蛭子神の最初の記憶は、葦船に入れられ流されているというものだった。
蛭子神は神代でも最初期に生まれた存在だったが、それが生まれた時点で世界は既にあった。海神もまだ産まれていない時代のことだが、海神はあくまで統治者であり、創造主は別にいた。なので蛭子神はまだ管理されていない荒れた海を漂っていた。
海神なくして海があるように月読尊なくとも月はあるはずだったがそれは見えなかった。月も星も見えない荒天だったのだ。時折、稲光が現れ、その光に照らされた大粒の雨と荒波が見える瞬間があった。波は葦船を側面から叩きつけ、その上に乗り上げんとしていた。
蛭子といえど助かろうと藻掻きはする。藻掻きはするが、不具故に捨てられた水子一人でこの状況をどうにかできるわけもなく。結局、何度目かに波の侵入を許したときに葦船は一気にひっくり返り、投げ出された蛭子神もとい戎瓔花は、海の中に没していった。
後には細切れに分解された葦の残骸のみが残されたが、やがてそれも大洋の中に散っていった。
***
石の地面のある世界。それが瓔花の二番目の記憶だった。
空は青く、白いものが青の領域の中を漂っていた。瓔花の中に昼と夜という概念はなかったから、最初と全く違う空を見て、別の場所に来たのだろうと思った。自らの足元にあるものが液体か固体かの違いがあるという点において、その解釈で正しくはあるのだが。
地面が石ということは、どうしようもなく流されるだけだった前の世界とは違い、少なくとも這って進むことはできるということだった。故にそうした。本能的に、ここは生きるのには向かない土地だというのは分かった。他の地を探さなければならない。
そう決心して、目を覚ました地点から見たときの地平線にあたる場所にまで進んだ。空は何度か黒くなっては青に戻るのを繰り返した。
お腹は空かなかった。蛭子といえど神のうち。生理欲求を満たすのは必須ではないということらしい。
しかし疲れはした。神とて疲労は覚える。西方世界を作った創造主も、六日働いたのちの七日目は安息日としたという。世界を作るほどの超常的な神ですらそうなのだから、水子の下級神に過ぎない瓔花が匍匐という全身運動で体にかける負荷は相当なものだった。そしてハイハイする大地は石のみで構成されているものだからとんでもなく痛い。歯ぎしりしようにも歯がないから代わりに口をただ歪に曲げた。
瓔花はさらに這った。這う途中に体を浮かせることを覚え(五体満足な人間が這うところから歩行を覚えるように、足が不自由な神は浮遊へと移行していった)、残りはそれで進んだ。
地平線から次の地平線まで到達したが、空の色が循環する以外には何も変わらない。ただ地平線まで一面に石が転がっているだけだった。
瓔花は大の字になって伸びた。葦船の世界では自由に使える領域が狭すぎたが逆にここは広すぎる。今までずっと全部石だったのだから、次の地平線も、さらに次の地平線もどうせ全部石に違いない。
そして、ここでは生きていけなさそうだから脱出する、という目的で探索をしていたのだが、二つの理由によりこの前提は崩れていた。
一つ目、お腹が減らないということは、別に食べ物が得られないここでだって生きてはいけるということ。
二つ目、生きていく必要性を見出だせなくなった。行動に対する見返りがあまりにも少ない荒野の環境で瓔花の心は腐りかけていた。生を受けてから現代に至るまでの長い年月の中で(水子がそもそも産まれたといっていいのかには議論はあろうが、基本的に下手な生者よりも生を謳歌しているのがこの神格である)、彼女の中での死への欲望が生の願望を上回ったのは、唯一このときであった。積極的に自殺を試みるまではしないものの、生きるための努力もしないという塩梅。
彼女はただひたすらモビールであやされる子供の如く、青の空の中を白が漂っていく様を眺めることで一日を過ごす日々を繰り返した。
***
二つの理由は瓔花に探索を諦めさせるという同じ方向を向いてはいたが、一方一つ目の理由は二つ目の理由を阻害してもいた。つまり、ここにいても死にはしないのだから、積極的に何かをしなければ生きたくない死にたいという願望は果たされないのだった。そして死ぬために必要な何かをする気にもならない。
結局、瓔花は探索をすることの次に死ぬことも諦めた。彼女は住めば都という考え方を車輪の再発明し、自分が茫漠たる石の荒野にいるという事実を否応なしに受け入れることにした。
こうして子供らしからぬ達観を会得した彼女は、次に実に子供らしい感覚でこの世界で生きる意味を見つけた。空の果てがどこにあって、果ての先がどうなっているのかを知りたい。
彼女が探索を諦めてから死も諦めるまで、視界には石とは別にずっと空があった。石の方はただ無限に続いているだけなのだろうという結論が出ていたが、空の方は見た目が変化し続けているからにして、変化を生み出している何かがどこかにあるんじゃないだろうか。
子供とはあらゆるものに疑問を持ちたがるものである。しかしこの世界の「あらゆるもの」は片手で数えられるくらいしかなかったから、この世界にある数少ないものの一つ、空が疑問の標的になった。
そして、普通は親を筆頭に、大人が聞きたがりの子供の側にいて理由を教えるか諭すかして、それが知識として正しいかどうか、教育として正しいかどうかは別として子供は納得する。
でもここに大人はいない。いないから疑問のかたをつけるには瓔花自身が行動しなければならなかった。
つまり、空の果てを目指す。
瓔花は浮遊することはできたがそれだけで空の果てに行くことはできない。浮遊と飛行は違う。もし両者が同じなら、世の中の風船は一度手から離れたらそのまま天空に消えていってしまう。数度地面を跳ねるように進んで実際この方法は無理だということを確認した。
ただ、聡明にもある方法で可能になる、ということにも気がついていた。地面から少しだけ浮くのが限界ならば、その地面を高くする、つまり石を積んで足場にしてしまえばいい。愚かにも、天の高さにまで石を積むということがどれほどの難易度かというのには想像が及んでいなかったが……。
***
空の色が青と黒とを百回は行き来するくらいの時間が経ってなお、その場所を目指すための瓔花の石積みは彼女の腰くらいの高さにとどまっていた。
石を積むという作業は存外難しい。レンガを積むのとはわけが違う。石は積むことを想定した整った直方体型ではないし、モルタルのようなもので接着することもできない。それに、瓔花のそれは子供の独学だ。考えなしに同じようなミスを繰り返す、ということは大人がやるよりも明らかに多い。
しかし、その体たらくであるにも関わらず彼女は自分に石積みの才能がある、と感じていた。比較対象にあるのが「自分よりも上手く石を積むことができるどこかの誰か」ではなく「三個以上重なって石が積まれていることがない一面の荒野」だからかもしれない。自分は少なくとも自然よりは上手く石を積むことができる。高さにおいては目標に遠く及ばず不満を抱くものの、それ以外の部分、例えば積み上げた塔の美しさとかそういうのには一定の満足感を覚えていたからかもしれない。売れなくとも遅筆だったとしても、自分が作り上げたものを信用し続けられている限りにおいて、人は芸術家たりうる。
更に昼と夜が百回入れ替わった。瓔花は石積みを続けていた。子供らしい動機から試みを始めた彼女だったが、子供が持つべき「飽きっぽさ」は欠けていた。こんなところで石を積むことに飽きたところで他にやることがない、というのが原因なのだろう。代わり映えのない不変の大地が、皮肉にもこの地の景観に変化を及ぼすものの原動力となっていた。石積みの記録は、瓔花の身長に到達するものが出始めていた。
***
更に何百日か経った。
石の塔は瓔花の背の高さの十倍ほどになっていた。この高さにもなると、積むのに別の塔を足場にしなければならない。その足場を作るのにも別の足場が必要だ。足場のための足場のための足場も。
一人ぼっちのこの地では他者からの評価なんてものはないが、仮にこの地にもう一人いたとして、その者が瓔花の石積みの才能を疑うことは最早ないだろう。
今、塔の高さを五、六間にまで伸ばしているのは偶然ではなく必然の結果だった。石積みとはたまたま上手くいった成功体験を定石として帰納していく作業に見せかけて、実際にはある点を超えると先に定石を用意しそれでもって個々の塔という記録を量産していく演繹の作業となる。
瓔花は地面で石を八個ほど拾い、塔の階段の「頂上」手前まで登り、頂上に一個、一段下がって手前に一個、さらに下がってと置いていく。これを繰り返すと上の方の塔だけ高さが伸びていき登れなくなるから、そうなったら手前に石を積んで段差を小さくして登れるようにする。この繰り返しだ。
だが、技術が洗練されることにより必然的に記録は伸びるものの、この必然は絶対に塔は倒れないという意味ではない。
瓔花が一番高い塔に石を乗せたとき、塔が彼女から見て左に少し傾いた。瓔花は違和感を覚えはしたが、次の一個でバランスを取ればいいかと下がって残りの石を積む作業に戻った。
それで地面に戻り石を探していると、背後でガラガラという轟音が響いた。瓔花はびっくりして手に持っていた石を落としてしまった。音の残響と跳ね上がった心臓の音が脳裏に反響し続ける中振り返ると、さっきまであった高さ六間の石の階段は標高二間ほどの石の丘に変形してしまっていた。
瓔花が全くショックを受けなかったかといえば嘘になる。ショックを受けなかったどころか地上時間にして丸一日は仰向けに身を投げて空を見上げていた(この地で石を見ない方法はこれか目を閉じるかの二択だけだった)。
だが、こうして不貞腐れているときに心の中ではもう一つ別の感情が湧き上がっていていた。それは、へそ曲げが終わり最初の石を手にした瞬間に、氷が溶けて音が鳴る瞬間のように急に表出した。
楽しい。石を積むこと、それ自体が。
かつて探索を諦めたときと同じ体勢で横になりながらも、内心が腐っていくことはなかった。真逆といってもいいかもしれない。
不貞腐れ、あるいは充電を終えた瓔花はまた立ち上がって石を運び始めた。
塔は再び成長していく……。
***
ついに瓔花は空の果てに到達した。果ての上に飛び出た石に腰掛けると、空が飛沫を上げて彼女の足を濡らした。
空の果ての先には空があった。瓔花にとっては見知ったものではないが記憶の原初に確かにある漆黒の壁。あのときと同じく、夜の時間帯だった。
ただ、あのときとは違い、晴れた夜で空には満天に星が輝いていた。葦船に閉じ込められてもいない。凪いだ海。その先にあるかもしれない陸地。石の地で目覚めたときと同じく無限の広さを自由に行く権利が彼女にはあった。探索して石の地を見つければまた空の果てを、今度はあの星を手で掴める場所にまで行くことだってできるだろう。
だが、しばし星空を鑑賞した彼女は、未練の素振りを見せることすらなく迷わず水面下にその身を投げた。空の果てについて一つの結論を得た今、彼女にはそのことに思いを馳せ続けることとは別にもっとやることがあった。それでよしとした。
国生みの神話はこの地の全ての陸地の成り立ちを説明してはいない。記紀で語られることがなかった話の一つとして、一人の水子の神が、「生きたいように、生きた」副産物として一つの小さな島をこの世に遺した、そういうものもあるのだ。
後世の人達がこの過去に対して全く無知だったわけではない。鵺退治の伝承で知られる源頼政は多くの歌を詠んだが、そのうちの一首はまさしくこの伝承に言及したものであろう。
君が代は 千尋のそこの さざれ石の うのゐる程に あらはるるまで
蛭子神は神代でも最初期に生まれた存在だったが、それが生まれた時点で世界は既にあった。海神もまだ産まれていない時代のことだが、海神はあくまで統治者であり、創造主は別にいた。なので蛭子神はまだ管理されていない荒れた海を漂っていた。
海神なくして海があるように月読尊なくとも月はあるはずだったがそれは見えなかった。月も星も見えない荒天だったのだ。時折、稲光が現れ、その光に照らされた大粒の雨と荒波が見える瞬間があった。波は葦船を側面から叩きつけ、その上に乗り上げんとしていた。
蛭子といえど助かろうと藻掻きはする。藻掻きはするが、不具故に捨てられた水子一人でこの状況をどうにかできるわけもなく。結局、何度目かに波の侵入を許したときに葦船は一気にひっくり返り、投げ出された蛭子神もとい戎瓔花は、海の中に没していった。
後には細切れに分解された葦の残骸のみが残されたが、やがてそれも大洋の中に散っていった。
***
石の地面のある世界。それが瓔花の二番目の記憶だった。
空は青く、白いものが青の領域の中を漂っていた。瓔花の中に昼と夜という概念はなかったから、最初と全く違う空を見て、別の場所に来たのだろうと思った。自らの足元にあるものが液体か固体かの違いがあるという点において、その解釈で正しくはあるのだが。
地面が石ということは、どうしようもなく流されるだけだった前の世界とは違い、少なくとも這って進むことはできるということだった。故にそうした。本能的に、ここは生きるのには向かない土地だというのは分かった。他の地を探さなければならない。
そう決心して、目を覚ました地点から見たときの地平線にあたる場所にまで進んだ。空は何度か黒くなっては青に戻るのを繰り返した。
お腹は空かなかった。蛭子といえど神のうち。生理欲求を満たすのは必須ではないということらしい。
しかし疲れはした。神とて疲労は覚える。西方世界を作った創造主も、六日働いたのちの七日目は安息日としたという。世界を作るほどの超常的な神ですらそうなのだから、水子の下級神に過ぎない瓔花が匍匐という全身運動で体にかける負荷は相当なものだった。そしてハイハイする大地は石のみで構成されているものだからとんでもなく痛い。歯ぎしりしようにも歯がないから代わりに口をただ歪に曲げた。
瓔花はさらに這った。這う途中に体を浮かせることを覚え(五体満足な人間が這うところから歩行を覚えるように、足が不自由な神は浮遊へと移行していった)、残りはそれで進んだ。
地平線から次の地平線まで到達したが、空の色が循環する以外には何も変わらない。ただ地平線まで一面に石が転がっているだけだった。
瓔花は大の字になって伸びた。葦船の世界では自由に使える領域が狭すぎたが逆にここは広すぎる。今までずっと全部石だったのだから、次の地平線も、さらに次の地平線もどうせ全部石に違いない。
そして、ここでは生きていけなさそうだから脱出する、という目的で探索をしていたのだが、二つの理由によりこの前提は崩れていた。
一つ目、お腹が減らないということは、別に食べ物が得られないここでだって生きてはいけるということ。
二つ目、生きていく必要性を見出だせなくなった。行動に対する見返りがあまりにも少ない荒野の環境で瓔花の心は腐りかけていた。生を受けてから現代に至るまでの長い年月の中で(水子がそもそも産まれたといっていいのかには議論はあろうが、基本的に下手な生者よりも生を謳歌しているのがこの神格である)、彼女の中での死への欲望が生の願望を上回ったのは、唯一このときであった。積極的に自殺を試みるまではしないものの、生きるための努力もしないという塩梅。
彼女はただひたすらモビールであやされる子供の如く、青の空の中を白が漂っていく様を眺めることで一日を過ごす日々を繰り返した。
***
二つの理由は瓔花に探索を諦めさせるという同じ方向を向いてはいたが、一方一つ目の理由は二つ目の理由を阻害してもいた。つまり、ここにいても死にはしないのだから、積極的に何かをしなければ生きたくない死にたいという願望は果たされないのだった。そして死ぬために必要な何かをする気にもならない。
結局、瓔花は探索をすることの次に死ぬことも諦めた。彼女は住めば都という考え方を車輪の再発明し、自分が茫漠たる石の荒野にいるという事実を否応なしに受け入れることにした。
こうして子供らしからぬ達観を会得した彼女は、次に実に子供らしい感覚でこの世界で生きる意味を見つけた。空の果てがどこにあって、果ての先がどうなっているのかを知りたい。
彼女が探索を諦めてから死も諦めるまで、視界には石とは別にずっと空があった。石の方はただ無限に続いているだけなのだろうという結論が出ていたが、空の方は見た目が変化し続けているからにして、変化を生み出している何かがどこかにあるんじゃないだろうか。
子供とはあらゆるものに疑問を持ちたがるものである。しかしこの世界の「あらゆるもの」は片手で数えられるくらいしかなかったから、この世界にある数少ないものの一つ、空が疑問の標的になった。
そして、普通は親を筆頭に、大人が聞きたがりの子供の側にいて理由を教えるか諭すかして、それが知識として正しいかどうか、教育として正しいかどうかは別として子供は納得する。
でもここに大人はいない。いないから疑問のかたをつけるには瓔花自身が行動しなければならなかった。
つまり、空の果てを目指す。
瓔花は浮遊することはできたがそれだけで空の果てに行くことはできない。浮遊と飛行は違う。もし両者が同じなら、世の中の風船は一度手から離れたらそのまま天空に消えていってしまう。数度地面を跳ねるように進んで実際この方法は無理だということを確認した。
ただ、聡明にもある方法で可能になる、ということにも気がついていた。地面から少しだけ浮くのが限界ならば、その地面を高くする、つまり石を積んで足場にしてしまえばいい。愚かにも、天の高さにまで石を積むということがどれほどの難易度かというのには想像が及んでいなかったが……。
***
空の色が青と黒とを百回は行き来するくらいの時間が経ってなお、その場所を目指すための瓔花の石積みは彼女の腰くらいの高さにとどまっていた。
石を積むという作業は存外難しい。レンガを積むのとはわけが違う。石は積むことを想定した整った直方体型ではないし、モルタルのようなもので接着することもできない。それに、瓔花のそれは子供の独学だ。考えなしに同じようなミスを繰り返す、ということは大人がやるよりも明らかに多い。
しかし、その体たらくであるにも関わらず彼女は自分に石積みの才能がある、と感じていた。比較対象にあるのが「自分よりも上手く石を積むことができるどこかの誰か」ではなく「三個以上重なって石が積まれていることがない一面の荒野」だからかもしれない。自分は少なくとも自然よりは上手く石を積むことができる。高さにおいては目標に遠く及ばず不満を抱くものの、それ以外の部分、例えば積み上げた塔の美しさとかそういうのには一定の満足感を覚えていたからかもしれない。売れなくとも遅筆だったとしても、自分が作り上げたものを信用し続けられている限りにおいて、人は芸術家たりうる。
更に昼と夜が百回入れ替わった。瓔花は石積みを続けていた。子供らしい動機から試みを始めた彼女だったが、子供が持つべき「飽きっぽさ」は欠けていた。こんなところで石を積むことに飽きたところで他にやることがない、というのが原因なのだろう。代わり映えのない不変の大地が、皮肉にもこの地の景観に変化を及ぼすものの原動力となっていた。石積みの記録は、瓔花の身長に到達するものが出始めていた。
***
更に何百日か経った。
石の塔は瓔花の背の高さの十倍ほどになっていた。この高さにもなると、積むのに別の塔を足場にしなければならない。その足場を作るのにも別の足場が必要だ。足場のための足場のための足場も。
一人ぼっちのこの地では他者からの評価なんてものはないが、仮にこの地にもう一人いたとして、その者が瓔花の石積みの才能を疑うことは最早ないだろう。
今、塔の高さを五、六間にまで伸ばしているのは偶然ではなく必然の結果だった。石積みとはたまたま上手くいった成功体験を定石として帰納していく作業に見せかけて、実際にはある点を超えると先に定石を用意しそれでもって個々の塔という記録を量産していく演繹の作業となる。
瓔花は地面で石を八個ほど拾い、塔の階段の「頂上」手前まで登り、頂上に一個、一段下がって手前に一個、さらに下がってと置いていく。これを繰り返すと上の方の塔だけ高さが伸びていき登れなくなるから、そうなったら手前に石を積んで段差を小さくして登れるようにする。この繰り返しだ。
だが、技術が洗練されることにより必然的に記録は伸びるものの、この必然は絶対に塔は倒れないという意味ではない。
瓔花が一番高い塔に石を乗せたとき、塔が彼女から見て左に少し傾いた。瓔花は違和感を覚えはしたが、次の一個でバランスを取ればいいかと下がって残りの石を積む作業に戻った。
それで地面に戻り石を探していると、背後でガラガラという轟音が響いた。瓔花はびっくりして手に持っていた石を落としてしまった。音の残響と跳ね上がった心臓の音が脳裏に反響し続ける中振り返ると、さっきまであった高さ六間の石の階段は標高二間ほどの石の丘に変形してしまっていた。
瓔花が全くショックを受けなかったかといえば嘘になる。ショックを受けなかったどころか地上時間にして丸一日は仰向けに身を投げて空を見上げていた(この地で石を見ない方法はこれか目を閉じるかの二択だけだった)。
だが、こうして不貞腐れているときに心の中ではもう一つ別の感情が湧き上がっていていた。それは、へそ曲げが終わり最初の石を手にした瞬間に、氷が溶けて音が鳴る瞬間のように急に表出した。
楽しい。石を積むこと、それ自体が。
かつて探索を諦めたときと同じ体勢で横になりながらも、内心が腐っていくことはなかった。真逆といってもいいかもしれない。
不貞腐れ、あるいは充電を終えた瓔花はまた立ち上がって石を運び始めた。
塔は再び成長していく……。
***
ついに瓔花は空の果てに到達した。果ての上に飛び出た石に腰掛けると、空が飛沫を上げて彼女の足を濡らした。
空の果ての先には空があった。瓔花にとっては見知ったものではないが記憶の原初に確かにある漆黒の壁。あのときと同じく、夜の時間帯だった。
ただ、あのときとは違い、晴れた夜で空には満天に星が輝いていた。葦船に閉じ込められてもいない。凪いだ海。その先にあるかもしれない陸地。石の地で目覚めたときと同じく無限の広さを自由に行く権利が彼女にはあった。探索して石の地を見つければまた空の果てを、今度はあの星を手で掴める場所にまで行くことだってできるだろう。
だが、しばし星空を鑑賞した彼女は、未練の素振りを見せることすらなく迷わず水面下にその身を投げた。空の果てについて一つの結論を得た今、彼女にはそのことに思いを馳せ続けることとは別にもっとやることがあった。それでよしとした。
国生みの神話はこの地の全ての陸地の成り立ちを説明してはいない。記紀で語られることがなかった話の一つとして、一人の水子の神が、「生きたいように、生きた」副産物として一つの小さな島をこの世に遺した、そういうものもあるのだ。
後世の人達がこの過去に対して全く無知だったわけではない。鵺退治の伝承で知られる源頼政は多くの歌を詠んだが、そのうちの一首はまさしくこの伝承に言及したものであろう。
君が代は 千尋のそこの さざれ石の うのゐる程に あらはるるまで