Coolier - 新生・東方創想話

生きる

2026/01/11 15:04:53
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~~~~はじめに~~~~

お話の中盤に、いくつかのややこしそうな条文が出てきますが
特に身構える必要も、覚える必要もありません。

何故なら、必要なときには、登場人物が要点を引用してくれるからです。

~~~~~~~~~~~~


―紅魔館の図書館。

しんとした静寂の中に本の頁を捲る微かな音のみが響く。
知識と日陰の少女、パチュリー・ノーレッジは書斎の椅子に腰掛け、読書に耽っていた。
埃と紙の匂いの中に、僅かに紅茶の香りが漂う。

「大変です、パチュリー様!」
小悪魔が扉を乱暴に開け放ち、甲高い声を上げた。
この子がここまで取り乱すのは珍しい。
…とはいえ、読書の静謐を破られ、パチュリーはわずかに眉をひそめた。
「―この世で最も罪深い行いは、人の読書の邪魔をすることよ。静かになさい」
顔を上げぬまま、頁を捲った。
「お嬢様がお呼びです、今すぐ来てください!紅魔館が…」
そこでようやく視線を上げた。

小悪魔の顔色は蒼白で、明らかに尋常ではなかった。
その瞬間になって初めて、ただ事ではない事態が起きているのだと悟った。

 ◆

―紅魔館のエントランスホール。

内装も絨毯も紅に統一されたその広間に、豪奢な館には似つかわしくない喧騒。
玄関口で三人の人物が押し問答していた。
レミリア・スカーレット、十六夜咲夜、そして―河城にとりだ。

「―だからね、困るんだよねぇ」
「は、はぁ…」
切れ長のサングラスを掛けたにとりが、咲夜に詰め寄っていた。
レミリアは腕を組み、苦々しい表情でそれを受け止めている。

にとりの口にはタバコのようなものが咥えられていた。
よく見れば火は点いていない。どうやらタバコ型のチョコレートらしい。
一体、何の真似だというのか。

「にとりじゃない。何の用よ。―それに、そのサングラスは何よ」
パチュリーが声を掛けると、にとりは口角を吊り上げた。
「ようやく話の分かる御仁が来たようだね。紅魔館には立ち退いてもらいたいんだよ」
そう言って、手にした紙をぺしぺしと指で叩く。
…立ち退き?
「何よ、それ。どういうこと?」
「霧の湖周辺、この一帯の土地はね、もともと妖怪の山の所有だったのさ。
それをあんた達が、いつの間にか勝手に紅魔館ごと引っ越してきた」
そう言って、紙を突きつけてくる。
そこには妖怪の山が土地権利を所有していることを示す、諸々の記述が並んでいた。

「今までは見逃してきたけどさ。最近、新しい妖怪の流入が増えてね。
ここを夏のリゾート地として開発することにしたんだ。だから立ち退いてほしい」
あまりに突拍子のない話に、パチュリーはしばし言葉を失った。
土地所有?この幻想郷に、そんな概念が存在したというのか。

レミリアと咲夜の視線が、こちらに向けられている。
この事態を収められるかどうか、期待と不安がない交ぜになった眼差しだった。

「…冗談でしょう?
そもそも幻想郷には、国や自治体といった概念がないじゃない。
土地の権利なんて、誰が保証して、誰が管理するのよ。その紙を承認しているのは、一体誰?」

一気に詰め寄る。
ふざけた話だ。レミリア達を煙に巻けたとしても、私はそうはいかない。

「…そんなことも知らずに、今まで幻想郷で暮らしてきたの?」
にとりは、やれやれと言わんばかりに肩をすくめた。
そのあからさまな仕草に、パチュリーは苛立ちを覚えた。

 ◆

にとり曰く―
かつて、妖怪たちの間では、土地や資源を巡る小競り合いが絶えなかった。
全面衝突になれば幻想郷が荒廃するため、暗黙の了解として、何とか一線は保たれていた。

そこで賢者たちは、土地管理を目的に「幻想郷土地管理維持局」を設立した。
局長は賢者が務め、実務は各妖怪勢力からの出向者が担う。
土地はこの局に登記申請され、審査は各勢力の独立した審査部すべての承認を必要とした。
これにより、恣意的な申請は弾かれた。
逆に、真っ当な申請を恣意的に否決しないよう、否決の際は理由を明記し、
再回付の上、他の審査部の過半数の同意を得なければならない。

にとりが手にしていたのは、その土地管理維持局が正式に発行した
土地所有を証明する土地謄本だったのだ。

 ◆

「…そんな組織があったなんて」
パチュリーは内心で驚いていた。
この、のどかで牧歌的に見える幻想郷において、土地がかくも厳密に管理されていたとは思いもしなかったからだ。
もっとも、各審査部が相互に牽制し合う承認の仕組みそのものには、理知的な合理性を感じ、密かに感心もしていた。
欠点を挙げるとすれば、承認フローがあまりにも長いことだが―
寿命の長い妖怪たちにとっては、さしたる問題ではないのかもしれない。

「―それがどうしたというの。土地管理維持局?―そんなもの、関係ないわ」
その瞬間だった。
レミリアから放たれたおぞましい殺気に、パチュリーは思わず背筋を震わせた。
咲夜の表情にも、はっきりとした恐怖が浮かんでいる。

レミリアの右手に魔力が収束し、紅き神槍―グングニルが形を成す。
バチバチと空気を裂く音が鳴り、その圧倒的な力の奔流が、場を支配した。
「もし、紅魔館の壁に傷一つでも付けてご覧なさい。
妖怪の山とは、全面戦争も辞さない。―もし、そう言ったら、どうする?」
その双眸は、まさしく悪魔そのものだった。
冷たく鋭い視線を正面から受け、にとりの身体は明らかに震えていた。
ずれ落ちたサングラスの奥の目には、隠しようのない怯えが宿っていた。

「うぅ…」
恐怖に喉を塞がれ、言葉が出てこない。
だが、にとりはどうにか勇気をかき集め、か細く反論した。
「―そ、それは…賢明とは言えないね。
すべての妖怪勢力が、このルールに従っているって意味を…ちゃんと考えたほうがいいと思うよ」

―それは、にとりの言う通りだった。
裏取りは済んでいないが、ここまで手の込んだ話が単なる嘘八百だとは思えない。
もし事実であるならば、それはスペルカードルールに匹敵する重みを持つ制度だろう。
紅魔館ほどの勢力が、それを堂々と逸脱した場合、どのような制裁が下されるのか―

「ふ…冗談よ。言われなくても、そのくらい分かってるわ」
レミリアの手にあったグングニルは、霧のように掻き消えた。
全身から放たれていた圧倒的な力と殺気も、同時に霧散する。
ただし、その視線だけは変わらず、鋭くにとりを射抜いていた。

パチュリーはようやく胸を撫で下ろす。どうやら、咲夜も同じだったようだ。

「ん…?―少し待ってください」
咲夜が首を傾げる。
「妖怪各勢力が出向する審査部…と仰いましたね。
では、紅魔館はどうなるんですか?」
「確かにそうね。当主である私のもとに、土地審査に関する話なんて来たことがないけど」
レミリアも疑問を口にする。

「ああ、土地管理維持局に参加するには加入申請が必要なんだ。
黙ってるだけじゃ、参加はできないよ」
先ほどまでの殺気に当てられ、すっかり調子を崩していたにとりは、
ようやく持ち直したのか、ちっちっちと指を振った。

―権利はあるが、申請しなければ得られない。
そんなところまで、外の世界の役所を真似なくてもいいだろうに。

「ともかく、早く立ち退いてもらいたいんだよね。期日は一ヶ月だ。これ以上は待てない」
パチュリーは顎に手を当て、思考を巡らせた。
どうやら、これはハッタリや口先だけの話ではない。
となれば、今すぐこちらでどうこうできる類の問題ではなさそうだ。

「―百歩譲って、仮に立ち退くとしてよ。
他所の空いている土地を探して、紅魔館を転送すれば済む話なの?」
レミリアが、苦虫を噛み潰したような表情で問いかける。
「どうだろうね。この狭い幻想郷じゃ、猫の額ほどの土地も余ってないと思うよ。
最近の不動産価格高騰の煽りもあって、紅魔館ほどの広大な敷地となると、莫大な金が必要だ。
あんた達といえど、買い上げるのは難しいんじゃないかな」
にとりは、しれっと言ってのけた。

「…土地が余ってない、ですって?
外の世界の人間の都市みたいに、建物がぎっしり並んでるわけでもないでしょう」
レミリアは玄関の外へ軽く顎をしゃくった。
「外を御覧なさい。平原、山、森…どう見てもスッカスカじゃないの」
レミリアが疑問を呈する。確かにそのとおりだ。
幻想郷の土地の大部分は、何らかの施設が建っているわけでも、畑や農場があるわけでもない。

にとりは一瞬だけ黙り込み、それから小さく息を吐いた。
「まあ…一神教の国出身のレミリアたちには、分かりにくいかもしれないね。
日本はさ、八百万の神々の国なんだよ」
レミリアは怪訝そうに眉をひそめた。

にとりは床に落ちている小石を、つま先で軽く転がす。
「その辺の石ころや草木、池や川…
そういう“何もないように見えるもの”にだって、神は宿る、という考え方さ」
腰に手を当て、人差し指を立てて講義するように言った。
「幻想郷じゃ、土地は単なる“空き地”じゃない。
神威の源であり、妖怪の存在を支える基盤そのものなんだ」
にとりは続ける。
「だからね。誰かが広い土地を押さえるってことは、それだけで力を持つってことになる。
逆に言えば、空いているように見える場所ほど、むやみに触れない“誰かの領域”なんだよ」
レミリアはなおも納得がいかない様子だったが、その横で、パチュリーは静かに頷いていた。

―なるほど。
これは、単なる不動産だけの話ではない。

日本では、あらゆるものに神が宿るというアニミズム思想が根底にある。
土地そのものが信仰の対象であり、その占有は、神や妖怪の力の在り処に直結する。
だからこそ、見た目には余っていても、既に誰かしらの所有地であり、
そう簡単には手放さず、取引も厳しいものになる…ということか。

 ◆

「…守矢神社は?
守矢神社も新参者ですが、あの敷地は、どうやって確保されたのでしょうか」
咲夜が、素朴な疑問を投げかける。
「ああ、守矢神社はね。妖怪の山に対して、業務提携のプレゼンをしてくれたんだ。
お互いウィンウィンだから、格安で土地を提供してる。
ロープウェイの設営も、その一環さ」
―あの守矢神社の神々が、そこまでのビジネス感覚を持っていたとは。

「―幻想郷土地管理維持局とやらは、どこにあるの?」
「今は無名の丘だよ。あ、言っとくけど、立ち退き撤回の申し入れとかは無理だからね」
パチュリーの問いに、にとりは釘を差しつつ答える。

「…一ヶ月ね。分かったわ」
レミリアは静かに言った。
「けれど、私たちはここを離れない。ここはもう、私たちの第二の故郷なのだから。
何としてでも、貴方たちを止めてみせる」
にとりは、短く息を吐いた。
「無理だと思うけどね。ま、せいぜい頑張ってみてよ」
サングラスをくいっと持ち上げ、にとりはそのまま去っていった。
その仕草が、妙に腹立たしかった。

パチュリーは、静かに決意を固めていた。必ず、この立ち退きを撤回させてやる―と。
吸血鬼や魔女。
外の世界で人間たちに排斥され、居場所を失ってきた私たちが、
長い苦労の末にようやく見つけた安住の地なのだ。
今でも鮮明に思い出す。
そう、それは二十世紀初頭のロンドン…私は、レミリアと出会い―

「あー、パチェ?―ちょっといいかしら」
レミリアが、申し訳なさそうに声を掛けてくる。
何よ、今いいところなのよ―
「その回想、かなり長くなりそうだし、尺の問題もあるから…
今度にしてもらえないかしら?」
「…」
パチュリーは、こほんと小さく咳払いをした。

「―ともかく、まずは局長…賢者たちに会って、話を聞いてみるわ。
もしかしたら、力になってもらえるかもしれない」
「パチェ…ありがとう。
貴方には、にとりの立ち退き要請を何とか撤回できないかそのまま探ってほしい」
パチュリーは、静かに頷いた。

「咲夜…貴方には、最悪の場合を想定して動いてもらう。
本当に幻想郷に土地が余っていないのか。
もしそうなら、他の勢力から土地を買い上げる、あるいは借用できないかを調べて頂戴」
主の言葉に、咲夜は真剣な表情で頷く。
「貴方なら、紅魔館の財務状況は把握しているはずよ。
土地交渉の際は、動かせるキャッシュはすべて使っていい。私が全責任を持つわ」
「…すべて、ですか。…かしこまりました」
咲夜はレミリアの言葉にわずかに驚いた様子を見せながらも、丁寧に頭を下げる。

「一旦は二週間で区切りましょう。二週間後、それぞれのタスクの進捗を報告すること」
レミリアはそう言うと、パチュリーと咲夜を交互に見つめた。
「ふたりとも…頼んだわよ」

 ◆

―博麗神社。

博霊霊夢は境内を箒で掃き清めていた。拝殿へと続く石段には、霧雨魔理沙が腰を下ろしている。
相変わらず、参拝客の姿は一人としてなかった。

「あら、パチュリー。あんたが外出するなんて珍しいわね。今日は槍でも降るのかしら」
霊夢から失礼極まりない言葉が投げられたが、パチュリーはそれを黙殺した。
「言っとくけど、本なら返さないからな」
魔理沙が、わずかに警戒を滲ませた声で言う。

「今日は別件よ。―紫はいる?」
「あいつに用があるの?今はいないけど…大抵、不要な時には居るけど必要な時には居ないから」
箒を動かしながら、霊夢が肩越しに答えた。
「そう。仕方ないわね」

期日は一ヶ月。残された時間は少ない。手段を選り好みしている余裕は、すでに無かった。

パチュリーは右手を神社の方角へ突き出し、詠唱を始める。掌を中心に五芒星の魔法陣が展開し、
周囲の魔力が渦を巻くように収束していった。やがて、それは巨大な火球として具現化する。

突然の事態に、それを見た霊夢は箒をぱたりと取り落とした。
射線上に居た魔理沙も、息を呑んで立ち上がる。

「あ、あんた血迷ったの!?何をする気!?」
「お前…いくら本を返さないからって…!」
霊夢は慌てて御札を構え、魔理沙はミニ八卦炉を握り、パチュリーへと照準を定める。
だが、パチュリーは意に介さなかった。

「紫ー!出てきなさい!でないと博麗神社を木っ端微塵に吹っ飛ばすわよ!」
二人が今にも攻撃を放とうとした、その瞬間。
空間に、紙を裂くような亀裂が走った。

「もう…何よ。騒がしいわね」
裂け目から、八雲紫がにょきりと顔を覗かせた。
パチュリーは詠唱を中断し、火球は霧のように散逸する。

神社を破壊しかねない行為に出たパチュリーを、
霊夢は敵を威嚇する狼のような眼差しで睨み据えていたが、それには構わなかった。
魔理沙はただ呆然と、突っ立っている。

パチュリーは紫に、事情を説明した。

 ◆

「幻想郷土地管理維持局?ああ…そんなのもあったわね」
紫は、実にあっさりと言ってのけた。

―そんなのもあったわね?

「貴方、自分で組織を立ち上げておいて、存在自体忘れていたの?」
「随分前のことですから。局長が殆ど動かなくても回るよう制度設計したから、組織運営に問題は無いはずよ」
そのあまりのいい加減さに、パチュリーは苛立ちを覚えた。

「紅魔館が立ち退き、ね…それにしても、妖怪の土地にそんなルールがあったなんて…」
霊夢が、信じられないという調子で呟く。
「人間には直接関係ないことだからね。歴代の博麗の巫女には、敢えて伝えていなかったのよ」

「この事態、局長である貴方の力で、どうにかできないかしら?」
パチュリーは僅かな希望を抱きつつ尋ねる。
「うーん…気の毒だとは思うけど、自分で作った制度や規定を、自分で破るわけにはいかないわね。
今の貴方たちは、客観的に見ると『他人の土地に一晩で屋敷を建てて不法に居住している』という状態だから」
「…そう」

落胆するパチュリーに、紫は慰めるように続けた。
「ただ、あの規定は随分前に作ったきり、一度も改正していない。
今の貴方達の状況と、そぐわない部分があるかもしれない。希望があるとしたら…その穴を突くことね」
―それは、パチュリー自身も考えていた。
最悪の場合、規定を一から総ざらいするしかない、と。

「―他の局長は居るの?」
「摩多羅隠岐奈だけど…あいつに会いに行くの?多分、無駄だと思うけど。行くなら送ってあげるわよ」
そう言うと、再び空間に裂け目が生まれた。

「言っておくけど、私はもう冬眠するから…さっきみたいな無茶をしても、しばらくは出てこないからね」
紫が念を押す。

舌打ちが聞こえた。魔理沙だ。
「…局長が聞いて呆れるな」
小さな呟きだったが、紫の耳に届いていないはずはない。それでも、彼女は意にも介していない様子だった。

「紫、ありがとう」
パチュリーは紫に一礼し、霊夢に向き直った。
「―霊夢、さっきは悪かったわ。紫を呼ぶためのブラフとはいえ、博麗神社を破壊しようとしたこと…ごめんなさい」
パチュリーは、深く頭を下げた。

―紅魔館という、自分たちの居場所を奪われようとしている立場でありながら、
たとえフリであっても、霊夢の居場所である博麗神社を奪おうとする側に回ったことを、
パチュリーは心から申し訳なく思っていた。

霊夢は、ぽかんとした表情でこちらを見ていた。
―まさか、あのパチュリーが、素直に謝るなんて。

「事情が事情だしね。もういいわよ」
霊夢は、ふっと微笑んだ。

「―なあ。私で良ければ、力になるぜ」
魔理沙が、いつになく真剣な顔で言った。
「あ…いや、その…図書館が無くなったら、もう本を借りられなくなるからさ」
照れ隠しのように呟き、視線を逸らす。
「魔理沙、あんた―」
霊夢が何か言いかけたが、パチュリーはそれを遮った。
「魔理沙、ありがとう。でも、その気持ちだけで十分よ。
これはあくまで妖怪同士の問題…貴方たち人間が、立ち入るべきじゃない」
冷たく聞こえたかもしれない。だが、それは事実だった。
そして、魔理沙がそれを理解できないほど愚かでないことも、私は知っている。
「そっか…そうだよな。分かった。―お前なら、絶対何とかやれるさ」
パチュリーは、その言葉に笑顔で応えた。
―胸の奥に、じわりと、かすかな温もりが広がる。

「博麗の巫女としても、私にできることは何もない。…大変だとは思うけど…上手くいくよう、祈ってるわ」
霊夢は真剣な眼差しで見つめていた。パチュリーは力強く頷く。

そして、空間の裂け目へと身を投じた。

 ◆

―後戸の国。

何も無い、不気味な空間。そこに無数の扉だけが浮かんでいる。
音は一切なく、地平線という概念も存在しない。じっとしているだけで、
上下も前後も曖昧になり、方向感覚が少しずつ溶けていく。

―このまま無為に時間を費やすわけにはいかない。
手段を選んでいる余裕は無かった。

「隠岐奈ー!出てきなさい!でないとフランに、貴方のあることないこと吹き込むわよ!」
叫び声を放ちしばらくすると、背後から声が返ってきた。

「…まったく。そんな大声を出すから、起きてしまったじゃないか」
振り返ると、そこには車椅子に腰掛けた賢者、摩多羅隠岐奈が居た。
「私は居眠りを司る神でもあるのだよ。―貴方は、確か…紅魔館の魔女だったね。
噂はかねがね聞いている。で、何の用かな」
ふわぁ、と大きく伸びをし、欠伸までしてみせる。

…紫といい、この隠岐奈といい。どうして賢者という者たちは、こうも揃っていい加減なのか。
パチュリーは、事情を説明した。

「―幻想郷土地管理維持局?ああ、そんなのもあったね」
紫と、一語一句違わぬ言葉だった。
指先で金色の毛先を弄っている。その毛先を見つめる目は、何故か不満げに見えた。

「紅魔館が立ち退きを迫られているの。何とかならないかしら」
隠岐奈は顎に手を当てて、視線を宙に彷徨わせしばらく考え込んだ。そしてパチュリーを見つめる。
「ふむ…私は事務手続きを司る神でもあるが―制度設計は、ほとんど紫が一人で作ったものだし、
運用も職員任せだ。悪いが、私にできることは何も無いよ」
―こいつは一体、いくつの事柄を司っているのだ。
内心で苛立ちが湧き上がったが、それを表に出すことはしなかった。

「紫の言う通り、規定の穴を探すしかないだろうね」
その言葉に、パチュリーの胸は落胆に沈んだ。それを察したのか、隠岐奈は助言するように続ける。
「…助けになるかは分からないが、一つだけ教えておこう。
幻想郷土地管理維持局は、文字通り幻想郷の土地を管理する組織だ。
その点を念頭に置けば、突破口が見えてくるかもしれないね」

―何を言っているのだろう。
幻想郷の土地を管理する。あまりにも当たり前のことじゃないか。

「―どういう意味?」
「シンプルに、言葉通りの意味さ。それ以上でも、それ以下でもない」
隠岐奈は、意味ありげな微笑を浮かべて答えた。

「ところで…さっきの、『フランにあることないこと吹き込む』というのは―」
表情は相変わらず余裕に満ちていたが、その声音には、
ごく僅かに、焦りのようなものが混じっているように感じられた。

「ああ…あれは、貴方を引っ張り出すための咄嗟のブラフよ。悪かったわね」
「そうか。…まあ、それならいいんだ」
安堵したような声。
―その反応に、パチュリーは小さな疑問を抱いた。

「貴方…フランに知られたくない、やましいことでもあるの?」
「そんなことがあるわけないじゃないか。私は誠実を司る神でもあるのだよ」
そう言いながら、隠岐奈はほんの少しだけ視線を逸らした。
余裕ぶった笑みは、崩れないままだ。

「―さて。土地管理維持局へ行くんだろう?送ってあげるよ。
私ができるのは、ここまでだ」
そう言うと、眼前の空間に扉が現れ、静かに開いた。

―上手く話を切り上げられたか。
まあ、今は隠岐奈とフランの関係などに首を突っ込んでいる暇はない。
「君の頭脳なら、何とでも打開できるさ。幸運を祈っているよ」

「―ありがとう、隠岐奈」
パチュリーは短く礼を述べ、扉の向こうへと身を踏み入れた。

 ◆

―幻想郷土地管理維持局。

紅魔館を起点にして、人間の里を挟んで丁度反対側に位置する、小高い山にある無名の丘。
そこに、その建物はぽつんと存在していた。
普段は鈴蘭畑が美しいのだろうが、季節柄、今は茶色く枯れ果てている。
どの勢力圏にも属さないこの地は、すべての妖怪たちが利用する行政機関の場所として、
確かに最も相応しく思えた。

中へ足を踏み入れると、天狗や河童、その他雑多な妖怪達が受付窓口に並び、忙しなく事務をこなしている。
建物の外観及び内装ともに、外の世界の役所と驚くほど似通っていた。
待合室には多くの妖怪達が手持ち無沙汰に椅子へ腰掛け、呼び出しを待っていた。

どうやら、番号付きの整理券を受け取り、番号が呼ばれ次第、受付窓口へ向かう仕組みらしい。
整理券を受け取ると、「69番」と記されていた。
受付横に掲示されたホワイトボードには、「現在21番」と書かれている。

―つまり、あと48人分、待たなければならない。
「むきゅ~…かなり時間がかかりそうね」
思わず、情けない声が漏れた。

結局、69番が呼ばれたのは、それから約二時間後のことだった。

 ◆

「―土地に関する規定を記した、すべての書籍を閲覧したいのだけど」

長時間待たされたパチュリーの声色には、かすかな苛立ちが滲んでいた。
受付の天狗は、自分が巨大な官僚機構の歯車の一つであることに誇りと義務の両方を背負っているかのように、
機械的かつ事務的な口調と表情で応対する。

「すべての規定、ですか。資料関係は資料室にて閲覧可能です。準備いたしますので、少々お待ちください」
天狗はそう告げて席を立ち、そこからさらに二十分ほど待たされることになる。

「…」
パチュリーは苛立ちを抑えきれず、机の上を指でトントンと叩いている。

やがて、ようやく受付の天狗が戻ってくる。
「お待たせしました。ご案内いたしますのでこちらへ」

 ◆

案内された資料室のデスクには、本が山のように積み上げられていた。

「こちらになります」
その量を目にして、パチュリーは言葉を失った。
恐らく、数百冊はあるだろう。

「資料室は、16時までの開放となっております」
とてもではないが、16時までに目を通せる量ではない。
「あ…ありがとう。これを読むための部屋を、貸してもらえるかしら?」
「その場合、会議室利用申請書と資料貸出申請書の提出が必要となります」
そう言って用紙を差し出す。
「…」

パチュリーは黙って会議室利用申請書に必要事項を記入していった。
最後に、押印欄へ判子を押す。

こんなこともあろうかと、人里の職人に依頼して急遽作ってもらった判子だった。
印影には、なぜか「パチ」と彫られている。

―なぜ「パチ」なのか。
普通、姓の「ノーレッジ」ではないのか。
せめて小さい「ュ」くらい、入れられなかったのか。
これではまるで、パチモンではないか。

そんなことを考えながら、今度は資料貸出申請書の記入に移る。
「…ん?」
用紙には「貸出書籍名称」を記入する欄があり、そこには
「※欄に記入しきれない場合は、別紙一覧へ記入すること」
と注記されていた。

「これ…もしかして、書籍の名称を全部書かないといけないの?」
「もちろんです。でないと、誰が、いつ、どの書籍を借りたのか分からなくなりますから」
パチュリーは改めて、本の山を見やった。
…これを、全部?
「ちなみに、一語一句でも記入に誤りがあった場合は、最初から申請し直しとなりますのでご注意ください」
「…」
お役所仕事の極致とも言える洗礼を浴び、暗澹たる気分になる。

ふと、思いついた。
「あ、それと…本を運ぶための台車も貸してもらいたいんだけど…」
「その場合、台車貸出申請書の申請が必要となります」
「…いや、魔法で運ぶからいいわ」

―結局、申請書の準備だけで一時間を費やし、受理されて会議室を使用できるようになるまで、さらに二時間を要した。
始まる前から、すでに帰りたい気分だった。

 ◆

会議室のデスクに積まれた本の山を、パチュリーは一瞥する。

―ここからが、本当の勝負だ。

会議室と書籍は、それぞれ二週間での利用および貸出期間で申請している。
この期間内に、すべての規定を読み込み、穴を探し、突破口を見出さなければならない。

パチュリーは、最初の一冊を手に取った…。

 ◆

―それから二週間後。

パチュリーはこの間、不眠不休で規定の山と格闘していた。
デスクの上に山と積まれた本には無数の付箋が差し込まれていた。
備え付けのホワイトボードは言うまでもなく、部屋の壁、天井、果ては床に至るまで、
走り書きの英語によるメモで埋め尽くされている。
部屋の隅には、インクを使い切った何本ものマーカーが無造作に転がっていた。

その光景は、狂気の産物と呼ぶべき異様さを帯びていた。

パチュリーは床に座り込み、虚ろな眼差しで宙を見つめていた。
目の下には深い隈が刻まれ、手入れの行き届いていたはずの艶のある髪は、見る影もなく乱れている。

―すべての規定を網羅し、相互に突き合わせて精査した。
だが、さすがは天才的頭脳を持つ紫が設計した制度だけあって、結局、明確な「穴」と呼べるものは一つも見つからなかった。

通常、この手の規定は、現場での実際的な運用を想定し、ある程度の解釈の余地を残すものだ。
しかし、この規定群は違った。ありとあらゆるケースが想定され、
想定外が存在しないかのように、細部に至るまで徹底的に網羅されていた。

それでも、いくつか気になる点は見つけていた。

まずは、各種手続きに要する時間を確認した。
規定の共通項には、「審査部は書類受領後二十四時間以内に精査し、承認回付を行うものとする」と明記されている。
これは審査部による意図的な遅延を防ぐための措置だろう。

審査部は第一~第七審査部の七つが存在しているようだった。
よって回付には最大七日、否決が出れば再回付となり、最大十四日を要する。
なお、土地管理維持局に休日は存在しないようだった。

―にもかかわらず、局長承認には期限がない。
紫の「なるべく働きたくない」という本音が、あまりにも透けて見えた。

次に、「土地」という文言の定義を確認する。
規定中では必ず「幻想郷の」「幻想郷における」といった修飾が付されており、定義集には次のように記されていた。

==============

第一章 総則

第12条(土地の定義)

1 本規定において「土地」とは、博麗大結界が張設されている、または過去に張設されていた境界線内に存する、
 地面、地中および空中を含む区域であって、その区域に恒常的に固定された構造物その他の工作物を含め、
 その帰属および管理権限が幻想郷に属すると判断されるものをいう。

2 前項の規定にかかわらず、人間の里および人間の生活拠点を中心とする半径二千尺(約六〇六メートル)以内の区域は、
 これを本規定に基づく土地の対象外とする。

==============

これは、何らかの事故で博麗大結界が一時的に弱体化し、外界との往来が可能になってしまった事態―あるいは、
外界との往来が可能な大妖怪を想定した条文だろう。
あくまで「妖怪の土地は結界の内側まで」であることを強調している。

「人間の生活拠点は対象外」という点を根拠に、人間である咲夜が住む紅魔館を人間の生活拠点と主張する手も考えられた。
しかし、多数の人外が暮らす場所をそう言い張るのは無理があり、この線は早々に切り捨てた。

最後に、局長の権限について。
規定には膨大な種類の申請手続きが列挙されていたが、局長決裁を要するものは不自然なほど少なく、わずか数件しかなかった。
事務方で大半を処理できるとも言えるが、単に紫が面倒を避けただけとも取れる。
本件の打開に活用できそうな手続きは、この局長決裁を要する、以下の二つだけだった。

一つ目は、土地処分異議申立である。

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第百二十七章 異議申立

第874条(土地処分に関する異議申立)

1 幻想郷の土地の処分、帰属または管理に関し、当事者間において解決困難な意見の相違が生じた場合、
 当該当事者は、幻想郷土地管理維持局に対し、異議申立を行うことができる。

2 前項の異議申立は、全審査部による妥当性確認および承認を経て受理されるものとする。
 受理された際は、局長は、当該当事者双方から事情を聴取した上で、裁定を下すものとする。

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最も正攻法なのは、この申立を行い、強制執行が不当であるとの判断を仰ぐことだった。
だが、土地管理維持局の存在すら忘れていた二人の賢者が、強制執行日までに聴取の上、決裁を下すとは考え難い。
―いや、よく考えると、紫は別れ際に「冬眠するからもう出てこない」と言っていたのだ。

(…どこまでいい加減なのよ)
局長としての自覚の無さに怒りを覚えつつも、打つ手はなかった。

もう一つが、規定改正申立である。

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第三百九十四章 各種その他申立

第3261条(規定改正申立)

1 既存の規定に基づき判断することができない事象が生じた場合、当事者は、規定改正の申立を行うことができる。

2 前項の申立は、全審査部による判断不能性および手続要件の確認をもって受理されるものとする。
 なお、受理された時点において、当該土地に関する一切の手続は凍結されるものとする。
 凍結期間中における最終判断は、局長がこれを行う。

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規定改正申立が審査部により受理されれば、「土地に関する一切の手続」が凍結される。
すなわち、立ち退きの強制執行も停止される。
だが、致命的なのは「既存の規定に基づき判断することができない事象」そのものがどこにも見当たらないことだった。
なにしろ、規定は微に入り細を穿ち、考え得る限りの状況が想定され、整備され尽くしているからだ。

さらに、局長決裁が関与するいずれの申立も乱発を防ぐためか、
または紫が自身の仕事を少しでも減らしたいのか、提出必須書類及び資料は膨大であり、準備だけでも数日は要すると思われた。

―時間は、残酷なほど、残されていなかった。

 ◆

ノックの音が、部屋に乾いた余韻を残して響いた。
「失礼します。ノーレッジさん、利用申請期限となりましたので、退出を―」
事務員の天狗が部屋へ足を踏み入れた、その瞬間だった。
ひぃっ、という掠れた悲鳴が、思わず喉から零れ落ちた。

壁という壁、その全面を覆い尽くす文字の群れ。
理路整然とも、狂気ともつかぬ記号と文言が、余白という余白を侵食している。
常軌を逸した光景に、恐怖が先に立ったのだろう。

「ノーレッジさん!?だ、大丈夫ですか!?」
床にへたり込むパチュリーの姿を見つけ、慌てて駆け寄り、その場にしゃがみ込む。
「…ええ、大丈夫よ」
半ば笑みとも取れる曖昧な表情で、そう返した。

「それならよかった。ただし、部屋の汚損および損傷に該当しますので、
会議室及び備品汚損賠償合意書の記入と提出をお願いします」
「…」

 ◆

―紅魔館、当主の執務室。

広々とした空間には、威厳と趣味の良さを兼ね備えた調度品が並んでいる。
執務机の椅子に腰掛けるレミリアと、向かい合うように咲夜とパチュリーが立っていた。
レミリアの表情は、珍しく陰を落としている。

「―というわけで、規定をすべて洗い直しても、突破口は見つからなかったわ」
パチュリーは、意図的に感情を排した声でそう報告した。
しかし、その声色の端々に、抑えきれない悔恨と無念が滲んでいるのを、隠し切ることはできなかった。

「…咲夜の方は、どうだった?」
絞り出すように、レミリアが尋ねた。

「…大変申し訳ありません。結論から申し上げますと、にとりの言った通りで、成果はありませんでした」

咲夜の報告によれば、土地管理維持局への照会の結果、幻想郷には既に余剰地は存在しなかったという。
さらに、各妖怪勢力への土地買上げ交渉も、すべて不調に終わった。

幻想郷という限られた空間において、近年の妖怪流入もあり、不動産価格は異常と呼ぶほかない水準まで高騰していた。
幻想郷では入手困難な物資を、独自の流通網を通じて外の世界から輸入し、
販売することで蓄えられた紅魔館の潤沢な資金をもってしても、
広大な土地を購入するにはまるで足りなかった。

土地の借用についても事情は同じだった。
提示された賃料は膨大で、紅魔館の収入規模では到底賄い切れない。
紅魔館そのものを担保とすれば借用を認める、という勢力も存在したが、
それでも数か月後に資金がショートするのは火を見るより明らかだった。
結局のところ、その道を選べば紅魔館を手放す未来しか待っておらず、それでは何の意味もなかった。

そのとき、背後から軽い足音がした。

「お姉様」
振り返ると、そこにフランドールが立っていた。
いつからそこに居たのか、気配を感じ取れなかった。

「いっそのこと、妖怪の山に攻め入るのはどうかしら?」
無邪気さすら帯びた声で、恐ろしい提案を口にする。
「昔のお姉様だったら、私たちに害をなす不逞の輩には、決して容赦しなかった。
それこそ、街の一つや二つ、滅ぼしてしまうほどに」
歪んだ笑みが、その顔に浮かぶ。
「…久しぶりに、本気で思いっきり暴れましょうよ」
室内の空気が、一瞬で凍りついた。

パチュリーは、にとりが立ち退き要請を突きつけた際、レミリアが「戦争も辞さない」と脅しを口にしたことを思い出していた。

しばらくの沈黙の後、レミリアは静かに首を横に振った。
「―フラン。私はもう、昔とは違うわ。力で全てを解決しようとするのは、所詮、愚者の行いに過ぎない」
真っ直ぐに、フランドールを見据える。

「…ふぅ、すっかり丸くなっちゃったのね」
フランドールは肩をすくめ、ため息をついた。
「―まあ、そんなお姉様も、悪くないけどね」
そう言って微笑むと、軽やかな足取りで部屋を後にした。
残された三人の間に、重たい沈黙が広がる。

レミリアは、ゆっくりと室内を見渡した。
まるで、その瞳に紅魔館のすべてを焼き付けるかのように。
やがて目を伏せる。しわぶき一つ聞こえない、痛いほどの静寂。

「…ふたりとも、ご苦労さま」
レミリアは静かに告げた。
「随分疲れたでしょう。今日は、ゆっくり休みなさい」
微笑みを浮かべながらそう言ったが、その瞳の奥には、かすかな揺らぎが残っていた。

 ◆

パチュリーは、久方ぶりに自室の天蓋付きベッドへと身を投げ出し、そのまま糸が切れたように眠りへ落ちた。
立ち退き期限まで残された、貴重な時間を失うことになるのは承知していたが、
それでもなお、二週間にわたり頭脳を限界まで酷使し続けた疲労は、もはや無視できるものではなかった。

しばらくして、控えめなノックの音が響き、小悪魔が静かに入室する。
眠り込んだパチュリーの様子を確かめると、起こさぬようそっと掛け布団を掛け、そのまま音も立てずに部屋を後にした。

 ◆

―パチュリーは、夢を見た。

紅魔館のエントランスホールに、ひとり立っている。
誰の姿もなく、音ひとつ聞こえない。
それでも、不思議と生活の痕跡だけは、確かにそこに残っていた。

地下の図書館へと足を運ぶ。
いつもの書斎には、湯気を立てる紅茶と、読みかけの本が置かれている。
しかし、そこに小悪魔の姿はなかった。

真紅の絨毯が敷き詰められた廊下。
食堂。
大広間。
レミリアの執務室。

見慣れたはずの館内は、どこも変わらぬ姿をしているが、何故か不安感が募った。
人影はひとつもなかった。

―突然、足元の床が音もなく崩れ落ちた。
それと同時に、館全体が軋むように崩壊を始める。
抗う術もなく、パチュリーは力を失ったまま、その渦へと飲み込まれていった。

 ◆

―はっと、目を覚ます。

…どうやら、何かの夢を見ていたらしい。
何故か、目の端には涙が滲んでいた。

身を起こして、きちんと掛け布団が掛けられていることに気づく。
パチュリーは心の中で小悪魔に感謝を告げると、静かに、しかし確かな意志をもって立ち上がった。

 ◆

―紅魔館の図書館。

ひと眠りと湯浴みを経て、体力も思考の冴えも、ほぼ元に戻っていた。
パチュリーは書斎に腰を据え、事態を打開すべく思考を巡らせる。
だが、どれほど考えても、突破口は見えてこない。

紅茶を運んできた小悪魔が、ふと、独り言のようにつぶやいた。
「そもそも…土地って、なんなんでしょうね」

そのあまりに素朴な疑問に、パチュリーはわずかに考え込んだ。
「―土地なんてものは、本来は誰のものでもない。強いて言えば、地球や自然のものと言えるわ。
そこに、人間や妖怪たちが勝手に制度を持ち出して切り取り、独占し、主張してきた。
…でも、それは生きる基盤を確保する上で、必要とされるものなのよ」

「あ、いえ…」
小悪魔は戸惑い、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。そんな壮大なお話を聞いたつもりではなかったんです…」

パチュリーは少し首を傾げ、目で続きを促す。
「私たちって、紅魔館というより…建物が乗った土地ごと、引っ越してきたんですよね。
『土地』って、一体何を指す言葉なんだろう、と思いまして…」

その言葉を聞いた瞬間、パチュリーの思考に、稲妻が走った。
賢者たちの助言が、鮮烈な記憶となって脳裏を駆け巡る。

『ただ、あの規定は随分前に作ったきり、一度も改正していない。
今の貴方達の状況と、そぐわない部分があるかもしれない。希望があるとしたら…その穴を突くことね』

『幻想郷土地管理維持局は、文字通り幻想郷の土地を管理する組織だ。
その点を念頭に置けば、突破口が見えてくるかもしれないね』

「―こあ!」
パチュリーは、唐突に立ち上がり、叫んだ。
「は、はい!」
驚く小悪魔の肩に、両手を置く。
「―貴方は、天才だわ」
そう言って笑うパチュリーの瞳には、確かに“希望”と呼ぶべき光が宿っていた。

 ◆

一か月経ち、期日を迎えた。

約束されたその日に、にとりは現れた。
背後には河童製の重機が、鈍い金属光沢を放ち佇んでいる。油と水の匂いが、かすかに漂っていた。

「さあ、立ち退いてもらうよ!」
啖呵を切るにとりの前に、パチュリーとレミリアが玄関口で並び立つ。
二人とも、一歩も引く気配はない。

「にとり…悪いけど、それは出来ないわ。なぜなら、ここは幻想郷の土地じゃないからよ」
にとりは一瞬、言葉を失った。
次いで眉を寄せ、首を傾げる。

「…何を言ってるの?そんなわけないでしょ」
困惑と苛立ちが入り混じった声だった。
それに対し、パチュリーは得意げな表情を浮かべる。

「規定には、こう書かれていたわ。
『第一章 第12条 第1項 本規定において「土地」とは、博麗大結界が張設されている、
または過去に張設されていた境界線内に存する、
地面、地中および空中を含む区域であって、その区域に恒常的に固定された構造物その他の工作物を含め、
その帰属および管理権限が幻想郷に属すると判断されるものをいう。』、と―」

「当たり前のことじゃないか。それがどうしたっていうんだよ」
にとりは苛立ちを隠さず、語気を強めた。
だが、パチュリーは一切動じない。

「まず、前提知識として言っておくわ。私は紅魔館を魔法で転送した。転送魔法とは、
厳密に言えば、転送元と転送先の“空間そのもの”を”入れ替える”魔法よ。
―何故なら、転送先に質量を持った物体が存在する場合、大事故に繋がるから」
ちら、とレミリアを見る。
「―例えば、レミィをとある座標に一方向に転送し、そこに大きな岩があったとしましょう。すると、どうなるか。
結果は、原子レベルの衝突による破壊的なエネルギーの放出。不死の吸血鬼といえど、死は免れないわ」
「…何で私を例え話に使うのよ」
レミリアが不満顔で抗議する。
「そして、ここからが重要なんだけど…私は単に紅魔館という上モノを転送したわけじゃない。
知っての通り、紅魔館の地下には広大な図書館が存在する。
当然、私は紅魔館、庭園、塀を含む広範囲かつ、図書館、及び地中深くの地盤ごと、幻想郷へ転送させた
―正確には、それだけの広範囲の空間…言い換えると、土地ごと”入れ替え”た」
にとりの顔に、理解しきれない疑問が浮かぶ。
眉間に皺を寄せたまま、思考が追いつこうとしている様子だった。

「つまり、ここに元々あった幻想郷の土地は…今頃、外の世界の森の中に転送されている。
そして、紅魔館が今立っている土地は、元は外の世界の私有地よ」
パチュリーは静かに問いを投げかけた。
「さて。この規定の適用範囲は、あくまで“幻想郷の土地”。
では―紅魔館が今、立っているこの土地は、一体何なのかしら?」

その瞬間、にとりの目が見開かれた。
頭の中で何かが繋がり、同時に、繋がってほしくなかった答えが浮かび上がる。

パチュリーは玄関を出て、足元の地面から土を一掴みすくい上げ、指の間からさらさらと落とした。
「要するに、この土は幻想郷のものじゃない。
スカーレット家が所有する、外の世界の私有地の土よ」

「は、はは…。そんな馬鹿な話がある?屁理屈だよ、そんなの」
にとりは半笑いで否定する。
だが、その声には、確信を持って否定する強さが欠けていた。

パチュリーは意に介さず、一枚の紙を取り出す。
「これはHisMajesty'sLandRegistry―英国不動産登記所が発行した土地謄本よ。
わざわざ外の世界から取り寄せたの。今は“いんたーねっと”とやらですぐ発行できるらしくて、便利になったわね」
一か月前、にとりがしたのと同じように、書類をペシペシと叩く。
にとりは身を乗り出して覗き込むが、英語の記載なので読めなかった。

「ざっと読み上げるわね。
『グレートブリテン及び北アイルランド連合王国、グロスタシャー州ディーンの森内、森林地約八百三十六エーカー、
及び宅地、付属建造物用地―これは紅魔館のことね―の永久所有権をスカーレット領主、レミリア・スカーレット伯爵夫人と認める。
本土地は、西暦一五☓☓年、イングランド王国国王勅許状に基づきスカーレット家に下賜され…』」
淡々とした読み上げは、まるで呪文のようだった。
にとりは口を半開きにしたまま、思考を放棄したように聞き入っている。
一方、レミリアは腕を組み、満足げにうんうんと頷いていた。

「『以後、相続、称号承継、及び慣習法上の占有継続により、
当該土地に対する完全かつ排他的な所有権は、現在に至るまで存続し―』」

「ふ…ふざけないでよ!」
にとりの叫びが、空気を震わせた。

「それ、外の世界の土地謄本だろ?そんなの、幻想郷じゃ何の効力もない!
それに、どうして吸血鬼や魔女が隠れ住んでる不動産が、堂々と登記されてるんだよ。
そもそも、五百歳のレミリアが名義人になってるのは、おかしいだろ!」
悲痛とも言える声が、周囲にこだました。

「役所の人間はね、書類さえ整っていれば、そこに吸血鬼が住んでいようが関係ないのよ」
パチュリーは、あくまで平然と言い放つ。
「イギリスには日本みたいな戸籍制度もないしねぇ…不死者には都合が良くて助かるわ」
レミリアが、にやりと口元を歪めて続けた。

「元の土地がどこだろうと、博麗大結界の内側に存在する時点で、そこは幻想郷の土地だ!」
必死の反論だった。

「規定には、『帰属及び管理権限が”幻想郷に属する”と判断されるもの』とある。
この土地は明らかにイギリス国内の私有地に帰属し、管理権限もスカーレット家が有している。
―さっき見せた土地謄本が、その証拠よ」
パチュリーは、即座に言葉を重ねる。
「~~~!!」
にとりは、声にならない声を上げた。
その怒りは、おそらく目の前の二人ではなく、遠く海の向こうの英国の役所へと向けられていたのだろう。

「百歩譲ってそうだとしても!
あんた達は、勝手に私たちの土地を入れ替えて、奪ったことになる!」
指を突きつけ、必死に糾弾する。
「奪ってなんかいないわよ。イギリスの森の奥に、ちゃんと貴方達の土地があるでしょう?
それは、今も貴方達のものよ」
「人も滅多に来ないし、年中涼しいし、妖怪の避暑地にはもってこいね」
レミリアは、いけしゃあしゃあと、そう嘯いた。

 ◆

「そんなの、筋が通ってない!」
にとりの声は、怒りに擦れた金属音のように響いた。
「私たちは土地の入れ替えに同意なんてしてない!同意無しの交換なんて、窃盗と何が違うんだよ!」
勢い余って身を乗り出した拍子に、サングラスは大きくずれ落ち、吊り上がった目が露わになる。
その視線は鋭く、獲物を睨みつける猛禽のそれだった。

―だが。

にとりは、ふっと言葉を切り、顎に手を当てる。
ほんの数秒、頭の中で歯車が高速回転する気配があった。
そして次の瞬間、その顔がぱっと明るくなる。

「あはは…!」
乾いた笑いがこぼれた。
「いやぁ、危ない危ない。パチュリーがあまりにも堂々としてるから、危うく騙されるところだったよ」
にとりは姿勢を正し、いつもの軽薄さを取り戻したように言う。
「私たちは、正当な権利を持つ土地を不法占拠してる紅魔館を、正当な手続きに則って撤去すればいい。それだけの話さ」
口元を吊り上げ、にやりと笑う。勝ち筋が見えた者の余裕だった。

「たとえ土地の解釈に違いがあったとしても、それがどうしたっていうんだよ?
それで撤去を止める法的拘束が発生するわけじゃない」
肩をすくめ、付け加える。
「…ま、『土地処分異議申立』でもすれば話は別だけどね。けど、局長決裁は必要だ。
あのやる気のない賢者たちが判子を押すのは、何年後になるやら?」
手を腰に当て、完全に勝者の立ち姿だった。

「―だったら」
その空気を、真っ向から断ち切る声が響いた。
「私たちは、規定における土地解釈を巡って『規定改正申立』を申請する!」
パチュリーが、はっきりと言い放つ。

「『第三百九十四章 第3261条 第2項 全審査部による判断不能性および手続要件の確認をもって受理されるものとする。
なお、受理された時点において、当該土地に関する一切の手続は凍結されるものとする。
凍結期間中における最終判断は、局長がこれを行う』」
一語一語、噛みしめるように続ける。
「つまり、審査部で受理さえされれば、その時点で強制立ち退きも再開発も凍結される。
貴方の言葉を借りるなら―
あのやる気のない賢者たちが判子を押すまでの数年間、貴方たちは一切手を出せない!」

にとりの表情が固く硬直した。
口が半開きのまま、言葉が出てこない。
「…規定自体の、改定…?そんな申立が…存在するのか…?」
明らかに焦りの色が浮かび、視線が宙を彷徨う。
頭の中で必死に規定の条文を反芻しているのが見て取れた。

「…フ、無理もないわね」
パチュリーは小さく、しかし確信を帯びた笑みを浮かべる。
「私は、すべての規定を総覧したわ。
どんなに些細な事柄であっても、どんな事態であっても、必ず解釈と判断ができるよう、徹底的に細かく制度設計されていた」
一拍、間を置く。
「土地管理維持局の申請を日常的に扱っている貴方たちにとって、
あの規定は絶対不変―まさに聖典のようなものだったでしょうね。
…そこが、盲点だったのよ」
「…」
にとりは、黙って聞いていた。
反論を挟む余地を探しているが、見つからない。

「紫はこう言っていたわ。
『あの規定は随分前に作ったきり、一度も改定していない』と」
淡々と続ける。
「完璧すぎたが故に、規定改正申立は死文化し、一度も行われなかった。
―そして、そもそもそんな申立が存在すること自体、誰にも認知されていなかったの」

「く…!」
にとりは短く吐き捨て、唇を強く噛んだ。

「―ま、さすがの紫も」
パチュリーはにやりと笑い、にとりを上から見下ろす。
「博麗大結界を越えて、広大な土地と館を丸ごと空間転移させる“大”魔法使いの存在までは、想定できなかったようね」
「大」という言葉を、これ見よがしに強調し、勝ち誇った表情を浮かべる。

「…うぐぐ…」
にとりは頭を抱えた。
「…凍結…再開発が…どうすれば…」
焦点の合わない目で、口の中だけが忙しなく動き、意味をなさない言葉を吐き続ける。

(―お願い…これで、引き下がって…)
パチュリーは胸中で祈った。
強く握りしめた拳が、微かに震えている。

その時。
にとりは、ふっと何かを振り切ったように顔を上げた。

「…ふ…ふふ…」
口元を歪め、そのまま開き直ったように言い放つ。
「だったら、申請すればいいさ!!」
大仰に腕を広げ、爛々と輝く目でパチュリーを射抜く。
「いや、パチュリーのことだ。もう申請してるのかな?
でもさ、それを示さず、こうやってぐだぐだ話してる時点で…まだ受理されてないんだろ?」
畳み掛ける。
「局長決裁のある申請は通常、膨大な書類と資料が必要だ。揃えるだけで一週間。
審査部の承認も…当然、妖怪の山は否決する。再回付で約二週間はかかる」
にとりが嗤う。
「万が一、審査部を通ったとしても、その間に紅魔館は―更地になってるさ!」

「…」
パチュリーは俯き、目を伏せた。
正直、そう出られたら打つ手がないことは、初めから分かっていた。

―これまでは、弾丸の入っていない銃を突きつけ、虚勢を張り、必死に威嚇していただけに過ぎない。

唇を噛み締める。
身体が、悔しさのあまり、はっきりと震えた。
(…ここまで、か―)

 ◆

レミリアが、声を荒げることなく、冷静に問いかけた。
「たとえ取り壊したとしても、凍結された時点で再開発はもう不可能になるわ。
取り壊しにも費用はかかるのでしょう?―貴方にとって、何の意味もないんじゃないかしら」
その口調は冷静で、感情の揺らぎを一切感じさせなかった。

パチュリーは、その姿を意外な思いで見つめていた。
紅魔館は、レミリアが生まれ育ち、数え切れないほどの悲喜こもごもを共にしてきた邸宅だ。
誰よりも愛着を抱いていて当然の場所。
最悪の場合、逆上して実力行使に出るのではないか―そんな懸念すら、パチュリーの胸にはあった。

だが、目の前に立つ彼女は違った。

そこにあったのは、気まぐれで幼く、我儘なお嬢様の姿ではない。
冷静沈着で、理を重んじ、礼節を保ったまま相手を論する―
それは、まぎれもなくスカーレット家当主としての佇まいだった。

「…更地になったら、この土地に拘る意味もなくなるだろう?」
にとりが、少しだけ視線を逸らして答えた。
口調はいつもの軽さを装っているが、その目には迷いが滲んでいる。

「もし申請を取り下げて凍結解除してくれるならさ、『相応の便宜』は図ってあげるよ。
…気の毒には思うけど、商売だからね」
わずかに目をそらす。どうやら、多少の良心の呵責はあるようだった。

パチュリーは、頭の中で即座に状況を整理する。
所有者と帰属権が宙に浮いたこの土地は、紅魔館側にとっても、妖怪の山側にとっても、
売ることも、用地として活用することもできない。
ただ時間と共に価値を失っていく、死蔵された土地だ。

―だからこそ、凍結解除を条件に、安く買い上げる。
(…地上げ屋と、同じね)

胸の奥に、嫌な重さが沈み込む。歯を強く噛みしめた。

「やれ!」
にとりが振り返り、短く号令を飛ばす。
掲げられた手を合図に、待機していた河童製重機のエンジンが唸りを上げた。

―万事休すか。
そう思った、その瞬間。

 ◆

突如、パチュリーの視界の中に、咲夜が現れた。
それは、まるで空間そのものを切り裂いて現れたかのような唐突さだった。

「パチュリー様…大変、お待たせしました」
その声には、隠しきれない疲労が滲んでいる。
呼吸もわずかに乱れ、息が上がっているように見えた。

恐らく、土地管理維持局から紅魔館までの長距離を移動する間、
時間停止の能力を何度も酷使したのだろう。

「規定改正申立の回付が完了しました。こちらが、その写しです」
それでも背筋を正し、呼吸を整え、書類を差し出す。
「咲夜…!ありがとう、ご苦労さま」
パチュリーはそれを受け取り、食い入るように見つめた。

七つある承認押印欄のうち、四つが承認、三つが否決。
添付された三枚の否決理由書を確認すると、いずれも他審査部の過半数の同意が得られず、
否決は無効とされていた。

―つまり、受理は成立。

まさに、紙一重だった。

パチュリーはそれをにとりの前に突きつけ、声を張り上げた。
「本土地を巡る規定解釈について、規定改正申立が受理された!
只今をもって、本件に関するあらゆる手続きは凍結される!今すぐ、重機を止めなさい!」
普段、ぼそぼそと話す彼女からは想像もつかないほどの声量だった。
―が、直後。
「ごほっ…ごほっ…!」
激しく咳き込み、身体がよろける。咲夜が即座に支え、倒れるのを防いだ。

「…う、嘘だろ…?」
にとりの声は掠れていた。

「なんで…承認が、間に合った…?
大天狗様に…何て言えば…」

完全に思考が追いついていない様子で、呆然と立ち尽くす。
パチュリーの制止の声は、にとりの耳に届いていなかった。
その間も、重機は止まらない。

油圧ショベルが、紅魔館の壁へと振り下ろされ―
その瞬間。
一陣の風が吹いたかと思うと、瞬速で、レミリアが現れた。

片手で、鋼鉄のシャベルを掴み、そのまま押し返す。
「―止めろと言ったのが、聞こえないのか?」
氷のように冷たい双眸が、運転席の河童を射抜いた。
日は落ちかけているとはいえ、直射日光を浴びたレミリアの身体からは、
じりじりと煙が立ち上り、肉が焼ける嫌な匂いが漂う。

「レミィ!」
思わず叫ぶ。
耐え難い激痛が走っているはずだ。だがレミリアは微動だにせず、その表情に苦痛の色すら浮かべなかった。

レミリアは、ショベルを手のひらでグシャリ、と握り潰した。
肝を冷やした運転手は、慌ててエンジンを止める。

同時に、咲夜が時間を止めて現れ、手にした日傘でレミリアを陽光から庇った。

「お嬢様…何というご無理を…!」
咲夜が悲痛な声を上げる。
「…貴方たちの帰る家を、傷つけさせるわけにはいかないでしょ」
さすがのレミリアも痛みからか蒼白な顔色だったが、それでも微笑んで咲夜に応える。

「…間に合うはずがない…」
にとりが、ようやく焦点の合った目で、縋るようにパチュリーを見つめる。
「一体…どうやったんだ…?」

「…申立に必要な添付資料は、私が咲夜に口頭で指示したわ。
都度時間を止めて、一日で全部作ってもらい、その日のうちに申請したの」
淡々と続ける。

「それでも間に合ったのは…僥倖ね」
期日は一ヶ月。
賢者へのヒアリングと規定の読み込みで二週間。
レミリアへの報告と睡眠で一日。
資料作成と申請で一日。
承認回付で二週間。

―間一髪だった。

にとりは、その場に崩れ落ちた。
「そんな…酷いよ…ここは…私たちの土地なんだ…」

パチュリーは、初めてにとりに同情を覚えた。
にとりとて、紅魔館に私怨があったわけではない。
ただ、一組織人として職務を全うしようとしただけだ。

正義も悪も、ここにはない。

項垂れるにとりの前に、レミリアが歩み寄る。
日光により焼け爛れた皮膚は既に再生され、その不死性の一端を覗かせていた。

「パチェ、咲夜。二人とも、ご苦労さま。でも…もう大丈夫よ」
そして、にとりに向き直る。
「にとりも、聞いて頂戴。私たちにとって、紅魔館は掛け替えのない我が家なの。できれば、離れたくない」
にとりがレミリアの微笑みを浮かべた顔を見上げる。
「でも、貴方たちの主張ももっともよ。―そこで、こんな提案はどうかしら?」
レミリアは人差し指を立て、いたずらっぽくウィンクしてみせた。

 ◆

―紅魔館の図書館。

そこには、いつもの静寂と、本の頁を捲る微かな音はなかった。
書類をぱらぱらと捲る音と、印鑑を押印する音、そして
パチュリーの書類を読み上げる声が広い空間に響く。

「秋姉妹によるサツマイモ畑一部売却に伴う土地登記変更申請…」
パチュリーは申請書に付随する数十頁の資料を手に取り、ぱらぱらと捲りながら猫背気味の姿勢で目を通した。
内容を一瞥しただけで要点を把握し、静かに頷く。

そして、迷いなく書類の所定欄に印鑑をポン、と押した。
印影は相変わらず、簡素にして間の抜けた「パチ」の二文字だった。

―作り直すのが面倒だった、というのも理由の一つではある。
だがそれ以上に、この不格好な印鑑に対して、いつの間にか妙な愛着が湧いていることを、本人も否定できなかった。

承認済みトレイへ書類を滑り込ませると、トレイが淡く光を放ち、書類は音もなく消失した。

「守矢神社による間欠泉地下センター補強及び地上部建造物の建設許可申請…」
次の申請書を手に取り、今度は数百頁に及ぶ分厚い資料をぱらぱらと捲る。
同じ動作を、何度も繰り返す。
頁を送る指先の動きは淀みなく、パチュリーの視線は、流れる文字と図表を正確に追い続けていた。

ふと、手が止まる。
建築計画の図面だった。パチュリーはその一枚をじっと見つめ、わずかに眉を寄せる。

やがて視線を外し、机の引き出しから一枚の書類を取り出した。
―申請否決理由書。

「本建設計画は、規定第二百五十一章 第1984条 第3項
『建築物周辺には百尺(約30メートル)以上の空間を設けること』に違反しており、否決するもの…」
理由欄にさらりと記入し、躊躇なく押印する。
申請書に申請否決理由書をホッチキスでバチンと留め、書類一式を否決済みトレイへ放り込む。

再び、光。
書類は跡形もなく消えた。

―にとりとの一悶着の後、紅魔館は正式に幻想郷土地管理維持局への加入申請を提出した。
紅魔館の勢力、影響力、当主レミリア・スカーレットの実力と知名度―
いずれを取っても不足はなく、申請は滞りなく承認された。

新たに設けられた第八審査部。
その審査部長をパチュリーが務め、職員は小悪魔が担当することとなった。

土地管理維持局内に設置された承認待ち・承認済み等の各種トレイには、
パチュリーの魔法によって紅魔館と直結するポータルが生成されており、
書類の受け渡しも、決裁も、すべて紅魔館からリモートで完結できた。

何しろ、膨大な規定はすでにパチュリーの頭の中に完全に刻み込まれている。
不便を感じる理由は、どこにもなかった。

どうしても現地確認が必要な場合のみ、小悪魔が代理として赴く。
それで事足りた。

パチュリーの事務処理能力は、常軌を逸するほど高かった。
長年の読書で培った速読術と、丸暗記した規定を自在に引き出し、
即断即決で書類を捌いていく。

通常であれば数時間を要する承認決裁も、彼女の手にかかればわずか十数分。
それは職務への献身というよりも、余計な仕事は即座に片付け、
一分一秒でも多く読書の時間を確保したい、という切実な欲求の表れだった。

レミリアはこう言っていた。
「すべての決裁はパチェに任せるわ。私に伺いを立てる必要もないからね」
それでもパチュリーは、
「どの勢力が、どのような申請を行い、承認あるいは否決したか」を
簡潔にまとめた一枚のペーパーを、必ずレミリアに提出していた。

レミリアは毎度、「こんなものはいらないわ」と言っていたが、
パチュリーは半ば強引にでも、それに目を通させた。

妖怪勢力の土地に関するあらゆる決裁を、
独断で処理できるという、あまりにも強大な権限。
それを持つにあたっての、これはパチュリーなりの保身であり、ささやかな処世術だった。

「妖怪の山による霧の湖周辺リゾート施設開発許可申請…」
次の申請書を目にした瞬間、パチュリーの手が止まる。

ふと宙を懐かしげに見つめ、
彼女は、かつての戦いの日々に思いを馳せた―

 ◆

―そして、夏。
霧の湖の畔には、避暑地としてのコテージやキャンプ場、土産物屋が、いつの間にか建ち並んでいた。
様々な妖怪や人間たちが集い、思い思いに遊び、笑い声が湖面に弾んでいる。
土産物屋やキャンプ場の管理には河童だけでなく、メイド妖精たちの姿もあった。

「折衷案ね…まあ、悪くない落としどころじゃない」
パチュリーはバルコニーに立ち、その光景を静かに見下ろしていた。

紅魔館は現状を保ったまま、場所と労働力を提供し、その対価として利益の一部を還元する。
それが最終的に合意された折衷案だった。
凍結措置は申立取り下げにより解除され、妖怪の山とは業務提携を結び、格安の賃料で土地を貸借することになった。

庭園や紅魔館の一部は、少額の入場料を支払えば見学可能な観光スポットとして開放された。
ガーデンテラスでは、咲夜が淹れる紅茶を購入して味わうことができる。
美鈴が丹精込めて手入れした見事な庭園と、幻想郷では珍しい洋館の佇まいは、いずれも高い人気を集めていた。

また、パチュリーが趣味で作った押し花の栞も物販として並べられた。
凝り性の彼女が手掛けたそれは出来栄えも相当なもので、いつしか人気商品となっていた。

なお、にとりと小悪魔からは、図書館の一部開放および読書コーナーの設置が提案されたが、
パチュリーの断固たる反対により、即座に却下されている。

「ああいうのはね、一旦押してから引けば、だいたい上手くいくのよ」
日傘をさしたレミリアが、胸をそらして得意げに言った。
「押される方は、たまったもんじゃないけどね…」
にとりが苦笑しながら呟く。今日は、あの似合わないサングラスは掛けていなかった。

「…まあ、最終的にはうちも儲かったからいいけどさ。あの理屈は、さすがに強引すぎると思うよ?」
「フフ…そうね。まあ、痛み分けってことでいいじゃない」
パチュリーが言い、レミリアと視線を交わして、くすりと笑った。

「大変です!レミリア様、パチュリー様!」
小悪魔が慌てた様子で駆け込み、甲高い声を上げた。
この子がここまで取り乱すのは珍しい。…とはいえ、客の応対を妨げられたレミリアはわずかに眉をひそめた。
「今は来客中なのよ。静かにしなさい…それで、一体何があったの?」
レミリアがたしなめつつ尋ねる。

「はぁ、はぁ…霧の湖および周辺の土地の権利は妖精にある、今すぐリゾート施設の立ち退きを要請するって…。
チルノさんをはじめ、大勢の妖精の方が詰めかけてきています!」
その言葉に、レミリア、パチュリー、にとりは揃って顔を見合わせた。

―幻想郷において、妖精とは自然そのものだ。
パチュリーは、かつて小悪魔に語った言葉を思い出していた。

『―土地なんてものは、本来は誰のものでもない。強いて言えば、地球や『自然』のものと言えるわ。
そこに、人間や妖怪たちが勝手に制度を持ち出して切り取り、独占し、主張してきた。
…でも、それは『生きる』基盤を確保する上で、必要とされるものなのよ』

パチュリーは、そっと空を見上げた。
雲一つない青空。どこからか、小鳥のさえずりが聞こえてくる。


―幻想郷は、今日も平和だった。
このややこしくて長いお話を最後まで読んでくださってどうもありがとうございます。

発端としては、昨今の不動産価格上昇を切っ掛けに、
「幻想郷を舞台に土地問題を大真面目に扱ったら面白いのでは?」という思いつきからでした。
土地を巡り、逆転裁判的なフォーマットで頭脳戦をする、みたいな。

かなり時間を掛けてちまちまと書いてましたが、
次第に「設定開示の文量が読み手負荷の許容範囲かどうか」
「論戦のロジックが納得できるものかどうか」といった点で客観的判断ができなくなり、
いっそお蔵入りにしようかと思い、いや、せっかくここまで書いたんだし…ということで投稿しました。

少しでも面白いと感じていただけたら幸いです。
Fio
https://x.com/Fio6786
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コメント



0.簡易評価なし
1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです