◆◆業務命令 レミリア・スカーレット◆◆
「―というわけで、年末の挨拶回りと買い出しに、咲夜と美鈴を連れて出かけてくるわ。
だから明日一日、留守番を頼むわね」
「…えぇ」
紅魔館の図書館。
紙と埃の匂いが薄く漂い、積み上げられた書物の影が、灯りに揺らいでいる。
その知の迷宮の片隅で、レミリア・スカーレットとパチュリー・ノーレッジがやり取りを交わしていた。
「咲夜の仕事は、こあに代わりにやってもらうわ」
「へぇ…」
レミリアが辛抱強く言葉を重ねる一方で、パチュリーは相変わらず本から目を離さず、生返事を返すばかりだった。
さすがに面白くなかったのだろう。レミリアは小さく鼻を鳴らし、そしてどこか悪戯めいた笑みを浮かべる。
「それでね、美鈴の仕事はパチェにやってもらおうと思うんだけど」
「ふぅん…」
また一枚、頁がめくられる。
(―ん?)
パチュリーの思考に、ようやく引っかかりが生じた。
視線を上げ、眉をひそめる。
「今、なんて言ったの?」
聞き間違いだろうか。念のため問い返す。
「『美鈴の仕事をパチェにやってもらう』って言ったのよ」
腰に手を当て、レミリアは渋い顔で言い切った。
「…なんで私が、こんな寒い中で門番の仕事なんてしなきゃいけないのよ」
思わず漏れた不満に、レミリアは肩をすくめる。
「他に頼める人がいないんだから、仕方ないでしょ」
「こあにやらせなさいよ」
「だったら、パチェが咲夜の仕事を全部引き受けてくれるの?」
即座の反論。咲夜の激務を代わりにこなすなど、どう考えても無理な話だ。
(じゃあフランに―)
そう思いかけて、口をつぐむ。
フランドールは昼間に外へ出られない。仮に出られたとしても、
門番を任せれば、下手をすれば訪問者がそのまま帰らぬ人になりかねない。
「ねえ、パチェ」
レミリアが身を乗り出す。唇には笑みを浮かべているが、その目は笑っていない。
「貴方、紅魔館の居候よね? だったら、こんな時くらい…分かるでしょ?」
しかし、パチュリーは取り合わない。
「レミィ、言葉は正確に使いなさい」
まるで生徒を諭す教師のような口調で言う。
「私は居候じゃない。『食客』よ」
「食客…?」
怪訝そうに、レミリアが鸚鵡返しに呟く。
「―古代中国では、有力者たちは才ある人物を競って屋敷に迎え入れ、敬い、養ったの。それ自体が一種のステータスだったわ」
「…それで?」
「つまりね。私がこうして養われていること自体が、レミィの貴族としての家格を高めているってこと」
パチュリーは胸を張り、得意げに言い切った。
「…それ、養われてる側が言う台詞じゃないでしょ」
レミリアは心底呆れた顔をする。
「食客でも食パンでも何でもいいから、門番の仕事を―」
だが次の瞬間、何かを思いついたように口元を歪めた。
「おぉ、軍師ノーレッジ殿!
我らが糧食と物資を求めて出立する間、白黒の奸賊が我が居城を狙うは必定!
ここはひとつ、そなたの魔術と知略をもって、防衛を願い給わん!」
芝居がかった口調と仕草で、朗々と宣言する。
「…何のつもり?」
困惑しつつ、パチュリーが尋ねる。
「私だって『史記』は読んだことがあるわ。
食客は、養われる代わりに有事の際に才を発揮するものよね?
だったら、口だけの居候じゃないところを―貴方が“馮驩”であると、行動で示しなさい」
―馮驩。
能無しと嗤われながらも、主である孟嘗君の危機を弁舌と知略で救った食客の名だ。
それは、あまりにも痛烈な皮肉だった。
つまり、今ここで働かなければ、能のない役立たずだと宣告されたに等しい。
パチュリーは、自らの過ちに気がついた。
居候を否定するために持ち出した「食客」という言葉が、結果として自分を縛る鎖になってしまったことに。
不利を承知で、最後の抵抗を試みる。
「…ただの留守が、有事のわけないでしょ」
それを聞いたレミリアは、わざとらしく大きなため息をつき、大仰な仕草で言い放った。
「あぁ、禄を食んだ恩も返さないなんて!
軍師ノーレッジ殿は、食客といっても、ただ無駄飯を“食”うだけの“客”だったのね!」
私は殆んど食事を摂ってないでしょ、という突っ込みが頭に浮かんだが、流石に口には出さなかった。
負けを認めるしかない。
「はぁ…分かったわよ。やればいいんでしょ、門番」
本をぱたりと閉じ、半ば投げやりに承諾する。それを聞いたレミリアは、満足げに微笑んだ。
「ありがとう、パチェ。それから頼みついでにもう一つ。
単に門番を務めるだけじゃなくて、美鈴ならどう考え、動くか―それを念頭に行動しなさい」
パチュリーは首を傾げる。
「何よそれ。居眠りしてろってこと?」
「そうじゃないわ。…まあ、そのうち分かるはずよ」
意味ありげに微笑むと、レミリアは踵を返した。
「それじゃ、留守中よろしくお願いするわね」
上機嫌な足取りで、彼女は図書館を後にした。
◆◆第一訪問客(?) 霧雨魔理沙◆◆
黒いとんがり帽子に、白と黒の衣装。
霧雨魔理沙は、いつものように箒にまたがり、紅魔館を目指して空を切っていた。
やがて、霧の向こうに館の輪郭が浮かび上がる。
そのまま正門の上空を越えようとした、その時だった。
(…ん?)
違和感が、胸の奥に引っかかる。
正門前にいるはずの、見慣れた居眠り門番の姿がない。
代わりに、何者かが悠然と椅子に腰を下ろしていた。
興味に引かれ、魔理沙は高度を落とし、正門前へと降り立つ。
そこにいたのは、安楽椅子に深く身を沈め、膝にブランケットを掛けたパチュリー・ノーレッジだった。
本を読みつつ、ゆらゆらと安楽椅子を揺らしていた。
耳当てにマフラー、分厚いコートと手袋。完全武装と言っていい防寒姿だ。それらは全て薄紫色で統一されていた。
おなじみのナイトキャップと三日月のアクセサリだけが、いつもの彼女をかろうじて主張している。
背丈の低さも相まって、もこもこと着ぶくれしたその姿は、どこか愛嬌のある達磨を思わせた。
傍らには装飾の施された円柱形の鋳鉄製ストーブが置かれ、内部は赤々と燃えている。
薪は見当たらない。炎魔法で維持しているのだろう。
地面には几帳面に敷かれた絨毯。小卓の上には本が幾重にも積まれ、
日除けの傘、さらには夜間用のカンテラまで備え付けられている。
「…お前、こんなとこで何やってるんだ」
思わず漏れた問いに、パチュリーは一瞬だけ視線を上げ、すぐに頁へ戻した。
「見れば分かるでしょう。門番をやっているのよ」
そう言って、淡々と頁を繰る。
「門番って…ずいぶん寛いでるじゃないか。仕事中には見えないぜ」
呆れ半分の苦笑を浮かべる魔理沙を、パチュリーは取り合わない。
「立っていようが、座っていようが、要は役目を果たせばいいのよ」
「でもよ。例えば裏から塀を越えられたらどうするんだ?美鈴なら『気』で感知できるだろうけど」
「…この私が、何の対策もしていないと?」
パチュリーはわずかに顔を上げる。
「紅魔館の敷地境界の全域に侵入検知の結界を張ってあるわ。
一定以上の大きさの物が越えれば、即座に私の感覚へフィードバックされる」
「へぇ…」
感心したように頷いた、その次の瞬間。
魔理沙の口元に、いたずらな笑みが浮かぶ。
足元のこぶし大の石を拾い、軽く放る。石が境界を越えた瞬間、空間がかすかに歪んだ。
同時に、パチュリーの身体がぴくりと震えた。
「ほれほれ」
二つ、三つと石を放り投げる。
「ちょ、やめ…」
断続的な刺激が彼女を襲う。高出力に設定されたフィードバックが、容赦なく感覚を叩く。
思わず顔を歪めたパチュリーが声を荒げた。
「やめなさい!」
魔理沙は舌を出し、石を放り捨てる。
パチュリーは苛立ちを隠さず、本を音立てて閉じると、重たそうに椅子から立ち上がった。
「…遊びは終わりよ。さて、どうするの?侵入するなら覚悟なさい。私は、美鈴ほど甘くない」
鋭く睨むその視線は、いつにも増して冷たかった。
「お前がここにいるってことは、図書館は無防備だろ?
正門さえ突破できれば、本が借り放題じゃないか。面白い、挑んでやるぜ」
「…後悔させてあげるわ」
◆
二人は空中で向かい合っていた。
「一応、言っておくけれど」
抑揚のない声で、パチュリーが告げる。
「私は今、門番なんて仕事を押し付けられて苛立っている。
ついでに言うと、今日は喘息の調子がいい。
よって…全力で、出し惜しみなく戦うわ。ストレス解消も兼ねて」
その言葉と同時に、空間に八枚のスペルカードが浮かび上がる。
「私はスペルカード八枚を宣言する。魔理沙、最初から本気で来なさい」
それは決意の表明だった。
門番の仕事とは、要するに魔理沙を通さないことに他ならない。
他に紅魔館への侵入を試みる不届き者など、まず存在しないからだ。
「八枚?多すぎないか。異変の黒幕じゃあるまいし」
驚きつつも、魔理沙は不敵に笑う。
「いいだろう。なら私も八枚だ!」
パチュリーは両手を掲げ、複雑な韻律を含む詠唱を紡ぐ。
右手には灼熱の粒子が集まり、左手には白光が満ちていく。
一方、魔理沙も小瓶を取り出し触媒を撒き、ミニ八卦炉を握り締めた。
巨大な五芒星が浮かび、膨大な魔力が収束する。
「日月符『ロイヤルダイアモンドリング』!」
「魔砲『ファイナルマスタースパーク』!」
宣言はほぼ同時だった。
融合した二つの魔法が日蝕のような暗光を放ち、無数の光条が魔理沙に向かって射出される。
それに応じたかのように、ミニ八卦炉から極太の魔力光線が正面から撃ち出された―
◆
「…はぁ…はぁ…」
「…ぜぇ…ぜぇ…」
二人は、息も絶え絶えだった。
初手から互いに最高位の魔法を放ち、決着がつかなかった。
―それがまずかった。
以後、全スペルカードを用いた全力の応酬。
いわば、フルマラソンを初めから全速力で走りきったに等しい。
もしこの戦いを観戦した者が居たとしたら、
その魔法と技の粋を尽くした美しい弾幕の応酬に目を奪われたことだろう。
―被弾することなく、互いにカードを使い切った結果は、引き分けだった。
「…やるじゃないか」
「…貴方もね」
お互いに、空に留まるだけで精一杯の状態だった。
上空に冷たい風が吹きすさぶ。その風の音と、お互いの荒い息遣いだけが響いていた。
「―れた」
魔理沙が何かを呟いた。が、パチュリーは聞き取れなかった。
「…疲れた」
今度は聞き取れた。
「本を漁る元気も残ってない…今日は帰るぜ」
パチュリーはなにか言い返そうとしたが、疲労のせいか言葉が思い浮かばなかった。
魔理沙は踵を返して飛び去っていった。
◆
パチュリーは正門前にふらつきながら降り立ち、再び安楽椅子に身を沈めた。
ブランケットを膝に掛けると、全身に疲労が押し寄せた。
(…初っ端から、しんどすぎるわ…)
だが最大の侵入者は退けた。事実上、門番の役目はもう果たしたも同然だ。
あとは、本でも読んで過ごすだけだ。
―パチュリーは、そう思っていた。
◆◆第二訪問客 人間の青年◆◆
パチュリーは先刻の死闘の余韻をまだ身体に残したまま、安楽椅子をゆらり、ゆらりと揺らしながら本を読んでいた。
視線は頁を追っているはずなのに、文字は次第に意味を失い、意識は水底へ沈むようにぼやけていく。
うつら、うつら。首がわずかに傾ぎ、頭が揺れる。
瞼は、まるで鉄のように重かった。
パチュリーは、睡魔と戦っていた。
魔女にとって睡眠は必須ではない。
だが極度の疲労に晒されれば、身体は人間と同じように休息を欲する。
―今ここで眠ったら、美鈴を批判する資格がなくなる。
そのダイヤモンドよりも硬い意志により、パチュリーは自身が寝てしまうことを許さず、必死の抵抗をしていた。
だが皮肉なことに、門番業を快適にこなすために用意した安楽椅子の、
あまりにも絶妙な揺れが、容赦なく意識を夢の縁へと誘っていた。
◆
正門前に、一人の青年が現れた。
短く刈られた髪。
道着の上からでもはっきりと分かる、引き締まった筋肉。
その立ち姿だけで、武術家であることは疑いようがなかった。
もしパチュリーの意識が鮮明であったなら、寒い冬にそぐわない薄着に疑問を覚えただろう。
抵抗虚しく、パチュリーの意識がいよいよ眠りへ落ちかけた、その瞬間。
「たのもーっ!!」
館の空気を震わせるほどの大声が響いた。
夢の入口から引き戻されたパチュリーは、思わずびくりと跳ね、安楽椅子の均衡を崩す。
「―っ!」
椅子はあっけなく倒れ、彼女は床に転がり落ちた。
「…痛た…」
腰をさすりながら立ち上がり、苛立ちを隠そうともせず青年を睨みつける。
「そんな大声を出さなくても聞こえるわよ!一体、何の用なの…」
「美鈴殿はいらっしゃいますか?」
よく通る、実直な声だった。
どうやら元々声量が大きいらしい。
「…あいにくだけど、美鈴は留守よ」
コートを払いながら、ぶっきらぼうに答える。
「そうですか…残念だな。今日こそ一本取りたかったんですが」
頭を掻きながら、心底惜しそうに言う青年を見て、パチュリーは内心で驚いていた。
(美鈴…人間相手に、手合わせなんてしていたのね)
普段は図書館に籠もりきりの身だ。門前にどんな来客があるのか、知る由もない。
まさか、こうして普通の人間が訪ねてくるとは思ってもみなかった。
「そうだ。もしよければ、貴方が相手をしてはいただけませんか?」
青年の目が、純粋な期待に輝く。
「―は?」
思わず声が裏返った。
「この私の、どこをどう見てそんなことが言えるのよ。格闘なんて、できるわけないでしょう」
勢いよく言い返した後、気づく。
今はコートに包まれていて、体型など分かるはずもない。
パチュリーはため息混じりにコートの前を開き、内側を見せた。
いつもの、薄紫色のワンピースとローブだ。だが、布越しの凹凸でその体躯の形は辛うじて見て取れた。
この身体では、徒手空拳ならば並の人間相手でも一撃で倒されるだろう。
一瞬、聖白蓮のように身体強化魔法を使えば―という考えがよぎったが、すぐに打ち消した。
使い慣れぬ魔法で無理をするほど愚かなことはない。
青年は、頭の先から爪先まで、じっくりとパチュリーを観察した。
「ふむ…確かに。そのたるんだ身体と、不健康そうな見た目では…戦えそうにありませんね」
大真面目な口調だった。そこに悪意は感じられない。恐らく、正直すぎるだけなのだろう。
―だが、それとこれとは別だ。
「…あんた、喧嘩売ってるの!?」
思わず怒声で突っ込んだ。普段なら、ここまで感情を荒らげることはない。
門番という慣れない仕事、魔理沙との死闘、そしてこの青年の無遠慮な物言い。
積み重なった苛立ちが、ついに噴き出したのだった。
「もう用はないでしょう。さっさと帰りなさい!」
しっしっと手を振り、追い払うように言い放つ。
青年はきょとんとしたまま一礼し、素直に立ち去っていった。
正門前には、再び冬の静けさだけが戻った。
◆◆休憩 小悪魔◆◆
侵入検知の反応とともに、何者かが地に降り立った音が聞こえた。
振り向くと、小悪魔がティーポットとカップを載せた盆を抱えて立っていた。
「パチュリー様、お疲れ様です。
紅茶をお持ちしました。今日は少しだけ、濃いめにしてあります」
冷たい空気の中に、ほのかな茶葉の香りが広がる。
その声には、いつもの明るさに混じって、気遣いの色がにじんでいた。
「こあ、ありがとう」
パチュリーは礼を言い、カップを受け取る。
両手で包むと、じんわりとした温もりが指先から伝わってきた。
「門番のお仕事のほうは、いかがですか?」
小悪魔が尋ねる。
「こっちは順調よ。白黒のネズミも、ちゃんと追い返したしね」
「…魔理沙さん、今日も来てたんですね」
小悪魔が困ったように苦笑する。
パチュリーは紅茶に口をつけながら、ふと先程の戦いを振り返った。
魔理沙からすれば、運が悪かっただろう。
何しろ今日は、苛立ちを溜め込んだ魔女が、本気で門番を務めていたのだから。
「そっちはどう?」
そう問いかけると、小悪魔は肩を落とし、はぁ、と小さく息をついた。
よく見ると、頭と背中の羽根も、疲労からか垂れ下がっている。
「正直…めちゃくちゃ大変ですよ。
仕事が多すぎて…咲夜さんが、どれだけ凄い人なのか、身にしみました」
その言葉と様子に、思わず苦笑が漏れる。
「そう…そっちも大変なのね」
たった一日の留守番とはいえ、館の清掃、調理当番、メイド妖精の管理、各種雑務。
楽なはずがない。
それでも、そんな忙しさの合間を縫って、わざわざ紅茶を淹れ、ここまで運んできてくれたのだ。
先程の来客でささくれ立っていた心に、その心遣いが、静かに染み込んでくる。
「こあ…忙しい中、どうもありがとう。ご苦労さま」
パチュリーはそう言って、小悪魔をまっすぐ見つめ、その手を取った。
「え? あ、いえ…そ、そんな…
使い魔として、当然のことですから…」
小悪魔は明らかに戸惑っていた。
手を握られ、目を見つめられ、こんな風に主人から礼を言われるなど、あまり無いからだ。
(…余程お疲れなのかな)
嬉しさと照れと困惑が入り混じり、小悪魔は少し頬を赤く染め、俯いた。
「わ、私…そろそろ戻らないと」
慌てたようにそう告げる。
「そう。…まあ、お互い大変だけど、頑張りましょう」
その言葉に、小悪魔は少し元気を取り戻したように顔を上げ、
小気味よい返事を返した。
「はい!」
その背中を見送りながら、パチュリーは再び紅茶に口をつけた。
先程より、ほんの少しだけ、味が柔らかく感じられた。
◆◆第三訪問客 チルノと大妖精◆◆
「あれ?今日は美鈴はいないのか~?」
間の抜けた声に顔を上げると、空中に二つの影が揺れていた。
氷の羽根をきらつかせる妖精と、その傍らに控える、大きな羽をした緑色の髪の妖精。
―チルノと大妖精だった。
「…美鈴は留守よ」
余計な言葉は添えず、短く答える。
「なんだ、つまんないの。せっかくあたいが見つけた“お宝”を自慢しようと思ったのに」
「チルノちゃん、残念だったね…」
チルノは口を尖らせ、大妖精が宥めるように寄り添う。
「…お宝?」
思わず零れた呟きに、チルノが反応した。
「あたいのお宝、見たいのか?どうしようかな~」
わざとらしく宙をくるりと回り、勿体ぶる。
「別に、興味はないけれど…」
どうせ凍った蛙か何かだろう。子供じみた自慢に付き合うほど、暇ではない。
「そんな痩せ我慢言って!本当は見たくて仕方ないんだろ!
美鈴なら、いつも見せてって言ってくるのに!」
―美鈴なら、いつも。
その一言が、妙に胸に残った。
妖精たちと気軽に言葉を交わし、訪問者を受け止め、応対する。
先程の格闘家の青年の件も含め、美鈴の担う役目が単なる門番ではない、
紅魔館の顔であることを実感する。
(…苛々して、随分ぞんざいな対応をしてたわね)
少しだけ、反省が胸をよぎる。美鈴を少しは見習わなきゃね。―そう思った。
「まったく、紫パジャマは素直じゃないな!」
その瞬間、パチュリーの中に芽生えかけた殊勝な自覚は、突風に攫われた紙切れのように消え失せた。
「誰が紫パジャマよ!」
思わず声を荒げて突っ込む。
「そもそもあの服はパジャマじゃないわよ。
軽くて動きやすいし、疲れたらそのまま寝るのに最適な―」
パチュリーは急に早口でまくし立て始めた。
「…それって、やっぱりパジャマなんじゃ…」
大妖精が遠慮がちに口を挟む。
パチュリーが無言で睨みつけ、彼女は小さく身を竦めた。
「まあ、“しゅっけつだいさーびす”で特別に見せてやるぞ!感謝しろよ!」
そう言ってチルノが差し出したのは、深緑色の楕円形の玉だった。
表面には格子状の溝が彫られていた。側面には金属製のレバー。上部には、明らかに意図をもって作られたピン。
―見覚えがあった。
外の世界の書籍で、目にした形状。
人間たちが戦争で使用する、相手を殺傷するための道具。
―手榴弾だ。
背筋を、冷たいものが走った。
「…これ、どこで手に入れたの?」
声が震えないよう、二人に気づかれないよう、最大限注意して尋ねる。
「さあ?遠くまで遊びに行ったときに拾ったんだけど、場所までは覚えてないな!」
「えっと…たしか、“無縁塚”ってところだったと思います」
その地名を聞いた瞬間、確信に変わった。
―さて、どうするか。
妖精は自然そのもの。死という概念がなく、消滅してもしばらくしたらまた復活する。
普段の私なら、放っておいたに違いない。
そこでふと、レミリアの言葉が思い浮かんだ。
(美鈴ならどう考え、動くか―それを念頭に行動しなさい)
美鈴ならばどうするか…考える。そして、一つの結論に達する。
きっと、迷わずこうするだろう。
「…その“お宝”、私に譲ってくれないかしら」
パチュリーはそう言って、頭の三日月のアクセサリに手を伸ばし―一瞬、躊躇した。
長年身につけてきた、馴染みの魔道具。
だが、他に咄嗟にお宝として渡せる手近な物がなかった。
迷いを断ち切り、差し出す。
「代わりに、これをあげるわ」
「おぉ!こっちのほうがきらきらしてて綺麗だな!じゃあ交換だ!」
慎重に手榴弾を受け取り、三日月のアクセサリを渡す。
「やったね、チルノちゃん!」
「うむ、大もうけだ、大ちゃん!」
満面の笑みの二人を前に、パチュリーは真顔に戻った。
「一つだけ忠告よ。無縁塚は危険だから、二度と近づかないこと。いいわね?」
先程までとは違った真剣な表情と声音に、妖精二人は思わず素直に頷く。
「よろしい。じゃあ、もう行きなさい」
一瞬だけ、笑みを添えて告げた。
「紫パジャマよ、ありがとな!」
「どうもありがとうございました!」
軽やかな声を残し、二人は空の向こうへ消えていった。
◆
二人の姿が完全に見えなくなってから、パチュリーは短く詠唱し手榴弾に魔法をかけた。
ふわりと宙に浮く。上部にあるピンを引き抜くと、ガチン、と音を立ててレバーが跳ね上がった。
パチュリーが指をパチンと鳴らす。すると、手榴弾は凄まじい速度で上空へと飛んでいった。
「まったく…」
独りごちて、本に視線を落とす。
次の瞬間―
はるか頭上で、突如爆発音が響いた。
時間差で降り注ぐ破片は、常時展開している障壁に弾かれた。
「とんでもないものを…私が門番で助かったわね…」
小さく呟く。
静かに頁を捲る音だけが、冬の空気に溶けていった。
◆◆第四訪問客 アリス・マーガトロイド◆◆
「―あれ、何なのかしら…」
アリスは思わず足を止め、独りごちた。
紅魔館の正門前。いつもなら、重々しい門と石畳だけが迎えるはずの場所に、
今日は見慣れぬ空間が出現していた。近づくにつれ、その正体がはっきりしてきた。
安楽椅子に身を沈め、本を開いている紫色の魔女。
パチュリー・ノーレッジだった。
足元には柔らかな絨毯。小さなテーブルにはティーカップと山と積まれた本。
円柱状のストーブ。日傘が淡く日差しを遮り、ランタンが飾りのように下げられている。
殺風景であるはずの正門前が、まるで図書館の一角をそのまま切り取って貼り付けたかのようだった。
「…貴方、こんなところで何をしているの?」
尋ねずにはいられなかった。
その声に、パチュリーははっとした様子で本から顔を上げる。
数秒、理解が追いつかないように瞬きをし、それから目を見開いた。
「…アリス」
呟くなり、勢いよく立ち上がる。安楽椅子がわずかに軋んだ。
そのまま、ずかずかと距離を詰めてくる。アリスは思わず後ずさった。
だが、パチュリーはお構いなしだった。両手でアリスの手を掴み、上下にぶんぶんと振り回す。
「あぁ、ようやくまともな訪問客が来たわ!」
その声は、海で難破した水夫が救助船を見つけたかのような、切実な喜色を帯びていた。
…が、我に返ったのか、その手をぱっと離し、わざとらしく咳払いを一つ。
何事もなかったかのように距離を取り、姿勢を正した。
「…失礼」
◆
「―というわけなのよ」
一通りの経緯を語り終え、パチュリーは紅茶を一口啜った。
「なるほどね。門番を任されて、変な客ばかり相手にして…不満とストレスが溜まりに溜まっていた、と」
アリスはそうまとめてから、つい、くすりと笑ってしまった。
普段は図書館に籠もりきりで、仏頂面で本と向き合っている魔女が、
正門前に陣取って訪問客の対応をしている。
しかも、不届き者を追い払ったり、妙な要求を受けたりと、
慣れない役回りに振り回されているというのだから、その光景を想像するだけで可笑しかった。
「…何を笑ってるのよ」
パチュリーがすぐに気づき、じとりとした視線を向ける。
「いえ、何でもないわ。…まあ、災難だったわね」
そう言いながらも、笑みは完全には消えなかった。パチュリーは不満げに唇を尖らせる。
「でも…こうして外に出て、いろんな人と顔を合わせるのも、たまには悪くないんじゃないかしら?」
その言葉に、パチュリーは少し考え込む。視線を逸らし、しばし沈黙したあと、小さく答えた。
「…そう、ね」
一理はある。
だが同時に、散々振り回された記憶が邪魔をして、素直に頷く気にもなれなかった。
「そうそう。お茶請けにと思って持ってきた菓子なんだけど…貴方に渡しておくわ」
アリスはそう言って、布をかけた籠を差し出す。布の隙間から、甘いバターの香りがふわりと漏れた。
「丁度、甘いものが欲しかったのよ。有り難く頂くわ」
パチュリーは珍しく素直な笑顔を見せ、籠を受け取った。
「貴方なら、白黒のネズミみたいに本を盗まれる心配もないし。好きに入っていいわよ」
短く詠唱すると、正門が低い音を立てて動き出し、ゆっくりと開かれる。
空を飛べるアリスにはその必要はないのだが、迎え入れるという意思表示でもあった。
「―ありがとう。では遠慮なく。…門番の仕事、頑張ってね」
アリスはスカートの裾を軽く持ち上げ、上品に一礼する。そして紅魔館の敷地へと足を踏み入れた。
背後で、再びページを繰る音が静かに響いた。
◆◆第五訪問客 人間の老婆◆◆
少し日が傾き始めた頃―
紅魔館の正門前にも、ゆっくりと影が伸び始めていた。
人が歩み寄る、かすかな気配。
それを察して、パチュリーは本から視線を上げる。
そこに立っていたのは、人間の老婆だった。
かなりの年を召しているのだろう。腰は深く曲がり、歩幅も小さい。
身に纏った服はところどころ擦り切れ、色も褪せている。
決して裕福とは言えぬ暮らしぶりが、伝わってきた。
(…こんな老婆が、紅魔館に一体何の用かしら?)
パチュリーは安楽椅子に身を預けたまま、訝しげにその姿を観察した。
◆
老婆はパチュリーの安楽椅子のすぐ近くまで歩み寄ると、立ち止まった。
皺だらけの瞼を細め、目を凝らすようにして、じっとパチュリーを見つめる。
「はて…」
小さく、戸惑いの滲んだ声。
「千代ではない…千代は、どこに行ったのかの」
困惑した様子で首を傾げる老婆に、パチュリーは思わず問い返す。
「千代…?」
「赤い髪の、緑の衣服を着た、わしの孫娘じゃよ。里の長者の屋敷に嫁いだんじゃが…」
その特徴を聞いた瞬間、パチュリーの脳裏に一人の姿が浮かび上がった。
(…美鈴)
留守よ、と答えようとした、その刹那。
頭の中で微量の電気が走った。
(…この老婆は、美鈴を孫娘と思い込んでいる。ならば―)
◆
パチュリーは静かに安楽椅子から降り立ち、少しかしこまった風に両手を前に揃えた。
そして、短く息を整え、口を開く。
「あいにくですが…お千代さんは、旦那様と一緒に出かけていますわ」
慣れない言葉遣い。
それでも、できる限り自然に、角が立たぬように紡いだ。
老婆はその言葉を聞き、すぐには反応せず、頭の中で意味を噛み砕くように首をひねる。
やがて、ゆっくり頷いた。
「おぉ…おぉ、そうか…」
「残念だけど、そういうことだから…また今度、訪ねてくださいな」
申し訳なさそうに微笑みを作ると、老婆は深々と頭を下げる。
「あい、わかった。なら仕方ないわな…千代に、よろしく伝えておくれ」
そう言い残し、踵を返して、ゆっくりと歩き去っていく。
(…ふぅ。自然に応対できたかしら)
胸を撫で下ろした、その時だった。
老婆の歩みが、ぴたりと止まる。
振り返り、再びパチュリーの目をじっと見つめる。
心の内を見透かされているかのような錯覚に、パチュリーはわずかに緊張する。
その表情は、どこか逡巡するようで、後悔の色を滲ませているようにも見えた。
「あんた…」
老婆が言いかける。
「話を合わせようと、咄嗟に演技してくれたんじゃろ?有難うな」
そう言って、ふっと、寂しそうに微笑んだ。
パチュリーは少し驚きつつ、静かに尋ねる。
「貴方は…気づいていたのね。門番の娘が、孫娘ではない、と」
老婆は頷いた。
「背の高い、長くて赤い髪が美しい娘じゃった…が、元々病弱での。
嫁いでしばらくして、“労咳”にかかって…程なく死んでしもうた」
老婆は夕日を仰ぎ、目を潤ませる。
(労咳…結核のことね)
江戸時代から明治時代にかけて流行し、当時は不治として恐れられた病。
―永遠亭の薬であれば治療できただろうが、人里には人間の町医者や薬師もおり、
そちらを頼る者も少なくない。
パチュリーはわずかに違和感を抱いていた。
背格好こそ似ていても、健康そのものの美鈴とは、相似とは言えないのではないか。
「千代は病弱ではあったが…いや、だからこそなのかもしれんが、底抜けに明るくてな…
いつも、前向きじゃった」
その言葉に、パチュリーは静かに頷く。
(…なるほど)
それならば、美鈴と重なる。
◆
老婆は、こう語った。
唯一の家族である孫娘を失い、ある日、傷心のまま外に出て、当てもなく彷徨ったこと。
このまま山奥まで行き、野垂れ死ぬか、妖怪に食われるか―
ともかく、人生の終止符を打とうとしていたこと。
そして、辿り着いた紅魔館。
人里ですら見たことのない、大きな洋館に驚き、正門前に立つ女性を見て、なお驚いた。
孫娘と、あまりにもよく似ていたからだ。
思わず、「千代や…生きていたのか」と声をかけてしまった。
すると、門番の娘は咄嗟に自身を千代と装い、老婆と会話してくれた。
その話し方、底抜けの明るさ、前向きな思考―すべてが、千代とうり二つだった。
―それ以後。
老婆はこうして、たまに紅魔館を訪れては、「門番の娘を千代と思い込む老婆」を演じ、
「千代を演じる美鈴」と会話を重ねるようになった。
◆
「…わしはな、今日こそは、すべてを話そうと思っていたんじゃ」
老婆の目に涙が溜まり、身体がわずかに震える。
「亡くなった孫娘を重ねて、自分の心を慰めていたんじゃが…
あの門番の娘さんに、申し訳なくての」
老婆が俯いて、絞り出すように言った。
「年を越す前に、ちゃんと礼を言って…もう、これっきりにしようと…な」
その頬を、一筋の涙が伝った。
パチュリーは目を伏せた。
老婆の言葉が、胸の奥に沈んでいくのを、黙って待つ。その思いを受け止めながら、静かに考えを巡らせる。
―今自分がすべきことを。
そして、顔を上げる。
膝掛けにしていたブランケットを取り、そっと老婆の肩に掛けてやった。
「…貴方の思いは、よく分かったわ」
今日は、美鈴の代わりに門番をしている。ならば、美鈴の意志を代弁し、代行すべきだ。
―美鈴は、この老婆との交流を、確かに育んできた。
パチュリーは、ほんの一瞬だけ考えた。
美鈴なら、どうするか。
―美鈴なら、迷いもせずに笑って受け止めるのだろう。
それを、自分が代わりに出来るのか。
きっと、取るべき道は―
「けどね…何も、これで最後にする必要はないんじゃないかしら」
老婆が顔を上げ、涙を浮かべた目で見つめ返す。
「あの娘…紅美鈴という名前なんだけど、美鈴はきっと、貴方との会話を楽しんでいたと思うわ」
穏やかな笑顔で、続ける。
「貴方が孫娘と重ねていたのを申し訳ないと思うのなら…
これからは、『紅美鈴』と会って、会話すればいいじゃない。きっと、美鈴も喜ぶはずよ」
優しく、微笑んだ。
老婆は体を震わせ、嗚咽を漏らす。
「…すまんの…こんな老い先短い媼に…」
涙を拭い、穏やかな笑顔を浮かべる。
「最初は冷たい印象があったんじゃが…あんたも、温かい、ええ人じゃな」
「―何を言っているの。私がいい人だなんて…そんなこと」
照れたように目を逸らすが、その表情は、どこか満更でもなさそうだった。
―美鈴…これで、良かったのよね―
「小間使いさん、あんたもきっと、良い嫁ぎ先が見つかるじゃろうて」
パチュリーは、一瞬きょとんとした。
「私は小間使いじゃないし、結婚なんてしないわよ!」
いきなりの不意打ちに、思わず大きな声で、突っ込んでしまった。
今日は何度も突っ込んだせいか、もはや条件反射になってしまっていた。
老婆は、ふぉふぉふぉ、と楽しそうに笑った。
◆
「また、いつでも来なさい。歓迎するわ」
「おぉ、おぉ…ほんに、有難うな…」
そう言って、老婆は何度も頭を下げつつ、ゆっくりと去っていく。
すっかり日は暮れ、夕日が景色を紅く染めていた。
(―美鈴…貴方、いいところあるじゃない)
◆◆引き継ぎ 紅美鈴◆◆
レミリア、咲夜、美鈴の三人は、紅魔館への帰路についていた。
夕刻を過ぎた空はすでに群青へ沈み、冬の気配を孕んだ冷たい空気が肌を刺す。
美鈴は、自身の背丈の倍はあろうかという量の荷を抱え込んでいる。
それは常人ならば到底持ち運べない重さだが、彼女はまるで何事もないかのようだった。
◆
やがて、紅魔館の正門が視界に入った。
その前には、出立の折と変わらぬ光景があった。
カンテラの灯が、門番役を務めるパチュリーを照らしていた。
安楽椅子に身を預け、本を手にしている。
こちらに気づくと、パチュリーは本を閉じ、ゆっくりと椅子から降りる。
慌てるでもなく、迎えに出るその動作には、どこか余裕を感じられた。
「パチェ、どうだった?つつがなく留守番できたかしら」
レミリアが、からかうように問いかける。
「―当たり前でしょう。子供じゃないんだから」
心外だ、と言わんばかりに、パチュリーは即座に返す。
だが、その声音には、いつもの刺々しさが影を潜めていた。
レミリアは、そこでふと、親友の変化に気づく。
「…最初はふくれっ面だったのに、ずいぶんいい表情してるじゃない。
それと、三日月のアクセサリが見当たらないけど…」
言われてみれば、パチュリーの顔つきはどこか清々しい。
その立ち居振る舞いも、いつもより幾分か柔らかく映る。
「そうかしらね…まあ、やってみると案外、悪くない経験だったわ。
アクセサリは…ちょっと、ね。諸事情で手放したのよ」
「ふぅん…」
それ以上は深く踏み込まず、レミリアは小さく笑った。
少なくとも、この一日は、門番の役目として、悪くない方向に働いたらしい。
「ともかく、ありがとう。ご苦労さま」
そう言って、レミリアは軽くパチュリーの肩を叩いた。
◆
「パチュリー様。門番の任、お疲れ様でした。館の方は…」
咲夜が一歩前に出て、丁寧に頭を下げる。
「こあが頑張っていたようだけど…咲夜のありがたみが、身に沁みていたみたいね」
パチュリーはそう言って、苦笑する。
「…そうですか。こあには、少し悪いことをしましたね」
咲夜もまた、つられるように、ほんのわずかに微笑みを漏らした。
「後は私にお任せください。ではお嬢様、パチュリー様、お先に失礼します」
そう告げるや否や、咲夜の姿が消えた。
時間を止め、一足先に館内へ入ったのだろう。
◆
少し遅れて、美鈴が二人の前へやってきた。
どすん、と地響きのような音を立てて、抱えていた荷物を下ろす。
「いや~、私の代わりに門番をしていただき、恐縮するやら何やらで…
パチュリー様、ありがとうございました!」
姿勢を正し、美鈴は深く頭を下げる。
「―正直、あなたの仕事を少し見くびっていたわ」
パチュリーは正面から彼女を見据え、続ける。
「一日経験して、貴方の役割がどんなものなのか、よく分かったわ。…いつも、ご苦労さま」
その言葉に、美鈴は一瞬、思考が追いつかず、目を白黒させた。
「へ?―あ、ありがとう…ございます…?」
まさか、パチュリーからそんなねぎらいを受けるとは、夢にも思っていなかったのだ。
「まあ、あとは居眠りせずに、侵入者をちゃんと撃退できれば文句なしなんだけど?」
意地悪く口角を上げるパチュリーに、美鈴は頭を掻き、
「はは…精進します…」
と、照れくさそうに苦笑した。
「随分冷えたでしょう。中で温かい紅茶でもいただきましょう」
レミリアが提案する。
「荷物を運び終えたら、私が門番を引き受けます。パチュリー様は、中で暖まってください」
美鈴も、そう言って続く。
だが―
「美鈴、あなたも疲れたでしょう?
私はもう少し、ここで門番しているから…先に、いただいてきなさい」
パチュリーは、穏やかな笑みを浮かべてそう告げた。
「えっ?」
再び、美鈴の目が丸くなる。
「美鈴、好意を拒むのは失礼よ。せっかくパチェが、こう言ってくれているんだから」
レミリアは、どこか愉しげに、美鈴を促した。
「は、はい…!
それでは、お言葉に甘えて…パチュリー様、本当にありがとうございます!」
深々と頭を下げ、美鈴は荷を担ぎ直し、館内へと向かっていった。
◆
あたりは、すっかり夜に沈んでいた。
冷たい風が吹き抜け、思わず肩をすくめて身震いする。
それでも、不思議と気分は澄んでいる。
ふと、視界に白いものが舞い降りた。
―雪だ。
「…どうりで、冷えるわけね」
誰に聞かせるでもなく呟き、再び本へと視線を落とす。
頁を捲る、かすかな音だけが、静寂の中に溶けていった。
白い雪は、音もなく、紅魔館の門前を包み始めていた。
―幻想郷の年が、暮れようとしていた。
「―というわけで、年末の挨拶回りと買い出しに、咲夜と美鈴を連れて出かけてくるわ。
だから明日一日、留守番を頼むわね」
「…えぇ」
紅魔館の図書館。
紙と埃の匂いが薄く漂い、積み上げられた書物の影が、灯りに揺らいでいる。
その知の迷宮の片隅で、レミリア・スカーレットとパチュリー・ノーレッジがやり取りを交わしていた。
「咲夜の仕事は、こあに代わりにやってもらうわ」
「へぇ…」
レミリアが辛抱強く言葉を重ねる一方で、パチュリーは相変わらず本から目を離さず、生返事を返すばかりだった。
さすがに面白くなかったのだろう。レミリアは小さく鼻を鳴らし、そしてどこか悪戯めいた笑みを浮かべる。
「それでね、美鈴の仕事はパチェにやってもらおうと思うんだけど」
「ふぅん…」
また一枚、頁がめくられる。
(―ん?)
パチュリーの思考に、ようやく引っかかりが生じた。
視線を上げ、眉をひそめる。
「今、なんて言ったの?」
聞き間違いだろうか。念のため問い返す。
「『美鈴の仕事をパチェにやってもらう』って言ったのよ」
腰に手を当て、レミリアは渋い顔で言い切った。
「…なんで私が、こんな寒い中で門番の仕事なんてしなきゃいけないのよ」
思わず漏れた不満に、レミリアは肩をすくめる。
「他に頼める人がいないんだから、仕方ないでしょ」
「こあにやらせなさいよ」
「だったら、パチェが咲夜の仕事を全部引き受けてくれるの?」
即座の反論。咲夜の激務を代わりにこなすなど、どう考えても無理な話だ。
(じゃあフランに―)
そう思いかけて、口をつぐむ。
フランドールは昼間に外へ出られない。仮に出られたとしても、
門番を任せれば、下手をすれば訪問者がそのまま帰らぬ人になりかねない。
「ねえ、パチェ」
レミリアが身を乗り出す。唇には笑みを浮かべているが、その目は笑っていない。
「貴方、紅魔館の居候よね? だったら、こんな時くらい…分かるでしょ?」
しかし、パチュリーは取り合わない。
「レミィ、言葉は正確に使いなさい」
まるで生徒を諭す教師のような口調で言う。
「私は居候じゃない。『食客』よ」
「食客…?」
怪訝そうに、レミリアが鸚鵡返しに呟く。
「―古代中国では、有力者たちは才ある人物を競って屋敷に迎え入れ、敬い、養ったの。それ自体が一種のステータスだったわ」
「…それで?」
「つまりね。私がこうして養われていること自体が、レミィの貴族としての家格を高めているってこと」
パチュリーは胸を張り、得意げに言い切った。
「…それ、養われてる側が言う台詞じゃないでしょ」
レミリアは心底呆れた顔をする。
「食客でも食パンでも何でもいいから、門番の仕事を―」
だが次の瞬間、何かを思いついたように口元を歪めた。
「おぉ、軍師ノーレッジ殿!
我らが糧食と物資を求めて出立する間、白黒の奸賊が我が居城を狙うは必定!
ここはひとつ、そなたの魔術と知略をもって、防衛を願い給わん!」
芝居がかった口調と仕草で、朗々と宣言する。
「…何のつもり?」
困惑しつつ、パチュリーが尋ねる。
「私だって『史記』は読んだことがあるわ。
食客は、養われる代わりに有事の際に才を発揮するものよね?
だったら、口だけの居候じゃないところを―貴方が“馮驩”であると、行動で示しなさい」
―馮驩。
能無しと嗤われながらも、主である孟嘗君の危機を弁舌と知略で救った食客の名だ。
それは、あまりにも痛烈な皮肉だった。
つまり、今ここで働かなければ、能のない役立たずだと宣告されたに等しい。
パチュリーは、自らの過ちに気がついた。
居候を否定するために持ち出した「食客」という言葉が、結果として自分を縛る鎖になってしまったことに。
不利を承知で、最後の抵抗を試みる。
「…ただの留守が、有事のわけないでしょ」
それを聞いたレミリアは、わざとらしく大きなため息をつき、大仰な仕草で言い放った。
「あぁ、禄を食んだ恩も返さないなんて!
軍師ノーレッジ殿は、食客といっても、ただ無駄飯を“食”うだけの“客”だったのね!」
私は殆んど食事を摂ってないでしょ、という突っ込みが頭に浮かんだが、流石に口には出さなかった。
負けを認めるしかない。
「はぁ…分かったわよ。やればいいんでしょ、門番」
本をぱたりと閉じ、半ば投げやりに承諾する。それを聞いたレミリアは、満足げに微笑んだ。
「ありがとう、パチェ。それから頼みついでにもう一つ。
単に門番を務めるだけじゃなくて、美鈴ならどう考え、動くか―それを念頭に行動しなさい」
パチュリーは首を傾げる。
「何よそれ。居眠りしてろってこと?」
「そうじゃないわ。…まあ、そのうち分かるはずよ」
意味ありげに微笑むと、レミリアは踵を返した。
「それじゃ、留守中よろしくお願いするわね」
上機嫌な足取りで、彼女は図書館を後にした。
◆◆第一訪問客(?) 霧雨魔理沙◆◆
黒いとんがり帽子に、白と黒の衣装。
霧雨魔理沙は、いつものように箒にまたがり、紅魔館を目指して空を切っていた。
やがて、霧の向こうに館の輪郭が浮かび上がる。
そのまま正門の上空を越えようとした、その時だった。
(…ん?)
違和感が、胸の奥に引っかかる。
正門前にいるはずの、見慣れた居眠り門番の姿がない。
代わりに、何者かが悠然と椅子に腰を下ろしていた。
興味に引かれ、魔理沙は高度を落とし、正門前へと降り立つ。
そこにいたのは、安楽椅子に深く身を沈め、膝にブランケットを掛けたパチュリー・ノーレッジだった。
本を読みつつ、ゆらゆらと安楽椅子を揺らしていた。
耳当てにマフラー、分厚いコートと手袋。完全武装と言っていい防寒姿だ。それらは全て薄紫色で統一されていた。
おなじみのナイトキャップと三日月のアクセサリだけが、いつもの彼女をかろうじて主張している。
背丈の低さも相まって、もこもこと着ぶくれしたその姿は、どこか愛嬌のある達磨を思わせた。
傍らには装飾の施された円柱形の鋳鉄製ストーブが置かれ、内部は赤々と燃えている。
薪は見当たらない。炎魔法で維持しているのだろう。
地面には几帳面に敷かれた絨毯。小卓の上には本が幾重にも積まれ、
日除けの傘、さらには夜間用のカンテラまで備え付けられている。
「…お前、こんなとこで何やってるんだ」
思わず漏れた問いに、パチュリーは一瞬だけ視線を上げ、すぐに頁へ戻した。
「見れば分かるでしょう。門番をやっているのよ」
そう言って、淡々と頁を繰る。
「門番って…ずいぶん寛いでるじゃないか。仕事中には見えないぜ」
呆れ半分の苦笑を浮かべる魔理沙を、パチュリーは取り合わない。
「立っていようが、座っていようが、要は役目を果たせばいいのよ」
「でもよ。例えば裏から塀を越えられたらどうするんだ?美鈴なら『気』で感知できるだろうけど」
「…この私が、何の対策もしていないと?」
パチュリーはわずかに顔を上げる。
「紅魔館の敷地境界の全域に侵入検知の結界を張ってあるわ。
一定以上の大きさの物が越えれば、即座に私の感覚へフィードバックされる」
「へぇ…」
感心したように頷いた、その次の瞬間。
魔理沙の口元に、いたずらな笑みが浮かぶ。
足元のこぶし大の石を拾い、軽く放る。石が境界を越えた瞬間、空間がかすかに歪んだ。
同時に、パチュリーの身体がぴくりと震えた。
「ほれほれ」
二つ、三つと石を放り投げる。
「ちょ、やめ…」
断続的な刺激が彼女を襲う。高出力に設定されたフィードバックが、容赦なく感覚を叩く。
思わず顔を歪めたパチュリーが声を荒げた。
「やめなさい!」
魔理沙は舌を出し、石を放り捨てる。
パチュリーは苛立ちを隠さず、本を音立てて閉じると、重たそうに椅子から立ち上がった。
「…遊びは終わりよ。さて、どうするの?侵入するなら覚悟なさい。私は、美鈴ほど甘くない」
鋭く睨むその視線は、いつにも増して冷たかった。
「お前がここにいるってことは、図書館は無防備だろ?
正門さえ突破できれば、本が借り放題じゃないか。面白い、挑んでやるぜ」
「…後悔させてあげるわ」
◆
二人は空中で向かい合っていた。
「一応、言っておくけれど」
抑揚のない声で、パチュリーが告げる。
「私は今、門番なんて仕事を押し付けられて苛立っている。
ついでに言うと、今日は喘息の調子がいい。
よって…全力で、出し惜しみなく戦うわ。ストレス解消も兼ねて」
その言葉と同時に、空間に八枚のスペルカードが浮かび上がる。
「私はスペルカード八枚を宣言する。魔理沙、最初から本気で来なさい」
それは決意の表明だった。
門番の仕事とは、要するに魔理沙を通さないことに他ならない。
他に紅魔館への侵入を試みる不届き者など、まず存在しないからだ。
「八枚?多すぎないか。異変の黒幕じゃあるまいし」
驚きつつも、魔理沙は不敵に笑う。
「いいだろう。なら私も八枚だ!」
パチュリーは両手を掲げ、複雑な韻律を含む詠唱を紡ぐ。
右手には灼熱の粒子が集まり、左手には白光が満ちていく。
一方、魔理沙も小瓶を取り出し触媒を撒き、ミニ八卦炉を握り締めた。
巨大な五芒星が浮かび、膨大な魔力が収束する。
「日月符『ロイヤルダイアモンドリング』!」
「魔砲『ファイナルマスタースパーク』!」
宣言はほぼ同時だった。
融合した二つの魔法が日蝕のような暗光を放ち、無数の光条が魔理沙に向かって射出される。
それに応じたかのように、ミニ八卦炉から極太の魔力光線が正面から撃ち出された―
◆
「…はぁ…はぁ…」
「…ぜぇ…ぜぇ…」
二人は、息も絶え絶えだった。
初手から互いに最高位の魔法を放ち、決着がつかなかった。
―それがまずかった。
以後、全スペルカードを用いた全力の応酬。
いわば、フルマラソンを初めから全速力で走りきったに等しい。
もしこの戦いを観戦した者が居たとしたら、
その魔法と技の粋を尽くした美しい弾幕の応酬に目を奪われたことだろう。
―被弾することなく、互いにカードを使い切った結果は、引き分けだった。
「…やるじゃないか」
「…貴方もね」
お互いに、空に留まるだけで精一杯の状態だった。
上空に冷たい風が吹きすさぶ。その風の音と、お互いの荒い息遣いだけが響いていた。
「―れた」
魔理沙が何かを呟いた。が、パチュリーは聞き取れなかった。
「…疲れた」
今度は聞き取れた。
「本を漁る元気も残ってない…今日は帰るぜ」
パチュリーはなにか言い返そうとしたが、疲労のせいか言葉が思い浮かばなかった。
魔理沙は踵を返して飛び去っていった。
◆
パチュリーは正門前にふらつきながら降り立ち、再び安楽椅子に身を沈めた。
ブランケットを膝に掛けると、全身に疲労が押し寄せた。
(…初っ端から、しんどすぎるわ…)
だが最大の侵入者は退けた。事実上、門番の役目はもう果たしたも同然だ。
あとは、本でも読んで過ごすだけだ。
―パチュリーは、そう思っていた。
◆◆第二訪問客 人間の青年◆◆
パチュリーは先刻の死闘の余韻をまだ身体に残したまま、安楽椅子をゆらり、ゆらりと揺らしながら本を読んでいた。
視線は頁を追っているはずなのに、文字は次第に意味を失い、意識は水底へ沈むようにぼやけていく。
うつら、うつら。首がわずかに傾ぎ、頭が揺れる。
瞼は、まるで鉄のように重かった。
パチュリーは、睡魔と戦っていた。
魔女にとって睡眠は必須ではない。
だが極度の疲労に晒されれば、身体は人間と同じように休息を欲する。
―今ここで眠ったら、美鈴を批判する資格がなくなる。
そのダイヤモンドよりも硬い意志により、パチュリーは自身が寝てしまうことを許さず、必死の抵抗をしていた。
だが皮肉なことに、門番業を快適にこなすために用意した安楽椅子の、
あまりにも絶妙な揺れが、容赦なく意識を夢の縁へと誘っていた。
◆
正門前に、一人の青年が現れた。
短く刈られた髪。
道着の上からでもはっきりと分かる、引き締まった筋肉。
その立ち姿だけで、武術家であることは疑いようがなかった。
もしパチュリーの意識が鮮明であったなら、寒い冬にそぐわない薄着に疑問を覚えただろう。
抵抗虚しく、パチュリーの意識がいよいよ眠りへ落ちかけた、その瞬間。
「たのもーっ!!」
館の空気を震わせるほどの大声が響いた。
夢の入口から引き戻されたパチュリーは、思わずびくりと跳ね、安楽椅子の均衡を崩す。
「―っ!」
椅子はあっけなく倒れ、彼女は床に転がり落ちた。
「…痛た…」
腰をさすりながら立ち上がり、苛立ちを隠そうともせず青年を睨みつける。
「そんな大声を出さなくても聞こえるわよ!一体、何の用なの…」
「美鈴殿はいらっしゃいますか?」
よく通る、実直な声だった。
どうやら元々声量が大きいらしい。
「…あいにくだけど、美鈴は留守よ」
コートを払いながら、ぶっきらぼうに答える。
「そうですか…残念だな。今日こそ一本取りたかったんですが」
頭を掻きながら、心底惜しそうに言う青年を見て、パチュリーは内心で驚いていた。
(美鈴…人間相手に、手合わせなんてしていたのね)
普段は図書館に籠もりきりの身だ。門前にどんな来客があるのか、知る由もない。
まさか、こうして普通の人間が訪ねてくるとは思ってもみなかった。
「そうだ。もしよければ、貴方が相手をしてはいただけませんか?」
青年の目が、純粋な期待に輝く。
「―は?」
思わず声が裏返った。
「この私の、どこをどう見てそんなことが言えるのよ。格闘なんて、できるわけないでしょう」
勢いよく言い返した後、気づく。
今はコートに包まれていて、体型など分かるはずもない。
パチュリーはため息混じりにコートの前を開き、内側を見せた。
いつもの、薄紫色のワンピースとローブだ。だが、布越しの凹凸でその体躯の形は辛うじて見て取れた。
この身体では、徒手空拳ならば並の人間相手でも一撃で倒されるだろう。
一瞬、聖白蓮のように身体強化魔法を使えば―という考えがよぎったが、すぐに打ち消した。
使い慣れぬ魔法で無理をするほど愚かなことはない。
青年は、頭の先から爪先まで、じっくりとパチュリーを観察した。
「ふむ…確かに。そのたるんだ身体と、不健康そうな見た目では…戦えそうにありませんね」
大真面目な口調だった。そこに悪意は感じられない。恐らく、正直すぎるだけなのだろう。
―だが、それとこれとは別だ。
「…あんた、喧嘩売ってるの!?」
思わず怒声で突っ込んだ。普段なら、ここまで感情を荒らげることはない。
門番という慣れない仕事、魔理沙との死闘、そしてこの青年の無遠慮な物言い。
積み重なった苛立ちが、ついに噴き出したのだった。
「もう用はないでしょう。さっさと帰りなさい!」
しっしっと手を振り、追い払うように言い放つ。
青年はきょとんとしたまま一礼し、素直に立ち去っていった。
正門前には、再び冬の静けさだけが戻った。
◆◆休憩 小悪魔◆◆
侵入検知の反応とともに、何者かが地に降り立った音が聞こえた。
振り向くと、小悪魔がティーポットとカップを載せた盆を抱えて立っていた。
「パチュリー様、お疲れ様です。
紅茶をお持ちしました。今日は少しだけ、濃いめにしてあります」
冷たい空気の中に、ほのかな茶葉の香りが広がる。
その声には、いつもの明るさに混じって、気遣いの色がにじんでいた。
「こあ、ありがとう」
パチュリーは礼を言い、カップを受け取る。
両手で包むと、じんわりとした温もりが指先から伝わってきた。
「門番のお仕事のほうは、いかがですか?」
小悪魔が尋ねる。
「こっちは順調よ。白黒のネズミも、ちゃんと追い返したしね」
「…魔理沙さん、今日も来てたんですね」
小悪魔が困ったように苦笑する。
パチュリーは紅茶に口をつけながら、ふと先程の戦いを振り返った。
魔理沙からすれば、運が悪かっただろう。
何しろ今日は、苛立ちを溜め込んだ魔女が、本気で門番を務めていたのだから。
「そっちはどう?」
そう問いかけると、小悪魔は肩を落とし、はぁ、と小さく息をついた。
よく見ると、頭と背中の羽根も、疲労からか垂れ下がっている。
「正直…めちゃくちゃ大変ですよ。
仕事が多すぎて…咲夜さんが、どれだけ凄い人なのか、身にしみました」
その言葉と様子に、思わず苦笑が漏れる。
「そう…そっちも大変なのね」
たった一日の留守番とはいえ、館の清掃、調理当番、メイド妖精の管理、各種雑務。
楽なはずがない。
それでも、そんな忙しさの合間を縫って、わざわざ紅茶を淹れ、ここまで運んできてくれたのだ。
先程の来客でささくれ立っていた心に、その心遣いが、静かに染み込んでくる。
「こあ…忙しい中、どうもありがとう。ご苦労さま」
パチュリーはそう言って、小悪魔をまっすぐ見つめ、その手を取った。
「え? あ、いえ…そ、そんな…
使い魔として、当然のことですから…」
小悪魔は明らかに戸惑っていた。
手を握られ、目を見つめられ、こんな風に主人から礼を言われるなど、あまり無いからだ。
(…余程お疲れなのかな)
嬉しさと照れと困惑が入り混じり、小悪魔は少し頬を赤く染め、俯いた。
「わ、私…そろそろ戻らないと」
慌てたようにそう告げる。
「そう。…まあ、お互い大変だけど、頑張りましょう」
その言葉に、小悪魔は少し元気を取り戻したように顔を上げ、
小気味よい返事を返した。
「はい!」
その背中を見送りながら、パチュリーは再び紅茶に口をつけた。
先程より、ほんの少しだけ、味が柔らかく感じられた。
◆◆第三訪問客 チルノと大妖精◆◆
「あれ?今日は美鈴はいないのか~?」
間の抜けた声に顔を上げると、空中に二つの影が揺れていた。
氷の羽根をきらつかせる妖精と、その傍らに控える、大きな羽をした緑色の髪の妖精。
―チルノと大妖精だった。
「…美鈴は留守よ」
余計な言葉は添えず、短く答える。
「なんだ、つまんないの。せっかくあたいが見つけた“お宝”を自慢しようと思ったのに」
「チルノちゃん、残念だったね…」
チルノは口を尖らせ、大妖精が宥めるように寄り添う。
「…お宝?」
思わず零れた呟きに、チルノが反応した。
「あたいのお宝、見たいのか?どうしようかな~」
わざとらしく宙をくるりと回り、勿体ぶる。
「別に、興味はないけれど…」
どうせ凍った蛙か何かだろう。子供じみた自慢に付き合うほど、暇ではない。
「そんな痩せ我慢言って!本当は見たくて仕方ないんだろ!
美鈴なら、いつも見せてって言ってくるのに!」
―美鈴なら、いつも。
その一言が、妙に胸に残った。
妖精たちと気軽に言葉を交わし、訪問者を受け止め、応対する。
先程の格闘家の青年の件も含め、美鈴の担う役目が単なる門番ではない、
紅魔館の顔であることを実感する。
(…苛々して、随分ぞんざいな対応をしてたわね)
少しだけ、反省が胸をよぎる。美鈴を少しは見習わなきゃね。―そう思った。
「まったく、紫パジャマは素直じゃないな!」
その瞬間、パチュリーの中に芽生えかけた殊勝な自覚は、突風に攫われた紙切れのように消え失せた。
「誰が紫パジャマよ!」
思わず声を荒げて突っ込む。
「そもそもあの服はパジャマじゃないわよ。
軽くて動きやすいし、疲れたらそのまま寝るのに最適な―」
パチュリーは急に早口でまくし立て始めた。
「…それって、やっぱりパジャマなんじゃ…」
大妖精が遠慮がちに口を挟む。
パチュリーが無言で睨みつけ、彼女は小さく身を竦めた。
「まあ、“しゅっけつだいさーびす”で特別に見せてやるぞ!感謝しろよ!」
そう言ってチルノが差し出したのは、深緑色の楕円形の玉だった。
表面には格子状の溝が彫られていた。側面には金属製のレバー。上部には、明らかに意図をもって作られたピン。
―見覚えがあった。
外の世界の書籍で、目にした形状。
人間たちが戦争で使用する、相手を殺傷するための道具。
―手榴弾だ。
背筋を、冷たいものが走った。
「…これ、どこで手に入れたの?」
声が震えないよう、二人に気づかれないよう、最大限注意して尋ねる。
「さあ?遠くまで遊びに行ったときに拾ったんだけど、場所までは覚えてないな!」
「えっと…たしか、“無縁塚”ってところだったと思います」
その地名を聞いた瞬間、確信に変わった。
―さて、どうするか。
妖精は自然そのもの。死という概念がなく、消滅してもしばらくしたらまた復活する。
普段の私なら、放っておいたに違いない。
そこでふと、レミリアの言葉が思い浮かんだ。
(美鈴ならどう考え、動くか―それを念頭に行動しなさい)
美鈴ならばどうするか…考える。そして、一つの結論に達する。
きっと、迷わずこうするだろう。
「…その“お宝”、私に譲ってくれないかしら」
パチュリーはそう言って、頭の三日月のアクセサリに手を伸ばし―一瞬、躊躇した。
長年身につけてきた、馴染みの魔道具。
だが、他に咄嗟にお宝として渡せる手近な物がなかった。
迷いを断ち切り、差し出す。
「代わりに、これをあげるわ」
「おぉ!こっちのほうがきらきらしてて綺麗だな!じゃあ交換だ!」
慎重に手榴弾を受け取り、三日月のアクセサリを渡す。
「やったね、チルノちゃん!」
「うむ、大もうけだ、大ちゃん!」
満面の笑みの二人を前に、パチュリーは真顔に戻った。
「一つだけ忠告よ。無縁塚は危険だから、二度と近づかないこと。いいわね?」
先程までとは違った真剣な表情と声音に、妖精二人は思わず素直に頷く。
「よろしい。じゃあ、もう行きなさい」
一瞬だけ、笑みを添えて告げた。
「紫パジャマよ、ありがとな!」
「どうもありがとうございました!」
軽やかな声を残し、二人は空の向こうへ消えていった。
◆
二人の姿が完全に見えなくなってから、パチュリーは短く詠唱し手榴弾に魔法をかけた。
ふわりと宙に浮く。上部にあるピンを引き抜くと、ガチン、と音を立ててレバーが跳ね上がった。
パチュリーが指をパチンと鳴らす。すると、手榴弾は凄まじい速度で上空へと飛んでいった。
「まったく…」
独りごちて、本に視線を落とす。
次の瞬間―
はるか頭上で、突如爆発音が響いた。
時間差で降り注ぐ破片は、常時展開している障壁に弾かれた。
「とんでもないものを…私が門番で助かったわね…」
小さく呟く。
静かに頁を捲る音だけが、冬の空気に溶けていった。
◆◆第四訪問客 アリス・マーガトロイド◆◆
「―あれ、何なのかしら…」
アリスは思わず足を止め、独りごちた。
紅魔館の正門前。いつもなら、重々しい門と石畳だけが迎えるはずの場所に、
今日は見慣れぬ空間が出現していた。近づくにつれ、その正体がはっきりしてきた。
安楽椅子に身を沈め、本を開いている紫色の魔女。
パチュリー・ノーレッジだった。
足元には柔らかな絨毯。小さなテーブルにはティーカップと山と積まれた本。
円柱状のストーブ。日傘が淡く日差しを遮り、ランタンが飾りのように下げられている。
殺風景であるはずの正門前が、まるで図書館の一角をそのまま切り取って貼り付けたかのようだった。
「…貴方、こんなところで何をしているの?」
尋ねずにはいられなかった。
その声に、パチュリーははっとした様子で本から顔を上げる。
数秒、理解が追いつかないように瞬きをし、それから目を見開いた。
「…アリス」
呟くなり、勢いよく立ち上がる。安楽椅子がわずかに軋んだ。
そのまま、ずかずかと距離を詰めてくる。アリスは思わず後ずさった。
だが、パチュリーはお構いなしだった。両手でアリスの手を掴み、上下にぶんぶんと振り回す。
「あぁ、ようやくまともな訪問客が来たわ!」
その声は、海で難破した水夫が救助船を見つけたかのような、切実な喜色を帯びていた。
…が、我に返ったのか、その手をぱっと離し、わざとらしく咳払いを一つ。
何事もなかったかのように距離を取り、姿勢を正した。
「…失礼」
◆
「―というわけなのよ」
一通りの経緯を語り終え、パチュリーは紅茶を一口啜った。
「なるほどね。門番を任されて、変な客ばかり相手にして…不満とストレスが溜まりに溜まっていた、と」
アリスはそうまとめてから、つい、くすりと笑ってしまった。
普段は図書館に籠もりきりで、仏頂面で本と向き合っている魔女が、
正門前に陣取って訪問客の対応をしている。
しかも、不届き者を追い払ったり、妙な要求を受けたりと、
慣れない役回りに振り回されているというのだから、その光景を想像するだけで可笑しかった。
「…何を笑ってるのよ」
パチュリーがすぐに気づき、じとりとした視線を向ける。
「いえ、何でもないわ。…まあ、災難だったわね」
そう言いながらも、笑みは完全には消えなかった。パチュリーは不満げに唇を尖らせる。
「でも…こうして外に出て、いろんな人と顔を合わせるのも、たまには悪くないんじゃないかしら?」
その言葉に、パチュリーは少し考え込む。視線を逸らし、しばし沈黙したあと、小さく答えた。
「…そう、ね」
一理はある。
だが同時に、散々振り回された記憶が邪魔をして、素直に頷く気にもなれなかった。
「そうそう。お茶請けにと思って持ってきた菓子なんだけど…貴方に渡しておくわ」
アリスはそう言って、布をかけた籠を差し出す。布の隙間から、甘いバターの香りがふわりと漏れた。
「丁度、甘いものが欲しかったのよ。有り難く頂くわ」
パチュリーは珍しく素直な笑顔を見せ、籠を受け取った。
「貴方なら、白黒のネズミみたいに本を盗まれる心配もないし。好きに入っていいわよ」
短く詠唱すると、正門が低い音を立てて動き出し、ゆっくりと開かれる。
空を飛べるアリスにはその必要はないのだが、迎え入れるという意思表示でもあった。
「―ありがとう。では遠慮なく。…門番の仕事、頑張ってね」
アリスはスカートの裾を軽く持ち上げ、上品に一礼する。そして紅魔館の敷地へと足を踏み入れた。
背後で、再びページを繰る音が静かに響いた。
◆◆第五訪問客 人間の老婆◆◆
少し日が傾き始めた頃―
紅魔館の正門前にも、ゆっくりと影が伸び始めていた。
人が歩み寄る、かすかな気配。
それを察して、パチュリーは本から視線を上げる。
そこに立っていたのは、人間の老婆だった。
かなりの年を召しているのだろう。腰は深く曲がり、歩幅も小さい。
身に纏った服はところどころ擦り切れ、色も褪せている。
決して裕福とは言えぬ暮らしぶりが、伝わってきた。
(…こんな老婆が、紅魔館に一体何の用かしら?)
パチュリーは安楽椅子に身を預けたまま、訝しげにその姿を観察した。
◆
老婆はパチュリーの安楽椅子のすぐ近くまで歩み寄ると、立ち止まった。
皺だらけの瞼を細め、目を凝らすようにして、じっとパチュリーを見つめる。
「はて…」
小さく、戸惑いの滲んだ声。
「千代ではない…千代は、どこに行ったのかの」
困惑した様子で首を傾げる老婆に、パチュリーは思わず問い返す。
「千代…?」
「赤い髪の、緑の衣服を着た、わしの孫娘じゃよ。里の長者の屋敷に嫁いだんじゃが…」
その特徴を聞いた瞬間、パチュリーの脳裏に一人の姿が浮かび上がった。
(…美鈴)
留守よ、と答えようとした、その刹那。
頭の中で微量の電気が走った。
(…この老婆は、美鈴を孫娘と思い込んでいる。ならば―)
◆
パチュリーは静かに安楽椅子から降り立ち、少しかしこまった風に両手を前に揃えた。
そして、短く息を整え、口を開く。
「あいにくですが…お千代さんは、旦那様と一緒に出かけていますわ」
慣れない言葉遣い。
それでも、できる限り自然に、角が立たぬように紡いだ。
老婆はその言葉を聞き、すぐには反応せず、頭の中で意味を噛み砕くように首をひねる。
やがて、ゆっくり頷いた。
「おぉ…おぉ、そうか…」
「残念だけど、そういうことだから…また今度、訪ねてくださいな」
申し訳なさそうに微笑みを作ると、老婆は深々と頭を下げる。
「あい、わかった。なら仕方ないわな…千代に、よろしく伝えておくれ」
そう言い残し、踵を返して、ゆっくりと歩き去っていく。
(…ふぅ。自然に応対できたかしら)
胸を撫で下ろした、その時だった。
老婆の歩みが、ぴたりと止まる。
振り返り、再びパチュリーの目をじっと見つめる。
心の内を見透かされているかのような錯覚に、パチュリーはわずかに緊張する。
その表情は、どこか逡巡するようで、後悔の色を滲ませているようにも見えた。
「あんた…」
老婆が言いかける。
「話を合わせようと、咄嗟に演技してくれたんじゃろ?有難うな」
そう言って、ふっと、寂しそうに微笑んだ。
パチュリーは少し驚きつつ、静かに尋ねる。
「貴方は…気づいていたのね。門番の娘が、孫娘ではない、と」
老婆は頷いた。
「背の高い、長くて赤い髪が美しい娘じゃった…が、元々病弱での。
嫁いでしばらくして、“労咳”にかかって…程なく死んでしもうた」
老婆は夕日を仰ぎ、目を潤ませる。
(労咳…結核のことね)
江戸時代から明治時代にかけて流行し、当時は不治として恐れられた病。
―永遠亭の薬であれば治療できただろうが、人里には人間の町医者や薬師もおり、
そちらを頼る者も少なくない。
パチュリーはわずかに違和感を抱いていた。
背格好こそ似ていても、健康そのものの美鈴とは、相似とは言えないのではないか。
「千代は病弱ではあったが…いや、だからこそなのかもしれんが、底抜けに明るくてな…
いつも、前向きじゃった」
その言葉に、パチュリーは静かに頷く。
(…なるほど)
それならば、美鈴と重なる。
◆
老婆は、こう語った。
唯一の家族である孫娘を失い、ある日、傷心のまま外に出て、当てもなく彷徨ったこと。
このまま山奥まで行き、野垂れ死ぬか、妖怪に食われるか―
ともかく、人生の終止符を打とうとしていたこと。
そして、辿り着いた紅魔館。
人里ですら見たことのない、大きな洋館に驚き、正門前に立つ女性を見て、なお驚いた。
孫娘と、あまりにもよく似ていたからだ。
思わず、「千代や…生きていたのか」と声をかけてしまった。
すると、門番の娘は咄嗟に自身を千代と装い、老婆と会話してくれた。
その話し方、底抜けの明るさ、前向きな思考―すべてが、千代とうり二つだった。
―それ以後。
老婆はこうして、たまに紅魔館を訪れては、「門番の娘を千代と思い込む老婆」を演じ、
「千代を演じる美鈴」と会話を重ねるようになった。
◆
「…わしはな、今日こそは、すべてを話そうと思っていたんじゃ」
老婆の目に涙が溜まり、身体がわずかに震える。
「亡くなった孫娘を重ねて、自分の心を慰めていたんじゃが…
あの門番の娘さんに、申し訳なくての」
老婆が俯いて、絞り出すように言った。
「年を越す前に、ちゃんと礼を言って…もう、これっきりにしようと…な」
その頬を、一筋の涙が伝った。
パチュリーは目を伏せた。
老婆の言葉が、胸の奥に沈んでいくのを、黙って待つ。その思いを受け止めながら、静かに考えを巡らせる。
―今自分がすべきことを。
そして、顔を上げる。
膝掛けにしていたブランケットを取り、そっと老婆の肩に掛けてやった。
「…貴方の思いは、よく分かったわ」
今日は、美鈴の代わりに門番をしている。ならば、美鈴の意志を代弁し、代行すべきだ。
―美鈴は、この老婆との交流を、確かに育んできた。
パチュリーは、ほんの一瞬だけ考えた。
美鈴なら、どうするか。
―美鈴なら、迷いもせずに笑って受け止めるのだろう。
それを、自分が代わりに出来るのか。
きっと、取るべき道は―
「けどね…何も、これで最後にする必要はないんじゃないかしら」
老婆が顔を上げ、涙を浮かべた目で見つめ返す。
「あの娘…紅美鈴という名前なんだけど、美鈴はきっと、貴方との会話を楽しんでいたと思うわ」
穏やかな笑顔で、続ける。
「貴方が孫娘と重ねていたのを申し訳ないと思うのなら…
これからは、『紅美鈴』と会って、会話すればいいじゃない。きっと、美鈴も喜ぶはずよ」
優しく、微笑んだ。
老婆は体を震わせ、嗚咽を漏らす。
「…すまんの…こんな老い先短い媼に…」
涙を拭い、穏やかな笑顔を浮かべる。
「最初は冷たい印象があったんじゃが…あんたも、温かい、ええ人じゃな」
「―何を言っているの。私がいい人だなんて…そんなこと」
照れたように目を逸らすが、その表情は、どこか満更でもなさそうだった。
―美鈴…これで、良かったのよね―
「小間使いさん、あんたもきっと、良い嫁ぎ先が見つかるじゃろうて」
パチュリーは、一瞬きょとんとした。
「私は小間使いじゃないし、結婚なんてしないわよ!」
いきなりの不意打ちに、思わず大きな声で、突っ込んでしまった。
今日は何度も突っ込んだせいか、もはや条件反射になってしまっていた。
老婆は、ふぉふぉふぉ、と楽しそうに笑った。
◆
「また、いつでも来なさい。歓迎するわ」
「おぉ、おぉ…ほんに、有難うな…」
そう言って、老婆は何度も頭を下げつつ、ゆっくりと去っていく。
すっかり日は暮れ、夕日が景色を紅く染めていた。
(―美鈴…貴方、いいところあるじゃない)
◆◆引き継ぎ 紅美鈴◆◆
レミリア、咲夜、美鈴の三人は、紅魔館への帰路についていた。
夕刻を過ぎた空はすでに群青へ沈み、冬の気配を孕んだ冷たい空気が肌を刺す。
美鈴は、自身の背丈の倍はあろうかという量の荷を抱え込んでいる。
それは常人ならば到底持ち運べない重さだが、彼女はまるで何事もないかのようだった。
◆
やがて、紅魔館の正門が視界に入った。
その前には、出立の折と変わらぬ光景があった。
カンテラの灯が、門番役を務めるパチュリーを照らしていた。
安楽椅子に身を預け、本を手にしている。
こちらに気づくと、パチュリーは本を閉じ、ゆっくりと椅子から降りる。
慌てるでもなく、迎えに出るその動作には、どこか余裕を感じられた。
「パチェ、どうだった?つつがなく留守番できたかしら」
レミリアが、からかうように問いかける。
「―当たり前でしょう。子供じゃないんだから」
心外だ、と言わんばかりに、パチュリーは即座に返す。
だが、その声音には、いつもの刺々しさが影を潜めていた。
レミリアは、そこでふと、親友の変化に気づく。
「…最初はふくれっ面だったのに、ずいぶんいい表情してるじゃない。
それと、三日月のアクセサリが見当たらないけど…」
言われてみれば、パチュリーの顔つきはどこか清々しい。
その立ち居振る舞いも、いつもより幾分か柔らかく映る。
「そうかしらね…まあ、やってみると案外、悪くない経験だったわ。
アクセサリは…ちょっと、ね。諸事情で手放したのよ」
「ふぅん…」
それ以上は深く踏み込まず、レミリアは小さく笑った。
少なくとも、この一日は、門番の役目として、悪くない方向に働いたらしい。
「ともかく、ありがとう。ご苦労さま」
そう言って、レミリアは軽くパチュリーの肩を叩いた。
◆
「パチュリー様。門番の任、お疲れ様でした。館の方は…」
咲夜が一歩前に出て、丁寧に頭を下げる。
「こあが頑張っていたようだけど…咲夜のありがたみが、身に沁みていたみたいね」
パチュリーはそう言って、苦笑する。
「…そうですか。こあには、少し悪いことをしましたね」
咲夜もまた、つられるように、ほんのわずかに微笑みを漏らした。
「後は私にお任せください。ではお嬢様、パチュリー様、お先に失礼します」
そう告げるや否や、咲夜の姿が消えた。
時間を止め、一足先に館内へ入ったのだろう。
◆
少し遅れて、美鈴が二人の前へやってきた。
どすん、と地響きのような音を立てて、抱えていた荷物を下ろす。
「いや~、私の代わりに門番をしていただき、恐縮するやら何やらで…
パチュリー様、ありがとうございました!」
姿勢を正し、美鈴は深く頭を下げる。
「―正直、あなたの仕事を少し見くびっていたわ」
パチュリーは正面から彼女を見据え、続ける。
「一日経験して、貴方の役割がどんなものなのか、よく分かったわ。…いつも、ご苦労さま」
その言葉に、美鈴は一瞬、思考が追いつかず、目を白黒させた。
「へ?―あ、ありがとう…ございます…?」
まさか、パチュリーからそんなねぎらいを受けるとは、夢にも思っていなかったのだ。
「まあ、あとは居眠りせずに、侵入者をちゃんと撃退できれば文句なしなんだけど?」
意地悪く口角を上げるパチュリーに、美鈴は頭を掻き、
「はは…精進します…」
と、照れくさそうに苦笑した。
「随分冷えたでしょう。中で温かい紅茶でもいただきましょう」
レミリアが提案する。
「荷物を運び終えたら、私が門番を引き受けます。パチュリー様は、中で暖まってください」
美鈴も、そう言って続く。
だが―
「美鈴、あなたも疲れたでしょう?
私はもう少し、ここで門番しているから…先に、いただいてきなさい」
パチュリーは、穏やかな笑みを浮かべてそう告げた。
「えっ?」
再び、美鈴の目が丸くなる。
「美鈴、好意を拒むのは失礼よ。せっかくパチェが、こう言ってくれているんだから」
レミリアは、どこか愉しげに、美鈴を促した。
「は、はい…!
それでは、お言葉に甘えて…パチュリー様、本当にありがとうございます!」
深々と頭を下げ、美鈴は荷を担ぎ直し、館内へと向かっていった。
◆
あたりは、すっかり夜に沈んでいた。
冷たい風が吹き抜け、思わず肩をすくめて身震いする。
それでも、不思議と気分は澄んでいる。
ふと、視界に白いものが舞い降りた。
―雪だ。
「…どうりで、冷えるわけね」
誰に聞かせるでもなく呟き、再び本へと視線を落とす。
頁を捲る、かすかな音だけが、静寂の中に溶けていった。
白い雪は、音もなく、紅魔館の門前を包み始めていた。
―幻想郷の年が、暮れようとしていた。
面白かったです。
あと、多分老婆また来る、パチュリーに会いに
有難う御座いました。
パチュリーにも学ぶことがあってよかったです
チルノが手りゅう弾拾ってくるくだりがとてもおもしろかったです