「では、この登山届にご記帳ください」
名簿が差し出された。
私は言われるがままに、藤原妹紅、と名前を綴る。
意識していなかったが、千三百年の時が経っても、私は同じ苗字を名乗り続けている。我ながら殊勝なものだな、とため息が出そうになる。
「何なの? 登山届って」
そう問いかけると、東風谷早苗は何だか得意げに語り始めた。
「外の世界だと遭難したときのため、山に入る人間の情報を書かせるのです」
へぇ、と相槌を打ちながら、誕生日だとか名前以外の必要項目も記入していく。もちろん誕生日だとかは覚えていないので、書いている内容は適当だ。
妖怪の山の麓に設置されたロープウェイ用の小屋の中は暖かかったが、外は秋にしても少し寒かった。ここまで来るまでに冷えていたのか、筆を握る手が少しかじかんでいる。
私は登山届とやらを書き終えると、筆を置いた。
「みんなロープウェイで登るんだろう? 遭難することなんてあるのか」
「ないですね。だからこの登山届は外の世界のものと違い、無断で山に入る者を抑止するとか、トラブルが起きた後に身元を照会するためのものです。天狗たちの希望でやってます」
本当はもっとルートとか行動予定とか書きますし、便宜登山届と呼んでるだけで、全然別物ですね。そう早苗は続けた。
なるほど。登山届とやらは、天狗がロープウェイを認める条件の一つなのだろう。
実効性は怪しいが、ポーズとしては十分だ。利権は欲しいが、面子のためにも注文を付けたかったのではなかろうか。
「まだ朝早いから、他のお客さんは来そうもないですね……とはいえ待たせるのも悪いので、動かしちゃいましょうか。貸切ですね」
「ふぅん……」
一人きりのロープウェイに乗る自分を想像した。山間を見下ろしながら、ほんの数分で山頂に辿り着く。
すると何だか、乗る気がすっかり失せてしまった。
「……ごめん、やっぱいいや。私一人のために動かしてもらうのも悪いし。歩いて行くよ」
目的は山頂に着くことではなく、山に登ることだ。徒歩でもロープウェイでもどちらでも良かった。
ただ何となく、徒歩では不義理な気がした。それが誰に対する不義理かもわからない。本当に何となくであり、早苗がダメと言うなら大人しくロープウェイに乗るつもりだった。
「ええっ、危ないですよ!野良妖怪に襲われるかもしれないし、死んだら……」
そこまで言いかけて、早苗は「まあいいか」と急に落ち着いた。
「妹紅さん、死なないんですもんね。じゃあ大丈夫です。登山届には記入してますから、天狗も文句は言わないでしょうし……まあ遠巻きに監視はしてるかもですが」
私は何だか力が抜けてしまった。この娘も、大概に常識に囚われなくなっているなぁ、と成長を感じる。いや、適応と言うべきか。
「天狗の本拠地は北側の中腹にあるので、そちらに向かわなければ大丈夫と思います」と早苗は続けた。
「ありがとう」
小さく手を挙げて、私は小屋から出ようとする。
戸に手をかけたところで、早苗が背中越しに声をかけてきた。
「そういえば、どうして妖怪の山に?」
私は立ち止まった。
理由はある。しかしそれは説明するのは難しい。私自身、よくわかっていない。
「……山があるなら、登るんじゃない?」
「あー、そこに山があるから! ってやつですね」
「まあ……そんな感じ」
つまらないボケをしたような気分になり、少し気恥ずかしくなってきた。誤魔化すように、そそくさと外に出る。
小屋の扉を閉めると、ちょうど風が吹いた。秋の風だ。
「冷えるなぁ……」
山は一回り季節が巡るのが早い。妖怪の山を見上げれば、上の方は冠雪していた。頂上まで登るのは難しいだろう。雪山は装備なしに登れるようなものではない。
そもそも、どこまで登るかも決めていないのだが。
妖怪の山は紅葉を迎えていた。頂上の方は森林限界を超えているので寂しいものだが、麓から中腹にかけては、草木が生い茂っている。
ハウチワカエデが真っ赤に染まっている。ロープウェイの上から見下ろすのも良いだろうが、紅葉の真っ只中を歩くのも悪くない。むしろ得した気分だ。
「紅葉狩りする気はなかったんだけどな」
索道を除けば妖怪の山に人間が立ち入ることはないため、整備された登山道などない。ほとんど獣道に近い道を突き進んでいく。
空を飛ぶこともできたが、今日は歩きたい気分だった。そもそも不死鳥を背に飛んだら、散った火の粉で山火事になるかもしれない。
一歩一歩を踏み締めて、淡々と進んでいく。
私は散歩が好きだ。歩いていると、家に引きこもっているときより、思考が回る気がする。適度に身体を動かすことで、血が全身に巡り、脳にも血が行くのだろう。
頭の中がクリアになって行くと同時に、「どうして妖怪の山に?」という早苗の言葉が思い出される。
自分の中でも、理由が明確な形になっていない。
それに長い話になるので、どの道あの場では説明できなかっただろう。妖怪の山に来た理由を整理しようとすると、まずは私の過去を——蓬莱の薬を口にしたあの日について——思い返す必要がある。
輝夜は蓬莱の薬を残して帝の元を去った。しかし帝は「彼女のいない不老不死に何の価値がある」と部下である岩笠に、蓬莱の薬を富士山の火口で処分するよう命じた。
ここまでは童話のかぐや姫と全く一緒だ。
父を侮辱した輝夜に復讐するため、せめて奴が残したものを奪うことで嫌がらせをしたいと考え、私は岩笠一行を尾行した。
しかし富士山に登るのは過酷だった。私は山登りに疲れ、その場に座り込んでしまった。
彼らは優しかった。
事情を無理に問い詰めることはせず、疲労した私に水と食べ物を分けあたてくれた。そして一人で帰すわけにもいかないと、一行に迎え入れてくれた。
全てが狂ったのは、木花咲耶姫が現れてからだ。
彼女は突如目の前に現れた。美しいが、同時に底知れない恐ろしさがあった。私は呼吸のやり方を忘れ、立ち尽くすことしかできなかった。
そして彼らに「お前たちが運んでいる壺は、不死の薬である」「そんなものをこの山に捨てるな」と告げた。
岩笠だけは壺の正体を知らされていたのか、周りと比べれば幾分か落ち着いていた。そして「これは帝の命である」と拒否した。そうすると木花咲耶姫は消えた。
その晩は妙な雰囲気だった。
運んでいたものがとんでもない代物であると知った彼らは、誰と言うわけではなく、二人以上で壺を見張り、代わる代わる睡眠をとった。
誰が裏切るか、わかったものではないからだ。不死の力を欲しがるかはともかく、高く売れるに決まっている。
「おっと」
過去を思い返すのに集中しすぎて、足元が疎かになっていた。木の根に足を取られて、転びそうになった。
足を捻っていないのを確認して、再び山を登り始めた。
相変わらず真っ赤に染まった紅葉が続いている。
赤——そう、あの日も一面の赤だった。
木花咲耶姫が現れた日の翌朝。
起きると、そこは血の海だった。兵士たちは皆殺しになっていた。残っていたのは私と岩笠だけであった。
私は非現実的な光景を目の前に、ただ小さくなって震えることしかできなかった。
再び現れた木花咲耶姫は、「貴方たちが眠っている間に、彼らは不死の薬をめぐって殺し合いを始めたのだ」「こんなものをこの霊山の火口に捨てるのはやめろ」と言った。
けれど死体の様子は尋常ではなく、中には焼き爛れたものすらあった。人間同士が殺し合った結果には見えなかった。
岩笠が「ではどうすれば良いのか」と問うと、彼女は八ヶ岳に捨てるよう勧めた。八ヶ岳はかつて富士山よりも高かった山であり、月に最も近い場所に捨てろという帝の命令にもそぐうものだと言う。
私と岩笠は、富士山を降り始めた。二人とも疲労困憊のうえ、先ほどの惨状を目の当たりにしてショックを受けていたから、一言も交わさなかった。大きな壺を一人で背負う岩笠の後ろをついていく。
疲労と惨劇のショックで朦朧とする意識の中、ふと自分の目的はこの壺を奪うことだったのを思い出した。
どうしてそんなことをしたのか、今となってはわからない。魔が差した、と言うのだろうか。
何か耳の辺りが綿のようなもので覆われるような、何か小さい穴の空いた布を被って遠くを見ているような、不思議な感覚にとらわれたことを覚えている。
私は衝動的に壺を奪い取り、彼を突き飛ばした。坂を転げ落ちて動かなくなった彼を見て、ようやく自分がとんでもないことをしたのを自覚し、一気に血の気が失せていった。
そこから先のことはよく覚えていない。この身体になったということは、薬を口にしたのだろう。
これが私の罪の顛末だ。
「……馬鹿な子供だ」
思わず、吐き捨てるような独り声が漏れる。
吸血鬼が月にロケットを飛ばした頃、私は慧音にこの話をした。すると慧音は妖怪の山こそが、富士山よりも高かった頃の八ヶ岳だと教えてくれた。これが因果か、と思った。罪はどこまでも付いて回る。
それを聞いた私は、いつか妖怪の山に登ろうと思った。そして八ヶ岳を御神体にする石長比売に、千三百年も登頂が遅れたことや岩笠を殺めたことを謝りたいと。
そして先の異変が起きた。といっても異変が起きたこと自体私は気づいていなかった。同じ毎日が繰り返されていたらしいのだが、元より永劫の無聊を持て余す蓬莱人の身であれば、尚更気付きようもない。
その異変の中で、石長比売——磐長阿梨夜と名乗っているらしい——が現れたという話を、鈴仙ちゃんとの世間話の中で知った(彼女は魔理沙から聞いたとのこと)。
ここにきて石長比売に会いに行く話が、急に現実味を帯びてきたのだ。
そうなると慧音の話を聞いた際の、ぼんやりとした石長比売に謝りたいという想いについて、冷静に考えることになる。
彼女からすれば、蓬莱の薬を八ヶ岳に捨てようとしたことも知らないだろうし、むしろ木花咲耶姫と同様に嫌がったかもしれない。ましてや岩笠の死など、彼女の知ったことではないだろう。
謝られたところで、彼女とて迷惑なだけかもしれない。
石長比売に会いたいという願いは、具体性を帯びたことで、かえって目的がよくわからなくなってしまった。
それでも私は、彼女に会ってみたいような気がした。一度の思いつきを、捨てられずにいた。
私は一体、何がしたいのだろう。
「ふーッ……」
長く息を吐く。白い呼気が、山の空気に溶けていく。
思索を重ねる内に、結構な距離を登ってきた。とはいえ、相変わらず山頂は遥か先だ。
それから更に歩き続けると、少し開けた場所に出た。小高い丘になっている。丘の頂上には、誂えたかのように切り株があった。
「……休憩だな」
私は丘の上に登り、切り株に腰掛けた。そして笹に包まれたおにぎりを取り出す。慧音が今朝作ってくれたものだ。
少々大きく、塩っけが強い。彼女が作るおにぎりはいつもそうだ。
おにぎりを頬張りながら、また自問する。
自分が何をしたいのかは、相変わらずわからない。石長比売に会いたいのかすら曖昧だ。
何故なら私は、彼女がどこにいるのかすら知らない。
本気で彼女に会ってみたいのであれば、居場所を魔理沙なりに確認してから訪れるべきだったろう。そうしなかったのは、本気で石長比売にまみえたいと思っていないからだ。
でも、ただ一つだけ確かなことがある。
私は岩笠を殺めてしまったことを————
「あっ」
考え事をしながら食べていたら、おにぎりの最後の一つが、手から転げ落ちた。
おにぎりは小さい丘を転がっていく。私は立ち上がって、おにぎりを追いかけるが、おにぎりはどんどん転がっていく。
まるでおとぎ話のおむすびころりんのようじゃないか、と思った瞬間、足がもつれて転んでしまった。地面が眼前に迫り、目を瞑る。
しかし激突は訪れず、代わりに沼に飛び込んだような感触に包まれる。
あたりは真っ暗になり、やがて自分を遠くから見下ろしているかのように、頭がぼうっとしていく。
そして私は意識を手放した。
冷たい石の感触を、頬で感じ取る。どこかに倒れ込んでいるようだ。
誰かの話し声が聞こえてきて、段々と意識がハッキリとしていく。
「……うん、うん。謎かけを出したいから自分のところを通して欲しかった?そ、そう……ごめんなさいね。代わりに今度ユイと一緒に付き合ってあげるから。うん。もちろん本当よ。じゃあまたね」
私は冷たい地面に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
不思議な場所だった。周囲の地面は石畳でできているのだが、ある程度遠くなると暗闇に飲まれて何も見えない。四方は無限に暗闇が広がっていた。
そんな謎の空間に、古びた神社が建っている。
「良く来たな、人の子よ」
鳥居を挟んで、一人の少女が立っている。
仮面をつけており、恐竜の骨のようなものを身に纏っている。
「……カッコつけなくて良いよ。さっきの会話聞こえてたから」
「あらそう」
コホン、と彼女はわざとらしく咳をした。
「アンタが石長比売か」
「ええ。ここでは磐永阿梨夜と名乗っているわ」
石長比売は古い神だ。歴史の長そうな神社を見た瞬間に、そうだろうと察しはついていた。
「アンタがここに招いてくれたのか。何故私をここに?」
「おかしな質問ね。貴女がここに来たがっていたからそうなっただけよ。私が何かを望むことなど……」
ない、と言い切ろうとしたようだが、彼女はふと何かを思い当たる節があったのか、途中でやめた。そして「あんまりないわね」と言い直した。
「ともかく、私が招いたわけではない。異界への扉は常に開いている。ただ私が拒絶しなかっただけ」
おむすびころりんも神隠しの亜種だ。たまたま異界の穴に落ちてしまうということは、そう珍しい話ではないのだろう。ましてやこの幻想郷では。
ここが彼女の社ということは、魔理沙たちもここに来たのだろう。
「迎え入れてくれたのはありがたいが、私がアンタを害する不届者の可能性もあったんじゃないか?」
「私を? それは無理よ」
首筋がぞくりと冷え、肌が粟立つ。
自分は思い違いをしていた。
「私は不変を体現するもの。不変を傷つけることなど、何人たりともできない」
これは、本来人間が対等に話して良い存在ではない。
仮面の穴から、本来見える筈の瞳が見えない。暗く深い漆黒があるばかりで、仮面の下に深淵が広がっているようだった。
「最初の問いに戻りましょう。何故自分をここに、では不正確だ。何故自分はここへ来たかったのか、が正しい問いよ」
最初、誰かと会話していたときのような親しみやすさは、いつの間にか消え失せていた。
回りくどいのに核心を突いているような言霊、目の前にいるのは一人の少女のはずなのに、眼前に山が聳えているような、ここにいないようでどこにでも偏在するかのような感覚。紛れもなく高い神格と相対したときのものだ。
木花咲耶姫と出会ったときの、あの圧倒される存在感を思い出す。出会ってはいけないものと出会ってしまったと、脳髄が警鐘を鳴らす。
「何故私はここへ来ただと?」
だが、こちらも伊達に長く生きているわけではない。幸い敵意はないようなので、逃げろと叫び出す本能を抑え込み、恐怖は滲ませずに、芯のある声を出す。
自分の声が暗闇に反響する。
「その通りよ。自分がここに来た理由は、自分の内側にあるはず」
「……本当は、蓬莱の薬はここに、八ヶ岳に捨てるべきだったはずなのに、そうせず私が口にしてしまった」
また暗闇に声が反響する。まるで頭蓋の内側で、自分の声がぐるぐる回っているようだった。
どこまで暗闇が広がっているかわからず、自分の足元が存在しないのではないかという感覚に襲われる。
菫子から聞いた、五感を断つ部屋の話を思い出した。音を吸収する壁でできた、光が全く入らない暗闇の部屋。そこにいると、一時間程度で人は発狂し、幻覚を鮮明に見るという。
「それは木花咲耶姫が勝手に言ったこと。私は気にしていないし、お前の想いの核心でもない」
「私が岩笠を殺めたのは……木花咲耶姫に操られてやったことか?」
「そうだったかもしれないし、そうでないかもしれない。確かに彼女はそういうことをしそうだったし、できただろうが、今となっては知るよしもない」
彼女は石の女神、不変を司る女神だ。変化が起きないということは、何もないということ——がらんどうということだ。
言葉を投げかけても、ただ反響するだけ。そこに彼女の意思は介在しない。山に話しかけても、ただ山彦が返事をするだけだ。
彼女がどういう存在なのか、否応なく理解させられる。
「人を殺めたことを懺悔しにきた?」
頭の中で懺悔という言葉を咀嚼しようとするが、しっくり来ない。
石長比売に会いにきたのは、岩笠の罪に端を発しているのは確かだ。でも懺悔がしたかったわけではないように思う。
懺悔するにしても、石長比売に向かって懺悔する理由は見当たらない。
「……懺悔なら千三百年あまりの間、繰り返してきた。今更誰かに聞いてもらいたいとは思わない」
特に初めの三百年の間は、不老不死になってしまったことと、殺人の罪悪感に苦しみ、虚無の時間を過ごした。
それ以降も、岩笠を殺した罪を忘れたことはない。
懺悔がしたいだけだったら、そのために有り余るだけの時間があった。
「殺人の咎を裁かれたいのか?」
しばらく考えてみるが、それも腑に落ちなかった。
「一体……誰が私を裁いてくれるんだ?」
裁きは所詮、社会や宗教の中にあるものだ。
理の外にいる私を、何の理が裁いてくれるのか。私を裁くのはいつの時代の法律や道徳なのだろう。
長い年月のなかで、規範はうつろいゆくものだと、この目で見てきてしまった。
今更形だけの裁きで、自分が赦されるとは到底思えなかった。
「それに妖怪なら数えきれないほど殺してきた」
「確かに人間の境が曖昧であれば、妖怪を殺めたことと、人間を殺めたことにさしたる違いはないだろう」
「長い時の中で、間接的に人間を殺してしまったこともあるかもしれない」
妖怪退治を食い扶持にしている時期もあった。その中で殺されてきた妖怪だって恨み言はあるはずだ。
それだけでなく、長い時間の中で人間に追われることや襲われることも沢山あった。明確に殺意を抱いて人を殺めたことはないが、私を追って山中に入った人間や、逃げる最中に倒した人間の中で、死んだものもいるかもしれない。
罪の懺悔が必要なら、彼らにだって懺悔するべきだろう。
「彼岸にいる彼に赦しを乞いたいのか」
「彼がいまだに彼岸にいるのなら、そうするだろう」
「でも恐らく、とっくに輪廻の輪をくぐっている」
「己の罪の精算のために、彼の気持ちを勝手に想像するのも不誠実に思う」
喋っているのか自分なのか、彼女なのか、段々わからなくなってきた。
彼我の境が薄れ、交わり合っていくような感覚に襲われる。それはどこか心地良くもあり、故に恐ろしくもあった。
「罪を赦されたいのでもない。裁かれたいのでもない」
「一生赦されたくないだけなら、これ以上何かする必要などない」
「一体何がしたいのだろう」
「彼の死は、最早ただのささくれでしかないのか」
「であれば、もう忘れてしまっても良いのではないか」
「……それは嫌だ」
暗闇の中で、様々な思考が膨らんでは消える。その中で、唯一残ったのはそれだった。
ぽつりと出た言葉だったが、それが核心に近いような気がした。
「むしろ、覚えていたい」
口にすることで、自分の感情が輪郭を得ていく。
罪の記憶を精算したいわけではない。
千三百年昔の、一日にも満たない出会いだ。彼の顔を思い出そうとしても、とっくにぼやけて像を結ばなくなっている。もっと時を重ねていけば、岩笠という名前すら、私の意識に上がってくることはなくなるかもしれない。
永劫という時に押し潰しされていく。それがとても恐ろしいことのように思う。
岩笠のことを覚えているのは、もう私しかいない。御伽話に出てくる帝の使者という記号ではなく、血の通った一人の人間としての彼を知っているのは、この地上で私だけなのだ。
自分が殺めてしまった一個の人間と、向き合い続けていきたい。
いつの間にか足元に落ちていた視線を、相対する女神に向け直す。
そして自分の得た確信を口にした。
「私は、彼を……悼みたいんだ」
石長比売は薄く微笑んだ。
「……なるほど。貴女には墓碑が必要だったのね」
墓碑。
彼女の言葉が腑に落ちる。なるほど。私に必要なのは彼の墓だった。
殺人の罪を赦されたいわけではない。彼という存在をなかったことにしたいわけでもない。
ただ、彼のことを悼みたいだけだ。
懺悔するのでもなく、忘れるのでもなく、岩笠という個人に対し、敬意を払い続けたい。
不老不死の人生を消費していく中で、そんな当たり前のことすら思いつかなかった。加害者の身である自分には、彼の墓参りをする権利などないと、頭から勘定を外していたのかもしれない。
「長い寿命は精神も価値観もすり潰していく。妖怪ですらそうなのだから、人の身である貴女なら尚更だ」
その想いを大切になさい、と彼女は続けた。
気がつけば、超然とした冷たく空っぽな女神はいなくなっていた。私がここに来たとき、誰かと話していたときのような、見た目相応の少女のような彼女に戻っていた。
いや、むしろ彼女は私のために、あえて神として振る舞ってくれただけなのかもしれない。もしそうなら、本当に優しい女神様だ。
「ここには石なら売るほどあるから、持っていくといい。彼の墓碑に相応しいものを選んであげる」
記憶も記録も、そのほとんどは儚いものだ。紙の記録は通常数百年、保存状態が良くても三千年というところだろう。
しかし石の記録は少なくとも数万年は残る。不老不死にとって、これほどありがたい話はない。
私は深く頭を下げた。
「何から何まですまないな……ありがとう」
「礼は不要よ。私はただ、妹の不始末の責任を取っただけ」
彼女はそっぽを向いてそう言った。妹の木花咲耶姫とは全然似ていない、優しい女神様だ。
「加工は請け合ってないから、もし墓碑銘がいるなら自分で刻んでちょうだい。それと私の社の宝物殿に背負子があったはずだから……」
続けざまに親切で声をかけてくれる。
何だか母親のようだ。そう思って私はくすりと笑ってしまった。
そして私は意識の薄れつつあるのを感じた。
まるで夢の中で夢と気づいて、もう目覚めるのだろうと予感するときのように。
空は夕焼けで、橙と青色のグラデーションになっていた。
おにぎりを食べていた小高い丘の上で、私は大の字になって寝そべっていた。すぐ横には、さっき座っていた切り株がある。
ひょっとして先ほどまでの石長比売との会話は、夢だったのではないだろうか。単に日が暮れるまで寝てしまっていただけではないのか。
そう思いながら上体を起こすと、近くにお地蔵様くらいの大きさの石と、小さめの背負子があった。どうやら夢だったわけではないらしい。
石を撫でると、冷たさが指を通して伝わってきた。
朝に登り始めたのに、日が沈む時間になっているということは、彼女の神域では時間の流れが違うらしい。竜宮城を引き合いに出さずとも、異界というのはそういうものだ。
もう何百年か経っていたらどうしようと、一瞬だけ空恐ろしくなったが、もしそうなら魔理沙たちも老人になっていたはずだろう。それはないと確信できた。
「あまり遅くなると、慧音が心配するな」
慧音には富士の御山で起きたことは全て話している。自分の過去と向かい合おうとする私を心配してくれて、一緒についていこうかと提案してくれたくらいだ。私が帰ってこなかったら、何か起きたのかと心配するかもしれない。それに、お弁当を持たせてくれた礼も言わなければならない。
私は立ち上がり、背負子に岩笠の墓碑となる石を乗せた。丁寧なことに背負子には縄も付いていたので、それを使って石を背負子に縛りつける。
「よっ……と」
私は墓を背負い、立ち上がった。
それほど大きくないが結構に重く、後ろに倒れそうになる。姿勢を前に傾けることで、何とかバランスを取る。
そうして私は下山を始めた。夕焼けで一層赤みが増す紅葉の山道を、一歩一歩踏みしめていく。
石の重みで肩に背負子が食い込むが、辛いというほどではない。むしろ軽いよりは余程良い。これは彼を悼むための碑なのだから。
とはいえ抱えて帰るには少々重すぎただろう。背負子があって良かった。女神の配慮に感謝だ。
墓はどこに置くべきだろうか。
迷いの竹林の、私の家からそう離れていないところに、ヤブランや彼岸花が咲いている場所がある。そこで弔うのはどうだろう。
私は岩笠が花を好きだったかどうかすら知らない。しかし誰だって花と共に弔われて、悪い気はしないのではないだろうか。
「————」
風が吹く。舞い上がった紅葉が目や口に入りそうになり、目を閉じて首を縮めた。
風が止むのを待って、私は下山を再開した。
そしてふと思った。
石と壺と、背負っているものこそ違うが、千三百年前の彼と同じように、私は山を下っている。
それを思うと不思議な気分になった。
背中を振り返ってみる。
もちろん後ろには誰もいなかった。ありし日の自分が後ろから付いてきているような気がしたが、そんなわけはない。
歩いてきた紅葉の山道があるだけだ。風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
私は自分にため息をつき、前を向いた。
そして石の重みを背中に感じながら、再び歩き始めた。
なので今作における結論、そしてそこへの持っていき方、私はこれは……ありだな……と。私には出せなかったものを見ることができるのはいいものですねまた1作、成仏できました。
面白かったです。
そして密かにいた馴子さん……
ストーリーのメインの部分ではありませんが、妹紅の中にずっと慧音は存在しているところ良かったです
不老不死の妹紅が不変を司る阿梨夜に邂逅して少しばかり変わったように見えてとてもよかったです
過去にケリをつけた訳ではないけれど、一区切りはつけられたのだと思いました
今まで読んだことがないのが嘘みたい、なお話でとても良かったです。
有難う御座いました。