旧地獄を脱した私は、ようやく地上に出た。
降り注ぐ陽光は、あまりにも眩しく、思わず瞼を細める。
永劫の闇に慣れきった身には、祝福というよりも暴力に近い光だった。
―博麗神社への復讐。
私の思考も、情動も、今やその一点へと収斂していた。
妖怪退治を生業としながら、妖怪との共存を選び、宮出口家に罪を被せた裏切り者。
その存在を思い浮かべるだけで、胸の奥に澱んだ情念が泡立つ。
この時のために、私はずっと憎き博麗の巫女を監視してきた。
―遂に、実行に移す時が来たのだ。
「思い知らせてやる…」
既に段取りは考えてある。
妖怪へと憑依し、魔力を貪り取って、己を高め、次の器へと渡る。
それを近年、妖怪たちが引き起こした異変の順になぞって繰り返し、確実に、力を積み上げていく。
これにより、博麗の巫女に対する脅しとし、奴に恐怖を与えるのだ。
そして、最終的には幻想郷を混沌に陥れる。
―最初の標的は、紅魔館だ。
◆
首尾よく人間のメイド―十六夜咲夜へ憑依した私は、コーヒーの入ったカップをトレイに載せ、図書館へと向かっていた。
最初の獲物は、既に定めている。動かない大図書館、パチュリー・ノーレッジ。
生まれつきの魔女で、身体は脆弱だという。だが、その内に秘めた魔力は底知れぬと聞く。
―力を蓄えるには、実に都合がいい。心中で、舌なめずりする。
利点はそれだけではない。
常に図書館に籠もり、書物に埋もれているこの魔女は、頭脳もまた切れ者だと聞いている。
憑依の過程で、万が一にも正体を看破されれば、その瞬間に計画は瓦解する。
ならば最初に消す。探偵役を舞台に上げる前に、舞台袖へと引きずり落とす。それが最善だ。
◆
「パチュリー様、コーヒーをお持ちしました」
書斎に足を踏み入れ、声を掛ける。
彼女は本から僅かに視線を外し、こちらを見た。
「…コーヒー?紅茶じゃなくて?」
その紫の瞳には、わずかに非難めいた色が滲んでいる。
―しまった。こいつ、紅茶党だったか。
「ええ、根を詰めておられるようでしたので。眠気覚ましにもなりますし、集中力を高めるには、たまにはよろしいかと」
即興の言葉を並べる。パチュリーは小さく鼻を鳴らした。
「…別に根は詰めてないし、眠くもないけど。まあいいわ、そこに置いといて」
そう言って、再び本へと視線を戻した。それ以上、疑う素振りはない。
―ふふ、実に単純だ。
私は静かにカップを置くと、メイドの身体から抜け出した。
そして、黒褐色の液体へと、音もなく己の存在を溶かし込んだ。
◆
「…」
切りのいいところまで本を読み、一息つく。
そしてコーヒーに口をつけた瞬間、パチュリーはふっと意識が遠のくのを感じた。
思考が霞み、世界の輪郭が溶けていく。
そして―
「ふはは、やったぞ!」
快哉を叫ぶ。
乗っ取りは成功した。魔女の身体は、今や完全に私のものだ。
…そのはずだった。
次の瞬間、身体が鉛の塊と化したかのように重くのしかかる。
同時に、喉の奥に焼けつくような異物感が走った。
なんだ…!?
―明らかに、おかしい。
試しに立ち上がる。
身体は軋むようにぎこちなく、重心が定まらず、ふらりと揺れた。
息が詰まり、深く吸い込もうとすると、粘つくような咳が発せられた。
憑依の初期症状か…?
いや、メイドの身体では、こんなことは起きなかった。
咳き込みながら思考を巡らせる。
まさか…何らかの妨害術式か?
あり得ない話ではない。
何しろ相手は魔法使いだ。自己防衛のため、身体そのものに仕掛けを施していても不思議ではない。
そのとき、不意に気配を感じた。
「パチュリー様…!? だ、大丈夫ですか?」
白いシャツ、黒のベストにスカートといった洋装、赤髪の少女が立っていた。
頭と背には、蝙蝠を思わせる小さな翼。
―使い魔の小悪魔か。
ようやく咳が収まりかける。不審を悟られぬよう、声を整えた。
「え、ええ…少し咳が出ただけよ…」
「でも、今朝は『今日は喘息の調子がいい』と仰っていましたのに…」
小悪魔は心配そうに顔を覗き込む。
そうか…こいつ、喘息持ちか。
ようやく合点がいった。
詠唱を要する魔法使いにとって、喘息は致命的ではないか、と一瞬、疑問に思ったが
それ以上に、「今日は調子がいい」という言葉が胸に引っかかった。
調子が良くて、この体調、なのか…?
ともかく、今は一人になりたい。
適当な理由をつけて、追い払うことにする。
「…もう大丈夫よ。小悪魔、貴方は業務に戻りなさい」
そう言った瞬間、小悪魔の表情に、わずかに違和感を覚えた。
目を細めて、じっとこちらを見つめている。
まずったか…?
一瞬、言葉を誤ったかと肝が冷える。
「…はい、承知いたしました。では、これで失礼します」
小悪魔はそう言って、静かに書斎を後にした。
一人になった私は、先ほどの反応を反芻する。
呼び方…か?
他に不自然な点はない。思い当たるのは、それだけだった。
小悪魔が紅魔館では「こあ」という愛称で呼ばれていることなど、瑞霊が知る由もなかった。
◆
―私はどうすべきか考えた。
そして、導き出した結論は一つ。
「この身体は、弱すぎる…早急に別の身体へ移らなければ」
復讐どころの話ではない。
このままでは、この貧弱な魔法使いの肉体ごと、あっさりと二度目の死を迎えかねない。
別の存在に憑依するには、今の私の力では飲み物を媒介とする必要がある。
この館に棲まう他の主な妖怪は、次の通りだ。
紅魔館の当主、レミリア・スカーレット。
その妹で、滅多に姿を現さないというフランドール・スカーレット。
そして、門番の紅美鈴。
できることなら、強力な吸血鬼のどちらかに乗り移り、その魔力を根こそぎ吸い上げたい。
―だが、その力ゆえに油断はできない。
万が一、正体を見破られれば、計画はそこで終わる。
それに比べれば、門番という職務にありながら、居眠りをしていたあの間抜けそうな女ならば、憑依は容易い。
今は憑依先の移動が最重要。確実性が一番大事だ。
「よし…門番に飲み物を飲ませ、この身体とはおさらばだ」
私は、静かに決意を固めた。
◆
一体、どれほどの時間が経ったのだろうか。
私はこの重たく感じる身体を引き摺り、正門を目指して歩いていた。
だが、未だ地下の図書館を出て、上階にすら辿り着けていなかった。
とにかく、身体がだるい。
喉の奥に常駐する異物感―喘息は、動くたびに不快さを増していく。
厄介なのは、わずかに身体を動かしただけで息が切れるくせに、口呼吸をすれば荒れきった気管支を刺激し、
発作と喘鳴が起こり、それがさらに体力を奪うという悪循環だった。
無理に進めば、確実に悪化する。ゆっくりと身体を動かし、息を整え、少しずつ前へ出る―
それが唯一の正解だと、ようやく悟る。
壁に手をつき、亀の如き遅さで歩み、進む。
すると、次第にじわじわと何とも言えない思いが胸に溜まっていった。
―私は一体、何をしているんだ…?
そんな疑問が浮かぶ。
同時に、この身体の持ち主―パチュリー・ノーレッジへと、
文句の一つも言いたくなってきた。
「少しは身体を鍛えろよ…!」
思わず声に出てしまう。
いくら貧弱だと言っても、限度というものがあるだろう。
喘息持ちに激しい運動は禁物だとしても、
せめて健康維持のための軽めのジョギングくらい、やれなかったのか。
…だが、冷静になって考えれば、こいつはこの不自由な身体で日々を生きてきたのだ。
好き好んで虚弱になる奴など居るはずもない。
妖怪に同情など抱くつもりは毛頭なかったが、それでも一瞬、わずかな哀れみが胸をよぎった。
―瑞霊は、単純にして致命的な誤りを犯していた。
パチュリーは普段、屋内だろうと、ある程度の距離を移動する際は魔法で宙を浮いて移動していたのだ。
当然、息切れして壁に縋るなどということはない。
屋内は歩くものだ。
地に足をつけて進むのが当たり前だ―そう信じ込んでいた。
長年、怨霊として漂っていた瑞霊にとって、久方ぶりに得た「実体ある身体」は、
歩くもの、踏みしめるもの、という固定観念に縛られていた。
魔法で浮いて移動する。
あまりにも単純な発想が、瑞霊の思考には浮かばなかったのだ。
◆
私の心境は、もはや崑崙山の山頂を目指す修験者に等しかった。
長い階段を登り切り、ようやく地上階に辿り着いたときには、
感動のあまり、この世に授かった生に―既に死んでいる身ではあるが―感謝を捧げそうになったほどだ。
…が、はっとして頭を振る。
まだ正門までの道のりは長い。ここで立ち止まっている場合ではない。
壁に手をつき、よろめきながら、ごほごほと咳を漏らし
生まれたての鹿のような足取りで進む私の姿は、さすがに異様に映ったのだろう。
すれ違うメイド妖精たちは、丁寧に頭を下げながらも、どこか訝しげな視線を向けてくる。
―だが、私はもはや、そんな些事を気にかける余裕を失っていた。
◆
赤い絨毯が敷き詰められた廊下を、ふらふらと歩いていると、正面から一人の少女が現れた。
青みがかった銀髪。
紅い瞳。
背に生えた、蝙蝠の翼。
―間違いない。
レミリア・スカーレットだ。
緊張が、背筋を走る。こちらに気づいたレミリアが、声をかけてきた。
「あら、パチェ。どうしたの、そんなふらふらになって」
わずかに心配そうな表情で、覗き込んでくる。
ここは自然に受け答えし、やり過ごさなければならない。
「ちょっと疲れただけよ、大丈夫。ありがとう、レ…」
名を呼ぼうとしたその瞬間、強烈な自制心が働いた。
迂闊に名前を呼んではダメだ…!
レミリアは、この魔法使いを「パチェ」と愛称で呼んだ。親友同士なのだろう。
ならば当然、こちらからの呼び方にも特別な距離感があるはずだ。
小悪魔への呼び名は、主従関係ゆえに深く追及されなかった。
だが、レミリアは違う。下手をすると怪しまれ、露呈してしまう。
「ごほ…ごほ…」
わざと咳き込み、言いかけた名前を濁す。
「そう? ならいいけど…無理はしちゃだめよ」
そう言い残し、名残惜しそうに一度こちらを振り返ってから、反対側の廊下へと歩み去っていった。
―危なかった。
胸を撫で下ろしながらも、咄嗟に気づけた自分自身を、心の中で褒めてやった。
さあ、長い道のりも、あと少しだ。
◆
私は一旦、厨房へと立ち寄った。
湯を沸かし、紅茶を煎れ、香りが立つのを待ってから、手近な水筒に注ぎ入れる。
紅茶を水筒に入れるなど邪道だろうし、本来であれば、トレイにポットとティーカップを用意すべきだろう。
だが、そんな代物を持って正門まで歩き切れる自信は、微塵もなかった。
極端な話、飲み物であれば何でもいいので、ただの水でもよかった。
この魔法使いは、当主レミリアの友人だ。であれば、門番よりも立場は上だろう。
もし飲ませるに当たって、門番が難色を示すのなら、「私のお茶が飲めないのか」と迫ってやればよい。
何かとうるさいこのご時世、アルハラ…もとい、お茶ハラ(?)に該当するだろうが、
紅魔館のコンプライアンス事情など知ったことではない。
メイド妖精に指示して用意させ、紅茶に身を移し、そのまま運ばせるという手もあった。
だが、道中で零される可能性や、何らかの事故が起きる懸念を思えば、他人任せにはできなかった。
何より、この一連の行動を、自分の手で成し遂げねば意味がない。
そして、長く、果てしなく感じられた旅路の末。
ついに、エントランスホールへと辿り着いた。
「…やった…」
わずかな窓から差し込む陽光が、今では神々しい祝福の光のように見えた。
得も言われぬ達成感が胸を満たし、思わず天を仰ぎたくなった。
遂に、ここまで来たんだ…!
―その時だった。
「パチュリー様!」
背後から、小悪魔の声が飛んできた。反射的に振り向く。
「どうされたんですか!?ものすごく体調が悪そうじゃないですか…!」
心配を通り越し、どこか悲痛さすら滲んだ表情で見つめられる。
ここに至るまで、ほとんど限界まで体力を使い果たしていた。
その結果、傍目には重病人同然の有様に映っていたのだろう。
「わ、私は…だ、大丈夫だから…」
そう言った直後、ごほ、ごほ、と咳が込み上げ、喘鳴が喉を震わせる。
「全然大丈夫じゃないです!自室で安静にしていないと!」
そう言うや否や、小悪魔は私の身体をひょいと抱え上げた。
いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。
「…?パチュリー様、また少し太りました?」
小悪魔が首を傾げる。
「失礼ね!太ってないわよ!」
反射的に口に出ていた。
―なんだ?
まったくの無意識だった。いや、意志に反して、と言っていいかも知れない。
勝手に口が動いたのだ。
―まさか、この身体の持ち主の極めて強い意志が、一瞬、私の憑依支配をも乗り越えて声を出させたのか?
いや、そんな事は今はどうでもいい。
「さあ、ベッドまでお運びします。ゆっくり休んでください」
そう言うと、せっかく辿った道を逆戻りしていく。
―だめだ。やめろ。
あれだけ苦労して、ようやくここまで来たんだぞ。
ふざけるな。
「ちょっと…!私は大丈夫だから!離しなさい!」
まるで駄々をこねる子供のように暴れ、近くの窓のカーテンを掴む。
―絶対に離さないぞ。これまでの努力を無に帰させてなるものか。
「何わがまま言ってるんですか!大人しくしていてください!」
だが、その手はあまりにも力が弱く、あっさりと引き剥がされる。
小悪魔は足取りも軽く、地下へと続く階段を下りていった。
―待ってくれ。やめてくれ。
お前には慈悲というものがないのか、この悪魔め。
…ああ、こいつは悪魔だったか。
程なくして、私は地下図書館まで強制送還され、自室のベッドに寝かされた。
小悪魔は「絶対安静ですよ」と念を押して退室した。
「…畜生…」
思わず、声が漏れた。
―よく考えたら、手元に紅茶が入った水筒があるのだから、
いっそのこと小悪魔に飲ませて憑依すればよかったのでは…と今になって気づいた。
が、もう後の祭りだった。
◆
―ベッドに横たわりながら、私は思考を巡らせた。
そして、ひとつの結論に辿り着く。
「…何も、自分の足で行く必要はない」
目立つ書斎まで移動し、この身体の魔力を限界ぎりぎりまで吸い尽くし、昏睡状態に陥らせる。
周囲の者に異変を気取らせ、介抱させればいい。
咲夜が持ってきたコーヒーを、意味ありげにデスクへこぼし、机に突っ伏せば尚よい。
そうなれば、どう見えるか。
―毒を盛られて昏倒したように映るだろう。
となれば、あの忌々しい博麗の巫女も、捜査のために必ずやって来る。
時間の経過とともに、この身体―パチュリーが意識を取り戻し、自由に動き回る。
おそらくレミリアや霊夢と合流し、関係者を集め、十六夜咲夜を犯人として名指しするだろう。
咲夜はどこかに軟禁され、一時的に警戒態勢は緩む。
その段になって、改めて身体の支配権を奪い返し、美鈴に近づき、飲み物へと移り、憑依する。
―完璧な計画だ。
…いや、むしろ、なぜ最初に思いつかなかったのか。
この身体が、あまりにも脆弱すぎた。その衝撃が強烈過ぎて、頭の中が飽和状態となり、
まともな思考ができていなかったのだ。
「ふふふ…今に見ていろ」
私はゆっくりと身を起こし、書斎へと向かった。
◆
―その後、私は首尾よく妖怪たちへの憑依を繰り返し、幻想郷を文字通り、好き放題に引っ掻き回した。
一度は捕縛されたが、それでもなお抜け出し、そして―最終的に博麗霊夢と対決し…結果として、敗れた。
霊夢は、私を調伏することを選ばなかった。
代わりに、幻想郷の住人として受け入れるという判断を下した。
ただし条件がある。起こした異変のケジメをつける―すなわち、被害者たちへの謝罪行脚だ。
そうして私は、再びこの洋館の前へと立っていた。
◆
―紅魔館の正門前。
傍らには博麗霊夢がいる。
「さあ、ちゃんと謝罪するのよ」
まるで問題児を連れてきた保護者のような口ぶりだ。
「分かってるよ…」
私は渋々、頷いた。
正門の脇には、紅美鈴が壁にもたれかかっていた。
―いや、よく見ると、頭がこくり、こくりと揺れている。
…眠っている。
そういえば、最初に紅魔館に侵入した時も眠っていた。とんでもない門番だ。
霊夢は美鈴の前まで歩み寄った。
「ちょっと、起きなさいよ」
声をかけても、反応はない。頬をぺちぺちと軽く叩いても、なお起きない。
―こいつ、相当な大物だな。
呆れを通り越して、少し感心してしまった。
霊夢は一瞬考え込み、そして、ふっと悪戯っぽく笑った。
すう、と息を吸い込む。
「起きなさい、美鈴!またナイフの餌食になりたいの!?」
それは、人間のメイド―十六夜咲夜の声に似ていた。どうやら声真似らしい。
…意外と、上手かった。
美鈴はびくりと跳ね起きた。
「す、すみません咲夜さん!ナイフは勘弁し―て…?」
目の前にいる霊夢を見て、ぽかんとした表情を浮かべる。
「相変わらずね…」
霊夢は苦笑した。
◆
「なるほど…反省して幻想郷で暮らしていくので、謝罪しに来た、と」
美鈴はそうまとめ、得心したように頷いた。
「そういうこと。―で、アンタも被害者だったわよね。だったら…瑞霊」
霊夢が振り返り、私をじっと見つめる。
私は小さくため息をつき、一歩前に―足はないが―出た。
「あー…その…すまなかった」
そう言って、頭を下げる。
「もうちょっと誠意を―」
霊夢が口を挟みかけたが、美鈴がそれを遮る。
「ふふ…いえ、今ので十分ですよ」
美鈴が穏やかに言った。
「瑞霊さん…でしたね。謝罪、たしかに受け取りました。
これで、お互いもう恨みっこ無しです。これからは、よろしくお願いしますね」
そう言って、にこやかに手を差し出す。
私は少し戸惑いながらも、その手を取った。固く、握手を交わす。
ふと、これまでの自分の行いが走馬灯のように、頭の中を過った。
妖怪と共存しようという博麗神社の思惑を阻止するため、妖怪を装って人間を襲い、自ら手を汚した。
結果、反発する妖怪たちによって私は惨殺され、怨霊となってからも先代の博麗の巫女によって封印された。
今思えば、私の行いは到底擁護できるものではない。この復讐劇が単なる逆恨みでしか無いという自覚もあった。
―もう恨みっこ無し、か。
ふっと笑う。恨みの塊だった自分が、その言葉を受け入れることになるとは。
まだわずかに残っていた胸の奥の澱が、洗われた気がした。
霊夢は握手を交わすその様子を、横で静かに微笑んで見ていた。
その視線が何となく癪に障った…が、
そう感じたのは、私の無意識による照れ隠しかもしれない。
「まあ、ただ…」
美鈴は頬をぽり、と掻く。
「もう一人の被害者であるパチュリー様は…たぶん、あまり根に持たないと思いますけど。
そのご友人のレミリアお嬢様や、妹様、咲夜さんは…」
言葉尻を濁す。
霊夢は、私の肩を勢いよく叩いた。
「ま、そこは―頑張りなさい」
「…はぁ…」
私は深くため息をついた。少々、荒っぽい展開になりそうだ。
ふと、あの虚弱な魔法使いの姿が脳裏をよぎる。
―あいつは、喘息と弱い身体を抱えながら、今日も本でも読んでいるのだろうか。
◆
―紅魔館の図書館。
書斎で本を読んでいたパチュリーのもとへ、小悪魔が来客を告げた。
「パチュリー様。宮出口瑞霊が、異変の謝罪に、霊夢さんと共にお越しになりました」
本の頁を捲ろうとした手が、ふと止まる。
「…ああ、そう」
呟くと、止まっていた手が再び動き出す。視線は、終始本に落とされたままだ。
「お会いにならないのですか?」
小悪魔が首を傾げる。
「思うところがないわけじゃないけど…別に後遺症もないし。
それに、読書の時間を邪魔されたくないの」
頁を捲る、乾いた音。
「ふむ~、そんなものなんですね」
「それに…レミィたちが黙っていないでしょう。きっと、私の分も―」
そう言いかけた、その瞬間。
―轟音。
図書館全体が揺れ、天井から埃が舞い落ちる。
パチュリーは天井を指差し、にやりと笑いながら言った。
「…ほらね」
◆
―立ち込める埃。崩れ落ちる壁。
私は、フランドールの強烈な一撃を受け、崩れた壁を背に、ゆっくりと立ち上がった。
そして、口元に笑みを浮かべる。
「…なるほどね」
―頭を下げて謝るより、こっちの方が、ずっと分かりやすい。
傍らでは、レミリアが腕を組み、愉しげに眺めている。
その横に咲夜が控え、霊夢は肩をすくめ、呆れたように息をついた。
私は巨大な手枷を振りかぶった。余裕たっぷりの笑みを浮かべた、金髪の幼い吸血鬼へと突進する。
―今日は、どうやら長い一日になりそうだった。
降り注ぐ陽光は、あまりにも眩しく、思わず瞼を細める。
永劫の闇に慣れきった身には、祝福というよりも暴力に近い光だった。
―博麗神社への復讐。
私の思考も、情動も、今やその一点へと収斂していた。
妖怪退治を生業としながら、妖怪との共存を選び、宮出口家に罪を被せた裏切り者。
その存在を思い浮かべるだけで、胸の奥に澱んだ情念が泡立つ。
この時のために、私はずっと憎き博麗の巫女を監視してきた。
―遂に、実行に移す時が来たのだ。
「思い知らせてやる…」
既に段取りは考えてある。
妖怪へと憑依し、魔力を貪り取って、己を高め、次の器へと渡る。
それを近年、妖怪たちが引き起こした異変の順になぞって繰り返し、確実に、力を積み上げていく。
これにより、博麗の巫女に対する脅しとし、奴に恐怖を与えるのだ。
そして、最終的には幻想郷を混沌に陥れる。
―最初の標的は、紅魔館だ。
◆
首尾よく人間のメイド―十六夜咲夜へ憑依した私は、コーヒーの入ったカップをトレイに載せ、図書館へと向かっていた。
最初の獲物は、既に定めている。動かない大図書館、パチュリー・ノーレッジ。
生まれつきの魔女で、身体は脆弱だという。だが、その内に秘めた魔力は底知れぬと聞く。
―力を蓄えるには、実に都合がいい。心中で、舌なめずりする。
利点はそれだけではない。
常に図書館に籠もり、書物に埋もれているこの魔女は、頭脳もまた切れ者だと聞いている。
憑依の過程で、万が一にも正体を看破されれば、その瞬間に計画は瓦解する。
ならば最初に消す。探偵役を舞台に上げる前に、舞台袖へと引きずり落とす。それが最善だ。
◆
「パチュリー様、コーヒーをお持ちしました」
書斎に足を踏み入れ、声を掛ける。
彼女は本から僅かに視線を外し、こちらを見た。
「…コーヒー?紅茶じゃなくて?」
その紫の瞳には、わずかに非難めいた色が滲んでいる。
―しまった。こいつ、紅茶党だったか。
「ええ、根を詰めておられるようでしたので。眠気覚ましにもなりますし、集中力を高めるには、たまにはよろしいかと」
即興の言葉を並べる。パチュリーは小さく鼻を鳴らした。
「…別に根は詰めてないし、眠くもないけど。まあいいわ、そこに置いといて」
そう言って、再び本へと視線を戻した。それ以上、疑う素振りはない。
―ふふ、実に単純だ。
私は静かにカップを置くと、メイドの身体から抜け出した。
そして、黒褐色の液体へと、音もなく己の存在を溶かし込んだ。
◆
「…」
切りのいいところまで本を読み、一息つく。
そしてコーヒーに口をつけた瞬間、パチュリーはふっと意識が遠のくのを感じた。
思考が霞み、世界の輪郭が溶けていく。
そして―
「ふはは、やったぞ!」
快哉を叫ぶ。
乗っ取りは成功した。魔女の身体は、今や完全に私のものだ。
…そのはずだった。
次の瞬間、身体が鉛の塊と化したかのように重くのしかかる。
同時に、喉の奥に焼けつくような異物感が走った。
なんだ…!?
―明らかに、おかしい。
試しに立ち上がる。
身体は軋むようにぎこちなく、重心が定まらず、ふらりと揺れた。
息が詰まり、深く吸い込もうとすると、粘つくような咳が発せられた。
憑依の初期症状か…?
いや、メイドの身体では、こんなことは起きなかった。
咳き込みながら思考を巡らせる。
まさか…何らかの妨害術式か?
あり得ない話ではない。
何しろ相手は魔法使いだ。自己防衛のため、身体そのものに仕掛けを施していても不思議ではない。
そのとき、不意に気配を感じた。
「パチュリー様…!? だ、大丈夫ですか?」
白いシャツ、黒のベストにスカートといった洋装、赤髪の少女が立っていた。
頭と背には、蝙蝠を思わせる小さな翼。
―使い魔の小悪魔か。
ようやく咳が収まりかける。不審を悟られぬよう、声を整えた。
「え、ええ…少し咳が出ただけよ…」
「でも、今朝は『今日は喘息の調子がいい』と仰っていましたのに…」
小悪魔は心配そうに顔を覗き込む。
そうか…こいつ、喘息持ちか。
ようやく合点がいった。
詠唱を要する魔法使いにとって、喘息は致命的ではないか、と一瞬、疑問に思ったが
それ以上に、「今日は調子がいい」という言葉が胸に引っかかった。
調子が良くて、この体調、なのか…?
ともかく、今は一人になりたい。
適当な理由をつけて、追い払うことにする。
「…もう大丈夫よ。小悪魔、貴方は業務に戻りなさい」
そう言った瞬間、小悪魔の表情に、わずかに違和感を覚えた。
目を細めて、じっとこちらを見つめている。
まずったか…?
一瞬、言葉を誤ったかと肝が冷える。
「…はい、承知いたしました。では、これで失礼します」
小悪魔はそう言って、静かに書斎を後にした。
一人になった私は、先ほどの反応を反芻する。
呼び方…か?
他に不自然な点はない。思い当たるのは、それだけだった。
小悪魔が紅魔館では「こあ」という愛称で呼ばれていることなど、瑞霊が知る由もなかった。
◆
―私はどうすべきか考えた。
そして、導き出した結論は一つ。
「この身体は、弱すぎる…早急に別の身体へ移らなければ」
復讐どころの話ではない。
このままでは、この貧弱な魔法使いの肉体ごと、あっさりと二度目の死を迎えかねない。
別の存在に憑依するには、今の私の力では飲み物を媒介とする必要がある。
この館に棲まう他の主な妖怪は、次の通りだ。
紅魔館の当主、レミリア・スカーレット。
その妹で、滅多に姿を現さないというフランドール・スカーレット。
そして、門番の紅美鈴。
できることなら、強力な吸血鬼のどちらかに乗り移り、その魔力を根こそぎ吸い上げたい。
―だが、その力ゆえに油断はできない。
万が一、正体を見破られれば、計画はそこで終わる。
それに比べれば、門番という職務にありながら、居眠りをしていたあの間抜けそうな女ならば、憑依は容易い。
今は憑依先の移動が最重要。確実性が一番大事だ。
「よし…門番に飲み物を飲ませ、この身体とはおさらばだ」
私は、静かに決意を固めた。
◆
一体、どれほどの時間が経ったのだろうか。
私はこの重たく感じる身体を引き摺り、正門を目指して歩いていた。
だが、未だ地下の図書館を出て、上階にすら辿り着けていなかった。
とにかく、身体がだるい。
喉の奥に常駐する異物感―喘息は、動くたびに不快さを増していく。
厄介なのは、わずかに身体を動かしただけで息が切れるくせに、口呼吸をすれば荒れきった気管支を刺激し、
発作と喘鳴が起こり、それがさらに体力を奪うという悪循環だった。
無理に進めば、確実に悪化する。ゆっくりと身体を動かし、息を整え、少しずつ前へ出る―
それが唯一の正解だと、ようやく悟る。
壁に手をつき、亀の如き遅さで歩み、進む。
すると、次第にじわじわと何とも言えない思いが胸に溜まっていった。
―私は一体、何をしているんだ…?
そんな疑問が浮かぶ。
同時に、この身体の持ち主―パチュリー・ノーレッジへと、
文句の一つも言いたくなってきた。
「少しは身体を鍛えろよ…!」
思わず声に出てしまう。
いくら貧弱だと言っても、限度というものがあるだろう。
喘息持ちに激しい運動は禁物だとしても、
せめて健康維持のための軽めのジョギングくらい、やれなかったのか。
…だが、冷静になって考えれば、こいつはこの不自由な身体で日々を生きてきたのだ。
好き好んで虚弱になる奴など居るはずもない。
妖怪に同情など抱くつもりは毛頭なかったが、それでも一瞬、わずかな哀れみが胸をよぎった。
―瑞霊は、単純にして致命的な誤りを犯していた。
パチュリーは普段、屋内だろうと、ある程度の距離を移動する際は魔法で宙を浮いて移動していたのだ。
当然、息切れして壁に縋るなどということはない。
屋内は歩くものだ。
地に足をつけて進むのが当たり前だ―そう信じ込んでいた。
長年、怨霊として漂っていた瑞霊にとって、久方ぶりに得た「実体ある身体」は、
歩くもの、踏みしめるもの、という固定観念に縛られていた。
魔法で浮いて移動する。
あまりにも単純な発想が、瑞霊の思考には浮かばなかったのだ。
◆
私の心境は、もはや崑崙山の山頂を目指す修験者に等しかった。
長い階段を登り切り、ようやく地上階に辿り着いたときには、
感動のあまり、この世に授かった生に―既に死んでいる身ではあるが―感謝を捧げそうになったほどだ。
…が、はっとして頭を振る。
まだ正門までの道のりは長い。ここで立ち止まっている場合ではない。
壁に手をつき、よろめきながら、ごほごほと咳を漏らし
生まれたての鹿のような足取りで進む私の姿は、さすがに異様に映ったのだろう。
すれ違うメイド妖精たちは、丁寧に頭を下げながらも、どこか訝しげな視線を向けてくる。
―だが、私はもはや、そんな些事を気にかける余裕を失っていた。
◆
赤い絨毯が敷き詰められた廊下を、ふらふらと歩いていると、正面から一人の少女が現れた。
青みがかった銀髪。
紅い瞳。
背に生えた、蝙蝠の翼。
―間違いない。
レミリア・スカーレットだ。
緊張が、背筋を走る。こちらに気づいたレミリアが、声をかけてきた。
「あら、パチェ。どうしたの、そんなふらふらになって」
わずかに心配そうな表情で、覗き込んでくる。
ここは自然に受け答えし、やり過ごさなければならない。
「ちょっと疲れただけよ、大丈夫。ありがとう、レ…」
名を呼ぼうとしたその瞬間、強烈な自制心が働いた。
迂闊に名前を呼んではダメだ…!
レミリアは、この魔法使いを「パチェ」と愛称で呼んだ。親友同士なのだろう。
ならば当然、こちらからの呼び方にも特別な距離感があるはずだ。
小悪魔への呼び名は、主従関係ゆえに深く追及されなかった。
だが、レミリアは違う。下手をすると怪しまれ、露呈してしまう。
「ごほ…ごほ…」
わざと咳き込み、言いかけた名前を濁す。
「そう? ならいいけど…無理はしちゃだめよ」
そう言い残し、名残惜しそうに一度こちらを振り返ってから、反対側の廊下へと歩み去っていった。
―危なかった。
胸を撫で下ろしながらも、咄嗟に気づけた自分自身を、心の中で褒めてやった。
さあ、長い道のりも、あと少しだ。
◆
私は一旦、厨房へと立ち寄った。
湯を沸かし、紅茶を煎れ、香りが立つのを待ってから、手近な水筒に注ぎ入れる。
紅茶を水筒に入れるなど邪道だろうし、本来であれば、トレイにポットとティーカップを用意すべきだろう。
だが、そんな代物を持って正門まで歩き切れる自信は、微塵もなかった。
極端な話、飲み物であれば何でもいいので、ただの水でもよかった。
この魔法使いは、当主レミリアの友人だ。であれば、門番よりも立場は上だろう。
もし飲ませるに当たって、門番が難色を示すのなら、「私のお茶が飲めないのか」と迫ってやればよい。
何かとうるさいこのご時世、アルハラ…もとい、お茶ハラ(?)に該当するだろうが、
紅魔館のコンプライアンス事情など知ったことではない。
メイド妖精に指示して用意させ、紅茶に身を移し、そのまま運ばせるという手もあった。
だが、道中で零される可能性や、何らかの事故が起きる懸念を思えば、他人任せにはできなかった。
何より、この一連の行動を、自分の手で成し遂げねば意味がない。
そして、長く、果てしなく感じられた旅路の末。
ついに、エントランスホールへと辿り着いた。
「…やった…」
わずかな窓から差し込む陽光が、今では神々しい祝福の光のように見えた。
得も言われぬ達成感が胸を満たし、思わず天を仰ぎたくなった。
遂に、ここまで来たんだ…!
―その時だった。
「パチュリー様!」
背後から、小悪魔の声が飛んできた。反射的に振り向く。
「どうされたんですか!?ものすごく体調が悪そうじゃないですか…!」
心配を通り越し、どこか悲痛さすら滲んだ表情で見つめられる。
ここに至るまで、ほとんど限界まで体力を使い果たしていた。
その結果、傍目には重病人同然の有様に映っていたのだろう。
「わ、私は…だ、大丈夫だから…」
そう言った直後、ごほ、ごほ、と咳が込み上げ、喘鳴が喉を震わせる。
「全然大丈夫じゃないです!自室で安静にしていないと!」
そう言うや否や、小悪魔は私の身体をひょいと抱え上げた。
いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。
「…?パチュリー様、また少し太りました?」
小悪魔が首を傾げる。
「失礼ね!太ってないわよ!」
反射的に口に出ていた。
―なんだ?
まったくの無意識だった。いや、意志に反して、と言っていいかも知れない。
勝手に口が動いたのだ。
―まさか、この身体の持ち主の極めて強い意志が、一瞬、私の憑依支配をも乗り越えて声を出させたのか?
いや、そんな事は今はどうでもいい。
「さあ、ベッドまでお運びします。ゆっくり休んでください」
そう言うと、せっかく辿った道を逆戻りしていく。
―だめだ。やめろ。
あれだけ苦労して、ようやくここまで来たんだぞ。
ふざけるな。
「ちょっと…!私は大丈夫だから!離しなさい!」
まるで駄々をこねる子供のように暴れ、近くの窓のカーテンを掴む。
―絶対に離さないぞ。これまでの努力を無に帰させてなるものか。
「何わがまま言ってるんですか!大人しくしていてください!」
だが、その手はあまりにも力が弱く、あっさりと引き剥がされる。
小悪魔は足取りも軽く、地下へと続く階段を下りていった。
―待ってくれ。やめてくれ。
お前には慈悲というものがないのか、この悪魔め。
…ああ、こいつは悪魔だったか。
程なくして、私は地下図書館まで強制送還され、自室のベッドに寝かされた。
小悪魔は「絶対安静ですよ」と念を押して退室した。
「…畜生…」
思わず、声が漏れた。
―よく考えたら、手元に紅茶が入った水筒があるのだから、
いっそのこと小悪魔に飲ませて憑依すればよかったのでは…と今になって気づいた。
が、もう後の祭りだった。
◆
―ベッドに横たわりながら、私は思考を巡らせた。
そして、ひとつの結論に辿り着く。
「…何も、自分の足で行く必要はない」
目立つ書斎まで移動し、この身体の魔力を限界ぎりぎりまで吸い尽くし、昏睡状態に陥らせる。
周囲の者に異変を気取らせ、介抱させればいい。
咲夜が持ってきたコーヒーを、意味ありげにデスクへこぼし、机に突っ伏せば尚よい。
そうなれば、どう見えるか。
―毒を盛られて昏倒したように映るだろう。
となれば、あの忌々しい博麗の巫女も、捜査のために必ずやって来る。
時間の経過とともに、この身体―パチュリーが意識を取り戻し、自由に動き回る。
おそらくレミリアや霊夢と合流し、関係者を集め、十六夜咲夜を犯人として名指しするだろう。
咲夜はどこかに軟禁され、一時的に警戒態勢は緩む。
その段になって、改めて身体の支配権を奪い返し、美鈴に近づき、飲み物へと移り、憑依する。
―完璧な計画だ。
…いや、むしろ、なぜ最初に思いつかなかったのか。
この身体が、あまりにも脆弱すぎた。その衝撃が強烈過ぎて、頭の中が飽和状態となり、
まともな思考ができていなかったのだ。
「ふふふ…今に見ていろ」
私はゆっくりと身を起こし、書斎へと向かった。
◆
―その後、私は首尾よく妖怪たちへの憑依を繰り返し、幻想郷を文字通り、好き放題に引っ掻き回した。
一度は捕縛されたが、それでもなお抜け出し、そして―最終的に博麗霊夢と対決し…結果として、敗れた。
霊夢は、私を調伏することを選ばなかった。
代わりに、幻想郷の住人として受け入れるという判断を下した。
ただし条件がある。起こした異変のケジメをつける―すなわち、被害者たちへの謝罪行脚だ。
そうして私は、再びこの洋館の前へと立っていた。
◆
―紅魔館の正門前。
傍らには博麗霊夢がいる。
「さあ、ちゃんと謝罪するのよ」
まるで問題児を連れてきた保護者のような口ぶりだ。
「分かってるよ…」
私は渋々、頷いた。
正門の脇には、紅美鈴が壁にもたれかかっていた。
―いや、よく見ると、頭がこくり、こくりと揺れている。
…眠っている。
そういえば、最初に紅魔館に侵入した時も眠っていた。とんでもない門番だ。
霊夢は美鈴の前まで歩み寄った。
「ちょっと、起きなさいよ」
声をかけても、反応はない。頬をぺちぺちと軽く叩いても、なお起きない。
―こいつ、相当な大物だな。
呆れを通り越して、少し感心してしまった。
霊夢は一瞬考え込み、そして、ふっと悪戯っぽく笑った。
すう、と息を吸い込む。
「起きなさい、美鈴!またナイフの餌食になりたいの!?」
それは、人間のメイド―十六夜咲夜の声に似ていた。どうやら声真似らしい。
…意外と、上手かった。
美鈴はびくりと跳ね起きた。
「す、すみません咲夜さん!ナイフは勘弁し―て…?」
目の前にいる霊夢を見て、ぽかんとした表情を浮かべる。
「相変わらずね…」
霊夢は苦笑した。
◆
「なるほど…反省して幻想郷で暮らしていくので、謝罪しに来た、と」
美鈴はそうまとめ、得心したように頷いた。
「そういうこと。―で、アンタも被害者だったわよね。だったら…瑞霊」
霊夢が振り返り、私をじっと見つめる。
私は小さくため息をつき、一歩前に―足はないが―出た。
「あー…その…すまなかった」
そう言って、頭を下げる。
「もうちょっと誠意を―」
霊夢が口を挟みかけたが、美鈴がそれを遮る。
「ふふ…いえ、今ので十分ですよ」
美鈴が穏やかに言った。
「瑞霊さん…でしたね。謝罪、たしかに受け取りました。
これで、お互いもう恨みっこ無しです。これからは、よろしくお願いしますね」
そう言って、にこやかに手を差し出す。
私は少し戸惑いながらも、その手を取った。固く、握手を交わす。
ふと、これまでの自分の行いが走馬灯のように、頭の中を過った。
妖怪と共存しようという博麗神社の思惑を阻止するため、妖怪を装って人間を襲い、自ら手を汚した。
結果、反発する妖怪たちによって私は惨殺され、怨霊となってからも先代の博麗の巫女によって封印された。
今思えば、私の行いは到底擁護できるものではない。この復讐劇が単なる逆恨みでしか無いという自覚もあった。
―もう恨みっこ無し、か。
ふっと笑う。恨みの塊だった自分が、その言葉を受け入れることになるとは。
まだわずかに残っていた胸の奥の澱が、洗われた気がした。
霊夢は握手を交わすその様子を、横で静かに微笑んで見ていた。
その視線が何となく癪に障った…が、
そう感じたのは、私の無意識による照れ隠しかもしれない。
「まあ、ただ…」
美鈴は頬をぽり、と掻く。
「もう一人の被害者であるパチュリー様は…たぶん、あまり根に持たないと思いますけど。
そのご友人のレミリアお嬢様や、妹様、咲夜さんは…」
言葉尻を濁す。
霊夢は、私の肩を勢いよく叩いた。
「ま、そこは―頑張りなさい」
「…はぁ…」
私は深くため息をついた。少々、荒っぽい展開になりそうだ。
ふと、あの虚弱な魔法使いの姿が脳裏をよぎる。
―あいつは、喘息と弱い身体を抱えながら、今日も本でも読んでいるのだろうか。
◆
―紅魔館の図書館。
書斎で本を読んでいたパチュリーのもとへ、小悪魔が来客を告げた。
「パチュリー様。宮出口瑞霊が、異変の謝罪に、霊夢さんと共にお越しになりました」
本の頁を捲ろうとした手が、ふと止まる。
「…ああ、そう」
呟くと、止まっていた手が再び動き出す。視線は、終始本に落とされたままだ。
「お会いにならないのですか?」
小悪魔が首を傾げる。
「思うところがないわけじゃないけど…別に後遺症もないし。
それに、読書の時間を邪魔されたくないの」
頁を捲る、乾いた音。
「ふむ~、そんなものなんですね」
「それに…レミィたちが黙っていないでしょう。きっと、私の分も―」
そう言いかけた、その瞬間。
―轟音。
図書館全体が揺れ、天井から埃が舞い落ちる。
パチュリーは天井を指差し、にやりと笑いながら言った。
「…ほらね」
◆
―立ち込める埃。崩れ落ちる壁。
私は、フランドールの強烈な一撃を受け、崩れた壁を背に、ゆっくりと立ち上がった。
そして、口元に笑みを浮かべる。
「…なるほどね」
―頭を下げて謝るより、こっちの方が、ずっと分かりやすい。
傍らでは、レミリアが腕を組み、愉しげに眺めている。
その横に咲夜が控え、霊夢は肩をすくめ、呆れたように息をついた。
私は巨大な手枷を振りかぶった。余裕たっぷりの笑みを浮かべた、金髪の幼い吸血鬼へと突進する。
―今日は、どうやら長い一日になりそうだった。
瑞霊のキャラがよく出ていて、とても面白かったです!
中身瑞霊なんで知識も無い、体力も無い紫もやしが可愛かったです
かなりの尺を取って描写されるパチュリーの脆弱っぷりに笑いました
これから謝罪行脚が始まる絶望感もよかったです