ずつ。
でも、今は何もない。
証拠が、何も残っていない。
私は、驚かなかった。
ああ、そういうものか、と思った。
願いがなかったのだから、結果もない。勝負でも、儀式でもなかった。ただ、石を積んで、終わった。それだけだ。
でも、本当にそれだけだったのだろうか。
私は、社を見上げた。
扁額の文字は、やはり読めない。でも、今日は、その奥に何かを感じた。
視線? それとも、笑い声?
分からない。ただ、何かがそこにいる。そして、すべてを見ていた。
私は社に一礼して、小径を戻った。
振り返らなかった。
振り返ったら、まだそこにいる気がした。
石積みをしている自分が。しゃがみ込んで、次の石を探している自分が。
終わっていない、という錯覚。
だから、振り返らなかった。
七日目の夜、私は夢を見た。
白い狐が、そこにいた。
稲荷社の前。石積みをしていた場所。
狐は、私を見ていた。敵意は感じなかった。恐怖もない。ただ、退屈そうだった。
狐は、石積みの跡を見ている。
もう何もない場所を、じっと見つめている。それから、私の方を向いた。
また、遊ぼう。
そう言っている気がした。声は聞こえない。でも、分かった。
目が覚めると、朝だった。いつもの部屋。いつものベッド。夢、だったのか、そう思った。
次の夜も、同じ夢を見た。白い狐が、そこにいる。
石積みの場所で、私を待っている。
また、遊ぼう。
石積みを終えてから四日目。
講義の終わりに後ろの席で話し声が聞こえた。
私は、振り返りそうになって、止めた。
その声に、聞き覚えがあったのだ。二週間程前に私の前の席で、石積みの噂を話していた二人の学生。どちらかの声だった。
おそらく願いが叶うなんていうのは人間側が作り出した口実に過ぎない。白狐の遊び相手を誘き寄せるための。
白狐に次の遊び相手を連れて行くまでが、石積みをした者の取るべき行動なのだと本能的に察した。
そうか、私はまんまと引っかかってしまった訳だ。
お稲荷さんという神様は五穀豊穣、商売繁盛の神様であると同時に祟り神としての側面もある。無碍にしたらそれこそ何があるか。
私は意を決して振り返る。
「ねえ、前に石積みの話していたでしょう? 私もやってみたの。凄いわね」
困惑の表情を浮かべる学生。だがお構いなしに続ける。
「盗み聞きするつもりなんてなかったんだけど、小径のお稲荷さんの話が聞こえてきちゃってね、貴方に会えたらお礼を言いたいと思っていたの。ありがとう、それじゃあ」
周りの学生に聞こえるように大きな声で一方的に伝えると私は教室を後にした。
その日の夜。
夢の中で、狐が立ち上がった。そして、去っていく。
私の方はもう見ない。
きっと新しい遊び相手が現れたのだろう。これで私の役目はおしまい。
目が覚めたとき、胸のつかえが取れた気がした。
蓮子に会うと、いつものように話しかけられた。
「メリー、今日は調子良さそう」
「そう?」
「うん。ちょっと前まで、ぼんやりしてたのに」
そうだった、と思う。
石積みをしていた七日間。
あの間、私はずっと何かに囚われていた。
でも、終わった。
窓の外を見ると、小径が見える。
あそこで、また誰かが石を積み始めるのだろう。
七日間、毎日一個ずつ。
隣では、白い狐が石を積む。
神様にとっては、ただの遊びだったのかもしれない。
私は、もう考えないことにした。終わったのだから。
次は、別の誰かの番だ。
白狐が去った次の夜、夢は見なかった。
久しぶりに、静かな眠りだった。
(了)
その噂を聞いたのは、三限の講義が終わった直後だった。
「ねえ、知ってる? 裏門の小径にある古いお稲荷さん」
「石を積むやつでしょ」
「そうそう。七日間、毎日一個ずつ」
前の席の二人が、ノートも片付けないまま話していた。内容は曖昧で、語尾ばかりがはっきりしている。願いが叶うとか、狐が出るとか、途中で崩したら終わりだとか。私はペンをしまいながら、その言葉だけを拾っていた。
大学には、そういう噂話が多い。研究棟の階段を逆に数えると単位を落とすとか、図書館の地下で名前を呼ばれると恋人ができるとか。どれも半分は冗談で、残りの半分は誰も確かめないまま放置されている。
石積みも、その一つだと思った。
――とある小径にある、古い古いお稲荷さん。
――そこで七日間、毎日一個ずつ石を積む。
――石は、お稲荷さんとは別の場所から持ってこなければならない。
――七日間石を積み上げ、狐より石を高く積めば願いが叶う。
話の筋よりも、その条件の細かさが気になった。石を拾ってくる場所は決まっていないとか、手のひらに乗るくらいの大きさがいいとか。誰かが実際にやったことがある、そういう細部の匂いがした。
「メリー、興味ある?」
振り向くと、蓮子がいた。いつものように軽い調子で、でも少しだけ様子を窺う目をしている。私のノートの余白に、講義とは無関係な図形が描かれているのを見ていたのかもしれない。無意識だった。ペンの先で、小さな石を積み上げるような形を繰り返し描いていた。
「別に」
私はそう答えた。嘘ではなかった。
「ふうん。意外。好きそうなのに」
「好き”そう”なだけよ」
私は噂話に興味があるのであって、願掛けに興味があるわけじゃあない。そう言い切れるほど大人でもないけれど、少なくともこの時点では、何かを願っていたわけではなかった。
ただ、気になっただけだ。
講義棟の北に位置する裏門から伸びる小径は駅への近道ではあるが、人通りが少ない。足を踏み入れると、周囲の音が遠のいた気がした。講義棟のざわめきも、道路の車の音も、ここには届かない。境界を越えたような感覚だった。
噂に聞いた稲荷社は、思ったよりも小さかった。朱色は褪せ、扁額の文字も判別しづらい。いつからそこにあるのか、誰も覚えていない、そういう古さだった。
社の手前で、私は立ち止まった。
周囲を見回す。木立の間から、わずかに日が差している。影が長く伸びていて、私の足元まで届いていた。でも、社の前には影がなかった。光が避けているようにも、吸い込まれているようにも見える。
社の前は、少しだけ開けていて、石が転がっている。誰かが石を積んだ形跡はない。少なくとも、今日の時点では。
私は、しばらくそこに立っていた。
願いはなかった。
狐相手に勝ちたいとも、叶えたいとも思っていない。
ただ、ここに石を積んだら、何が起きるのかを知りたかった。
それは好奇心だ、と自分に言い聞かせた。秘封倶楽部の活動理念に沿っている。未確認の現象を観測し、記録する。それだけだ。
だから石は、帰り道に拾った。
川沿いまで遠回りして、手のひらに収まる石を一つ。丸すぎず、尖りすぎず、重さのあるもの。川底には無数の石があった。どれも似たような形をしていて、選ぶ基準が分からない。それでも私は、しゃがみ込んで一つ一つ手に取った。重さを確かめ、表面の質感を撫でる。五つ目に拾った石がなぜかしっくりきた。理由は説明できない。ただ、これだと思った。
選んでいる自分が、少しだけ滑稽に思えた。遊びにしては真剣すぎる。でも、そういうところから噂は始まるのだろう。
夕方、もう一度稲荷社に戻った。
小径は、先ほどよりも暗い。西日が木立に遮られて、足元がよく見えない。でも、社の場所は分かった。朱色が、わずかに浮かび上がっている。
社の前にしゃがみ、石を置く。膝が地面に触れた瞬間、冷たさが伝わってきた。土の湿り気ではない、もっと深いところから来る冷たさ。私は一瞬、手を止めた。
音は、思ったよりも鈍かった。乾いた音ではなく、土に吸われるような音。私は無意識に、息を止めていた。
その時だった。
隣に、気配がある。
振り向くほどではない。ただ、視界の端に、同じ高さの何かが置かれるのが見えた。石だ。私のものとよく似た、大きさと形。
――狐だ。
噂話の言葉が、遅れて浮かぶ。けれど、私はすぐにそれを打ち消した。狐がいるはずがない。誰かが先に来ていただけかもしれない。そう思おうとした。
でも、呼吸の音が聞こえない。足音も、衣擦れの音もしない。聞こえるのは、風が木の葉を揺らす音だけだった。
そこには誰もいなかった。
石だけが、並んでいた。
私は立ち上がり、社を見上げた。扁額の文字は、やはり読めない。でも、その奥に何かがいる気がした。視線のようなもの。観察されている、という感覚。
願いはまだない。ただ、胸の奥に、少しだけ落ち着かないものが残っている。
――明日も、来てみよう。
それは決意というほど強いものではなく、習慣に近い予感だった。
その時点で私は、まだ何も祈っていなかった。
ただ、石を積んだだけだ。
帰り道、一度だけ振り返った。社は、闇の中に沈んでいた。でも、石だけが、わずかに白く見えた気がした。
二日目
二日目は、昼過ぎに来た。
前日は夕方だったから、同じ時間に来る必要はない。噂には「一日一個」としかなかったし、それ以上の条件は見聞きしていなかった。そういう曖昧さも、記録しておくべき要素だと思った。
朝、目が覚めたとき、最初に頭に浮かんだのは石のことだった。夢の内容は覚えていない。ただ、何かを積み上げていた気がする。手を開くと、昨日川で石を拾ったときの感触が残っている気がした。錯覚だと分かっているのに、指先が覚えている。
講義の間、ノートを取りながら、何度も時計を見ていた。集中できない、というわけではない。教授の言葉も理解している。でも、意識の一部が、常に小径の方を向いていた。
社の前には、昨日置いた石が残っていた。位置も、高さも、そのまま。誰にも触れられていない。隣の石も同じだ。二つの石が、示し合わせたみたいに並んでいる。
近づいて、しゃがみ込む。昨日置いた石を、そっと指で触れた。動かすつもりはなかった。ただ、確かめたかった。これが本当に、私が置いたものなのかを。
石は、冷たかった。一晩、ここにあった証拠のような冷たさ。でも、それ以上の何かも感じた。馴染んでいる、という感覚。まるで、ずっとここにあったかのように。
私は少し離れた場所から、それを眺めた。
風の向き。人の足音。影の動き。昨日と違う点を探す。自分がこういうことをするとき、だいたいは蓮子が隣にいる。でも今日は一人だった。だから余計に、冷静でいようとした。
ポケットから、今朝拾った石を取り出す。昨日とは別の場所、大学の中庭の花壇の縁で見つけたものだ。川の石よりも少し小さく、角が丸い。
石を一つ、置く。
今度は音を聞き逃さなかった。一段目の石に当たる高い音。昨日よりも、わずかに軽い。湿度のせいかもしれないし、私の力加減かもしれない。そういう誤差も気になった。
置いた瞬間、私は息を止めていた。崩れないかどうかを確かめるため、というより、何かが起きるのを待っているような感覚だった。
隣でも、同じように石が置かれた。
視界の端で、ほとんど同時に。
今度は、音が聞こえた。私の石とほぼ同時。でも、確かに別の音だった。音色が違う。私のものより、ほんの少しだけ高い音。石の質が違うのだろうか。それとも、置き方の違いか。
私は顔を上げず、ただ数を数えた。二段。こちらも、向こうも、二段。高さは、ほぼ同じ。競っている、という感覚はなかった。ただ、同じ実験を別々に行っている、そんな印象だった。
でも、心臓の鼓動が、わずかに早くなっているのに気づいた。なぜだろう。私は何も恐れていない。何も期待していない。そう思っているのに、体は別のことを知っている。
しばらくして、蓮子が来た。
「やっぱりやってるんだ」
そう言って、社の前を覗き込む。蓮子の足音で、私ははっとした。いつの間にか、石積みを見つめたまま動いていなかった。どれくらい経ったのか分からない。
「観測中よ」
「ふうん。何が分かった?」
「条件がゆるい。時間帯は関係なさそう」
「願いは?」
「ない」
蓮子は小さく笑った。
「それ、儀式として成立してる?」
「成立するかどうかを含めて見るの」
蓮子は、少し考えるような顔をした。それから、隣の石積みを指差す。
「それ、誰が積んだの?」
「分からない」
「分からない? 見てなかったの?」
「見てた。でも、誰もいなかった」
蓮子の表情が、わずかに変わった。面白がっているのか、疑っているのか。
「それ、本当に?」
「嘘をつく理由がないわ」
蓮子は肩をすくめた。
「まあ、メリーが言うなら。でも、気をつけなよ。そういうのって、だいたい途中から変なことになるから」
「変なこと?」
「分からない。ただ、噂話には理由があるでしょ。誰かが途中でやめたから、七日間って条件が残ったんじゃない?」
その言葉が、妙に引っかかった。
石は崩れなかった。狐も現れなかった。代わりに、二つの石積みだけが、静かに残った。
蓮子が帰ったあと、私はもう一度、隣の石積みを見た。触れてみたい、という衝動が湧いた。でも、手は伸ばさなかった。触れたら、何かが壊れる気がした。
帰り際、振り返ると、二つの影が並んで伸びていた。どちらが私のものか、一瞬分からなくなった。
その夜、夢を見た。
石を積んでいる夢。でも、自分の手ではない。誰かの手が、私の隣で石を置いている。顔は見えない。ただ、手だけが見える。人間の手には見えなかった。指が長すぎる。
目が覚めたとき、枕元に何かある気がして、飛び起きた。
何もなかった。
でも、部屋の空気が、少しだけ冷たかった。
三日目
三日目は、講義の合間だった。
次の授業まで、四十分。往復を考えると、少し慌ただしい。でも、だからこそ条件として意味がある。噂話に「忙しい日はだめ」とはなかった。
朝から落ち着かなかった。講義中、何度もペンを落とした。隣の学生に、大丈夫かと聞かれた。大丈夫、と答えたが、自分でも確信が持てなかった。
昨夜の夢が、まだ頭に残っている。あの手の感触。指の長さ。人間ではない、という確信。でも、それを蓮子に話す気にはなれなかった。きっと、笑い飛ばされる。あるいは、心配される。どちらも嫌だった。
小径に入ると、昨日よりも人の気配が多かった。遠くで誰かが電話をしている。足音もする。それでも社の前は、不思議と静かだった。
人の気配が多いことに、少し安心した。異質な場所ではない、という証明になる。でも、社の前に立った瞬間、その安心は消えた。
ここだけが、別の場所だった。
音が違う。空気の密度が違う。周囲の喧騒が、まるでガラスの向こう側にあるように感じられる。
三つ目の石を置く。
昨日までと違い、私は高さを意識した。無意識だったと思う。積みやすい面を探し、石の重心を確かめる。倒れない位置。バランスの良い位置。
指先が、石の表面を何度もなぞった。ここだ、という場所を探している。見つけるまで、置けない。そんな強迫観念に近いものを感じた。
その瞬間、隣の石積みが、わずかに揺れた。
私は、息を呑んだ。
風のせいか、私の錯覚か。分からない。でも、私は視線をそちらに向けた。石は崩れていない。そして相手の石はまだ積まれていない。現時点では私は勝っている。
――勝ち、負け。
その言葉が浮かんで、すぐに消える。私は首を振った。違う。これは勝負じゃあない。条件を満たしているかどうかを見るだけだ。
でも、胸の奥で、何かが喜んでいた。
抜いた、という感覚。優位に立った、という安堵。それを認めたくなくて、私は立ち上がった。
そのとき、思い出した。
次の講義のこと。
レポートの締め切り。
評価基準が変わった、という噂。
――落としたら、どうなるんだろう。
考えた瞬間、自分で分かった。ああ、いま、余計なことを考えた、と。石積みとは関係ない。ここで願う必要はない。私はそう思おうとした。
でも、思考は止まらなかった。
単位を落とすこと。
進級のこと。
蓮子に、どう説明するか。
親に、どう報告するか。
奨学金の条件。
就職活動への影響。
石を見下ろす視線が、いつの間にか「祈る」角度になっていることに、私は気づかなかった。
隣の石が、一段積まれていた。
いつ置かれたのか分からない。音も聞こえなかった。ただ、三段目が、そこにあった。私より、少し高い。
追い抜かれた。
胸の奥が、ざわついた。
違う、と私は思う。これは観測だ。秘封倶楽部の活動だ。噂話の検証であって、願掛けじゃない。
それでも私は、講義に遅刻した。
講義棟に戻りながら石を探していたのだ。次に積む石の形を、無意識に選びながら。
四日目
四日目は、朝だった。
目が覚めた瞬間に、石のことを考えていた。そんな自分に気づいて、少しだけ気味が悪くなる。昨日のうちに、講義棟の裏で石を拾っておいたのは、合理的な判断だ。忙しくなるのは分かっていたし、毎回川まで行くのは効率が悪い。
でも、石を拾っているとき、自分が何をしているのか分からなくなった。
講義棟の裏には、植え込みがある。その縁に、小さな石が転がっていた。私はしゃがみ込んで、一つ一つ手に取った。大きさを確かめ、重さを量る。指先で表面をなぞり、積みやすい面を探す。
周囲に人はいなかった。でも、もし誰かに見られていたら、何をしているように見えるだろう。石を拾う女子学生。理由は説明できない。ただ、必要だから。
三十四個目の石を手に取ったとき、ふと顔を上げた。
窓から、誰かがこちらを見ていた気がした。でも、視線を向けた瞬間には、もう誰もいなかった。カーテンが、わずかに揺れていた。
手のひらの中の石は、角が取れていて、軽すぎない。三日目に見た、隣の三段目よりも安定しそうだった。
これなら、追いつける。
そう思った瞬間、ぞっとした。
追いつく? 何に? 誰に?
私は石を握りしめた。爪が食い込むくらい、強く。痛みで、思考を断ち切るように。
稲荷社の前には、誰もいなかった。
私はしゃがみ込み、昨日よりも慎重に、石を置いた。呼吸を整え、指先の力を抜く。石が触れ合う、乾いた音。
音が、昨日までと違った。
もっと、澄んでいる。響きが長い。まるで、社の奥まで届いているような音だった。
四段。
隣も、四段だった。
昨日は僅かに隣の石積みの方が高かったが、四段目の高さはピタリと同じだった。
私は、なぜか安心していた。それだけで、胸の奥が落ち着く。これは観測である。分かっているのに、そういう言葉はもう出てこなかった。
でも、同時に気づいた。
隣の石積みの形が、私のものと似ている。
一段目の石の配置。二段目の角度。三段目の重心の取り方。すべてが、鏡のように対称的だった。
私が真似しているのか。それとも、向こうが真似しているのか。
あるいは、最初から同じだったのか。
講義の時間が近づいていた。立ち上がる前に、もう一度だけ石積みを見る。崩れていない。それを確認してから、私は小径を戻った。
振り返らなかった。
振り返ったら、何かが見える気がした。見てはいけないものが。
その日の講義内容は、ほとんど覚えていない。
ノートには、石の形ばかりが描かれていた。無意識に、ペンが動いていた。丸い石、平たい石、角のある石。どれも、これから積むべき石の形だった。
隣の席の学生が、私のノートを見て、小さく笑った気がした。でも、確認する気にはなれなかった。
講義が終わって、蓮子が声をかけてきた。
「メリー、最近変よ」
「何が?」
「ずっと、どこか見てる。ここにいない感じ」
私は、答えられなかった。否定する言葉が見つからない。
「石積み、まだやってるの?」
「……四日目」
「あと三日?」
「そう」
蓮子は、少し困ったような顔をした。
「メリー、本当に大丈夫? あれ、ただの噂話でしょ。観測って言ってたじゃない」
「観測よ」
「でも、顔が違う」
「どう違うの」
「怖がってる」
その言葉で、何かが崩れた。
「怖がってない」
「じゃあ、なんで手が震えてるの?」
見ると、確かに手が震えていた。いつから? 気づかなかった。
「蓮子」
「何?」
「もし、途中でやめたら、どうなると思う?」
蓮子は、黙った。長い沈黙のあと、ゆっくりと答えた。
「分からない。でも、メリーがそう思ってるなら、やめた方がいいんじゃない?」
「やめられない」
「なんで?」
「分からない」
それが、本当だった。理由が、もう分からなくなっていた。
昼休みの中庭は、思ったより騒がしかった。
ベンチでは誰かが弁当を広げていて、芝生の端ではサークル勧誘の声がする。その一角で、私はしゃがみ込んでいた。花壇の縁に、石を三つ並べている。
大きさは、ほぼ同じ。
形は、少しずつ違う。
置いて、離す。
置いて、離す。
手が震える。昨日から、止まらない。
でも、石を置くときだけ、震えが止まる。
一つ崩れた。音がして石が転がる。私はすぐに拾い上げた。周囲の視線が、一瞬こちらに向いた気がして、肩が強張る。
次は、角度を変える。
花壇の縁は平らじゃない。だから、稲荷の前よりも難しい。でも、それがいい。条件が厳しい方が、感覚が掴める。
私は、練習していた。
認めたくなかったが、これは練習だった。五段目を、完璧に積むための。崩さないための。負けないための。
――負ける?
その言葉が、頭の中で反響する。
誰に? 何に?
「……何してんの?」
顔を上げると、蓮子が立っていた。紙パックのコーヒーを持っている。
「別に」
「別に、でそれ?」
「練習よ」
言ってから、少し間が空いた。練習、という言葉が、思ったよりもはっきり響いた。
「石積みの?」
「他に何があるの」
蓮子は、花壇と私の手元を見比べて、小さく笑った。
「熱心だね。秘封倶楽部の活動?」
「そうだけど」
即答した自分に、違和感はなかった。でも、蓮子の次の一言で、胸の奥がざらついた。
「観測ってさ、こんなに指先に力入れるものだっけ?」
私は、石を持つ手を見た。確かに、白くなっている。
爪が、石に食い込んでいた。削れて、少し欠けている。痛みは、感じなかった。
「……危ないから」
「何が?」
「崩れたら」
言ってから、しまった、と思った。崩れたらどうなるかなんて、ここでは関係ない。
蓮子は肩をすくめた。
「ふうん。まあ、落ち着きなよ。願掛けなんて、らしくない」
その言葉で、何かが切れた。
「願掛けじゃない」
「でも、顔はそんな感じ」
「違うって言ってるでしょ」
声が、思ったより大きかった。周囲の雑音が、一瞬だけ遠のいた気がする。
蓮子は、少し怯んだように見えた。それから、表情を変えずに言った。
「メリー、聞いて」
「何?」
「もうやめなよ。あと三日でしょ? 途中でやめても、誰も責めないから」
「責める? 誰が?」
「誰もいないでしょ。だから、大丈夫」
私は、蓮子を見た。
友人の顔が、遠い。まるで、磨りガラスの向こう側にいるみたいだった。
「蓮子は、分かってない」
「何を?」
「やめたら、負けるの」
「誰に?」
答えられなかった。
でも、確信はあった。負ける、という感覚。それは理屈じゃない。体が知っている。
蓮子は驚いた顔をしたあと、すぐにいつもの表情に戻った。
「はいはい。ごめんごめん」
そう言って、去っていく。
でも、去り際に振り返って、もう一度だけ言った。
「メリー、本当にやめた方がいいよ。それ、もう観測じゃないから」
私は、その背中を見送ってから、もう一度石を置いた。
今度は、崩れなかった。
それだけで、胸の奥が落ち着いた。
でも、手の震えは、止まらなかった。
五日目
五日目は、雨だった。
小径は水捌けが悪く、滑りやすい。水溜まりが多いので、雨の日にこの小道を通る人間はほぼいない。それでも「行かない」という選択肢は浮かばなかった。行かないと、崩れてしまう。石ではなく、もっと別のものが。
傘を差して小径に入ると、雨音が変わった。木立に遮られて、音が篭もる。自分の足音も、呼吸も、すべてが近くに聞こえる。
でも、聞こえないものがあった。
石を積む音。
昨日まで、頭の中で反響していた、あの乾いた音が、今日は鳴らない。雨が、すべてを吸い込んでいる。
それが、たまらなく不安だった。
社の前の地面は、湿っていた。昨日までと、感触が違う。膝をついたとき、冷たさが染み込んできた。土が、水を含んで重い。私は一度、石を置くのをやめて、手の水気を払った。意味があるのか分からない。でも、そうしないと落ち着かなかった。
手のひらを見る。
皺に土が入り込んでいる。爪の間も黒ずんでいる。いつから? 昨日? 一昨日?
洗ったはずなのに、落ちていない。まるで、染み込んでいるみたいだった。
石を拭く手が、震えていた。雨に濡れたせいだと思いたかった。でも、違う。これは、別の理由だ。
石積みは、四段。
隣も、同じ高さ。
完璧に、同じだった。
測ったように、ミリ単位で揃っているように思えた。
誰が積んでいるのか、もう考えなくなっていた。
重要なのは、高さだけ。
私は、今日持ってきた石を見つめた。昨日よりも、少し小さい。安定はする。でも、高さが出ない。
それが、許せなかった。
頭の中で、計算する。安全か、勝負か。
その考えが浮かんだ瞬間、胸が締めつけられた。
勝負?
何の勝負だ。
単位のことか。いや、違う。あれは口実だった。最初から、どうでもよかった。
では、何のために?
勝負じゃない、と言い聞かせる。願っていない。これは儀式でもない。ただの、噂話の検証だ。
嘘だ。
全部、嘘だ。
でも、ポケットの中には、もう一つ石がある。
予備だ。より高く積めるが、不安定でより危険な石。
今朝、三十分かけて探したのだ。川まで行って、何十個も手に取って、選んだ。
講義に遅刻した。教授に注意された。でも、気にならなかった。
この石が、手に入ったから。
私は、それを取り出していた。
見比べる。最初に選んだ石と、予備の石。
予備の方が、明らかに高く積める。でも形が悪い。少し歪んでいるのだ。これではバランスを取るのが難しい。
崩れるかもしれない。
でも、高い。
それだけで、選ぶ理由には十分だった。
私は高く積める方の石を選んだ。
安全な石を、地面に置く。
捨てる、という行為に近かった。もう必要ない。勝つためには。
――勝つ?
その言葉が、頭の中で反響する。
勝って、何になる? 賞品もない。称賛もない。誰も見ていない。本当に願いが叶うかわからない。
でも、勝たなければいけない。
理由は分からない。ただ、そう思った。
石を置くとき、雨音が遠のいた気がした。
いや、本当に遠のいた。
傘を打つ雨の音も、木の葉を揺らす音も、すべてが消えた。聞こえるのは、自分の心臓の音だけ。
そして、石が触れ合う音。
思ったより、高かった。澄んでいた。雨に吸われるはずなのに、響いた。
社の奥まで、届いたような気がした。
五段。
私の石は、わずかに傾いていた。
バランスが悪い。予想通りだ。でも、崩れていない。ぎりぎりで、持ちこたえている。
高さは、完璧だった。
隣も、五段だった。
同時だったのか、少し遅れたのか、分からない。ただ、私の石が安定するのを待っていたようにも見えた。
いや、待っていたのだ。
そう確信した。理由はない。でも、分かる。隣の石積みは、私を見ている。私が置くのを待って、それから置く。
そして、私より高く積んだ。
ほんの数ミリ。でも、確実に高い。
負けた。
その瞬間、息が止まった。
負けた。私が負けた。五段目でまた抜かれた。
何に対して? 誰に対して?
分からない。でも、負けた。
それだけで、胸が締めつけられた。
悔しさではない。もっと、暗いもの。恐怖に近い、何か。
私は、その場を離れられなかった。
ずっと、そこに座っていた気がする。石積みを見つめたまま、動けなかった。
隣の石積みを、何度も見た。
本当に高いのか。錯覚ではないのか。
でも、何度見ても、向こうの方が高かった。
数ミリ。測らなければ分からないくらいの差。でも、私には見えた。明確に、分かった。
負けている。
雨に打たれながら、震えていた。
気づいたら、歯を食いしばっていた。顎が痛い。でも、力を抜けなかった。
気づいたら、雨は小降りになっていた。服が濡れて、重い。でも、寒さは感じなかった。時間の感覚が、曖昧だった。
立ち上がろうとして、よろけた。足に力が入らない。どれくらい、ここにいたのだろう。
傘が、ひっくり返っていた。
いつから? 雨を防ぐ意味を、失っている。でも、気づかなかった。
帰り際、振り返った。
石積みが、二つ並んでいる。
わずかな差で、隣の方が高い。
その光景が、目に焼きついた。
帰り際、私は初めて思った。
――明日、失敗したらどうしよう。
いや、違う。
明日、追いつかなければ。
追いついて、追い抜かなければ。
その考えは、祈りに近かった。
いや、祈りそのものだった。
願いが、ある。
認めたくなかったが、もう隠せない。
私は、願っていた。
勝ちたい、と。
単位でも、進級でも、将来でもない。
ただ、目の前の石積みに。
たった数ミリでもいい。上回りたい。
それだけが、すべてだった。
その願いの、途方もない無意味さに、私は気づいていなかった。
あるいは、気づいていても、もう止められなかった。
その夜、私は石を探した。
部屋の中では、何度も何度も、手のひらで重さを確かめた。
明日こそ。
明日こそ、追い抜く。
そう思いながら、一晩中、石を握りしめていた。
六日目
六日目は、朝から落ち着かなかった。
昨日の段階では負けている。
その事実が、一晩中頭から離れなかった。
数ミリ。たった数ミリ、低かっただけ。でも、それがすべてだった。
中庭で石を積んでいる夢を見た。花壇の縁が、稲荷社の前と同じ高さになっていて、どれだけ積んでも六段から先に行かない。崩れてもいないのに、増えない。隣の石積みだけが、どんどん高くなっていく。そこで目が覚めた。
目覚ましの音が、石のぶつかる音に似ていて、しばらく体が動かなかった。
枕元に、石があった。
昨日、ポケットに入れたまま忘れていたものだ。いや、違う。昨夜、ずっと握っていた石だ。でも、一瞬、誰かが置いていったのかと思った。そのくらい、予想外の場所にあった。
石を拾い上げる。冷たい。夜の間、ずっと部屋にあったのに、まるで外から持ち込まれたみたいに冷たかった。
これで、追いつく。
そう思った。
重さも形も、これなら、六段目は安定する。
そして、高い。昨日の差を、埋められる。
身支度をする際に鏡を見た。
顔色が悪い。目の下に隈ができている。いつからだろう。昨日は気づかなかった。それとも、今朝できたのか。
髪を梳かす手が、また震えた。
もう、慣れていた。震えは止まらない。でも、石を持つときだけは、ぴたりと止まる。その矛盾に、疑問を感じなくなっていた。
稲荷社の前は、静かだった。
石積みは、五段。
隣も、五段。
当たり前のはずなのに、それを確認しただけで、少しだけ息が楽になる。私はしゃがみ込み、六つ目の石を置いた。
置く前に、何度も位置を確かめた。
ここか。いや、少し左。もう少し。角度は? 重心は?
指先が、石の表面を何度も往復する。完璧な位置を探している。見つけるまで、置けない。
置く瞬間、指先の感覚が消えた。
石が触れ合う音が遅れて聞こえる。崩れていない。そう分かるまで、目を閉じていたことに気づく。
目を開けると、六段になっていた。
完璧だった。
どの角度から見ても、安定している。これなら、崩れない。風が吹いても、揺れない。
六段。
隣も、六段だった。
揃っている。それが不自然に思えた。昨日まで、わずかな差を感じていたはずなのに、今日は完全に同じ高さに見える。水平線みたいだ、と馬鹿なことを考えた。
でも、本当に水平線に見えた。
二つの石積みが、地平線を作っている。その向こうに、何かがある。見えないけれど、そこに何かが待っている。
私は立ち上がれなかった。
もし、崩したら。
その考えが浮かんだだけで、喉が締まる。噂話では、崩したら負けだ。負けたらどうなるか、誰もはっきりとは言わない。だから余計に、想像が広がる。
でも、何に負けるのか。
それが分からない。
狐? それとも、社の奥にいる何か?
あるいは、私自身?
願っていない、と自分に言い聞かせる。
でも、一昨日の中庭を思い出す。崩れなかっただけで、安心していた自分。蓮子に言われて、怒った自分。
――もう、戻れない。
そう思った瞬間、怖くなった。
隣の石積みを、もう一度見る。誰もいない。石だけがある。そのことが、ようやく気味悪く思えた。
でも、本当に誰もいないのだろうか。
私は、周囲を見回した。小径には、誰もいない。木立の向こうも、社の裏も、人影はない。
それなのに、見られている。
視線を感じる。どこからか、誰かが、この石積みを見ている。
いや、違う。
石積みを見ているのではない。私を、見ている。
私は、石積みから目を離せなくなっていた。
どれくらい、そこにいたのか分からない。
気がつくと、影が伸びていた。太陽が動いている。時間が経っている。でも、体が動かない。
立ち上がろうとして、膝が笑った。力が入らない。しゃがみ込んだまま、石を見つめている。
このまま、ずっとここにいるのかもしれない。
そう思った瞬間、怖くなった。
私は、無理やり立ち上がった。足がもつれて、よろけた。社の鳥居に手をついて、体を支える。
手のひらに、朱色の粉がついた。塗料が剥がれている。でも、それよりも驚いたのは、手のひらの冷たさだった。
まるで、氷に触れたみたいに、冷たかった。
帰り道、川には寄らなかった。石はもう要らない。これ以上選ぶ必要はない。そう分かっているのに、足が勝手に止まりそうになる。
川沿いを歩いているとき、後ろから足音が聞こえた気がした。
振り返ると、誰もいなかった。
でも、確かに聞こえた。私と同じリズムで歩く、誰かの足音。
それから先、私は走った。
理由は分からない。ただ、追いつかれたくなかった。何に追いつかれるのか、分からないのに。
七日目は、失敗できない。
そう思っている自分が、いちばん怖かった。
その夜、私は眠れなかった。
目を閉じると、石が見える。積み上げた石が、暗闇の中で光っている。六段の石積みが、二つ。並んで、こちらを見ている。
見ている?
石に、目があるはずがない。でも、見られている感覚がある。観察されている。値踏みされている。
明日、七段目を積む。
そうしたら、終わる。
終わったら、どうなるのか。
願いが叶う? 私には、願いがない。少なくとも、最初はなかった。
でも、今は?
ベッドの中で、私は考えた。
何を願っているのか。
単位? それは口実だ。途中から考え始めただけで、本当に願っているわけじゃない。
では、何を?
――勝ちたい。
その言葉が、暗闇の中で浮かんだ。
勝ちたい。隣の石積みに。誰が積んでいるのか分からない、その相手に。
それが、私の願いだった。
気づいた瞬間、笑いがこみ上げた。
馬鹿みたいだ、と思った。何のために? 勝って、何になる?
でも、笑いは止まらなかった。
笑いながら、涙が出た。
理由は分からない。悲しくも、嬉しくもない。ただ、涙が出た。
朝まで、眠れなかった。
七日目
七日目は、驚くほど静かだった。
空は曇っていたが、雨の気配はない。風も弱い。ここ数日の落ち着かなさが、嘘みたいに思えた。
でも、体は重かった。
一晩中眠れなかったせいだ。鏡を見ると、自分だと分からないくらい、顔が変わっていた。頬がこけて、目だけが大きく見える。
これが、私?
疑問に思ったが、答える気力もなかった。
私は、少し早めに小径へ入った。朝の光が、木立の間から差し込んでいる。でも、小径は暗い。光が、ここには届かない。
ポケットの中には、石が一つ。
六日目までに、何度も確かめた重さだ。これで七段目になる。それ以上でも、それ以下でもない。考える必要は、もうなかった。
でも、ポケットの中で、石を何度も握りしめた。
確かめている。本当に、これでいいのか。他の石の方が良かったのではないか。
今からでも変えられる。川に行って、別の石を探せばいい。
でも、足は小径を進んでいた。
稲荷社の前には、誰もいなかった。
石積みは、六段。
隣も、六段。
揃っている。完全に、同じ高さ。私はそれを見て、なぜか安心した。競う必要がない、と思ったのだ。
でも、その安心は、すぐに不安に変わった。
同じ高さということは、七段目で確実に勝敗が着く。積み終わりと同時に終わるのだ。
しゃがみ込み、七つ目の石を置く。
手が、震えていた。
六日目までは、石を持つと震えが止まっていた。でも、今日は違う。石を持っても、震えが止まらない。
それでも、置いた。
置いた瞬間、力が抜けた。
崩れないかどうかを確認する前に、息を吐いていた。手を離してから、初めて石を見る。七段。きちんと、積み終わっている。
完璧だった。
これ以上ない、というくらい、安定している。
隣も、七段だった。
同時だったのか、そう見えただけなのか、分からない。でも、そこに差はなかった。高くも、低くもない。ただ、同じだった。
引き分け。
その言葉が浮かんだ。
勝ちでも、負けでもない。引き分け。
その光景を見た瞬間、胸のざわつきが、すっと消えた。
拍子抜けするほど、何も感じなかった。
怒りも、喜びも、悲しみも。何もない。
ただ、空っぽだった。
私は立ち上がった。
勝ったとも、負けたとも思わない。願いが叶うかどうかも、どうでもよかった。その時、ようやく思い出した。
――最初は、何も願っていなかった。
単位のことを考え始めたのは、途中からだ。焦って、怖くなって、理由を後付けしただけ。石を積み始めた理由は、好奇心だった。噂話を、確かめたかっただけだ。
積み終えた今、それがはっきり分かった。
でも、遅かった。
もう、元には戻れない。七日間、私は何かに囚われていた。それが何だったのか、今でも分からない。
石積みは、崩れなかった。
代わりに、静かに消えた。
音もなく、気配もなく、そこにあったはずの七段の石が、両方とも消えていた。地面は平らで、最初から何もなかったみたいだった。
私は、その場所を見つめた。
石があった場所。確かに、そこにあった。私が積んだ石。七日間、毎日一個ずつ。
でも、今は何もない。
証拠が、何も残っていない。
私は、驚かなかった。
ああ、そういうものか、と思った。
願いがなかったのだから、結果もない。勝負でも、儀式でもなかった。ただ、石を積んで、終わった。それだけだ。
でも、本当にそれだけだったのだろうか。
私は、社を見上げた。
扁額の文字は、やはり読めない。でも、今日は、その奥に何かを感じた。
視線? それとも、笑い声?
分からない。ただ、何かがそこにいる。そして、すべてを見ていた。
私は社に一礼して、小径を戻った。
振り返らなかった。
振り返ったら、まだそこにいる気がした。
石積みをしている自分が。しゃがみ込んで、次の石を探している自分が。
終わっていない、という錯覚。
だから、振り返らなかった。
七日目の夜、私は夢を見た。
白い狐が、そこにいた。
稲荷社の前。石積みをしていた場所。
狐は、私を見ていた。敵意は感じなかった。恐怖もない。ただ、退屈そうだった。
狐は、石積みの跡を見ている。
もう何もない場所を、じっと見つめている。それから、私の方を向いた。
また、遊ぼう。
そう言っている気がした。声は聞こえない。でも、分かった。
目が覚めると、朝だった。いつもの部屋。いつものベッド。夢、だったのか、そう思った。
次の夜も、同じ夢を見た。白い狐が、そこにいる。
石積みの場所で、私を待っている。
また、遊ぼう。
石積みを終えてから四日目。
講義の終わりに後ろの席で話し声が聞こえた。
私は、振り返りそうになって、止めた。
その声に、聞き覚えがあったのだ。二週間程前に私の前の席で、石積みの噂を話していた二人の学生。どちらかの声だった。
おそらく願いが叶うなんていうのは人間側が作り出した口実に過ぎない。白狐の遊び相手を誘き寄せるための。
白狐に次の遊び相手を連れて行くまでが、石積みをした者の取るべき行動なのだと本能的に察した。
そうか、私はまんまと引っかかってしまった訳だ。
お稲荷さんという神様は五穀豊穣、商売繁盛の神様であると同時に祟り神としての側面もある。無碍にしたらそれこそ何があるか。
私は意を決して振り返る。
「ねえ、前に石積みの話していたでしょう? 私もやってみたの。凄いわね」
困惑の表情を浮かべる学生。だがお構いなしに続ける。
「盗み聞きするつもりなんてなかったんだけど、小径のお稲荷さんの話が聞こえてきちゃってね、貴方に会えたらお礼を言いたいと思っていたの。ありがとう、それじゃあ」
周りの学生に聞こえるように大きな声で一方的に伝えると私は教室を後にした。
その日の夜。
夢の中で、狐が立ち上がった。そして、去っていく。
私の方はもう見ない。
きっと新しい遊び相手が現れたのだろう。これで私の役目はおしまい。
目が覚めたとき、胸のつかえが取れた気がした。
蓮子に会うと、いつものように話しかけられた。
「メリー、今日は調子良さそう」
「そう?」
「うん。ちょっと前まで、ぼんやりしてたのに」
そうだった、と思う。
石積みをしていた七日間。
あの間、私はずっと何かに囚われていた。
でも、終わった。
窓の外を見ると、小径が見える。
あそこで、また誰かが石を積み始めるのだろう。
七日間、毎日一個ずつ。
隣では、白い狐が石を積む。
神様にとっては、ただの遊びだったのかもしれない。
私は、もう考えないことにした。終わったのだから。
次は、別の誰かの番だ。
白狐が去った次の夜、夢は見なかった。
久しぶりに、静かな眠りだった。
(了)
「白狐は遊び相手を探していた」ってオチも好きな解釈でした。
面白かったです。
最初はただの観察だったのにムキになって勝ちたくなっていくメリーがとてもよかったです
負けず嫌いにしか見えない景色があるのだと思いました