晩秋のある日のこと。
日課の散歩を終えて帰宅した私は、自室に戻ろうと二階の廊下を歩いていた。
壁面に設けられた窓からは鈍色の空が見える。
もしかしたら、一雨降るかもしれない。
ふと、自室手前の部屋の前で足を止める。
姉さんがまだ起きてきていない。
もう十二時近いのに。
今日はオフの日だし、特別早起きの必要はない。
それでも姉さんがこの時間まで寝ていることは滅多にない。
もしかして、体調でも悪いのだろうか。
なんとなく不安を感じ、扉越しに軽く声をかける。
「姉さん、おはよ」
返事がない。
もう一度、今度はドアをノックしながら少し大きめの声で呼びかける。
「姉さん?」
今度も反応がない。
それほどまでに深く眠っているのだろうか。
私達それぞれの私室にはちゃんと鍵がついている。
でも、物を動かすポルターガイスト能力で鍵穴をちょっといじってやれば外からでも簡単に解錠出来てしまう。
勿論普段ならそんなことはしない。
ただ、万が一体調を崩してなにかあったのかもしれないと思うとこのまま通り過ぎる気にならなかった。
「……ごめん、入ってもいい?」
三度目の呼びかけにも応答がないことを確認し、ドアに手をかける。
同時に指先から魔力を軽く流し込むと、鍵穴は簡単に動いた。
がちゃりという音とともに施錠が外れ、扉が開いた。
久しぶりに見る姉さんの部屋は全体的に薄暗く感じた。
コバルトブルーのカーテンは僅かに開いており、隙間が出来ている。
尤もそこから入るはずの陽光も今は曇り空に阻まれ、光源として機能していない。
ベッドの上の掛布団が盛り上がっているのに気づく。
そっと近づき、声をかける。
「姉さん、大丈夫?」
「……メルラン?」
布団からくぐもった声がする。
声色自体は明瞭だったが、いつもよりも低い声。
「勝手に入ってごめん。もしかして具合悪い?」
今度は返事がない。
代わりに布団がもぞもぞと動く。
……ああ、これはもしかして。
私はさっきより少し強めの口調で呼びかけた。
「姉さん、起きよ」
「嫌」
最初の返答よりも声量が小さい。
今にも消えそうで、抑揚のない声。
「姉さん」
「……嫌」
今度は文字通り急降下するような、途中で力の抜け落ちた声。
明らかに、いつもと様子が違う。
姉さんは朝に弱い方ではあるけど、それほど寝起きが悪いわけではない。
用事がある日は必ず間に合うように起きてくるし。
オフの日で稀に起きてくるのが遅い日はある。
それでも私やリリカが部屋まで行くと、半分以上閉じた糸目を擦りながらもちゃんと起きて動き始めるのがいつもの姉さんなのだ。
では、今日のこの状態はどういうことなのか。
その理由を知るために、正確には確認するために私は枕元まで近づいた。
見ると姉さんはうつ伏せの状態で顔だけを横に向けており、首より下はすっぽり布団に覆われている。
力のない表情も相まって、なんだかとても息苦しそうに見える。
正面に回り込んで膝をつくと、今度ははっきりと視線が合った。
でも、その眸は不動のまま。
私に焦点が合っていない。
起きることを拒否しているものの、私に出て行けと言うわけでもない。
「姉さん」
やはり返事がない。
ここまでの反応に不安を感じつつも、長い間一緒に生きてきた経験から姉さんの今の状態におおよその見当はついた。
ここで焦って強い調子で呼びかけても、事態は好転しない。
そのまましばし、室内には無音の時間が流れた。
壁際に視線をやると作業用のテーブルが目に入る。
机上は綺麗に片付いており、丸型の置時計以外は筆記用具の入った小箱が隅に置かれているだけだった。
時計の秒針が丁度十二を指すのを見届けてから、視線を姉さんに戻す。
一瞬、室内を白光が通り過ぎた。
そのすぐ後には地を揺らすような轟音が鳴り響いた。
落雷だ。
同時に、雨音も聴こえ始める。
結構近くに落ちたのかもしれない。
それまで私の呼びかけに無反応だった姉さんが閉じかけていた眼を見開く。
周辺の小物類ががたがたと音を立て、震え始める。
机上の筆記用具入れからはペンが飛び出して床に落ちた。
置時計を見ると長針と短針が不気味な動きで時を進めたり戻したりしている。
布団越しに姉さんの少しひんやりした魔力が溢れ出しているのが感じられる。
私と姉さんには見えないけど、リリカ曰く私達の魔力には微かに色がついているらしい。
姉さんが藍色に近い寒色系、私が橙色に近い暖色系。
普段私達が演奏、弾幕ごっこをする時以外でこのポルターガイスト能力を行使することは滅多にない。
ここで暮らし始めたばかりの頃は、あの子が面白がって喜んでくれるからと三人でいろんな物を動かして見せたものだけど。
―あの子が天寿を全うして以来、誰が言うともなく能力を使う機会は激減した。
三人だけで暮らすようになってから、私達が魔力で物を動かすと奇妙な現象が起こるようになったからだ。
それはなにもしていない時でも道具がひとりでに動いたり、音を鳴らし始めたり。
でも、みんなそれを口にしなかった。
きっと、認めたくないから。
「あの子」がいなくなって、私達の存在のみならず能力の制御さえも不安定になりかけていることに。
後に、あの説教好きで有名な緑髪の閻魔様からも指摘された。
今、姉さんの魔力は本人の意識の外で暴走しかけている。
掌を翳し、そっと近づいた。
姉さんが怯えたような目で顔をこわばらせる。
そしてもがくように掛布団から出された腕で顔面を庇う。
私は包み込むようにその両手の甲に自分の掌を重ねた。
普段以上に冷たい。
姉さんは一瞬身体をびくっと震わせたが、抵抗はされなかった。
そのままじっとしていると、部屋全体に広がっていた魔力は次第にその勢いを失っていった。
最後まで異常な速さで針を動かしていた置時計が元に戻るのを確認してから、私は重ねていた手をそっと離した。
直後、姉さんの頬はほんのりと紅く染まった。
今は瞳の焦点がはっきりと私に合っている。
「メルラン、その、私……」
上体を起こし、身体の半分が布団から露出した状態で途切れ途切れの言葉が紡がれる。
私はそれを最後まで聞かず、半ば強引に自分の半身を割り込ませた。
さっきまで放出されていた魔力は冷たかったけど、布団の中には確かなあたたかさが感じられた。
軽く息を吐き、再び目線を合わせる。
今度は火が出そうなほどに貌を真っ赤にしている。
だがどうしていいか分からないのか焦った様子を見せるだけで、私を押し返したり布団から出ようとはしない。
「ちょっと―」
「……久しぶりだね、姉さんがこうなるの」
服越しに、身体からも姉さんの熱が僅かに伝わってきた。
浅いながら息づかいもはっきりと聞こえてくる。
私の言い方に察するものがあったのか、今度はさっと眼を逸らす。
寝起きだからか髪は少し乱れている。
いつものきりっとした目つきも、今は見る影もない。
寝間着の上から腰にそっと手を回し、華奢な身体を慎重に抱き寄せる。
「……起きたくなるまで、こうしててあげる」
姉さんがぽつりと、申し訳なさそうに呟く。
「ごめんなさい……分からないの、自分でも」
私は返事をせず、ただ黙って姉さんの乱れた前髪を直し始めた。
時計を見ると、あれから大体一時間ほどが経過していた。
これと言った会話はなかったけど、不思議と気まずさも息苦しさも感じない。
お互いに楽な仰向けの体勢で、寝転がったまま時を過ごしていた。
姉さんが急に気力を失い今日のような症状に陥るのは、初めてのことではない。
最初に起こったのがいつだったかは、もう正確に覚えていないけど。
でも、多分あの子の命日が関係しているのは間違いない。
例年、命日自体でなにかが起きているわけではない。
既に何十回と繰り返し行ってきたことだし。
むしろ、普段は私と姉さんがリリカを心配するのが常だった。
命日をするようになった最初の数年はその日が近付く度に情緒が不安定になって体調を崩したり、
普段の生意気な態度からは想像もつかないほど意気消沈した様子を見せたのだから。
はじめは私や姉さんが心配して声をかけても「平気だから放っておいて」、「病人みたいに扱わないで」とまともに取り合ってくれなかった。
しかし私達が辛抱強く説得を続けた結果、少しずつ素直に自分の辛い気持ちを吐露してくれるようになった。
そうして私や姉さんにガス抜きをするようになったからか、最近ではリリカが命日の度に塞ぎこむようなことはなくなった。
体調を崩す頻度も数年に一回程度に減少してきている。
最後に覚えているのは五年ほど前、命日の数日後だっただろうか。
あの時もリリカの部屋で二人ベッドに腰かけ、頭を撫でながらあの子がいた頃の思い出を一緒に語り合った。
気付くと話の途中で寝ていたので私もそのまま一緒に眠ってしまったけど、翌日にはすっかり元気になっていた。
思えばルナサ姉さんがはじめて無気力、情緒不安定の症状に陥った時はすぐに気付くことが出来なかった。
リリカの時と違い姉さんの不調は表に出て来るのが遅く、命日から二ヶ月以上過ぎてからだった。
意図的かどうかはさておき、きっと自分の辛い気持ちを無理に飲み込んで過ごしていたんだと思う。
その上姉さんはリリカ以上に頑固だったので、初めてのときは半分喧嘩になりかけた。
尤も、私は今となっては笑い話としか思っていない。
姉さんの本当の気持ちは、分からないけど。
そんなことを考えていると、姉さんが不意に口を開いた。
意識が覚醒し、気分も落ち着いてきたからか声色は幾分かクリアになっていた。
「……ごめんなさい、結局、私も同じで」
途切れ途切れの言葉。
あの子のことを指しているのは間違いなかった。
「いいじゃん、たまには」
「私、最低だよ。リリカの前では、格好つけてるのに。今は貴女にこんな面倒をかけて」
「そんなことないよ」
「本当はメルランが一番強くて、しっかりしてるのに。私はいつも口うるさく小言ばっかり言って。
……そのくせ、今はこんな風に迷惑を」
震えるような口調で紡がれる言葉を遮るように、私は掌を貌の前に翳した。
姉さんが目を閉じたのを確認し、人差し指で姉さんの頬をつん、と軽く押した。
「な」
「ふふ、姉さんのほっぺやわらかい」
「ちょっと、なにを」
姉さんは急なことに驚きながら目を見開き、口をぱくぱくさせている。
何を言っていいか分からず、当惑しているようだ。
「……姉さんさ、私が迷惑してるって思ってる?」
「……迷惑、かけてるから」
こんな姉さんは本当に久しぶりだ。
きっと、今はそれだけ追い詰められているんだと思う。
普段私達三人はお互いに、各々が共通して抱く不安をいちいち言葉にしない。
それはもしも今後ここの住人が音楽、もっと言えば私達の音に興味を示さなくなったらどうしよう、とか。
そうして生きる力、気力が衰えたら私達は消えてしまうんじゃないか、とか。
あっち側の世界に行った時、あの子に会うことは出来るのか、とか。
どんなに精一杯演奏に打ち込み、熱中している時でも。
本当はいつも、心の奥底に不安で出来た黒い靄が巣くってる。
それは勿論、私にだってある。
今はたまたま姉さんのそれが見える形で溢れ出しているだけに過ぎない。
姉さんの背中をそっと撫で、もう一度時計を見るとあれからさらに一時間ほど経っていた。
「……メルラン」
不意に聞こえた呼びかけの声に、振り向いて答える。
「なあに」
「メルランはどうしていつもそんなに強くいられるの? ……辛くなること、ないの?」
「絶対までは言えないけど、多分ないかなあ」
私の答えに、姉さんが僅かに眉を顰める。
「……本気で言っているの?」
考えるより先に、私の口は言葉を紡ぎ出した。
「だって、姉さんもリリカもいるもん。そりゃ、たまにブルーになることぐらいあるわ。
でも、私って普段から姉さんにもリリカにも甘えてるからよっぽどのことがない限りは多分平気だよ」
姉さんは文字通り口を開けたまま絶句していた。
私は構わず続ける。
「今だから言うけど、私やリリカってちょっとうっかりしてたりだらしないところあるじゃない」
私は少し時間にルーズなところ。
リリカは時々言葉使いが悪くなるところをしばしば注意されている。
勿論、その度に悪いとは思っている。
でもしょうがないじゃない、だって服選びもメイクも楽しいんだもん。
「二人のはちょっとじゃ……いや、うん」
あ、やっと少しだけいつもの調子に戻った。
「その度にルナサ姉さんが注意するでしょ、私にもリリカにも」
「……そうね」
分かってるならもうちょっとなんとかしてよ、と言いたげなちょっと非難めいたジト目。
気付かないふりをして私は言った。
「ほら、お互い様じゃん」
「……え?」
「いつもは姉さんがしっかりしてるから、今日はたまたまそれが逆になっただけ。そうでしょ?」
「私はそんな……それに今、メルランに迷惑かけてるから」
「私は迷惑なんて感じてないわ。それに、お互いにこういう時しか言えないことって結構ない?
それを話せる機会だと思ったら、たまにはこういうのもあっていいと思うけどな」
姉さんが返答に言葉を詰まらせるのに構わず、一呼吸置いてから続ける。
「だから……いつもありがと、姉さん。姉さんがしっかりしてるから、私達はここまでやって来れてるんだよ」
蚊の鳴くような小声で返事が聞こえてきた。
声色が微かに震えている。
「……ありがとう」
「だから、こんなことぐらいで迷惑なんて思わないで。
……それに弱ってるときの姉さんとリリカって、いつも以上にかわいいし」
「……え?」
あ、不味い。
余計なこと言ったかも。
眼が完全にいつもの糸目に戻ってる。
しかもこれ、ちょっと怒ってるっぽいときのだ。
「メルラン、貴女……」
「もー冗談だって、それよりもう少ししたらおやつの時間だけどまだこうしてる?
私は姉さんとなら全然このままでいいけど」
「……馬鹿」
姉さんはそれだけ言うと、ベッドから出て立ち上がった。
扉手前のクローゼットに向かって歩を進める。
着替えるのかと思い、先に部屋を出ようとすると急にこちらを振り向いてきた。
一瞬だけ姉さんの表情が見えたと思った次の瞬間。
腰に手を添えられ、身体をぐっと引き寄せられた。
くすぐられるような震え声が耳朶に響き渡る。
「……ありがとう」
それから一緒に一階のリビングに降りると、カーテンの隙間から白い陽光が射しこんでくる。
いつの間にか、すっかり雨も上がったようだ。
姉さんはさっきまでの出来事なんてなかったかのように、てきぱきとお茶菓子を並べていく。
そのまま二人でお茶の用意をしていると、朝から音集めに出掛けていたリリカが帰って来た。
玄関に迎えに行くと、上着が所々雨で濡れている。
タオルを渡すとリリカがお礼とともにぽつりと言った。
「ありがと、メル姉。ねえ、なにかいいことでもあったの?」
「今日はちょっと散歩に出かけただけよ。なにかいつもと違う?」
「なんか、嬉しそうだなって」
この妹はやたらと勘が鋭い。
でも、今日のことは姉さんとの秘密。
もし、姉さんからリリカにこの秘密が明かされる日が来るとしたら。
リビングから声が聞こえてくる。
「シャワー、早く浴びてきなさい。あとで一緒に洗濯するから」
リリカがどこか間延びしたような返事をし、脱衣所の方に向かう。
「はあい」
それは姉さんが私にしたように、リリカにも本音を吐露した、その時だと思う。
そうするかどうかは姉さんが決めることだし、受け止め方も勿論リリカが決めることだ。
その時の私の役目は、いつもと変わらない。
空気が重くならないように、二人のツッコミ先になること。
難しいことを考えるのなんて、私には向いてない。
そんなの、楽しくないし。
ただ、私は家族みんなが好きだから。
たくさん笑っていて欲しいから。
それにもし、三人であっち側に行ってあの子に会える日が来るなら。
ここであった出来事を、たくさんお話したいから。
「メルラン」
私はいつも、「今」を楽しむ方法を探し続ける。
そのために費やした全ての時間には、きっと価値があるって信じてるから。
「はーい!」
日課の散歩を終えて帰宅した私は、自室に戻ろうと二階の廊下を歩いていた。
壁面に設けられた窓からは鈍色の空が見える。
もしかしたら、一雨降るかもしれない。
ふと、自室手前の部屋の前で足を止める。
姉さんがまだ起きてきていない。
もう十二時近いのに。
今日はオフの日だし、特別早起きの必要はない。
それでも姉さんがこの時間まで寝ていることは滅多にない。
もしかして、体調でも悪いのだろうか。
なんとなく不安を感じ、扉越しに軽く声をかける。
「姉さん、おはよ」
返事がない。
もう一度、今度はドアをノックしながら少し大きめの声で呼びかける。
「姉さん?」
今度も反応がない。
それほどまでに深く眠っているのだろうか。
私達それぞれの私室にはちゃんと鍵がついている。
でも、物を動かすポルターガイスト能力で鍵穴をちょっといじってやれば外からでも簡単に解錠出来てしまう。
勿論普段ならそんなことはしない。
ただ、万が一体調を崩してなにかあったのかもしれないと思うとこのまま通り過ぎる気にならなかった。
「……ごめん、入ってもいい?」
三度目の呼びかけにも応答がないことを確認し、ドアに手をかける。
同時に指先から魔力を軽く流し込むと、鍵穴は簡単に動いた。
がちゃりという音とともに施錠が外れ、扉が開いた。
久しぶりに見る姉さんの部屋は全体的に薄暗く感じた。
コバルトブルーのカーテンは僅かに開いており、隙間が出来ている。
尤もそこから入るはずの陽光も今は曇り空に阻まれ、光源として機能していない。
ベッドの上の掛布団が盛り上がっているのに気づく。
そっと近づき、声をかける。
「姉さん、大丈夫?」
「……メルラン?」
布団からくぐもった声がする。
声色自体は明瞭だったが、いつもよりも低い声。
「勝手に入ってごめん。もしかして具合悪い?」
今度は返事がない。
代わりに布団がもぞもぞと動く。
……ああ、これはもしかして。
私はさっきより少し強めの口調で呼びかけた。
「姉さん、起きよ」
「嫌」
最初の返答よりも声量が小さい。
今にも消えそうで、抑揚のない声。
「姉さん」
「……嫌」
今度は文字通り急降下するような、途中で力の抜け落ちた声。
明らかに、いつもと様子が違う。
姉さんは朝に弱い方ではあるけど、それほど寝起きが悪いわけではない。
用事がある日は必ず間に合うように起きてくるし。
オフの日で稀に起きてくるのが遅い日はある。
それでも私やリリカが部屋まで行くと、半分以上閉じた糸目を擦りながらもちゃんと起きて動き始めるのがいつもの姉さんなのだ。
では、今日のこの状態はどういうことなのか。
その理由を知るために、正確には確認するために私は枕元まで近づいた。
見ると姉さんはうつ伏せの状態で顔だけを横に向けており、首より下はすっぽり布団に覆われている。
力のない表情も相まって、なんだかとても息苦しそうに見える。
正面に回り込んで膝をつくと、今度ははっきりと視線が合った。
でも、その眸は不動のまま。
私に焦点が合っていない。
起きることを拒否しているものの、私に出て行けと言うわけでもない。
「姉さん」
やはり返事がない。
ここまでの反応に不安を感じつつも、長い間一緒に生きてきた経験から姉さんの今の状態におおよその見当はついた。
ここで焦って強い調子で呼びかけても、事態は好転しない。
そのまましばし、室内には無音の時間が流れた。
壁際に視線をやると作業用のテーブルが目に入る。
机上は綺麗に片付いており、丸型の置時計以外は筆記用具の入った小箱が隅に置かれているだけだった。
時計の秒針が丁度十二を指すのを見届けてから、視線を姉さんに戻す。
一瞬、室内を白光が通り過ぎた。
そのすぐ後には地を揺らすような轟音が鳴り響いた。
落雷だ。
同時に、雨音も聴こえ始める。
結構近くに落ちたのかもしれない。
それまで私の呼びかけに無反応だった姉さんが閉じかけていた眼を見開く。
周辺の小物類ががたがたと音を立て、震え始める。
机上の筆記用具入れからはペンが飛び出して床に落ちた。
置時計を見ると長針と短針が不気味な動きで時を進めたり戻したりしている。
布団越しに姉さんの少しひんやりした魔力が溢れ出しているのが感じられる。
私と姉さんには見えないけど、リリカ曰く私達の魔力には微かに色がついているらしい。
姉さんが藍色に近い寒色系、私が橙色に近い暖色系。
普段私達が演奏、弾幕ごっこをする時以外でこのポルターガイスト能力を行使することは滅多にない。
ここで暮らし始めたばかりの頃は、あの子が面白がって喜んでくれるからと三人でいろんな物を動かして見せたものだけど。
―あの子が天寿を全うして以来、誰が言うともなく能力を使う機会は激減した。
三人だけで暮らすようになってから、私達が魔力で物を動かすと奇妙な現象が起こるようになったからだ。
それはなにもしていない時でも道具がひとりでに動いたり、音を鳴らし始めたり。
でも、みんなそれを口にしなかった。
きっと、認めたくないから。
「あの子」がいなくなって、私達の存在のみならず能力の制御さえも不安定になりかけていることに。
後に、あの説教好きで有名な緑髪の閻魔様からも指摘された。
今、姉さんの魔力は本人の意識の外で暴走しかけている。
掌を翳し、そっと近づいた。
姉さんが怯えたような目で顔をこわばらせる。
そしてもがくように掛布団から出された腕で顔面を庇う。
私は包み込むようにその両手の甲に自分の掌を重ねた。
普段以上に冷たい。
姉さんは一瞬身体をびくっと震わせたが、抵抗はされなかった。
そのままじっとしていると、部屋全体に広がっていた魔力は次第にその勢いを失っていった。
最後まで異常な速さで針を動かしていた置時計が元に戻るのを確認してから、私は重ねていた手をそっと離した。
直後、姉さんの頬はほんのりと紅く染まった。
今は瞳の焦点がはっきりと私に合っている。
「メルラン、その、私……」
上体を起こし、身体の半分が布団から露出した状態で途切れ途切れの言葉が紡がれる。
私はそれを最後まで聞かず、半ば強引に自分の半身を割り込ませた。
さっきまで放出されていた魔力は冷たかったけど、布団の中には確かなあたたかさが感じられた。
軽く息を吐き、再び目線を合わせる。
今度は火が出そうなほどに貌を真っ赤にしている。
だがどうしていいか分からないのか焦った様子を見せるだけで、私を押し返したり布団から出ようとはしない。
「ちょっと―」
「……久しぶりだね、姉さんがこうなるの」
服越しに、身体からも姉さんの熱が僅かに伝わってきた。
浅いながら息づかいもはっきりと聞こえてくる。
私の言い方に察するものがあったのか、今度はさっと眼を逸らす。
寝起きだからか髪は少し乱れている。
いつものきりっとした目つきも、今は見る影もない。
寝間着の上から腰にそっと手を回し、華奢な身体を慎重に抱き寄せる。
「……起きたくなるまで、こうしててあげる」
姉さんがぽつりと、申し訳なさそうに呟く。
「ごめんなさい……分からないの、自分でも」
私は返事をせず、ただ黙って姉さんの乱れた前髪を直し始めた。
時計を見ると、あれから大体一時間ほどが経過していた。
これと言った会話はなかったけど、不思議と気まずさも息苦しさも感じない。
お互いに楽な仰向けの体勢で、寝転がったまま時を過ごしていた。
姉さんが急に気力を失い今日のような症状に陥るのは、初めてのことではない。
最初に起こったのがいつだったかは、もう正確に覚えていないけど。
でも、多分あの子の命日が関係しているのは間違いない。
例年、命日自体でなにかが起きているわけではない。
既に何十回と繰り返し行ってきたことだし。
むしろ、普段は私と姉さんがリリカを心配するのが常だった。
命日をするようになった最初の数年はその日が近付く度に情緒が不安定になって体調を崩したり、
普段の生意気な態度からは想像もつかないほど意気消沈した様子を見せたのだから。
はじめは私や姉さんが心配して声をかけても「平気だから放っておいて」、「病人みたいに扱わないで」とまともに取り合ってくれなかった。
しかし私達が辛抱強く説得を続けた結果、少しずつ素直に自分の辛い気持ちを吐露してくれるようになった。
そうして私や姉さんにガス抜きをするようになったからか、最近ではリリカが命日の度に塞ぎこむようなことはなくなった。
体調を崩す頻度も数年に一回程度に減少してきている。
最後に覚えているのは五年ほど前、命日の数日後だっただろうか。
あの時もリリカの部屋で二人ベッドに腰かけ、頭を撫でながらあの子がいた頃の思い出を一緒に語り合った。
気付くと話の途中で寝ていたので私もそのまま一緒に眠ってしまったけど、翌日にはすっかり元気になっていた。
思えばルナサ姉さんがはじめて無気力、情緒不安定の症状に陥った時はすぐに気付くことが出来なかった。
リリカの時と違い姉さんの不調は表に出て来るのが遅く、命日から二ヶ月以上過ぎてからだった。
意図的かどうかはさておき、きっと自分の辛い気持ちを無理に飲み込んで過ごしていたんだと思う。
その上姉さんはリリカ以上に頑固だったので、初めてのときは半分喧嘩になりかけた。
尤も、私は今となっては笑い話としか思っていない。
姉さんの本当の気持ちは、分からないけど。
そんなことを考えていると、姉さんが不意に口を開いた。
意識が覚醒し、気分も落ち着いてきたからか声色は幾分かクリアになっていた。
「……ごめんなさい、結局、私も同じで」
途切れ途切れの言葉。
あの子のことを指しているのは間違いなかった。
「いいじゃん、たまには」
「私、最低だよ。リリカの前では、格好つけてるのに。今は貴女にこんな面倒をかけて」
「そんなことないよ」
「本当はメルランが一番強くて、しっかりしてるのに。私はいつも口うるさく小言ばっかり言って。
……そのくせ、今はこんな風に迷惑を」
震えるような口調で紡がれる言葉を遮るように、私は掌を貌の前に翳した。
姉さんが目を閉じたのを確認し、人差し指で姉さんの頬をつん、と軽く押した。
「な」
「ふふ、姉さんのほっぺやわらかい」
「ちょっと、なにを」
姉さんは急なことに驚きながら目を見開き、口をぱくぱくさせている。
何を言っていいか分からず、当惑しているようだ。
「……姉さんさ、私が迷惑してるって思ってる?」
「……迷惑、かけてるから」
こんな姉さんは本当に久しぶりだ。
きっと、今はそれだけ追い詰められているんだと思う。
普段私達三人はお互いに、各々が共通して抱く不安をいちいち言葉にしない。
それはもしも今後ここの住人が音楽、もっと言えば私達の音に興味を示さなくなったらどうしよう、とか。
そうして生きる力、気力が衰えたら私達は消えてしまうんじゃないか、とか。
あっち側の世界に行った時、あの子に会うことは出来るのか、とか。
どんなに精一杯演奏に打ち込み、熱中している時でも。
本当はいつも、心の奥底に不安で出来た黒い靄が巣くってる。
それは勿論、私にだってある。
今はたまたま姉さんのそれが見える形で溢れ出しているだけに過ぎない。
姉さんの背中をそっと撫で、もう一度時計を見るとあれからさらに一時間ほど経っていた。
「……メルラン」
不意に聞こえた呼びかけの声に、振り向いて答える。
「なあに」
「メルランはどうしていつもそんなに強くいられるの? ……辛くなること、ないの?」
「絶対までは言えないけど、多分ないかなあ」
私の答えに、姉さんが僅かに眉を顰める。
「……本気で言っているの?」
考えるより先に、私の口は言葉を紡ぎ出した。
「だって、姉さんもリリカもいるもん。そりゃ、たまにブルーになることぐらいあるわ。
でも、私って普段から姉さんにもリリカにも甘えてるからよっぽどのことがない限りは多分平気だよ」
姉さんは文字通り口を開けたまま絶句していた。
私は構わず続ける。
「今だから言うけど、私やリリカってちょっとうっかりしてたりだらしないところあるじゃない」
私は少し時間にルーズなところ。
リリカは時々言葉使いが悪くなるところをしばしば注意されている。
勿論、その度に悪いとは思っている。
でもしょうがないじゃない、だって服選びもメイクも楽しいんだもん。
「二人のはちょっとじゃ……いや、うん」
あ、やっと少しだけいつもの調子に戻った。
「その度にルナサ姉さんが注意するでしょ、私にもリリカにも」
「……そうね」
分かってるならもうちょっとなんとかしてよ、と言いたげなちょっと非難めいたジト目。
気付かないふりをして私は言った。
「ほら、お互い様じゃん」
「……え?」
「いつもは姉さんがしっかりしてるから、今日はたまたまそれが逆になっただけ。そうでしょ?」
「私はそんな……それに今、メルランに迷惑かけてるから」
「私は迷惑なんて感じてないわ。それに、お互いにこういう時しか言えないことって結構ない?
それを話せる機会だと思ったら、たまにはこういうのもあっていいと思うけどな」
姉さんが返答に言葉を詰まらせるのに構わず、一呼吸置いてから続ける。
「だから……いつもありがと、姉さん。姉さんがしっかりしてるから、私達はここまでやって来れてるんだよ」
蚊の鳴くような小声で返事が聞こえてきた。
声色が微かに震えている。
「……ありがとう」
「だから、こんなことぐらいで迷惑なんて思わないで。
……それに弱ってるときの姉さんとリリカって、いつも以上にかわいいし」
「……え?」
あ、不味い。
余計なこと言ったかも。
眼が完全にいつもの糸目に戻ってる。
しかもこれ、ちょっと怒ってるっぽいときのだ。
「メルラン、貴女……」
「もー冗談だって、それよりもう少ししたらおやつの時間だけどまだこうしてる?
私は姉さんとなら全然このままでいいけど」
「……馬鹿」
姉さんはそれだけ言うと、ベッドから出て立ち上がった。
扉手前のクローゼットに向かって歩を進める。
着替えるのかと思い、先に部屋を出ようとすると急にこちらを振り向いてきた。
一瞬だけ姉さんの表情が見えたと思った次の瞬間。
腰に手を添えられ、身体をぐっと引き寄せられた。
くすぐられるような震え声が耳朶に響き渡る。
「……ありがとう」
それから一緒に一階のリビングに降りると、カーテンの隙間から白い陽光が射しこんでくる。
いつの間にか、すっかり雨も上がったようだ。
姉さんはさっきまでの出来事なんてなかったかのように、てきぱきとお茶菓子を並べていく。
そのまま二人でお茶の用意をしていると、朝から音集めに出掛けていたリリカが帰って来た。
玄関に迎えに行くと、上着が所々雨で濡れている。
タオルを渡すとリリカがお礼とともにぽつりと言った。
「ありがと、メル姉。ねえ、なにかいいことでもあったの?」
「今日はちょっと散歩に出かけただけよ。なにかいつもと違う?」
「なんか、嬉しそうだなって」
この妹はやたらと勘が鋭い。
でも、今日のことは姉さんとの秘密。
もし、姉さんからリリカにこの秘密が明かされる日が来るとしたら。
リビングから声が聞こえてくる。
「シャワー、早く浴びてきなさい。あとで一緒に洗濯するから」
リリカがどこか間延びしたような返事をし、脱衣所の方に向かう。
「はあい」
それは姉さんが私にしたように、リリカにも本音を吐露した、その時だと思う。
そうするかどうかは姉さんが決めることだし、受け止め方も勿論リリカが決めることだ。
その時の私の役目は、いつもと変わらない。
空気が重くならないように、二人のツッコミ先になること。
難しいことを考えるのなんて、私には向いてない。
そんなの、楽しくないし。
ただ、私は家族みんなが好きだから。
たくさん笑っていて欲しいから。
それにもし、三人であっち側に行ってあの子に会える日が来るなら。
ここであった出来事を、たくさんお話したいから。
「メルラン」
私はいつも、「今」を楽しむ方法を探し続ける。
そのために費やした全ての時間には、きっと価値があるって信じてるから。
「はーい!」
途中でなんかルナサとリリカで混乱した気がしたのは私がつかれているからかもしれない
励ましたり励まされたり吐き出したり受け止めたり、お互いを支え合っている姉妹たちが温かくてよかったです